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琉球王国、琉球國は、1429年年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国です。 沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを勢力下におきました。 ”琉球王国の象徴 首里城”(2020年3月 新泉社刊 當眞 嗣一著)を読みました。 琉球王国の政治・経済・文化の中心的役割をはたしてきたグスクである首里城について、その特色と出土した貿易陶磁器、武器・武具、装飾品などを解説しています。 琉球王国は当初はムラ社会の豪族でしたが、三山時代を経て沖縄本島を統一する頃には王国の体裁を整えました。 明の冊封体制に入り、一方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国でした。 1609年の薩摩藩による琉球侵攻によって、外交及び貿易権に制限を加えられる保護国となりました。 その一方、国交上は明国や清国と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は薩摩藩による介入をさほど受けませんでした。 1879年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けました。 首里城は沖縄方言ではスイグシクといい、琉球王国中山首里、現、沖縄県那覇市にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスクの城趾です。 現在は、国営沖縄記念公園の首里城地区、通称、首里城公園として都市公園となっています。 沖縄県内最大規模の城で、戦前は沖縄神社社殿としての正殿などが旧国宝に指定されていました。 1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により、ほぼ完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態でした。 1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年に正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元されました。 2000年12月に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。 登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていません。 2019年の火災により、正殿を始めとする多くの復元建築と収蔵・展示されていた工芸品が、全焼、焼失または焼損しました。 周辺には同じく世界遺産に登録された、玉陵、園比屋武御嶽、石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂、天女橋などの文化財があります。 當眞嗣一さんは1944年沖縄県西原町生まれ、琉球大学法文学部史学科を卒業し、沖縄県庁に勤務しました。 沖縄県教育庁文化課課長、沖縄県立博物館長、沖縄考古学会会長などを歴任し、現在、グスク研究所を主宰しています。 「琉球」の表記は『隋書』が初出で、同書によると607年に隋の煬帝が「流求國」に遣使したが、言語が通ぜず1名を拉致して戻ったという記述があります。 「琉球」に落ち着いたのは明代以降で、最も使用の多かった「流求」に冊封国の証として王偏を加えて「琉球」とされました。 14世紀後半、本島に興った山北・中山・山南の三山時代に対して明が命名したもので、それぞれ琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王とされました。 このうち中山が1429年までに北山、南山を滅ぼして琉球を統一しました。 これ以降、統一王国としての琉球王国である琉球國が興ることになりましたが、国号と王号は琉球國中山王を承継し幕末の琉球処分まで続きました。 「琉球」は隋が命名した他称であり、内政的には古くから自国を「おきなわ」、歴史的仮名遣では「お(う)きなは」に近い音で呼称していたとする研究もあります。 「おきなわ」の呼称は、淡海三船が記した鑑真の伝記『唐大和上東征伝』の中で、鑑真らが島民にここは何処かとの問いに、阿児奈波「あこなは」と答えたのが初出です。 少なくとも鑑真らが到着した753年には、住民らが自国を「おきなわ」のように呼んでいたことが分かります。 また「おもろさうし」には、平仮名の「おきなわ」という名の高級神女名が確認され、現在も那覇市安里に浮縄御嶽、ウチナーウタキ、別名、オキナワノ嶽という御嶽が現存し、県名の由来とされています。 その他にも国内外の史料に、「浮縄、うきなわ」、「悪鬼納、あきなわ」、「倭急拿、うちなー」、「屋其惹、うちな」といった表記が散見されます。 現在の「沖縄」という漢字表記はいわゆる当て字で、新井白石の『南島誌』が初出で、長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われています。 この「沖縄」が琉球処分後の県名に採用され、今日では一般化しています。 古都首里は丘の上にあり、その南縁部の頂に鎮座しているのが首里城です。 平成の復元をへてよみがえった朱塗りの建物と、白色のうねる石垣が南国の空に映え、夜ともなるとライトアップで幻想的な景観をみせてくれる美しい城でした。 首里城は、五百有余年にわたって存続し、琉球王国の政治・経済・文化・外交の中心的役割をはたしてきた城でした。 また、琉球の築城や土木・建築技術の粋を集めて築城された沖縄を代表する城でもありました。 琉球王国は、日本をはじめとして中国、朝鮮、東南アジア諸国との交流を深めるなかで、優れた文化を創り上げてきました。 その拠点であった首里城は華やかな王朝絵巻の象徴として、今次大戦の直前まで首里の高台でその威容を誇っていました。 しかし、太平洋戦争末期の沖縄戦で一帯がもっとも激烈な戦場となり、正殿をはじめ城内および周辺の貴重な文化遺産が失われました。 太平洋戦争末期の沖縄戦は、日米両軍の最後・最大の戦闘であり、激しい国内地上戦でした。 勝ち目のない捨て石作戦であり、一般住民を巻き込んだ地上戦がおこなわれ、軍事物資も兵力も国民を総動員して供給するという国家総動員体制地方版として戦われました。 沖縄戦では、3ヵ月以上にもおよぶ鉄の暴風が吹き荒れました。 そのため20数万、という尊い人命が犠牲になり、県民の財産もことごとく奪われ、過去から継承されてきた数多くの貴重な文化遺産も消失することになりました。 とくに首里城跡の地下深く第32軍の司令部が置かれたこともあって、文化遺産の集中する首里の町は米軍の猛攻撃にさらされることになりました。 首里城の地上部分の国宝建造物や神社仏閣および石垣や赤瓦がよく保存されていた首里の町並みなど、貴重な文化遺産の数々が破壊されてしまいました。 また、1950年に首里城跡に琉球大学が設置され、校内所狭しと校舎が建設され、戦禍をくぐり抜けてきた城壁の一部も、大学の設置建設工事によってさらに壊されてしまいました。 沖縄文化の象徴を失った県民の失望は大きく、これをとり戻したいとする心情は計り知れないものがあり、首里城の復元は戦後の大きな課題になっていきました。 1950・60年代になると、旧琉球政府文化財保護委員会などによって復元事業が開始され、「守礼之邦」の扁額を掲げた坊門、守礼門や第二尚王統の菩提寺、円覚寺の総門などの文化遺産の復元がおこなわれてきました。 1972年の復帰後は、琉球大学の移転計画もあり、その跡地利用の計画が検討され、やがて首里城跡の復元整備事業が復帰後、本格的に推進されることになりました。 首里城は大まかに内郭と外郭二重の石垣によって構成されています。 1972年からはじまった沖縄県教育委員会が所管する首里城外郭の石垣修復事業では、首里城の表となる歓会門や久慶門などの城門とその接続石垣工事が1984年に完成しました。 その翌年から歓会門と久慶門内郭の復元整備が、首里城城郭等復元整備事業として継続されることになりました。 この事業はその後も継続的に実施され、東のアザナから南側城壁にかけて首里城外郭を時計の逆まわりに年次的に進められていきました。 こうして30年の歳月をかけ2002年4月、首里城の外郭をとりまく城壁の整備がすべて終了しました。 城郭内側の内郭の区域約4ヘクタールについては、沖縄県の本土復帰を記念する国の都市公園整備事業として、公園整備されることが閣議決定されました。 その公園整備の目玉となる首里城正殿の復元を含め、正殿・御庭ゾーンや城郭ゾーン、および大手城門ゾーンなどの整備なども進行しました。 さらに城郭外側の区域約14ヘクタールも県営公園事業として随時整備され、沖縄の本土復帰20周年にあたる1992年に、首里城正殿をはじめとする主要区域がよみがえることになりました。 1992年11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園しました。 現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられ、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われています。 2000年には「首里城跡」として他のグスクなどとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されました。 2006年4月6日には、日本100名城に選定され、約30年にわたる復元工事が2019年1月に完了しました。 そして、再建開始から40年目の2019年10月31日未明に火災が発生し、正殿と北殿、南殿が全焼しました。 これまでの、1453年、1660年、1709年、1945年の焼失に次いで、歴史上5度目の焼失となりました。 不慮の事故をきっかけとして、世界遺産としての顕著な普遍的価値の大きさが改めて4認識されるようになりました。 同時に、琉球の歴史と文化を見つめなおす機運も生まれてきました。 復元したばかりの貴重な建物を焼失したことは残念ですが、落胆し立ち止まることがあってはならないだろうといいます。第1章 首里城をとり戻せ/1 沖縄戦と首里城/2 首里城を復元せよ/3 よみがえる首里城/第2章 グスクの時代/1 先史時代の琉球/2 グスクの誕生/3 大交易時代/4 グスク時代の発展/5 三国分立から統一へ/第3章 琉球王国の象徴・首里城/1 首里城を鳥瞰する/2 復元整備に伴う正殿の発掘/3 王国の遺物たち/4 北殿と南殿/5 京の内/6 精巧優美な石垣/第4章 琉球王国の終焉と首里城/1 琉球王国の終焉/2 世界遺産になった首里城跡/3 焼失とこれから[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし][書籍のメール便同梱は2冊まで]/琉球王国の象徴 首里城[本/雑誌] (シリーズ「遺跡を学ぶ」) / 當眞嗣一/著【中古】 琉球王国の謎 世界遺産の島 / 武光 誠 / 青春出版社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2021.07.31
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19世紀の船乗りたちが恐怖したシ-サ-ペントやダイダロスモンスタ-、1977年に日本の漁船が引き上げたニュ-ネッシ-は、オオウミヘビや首長竜と言われました。 ”ダイオウイカvs.マッコウクジラ-図説・深海の怪物たち”(2021年4月 筑摩書房刊 北村 雄一著)を読みました。 まったく光が届かない深海に蠢いている想像を超える生物たちについて、その異様な姿と習性を迫力の描きおろしイラストで紹介しています。 200フィ-ト(60メ-トル)はありそうな巨大な体を持つヘがいる、と言われたようです。 太さは20フィ-ト(6メ-トル)を超え、ベルゲの海岸付近の岩礁や洞窟にすんでいます。 首からキュ-ビット(50センチ弱)ほどの長さの毛を垂らし、ウロコは鋭く、色は黒い。その眼は燃えるような光を放ちます。 このヘビは船乗りたちを恐れさせ、柱のように高く頭を持ち上げて人間をつかまえ、食べてしまいます。 奇妙な姿をした深海生物、奇怪なれど美しいその姿は、分厚い水に閉ざされて手が届きませんでした。 しかし2000年代以後、機械の発達で深海生物の写真撮影が可能となりました。 美しい深海生物の写真で本をつくることには需要があって、つくれば売れました。 売れるとわかれば皆が同じものをつくって売りますし、実際、類書が多く出ました。 たくさんつくれば値崩れが起こり、利潤を生み出せない投資は、今や重しとなって景気を低迷させます。 珍奇とパクリと投資と景気と不景気の循環。これが深海生物本にも起こりました。 しかも、数少なかった画像はすぐに使い尽くされてネタがなくなり、深海バブルは終わりをつげました。 とはいえ、画像にこだわるから尽きるだけで、ネタ自体はいくらでもあります。 たとえば深海生物の眼、これだけで本が一冊以上書けますし、チョウチンアンコウだけで一冊本を書くこともでき、あるいは伝説のオオウミヘビで本を書くこともできました。 今回、著者が書いたこの本は、オオウミヘビをテ-マにしているといいます。 北村雄一さんは1969年長野県生まれ、日本大学農獣医学部を卒業しました。 サイエンスライタ-兼イラストレ-タ-として、生物進化から天体まで幅広い分野で活躍しています。 主なテ-マは、系統学、進化、深海、恐竜、極限環境などで、2009年に科学ジャ-ナリスト賞大賞を受賞しています。 深海はその過酷な環境と広大な範囲のため、浅海と比べて観察・研究が困難であり、生物が存在するかどうかは長く不明でした。 イギリスの博物学者であるエドワ-ド・フォ-ブスは、1839年に行った調査船による観測結果を元に、深海無生物説を提唱しました。 しかし、その後の底引き網や海底ケ-ブルを用いた各国の調査により、深海から相次いで生物が採取され、この説はすぐに否定されました。 深海生物の存在を決定的に証明したのは、1872年から1876年にかけて行われた英国海軍のチャレンジャ-号による大規模な世界一周探検航海でした。 この航海がもたらした膨大な海洋学的研究成果をきっかけとして、各国の海洋調査は本格化し、深海魚研究の歴史も幕を開けました。 生身の人間が直接大深度に潜行することはできないため、深海探査には常に困難がつきまといます。 漁網中に混獲されたり、海岸に打ち上げられたりした深海魚も時として貴重な標本となりましたが、実際に生きている姿を伝える情報は損なわれていることが多かったです。 19世紀後半以降、ワイヤ-ロ-プや底引き網の改良により大深度 からの標本採取が可能になったものの、深海魚を直接観察することは依然容易ではありませんでした。 兵器としての潜水艦は第一次世界大戦時にはすでに実用化されていた一方で、学術目的での潜水機器開発は遅れていました。 1928年に有人の潜水球バチスフェアが開発され、ようやく深海魚の観察が可能になりました。 バチスフェアは無動力ではありましたが、深度923メ-トルまでの潜水に成功しました。 そして1948年に、オ-ギュスト・ピカ-ルにより自前の動力を有した深海探査艇、バチスカ-フが建造されました。 バチスカ-フは複数の後継機が作られ、深海魚の生態観察や大深度での標本採集に強力な手段を提供しました。 20世紀後半から現代にかけて、日本のしんかい6500、ロシアのミ-ル、フランスのノティ-ルおよびアメリカのアルビン号などにより、深海魚の生活様式・環境への適応についての情報が蓄積されつつあります。 海洋は大陸棚の縁を境として、陸に近い沿岸域と、陸から遠く離れた外洋に水平区分されます。 深海には光合成を行う植物のような基礎生産者が存在せず、深海生物のエネルギ-源となる有機物は主に浅海と陸地から供給されます。 このため、一般的に深海魚やほかの深海生物は陸に近い海域ほど多く、外洋に出るほど少なくなります。 また、熱帯域の外洋では対流が起きないため表層の生物が少なく、利用可能な堆積物に乏しい荒涼とした海底が広がることもあります。 底地形の特徴はそれぞれの地域によって異なり、底生性深海魚の分布に大きな影響を与えます。 一方で、深海中層の環境は比較的安定し均質であるため、遊泳性深海魚は広範囲な分布域を持つ種類が多いです。 太平洋、インド洋、大西洋すべてに分布する深海魚も少なくなく、汎存種とか汎世界種と呼ばれます。 遊泳性深海魚の生物群系は主に気候や大陸・島嶼地形の影響を受けながらおよそ20に分類され、これはほかの生物群と比較して著しく少ない区分数です。 海を深さによって鉛直方向に区分した場合、表層、中深層、漸深層、深海層、超深海層に分けられます。 この区分は漂泳区分帯と呼ばれることもあり、一般に中深層以深に主たる生息水深を持つ魚類が深海魚として扱われます。 中深層は水深200~1,000メ-トルで、光合成を行うには不充分ながらも、わずかに日光が届きます。 水温が急激に変化する層のほとんどがこの領域に存在し、その下には物理的に安定で変化の少ない深海独特の環境が広がっています。 中深層の遊泳性深海魚はこれまでに約750種類が知られています。 漸深層は水深1,000~3,000メ-トルで、光の届かない暗黒の世界です。 水温は2~5℃で安定している一方、生物が利用できる有機物の量は表層の5%にも満たず、深度とともに急速に減少していきます。 漸深層の遊泳性深海魚には、少なくとも200種が含まれます。 深海層は水深3,000~6,000メ-トルで、水温は1~2℃程度にまで下がり、ほとんど変化しなくなります。 300気圧を超える水圧は、生物の細胞活動に影響を与え、遊泳性深海魚はほとんど姿を消し、アシロ科・クサウオ科・ソコダラ科の底生魚が見られるのみです。 超深海層は6,000メ-トル以深で、海溝の深部に限られ、全海底面積の2%に満たないです。 水圧が600気圧を超えるこの海域に暮らす深海魚は、深海層と同様にソコダラ科、クサウオ科およびアシロ科に属するごく一部の底生魚しか知られていません。 100年以上前の19世紀、海で奇妙な怪物を目撃した報告が相次ぎました。 それは人間が知る既知の海洋生物ではありません。 見た目はヘビのようですが、しかしはるかに大きいのでオオウミヘビと呼ばれました。 オオウミヘビのことを英語ではシーサ-ペントとか、あるいはグレ-トシ-サ-ペントといいます。 サ-ペントは英語ではなく、ラテン語のセルベンスが由来で、セルペンスの意味はヘビです。 ですからシ-ザ-ペントをそのまま訳せばウミヘビになるのですが、単語としてはちょっと違います。 英語では喬虫類のウミヘビのことをシ-スネ-クと呼びます。 シ-ザ-ベンドを日本人はオオウミヘビと訳してしまいましたので、爬虫類のウミヘビと区別がつきにくくなりました。 しかし、元はスネ-クではなくてサ-ペントで、ヘビではない得体の知れない怪物という意味合いがありました。 そして、目撃談を丁寧に読むと、それらはダイオウイカとかリュウグウノツカイとか、深海大型生物の誤認であることが分かりました。 オオウミヘビ伝説は消えましたが、1980年代はまだその名残がありました。 当時の子供向け怪奇本に必ず登場した怪獣御三家は、ネッシ-、雪男、そしてオオウミヘビです。 このうち実在が確かなのはオオウミヘビだけであり、生物学の範躊、それも深海生物の範躊に入ります。 しかし、オオウミヘビのネタだけで一冊書くと、それはもう深海本ではなくなってしまいます。 ですからオオウミヘビの後は、チョウチンアンコウ、デメニギス、ダイオウグソクムシなどを語ります。 そして後半3分の1は、生きた化石である深海生物を取り上げます。 オウムガイ、コウモリダコ、シ-フカンス、これで一般の人たちが知る深海生物はほぼ網羅し尽くせます。 最後のシ-ラカンスでは、変化するものが生き残るという、ダ-ウィンの名言も解説するといいます。まえがき 第一章怪物と呼ばれた深海生物/1ダイオウイカ-”巨大海ヘビ”はマッコウクジラのディナ-/2ラブカ-ヘビの顔をした深海ザメ/3ミックリザメ-古代の巨大肉食魚の正統な後継者/4ウバザメ、メガマウス、ニュ-ネッシ--人は見たいものしか見えない/5リュウグウノツカイ-古代から想像力を刺激する容姿/6レプトケファルス幼生-巨大ウナギ伝説の起源 第二章想像を絶する深海の生態/7フビワアンコウ-極端に小さいオスの役割/8デメニギス-透明な頭と巨大目玉の超能力/9ダイオウグソクムシ-無個性という特殊能力 第三章生きた化石は深海にいる/10オウムガイ-貝がイカに進化する過程/11コウモリダコ-独自のニッチで1億6600万年/12シ-フカンス-ダ-ウィン進化論の神髄[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】新書 ≪政治・経済・社会≫ ダイオウイカvs.マッコウクジラ 図説・深海の怪物たち 【中古】afbダイオウイカはかく語りき【電子書籍】[ 城崎零 ]
2021.07.24
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大政奉還から150年の節目を迎えた平成29年、祖父・徳川慶喜公の存在にあらためて思いを馳せ、平成の初め頃から書き連ねていた本書の出版を決意したといいます。 ”徳川おてんば姫 ”(2018年6月 東京キララ社刊 井出 久美子著)を読みました。 江戸幕府最後の第15代将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍であった、徳川慶喜の七男・慶久の四女として生まれ、小石川第六天町の徳川邸の屋敷で生まれ育った、孫娘自身が綴る波乱万丈な”おてんば”自叙伝です。 大政奉還は、256年続いた江戸時代の終焉というだけでなく、700年近く続いた武家社会の終わりでもあります。 今の私たちの暮らしは、過去の歴史の積み重ねと、こうした大きな転換点の先に成り立っていることを忘れてはいけないと、昔のことを思い起こす機会が増えたそうです。 徳川慶喜は1837年生まれの江戸幕府第15代征夷大将軍で、在職は1867年1月10日から1868年1月3日でした。 江戸幕府最後の将軍であり、日本史上最後の征夷大将軍でした。 在任中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍で、最も長生きした将軍です。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に、将軍後見職や禁裏御守衛総督などの要職を務めました。 徳川宗家を相続した約4か月後に、第15代将軍に就任しました。 大政奉還や新政府軍への江戸開城を行ない、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となりました。 1888年に 静岡県の静岡城下の西草深に移住し、1897年に再び東京の巣鴨に移住しました。 1901年に小日向第六天町に移転し、1902年に公爵を受爵し、徳川宗家とは別に、徳川慶喜家の創設を許されました。 1908年に大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されました。 1910年に慶久に家督を譲って、貴族院議員を辞めて隠居しました。 1913年に死去し、勲一等旭日桐花大綬章を授与されました。 正室の美賀子は権大納言今出川公久の娘ですが、いったん関白一条忠香の養女となってから慶喜に嫁いだため、明治天皇の皇后となった忠香の三女一条美子の義姉にあたります。 この正室のとの間には1858年に生後5日で夭折した女子がいます。 明治になって誕生した10男11女はすべて、2人の側室新村信と中根幸との間に儲けた子女です。 徳川慶喜公爵家を継いだのは七男の慶久で、長女は昭和天皇の次弟高松宮宣仁親王に嫁いだ喜久子妃です。 慶久は1884年に静岡市葵区紺屋町の屋敷で生まれ、母は側室の新村信、初名は久でした。 宮川喜久蔵、次いで黒田幸兵衛のもとに預けられました。 1896年に妹英子とともに、静岡から東京に移り学習院に入学しました。 徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、1902年に父の偏諱をとり慶久と改名しました。 1906年に学習院高等科を卒業し、1908年に有栖川宮威仁親王の第二王女の實枝子と結婚しました。 實枝子は有栖川宮最後の王女で、次女・喜久子が有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚しました。 1910年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に貴族院議員となりました。 兄は徳川慶光、長女は慶子、次女は喜久子、三女は喜佐子で、四女が久美子です。 慶久は1922年に東京府東京市小石川区第六天町54番地の本邸で急死し、没後、正三位勲三等瑞宝章を追贈されました。 井出久美子さんは1922年に東京小石川区第六天町の徳川慶喜家に四女として生まれ、父は徳川慶久、母は有栖川宮家から嫁いだ實枝子です。 いまでは兄も姉たちも亡くなり、気がつけぱ、この屋敷のことを語れるのは自分だけとなってしまい、書き残し伝えるには今をおいてほかはないという思いで筆を進めたといいます。 武家社会が終わってもまだまだお家が何よりも重んじられていた時代に、徳川がどのような立場にあったか、第六天町の暮らしから学校生活、結婚、夫の戦死と再婚、華族制度の廃止後まで、覚えている出来事を書き綴ています。 生まれ育った家は、徳川慶喜終焉の地として知られている場所で、屋敷跡は現在、国際仏教学大学院大学の敷地になっています。 現住所は東京都文京区春日二丁目ですが、当時の町名にちなんでこの屋敷のことを「第六天」と呼んでいました。 今の春日通りと巻石通りの間、神田川へ向かって緩やかに下る高台にありました。 その頃は遠くに富士山も見え、広々としてとても静かなところだったそうです。 東側の新坂、西側の今井坂にはさまれ、新坂を下る向こう側には、金富尋常小学校がありました。 新坂を上り春日通りを進んだ先には、徳川家の菩提寺・伝通院がありました。 家康公の生母の於大の方や、秀忠公の長女の千姫が眠っています。 東に歩けば光圀公ゆかりの小石川後楽園もあり、いずれも史跡として当時の面影を今に伝えています。 慶喜公が、なぜ最期の地として第六天を選んだのかは、今になって気持ちを察することができるように感じるといいます。 江戸城を追われ、身一つで静岡に隠棲したけれども、やはり最期に暮らすのは江戸、とりわけ徳川に縁の深いこの地でと考えられたのではないでしょうか。 徳川邸は小石川区小日向第六天町五十四番地で、敷地西側の谷を挟んだ八番地には会津松平家がありました。 新坂を神田川に向かって下り、丸ノ内線の線路を渡った辺りが、当時の屋敷の正門です。 お客様はこの正門から、お客様以外の方は正門の脇の内玄関から、出入りの業者さんは勝手口のような別玄関からと、三つの玄関をそれぞれに使い分けていました。 久美子さんが生まれたのは1922年9月22日であしが、22日は慶喜公の月命日で、父慶久の月命日も22日のため、母が届け出を23日にしたといいます。 当時は病院での出産はほとんどなかったため、屋敷に有名なお産婆さんが来て取り上げてもらったといいます。 兄弟姉妹も同じお産婆さんだったそうです。 生まれた翌年の1923年に、関東一円を大地震が襲いました、 母と自分は第六天に残っていましたが、姉の喜久子と喜佐子、兄の慶光は、夏休みで葉山の別荘にいました。 別荘では、茅葺屋根の台所部分が崩壊し女中二人が生き埋めになってしまいましたが、どうにか無事に助け出されたとのことでした。 第六天でも、周囲の家には火災で大きな被害がありました。 屋敷は元々この場所にあった武家屋敷で、慶喜公が移り住んでからだいぶ増築・改築をしました。 住んでいた頃は、建物が1300坪ぐらい、そして広いお庭があり、敷地の広さは3400坪とされていました。 敷地の西側は石積みの急な崖があり、今も変わることなく当時の姿のまま残ってます。 北側は高台で、それぞれに庭が付いた戸建の家が長屋のような形で並んでいました。 ここは、家令の事務所や住居であったり、主治医や教師の住居として使われていました。 家令は江戸時代でいう筆頭家老のような存在で、事務や会計の管理、使用人を束ねる役など、屋敷の運営全般を取り仕切っていました。 戸建の南が屋敷の中の口で、使い走りの運転手や請願巡査の長屋がありました。 請願巡査とは、一般個人からの依頼で派遣された警察官です。 自分たちが暮らす屋敷はその南側にあり、敷地の中央でした。 屋敷には部屋と中庭がいくつもあり、延びた廊下は長く幾度も曲がり、お寺かお城を思わせる作りでした。 屋敷の南側は広い斜面のお庭になっていて、春には芝生の広場にクローバーやタンポポやレングが咲き乱れ、初夏はツツジの花が斜面を彩り、秋になると萩の花がそよぎました。 一つ上の姉の喜佐子と自分には八畳間と九畳間の部屋があてられ、二のお方と呼ばれていました。 後に高松宮妃殿下となった11歳上の姉の喜久子の部屋は一のお方と呼ばれ、西側の庭に面した洋間と十二畳の和室があり、その隣には母の部屋がありました。 父・慶久が早くに亡くなり女所帯でしたから、9つ違いの長男の慶光は普段屋敷には住まず、御修行所という町のしもた屋で、書生やお付きの者と暮らしていました。 日曜日だけ屋敷に戻って来ては、自分たちと遊んでくれました。 年子の姉の喜佐子と自分は、毎日の服までおそろいで何をするのも一緒で、まるで双子のように育てられ、お二方様と呼ぱれていました。 自分たちはとんでもないお転婆娘で、まるで男の子の兄弟みたいに石垣を駆け上ったり下りたり、鬼ごっこをして庭中を走り回って遊んだといいます。 久美子さんは1941年に旧福井藩の当主で侯爵松平康昌氏の長男である康愛氏と結婚しました。 康昌氏は1893年生まれ、昭和期の日本の華族、官僚で、旧福井藩主家第19代当主でした。 従二位勲一等侯爵で、明治大学政治経済学部教授や相模女子大学学長を務めました。 夫康愛氏は海軍将校として、結婚から3か月後には軍隊生活で、当初は、月に1~2回は自宅に戻ってきていました。 1942年に男児を出産しましたが、男児は2日後に亡くなったそうです。 当時の食糧・医療事情の不安定さが分かります。 その後、1944年に長女を無事出産しましたが、戦局が悪化し東京都八王子市に疎開しました。 幼子を抱えて農作業に薪割り水汲みをこなし、出征した夫の帰りを待つ日々でした。 しかし、終戦の翌年届いたのは、夫戦死の報告でした。 夫と死別した当時、久美子さんはまだ20代前半で。当時の慣習で本人の意志と関わらず再婚話が出てきました。 結局、夫の友人で復員した医師の井手次郎さんと1947年に再婚しました。 一方、前の婚家である松平家が、血筋を絶やさないために、長女を引き取ったといいます。 久美子さんも徳川家の人間で、家の重みは十分理解していましたので、涙を呑んで自分だけが離籍したそうです。 2年ほどして次郎さんは横浜市の下町で開業し。忙しいときは久美子さんも手伝ったといいます。 喧嘩のケガ人が駆け込んでくるような現場でしたが、持ち前の順応性ですぐに慣れました。 とはいえ、酔っ払いがいたり娼館があったりと良い環境ではなく、長男の淳さんも生まれたので、2年たらずでその医院は閉めました。 その後は喜久子妃殿下のはからいで、高松宮邸内の官舎に移り、その中に医院を開設し、夫は生涯現役を貫きました。 その医院の閉院後は、千葉県で団地住まいをして、デイサービスに通いつつ、静かな余生を暮らしました。 2004年に次郎さんが死去し、2018年に96歳で本書を出版して作家デビューしました。 そして、発刊から1か月後、 ホッとしたように静かな眠りにつきました。 本書の最後に、著者の息子の井出純さんが謝辞を述べています。 母が執筆を思い立ってから10数年、書き進めては休み、しばらく休んでは再開し、文藝春秋社から東京キララ社様に制作のバトンを引き継いで頂き、ようやく完成までたどり着いたといいます。はじめに/第一章 第六天の暮らし/慶喜終焉の地、小日向第六天町/第六天の子供たち/「表」と「奥」の五十人/第六天のお正月/御授爵記念日/おとと様とおたた様/第二章 学校生活/おひい様の学校/「金剛石 水は器」/やりにくい歴史の授業/修辞会、体操会、遠足/御當日/葉山と軽井沢の夏休み/有栖川御流/絵と写真/第三章 結婚と戦争/結婚/新婚生活と戦争の足音/太平洋戦争の開戦/長男・長女の誕生と出征/疎開と空襲/終戦/戦死の知らせ/不思議な巡り合わせと娘との別れ/『精強261空〝虎〟部隊サイパンに死すとも』/第四章 戦後を生きる/再婚・目白での大家族暮らし/横浜の下町で開業/高松宮邸/世が世なら/高輪での暮らし/井手八景/殿下・妃殿下との思い出/第六天再訪/謝辞[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]徳川おてんば姫 [単行本] 井手 久美子9784903883298【中古】【中古】わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔 徳川慶喜家にようこそ (文春文庫) /徳川 慶朝
2021.07.17
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東海道・山陽新幹線は1964年にデビューした0系電車が改良を重ねながら製造され続けていましたが、1980年代に入ると古くささが否めなくなりました。 そこで新幹線のイメージアップを目的に、全体の構成やデザイン、車内設備を大幅に変えた新型車両を導入することになり、1985年に100系電車がデビューしました。 ”新幹線100系物語”(2021年4月 筑摩書房刊 福原 俊一著)を読みました。 国鉄最後の名車として知られ、2012年の引退後も根強い人気を誇る新幹線100系について、綿密な取材をベースに、民営化前後の激動の時代に設計開発・計画・運転・保守に打ち込んだ、鉄道マンたちの熱い思いを伝えています。 新幹線100系は、新幹線のイメージを大きく変えた電車で、青と白の塗装や5列の座席は0系を踏襲しつつ、先頭のデザインはシャープなものになりました。 さらに、2階建て車や個室も導入し、サービス面でも大きく進化しました。 16両編成中に2両が連結され、このうち1両は食堂車で、1階に厨房があり、2階の食堂は車窓を楽しみながら食事できるよう、大きな窓が設けられました。 もう1両はグリーン車で、1階には新幹線初の個室を設置。食事のルームサービスを頼め、グレードの高いサービスが提供されていました。 また、客室内には停車駅案内やニュース、天気予報などの情報を提供する電光掲示板を設置し、音楽やラジオ番組の配信サービスも提供し、グリーン車は座席にオーディオ装置を設置しました。 いまの新幹線で当たり前のように提供されているサービスも、この100系から始まっています。 福原俊一さんは1953年東京都生まれで、武蔵工業大学経営工学科を卒業し、東芝の子会社に勤務してきました。 鉄道とは別のエンジニアの仕事をする傍ら、電車の発達史を研究し、2013年に会社を定年で退職しました。 幼少期から鉄道に興味を抱き、5歳のときに投入された国鉄181系電車に魅せられたことが鉄道をライフワークにするきっかけとなり、昭和50年代から鉄道雑誌などに寄稿を続けてきたそうです。 電車の技術史や変遷を体系立てて調査し、車両研究をライフワークとして取組んでいます。 00系は、かつて日本国有鉄道と本系列を承継した東海旅客鉄道(JR東海)・西日本旅客鉄道(JR西日本)が設計製造した、東海道・山陽新幹線の第2世代営業用新幹線電車です。 1970年代になると、1964年の東海道新幹線開業時から運用されていた0系車両の中には、経年劣化が生じ始めました。 その原因は、安全・快適な高速走行のための技術的特徴が盛り込まれた車両を、高速かつ高頻度によって運行する新幹線の運行形態そのものにありました。 0系車両では快適性のために気密構造を採用しましたが、列車同士のすれ違いやトンネルの出入りで生じる圧力の繰り返しによって、金属疲労のために車体の気密性が保てなくなりました。 0系車両が初めて設計された営業用の新幹線車両であることや、新幹線自体が高速列車を長期間運用した最初の事例でもあったことから、予期しがたいものでした。 この状況に合わせ、国鉄は0系の廃車基準を製造後13年と設定し、古い0系車両は新造した0系車両によって置き換えられました。 この時点で新形式の投入が行われなかったのには、国鉄の経営状況悪化や労使問題などが影響しました。 それに加え、当時0系は車両の経年数が揃っていない編成が運用されていて、既存の車両と混成・編成替えを行う場面における互換性に対して配慮されました。 このような経年数の不揃いな編成が生じたのは、開業以来0系の増備が続いたという導入初期特有の事情もありました。 幹線車両に起こりうる事象が0系の運用経験からある程度把握できるようになってきた一方、0系の基本となるデザイン・内装は1964年の登場当初のままであったため、何度かマイナーチェンジを経ました。 とはいえ、陳腐化の印象は否めなくなり、新幹線博多開業の際に編成単位で大量増備された車両の取換準備車両が必要となることも契機となり、モデルチェンジの機運が高まりました。 そこで、0系の設計を改めたモデルチェンジ車の検討が1980年頃から始まりました。 100系は、東海道新幹線開業以来活躍を続けた0系から20年ぶりのモデルチェンジ車として、1985年に誕生しました。 1987年の国鉄民営化を目前に控えた大きな潮流のなか、100系は国鉄・メーカ技術陣が背水の陣で設計・開発に臨んだ車両でした。 お客様第一の設計思想が貫かれただけでなく、エクステリア・インテリアデザインに部外の工業デザイナーが本格的に参加した車両で、ビジネスライクな新幹線に旅の楽しさを提供した車両でもありました。 民営化後に東海道・山陽新幹線を承継したJR東海・西日本が増備した100系は、カフェテリア車、グランドひかりなど、新生JRのイメージアップに大きく貢献しました。 そして民営化間もない時期に100系を舞台としたJR東海のエクスプレス・キャンペーンは、日本のCM市場に一大金字塔を打ち立てました。 しかし黄金時代が短いのは世の常で、100系誕生の7年後には走行機能全般の改良をはじめ、最高速度270 km/h を実現した300系が誕生し、主役の座を後継車両に譲ることになりました。 100系は0系と300系の間にはさまれ、技術的にはつなぎの車両だったように見えなくもありませんが、国鉄末期から民営化初期にかけてのフラッグシップトレインとして輝きを見せました。 鉄道関係のニュースサイトのアンケート結果では、もう一度乗りたい新幹線電車は100系が1位で、歴代車両のなかで一番華やかな存在だったなどの意見が寄せられたといいます。 2階建て食堂車・グリーン車を組み入れて富士山麓を颯爽と駆け抜ける姿は絵になる存在で、100系は記録よりも人々の記憶に残る名車だったことは間違いありません。 そんな名車の足跡を、基礎資料や関係者への聞取りを基軸にまとめたのが本書です。 第1章では、1964年の東海道新幹線開業以来増備が続けられた0系の後継車両として、2階建て車両を組み入れたモデルチェンジ車の構想がスタートした当時の背景、そして検討の経過が紹介されています。 第2章では、それまでの0系では回転できなかった普通車3人掛シートを回転可能にし、食堂車1両で構想がスタートした2階建て車両がグリーン車1両を2階建て車両(16両編成で2両)に変更した経緯などがs紹介されています。 第3章では、0系をブラッシュアップした先頭形状と外部色決定の経緯、コスト低減を追求した主回路システム選定の経緯などが紹介されています。 第4章では、1985年3月に完成した100系第1陣の量産先行車が、10月から営業運転が開始された経緯や、専任担当試験科の発足、営業運転開始後の初期トラブル克服、お召列車運転の経緯などが紹介されています。 第5章では、民営化後の投入予定を民営化までに前倒して投入されたなった経緯、大窓など量産車の設計変更の経緯、新幹線の速度向上と100系量産車の営業運転、1986年11月ダイヤ改正の経緯などが紹介されています。 第6章では、100系を舞台にしたシンデレラ・エクスプレス、クリスマス・エクスプレスなどエクスプレス・キャンペーンの経緯や、一連のキャンペーンを企画した担当者の思いなどが紹介されています。 第7章では、JR東海・西日本が増備した100系カフェテリア編成とグランドひかりが誕生するまでの経緯、そして100系の全盛期だった92年3月ダイヤ改正までの動向が紹介されています。 第8章では、のぞみが運転を開始し100系がわき役に押しやられる契機となった1993年3月ダイヤ改正、その後、最後まで残った山陽こだま運用からも引退し、営業運転を終える2012年3月ダイヤ改正までの動向が紹介されています。 100系は国鉄民営化前後、つまり1980年代後半から1990年代前半という日本に活気のあった時代に光り輝いた車両でした。 その足跡の一端を本書から読み取っていただければ幸いであるといいます。第1章 新幹線モデルチェンジ車の構想/第2章 100系新幹線電車の構想/第3章 100系新幹線電車の開発/第4章 100系量産先行車の営業運転開始/第5章 100系量産車の誕生と国鉄最後のダイヤ改正/第6章 エクスプレス・キャンペーンの主役100系/第7章 100系新幹線電車の進展/第8章 のぞみ時代の100系[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]新幹線100系物語【電子書籍】[ 福原俊一 ]【中古】新幹線100系乗りつぶし・食べつくし物語 /成山堂書店/小川修(単行本)
2021.07.10
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大友義鎮は、1550年に家督を継ぎ,のち北九州6ヵ国の守護となり,大友氏の最盛期を築きました。 ”大友義鎮 国君、以道愛人、施仁発政”(2021年1月 ミネルヴァ書房刊 鹿毛 敏夫著)を読みました。 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、戦国大名、キリシタン大名として知られ、宗麟の法号を持つ、大友氏21代当主の義鎮の生涯を紹介しています。 大友義鎮は、1530年に大友氏20代当主の大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれました。 傅役は重臣の入田親誠が務め、幼名は塩法師丸と言いました。 1540年2月3日に元服し、室町幕府の第12代将軍の足利義晴から、一字拝領を受け義鎮と名乗りました。 守護公権力として領土と領海の統治に邁進し、ヨーロッパから訪れた未知なる宗教の宣教師や、外交交渉のために来日したアジアの国家使節に果敢に向き合いました。 キリスト教に帰依しキリシタンを保護し,ポルトガル貿易を行い,府内、今の大分市を西洋文化の中心地としました。 1582年に大村氏、有馬氏とともに、天正遣欧使節を派遣しました。 鹿毛敏夫さんは1963年大分県生まれ、1986年に広島大学文学部史学科国史学専攻を卒業し、大分県立大分雄城台高等学校、森高等学校の講師、教諭を務めました。 1997年に大分県立先哲史料館研究員、主任研究員となり、2005年に九州大学大学院人文科学府日本史学専修博士後期課程を修了しました。 2005年に国立新居浜工業高等専門学校助教授、2007年に准教授、2013年に教授、2015年に名古屋学院大学国際文化学部教授、2016年に大学院外国語学研究科教授となりました。 文学博士で、専攻は日本中世史です。 大友義鎮は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、戦国大名、キリシタン大名、大友氏21代当主で、宗麟の法号で知られ、洗礼名はドン・フランシスコです。 弟に大内義長、塩市丸、親貞など、子に義統(吉統)、親家、親盛などがいます。 大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、少弐氏・島津氏と共に九州の幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の九州進出に対し、少弐氏と結び大内氏と抗争していました。 大友氏は豊後国と筑後国の守護に幕府より代々補任される、いわゆる守護大名でした。 父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘とする説があります。 義鎮は20歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策して、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を企みました。 この動きを察知した義鎮派重臣が反撃を起こし、1550年2月10日に塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷して2月12日に死去しました。 義鑑の遺言により義鎮が家督を相続し、大友氏21代目の当主となりました。 1551年に周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により敗走自害すると、陶隆房の申し出を受けた義鎮は、実弟の晴英を大内氏の新当主として送り込みました。 筑前博多の支配権を得たことは、大友氏に多大な利益をもたらしました。 1557年に連合で派遣した遣明船で、義鎮は大内氏所有の「日本国王」印を用いて朝貢しました。 また、肥後国での復権を目論む叔父の菊池義武の蜂起を退け、菊池氏を滅亡させて肥後国も手中にしました。 さらに少弐氏や肥前国人の竜造寺氏に勝利し、1554年に肥前国の守護にも任じられました。 しかし父の死以降の大友氏家臣中には軋轢が残っており、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してキリスト教布教を許可したことが、大友家臣団内の宗教対立に結び付きました。 1557年に実弟の大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し、大内氏が滅亡すると、大友氏は長門周防方面への影響力を失いました。 長門周防の旧大内氏領土を併呑した毛利氏が北九州に進出してくると、義鎮はこれと対立し、毛利氏と内通した筑前国の秋月文種を滅ぼし、北九州における旧大内領を確保することに成功しました。 従来から大友氏は室町幕府将軍家との関係を強化していましたが、1559年に足利義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国・筑前国両国の守護職に任ぜられ、同年11月には九州探題に補任されました。 1560年に左衛門督に任官され、義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を勝ち取りました。 しかし1562年に門司城の戦いで毛利元就に敗れ、同年に出家し休庵宗麟と号しました。 その後も足利将軍家に多大な援助を続け、1563年に義輝の相伴衆に任ぜられました。 1565年に義輝が家臣の謀反により没し、1568年に弟の足利義昭が新将軍となりました。 毛利氏は山陰地方の仇敵の尼子氏を滅ぼし、再び北九州へ食指を伸ばすようになり和睦は反故となりました。 1567年に豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起し、これに大友氏重臣の高橋鑑種も加わるという事態が起こりましたが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させました。 1569年に肥前国で勢力を拡大しつつあった龍造寺隆信を制するため、自ら軍勢を率いて筑後・肥前へ討伐に向かいましたが、毛利氏が筑前国に侵攻してきたため慌てて撤退しました。 義鎮は重臣の吉岡長増の進言を受け、大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け、周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を九州から撤退へと追い込みました。 1570年に再度肥前国に侵攻しましたが、龍造寺隆信に今山の戦いで敗れ弟の親貞が戦死しました。 その後大友氏は肥前国や筑後国の反龍造寺勢力を扇動し支援することで対抗しましたが、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできませんでした。 1574年に京都で織田信長が将軍足利義昭との抗争に勝利し、義昭は京を追放されて山陽地方に下り毛利氏の庇護を受けました。 1576年に、宗麟は家督を長男の義統に譲って隠居しましたが、しばらくの間は宗麟と義統との共同統治が行われていました。 1577年に、薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始し、大友氏は宗麟も出陣しましたが耳川の戦いで大敗しました。 耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの勢力拡大もあり、大友氏の領土は侵食されていきました。 1584年の沖田畷の戦いにて、龍造寺隆信が島津義久の弟の島津家久に敗北を喫し戦死すると、大友氏は立花道雪に命じて筑後国侵攻を行い、筑後国の大半を奪回しました。 しかし翌年に道雪が病死し同地での求心力を失い、これを好機と見た島津義久は北上を始めました。 1586年に宗麟は上方へ向かい、中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見することに成功しました。 宗麟は大友氏が豊臣傘下になることと引き換えに、軍事的支援を懇願しましたが、島津義久はその後も大友領へ侵攻しました。 個々の拠点をかろうじて防衛しているだけで、豊後は島津氏に蹂躙され、大友家は滅亡寸前にまで追い詰められました。 1587年に、毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤らの軍勢と豊臣秀長の軍勢が合流し、さらに豊臣秀吉軍の本隊が九州に入り、総勢10万の軍勢が九州に上陸しました。 同年4月の根白坂の戦いにおいて、1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を堅守し、これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥りました。 やがて、豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが、島津軍と衝突して島津軍は甚大な損害を出して敗走しました。 この戦いにより豊臣氏は権威を回復し、秀吉による九州平定を盤石なものにした上、窮地に陥っている大友氏を救いました。 宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死しました。 豊後大友氏の研究はすでに1980年代までに、渡辺澄夫、芥川龍男、外山幹夫の三氏による重厚な研究著書が刊行されています。 その成果は、豊後の中世史像を明らかにしたとともに、日本の大名領国制研究の発展に大きく寄与したことはいうまでもありません。 しかし、20世紀から21世紀への転換をはさんだこの数十年で、その研究環境は激変しました。 大友館と府内の発掘現場では、今この瞬間にも調査が進められていて、そこでは膨大な量の遺構と遺物が出土し、年度末には毎年数百頁におよぶ発掘調査報告書が刊行されてきました。 文献史学の研究者は、もはやこの考古学的成果を無視して論文を書くことはできませんし、考古学の研究者もまた、出土遺物を文献に照らし合わせてその位置づけを判断しなければなりません。 世紀末をはさんだ研究フィールドの環境的激変は、文献・考古・城郭などの細分化された専門分野の垣根を乗り越え、それらを横断し、総合する形での科学的分析を要請しています。 大友氏に関する「伝説の世界」と「迷信の世界」はいまだ根深く、それを打破するにはこの先も数十年の時間を要しそうだといいます。 大友氏研究の難しさは、こうした後世の二次的編纂物による流言の根深さのみならず、16世紀東アジアでの布教活動の成果を本国に伝える意図で作成されたイエズス会関連諸史料の扱いとも関わります。 宗教というバイアスがかかった史料の記述をそのまま鵜呑みして書かれた概説書や時代小説によって、混迷せるキリシタン大名=大友義鎮という悩ましいイメージが定着してしまったのです。 歴史研究者は、社会の人々が抱く歴史へのイメージに責任をとらねばならず、史実に近づく道程は果てしなく遠いです。 様々な可能性を秘めた大友氏の歴史遺産を、分野や世代を超越した学際的チームとして調査・分析していく歩みを続けていく必要があろうといいます。序章 大友氏の史的背景と研究史/第1章 大友氏の歴代当主/第2章 領国の拠点/第3章 領国の統治/第4章 経済政策/第5章 硫黄・鉄砲と「唐人」/第6章 建築と絵画への造詣/第7章 アジア外交と貿易政策/第8章 西欧文化の受容と評価/第9章 東南アジア外交の開始と競合/終章 義鎮の政治姿勢と経営感覚[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]大友義鎮 国君、以道愛人、施仁発政<毛利氏と戦国時代>毛利氏の宿敵 大友義鎮と山中鹿介【電子書籍】[ 森本繁 ]
2021.07.03
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