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いよいよ明日から新年度。新しく社会人になる方も多いと思います。できれば皆さん出世したいもの。そんな方に出世の秘密を紹介します。まず、社会人になったら一度は足を踏み入れてみたい、大人の世界、銀座にある金春通りです。ここにあるこの路地を入って行くと、金春通りのもう一本西側にある見番通りにでます。また、ビルの間のこの路地を通っていくと、なとなく心細い感じですが、信じて向こうに見える明りに向かって行きます。出世街道ギャラリーと書いた看板がありました。この路地が出世街道だったのです。【つづく】人気ブログランキング新社会人のみなさんへ(その1) こんなところが出世街道
2021年03月31日
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イタリア街からJRのガードを抜けるとあるのがこの公園。 汐留地区にあるタワーマンションに挟まれた港区立イタリア公園(→→→こちら)です。 「日本におけるイタリア2001年」を記念し同国から寄贈された公園だそうです。 本格的なイタリア式庭園の外観でイタリア製の彫刻、噴水があるのがいいですね。 こちらは、ミロのヴィーナスですね。 イタリア式庭園の特徴である軸線(ビスタ)の中心にあるのが、この噴水です。 この泉という彫刻の抱えた壺からは水が流れ出ています。 【了】 人気ブログランキング 新橋ブラブラ(その7) タワマン住人はイタリア好き。イタリア公園
2021年03月30日
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山手線に乗って新橋駅をでて浜松町に向かう途中で見かけるこの建物日本中央競馬会の「ウインズ汐留」です。浅草や錦糸町にあるウインズとはちょっと違った雰囲気ですね。この近くの広場は、イタリア街と呼ばれています。確かにイタリアと言われればそうなんでしょうが、イタリアに行った事がないのでよくわかりませんが、デートスポットにはいいかも。【つづく】人気ブログランキング新橋ブラブラ(その6) 汐留にあるイタリア
2021年03月29日
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東京では桜が満開。日曜、月曜と雨になるので、土曜日が最後のチャンスかということで花見に行ってきました。最初は、御茶ノ水駅、近くにあるWATARASに咲く桜です。ビルの谷間で咲く桜もいいですね。そして、お花見と言えば、やっぱりここ「上野公園」です。やっぱり沢山の人が集まっていますね。清水観音堂の清水坂から見た桜です。清水観音堂近くの枝垂れ桜。満開はもう少し先かも。園内は当然のことながら、宴席禁止。それでも密になって、桜を撮影。MoMo太郎も、その中で桜を撮影。減量と新型コロナウイルス感染のリバウンドは怖いですね。人気ブログランキング密になってもお花見です
2021年03月28日
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環二通りとJRが交差する付近にある神社。高層ビルの谷間にある赤い鳥居が大都会にある神社という感じ。住所は港区東新橋二丁目なんですが、社号は「日比谷神社」(→→→こちら)です。正確な創建時期は不明だそうですが、元々は日比谷公園内にあったとされる大塚山(心字池付近)に鎮座し、日比谷稲荷明神旅泊(さば)稲荷明神と称されていたそうです。慶長11年(1606)、江戸城増築に伴う日比谷御門造営によって、氏子と共に芝口に移動し九か町の産土神となり。寛永7年(1630)、芝口御門造営により町名が日比谷町から芝口町に改称されたが、社号は現在に至るまで「日比谷」のまま。さらに、関東大震災の影響で昭和3年(1928)の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町2丁目(現・新橋4-13-9)に換地され遷座し、以降新橋の鎮守として崇敬を集めてきましたが、平成21年(2009)に、環状2号線の建設によって再遷座し、現在地に鎮座したそうです。遷座する以前からあると思われる手水舎には「洗心」とあって、心を込めてお清めください。「日陰町壱丁目有志」と刻まれた石碑がありました。日陰町というのは今の新橋二丁目、三丁目あたりのことで、日当たりの悪いところだったんでしょうか。こちらが社殿となっていて、やっばり新しいですね。扁額も新しいと神々しいですね。【つづく】人気ブログランキング新橋ブラブラ(その5) 新橋にある日比谷神社
2021年03月27日
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JR新橋駅烏森口から左へ進んだ新橋4丁目あたりから、虎の門の新たなランドマーク「虎の門ヒルズ」を結ぶ広い道。「環二通り」(→→→こちら)という名称がついていますが、地上街路部は「新虎通り」と呼ばれています。またその昔「マッカーサー道路」とも呼ばれていました。日比谷通りと交差する新橋四丁目交差点付近から、汐留の方を撮影しました。こちらは虎ノ門方面を撮影しました。道路の真ん中にある高層ビルは「虎ノ門ヒルズ」(→→→こちら)です。また、この道路の中央部にはこのような歩道がある区間があります。この環二通り沿いにあるのが、この和菓子店、「新正堂(しんしょうどう)」さんです。創業は大正元年(1912)、新橋で大正元年に創業したので「新正堂」と名付けられたとか。ここの名物と言えば、あんこの量が多すぎて、皮が閉じていない「切腹最中」(→→→こちら)です。サラリーマンが、ミスを犯したときにお得意様にお詫びのお土産として重宝する和菓子です。どうして切腹最中と言う名前かというと、暖簾に染められた家紋が、浅野内匠頭の家紋「丸に違い鷹の羽」と大石内蔵助の家紋「二つ巴」。そして、新正堂さんの近くには浅野内匠頭が切腹をした田村右京太夫の屋敷跡があります。そういえば、このあたりむかし田村町と呼んでいましたね。ということで、忠臣蔵に因んだネーミングのようです。決して、近くの慈恵医大病院で手術を受ける患者さんへのお見舞いの品としてつけた名前ではありません。【つづく】人気ブログランキング新橋ブラブラ(その4) 環二通りの笑って許して切腹最中
2021年03月26日
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こういう看板を見ると、新橋って18歳未満立ち入り禁止の大人の町だなと思います。本当に女子大生が働いているのかどうかは???。でも、最近は親も経済的に大変で、学業の為にこういうところで働いている苦学生の女子大生が増えているかも。そして、それは日本社会の貧困の一側面とも言えるでしょう。こちらは最近、某食品メーカーのCMでよく見かける広告ですね。【つづく】人気ブログランキング新橋ブラブラ(その3) 新橋の気になる看板
2021年03月25日
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新橋のこんな路地のお店へもちょくちょく通っていたこともありました。そして、この路地を奥に入っていくと、こんな風になっていて、その奥にまた、こんな通路があって、烏森神社(→→→こちら)に出ます。恥ずかしながら、若い頃は物を知らず、烏と鳥の区別もつかなかったので、新橋で飲んだ時、ここに来て「とりのもりじんじゃ」と読んで先輩に笑われたことがあります。折角、素面の時に来たので、お参りしておきましょう。こちらが手水舎です。手水舎のところに黒御影石の銘板があり、烏森神社の縁起が記されています。初穂料がもったいないので、例のごとくご朱印はいただきませんでした。こちらが、烏森神社の正面です。さらに烏森通りから入ってくる、こちらが表参道(?)です。戦後の闇市のレガシーを引きずっているようなこの建物。焼き鳥屋さんで、まだ営業しています。【つづく】人気ブログランキング新橋ブラブラ(その2) 烏森神社と古くからのお店
2021年03月24日
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ここ新橋駅前といえば、テレビニュース番組でサラリーマンやOLへの街頭インタビューなどでよく登場するところですね。この駅前広場には蒸気機関車が静態保存されています。多分、MoMo太郎が子供の頃からここに展示されていた思いますが、子供の頃は、物も余り知らずに蒸気機関車といえばデゴイチと呼ばれるD51形蒸気機関車だとずっと思っていましたが、社会人になって新橋で飲んだりする頃になって、これはC11形蒸気機関車だということに気がつきました。新橋駅といえば、東側の汐留口側にも鉄道関連のモニュメントがあります。「D51形蒸気機関車の動輪」と「鉄道唱歌の碑」があります。こちらがD51形蒸気機関車の動輪です。そして、鉄道唱歌の碑です。碑の中央の銘板には作詞者の大和田建樹直筆の鉄道唱歌第1番の歌詞が刻まれています。「♪汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」という歌い出しのこの曲を耳にするとね鉄道の旅が始まるワクワク感がありますね。【つづく】人気ブログランキング新橋ブラブラ(その1) 鉄道モニュメント
2021年03月23日
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新型コロナウイルスの感染拡大とともに注目を浴びたこの食事のデリバリーサービス。皆さんは利用されたことはありますか?残念ながら、我が家ではまだ利用したことがありませんが、もし、配達員さんが小芝風花(→→→こちら)さんや白石聖(→→→こちら)さんのような若くてきれいな女の人なら、「お疲れさま」と言って、家に上がってもらってお茶とお菓子でも出そうかと考えています。「その必要はない」とは家族からは言われました。人気ブログランキングUber Eatsの配達員さんへ
2021年03月22日
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3月14日に桜の開花発表があった東京ですが、満開まではまだまだのようです。でも待ちきれずに曇り空の下、桜を見に行きました。まだ、五分咲きといったところでしょうか。場所は日比谷公園の「鶴の噴水」です。この噴水は、明治38年頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもので、公園等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。春はサクラ、秋から冬にかけてのイチョウ、モミジのと季節ごとに目を楽しませてくれます。そして冬には鶴の像につつらが下がることもあります来週あたりになると、このあたりで働く人たちの目を楽しませてくれそうですね。人気ブログランキング「桜」満開が待ちきれません
2021年03月21日
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身体が野菜を欲していたようで、載せてあるキャベツに惹かれて食べました。「かつや」のソースカツ丼(490円税別)です。人気ブログランキング孤独のグルメ ソースカツ丼
2021年03月20日
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都営新宿線岩本町駅の近くにある昭和通りと水天宮通りの交差点近くの三角形の空き地。単なる空き地と思っていましたが、馬の水飲み広場の跡地だったんですね。初めて知りました。人気ブログランキング岩本町馬の水飲み広場
2021年03月19日
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南千住って、荒川区民以外からは足立区の一部だと思われることも多いそうです。千住は元々、足立区側の地名だったのですが、やがて、千住大橋を架け五街道を整備し、日光道中、奥州道中の最初の宿場町として千住宿が整備されると、千住宿が拡大して、千住大橋を越えて、今の南千住付近も千住宿の一部になったそうです。そんなことが、この説明板からわかりました。国道4号線と南千住駅を結ぶこの道は「山谷通り」なのですが、「コツ通り」として定着しているようです。バス停も「コツ通り」です。商店街の名前も「コツ通り商店街」。このあたり、南千住となる以前は、素戔嗚神社の「瑞光石」があった塚から「小塚原(こつかっぱら)」という地名だったそうです。そして「コツ」の名の由来は、「小塚原を略した」とか「小塚原刑場にあった火葬場に因んで骨(こつ)と付けられた」などの説があるそうです。JR南千住駅に着きました。南千住駅はJR東日本の常磐線・東京メトロの日比谷線・首都圏新都市鉄道のつくばエクスプレスの乗換駅ですが、常磐線はいわゆる快速列車しか止まらず、各駅停車は千代田線経由となるため北千住駅で乗り換えないといけません。そして、帰りは、都バス42系統で帰りました。(今回歩いたコースです)【了】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その7) 「コツ通り」は「骨通り」ではなかったかも
2021年03月18日
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素戔嗚神社の近くに「荒川ふるさと文化館」(→→→こちら)という施設があります。 その前にあるのが、この橋本左内の墓旧套堂です。 橋本左内(1834-1859)は江戸時代末期(幕末)の志士、思想家で越前国福井藩藩士だった人ですが、安政の大獄(→→→こちら)で幕府に捕らえられ伝馬町牢屋敷で斬首されましたが、同じく安政の大獄で捕らえられ刑死した長州の吉田松陰などとともに南千住の回向院に葬られていたそうです。 この套堂は昭和8年(1933)に橋本左内の墓を保護するために南千住の回向院に造られたもので、平成18年(2006)、套堂のみ区に寄贈され、平成21年(2009)、ここに復元されたものです。鉄筋コンクリート造りの仏教建築として先駆けとなった建築物として貴重なものだそうです。 套堂の中には橋本左内の坐像がありました。 橋本左内、14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、福井藩主の松平春嶽(慶永)とともに春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開したことから、今年のNHKの大河ドラマ「青天を衝け」でも登場しそうですね。ちなみに「西郷どん」では、歌って踊れるタレントの多いジャニーズ事務所の中では、歌って踊る姿を見たことはない風間俊介くんが橋本左内役で出演していました。 套堂の横には、福井県と荒川区の関わりを記した看板がありました。 これによると、荒川区南千住の回向院には、福井藩士橋本左内の墓、小浜藩士梅田雲浜の墓があり、また、小浜藩医杉田玄白らの「ターヘルアナトミア」の翻訳と「解体新書」の刊行を記念してつくられた観臓記念碑があるということでした。 こちらは、俳人・金子兜太氏が平成27年に新春区長対談で詠んだ「荒川千住芭蕉主従に花の春」の俳句を刻んだ句碑です。MoMo太郎はどちらかと言うと、金子兜太氏の父親で「伊昔紅(いせきこう)」の俳号で知られる金子元春氏の「元日や餅で押し出す去年糞」という句が好きです。 (今回歩いたコースです) 【つづく】 人気ブログランキングへ 南千住を歩く(その6) 幕末の志士、橋本左内の墓旧套(さや)堂
2021年03月17日
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南千住の素戔嗚神社で見ておくべきもの。それが境内の中にあるこの小塚原富士(こつかはらふじ)と呼ばれる小さな塚です。ここには浅間神社が祀られている富士塚ですが、もともとはこの神社創建のキッカケとなった奇石があります。それが、この瑞光石(ずいこうせき)です。言い伝えによりますと、この神社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇石があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝していたそうです。すると、平安時代延暦14年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾れは素盞雄大神・飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て丁重にお祀りし、素戔嗚神社を創建したそうです。その瑞光石にはこのように祀られています。これが瑞光石です。また、江戸時代には千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川(現:隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されているそうです。さて、この石の表面に小穴があいていますが、これは「房州石」と呼ばれる、千葉県鋸山の海岸で採取される凝灰質砂岩の表面に、貝が住み込むために穴を開けたもので、東京や埼玉周辺の古墳の石室材として多く使用されているものだそうですから、詳しくはわかりませんが、この塚は古墳だったのかもしれませんね。※素盞雄大神とは天照大神の弟。飛鳥大神とは大国主命の息子の事代主神(一言主神)だそうです。(今回歩いたコースです)【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その5) 瑞光石
2021年03月16日
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国道4号線(日光街道)に面している素戔嗚(スサノオ)神社(→→→こちら)です。荒川区内で最も広い地域(町屋地区・南千住地区・三河島地区)の61カ町に氏子を持つ神社だそうです。社殿も立派ですが、手前にあるイチョウの大木も立派ですね。「子育ての銀杏」というそうで、昔は、母乳の出ない婦人がその樹皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁を撒いて幼児の無事成長を祈願していたそうです。現在では、初宮詣(お宮参り)の時に絵馬が奉納されているのだとか。素盞雄大神の別名を「牛頭天王(こずてんのう)」ということから、「お天王さま」とも呼ばれているそうです。江戸の昔は、日光街道は南鳥居前をとおり、こちらが正面のようです。こちらの南向きの社殿には、飛鳥大神(事代主神)が奉られていて、風雅を好む江戸の文人たちには「飛鳥さま」の名が好まれ、文政12年(1829)編纂の『江戸名所図会』では当社を「飛鳥社小塚原天王宮(あすかのやしろ こつかはらてんのうぐう)」と紹介されているのだとか。でも扁額には「素戔嗚神社」と記されていました。(今回歩いたコースです)【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その4) 素戔嗚神社
2021年03月15日
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胡録神社の参拝の後、隅田川沿いを千住大橋の方へ歩いてゆきます。こちらは東京メトロ日比谷線の千住検車区(→→→こちら)です。車両の点検と清掃をするところですね。こちらは隅田川を渡る東京メトロ日比谷線の鉄橋です。この鉄橋の下を抜けて、南千住七丁目に出ます。交差点にあった小さな祠、地蔵堂かと思いましたが、調べてみると山王清兵衛祠(→→→こちら)という由緒のある祠でした。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという祠で、俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしがあったそうです。千住の歯神として有名だったそうです。国道4号線、東京では日光街道と呼ばれる道路に出ました。写真の奥が千住大橋となります。(今回歩いたコースです)【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その3) 千住検車区から千住大橋
2021年03月14日
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子供の頃、祖父に「場末とはどんなところ」と尋ねると、祖父は「南千住みたいなところ」だと教えてくれた。その南千住を歩いています。さて、初穂料がもったいないと思いご朱印は集めていないMoMo太郎ですが、参拝だけはしております。こちらが拝殿です。古びた雰囲気が歴史を感じさせる狛犬ですね。拝殿は、昭和2年(1927)に造営されたものが改修されつつ現存しており、平成15年(2003)には旧汐入地区の再開発に伴い、やや南へ社殿も移されたそうです。扁額も造営当時のままなんでしょうね。神殿は嘉永五年九月十九日改築造営されたものだそうで、やはり旧汐入地区の再開発に伴い移設されたものです。このように地元の歴史ある神社が再開発にもかかわらず保存されているというのは氏子の皆さんの厚い信仰心を感じますね。汐入地区の再開発前後の地図です。左側の地図が昭和53年(1978)発行のもので、右側が現在です。この地図は今昔マップon the web(→→→こちら)で作成しました。境内には記念碑がいくつか建立されています。背面を見てみると、拝殿の改築を記念していました。逆光で見辛いですが、天皇陛下の在位50年を記念した石碑です。こちらは最近の旧汐入地区の再開発に伴い、胡録神社が移設されたことを記念するものでした。訪れた時は丁度、梅が満開でした。紅梅白梅のそろい踏みでした。(今回歩いたコースです)【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その2) 信仰の厚い胡録神社
2021年03月13日
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子供の頃、祖父に「場末とはどんなところ」と尋ねると、祖父は「南千住みたいなところ」だと教えてくれた。南千住が場末という場所かどうかはよくわかりませんが、南千住をちょっと散策してみました。最初に訪れたのは、南千住八丁目、かって「汐入」と呼ばれた地区にあるこの神社です。胡録(ころく)神社です。元は第六天と呼ばれた神社でしたが、1869(明治2)年神仏分離令の際、社号を胡録神社と改称したそうです。由来は、武士が矢を支える武具の「胡簶」又は「胡籙」。或いは当地汐入で盛んに生産されていた胡粉の胡の字と第六天の六に因んだ。の2つの説があるそうです。胡粉について説明したものがありました。胡粉とは、日本画や日本人形、木工品等の絵付けに用いられた白色の顔料です。錫を焼いて作る鉛白(塩基性炭酸鉛)と貝殻から作られる、炭酸カルシウムの二つあるそうですが、現在では貝殻から作られるものだそうです。作り方が説明板にありました。この石臼が貝殻を砕くのに使われたそうです。(今回歩いたコースです).【つづく】人気ブログランキングへ南千住を歩く(その1) 胡録神社の石臼
2021年03月12日
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南桜(なんおう)公園の位置はこちらです。 この公園.の周辺は、江戸時代には多くの大名屋敷があった場所で、幕末には老中の堀田正睦の中屋敷だったそうです。そして、明治10年(1877)に南桜小学校(当時は南桜学校)が開校し、昭和4年(1928)に関東大震災の帝都震災復興事業により小学校に隣接して公園が開設され、昭和25年(1950)に東京都から港区に移管されました。 そして、南桜小学校は平成3年(1991)に、児童数の急速な減少により、隣接する桜田小学校、鞆絵小学校とともに新設の御成門小学校に統合されました。閉校後も小学校の建物は港区住宅公社(2009年3月解散)や福祉会館などに使われてきていたのですが、平成22年(2010)に校舎跡地が南桜公園となり、公園が拡張されました。 そんな経緯もあって、敷地の中には、小学校にありがちな「みんな手をつないで」というテーマのモニュメントや、 創立80周年を記念した板碑とか、 むかしの小学校の必須アイテム、二宮尊徳像などが残されていました。 その他にも、防災拠点としても目的もあるのか、非常時には「かまど」になるベンチや 手押しポンプの井戸もありました。 人気ブログランキング 南桜公園について
2021年03月11日
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新橋と虎ノ門の間にある南桜公園でお花見をしました。ビルの谷間にあるこの公園。「南桜公園」といいます。こちらはもう葉桜になっているかなと思ったら、ベニバスモモという桃の花でした。こちらは正真正銘の桜です。オオカンザクラ、ソメイヨシノより少し早く咲いて、やや濃い目のピンク色ですね。カンザクラの園芸品種でカンヒザクラとオオシマザクラ(あるいはヤマザクラ)の交雑種と考えられるそうです。寒桜よりも花がやや大きいことからオオカンザクラと名付けられたそうですね。オフィス街の一角にあるこの公園、ランチタイムには仕事の合間に花見に来るオフィスワーカーの人が多いでしょうね。【追伸】気がつけば4,000,000アクセスを越えていました。気がつくと、4,000,000アクセスを越えていました。この拙いブログへご訪問いただきありがとうございます。人気ブログランキング新橋でお花見を済ませてきました
2021年03月10日
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新型コロナウイルス感染拡大防止のための非常事態宣言の結果、余り出歩くこともなく、ややコロナ太りが気になるところで、今日のお昼は「もりそば」だけにしました。延長された非常事態宣言、延長になりましたが、予定通り解除できるのでしょうか、なんかダラダラと続くだけのような。気もしますね。それに、ブログやTwitterで色んな人の動向を見ていると、結構、京都に旅行に行ったりとか、箱根に行ったりとか、まあ、それぞれ理由があるのでしょうが、人の行き来も結構あるようですね。飲食店だけ厳しくしてもどうなんでしょうかね。人が動けばそれなりにウイルスも広がるはずなんですが。そういうMoMo太郎もテレワークができない職場なので、毎日出勤していますが。むしろ、ある程度人が動いてこのレベルの感染者が出ても大丈夫なように、医療体制を強化してベッド数を増やすなどしてもらいたいですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ コロナ太りですから
2021年03月09日
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白鬚橋から東に向かって明治通りを歩いてゆくと、「平賀源内顕彰碑」というのがありました。平賀源内(→→→こちら)といえば、江戸時代中期から後期にかけて活躍した発明家で、エレキテル(摩擦起電機)の復元製作や、火浣布(石綿の耐火布)の発明や、「土用の丑の日」わ発案したともいわれる人ですが、最後は誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で病死したと伝わっている人ですが、そのお墓が台東区橋場のここにあるそうです。意外と立派な築地塀にかこまれていました。字が擦れて読めないですが、台東区教育委員会が設置した説明板です。ちなみにこのお墓は国指定史跡になっているそうで、ちゃんとしたものなんでしょうね。中に入ってみました。「史跡平賀源内先生墓入口」と刻まれた立派な石碑が建立されています。これがお墓です。真ん中の笠付の石塔が、平賀源内の墓で、後ろの石塔は従者の福助と言う人のお墓だそうです。そのお墓の横にあるのが、大きな板碑。平賀鳩溪先生墓域修築之碑です。伯爵 松平頼壽篆額とあるので、この題字は、松平頼壽伯爵の手によるものですね。篆額(テンガク)は石碑などの上部に篆文で書いた題字のことです。また松平 賴壽(よりなが)伯爵とは、源内の出身地である旧高松藩藩主の家柄につながる方だそうです。平賀源内の墓は、かってこの地にあった総泉寺(曹洞宗)にあったそうですが、区画整理により総泉寺は昭和三年(1928)板橋区小豆沢へ移転したのですが、香川県の有志の方の尽力で当地に保存されることが記されていました。スペースがなくて変な角度で撮影していますが、この板碑の裏には、杉田玄白の書いた墓碑銘が刻まれていました。平賀源内の葬儀を執り行ったのは杉田玄白でした。彼は江戸時代の蘭学医で国内初の人体解剖をおこない「解体新書」という医学書の刊行した人物で平賀源内とは交流があったのでしょうね。さて、こちらは橋場不動尊(→→→こちら)と呼ばれる天台宗砂尾山橋場寺不動院です。天平宝字4(760)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創され、江戸時代には、周辺の三条公、有馬候、池田備前候などをはじめとする武家の尊信をも集め、明治末年の大火、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に尊信されているそうです。ご朱印を集めている人が多く参拝しているようでした。こういうご朱印を集めている方が多いですが、スタンプ押してなにか文字を書いてもらうだけで初穂料(300円くらい)が必要なので、もったいなくてMoMo太郎にはできません。ちなみに不動尊とは、不動産屋さんの守り神ではなく、「動かない守護者」を意味し、インド神話のシヴァ神の別名となっています。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てる神です。不動明王はその教えを受け継ぎ、仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守る仏さまということです。(このあたりの地図です)【了】人気ブログランキングへ「川の手通り」を歩いてみました(その10) 平賀源内のお墓
2021年03月08日
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川の手通りと明治通りの交わる白鬚橋西詰交差点にある石碑です。 かつての白鬚橋西詰一帯は風光明媚な土地で、著名人の屋敷が軒を連ねていたそうで、そのひとつには三条実美の別邸の対鴎荘がありました。三条実美は、幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。内閣発足以後の内閣総理大臣も兼任してた人物です。 これは、その別邸があったことを記す石碑です。 その別邸に明治天皇も訪れたことから、その歴史を記す「明治天皇行幸對鴎荘遺蹟」という石碑です。 石浜神社のある荒川区には、かってこの地にあった石浜城と呼ばれるお城があったそうです。 その跡地と思われるここに石浜城址公園がありました。 石浜は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、 石浜城の築城年次は不明だそうですが、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城だったそうです。 小田原の北条氏滅亡の後、廃城となったようです。 石浜城の位置には諸説あり、関東大震災以前に台東区橋場にあった総泉寺が武蔵千葉氏の菩提寺で、石浜城もその側にあったとされているそうですが、荒川区南千住の石浜神社付近にあったとする説と、台東区浅草の本龍院(待乳山聖天)付近にあったとする説に分かれているそうです。 (このあたりの地図です) 【つづく】 人気ブログランキングへ 「川の手通り」を歩いてみました(その9) 対鴎荘の石碑と石浜城址
2021年03月07日
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隅田川に架かる白鬚橋が見えてきました。(ヒゲの字に注意です! あごひげを意味する「鬚」を使うそうです)川の手通りの終点、白鬚橋西詰交差点に到着しました。ここから先は台東区橋場となりますが、この先の道は「川の手通り」と呼ばれないようです。ここから先は、言問橋西詰に向かって一方通行です。また橋場という土地柄のせいか、それとも建物が建て込んでいるせいか、この先は道路も整備されていないようです。白鬚橋の親柱です。この装飾があるのは大正から昭和初期の時代に建設された橋の特徴なのでしょうか。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキングへ「川の手通り」を歩いてみました(その8) 白鬚橋西詰交差点
2021年03月06日
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折角、来た石浜神社です。お参りさせてもらいました。石の鳥居がに2基建立されていました。また、ここは浅草名所七福神(→→→こちら)のひとつ「寿老人」が奉られています。こちらが拝殿です。この石が積み上げられたものは、富士遥拝所で、江戸時代に普及した富士信仰の一端を示すものですね。招来稲荷神社と白狐神と豊受大御神に関する神社も奉られているのですね。寿老人はこの中に奉られていました。また、石碑も多く建立されています。江戸時代の高名な儒学者亀田鵬斎の詩を刻んだ石碑だそうです。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキングへ「川の手通り」を歩いてみました(その7) 石浜神社
2021年03月05日
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川の手通りに沿って歩いていくと、スカイツリーもよく見えますね。道路沿いの小さな公園(?)というか空き地。ここは、真先銭座跡です。江戸時代、隅田川沿いの橋場周辺には銭座が置かれていたそうで、この真先銭座は、江戸時代末期の文久2年(1862)、橋場町にあった酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷地跡に、天保通宝鋳造のため設置されたものです。当時の絵図などから、現在の石浜神社から旧隅田川貨物駅引込線あたりまで広がっていたと推定されています。平成2年3月の試掘調査では天保通宝銭等が出土したそうです。そして、先に進むと、石浜神社(→→→こちら)がありました。向こう側に見えるガスタンク。ガスホルダーというのが正式な名称のようですが、需要の少ない時間にガスを貯蔵し、需要の多い時間にガスを送り出すための施設だそうです。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキング「川の手通り」を歩いてみました(その6) 真先銭座跡
2021年03月04日
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隅田川には入り江のようになった場所がありました。ここは、瑞光橋公園として整備されています(→→→こちら)。この入り江は、かってこの近くにある隅田川貨物駅の構内には水路があり、川からの出入りができるようになっていた痕跡だそうです。この入り江に架かる橋が、橋の親柱が波のようにデザインされた、瑞光橋です。「瑞光」という名前は南千住の素戔嗚神社にある「瑞光石」(→→→こちら)に因むのでしょうね。この橋の歴史についても解説されていました。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキング「川の手通り」を歩いてみました(その5) 瑞光橋
2021年03月03日
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胡録トンネルを出て、 水神大橋を過ぎると、また、トンネルが見えてきました。 瑞光(ずいこう)トンネルという名称でした。 瑞光という縁起のいい名前は、南千住にある瑞光小学校(→→→こちら)にも使われていますが、もともとは、ここから西の方へ行った、国道4号線沿いにある素戔嗚神社(→→→こちら)の境内の、 神社創建の起源となったこの小塚の中にある。 この祠の中の この穴が掘られた跡の残る「神影面瑞光荊石(しんえいめんずいこうけいせき)という霊石で、通称「瑞光石(ずいこうせき)」と呼ばれている石に因むものです。 文政12年(1829)編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚が打ち込めなかったという伝承を紹介されています。 しかし、この表面にある小穴はがあいていますが、これは「房州石」と呼ばれる、千葉県鋸山の海岸で採取される凝灰質砂岩の表面に、貝が住み込むために穴を開けたもので、おそらくここが古墳で、その石室材として運ばれてきたものではないかとも言われています。 瑞光トンネルを抜けると、東京都立産業技術高等専門学校(→→→こちら)荒川キャンパスが見えてきます。こちらの荒川キャンパスは東京都立航空工業高等専門学校の流れを受けて、航空実習館「汐風」という施設があります。 (このあたりの地図です) 【つづく】 人気ブログランキング 「川の手通り」を歩いてみました(その4) 瑞光トンネル
2021年03月02日
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隅田川沿いに川の手通りを進んでいくと、川筋に沿って道路が湾曲しています。そして、堤防の下を抜けるトンネルになっていました。トンネルの上の堤防からは、隅田川の向こう岸に都営白髭東アパートと首都高速向島線が見えます。さらにその下流側には隅田川を渡る水神大橋が見えます。こちらは堤外地側の汐入公園、晴天の下、多くの人が春めいた一日を過ごしていました。このトンネルは「胡録(ころく)トンネル」という名称ですが、この名称は、汐入地区の氏神様、胡録神社(→→→こちら)に因んだ名称でしょうね。胡録という名前は、かつては神仏習合によって大六天を祀る神社であったのが、明治時代の神仏分離政策により、当時の汐入で生産が盛んだった胡粉の「胡」と大六天の「六」を「録」にした「胡録神社」に改称されたそうです。ちなみに、「胡粉(ごふん)」とは貝殻から作られる白色の顔料で、日本人形などに使われているものです。(このあたりの地図です)【つづく】人気ブログランキング「川の手通り」を歩いてみました(その3) 胡録トンネル
2021年03月01日
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