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徳川家斉は1773年生まれ、親藩御三卿の一橋治斉の長男で、母は岩本正利の娘。幼名は豊千代、院号は文恭院と言いました。 ”遊王 徳川家斉”(2020年5月 文藝春秋社刊 岡崎 守恭著)を読みました。 在位50年で子どもは50人以上あり、泰平の世のはまり役で、賄賂と庶民文化花盛りの文化文政の世を築いた11代将軍徳川家斉の生涯を紹介しています。 1779年に第10代将軍・徳川家治の世嗣である家基が急死し、父と田沼意次の後継を工作しました。 また家治に他に男子がなく、家治の弟の清水重好も病弱で子供がいなかったことから、1781年に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称しました。 1786年に家治が50歳で病死したため、1787年に15歳で第11代将軍に就任し、1837年までの50年間在職しました。 将軍になってからは、前代からの権臣田沼意次を排して、白河城主松平定信を老中首座、将軍補佐に抜擢し、寛政の改革を行ないました。 しかし定信退陣後は親政し、いわゆる文化文政時代を現出しました。 将軍の生活が豪奢になり、側室通算40人、子女55人をもうけ、政治の綱紀もゆるみ、放漫政治が展開されました。 賄賂が横行し、幕政は腐敗し、財政は窮乏化しました。 1827年に在職40年に及んだ機会に、太政大臣に昇進しました。 奢侈な風潮は一向にやまず、幕府の財政はますます窮乏化しました。 そして、隠居後もその死まで大御所として実権をふるい、いわゆる大御所時代を現出しました。 天保年間に諸国に大飢饉が起りましたが、幕府は有効な救済策を講じず、1837年には大塩平八郎の乱が起るにいたりました。 家慶に将軍職を譲りましたが、大御所として政治の実権を握っていました。 この間外国船の来航がしきりで、1825年には異国船打払令が出されました。 岡崎守恭さんは1951年東京都板橋区生まれ、1973年に早稲田大学人文学科し卒業し、日本経済新聞社に入社しました。 北京支局長、政治部長、大阪本社編集局長、常務執行役員名古屋代表、テレビ東京メディアネット社長などを歴任しました。 歴史エッセイストとして、国内政治、日本歴史、現代中国をテーマに執筆、講演を行っています。 家斉は将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免しました。 代わって、徳川御三家から推挙された、陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命しました。 これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしました。 寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られましたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こりました。 さらに、尊号一件なども重なって、次第に家斉と定信は対立するようになりました。 1793年に家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わりました。 ただし、家斉は定信の下で幕政に携わってきた松平信明を、老中首座に任命しました。 これを戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中たちが支える形で、定信の政策を継続していきました。 1817年に松平信明は病死し、他の寛政の遺老たちからも、老齢などの理由で辞職を申し出る者が出てきました。 このため1818年から、家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけました。 忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して、収賄を奨励しました。 さらに家斉自身も、宿老たちがいなくなったため、奢侈な生活を送るようになりました。 さらに、異国船打払令を発するなど、たび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行しました。 忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて、8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行ないましたが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになりました。 1834年に忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となりました。 しかし、実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治は続きました。 この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、1837年に大坂で大塩平八郎の乱が起こりました。 さらにそれに呼応するように、生田万の乱をはじめ反乱が相次ぎ、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになりました。 また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まりました。 1837年に次男・家慶に将軍職を譲っても、大御所として幕政の実権は握り続けました。 最晩年は、老中の間部詮勝や堀田正睦、意次の四男の田沼意正を重用しました。 栄華を極めた家斉でしたが、最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられています。 家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷されました。 そして間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となりました。 260年に及ぶ徳川幕府で、15人の将軍が出ました。 当然のことながらまず思い浮かぶのは最初の家康、そして最後の慶喜でしょうか。 次はと言われると、参勤交代などのいろいろな制度を確立した三代の家光、中興の祖と言われた八代の吉宗でしょうか。 もう一人となると、犬将軍で知られる五代の綱吉あたりの名前が挙がりそうです。 十一代の家斉は、多くの方の記憶の中ではその次くらいに出てくるかどうかでしょう。 側室を山のように抱え、子供が50人以上もいて、オットセイ将軍とか、種馬公方と鄭楡されていたと聞いて、何となく思い出すといった程度の存在かも知れません。 ですが家斉は50年というとんでもない長い期間、将軍の座にありました。 これは第2位で29年の吉宗をはるかにしのいでいるばかりか、室町時代や鎌倉時代の将軍を含めても圧倒的な第一位です。 征夷大将軍を辞めてから最高位の官職である太政大臣の栄誉を得た人物はいますか、現職の征夷大将軍のまま太政大臣にまで昇りつめて二つの職を兼任したのも歴史上、家斉だけです。 江戸時代は長く続いていた戦乱の世に終止符を打ち、平和を維持したことが評価され、世界史上でもパックストクガワーナとして特筆されています。 家斉の時代はその中でも、とりわけ泰平の世として知られています。 家斉がつくった多すぎる子女の扱いに困り、徳川幕府が養子や嫁入りの形で各地の大名家に押し付けました。 大名家もこれを受け入れることで、自らの家格の引き上げや借金の棒引きというメリットを享受しました。 その結果、家斉の名前の一宇をもらった「斉」のつく藩主や、将軍家の姫君の奥方が全国に蔓延し、将軍家を中心とする壮大な親戚ネットワークができ上がりました。 それは緩やかな統治の強化にも役立ち、幕藩体制のほころびも隠し泰平の世を支えました。 家斉は権威と安定の象徴であり、ある意味で最強の将軍でした。 家斉の死去と同時に徳川幕府は威権を失って傾き始め、次の将軍の家慶の晩年にはペリーが来航し、これを機に一気に坂を転がり落ち瓦解しました。 徳川幕府が最後の光芒を放ったのは家斉の時代だったのです。 抜本的な改革をなしたわけではなく、対症療法の政治に終始したとも言えますが、強引に無理なことをしないのが逆に泰平の世には向いていました。 江戸時代は享保、寛政、天保の三大改革が有名ですが、庶民の生活という視点で見ると、実際にはその時代は何かと締め付けが厳しくて暮らしにくかったでしょう。 これに対して、家斉の時代は武家も町人もいわぱ羽を伸ぱせたのではないでしょうか。 長期政権ならではの忖度や情実が広がり、側近を重用するお身内政権でもあり、迫りくる危機に正対せず、生ぬるく生きているゆでがえる状態だったのかもしれません。 ですが、豪奢な政治が醸し出したそれなりに自由な気風の中で、歌舞伎や浮世絵などの文化も花開き、娯楽は庶民にまで浸透しました。 明治時代になって古きよき時代と懐かしがられたのも、家斉の文化文政の世です。 徳川実紀、正確には続徳川実紀の家斉の巻で、家斉は「遊王」と総括されています。 「遊」は外遊とか遊学という言葉があるように、本来の遊ぶという意味だけでなく、自由に動くとかゆとりがあるという意味でも使われます。 将軍を退任した後の大御所として、家斉は華やかでのびやかな権力者生活を謳歌してきたと思われます。 著者は、家斉を名君だったとか、卓抜した指導者だったなどとは言っていませんし、そう思ってもいないといいます。 ただ50年も将軍だったことを知ると、多くの人は驚き、その時代が明治の頃には大いに懐かしがられたことを考えると、ちょっと評価が過小かも知れません。 その後、病弱で若死した将軍が続き、これも幕府の衰亡につながったことから、家斉の身体が頑健であったことも評価できなくはありません。 家斉は泰平の世のはまり役だったのではないかといいます。はじめに 家斉のススメ/第1章 「斉」の全国制覇/第2章 十一代将軍への道/第3章 「生」への執念/第4章 「政」はお任せ/第5章 あれもこれも/第6章 赤門の溶姫様/第7章 江戸の弔鐘/エピローグ 浜御殿[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】新書 ≪歴史・地理≫ 遊王 徳川家斉 【中古】afb【中古】 上様出陣!(一) 徳川家斉挽回伝 徳間文庫/牧秀彦【著】 【中古】afb
2021.06.26
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ニコロ・パガニーニは1782年にイタリアのジェノヴァに生まれ、5歳の頃に父親からマンドリンを与えられ、7歳の頃からヴァイオリンを始めました。 ”悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝”(2018年7月 新潮社刊 浦久 俊彦著)を読みました。 悪魔ブームをブランディングに用い、全身黒ずくめの姿で繰り出す超絶技巧で人々を熱狂させた、史上最強のヴァイオリニストであるパガニーニの生涯を紹介しています。 父アントニオ・パガニーニは商人で音楽好き、母はテレサ・ボチャルドといい、二人はカルトゥソのパッソ・デッラ・ガッタ・モラのヴィコ・フォセ・デル・コレに住んでいたらしいです。 12歳でジェノヴァのサン・フィリッポ・ネリ教会で公開デビューし、13歳でパルマに行き、作曲家のアレッサンドロ・ローラに会いましたが、ローラは自分に教えることがないと知りパエルに学ぶよう示唆しました。 パエルは自分の師であるガスパラ・ガレッティに託し、芸術性の低いレッスンを30数回で切り上げ、その後は独学で勉強しました。 14歳の時、ナポレオン軍のイタリア侵攻で家族はラマイローネに移住し、18歳まで、父と一緒にロンバルディの首都で演奏活動を続けました。 評判が高まるに従い甘やかされ女性関係が過度になり、ギャンブルに手を出すようになり、リボルノからジェノヴァに戻りました。 19歳の時、演奏活動を中断しギターを特訓し短期間でマスターしました。 ヴァイオリニストの兄カルロの働くオーケストラが、サンタクローチェ祭に出演することを知りロッカに行き、9月14日出演が成功し、地元のナショナル管弦楽団のコンサートマスターに就任しました。 23歳の時、ルッカの支配者であるナポレオンの姉妹エルサ・バッキオッキが到着し、2つの主要オーケストラを解体再編成し室内管弦楽団とし、その第二ヴァイオリストになりました。 25歳の時、ソロ・ヴァイオリニストに就任しました。 26歳の時、室内管弦楽団が解散し、宮廷弦楽四重奏団となり、ヴァイオリニスト兼フェリックス・バッキオッキ王子のヴァイオリン教師に任命されました。 しかし、その立場に満足せずやがて宮廷を去り、更にヴァイオリン演奏法の追求に専念しました。 31歳の時、ミラノのカルカノ劇場での演奏会では、批評家をして世界一のヴァイオリニストと称賛されました。 そして巨万の富を築きましたが、守銭奴にして女好きで、無神論者の烙印を押され、遺体となっても欧州をさまよいました。 浦久俊彦さんは1961年生まれ、文筆家・文化芸術プロデューサーで、一般財団法人欧州日本藝術財団代表理事、代官山未来音楽塾塾頭、サラマンカホール音楽監督を務めました。 19歳で渡仏し、パリで音楽学、歴史社会学、哲学を学び、フランスを拠点に作曲、音楽研究活動に携わった後、2007年に三井住友海上しらかわホールのエグゼクティブ・ディレクターに就任しました。 現在は独立した立場のプロデューサーとして、多分野のアーティスト達とのコラボーレーションによるオリジナル企画を手がけています。 現代は、パフォーマンスの時代です。 クリエーションよりも、パフォーマンスがもてはやされます。 何を「つくるか」ではなく、何を「どうみせるか」に価値がある時代といえるといいます。 これは政治や経済の世界だけではありません。 一般にクリェーティヴな分野と思われている企画や広告の世界も例外ではありませんし、クリェーティヴとイコールとみられているアートの世界でさえそうです。 たとえば、クラシック音楽の世界で、現代の音楽家といって誰もが思い浮かべるのは、パフォーマーの演奏家であり、クリエーターの作曲家ではありません。 歴史的な大作曲家はともかく、現代の作曲家たちは、演奏家たちが華やかなステージでスポットライトを浴びることに比べれば、注目されることの少ない日陰の身といっていいでしょう。 かつてはそうではなく、クリエートに価値があると考えられた時代もありました。 18世紀から19世紀にいたる近代西洋音楽の全盛期は、クリエーターだけが巨匠として名を残すことができました。 バッハも、モーツァルトも、ベートーヴェンも、ショパンも、すぐれたパフォーマーでもありましたが、何より偉大なクリエーターでした。 その巨匠たちの時代に、たったひとりの異端児がパガニーニでした。 パガニーニが西洋音楽史に名を刻んだのは、何よりも圧倒的なパフォーマンスゆえでした。 作曲家として後世に与えた影響もはかりしれませんが、それでも、ヴァイオリニストとしてのパフォーマンスが与えた衝撃的なインパクトとは比較になりません。 パガニーニがヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の頃からで、13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していたそうです。 それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われます。 そのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、パガニーニの演奏技術は悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ、と噂されたといいます。 いまから200年も前に、悪魔というアイコンを自らのブランディング戦略に活かし、その名声だけでなく悪評をも自身のブランド価値を高めるために利用しました。 そして、かつてどの音楽家もなしえなかった莫大な富と名声を築きました。 芸術とは創造であると考えられていたような時代にあって、その悪魔的なパフォーマンスが、社会現象ともいえる圧倒的な熱狂の渦に大衆までをも巻き込みました。 西洋音楽の象徴的な楽器として誕生したヴァイオリンの、5世紀に及ぶ歴史のなかで、パガニーニに匹敵するヴァイオリニストは、現在にいたるまでただのひとりも現れませんでした。 これは凄いことですが、その人物像を知ろうとしてもなぜかはっきりしないのです。 ベートーヴェンとほぼ同時代を生きた歴とした近代人でありながら、パガニーニには謎めいたところばかりです。 悪魔と呼ばれたヴァイオリニストで、そのニックネームのせいもあってか、怪しげな逸話とか、虚実が混ざり合ったエピソードが、いまだにひとり歩きしています。 蜘蛛のような腕が異様に長く、やせ細った不気味な風貌と無表情で無口な性格も、怪しげな悪魔伝説に尾ひれを付けました。 黒いマントに身を包んで、ロウソクが灯る薄暗い舞台に登場し、固唾をのんで静まりかえる客席をじろりとにらみつけると、観客は震えあがったといいます。 少年時代から病弱でしたが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、毒素を抜くために下剤を飲み始めました。 1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始されました。 さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けました。 その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退しました。 そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去しました。 悪魔という噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1876年にパルマの共同墓地にようやく安置されました。 パガニーニをまともに描いた書物は、世界中を見渡してもあまりなく、ましてや日本ではほぼ皆無です。 日本でパガニーニの評伝を書いた人は、おそらくまだ誰もいないはずです。 資料を集めながら驚いたのは、伝記、研究論文、書簡集などほかに、当時のヨーロッパの歴史資料や、社会、風俗、経済にかんする資料のなかに、パガニーニの名前が頻繁に登場してきます。 パガニーニが、いかに当時のヨーロッパの流行の最先端にいたかがわかりました。 パガニーニの出現は西洋文化史にとって、まさにスキャンダルでした。 ヨーロッパ中が、悪魔と呼ばれたこの男に圧倒され、熱狂し、魅了されました。 パガニーニは流行のシンボルそのもので、ヴァイオリンという楽器を片手に、まさにヨーロッパに君臨し、ヨーロッパを虜にしました。 パガニーニ・ショックともいうべき、この社会現象が19世紀ヨーロッパにもたらした衝撃と波紋は、到底ひとりの音楽家の伝記とか、音楽というジャンルに収まるようなものではありません。 著者は、仕事で南フランスに出張した折りに、パガニーニのヴァイオリンがいまも眠るイタリアのジェノヴアまで足を伸ばしたといいます。 そこでようやく、パガニーニの愛器であったクレモナの名匠グァルネリ最晩年の名器「カノーネ」に対面することができました。 その楽器は、人を惑わせる妖しい光など放ってはいませんでした。 まるで時の襞に吸い込まれるようなおだやかな艶を湛えた、息を呑むほどに美しい楽器でした。 そこには、不思議と澄み切った静寂と、凛とした美しさがありました。 まるで名匠の手になる太刀の鋭い刃先のようでもあったそうです。 伴侶ともいえる楽器が悪魔の魔法の杖などではなく、ひとつの美しい楽器であることがわかったとき、ようやくパガニーニが書けるような気がしたといいます。第1章 悪魔誕生/第2章 ナポレオン一族との奇縁/第3章 喝采と栄華の日々/第4章 悪魔に魂を奪われた音楽家たち/第5章 晩年と死/第6章 パガニーニ幽霊騒動/第7章 神秘の楽器ヴァイオリン[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝 /新潮社/浦久俊彦(新書)Paganini【電子書籍】[ Passerino Editore ]
2021.06.20
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「老子」は、「論語」と並ぶ中国生まれの大古典です。 しかし、中国でそれぞれ儒教、道教として長く生き、政治にも応用されましたが、それはあくまでも表面的なものにすぎませんでした。 ”老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文 ”(2019年2月 誠文堂新光社刊 野中 根太郎著)を読みました。 勝ち残り社会を強く否定しいつの時代にも人々の心を癒し弱者を鼓舞してきた老子の思想の全文について、現代語訳、書き下し文、原文に加え、一文超訳を掲載しています。 「老子」「論語」を素直に胱めぱすぱらしい内容で、今でも哲学、思想、生活の知恵として大いに役立つのがよくわかります。 「老子」は「論語」に対する批判の書として登場しました。 その哲学は深く、またまるで現代の宇宙論としても通用する内容から、為政者の政策、そして私たち庶民の日常の心がまえまで考えさせてくれます。 「論語」と「老子」は対立する思想哲学を持ちますが、どちらも国家、社会、私たちの暮らしをよくしていくために考え抜かれて提案されたものです。 野中根太郎さんは早稲田大学を卒業し、海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わってきました。 海外に進出し、日本と日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛される実感を得てから、日本人に影響を与えてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになったといいます。 近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出しています。 老子は中国の春秋戦国時代の思想家で、道家の祖です。 老子の履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりします。 『神仙伝』など民間の伝承では、周の定王3年(紀元前603年)に母親である真妙玉女または玄妙玉女が、流星を見たときまたは昼寝をしていた際に、太陽の精が珠となって口に入ったときに老子を懐妊したといいます。 62年間、あるいは、80年間、81年間、72年間または3700年間など諸説あり、胎内におり、梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産しました。 それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたといいます。 他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われます。 伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話もあります。 一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたといいます。 ここで彼は、黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わります。 『史記』によれば、老子は紀元前6世紀の人物とされ、姓は李、名は耳、字はまたは伯陽となっていますが、生没年は不詳です。 楚の苦県厲郷曲仁里(河南省)の人で、周の守蔵室(図書室)の書記官です。 伝統的記述では、老子は都市生活におけるモラルの低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したといいます。 この言い伝えでは、160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとあります。 城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願い、この時書かれた書が『老子道徳経』だといいます。 これが『老子五千言』ともいわれ、単に『老子』として知られています。 『道徳経』は上巻の道経と下巻の徳経とに分かれ、現象界の背後にある本体を道とし、それから付与される本性を徳とし、無為自然の道と処世訓や政治論を説いています。 諸子百家のうちの道家は老子の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は老子を始祖に置いています。 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで老子の血筋を主張する者は多いです。 老子の呼び名は、偉大な人物を意味する尊称と考えられています。 著者はこれまで、「論語」「孫子」について書き、今回引き続いて「老子」を書かせてもらったといいます。 三冊はいずれも古代中国の古典であり、「孫子」は今では中国のみならず、世界中で兵法に関する第一の書として通用しています。 「論語」に始まる儒教は、中国の歴代王朝が採り入れたもので、特に科挙などの試験科目として詳しく学ばれました。 しかし、日本では、科挙は取り入れず、「論語」の教えはもっぱら一般大衆の教養と道徳面で大きな影響を与えました。 日本人らしさとか日本人の精神を形成しているのは、武士道とする見方も多いです。 武士道にこれといった教典があるわけではありませんが、その理論的基礎を解明したものに新渡戸稲造著の『武士道』があります。 武士道のなかの道徳的な教養は、孔子の教えが武士道における最も豊かな源泉であったといいます。 ただし、新渡戸はこの後で、孔子の教えは日本人が本能的に認めていたものを確認させたものにすぎないとします。 日本人の一番の特質は、諸外国のよいと思われるものを取り入れて、うまく咀嘔の上、自分たちのものにしていくことでしょう。 そもそも日本人は漢字からかなをつくり、漢字とかなを併用してきました。 漢字とかなの表音文字や表意文字双方の利点を生かし、柔軟で幅広い思考ができることになったことで日本人の特質をさらに伸ばしていきました。 新渡戸の『武士道』は、武士道に影響を与えたものとして、「論語」の前に仏教と神道を紹介し、「老子」は挙げていません。 現代では、「老子」は一部の人たちに熱狂的に支持されていますが、「論語」ほどは知られていないようです。 しかし、「老子」の日本文化への影響は大きく、「老子」を祖とする道教が、中国から入ってきた仏教に相当影響を与え、日本の神道そのものにもかなり取り入れられてきました。 「老子」の数々の教えは、まるで日本のことわざのように定着しています。 「大器晩成」や「足るを知る」などは有名ですが、宮本武蔵の名言「千里の道もひと足ずつ運ぶなり」は、老子の「千里の行も足下より始まる」そのものです。 『徒然草』の兼好法師は、いわゆる隠人君子のような生き方に憧れ、実践しています。 著者は、見方によって「老子」は「論語」以上に日本に根づいてきたともいえるといいます。 兼好法師は日本人の典型のような人で、「老子」「神道」「仏教」「論語」などをうまく取り入れています。 聖徳太子の「十七条の憲法」の第一条は明らかに「論語」の影響がありますが、道教の考え方も取り入れています。 これからの日本人も、日本人としての特質をうまく身につけていくことがより大事であしょう。 そうすることで自分という人間の本当の価値を高め、パワーアップしていく源泉になるでしょう。 著者は、そのために「老子」「論語」は自分のものにしていくとよいと思っています。 今、「老子」を学んでいくと、「道」の哲学や[無為]の思想などから、それがつながっているように思えます。 そして、親鸞や浄土宗、浄土真宗の教えが理解しやすくなりました。 親鸞が「老子」を愛読していたのもうなずけます。 いや、他の仏教者や昔の日本の知識人たちも「老子」を読み込んでいたのです。 そういう意味で「老子」は、仏教ともかなりの親近性がありました。 このことから現代人、特に今の日本人にとって原点の一つである「老子」は必読の書です。 本書は、こうした問題意識から生まれました。 ですから、「老子」の内容については多くの争いがありますが、これまで一般に形成されてきた解釈を中心としています。 入門書として最適で、かつ坐右の書、基本となる本を目指したといいます。 本書はそのベースとなるものであり、「老子」は難解なところがあるものの、日本人に与え続けた影響を考えると、自分なりの見方と解釈をしていくことが必要ではないでしょうか。體道第一/養身第二/安民第三/無源第四/虚用第五/成象第六/韜光第七/易性第八/運夷第九/能爲第十/無用第十一/檢欲第十二/?恥第十三/贊玄第十四/顯徳第十五/歸根第十六/淳風第十七/俗薄第十八/還淳第十九/異俗第二十/虚心第二十一/益謙第二十二/虚無第二十三/苦恩第二十四/象元第二十五/重徳第二十六/巧用第二十七/反朴第二十八/無爲第二十九/儉武第三十/偃武第三十一/聖徳第三十二/辯徳第三十三/任成第三十四/仁徳第三十五/微明第三十六/爲政第三十七/論徳第三十八/法本第三十九/去用第四十/同異第四十一/道化第四十二/偏用第四十三/立戒第四十四/洪徳第四十五/儉欲第四十六/鑒遠第四十七/忘知第四十八/任徳第四十九/貴生第五十/養徳第五十一/歸元第五十二/益證第五十三/修觀第五十四/玄符第五十五/玄徳第五十六淳風第五十七/順化第五十八/守道第五十九/居位第六十/謙徳第六十一/爲道第六十二/恩始第六十三/守微第六十四/淳徳第六十五/後己第六十六/三寶第六十七/配天第六十八/玄用第六十九/知難第七十/知病第七十一/愛己第七十二/任爲第七十三/制惑第七十四/貪損第七十五/戒強第七十六/天道第七十七/任信第七十八/任契第七十九/獨立第八十/顯質第八十一解説/序 今なぜ老子なのか/一 老子の成り立ち/二 老子の人物像/三 老子の日本への影響/四 老子と孔子の違い~「道」と「徳」の捉え方など~/参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし][書籍のメール便同梱は2冊まで]/老子コンプリート 全文完全対照版 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文[本/雑誌] / 老子/〔著〕 野中根太郎/訳【中古】 心がスーッとなる老子の言葉 成美文庫/守屋淳【監修】 【中古】afb
2021.06.12
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駒形丸事件は、日本船籍の「こまがた丸」(駒形丸)に関してカナダとインドで起こった事件です。 当時イギリス帝国統治下のインド臣民360人が乗ってカナダへ移民を企て1914年にヴァンクーヴァーに到着しましたが、24人だけ上陸が許され他は追い返されてインドに戻った事件です。 ”駒形丸事件ーインド太平洋世界とイギリス帝国”(2021年1月 筑摩書房刊 秋田 茂/細川道久著)を読みました。 1914年にカナダ・バンクーバーで起きた、日本ではほとんど知られていない小さな事件を通して、ミクロな地域史からグローバルな世界史までを総合的に展望しています。 北アメリカでのアジア人移民排斥の代表的例として、歴史に残った事件です。 2016年5月に、カナダの首相が100年ぶりに下院で公式に謝罪し、「カナダ政府を代表し駒形丸事件を謝罪する。100年以上前のことだが、ひどい不正が行われた」と述べました。 そして、「乗客が経験した痛みや苦しみはどんな言葉をかけても消えることはない」と謝罪しました。 約100年前のカナダ政府の移民制限強化措置を批判し、受け入れ拡大の姿勢を改めて強調しました。 秋田 茂さんは1958年広島県福山市生まれ、広島大学文学部を卒業し、同大学院文学研究科博士後期課程を中退しました。 大阪外国語大学外国語学部助手・講師・助教授を経て、大阪大学大学院文学研究科教授を務めました。 専門は、イギリス帝国史、東アジア国際関係史、グローバルヒストリーで、2003年に博士(文学)の学位を取得しました。 第20回大平正芳記念賞、第14回読売・吉野作造賞を受賞しました。 細川道久さんは岐阜県生まれ、東海高等学校を卒業し。東京大学文学部西洋史学科を卒業しました。 1988年に同大学院人文科学研究科博士課程をへて、鹿児島大学法文学部助教授、2003年より教授に就任しました。 専門はカナダ史・イギリス帝国史で、2005年に東京大学から博士(文学)の学位を取得しました。 2008年にカナダ出版賞を受賞しました。 バンクーバーはカナダ太平洋岸に位置すし、世界で最も住みやすい都市として、つねに上位にラックされてきた港湾都市です。 中心部のダウンタウンからスタンレー公園へ向かうハーバー・フロットの遊歩道は、市民の憩いの場です。 観光の定番コースでもあり、特に夏場は、早朝から日没まで、散策、ジョギング、サイクリングをする老若男女でにぎわいます。 新型コロナウイルスが世界的に猛威をふるう以前には、日本からも大勢の観光客や留学生がバンクーバーを訪れていました。 その遊歩道の脇に、鉄板とアクリル製板の記念碑が建っています。 「駒形丸事件」を追悼する「駒形丸メモリアル」です。 コール・ハーバーと呼ばれるこの一帯には、ヨット、クルーザー、水上飛行機が数多く停泊しているため、陸側にある「駒形丸メモリアル」に目をとめる人はそう多くありません。 メモリアルは駒形丸をイメージし、そこにはインド人乗客の名前が刻まれています。 今からおよそ100年前の1914年、駒形丸に乗ってバンクーバーにやってきたインド人の大半(376人のうち、再上陸を認められた20人などを除く352人)が、カナダ政府によって上陸を拒否されました。 駒形丸は、旧日本帝国の関東州・大連市に本拠を置いていた神栄汽船合資会社所有の3085トンの貨客船です。 1890年にイギリスのグラスゴーで建造され、ドイツの船会社が購入し、シュトゥッベンフークと命名され、1894年に、同じくドイツの船会社に売却されシチリアと改名されました。 ヨーロッパ各地から移民をモントリオールやニューヨークに運んでいたシチリアは、1913年に神栄汽船合資会社に売却され、駒形丸と改められました。 日本の門司と香港間の石炭輸送に用いられるようになり、1914年にインド人商人グルディット・シンと駒形丸の貸船契約を結びました。 シンはシーク教徒のビジネスマンで、当時のイギリス帝国の規則に挑戦するため、私財を投じて駒形丸をチャーターしたのです。 4月に駒形丸は、シンが募ったカナダヘの移民を希望するインド人を乗せて、香港を出航し、日本経由でバンクーバーに向いました。 5月にバンクーバーに到着したものの、2カ月間、接岸を許されませんでした。 結局、乗客のほとんどはカナダ上陸を認められず、駒形丸は再び太平洋を戻らざるをえませんでした。 バンクーバーを後にした駒形丸は、日本とシンガポールを経由した後、9月末にコルカタ、旧カルカッタ近くに到着しましたが、約20キロ離れたバッジ・バッジに移動させられました。 そして、そこで乗客の多数が、現地インド政庁の警察と軍によって逮捕・監禁・殺害されました。 これはコルカタの悲劇(虐殺)と呼ばれ、バッジ・バッジには、インド独立後の1952年に、首相ジャワハルラール・ネルーが除幕した追悼記念碑が建てられています。 カナダによるインド人乗客に対する上陸拒否は、カナダ政府とインド人移民の対立という単純な図式でとらえきれるものではありません。 イギリス帝国の自治領であるカナダが、カナダ人と同じイギリス帝国の臣民であるインド人を公然と排斥することはできませんでした。 しかも、インド人の処遇問題は、イギリス帝国全体に影響を及ぼしかねませんでした。 一方、イギリス帝国に限らず、欧米世界には、インド人を含むアジア移民を蔑視する考えが根強く、カナダがインド人移民の入国を制限することは当然視されていました。 また、インド人移民の多くが、生活の糧を求めるためにカナダにやってきましたが、宗主国イギリスのインド統治に対する抵抗運動と関わっているのではないかと疑いをもたれていました。 当時、北米、ヨーローパ、そして日本などにも、こうした抵抗運動の活動家やそれに共鳴する知識人がおり、同胞のインド人の移民を支援していました。 抵抗運動の主力は、パンジャーブ地方の尚武の民である、シク教徒でした。 このような状況下で、イギリス政府も、インド政庁も、インド人移民の動静に眼を光らせていましたが、駒形丸の乗客も例外ではありませんでした。 乗客376人の内訳は、シク教徒340名、ヒンドゥー教徒12名、ムスリム24名であり、圧倒的多数がシク教徒でした。 しかも、駒形丸がバンクーバーを退去し、再び太平洋を横断している最中に、第一次世界大戦が勃発し、グルディット・シンや関与するインド人たちへの監視が強まりました。 駒形丸事件はコルカタの悲劇で幕を閉じましたが、その後、シンガポールのインド軍歩兵部隊の反乱、パンジャーブ州の虐殺事件などとともに、戦後のインド・ナショナリズムを高揚させるきっかけとなりました。 当時のインドは、イギリス帝国を経済・軍事面で支えてきた重要拠点でした。 そのためイギリスは、同盟関係にあった日本の協力を得ることで、インド太平洋世界を安定させ帝国支配の維持を図ろうとしました。 駒形丸事件は、インド・カナダ・イギリスの直接的な当事者だけでなく、インド太平洋世界やイギリス帝国、日本やアメリカ合衆国など、広域の世界の歴史的動態と結びつけてとらえる必要があります。 イギリス帝国の直轄植民地で自由貿易港の香港でチャーターされた駒形丸は、上海、門司、横浜を経由して、バンクーバーに向かい、帰りは、横浜、神戸、シンガポール経由で、インドのバッジ・バッジに到着しました。 この航路は、19世紀中葉の交通革命によって汽船が登場して以降、海底電信ケーブルなど、さまざまな技術革新によって結ばれたルートです。 インドや中国から多くの移民がインド洋や太平洋を渡っており、先の航路はそのルートの一部でした。 それはまた、モノ・カネ・情報を運ぶルートでもありました。 インド太平洋世界は、歴史的な実態をともなう広域の地域です。 従来の研究では、カナダ史、インド史、日本外交史というように、国ごとのバラバラの一国史で語られており、相互のつながりや関係は無視されてきました。 本書は、ローカル・ナショナル・リージョナル・グローバルの4つの層での相互の結びつきを重視するグローバルヒストリーの手法を使って、駒形丸事件を描き出します。 そして駒形丸事件が、インド・ナショナリズムの勃興だけでなく、イギリス帝国体制を変容させ、日本を含めたインド太平洋世界の台頭を促す契機にもなったことを示したいといいます。第1章 一九ー二〇世紀転換期の世界とイギリス帝国の連鎖(イギリス帝国の構造/「アジア間貿易」の形成と移民/日英同盟とインド太平洋世界/「帝国臣民」としてのインド人移民ー南アフリカにおけるガンディー)/第2章 インド・中国・日本ー駒形丸の登場(中国人・日本人移民の排斥/インド人移民排斥ー「連続航路規定」/グルディット・シンの事業計画と日本帝国)/第3章 バンクーバーでの屈辱ー駒形丸事件(上陸拒否/裁判/強圧と抵抗/退去/駒形丸退去後のカナダ)/第4章 駒形丸事件の波紋(寄港地日本での駒形丸ー横浜から神戸へ/「コルカタの悲劇」-バッジ・バッジ騒乱/「駒形丸事件」からアムリトサルの虐殺へ)/終章 インド太平洋世界の形成と移民(港湾都市のネットワークとトランス・ナショナリズム/「帝国臣民」の論理・再考)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]駒形丸事件 ──インド太平洋世界とイギリス帝国【電子書籍】[ 秋田茂 ][書籍のメール便同梱は2冊まで]/インド太平洋開拓史 2つの海の交わり[本/雑誌] / 早川理恵子/著
2021.06.05
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