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宇喜多秀家は直家の子で、豊臣秀吉に召されて武将となり,四国,九州,小田原攻めに軍功を立て、文禄・慶長の役には朝鮮で活躍しました。 ”宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性”(2020年9月 平凡社刊 大西 泰正著)を読みました。 若くして豊臣政権の五大老に大抜擢された宇喜多秀家の生涯を紹介しています。 15世紀末から16世紀末、室町幕府が完全に失墜し、守護大名に代わって全国で戦国大名が勢力を増しました。 日本史上の中でも戦国時代は、現代においてもなお伝説的な武将が多く存在しています。 宇喜多氏は備前国の戦国大名で、本来は、地形に由来する浮田姓ですが、嫡流は佳字を当て宇喜多または宇喜田、庶流は本来の浮田を称しました。 宇喜多氏の出自について確実なことは不詳で、多くの戦国大名同様に諸説があります。 一般には出自に諸説有る備前三宅氏の後裔とされますが、宇喜多氏自身は百済王族子孫や平朝臣を名乗っていました。 広く一般に敷衍している通説で、百済の3人の王子が備前の島に漂着し、その旗紋から漂着した島を児島と呼びならわしたそうです。 後に三宅を姓とし、鎌倉期には佐々木氏に仕え、その一流が宇喜多や浮田を名乗ったとする説があります。 応仁の乱とそれに続く長い抗争を経て、赤松氏は山名氏を排して播磨・備前・美作の支配を守護として取り戻していきました。 宇喜多氏はまだ山名氏の影響が残る文明期に、宇喜多寶昌と宇喜多宗家の名が西大寺周辺の金岡東荘に権益を持つ土豪として文献に表れています。 当初は緩やかに赤松氏の支配に属する在地領主でしたが、赤松政権内での守護代別所氏と浦上氏の主導権争い、さらに浦上村宗による下剋上の動きの中で浦上氏との紐帯を深めました。 その軍事力を認められ宇喜多久家の子能家は浦上氏の股肱の臣として活動し、多くの戦功を立てました。 しかし、浦上村宗の死もあっていったん没落し、能家も殺害されました。 能家の孫直家は、浦上宗景の傘下の国衆として台頭し、縁戚をも含めた備前の豪族を次々と滅ぼし、宗景と時に敵対し、時に協力しつつ浦上氏を圧迫するまでに成長しました。 美作に進出した備中の三村家親に対して、正攻法を避けて鉄砲による暗殺に成功しました。 三村氏とは数度に亘り干戈を交えましたが、ついには備前に進行した三村軍を撃退しました。 その後、安芸の毛利氏と結び、浦上氏や備中の三村氏に対抗し、三村氏を毛利氏が滅ぼした後、毛利氏の余勢を借りて主家であった浦上氏を滅ぼしました。 東より押し寄せる織田氏に対し、初めは抵抗していましたが、羽柴秀吉の誘降を受けて織田方に寝返りました。 毛利氏・織田氏の勢力争いに乗じて才覚を発揮し、ついに備前一国に飽き足らず、備中の一部や播磨の一部・美作などにまで勢力を広げました。 直家の子秀家は、父直家が死んだときまだ幼かったため秀吉に育てられ、本能寺の変後に政権を握った秀吉のもとで直家の遺領を安堵され、備前岡山城主となりました。 秀吉の晩年期には、秀家は五大老の一人となり、備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領し、徳川・上杉・毛利・前田・島津・伊達に次ぐ第七位の大大名で、その絶頂期を迎えました。 大西泰正さんは1982年岡山県生まれ、2007年 に京都教育大学大学院を修了し、専門は織豊期政治史で。現在、石川県金沢城調査研究所所員を務めています。 金沢城調査研究所は、加賀藩の政治・文化・経済において中心的役割を果たした金沢城について、文献・絵画資料、遺構・遺物資料、伝統技術資料等、総合的な調査研究等を行っています。 宇喜多秀家は1572年に、備前国岡山城主の宇喜多直家の次男として生まれました。 1581年に父・直家が病死し、1582年に織田信長の計らいにより本領を安堵され家督を継ぎました。 信長の命令によって中国遠征を進めていた羽柴秀吉の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力しました。 ただし、秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理として軍の指揮を執り、宇喜多三老ら直家以来の重臣たちが秀家を補佐しました。 同年6月2日、秀家11歳の時、本能寺の変が起こって信長が死去しました。 このため、秀吉と毛利輝元は和睦することとなり、秀家はこの時の所領安堵によって備中東部から美作・備前を領有する大名になり、毛利氏の監視役を務めることとなりました。 元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗り秀吉の寵愛を受けて猶子となりました。 1584年に、小牧・長久手の戦いで大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退しました。 1585年に、紀州征伐に参加したのち、四国攻めでは讃岐へ上陸後、阿波戦線に加わりました。 1586年に、九州征伐にも豊臣秀長のもと、毛利輝元や宮部継潤、藤堂高虎とともに日向戦線に参加しました。 1587年に、秀吉より、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられました。 1588年に、豊臣秀吉の養女・豪姫を正室に迎え、外様ではありますが秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなりました。 1590年に、小田原征伐にも参加して豊臣政権を支えました。 1592年に、文禄の役の大将として出陣し。李氏朝鮮の都・漢城に入って京畿道の平定にあたりました。 1593年1月に、李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを破り、6月には晋州城攻略を果たしました。 1594年5月20日に、朝鮮での功により、参議から従三位・権中納言に昇叙しました。 1597年に、慶長の役では毛利秀元と共に監軍として再渡海し、左軍の指揮を執って南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道、忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍しました。 1598年に日本へ帰国し、秀吉によって五大老の一人に任じられました。 1600年に、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将として福島正則らと死闘を繰り広げましたが、小早川秀秋の裏切りによって瞬く間に敗北を喫し、家康によって改易の憂き目に遭いました。 1606年に、史上初の流人として八丈島へ配流となりました。 そして、1655年に八丈島にて死去しました。 16世紀の終末期、豊臣秀吉が樹立した我が国全土を支配下におく政治権力は、一般的に豊臣政権と呼ばれます。 徳川家康が関ヶ原合戦に勝利して徳川幕府成立の素地を固めた1600年、あるいは家康が征夷大将軍に就任して幕府を開いた1603年をその終期とみれば、秀吉の旧主織田信長の横死から数えても、豊臣政権の存在期間はわずか20年程度でした。 そのわずかな期間の、さらに一時期、政権の意思決定は、複数の有力大名に委ねられました。 1598年8月18日、専制をほしいままにした秀吉が伏見城にて病没しました。 残された後継者秀頼は6歳の幼児に過ぎないため、関ヶ原合戦までの約2年、秀頼の代行を5人の「大老」や5人の「奉行」が務めましたが、「奉行」よりも「大老」の方がはるかに格上でした。 ほんの一時期ですが、徳川家康・前田利家・字喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五人の「大老」が国政を左右しました。 しかし、備前岡山の大名字喜多秀家は、関ケ原合戦に敗れて没落し、大名としての字喜多氏は滅亡しました。 そのため関係史料は散逸し、具体的な動向もほとんど追究されず、一般的にも著名とはいいづらいです。 豊臣政権の最高幹部であったにもかかわらず、秀家という人物は事実関係の多くが不明のまま、歴史的に正しく評価される機会を逸してきました。 豊臣政権の構造や、政権にまつわる事実関係を解き明かすには、家康・利家らへの注目に加えて、秀家の動静を具体的に見定め、その知見を議論に組み込む必要があるでしょう。 ひるがえっていえば、秀家に視点を据えた検討が、新たな歴史像、豊臣政権像を切り開く可能性をもっているといいます。 秀家は一地方大名にとどまらず、豊臣政権の「大老」として、短期間とはいえ、16世紀末の日本の国政に深く関わった重要人物です。 しかし、近年にいたるまでその足跡は、不明確な伝承をベースに、あいまいに語られるのが通例でした。 秀家と宇喜多氏についての研究自体のこうした停滞は、関係史料、特に同時代史料の残存数の絶対的不足にあるとみられ、筆者もまた、近年までそう考えてきたといいます。 したがって、秀家の経歴も特に厳密な検証を経ることなく、近世以来の各種伝承が通説として語られている場合が少なくありません。 たとえば、①呼称、②元服の時期、③婚姻の時期という秀家の基本的情報についてすら諸説紛々です。 おおむね20世紀段階では、①呼称は幼名=八郎、②元服の時期=天正13年(1585)3月、③婚姻の時期=天正17年春、という理解が通説といえます。 論拠はいずれも、岡山藩士土肥経平の編著「備前軍記」という編纂史料のようです。 そこで、同時代史料の断片と各種の編纂史料を比較検討すると、①幼名=八郎説には特段の問題はない。八郎を通称のように用いた形跡もありますが、②元服の時期が不明確な以上、これを幼名でなく通称とのみ断ずるのは不適切でしょう。 「八郎という幼名が通称としても用いられた」と想定すべきではないのでないでしょうか。 ②元服の時期はいま述べたように定かでありません。 天正13年説は、「備前軍記」でしか確認できないからか、近年は言及が避けられています。 ③婚姻の時期は、筆者が同時代史料を検証して、天正16年正月以前に絞り込みました。 ちなみに、②の元服と③の婚姻の年代について、現在の筆者は天正15年の可能性を探っているといいます。 第一章では、秀家がなぜ豊臣政権の「大老」にまで立身できたのかを、4つの理由から解き明かします。 第二章では、秀家による家臣団統制について考えます。 第三章では、大名字喜多氏の内紛、字喜多騒動について熟考します。 第四章では、関ヶ原敗戦後、なぜ秀家が生きのびることができたのか、を考えます。はじめに/第一章 豊臣政権と「大老」秀家/第二章 二つの集団指導/第三章 宇喜多騒動の実像/第四章 秀家はなぜ助命されたのか/おわりに/史料出典一覧/主要参考文献/宇喜多秀家関連年表[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性/大西泰正【1000円以上送料無料】<戦国時代>“秀”の字を継ぐもの 宇喜多秀家の生き方【電子書籍】[ 大野信長 ]
2021.10.30
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南蛮貿易によりキリスト教が布教され、1605年の日本の信者数は75万人ともいわれます。 加賀でも高山右近の影響で多くの大名が信者となり、前田利常の時代にも多くのキリシタン藩士を抱えましたが、バテレン追放令により表向きは棄教しました。 ”古九谷の暗号 加賀藩主・前田利常がつくった洗礼盤”(2019年1月 現代書館刊 孫崎 紀子著)を読みました。 古九谷と前田利常と洗礼盤の3つを手掛かりに、大村・長崎と共にキリスト教の三大布教地だった、加賀藩ゆかりの古九谷の平鉢はそもそも食器などではなく、実はキリシタンの洗礼盤だったといいます。 利常は自分のために犯した大坂の陣等の罪の洗礼ができるよう、キリシタンのシンボルを忍ばせた古九谷の絵皿=洗礼盤を藩士に贈ったといいます。 キリスト教会には、洗礼の儀式を行うための聖堂に付属した洗礼堂があり、それは古くは矩形の小さな一室で,アプスの部分に洗礼盤が置かれていました。 アプスは壁面に穿たれた半円形、または多角形に窪んだ部分です。 4世紀頃からドームをもつ建造が始められ,通例そのプランは八角形でした。 これは完全なる数7の次の数をとったもので,洗礼によってキリスト教徒としての生活が始ることを象徴しました。 10世紀までは成人に対する浸水洗礼を行うものだったため,水槽を備え,しばしば聖堂から独立して豪華な装飾を施した壮大なものも建てられました。 しかし、幼児洗礼の一般化でイタリア以外は小規模化し,次第に聖堂内部の一小室に移り,さらに洗礼盤が置かれるだけとなりました。 洗礼盤は洗礼の用聖水の容器で、東方教会では重要ではありませんでしたが、西方教会において特に浸礼よりも灌水が一般的となった11世紀頃より用いられるようになりました。 石,大理石,金属,木などでつくられ,通例聖堂内部の正面入口近くに置かれました。 孫崎紀子さんは1948年生まれ、金沢大学薬学部を卒業し、同医学部附属ガン研究所助手を経て、1971年に結婚後、外交官である夫と共に、ロンドン、モスクワ、ボストン、バグダード、オタワ、タシケント、テヘランに住みました。 2014年から2017年まで、上智大学・山岡三治教授の文学研究科文化交渉学特講の講師を務めました。 九谷焼は石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の五彩手、通称、九谷五彩という色鮮やかな上絵付けが特徴の磁器です。 古九谷は江戸時代に、加賀藩支藩の大聖寺藩領九谷村で、良質の陶石が発見されたのを機に始まりました。 藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後、1655年頃に、藩の殖産政策として始められましたが、約50年後に突然廃窯となりました。 窯跡は加賀市山中温泉九谷町に、1号窯、2号窯と呼ばれる2つが残っています。 廃窯から約1世紀後、1807年に加賀藩が京都から青木木米を招き、金沢の春日山に春日山窯を開かせました。 これを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立ち、これらの窯の製品を再興九谷といいます。 同じ頃、能美郡の花坂山で新たな陶石が発見され、今日まで主要な採石場となりました。 1816年に寺井村で生まれた九谷庄三は、17歳の時に小野窯に陶匠として招聘され、能登の火打谷で能登呉須と呼ばれる顔料を発見しました。 後の九谷焼に多大な影響を与え、26歳で故郷に戻り寺井窯を開き、西洋から入った顔料を早い時期から取り入れて彩色金欄手を確立しました。 明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、新久谷として欧米で人気を集めました。 1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時に、西洋の技法も入り込みました。 1872年頃から型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ1892年頃から、獅子をはじめとする置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進みました。 前田利常は、1594年に加賀藩祖・前田利家の庶子四男として生まれました。 母は側室の千代保、寿福院で、利家56歳の時の子です。 下級武士の娘であった千代保は、侍女として特派されましたが、その際に利家の手がついて利常が生まれました。 幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられ、初めて会ったのは利家が死の前年に守山城を訪ねたときのことだったといいます。 1600年9月に、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いののち、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城の丹羽長重の人質となりました。 同年、跡継ぎのいなかった長兄・利長の養子となり、諱を利光とし、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えました。 徳川将軍家の娘を娶ったことは、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになりました。 1605年6月に利長は隠居し、利常が家督を継いで第2代藩主となりました。 利常は同母の兄弟がおらず全て異母兄弟だったため、すぐ上の兄である知好、末弟の利貞らと協調することができませんでした。 また、義母の芳春院と生母の寿福院が、次兄・利政の子の処遇をめぐって対立するなど、内憂に苦しめられました。 1614年の大坂冬の陣では徳川方として参戦し、徳川方の中でも最大の動員兵力で、大坂方の真田信繁軍と対峙しました。 家康と姻戚関係にある利常は功に焦り、軍令に反して独断で真田丸に攻撃をかけ、井伊直孝や松平忠直らの軍勢と共に多数の死傷者を出して敗北しました。 1615年の大坂夏の陣では、家康から岡山口の先鋒を命じられ、前田軍の後方には利常の舅で将軍である秀忠の軍勢が置かれました。 前田軍は大坂方の大野治房軍と戦い、苦戦しながらも勝利しました。 大坂の陣の終了後、家康から与えられた感状で、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国を恩賞として与えると提示されましたが、利常は固辞してそれまでの加賀・能登・越中の3か国の安堵を望んで認められました。 利常、洗礼盤、古九谷の三つの言葉には、お互い繋がりはないように見えます。 しかし、利常と古九谷については繋がりがあり、利常は加賀百万石前田藩の三代目の藩主、古九谷は加賀藩ゆかりの焼物です。 なお、本書で扱う古九谷とは、伝世品古九谷平鉢とよばれる焼物に限定されています。 この伝世品は加賀藩の旧家から発見された古九谷を指し、平鉢とは深さのある大皿(直径30~40cm余)のことで、加賀ではこのように呼んでいるといいます。 伝世品古九谷平鉢の特徴は、独特の見事な色絵であり、そのほとんどが肥前有田で焼かれた磁器素地の上に描かれています。 その焼かれた窯も発掘品から同定されていて、主に山辺田窯で焼かれたものとされています。 山辺田窯の活動期間は限られていて、寛永中期の1630年代後半から10数年で、1650年初めには理由不明の廃窯を迎えたといわれています。 この期間は加賀藩では利常の時期に当たり、火皿全体を塗りつぶすことのできる経済力を持つのは、当時は藩主以外に考えられないことです。 古九谷は佐賀からこの素地を移入し、加賀で色絵が描かれましたが、利常はなぜ古九谷を作らせたのでしょうか。 ここにもう一つの言葉、洗礼盤が関わってきます。 洗礼盤とは、キリスト教信者が信者になるための儀式、洗礼に使われる器です。 しかし、加賀にはかつてこの地にキリシタンがいたとか、キリスト教の布教が栄えた時代があったということについて、現在はその影も残っていません。 ところが実際は、ローマには、日本で活発な教会は、長崎、大村、金沢との記録があります。 実は、有名なキリシタン大名の高山右近が、金沢に26年間も住んでいたのです。 秀吉の禁教令下、利常の父である藩祖前田利家が右近を加賀藩に招き、利常の兄である二代藩主利長が庇護し、加賀ではキリスト教の布教は保護されていたのです。 利長存命の間、キリスト教は禁教となっていましたが、加賀藩内では実は禁教は緩やかでした。 しかし、家康のバテレン追放今により、ついに右近はマニラに追放となってしまいました。 1614年に右近がマニラヘ去り、その年に利長が亡くなり、折しも時は大坂冬の陣を迎えました。 利常は幕府側より参戦し、それに続く夏の陣での勝利のあとは、幕府の禁教令に忠実に従い、厳しく藩内に臨んでいきました。 しかし藩内の事態は複雑で、それまでに加賀藩では、主たった藩士はほとんど全てがキリシタンとなってしまっていたのす。 愚か者を装い、奇妙な言動で幕府の眼をそらしながら、実は加賀百万石の基盤をつくったとされる利常の、藩内キリシタンに対する絶妙な対策が古九谷の誕生でした。 本書で、踏み絵、次いで鎖国へと続く厳しい禁救令下、伝世品古九谷平鉢に陰に陽に描きこまれているキリシタンマークと水の意匠に、そして巧妙な利常の意図に、是非ともご注目いただきたいといいます。はじめに/第1章 加賀の利常とキリシタンの間/第2章 三一二枚の追賞/第3章 隠されたキリシタンマーク/第4章 「洗礼盤」の誕生と利常の守り/第5章 炭倉の三人の侍はどこへ/第6章 キリシタンの残照/第7章 利常の関与ー図柄はどこから?/参考文献/図版出典一覧/あとがき[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】 古九谷の暗号 加賀藩主・前田利常がつくった洗礼盤 /孫崎紀子(著者) 【中古】afb風雲児・前田利常 われに千里の思いあり(上)【電子書籍】[ 中村彰彦 ]
2021.10.23
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阪谷芳郎は日本資本主義の父ともいうべき渋沢栄一の女婿で、法律学者にして東京帝国大学教授の穂積陳重を義理の兄とするなど、華麗な姻戚関係を持つ一方、その官歴・経歴も華麗でした。 ”阪谷芳郎”(2019年3月 吉川弘文館刊 西尾 林太郎著)を読みました。 日清・日露戦争で戦時・戦後財政の中核を担い、大蔵大臣、東京市長、連合国経済会議日本代表を歴任した、近代日本の大蔵官僚・政治家の阪谷芳郎の生涯を紹介しています。 芳郎は東京英語学校、大学予備門を経て、1884年に東京大学文学部政治学理財学科を卒業し、同年大蔵省に入省し、主計局長、大蔵次官を務めました。 1906年1月から1908年1月までの間、第1次西園寺内閣蔵相の任にあって、日露戦争時の財政処理・戦後経営に手腕を発揮しました。 1912年から1915年まで東京市長、1917年から1941年まで貴族院議員(男爵議員)を歴任しました。 専修大学の学長も務め、百会長と言われたほど多くの法人、団体の会長などで活動しました。 父親の朗廬は、渋沢栄一の推薦により近代統計の始祖である杉亨二のいる太政官政表課に、1875年1月から9か月ほど勤務しており、芳郎は父からも影響を受け統計の重要性に開眼したとみられています。 西尾林太郎さんは1950年愛知県に生まれ、1974年に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、1981年に同大学院政治学研究科博士後期課程を退学し、のち博士号(政治学)を取得しました。 北陸大学法学部助教授、愛知淑徳大学現代社会学部教授を経て、現在 愛知淑徳大学交流文化学部教授を務めています。 阪谷芳郎は1863年後月郡西江原村、現・岡山県井原市に、幕末に開国派として活躍した漢学者の阪谷朗廬の四男として生まれました。 1873年に父親の友人である箕作秋坪の三叉学舍に入り、1876年に東京英語学校に入学し、1880年に東京大学予備門を卒業しました。 1884年に東京大学文学部政治学科を卒業後、大蔵省に入省し、傍ら専修学校や海軍主計学校で教鞭をとりました。 1888年に渋沢栄一の娘と結婚し、会計法など財務に関する法律の整備に力を注ぎました。 1894年の日清戦争では大本営付で戦時財政の運用にあたり、戦後の財政計画も担当しました。 1897年に大蔵省主計局長となり、1899年に法学博士の称号を与えられ、1901年に大蔵省総務長官に就任しました。 1903年に大蔵次官となり、日露戦争では臨時煙草局製造準備局長と臨時国債整理局長も兼任し、軍事費の調達と戦後の財政処理を行いました。 1906年に第1次西園寺内閣の大蔵大臣を務め、1907年に日露戦争の功績により男爵が授けられました。 1908年に大蔵大臣を辞任して大蔵省を去り、半年間外遊しました。 1912年から1915年まで東京市長を務め、在任中、明治神宮、明治神宮野球場の造営や乃木神社の建立に尽力しました。 市長辞職後、1917年に貴族院男爵議員に選ばれ、その死去まで在任ました。 1928年に日本ホテル協会会長に就任し、専修大学にも教員として出講し、のち学長を務め、創設者の一人で初代学長だった相馬永胤死後の大学運営を取り仕切りました。 多くの会社・学校・団体や事業に関与し、百会長と評されました。 よく英語に通じ、カーネギー平和財団の会議や、パリ連合国政府経済会議などに出席しました。 大日本平和協会、日本国際連盟協会の創設にも関わり、外地の日本語教育に熱心で、日語文化学校を創設しました。 帝国発明協会では、1917年から1941年までの長きにわたり会長を務めました。 都市計画にも関心が深く、蔵相在任時に神戸港築港計画を決定し、またのちに都市美協会会長も務めました。 ただし、後日港湾を管轄する内務省から越権行為と非難され、閣内紛糾の一因となりました。 芳郎の人生は、大きく4つに分けることが出来るでしょう。 第一に、生まれてから東大を卒業するまでの21年間で、修学期ともいうべき時代です。 第二に、大蔵省人省から蔵相辞任までの24年間で、大蔵省時代です。 第三に、蔵相辞任から貴族院議員となるまでの9年間で、3回洋行し、東京市長を務めた時期です。 第四に、貴族院男爵議員に互選されてから、死去するまでの24年間で、貴族院時代です。 第一期の修学期の舞台は東京で、父朗廬の配慮で箕作秋坪の三叉学舎に学び、東京英語学校・大学予備門を経て、東京大学文学部に進学し政治学・経済学を学びました。 東大時代の恩師田尻稲次郎の世話で大蔵省に入り、第二の時期が始まりました。 官僚となって間もなく、渋沢栄一の次女琴子と結婚し、大蔵省において主計官、主計局長、次官と累進し、明治憲法体制における金融・財政制度の構築に大きく関わりました。 日清・日露戦争では戦時財政の中核を担い、日露戦争後、第一次西園寺内閣の蔵相を務めました。 阪谷は大蔵官僚として功成り名遂げたのです。 第三の時代は、阪谷にとって最も実りがあり、豊かな時代であったかもしれません。 宿願であった欧米周遊を果たし、ベルン国際平和会議に委員として参加し、さらに第一次世界大戦に伴う連合国経済会議に日本政府代表として出席しました。 この3回の洋行で阪谷は国際的な知見を広め、国際的な人的ネットワークを作り上げました。 この間、約2年半ではありましたが東京市長を務め、岳父渋沢栄一とともに明治神宮の東京誘致に成功しました。 芳郎は、明治神宮奉賛会の実質的な責任者として外苑を中心に明治神宮の整備を続けました。 出来上がった神宮の森は、今日、東京都民にとり、大規模で貴重な緑の空間となっています。 大きな政治的制約も受けず、第二の時代、すなわち大蔵省時代に培い、手に入れた日本を代表する官庁エコノミストとしての名声をバックに、芳郎が比較的自由に活動できた時代でした。 第四の時期は、第二・第三の時期に獲得した知見に基づき、政治・経済・外交を縦横に論じ、貴族院議員として政治に参画しました。 芳郎は田尻稲次郎や若槻礼次郎など大蔵省の先輩・後輩たちのように勅選議員にはなれませんでしたが、男爵として7年ごとの互選により、24年間にわたり貴族院に議席を維持しました。 この間、清浦奎吾首相より会計検査院長就任や、2度にわたって枢密院議長ないしは副議長から同顧問官就任要請がありましたが、すべて断っています。 いずれも政治的中立性が要求されるポストで、特定の問題について、社会的に論じたり、書いたりすることが憚られました。 しかし、芳郎は政治家であることを選びましたが、政党に入ることはありませんでした。 桂系の元官僚である芳郎は政友会に入ることはせず、また桂太郎との微妙な人間関係により桂自ら組織した同志会に入会を誘われることはありませんでした。 芳郎にとって政党に自らの居場所を見出すことは困難であり、男爵議員として貴族院に自らの居場所を見出そうとましした。 加藤高明や若槻礼次郎は、桂の遺産とも言うべき政党の同志会と憲政会の首領として首相となりました。 しかし、芳郎は貴族院の指導者の一人でしかありませんでした。 昭和初年には、自ら組織した院内会派「公正会」が一人一党主義による組織替えをしたため、組織におけるひとりの長老ではありえましたが、指導者であることは困難となりました。 第二次護憲運動後は政党内閣の時代が到来し、貴族院を政治の前面に立てなくなりました。 芳郎は政党というバックを持たなかったし、衰退しつつあった山県・桂系官僚閥に依存するところが小さかったのです。 そこで、大蔵省時代のキャリアと知見、そして第二の時代に得た知見や海外での経験とによる貴族院政治家であることを目指しました。 明治憲法体制の会計部門、すなわち財政のお目付け役として、重厚な国老を演じようとしました。戦後、芳郎は、高橋是清発案の歳入補填公債、赤字公債の発行を抑止するための方途を講じました。 戦前の会計法に替わって新たに制定され財政法は、公債や借入金でもって国の財政を購うことや公債の日本銀行引き受けを原則として禁止しました。 現在、この規定が現実政治の場でどの程度有効であるかはともかく、芳郎の指摘は、少なくとも戦後の財政法に生かされています。 芳郎晩年の畢生の事業は、東京・横浜万博の開催でした。 それは皇紀2600年奉祝という形で、日本初の万博として計画されましたが、日中戦争のため延期されました。 しかし、第二次世界大戦後、場所を変え、より大規模に大阪万博や愛知万博という形で開催されました。 日本万博協会は、芳郎たちによる幻の東京・横浜万博の抽選券付回数入場券が、戦後の混乱の中で多数回収されないままになっていたことを考慮し、2つの万博での使用を認めました。 ここにも芳郎の活動の痕跡を看ることができます。 芳郎は、原 敬、高橋是清、加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸らのように、政治家としてトップリーダーではありませんでした。 しかし、権力の中核にこそ身を置きませんでしたが、明治憲法体制下において衆議院とほぼ対等な権限を待った貴族院の議員として、歴代の政府を質し、社会に情報を発信し続けました。 いわば政界のサブリーダーであり、脇役プレイヤーでした。 その芳郎が、近代日本の展開とどのように関わったのか、官僚出身の政党政治家とはどのように異なった道を歩んだのか、本書はこの点に留意しつつ芳郎の生涯を描こうとするものです。はしがき/第1 誕生から東京英語学校卒業まで/第2 東京大学文学部政治学理財学科に入学/第3 大蔵省時代/第4 日清戦争と戦後経営/第5 金本位制度の導入/第6 日露戦争と戦時財政/第7 日露戦後経営と大蔵大臣阪谷/第8 二度の外遊/第9 東京市長時代/第10 第一次世界大戦と連合国パリ経済会議/第11 幻の中国幣制顧問/第12 貴族院議員になるー「公正会」を設立/第13 関東大震災からの東京復興と昭和戦前期の貴族院/第14 「紀元二千六百年」奉祝に向けて/第15 日米開戦直前の突然の死/おわりに/略系図/略年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]阪谷芳郎東京市長日記 [ 阪谷芳郎 ]
2021.10.16
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広重は幼いころからの絵心が勝り、15歳のころ初代歌川豊国の門に入ろうとしましたが、門生満員でことわられ、歌川豊廣に入門しました。 翌年、師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年=1818年に一遊斎の号を使用してデビューしました。 ”広重の浮世絵と地形で読み解く 江戸の秘密 ”(2021年4月 集英社刊 竹村 公太郎著)を読みました。 浮世絵は人々を楽しませ和ませる美術品だったのと同時に、報道写真や記録映像の役割をも果たしていたという著者の視点から、江戸の地形や歴史の謎を解き知られざる江戸幕府の政治や仕組みの秘密に迫ろうとしています。 浮世絵師の祖は菱川師宣とされており、師宣は肉筆浮世絵のみならず、版本挿絵も手掛け、後に挿絵を一枚絵として独立させました。 浮世絵版画は当初墨一色の表現でしたが、その後、筆で丹を彩色する丹絵、丹の代わりに紅で彩色する紅絵、数色の色版を用いた紅摺絵、多くの色版を用いる錦絵と発展しました。 幅広い画題に秀でた浮世絵師や、特定の分野が得意な浮世絵師がいましたが、画題としては、役者絵、美人画、武者絵、名所絵などさまざまです。 浮世絵版画の作成においては、版元、浮世絵師、彫師、摺師の協同・分業によっていました。 浮世絵師の役割は、版元からの作画依頼を受け、墨の線書きによる版下絵作成、版下絵から作成した複数枚の主版の墨摺に色指し、摺師による試し摺の確認を版元と共に行うなどでした。 主な浮世絵師の系譜として、菱川派、鳥居派、宮川派、勝川派、葛飾派、北尾派、鳥文斎派、歌川派、国貞系、国芳系が挙げられます。 竹村公太郎さんは1945年神奈川県生まれ、1970年東北大学工学部土木工学科修士課程を修了し、同年建設省に入省しました。 博士(工学・名城大学論文)で、一貫して河川、水資源、環境問題に従事してきました。 宮ケ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て、国土交通省河川局長などを歴任しました。 2002年に国土交通省を退職後、(公財)リバーフロント研究所代表理事を経て、(特非)日本水フォーラム代表理事・事務局長、人事院研修所客員教授を務めています。 歌川広重は1797年に、江戸の八代洲河岸定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として生まれました。 本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称しました。 安藤広重と呼ばれたこともありますが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切です。 源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えました。 長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいました。 広重は1809年2月に母を亡くし、同月に父が隠居したため、数え13歳で火消同心職を継ぎ、同年12月に父も死去しました。 1821年に同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚しました。 1823年に養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となりましたが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めました。 1832年に仲次郎が17歳で元服し、正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなりました。 一立齋と号を改め、また立斎とも号しました。 入門から20年、師は豊廣だけでしたが、このころ大岡雲峰に就いて南画を修めました。 始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめましたが、1828年の師・豊廣没後は風景画を主に制作しました。 1830年に一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになりました。 この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされますが、現在では疑問視されています。 翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなりました。 以降、種々の「東海道」シリーズを発表しましたが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみました。 また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けています。 さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか、絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残しています。 そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われています。 東海道五十三次は、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある53の宿場を指します。 または、江戸幕府のある江戸・日本橋から朝廷のある京都・三条大橋までの間の53の宿場町を繋げたものです。 古来、道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられました。 東海道五十三次には、旅籠が全部で3000軒近くあったといわれ、宿場ごとによってその数は著しい差がありました。 人口の多い江戸や京都周辺や、箱根峠や七里の渡しなど、交通難所を控えた宿場も多かったようです。 「東海道五拾三次之内」は、1833年に版元の保永堂(竹之内孫八)と僊鶴堂(鶴屋喜右衛門)から共同出版され、のちに保永堂の単独出版となりました。 また、1849年頃に丸屋清次郎の寿鶴堂から出版された「東海道」は、画中の題が隷書で書かれているため隷書東海道と呼ばれています。 「名所江戸百景」は、広重が1856年2月から1858年10月にかけて制作した、連作の浮世絵名所絵です。 広重最晩年の作品であり、その死の直前まで制作が続けられましたが、最終的には完成しませんでした。 二代広重の補筆が加わって、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として、版元・魚屋栄吉から刊行されました。 魚屋栄吉は江戸時代末期の浮世絵の版元で、小田屋、魚栄と号し、幕末に下谷新黒門町上野広小路で営業し、歌川広重、歌川国貞、2代目歌川広重、3代目歌川広重などを扱いました。 江戸末期の名所図会の集大成ともいえる内容で、幕末から明治にかけての図案家梅素亭玄魚の目録1枚と、119枚の図絵から成ります。 何気ない江戸の風景ですが、近景と遠景の極端な切り取り方や、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、またズームアップを多岐にわたって取り入れるなど斬新な構図が多いです。 視覚的な面白さもさることながら、多版刷りの技術も工夫を重ねて風景浮世絵としての完成度は随一ともいわれています。 江戸は1854年の安政の大地震で被害を受けており、名所江戸百景は災害からの復興を祈念した世直しの意図もあった点が指摘されています。 広重の生きた江戸時代後半は、社会が豊かになり、化政文化と呼ばれる爛熟した江戸文化が花開いた時代でした。 東海道や中山道などの五街道が整備され、お伊勢参りや富士講などの旅行が、庶民の関心を集めた時代でもありました。 この時代には、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」がベストセラーになり、葛飾北斎の「富嶽三十六景」が大ヒットし、名所絵のブームが起こりました。 そんな時代を背景に、広重の才能に注目した保永堂が、僊鶴堂と共に制作したのが「東海道五拾三次之内」で、1833年に初めて発表されました。 これによって名所絵の名声を確立した広重が、さらに円熟し脂ののった時期に描いたのが1856年に始まった「名所江戸百景」です。 小学生向けでも中学生向けでも、社会や日本史の教科書を開いてみると、必ずと言っていいほど、広重や葛飾北斎といった浮世絵師の作品が掲載されています。 写真や映像がなかった当時、浮世絵は、人々を楽しませ、和ませる美術品であったのと同時に、報道写真や記録映像の役割をも果たしていたと思われます。 筆者は建設省と呼ばれていた時代から、40年近く、国土交通省に勤務していましたが、そのほとんどの期間、河川やダムに関する部署に所属していたといいます。 技術者の仲間内では、河川屋と呼ばれ、地形と気象を相手に、何百年も前の祖先たちが行った防災・水害対策に思いを馳せるクセが、身に染みついたそうです。 古文書や古地図はあったもののなかなか読み解けまでんでしたが、古地図と並んで浮世絵が、過去の日本人が何を考え何をしてきたかを教えてくれる、とても貴重な歴史資料となりまたデータとなったといいます。 中でも広重の描く浮世絵は有用で、風景描写の中に多くの情報量が含まれていました。 広重が絵に描いた何気ない物や人や動物に気づかされることが何度もあり、江戸の人々の生活や社会はこういうことだったと、歴史の謎解きをしてくれているようでした。 これまでの何冊かの著作に、地形から歴史を読み解く竹村史観などのフレーズが付けられていますが、その発想の原点は広重の浮世絵をじっと見つめることにあったかもしれないと言います。 著者は、この本では、江戸時代の経済、文化、そして日本人の原点などについて、広重の絵で謎解きをしていきたいということです。第1章.日本橋から始まる旅-もっと薄く、より小さくが、日本人のアイデンティティ-/第2章.「参勤交代」と「統一言語」/第3章.水運が形成した情報ネットワーク/第4章.戦国のアウトバーン、小名木川/第5章.関東平野の最重要地、軍事拠点「国府台」/第6章.馬糞が証明する 究極のリサイクル都市「江戸」/第7章.広重の〝禿山〟から考える エネルギー問題/8章.下谷広小路-防災都市の原点-/第9章.日本人と橋造り-対岸への願望-/10章.日本堤と吉原の遊郭-市民が守った江戸-/第11章.遊郭の窓から500年の時空へ 〝高台〟という仕掛け/第12章.ヤマタノオロチが眠る 湿地都市の宿命/第13章.文字通りの鳥瞰図/第14章.日本の命の水の物語/第15章.歴史が生んだ近代-牛から電車へ-/第16章.近代化の象徴、鉄道開通と住民運動の始まり[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]広重の浮世絵と地形で読み解く 江戸の秘密【電子書籍】[ 竹村公太郎 ]【中古】 安藤廣重のナゾ 東海道五十三次ミステリー / 里文出版 [単行本]【宅配便出荷】
2021.10.09
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後醍醐天皇は日本の歴史上において、もっともよく知られた天皇の一人です。 討幕のために陰謀を繰り返し、兵を挙げて捕らわれ、隠岐に流罪になっても、強い意志をもって鎌倉幕府を滅ぼしました。 ”後醍醐天皇と建武新政”(2021年5月 吉川弘文館刊 伊藤 喜良著)を読みました。 鎌倉幕府を倒し天皇中心に行った建武の新政を行いましたが、わずか3年弱で失敗に終わり、足利尊氏により武家政治の再興を許した、後醍醐天皇についてその生涯を紹介しています。 1333年7月4日=元弘3年に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒し、建武政権を樹立させ自らの親政を行いました。 建武の中興とも表現され、広義の南北朝時代には含まれますが、広義の室町時代には含まれません。 新政の名年の元弘4年=建武元年(1334年)に定められた、「建武」の元号に由来します。 しかし、建武政権は3年弱しか存続できませんでした。 後醍醐天皇は鎌倉時代の公武の政治体制・法制度・人材の結合を図りましたが、元弘の乱後の混乱を収拾しきれませんでした。 1336年11月13日に、河内源氏の有力者だった足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、政権は崩壊しました。 足利尊氏・直義等の軍勢に京都を占拠され、足利幕府が成立した直後に吉野に逃れた後醍醐は、そこで再起をはかろうとしましたが、実現せず失意の中で死去しました。 以後、南北朝動乱と呼ばれる戦乱が長期間にわたって続きました。 不徳の天皇、聖王、異形の王権と言われ、1人さみし(1334)い建武の新政を行った後醍醐天皇ほど、歴史的評価の揺れ動いた人物はいません。 伊藤喜良さんは1944年長野県に生まれ、1974年に東北大学大学院文学研究科博士課程修了・博士(文学)、1976年に山梨県立女子短期大学講師、1978年助教授を経て、1990年福島大学行政社会学部助教授、1992年教授となりました。 2000年に福島大学学生部長、2009年に副学長となり、同年に定年退職し、その後、福島大学特任教授、第一工業大学教授を務めました。 現在、福島大学名誉教授で、福島県文化財保護審議会会長、福島市史・塩川町史・石川町史・ふくしまの歴史等の編纂委員会委員などに就いています。 鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていました。 元寇以来の政局不安などにより、幕府は次第に武士層からの支持を失っていました。 その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立し、相互に皇位を交代する両統迭立が行われていました。 文保2年(1318年)に大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇が即位して、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想としていました。 しかし、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は、自己の政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るため、両派の排除とこれを支持する鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していました。 後醍醐天皇の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱と2度までも発覚しました。 この過程で、日野資朝・花山院師賢・北畠具行といった側近の公卿が命を落としました。 元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位しました。 後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内の楠木正成や、後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、護良を支援した赤松則村らが幕府軍に抵抗しました。 これを奉じる形で、幕府側の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏(高氏)らが、幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集めました。 元弘3年(1333年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆で名和長年に迎えられ、船上山で倒幕の兵を挙げました。 足利尊氏は、京都で赤松則村や千種忠顕らと六波羅探題を滅ぼした後、新田義貞は稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして鎌倉幕府が滅亡しました。 後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還して富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始しました。 しかし、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促し、上洛した武士を収めて京都支配を主導していました。 足利高氏は後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を与えられ、尊氏と改めのち鎮守府将軍に任命されました。 尊氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り尊氏を牽制する動きに出たため、後醍醐は妥協策として護良親王を征夷大将軍に任命しました。 関東から東北にかけての支配を行き渡らせるため、側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家、鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が、義良親王を奉じて陸奥国へ派遣され陸奥将軍府が成立しました。 尊氏の弟の足利直義が、後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立しました。 元弘4年(1334年)に立太子の儀が行われ、恒良親王が皇太子に定められましたが、この頃には新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、新設機関における権限の衝突など、混乱が起こり始め新政の問題が露呈しました。 将軍職を解任され建武政権における発言力をも失っていた護良親王は、武力による尊氏打倒を考えていたとされ、拘束されて鎌倉へ配流されました。 建武2年(1335年)に、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが、北条高時の弟泰家を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて、政権転覆を企てる陰謀が発覚しました。 公宗は後醍醐の暗殺に失敗し誅殺されましたが、泰家は逃れて各地の北条残党に挙兵を呼びかけました。 旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こり、高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し、直義らが追われる中先代の乱が起こりました。 この危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めましたが、後醍醐は要求を退け成良親王を征夷大将軍に任命しました。 尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かいましたが、後醍醐は追って尊氏を征夷大将軍ではなく征東将軍に任じました。 しかし、時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否して、そのまま鎌倉に居を据えました。 尊氏は乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反しました。 尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた新田義貞を、君側の奸であると主張しその討伐を後醍醐に要請しました。 後醍醐は尊氏のこの要請を拒絶し、義貞に尊氏追討を命じて出陣させましたが、新田軍は1335年12月に箱根・竹ノ下の戦いで敗北しました。 1336年1月に足利軍は入京し、後醍醐は比叡山へ逃れましたが、奥州から西上した北畠顕家や義貞らが合流して、いったんは足利軍を駆逐しました。 同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京し新政は3年弱で瓦解しました。 同月、後醍醐は新田義貞ら多くの武士や公家を伴い、再び比叡山に入山して戦いを続けると、入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立しました。 9月に後醍醐は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣しましたが、兵糧もつき周囲を足利方の大軍勢に包囲されました。 10月に比叡山を降りて足利方と和睦し、和睦に反対した義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせ、後醍醐は光明天皇に三種の神器を渡し花山院に幽閉されました。 後醍醐は12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷を成立させると、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言しました。 ここに、吉野朝廷と京都の朝廷が対立する南北朝時代が到来し、1392年の明徳の和約による南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続きました。 後醍醐天皇と建武政権ほど近代歴史学、近代の学校教育、思想等に与えた影響力の大きな人物や政権はありません。 建武政権を樹立した後醍醐天皇について、その評価も近代と現代では大きく分れているのも、歴史上他に例をみません。 また、前近代と近代における評価もこれまた大きく異なっています。 後醍醐天皇について、明治初期までの一般的評価は「徳を欠く」評判のよくない天皇でした。 しかし、それ以後、後醍醐天皇の討幕という行為について、明治維新の「王政復古」を重ね合わせ、天皇の絶対化のために政治的なイデオロギー操作がおこなわれました。 皇統において、南朝が「正統化」されるだけでなく、「不徳の天皇」後醍醐は、もっとも「徳のある」天皇、「聖帝」となり、建武政権は「王政復古」をなさしめた歴史上もっとも価値ある政権に位置づけられました。 皇国史観という特異な「歴史観」により、後醍醐天皇と建武政権は近代天皇制国家の国民支配、東アジア諸国への侵略の道具とされてしまいました。 戦後にいたると、評価は大きく変化しました。 南北朝動乱時代を革命的な時代とみなし、皇国史観に決別して、社会構成のあり方と人民の役割を重視する論文等が発表され、建武政権は復古反動政権と位置づけられました。 その後、研究はすすみ、建武政権を君主独裁政権をめざした政権、封建王政を志向した政権、異形の王権であった等、さまざまな見解が提起されてきました。 本書は建武政権の成立過程から、政策の特徴、権力機構のあり方、公家・武家による人的構成、当時の評判・批判、建武政権の解体過程等の諸側面について、現在まで明らかになったことを分かりやすく叙述することを目的としています。 このような検討を通して、後醍醐天皇の意図したものは何であったのかを見ていくものとします。 鎌倉時代から、明治維新まで、武人による「武家政治」が続く中で、例外的に「文治政治」を試みたことをどのようにみたらいいかという点に視点を当ててみたいといいます。はじめに/第1章 建武政権成立の歴史的前提(海の中の日本/日本の北と南/支配矛盾の拡大/苦悩する鎌倉幕府/王統の分裂と幕府)/第2章 陰謀から討幕へ(後醍醐の親政/天皇「御謀反」/畿内騒然/鎌倉幕府の滅亡)/第3章 建武政権の一年(後醍醐の帰京/夏から秋へ/春を謳歌する)/第4章 新政権の中央と地方(討幕一年後の状況/物狂の沙汰/地方の国衙と陸奥国府/東国と鎌倉将軍府)/第5章 矛盾と批判(栄華と憤怒の公家と武家/公武一統/「公武水火の世」への批判)/第6章 落日の日々(中先代の乱/建武政権崩壊へ/動乱の世へ)/終章 変転する建武政権の評価(「悪王」から「聖帝」へ/王権の性格をめぐって/東アジア世界の中の建武政権)/おわりに/補論 後醍醐天皇の評価をめぐって―「暗君」から「聖帝」への捏造[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし][書籍のメール便同梱は2冊まで]/建武の新政後醍醐天皇ときららの殿千種忠顕卿[本/雑誌] / 田川清/著【中古】 後醍醐天皇 徳間文庫/徳永真一郎【著】 【中古】afb
2021.10.02
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