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鶯谷の駅東側のエリアに入って来ました。やはりこのあたり休憩専門のホテル街です。そんな街の中にある神社が元三島神社(→→→こちら)です。元三島神社の由緒がありました。簡単に言うと、弘安4年(1281)に発生した元寇において、伊予水軍を率いた勇将・河野対馬守越智通有は伊予国一宮大山祇神社に必勝祈願を行ったのち出陣し、大きな戦功を挙げ帰陣した。その折、夢で大山祇命の神託を受け、武蔵国豊島郡上野山内に分霊を勧請・奉斎したのが始まりだそうです。その後、慶安3年(1650)に上野山が寛永寺の寺地になった際に山内よりの社地移転を命ぜられ、最終的にここに移転されたということです。社殿と社務所はこの石段を上ったところにあります。二階建てになっているのですね。こちらが社殿です。拝殿前は狭小なため、全体を写すにはこのアングルが精一杯でした。そして、元三島神社の一階部分にあるのが、この飲食店(→→→こちら)。年中無休で24時間営業。朝酒も楽しめますよ。鶯谷駅の北口に到着しました。下町感あふれる台東区下谷地区堪能させてもらいました。(下谷のコースです)【了】人気ブログランキング下谷巡り(その16) 鶯谷といえば元三島神社ですかね
2021年08月31日
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ここは、お参りしたことはなくても一度は耳にしたことのある入谷の鬼子母神です。「恐れいりやの鬼子母神」という洒落で知られた入谷の鬼子母神は、法華宗本門派の仏立山真源寺に祀られています。真源寺は万治2年(1659)の創建で、祀られている鬼子母神は、豊島区雑司ヶ谷の「法明寺」、千葉県市川市の「法華経寺」と並んで江戸三大鬼子母神のひとつに数えられ、安産や子育ての神様として、広く信仰されています。また、今年は開催されませんでしたが毎年7月に開催される朝顔市も、真源寺の名物です。山号の仏立山の扁額は、本堂ではなく隣の庫裡の出入り口にありました。また下谷七福神の福禄寿がありました。(下谷のコースです)【つづく】【追伸 見てみたい番組】最近、YouTubeで活躍する芸能人が多いですが、MoMo太郎が観たいYouTubeのプログラムは、宮迫博之(元雨上がり決死隊)、木下隆之(TKO)そして渡部健(アンジャッシュ)の旅番組、ゲストに伊藤健太郎、山口達也、田代まさし、木下優樹菜、江角マキコ、中島知子などを迎えて四国八十八ヶ所巡礼する番組。できればナレーションはビートきよし師匠にお願いしたいです。きっと、人生に有益な教訓が語られると思います。でも、ツ・ビートって解散したんですかね?人気ブログランキング下谷巡り(その15) 恐れ入りやの鬼子母神
2021年08月30日
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鷲神社から入谷を通って鶯谷駅に戻って行きます。金美館通りという商店街を歩いて行くと、小学校がありました。創立106周年の台東区立大正小学校です。創立106周年ということは大正5年(1916)に開校ということですね。このあたりの地名は入谷町。この説明板によれば、入谷一帯は千束池の底にあったが、戦国時代に埋め立てられて開墾された土地だそうです。江戸時代末期・明治時代に入ってから朝顔栽培が盛んになり、やがて入谷朝顔市が開かれる場所として有名になった町です。この通りが「金美館通り」と呼ばれるのは、昭和通りに面した位置にあるこの東京菓子会館が出来る前にあった入谷金美館という映画館にちなむものだそうです。金美館というのは、20館あまりの映画館を有するチェーン店だったそうです。また、金美館チェーンは今川崎市にあるシネマコンプレックスの前身になるそうです。東京菓子会館というだけあって、お菓子の神社があるようです。社殿はこのビルの屋上にあるようですが、勝手に入ってお参りはできないでしょうね。和歌山県海南市の橘本(きつもと)神社の分社だそうです。橘本神社というのは、みかん発祥の地にあるお菓子の神社のようです(→→→こちら)。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その14) 入谷で見つけたお菓子の神様
2021年08月29日
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この鷲(おおとり)神社(→→→こちら)は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る神社です。この鷲神社といえば、例年11月の酉の日に開催される「酉の市」で有名ですが、正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日だったそうです。開運・商売繁昌のお守りとして「酉の市」でのみ売り出される熊手御守(かっこめ)を買いに行くイベントというだけはなく、御神恩に感謝して、来る年の開運、授福、殖産、除災、商売繁昌をお祈りするお祭りということのようです。鷲神社は大阪府堺市西区鳳北町にある大鳥大社を総本社とする神社です。この大鳥神社は日本武尊が能煩野(三重県亀山市)で亡くなった後、白鳥となって最後に降り立った地に建てられたとされる大鳥大社といわれています。そのような関連で日本武尊が鷲神社に祀られているのでしょう。神社の由来としては、古来この地に天日鷲命(→→→こちら)が祀られており、その神社に日本武尊(→→→こちら)が東征の折に戦勝を祈願したとされています。大きな社号碑が建之されています。朱塗りの大鳥居です。酉の市の時には沢山の熊手を売る店が並ぶ広い境内です。叉木には「浅草酉乃市起源発祥乃神社」という文字が掲げられています。こちらが社殿です。社殿に置かれた「なでおかめ」。このおかめの顔を撫でると、以下の御利益を授かるそうです。おでこをなでれば賢くなり目をなでれば先見の明が効き鼻をなでれば金運がつく向かって右の頬をなでれば恋愛成就左の頬をなでれば健康に口をなでれば災いを防ぎ顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う参道の右手にあった文学碑です。これは樋口一葉玉梓乃碑です。内容は樋口一葉が小説の師の半井桃水にあてた未発表の書簡文だそうです。樋口一葉文学碑です。こちらには「たけくらべ」の一節が刻まれていました。こちらは正岡子規没後100年を偲び建立された正岡子規の句碑です。「雑閙(ざっとう)や 熊手押あふ 酉の市」(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その13) 酉の市の起源発祥の鷲神社
2021年08月28日
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飛不動尊として知られる天台宗の龍光山三高寺正寶院です。お寺の由来が書かれた説明板です。飛不動尊と呼ばれるようになったのは、この寺の住職が、ご本尊のお不動様を笈で背負い、はるばる紀伊山地の中央にある大峯山まで修行にでかけた時に、ご本尊が留守の江戸の寺にお不動様の分身を携えた人々が集まり、お不動様を観想して一心に祈ると、ご本尊のお不動様が、一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り、祈った人々の願いを叶えてくれたそうです。それことがあって以来、「空を飛び来て、衆生を守りたもうお不動様」飛不動尊と呼ばれるようになったのだとか。こちらが本堂になります。本堂に掲げられた扁額には山号の龍光山と書かれていました。三高寺正寶院は享禄3年(1530)に天台宗本山派修験僧の正山上人によって開かれた寺院です。開基にあたっては、諸国を巡歴していた正山上人が、竜泉のこの地で村人に宿を施してもらった時に、一筋の光と共に立ち昇る龍の夢を見たことから、村人達の息災延命と上人、自らの旅の安全を祈ってお不動様を刻み、この地に奉安したことに始まるそうです。それで山号も龍光山なんでしょうか。飛不動尊ということで、飛ぶものに対してご利益があるそうで、空の旅の安全を祈願するパイロットや客室乗務員の参詣も多く、またゴルフにもご利益がありそうです。ちなみに、飛ぶものと言えば小惑星探査機「はやぶさ」の成功祈願、無事帰還というご利益もあったそうで、映画「はやぶさ 遥かなる帰還」では主演の渡辺謙さんが不動尊の護摩が焚かれる中で正座して祈願するシーンもあったそうです。また境内には、下谷七福神巡りの恵比寿様もこのお堂に祀られています。(下谷のコースです)【つづく】【追伸 明徳義塾が負けると気分がいい】近畿勢4強独占に明徳・馬淵監督ボヤく「地方の学校は雨が降るとなかなか練習会場を確保できない」全国高校野球選手権大会準々決勝で、智弁学園が明徳義塾にサヨナラ勝ちしました。高校野球のチームに対して、好き嫌いなんて言ってはいけないけんでしょうけど、明徳義塾が負けると気分がいい。やっぱり、その原因は、監督の指示、1992年夏の甲子園、当時星稜高校(石川県)の松井秀喜に対して、全打席敬遠(5打席)をやったことですね。敬遠と言う戦術は否定しませんし監督の采配というのも否定はしませんが、MoMo太郎としては、もう少し選手を信頼してやれよとか、選手は監督のロボットかと思うわけです。人気ブログランキング下谷巡り(その12) 飛躍の年にしたい方は飛不動尊に参詣を
2021年08月27日
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台東区立一葉記念館(→→→こちら)です。「たけくらべ」をはじめ、樋口一葉の小説の舞台となった龍泉寺町(現・竜泉)の地元住民の人達の要望に応えて、台東区が昭和36年(1961)5月12日に開館した施設で、当時、女流作家の単独資料館としてはわが国で初めてのものです。その後40年余りを経て、館の老朽化が進んだことや樋口一葉が新五千円札の肖像に採用されたことを機に、平成18年(2006)11月1日にリニューアルオープンしたそうです。この一葉記念館の前にある一葉記念公園です。もともと昭和13年(1938)に竜泉寺公園という名称で開園したものだそうです。これが戦災で荒れ果てていたところを、1949年(昭和24年)に地元の方々が再整備して失われていた一葉記念碑を再建し、これにあわせて公園名も改められたそうです。まず戦災で失った「一葉記念碑」を昭和24年(1949)に再建したそうです。撰文は菊池寛でした。樋口一葉にちなんだ樹が公園に植えられていることを説明したものが、一葉記念碑の隣にありました。またこの「一葉女史たけくらべ記念碑」は昭和26年(1951)に建立されています。文学博士佐佐木信綱氏の書から刻まれた碑文が達筆すぎて読めない人のための台東区の説明板です。一葉記念館の前にあったこの建物。一葉堂(→→→こちら)とありますが、樋口一葉関連のグッズが売っているのではなく、木目込人形工房のお店でした。そう言えば、令和6年度(2024)に五千円札の肖像が樋口一葉から津田梅子に変わるそうですね。以前、職場で飲み会の会費を集めていた女性に五千円札を渡すと「樋口一葉ってなんか貧乏のイメージがあって嫌なんですよね」と言っていました。この人、津田梅子に変わると、どんな感想を持つのか聞いてみたいです。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その11)一葉記念館と一葉記念公園
2021年08月26日
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東京都台東区竜泉2丁目19番3号にあるこの神社樋口一葉(→→→こちら)の「たけくらべ」という作品の中に登場した「千束稲荷神社」(→→→こちら)です。というわけで、樋口一葉文学碑が建立されています。台座の側面にあった宮司さんの説明文です。こちらが正面碑文ということです。神社の社殿です。神社の扁額です。竜泉という町にありながら千束稲荷神社というのはちょっと変な感じですが、「千束」という地名は大変古い地名で、その範囲も浅草天王町あたりから千住の橋際にまで及ぶ広大なものだったそうです。この神社は寛文年間(1661~72)に北千束郷の氏神とし創建されました。その後、現在の台東区竜泉周辺が、龍泉寺村となったのすが、社名はもとの千束稲荷神社を使っているそうです。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その10) 樋口一葉ゆかりの千束稲荷神社
2021年08月25日
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東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅近くの寿永寺(→→→こちら)というところにやって来ました。こちらは門扉がしまっているますが、勝手に入っていいようでした。こちらには下谷七福神の布袋尊があります。この近くにある江戸芸かっぽれ(→→→こちら)の教室です。かっぽれ、よく浅草神社をはじめ色んなところで観ることができますが、流派みたいなものがそれぞれあるようですね。今度は国際通りを渡って竜泉の方へ行きました。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その9) 江戸芸かっぽれ
2021年08月24日
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昭和通りに架かる歩道橋から上野方面を撮影しています。この昭和通り沿いに色々なお店がありました。ちょっとユニークな看板ですね。こちらは玩具花火で有名なオンダ(→→→こちら)、この会社も老舗(ろうほ、老舗)ですね。夏の夜の楽しみと言えば、線香花火やロケット花火、コロナでの自粛生活、家族で花火を楽しんだ方も多いでしょうね。会社の入口にあった創業者恩田倫ニ氏の胸像です。こちらのビルは、こちらも老舗の金太郎飴本店(→→→こちら)です。ちなみに金太郎飴って登録商標だそうです。(下谷のコースです)【つづく】【追伸 テレビ番組の話で恐縮です】昨夜みた「TOKYO MER〜走る緊急救命室〜」の中で気になった内容がありました。「主人公の喜多見先生(鈴木亮平)が、海外で医療従事していた際、銃撃されたテロリストのエリオット椿を患者として匿ったことから、テロリストの仲間の嫌疑がかけられ、1年の間海外の刑務所に投獄されていたことを隠していた。」という内容なんですが、普通、患者さんがテロリストであっても、医師ならば患者を救うことが当たり前で、それを隠すのは不自然なような。そして思い出しました。MoMo太郎が学生の時、三菱銀行人質事件(→→→こちら)というのが起こり、犯人の梅川が客と行員30人以上を人質として立てこもり、警察官2名、支店長と行員、計4名を射殺したことがありました。結果的に犯人の梅川は警官に射殺され事件は解決したのですが、撃たれた時点ではまだ息があったので、警察病院に運ばれて手当を受けたそうです。その事件のあった年の学校の同窓会で、MoMo太郎の先輩が、警察病院に勤めていて梅川の手術をしたと話されました。そして「梅川でも、やっぱり、命を救うはなくてはいけない」というようなことを仰れて、まだ真面目な学生だったMoMo太郎は、その先輩の高い職業倫理に感銘したことを思い出しました。人気ブログランキング下谷巡り(その8) 「ろうほ(老舗)」と書いて「しにせ」と読む
2021年08月23日
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こういうことを書いていると不快に思われる方も多いと思いますが、ブログのコメント欄に書いているということは、「他人に読まれても構わない」という意思表示だと思うので、本文でも紹介させていただきます。寺社の朱印を集めている方から、またいただいた昨日のコメントです。あはっ・・冗談が通じない人ですね。生者必滅会者定離・・合掌のポテチ・・・これって人をおちょくって喧嘩売っているんですかね。障害者に対してイジメ(というより傷害事件)をしていた小山田圭吾も、イジメていた障害者に対して「冗談が通じない人ですね。」とか言っていたんでしょうね。また、旭川の中学校のイジメ(というより性犯罪)で「加害者にも未来がある。学校は責任は負えない」といった中学校の教頭(→→→こちら)もいじめられていた生徒に対して「加害者は冗談でやっていたんじゃない」と思っていたかもしれませんね。(ちょっと想像し過ぎですが)また、入江聖奈選手を揶揄した張本勲の謝罪に、この寺社の朱印を集めている方も見習ったんでしょうかね。ということで、まあ、世の中にはいろんな人がいますが、「平常心是道」の心得で日常の生活をまじめに、実直に、判断を誤らずに生きて「本来無一物」の境地を目指したいと思います。さて、今は令和ですが、昭和通りをを三ノ輪方面に向かって北上します。しかし「昭和通り」と名付けられたのは、やはり昭和の時代を代表するような道路なんでしょうね。下谷七福神(→→→こちら)のひとつ朝日辯財天(弁天院)にやってきました。名前のとおりここに祀られている七福神は弁財天です。こちらがお寺への入口、山門ですね。寺号碑です。この朝日弁財天といいますが、弁天院というのがお寺の名前で、曹洞宗寺院で山号は朝日山になるのですね。弁天院は、寛永初年に備中松山城主の水谷伊勢守が上野不忍池に弁天堂を創建すると同時にその下屋敷であった水の谷の池にも弁財天祠を祀ったことを開基としているそうです。以前はかなり広い池があったのが、関東大震災の瓦礫を埋めたことで小さくなったようです。この池がかっての弁天池だったようです。この名残の弁天池に架かる石橋を渡ります。曹洞宗のお寺にかかわらず、橋の向こうに鳥居がありました。弁財天は神仏習合で仏教の神でもあり,神道の神様でもあるそうで、寛永寺でも不忍池弁財天として奉れていますし、江ノ島の江島神社でも弁財天が祀られています。こちらが弁財院の本堂です。金文字の立派な扁額でした。板碑にこの寺院の由来が記されていました。大学の先生が書かれたのですね。でも撰並書ってどういう意味なんでしょうか。このブログもMoMo太郎撰並書と記してもいいのかな。境内にあった観世音菩薩像です。観世音菩薩は、世間の人々の救いを求める声を聞くとただちに救済する求道者だそうですが、今の永田町にはいないタイプの方ですね。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その7) 喧嘩売らているのかな、そして朝日弁財天へ
2021年08月22日
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なんと、一昨日のMoMo太郎の死をネタにコメントされた方以外にも、さらにMoMo太郎の死をネタにコメントされる方が現れました。趣味が社交ダンスの方からいただいた一昨日のコメントです。さて、Momo太郎さんも・・・(中略)・・・そして寿命が来てお呼びがかかったら、紫雲に乗って蓮の花が咲く極楽浄土へ行ってください。寺社の朱印を集めたているからいただいた昨日のコメントです。寿命がこなくてもお迎えが・・・(笑い)のポテチ・・・本当に人の死を願うような内容のコメントをされるって、やっぱりネットの世界って怖いですね。そんな怖い世界の中で、神仏に救いを求めるべく、下谷坂本の富士塚で有名な小野照崎神社(→→→こちら)にお参りさせていただきました。この神社、樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名でも出ています。こちらが本殿です。本殿は幕末の慶応2年(1866)の建造され、関東大震災、東京大空襲という2度の大火を免れたそうです。小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁(おの の たかむら)だそうです。百人一首には参議篁(さんぎたかむら)としてわたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟という和歌がおさめられています。その篁が上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞したことから、仁寿2年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀したそうです。そして、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたりこの地に遷座そうです。また、江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀っているそうです。この境内に祀られている「浅間神社」の社号碑です。国の重要有形民俗文化財に指定されている富士塚「下谷坂本富士」です。天明2年(1782)に富士山の溶岩を運んできて築かれたそうです。富士塚「下谷坂本富士」。毎年、夏越の大祓と富士山の開山に合わせた6月30日と7月1日の2日間に限り、一般の方々に開放されているそうで、訪れた日(2021年6月22日)は、その準備作業が行わていました。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その6) 小野照崎神社の富士塚
2021年08月21日
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次に訪れたのは法昌寺です。プロボクサー兼コメディアンのたこ八郎(→→→こちら)の墓があることで有名だそうです。たこ八郎もいいですが、やはりここの毘沙門天にはお参りした方がいいですね。日蓮の銅像が建立されていました。日蓮を宗祖とした日蓮門下の一派の法華宗本門流のお寺だそうです。こちらが本堂です。山号は日照山。金文字のなかなか豪華な扁額ですねこちらが毘沙門堂です。毘沙門天像です。(下谷のコースです)【つづく】【追伸】昨日のブログでこんなコメントをいただきました。さて、Momo太郎さんも・・・(中略)・・・そして寿命が来てお呼びがかかったら、紫雲に乗って蓮の花が咲く極楽浄土へ行ってください。家族以外の生命保険の受取人でない人からもMoMo太郎の死が望まれていたんですかね。人気ブログランキング下谷巡り(その5) 法昌寺の毘沙門天
2021年08月20日
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寛永寺から言問通りを東に向かって浅草方向に歩いて行って、英信寺というお寺にやって来ました。山号は「紫雲山」というのですね。紫雲、むらさき色の雲。おめでたい印らしいのですが、念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎する雲ということで、紫雲を見るためには、それなりの人が亡くならないいけないわけですね。そうすると「紫雲」という言葉、おめでたいのやら悲しいのやらよくわからないですね。ちなみに昭和30年(1955)5月11日に修学旅行中児童などを中心に死者168名を出した事故をおこした宇高連絡船の船名も「紫雲丸」でした(→→→こちら)。こちらが英信寺の本堂です。こちらは境内にあった毘沙門堂です。なつかしい手押しポンプがありました。スイレンの白い清楚な花が咲いていました。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その4) 英信寺の毘沙門天
2021年08月19日
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今度の大雨で被災された方にお見舞いを申し上げます。まだ、雨は続きそうで被害の拡大が心配です。そして新型コロナウイルスの感染拡大もとどまることがなく、17日は全国で新たに1万9,955人確認されたそうですね。緊急事態宣言に追加で7府県にも出されて、10県への「まん延防止措置」が適用されて、本当に大変な状況です。そんな危機にもかかわらず、宣言慣れ、自粛疲れを理由に、人流も減らず、困ったもんです。そこで考えました。オリンピックの期間中、首都高速の料金は1000円上乗せされて、その結果、車の数が減ったということですので、それに倣って、ロックダウン(都市封鎖)というよりも、他府県から東京にやってくる人からは電車賃やバス代を一回につき税金として500円上乗せ。自家用車でやってきた人は、他府県ナンバーの車の駐車料金も500円上乗せ。そして、飲食店で酒類を販売したら、ビール一本につき500円上乗せ。という具合にして税金により人流を抑制する取り組みをしてもいいのでは。そして、集めたお金は、新型コロナの医療体制の拡充や被災された人の生活再建に利用すること或いはワクチン接種をした人への商品券配布などの政策に役立てましょう。ということで万民の平安を願い、東叡山寛永寺根本中堂にやって来ました。東叡山寛永寺は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師天海大僧正によって寛永2年(1625)年にて建立されたものです。山号の東叡山は「東の比叡山」の意味だそうで、京都にある比叡山延暦寺を見立てているわけです。後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。また東叡山主(住職)を皇室から迎えおり、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院だったそうです。ちなみに、「鶯谷」の地名は、皇室から迎えた住職であった公弁が、元禄年間に「江戸の鶯はなまっている」といって京都から鶯を運ばせて、この地域に鶯を放し、鶯の名所になったことに由来するそうです。最盛期には、現在の上野公園を中心に上野・根岸・根津に渡って広大な寺領を持っていましたが、戊辰戦争や明治政府の没収により縮小されたそうです。こちらにあるのは寛永寺の根本中堂です。根本中堂は、元々は元禄11年(1698)に今の上野公園内大噴水のある場所に建立されたのですが、慶応4年(1868)の彰義隊と官軍が戦った上野戦争の際に焼失してしまったそうです。現在の根本中堂は、明治12年(1879)に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたものだそうです。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その3) 寛永寺について
2021年08月18日
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こちらの建物は独立行政法人国立文化財機構黒田記念館(→→→こちら)です。日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝の遺言により、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるために設立された美術研究所を前身とする施設だそうです。昭和初期における美術館建築として貴重な建物であることから国の登録有形文化財だそうです。そして、こちらは国立国会図書館国際子ども図書館(→→→こちら)です。明治39年(1906)に帝国図書館として建てられたルネッサンス様式の洋風建築でなかなか雰囲気がいいですね。そのオシャレな洋風建築の前を大きな楽器のケースを背負って歩く女性。この近くにある東京芸術大学の学生さんでしょうか。町の雰囲気に似合いますね。MoMo太郎は、こういう楽器を演奏している人って、CD販売や音楽配信をしない限り、余りお金は儲かりそうにない職業だと思っているんですが、だって演奏会を毎日やっても1年間で365回しかできないし、集まる観客も会場の収容人数の上限があるだろうし。それでもこういう職業を選ぶって相当なお金持ちの家の方なんでしょうね。さて、国際子ども図書館の前にあるモニュメント。これは、詩人で英文学者だった土井晩翠の長男で結核で23歳でなくなった英一さんの遺言により、英一さんの尊敬する小泉八雲記念碑が昭和10年(1935)に帝国図書館前庭に建立されたもので、小泉八雲のレリーフをはめた記念碑とその台上には天使が壺を囲む銅像があります。この天使の像は「蜜」という題です。昔は噴水だったのですが、今も噴水なんでしょうか。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その2) 国際子ども図書館と芸大生
2021年08月17日
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2021年6月22日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して鶯谷から下谷周辺を歩いた報告です。鶯谷という雅な名前の割にはなんかラブホテル街というイメージが付いている駅ですね。こちらが鶯谷南口です。南口にある凌雲橋(新坂跨線橋)から見るJRの線路、常磐線、東北線(宇都宮線)、高崎線、山手線、京浜東北線が並行して走っている区間で、この上からみていると色々な車両が眺められて飽きないかもしれませんね。昔からよくお世話になった常磐線の普通列車です。この写真、どこにピン合わせているんでしょうかね。常磐線の特急列車「ひたち」でしょうか。「ときわ」という愛称の特急も走っています。鶯谷駅から新坂を登って上野にある国立東京博物館に向かいました。国立東京博物館の正面入口です。こちらの門は博物館に移設されて保管されている文化財です。説明書きの看板、ところどころ文字が剥げているのがちょっと残念です。(下谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング下谷巡り(その1) 鶯谷駅から東京国立博物館
2021年08月16日
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「今日は76周年目の終戦記念日」というと何かお祝い事のような言い回しになりますね。やはり、言葉使いとして無難なのは「76回目の終戦の日」でしょうか。今年のNHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一の言葉です。お金儲けだけやっている人物ではなかったということですね。そんなわけで、埼玉県深谷市にある「道の駅 おかべ」にやって来ました。この深谷市といえば、渋沢栄一の生地、血洗島(ちあらいじま)があります。「血洗島」なんというか恐ろしげな名前の村に生まれたものですね。定説はありませんが、調べたところ、血洗島の地名の由来は次の4つの説があるそうです。赤城のムカデと日光の大蛇が戦場ヶ原で戦ったという伝説。又は、赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕を斬られ、その傷口をこの地で洗ったという説です。渋沢栄一はこの説を語っているそうです。アイヌ語源説で、アイヌ語の「岸、末端、尻」などの意を表す「ケッセン、ケセン、ケシ」に血洗の漢字をあてたという説。これによれば「気仙(ケセン)沼」や「厚岸(ケシ)」も同じ由来とのことです。なんかアイヌ語って日本の地理に足跡残してますね。その昔、この辺りで合戦があり(一説に平安時代に八幡太郎義家の奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったので血洗島と言い、土地の人がその手を近くに葬った墓が手墓と言う伝説があり、それが地名となったという説利根川の洪水による氾濫原のため、地洗(地を洗うように流れたという意)とか、地荒(地が荒れるという意)であったのが、いつの間にか「地」が「血」となり、血洗島となったという説そんな渋沢栄一の血洗島にある埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」の「中の家(なかんち)」の門です。ちなみに、入場は無料です。埼玉県って太っ腹。入口近くにこの周辺の観光案内がありました。こちらが主屋。屋根の上に天窓がついてるのは、煙出しといって、養蚕農家の典型的な造りだそうです。屋根裏でお蚕さんを飼っていたんですね。庭に建立されていた武士姿の渋沢栄一像です。主屋の座敷では渋沢栄一の人造人間が座っていました。みんなこれをアンドロイドと読んでいますが、MoMo太郎の携帯電話のアンドロイドでは動かすことはできませんでした。お屋敷の裏にはいくつかの板碑が建之されていました。屋敷の裏にあった池です。この池が渋沢栄一の号「青淵」の由来となったそうです。1km近く離れたところにある渋沢栄一記念館です。正式には深谷生涯学習センターだそうです。なかなか充実した展示物が無料で観ることができます。無料が好きなMoMo太郎には有り難い記念館です。血洗島から見える赤城山。こんな景色を渋沢栄一も毎日見ていたんでしょうね。渋沢栄一の原点に触れたMoMo太郎でした。人気ブログランキング「青天を衝け」埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」
2021年08月15日
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東アジア・中華文明圏において大地の四方の方角を司る「四神」があるそうです。東は青龍、南は朱雀(鳥)、西は白虎、北は玄武(亀と蛇)という神獣がそれぞれ鎮護するそうです。江東区では、亀戸駅前公園を改修した際に、亀のモニュメントを設置し、北の「玄武」に見立て以来、東大島の「青龍」、若洲公園の「朱雀」が設置され平成27年(2015)9月に豊洲シビックセンター前に白虎のモニュメントが設置され江東の地に四神がそろいました。ここ都営新宿線の東大島駅の駅前広場には東方を守護する青龍が設置されています。四神についての解説がありました。これが東方を守護する青龍です。人気ブログランキング江東区東の守り神は青龍
2021年08月14日
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お金のことには細かい国際オリンピック委員会(IOC)なんですね。バッハ会長の広島訪問警備費負担をIOCと組織委が拒否 ぼったくり男爵に請求書を出せぬツケそもそも、銀座を歩くような気さくなおじさんのIOCのトーマス・バッハ会長に警備なんて必要だったんですかね。そんな気さくな外国人にもお薦めの松屋の定番朝定食360円(税込み)です。小皿は納豆、国産とろろ、牛小皿などから好きなものを選べますが、朝からカレーも食欲が刺激されていいかもと思いカレー小皿にしました。こういうチェーン店のメニューを「チェンメシ」というらしいですが、日本全国どこでも変わらない味のメニューが、チェーン店によっては24時間食べることができるって、凄く恵まれたことだと思います。勿論、チェーン店より美味しいカレーや餃子、牛丼などを提供してくれるお店があるでしょうが、如何せん、個人でやっている限り、そのお店が北海道網走にあれば、網走まで行かなくてはなりません。そういう意味でこういうチェンメシはいいですね。「チェンメシよ永遠に、チェンメシ、フォーエバー」ですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ チェンメシ、フォーエバー
2021年08月13日
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国分寺駅に向かって北上していきます。道は緩やかな坂道になっています。幹線道路から一つ脇道に入りると緑が濃い散歩するにはいい道がありました。そして、国分寺駅に近い都立殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)(→→→こちら)を訪れましたが、新型コロナウイルスの緊急事態宣言のため、閉園でした。コロナが収束したら訪れてみたいところです。ということで、国分寺駅南口に戻ってきました。駅ビルに商業施設があっていいですね。多くの人が歩いています。駅前にあったモニュメントです。この像の名前は「かがやき像」で、平成元年に、国分寺駅の改良・自由通路の新設を機に歴史と変化の街国分寺市のさらなる発展を祈念し関係各位の尽力によって建立されたものだそうです。多分母親と思われる人物が赤ちゃんを抱き上げ、その赤ん坊の手をおさげ髪の子供、多分女の子、が握っているという。住宅街の多い国分寺を象徴するようなモニュメントですね。ところで平成元年に生まれたこの赤ちゃん、今はもう32歳ですね。どんな大人になっているのでしょうか。また、おさげ髪の子供も成長して新しい自分の家庭を持っているかもしれません。できれば、「30年後のかがやき」ということで、この銅像の人物が令和になってどうなっているのかを隣に建立してもらえると面白そうですね。そして、国分寺、また機会があれば訪れたい町でした。(国分寺のコースです)【了】【追伸:東京都の重心】国分寺を東京のヘソ(重心)としているのは、東京都を一枚の板としてその重心が国分寺市内にあるということですが、中にはヘソ(重心)は杉並区の大宮八幡宮ではないかというような意見もいただきました。これは人口重心(→→→こちら)という算定方法で、ある地域に住む人々の居住地点からなる図形の重心を計算すると、東京都の人口重心は、2005年時点では、和田堀公園近くの杉並区大宮二丁目(つまり大宮八幡宮)のあたりにあったそうです。最新の2015年の国勢調査結果では東京都の人口重心は、東経139度38分22.54秒、北緯35度41分13.91秒(→→→こちら)、つまり杉並区成田東一丁目あたりで区立松ノ木中学校のそばにあるそうです。ちょっと西に動いたのですかね。人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その13) 都立殿ヶ谷戸公園と国分寺駅前
2021年08月12日
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さらに歩いて行くと国分寺街道の手前にある不動橋に出ました。この不動橋の付近で元町用水を流れてきた真姿の池湧水からの水は野川と合流します。野川は、東京都国分寺市の日立中央研究所内の大池を源とし、国分寺崖線沿いに小金井市、三鷹市、調布市、狛江市を経て、世田谷区二子玉川付近で多摩川に合流する延長20.2kmの河川です。こちらが野川の上流側で、この流れを遡ると国分寺駅北側にある日立中央研究所にたどり着きます。この辺りが野川と元町用水の合流点になります。合流した野川は国分寺街道の一里塚橋の下を抜けて、さらに下流側の小金井市の方に向かって流れて行きます。合流地点にある石碑です。石碑には「田用水堰記念」と刻まれていました。田用水(→→→こちら)とは、明暦3年(1657)に、水田のかんがい用水として当時の国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村(小金井市)3村に玉川上水(→→→こちら)から分水されてきた用水です。今は埋め立てられて使われていませんが、現存していた頃はこのあたりで野川と合流していたようです。そして不動橋ですが、かっては石橋だったようです。石橋供養塔とは、常に人に踏まれている石橋を供養するとともに橋を渡って疫病や災いが村に入り込むのを防ぐ目的で建之されたものだそうです。こちらが石橋供養塔(左)と庚申塔(右)ですです。今でも大切に信仰されているようです。石橋供養塔には「不動明王」と刻まれ、庚申塔には仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られていて、その下には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿も彫られています。(国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その12) 野川との合流点
2021年08月11日
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オリンピック終わっちゃいましたね。たくさんの感動をありがとう。でもこの感動は「Priceless(値段のつけられないこと)」というわけにいかないですね。無観客で開催したために得られなかった収益900億円、それから国立競技場建設費用をはじめとする諸々の開催に要した経費、オリンピックが直接の原因でないにしても増加した新型コロナの感染者に掛かる医療費など、これから東京都民、日本国民が支払わないといけないお金はいくらくらいなんですかね。そんなPricelessではない、小さな感動を求めて国分寺を歩いています。真姿の池湧水群の水はお鷹の道の脇を流れています。この水路は元町用水と呼ばれています。子供たちが魚やザリガニを採って遊んでいました。環境を守るためでしょうか、水路の流量を観測しているようでした。ここを訪れたのは5月下旬の日曜日だったので、水路には白いカラーの花が咲いていました。カラーがこういう水路の中の湿った場所に咲くとは知りませんでした。古くは「海芋」「海宇」(かいう)といった名前で呼ばれていたそうです。花言葉としては「清浄」、「清純」、「乙女のしとやかさ」があるそうで、花の雰囲気にあった花言葉ですね。また、カラーの花に見える部分は花ではなく、仏炎苞と言われる萼(がく)が変化したものです。中心部の黄色い部分が花の集合体となるそうですね。また定番は白色のカラーですが、ピンク、イエロー、オレンジなどのカラフルな色や、パープルやブラックなどのシックな色合いの種類もあるそうですね。直売所を経営しているお宅もありました。国分寺のこのあたり、農業を続けているお宅もあるようですね。(国分寺のコースです)人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その11) 感動はPricelessというわけではないですね
2021年08月10日
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お鷹の道からそれて北側の武蔵野台地に向かう小径を歩いていきます。切り立った段丘面に行き当たります。ここは太古の昔、多摩川が武蔵野台地を浸食したことによりできた国分寺崖線(→→→こちら)だそうです。またこのような崖地形を地元では「ママ」又は「ハケ」と呼ぶそうです。崖線の下は、台地の上に降った雨が地下水となりこの崖線の下で湧水となって地上に湧水となって現れてきます。この崖線の湧水群は環境省選定名水百選「お鷹の道・真姿の池湧水群」に選定されています。また、この近くの池は「真姿(ますがた)の池湧水群(→→→こちら)」として東京都指定名勝にもなっていました。嘉祥元年(848年)、絶世の美女といわれた玉造小町が病気に苦しみ、病の平癒を願い全国行脚をした際に、武蔵国分寺で願をかけたところ、「池で身を清めよ」との霊示を受けて快癒したとの言い伝えがあります。赤い鳥居は現在は弁財天が祀られているからです。鳥居の傍に石碑が建立されていました。そして、これが真姿の池になります。名水百選に選ばれるだけあってきれいな澄んだ水ですね。(国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その10) 真姿の池湧水群
2021年08月09日
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今日8月8日はオリンピック東京大会の閉会式ですね。閉会式に関連した混雑を避けるため、日曜日だけど、8月11日だった祝日「山の日」が変更され、その結果8月9日が振替休日になっています。なんか面倒くさい感じですが、やっぱり長崎に原爆が投下された8月9日を祝日として国民がお祝いするのはどうかと思うので、そういうことになったんでしょうか。まだ、政府や国会にも心配りができる人達が残っていたということですね。そんな心配りもせずに、国分寺を語る暢気なMoMo太郎です。武蔵国分寺を出て、東京都の「歴史と文化の散歩道」にも指定された「お鷹の道」(→→→こちら)を歩いていくことにします。「お鷹の道」はハケと呼ばれる国分寺崖線の湧水を集めて流れる清流沿いの小道を遊歩道として整備したものだそうです。名前は国分寺周辺が江戸時代に尾張徳川家の御鷹場となっていたことに由来するそうです。環境省の名水百選に選ばれ、ホタルの餌となるカワニナが育てられ、都市化されているのにかかわらずホタルが舞う川が流れています。道沿いの小川は「元町用水」と呼ばれています。こちらの古風な門は「おたかの道湧水園」(→→→こちら)という有料公園施設(入場料100円)の入口です。コロナ禍のため門は閉ざされ、入園することができませんでした。この門は市の重要有形文化財の旧本多家住宅長屋門です。湧水園の中には「武蔵国分寺跡資料館」(→→→こちら)があり国分寺跡の出土品が展示されているそうです。こちらは国分寺跡にあった七重塔の模型でしょうか。お鷹の道は住宅街の脇を抜けて続いていました。(国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その9) お鷹の道
2021年08月08日
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明日、8月8日はオリンピック東京大会の閉会式ですね。オリンピックのおかげで、「まあ外に出てもいいかな」と感じた人たちで人流が増えて、その結果、新型コロナウイルス感染者の拡大に貢献したでしょうね。また、ワクチンを接種した人は、感染しても発症しないもんだから、自分は大丈夫だと思って外出して、結果、新型コロナウイルス感染者拡大に貢献したかもしれませんね。新型コロナウイルス感染防止のために、MoMo太郎が期待していた「メダリストが大会中に新型コロナウイルスに感染して亡くなる」という人流抑制へのメッセージもなく、大会が最後まで無事に終わってくれるでしょう。そして、ガースーの次の新型コロナの感染対策は、やっぱりパラリンピックの中止でしょうか。それってパラリンピックに失礼ですよね。広島の平和記念式典で原稿を読み飛ばした失礼を恥じない方ですからね。期待の400Mリレーもバトンリレーに失敗で残念ですが、暢気に国分寺の紹介を続けます。宝暦年間に再建された武蔵国分寺に参拝しました。武蔵国分寺の正式名称は「医王山最勝院国分寺」(→→→こちら)というそうで、真言宗豊山派のお寺だとか。立派な楼門がありました。二階建ての立派な建造物です。説明書きにあるとおり、国分寺市重要有形文化財であり、明治28年に米津(べいしん)寺(東久留米市)より移築されたそうてす。ちなみに、米津寺は明治期の火災で寺の再建を果たすため、この楼門を国分寺に売却したそうです。お寺にお参りしました。こちらが本堂になります。昭和60年(1985)に改築されたそうです。境内には「万葉植物園」が設置されています。国分寺市の指定天然記念物だそうです。万葉集にまつわる約160種の植物が植えられているそうです。「つちはり」土針と書くそうですが、雑然と植えられていて、どれが「つちはり」なのかよくわかりませんでした。(国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その8) 武蔵国分寺
2021年08月07日
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国内で5日、新たに1万5263人の新型コロナウイルス感染者が確認されたそうですね。加えて、ガースーが入院治療は原則的に重症患者などに限定する方針を打ち出していて、どうみたって「患者切り捨て」、「医療崩壊」ということに他ならないのでは。と思うのはMoMo太郎だけでしょうか。そんな中、まだ国分寺を歩いてきたことを綴っているわけです。さて、府中街道沿いにあったレストランの「味の民芸」です。以前、岡山に住んでいた頃は何軒か見かけていたのですが、東京にもあるって全国展開していたチェーン店だったのですね。さて府中街道を北上して広大な公園に向かいますこの公園は、国鉄が分割民営化される際に、国鉄の債務を返済する目的で閉鎖され、敷地は売却された。国鉄・鉄道学園(→→→こちら)跡地に建設された、都立武蔵国分寺公園(→→→こちら)です。その都立武蔵国分寺公園の南側にある公園が、国分寺公園です。こちらは小さい市の公園です。公園の中に大きな石碑が建立されています。三基の石碑がありましたが、真ん中にあったのは、忠魂碑でした。明治維新以降、日清戦争や日露戦争をはじめとする戦争や事変に出征し戦死した、地域出身の兵士の記念のために製作された記念碑です。戦死者の天皇への忠義を称える意味で「忠魂碑」なんでしょうね。終戦の日が近づくとこういう石碑を通して戦争について改めて考えてみるのもいいことかもしれませんね。忠魂碑があるのは、ここにこの元町八幡神社があることも理由なんでしょうね。神社の脇から森の中へ道が続いていました。鬱蒼とした緑の濃い道を歩いて行くと、ここも武蔵国分寺跡地の一部だったんですね。お寺のお堂のよう建物がありました。これは国分寺薬師堂だそうです。武蔵国の国分寺は、新田義貞と鎌倉幕府で行われた元弘3年(1333)の分倍河原の戦いで焼失し、建武2年(1335)、国分寺跡地に新田義貞により薬師堂が再建されたそうです。しかし、その後衰退し、享保元年(1718)に本堂に修復され、また宝暦6年(1756)頃に薬師堂が再建されたそうです。参拝される方もおられますね。MoMo太郎も新型コロナウイルスの感染の収束をお願いしてきました。薬師堂ですから、病気平癒等の現世利益に効験のある仏様の薬師如来が御本尊として祀られているので、効果はあるのではないでしょうか。扁額はちょっと新しい感じでした。薬師堂は台地の上にあるので、長い階段があり、そこを下って行きます。薬師堂の入口にある仁王門です。参拝すれば、足腰の鍛錬ができ健康長寿につながりますね。(国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その7) 新型コロナウイルスの収束を願って国分寺薬師堂へ
2021年08月06日
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「史蹟武蔵国分寺」の石碑が建之されていました。当たり前ですが、国分寺市の地名は武蔵国分寺があったことに由来しているのですね。国分寺は、天平13年(714)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれるそうです。大正11年(1922)に国の史跡に指定されています。石碑のある位置は金堂(こんどう)です。金堂とは本尊を安置する寺院の仏殿のことで本堂のことで、金色の建物という意味ではないのだとか。国分寺跡には、どのような建物があったのか調べられているようで、この広場は、中門跡だそうです。こんな門が建っていたんですね。広域避難場所になっていました。国分僧寺とセットで国分尼寺もありました。国分尼寺は府中街道を挟んで国分寺跡の西側にあります。この細い道を進んで行って、武蔵野線の高架下を抜けて、ここが国分尼寺の跡地です。尼寺ということでここでは女性の僧が仏教のお勤めをしていました。ちなみに、国分寺の総本山は奈良の東大寺で、国分尼寺の総本山は奈良の法華寺になるそうです。古代の国分尼寺の正確な跡地は長い間、不明だったそうですが。江戸期にはこの地域一帯から古代の瓦片が出土することが知られており、発掘調査によって明らかになってきた昭和54年(1979)に史蹟として追加指定されました。ちなみに「武蔵国分寺跡附東山道武蔵路跡」(→→→こちら)というのが正式な名称だそうです。ここが武蔵国分尼寺の跡地ですが、武蔵国分寺跡と違い、結構、周りに住宅が建て込んできていますね。この説明板だと、塔はなく金堂と中門、尼坊があったようですね。(国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その6) 国分寺があったので国分寺市だったんですね
2021年08月05日
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この緑の濃い遊歩道の中を歩いていくと、小戯れたカフェがありました。史跡の駅「おたカフェ」(→→→こちら)です。ちょっと入ってみたかったですが、コロナのせいかここを訪れた日(5月23日)は休業していました。さらに西に進むんで、広場に出ました。この広場の中にあるのは、武蔵国分寺の重要な施設であった七重塔跡たそうです。3間(10m)四方礎石建物で、高さは約60mあったと推定されているそうです。礎石の後が残っていました。敷地の隅にあった石塔です。なにかいわれがありそうですね。ここが国指定史跡武蔵国分寺跡(→→→こちら)なんですね。(国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その5) 七重塔跡です
2021年08月04日
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中央線の南側のエリアにやって来ました。「もみじ橋遊歩道」というちょっと小戯(こじゃ)れた散歩道があってそこを歩いて行きます。この散歩道の途中にある「もみじ橋」です。紅葉の頃にも楽しめそうですね。もみじ橋の下を流れる「野川」(→→→こちら)です。国分寺市の日立製作所中央研究所敷地内の湧水を源として、小金井市、三鷹市、調布市を貫流し、狛江市東野川で入間川を、世田谷区鎌田で仙川を合流して、世田谷区玉川で多摩川に合流する、延長20.23km、流域面積69.6平方キロメートルの一級河川です。こちらが下流側です。こちらが上流側です。コンクリートで護岸されていますが、かなり深い谷ですね。もみじ橋の近くにあった門です。むかしあったお屋敷の遺構なんでしょうか。しかし、レンズ汚れていましたね。恥ずかしい。途中で見かけたコロッケ店、人気店のようですね。国分寺跡に向かって歩きます。大きな屋敷林に囲まれたお屋敷が見えてきました。立派な蔵が残っていました。樹園地も所有されているのですね。(国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その4) お屋敷のある街
2021年08月03日
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国分寺街道を南下していくと、こんな建物があります。ここはかの有名な「早稲田実業」です。そんなわけで、こんな石碑が。早稲田実業卒業生でプロ野球で活躍された王貞治さんが寄贈した石碑です。ところで、早稲田実業が国分寺に移転したのは平成13年(2001)だと思うのですが、昭和53年(1978)建之(これをたつ)ということは、この石碑も新宿区から一緒に移転してきたのでしょうね。斎藤佑樹選手や清宮幸太郎選手といったくすぶっている早稲田実業出身の野球選手がこんな石碑を母校に寄贈する日はやってくるのでしょうかね。そして、その隣にあった石碑です。こちらの石碑は「「日本の宇宙開発発祥の地」の顕彰碑です。平成18年(2006)に建立されたそうです(→→→こちら)。この顕彰碑が建立されたのは、昭和30年(1955)、糸川英夫博士率いる東大生産技術研究所が、戦争中は銃器などの兵器を製造していた「南部銃製造所」で、戦後、新中央工業KK廃工場跡地(現早稲田実業学校)だったこの地で、日本初となるロケットの水平発射実験を行なったことにらいいました。 ロケットの全長が23センチメートルであったことから、「ペンシルロケット」と呼ばれているそうです(→→→こちら)。しかし、武器工場の跡地でロケットの実験ということは、やっぱり宇宙開発は武器製造の一環でもあるのでしょうか。写真が下手ですみませんが、ペンシルロケットを持つ糸川英夫博士(→→→こちら)の姿が石碑にプリンとされていました。また、この碑の下には松本零士氏デザインのタイムカプセルが埋められているそうで、その中にはJAXA主催ペンシルロケット50周年記念事業で募集した「未来のロケット」のイラスト、水平発射再現実験に使用された ペンシルロケット1機が入っていて、ペンシルロケット100周年を迎える2055年4月吉日に開封される予定だそうです。そんな「日本の宇宙開発発祥の地」国分寺市。マンホールの蓋にもロケットについての情報が刻まれていました。そして、さらに南下して中央線のガードを抜けていきました。(国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その3) 国分寺からロケット発射
2021年08月02日
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国分寺の駅前通りが小平市に入ると途中から通りの名前が変わってサレジオ通りとなりましたサレジオ通りというのはこの近くにある戦後、戦災孤児を保護する目的で設立された児童養護施設である東京サレジオ学園(→→→こちら)に因むのでしょうね。国分寺街道を渡ると小金井市に入ってこの看板が見えてきます。国立研究開発法人情報通信研究機構(→→→こちら)です。ここでは、情報通信技術の研究開発を行う国の研究機関で、AI(人工知能)ゃ中国やロシアからのサイバー攻撃から日本を守る研究を行っているのでしょうね。また、建物に大きなデジタル時計があります。ここでは、18台のセシウム原子時計を使って、日本標準時(JST)を作成・維持・供給をしているそうで、ここに表示される時刻が正しい日本の時刻ということだそうです。ちなみに、MoMo太郎の持っているG-SHOCK(電波時計の機能あり)とは2、3秒、時刻がズレていました。(国分寺のコースです)【5月1日~7月31日のアクセス数】5月1日から7月31日のアクセス数です。沢山の方に拙いブログを見ていただきありがとうございました。【つづく】人気ブログランキング東京のヘソ(重心)は国分寺(その2) 時計は正確ですか?
2021年08月01日
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