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東京都台東区、アメヤ横丁(アメ横)にある「摩利支天徳大寺」(→→→こちら)。アメ横で買い物したりする時によく前を通るのですが、今までお参りしたこともなかったので、思い切って参拝してみました。ちなみに、このお寺の下にある「二木の菓子」にはよく行くのですが。お参りしたのは8月31日、丁度、摩利支天の縁日にあたる「亥の日」でした。なかなか賑やかな雰囲気のお寺です。参道の入口にあった略縁起、このお寺の歴史のダイジェスト版ですね。当山は凡そ六百年前この地に創立せられ摩利支尊天を祭祀し奉る。当山安置の尊天は力(気力、体力、財力)の守護神として諸天善神中最も霊験顕著なり。依って、古来より諸衆の崇敬絶えず、現前の清衆歩を進め詣でられんことを。昭和34年己亥年正月吉日とありました。こちらの説明板には、もう少し詳しく記された縁起が書かれていました。境内には銅像が建立されています。こちらは「妻戀地蔵」という縁結びのお地蔵様だそうです。こちらの正式名称は「日蓮宗妙宣山徳大寺」ですから、日蓮上人の銅像もありました。摩利支天像を奉安しているので、摩利支天大徳寺と呼んでいるのですね。摩利支天のマリシは「威光・陽炎」の意味だそうで、参詣祈願の人々に「気力・体力・財力」を与え、「厄を除き、福を招き、運を開く」という神様です。、諸天善神中もっとも霊験顕著な守護神であると伝えられております。そして猪(亥)は摩利支天の眷属(けんぞく=従者)であることから、猪(亥)の石像もあります。そんなわけで、12日ごとににやってくる亥の日(いのひ)が摩利支天の縁日で、この日に参詣すれば神仏と縁を結べるということで、特別な御利益があるそうです。本堂正面に掲げられる扁額「威光殿」。威光の化身たる大摩利支尊天の拝殿の意味で、吉田茂・元総理大臣の揮毫によるものだそうてす。そうそう、総理といえば、自民党新総裁に選出された岸田文雄氏、選ばれた経緯はさておき、頑張って停滞気味の我が国経済を蘇られせて、率いる派閥、岸田派の前身の宏池会(→→→こちら)の創設者で第60代内閣総理大臣の池田勇人のような歴史に名を残すような総理になって欲しいですね。【了】人気ブログランキング上野周辺(その4) 摩利支天徳大寺
2021年09月30日
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上野駅入谷口の目の前にあるこの岩倉高校(→→→こちら)全国でも数少ない鉄道関係の教育を行う日本最古の鉄道学校。また、過去に野球部が甲子園へ数回出場したことがあります。第56回選抜高等学校野球大会(1984年)では優勝したこともありました。上野駅浅草口の方に行くと、赤い外観の建物がありました。裏に回ってみると、サウナ&カプセルホテル北欧(→→→こちら)です。サウナは今ブームらしいですね。タナカカツキ原作の漫画『マンガ サ道~マンガで読むサウナ道』(講談社)(→→→こちら)がテレビ東京てテレビドラマ化(→→→こちら)されて、それによく登場するサウナだそうです。しかし、なんか熱い蒸し風呂に入って、そのあと水風呂に入るという、あんな拷問のような行為で気持ちが良くなるそうですが、MoMo太郎はまだ経験していません。【つづく】人気ブログランキング上野駅周辺(その3) サウナ北欧
2021年09月29日
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上野駅から御徒町駅のJRの高架の東側にある上野駅前通り商店街で見つけた石碑です。三つの石碑が並んでいました。「芭蕉 花の雲鐘は上野か浅草か」 昭和60(1985)年3月14日建立の石碑です。松尾芭蕉の「花の雲鐘は上野か浅草か」という俳句の意味は、「春満開の桜の花の向こうから聞こえてくるのは上野の寛永寺の鐘の音か浅草の浅草寺の鐘の音か」ということなんでしょうけど。芭蕉の生きた江戸時代は騒音はなかったとしても、寛永寺時鐘堂と浅草寺弁天にある時の鐘は2~3kmは離れているので、両方の鐘の音が聞き取れて桜の花が沢山咲いている所ってどこなんでしょうかね。また、日本全国を旅してきた俳人の割には、上野と浅草の方角もわからない方向音痴だったのでしょうか。なんとなく嘘っぽい内容の俳句だなと思ってしまいました。かねの鳴るまち 上野駅前商店街 かねの鳴るまち 昭和五十九年四月建立 台東区長 内山栄一と記されていました。かねは鳴るもので成るものではなかったのですね。こちらは「東北・上越新幹線上野駅開業記念 昭和60年3月14日」という石碑。アメ横にも「東北・上越新幹線上野駅誘致住民運動発祥の地」の石碑もあったってことは、新幹線の上野駅ができたってことは、この街の人達にとって相当嬉しい出来事だったんですね。【つづく】人気ブログランキング上野駅周辺(その2) 東北・上越新幹線上野開業記念碑
2021年09月28日
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アメ横通りと上中通りに別れるY字路にあるアメ横センタービルの前にあったモニュメントです。この頭でっかちの人形と銘板がモニュメントになっています。頭でっかちな人形のような 不思議な造型物からテレパシーらしいものが送られて、新幹線開業にまつわる話を思い起こさせてくれました。昭和45年(1970)の「新幹線鉄道整備法」により、 東北新幹線・上越新幹線・成田新幹線の3線が計画されました。そして、 東北・上越新幹線の建設ルートは 東京駅始発で 「北の玄関口だった上野駅は通らない」と発表されたのです。それに対して、地元の上野駅誘致運動が発足し、昭和51年(1976)に総決起大会が開催されたのを皮切りに, 台東区とアメ横商店街などの地元商店会などによる署名運動や陳情活動が展開され, 30万人近い署名が集まるなどの盛り上がりを見せていました。その結果, 昭和52年(1977)に新幹線上野駅設置が正式決定されました。東北新幹線は, 昭和57年(1982)6月に大宮~盛岡間が開業, 昭和60年(1985)3月には上野駅まで延伸され、ようやく平成3年(1991)6月に東京~盛岡の全路線が開業しました。盛岡以北への延伸は、さらに時間がかかり、平成14年(2002)12月に盛岡駅 - 八戸駅間が、平成22年(2010)年12月には八戸駅 - 新青森駅が開業して全線が開通しました。さらに、平成28年(2016年)3月には北海道旅客鉄道(JR北海道)北海道新幹線 新青森駅 - 新函館北斗駅間が開業して、新幹線に乗って北海道まで行ける時代になりました(MoMo太郎が、北海道に行くとしたら飛行機を使うと思いますが)。また、上越新幹線は, 新宿駅が起点になる計画だったのですが、東北新幹線と同じ路線による東京始発に変更され, 昭和57年(1982)11月に 大宮~新潟間が開業。その後は東北新幹線と同様に延伸され、平成3年(1991)までに東京~新潟の全路線が開業しています。ところで、成田新幹線は、その後建設計画が中止になりましたが、東京駅 - 越中島貨物駅間の用地を京葉線に転用し、JR東日本成田線(空港支線) 成田 - 成田空港間と京成本線 駒井野信号場 - 成田空港間の両路線が成田新幹線用に完成していた成田空港駅への乗り入れを開始し、また、平成22年(2010)には北総鉄道北総線を延伸され京成成田空港線(成田スカイアクセス) として開業することで成田新幹線(らしいもの)は姿を変えて実現されたようです。銘板の内容です。東北・上越新幹線 上野駅誘致住民運動発祥の地 讃東北・上越新幹線上野駅設置という国家的 大事業は、台東区民が昭和四十六年二月新幹 線誘致運動を開始して以来、台東区民の総力 を挙げたねばり強い行動の積重ねにより実現 しました。時に、昭和四十六年十月「東京駅を起点と し,上野には駅を造らず,上野公園地下を通 過」という国鉄の新幹線計画発表は、地元台東区に大きな失望を与えました。この挫折の 時期をのりこえ、昭和五十二年十二月台東区案による新幹線上野駅設置決定に持ちこむま での上野駅誘致実現期成同盟・同住民運動本部を始めとする関係地元団体の積極的な活動 に対しまして、心から敬意を表します。ここに、新幹線上野駅開業による台東区の発展を祈念し、長年誘致運動に尽力された方々のご労苦を讃えるため、「上野駅誘致住民 運動発祥の地」と刻み顕彰します。平成三年三月吉日東京都台東区長内山栄一【つづく】人気ブログランキング上野駅周辺(その1) 東北・上越新幹線上野駅誘致住民運動発祥の地
2021年09月27日
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高椅神社は「料理の神様」を祭る神社ですが、別名「鯉の明神さま」としても知られています。伝承では、長元2年(1029)、境内に井戸を掘ったところ大きな鯉が出たので、これを都に報告したところ、時の後一条天皇は誠に霊異なことであるとして「日本一社禁鯉宮」の勅額を授けたそうです。以来、当社氏子は鯉を食べず、鯉の絵が描かれた器は使わず、5月にこいのぼりも立てないとのことです。神社の南側にある神池を「千年の池」というそうです。大きな看板がありました。どうして「千年の池」という名前なのかはわかりませんでした。千年の池に至る小径は、「鯉・恋ロード」という名前がついていました。これって、地域の宣伝のために、なんか無理矢理つけたような感じですね。顔ハメも設置してあり、なんとなくデートにも使えそうです。確かにデートでちょっと笑いを取りたい時には訪れてもいいような場所かも。そして、この池が「千年の池」です。「千年の池・鯉の里親」放流記念絵画という地元の小学校の皆さんの絵が飾られていました。経緯というのが書いてあったので読んでみました。『千年の池・鯉の里親』事業参加にあたりまして、「鯉の明神池」の復活のため、地域の皆様とともに福良小学校児童として 何が出来るのかを考えました。「大人は鯉・子供は鯉の絵」を、「福良のまちじまん」になるような絵を描くことになり、多くの喜びのため、沢山の鯉が泳いでいます。千年・千匹の復活を祈念し、子どもたちの力作を是非ご覧になってください。クイズです。鯉は何匹が泳いでいますか?数えてみてください。小山市立福良小学校児童 平成二十二年十月九日千年の池は 高椅神社『鯉』の伝説~「日本一社 禁鯉宮」の元になった「鯉の明神池」を復元した時に鯉を放流したんですね。千年の池のことちょっとわかりましたちなみに、ここにあった小山市立福良小学校は、平成29年度からは、福良小・梁小・延島小・絹中の4校が再編され「絹義務教育学校」(前期課程)として、新たに開校したそうです。やっぱり、子供が少なくなってきたんですかね。それとも教育予算の削減ですかね。ちなみに、鯉の餌も100円で売っていましたが、でも、水面を見たところ鯉の姿は確認できませんでした。夏の暑い日だったので、このハスの花の影に隠れているのかも。東の方角には筑波山が見えました。また、桜の季節、ハスの花の季節には、恋人と来てみたいかも。そして、お相手の彼氏や彼女には料理が上達していただければ、幸せです。【了】人気ブログランキング高椅神社(その3) 鯉、恋がすむ「千年の池」
2021年09月26日
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この神社は、景行天皇41(111)年創建と伝えられています。まさかその時からの樹木ということはないでしょうが、神社には大きな木がありました。夫婦御神木たそうです。大きなケヤキの木ですね。こちらの立派な朱塗りの建造物は楼門です。栃木県指定建造物高椅神社楼門と記された標柱がありました。この楼門は、平成7年8月22日に栃木県指定有形文化財に認定されたそうです。神社のある場所は、現在は栃木県に属しますが、江戸期以前は、下総国結城郷になります。中世には下総国結城氏の保護下に置かれ、歴代当主によって保護されていた。 結城政朝、結城政直、結城政勝、結城晴朝、結城秀康の各城主の寄進状、祈願文、修行留等20通余が現存する。 殊に秀康が越前福井へ国替になった後も代々例度の代参を欠かすことがなく、明治維新まで続けられたそうです。この楼門は戦国武将の結城政勝が弘治元年(1555)に改修され、その後破損し、結城城主水野氏の寄進に再建され、宝暦4年(1754)より明和7年(1770)までの16年の歳月を要して完成したものだそうです。建物のいたるところに装飾彫刻が施され、派手な感じですね。全体的に新しい感じがするのは、2017年から2018年にかけて修復工事が行われたためです。見事な彫刻ですね。楼門は随身門でもあり、神社を守護する門守神を安置した神門でもあります。守護神像を左右に安置しており、この二神は閽神(かどもりのかみ)あるいは看督長(かどおさ)といわれ、俗に矢大臣・左大臣と称されるそうです。こちらはむかって左側にある矢大臣神像です。こちらは向かって右側の左大臣像です。そして拝殿にお参りさせていただきました。正一位というのは最上位の神社と言うことですね。【つづく】人気ブログランキング高椅神社(その2) 栃木県指定有形文化財の楼門
2021年09月25日
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栃木県小山市高椅にある高椅(たかはし)神社(→→→こちら)です。小さな田舎の神社のようですが、この神社は料理人の間では信仰を集める料理の祖神として知れた神社のようです。料理の祖神といわれるのは、この神社の祭神が磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)であることに由来しており、磐鹿六雁命は、景行天皇に従って東国に下った際、鰹・白蛤作って献上したところ、膳臣の姓を賜り、後に改姓し高橋となり、現在地に神社を建立したと伝わっていることに起因しているそうです。にもかかわらず、何故か聖徳太子の石碑がありました。本殿手前にあるこの「包丁塚」は、料理で使う包丁を供養しようと、栃木県内外のホテルや料理店からの寄付で1986年に完成したそうです。庖魂と記されています。揮毫は衆議院議員小平久雄(1910-1998)(→→→こちら)でした。政治家になるつもりなら、立派な字を書けるように習字の稽古が必要なんでしょうね。こちらの石碑。何と書いてあるのか読めませんでしたが、大事にされているようなので撮影してしまいました。こちらは地元の短歌の愛好家が詠んだ歌の石碑ですね。このあたり結城紬の産地でもあるんですね。【つづく】人気ブログランキング高椅神社(その1) 料理の祖神
2021年09月24日
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テレビ東京の「孤独のグルメ」の主人公、井之頭五郎は食べ物屋さんに行っても失敗することはないですが、MoMo太郎の孤独のグルメは、時々、ハズレの食事をしてしまうことが多々あります。今回、紹介するかつやの「塩カツ丼」(税込み649円)もその一つです(あくまで、個人の感想です)。塩をベースに味付けされたカツはそれなりに変わった味で、美味しく食べられました。むしろ普通のカツ丼のカツよりもさっぱりと食べることができていいのですが、下の白ご飯を食べる時に物足りないものがありました。普通のカツ丼であれば、卵とじの出汁が下のご飯にしみ出していて、ご飯も一気に行けるし、また卵とじでないソースカツ丼でもしみ出したソースがご飯を食べ進める味になるのですが、この塩カツ丼は白ご飯は白ご飯として食べて行かないといけないのです。白ご飯の味を感じて食べることができる人には、いいのかもしれませんが、MoMo太郎にはちょっと下の白ご飯を食べきるのは難しかったのです。まあ、これは期間限定メニューのようだったので、次からは普通のカツ丼を食べることになると思います。人気ブログランキングへ孤独のグルメ かつやの塩かつ丼
2021年09月23日
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ネタがないので、最近読んで気になった記事についての感想です。その内容は、「宮里藍さんを輩出した〇〇高校の出身」。という表現に違和感がありすぎて、気持ちが悪すぎて、嫌な夢を見そうでした。ということでした。その理由として、「輩出する」という言葉は、人物が続々と世に出てくるという自動詞であり、用法がおかしいとのことでした。自動詞の「が輩出した」と他動詞の「を輩出した」がどの程度使われているかGoogleで検索してみると。「が輩出した」が約 14,000,000 件、「を輩出した」が約 71,500,000 件のヒットとなりました。ちなみに、MoMo太郎の持っている新明解国語辞典(第八版)によれば、輩出 ーする(自他サ)※ (次から次へと)多くの有為の人物が世に出る(を世に出す)こと。「この私塾からは優秀な人材がーした/理数系の学者をーした名門大学」註※「自他サ」とは名詞のほかにサ変動詞の用法、動詞の用法としては自動詞、他動詞があるという結果で、他動詞として使うのはあながち誤りとしてなっていないようですね。ただ、今回調べてみてわかったのは、元々は自動詞としての用法しかなかったそうで、辞書によっては、未だに自動詞の用法のみとしているものもあるそうです。そんなわけで、この方は今まで、新聞を読んだりする都度、随分気持ちの悪い思いをされてきたのですね。ちなみに沖縄県出身の宮里藍が卒業した〇〇高校は仙台の東北高校ですが、この学校はダルビッシュ有、荒川静香などの有名アスリートが輩出しています。ですが、確かに宮里藍が輩出、つまり続々と現れるとホラーですね。人気ブログランキング新明解国語辞典によれば
2021年09月22日
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西日暮里のJR宇都宮線の近くにあるイトーヨーカドー(→→→こちら)です。小さいけどセブンイレブンではありません。これは、ネットスーパーに特化した店舗だそうです。ネットスーパーとは、店頭で販売している商品をインターネットで注文できるシステムなんだそうですが、店舗がないとAMAZONとの違がないので、わざわざ店舗を作ったのかというとそうではなく、酒類・医薬品等の免許商品をネットスーパーで取り扱うために、「実際に店舗を構えて販売している」ことが法律上条件となっているからだそうです。ということで、この小さなイトーヨーカドーのおかげて、今までイトーヨーカドーのお店がなかった銀座や上野にお住まいの方でも、イトーヨーカドーの商品が買えるというわけですね(→→→こちら)ちなみに、このイトーヨーカドーの裏手、JR宇都宮線から見えるこの大きい建物がネットスーパーの本体のようですね。人気ブログランキング小さいイトーヨーカドー
2021年09月21日
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所用があって茨城県常総市石下に車で来たついでに、下妻市にあるここに立ち寄ってみました。筑波サーキットです。ここは、昭和45年(1970)の開設以来、首都圏におけるモータースポーツの重要拠点として有名なところです。鈴鹿サーキットや富士スピードウェイなどと比べるとコース長は短いそうですが、全日本選手権クラスのレースが開催できる施設が整っているので、2輪/4輪のレースが多く開催されてきています。また、オートレース(→→→こちら)の選手養成所も併設されています。だから、こんな広告看板があるんですね。イベント開催以外の日は、筑波モータースポーツメンバーズ(サーキットライセンス会員)のためのスポーツ走行、ファミリー走行に解放しているそうで、ライセンスを持っていれば、サーキットで走行することもできるそうです。また、車両メーカーや専門誌などのテスト走行、一般の方による走行会、各種イベントなどにも貸し出しをしているそうです。一般財団法人日本オートスポーツセンター(JASC)が運営に当たっているのですね。こちらが、日本オートスポーツセンターの事務室なんでしょうか、レースクイーンのお姉さんなんかもここで働いているのかな。人気ブログランキング筑波サーキット
2021年09月20日
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麟祥院(→→→こちら)の境内です。左手には石仏が並んでました。春日局墓所の案内図と順路を示す矢印があって、春日局の墓所には迷うことなく行けました。こちらの石碑は、東洋大学発祥之地碑です。明治20年(1887)には、この寺の一棟を借りて仏教哲学者の井上円了は境内に、東洋大学の前身である哲学館を創設したこと記念する石碑です。ちなみに、麟祥院の裏手には東京大学があります。こちらが春日局墓所です。石柱には春日局御廟所と記されています。春日局の墓石の四方及び台石には、夫々穴が開けられています。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい」と言う春日局の遺言によるものだそうです。春日局の強運と賢徳に、又墓石に穴が通っていることから、春日局に肖(あやか)って「願いが通る」と江戸時代より巷間に伝えられてひそかに参詣する人が多くあったそうです。【了】人気ブログランキング春日局を訪ねて(その3) 春日局御廟所
2021年09月19日
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麟祥院は、臨済宗妙心寺派の寺院で山号は天沢山というそうです。扁額の 「海東法窟」は中国から見て海を隔てた東にある法の寺との意。春日局の菩提寺として知られています。寺号の麟祥院は春日局の法号は「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」に因んでいるそうです。境内には春日局の墓や哲学館跡という史跡があります。これは、寺域の外界を示すために建てられた結界石(けっかいせき)です。「不許葷酒入山門」という文字が刻まれています。「葷酒(くんしゅ)、山門に入るを許さず』と読むそうです。臭気の強い野菜(ねぎなど)は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないという意味だそうです。【つづく】【追伸:元反社ではいかんでしょう】自民総裁選4氏立候補 次期首相選出へ論戦火ぶた―初の複数女性候補、29日投開票ということで、いよいよ自民党総裁選がはじまりましたが、国会議員でもなくまた自民党員でもないので、どなたが総裁になったかの結果を受けて、MoMo太郎、来るべき衆議院選では誰に投票するか決めたいと思っています。しかし、絶対、この人だけは「アウト!」と言いたいのは、野田聖子氏。仮にこの記事にあることが真実だとしたら、野田聖子幹事長代行の夫は元暴力団員 「警察庁文書」に記載野田聖子の夫は「元暴力団員」と裁判所が認定 約10年間組員として活動【上半期ベスト15】それはもうこの人が日本の総理大臣になるのはいかんでしょう。まあ、どなたが総理大臣になられても反社とは関係があるのかもしれませんが、配偶者が「元」であったとしても暴力団員だったら、それは日本はヤクザに支配された国と海外の人達に思われるだけですよね。人気ブログランキング春日局を訪ねて(その2) 麟祥院
2021年09月18日
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春日通り沿いにこの銅像を見つけました。ここは、東京都文京区湯島にある麟祥院(りんしょういん)という臨済宗のお寺の前です。春日局(→→→こちら)の銅像だそうです。そう言えば、後楽園近くの礫川公園に同じような銅像があったなと思ったら、2020年8月にこちらに移設されていたそうですね(→→→こちら)。銅像の後ろには石碑がありました。碑文を読むと、昭和64年(1989)1月からのNHK大河ドラマ「春日局」の放映を契機とし、平成元年(1989)に造立されものだとか。ということは、この銅像のモデルはやっぱり、大原麗子(→→→こちら)さんでしょうか。【つづく】【追記:本富士警察署は東大生に馴染み深いのか】昨日のブログ記事で、本富士警察署は東大生に馴染みが深い理由を知りたいとコメントされました。理由としてよく言われるのが、東大生が国家公務員試験に合格して、いわゆるキャリア組の幹部候補生として警察庁に採用された場合には、もともと管轄内には東京大学があることから、(1)キャリア組が所轄署にて現場研修をする場合は本富士警察署になることも多いとされる。(2)本富士署長は、警察キャリアの中でも有望な若手が就任するポストとして知られていて、第16代警察庁長官の国松孝次(何者か、オウム真理教の信者とも言われている、に狙撃された人です)、そして、安倍晋三内閣で内閣情報官を務める北村滋も、本富士署長を経験しているそうです。まあ、それらのことは国家公務員志望の東大生では知られていることなのかもしれませんが、MoMo太郎の同業者で東京大学出身者は、本富士警察署の捜査員が学生運動の内偵をしている噂があると言っていました。人気ブログランキング春日局を訪ねて(その1) 春日局像のモデルは?
2021年09月17日
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東大生には、多分馴染みが深い「本富士(もとふじ)警察署」文京区本郷七丁目にあるのに本富士警察署ってなんか変だなと思っていました。そしたら、春日通りを歩いていて、この神社に気がつきました。江戸時代前にはここに「富士浅間神社」が鎮座していたのですが、江戸時代に「加賀百万石前田家の上屋敷(東部は富山・大聖寺両支藩の屋敷)」となったので、「富士浅間神社」は駒込へ移転しました。そして「浅間神社の元鎮座地」との意味合いで「元(本)富士」と町名が付けられたそうなんですね。ということで、いまでも小さい拝殿が鎮座していました。その横には「冨士淺間大神」と刻まれた石碑もありました。人気ブログランキング本富士の地名の由来
2021年09月16日
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江東区の清澄通り沿いにある深川ふれあいセンターです。ここは江戸時代の作家、曲亭馬琴(→→→こちら)誕生の地でもあったそうです。江戸時代後期の小説家。明和4年(1767)6月9日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元年(1848)11月6日、82歳で病没しました。本名は滝沢興那、また著作堂主人などと号しました。安永4年(1775)、9歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、安永9年(1780)、14歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、寛政2年(1790)山東京伝のもとに入門しました。翌寛政3年(1791)正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙「尽用而二分狂言」を発表しました。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。天保5年(1834)ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けました。読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約470種にものぼる著作を残しています。 平成9年(1997)3月 江東区教育委員会人気ブログランキング曲亭馬琴誕生の地
2021年09月15日
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深川、門前仲町の葛西橋通りに目立たないようにある石碑です。江戸時代の商人、天文学者・地理学者・測量家である伊能 忠敬(いのう ただたか)(1745-1818)の住居がここにあったそうです。地元などでは親しみと尊敬の念をこめて「いのうちゅうけい」とも呼ばれているそうですが、その地元とは門前仲町のことではなく、千葉県香取市の佐原です。伊能忠敬といえば、寛政12年(1800)55歳の時から、17年をかけて日本全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。異色の能力、つまり異能な人ですね。そして石碑の各面には、忠敬の歴史が簡潔に刻まれていました。作成した「大日本沿海輿地全図」は非常に正確な地図で、明治17年(1884)には陸軍参謀本部測量部(国土地理院の前身の1つ)によって作成された「輯製(しゅうせい)20万分1図」の基本図としても利用されているそうです。このような正確な地図を作った秘訣は、やはり伊能忠敬の几帳面な性格が一因かもしれません。忠敬は最初、歩測で距離を測ったそうで、一歩が正確に69cmとなるように鍛錬してたことや、何人もが同時に歩いて平均値を採るなどの方法を用いていたかもしれません。距離がわかり、次の目的地までの角度がわかると地図を描けますが、人間がやることですから誤差もでてくるでしょう。その修正のために、たとえばある地点から見えた高い山を目印にして、その地点からこの距離と角度で進むと目印の高い山はこの方向に見えるはずとして、実測値との差を用いて補正したのでしょう。このやり方は現在の測量でも使われています。また、それが山ではなく北極星との角度を測定して測量結果の修正に利用していたとも思われます。しかし、50歳を過ぎたお爺さんの伊能忠敬が、日本地図を作るという大プロジェクトに挑んだのでしょうか。それは、地球の子午線の弧長、つまり地球一周の長さを求めたかったからだと言われています。当時は、18世紀後半に、フランス科学アカデミーによってダンケルク-バルセロナ間の子午線弧長の測量が行われました。また、ドイツの天文学者・数学者ベッセル(Bessel)は、1841年、ベッセルは当時世界中で測量された結果をもとに、地球の形がやや扁平な楕円体であることを導き出しました。この楕円体は日本でも2002年まで、測量の基本となる楕円体として利用していました。つまり伊能忠敬は、世界の先端科学に関する研究を手掛けていたわけです。また、伊能忠敬は三次元では楕円体である地球を二次元の平面に変換する手法、地図投影法、つまりちょっとは聞いたことのあるランベルト正積円筒図法、メルカトル図法という方法を知っていたわけですね。しかもこの投影法、テイラー展開等の数学の知識を要求されるのですから、本当に異能な人だと思います。人気ブログランキングへ伊能忠敬住居跡の石碑
2021年09月14日
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日暮里駅に向かう途中でちょっと道を逸れると、ちょっと変わった建物が。朝倉彫塑館(→→→こちら)というそうです。文化勲章受章者である彫塑家、朝倉文夫 氏(1883-1964)(→→→こちら)が住宅兼アトリエとして使用していた建物だそうです。 敷地全体が「旧朝倉文夫氏庭園」として国名勝に指定され、建物は国有形文化財に登録されているそうです。こちらは谷中霊園です。谷中霊園を歩いて、墓地の縁から山手線や京成線が眺められます。京成の車両も撮影できました。もう少し頑張ってスカイライナーを撮影してもよかったですね。ようやく日暮里駅に着きました。【了】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その7) 朝倉彫塑館、谷中霊園経由で日暮里駅へ
2021年09月13日
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道灌山通りからよみせ通りに入ります。正式名は「よみせ通り商栄会」というそうです。アーチの真ん中のイラストはお地蔵さんです。やはり夜店というだけに夜も賑やかな商店街だったんでしょうね。大正9年(1920)年に、駒込染井から上野不忍池までを流れていた藍染川が暗渠化され、その上に道幅8mの通りがつくられたのがこの商店街の始まりだそうです。この商店街を歩いていきます。商店街の入口のアーチのイラストにあった延命地蔵尊です。長野県の南佐久郡切原村の古刹、黄蘗宗(おうばくしゅう)玉井山法城院に約370年前から伝わる、地元での評判のお地蔵さまを昭和8年に地元出身で信仰の篤い方が、お地蔵さまの分霊をここに迎えたのが始まりだそうです。幟に隠れて見えませんが、水洗地蔵尊があり、願い事をしながら、その体を洗い清めることでご利益があるそうです。製麺所というのが、懐かしい感じがしました。今はカップ麺なんかで済ませますが、むかしはこういうところでうどんの玉を買ってきて、自分の家でうどんを作って食べたものです。途中で谷中銀座商店街につながっています。この商店街を通って日暮里駅に向かいます。この階段が「夕やけだんだん」(→→→こちら)です。夕方この階段に座って、谷中銀座方向を見ると綺麗な夕焼けが見えるんでしょうね。商店街といっても品物だけではなく、落語も売っていたんですね。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その6) よみせ通りと谷中銀座
2021年09月12日
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動坂下という交差点にさしかかりました。この道が動坂で登って行くと「がん・感染症センター都立駒込病院」があります。新型コロナウイルス感染症では頑張っていただいている病院です。動坂の名前の由来は、江戸時代初期の万行上人が、この坂下に庵を設け不動明王像を安置したので、人々は、不動坂と呼んでいましたが、その名を略するようになり、動坂と呼ばれるようになったそうです。ちなみに、この庵は三代将軍家光により本郷通り本駒込1丁目に移されて目赤不動(南谷寺)として信仰を集めています。ちなみに江戸五色不動とは、赤:南谷寺、黒:目黒区の滝泉寺、青:世田谷区の教学院、黄:三ノ輪の永久寺、白:豊島区目白の金乗院ということです。さらに歩いて行くと、今度は道灌山下の交差点にやってきました。しかし、「下」という地名が続きますね。それで下町というのでしょうか。道灌山下の交差点です。道灌山は、西日暮里4丁目にある高台です。田端、王子へ連なる台地の一際狭く少し高い場所になります。地名の由来は、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道灌が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道燗が出城を造ったなどの伝承がありますが、確かに高台に砦や城を構えるのは、戦略上重要なんでしょうね。ここで不忍通りから分かれて道灌山通りに入りました。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その5) 動坂下、道灌山下と「下」ばかり
2021年09月11日
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不忍通り、千駄木方面に向かって緩やかに下り坂となっていました。不忍通りの駒込稲荷坂下の交差点を過ぎた、都営住宅のあるあたりを右手に折れると、懐かしいチンチン電車(いや、こういう言葉はセクハラになるかも)ではなく、都電の姿が見えました。この公園の名前がこの目立たない銘板に書かれています。神明都電車庫跡公園(→→→こちら)です。公園の名前からもわかるとおり、以前は都電の神明町の車庫がありました。そんなわけで、都電の車両が展示されています。最近の若い人は、青山通りや銀座通りをはじめいろんな道路に都電が走っていたことなんて知らないかもしれませんね。そういう意味で東京の歴史を学ぶのに役立つことでしょう。ちなみに渋谷から二子玉川まで国道246号、「玉川通り」の上を路面電車(東急玉川線)が昭和44年(1969)まで走っていたと知ったらビックリするでしょうね。展示されているのは、都電6000形と貨物車の乙2号です。なかなか実物を目にする機会の少ない貨物車は珍しいですね。資材を運搬するための「貨物車」だだそうですが、そう言えば東急玉川線(→→→こちら)も二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的に建設されたそうですね。なるほどこういう用途に利用されていたんですね。こちらは隣接する文京区立本駒込図書館です。またその隣には本駒込幼稚園、そして文京区勤労福祉会館、都営住宅などの公共施設があります。そういえば、青山通りにある国連大学やこどもの城があるところも都電の青山車庫跡です。都電の持っていた不動産、役に立っていますね。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その4) 神明都電車庫跡公園
2021年09月10日
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再び駒込駅の方へ戻って、日暮里に向かって歩きます。駒込駅の南口にある大きなホテルです。JR東日本ホテルメッツ、駅近で便利そうですね。こちらも駅近の旅館です。昭和30年代のオールドファッションスタイルの旅館だとか、休憩目的での利用もできるそうです。今でもこういう所で休憩されるカップルもいるのでしょうかね。本郷通りに戻って、南に向かって歩きます。ここからは文京区に入るのですね。最初に目につくのは六義園(りくぎえん)(→→→こちら)の門です。駅に近いこの門(染井門)からは入れません。南側にあるこちらが正門です。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、今のところはインターネット(→→→こちら)による事前予約が必要だそうです。人数に余裕があれば、その場でスマートフォンを使ってQRコードをゲットして入場することもできそうです。しかし、新型コロナウイルスでインターネットとか使いこなせないといけない世の中になりましたね。そして、不忍通りに出ました。この不忍通りを千駄木、日暮里の方へ向かって歩きます。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その3) 不忍通りへ
2021年09月09日
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閑静な住宅街のこの坂道を下って行くと、この橋「原橋」を渡りました。橋の下には善福寺川が流れています。大きな道に出ました。こちらの和菓子屋さん(→→→こちら)、ちょっと気になりましたが、わざわざ買うこともないと思って通り過ぎました。(西荻窪のコースです)【つづく】人気ブログランキング「ニシオギ」を歩く(その5) ちょっと気になった和菓子屋さん
2021年09月08日
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駒込妙義坂子育地蔵尊というのですから、妙義坂と呼ばれる由来となった妙義神社がありました。どうやらこの道が参道のようです。屋根の上に見える十字架を目指しながら神社の参道を歩いて行きます。工事現場のようなところに鳥居があってこちらが神社の入り口ですね。こちらが東京駒込妙義神社(→→→こちら)です。社殿は新しい感じですが、この神社の歴史は古く、おおよそ1300年以上前の白雉2年(651)に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、当時東国の蝦夷を討つために東征した際、この地に陣営を構えたことが始まりと伝えられているそうです。また、太田道灌が出陣に際し文明3年(1471)同9年、11年にもこの神社に戦勝を祈願し、その都度勝利を収めたことから「勝負の神様」、「戦勝の宮」として信仰されているそうです。まあ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の話はちょっと伝説ぽいですが、太田道灌の場合は、文明3年(1471)5月の古河公方 足利成氏との戦い。文明9年(1477)春は平塚城(現在の東京都北区上中里)を拠点とし関東管領上杉家に反旗を翻した豊島勘解由左衛門の討伐する戦い(長尾景春の乱)文明11年(1479)春の室町幕府に造反した千葉孝胤を攻める戦いと、歴史に残る勝ち戦があったので、戦勝祈願は信じていいのでしょうね。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その2) 駒込妙義神社
2021年09月08日
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駒込駅周辺から日暮里へ向かってぶらりとしました。山手線の中でも、MoMo太郎が意外と降りたことのない駒込駅です。駒込駅北口にある広場です。「豊島区立染井吉野桜記念公園」というそうです。ここには「染井吉野桜発祥之里碑駒込」の石碑が建立されていました。碑文です。駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨と共に花卉・植木の一大生産地であった。この地で江戸時代以後数多くの優れた園芸品種が誕生したが、中でも染井吉野は、当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。左の絵は、植木屋の第一人者、染井の伊東伊兵衛の庭で大勢の人が花を愛でている様子である。「吉野」と言いながら、東京生まれの桜だったんですね。駒込駅前を通る本郷通りを古河庭園の方に向かって歩くと地蔵堂がありました。駒込妙義坂子育地蔵尊というそうです。説明板によると、寛文8年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれてきたそうです。説明板の下にある江戸時代の切絵図を見ると、当時の様子がよくわかります。この地蔵堂のある妙義坂をを下ると谷田川という川があり、その谷田川の源流はソメイヨシノを生んだ染井霊園付近で、「染井村植木屋多し」と説明書きがありました。【つづく】人気ブログランキング駒込から日暮里へ(その1) ソメイヨシノと駒込妙義坂子育地蔵尊
2021年09月07日
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今日はちょっと贅沢してハンバーグ定食(1,800円税込み)をいただきました。こんな昼食もたまにはいいかも。でも、味は普通のハンバーグでした。人気ブログランキング孤独のグルメ ちょっと贅沢
2021年09月06日
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開かずの踏切というのは、よくありますが、阪急電車西宮北口駅にあるこの踏切は、閉まらずの踏切、つまり一日中すっと開き放しと言う踏切です。何故こんな踏切があるかというと、宝塚から西宮北口を通り今津駅を結ぶ今津線は、昭和59年(1984)まで、平面交差で神戸本線を横切り今津方面へつながっていたのですが、今では宝塚駅 - 西宮北口駅間の今津(北)線(旧・西宝線)と、西宮北口駅 - 今津駅間の今津(南)線の各区間で普通列車の折り返し運転を行っており、今津(南)線のホームは高架化されています。この踏切は、神戸本線から今津(南)線に電車を回送するための線路にあるため、今津(南)線を走る車両が乗り入れる早朝と深夜のみ閉められる特別な踏切となっています。人気ブログランキング閉まらずの踏切
2021年09月05日
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王子の町には、ちょっと小洒落たパン屋さんがありました。MEIJIDO(明治堂)というパン屋さん(→→→こちら)で一階はベーカリー、二階はカフェとなっていました。結構有名らしく、明治22年(1889)に明治堂は開業したそうです。当時東京にパン屋はまだ10軒しかなかった時代だったとか、新しい物好きの創業者が銀座木村屋で初めてパンを食べて感動し、木村屋で修業を積み、地元の王子で開業したそうです。ホームページによると、地元の王子に限らず、日本中から私たちのパンを求めてお客様がご来店してくださるようになったことです。最近では海外からの旅行客でいらっしゃる方も増えました。ということだそうです。こちらは、独立行政法人 国立印刷局のお札と切手の博物館(→→→こちら)です。やっぱり、福沢諭吉はじめお札には縁のないMoMo太郎。コロナ禍で閉館しており見学できませんでした。仕方ないので、チンチン電車(これってセクハラ用語かな)で帰りました。【了】人気ブログランキング王子駅界隈 (その2) 明治堂
2021年09月04日
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JR京浜東北線にある王子駅界隈を散策してきました。王子駅の近くにあるこの高層ビルです。北とぴあ(→→→こちら)という総合文化施設です。MoMo太郎の記憶では、バブルの末期、平成のはじめ頃に出来た施設だと思います。正面玄関の前にあった銅像です。立膝をついたお行儀の悪いお姿のこの銅像、どこかで見たことがあるな、と思ったら、長崎市にある平和祈念像でした。北とぴあで催し物がある時は、ガースーのように遅刻しないようにしないと、そして、なにより戦争で失われた多くの命の冥福を、遠く離れた東京都北区の地から祈りました。北とぴあの最上階は17階で、無料で利用できる展望ロビーになっています。無料が好きなMoMo太郎には有り難い施設です。この展望ロビーからは関東平野が一望できます。こちらは南側の景色です。わかりやすく目立つのは、この東京スカイツリー。こちらは東側の眺め、天気が良ければ筑波山とか見えそうです。もう少し手前に目を落とすと、隅田川と首都高速の中央環状線が見えました。こちらは西側の都心部。ビルの合間から薄っすらと東京タワーが見えました。こちらは北側の眺め、ちょっと晴れ間が見えていました。北とびあの真下を見ると、王子駅がみえます。京浜東北線と北陸新幹線です。こちらは赤羽方面から走ってきた京浜東北線も撮影できました。霞んで見えていますが、尾久車両センターです。鉄道が好きな方にはこの場所有名なんでしょうね。【つづく】人気ブログランキング王子駅界隈 (その1) 北とぴあ
2021年09月03日
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江東区立第三亀戸中学校の近くにあるこの建物、錦糸町プライムタワー(旧名は日鐵NDタワー)というオフィスビルです。ここのオープンスペースにあるこの碑「ドラム缶発祥の地」です。碑文にはこう記されてました。ドラム缶発祥の地 わが国におけるドラム缶の製造は, 昭和4年日本石油(株)下松精油所で 自家用として生産したことに始まるといわれているが, その後昭和7年3月, 先進的な事業家本野吉彦が合資会社日本ドラム罐製作所を設立, こ の地にわが国初めてのドラム缶製造専門工場を建設し, 商業生産を開始した。スチール製ドラム缶がアメリカで発明されてから僅かに30年後の ことである。 以後長い間この工場はわが国ドラム缶製造の中心として活躍したが, 日本経済の高度成長に伴う需要量の増大と技術の進歩に対応するため には新立地による新鋭工場の建設が不可欠となり, 当地のわが国最初の ドラム缶工場はその使命を終えて昭和49年10月製鐵ドラム株式会社を合併し 日鐵ドラム株式會社として新たな出発をしたが, 平成6年, その発足20周年を 迎えるにあたり, ドラム缶製造工場発祥の場であるこの地に, 日鐵NDタワーを含む“NDプラザ”をその記念として建設した。 平成8年10月 日鐵ドラム株式會社 代表取締役社長 安東成海人気ブログランキングドラム缶発祥の地
2021年09月02日
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折角、鶯谷までやってきたので、「御行の松(おぎょうのまつ)」を観に行ってきました。御行の松は台東区根岸にある西蔵院(→→→こちら)の不動堂にあります。境内にあるこの松の木が四代目「御行の松」です。御行の松は、根岸の大松と人々に親しまれ、「江戸名所図会」や広重の錦絵にも描かれていました。 初代の松は周囲4メートル余、高さ13メートル余もあり、大正15年(1926) に東京市の天然記念物に指定されたが、 昭和3年(1928)枯死してしまったそうです。その結果天然記念物指定解除となり、1930年(昭和5年)に伐採されたそうです。樹齢は350年だったとか。名前の由来は、輪王寺宮(上野寛永寺貫主である東叡大王)がその下で修行したから、或いは輪王寺宮が上野山内の寺院や神社を巡拝される時に、 根岸の御隠殿からこの松の下にきて必す休まれたことから、など諸説あるのだとか。これが枯死した初代の御行の松です。また、不動堂に祀られている不動明王像は、初代の松の根を掘り起こして彫られたものだそうです。こちらは御行の松の石碑です。こちらが不動尊をお祀りしている不動堂です。御行の松不動尊の場所です。人気ブログランキング下谷巡り(追録) 御行の松
2021年09月01日
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