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クラシック音楽の世界には、常人では達成不可能な偉業を成し遂げた巨匠が何人かいます。 その一人であるベートーヴェンはウィーン古典派様式の完成者で,ハイドン,モーツァルトと並びウィーン古典派三巨匠と呼ばれます。 ”ベートーヴェン 音楽の革命はいかに成し遂げられたか”(2020年11月 文藝春秋社刊 中野 雄著)を読みました。 数々の名曲を生み出し音楽界へ革命をもたらし楽聖と称えられ、2020年に生誕250年を迎えた大作曲家のベートーヴェンの、波乱の生涯と創作の軌跡を俯瞰しています。 西洋音楽の代表的巨匠の一人であり、どのジャンルにおいても史上最高の傑作を生み出してきました。 手掛けたほぽはすべてのジャンル、交響曲、ピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、ピアノ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタなどで、そのすべて傑作揃いです。 交響曲は全九曲、ピアノ協奏曲は全五曲、弦楽四重奏曲は全一六曲、ピアノ三重奏曲は全七曲、ピアノ・ソナタは全三二曲、ヴァイオリン・ソナタは全一〇曲、チェロ・ソナタは全五曲あります。 後世の演奏家はこれらを「全集」として生涯レパートリーにし、ステージで挑戦し愛奏します。 レコード会社はクラシック音楽部門のドル箱として、LP、CD、DVD、LDなど、競って「全集」をリリースします。 このような作曲家は、音楽史上ベートーヴェンただ一人です。 しかも、どのジャンルにおいても作品には史上最高の傑作が含まれています。 中野 雄さんは1931年長野県松本市生まれ、東京大学法学部を卒業し、日本開発銀行、現・日本政策投資銀行に入行しました。 その後、オーディオ・メーカーのトリオ、現・ケンウッド役員に就任し、代表取締役、ケンウッドU.S.A.会長を務めました。 昭和音楽大学・津田塾大学の講師、映像企業アマナなどの役員も歴任しました。 音楽プロデューサーとして活躍し、LP、CDの制作でウィーン・モーツァルト協会賞、芸術祭優秀賞、文化庁芸術作品賞などを受賞しました。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年に神聖ローマ帝国ケルン大司教領、現・ドイツ領のボンで、父・ヨハンと、宮廷料理人の娘である母・マリア・マグダレーナの長男として生まれました。 七人兄弟でしたが四人が早世し、一年前に生まれたマリアは生後六日で死に、実質的に長男の立場で育ったといいます。 なお、出生に関する興味深い逸話もいくつか紹介されています。 自分の生まれた年月を1770年12月でなく1772年12月だと、頑固に信じていたらしいのです。 なぜ自分の年齢を2歳下とこだわったのか、真相は分からないということです。 また、フリードリッヒ二世のご落胤であるという説があったそうです。 フリードリヒ二世は第3代のプロイセン王、いわゆるフリードリヒ大王のことで、優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努めた君主を指します。 音楽家として祖父の偉業を受け継いだのは、ベートーヴェンひとりでした。 ベートーヴェン家の祖先はフランドル地方、現在のベルギーの出身でした。 音楽家の家系で、祖父のルートヴィヒは5歳のときメヘレンのサン・ロンボー教会付属の聖歌学校に入学し、声楽のほかオルガンなど鍵盤楽器の奏法を修得しました。 13歳で卒業し、あちこちの教会で礼拝時にオルガンを弾くようになり、19歳でルーヴァンのサンーピエール教会の合唱指揮者に任命されました。 21歳でケルンの大司教に技量を認められて同地に移り、やがてボンの宮廷楽団の聖歌隊員兼バス独唱者として勤務するようになり、後に、宮廷楽長に任命されました。 ベートーヴェンが3歳のとき亡くなったため、ベートーヴェンは祖父から家庭内で直接音楽教育を受ける機会には恵まれませんでした。 一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手、のちに楽長で、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父の援助により生計を立てていました。 父のヨハンも宮廷歌手のテノールでしたが、元来無類の酒好きで収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮したといいます。 1774年ごろよりベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けました。 当時ボンでも名を知られていた、ウォルフガンク・アマデウス・モーツァルトを目標に、自宅で徹底的な英才教育をはじめました。 モーツァルトの父のレオポルトは高い識見の持ち主で、わが子に対する教育は徹底して実に適確でした。 これに対し、ヨハンがわが子に対してとった行動は罵声と殴打であったといいます。 幼いときからベートーヴェンに、クラヴィーアを習得させるために暴力を振るったそうです。 小さな子供なですので、楽器の前に台を置いてベートーヴェンを立たせ、ことあるごとに殴り、ときには地下室に閉じ込めたりしました。 酒場で痛飲した後に自宅に帰り、眠っているわが子を揺り起こしてクラヴィーアに向かわせるなどという乱暴な行為も日常茶飯事であったらしいです。 しかし、幼児期のベートヴェンは、モーツァルト級の神童ではありませんでした。 記録によれば、1778年にケルンでの演奏会に出演しているものの、その後、公開演奏会の記録は途絶えています。 1782年11歳のときより、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事しました。 1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問しました。 しかし、最愛の母・マリアの危篤の報を受けてボンに戻りました。 母はまもなく死没し、その後はアルコール依存症となり失職した父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごしました。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中でボンに立ち寄ったハイドンに、才能を認められて弟子入りを許され、11月にウィーンに移住し、まもなくピアノの即興演奏の名手として広く名声を博しました。 20代後半頃より持病の難聴が徐々に悪化し、28歳の頃には最高度難聴者となりました。 音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には遺書をしたためて自殺も考えました。 しかし、芸術への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいきました。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれました。 その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移りました。 40歳頃には全聾となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられました。 生涯独身でしたが、「不滅の恋人への手紙」にみられる熱烈な恋愛も経験しています。 1810年に「エリーゼのために」を献呈したテレーゼ・マルファッティには、強い結婚願望があったといいます。 しかし、付き合った女性はすべて貴族出身であったため、当時の身分制社会では結婚は許されませんでした。 加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした甥・カールの後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞しました。 しかし、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番やミサ・ソレムニスといった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は、辿り着いた境地の未曾有の高さを示すものでした。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏すことになりました。 翌年3月23日には死期を悟って遺書を認めました。 病床の中で10番目の交響曲に着手しましたが、未完成のまま同年3月26日、肝硬変のため波乱に満ちた56年の生涯を閉じました。 その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなり、翌年亡くなったシューベルトも参列しました。 クラシック音楽の世界には、常人では達成不可能と断言せざるをえない偉業を成し遂げた巨匠が何人かいます。 バッハ、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ロッシーニ、ワーグナー、ヴェルディなどです。 ではそのベートーヴェンとはいかなる人物であるのか、その作品と人生を語り尽くすことは至難の業であり、不可能と言えるかもしれません。 しかし本書が2020年の生誕250周年という節目の年に刊行され、この不世出の人物の人生と作品の一端をご理解いただけるとしたら、これ以上の喜びはないといいます。 貴族の家庭や社交の場であったサロンの娯楽物で、そのほとんどが一度限りの使い捨ての憂き目を見ていた音楽を、不滅の「芸術作品」に仕上げたという行為は、ベートーヴェンが人類に贈った最大の遺産です。第1章 ベートーヴェンの家族、そしてその幼時/第2章 一八世紀の文化都市ボン/第3章 ウィーン時代の始まり/第4章 ベートーヴェンの初期/第5章 傑作の森ーベートーヴェンの中期/第6章 ベートーヴェン後期の傑作群[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】ベートーヴェン 音楽の革命はいかに成し遂げられたか /文藝春秋/中野雄(新書)本 「ベートーヴェンの謎」江時 久(えとき・ひさし) 著 (送料込)
2021.03.27
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富裕層=ミリオネアは、主な居住用不動産、収集品、消費財、および耐久消費財を除き、保有資産額100万ドル以上あるいは1億円以上の個人や世帯を指します。 このうち、保有資産額3000万ドル以上あるいは5億円以上は超富裕層=ビリオネアと呼ばれます。 ”スーパーリッチ 世界を支配する新勢力”(2020年10月 筑摩書房刊 太田 康夫著)を読みました。 上位1%の超富裕層が富の50%を支配し、コロナ禍でさらに格差が広がる中で、スーパーリッの政治、経済、社会に及ぼす影響と分断社会の今後を予測しています。 2018年の世界の超富裕層数ランキングでは、世界に26万5490人いるとされ、最多国はアメリカ合衆国、最多都市はニューヨークです。 アメリカでは、the top 1%と呼ばれる全米上位1%の保有資産を持つものは、羨望の的であり神の如き存在とされます。 アメリカの超富裕層の富は、新型コロナウィルス危機が始まった2020年3月からのわずか2カ月半で、19%増えたようです。 ニューヨークなどで都市封鎖が続く6月初め、米国のあるシンクタンクの研究者が明らかにした試算では、増加額は5650億ドルで、約600人の保有する富の総額は3兆5120億ドルにまで膨れ上がったといいます。 いま超富裕層が急拡大する傾向にあり、政治、経済、社会に及ぼす影響が強まっており、その動向抜きには社会の行く末は語れません。 太田康夫さんは1959年京都生まれ、1982年に東京大学を卒業し、同年、日本経済新聞社入社し、現在、日本経済新聞社編集委員を務めています。 バブルの絶頂期、その崩壊、不良債権問題などについて、30年余り金融を追い続けてきたといいます。 フランスのあるコンサルティングファームが発表した2019年の世界の富裕層数ランキングでは、 1位アメリカ、2位日本、3位ドイツ、4位中華人民共和国、5位フランス、6位イギリス、7位スイス、8位カナダ、9位イタリア、10位オランダとなっています。 スイスのある金融大手の集計による2018年の世界の超富裕層数ランキングでは、 1位アメリカ、2位中華人民共和国、3位日本、4位ドイツ、5位カナダ、6位フランス、7位イギリス、8位香港、9位イタリア、10位スイスとなっています。 野村総合研究所は、日本で2020年に、預貯金、株式、債券、投資信託、一時払い生命保険や年金保険など、世帯として保有する金融資産の合計額から負債を差し引いた「純金融資産保有額」を基に調査を行いました。 総世帯を5つの階層に分類し、各々の世帯数と資産保有額を推計し、純金融資産保有額が1億円以上5億円未満の富裕層、および同5億円以上の超富裕層を合わせると132.7万世帯であったといいます。 このうち、富裕層は124.0万世帯、超富裕層は8.7万世帯でした。 富裕層と超富裕層をあわせた2019年の世帯数は、2005年以降最も多かった2017年の合計世帯数126.7万世帯から6.0万世帯増加しました。 富裕層・超富裕層の世帯数はいずれも、安倍政権の経済政策であるアベノミクスが始まった後の2013年以降、一貫して増加を続けているといいます。 2017年から2019年にかけて、富裕層および超富裕層の純金融資産保有額は、それぞれ9.3%(215兆円から236兆円)、15.6%(84兆円から97兆円)増加し、両者の合計額は11.1%(299兆円から333兆円)増えました。 また、富裕層・超富裕層の純金融資産保有総額は、世帯数と同様、2013年以降一貫して増加を続けています。 過去10年近くにわたって、富裕層・超富裕層の世帯数と純金融資産保有額は増加しています。 その要因は、一つは株式などの資産価格の上昇による保有資産額の増大、もう一つは金融資産を運用している準富裕層の一部が富裕層に、そして富裕層の一部が超富裕層に移行したためと考えられます。 ただし、2020年はコロナ禍の中においても株価は上昇しているものの、多くの経済指標は悪化しており、今後の富裕層・超富裕層の世帯数や純金融資産保有額に影響を与える可能性があります。 トランプ元大統領が国家非常事態宣言を出したのが3月13日で、春先まで株価が最高値を更新するなど繁栄に酔いしれていた米国経済は急暗転しました。 このため4月の失業率は14.7%と、1930年代の世界恐慌以来最悪の水準に跳ね上がりました。 ところが、失業者が急増した3月18日から6月4日までのあいだに、アマゾン創業者のシェフ・ベソスは362億ドル、フェイスブック創案者のマークーザッカーバーグは301億ドルなど、ビリオネアは富を大きく伸ばしました。 富の源泉は主に保有株式であり、コロナ危機の影響で米国株が旧来型の業種を中心に大幅に下落するなかで、電子商取引のアマゾンやSNSのフェイスブックは、アフター・コロナの世界で一段と強みを伸ばしています。 株式時価総額が1兆ドルを超えるようなアフター・コロナの勝ち組企業の経営者と、コロナで追い詰められた失業者の格差が一段と開いています。 アメリカに暗い影を落とす貧富の格差は、実は歴史的な水準にまで広がっています。 貧富の格差は大恐慌と第二次世界大戦の影響でいったん縮小したものの、1982年ごろから急拡大しています。 格差に関して貧しい人の悲惨さが取り上げられることが多いですが、格差を広げたのは主に豊かな人たちの方でしょう。 上位1%の所得シェアは1982年には10%程度でしたが、2017年には22%に達しています。 コロナで人々が苦しむのを余所目に、ビリオネアが富を増やしたのは特異な現象ではなく、この40年のあいだに豊かな人がより豊かになるドラスティックな富裕層世界の変革が起きたのです。 日本が輝いていたように見えた1980年代後半、地価が高騰し富裕層が急増し、金満文化が花開きました。 日本の夢のような時代はバブルの崩壊で短命に終わりましたが、その後、米国はIT時代を切り開き、欧州は経済通貨統合で新市場を作り、中国は資本主義的な手法を取り入れた社会主義で高成長を続けました。 アメリカなどで起きたのは市場原理を重視した経済運営と、インターネットやスマートフォンの拡大に支えられた情報化とがもたらした資産価格の上昇であり、その結果、富裕層が激増しました。 中国やロシアでは経済改革の過程で、都合よく制度を変更させ利権獲得を狙うレントシーキングが横行し、かつての国有組織を民営化した企業を支配した人たちが大金持ちになりました。 レントシーキングは、民間企業などが政府や官僚組織へ働きかけを行い、法制度や政治政策の変更を行うことです。 自らに都合よく規制を設定したり、都合よく規制の緩和をさせるなどして、超過利潤であるレントを得ることを目的とします。 世界的に富裕層が増え金満文化が広がり、ニューヨーク、パリ、モナコ、香港などは、バブル期の東京をしのぐスーパーリッチーシティとなりました。 主導するのは保有資産が10億ドルを超えるビリオネアであり、新貴族文化と言えそうな新しい富裕層ワールドが現出しています。 フォーブス誌の2020年のランキングでは、ビリオネアの数は、アメリカ614人、中国389人なのに対し、日本は26人で、インド、香港、台湾、韓国の後塵を拝しています。 日本にいると金融ビッグバン、小泉構造改革、アベノミクスなどさまざまな改革が打ち出されましたが、富裕層ワールドでの地盤沈下は隠しようがありません。 新型コロナウィルスが襲い掛かった現在の世界は、大恐慌以来、戦後最悪などと形容される危機に直面しています。 感染症は人々の暮らしを変え、コロナ後、世界の風景は一変するとも言われています。 コロナ危機発生後もビリオネアの富が増えたことが象徴するように、富裕層を生み出すIT巨大企業群のGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)は、アフター・コロナの在宅時代の主役であり続けます。 ワクチン開発にかかわる製薬会社も、あらたな富裕層の供給源になります。 富裕層は感染から疎開し、より安全に、より豪華に暮らし、人目を避けつつ豊かな生活を送るようになっています。 人種差別ともあいまって暴動が発生したのは、格差が容認できないほどに開いた表れです。 それを政治が無視できなくなると、富裕層を富ませた仕組みにメスが入る可能性はなくはありません。 政治の在り方が問われる局面になりますが、政治を握っていたり、強い影響力を持っていたりするのは富裕層です。います。 筆者は、そう簡単に新貴族文化はゆるがないだろうといいます。 本書は、急速に変容しながら膨れ上がったスーパーリッチの世界を多角的に分析しています。 一章では保有資産が10億ドルを超えるビリオネアの増加を、二章では5000万人に迫るミリオネアの動向を、それぞれ取り上げています。 三章はそうした富裕層の衣食住などの変化を追っています。 四章では格差の拡大が社会問題になりつつある状況に迫っています。第1章 超富裕層時代の到来(ビリオネアの素顔/ビリオネア時代の意味)/第2章 スーパーリッチ(富裕層)の新潮流(激増するミリオネア/最も影響力があるチャイナ・リッチ/若く勢いのあるウーマン・リッチ/新しい価値観を持つミレニアル・リッチ)/第3章 作られる新貴族文化(富裕層は、どんな日常を送っているのか/衣食住の新展開 ビジネス化する「みせびらかし文化」)/第4章 危うさはらむ新格差社会(表に出始めた新支配者/傲慢さ増す富裕層、固定化する階層/可視化する格差/社会不安のリスクー拡大する抗議活動、上級市民への反発/問われる民主主義)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】スーパーリッチ 世界を支配する新勢力 /筑摩書房/太田康夫(新書)Super Rich: A Guide to Having It All SUPER RICH [ Russell Simmons ]
2021.03.20
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スポーツというと険しい表情で練習を積み重ねるイメージが強いかもしれませんが、賢い生き方は「遊び」を持つことであるということです。 ”新装版 「遊ぶ」が勝ち”(2020年3月 中央公論新社刊 為末 大著)を読みました。 世界陸上選手権やオリンピックに出場し、引退後はスポーツと教育に関する活動を行う走る哲学者が、その原動力となった「遊び」についての考え方を述べています。 競技生活の晩年に、記録が伸びず苦しかったときに出会った名著に、重要なヒントがあったそうです。 それは1938年のヨハン・ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』で、人間の本質を「遊戯」に見出しました。 この本は1938年にオランダのハールレムで出版され、翌1939年にスイスでドイツ語に翻訳・出版されました。 ホイジンガは1872年生まれのオランダの歴史家で、フロニンゲン、ライデンの各大学教授を歴任しました。 歴史を法則化することに反対し、歴史における非合理的要素の役割を高く評価して、文化史・精神史に関する独特の業績を残しました。 ホモ・ルーデンスとは、遊ぶ人のラテン語=Homo ludensで、ホモ・サピエンス=考える人・知恵ある人が人間のラテン語の学名のように、人間を定義して遊ぶ存在が人間であることを唱えました。 遊びは文化に先行しており、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれました。 つまり、遊びこそが人間活動の本質です。 歴史学、民族学、そして言語学を綜合した独自の研究は、人間活動の本質が遊びであり、文化の根源には遊びがあることを看破しました。 為末 大さんは1978年広島市佐伯区生まれ、広島市立五日市中学校から広島県立広島皆実高等学校を経て法政大学経済学部を卒業しました。 1992年に全日本中学校選手権2年100mで7位入賞し、1993年に全日本中学校選手権100m・200mで優勝しました。 国体少年B200mでは第2位、ジュニアオリンピックでは当時の日本中学記録を更新しました。 1993年中学ランク1位だった種目は、100m、200m、400m、走幅跳、三種競技A、三種競技Bの計6種目でした。 110mH、走高跳でも1993年中学ランク100位以内を達成しました。 1994年に国民体育大会少年B100m・400mで2冠、1996年にインターハイで400mの当時の日本ジュニア新記録を樹立して優勝しました。 日本ジュニアでも400m優勝、世界ジュニア選手権代表に選出され、400mと、1600mリレー走に出場しました。 同年の広島国体で、400mと400mHで当時の日本高校新記録・日本ジュニア新記録をマークして優勝しました。 400メートルハードルの49秒09は日本高校記録・ジュニア記録・当時の世界ジュニア歴代5位でした。 1997年に世界室内選手権で1600mリレー走に出場し、2番手で走り6位入賞に貢献しました。 高校卒業後は法政大学に進学し、入学直後の日本学生選手権では1600mリレー走の2走を務めて優勝しました。 1998年に日本学生選手権400mH優勝、1999年にユニバーシアード代表に選出され出場し、準決勝進出を果たしました。 2000年に日本学生選手権で48秒47の日本学生新記録を樹立し、シドニーオリンピック代表に選出されました。 入賞が期待されましたが、予選で終盤に強風にあおられて転倒し準決勝進出を逸しました。 2001年に大学5年生になり、東アジア大会代表に選出され400mHで準優勝し、1600mリレー走2走に出場しマイルで優勝しました。 同年に、世界陸上の400mHに出場し、準決勝で48秒10の日本新記録を樹立し、決勝ではさらにタイムを縮め47秒89で日本新記録をマークしました。 五輪・世界選手権を通じて、日本人初の短距離種目の銅メダルを獲得しました。 2001年の世界陸上エドモントン大会・2005年の世界陸上ヘルシンキ大会の男子400mハードルにおいて、銅メダルを獲得しました。 オリンピックには、2000年にシドニー・2004年にアテネ・2008年に北京と、3大会連続で出場しました。 大学卒業後、大阪ガスに入社しましたが退社し、2004年からアジアパートナーシップファンド(APF)に所属し、プロ陸上選手となりました。 2006年にクイズ$ミリオネアで1000万円を獲得し、それを元手に翌年春、東京丸の内で東京ストリート陸上をプロデュースしました。 また、陸上競技の魅力をより多くの人に知ってもらいたいとの思いから、全国各地の小学校で様々な種目の選手と共に実演するイベントも企画しました。 2007年から3年間、APFグループのウェッジホールディングスの取締役も務めました。 2008年の北京オリンピック終了後、ボロボロになっても行ける処まで走りたいとして、2012年のロンドンオリンピックを目指して現役を続行することを決めました。 2010年に一般社団法人アスリート・ソサエティを設立し、代表理事の一人となりました。 2011年に広島にクラブチーム、エーミームを設立し、所属先も変更になりました。 2012年に、ロンドンオリンピック出場の可否に関わらず、今季限りで引退すると宣言しました。 長居陸上競技場でおこなわれた日本選手権男子400メートル障害予選に2組で出場しましたが転倒し、完走するも組最下位に終わり、現役引退を表明しました。 2012年に、地方地域の廃校や公共の宿泊施設を活用し、スポーツ合宿を中心とした宿泊事業を展開する、株式会社R.プロジェクト取締役に就任しました。 同年に、プロジェクト・為末大学を開始しました。 2013年に、かつて所属し取締役も務めていたAPFが、金融商品取引法違反の疑いで課徴金の対象となりました。 このとき、為末さんは、APFはスポンサーという認識だったといい、他の人に投資を勧めた事実は一切ないと回答しました。 2014年に、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員となりました。 2015年に、ブータン五輪委員会のスポーツ親善大使に就任しました。 同年に、国立競技場整備計画経緯検証委員会委員となりました。 2015年に、株式会社コロプラの社外取締役に就任しました。 2017年に、V・ファーレン長崎のフィジカルアドバイザーに就任しました。 現在はスポーツコメンテーター・タレント・指導者などで活動中で、株式会社R.プロジェクト取締役、株式会社侍代表取締役となっています。 『ホモールーデンス』に書いてある遊びの世界、それはまさに為末さんが競技を始めた頃感じていた世界であり、現役の間中ずっと自分の内なるモチベーションを支えてくれたものだったといいます。 楽しいから走っている、走りたいから走っているのです。 遊びは知能を有する動物が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものです。 基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含みません。 遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらします。 ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問いません。 たとえ他者への悪意に基づく行動であっても、当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなります。 遊びと聞くと大方の日本人は、真面目の対極だと感じてしまいますが、実際には遊びは真面目と共存できます。 一所懸命に子どもは遊ぶし、大人も大真面目に休日の趣味の時間を過ごします。 遊びは決してふざけることではなく、むしろ我を忘れて何かに熱中することだと思うといいます。 遊びは遊び自体が目的で自主的であり、義務感に弱いです。 大人の仕事が遊び化しにくいのは、目的があり組織の都合があり期限とノルマがあり、クオリティをある一定以上保たなければならないからです。 それは仕方のないことで、これまでの社会であれば、ある程度人が淡々と作業をこなすことで産業は成り立ってきました。 ところが最近になり、コンピューターや機械の発展で、人間が行っていた作業的な部分が随分取って代わられるようになりました。 もはや単純作業は。効率がいいという理由で、人間を使う必要がなく、その傾向は加速しつつあります。 一体人間はこれから、どんな役割を担うのでしょうか。 イノペーションやクリエイティビティというのが大事だと言われる時代に入り、この遊び感がそれらに大きく影響しているのではないでしょうか。 生真面目にこれまでの文脈の延長線上に何かを積み上げていくだけでは、どうしてもイノペーションは起きにくいですし、クリェイティビティも生まれにくいです。 人間にしかできないことがこれから先の社会に求められているとしたら、遊びの中にヒントがあると思います。 遊びで磨かれた五感的な直感、遊びを入れる感覚、楽しいという気持ちです。 大人が遊び続けるのはとても難しいです。 社会から役割を与えられ、常に目的を問われ、ノルマに追われる社会の中で遊び続けることはとても難しいです。 でも、その中でどう遊ぶかというのが人間の知恵であり、また人間にしかできないことなのではないでしょうかといいます。助走路 遊びって何だろう?/第1ハードル スポーツと遊び/第2ハードル 身体を遊ぶ/第3ハードル コミュニケーションが遊びを拓く/第4ハードル 教養から遊びへ/第5ハードル キャリアと「遊び感」/ゴール 「遊び感」の可能性[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 「遊ぶ」が勝ち 『ホモ・ルーデンス』で、君も跳べ! 中公新書ラクレ/為末大【著】 【中古】afb【中古】 走る哲学 扶桑社新書/為末大【著】 【中古】afb
2021.03.13
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アイガーはベルナーアルプスの一峰でスイスを代表する山で標高は3970mで、ユングフラウ、メンヒと並び、いわゆるオーバーラント三山の1つとされます。 ”辰野勇 モンベルの原点、山の美学”(2020年3月 平凡社刊 辰野 勇著)を読みました。 かつて世界最年少の21歳でアイガー北壁とマッターホルン北壁に登攀し、後に資本金ゼロからの起業した著者が、アウトドアブランド・モンベルの原点と、登山から学んだ人生哲学を語っています。 マッターホルンはアルプス山脈に属する標高4478mの山で、山頂にはスイスとイタリアの国境が通っています。 アイガー北壁は高さ1800mの岩壁で、グランド・ジョラスの北壁、マッターホルン北壁とともに、困難な三大ルートの1つとして知られ、アルプスの三大北壁と呼ばれています。 アイガー北壁は、1934年から1958年までに25回の登頂が試され、13回67名が登頂に成功しましたが、15名の死者が出ています。 1963年8月、芳野満彦さん、渡部恒明さんらが、日本人として初めてアイガー北壁に挑みましたが成功しませんでした。 1965年8月、高田光政さんが日本人として初まて登攀に成功しました。 1969年7月、辰野勇さん、中谷三次さんの2人が、日本人としては二番目となる北壁登攀に成功しました。 1969年8月、加藤滝男さん、今井通子さん、加藤保男さん、根岸知さん、天野博文さん、久保進さんの6人が、赤い壁直登ルートを拓きました。 1970年1月、森田勝さん、岡部勝さん、羽鳥祐治さん、小見山誓雄さんの4人が、冬季日本人として初登攀に成功しました。 1970年3月、遠藤二郎さん、星野隆男さん、小川信之さん、三羽勝さん、嶋村幸男さん、高久幸雄さん、深田良一さんの7人が、冬季直登ルートに日本人として初めて登攀に成功しました。 1978年3月、長谷川恒男さんが冬季単独登攀に、日本人として初めて成功しました。 マッターホルン北壁は非常に切り立っており、熟練者であっても困難なルートとされます。 1965年8月、芳野満彦さんと渡部恒明さんがマッターホルン北壁の日本人初登攀を達成しました。 冬季での登攀は1967年2月、小西政継さん、遠藤二郎さん、星野隆男さんが日本人として初めて成功させました。 また、1977年2月、長谷川恒夫さんが冬季単独登攀を日本人として初めて成功させました。 辰野勇さんは1947年大阪府堺市生まれ、日本の登山家、冒険家、カヌーイストです。 父親は寿司屋を営み、8人兄弟の末っ子でした。 1954年に堺市立湊西小学校入学しましたが、当時は病弱で学校行事の金剛山登山に参加できなかったといいます。 1960年に堺市立大浜中学校入学し、山歩きやキャンプに夢中になったそうです。 1963年に大阪府立和泉高等学校入学し、ハインワツヒーハラーさんのアイガー北壁登単記に感銘を受け、同北壁の登単を決意し、同時に山に関する起業を志しました。 ハインリヒ・ハラーさんは1912年生まれのオーストリアの登山家、写真家で、幼少のダライ・ラマ14世と交流を持つ数少ない人物でした。 グラーツ大学にて地理学を専攻し、1938年にフリッツ・カスパレクおよびドイツ人隊のメンバーと共にアイガー北壁の初登頂に成功しました。 その後、辰野さんは高校を卒業して名古屋の玉沢スポーツに就職し、そこでクライミングーパートナーの中谷三次さんと出会いました。 1967年に中谷さんと、冬季前穂高岳の屏風岩鵬翔ルート登単・雲稜ルートを初めて下降しました。 同年に大阪の登山用品店白馬堂に転職し、1968年に中谷さんと冬季前穂高岳の屏風岩緑ルート登単・鵬翔ルートを初めて下降しました。 同年に剣岳源次郎尾根の中谷ルートを初めて登単しました。 そして、1969年に中谷さんと、アイガー北壁登単を21歳の世界最年少で達成しました。 また、マッターホルン北壁登単にも成功し、一シーズンに二大北壁の登撃に成功しました。 1970年に日本初のロッククライミングスクールを開校し、総合商社株式会社丸正産業に入社し、繊維部産業資材課に配属されました。 1975年に丸正産業を退職し、大阪市西区立売堀にて株式会社モンペルを設立しました。 一ヶ月後に、山仲間であった真崎文明さん、増尾幸子さんが加わりました。 モンベルはアウトドア総合メーカーで、本社は大阪府大阪市西区新町2丁目にあります。 Light & Fast、Function is Beautyをコンセプトに、テント、バックパック、寝袋、登山靴、レインウェア等各種アウトドア商品を扱っています。 モンベルグループとして、モンベル、ベルカディア、北陸モンベル、ネイチャーエンタープライズ、モンベルアメリカ・インク、モンベルスイスSAの7社があります。 2017年現在、グループ全体での従業員は970名を数え、アメリカとスイスにも現地法人を設立しています。 2019年は自然災害の多い大変な年でしたが、個人的な出来事として、50年ぶりにマッターホルンに登ったことが大きいといいます。 スイスとイタリアの国境にあるマッターホルンは、実はそんなに難しい山ではなかったそうです。 50年前にアイガー北壁に登った後、辰野さんと中谷さんはさらにマッターホルン北壁にも登りました。 そして、頂上から標高差3000m下のツェルマットまで、一気に駆け下りました。 この数年は毎年スイスを訪れていて、アイガーやマッターホルンを見上げるたびに、もうI度登ってみいという気持ちが募ったそうです。 そしてついに、2019年に再挑戦することになりましたが、ただひとつ、高山病だけが心配でした。 今回は高山に体を慣らすために、登頂前日に標高4164mのブライトホルンに行きました。 しかしそれがかえってよくなくて、一気に高山病になってしまい、マッターホルン登攀前夜は、スープしか口にすることができなくなりました。 体調面では大変でしたが、気持ちは充実していたといいます。 ルートを知りつくした地元の最強の山岳ガイドと一緒で、絶大な信頼を寄せていました。 体はしんどかったですが、心はまったく折れなくて、下りたいとか、やめたいという気持ちは微塵も起きなかったそうです。 パルスオキシメーターで血中酸素濃度を測ると通常ではあり得ない数値だったことから、半分くらい登ったところでガイドから、下りようかとアドバイスされました。 しかし相談の末、頂上を目指すことにしました。 頂上に立てたことは、心底嬉しかったといいます。 山頂の稜線は幅が1mくらいで、その両側は1500mの絶壁で切れ落ちていましたが、まったく恐怖心はなかったそうです。 登山家の端くれとして、山は下から見上げているだけではつまりません、 マッターホルンの頂上にもう1回立ってみたかったのでした。 まだまだ自分は進行形で存在していることを、確かめたかったといいます。 座右の銘は「馬なり、道なり」です。 これは自分で思いついた言葉で、馬に乗って手綱を引かずに、鞭を入れずに、馬が行くままに身を任せる、道のままに身を任せる、という意味を込めました。 馬はいちばん道のことを知っていて、石があれば除けるし、川があれば越えるわけですから、人はその背中に乗って自然体で進んでいけばいいのです。 チーターは獲物を狙って突進していきますけど、捕獲できないとわかったらプイッと横を向いて、あんなものいらないと諦めます。 挑戦をするけれど、ある一定のところで見極めて、ダメだと思ったらすぐに止めるのです。 でも一方で、目標を立ててうまくいかなくとも、そこに可能性があれば、「失敗」ではなく「不都合」と考えて、あきらめずに挑戦し続けるしぶとさも持ち合わせています。 二つ道があったら、どうしても難しい方を選んでしまう性分だといいます。寿司屋を営む両親の背中を見ながら/山の世界で生きていこう/登山から学んだ人生哲学/起業するということ、モンベルの経営理念/五〇年ぶりのマッターホルン、そして未来へ/付記 五〇年目のマッターホルン[http://lifestyle.blogmura.com/comf rtlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし] 【中古】 辰野勇 モンベルの原点、山の美学 のこす言葉 KOKORO BOOKLET/辰野勇(著者) 【中古】afb【中古】 カヌー&カヤック入門 遊び方はいろいろ… / 辰野 勇 / 山と溪谷社 [単行本]【宅配便出荷】
2021.03.06
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