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蓮華寺は京都市左京区にある天台宗の寺院で、山号は帰命山、京都の北部を流れる高野川の上流、上高野にあって、北山を背にして東方に比叡山を望むところに位置しています。 蓮華寺の寺名の由来は蓮華蔵という思想を示す言葉からきており、奈良・東大寺の毘塵舎那仏が坐している蓮台の蓮の花びらに、仏が誕生していく様子が描かれています。 京の古寺から18 蓮華寺”(1997年10月 淡交社刊 安井枚爾/角野康夫著)を読みました。 蓮華寺型石灯籠で茶人の間で有名な古寺を写真と文章で紹介しています。 蓮の華は仏教の理想を示す花であり、シンボルです。 鐘楼には黄檗2世木庵禅師銘のある銅鐘がかかり、庭園は池泉廻遊式で石川丈山作とも、小堀遠州作とも伝えられています。 安井枚爾さんは、蓮華寺副住職、1941年京都洛北の蓮華寺に生まれ、1955年に得度、1968年東京芸術大学大学院卒業後、蓮華寺に戻り、1976年同寺副住職に就任し現在に至ります。 角野康夫さんは、1944年京都市に生まれ、1974年頃より、京都の文化財・風物等を永遠のテーマとして取り組み、作品を発表する傍ら、他府県の撮影にも取り組みました。 鴨川源流のひとつの高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にあります。 しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり、応仁の乱に際して焼失したものを1662年に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものです。 上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地で、重直は、美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれました。 晩年に至って得度し、宗二居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結びました。 また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていたが、果たせずして1627年に死去しました。 近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられています。 近義による再建に際して、実蔵坊実俊という比叡山延暦寺の僧が開山として招かれたことから、比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となりました。 また、現在の寺号は、境内地がかつて同名の廃寺の跡地であったことに由来します。 蓮華寺の造営にあたって、詩人・書家で詩仙堂を造営した石川丈山、朱子学者の木下順庵、狩野派画家の狩野探幽、黄檗宗の開祖である隠元禅師や第二世の木庵禅師らが協力しました。
2009.03.31
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自分の好きなことをとことんやって何とか暮らしていけたらいいね、と誰しもが思うことでしょう。 このような夢の追求と生活収入の獲得を両立すべく奮闘しているのが、文筆好きのライターです。 ”文筆生活の現場”(2004年7月 中央公論新社刊 石井 政之著)を読みました。 第一人者から新人まで12名のライターによるビジネスとしての執筆業についての書です。 著者の石井政之さんは1965年生まれ、1988年に豊橋技術科学大学を卒業後、広告代理店での執筆のアルバイトを経て、1990年からフリーライター活動を開始しました。 しかし、時代は大きく転回し、出版不況が押し寄せています。 インターネットや携帯電話の普及などによる活字離れ、余暇時間の過ごし方の多様化、娯楽の多様化、少子化などが背景にあります。 インターネットの普及により、無料または低コストで情報が入手できるようになり、書籍の需要が減少しました。 新古書店、漫画喫茶等の二次流通市場が成長しています。 可処分所得が携帯使用料に回り、その分書籍購入費が減少しました。 辞典の売上がピーク時より大幅に減少する一方、電子辞書の市場規模は大幅に上昇しました。 図書館では新刊本、特にベストセラーを多数貸出しています。 出版業界では、売上高確保のため出版点数が増加していますが、書棚収容量が飽和し、返品が増加しています。 出版物は短命化し、読書機会は喪われ、市場は低迷しています。 負のスパイラルが起きているのです。 そこで、出版で生計を立てている、出版社関係者、印刷業関係者、作家、ジャーナリストなどが厳しい思いをするようになってきています。 新刊の出版点数は年々増加しているものの、販売部数が減少しているため発行部数が減少し、ライターの収入も減少する結果になっているのです。 作家の印税は10%がふつうで、仮に1000円の単行本が平均発行部数5800冊刷られ、全て売り上げられたとしても、収入はわずか58万円です。 しかし、ベストセラーを除いた単行本などは初版が数千部といいますから、平均の5800冊も印刷されない書籍が多く存在するわけです。 サラリーマンの平均年収の500万円程に達するのは、一部の売れっ子を除いてとても厳しいようです。 フリーランスが抱える希望と不安、個人事業主としての戦略と自己責任、ライフワークで食べるということをテーマに、生活と志のギャップを乗り越えようと奮闘する実情と本音を公開しています。
2009.03.24
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司馬遼太郎さんは1923年大阪府大阪市生まれで、1996年に惜しまれながら亡くなりました。 本名、福田 定一で、産経新聞社在職中、”梟の城”で直木賞を受賞しました。 以後、司馬史観と呼ばれる独自の歴史観に基づいて数多くの作品を執筆し、歴史小説に新風を送りました。 ”司馬遼太郎が考えたこと1”(2005年1月 新潮社刊 司馬 遼太郎著)を読みました。 エッセイに限らず司馬遼太郎を何でも集め、小説の連載予告、連載終了の挨拶、他作家の作品への書評などなど、福田定一名義のものから始まっている興味深い本です。 この本は全15巻の1巻目です。 第1巻は、新聞記者時代から、”梟の城”で直木賞を受賞する前後までの作品で、食や大阪、神戸についてのエッセイや、戦争中の極限的経験を綴った89篇を収録しています。 最初は小説家司馬遼太郎ではなく新聞記者福田定一が書いた文章で、昭和36年1月3日の”長髄彦”以降はすべて司馬遼太郎となっています。 昭和36年4月1日の”負荷の重さ”は、直木賞を受賞したときのことばを綴った短文です。 若い頃の文章には、濃厚に大阪の趣が出ていて興味深いです。 1940年に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験しましたが不合格で大阪外国語学校蒙古語科に進んだときの話や、1945年に戦地からの復員後生野区にあった新世界新聞社に入社し、翌年新日本新聞京都本社に転社し、30歳を過ぎたら小説を書こうと考えたころのことも書かれています。 1948年に会社が倒産し、産経新聞社に入社し京都支局に配属されました。 翌年大阪本社に異動になり、その後文化部長、出版局次長を勤めました。 最初は”請願寺の狸ばやし”で、ほかに、”それでも、死はやってくる””妖怪と鬼面””石楠花妖話””「百人展」雑感””「風景」という造型””影なき男””モダン・町の絵師中村真論””この本を読んで下さる方へ””あるサラリーマン記者”ほかとなっています。「実力はあっても、その社の秩序のよき部品となりえない記者は、無用の長物という時代なのだ。・・・スジメ卑しき野武士あがりの悲しさ、どうも無意味な叛骨がもたげてくる。そいつを抑えるのに苦しみ、苦しんだあげく、宮仕えとは、サラリーマンとは一体何であろうかと考えることが多くなった」(”あるサラリーマン記者”より)。
2009.03.17
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当時の小泉改革の目指したものは超階級社会である、といいます。 いまの格差社会を、何年も前に暗示しています。 ”シンプル人生の経済設計”(2002年11月 中央公論新社刊 森永 卓郎著)を読みました。 勝ち組を目指して熾烈な出世競争に明け暮れる生き方が説得力を失いつつある中、幸福で充実した人生へのアプローチを解き明かしています。 著者の森永卓郎さんは、1957年生まれ、東京都出身、1980年東京大学経済学部卒業、日本専売公社、日本経済研究センター、経済企画庁総合計画局等を経て、三和総合研究所主席研究員を経て、現在、獨協大学教授です。 テレビのコメンテーターとしても活躍中で、多彩な趣味人としても知られています。 これまでは年功序列、終身雇用がサラリーマンを守ってきましたが、これからの競争社会では、勝ち組と負け組の峻別がますます激しくなります。 そして、勝ち組に残るのは1%にも満たない人たちであり、99%は負け組になり、それが当たり前になります。 ほとんどの人たちは、勝ち組を目指して熾烈な出世競争をしても途労に終わります。 そして、サラリーマンには三大不良債権があり、それは、専業主婦、子供、住宅ローンの3つです。 これらが、将来、サラリーマンを破綻に追い込む元凶です。 これらの対処法を示しつつ、何があっても大丈夫なように、仕事の不倫を勧めます。 正業の他に特技を生かした副業を持て、といいます。 金持ちになる必要はありません。 少ない稼ぎでシンプルに生きられれば十分幸せなのだ、といいます。 収入が落ちても自分の好きなことをして生きていける人生をえらぶべきであり、そういうシンプルな人生を送ることを勧めています。 第1章 飲んで歌って恋をして?シンプル人生への招待 第2章 リストラなんか恐くない?雇用と賃金の大変化に備える 第3章 身軽に生きるために?人生の三大不良債権を処理する 第4章 破局からいかに身を守るか?住宅ローン地獄脱出の知恵 第5章 ある2つの人生に学ぶ?森永式シンプル人生の実際 終章 だから必要な「森永式シンプル人生十箇条」
2009.03.10
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龍安寺は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号を大雲山と称します。 本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承です。 ”京の古寺から16 龍安寺”(1997年9月 淡交社刊 松倉紹英/水野克比古著)を読みました。 石庭で知られ枯山水の方丈石庭で有名な龍安寺を、写真と文章で紹介しています。 松倉紹英さんは、前龍安寺住職で、1908年岐阜市に生まれ、臨済宗専門学院を卒えて、梅林僧堂にて修行し、一時軍務に服し、終戦にて帰国し、1948年龍安寺住職に就任し、1983年遷化しました。 水野克比古さんは、1941年京都市上京区に生まれ、1964年同志社大学文学部を卒業し、1969年からフリーランス・フォトグラフアーとして、日本の伝統文化を深く見つめ、京都の風物を題材とした撮影に取り組んできました。 龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が1450年に創建した禅寺です。 衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家の流れを汲む徳大寺実能以来、徳大寺家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたものです。 初代住職として妙心寺5世住持の義天玄承を迎えました。 龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされていますが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てています。 創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路のあたりまでが境内であったといいます。 1467-1477年の応仁の乱で焼失し、勝元の子の細川政元と、4世住持・特芳禅傑によって1488年に再興されました。 寺では特芳を中興開山と称しています。 その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護しています。 最盛期には塔頭が21か寺、軒を連ねていたといいます。 現存するものは3か寺です。 1797年の火災で仏殿など主要伽藍を焼失したため、塔頭の1つである西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈としまた。 方丈南側の枯山水庭園が石庭として名高く、二方を油土塀で囲み、東西30メートル、南北10メートル余の長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3に配置しています。 京の古寺から(16)
2009.03.03
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