全31件 (31件中 1-31件目)
1
日本橋蛎殻町で見つけた洋傘店。2階は「シェルブール」という名前の喫茶店になっています。やっぱりこれはフランスの映画「シェルブールの雨傘」(→→→こちら)にあやかったんでしょうね。ラストシーンは雪の降る夜、クリスマスの買い物に出かけた妻と息子あと、主人公の経営するガソリンスタンドに、元カノで子供まで産ませたカトリーヌ・ドヌーヴがやって来て、そして何事もなかったように分かれて行く。なんか大晦日の夜に見てもいいような映画ですね。しかし、MoMo太郎は子供の頃、この映画を観て、「フランス人ってこんな感じで歌いながら会話するのか」と思っていました。人気ブログランキング日本橋蛎殻町にある洋傘店
2021年12月31日
コメント(30)
江東区に佐賀という地名があります。なんでも、「江東区の地名由来」によると 寛永6年(1629)に開発された深川猟師町八か町のうちで、はじめは開発者の名をとり藤左衛門町、次兵衛町といった。 元禄8年(1695)の検地後、この地形が肥前国(現・佐賀県)佐賀湊に似ているので佐賀町の名をつけたと伝えられる。ということだそうです。その後、猟師(漁師の意味)の町から江戸の材木置き場、蔵の町と発展し、町の周囲には多くの運河が巡らされ、戦後も昭和の時代までは倉庫・洋館・看板建築などが、多数残っていました。今は立派なこのマンションも、以前は、村林ビルディングという、鉄筋コンクリート3階建て、コーナー部に玄関を配し、丸みのある特徴的なビルがあったそうです。また、こんな昭和レトロ感漂う洋館もまだ残っていました。MoMo太郎の記憶が正しければ、娘にしたい女優ナンバーワンの芦田愛菜さんが主演したテレビドラマ「マルモのおきて」(→→→こちら)で愛菜ちゃんたちが住むアパートの大家さんが経営する居酒屋の外観に使われていた建物だと思います。人気ブログランキング東京にある佐賀
2021年12月30日
コメント(30)
大阪発祥のカレーのチェーン店「上等カレー」のカツカレー(900円税込み)です。カレーの味としては、ちょっと甘口でした。カツは普通の豚肉でそれほど肉のうまみが感じられませんでした。まあ、カツが主役ではなくカレーが主役とすれば、これでいのかもしれませんね。辛味スパイスを使えば、好みの辛さに仕上げられるので、辛いカレーが好きな人は、それで味を調整することをお勧めします。一番の特徴は、付け合わせに福神漬けに加えてキャベツのピクルスが目新しくて美味しいことですね。個人的には、余りまた行きたいとは思いませんが、この味にはまった人にはやみつきになるのかも。【追伸】今日、おもわず声を荒げました。年末で忙しいとは思いながら、スマートフォンの調子がおかしいので、携帯電話のショップに行って、不具合の調子を話して直るか聞いてみた。まあ、MoMo太郎はスマホとか詳しくはないので、色々説明するのだが、その時、対応していた若い女性の店員さんが説明して話し終わるたびに「ふっふっ」と声を出して笑うので、なんかこのおっさん馬鹿じゃないのかと笑っているように感じ、思わず「なに笑ってんだ、いちいち笑うな」と怒鳴ってしまった。で、店員さん申し訳ありませんの言葉もなく「笑わないようします」とだけ言って、とりあえず、スマホがネットがつながるようにしてくれたが、なんとなく不愉快なままです。まあ、どうでもいいことですが、なんだか嫌な経験でした。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 上等カレー
2021年12月29日
コメント(20)
【訂正とお詫び】昨日の投稿した内容に誤りがあったので、最初にお詫びと訂正を申し上げます。昨日の記事で以下のように書きましたが、もし、馬を持っていたら馬でここに来てもいいのかも。それに馬に乗っていれば飲酒運転ということにもならないかも。道路交通法第六十五条第一項では、「何人も酒気を帯びて車両等を運転してはならない」と明記されていたので、馬は車両等ではないと考え上記のように書いたのですが、車両等に含まれる軽車両については、道路交通法第二条(定義)の第一項十一号イにおいて十一 軽車両 次に掲げるものであつて、身体障害者用の車椅子及び歩行補助車等以外のものをいう。イ 自転車、荷車その他人若しくは動物の力により、又は他の車両に牽けん引され、かつ、レールによらないで運転する車(そり及び牛馬を含む。)とあったので、馬は軽車両に当てはまるため、酒を飲んだ状態で馬に乗り行動に出れば飲酒運転になります。ここに訂正しお詫びするとともに、皆さん馬に乗っての飲酒運転には気をつけましょう。【本文です】埼玉県を創業の地とする会社というのも結構あるようです。アイスクリームの「ガリガリ君」で有名な「赤城乳業(→→→こちら)」も赤城山がある群馬県かと思ったら埼玉県深谷市にある会社だそうです。また「乳業」と名乗りながら牛乳は作っていません。MoMo太郎がよく行く中華料理の「日高屋(→→→こちら)」も埼玉県の大宮が創業の地だそうです。コンビニエンスストアの「ファミリーマート(→→→こちら)」も第一号店は埼玉県狭山市でした。お洒落な人が愛用している「ファッションセンターしまむら(→→→こちら)」は埼玉県小川町にあった島村呉服店が始まりだそうです。そして、大塚家具(→→→こちら)も創業は埼玉県春日部市でしたが、今は群馬県発祥のヤマダ電機(→→→こちら)の子会社となってしまいました。埼玉県人の大塚久美子さん、群馬に負けて無念だったんでしょうか。そして、MoMo太郎はこの今宮橋を渡ります。この川は「元荒川(→→→こちら)」です。元荒川は、熊谷市大字久下(左岸)、同市大字佐谷田(右岸)を起点として、越谷市大字中島で中川に合流する延長60.7km、流域面積208.9k平方メートルの一級河川です。また、その名のとおり元々は荒川の本流でしたが。江戸時代の1629年に伊奈忠次によって荒川を利根川から分離する付け替え工事が行なわれ、熊谷市久下で荒川が締め切られたことによって残った河道が元荒川となったそうです。荒川の発祥の地はこちらだったんですね。荒川沿いの道を南に向かって歩きました。元荒川で佇む、アオサギ(多分)。この住宅街の中を歩いていきます。この大きな道(埼玉県道3号大宮栗橋線)を渡ると、すぐにこの公園に着きました。植え込みで文字が隠れていますが、西城沼公園(→→→こちら)です。西城沼を中心に作られた南北に細長い公園です。総面積は4.5haほどだそうです。西城沼には釣り場があって、釣りを楽しむことができるようです。西城沼は、西城沼は縄文時代の奥東京湾の海退時に取り残された「海跡湖」の名残であるとされ、かってはこの地域の農業用水などに使われていたそうです。さて、ご愛読いただいている「埼玉を知ろう」シリーズですが、年末年始はお休みさせてもらい、続きは年明けからとさせて下さい。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その9) 元荒川と西城沼
2021年12月28日
コメント(28)
職場の同じ部署に、埼玉県から通勤している人が何人かいます。たまにその人達と飲むかというと、飲みに行くのは、サラリーマンの聖地、新橋でもなく、オシャレな六本木、赤坂はアウト・オブ・眼中。池袋に行きがちになります。というのも、埼玉県から通勤している人は、西武池袋線、東武東上線、JR埼京線、そして湘南新宿ラインが走る宇都宮線のいずれかの沿線に住んでいるので、帰りのことを考えるといきおい、それらの路線のターミナルとなる池袋が便利ということになります。駅からハイキングでは、清龍酒造に訪れました。こちらが清龍酒造の蔵元となります。奥の金属製のタンクにはお酒が一杯入っているのかな。代表銘柄は「清龍」という日本酒です。また、日本酒だけではなく米焼酎も製造しているみたいです。こちらの建物は、蔵元でしか味わえない美味しいお酒を味わえる蔵レストランの清水亭です。でもその日は営業はしていなかったようです。これは龍の木彫りですね。社名の清龍酒造に合わせているのでしょうね。こちらは杉玉。日本酒を作る時には杉で作った樽を使ってたので、その杉の葉をつかってこの杉玉を作るわけですが、最初の内の杉玉は茶色ではなく本来の緑色をしています。そして季節が過ぎ夏頃には緑が薄くなり、秋ごろには枯れて茶色くなります。つまり、緑色(2月~6月ごろ)は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏ごろ)は夏酒、枯れた茶色(秋ごろ)はひやおろしの季節というように、日本酒の熟成度合いの変化を示すサインということのようです。もし、馬を持っていたら馬でここに来てもいいのかも。それに馬に乗っていれば飲酒運転ということにもならないかも。清水亭の裏にあるこちらの井戸。「龍水」と呼ばれて、お酒の仕込みに使われているそうです。飲んでみましたが、・・・。おいしい南アルプスの天然水という感じはしなかったです。日本酒の試飲イベントもありました。この清龍酒造は問屋・酒販店を介することなく、消費者に直接販売する蔵元です。だから、欲しい人はこの直営店にやってくるか、東京都内で酒蔵直営の居酒屋を営業しているので、そこでお酒とお料理を楽しむことになります。ちなみに居酒屋清瀧の本店は、埼玉県人が集いやすい池袋にあります(→→→こちら)。大木と説明看板がありました。この木の幹には大黒天様が彫られていました。この清龍酒造のあちらこちらに「大黒天」が祀られているようです。清龍酒造では、創業まもなくから大黒天を守護神としているそうです。鎌倉時代には、この地に湧水があり、そこに大黒天をお祀りしたそうです。しかし、万延元年(1890)にこの地方を台風が襲い、大黒天も行方がわからなくなっていたそうです。しかし、慶応元年(1865)にこの地で酒造りを始めた初代当主が、二年目の年の暮れに、夢のお告げがあり、龍水が出る古井戸を浚って発見されたのが木彫鎌倉様式の大黒天だったそうです。そういう話を聞くと、なんかその当主が、あらかじめ、どこかで古びた木彫りの大黒天像を手に入れて、古井戸の中に隠しておいて、さも神かがりでもあったように見せかけたのかも、と思いますね。まあ、そういう演出で使用人のみんなも有り難がって一生懸命、酒造りに取り組んだのであれば、それは初代当主、日ハム新庄監督を越えるBIg Bossですね。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その8) 飲み会は池袋で~清龍酒造~
2021年12月27日
コメント(32)
埼玉県では、「さきたまライスボール」(→→→こちら)と呼ばれるメニューが、学校給食のご当地メニューのひとつにあるそうです。ライスボールとは英語で「おにぎり」を意味するそうですが、おにぎりではなく県産米粉を使っている米粉パンで、そして丸い形をしているからライスボールというのだとか。ちなみに「さきたま」とは埼玉の昔の読み方だそうです。水田が広がる埼玉県。やはり米粉パンの「さきたまライスボール」を作って、子供たちに食べてもらえるようにお米はたくさん収穫できそうです。遥か向こうには東北新幹線の高架橋が見えています。そんな埼玉の大平野でお米を作るのなら、やはり水は欠かせません。もちろんこの一級河川綾瀬川のような河川もありますが、ここだとまだ小川で、多分水が足りないのでしょう。綾瀬川と並行した、こちらの金網に囲われた。用水路がありました。この水路を流れる水が埼玉の水田を潤しています。水路の途中には、このようにポンプ場があり、ここで水をくみ上げて水田まで運んでいるようです。この水路は「見沼代用水(みぬまだいようすい)」という用水で、行田市にある利根大堰から利根川の水を取り入れて流しています。しかし、この見沼代用水の原型は江戸時代の享保13年(1728)にに幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永によって建設されています。見沼代用水と言う名前は、埼玉県さいたま市(北区・大宮区・見沼区・浦和区・緑区)と川口市に存在した巨大な見沼(→→→こちら)という沼を干拓して新田開発を行ったため、その見沼の代わりの用水という意味になるそうです。江戸時代初期に「関東郡代」だった伊奈忠次とその次男の忠治は見沼に「八丁堤」という堤防を築きこのあたりのかんがい用水を確保しました。そして、徳川八代将軍吉宗の時代になるともっとお米の生産を増やすために、その見沼を干拓して水田にするようにしたそうです。そして、伊奈忠次らによって行われた、治水と利水の方法は、「関東流」と後世の人から呼ばれ、治水面では堤防は小さくて越流・氾濫させる,水利面では湖沼を水源として利用し、用水と排水とは分離しない方法でした。一方、井澤弥惣兵衛為永によって始められた治水と利水の方法は、堤防は高くし氾濫させない,用水は遠方から導水し用水と排水は分離させるとするもので、後世の人達からは「紀州流」と呼ばれています(→→→こちら)。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その7) 見沼代用水
2021年12月26日
コメント(28)
埼玉県は戦後から書写教育が盛んで、鉛筆で字を上手に書くことを目的とした硬筆展「埼玉県硬筆中央展覧会」(→→→こちら)というのがあります。この展覧会に出品する小学生のために、筆のように、文字のハネやハライを書くことができる筆鉛筆というのがあるそうです(→→→こちら)。その中でも埼玉県だけで販売されている10Bという濃さの鉛筆があるそうです(→→→こちら)。10Bの数字は芯の硬さを表し、BはBLACK(黒い)の頭文字で、10Bは三菱鉛筆の中でも最も軟らかく濃いので、子供でも書きやすい鉛筆ということのようです。埼玉県民って、子供の頃から筆記具にこだわりを持っているのですね。この橋を渡ると蓮田市になります。この川が伊奈町と蓮田市の境になる綾瀬川(→→→こちら)です。綾瀬川は埼玉県を通って東京都足立区、そして葛飾区の四ツ木あたりまで続いている川です。綾瀬川沿いの道には大きな桜の古木がありました。春になるとこの桜の木の下を小学校に入学したての一年生の子供たちがランドセルを背負って歩いてくのでしょうか。もちろんランドセルの中には、埼玉県限定の筆鉛筆10Bが入っていて、最初に筆鉛筆で「さいた さいた さくらが さいた」と書くのでしょう。綾瀬川に沿って、ジョギングロードとなっています。この赤茶けた道がジョギングロード。弾力性舗装で、足に負担がかからないそうです。舗装を見ると、確かにゴムの中に籾殻、木片が混じっているみたいでした。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その6) 綾瀬川
2021年12月25日
コメント(26)
埼玉県は、国の人口推計では1920年の開始以降、人口が減少していない唯一の県となっているそうです(→→→こちら)。また、埼玉県民の方は、他の都県民の方と比べると、あまりお金を使わず、堅実な暮らしをしているという面があり、持ち家比率をみてみると、直近2018年度では一都三県の中では最高水準にあり、コツコツと節約して持ち家を持つというのが、典型的な埼玉県人像なんでしょうか。伊奈氏屋敷跡を出るとこんなところに出ました。この小さな神社は浅間神社というそうですが、ちゃんと道案内の標識が出ているので、結構有名な神社なのかもしれません。こんな立派な建物がありました。「伊奈町ふれあい活動センター」という名前で、地域の人が集まる施設なんでしょうね。無人の農産物販売所です。この道をまっすぐ歩いて行きます。ドンドン歩いて行きました。さすが人口が増えていて持ち家率も高い埼玉県。一戸建て住宅が並んでいました。これは屋敷林(→→→こちら)のようです。バス旅に参加してもいいように、バス停チェックも忘れずに。この「けんちゃんバス」(→→→こちら)というのが、このあたりをカバーしているようです。伊奈町、バラと桜の花が有名なんでしょうね。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その5) ドンドン歩きました
2021年12月24日
コメント(22)
映画にもなった魔夜峰央さんの「翔んで埼玉」という漫画では、茨城県のことを「気の弱い女性はその地名を聞いただけで卒倒してしまう」レベルの「埼玉のさらに奥地にあるといわれるあの日本の僻地!?」と表現しています。さらに、茨城は土地が枯れて納豆しか育たないことから、茨城県の原住民に「死ぬまでに1度でいいから、白いマンマにしょうゆをかけて食ってみたいんだべっちゃ!」」と語らせています。埼玉県民の皆さん、潜在意識の中で、なんとなく北関東にある茨城県を見下しているのでしょうか。ニューシャトル丸山駅の近くにはこのような丘陵が広がっています。埼玉県北足立郡伊奈町大字小室字丸山にあるこの丘が埼玉県指定記念物(史跡)「伊奈氏屋敷跡」(→→→こちら)です。伊奈忠次は家康の近習として仕え、天正18年(1590)家康の関東入国に従い、武蔵国足立郡小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町小室)及び鴻巣において1万3千石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行い、徳川家の関東支配、江戸幕府創立の基盤づくりに大きく貢献した人物です。伊奈忠次は、原市沼を天然の要害としていた閼伽井坊屋敷を接収し、天正19年(1591)に陣屋(一般的に3万石以下の城を持たない大名が持った屋敷)としたのです。この頼りない道を歩いて行くと、史跡でありながら、公園として整備されているとは言い難いところです。この社は頭殿権現社(ずどのごんげんしゃ)は太田道灌が勧請し伊奈忠次が営繕した伊奈氏屋敷跡の権現社になるそうです。しかし、今は屋敷跡の周りの土地は払い下げられて民有地になってました。これでは公園として整備するのも大変そうですね。こちらが伊奈氏屋敷二の丸跡と呼ばれているところです。伊奈氏屋敷跡「二の丸跡」についての説明板がありました。これによると、このあたりを二の丸跡としているのは、陣屋地の見積図によるもので、発掘等で確認されたというものではないようです。しかし、このような板碑もあって、辛うじて、「伊奈氏居館址碑」という文字が読めました。二の丸跡地といっても、このような芝生の広場。この先に原市沼があったところですが、今は埋め立てられ川となているようです。原市って、あの漫才コンビの「ハライチ」と関係あるんでしょうか。ところで、今は、合併してつくばみらい市となりましたが茨城県にも、小貝川沿いに伊奈町(→→→こちら)という町がありました。これは、伊奈忠次の次男、伊奈忠治に因んで名づけられたそうで、忠治は亡くなった父、兄の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を取組み、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の堤防工事などを担当したそうです。親子二代にわたって町名として残るのは大したものですが、茨城県の伊奈町は、息子の名前に因んだということで、埼玉県人から見ると茨城県は格下と思われているのでしょうか。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その4) 伊奈町にある伊奈氏屋敷跡
2021年12月23日
コメント(30)
埼玉県の中学3年生の内、約9割が受験する高校入試のための模擬試験「北辰テスト」(→→→こちら)があるそうです。北辰図書株式会社という民間の会社が開催している模擬試験なのですが、69年の歴史と実績、圧倒的な受験者数のデータから、北辰テストの結果で志望校の合格判定の目安になるという、受験生には役立つテストです。ニューシャトルの路線沿いに南に下って行きます。ところで、このニューシャトル。東北・上越新幹線の計画された時に、新幹線が通過するだけで、土地は買い上げられるし、その後は騒音と振動が残るだけで、地元にメリットがないと、周辺の自治体の人が声高に反対したので、その交換条件でニューシャトルを建設したということです。だから、新幹線の路線沿いに走っているんですね。ちなみに痴漢の多いといわれている埼京線も同様の理由で建設されたそうです。高校が見えてきました。なかなかオシャレな校門です。栄北(さかえきた)高等学校(→→→こちら)です。北辰テストでどれぐらいの成績だと入学できるのでしょうか。また、かっては栄北高校には自動車科という学科があったそうですが、廃止されて、整備士になりたい人は埼玉自動車大学校(専修学校)に進学することになったそうです。MoMo太郎が、太川陽介さんのバス旅番組に誘われても大丈夫なようにバス停もチェックしました。ニューシャトルの丸山駅が見えてきました。駅の改札口には売店もあるのようなのですが、駅からハイキングの開催に併せて、臨時の売店ができて鉄道関連のグッズやスナックなどが販売されていました。大宮まで出張ってくるのに早起きしたせいかこの時点で小腹が空いたので、ここでパンを買って食べました。ちなみに飲み物はなかったので、改札口のところの売店でペットボトルのコーヒーも買いました。この駅の近くに江戸幕府創設期に、この周辺を治めた代官伊奈忠次の本拠地があります。駅からハイキングではここへも立ち寄る予定です。でも、ちょっと痛みが激しい看板ですね。また、ここで東北新幹線と上越・北陸新幹線は分岐して、その分岐の谷間にニューシャトルの車両基地が作られています。新幹線の高架橋です。ちょうどV字型に別れていました。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その3) 北辰テストとニューシャトル丸山駅です
2021年12月22日
コメント(26)
野暮ったいことを意味する「ダサい」という言葉は、「だって埼玉だから」を略した言葉だという説があるそうです。確かに「ダサいたま」という言葉もありましたしね。MoMo太郎は「ダサい」は「駄作」、「駄目」などから来ている言葉だと思っていました。日本薬科大学(→→→こちら)が見えてきました。全国から薬学を学びに埼玉のこの地にダサイ学生ではなく優秀な学生さんが集まるのでしょうね。その日本薬科大学の目の前にある「緑のトラスト保全第13号地『無線山・KDDIの森』」(→→→こちら)があります。緑のトラスト運動とは、埼玉県民から広く寄附を募り、それを資金として土地や建物を取得したり、また寄贈や遺贈を受けたりして、埼玉の優れた自然や貴重な歴史的環境を、県民共有の財産として末永く保全していこうという運動のことだそうです。こういう、自然木の林が広がっていて、貴重な自然のようです。ちなみに「無線山」というのは、この地に国際電信電話株式会社(現KDDI株行会社)の無線局「小室受信所」が設置されていたことから、地元では「無線山」の愛称で親しまれています。昭和9年(1934)に短波受信所が開設され、ベルリンオリンピックの「前畑頑張れ!」もここで受信され日本中に放送され、南極観測船宗谷からの写真電送の受信も行われ、人類最初のソ連の人工衛星スプートニクの電波を受信して解析したのもこの受信所だったそうです。しかし、通信技術の革新が進み昭和62年(1987)に事業所が閉鎖されたそうです。この山の中を探せば、今でも小室受信所のあった痕跡がみつかるかもしれませんね。県立がんセンターと日本薬科大学を結ぶ約100メートルの道は、桜の並木道となっています。春には見事な桜が楽しめそうですね。また、近くには乗馬クラブあります。こちらは埼玉県立がんセンター(→→→こちら)です。上尾駅や蓮田駅からバスでも来院できるみたいですね。埼玉自動車大学校というのもあり、鉄人28号(→→→こちら)が門番として立っていました。ニューシャトルの高架走行路が見えてきました。手入れの行き届いた植木でした。造園業の方の土地でしょうかね。ここにも鉄人28号はじめヒーロー、ヒロインのキャラクターが展示されていました。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その2) 無線山・KDDIの森
2021年12月21日
コメント(26)
2021年11月3日、文化の日の駅からハイキングは埼玉県に行ってきました。埼玉県の草加市に住んでいたMoMo太郎の叔父さんは、よく、子供の頃神戸に住んでいたMoMo太郎に、自分のことを「東京の叔父さん」と言っていました。なんか、埼玉県人あるあるでしょうか。ここはJR大宮駅。このてっぱく通りを進んで行きます。でも今回は「てっぱく(鉄道博物館」に行くわけではありません。ニューシャトル(→→→こちら)の大宮駅に到着します。ニューシャトルというのは愛称で「埼玉新都市交通伊奈線」というのが正式名称です。運営している埼玉新都市交通株式会社は埼玉県、東日本旅客鉄道、そして周辺の自治体などで構成される第三セクターだそうです。昭和58年(1983)12月に開業したそうですが、MoMo太郎は初めて乗ります。これが車両です。これが走行路です。「ゆりかもめ」や「日暮里舎人ライナー」のような新交通システムというタイプの路線です。ゴムタイヤで走行し、走行路の側方には列車を誘導する案内軌条と、動力電源として三相交流600Vの電車線を設けているそうです。ゴムタイヤで走行しますが、鉄道事業法では鉄道となっています。また、走行路は、東北・上越両新幹線の高架張り出し部分を活用した高架方式なので、新幹線に乗らずとも、晴れた日には大宮の市街地の彼方に秩父の山並みや富士山の霊峰を望むことができます。そして、この駅で降ります。志久駅です。この駅、高架の駅なのにエレベーターもエスカレーターもありません。ちょっと優しくないですね。というわけで、駅からハイキング「郷土の偉人に想いをはせて歴史を7缶汁自然散策」に参加する登録手続きをすると、結構プレゼントがありました。さて、駅からハイキングに出発です。(伊奈町から蓮田のコースです)【つづく】人気ブログランキング埼玉を知ろう(その1) ニューシャトル志久駅
2021年12月20日
コメント(30)
「鳥中華」は、山形県天童市のそば店で供されていた賄い料理が起源とされ、蕎麦つゆを使ったスープに中華麺を入れた和風のラーメンだそうです。そのカップ麺「ニュータッチ 大盛山形鳥中華」が近所のスーパーで売っていたので買ってきました。中に入っていたのは、鶏肉、揚げ玉、ねぎといった具、粉末スープ、そして調味油。カップ麺なので熱湯を注いで3分で出来るのが、手軽でいいですね。血液型が「ヤマガタ」になるくらい、毎日食べてみたい味でした。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 山形の鳥中華
2021年12月19日
コメント(28)
景行天皇との縁を伝える川崎の古社、稲毛神社(→→→こちら)に訪れました。社号碑は「稲毛神社」となっていますが、江戸時代までは、「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などとよばれていました。しかし、慶応4年で明治元年(1868)、江戸に下向中の有栖川宮熾仁親王殿下がここで休憩された時、「社名が新政府の神仏分離の方針に相応しからず」ということで、所在地の武蔵国稲毛庄の名から稲毛神社と変えたそうです。権力者には逆らえないということですね。工事中のためか、足場パイプのようなもので囲われていましたが、「六郷の 橋まで来たり 春の風」と刻まれた正岡子規の句碑です。子規は明治27年(1894)春秋と明治33年(1900)に川崎を訪れ、大師詣での道すがら多くの句を詠んでいるそうです。こちらは、稲毛神社の由緒が記されていました。旧川崎宿の本陣佐藤家に生まれ育った詩人佐藤惣之助(→→→こちら)の詩の一節です。祭の日は佳き哉つねに恋しき幼き人のあえかに粧ひて茜する都の方より来る時なり・・・ちなみに、この佐藤惣之助は「阪神タイガースの応援歌(六甲おろし)」も作詞されています。石の鳥居です。この奥にあるのか拝殿です。こちらの神社の狛犬です。ブロンズ製でモダンな感じですね。平成3年御大典記念として建立されたもので、「天地睨みの狛犬」と命名されているそうです。こちらが、拝殿・本殿です。宝永年間に建てられた旧社殿は戦争の空襲で焼失したため、昭和38年(1963)に鉄筋コンクリート造りの社殿が再建されたそうです。ちょっとクセのある書体の扁額です。稲毛神社への参拝を終え、富士見通りを川崎駅方向に進みました。この高層ビルが川崎市庁舎です。現在、新しい市役所庁舎を建設中なので、当分はこの建物で仕事されるのですね。そして、川崎駅に戻って来ました。しかし、改めて見るとなかなか立派な駅ですね。(川崎を歩いて知ったコースです)【了】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その12) 稲毛神社
2021年12月18日
コメント(30)
「士」の字が無くなっていますが、ここが富士見公園です。この公園内にあるのが、川崎競輪場。近くには川崎競馬場もあって、そういうことが好きな人には魅力ある街ですね。そんな競輪、競馬につぎ込めるお金を、我々、労働者が得られるのは、こういう機械で工業を盛んにできたせいですね。大きな歯車です。「プラネタリー熱間圧延機フィードロール減速機用歯車」(→→→こちら)です。なんのことかよくわからないですが、一方の投入口から鋼鉄を投入すると瞬時にして反対側の出口から薄い鉄箔となって出てくるそうです。1966年に日本冶金工業がカナダの企業から購入したもので,世界に16基あるうちの1基で、1996年まで30年間稼働したそうです。また、この方式としては世界最大だそうです。かって、この富士見公園にはプロ野球球団、高橋ユニオンズ(昭和31年(1956)に大映スターズとの合併によって消滅)、大洋ホエールズ(昭和52年(1977)に横浜スタジアムへ移転、現在は横浜DeNAベイスターズ)、そしてロッテオリオンズ(平成4年(1992)に千葉マリンスタジアムへ移転、現在は千葉ロッテマリーンズ)が本拠地としてた、川崎球場がありました。しかし、平成12年(2001)3月には閉鎖されスタンドが取り壊されリニューアル工事があり、平成13年(2001)からはアメリカンフットボールの拠点となる球技場に変わってしまいました。それでも名称は「川崎球場」でしたが。そして平成26年(2014)からは「川崎富士見球技場」と名前が変わり、さらに翌年からは「富士通スタジアム川崎」と呼ばれるようになりました。(川崎を歩いて知ったコースです)【つづく】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その11) 川崎球場はアメフト競技場に変わっていた
2021年12月17日
コメント(28)
大師公園を後にして、大きな道路の大師公園前という交差点に出ました。富士見通りという道路です。正式名称は「一般国道132号」だそうです。道路沿いにはイチョウ並木があります。この時はまだ10月下旬でイチョウもまだ色づいていませんでした。道路沿いにある作業服のお店。寅壱(→→→こちら)といえば作業朊・鳶装束・安全靴等のブランドですね。川崎駅の方向に向かって歩いて行くと、こんな建物が。川崎市立労働会館(→→→こちら)です。労働組合その他の諸団体の健全な発達を図り、また、働く市民の皆様の勤労意欲の向上に資する施設だそうです。やっぱり川崎といえば、京浜工業地帯の中心。労働者のため町なのかも。(川崎を歩いて知ったコースです)【つづく】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その10) 富士見通り
2021年12月16日
コメント(28)
川崎大師から南に大きな公園がありました。大師公園というそうです。こちらは噴水施設ですが、行った時は休憩中でした。広々とした芝生の広場と遊具も色々あって、家族連れで楽しめそう。噴水が休んでいるせいか、水路に水は流れていませんでした。公園の中には、中国庭園「瀋秀園(しんしゅうえん)」(→→→こちら)があります。「瀋」は中国遼寧省・瀋陽市の略称です。「秀」はきれいという意味で、瀋陽市の素晴らしい景色を集めた庭園です。昭和62年に、中国の瀋陽市と、川崎市との姉妹都市提携5周年を記念して造られた中国式自然山水庭園です。「瀋陽のすばらしい景色を集めた庭園」ということから、建物に使用されている瑠璃瓦、木組、獅子像、太湖石は瀋陽市から寄贈されたものだそうです。瀋秀園の入り口にある獅子像です。これは瀋陽市から寄贈されそうです。中国の太湖という湖から切り出された「太湖石」、穴の多い複雑な形の奇石ですね。勿論、この石も瀋陽市からの寄贈です。この公園が出来た昭和62年、当時は中国と仲が良かったんですね。正面に築山があります。池には鯉が泳ぎ。また、水鳥も泳いでいました。池の周りを回遊できるようになっています。季節になればハスの花が楽しめるようです。逆光で申し訳ないですが、攬翠亭(らんすいてい)と呼ばれる建物があり、その横を滝が流れています。攬翠亭からは、園内が一望できます。橋の上から、水面に映る景色を見るのもまた楽しいでしょうね。(川崎を歩いて知ったコースです)【つづく】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その9) 大師公園内の中国庭園「瀋秀園」
2021年12月15日
コメント(26)
川崎大師の山門にやって来ました。川崎大師というのは通称で、正式には「金剛山 金乗院 平間寺(へいけんじ)」というそうです。宗派は「真言宗智山派」で大本山ということです。ちなみに成田山新勝寺と高尾山薬王院も真言宗智山派の大本山です。山門に吊り下げられている「魚がし」の提灯。お寺の提灯って「魚がし」というのが多いですね。浅草寺の宝蔵門に大提灯は日本橋小舟町ですが、両脇の吊り下げられている提灯も「魚がし」でした。裏からこの大提灯を見ると、魚がし講が奉納したようですから、やっぱり水産関係の会社などの名前が入っています。大本堂と献香所、右の建物は厄除け、護摩祈祷を申し込む施設です。ご朱印もこちらで受付けます。時期的に10月末だったので、菊花展が開催されていました。大本堂です。やっぱり大きいです。八角形をした五重塔です。手前には防火のための水桶が、でも本当に火事なったら、これでは間に合わないのでは。ちゃんとスプリンクラーとかは設置されているんでしょうけど。経蔵です。中国最後の木版大蔵経「乾隆版大蔵経」7240冊が収蔵されているのだとか。経蔵の中の天井画、見事なものですね。ちなみに、平間寺というのは、無実の罪により生国尾張を追われ、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしをしていた平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、海中から網にかかった弘法大師の木像を引き上げて、それを奉ったことから始まったそうです。最近は、海や川で仏像とかなかなか網にかからないですね。(川崎を歩いて知ったコースです)【つづく】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その8) 川崎大師平間寺に参拝
2021年12月14日
コメント(24)
川崎大師に向かおうとしたところ、こんな商店街もありました。「ごりやく通り」という名前でした。こちらの商店街、どちらかというと地元に住む人向けのお店が並んでいるようでした。こちらが、川崎大師と呼ばれる平間寺(へいけんじ)への表参道になっています。「厄除酒まんじゅう」というネーミングが、いかにもお寺にお参りする人に向けてという感じですね。こちらは川崎大師の建物の裏側になります。表参道と言いながら、裏から回って入るというのは、本来はもうすこし東側にある大師の渡し(→→→こちら)で大田区羽田から川崎大師に参詣するのが、江戸時代からのメインルートだったのが、鉄道が開通し、川崎大師駅ができるとそちらからの参詣客が増えたので、表参道が変わったのだと思われます。川崎大師で有名なのは、このビル。住吉屋総本店の久寿餅。一般的なくず粉を使った「くず餅」と違い、小麦粉を使用しているので、葛餅とは書かないようです。また、近くに味の素の工場があるので、小麦粉からできたデンプンを大量にかつ安価に利用できたそうです。また、この住吉屋総本店以外に、のれん分けした住吉というお店や、蕎麦屋さんなど何軒か久寿餅を売っているお店があります。川崎大師の入口に行くにはここで右折です。厄除弘法大師入口とあります。弘法大師ということは平間寺(川崎大師)は真言宗のお寺ということですね。さらに川崎大師へは右折して、この仲見世を通ることになります。仲見世には、川崎大師のお土産として有名な「せき止め飴」や「たんきり飴(さらし飴)のお店が並んでいます。「たんきり飴(さらし飴)」を切るリズミカルな包丁の音か仲見世に響いています。そしてこの仲見世の先に川崎大師の山門が見えてきました。(川崎を歩いて知ったコースです)人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その7) 川崎大師参道
2021年12月13日
コメント(28)
川崎大師駅まで来ると川崎大師へ行きたい所ですが、ここで駅近くにあるこの若宮八幡宮(→→→こちら)にお参りしていきます。この若宮八幡宮は創建以来川崎大師平間寺に属しその鎮守社だったそうです。しかし、明治の神仏分離の際に平間寺から独立したそうです。石造りの明神鳥居ですね。神額には揮毫は経済産業大臣平沼赳夫とありますから、21世紀になってから作られたものでしょうか。多摩川を挟んで対岸の大田区にある六郷若宮八幡宮周辺の人が、このあたりの開拓のために移住して創建されたといわれる神社です。こちらが社殿です。こちらの石碑と盃もちょっと変わっていますね。大師河原酒合戦三百五十周年記念碑だそうです。大師河原酒合戦とは、酒井雅楽頭の殿医の茨城春朔がその仮名草子「水鳥記」(寛文2年(1662)刊)に軍記物語を擬して記していたので知られる、大師河原の名主「大蛇丸底深」が行った酒飲み合戦のことです。そして、この神社では水鳥の祭としてこの酒合戦を再現したイベントが開催されています。ちなみに水鳥とは、「水」は「氵」(さんずい)の意味で、「鳥」は「酉」の意味、二つの文字を併せて「酒」となるわけです。こちらがもかなまら様の俗称がある金山神社(→→→こちら)です。鉱山や鍛冶の神である金山比古神と金山比売神の二柱を祭神として祀っています。そのため、鍛冶職人や金属・金物を扱う商人・企業の他、子授け・夫婦和合・性病快癒を願う人々からの信仰を集め、特に子孫繁栄・夫婦和合・性病快癒・安産・下半身の傷病治癒などに霊験があるとされているそうです。「金山(かなやま)」と「金魔羅(かなまら)」(つまり男性の性器)と音が似ていることからでしょうか。このようなものが、(川崎を歩いて知ったコースです)【つづく】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その6) 若宮八幡宮(境内社金山神社)
2021年12月12日
コメント(26)
この建物は、「味の素うま味体験館」(→→→こちら)です。味の素グループの歴史や、うま味調味料「味の素」について知ることができる企業博物館ですが、新型コロナウィルスの感染で今は見学できないようでした。ということで、このあたりは味の素の工場が建っていました。町名も京急大師線の駅名も、味の素創業者の鈴木三郎助(→→→こちら)にちなんで鈴木町となっていました。さらに東に歩いていくと、今度は川崎大師駅が見えてきました。(川崎を歩いて知ったコースです)【つづく】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その5) 味の素
2021年12月11日
コメント(31)
かなり痛めつけられている看板ですが、多摩川の看板です。公共の物、大切に使って欲しいですね。そして多摩川右岸沿いの堤防の上を歩いて行きます。広々とした青空の下、気持ちよいウォーキングです。川沿いの高層アパートです。お家賃も高そう。そして見えてきました、ちょっと変わった構造物。二つの塔の上にはなにかカリフラワーのような飾り物があります。丸い輪の模様は川崎市の市章(→→→こちら)。塔の上の装飾は、梨、ブドウ、桃のような果物をイメージしたもののようです。カリフラワーではありません。これが、国登録有形文化財の川崎河港水門(→→→こちら)です。この水門が出来た頃には川崎の名産品はブドウ、梨、桃だったんですね。河港水門、大正15年(1926)11月で完成は昭和3年(1928)3月。昭和61年(1986)3月に改修された歴史があるようですね。近代化産業遺産でもあるようです。ということで川崎市の歴史を今に伝える文化財です。大正時代末期、川崎市は、物資の輸送をより円滑にするため、古来より水運に利用されてきた多摩川の堤防の一角から内陸部に運河を開通させ、その開削により生じる土砂で両岸を埋め立てて工場や住宅地にするという大規模な運河・港湾計画をたてた。川崎河港水門は、この運河計画の一環として運河の入口になるものでした。しかし、運河計画の用地に工場や住宅が次々と建設されていったことや、第2次世界大戦の開戦により運河計画は、9年後の昭和18年(1943)に廃止となったそうです。運河は水門から約220m開鑿されただけで中断してしまい、現在では埋め立てられて、水門に接続する部分約80mが舟溜まりとして残存するだけだそうです。今の世の中にこんなことがあったら、蓮舫議員や辻元清美前議員に税金の無駄遣いと言われそうですね。しかし、この河港水門は、現在でも主として千葉方面からの砂利の陸揚げ施設として、1日数隻の砂利運搬船の出入りに利用されているそうです。その千葉県からの砂を利用しているのが、この工場。川崎宇部生コンクリート株式会社(→→→こちら)です。そういえば、「総理、総理」で有名な辻元清美さん、「全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部」から政治献金を受けていたそうですね。政治献金を受け取ることは悪いことではないのですが、この「全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部」労働争議と称して生コンクリートを運ぶアジテータートラック(いわゆる「トラックミキサ」)を止めて、生コンクリートは生モノですから、出来てから90分以内に使わないといけないそうです。そういうわけで、困った会社から解決金を受け取っていたそうです。労働組合活動に名前を借りた威力業務妨害みたいなものですね(詳しくはこちらの記事を→→→関西生コン事件~逮捕されたのは立憲民主党・辻元清美議員と親密な人物)。こちらは生コンクリート工場がつかっているアジテータートラックの駐車場になっている埋め立てられた運河の跡地です。(川崎を歩いて知ったコースです)人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その4) 川崎河港水門
2021年12月10日
コメント(28)
旧東海道を歩いて行くと街角に掲げられた六郷の渡しと旅籠町の説明板がありました。多摩川を渡る国道15号線の六郷大橋です。落書きが目立つ川崎市の設置した説明板によると、慶長5年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架け、以来修復やかけ直しが行われていました。しか し元禄元年(1688)7月の大洪水で六郷大橋は流され、幕府は架橋をやめ、明治に至るまで船渡しとなったそうです。欄干にある渡し船のモニュメントです。こちらは下流側にある同じ渡し船のモニュメントです。六郷橋の上から多摩川の上流側を見ました。トラス橋は京浜急行と東海道本線の六郷川橋梁になります。また、途中まで低水敷の護岸工事がされていました。橋の下流側を見てみると、これも六郷橋の手前で低水敷の護岸工事が終わっています。つまり、六郷橋を挟んだ区間は低水敷の護岸は後回しなんでしょうかね。多摩川の堤防のすぐ脇を京急の大師線が通っています。多摩川の堤防はしっかり補強しておかないと、このあたりに住んでいる人は不安ですね。そして、長十郎梨のふるさとの説明柱が橋のたもとに建っていました。川崎ではナシは江戸時代初期に川崎大師河原(川崎大師の東側のあたりで現在の川崎区出来野、)で栽培されていたそうですが、江戸時代中期の寛政時代から本格的なナシの栽培が始まり、最初は川崎区の方から栽培がはじまり、中原、高津、生田と多摩川を上るように栽培地が広がっていき、大正時代には川崎は関東におけるナシの一大産地だったそうです。さて、長十郎梨は、明治26年(1893)に大師河原町の当麻辰次郎氏のナシ園から他のナシとは違う品種が発見され、当麻辰次郎氏の屋号「長十郎」をとって、長十郎梨と名づけられたそうです。ところで、川崎市のナシ栽培ですが、昭和38年(1963)には栽培面積は125haまで伸びましたが高度経済成長により減少して、現在は中原区、高津区、宮前区、多摩区、麻生区の約30haで栽培されています。明治天皇も明治元年(1868)には、江戸に移るためにこの六郷の渡しを渡ったので、「明治天皇六郷渡御碑」が建立されています。側面には当時の渡御の風景が描かれた浮世絵から起こしたレリーフが埋め込まれていました。写真が上手く撮影できなかったので、載せていませんが、船を並べて橋のようにして前後を官軍の兵士で固めて陛下は輿に乗って川をわたったようでした。おそらく元図は武州六郷船渡図(→→→こちら)だと思われます。こちらは「大師の灯籠」呼ばれています。ちょっと川崎大師からは離れた場所にあるこの川崎大師を示す灯籠。六郷橋を渡ってきた参詣者の方への道案内だったのでしょうかね。(川崎を歩いて知ったコースです)【つづく】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その3) 六郷の渡しと長十郎梨
2021年12月09日
コメント(21)
川崎は東海道の宿場町、そんな川崎の歴史を活かしたまちづくりに取り組んでいるのでしょうね。こんな解説が書かれた標柱が街角に建っていました。そして、旧東海道と刻まれた石碑のある通りを歩いていくと。東海道かわさき宿交流館(→→→こちら)という施設がありました。江戸時代の川崎宿の様子や当時の旅の様子を紹介して、そして今の時代の川崎にどんな風に変わってきたかを学べる施設です。建物の入り口は当時の商家のイメージですね。階段には一段ごとに、安藤広重の東海道五十三次の浮世絵が貼られていました。交差点の名前にも東海道川崎宿の名前が使われています。今では、こんな普通の道路ですが、むかしは人の往来で賑やかな街道筋だったのでしょう。(川崎を歩いて知ったコースです)【つづく】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その2) 東海道かわさき宿交流館
2021年12月08日
コメント(30)
10月23日の土曜日、JR東日本の駅からハイキング「まもなく川崎宿400周年!歴史・産業・文化を学んで感じるコース」に参加して川崎の町を歩いてきました。このJR川崎駅北改札・北口通路は最近できたんですかね。こちらの「かわさき きたテラス」でコース地図を受け取ってスタートです。「かわさき きたテラス」は行政サービス施設で住民票なんかを受け取れるようで、また、観光案内所も兼ねているような施設てした。こちらがJR川崎駅です。アトレとかあってちょっとしたショッピングセンターのようでした。京浜急行の高架を抜けて、市役所通りを東に向かって歩きます。銀柳街といえば、川崎の昔からの商店街ですね。【つづく】人気ブログランキング川崎を歩いて知ろう(その1) 川崎駅から
2021年12月07日
コメント(28)
日曜日の朝、のんびりした気分でドトールコーヒーのモーニングAセット420円(税込み)をいただいた。店には競馬新聞を熱心に読んでいるおじさんが数人いた、いい日曜日になるといいですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 日曜日の朝
2021年12月06日
コメント(26)
新宿駅の中央線快速が発着する11-12番線ホームの池袋寄りを13-14番線ホームから見ると、「殉難 殉職 供養・・・」と書かれた供養塔らしいものが建っています。またその後ろには祠らしきものもあります。おそらく、むかし、鉄道事故か駅の建設工事で亡くなった人たちの供養のためのものと思われますが、詳細を調べに行こうとしても、一般の人が立ち入ることのできないエリアになっています。しかし、こういう慰霊をするという気持ち大切なものだと思います。人気ブログランキング新宿駅11-12番線ホームにあるもの
2021年12月05日
コメント(29)
ここは、2021年5月28日のブログ、「青天を衝け(その3) 江東区の渋沢栄一宅跡」(→→→こちら)で紹介した江東区永代二丁目にある澁澤シティプレイス永代のビルです。今では、この澁澤倉庫の本社ビルになっています。ビルの前にあった碑文です。澁澤倉庫発祥の地「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。この地は、澁澤倉庫発祥の地である。渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。この藍玉の商いをするときに使用した記章が(ちぎり・りうご)であった。明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。 平成十六年四月吉日 澁澤倉庫株式会社「(ちぎり・りうご)の記章」とは、この背後のガラスに透かして入っているマークで、糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになったなどと言われているそうです。そして、澁澤シティプレイス永代り裏にまわると、「福住稲荷神社」(→→→こちら)があります。福住稲荷神社は、近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠でしたが、明治9(1876)年に澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、明治30年に澁澤倉庫部(現:澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られています。さて、狭い参道を入って行くと、石造りの鳥居があります。屋敷の中にあった祠なので小さいです。石造りの神狐像、こちらは米俵を持っているのでしょうか。こちらは子供ですね。子供を鞠で遊ばせようということですか。この石は、渋沢倉庫が奉納した力石・さし石。力比べでさし上げた(持ち上げた)石。澁澤倉庫の従業員ともなれば、荷物を運んだりするので、やはり力持ちも多かったのかも。澁澤倉庫の記章であるちぎり紋、りうご紋が入った力石もありました。鳥居や神狐像。そして力石として並んでいるものが江東区の登録文化財だったんてすね。人気ブログランキング渋沢栄一ゆかりの福住稲荷神社
2021年12月04日
コメント(22)
日本橋小網町と兜町の間の首都高速の下を流れる日本橋川です。この日本橋川に架かる橋。鎧(よろい)橋という名前です。橋のたもとの緑地にお地蔵様が佇んでいました。お地蔵様の台座には梵字が刻まれていました。なにか由緒のあるお地蔵様なんでしょうね。その横には裸婦のブロンズ像が。こういう芸術家の人って女性の裸が好きなんですね。鎧橋は明治5年に架けられ、江戸時代は渡し船が運行されていたそうです。そして橋のたもとにあるこの建物は、東京証券取引所です。人気ブログランキング鎧橋
2021年12月03日
コメント(30)
古典落語の「心眼」の舞台のとなったのが、かって日本橋日枝神社の別当寺*として天海僧正が開基した鎧島山 智泉院です。江戸時代には病を治す御利益のある薬師信仰が盛んで、本尊が薬師如来であったこのお寺は「茅場町のお薬師様」として人々の信仰が厚く、有名だったそうです。落語の「心眼」あらすじは、盲人だった主人公が、女房に言われて、茅場町の薬師様に21日の日参。ようやく満願の日、自分の目が開いていることに気付き、そして女房(人三化七(→→→こちら)の容貌)と別れて、東京で指折りの美人という芸者の小春を女房にしようとしたところ、ブスの女房が現れて首を絞められ・・・、というところで目が覚めて。そして、主人公の男が「盲てなあ、妙なものだねぇ。寝ているうちだけ、よーく見える」とつぶやくのが落語の下げになります。境内にある中央区文化財のこの地蔵尊は、青銅製で像高は235㎝。作者は日本橋本小田原町で生まれた彫刻家、戸張狐雁。関東大震災でなくなった人々の供養のために、日本橋魚河岸の“地蔵講”が製作発願し、昭和2年9月1日除幕式が行われたものだそうです。 また、境内にある一対の鉄製の大きな天水鉢は天保12年(1841)4月、当時この辺の町名であった坂本町の人々が、深川の有名な鋳物師“釜七”こと釜屋七右衛門に鋳造させた名品だそうで、これもまた中央区民文化財になるそうです。*別当寺とは、専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。人気ブログランキング茅場町のお薬師様
2021年12月02日
コメント(34)
今年も残すところあと一ヶ月となりました。年末の慌ただしい時になりますが、相変わらずノンビリと、あっちこっち歩いて暮らしているMoMo太郎です。地下鉄東西線の茅場町から歩いてすぐのところにある神社です。ビルとビルの間にあってちょっと気がつかない人も多いかも。摂社日枝神社です。本社は永田町にある日枝神社で境外摂社なんですね。説明書きによれば、徳川家康の江戸入府に伴い、日枝神社の神輿が当地に安置されたのが起源だそうです。安置された場所のことを「御旅所(おたびしょ)」というので、今でも山王御旅所として、隔年で開催される山王祭では、本社と当社間を神輿や山車が巡幸しています。この石鳥居は、永田町の日枝神社(本社)石段下に設けられていた鳥居を昭和36年(1961)に移設したものだそうです。「官幣大社日枝神社摂社日枝神社」と刻まれた社号標。戦前からのものですね。社殿は新しく見えますね。神拝詞(しんばいし)と読むのかと思っていましたが、フリガナは「となえことば」となっていました。七五三の時期だったので、碁盤が置いてありました。碁盤の上から飛び降りるということで、「碁盤の目のように筋目正しく育つ」「ひとり立ちする」「運を自分で開く」という願いが込められているそうです。ちなみに、隅っこに碁盤が置いてあるのは、吉方位を意識しておいてあるそうです。ところで、将棋盤から飛び降りると藤井聡太竜王のようになれるのかな。境内にあった「明徳稲荷神社」です。こちらの神狐さまは、俵と、子供を持っていました。こちらが明徳稲荷神社の拝殿になります。茅場町、兜町に近い都心にありながら、静かで神聖な気持ちになれる神社でした。人気ブログランキング茅場町の日本橋日枝神社
2021年12月01日
コメント(24)
全31件 (31件中 1-31件目)
1