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アルツハイマー病は発見から約100年経りましたが、いまだ根本的な治療薬がない深刻な疾病です。 ”アルツハイマー病は治せる、予防できる”(2016年9月 集英社刊 西道 隆臣著)を読みました。 認知症のうち60~70%を占めるとされるアルツハイマー病について、近い将来治せる病気になるという驚きの研究最前線を紹介しています。 アルツハイマー病は脳が萎縮していく病気で、アルツハイマー型認知症はその症状です。 認知機能低下、人格の変化を主な症状とし、認知症の60-70%を占めています。 日本では、認知症のうちでも脳血管性認知症、レビー小体病と並んで最も多いタイプです。 認知症は2025年には患者数700万人を超えるといわれ、その約60%を占めるのがアルツハイマー病です。 治療薬開発に最も近づいたとされる研究者が、最新の研究成果を明らかにします。 西道隆臣さんは1959年宮崎県生まれ、筑波大学生物学類卒業後、東京大学大学院薬学系研究科修了した薬学博士です。 東京都臨床医学総合研究所・遺伝情報研究部門主事を経て、1997年より理化学研究所脳科学総合研究センター・神経蛋白制御研究チーム・シニアチームリーダーを務めています。 2014年に株式会社理研バイオを設立し、代表取締役を兼ねています。 日本で認知症が広く知られるようになったのは40年ほど前です。 きっかけは、1972年に発表された有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』だといわれています。 当時、認知症は老人性痴呆と呼ばれ、その介護を描いたこの小説は200万部を超えるベストセラーになり、映画化もされました。 そこでは、老人性痴呆の症状と介護、記憶の障害、異常な食欲、徘徊、家族も時間も場所もわからなくなった高齢者が引き起こす数々の問題が描かれました。 そして、それに振り回され介護に疲弊する主人公や家族の姿は、人々に衝撃を与え社会問題化しました。 その後実態調査が行われ、1985年時点の認知症高齢者は全国で59万人と推計されました。 報告書では、30年後の認知症高齢者数を185万人と予測し、急激に増大すると予想していました。 しかし実際には、30年後の2015年、認知症高齢者は500万人を超えています。 認知症が増えた最も大きな要因は、日本人の平均寿命が延びたことにあります。 江戸後期の日本人の平均死亡年齢は、30歳に満たなかったともいわれます。 近代化が図られた明治後期~大正初期でも、平均寿命は女性で44.73歳、男性は44.25歳でした。 今や、人は何歳まで生きることができるのか、120歳なのか150歳なのかと真剣に検討される時代です。 平均寿命が延びるにつれ増加してきた病気には、白内障、加齢黄斑変性、骨粗粗症、変形性腺関節症、肺炎、心臓病、糖尿病、がんなど、そして認知症があります。 いずれも年をとるほどかかる危険が高まる、加齢が危険因子である病気で、実際、高齢の患者が増えています。 加齢が危険因子である病気は、老化と密接にかかわっています。 長寿と老化は分かちがたく結びついていますので、高齢者にはさまざまな老化現象が現れます。 老化現象は、個人差はありますがだれにでも起きる生理的な現象で異常ではありません。 しかし機能の低下があまりに急激に進行したり、異常な老化現象が起きるなど、生体 機能が障害されるようになると病気です。 認知症とは病気の名前ではなく、昔でいえば呆け、つまりこれまでできていた知的な活動ができなくなった症状や状態をいいます。 何らかの脳の病変によって記憶や思考などをはじめとする高度な脳の働きが落ち、元に戻らなくなったために、社会生活に支障が起きます。 そのため医療に加えて介護が必要になり、現在でも、認知症にかかわる医療・介護費用の総計は年間14兆円を超えているのではないかともいわれています。 超高齢社会に突入している日本で急激に増加している認知症のコストは、これからの社会に重大な影響を及ぼします。 ですから、今、認知症対策が急がれており、ことに重要な課題となっているのは、アルツハイマー病の治療法・予防法の確立です。 アルツハイマー病になると、脳の細胞が死滅していき認知症になります。 アルツハイマー病には治療法がなく、予防する方法もないのが現状です。 私たちが日々、生活を営んでいると必ずゴミが出るのと同じように、休みなく働く私たちの脳の細胞ではゴミが出ています。 暮らしのゴミでは自治体などによる回収・リサイクルが行われているように、脳にもゴミの処理システムがあります。 脳細胞が出すゴミはタンパク質の一種ですが、脳内で分泌される酵素によって分解され、血液中に流されていくのです。 脳内におけるタンパク質代謝が、他の臓器にまして重要であることは、さまざまな神経疾患の研究から明らかになりつつあります。 アルツハイマー病・プリオン病・ポリグルタミン病の発症には、それぞれ、βアミロイドペプチド・プリオンタンパク質・ポリグルタミンペプチドの蓄積が深く関っています。 多くの神経細胞が分裂後細胞であるため、その機能と生存を維持するために、タンパク質代謝によるタンパク質品質管理機構に強く依存しています。 ところが、この脳のゴミがたまってしまうことがあり、ある要因によってゴミを分解する酵素が減ってしまったりその働きが弱くなったりすることがあります。 すると脳細胞の中はゴミがたまっていき、やがてゴミに埋もれていきます。 脳細胞の内外がゴミで埋め尽くされれば、その細胞はゴミの毒にやられて死滅してしまいます。 そして隣の細胞でも、そのまた隣でもといったように、細胞死が連鎖します。 すると、細胞死が起きた部位が担っていた脳の機能が失われ認知症になります。 酵素が滅ったり働きが弱くなったりする要因は加齢で、年とともに酵素の働きが衰え、ゴミは少しずつたまっていくようになります。 だれの脳でも起こっていて、ゴミはゆっくりたまっていきます。 たまりはじめてからアルツハイマー病の発症までは、20年以上もかかることがわかっています。 そのゴミのたまりはじめが早いか遅いか、あるいはたまり方が早いか遅いか、そうした違いによって、ある人は早くにゴミがたまり、ある人はなかなかゴミがたまらずにいます。 早くにゴミがたまる人は若年性アルツハイマー病になりますが、多くは高齢になってからアルツハイマー病になります。 ずっと遅くまでゴミがたまらないでいた人は、アルツハイマー病にならずに人生をまっとうすることになります。 アルツハイマー病になるメカニズムは、まだ完全には解明されていません。 では、アルツハイマー病の治療はどうすればよいかは、ゴミがたまらないようにする、ゴミを速やかに取り除くことです。 しかし、これが実現できておらず、アルツハイマー病を治す方法は現在のところありません。 アルツハイマー病は、最先端の研究、医療をもってしても治すことのできない病気なのでしょうか、著者はそんなことはないといいます。 本書ではアルツハイマ-病とは何か、どのように解明されてきて、しかし治療法が開発されていないのはどうしてかが説明されています。 理化学研究所脳科学総合研究センターは、今、アルツハイマー病を治すことができると確信しているそうです。 これまでだれも考えつくことのなかった画期的な根本治療法の開発に取り組み、実現しようとしています。 実験は最終段階に到達し、これが実用化されれば、アルツハイマー病は注射で、あるいは飲み薬で治すことができ、予防することができるようになるといいます。 本書に書かれているのは、真に科学的知見に基づいたアルツハイマー病の病理の解明、およびその克服への道筋です。第1章 認知症とは何か/第2章 アルツハイマー病の症状と治療薬/第3章 アルツハイマー病の病変に迫る/第4章 アルツハイマー病の遺伝子/第5章 アルツハイマー病治療法開発への道のり/第6章 アルツハイマー病は治せる、予防できる/第7章 アルツハイマー病克服へ向け、今できること、必要なこと[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]アルツハイマー病は治せる、予防できる【電子書籍】[ 西道隆臣 ]妻静江の闘病つれづれアルツハイマー症 初期 見抜けぬ認知症の合図【電子書籍】[ 今中基 ]
2021.02.27
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本田覚庵と本田定年の親子は、自らの足跡を少々自分の手で書き遺しています。 この二人が綴った記録を中心に、その生涯を追いながら、江戸時代末から維新期を経て民権期に至るまでの時期をたどるといいます。 ”江戸の村医者 本田覚庵・定年親子の日記にみる”(2003年2月 新日本出版社刊 菅野 則子著)を読みました。 江戸時代後期から明治初年にかけて、絶えず村政の中心にありながら、地主としてまた家業の医者として、地域の医療活動に関わり、明治期にはいると民権運動に身を投じた本田家の人びとを紹介しています。 覚庵と定年の二人は、親と息子、江戸と明治、村医者と民権家、というように一見すると対照的な存在のようにみえます。 二人の日記も見方によっては対照的で、覚庵は日々の出来事をほとんど感情を交えることなく淡々と綴っている一方、定年は折にふれては感情を吐露しています。 近藤勇・寺門静軒らとも交流のあった医者であり文人の父と、民権家として奔走した息子が、新時代の到来をどう受けとめたか、幕末から明治へという時代の転換期を駆けぬけた父と子の姿を描いています。 菅野則子さんは1939年東京生まれ、1962年に東京女子大学文理学部を卒業し、1964年に東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程を終了しました。 1993年に幕末農村社会史研究で都立大学博士(史学)となり、一橋大学経済学部助手を経て、帝京大学文学部教授を務め、2010年定年退任し、現在、帝京大学名誉教授です。 明治維新を境に、それまでの人びとを取り巻く状況がめまぐるしく転換しました。 支配の仕組み、生活基盤、生活様式、人びとの価値観、何から何までが大きな変化を遂げていきました。 しかし、この変化は決して成り行きに任せてなったものではありません。 そこにはきわめて確然とした人為が働いていました。 そしてこの移行期に多くの人びとは、それぞれに思いをめぐらせていました。 農民は農民なりに、町人は町人なりに、藩士は藩士なりに、大名は大名なりに、朝廷は朝廷なりにです。 現在の東京・多摩地域の農村史料をみると、その当時の上層農民同士がたがいに親戚関係にあることが多いです。 こうしたつながりをもつ上層農民の人たちは、いわゆる豪農層とよばれました。 広くは中間層として位置づけられるこうした人たちは、広範なネットワークの中にあって、どのようにこの時代と対峙していったのでしょうか。 当時、絶えず村政の中心にありながら、地主として、また家業の医者として地域の医療活動に関わり、明治期にはいると民権運動に身を投じ、それらを通して広範な人びとと交流をもっていた人がいました。 豪農とも中間層の一員としても位置づけられる、本田家の人びとです。 本田覚庵と本田定年の親子は、自らの足跡をわずかではありますが自分の手で書き遺している。 本書は、この二人が綴った記録を中心に、その生涯を追いながら、江戸時代末から維新期を経て民権期に至るまでの時期をたどっています。 本田家が谷保村と関わりを持つようになるのは、17世紀前半の四代源右衛門定之の時からです。 本田家の始祖は本田定経で、上毛白井、現、群馬県にあったといいます。 しかし、何らかの理由で定経は天正年間に越後国鮫ケ尾城で戦死し、一子源兵衛定寛、本田家二代の別名定弘が、母とともに武州川越、現埼玉県川越市に移住しました。 定之は馬術を修めるとともに調馬師となり、徳川三代将軍家光から四代家綱の頃まで幕府の厩舎に勤めていました。 そのころから馬の調教と獣医とを家業にするようになり、三代源兵衛定直を経て、四代の時、寛永年中に谷保の現在地へ移り、以後代々の時をこの地でかさねることとなりました。 五代文左衛門定保は、同じ家業を以て広島藩松平家に仕えて十人扶持を受けるなど、村との関わりもまだそれほど深いものではありませんでした。 定保の跡を継いだ六代市三郎重鐙は石田新田を拓きました。 江戸中期までの本田家は、馬の調教や獣医を家業とし、幕府や広島藩に勤仕するほどの家柄でした。 七代源之丞定庸は下谷保村の関家から入っており、この頃から徐々にこの土地に定着し、地主としての成長を開始し、八代源太郎定雄を経て幕末に至るまで着実に土地を集め大地主となっていきました。 本田家がいつ頃から医家として活動を始めたのかはわかりませんが、村医者としての活動がはっきりとするのは九代孫三郎定緩からです。 18世紀末から19世紀前半には、すでに村医者として近隣に知れわたった存在であったようです。 本田家の屋号となる「大観堂」も定緩の時に名乗り始めて、称した「孫三郎」が、以後、本田家の当主の通称となりました。 以後、十代定位、十一代定済(覚庵)、十二代東朔、十三代定年(退庵)とこれを受け継ぎ、1886年に定年が弟定堅に医業部分を譲って別家させるまで、本田家は、谷保村の唯一の村医者として活躍しました。 本田覚庵は江戸時代の武蔵国多摩郡下谷保村、現在の東京都国立市谷保の地主・在村医で、通称は孫三郎、名は定済・定脩、号は謙斎・安宇楼・楽水軒です。 1814年に谷保村の大地主本田家の貫井村新屋分家に生まれ、母方の実家でもある本家本田孫三郎の養子となりました。 覚庵は1832年に江戸に出て、麹町の産科医に入門し、本草学・鍼灸を学び、多和田養悦の輪読会に参加し、丸薬の調合に従事し、武家屋敷への往診に同行しました。 同年に養父昂斎の病気を伝える飛脚便があり、急遽帰郷しました。 1833年2月13日に昂斎、1834年11月13日に祖父随庵の死を見届け、1837年頃医業を開始しました。 近隣地域や是政(府中市)、国分寺(国分寺市)、貫井(小金井市)、砂川(立川市)、日野(日野市)に往診し、産科を専門として難産や流産の後始末に立ち会ったといいます。 本田定年は明治時代の地方行政官・民権家・書家で、通称は孫三郎、号は退庵です。 武蔵国多摩郡下谷保村名主、神奈川県第十大区一小区戸長、北多摩郡役所書記を務めました。 書記時代は公務の傍ら自由民権運動に関わり、晩年は東京に書法専修義塾を開いて書道を教えました。 1865年2月21日に父覚庵、1867年9月15日に兄東朔が急死して急遽家督を継ぐことになりました。 医術は未熟だったため、伊豆国賀茂郡長津呂村から覚庵の同門武田宗堅を招いて医業を任せ、診療収入を宗堅のものとする代わりに無償で医業を学びました。 公務に忙殺される中、医術開業試験で必修となった西洋医学を学ぶ時間もなく、医業の継続を断念し、1875年に宗堅を帰郷させ、昭和初期まで婦人病薬黒竜散を製造販売しました。 1886年に谷保村・青柳村・本宿村・四ツ谷村・中河原村連合戸長となりましたが、1ヶ月で辞任し、三男定寿に家督を譲りました。 この二人には共通するものも少なくなく、村政をリードしていく村役人として、村内一の地主として、地域の文人として、新時代の到来とどのように絡み合っていったのでしょうか。 二人のたどった道筋を通して、支配が幕府から新政府に転換された多摩に生きた人びとの時代感覚をも捉えることができたらといいます。一章 谷保村に生きた本田家の人びと/(一)江戸時代の谷保村/(二)本田家の系譜/(三)遺された本田家の蔵書/(四)家族と経営/(五)地主として/(六)村役人として二章 村医者・本田覚庵の生涯/医の昔と今「覚庵日記」/(一)覚庵と江戸/(二)村に生きた覚庵/(三)覚庵がみた幕末の政治社会情勢/(四)多彩な人びととの交流/(五)覚庵の死三章 文明開化・自由民権と本田定年/(一)定年と維新/(二 定年の文化活動/(三)村のリーダー・定年/(四)活躍する民権家・本田定年終章/時代の転換/「自由の権」/新時代に向けての人材/「官」と「民」/ほんとうの「開化」とは参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]江戸の村医者 本田覚庵・定年父子の日記にみる [ 菅野則子 ]【中古】【古本】遠くて近い江戸の村 上総国本小轡村の江戸時代 崙書房出版 渡辺尚志/著【文庫 全般 全般】
2021.02.20
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大反響を呼んだ読売新聞朝刊の連載「時代の証言者」をもとにした、「牡蠣じいさん」として知られる宮城県気仙沼の牡蠣養殖家の初めての半生記です。 ”牡蠣の森と生きる 「森は海の恋人」の30年”(2019年5月 中央公論新社刊 畠山 重篤著)を読みました。 本書は、読売新聞朝刊に2018年12月17日から2019年2月9日まで掲載された「時代の証言者・森は海の恋人」全36回の原稿を加筆、再構成したものです。 対談の聞き手の鵜飼哲夫さんは1959年生まれ、中央大学を卒業し1983年に読売新聞社に入社、1991年から文化部記者、現在、読売新聞東京本社編集委員を務めています。 ウサギや野鳥が友だちだった幼少期、父の仕事を継いで養殖に励んだ若き日々、森に目を向けるきっかけとなったフランスへの旅などを語っています。 そして、すべてを津波が押し流した東日本大震災、そしてそれを乗り超えるまでを一気に語り下ろしています。 「森は海の恋人」は2009年に気仙沼で設立されたNPO法人の名称で、環境教育・森づくり・自然環境保全の3分野を主な活動分野とする特定非営利活動法人です。 さまざまな環境問題が深刻になりつつある現在、自然環境を良好な状態にできるか否かは、そこに生活する人々の意識にかかっています。 そこで、自然の雄大な循環・繋がりに焦点を当てた事業を展開し、森にあって海を、海にあって森を、そして家庭にあって生きとし生けるものすべての幸せを思える人材を社会に提供しつづけたいといいます。 畠山重篤さんは1943年中国・上海生まれ、養殖漁業家で、現在、京都大学フィールド科学教育センター社会連携教授を務めています。 父親は会社員でしたが、第二次世界大戦終戦後、故郷の舞根、現、宮城県唐桑町へ戻り、牡蠣養殖を始めました。 宮城県気仙沼水産高等学校卒業後、家業である牡蠣養殖を継ぎ、北海道から種貝を取り寄せて宮城県では初めて帆立の養殖に成功しました。 牡蠣は、ウグイスガイ目イタボガキ科とベッコウガキ科に属する二枚貝の総称です。 海の岩から「かきおとす」ことから「カキ」と言う名がついたといわれます。 古くから、世界各地の沿岸地域で食用、薬品や化粧品、建材の貝殻として利用されてきました。 約2億9500万年前から始まるペルム紀には出現し、三畳紀には生息範囲を広げました。 浅い海に多く極地を除き全世界に分布し、時に大規模に密集した漏斗状のカキ礁の化石が出土することもあります。 着生した基盤に従って成長するために殻の形が一定せず、波の当たり具合などの環境によっても形が変化するために外見による分類が難しいです。 雌雄同体の種と雌雄異体の種があり、マガキでは雌雄異体ですが生殖時期が終了すると一度中性になり、その後の栄養状態が良いとメスになり、悪いとオスになるとされています。 畠山さんは、牡蠣の森を慕う会、現、「特定非営利活動法人森は海の恋人」代表で、『森は海の恋人』『リアスの海辺から』『日本<汽水>紀行』(日本エッセイストクラブ賞)などの著書があります。 日本は高度経済成長期を迎えていた1964年頃から、舞根を含む気仙沼湾沿岸では生活排水で海が汚染されて赤潮が発生するようになりました。 それに染まって売り物にならない血ガキ の廃棄を余儀なくされ、廃業する漁師が続出するようになりました。 子供の頃に山も歩き回った畠山さんは、陸にも原因があると感じていなした。 確信に変わったのは、1984年のフランス訪問で、磯に魚介類が豊富で河口の街で稚ウナギ料理が出されたのを見て、ロワール川を遡ると広葉樹林があったのを目の当たりにしました。 当時、気仙沼湾に注ぐ大川には水産加工場の排水が流れ込み、上流部では安い輸入木材に押されて針葉樹林が放置されて保水力が落ち、大雨で表土が流されていました。 畠山さんが上流での森づくりを呼び掛けると、漁師仲間70人程度が賛同しました。 地元の歌人熊谷龍子さんが発案した「森は海の恋人」を標語にしました。 熊谷龍子さんは1943年気仙沼生まれ、宮城県鼎が浦高等学校、宮城学院女子大学日本文学科を卒業し、1967年「詩歌」に参加して前田透に師事した歌人です。 当時の活動に対しては、外部からは活動への批判・疑問も寄せられたほか、大川上流が岩手県という行政の縦割りも障害になりました。 母が新造漁船用にと貯めていたお金も使って北海道大学教授に科学的調査を依頼したところ、気仙沼湾の植物プランクトンなどを育む鉄、リン、窒素などが大川から供給されていることが実証されました。 環境保護機運の高まりもあって、大川上流の室根山、現在の矢越山への植樹運動が広がり、小中学校の教科書にも掲載されました。 2011年の東日本大震災では母親が死去し、津波で漁船や養殖用筏が流出しましたが、植樹祭は上流の住民らが継続し、養殖業も息子らが再開させました。 畠山さんは四半世紀に渡り、2万本以上の木を植えてきました。 本業の時間を割いて植樹を続けるのは手間がかかる上、効果が現れるのは50年後です。 養殖業は、生物を、その本体または副生成物を食品や工業製品などとして利用することを目的として、人工的に育てる産業です。 古代ローマではカキが養殖されたほか、資産家の投資先の一つとして養魚池の経営があったといいます。 養殖するためには対象となる生物の生態を知る必要があり、安定した養殖技術の獲得までには時間がかかります。 魚介類に関しては、卵あるいは稚魚・稚貝から育てることが多いです。 反面、飼育親魚からの採卵と管理環境下での孵化を経た仔魚および稚魚の質と量の確保が困難な魚種の場合、自然界から稚魚を捕らえて育てる蓄養が行われます。 養殖には、漁の条件や捕獲環境を管理できることで、捕獲時のダメージによる劣化を防ぎ時間やエネルギーなどの各種コストを抑えられます。 また、魚種によっては天然環境に比べ成長が早めることが技術的に可能であることなど、明確なメリットがあります。 魚が逃げ散ったりしないように管理して、給餌や漁獲を容易にするため、海の沿岸域や淡水の湖沼などに様々な施設が作られます。 魚介類の種類に合わせて、海面生け簀や筏、養魚池などが使い分けられます。 海水魚の一部は、海水の水質を保って内陸部で育てる閉鎖循環式陸上養殖が可能になっています。 東日本大震災の津波で、畠山さんの養殖場は壊滅的な被害を受けました。 中でも、畠山さんの養殖にとって命ともいえる舞根湾の海中には、瓦礫や泥が降り積もりました。 そうした状況にもかかわらず、畠山さんは、養殖を再開させることを決めました。 根底には、半世紀にわたり海と共に生きてきた男の「海を、信じる」という信念があったといいます。 1960年に三陸を襲ったチリ地震津波では、畠山さんは地震後、驚異的な早さで成長するカキを見たそうです。 1965年以降、赤潮が頻発するようになった気仙沼の海が、長い時間をかけて元の姿を取り戻していくのを経験しました。 海を恨んではいない、海は必ず戻ってくるからといいます。 あらがいがたい自然と向き合う時、立ち向かうのではなく、受け入れ信じます。 そして、自分が今できることを精一杯やることが大切だと畠山さんは考えています。 舞根湾は天国のような海で、300km近くつづく三陸リアス式海岸の真ん中あたり、宮城県気仙沼の地にあり、沖合にある大島か天然の防波堤となっていて、とても静かで深い海です。 湾には二本の川か流れ込み、森からの養分が運ばれ、牡蠣の養殖には絶好の漁場です。 沖に出ると遠くに見える台形の山が室根山で、山測りといって、漁師か位置を確認し、天候を予測するための大事な山です。 「森は海の恋人」の活動は、室根山での植樹から始まりました。 漁師が山に木を植え、海を豊かにする活動「森は海の恋人」を始めて、2018年で30年となりました。 植樹したブナ、ナラなど広葉樹は約5万本となり、体験学習にやってきた子どもは園児から大学生まで1万人を超えます。 海と川、そして山をひとつながりの自然として大切にする実践は高く評価され、2012年に国連の「フォレスト・ヒーローズ(森の英雄たち)」に選ばれました。 あの過酷な津波でも、海に恵みをもたらす森や川の流域の環境は壊されず、海はよみがえり、牡頼養殖も復活しました。 日本全国には大小3万5千もの川があり、それか森の養分を運び海を育んでいます。 川の流域か豊かであれば、この国の未来は間違いありません。 2018年10月に75歳になった「牡礪じいさん」ですが、じいさんになっても牡蠣は先生です。 カンブリア期に誕生し、人間の生活から出たものか流れてくる河口に棲息する牡礪は、人間の歴史を全部知っています。 だから、わからないことか起きたら、牡頼に聞けばよいといいます。1 牡蛎じいさんの半生記(少年時代/必死の日々/漁師が山に木を植える/プランクトンは生きていた)/2 折々のエッセイから(森は海の恋人(「第2回地球にやさしい作文」通産大臣賞、一九九二年)/森は海の恋人(『中学国語3』収載、1997~2005年度)/津波はもう結構(2010年5月)/蝋燭の光でこの手記を書く(2011年5月)/『牡蛎と紐育』書評(2012年3月)/豊かな森が海を救ってくれた(2016年4月)/沈黙の海からの復活(2019年3月)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]牡蠣の森と生きる 「森は海の恋人」の30年送料無料 レモ缶ひろしま牡蠣 オリーブオイル漬け レモ缶宮島ムール貝 1缶65g 各3缶、合せて6缶セット 瀬戸内ブランド認定商品
2021.02.13
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後北条氏は正式な名字は「北条」ですが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではなく、両者を区別するため後世の伊勢氏流北条家に後を付して「後北条」と呼ぶようになりました。 後北条氏は関東の戦国大名の氏族で、室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる北条早雲こと、伊勢盛時を祖とし、本姓は平氏で家系は武家の桓武平氏伊勢氏流です。 居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏あるいは相模北条氏とも呼ばれ、最大時に関八州で240万石の一大版図を支配していました。 ”戦国北条家の判子行政 現代につながる統治システム”(2020年10月 平凡社刊 黒田 基樹著)を読みました。 戦乱の世に五代100年にわたる統治を実現した後北条家について、領国統治の仕組みと現代社会との継受性を明らかにしようとしています。 黒田基樹さんは1965年東京都世田谷区生まれ、1989年に早稲田大学教育学部を卒業し、1995年に駒澤大学大学院博士課程(日本史学)を単位取得満期退学し、1999年に駒澤大学博士 号(日本史学)を取得しました。 2008年に駿河台大学法学部准教授、2012年に教授・同大学副学長となり今日に至ります。 専門は日本中世史で、歴史学研究会、戦国史研究会、武田氏研究会の活動もあり、千葉県史中世部会編纂委員や横須賀市史古代中世部会編纂委員を務めています。 後北条家は元々は伊勢家であり、伊勢氏の宗家は室町幕府の要職であった政所の長官である執事を代々世襲していました。 室町幕府の御家人であった伊勢氏一族の伊勢新九郎盛時、後の早雲庵宗瑞の姉北川殿は、駿河国に勢力を張った守護大名今川氏の今川義忠に嫁いでいました。 1476年に義忠の戦死をきっかけにして起こった今川氏の内紛の際に、盛時は駿河国に下向し、甥の龍王丸、後の今川氏親を支援しました。 これが伊勢氏=北条氏が関東圏に勢力を築くきっかけとなりました。 1493年に、幕府の管領・細川政元による足利義澄の将軍擁立と連動して、盛時は伊豆国に侵入し、堀越公方の子の足利茶々丸を、新将軍の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼしました。 以後、積極的に伊豆国を攻略して盛時の所領とした、と伝えられています。 1495年に大森氏から相模国の小田原城を奪ってここに本拠地を移し、1516年に三浦半島の新井城に拠った三浦義同を滅ぼして、相模国全土を征服しました。 北条氏を称したのはこの宗瑞の子の氏綱が、名字を「伊勢」から「北条」に改めてからのことです。 今日では便宜上、早雲庵伊勢宗瑞に遡ってこれを「北条早雲」と呼んでいます。 北条への改姓の正確な時期については、箱根権現の宝殿の修造完成を機に作成された1523年6月12日付の棟札は「伊勢」、1523年9月13日の近衛尚通の日記の記述に「北条」とあります。 このことから、その3か月の間に行われたと推定されています。 現代の日本社会における役所や会社が発行する公文書にも、いわゆる役所印や会社印、あるいは首長印や社長印が押捺されています。 それだけでなく、組織内の決裁においても、担当部局の担当者印が押捺され、あるいは一般市民も、印鑑を押捺したさまざまな公式書類を作成しています。 こうした状況は判子文化と呼ばれ、欧米を中心としたサイン文化と対比される、日本社会の特徴になっています。 日本社会での印判使用は、古くは古代の律令国家にさかのぼり、天皇の御璽、中央宮司の大政官印や地方宮司の国衙印・郡衙印、あるいは寺社の印などが、公文書に押捺され発行されました。 その仕組みそのものは江戸時代、さらに明治国家まで続き、現在にも継承されています。 ただし、判子文化という場合には、統治機関の使用のみならず、民間の会社や庶民も一様に使用する状況を指しています。 平安時代になると、国衙などの統治機関の役割は減少し、代わって荘園領主や知行国主による私的性格を帯びた領主の支配か大勢を占めるようになりました。 それらの領主が公文書を出す場合に基本的に用いたのは、印鑑ではなく花押というサインの一種です。 そのため、以後の社会では、花押こそが正式なものと認識されるようになりました。 平安時代の後半から江戸時代までは、花押を中心とした文化でした。 そのあり方の一部は明治国家にも継承され、現在においても総理大臣や閣僚による決裁は、花押を用いて行われています。 明治時代からは判子文化が中心になりましたが、その前提は古代にあるのではなく江戸時代にありました。 江戸時代には、納税を分担する社会人にあたる百姓身分は、すべてが印判を使用するようになっていました。 明治時代に受け継かれたのは、そのように百姓が印判を使用する状況でした。 平安時代の後半以降、国衙などの統治機関とは別に、僧侶や文化人などが印判を使用する状況かみられるようになりました。 これはいねば落款の延長にあたるようなもので、使用される場面はかなり限定されていました。 そうしたなかで、戦国大名か印判を公文書に使用するようになったのです。 花押の代わりに使用するものは花押代用印と称され、その最初の事例は戦国大名駿河今川家の初代・今川氏親が、1487年10月20目付で領国内の東光寺に出したものです。 また、統治者が出す公文書に公印として使用するものは、後北条家の最初の印判状がその最初の事例になっています。 やがて後者の公印使用の影響をうけて、前者の花押代用印のあり方か大勢を占めるようになり、前者は百姓による印判使用に、後者は役所印や所轄印の使用へとつながりました。 花押ではなく判子だけで公的意志を示す方法として、印判状という公文書のスタイルを生み出したのが、最初の印判状を出した後北条家でした。 本書は、戦国大名後北条家の功績を、現代政治とのつながりという観点に焦点をあてて、あらためて提示しようとしています。 戦国大名のなかで後北条家は、統治した領国の規模といい、存立した期間といい、一つとしてほかの戦国大名に劣ることのない卓越した存在でした。 ところが一般の人々には、なぜか馴染みの薄い存在に置かれています。 後北条家の功績がわかりやすく発信されていない、という側面があるのでしょう。 戦国後北条家の最大の特徴は、何といっても五代100年におよんで関東に王国を築いたことにあります。 近代以前の、いわゆる前近代において、日本の社会での社会主体であったのは、村・町という集団でした。 後北条家に限らず戦国大名による領国統治は、村・町という民衆が形成する地域共同体に立脚するものでした。 一般庶民にあたる百姓・町人という納税者身分は、村・町の構成員であることによって、その身分にありました。 支配権力に対する納税の主体は村・町であり、個々の百姓・町人ではありませんでした。 一定地域を統治する統治権力が列島の歴史に初めて登場するのが、戦国大名・国衆という、戦国時代に誕生した領域権力でした。 統治権力が納税主体の村・町を、直接に統治の対象とするようになったのも、戦国大名からのことでした。 統治権力が村落に対して直接に命令を通達するという事態は、戦国大名からみられました。 後北条家の場合、その際に虎朱印と称される印判を使用し、虎朱印を押捺した書類を送付しました。 この虎朱印は、後北条家の初代・伊勢宗瑞が、1517年に村落に対して最初に直接に公文書を通知した際に使い始めました。 二代の氏綱以降も、連綿と使用され続け、後北条家が小田原合戦によって豊臣政権との戦争に敗北して滅亡する、五代・氏直まで続きました。 その虎朱印に刻まれた印文が「禄寿応穏」でした。 これは「禄と寿、まさに穏やかなるべし」と訓み、領民の禄=財産と寿=生命を保証して、平穏無事の社会にする、という意味でした。 つまり、領民の存続を果たし平和を維持する、統治におけるスローガンにほかなりません。 後北条家は、戦国大名としての存立が、領国の村々の状況に規定されることを自覚していました。 そのため、統治の方針として、「領民の生命・財産の保証と平和な社会の実現」を掲げていました。 この「村の成り立ち」の実現のために、統治政策の更新を重ねていきました。 更新は、災害・飢饉・戦争といった社会的危機に瀕するたびに行われ、災害などからの復興政策として実行されました。 その結果として構築された領国統治の仕組みは、その後の近世大名における仕組みと基本的に変わるところはないといってよいでしょう。 後北条家は、およそ100年後に体制化するような領国統治の仕組みを、いちはやく作り上げた存在だったといえます。 統治権力による領民統治の基本的な仕組みは、信長・秀吉によって作り出されたのではなく、すでに戦国大名によって作り出されていたのです。 さらに注目すべきは、その統治のありようは多くの点で現代の統治システムの原点に位置するものとなっていることです。 本書では、そのことをよく認識できる事例を取り上げていくといいます。 第一章で納税通知書と判子文化、第二章で聞かれた裁判制度、第三章で税制改革、第四章で納税方式と利子付き延滞金、第五章で市場への介入、第六章で国家への義務、第七章で公共工事、などを取り上げます。はじめに-現代の統治システムの礎が築かれた戦国時代/第一章 納税通知書と判子文化の成立/第二章 目安制が開いた裁判制度/第三章 一律税率の設定と減税政策/第四章 徴税方法の変革/第五章 市場関与と現物納/第六章 「国家」への義務の誕生/第七章 公共工事の起源/おわりに-戦国大名と現代国家のつながり[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]戦国北条家の判子行政【電子書籍】[ 黒田基樹 ]戦国北条家一族事典/黒田基樹【1000円以上送料無料】
2021.02.06
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