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高橋瑞は、唯一の私立医学校でありながら女子の入学を許可していなかった済生学舎に、女性である自身の入学を認めさせることで、女性の医学への門戸を開かせました。 ”明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語”(2020年7月 中央公論新社刊 田中 ひかる著)を読みました。 荻野吟子、生沢クノに次ぐ日本で第3の公許女医、高橋瑞の生涯を紹介しています。 高橋 瑞は医師となった後に高橋瑞子と名乗りましたが、戸籍名は高橋 瑞または高橋みづで、別名、高橋ミツ、高橋みつとなっています。 1852年に三河国幡豆郡西尾、後の愛知県西尾市鶴ヶ崎町で、中級武士の西尾藩藩士の家に、9人兄弟の末子として誕生しました。 父は高名な漢学者と言われ、和漢の学に造詣が深かったことで、瑞は強い向学心を抱いて育ちました。 幕末の動乱により、父は没落士族となり、生活は楽ではなく、1862年に瑞が9歳のときに父が病死し、母も間もなく死去しました。 高橋家の家督は長兄夫妻が継ぎ、瑞子は学問を望みましたが、兄から、女に学問は不要と言われ希望を絶たれました。 裁縫の教えを兄嫁に乞いましたが、兄嫁に無視されたため、瑞子は既成の着物を解いて構造を研究し、自力で裁縫を身につけました。 この頃より、他人に頼らず自力で道を突き進んでゆく性格は顕れていたといいます。 田中ひかるさんは1970年東京都生まれ、都立青山高等学校、学習院大学法学部を卒業しました。 予備校・高校非常勤講師などを経て、1999年に専修大学大学院文学研究科修士課程にて歴史学を、2001年に横浜国立大学大学院環境情報学府博士課程にて社会学を専攻しました。 学術博士で、女性に関するテーマを中心に、執筆・講演活動を行っています。 瑞子は1877年に東京の伯母から養女に迎えたいと乞われて上京しましたが、伯母の家ではすでに養子が迎えられていて、結婚を前提とした話ということでした。 伯母が財産家にもかかわらず吝嗇家で、瑞子にろくに食事を与えないなど虐待したことなどが理由で、結婚話は約1年で破綻し、瑞子は家を出ました。 そして生活のため、ある家に手伝いとして住み込んだところ、その家の者の弟への嫁入りを勧められたといいます。 相手は小学校の教員で生活の上でも不安がないと思われましたが、これも失敗して離婚しました。 この他に、車屋と同棲して飢えを凌いだ話なども伝えられているようです。 当時の東京で、女性が1人で自活していくことは並大抵のことではありませんでした。 瑞子は手に職を付けることを考え、産婆への道を志しました。 当時、産婆は例外的に女性のみが勤めることのできる稀有な職業であり、その上、収入も安定し、政府や地域社会に認められた職業でもありました。 産婆会の会長の津久井磯が、前橋で数人の助手を雇って開業していたことから、1879年に瑞子は前橋に移り、知人の紹介により磯の助手として住み込みで勤めました。 瑞子は新参者にもかかわらず、早々に頭角を現し、磯の信頼を得るに至りました。 1876年に東京府で産婆教授所が設置され、産婆教育は従来の徒弟制度に代り、正式な産婆教育が開始された時期でした。 瑞子は産婆開業資格を取るべく、上京して産婆養成所である紅杏塾、後の東京産婆学校で学びましだ。 学費は磯が援助し、瑞子は磯の助手として産婆の実践を学ぶことに加え、紅杏塾でその実践を裏付ける理論を学びました。 そして1882年に紅杏塾を卒業して内務省産婆免許を取得した瑞子は、内務省の免許を持つ日本でも数少ない先駆的な産婆でした。 磯は瑞子を自分の後継者にと考えていましたが、瑞子は東京での産婆開業資格を取得後、前橋に戻らずに東京に留まり医師を志しました。 医師と産婆の違いを明確に理解し、産婆では救いきれない命があると考え、高い向学心により産婆の仕事に満足できませんでした。 磯の夫は産婦人科医で、瑞子は住み込み先の産婦人科医と産院の両方を見ていたことも背景にあったそうです。 しかし当時、女性は医学校の入学も医師開業試験も受験資格がなかったため、瑞子は内務省衛生局長に直訴して現状を訴えました。 瑞子は勉強のために大阪の病院での実地で、内科、外科、産婦人科を学びました。 翌年に前橋に戻って、新産婆の看板を出して開業し、当時の正式な免許を得た産婆の1人であったことで名声を博し、産婆として大いに活躍しました。 1883年に内務省で女子の開業医試験の受験が許可され、1884年に荻野吟子が医術開業試験に合格しました。 瑞子はこの報せを新聞記事で読み、女子に医師への道が開かれたと知りましたが、開業試験の受験には医学校での勉強が条件に課せられていました。 女子も入学できた医学校として成医会講習所、後の東京慈恵会医科大学がありましたが、このときは学費が不足していて断念しました。 続いて前納金の不要な月謝制の医学校として、当時の唯一の私立医学校である済生学舎の門を叩きました。 済生学舎は純然たる開業試験の予備校で、月謝も月ごとの分納であったため、瑞子のように苦学する立場の者には、非常に好都合な学校でした。 済生学舎は、後年には女子の入学を許可しましたが、当時はまだ不許可であったため、瑞子は校長に面会を求め、3日3晩にわたって無言で校門に立ち尽くしたそうです。 3日目に校長の長谷川泰に会うことができましたが、色よい返事はなかったため、その後も連日で嘆願し、10目にして入学を許可されました。 1884年に済生学舎で初の女生徒となりましたが、瑞子を苦しめたのは資金面で、頼れる親戚は皆無でした。 産婆で稼いだ資金に津久井磯からのある程度の援助、さらに身の周りのほとんどの物を質入れしても、まったく不足でした。 そこで、勉強の傍ら内職で女中、手紙の代筆、着物の仕立てなど、自力で生活費と学費を捻出しました。 1885年に医術開業前期試験に合格し、続く後期試験にあたっては臨床試験があったため、順天堂医院に実地研修の申し入れましたが女子は不許可でした。 しかし当時の自宅の隣人が順天堂医院の院長の甥であったため、甥の進言を得て受け入れが許可され、同医院で女性初の医学実地研修生となりました。 1887年に後期試験に合格し、1888年に36歳にして日本で第3の公許女医として登録され、知人たちの援助を得て、日本橋の元大工町に高橋瑞子医院を開業しました。 瑞子は男のような気性であったため、江戸っ子気質の現地の人々から支持され、開業早々から盛況でした。 困窮者からはあえて診察料を受け取らず、金持ちからも必要以上の診察料を取りたてることもなく、患者たちから慕われたといいます。 そのため、魚屋からは新鮮な魚が、八百屋からは野菜や果物が届けられ、生活にも困ることはなかったそうです。 1890年にドイツのベルリン大学で本場の医学、特に産婦人科学を学ぶことを望み、留学資金の調達は開業時の借金の貸主の援助を得、ドイツ語については津久井磯の義孫に家庭教師をお願いして勉強しました。 周囲の反対を振り切って日本を発って、下調べも紹介状もない独断でドイツに渡航しました。 ドイツでもどの大学も女子の入学を許可していませんでしたが、親日家で聡明な下宿先の女主人の尽力の末に、瑞子はベルリン大学に受け入れられました。 入学こそできませんでしたが、聴講生としての受講、臨床実験の見学も許可され、産婦人医学を修めることができました。 ベルリン大学のコッホ研究所に勤めていた北里柴三郎らは、その勇気と執念深さに驚くと共に感心したそうです。 岡見 京のようにアメリカにわたって女医となった例はありますが、医師の資格を得てからドイツへ留学した日本女性は瑞子が初でした。 しかし、瑞子は慣れないドイツの地での無理が祟り、病気を患って吐血し、滞在費に加えて治療費で留学資金が尽き、1891年に重症のまま帰国しました。 一時は命すら危ぶまれましたが、帰国後は病状が奇跡的に回復し日本橋で再開業しました。 ドイツ仕込みの腕前との評判により、医院の名声も高まり、同業者の間でも羨望の的となったといいます。 瑞子は明治政府が定めた医事制度のもとに誕生した、荻野吟子、生渾久野に続く三人目の女医です。 帝国憲法発布、帝国議会開設と近代化を急ぐ日本政府は、人材確保のため欧米各国に官費留学生を送っていましたが、それは優秀な男子に限られていました。 津田梅子、山川捨松などアメリカヘの女子留学生は前例がありましたが、ドイッヘの女子留学生、それも私費で渡ろうというのは瑞が最初でした。 しかし、この留学はあまりにも無計画なものでした。 ドイツの大学は女子留学生どころか、自国の女子学生の入学さえ認めていませんでした。 もう一つ、瑞子はドイツ汽船に乗ればドイツにたどり着くと思い込んでいましたが、この船はシンガポールまでしか行かないものでした。 ようやく洋食や洋式便座に慣れた頃、船はシンガポールに到着し、なんとかドイツ行きの船に乗り換えを果たしました。 その頃、在ドイツ公使館の職員たちは、本国から初の女子留学生かやってくるという報に想像をたくましくし、沸き立っていたそうです。 この中には、のちの首相の西園寺公望もいましたが、期待は呆気なく裏切られました。 日本から女医が来たというので、公使館員達が大騒ぎして迎えに出てみると、妙齢の貴婦人と思いきや、板額の生れ更りのような中婆さんなので二度吃驚した、という記録が残されています。 同じく1890年に、瑞子より1つ年上で、公許女医第一号として名を馳せていた荻野吟子は、突如13歳年下のキリスト教伝道師と結婚して世間を驚かせました。 吟子は女医第一号としての名声や、婦人団体幹部の肩書きを惜しげもなく捨て、クリスチャンによる理想郷を作るという夫の夢を叶えるため、北海道へ渡ることを決意しました。 最初期の公許女医二人は、偶然にも同時期に自らの医院を閉め、片や夫とともに新天地へ、片やドイツ留学へと新たな道を歩み出したのでした。 本書には、高橋瑞のほか、公許女医第一号の荻野吟子、第二号の生渾久野、第四号の本多鐙子、東京女子医大創設者の吉岡蒲生など、複数の女医を登場させています。 史料に見られる言動から浮かび上かってくるそれぞれのキャラクターが、個性的です。 今日、女医という言葉は差別用語と見なされますが、初期の公許女医たちは女医として差別され女医として生きました。 女医が登場してから135年経ち、医療現場で活躍している女性医師は7万人を超えています。第1章 父の遺言を胸に/第2章 女医誕生までの道/第3章 済生学舎での日々/第4章 新天地へ/第5章 お産で失われる命を救う/主要参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語 /田中ひかる(著者) 【中古】afb【中古】女医さんが教える元気でキレイなからだのつくり方—つらい肩コリ、肌のトラブルからしつこい便秘までスッキリ解消! (PHP文庫) 玲子, 橋口
2021.04.24
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長州ファイブと呼ばれる五傑とは、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)の5人の若い長州藩士のことです。 ”長州ファイブ サムライたちの倫敦”(2020年10月 集英社刊 桜井 俊彰著)を読みました。 長州藩より渡英を命じられ先進的な知識を身に付けて帰藩した、長州五傑=長州ファイブと呼ばれたロンドン大学開校早期に留学した5人のサムライたちの生涯を紹介しています。 伊藤は初代の内閣総理大臣、井上馨も初代の外務大臣、山尾は工部卿となり「工業の父」と呼ばれ、遠藤は造幣局長を務めた「造幣の父」、野村は「鉄道の父」といわれています。 2006年に地方創世映画として、『長州ファイブ』のタイトルで映画化され、萩市・下関市の地元企業や市民の全面協力体制で創られました。 幕末期にサムライの身分を捨て、命がけでロンドンに渡った長州藩の志士たちのチャレンジを描いています。 桜井俊彰さんは1952年東京都生まれ、1975年に國學院大學文学部史学科を卒業し、1997年にロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン史学科大学院中世学専攻修士課程を修了しました。 歴史家、エッセイストで、主な著書に、”物語ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説””消えたイングランド王国””イングランド王国と闘った男””英国中世ブンガク入門”などがあります。 長州五傑は江戸時代末期に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学しました。 1863年6月4日、井上、山尾、野村の3名が、藩主より洋行の内命を受けました。 6月14日に洋行のため、井上は野村と共に京都を発ち、6月21日に江戸に到着しました。 6月22日に、駐日イギリス総領事エイベル・ガウワーを訪ねて洋行の志を述べ、周旋を依頼しました。 ガウワーからは船賃が約400両が必要で、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされました。 江戸到着後さらに伊藤と遠藤が増え、5人分の費用の5000両が必要になりました。 洋行にあたって藩主の手許金から1人200両、井上・伊藤・山尾の3人で600両を支給されましたが足りませんでした。 そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談したところ、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた1万両の準備金があり、藩邸の代表者が保証するなら5000両を貸すということになりました。 当時の藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決してもその志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させて、5000両を確保することができました。 6月27日に、ガワー総領事の斡旋でジャーディン・マセソン商会の船、チェルスウィック号で横浜を出港して、上海に向かいました。 このとき、井上は密航という犯禁の罪が養家先に及ぶことを恐れて、志道家を離別しています。 7月3日頃、上海に到着し、ジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長に面会しました。 当時の上海は東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していて、上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦やその他の蒸気船を目の当たりにしました。 ここで、攘夷という無謀なことをすれば日本はすぐに滅ぼされてしまうだろうとの判断から、開国へと考えを変えていったといいます。 上海からは井上と伊藤は525トンのペガサス号で出港し、他の3名は10日ほど後に5、915トンのティークリッパー ホワイトアッダー号で出港し、11月4日にロンドンに到着しました。 伊藤、遠藤、井上はアレキサンダー・ウィリアムソンの家に寄留したといいます。 長州五傑の留学生は、ウィリアムソンが属するユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの法文学部へ聴講生の資格で入学しました。 1864年4月に、日本から連合国が長州藩に対し重大な決意をするに至ったとの報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意しました。 4月中旬に井上と伊藤はロンドンを発ち、7月13日頃横浜に到着しました。 伊藤と共にガウワーに会い急遽帰国した説明をしたところ、ガウワーは4カ国が下関を襲撃する計画があることを告げました。 両名は故国の安危に関する大事件と受け取り、イギリス公使館の通訳アーネスト・サトウを介して公使ラザフォード・オールコックと会見しました。 自分たちが長州藩に帰って藩論を一変したいと説明し、停戦講和を願いました。 やがてイギリス公使から連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡されました。 書簡に対する返答は、到着から12日後と決まりました。 7月21日にイギリス艦に乗り豊後姫島まで送られ、7月27日に山口に着き藩の事情を聞きました。 幾百艘の軍艦が来襲しても死力を尽くして防戦する、という藩の方針が決定しているとのことでした。 7月28日に井上は伊藤と共に藩庁に出頭し、海外の情勢を説き攘夷が無謀なこと、開国の必要性を訴えました。 7月29日に藩主の下問に応じて、井上は伊藤と共にそれぞれ海外の事情を進言しましたが、藩の趨勢から方針転換は困難ということでした。 7月30日に井上と伊藤が希望していた御前会議が開かれましたが、7月31日に藩士の攘夷熱は抑えがたい状況に到る旨を、毛利登人から井上に伝えられました。 その言葉は美しいようであるが1敗の結果、一同討ち死にしても藩主一人残る理由はないからその最後の決心があるかを、藩主に伝えるよう要請しました。 8月3日に井上は、藩主よりイギリス軍艦に行き、止戦のための交渉をするように命ぜられました。 8月6日に井上は伊藤と共に姫島のイギリス艦に行き、攻撃猶予を談判しましたがうまくいきませんでした。 9月4日に井上は藩より外国艦との交渉をするように命ぜられ、9月5日に前田孫右衛門とで小船に乗り艦隊に向かいました。 途中で約束の時間が過ぎたため、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国の艦隊が下関を砲撃し、9月7日に艦隊の兵士2千名が上陸しました。 9月8日に井上は講和使節宍戸刑馬(高杉晋作の仮称)に従い、伊藤と共に講和使節としてイギリス艦に行ったもののうまくいきませんでした。 9月9日に井上は外国兵による大砲の分補に立ち会い、9月10日に井上は講和使節として毛利登人に従い外国艦に行きましたが談判はならなりませんでした。 9月14日に井上は講和使節宍戸刑馬に従い外国艦に行き、やっと講和条約を締結しました。 残った3名の遠藤、野村、山尾は、薩摩藩からの密航留学生である薩摩藩遣英使節団たちの存在を知り、交遊しています。 遠藤は1866年に、野村と山尾は1869年に帰国しました。 五人はロンドンの進歩的な大学であるユニバシティ・カレッジ・ロンドン、通称UCLに入学し、好意的な雰囲気に助けられて学究の徒となり、近代文明を貪欲に吸収していきました。 イギリスを去る時期はそれぞれでしたが、勉学を積み、どの日本人よりも早く近代への意識革命を成し遂げ、帰国後、全員が各自の分野で新生日本のリーダーとなっていきました。 井上馨は外務卿として鹿鳴館時代を築き、さらには外務大臣として不平等条約の改正に終始向き合っていきました。 伊藤は日本初の内閣総理大臣となり、生涯で都合4回、伊藤内閣を組み、文字通り明治日本のトップとなりました。 山尾は工部省のトップとして日本の工業、造船界を牽引し、また盲唖学校の開設に尽力し、障害者教育にも生涯をささげました。 遠藤は造幣局長としてお雇い外国人から貨幣鋳造を学び、人材を育てながら見事日本人だけの手でそれを成し遂げました。 井上勝は東京横浜間の鉄道開設を皮切りに、鉄道庁長官として日本全国に鉄道網を広げることに邁進しました。 二人が新生日本を率いる政治家となり、三人が近代日本を建設した技術官僚となったのです。 イギリスヘの長く荒い航海、ロンドンでの勉学の日々、そして帰国後にそれぞれが拓いていった道から誰一人として脱落することがなかったのは驚くべきことです。 長州藩が五人をイギリスに送ったのは、攘夷という考え方のオプションの一つである大攘夷を実行するためでした。 大攘夷とは攘夷を実行するための戦略的な考え方で、先に藩の人間を外国に派遣し、西洋の文化と技術を吸収させ、帰国後、その知識をもって国を強化してから完全な攘夷を実行するという考えです。 しかるにその結果、日本に帰ってきた五人が全員、当初の目的、長州藩が期待した大攘夷の実行どころか、遥かにスケールの大きい近代日本建設のための大仕事を成し遂げてしまいました。 五人はイギリス留学に選ばれただけあってもともと優秀な人材揃いだったことにありますが、注目すべきはその優秀さの中身です。 五人は素直さと柔軟性という、何でも学ばなければならない日本の夜明けを担う留学生として、最高の資質を備えていたのです。 もう一つは、じつはこれが最大の要因かもしれません。 UCLは1826年に創立された、イギリスで三番目に古い大学です。 UCLができるまでは、イギリスにはオックスフォードとケンブリッジしかなく、しかも両校に進学できるのはアングリカンすなわち英国国教徒のみでした。 非アングリカンにも、海外の人間にも広く門戸を開いたのがアンチ・オックスブリッジを旗印に掲げた、自由、反骨、無宗教の大学、UCLでした。 そんなUCLにとって開校以来最も早期に海外から迎え入れた学生が、日本からの長州ファイブでした。 2013年7月3日に、「長州ファイブ来英150周年」を記念した式典が、同大学で盛大に聞かれています。 近代日本と学問の自由・門戸開放を掲げたイギリスの反骨の大学UCLは、限りなく深い絆で結ばれています。 そして、それは今もずっと続いているのです。 この物語で彼ら長州ファイブの歩んだ道を、とりあえず筆者の好きな井上勝をメインに、でもほかの四人もしっかり追い、併せてUCLのことも追々紹介していきたいといいます。プロローグ 英国大使が爆笑した試写会での、ある発言/第一章 洋学を求め、南へ北へ/第二章 メンバー、確定!/第三章 さらば、攘夷/第四章 「ナビゲーション!」で、とんだ苦労/第五章 UCLとはロンドン大学/第六章 スタートした留学の日々/第七章 散々な長州藩/休題 アーネスト・サトウ/第八章 ロンドンの、一足早い薩長同盟/第九章 鉄道の父/エピローグ 幕末・明治を駆けた五人/あとがき/長州ファイブ年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】「長州ファイブ」(上巻) / アニメ【中古】「長州ファイブ」 下巻 ドラマCD / その他
2021.04.17
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天下の双福と言われた福地桜痴と福澤諭吉は、幕末から維新を生きた同時代の人で諭吉が5歳年上でした。 ”福地桜痴 無駄トスル所ノ者ハ実ハ開明ノ麗華ナリ”(2020年10月 ミネルヴァ書房刊 山田 俊治著)を読みました。 東京日日新聞を主宰し政界へ進出するも自らの党の結成が認められず議員を辞職し、その後は座付作家として糊口をしのぎのち多くの書籍を残した、福地桜痴の浮き沈みの多い人生を描いています。 福澤の死の際に両者の人物が比較され、福地は才能においては福澤よりも優るが、意思の強固さでは福澤が数段上であると評されました。 福澤は後世に名を残し、福地は後世に忘れられる人になったのでしょうか。 福地は戊辰戦争が起こると、1968年4月に江戸で「江湖新聞」を発刊しました。 柳河春三の「中外新聞」と並び庶民の人気を集めましたが、官軍が江戸に入ると佐幕派とにらまれ、5月に糾問所に連行、投獄され新聞は廃刊になりました。 1870年に大蔵省御雇となり、伊藤博文に従い渡米し、翌年また岩倉使節団に随行して欧米を回りました。 1874年に官を辞して、「東京日日新聞」、現毎日新聞に主筆として入社しました。 東京日日は社説欄を設け、福地の論説は新聞界のみならず世間の注目を浴びることになり、部数は急増しました。 1876年に社長に就任し、1877年に西南戦争が起こると自ら戦地へ出張し、その記事は人気を集めました。 署名入りの社説は、言論界、実業界、政界に影響力をもち,1879年に東京府会議長に推され、1882年に立憲帝政党を組織しました。 また、前後4回に及ぶ外遊の見聞から演劇改良運動に心を寄せ、1888年に日日新聞を去ってからその運動に専念し、以後、小説、戯曲を執筆し、歌舞伎座の創立にも力を尽くしました。 山田俊治さんは1950年東京生まれ、早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程後期満期退学しました。 横浜市立大学国際文化学部助教授、2000年に教授となり、のち、同都市社会文化研究科教授を務め、2016年に定年退任して名誉教授となりました。 福地源一郎は、幼名八十吉。号星泓のち櫻癡、新字体では桜痴、別号吾曹と称しました。 福地桜痴は本名を福地源一郎と言い、1841年に長崎で儒医・福地苟庵の息子として生まれました。 幼時から長川東州について漢学を学び、15歳の時に長崎で通詞・名村八右衛門のもとで蘭学を学び、のち、江戸に出て英学を学び。幕府に通弁、翻訳家として出仕しました。 1857年に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出ました。 以後、2年間ほどイギリスの学問や英語を森山栄之助の下で学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することとなりました。 1860年に御家人に取り立てられ、1861年には柴田日向守に付いて通訳として文久遣欧使節に参加しました。 1865年には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察しました。 そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、西洋の演劇や文学にも興味を持ちました。 1866年3月に帰国後、外国奉行支配調役格、通詞御用頭取として、蔵米150俵3人扶持を与えられ、旗本の身分に取り立てられました。 しかし、開国論の主張が攘夷派に敵視され、不平に堪えず遊蕩に耽りました。 1867年10月の大政奉還の際に、徳川慶喜が自ら大統領になり新政府の主導権を握るべしとの内容の意見書を小栗忠順に対して提出しました。 その意見の妥当性は認められたものの、慶喜の意向が判然としないなどの理由から容れられることはありませんでした。 江戸開城後の1868年5月に、江戸で「江湖新聞」を創刊しました。 翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ。」と厳しく述べました。 これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されましたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされました。 これは明治時代初の言論弾圧事件で、太政官布告による新聞取締りの契機となりました。 その後、徳川宗家の静岡移住に従い静岡に移りました。 同年末に東京に舞い戻り、士籍を返上して平民となり、浅草の裏長屋で「夢の舎主人」「遊女の家市五郎」と号して戯作、翻訳で生計を立てました。 仮名垣魯文、山々亭有人等とも交流し、その後下谷二長町で私塾日新舎、後の共慣義塾を開いて英語と仏語を教えました。 1870年に渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入り、伊藤とともにアメリカへ渡航し、会計法などを調査して帰国しました。 翌年、岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ各国を訪れ、1873年に一行と別れてトルコを視察して帰国しました。 1874年に大蔵省を辞し、政府系の「東京日日新聞」発行所である日報社に主筆として入社しました。 署名入りの社説を書き、また紙面を改良して発行部数を増大させました。 1875年に地方官会議で議長・木戸孝允を助けて書記官を務め、1877年に西南戦争が勃発すると自ら戦地に出向きました。 山縣有朋の書記役も得て、田原坂の戦いなどに従軍記者として参陣し、現地からの戦争報道を行い、ジャーナリストとして大いに名を上げました。 東京への帰途に、木戸孝允の依頼で京都で、明治天皇御前で戦況を奏上しました。 1878年に渋沢栄一らとともに、東京商法会議所を設立しました。 下谷区から東京府会議員に当選して議長となり、東京株式取引所肝煎にも推挙されました。 1881年に私擬憲法を起草し、軍人勅諭の制定にも関与しました。 この頃、下谷の茅町の自宅で豪奢な生活を送り、自宅は俗に池端御殿などと呼ばれ、多くの招待客が訪れていました。 1882年に丸山作楽、水野寅次郎らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行、制限選挙等を政治要綱に掲げました。 自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、士族や商人らの支持を受けました。 しかし、政府は超然主義を採ったため、存在意義を失い翌年に解党しました。 桜痴居士福地源一郎の評判は決してよいものではなく、佐々木秀二郎「福地源一郎君伝」によると、文壇では大元帥と称され、花街では大通人と称せられました。 また、高瀬松吉「才子伝福地源一郎」によると、文章をー読するとみな堂々たる学士記者と思うが、面談すると尋常の幇間者流と思うのみと言われました。 鳥谷部春汀は失敗した御用新聞記者と見なし、唯だ才を侍んで羈束する所なく、放縦にして謹慎の思慮を欠くと断じました。 そのためか、福地の文業を評価する場合でも、人生の失敗者というイメージは拭えなかったのです。 外国奉行配下の通詞として幕末に二度洋行するも、幕府が瓦解してしまいました。 維新期に「江湖新聞」を発行するも、筆禍に遭ってしまいました。 維新後は伊藤博文の貨幣制度調査に随行して渡米し、岩倉使節団にも参加しましたが、1874年には大蔵省を辞すことになりました。 東京日日新聞を主宰して「太政官御用」の政論紙に改革し、西南戦争に従軍した戦況報道で新聞記者の声価を高め、1881年の政変後に漸進主義の立憲帝政党を組織しました。 しかし政府から認められず、官報を引き受けられずに日報社に打撃を与え、東京府議会議員として汚名を着て退社しました。 演劇改良事業として1889年に歌舞伎座を創業しましたが、自らの負債で座付作者となり、演劇脚本や小説、歴史評論、新聞論説などで売文生活を余儀なくさせられました。 また、晩年には衆議院議員になりましたが、その在任中に亡くなりました。 こうしてみると、生涯は必ずしも成功者の人生ではなかったかもしれません。 それでも、福地の生涯を一貫させているのは書くことでした。 ただ、その文章は失敗者の逸話に満たされて読まれてきました。 福地の死に際して、夏目漱石が残した野村伝四郎宛書簡に、「桜痴といふ人の逸話を読んだがあれは駄目な人間だ。然し当人は余程えらいと思つてる。生前は可成有名でも死ねばすぐ葬られる人だ」と書かれていました。 福地の文章の多くは同時代の問題を扱う新聞論説や、虚構の小説でも同時代と切離し難く、時代状況に縛られていました。 それゆえ時代を超えて評価されることはありませんでしたが、逆にそれゆえに時代を映す鏡にもなるのです。 徳川幕府の崩壊と富国強兵という時代を生きて書き残した文章を通して、福地の生きた時代を生き直してみることはできないでしょうか。 それとともに、その文章を福地に付与された先入観から可能な限り遠ざかって、現代に問い直してみたいといいます。第一章 書く世界から自立の道へ/第二章 外国方幕臣として/第三章 幕臣の明治維新/第四章 翻訳から大蔵省御用掛へ/第五章 時事的言論人として/第六章 政治の世界へ/第七章 政党設立の挫折/第八章 日報社を手放す/第九章 文筆業への道/第十章 生活のために書く/第十一章 時代の中で/第十二章 思想転向を迫られる時代/第十三章 再び同時代に向けて/第十四章 理想を語る/第十五章 書くことの達成/参考文献/略年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comf rtlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 福地桜痴 無駄トスル所ノ者ハ実ハ開明ノ麗華ナリ ミネルヴァ日本評伝選/山田俊治(著者) 【中古】afb福地桜痴 (人物叢書(オンデマンド版)) [ 柳田 泉 ]
2021.04.10
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人生100年時代という言葉が当然のように使われるようになってきました。 ”「腸寿」で老いを防ぐ 寒暖差を乗りきる新養生法”(2020年1月 平凡社刊 松生 恒夫著)を読みました。 長寿をまっとうするため不調を訴える人、特に腸のトラブルを抱える人に、長寿の要である腸を健康に保つためにはどうすればいいかを解説しています。 2019年9月の住民基本台帳のデータでは、日本には100歳以上の人か6万9785人います。 日本人の平均寿命は、2018年の厚労省資料では、男性81.25歳、女性87.32歳と、世界でもトップクラスの長寿となっています。 長寿は腸寿でもあり、腸のコンディションがよい健康な人の国になっていることが分かります。 人間の体には、健康を維持してくれるような機能が自然と備わっているのです。 しかし、それは、体のコンディションが整っている時に限られまする。 毎日のように、腸のトラブルをかかえた患者を診察していると、便秘や下痢など腸のコンディションが悪い人が多数存在し、年々、増加傾向にあることがよくわかるといいます。 松生恒夫さんは1955年東京都生まれ、1980年に東京慈恵会医科大学を卒業し、同大学第三病院内科助手、松島病院大腸肛門病センター診察部長を経て、2004年1月より松生クリニック院長を務めています。 医学博士、日本内科学会認定医、日本消化器内視鏡学会専門医・指導医、日本消化器病学会認定専門医で、腸寿に関する著書が多数あります。 人間の体にはホメオスタシスという、恒常性を保つための大きな機能かあります。 これは人間の体を常に一定の状態に保つことであり、たとえば、気温が上昇し、体温にも影響か出そうだと体か感じたら、汗を出して体温を調節します。 さらに、体に病原菌などか侵入した際には、発熱、嘔吐、下痢などの症状が出現します。 これはその病原菌に対して、体か反応している証明なのです。 このように人間の体には、体内環境が変化したら、それを元の状態に戻そうとする機能か備わっています。 恒常性は体内の水分、体温、血液やリンパ液などの浸透圧やpHなどをはじめ、病菌の排除や傷の修復、さらに加齢による体調の変化にまで及んでいます。 2016年の国民生活基礎調査によると、日本には便秘に悩む人が、人口11000人当たり、女性で45.7人、男性で24.5人もいます。 これは、国民のおおよそ500万人以上もの人が、腸のコンディションを損なっているということになります。 腸のコンディションがよくなげれば、腸の病気にかかる可能性も必然的に高くなるでしょう。 腸の病気にならないまでも、腸の不調、便秘、下痢などの症状は、精神面にまで影響をおよぼすことかあり、精神的な不調を生じさせてしまうことすらあります。 さらに、最近の季節や気候の変動をみてみると、50年前とは明らかに異なっています。 そして、この季節や気候の変動に、腸や体かついていけない人が多数存在します。 このような状況がくるとは、誰もか予測しなかったことであり、病気の内容も変化してきているといいます。 そこで、日々を健康に過ごすための方法を考えなくてはなりません。 長寿をまっとうするために、四季のなかでどのように健康的に過ごすかについては、養生法という東洋医学の考え方があります。 養生は生を養うことであり、人間の身体の状態を整えること、健康を増進すること、病気の自然治癒をうながすことなどを指します。 養生法は、健康を維持したり健康を管理したりして長寿を全うするための方法の総称です。 四季を通して健康を維持・管理し、いかに長寿をまっとうするかを説きます。 戦国時代から後漢時代の中国では、戦争が相次ぎ、世が乱れ、世俗的になっていました。 そうした世俗的な世から逃れるために、隠遁を重視したり無為自然を重視する老子や荘子などの思想が盛んになりました。 その動きの中で、過度な飲食を慎み、規則正しい生活を重視した養生という考え方が生まれました。 その後、養生は、疾病予防、強壮、老化防止などの手段として医学に取り入れられていきました。 老子は養生として静をもって生を養うことを重んじ、静的な養生法として気功を提唱しました。 孔子は静の養生と動の養生が有機的に結合したものを重んじ、動静結合を提唱しました。 華佗は動をもって生を養うことを重んじ、運動主体の養生法を生み出し、中国の太極拳や日本の柔道・空手などに影響を与えました。 日本では、貝原益軒により『養生訓』が書かれた江戸期からさかんに言われてきました。 『養生訓』は1712年に福岡藩の儒学者、貝原益軒が83歳の時に書かれ、実体験に基づき健康法を解説しました。 長寿を全うするための身体の養生だけでなく、精神の養生も説いているところに特徴があります。 季節ごとの気温や湿度などの変化に合わせた体調の管理をすることにより、初めて健康な身体での長寿が得られるものとします。 すべてが自身の実体験で、益軒の妻もそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都など物見遊山の旅に出かけるなど、仲睦まじく長生きしたといいます。 しかし、気候も生活も劇的に変わるいま、その考えだけでは十分とはいえません。 不調を訴える人、特に腸のトラブルを抱える人が急増するなか、長寿の要である腸を健康に保つためにはどうすればいいかが重要になっています。 そこで、本書では、これまでの養生法と比較して、最近の季節・気候にあわせた食生活や日常生活について、いまのところ判明している範囲内で良い方法を提案したいといいます。 この100年の間に、日本の平均気温は1度以上も上昇しています。 さらに2019年は、10月に入っても都心の最高気温か夏日を記録してさえいます。 そして10月12日から13日にかけて日本を襲った超大型の台風19号は、いままでの経験では考えられないほどの大雨を降らせました。 このような気候の変化か激しい状況下で、季節を通して、快適に健康的に過ごすにはどうしたらよいか、というテーマで書いたのが本書だそうです。 腸のコンディションを整えるということは、体の恒常性を保ち健康で長生きするために非常に重要です。 腸が健康であることは、元気で長生きにつながり、長寿イコール腸寿と呼んでよいといえるでしょう。 小腸は複雑に絡み合っていて、大腸は上下左右に小腸を囲んでいます。 重力に逆らって食べ物を送らなければならないため、筋肉や腸管が収縮する蠕動運動や分節運動が必要になってきます。 腸の動きが悪くなってくると、消化吸収や排泄といった腸の働きが低下し、本来、排泄されなければならない不要な老廃物や毒素が長期にわたって体内に溜まることになります。 下腹部の張りや腹痛の原因になっているだけでなく、便秘をはじめニキビや肌荒れなどの肌トラブルも引き起こします。 1日に2回しか食べない欠食やダイエットに共通しているのは、食物繊維の不足です。 食事の量が減ることで、食物繊維の摂取量も減ってしまいます。 食物繊維には、水に溶けやすい水溶性食物繊維と溶けにくい不溶性食物繊維があります。 前者は小腸における吸収を穏やかにして血糖値の上昇を抑えたり、コレステロールを吸着して対外へ排出したりします。 後者は排便をスムーズにしたり、同時に有害物質を排出して大腸がんのリスクを下げてくれたりします。 腸は自律神経によって支配され、体が冷えると自律神経の中の交感神経が優位になり、腸の動きや働きが停滞します。 また、交感神経が優位になると、血流が悪化して腸の血流量も減り、腸管運動が低下してしまいます。 腸管免疫力という言葉があるように、腸には体全体の約7割の免疫細胞が集まっています。 腸の不調によって免疫力も低下し、例えば風邪をひきやすくなり、万病の元にもなっています。 そこで、腸を温める腸温活が必要であり、体の内外から腸を温めるには、入浴、運動、食事など、さまざまな方法があります。 入浴でもっとも効果的に腸を温められるのは半身浴であり、運動をするならウォーキングがお勧めです。 食事でいえば腸に有効な食べ物をとることで、代表的なものはオリーブオイルなどです。 本書を通じて、最近の季節や気候の変動に対して、新たな養生法を知って、日本の四季を通した食材を見直すことで、上手に良好な腸ライフを手に入れていただければ幸いとのことです。はじめに/序 章 まずは腸を知ることから/第1章 気候の変化に〝腸〟も悲鳴を上げている/第2章 唱えられてきた養生法とは/第3章 季節のここを注意しよう/第4章 春バテ・秋バテに起きやすい胃症状/第5章 高温多湿による食の変化に対応する/第6章 キーワードは「腸冷え」を防ぐこと/終 章 新たな養生法を知って〝腸寿〟を目指そう/あとがき[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]「腸寿」で老いを防ぐ 寒暖差を乗りきる新養生法 平凡社新書 / 松生恒夫 【新書】【中古】 病気を寄せつけない腸寿食 / 藤田 紘一郎, 魚柄 仁之助 / 毎日新聞出版 [単行本]【宅配便出荷】
2021.04.03
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