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かつてのストレート・ヘアはどこへやら、ぽわっぽわの癖っ毛になってしまった私。朝、何かクリーム状のものをつけないと寝癖一つ直せないという。 で、その種のヘアケア製品をあれこれ試し続けた結果、ついに私にはピッタリの製品を見つけたのでございます。 それがコレ! クラシエの「マルカ」でーす。 これこれ! ↓プロスタイル マルカ パーフェクトケアオイルinエッセンス まとまり(120mL)【プロスタイル】価格:821円(税込、送料別) (2016/12/1時点) これは効きます。しっとりまとまるよ~。 ということで、今や私の朝の必需品。教授のおすすめ! です。
November 30, 2016
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『新潮45』に連載されている平山周吉さんの『江藤淳は甦える』を愛読しているのですけれども、最新号(12月号)の連載の中で、平山さんが「ぼくら」という言葉について考察を巡らせていまして。 それによると、デビュー作である夏目漱石論の冒頭で江藤は「日本の作家について論じようという時、ぼくらはある種の特別な困難を感じないわけにはいかない」と書き出していて、論述の主体が「ぼくら」になっていると。 で、平山さんによると、江藤の使う「ぼくら」という言い方には出自があって、それは小林秀雄にまで遡るのではないかと言うのですな。実際、小林秀雄は「様々なる意匠」から「モオツァルト」あたりまでの評論の中で、さかんに「僕ら」という言い方をしていた。その他、中村光夫や北原武夫などの評論家も、「僕ら」という言葉でもって、自分の立場を明らかにしていたというのです。だから、主体を「ぼくら」に設定して論じる伝統っていうのは、前々からあるわけね。 で、それを読んだ私、うーーーん!と思いましてね。 というのは、私を含め、文学研究やっている人で、「僕ら」という主観から文学作品の分析をしている奴っていないだろうなと。 文芸評論家と文学研究者、何が違うのか、なんて、あんまり考えたことなかったですけれども、端的に言えば、それか! と。 だけど、考えてみると、「僕ら」という視点でモノを見るって、すごくない? 「自分はこう思う」というのは、これは自己責任で言っているわけだから、言っていることが正しかろうが間違っていようが構わないようなもんですけど、「僕らはこう思う」って言っちゃったら、それは少なくともある世代を代表してモノを言っているわけで、よほどの自信がないと言えないんじゃないかなあ。自分はみんなの代弁をしているんだ、って、どうやったら思えるんだろう? っていうか、評論とか研究とか言うことを脇に置いたとして、私が「僕ら」って言う時、それは何を指しているのかしら。 「バブル世代」? そうかも知れないけれど、「バブル世代」という言葉が成立するかどうか、イマイチ不安なところもある。 というのは、「世代」って言ったら、「嫌々ながら、時代に押しつけられて、そういう範疇に入れられている」っていうニュアンスがあるんじゃないかと。 たとえば「戦後・闇市世代」とかね。「ベビーブーマー世代/団塊の世代」とか。だけど、「バブル」には「嫌々ながら」っていうニュアンスがないからなあ。我々、結構その時代を楽しんでいたし。 だから、逆に、今の二十代には「ゆとり世代」っていう世代感はあるのかもね。彼らだったら、「僕ら『ゆとり世代』は・・・」って言えそうな気がする。 ま、とにかく、平山さんの連載を読みながら、そんなことをつらつら考えていた私だったのであります。
November 29, 2016
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同業先輩であるN先生のブログを拝読させていただいていたら、ちょっと面白いことが書いてありまして。それによると、先生の周辺で「文学における嘔吐」なる話題がホットなのだとか。 ふうむ・・・。嘔吐ねえ・・・。 で、私も気になって嘔吐シーンのある文学作品を思い出してみるのですが、パッと思いついたのは一つだけ。まあ、これは専門だから知っているのですが、フラナリー・オコナーの『The Violent Bear It Away』の第8章で、主人公のターウォーター少年が、伯父のレイバーと船の上で論争する場面で、ターウォーターが吐くシーンがある。 これはもちろん船酔いということではなく、この先に待ち受けるクライマックスの予告のようなものでありまして、ターウォーターはこの直後、白痴の従兄弟を殺害し、またその過程で心ならずも彼に洗礼を施してしまうことで預言者へと変貌を遂げるのですが、要するに、この嘔吐を境にもはや地上の食べ物はターウォーターの飢えを癒すことができなくなるということを象徴的に示す、そういう意味シンな嘔吐であるわけ。 ま、オコナーの長編作品の内容を説明すると、どうしても「何ソレ?」っていうことになってしまうので、あまりやりたくないのですけれども・・・。 とにかく、嘔吐という肉体的な現象が、ここでは主人公の内面の変化を読者に告げる道具として使われているわけですよ。 ふうむ・・・。 そう考えると、嘔吐というのは、文学的表現として、相当に重要なものなのかもね、確かに。 無論、私の世代くらいまでは実存主義なるものが一世風靡していた時代を辛うじて覚えていますから、文学における嘔吐と言えば、もちろんサルトルの『嘔吐』が思い浮かぶわけですけれども、他には・・・どんなのがありましたっけね。 でも、吐くという行為は、肉体的・精神的にかなりダメージを伴う激しい行為なので、先ほども言ったように、当然、文学的な意味を深く持ちうる場面になるはずで、そういうシーンばかりを集めて文学論をやれば、ちょっと面白いのかも知れませんな。例えば「アメリカ文学と嘔吐」と題してシンポジウムがうてれば、かなり斬新なものになったりして。 評論家の斎藤美奈子氏がかつて『妊娠小説』なる文学論を発表し、これが彼女の出世作になるわけですけれども、これを模して『嘔吐小説』なんて本も書けたり・・・しないかな。 ま、あんまり時分時には読みたくない本になりそうですけどね・・・。【中古】 妊娠小説 ちくま文庫/斎藤美奈子【著】 【中古】afb価格:108円(税込、送料別) (2016/11/28時点)
November 28, 2016
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次の愛車、何にするかまだ迷っているのですけれども、ただでさえアレにしようかコレにしようかで迷っているところへ持ってきて、また新たな候補が一台。 それは「日産ノート e-power」というクルマでございまして。 この「e-power」というシステム、噂によると、とんでもなくいいらしいんですわ。 このクルマ、一応、エンジンは搭載しているものの、動力としては一切かかわらず、発電機の役割だけを担っているんですな。で、発電機で作った電気でもってモーターを回し、それで動く。つまり、動力に関しては完全にEV(電気自動車)なわけ。 よく知られているように、動力としてはエンジンよりモーターの方がずっと上。エンジンは低回転ではトルクもパワーも低いため、ローギアを使って発進せざるを得ず、そこからスピードが上がるに従ってギアを上げて行かなくてはならない。その切り替えが絶対に必要なわけね。 ところがモーターの場合は、最初から強大なトルクを発生させるので、ギアをチェンジする必要がない。つまり1速のギアで最初から最後まで全部こなしてしまう。ギアを変える必要がないので、CVT以上に滑らかだし、パワフル。それだけ、欠点のない動力ということができましょう。 だから「ノートe-power」も、ものすごく滑らかで強力な走りをするらしいのよ。 で、その意味では、トヨタが誇るハイブリッド車なんかよりよほどシンプルな作りで、上等な走りを提供しつつ、しかも実燃費ではほとんど遜色ないレベルになっているらしい。「トヨタのハイブリッド戦略」対「日産のEV戦略」では、今までは前者の圧勝だったわけですけれども、リーフで培ったEV技術が、この新しい「e-power」によってようやく開花した、という感じでしょうか。 というわけで、ノートe-power、試乗してみたーーーい! だ・け・ど。 問題はそのデザインなんだよなあ・・・。日産ノート、あれは日頃「美しいクルマ以外、私の愛車になる資格がない」と豪語している私が乗るようなデザインと言えるだろうか・・・。 噂によれば、ノートe-power の好調な売れ行きに気を良くした日産が、今後、次々とe-power 搭載車を増やすらしく、その中には新型のジュークなんかも含まれるらしい。だとすると、仮にe-power搭載車の購入を検討するにしても、それらの新型車が出てからでも遅くはないのではないかと。 うーん。悩ましいねえ。 でもとにかく、今は愛車買い替えのタイミング。堂々と色々なクルマに試乗できる立場なんだから、近いうちに是非、ノートe-power に試乗してみようっと! また実際に乗ってみたら、その乗り心地など、ご報告しますね!
November 27, 2016
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例の「ふるさと納税」、やってます? あれ、やらないと損よ。大損よ。もう馬鹿みたいな制度で、納税した分だけ得する一方っていうおかしな制度だからね。知らない人だけ損をするという。 で、あわら市に納税したおかげで、あわら温泉から宿泊券をたんまり貰っていたもので、年休とって北陸に旅行してきちゃった。 まずね、東海北陸道経由で九頭竜湖を通過。紅葉のひとつも見ようと思ったものですから。もっとも、紅葉見るにはちょっとだけ遅すぎたかな・・・。 だけど、それにしても九頭竜湖の荒んでいたこと。昭和中期のドライブインとかが潰れたその残骸が残っていたりして、こわい、こわい。ちょっと前、ここで「冷凍庫殺人事件」があったじゃん? いかにも、って感じ。せっかくの湖なのに、もうちょい、洒落た観光地に出来なかったのかね? で、その凄まじいところを通過して勝山に向い、立寄ったのが「恐竜博物館」。これはね、結構気合の入ったところで、恐竜及び生物の進化について、かなり本格的な展示がしてある。大人でも楽しめます。一見の価値あり。 そしてその日は芦原温泉に宿泊。 だけど、そーねー。芦原温泉。周辺は特に見るべきものもない、街中の温泉街でしょ。大きな旅館がいくつもあるのだけど、結局、昭和風の社員旅行の大型団体向けって感じなのかな。 そして、翌日。まずはすぐ近くの三国に向います。 三国っていうのは、北前船の時代には大いに栄えたところ。北前船の時代には、日本海側こそが「表日本」だからね。海産物や米や塩や、そういった様々なものを、産地で積んで消費地で売って、またその消費地の産物を買いこんで、また別のところで売って、ってな感じで、三角貿易どころじゃない多角形貿易でしこたま儲けたらしいんですな。つまり北前船っていうのは、物流業者じゃなくて商人なのね。で、そのすごく儲かる商売船が出入りするもので、その経由地となる港町は栄えるわけよ。実際、当時の三国の港沿いには、京都の町屋づくりみたいな細長い商家がずらりと並んで壮観だったみたい。またこの地お花街の賑わいなんかも、江戸・大坂のそれと競うほどだったらしい。 で、この地の豪商にも太っ腹なのが居て、特に内田家なんてのは、飢饉になると私財をなげうって公共工事を発注し、働き口を作って多くの住民を助けるとか、その志たるや素晴らしいものがあったらしい。特に九頭竜川が運んで来る土砂によって湊の底が浅くなってしまうのを防ぐため、近くにある東尋坊から岩を切り出し、その岩を使って九頭竜川河口に突堤を作って川の勢いを増し、泥の堆積を防ぐという難工事を、オランダからジョージ・アーノルド・エッシャー(かのマウリッツ・エッシャーの父親)を呼んできて行うという、すごいことをやったんですな。 で、そんな感じで地元のため、人々のために尽くしたために、ついに内田家の財産も底を突き、家屋敷も全部無くなって、残ったのは一本の庭木だけ、という、まるでドラマのようなことになる。昔の人は、偉かったねえ。 で、それに追い打ちをかけるように時代は北前船から鉄道の時代に。これで、三国は没落し始めるのですが、三国財閥の中には気の利いたのも居て、船商売がダメなら次は銀行だってんで、銀行業を始めた森田家なんてのもあったりして。今も残る森田銀行の建物なんて、凄くモダンで洒落てましたわ。 次の次の大河ドラマ、内田家の没落と森田家の勃興を壮大に描く、ってのはどう? 花街もあったから、花魁との恋物語も混ぜたりして。 それにしても、かつてはそれほどの繁栄を謳歌したという三国の町なんですが、それがねえ、今はもう、閑散とした田舎町でね。時代の流れって、無惨だなと。 で、この辺のB級グルメとして「三国バーガー」ってのがあって、特産のラッキョウをピクルス代わりに使ったハンバーガーらしく、それをお目当てに立寄ったようなところもあったのですが、なんと三国バーガーを売っている「三国湊座」ってのがたまたまお休みで。しかも、この店以外、三国バーガーを売っている店がないってんですから。 普通、B級グルメっていうのは、地域全体で盛り上げていくものだろうに、そういう町興し的な発想すら、この町にはないのかと。 で、じゃあ仕方ない、ってんで、急遽他のお店を探したのですが、海を見下ろす洒落乙なカフェは・・・閉店、海を見下ろす洒落乙なイタリアン・レストランは・・・閉店。あるのは渋い蕎麦屋と中華料理屋と洋食屋がそれぞれ一軒だけ、的な感じで、もう町として終わっとるじゃないかっ! 三国は、そんな感じでした。 さて、そんな近代史の無惨な爪痕を眺めた後、我らが向かったのは、能登半島の付け根にある羽咋の町。なんで羽咋に向かったかと申しますと、そこに折口信夫とその養子である折口春洋さんの「父子墓」があるから。私は国文学の徒ではないのですけれども、岡野弘彦さんの書かれた『折口信夫の晩年』を読んで以来、折口信夫という人に並々ならぬ興味を抱いておりまして、そのお墓がこちらの方にあるというので、いつかお参りしたいと思っていたんです。 で、行ってきましたよ、そのお墓に。気多大社のすぐ近くに、環境コンシャスなアウトドア製品で有名なモンベルの配送センターがあって、その配送センターの裏手の墓地に、折口博士はその最愛の恋人にして養子の春洋さんとともに眠っておられました。生前、折口博士自身が考えた墓碑銘を、私は当然、知っていたのですけれども、それの実物を見た感動はやっぱり大きかったです。その墓碑銘ってのは、 もっとも苦しき たゝかひに 最くるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折 口 春 洋 ならびにその 父 信 夫 の墓 というのですけどね。 大阪に生まれ、国学院に学び、そこの教授として、また歌人として東京で活躍した折口信夫が、今はひっそりと日本海のほとりに眠るという。なんかね、人の一生って、分らないもんですな。 そして、この日は七尾の寿司の名店「寿司一」にて、桁違いに旨い寿司を堪能した後、和倉温泉は「あえの風」にて宿泊。さすが加賀屋の姉妹宿となる「あえの風」、充実したサービスでございました。 で、翌日。能登島でガラス美術館でも見ようと思ったら休館日だったので、急遽、プランを変えて能登半島を横断し、「世界一長いベンチ」で有名な増穂浦海岸に出て、七尾の方とは打って変わって荒い能登外浦の風景を堪能。その後近くの『トラットリア・シゲゾー」で軽く昼食をとってから、片山津の柴山潟へ向かいます。 片山津は中谷宇吉郎先生の故郷なんです。 中谷先生、御存知? あの雪の結晶の研究で有名な。私も子供の頃、「線香花火」という科学エッセイに惹かれて、『雪』とか『科学の方法』とか、随分読んだのよ、中谷先生の本。もちろん、科学者として一流だったのでしょうけれども、文人としても名高く、師匠の寺田寅彦の後を継いで、「文人科学者」を体現した人。 で、その中谷宇吉郎を記念して、ここに「中谷宇吉郎 雪の科学館」というのがある。記念館の設計は磯崎新氏。雪の結晶を模したと思しき、斬新な建物。 で、この科学館を見学したのですけど、これを見るとさ、いかに昔の日本がいい国だったか、よく分かる。 だって、雪の研究だよ? 産業的には何の役にも立たん。だけど、中谷さんのために北大は(=文部省は)専用の研究所作ったり、世界中の寒冷地での研究に中谷さんを送り出したり、相当なお金を出している。それだけ、基礎研究にふんだんにお金を出していたんですなあ、昔の日本は。 昔の日本は、学問を重視したんだねえ・・・。今とはまったく逆で。そしてそれに応えて科学者もいい仕事したし、その一方で、その成果を文学的に表現して人々に伝えたりして、余裕があった。 ああ、いい時代だったんだなあ、と思いながら、科学館に附属のカフェ「冬の華」(これが、湖を見下ろす絶好のロケーションにある洒落乙なカフェでありまして)でコーヒーをいただいたというね。 で、その後、今度は武生に向い、そこにある「ヨコガワ分店」なる有名店にて、地元のB級グルメ「ボルガライス」(絶品! 三国バーガーを食べ損なった仇が討てました)を食し、今回の旅を終えたのでございます。 今回の旅では、「ここで食べよう」と思っていたお店が休みだったり、「ここへ行こう」と思っていた施設が閉館していたりと、予定外のことが多かったのですが、まあ、なんとか急遽予定を変更して立て直しつつ、それなりに楽しんだ、という感じでしたかね。特に、私個人としては、折口信夫の父子墓にお参り出来たのが大きかったかな。 というわけで、4年連続となる11月の北陸行。満喫して充電してきた私なのでございます。さあて、今日から、また仕事頑張るぞ!!
November 26, 2016
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あれ、何て呼ぶんだろう、「ドリップ・コーヒー」って言うのかな? ティーバッグのコーヒー版みたいな奴。分かる? あれさあ、インスタント・コーヒーなみの手軽さで本物のコーヒーが飲めるのがウリで、私もたまに飲むんだけど、やっぱり、あんまり美味しくないっていうか。なんか薄いような気がして。 ところが。 最近、ブルックスのドリップ・コーヒーをいただいたのですけれども、これがね、案外美味しかったのよ。種類も色々あって、今日はコロンビアにしよう、とか、今日はモカにしようとか、その時々の気分で味を変えることもできるし。 時々、新聞の折り込みチラシなんかでブルックス・コーヒーの宣伝を見かけますけど、今まで全然関心がなかったわけ。だけど今回、人からもらう形で試してみたら、案外イケるということが判明。 一番いいのは、コーヒーの粉がたっぷりしていることかな。だから、この手のドリップ・コーヒーにありがちな「薄味」な感じがなくて、しっかりコクが出る。まあ、私もそれほどあれこれ試したわけではないけれど、今のところ、この手のものとしてはベストなんじゃないでしょうか。 というわけで、ブルックスのコーヒー、教授のおすすめ! です。【初回送料無料】ブルックス 10gコーヒーお試しセット ドリップコーヒー6種[BROOK'S/BROOKS]価格:1980円(税込、送料無料) (2016/11/23時点)
November 23, 2016
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今日は1限から授業がある日なので、朝も6時ちょいすぎには起きていたのですけれども、何気なくテレビをつけてびっくり。まだ映像が映る前に、「逃げてください! 逃げ続けてください!」という切羽詰まった絶叫が聞こえたもので。 ひゃー! 火星人襲来? それとも、どこか北の方のクレージーな国が、わが国に核爆弾でも落としました? ま、先の大災害で被害に逢われた地域の皆さんにとってはビックリどころではなかったと思いますが、今回はさほど大きな被害が出なくてよかったデス・・・。 閑話休題。 さてさて、一体全体どういう風の吹き回しなのか、うちの大学の図書館を改修するためのお金を文科省がくれたらしく、来年の年明け早々から1年弱、工事のために閉鎖されることになりまして。 ・・・・。 それ、まずいじゃん?! 私ら文系研究者にとって図書館は研究の拠点でございまして、これが1年近くも閉鎖されるんじゃ、商売あがったりじゃないの! で、その改修工事が始まる前に、我々教員には冊数無制限で工事終了まで本が借りられるようにする、というような通知があり、そのための説明会が開かれることになったと。 で、この説明会だけは出ておかないとえらいことになるなと思い、いそいそと出向きましたよ、私。 すると! なんと、この大事な説明会に出席した教員は、私を含めて3人だったという・・・。 え゛ーーーーー! ウソだろっ! 250人もいる本学の教員の中で、図書館閉鎖に危機感を感じているのはたった3人なのかよっ!! これは一体どういうことなんだ? この大学で図書館使って研究しているのは、3人しかいないってことか?? 図書館が1年近く閉鎖されることもさることながら、そのことに大半の教員が不安を抱いていないということの方が怖いわ。大丈夫か、うちの大学? みんな、ちゃんと研究してる? それはさておき、無制限で本を前借りできると言っても、この先1年間、自分がどんな本を必要とするようになるか、なんて、前もって予測なんかできるはずないじゃん? 研究の過程で、これこれこういう本を調べなきゃ、っていうのが突然出てくるのであって、1年先のことなんかわからないよ。 どうすりゃいいのかねえ・・・。
November 22, 2016
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私がこよなく愛するクルマ番組『愛車遍歴』に、作家で元長野県知事の田中康夫さんが登場されまして。 で、録画しておいたその番組を昨晩、見たのですけれども、田中さんの愛車遍歴もさることながら、番組中で彼が述べていたクルマに関する提言が非常に面白かったので、ここでちょっと紹介しちゃおうかなと。 で、その提言というのは、「ICチップを組み込んだ自動車免許証にエンジンのスタート機能を持たせてはどうか」というもの。 この提言のメリットは、無免許運転を防止できるということ。免許証を差すなり、かざすなりしないとエンジンがスタート出来ないのですからね。 さらにもう一つのメリットは、こうすることによって、その免許証を持っているドライバーがどのくらいの時間、どの位の距離を運転したかが記録されること。そして、もしそのドライバーがすごく長い時間、あるいは長い距離を運転して、しかも無事故であったならば、その人に「ゴールド免許」を与えることにする。 このシステムですと、免許は持っているけれどもあまり運転はしないペーパードライバーが、ゴールド免許を取得することができなくなるので、そういうドライバーは免許更新の際、講習を受けなくてはならなくなるわけですな。で、田中さんによれば、その方がいいと。だって、そういう運転慣れしていない人ほど、定期的に講習を受けた方がいいわけですから。 なるほど! これは非常に合理的な提言だよね! 説得力あるなあ。 まあ、私があえて付け足すならば、例えば後期高齢者の場合、免許証を使ってエンジンを起動させようとすると、何らかの質問がナビ画面か何かに出てきて、それに正確に答えないとエンジンがかからないようにする。そうすれば、認知症の老人ドライバーによる事故も防げたりするんじゃないかしら? IT技術の進化で、今、色々なことができるようになっているわけですが、それを運転免許証にも応用して、旧態依然とした様々な規則を合理化していけるのならば、是非、そうすべきなんじゃないかね。 というわけで田中康夫氏、さすが世に出る人だけあって、面白い発想をするもんだなあと。今回の提言、ちょっと見直しちゃったな。
November 21, 2016
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日曜日は、新聞の読書欄で面白そうな新刊本の紹介を読むのが楽しみなのですが、今日、私の目に留まったのが町山智浩さんの新刊『最も危険なアメリカ映画』っていう本。これこれ! ↓最も危険なアメリカ映画 『國民の創生』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで [ 町山 智浩 ]価格:1296円(税込、送料無料) (2016/11/20時点) 私は基本的に町山ファンなので、とりあえずこの本の注文確定! それにしても、最近よく思うのですけれども、町山智浩さんの立ち位置って、なんかいいよね。「いい」というのは、言い換えれば「羨ましい」という意味なんですけれども。 基本、彼の肩書は「映画評論家」でしょ? そっち系の著書も多いし、BSとかでアカデミー賞発表式の中継なんかやると、ゲスト・コメンテイターとして必ず登場する。全般的にコメントが陽気なので、こういう番組としては使い易いんでしょうな。 だけど、そういうのだけじゃなくて、最近はアメリカ関係全般のコメンテイターとして登場するじゃん? たとえば、先般のアメリカ大統領選にしたって、あちこちで町山さんがコメンテイターとして起用されていましたし。つまり、政治分野も行けるわけだ。 要するに、「アメリカの息吹を伝える的なことであれば何でもござれ感」が半端ないっていうか。 結局、面白い本が書けて、要点を押さえたコメントが言えて、明るくて、しかもアメリカ在住だからこその生の情報を持っていて、っていうね。そういう諸条件を兼ね備えた人って、居そうで居ないわけよ。その空白を、町山さんは上手いこと埋めたと。 いいなぁ! 羨ましい。そういうの私もやりたいわ。私と町山さんは1歳違い(向こうが上)の同世代だけに、余計、そう思います。 だけど、最近の町山さん、すっかり「表の人」になった感があるけれども、もとはもっとアングラな感じの人じゃなかったかしら? 本なんかでも、もっとこう、エグイ感じの、毒のある本を書いていたような気がするけれども。その辺、マイナーからメジャーになるに当たって、口当たりよくしちゃったようなところ、ない? あとね、もう一冊気になったのは、古書山たかしとかいう人を食ったようなペンネームの人が書いた『怪書探訪』っていう本。これこれ! ↓怪書探訪 [ 古書山 たかし ]価格:1944円(税込、送料無料) (2016/11/20時点) 相変らず「古本関連本」って盛んに出版されるけど、これもそんな感じの本なんだろうな。まあ、古本マニアの一人として、とりあえず読んでおきましょうかね。 それにしても、読むべき本ばっかり増える。読むべき本山積みで、とても読む方が追いつかないわ。上の二書にしたって、注文したはいいけど、実際に読めるのはいつになることやら・・・。
November 20, 2016
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すみません、クルマの話題が続いて。今、私の関心の的がそこにあるもので・・・。 今日、県内某所で秘密のミッションを果していたのですけれども、その仕事で同僚のI先生(女性)とご一緒でして。 で、I先生もクルマはお好きで、今はマークXに乗っていらっしゃる。 でも、もう結構長い間マークXに乗っていらっしゃるので、「先生、そろそろクルマを替えたりしないんですか?」とお尋ねしたところ、「実は先日、替えたんです」とのこと。 え? マークXからマークXへ? そしたら実は事情が複雑で、前に乗っていたマークXがもらい事故で廃車になってしまったんですと。交差点で青信号で直進していたところ、赤信号で突っ込んできたアクアにドーンと。で、双方、一発廃車。 で、完全に向こうが悪かったので、賠償の話になったわけですが、既に10年以上乗っていたマークXを現時点で査定すれば、せいぜい40万とか50万とか、かなり低い値段になってしまう。で、賠償はその低い値段を基準になされるので、賠償してもらったとはいえ、結局、I先生側としてはかなりの損をすることになるわけですよ。 で、I先生は、仕方なくクルマを替えることになってしまったのですが、クルマを買うというのは高い買い物ですから、せかされてするのも嫌だ、ということになり、差し当たり先程の金額ほどで売っていた中古のマークXを買い、当面は凌ごうと。だから、I先生が今乗られているマークXは、前に乗っていたマークXとは別物だったんですな。 それにしても、そういう替え方をするにしても、同じクルマを買うというのは、つまらなくないですか? と尋ねてみたところ、I先生もそう思われて、最初はこの際、プリウスとかアクアあたりを買おうとされたのですが、マークXとアクアが衝突した際、アクアの壊れ方がひどくて、見る影もなく潰れたのに対し、マークXはそこまでの壊れ方ではなかったと。 つまり、やはりマークXは、アクアなんかに比べても頑丈に作られているのではないかと。 そう思って、安全面を考慮し、当面は中古のマークXにすることにされたのだそうで。 で、私もその時の写真を見せてもらったのですが、確かにマークXの方はサイドがへこんでしまったものの、十分に原型をとどめていたのに対し、アクアの方は前部が見るも無残にクシャクシャでしたからね。 なるほど。 ちなみに、I先生にとって、今、本当に買いたいクルマって何ですか? とお尋ねしたところ、言下に返って来た答えが「アルファード」。 ほう! アルファード! ちょっと意外だったので、「なぜにアルファードなんですか?」と更に問うてみたところ、I先生曰く、「まず広くて、押し出しがいい」と。それにパワーがあるので、高速道路とかで他車に抜かれる心配がないと。 しかも、人気車なので、リセール・バリューもある。だから、言うことないと。 うーーん! そうなのか! きっとI先生みたいな人がこの世には沢山いらして、それでトヨタのクルマは売れ続けるんだろうな・・・。 ちなみに、今回、I先生はアルファードも一応は試乗されたようですが、超小柄なI先生には、アルファードは大きすぎて、アクセルとブレーキに十分足が届かなかったので、今回は断念されたのだとか。あらま、残念でした。 というわけで、I先生の場合はアンラッキーな事故ゆえの苦渋の愛車探しだったようですけど、私の方も次期愛車探しに迷走中。 ま、私の場合は、トヨタ車にはならないだろうとは、思いますけどね・・・。
November 19, 2016
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次期愛車候補をめぐる旅、本日はマツダのディーラーへCX-3の試乗に行って参りました。 CX-3、確かにエクステリア・デザイン、いいです。そして内装もすごくいい。問題点があるとすると、後部座席の狭さなんですけど、実際に座ってみると、大人2人ちゃんと座れますね。膝前に余裕はまったくないですが、座れることは座れる。しかも、クッション性が高くて、結構座り心地がいい。たまにしか人を乗せないというのなら、十分にありかなと。 で、実際に乗ってみた。 私、ディーゼルエンジンに乗るのは初めてなんですが、言われなければこれがディーゼルかなんてわからない位、カラカラ音も振動もほとんどないです。ただ、止まっている状態だと、ハンドルとシートにごくごく細かい振動が伝わって来ることは来る。でも、それにしたって、走り出してしまえば全然分りません。非常に滑らかなものです。 ただし・・・。 いかにディーゼル、しかもターボ付でトルクがあるとはいえ、所詮1.5Lですから、出だしが重い! もっさりしております。なにか重い物を「よっこらしょ」という感じで動かしている感が否めない・・・。これも一旦スピードに乗ってしまえば、さほど違和感はないのですけどね。 だけど、そこ、重要なところなんだよなあ! 走り出しの10メートル。いいクルマって、この10メートルで「あ、いいな」ってピンときますから。そこへ行くとCX-3、むしろ走り出しの10メートルを超えてから、ようやく「あ・・・うん・・・これ・・・いいクルマ・・・なんだろう・・・な・・・」って思い始めるみたいな。 どうなんだ、CX-3、外装も内装も非常に気に入ったのに、走りの面におけるこの微妙な感じ! ちなみに、ディーラーさんに勧められるまま、ついでにアクセラの1.5Lガソリンエンジン車も試乗しちゃった! ちなみにこのアクセラは、マツダ自慢の「Gベクタリング」付の最新モデルでございます。 で、これは乗った途端に、ホッとしました。つまりね、ワタクシ自身、ガソリン車の動き出しに慣れているので、「そうそう、ガソリン車って、こういう感じで走り出すよね」っていう安心感が身に染みたの。しかも、Gベクタリングのおかげか、カーブを切っても体が全然ぶれないし。 ただし・・・。 このクルマに関しては、1.5Lのガソリン・エンジンは明らかに役不足。1.5Lの非力なエンジンが奏でる「シャーーーン!」っていう軽々しい音が、せっかくの乗り心地の高級感を損ねちゃうのよ。このシャシーで、もし2Lのガソリン・エンジン積んでたら、すごくいいクルマになったと思います。 ま、アクセラは最初から愛車候補に入っていないので、どうでもいいのですけれども、CX-3・・・。うーん、どうかなあ・・・。 先週試乗したルノーのキャプチャーに比べると、走りの印象がちょっと、ワタクシの感性に合わないような気がするんだよなあ・・・。 もちろん、CX-3は日本車だから、おそらく10年ぐらいは故障しないだろうし、ディーゼルなのでランニング・コストも低いだろうけれども、うーん、毎日乗ることを考えると、やっぱり毎日「この走り、最高!」って思いながら走りたいしなあ・・・。 あーーー、分からん! やっぱり、もう一回キャプチャーとゴルフ7に試乗してみようかなあ・・・。 さてさて、悩みは尽きないのですけれども、今日は試乗の後、そのまま名古屋は栄に向いました。今日は、夕食を外食しようと思いましてね。 で、向かった先は、栄・・・と言うより矢場町にある「ツタンカーメン」という名のお店。その名の通り、エジプト料理のお店です。前にこの店の前を通りかかったことがあって、一度、入ってみたいと思っていたんですよね~。 そしたら! なんと、このお店、潰れていた・・・。 ウッソ~ん?! わざわざここまで楽しみにやって来たのに! どーしよ、どーしよ。プランB考えてなかったよ。しかも、すっかり中東系の料理を食べる気満々になっていたもので、他の料理に行く気が全然しない。 というわけで、仕方なく、トルコ料理の店に行くことに。向ったのは、「キャプテン・イスタンブール」という店。前に一度、行ったことがあったもので。 で、注文したのはドネル・ケバブとキョフテ(=トルコ風ハンバーグ)、それにスープとジャジュク(=ヨーグルトときゅうりのサラダ)、そしてトルコ風パスタにアイスクリームといった布陣。料理人を含め、客のほとんどがそっち方面の人たちで占められる中で食すこれらの中東料理、なかなか趣があってよかったです。ツタンカーメンは残念でしたけど、次善の策としてはまあまあだったのではないでしょうか。 とまあ、そんな感じの一日だったのですけれども、問題は次の愛車をどうするか。うーん、CX-3にするか、キャプチャーにするか、それともゴルフ7か、はたまたもっと違うクルマにするか。悩むね~・・・。まだまだ愛車選びは迷走を続けることになりそうです。
November 18, 2016
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普段、あまりしっかりとはお昼ご飯を食べないのですが、木曜日は大学からの帰りに道場に寄って柔術の稽古をしてから帰宅するので、この日だけは割としっかり食べます。食べるったって、主にジャンク・フードを食べるんですけどね・・・。 で、今日は何を食べようかなと思いながら大学に向っていたのですが、何となく牛丼が食べたいな~、みたいなことを考えているうちに、ハッと思い立ちまして。 そうだ、くら寿司の牛丼を試してみようと。 寿司屋の牛丼とは、一体どのようなものなのか、興味あるじゃん? というわけで、通勤路にあるくら寿司に立寄り、テイクアウトで牛丼を注文してみたと。 で、食べてみた。 うーーーん。微妙。 好みもあるのだろうし、今日はたまたま、ということもあるのだろうけれども、ちょっとね、ワタクシの好みからすると、ご飯に水気が多すぎで、べしゃべしゃしてたかな。 あと、魚介の出汁で牛肉を煮てあるせいか、かすかに生臭さのようなものが感じられて・・・。 というわけで、この手のものの中では、やはり吉野家に一日の長があるような気がいたしましたね。残念ながら、ワタクシに関しては、くら寿司の牛丼のリピートはなしかな。 ここ最近を振り返ってみて、「木曜ジャンク・フード祭り」で高評価だったのは、アレだね、マックの「復活テキサス・バーガー」。あれは、いいんじゃない? あれ、定番にしてほしい。 だけど、本当は、アレが食べたいんだよね、サブウェイのサンドイッチ。家から大学までの通勤路に、サブウェイ出店してくれないかしら。木曜ごとに立寄っちゃうよ。
November 17, 2016
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結論が出てからもう1週間も経つというのに、今だに全米各地で反トランプ・デモが行なわれているという報道を見て、まあ、よその国のことだからアレですけれども、良くないね。こういうデモをするのは。 何らかの不正が介在し、民主主義的な選挙が行われずしてトランプが選ばれたというのなら別、そうでなくて、ルールに則った公正な選挙が行われ、その結果トランプが選ばれたというのであれば、それを受け入れてこそ民主主義でしょうが。自分の応援していた候補が当選するのでなければ選挙結果は認めないということなら、それは民主主義に対する挑戦ですよ。それこそ反アメリカ的行為だって、どうして思わないのだろう? 公正な選挙、それこそ民主主義の基本じゃないの。それこそがアメリカの誇りのはずなのに。 まあ、別に私が言うべきことでもないですけれども、デモやっている諸君、よく考えて、そういうアホなことはお止しなさい。 さて、今日、大学に行って駐車場にクルマを止めていたら、同僚のN先生(女性)もちょうどクルマを止めているところで。ところが、N先生のクルマが変わっているじゃありませんか。この間まで日産キューブだったのに、今日は同じ日産のノートだ。 で、尋ねてみると、最近、このクルマに変えたのだそうで。 で、「ノート、どう?」って聞いてみたら、「すごくいい」と。 N先生、昔はホンダのキャパに乗っていて、それがすごく気に入って10年位乗っておられたそうですが、さすがに故障がちになって買い替えるとなった時に、ホンダには欲しいクルマがなかったと。 そこで日産のキューブに変えたところ、どうもご自分的にはしっくりこなかった。キャパの時ほどの、愛車感が湧かなかったというのですな。 ま、そのせいもあるのかも知れませんが、キューブ時代にはよくクルマをぶつけたり、擦ってしまったりして、最近も結構派手にぶつけてしまった。それでその修理に何十万円もかかるとなったので、思い切って別なクルマに変えようと思い、それでノートにしてみたら、これがすごく運転しやすかったと。それで今は、キャパ時代のような、ノートとの蜜月時代なんですと。 ふーん、そうなのか・・・。 で、ちょっとノートの中も見せてもらったのですけど、コンパクトな外寸の割に中は広くて、後部座席なんか大人二人が楽々座れそう。ひょっとしたら足も組めるほど。 あと、近々ノートは新型が出るようで、現行タイプは既に生産を打ち切っていて、日産としては、今ある在庫を早目に売り切りたいらしく、フル装備にしてお値打ちに売り出しているんですな。それでN先生はたまたまそういうチャンスにこのクルマを手に入れることができたとのこと。 ま、ノートは駆動方式がCVTなので、私は絶対に買わないタイプのクルマではあるのですけれども、クルマのことにさほど詳しいとも思えないN先生が、それでもこの新しい愛車のことをこよなく気に入って、いい気分で運転されていると聞くと、なんとなくこっちまで嬉しくなります。 私のようなクルマ・マニアにとってのカーライフとはまた別種の、「クルマに疎い人の、楽しいカーライフ」ってのも、いいもんですね。
November 16, 2016
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昨晩、レイトショーで『ジャック・リーチャー Never Go Back』を観て来ました~。何しろ私はトム・クルーズ・ファンなのでね! 以下、ネタバレ注意ということでお願いします。 前作『アウトロー』に引き続き、住所不定無職、流れ者の元少佐ジャック・リーチャーが主人公のこの映画、まずは現在テレビCMでやっている予告編のシーンから始まります。ある町で保安官が不法移民を脅して金を巻き上げていることを知ったリーチャーが、この保安官の逮捕に一役買うわけ。 で、ちょいとひと働きした後、ワシントンDCで軍に立ち寄るべく、連絡に当たったターナー少佐(女性)と面会しようとするも、当のターナー少佐はスパイ容疑で逮捕された後。何かおかしいと感じたジャックが探りを入れると、どうもターナーの部下2名がアフガニスタンでタリバンによって射殺された模様で、その責を問われたらしい。それどころか、ターナーの弁護士も殺され、その容疑がジャックにかぶせられるという事態に。 さらに留置されているターナーが、軍と関係のある組織のメンバーによって殺害されようとしていることを察知したジャックは、ターナーを助けた上で自らも留置場から脱出! 真相の究明に入る。 と、どうやら、軍の外郭団体が、米軍の武器を敵に横流ししていて、それに気づいたターナーの部下が殺され、それらの罪をターナー及びジャックにかぶせ、さらに二人を亡き者にしてことをあいまいに済ませようとしているらしい・・・。 で、ジャックらは反撃に出るのですが、ジャックには一つ弱点が。彼自身には身に覚えがないものの、彼の子供(娘)を生んだという民間人からの訴えがあり、それを聞きつけた敵が、この娘をさらってジャックを誘い出す道具にしようとしているんですな。 で、一応自分の娘ということになっている「サム」という女の子をジャックは保護し、かくしてジャック、ターナー、サムの三人で逃避行しながら敵に反撃を試みるという、危ない橋を渡ることになる。 さてさて、ジャックは、娘という弱点を抱えたまま、敵を倒せるのか? そして、この娘は、本当にジャックの娘なのか? ジャックとターナーの関係は? ・・・的なお話し。 で、私のこの映画に対する点数はと言いますと・・・ 「65点」! 観る価値なし! えええっ? ウソでしょ! トムだよ?! トムが出ているんだよ?! それに70点以下つけるの??? でもね、そうなんです。いかにトム・ファンの私といえども、これはいかんわ。 まずね、ストーリーが陳腐。軍の内部で汚職があって、というのは、もう飽きました。 それから、ストーリーに納得のいかないところがたっぷり。大体、どうしてジャックは軍に戻ってターナーと会うことになったのか、その理由もはっきりしない。また、どうしてサムの母親は、ジャックが娘の父親だとかでたらめなことを言って養育費を軍に請求できたのか。だって、ジャックとは何の関係もなく、ジャックの顔すらも知らないっていうんですから。 また、ジャックを付け狙う暗殺者は、どうしてジャックを狙うのか。最初は上司に頼まれたから、という、暗殺者としての当然の役目だったとしても、やがてその上司を殺してまでジャックを殺そうとするのはなぜ? しかも、殺そうと思えばいつでも殺せたのに、どうしてタイマン張って殴り合いしようと思ったの? 目の前にジャックがいるんだから、サムを人質に取って「ほーら。どうする?」なんて言っている間に、さっさとピストルで撃てばいいのに。 そして、何よりも腹立たしいのは、女子高生サムのアホさ加減。お前、命狙われているってのに、なんでほっつき歩いたり、メールしたり、クレジットカードでピザ注文したりして、わざわざジャックをピンチに立たすようなことするの? バカじゃないの? こういうサムみたいなバカ女子高生をヒーローと組み合わせるというパターン、もうやめてほしい。『96時間』とかもそうだけど。しかも、それだけ足手まといになった挙句、それでも最後に「父と娘の和解」的な話をもってきて、いい話として締めくくりにするのやめてほしいわ。それ全然面白くないから。 というわけで、せっかくトムが出ているのに、さんざんな映画だったよ。面白い個所は、テレビCMの場面だけだったと言っても過言ではないな。 それから、トム・クルーズ、さすがにちょっと老けてきたかなあ・・・。 まあ、映画の前提として、住所不定無職の男の設定ですから、不摂生な中年男の感じを出したかったのかもしれないけれども、ちょっと無駄なお肉が付きすぎている感じはぬぐえません。もうちょい、シャキッとしたトム・クルーズを観たかったぜ! ってなわけで、『ジャック・リーチャー Never Go Back』、教授のおすすめ! は、なーしーよ!
November 15, 2016
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「矢沢永吉激論集」なる副題を持つ1978年のベストセラー、『成りあがり』を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 永ちゃんについては、もちろんリスペクトしておりますが、矢沢タオルを首に巻くほどのファンではない私。その私がなぜにこの本を、しかも、今になって読んだかと申しますと、やっぱり自己啓発本研究の一端でありまして。 というのも、永ちゃんがかの有名な自己啓発本、デール・カーネギーの『人を動かす』に大きな影響を受けたって話をどこかで聞いて、話のタネになるかなと思ったから。実際、『成りあがり』(角川文庫版)を読むと、64ページにそのくだりが出てきます。 だ・け・ど・・・。 そんなこたぁ、どうでもいい! っていう位、驚いた。 この本は・・・すごいわ。もう、すごいの一言。日本人の自伝(聞き書きだけど)として、超一流のものと言っていいんじゃない? そう思うほど、ガツンと感銘を受けましたねえ。ほとんど、巻置く能わざる、っていう感じで、一気に読み切っちゃった。 後妻の子として生まれ、しかしその母親も3歳の時に永ちゃんを置いて出奔、父親も病気で亡くなり、小さい時から親戚をたらいまわしにされて過ごした幼少期。それでも、おばあちゃんという人とは気が合って、貧しいながらこのおばあちゃんの下で育ったという。あんまり素敵だから、そのくだりを引用しちゃうけどさ: 朝起きると、おばあちゃんが釜のとこで木くべて、ごはん炊いている音が、コトコトコトコト聞こえるわけよ。お母さんという感じじゃないけどさ。 「永吉、起きよ」 その声がうれしくてね、むくっと起きるの。そうすると、オレは、新聞を敷くわけ。新聞紙をパッと敷いて正座して待ってる。 「ほーれ、ごはん食え」と、ごはん、パッとくれる。 おかずは、必ず、一品料理というか。ごはんと何かひとつ。その何かというのは味噌汁かもわかんない。コロッケかもわかんない。ひと品。 オレが好きだったのは、卵料理。 卵、ポンと割って、醤油を混ぜて、水混ぜて、味の素混ぜてこねるわけ。それをふかすわけよ。 ふかすとポッコリ。茶碗蒸しのようなもんよ。それを、もっとオカズにしたい場合は、醤油をちょっと足すとかね。 それ、オレ大好きだった。おいしいおいしいと食べるから、おばあちゃんはそれをメインにするわけ。 いまでも思い出してよく作るんだ。最近、電子レンジをガチャンとやってね。 それがない時は、味噌汁かな。大根とか、いろいろ切って入れて・・・これでオレ十分なわけ。 オレ、いまでも食欲のない時なんか、お茶とか、ぶっかけてメシ食う。あれ、ちっちゃい時の癖なんだ。味噌汁の中身混ぜて、べちゃべちゃにして食う。うわあっと流し込むのが好きなの。 こうなると、ちょっと楽しい話になっちゃうけどさ、誕生日の時・・・。 「おばあちゃん、オレ誕生日なんだ」 「それがどうした」 わかるだろ、関係ないわけよ。そんな誕生日なんて。 でも、さすがよ。おばあちゃんがオレにしてくれたことは。卵をふたつにしてくれた、その日だけ。 卵の買い方。オレよく憶えてる。「おまえ、永吉、好きな卵買ってこい」と言われることがある。十三円とか、十二円とか、一円違うだけでちょっと大きいのよ。それ一個選ぶの。 で、誕生日は、ふたつ。 「あ、おばあちゃん、今日は卵がふたつ入ってる」 「そうだよ、誕生日だからね 永吉、よく聞け。卵と思って食うな。ニワトリ二羽殺してくれたと思え」と言うんだよ。 そう思って食えって。 とてもうれしかったよ。 ニワトリの元って、卵だもんね。 そういう朝メシだったな、オレたち。 (20-22頁) あーー。もうダメだ。涙なしに読めない。これは何? 文学だよ、文学。トルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出」じゃないか! で、中学校、高校までは広島で、それなりに不良として過ごすのだけど、永ちゃんには野心があった。いや、野心というよりヴィジョンかな。オレは音楽でスーパースターになる、というね。だから、そのスーパースターにふさわしい門出として、高校卒業と同時に上京する。自分が故郷を捨てる時はこうやるんだという、その思い描いた通りの形で、深夜発の最終電車に乗って。 そして横浜に降り立った矢沢青年は、とりあえず生活をするために飲食店などで働き、その一方でバンド活動を始める。バンドのメンバーを集め、実力なんて全然ないのに、はったりかまして地元のキャバレーやディスコに出演させてもらい、そうこうしているうちにさらに優秀なメンバーを集め・・・ってな感じで、無一文からわらしべ長者的に少しずつグレードアップしていく。 と言っても、永ちゃんの目標はスーパースターだから。ちょっと稼げるようになった、とか、そういう素人の小遣い稼ぎでは満足できない。そこで、そのレベルで満足してしまうメンバーたちとは、どこかで衝突してしまう。で、そういう衝突や別れを繰り返しながら、「ヤマト」の結成にたどり着き、さらにはあの伝説のバンド「キャロル」の結成に至ると。 そういう一連の出来事は、しかし、その辺の通り一遍のサクセス・ストーリーとはわけが違って、苦闘に満ちていると同時に、喜びと感動にも満ち溢れているのよ。なにせ永ちゃんは広島から出てきた田舎者。首都・東京で目にするあらゆるものが驚異であり、光輝いているわけ。そういうものに、素直に感動する田舎者の自分を、永ちゃんは全然隠さないんですな。そこがまた実に爽快。 と、同時に成功へ向かう一歩一歩の中には、思い返すのも腹立たしいこともある。例えば、ミッキー・カーチスに騙されて、不当な契約をレコード会社と結ばされたりね。そういう、汚い大人社会のやり方にもさんざん翻弄されるわけ。 だけど、やっぱりそこが永ちゃんなんだなあ。騙された自分の非を認めて我慢するところは我慢し、だけれど、自分がさらにビッグになることで自分を利用した連中を見返し、それできっちりオトシマエをつける。騙した相手を黙らせちゃうわけよ。そこんとこヨロシク!ってな感じで。 だからこの本は、一言で言えば、人生で出くわした色々な出来事に対して永ちゃんがどんなオトシマエをつけてきたか、そいつを語った本なんです。 例えばキャロル解散の件とかね。 人気絶頂のころでさえ、永ちゃんと他のメンバーの間には溝があった。理想を追い求めさらに上を目指す永ちゃんと、人気に溺れ、享楽的に過ごすメンバーたちと。で、解散やむなし、となった時点でも、永ちゃんはキャロルを支えてくれたファンのために、既に決まっていた十数回の全国コンサートをやりきることを主張するのだけれど、メンバーは即刻解散を主張してゆずらない。 結局、そこは永ちゃんがメンバーの前に頭を下げる形で(本当に頭を下げたらしい)、なんとかコンサート実施を果たすのだけれど、頭を下げながら永ちゃんが思ったことは、「こいつら、決して許さない」ということだったと。 つまり、ファンに対してオトシマエをつけるために永ちゃんは下げたくもない頭を下げたわけだけれども、同時に、キャロルのメンバーに対しては、「許さない」という決意をすることで、オトシマエをつけたわけね。 先ごろ、ジョニー大倉が亡くなった時、永ちゃんがほとんどコメントらしいコメントを出さなかったのは、そういうことだったんですな。喧嘩別れしたにしても、ずいぶん時が経ったのだし、お愛想にしても「残念だ」的なコメントでも出せばいいのに、と思った私は浅はかでした。そういう周囲のプレッシャーがあっても、永ちゃんはあの時の決意を揺るがさなかったんですな。男だねえ。 だけど、許さなかった話ばかりじゃないよ、この本。むしろ、永ちゃんは、自分に対してひどいことをした人たちに対して、ものすごく寛容に許していると思う。 でまた、その許し方がかっこいいんだ! 例えば小さい時に、永ちゃんのことをたらしまわしにした親戚に対する永ちゃんの態度なんて、ほんと、ほれぼれします。あんたら、オレにひどいことをした。でも、時間が経てば、そういうことも別に気にならなくなるかもしれない。だから、もっと後になって、40歳、50歳になったら、ふらっと遊びに行くかも知れない。だけど、そういう気持ちになるかどうかは、オレの心一つに任せてくれ。・・・ちゃんと面と向かって、そういうことを言ったというんですからね。 あと、3歳の時に自分を捨てた母親、いつか会うことがあったら殺してやろうと思っていた母親に再会したときなんて、一瞬で許して、一緒に泣いたっていうんですから。 そのほか、奥さんとなるすみ子さんとの出会いなんて、すごくいいよ。大体、私は愛妻家が好きなので、永ちゃんが奥さんを大事にする感じ、いいと思うなあ。 で、この本の最後は、「元キャロルの矢沢永吉」ではなく、「矢沢永吉」としてさらにスーパーな存在になるため、彼が今どういう戦いをしているか、というところで終わるんですけど、この終わり方もとてもいい。 ま、とにかく、そんな感じで、私はものすごい感動と共にこの本を読み終えたのですけれども、この本ができた時、永ちゃんが28歳だった、というところに、私はさらに驚きます。 28歳で、これほどのものを・・・。 私が28歳の時なんて、まだ大学院を出たばかりで、単なる親のスネカジリ、自分がこの先どうなるか、どうしたいのかなんてヴィジョンもろくにないような、マシュマロみたいなもんでしたよ。それが、永ちゃんは、この時点でもうこれだけの老成ぶり・・・。老成という言葉が適当かどうか分かりませんが、とにかく、苦労に苦労を重ね、苦闘に苦闘を重ねて、押しも押されぬ地位に駆け上り、さらに上を目指して更なる苦闘をしていた、というのですからね。 いやはや。もう何をかいわんや。永ちゃんは、すごい。 私、読もうと思えば、この本が出た当時に読めたのですけど、その当時は『成りあがり』というタイトルに反発して、敢えて読まなかったんです。もっとガツガツした本かと思い、また、有名人に対する反発もあったのかな。 思えば、それはそれで、私の側の、永ちゃんに対する挑戦状のつもりだったのかも知れません。敢えて読まないことを選ぶっていうね。私も若かったわけだ。愚かだけど、やっぱ若さってのはいいもので。 その私が、当時の永ちゃんの倍ほどの年齢になってから、この本を読んだと。それはね、遅きに失したとも言えるし、ひょっとしたら、ちょうどいい時に読んだ、ということなのかも知れません。今だから、この本に書いてあることが分かる、というところもあるからね。 ま、とにかく、色々なことを考えながら、私はこの本を堪能したのでございます。今年一番の収穫。教授の熱烈、熱烈、熱烈、おすすめでございます。成りあがり新装版 [ 矢沢永吉 ]価格:734円(税込、送料無料) (2016/11/14時点)
November 14, 2016
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しばらく前から、私のワードローブはファストファッションで溢れております。 今から約四半世紀前、就職したばかりの頃は、まだバブルの余韻があった頃でございまして、しかも就職したばかりということでまだ親の脛を齧っていたせいもあり、ジャケットなんか20万円位するようなのを仕立ててもらったり、冬のコートなんて本革40万円なんてのを着ていたり。 でまた、教え始めた頃の教え子の一人が紳士服会社に就職したこともあって、そいつの業績に貢献しようと、わざわざそいつの店まで行ってスーツを各シーズン何着かしつらえてやったり。まあ、これは半分見栄ですけどね。 それがどうよ。最近の私の着るものといえば、Jクルー、バナリパ、ギャップ、H&M、そしてユニクロばっかりじゃん・・・。日米ファストファッション全集みたいなもんだ。デフレ・スパイラルここに極まれり! と、思っていたのですけど、まだまだ私も甘かったね・・・。こんなもんじゃ、まだまだデフレは極まってないよ! 何故なら! GUデビューしちゃったのよ、ワタクシ。ついに。 GU――。出始めの頃は、安いジーンズが話題になったくらいで、安かろう悪かろう的な感じだったと記憶しているのですが、最近のGUはスゴイからね。今現在のファッションをリードしているという点では、むしろユニクロより一歩先を行っているんじゃないの? いわば「ZARA路線」と言いましょうか、今流行っている服をちゃちゃっと作って売って、売切れたらハイ次、みたいな感じ。このスピード感が、今風なんでしょうな。 ・・・などと知ったようなことを言っておりますが、これは皆、家内からの受け売りね。 で、家内は、そういう最近のGUを評価しているようで、ネットでチェックして、いいなと思うものが更に値下げしていたら買いに行くといった使い方をしているらしい。ファッションには一家言ある家内も、「もう、GUでいいよ」的なことを言いますからね、最近。 で、そんな家内に付き合って、先日、GUにちょいと立ち寄ったわけ。 で、家内が自分の服を見ている間、私もメンズ売り場を見ていたのですけれども、そこで目を疑う光景が。 靴が。 それも見た感じとっても素敵なスウェードっぽい靴が。 1980円で売っている。 嘘だろ!? これが? 本当に1980円なの?? 感じとしては、100円ショップで「これいくら?!」って尋ねるような感じね。 で、家内を呼んできて、「ねえねえ、これって・・・ホント?」と尋ねると、家内曰く、「ううん、ネット会員価格はもっと安いよ。1480円だよ」と。 なんと・・・イチキュッパですらない・・・。 買うでしょ。 というわけで買いました、ワタクシ。GUで。靴を。税抜きイチヨンパで。 もう服とか靴とか、GUでいいよ・・・。マジで。どうせ服なんて、3シーズン着ないもの。せいぜい2シーズンでしょ。そんなものにお金かけても、ねえ・・・。 ってなわけで、『レオン』的な「イタリア系ちょいワルオヤジ」への道を歩むはずのところ、若干道を踏み外してしまった感はぬぐえないとはいえ、こんなものがこんな値段で買える日本って、なんだかんだ言っていい国だなと思うワタクシなのでありました、とさ。
November 13, 2016
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ヨガ風瞑想なんかやり始めちゃったせいもあって、近ごろ話題の「マインドフルネス」についてより詳しく知っておかなくちゃと思うようになり、とりあえず入門書的なものをと思って『マインドフルネスの教科書』という本を読んじゃった。 ま、読んでみたら、そのタイトル通り、ド素人が最初に読むマインドフルネス入門書としてはそこそこの内容だったかなと。それほど深くはないし、繰り返しも多いけれども、マインドフルネスの何たるかを知る上では役に立つ。 っていうかね、「マインドフルネス」自体、原理的には別に難しいことでも何でもないんです。 2013年に発足した日本マインドフルネス学会の定義によれば、マインドフルネスとは「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」。また本書の著者である藤井さんご自身が運営されている「心のトリセツ研究所」の定義では、「今、ここの現実にリアルタイムかつ客観的に気付いていること/あるがままの現実をあるがままに感じること」だそうで、要するに、マインドフルネスっていうのは、「自分を客観視する技術・習慣」ってことなんですな。 じゃあ、自分を客観視することにどういう意味があって、何の役に立つのかと言いますと、一言で言えば、それをすることによって、ネガティヴな考え方のスパイラルから逃れられる。 特に自己肯定感の薄い人に多いそうなのですが、そうでなくても、人はともするとネガティヴ思考のスパイラルに陥りやすいわけですよ。 藤井さんご自身が挙げている例を使いますと、友人と待ち合わせをしていたのに、その友人が待ち合わせ場所に来ないし、メールで確認しても返事も来ない、なんてことがあったとする。そういう時、人はとりあえず腹を立てるわけですな。どうして来ないんだろう、どうしてメールしてくれないんだろうと。 ところが、その怒りはどんどんあらぬ方向に加速するわけですよ。例えば、ひょっとして自分はその友達から嫌われているんじゃないだろうか、とか。そうなると、怒りが悲しみにと変化し、それがやがて「どーせ自分なんて、価値のない人間なんだ」などと、自己否定にまで行っちゃったりする。 これがネガティヴ思考のスパイラルね。 だけど、「友人から嫌われている」とか「自分には価値がない」というのは、その人の頭の中で発展した幻想であって、現実かどうかは分らないわけですよ。「今、ここにある現実」は、単に友人が来ない、というだけの話であって。 だから、今、ここにある現実を客観的に見れば、そこにあるのは「友人が来ないこと。そしてそのことをきっかけに無駄に怒ったり、悲しんだり、自分を否定したりしている自分がいる」ということですよね。客観的に見れば、ひとり相撲を取っている自分がいるだけです。 それに気づくこと。これが「マインドフルネス」であるわけね。で、それに気づけば、独り相撲で怒ったり、悲しんだりしているのはバカバカしいなと思えるし、「友達が来ず、連絡も来ないのには、きっと何か理由があるのだろう。でもそれは私にはどうにも出来ないことだから、差し当たり近くの喫茶店にでも入って、持ってきた文庫本でも読んで、時間を有効に使おう」という話になってくるかもしれない。そうすれば、もうネガティヴ思考のスパイラルから抜け出したことになるわけですな。 ちなみに、ネガティヴ思考というのは、潜在意識に蓄積された過去の記憶によって培われます。人は誰も幼児・子供時代に親に怒られたり、友達からひどいことを言われたりした経験があって、それが潜在意識の中に記憶として留まっているわけですな。で、新しい経験をすると、その経験は、潜在意識の中にある過去の記憶と照らし合わせられて、その意味が定まるわけ。 だから、子供の時に親から「お前はしつこい子だね」とか「どうして人の嫌がることをするの!」なんてことを言われた経験があると、潜在意識の中に「自分はしつこい性質の、人に嫌われる人間なんだ」という記憶が留まって、それで長じてから、自分に対する他人のちょっとした仕種を見るだけで、「あ、やっぱり自分は人に嫌われているんじゃないだろうか」的な感覚を抱いてしまうようになる。 こういう、潜在意識のフィルターを通ってもたらされるネガティヴ感覚は、それこそ熱いモノにふれた時の身体の反応と同じで、瞬間的なものだというのですな。瞬間的だから、脳が「そんなはずないよ」と理性的に否定する隙もない。 だから結局人間ってのは、現実を理性的に、現実そのものとして見ているのではなく、潜在意識のフィルターを通じて瞬間的に歪めながら見ているわけよ。すべて潜在意識に仕切らせちゃっている。そういう状態を、藤井さんは「自動操縦モード」と呼びます。 その意味で、マインドフルネスとは、この自動操縦モードでの生活から脱する術と言っていいでしょう。そして、それはそのままネガティヴ・スパイラルから脱出する術でもある。 といって、ではマインドフルネスとは「ポジティヴ・シンキング」の別の謂いかと言いますと、それは違います。 例えば、何か否定的なことを考えている時、ふとそのことに気付いて、「しまった、今、ネガティヴなことを考えてしまった! いかん、いかん、ポジティヴに考えなきゃ!」とか言って、無理やりポジティヴ思考を自分に強いることは、マインドフルネスの意図するところではないんですな。 というのは、マインドフルネスの考え方では、ネガティヴな状況にもそれなりの理由がある、と考えるからです。 たとえば、他人に対して怒りの感情を覚えたとする。それは確かにネガティヴなことなわけですが、怒りを覚えること自体は自然なことで、これはこれで動かしがたい「今の現実」なんですな。だから、その今ここにある現実を無理やり抑えて、その正反対のポジティヴな感覚で置き換えたところで意味がない。だからマインドフルネスでは「今、誰々に対して自分は怒りの感情を抱いているな」ということに気付き、それを客観的に観察せよ、と言っているだけなんです。 でも、そうやって客観的に自分を観察すると、当該の怒り自体は自然に収まってくることが多い。マインドフルネスの目的はそこにあるわけ。 で、そうやって潜在意識経由のネガティヴ思考の芽をマインドフルネスで摘んでいくことによって、潜在意識の中に巣食う過去の否定的な経験が薄れ、ニュートラルになっていく。そうすると、新しい経験に出くわした時に、潜在意識が介入してこなくなるので、結果的に自己肯定的になり、自然と何事もポジティヴに捉えられるようになっていく。 そう言う意味で、結果的にはポジティヴさを手に入れることにもなるので、マインドフルネスとポジティヴ・シンキングは共通するところがありますけれども、元は違うわけね。 あと、ネガティヴ思考をニュートラルに、というだけでなく、マインドフルネスにはもう一つ、今を充実して生きるための方策、という側面もあります。 例えば、普通人は仕事でも何でも、自動操縦的にこなしていることがある。家事のようなルーティーン・ワークはことさらそうです。でも、そこでマインドフルネスを起動して、「今、私は皿を洗っている」「皿を洗っている自分がいる」ということに意識を注げば、その分、「じゃあ、その今やっていることを一生懸命やろう」という気になって、今まで以上に心を籠めて皿を洗えるようになるかもしれない。 食事もそうね。テレビを観ながら何となく、というのではなく、今、私は食事をしている、ということに気付きながら食事をする。そして、そのことによって、一口一口の食べ物のおいしさに気付き、それを調理してくれた人に感謝し、材料を売ってくれた人、材料を作った人、材料を獲って来てくれた人に感謝することも出来るようになるかもしれないし、そんな風に心を籠めて食事をすれば、漫然と食べすぎる、なんてことも無くなるかもしれない。 ま、そんな風にして、今、ここでの現実に気付き、そこに精一杯コミットすれば、いいことあるかもしれないじゃん? ちなみに、マインドフルネスの考え方自体は、元々はお釈迦様に由来します。釈迦が人生の四苦八苦から解放されるにはどうすればいいかを考え抜いた末、たどり着いた結論が「悩みというのは実在しない。ただ自分の思考が生みだした幻想だ」というものだった。ならば、その思考から距離を置けばいい。ま、そういう釈迦の考え方から出たのがマインドフルネスの方法なんですな。 だからマインドフルネスは仏教由来、ではあるのですが、今日のマインドフルネスは、そうした宗教的な側面を特に強調することはなく、仏教徒であろうとキリスト教徒であろうとイスラム教徒であろうと、それに関係なく、充足した人生を送るための方策として広まりつつあると。 とまあ、この本にはそんなことが書いてありました、とさ。 で、私の感想ですけれども、いいね、マインドフルネス。至極まっとうな人生訓にして至極有効な世渡り術だと思う。簡単なこととは思わないけれど、やる価値はあるんじゃないかなと。 マインドフルネスの根底には、「思考が感情を生む」という考え方がある。人に約束を違えられた場合、「あの野郎!」と思えば怒りの感情が、「俺は人に軽んじられている」と思えば悲しみの感情が湧き起る。で、どちらにしても、そうしたネガティヴな感情が生じたら、もうおしまいよ。 だけど、その感情の元たる「思考」自体が、潜在意識のフィルターによって歪められた現実によって瞬間的に生れたものであるとしたら? それに左右されていること自体、人間の尊厳に反していますよね。 だから、マインドフルネスによってそうした「瞬間的思考生成」のプロセスに一旦、待ったをかけてみる。そして「今、ここにある現実」を、そのまんまのものとして、歪めることなく見つめてみる。で、そのことによって、そんな風に思考する意味がないことを悟り、結果としてネガティヴな感情に溺れることがなくなるとしたら、それは素晴らしいことなのではないかと。 ちなみに、私は今、同時並行で様々な医学的な自己啓発本を読んでいるので思うのですけれども、仮に自分が癌のような深刻な病気に罹った時、マインドフルネスの知恵があったら、大分、心の持ちようが違うんじゃないかな、なんてね。 こういう時、自動操縦モードで生きていたとしたら、「癌だ」→「もう死ぬんだ」→「辛い」→「悲しい」・・・という風になって、もう後は悲しみと絶望の中でのた打ち回るしかないですよね? だけど、そこでもし自分を客観視できたら? 「あ、今、深刻な状況を聞かされてビックリしている自分がいるな」「今、先々のことを考えて悲しんでいる自分がいるな」とか、そう言う風に、「癌にかかった自分」を傍で観察するような客観的な意識を持てたとしたら、もう少し落ち着いて色々なことに対処できるんじゃないかと。 ところで、私の柔術仲間に、ゲシュタルト療法の専門家がおりまして、マインドフルネスにも詳しいわけ。で、その人から教わったんですけど、マインドフルネスって、アメリカの大企業でも社員の福利厚生に利用されていて、特にグーグルが熱心なんですって。 それで、その社内研修で培ったマインドフルネスの習得法を、グーグルは2007年頃から社外に対してもアプリなどの形でオープンにしているのだとか。 ふーむ。さすがだね、グーグル。 ってなわけで、今、一部では大流行のマインドフルネス。私ももう少し研究してみましょうかね。先の友人にも勧められたので、藤井さんの本の次にはティク・ナット・ハンの本でも読もうかな。マインドフルネスの教科書 [ 藤井 英雄 ]価格:1836円(税込、送料無料) (2016/11/12時点)〈気づき〉の奇跡 暮らしのなかの瞑想入門/ティク・ナット・ハン/池田久代【2500円以上送料無料】価格:2160円(税込、送料別) (2016/11/12時点)
November 12, 2016
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そろそろ本格的に次の愛車を探さなければならないっつーことで、今日はあちこちディーラーを回って試乗しまくってきました。 まず最初に向かったのはスズキのディーラー。え? 外車マニアのワタクシがスズキ車? って思ったあなたは甘い! 私は別に外車が好きなわけではなくて、日本車だってデザインのいいクルマがあれば、全然、それでOKな人なのよ。で、今、国産車で私のお眼鏡にかなうクルマの一つが、スズキのイグニスなんだなあ。 で、試乗してみた。 1.2Lマイルドハイブリッドの二駆モデルでしたけど、走りはねえ、まあ、普通。ミッションは私の大嫌いなCVTなんですけど、ま、チョイ乗りした程度ではさほど嫌な感じもなく。決して速くはないけれど、遅すぎてイラっとするほどじゃない。ちょっとSUVっぽく、着座位置が若干高いので、そこが少し新鮮かな。 ただ気になった点としては、運転席の座面の傾斜がきつく、お尻が低くて膝の方に向って高くなっているので、それがちょっとしっくりこなかった。あと、ブレーキが甘い。あるいはまだ新車で、ブレーキに油が付いて滑りやすくなっているのかも知れないけれど、なんだか効きが悪くて、「これ、ホントに止まるか?」ってちょっと不安になる。私の好みとしては、もっとガツンと効くブレーキが好きなんだけどな。あと、小物入れは少ないね。 だけど、車体がコンパクトで小回りが効く割に、後部座席も大人二人ならまあ座れる。それからパーキングの時に役立つバックカメラの他、フロントカメラも付いているので、例えば前がギリギリで、このまま曲れるかな、それとも一回きり返そうかな、なんて迷う時に、フロントカメラの映像を見ると、行けるか行けないかが一目瞭然。これはちょっと便利ですね。 ということで、ブレーキの甘さがちょっと気になったけど、全体としては、まあ「あり」の部類ですかね。 あと、試乗はしてないですけど、ハスラーもちょっと見ちゃった。こちらは軽自動車のカテゴリーですが、大人四人乗りとしてみたら、イグニスより遥かに広い。フロントガラスが立っていて、運転席から遠いところにあるものだから、最前列で信号待ちをすると、信号が見えないという弱点があるようですが、人気があるのも分かりますね。ただ、私は名古屋と東京をしばしばクルマで行き来するもので、その点、軽はちょっとキツイかなと。 さて二軒目に向かったのはルノーのディーラー。目指すはキャプチャー。 これはね、バッチリです。まずローレンス・ヴァン・デン・アッカーの手になるデザインがいい。そして乗り心地がいい。後部座席もしっかり使える(ルーテシアより広い)。荷室も結構広い。1.2Lターボエンジンは、トルクが20キロくらいあって、ほぼ2L自然吸気並。四駆がないので、なんちゃってSUVですけど、ま、そこはフランス車の御愛嬌で。ううむ、これはなかなかのものですね。 三軒目はフォルクスワーゲンのディーラー。目指すはもちろんゴルフ7。 ゴルフ7も、走りはいいです。これまた1.2Lターボエンジンですけど、パワーは十分。キャプチャーと比べると、若干、硬めですけれども、走りの滑らかさという点では僅かに上回るかも。もちろん、後部座席も使えるし、ある意味完璧なクルマ。 ただ、キャプチャーと比べると、外装の色使いが地味。ポップな感じがなく、どこまで行っても質実剛健なので、つまらないっちゃーつまらないかな。 あとね、ゴルフ7で気になるのは、ミッションがDCTなので、前に進むにも後ろに進むにもクリープが全くないところ。ま、キャプチャーもDCTなんですけど、キャプチャーと比べても、ゴルフ7はクリープしない。 って言うか、ゴルフ7の場合、ブレーキを踏んで車が完全に止まると、その時点で自動的にサイドブレーキが掛かっちゃうのよ。で、アクセルを踏むとサイドブレーキが解除される仕組みなの。だから、構造上、クリープが生じるはずがないわけ。 だから、十字路の真ん中で右折しようと思って止まっていて、「あ、クルマが途切れたかな?」とか思ってクリープでゆっくり前に出て様子を見る、なんて芸当は出来ないんです。アクセル踏んで前にでて、やっぱり直進車が来たと思ったら急ブレーキで止まらなくちゃならない。それはねえ、ちょっと使いにくいなと。 あと、バックで駐車するにしても、クリープがあればブレーキ操作だけでOKだけど、クリープがないとなると、アクセルとブレーキを交互に踏まなくちゃならない。これも、ちょっと嫌ですよね・・・。 もっとも、その辺は、ある程度は慣れですけどね。 ということで、今日乗った3台を比べると、1位 キャプチャー2位 ゴルフ73位 イグニス って感じ。 というわけで、愛車を探す旅初日は、そんな感じでした。 でもね、私にはもう一台、試乗しておきたいクルマがありまして、それはマツダのCX-3。これは1.5LディーゼルターボのSUVですけれども、日本車としては例外的なほどスタイルのいいクルマでありまして。これも気になるんだなあ。 果たしてCX-3は、ルノー・キャプチャーと比べてどうなのか。キャプチャーの魅力を上回るのかどうなのか。楽しみなところでございます。
November 11, 2016
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自己啓発本を読んでいると、それがどのジャンルのものであるにせよ、大概、勧めてくるのが「瞑想」という奴。これは「引き寄せ系」もそうだし、「病気治す系」もそう。 つまりね、どういう系統の自己啓発本であれ、個人のパワーを上げる格好の訓練法として「瞑想」を勧めてくるわけ。 何かのついでに「瞑想」を勧めるというのではなく、「瞑想」そのものが主目的の自己啓発本もあります。それがいわゆる「マインドフルネス」と言う奴ね。これはもう、ひたすらに「瞑想して、『今、ここ』に気づけ!」っていう感じ。他の自己啓発本が、キリスト教由来だとすれば、これは仏教由来ですな。まあ、一言で言えば「モダンな禅」だよね。 そんな感じで、どんな自己啓発本読んでもしまいにゃ「瞑想しろ~」って言ってくるものだから、「瞑想するって、結局、何?」という風に思うわけですよ、ワタクシとしても。 でも、それだけ皆が異口同音に「瞑想はいいよ~。瞑想すれば悩みも何もぜーーんぶ解決! 体調も良くなる!」みたいなことを言ってくるとなると、やはり、何らかの効能が実際にあるのではないかと思いますよねえ、誰だって。そうなってくると、自分でも瞑想してみないことには話が始まらないんじゃないかとも思えてくる。 だけど、瞑想するって、どういうこと? 壁の方でも向いて、座禅かなんか組んで、心を無にする、的な? たとえそうだとして、それを家庭でやるのって、ちょっとしんどくなあい? 例えば奥さんとかに「俺さあ、ちょっと瞑想してくるわ。しばらく放っておいて」とか言うの、前もって? それ、ちょー恥ずかしい。 とはいえ、あらかじめ断らずにおいて、密かに隠れて座禅とかしている途中で「今日の昼ごはん、何食べる~?」みたいなことを聞きに来た奥さんに、その場を見られるのも相当恥ずかしいし。「何やっているの!?」って驚かれるでしょ。ついに頭がおかしくなったかと思われそうだ・・・。すでに思われているかもしれないけれど。 ってなわけで、「瞑想するって、具体的にはどうすればいいの?」とずっと思っていたわけですけれども、そしたら、モノの本に、「そんなの、スマホのアプリにいくらでもあるじゃん」的なことが書いてありまして。 で、そうなの? と思って確かめてみたら、確かにそうだった。瞑想系のアプリなんて、掃いて捨てるほどある。 そこで、そんな中から一つ、アプリをゲットしてみましたよ、ワタクシ。 私がトライしてみたのは「寝たまんまヨガ」という奴。これ、結構有名なアプリのようで。 で、これをスマホにダウンロード(無料)して、早速「はじめる」ボタンを押してみたと。 するとですね、インドっぽいシタールの音色が響きわたりまして。それをバックに女性の声で「これから、ヨガ・ニードラを始めます」と宣言される。「ニードラ」って何? と思うわけですけれども、そんなことはお構いなしで、どんどん進んでいく。 だから、ニードラが何かはわからないのですけれども、どんどん女性に指示されるので、ワタクシとしてはそれに従うしかない。で、まずは鼻呼吸をするように言われ、若干足を開いた状態で仰向けに、左右対称となるように寝させられる。 でまた、そこからさらに次々と色々な指示を出されるので、こちらとしては指示通りに動くわけですけれども、なかなか忙しくて、のんびりなんかしていられません。 で、そんな調子で最初にやらされるのが、緊張状態からの弛緩ね。 つまり、体の一部分にぎゅーっと力を入れてから、脱力する。また別の部分に力を入れて、そこから弛緩する。そういうことを繰り返すわけ。 ふむふむ。確かに一度力を入れてからだと、その対比で、脱力した感じはよくわかりますね。なるほど、なるほど。 で、そのうちに今度は、「上唇と下唇が合わさった部分を意識してください」とか、「上まぶたと下のまぶたが閉じ合わさるところを意識してください」とか、そういうことを指示される。 そんなこと、生まれてこの方、意識したことないよ! ってなことを言われるわけ。 だから、やりましたよ。意識を、閉じ合わさった上下のまぶたの接点に集中させて・・・。 ま、とにかくそんな調子。 だからさ、「瞑想」と言ったって、沈黙して心を無にするどころか、そんな暇すらなく、とにかく、すごく忙しいのね。 だ・け・ど。 これがね、実際にやってみると、驚くほど、リラックスできるんだなあ・・・。 自分の体、それも特定の一点に意識を集中させるなんてこと、普段はしないですよね。それをあえてやってみると、すごく新鮮。しかも、心で思ったことを体に伝える、という作業自体が面白いし、やってみればそれができる自分に気づくわけよ。 なるほど、確かに、心で体を支配することってできるんだなと。 で、そう思うと、これが「瞑想」ということ・・・少なくとも、「瞑想」ということの一側面であるのだな、というのは、なんとなくわかるんだなあ、実感として。 実はまだ「マインドフルネス」系の自己啓発本って、それほど読んだことないんだけど、多分、マインドフルネスが言う「『今』『ここ』に気づけ」とか、「自分自身に気づけ」っていうことの意味は、こういう種類の「気づき」のことを言っているんだろうね。 それなら、分かる気がするなあ。 私はまだ素人ですから、ワタクシの現状の理解が、瞑想とかマインドフルネスなるものの本質を言い当てているのかどうか分かりませんけれども、なんかね、実際にやってみて、ちょっとだけ、その感覚がつかめたような気がします。 しかもね、気持ちいいのよ、確かに。さっきも言ったけれど、すごくリラックスできるんですわ。 かくして、昨夜の私は、この「寝たまんまヨガ」の最初のイントロを全部聞き終わることすらなく、そのまま寝入ってしまったのでありました、とさ。ぐーぐー。
November 10, 2016
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トランプ大統領誕生、どうよ! 私の予想は的中したでございましょ? 「接戦とはいえ、最終的にはクリントンの勝ち」と予想していた大方の「専門家」の皆さん、私の前にひれ伏すがいい! 実際、トランプの勝ちをマジで予想していたのなんて、ワタクシくらいなもんじゃん、そう思わない? アメリカ政治の専門家だかなんだかわからないけれども、クリントンの辛勝を予想した人たちって、全然わかってないね、アメリカっちゅーものが。 こういうことがちゃんとわかるのは、政治学者じゃなくて、アメリカ文学者よ。だってさ、文学ってのは、「人情の学問」だから。人情がどう動くかが分かれば、アメリカ人がどういう投票行動をとるかなんて、すぐわかるわ。 大体さ、アメリカの国民的文学って、アレだよ、『トム・ソーヤーの冒険』だよ。いたずら好きで、しょーもない悪ガキのトム・ソーヤーが活躍するって奴。で、そのトム・ソーヤーの対立概念がしつけの厳しい「ポリーおばさん」でしょ。トムがポリーおばさんをてんてこ舞いさせるところが面白いわけよ。 で、「トランプ対クリントン」という対立構図ってのは、そのまま「トム・ソーヤー対ポリーおばさん」に重なるわけで、アメリカ人がどっちを応援するかなんて、最初からわかるじゃん? でまた、トランプ優勢と分かった途端、アメリカの有力新聞が「トランプの政策は行き当たりばったりで危険だ」などと警告を出したそうですけど、これもバカな話でさ。 あのね、政治ってのは、常に行き当たりばったりなんだよ!! 「来年も今年通りのことが起こる」っていうのなら、政治家はいらないの。官僚だけで済むの。 政治の世界ってのは、常に予想外のことが起こって、それに対処しなければならないから、必然的に「行き当たりばったり」のことになるわけよ。だったら行き当たりばったりに上手く対処できる奴を連れてこなくちゃいかんでしょ。だから、「行き当たりばったりの奴はダメだ」というのは、全然的外れ。 というわけで、クリントンの勝利を予想していた人たち、猛省して、少しは文学のことでも勉強しなさい。 でも、どうせそういう連中って、トランプが勝ったとなると、とたんに、「やっぱりそうだと思ってました」的なことを言いだすんだろうな! もっとも、ワタクシはトランプの勝ちを予想してはいましたが、その方がいい、とまでは言ってませんからね。ひょっとしたら今回の選挙でアメリカはものすごい愚行をやらかしたのかも知れない。それは、これから先、トランプがどういうことをやるかにかかっているので、そこはわからない。 ま、トランプもバカじゃないし、少なくともブッシュ・ジュニアよりは頭のいい人だろうとは思うので、多くの人々が危惧するほどひどいことにはならないだろうと私は思いますけれども、この先、一体アメリカがどうなるのか、そこは注視していくことにいたしましょうかね。
November 9, 2016
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ひょっとして、私、生まれて初めて年賀状書かない年末を迎えつつあるのかもしれない・・・。 ま、もちろん人並みに祖父母は亡くなっているのですけど、それは子供の時だったので、私は年賀状出したような覚えがある。だから、今回は人生初ですよ。 そもそもあの喪中葉書って、どうやって作ればいいのかも知らなかったしね。 人に聞くと、郵便局に頼めばいいんじゃない? とか、ドラッグストアとかで受付けているよ、とか、色々な返事が返ってきて、そのため逆にどうすればいいか定まらないという。結局、ネットで調べて、自分でデザイン決めて作っちゃったけどね。 で、もう出しちゃった。欠礼葉書。だって、年賀状と違って、新年の抱負とか書かなくていいわけだから。宛名だけ印刷して、そのままドーンだよ。簡単なもんだ。 私は、年賀状は基本手書きなので、例年ですとものすごく時間と労力が取られるのですけど、今年はもうそれがないとなると、何だかこう、すかされちゃったみたいで頼りないね。なんだかんだ、手紙書くの、割と好きなもので。 とにかく、年末の行事の一つが、いつもと違う形ではありますが、もうあっさり終わってしまって、いささか拍子抜けのワタクシなのでございます。
November 8, 2016
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大学院の授業、たまたま受講生が一人で、その院生がアメリカのラップ・ミュージックを修士論文のテーマにしているものですから、彼と一緒に Imani Perry という人の書いた『Prophets of the Hood』というラップに関する研究書を読んでおります。 で、これがまた結構難しい本で、時々何が書いてあるんだか私にもさっぱりわからない時があって(爆!)、しかも内容が分からないのではなく、文の構文すらわからないのですけれども(爆爆!!)、それでもざーっと読んで、そのあとで二人で討論しながら「この人は多分、こういうことを言っているのではないか・・なぁ・・・?」的なところまでは持って行くわけ。そうしてみると、まあ、そこそこ面白いんです。 ラップの世界には「女性ラップ」というジャンルもあることはあるのですが、とりあえずそれは脇に置いておいて、黒人男性のラップ(特にギャングスタ・ラップね)に限定して話をまとめますと、これがね、結構、縛りのキツイジャンルらしいんですわ。 まずね、黒人男性によるラップの世界観を見ていくと、何はともあれ「仮想敵」として白人社会(+黒人中流社会&上流社会)がありまーす。黒人男性ラップというのは、どうしても白人社会に対するプロテスト的な部分がありますので、白人(男性)を仮想敵として扱うのは、第一条件です。 しかし、それでいながら、ラップのCDを実際に買うのは、お金のある若い白人男性の若者だったりする。白人の若者は、世の常で親に反抗したい。社会に反抗したい。となると、その反抗の手本になるのは、黒人のラッパーだったりするわけですよ。「あいつらクールだ!」ってわけ。その意味で黒人男性ラッパーは、そもそも自分たちが「仮想敵」と見做している白人男性から、逆に憧れの目で見られるという、妙な図式が成立していると。 だけど、それはまあ、付帯的なことであって、基本は黒人(男性)対白人(男性)の対立構図というのがある。 で、だからこそ黒人男性は団結しないとまずい。hood(縄張り)の中のブラザー同士の団結は非常に重要なわけ。だから、いかにラッパーとして成功して金持ちになったとしても、他のブラザーとの連帯は切れない。ゆえに、黒人男性のラップのスターは、スターであると同時に「everyman(=凡人)」でなければならない。その辺の貧しいブラザーたちと同じ立場・同じ境遇を共有している、というふりをしないとまずいんですな。 なぜなら、アメリカの白人社会の中で虐げられてきた黒人の歴史を踏まえて、そこからプロテストの声を上げないとラップが成立しないので、あくまで「虐げられている黒人」であり続けなければならないから。だから、本当は大金持ちで、普段はリムジンに乗っていたとしても、やっぱりゲットーの黒人たちに向かって「俺とお前は同じだぜ」的なスタンスを取り続ける必要があると。ゆえに黒人男性ラッパーは、一方で「すごいラッパーになって大金持ちになりたい」という野望を持ちつつ、他方、「凡人でなければならない」という必要性もあって、スターと凡人の両面を持ち続けなければならないという宿命を抱えている。 ま、これが黒人男性ラッパーの基本的な立ち位置なのですが、今までの話の中で、まだ「黒人女性」の話が出てきておりませんよね? そうなんです。ラッパーの世界っていうのは男性の世界でありまして、ここには女性の入り込む余地がない。 とはいえ、ラップの中には(黒人)女性が登場することも多いわけですけれども、ラップの中で言及される女性像というのは、大概、印象がすごく悪い。大抵は尻軽女(=ビッチ)として描かれるんです。 簡単に言ってしまえば、男性ラッパーの世界観からすると、女性ってのは基本、ビッチなわけ。あるいはポン引きに管理される娼婦。つまり、この世界では「ポン引きと娼婦」みたいな関係でしか男女の関係を表現する方法がない。その意味で、ラップに描かれる男女関係は、非常に不毛です。 ただし一つだけ例外のパターンがあって、「同志としての女性」は、男性ラッパーからある程度のリスペクトが払われます。 じゃあ、「同志としての女性」って何かと言いますと、例えば映画『ボニーとクライド(邦題『俺たちに明日はない』)』の銀行強盗コンビであるボニーとクライドのように、性的な関係としてではなく(もちろんそれもあるけれど)、(犯罪)仲間として扱われる女性のこと。こういうタイプの女性だけが、男性ラッパーからリスペクトされる。その場合、彼女たちは「ニッガ」と呼ばれます。「ニッガ」というのは、もともと白人が黒人を差別するために使われた「ニガー」と言う言葉を、黒人の側でプラスの意味に転じつつ再利用した黒人の言葉。主として黒人男性の仲間うちで呼称として使われるわけですけれども、これを女性に対して使うと、「お前は(女ではあるけれども)俺たちの仲間だからな」という意味となる。 つまり、黒人ラッパーの世界で、黒人女性はビッチかニッガか、どっちかなわけですな。すごくシンプルな二分法。あまりにシンプル過ぎて、その中間の女性を描けないという。 とにかく、黒人男性同士が「ブラザーフッド」の連帯を強めながら、仮想敵たる白人社会に対抗する、そしてもしこの「ブラザーフッド」の連帯の中に入れるなら女性も歓迎するが、入れないならそれはビッチだ、と。こういう民族主義的男性中心社会、これがラップの世界観なんですな。で、これはある意味、文化的「武装」なわけですけれども、こうした「武装」は、脆弱な黒人男性のプライドを維持するために、どうしても必要な世界観であると。 で、イマニ・ペリー氏に言わせると、この「武装」をさらに補助的に強化するのが、「宗教的イメージ」なのだそうで。 アメリカの黒人社会というのは、伝統的にプロテスタントのキリスト教の影響が強いわけですけれども、そもそもキリスト教におけるイエス・キリストというのは、「弱くて、強い男」であるわけですよ。 「弱い」というのは、キリストはユダヤ人たちに謗られ、捕まり、最終的には処刑されちゃうわけですから。弱いという意味ではすごく弱い。 だけど、その教えは死後2千年を経てもまだ多くの人々を支配しているわけで、その意味ではすごく強い。 だから、キリストってのは、「弱くて、強い男」なわけですけれども、これはいわば、黒人男性の象徴にもなるわけですな。黒人男性は、白人男性社会の中へ奴隷として連れてこられ、差別され、リンチされ、社会の底辺に追いやられてきた。その意味ですごく弱い。だけれども、今、俺たちのラップは、キリストの教えのように(マイクを通して)世界に発信されつつあり、それはキリストの教えのように世界を支配するようになるぞと。 かくのごとく、自分たちをキリストになぞらえる形で、弱い、けれども強い、そんな自分たちを演出する方策、それがラップであるわけ。 だからね、ラップには、どこか宗教的な側面があるんですと。それは、キリスト教のみならず、ファイブ・パーセント・ネーションのようにイスラム教系のものであることもあるけれども、とにかく宗教的な側面はある。そしてそれは、やはりプライドの問題であるわけ。それがないと、黒人男性は、白人男性社会に十分に力強く対抗できないから。 ま、黒人男性ラップの世界ってのは、こういう複雑に事情が入り組んだスペースの中で展開しているんですな。少なくとも、この本の言いたいことは、どうも、そういうことらしい。 はぁ~、めんどくせえ!! なんかよく知らないけれども、大変ですな、黒人男性社会。 だ・け・ど。 よく考えてみると、こういう男性社会って、アレに似ているなと。 そう、日本の任侠映画。 高倉健さんなんて、まさに「弱くて、強い男」ですよ。警察にはいつしょっ引かれてもいいような状況にいるんだから、弱みはある。でも強い。 で、健さんの世界はやけに男臭いんだけれども、例外的に一人、「同志」と呼ぶべき女性、すなわち藤純子演じる緋牡丹のお竜さんがいる。逆に、お竜さん以外の女なんてろくなもんじゃない。だから健さんの世界には、仲間の男たちと同志のお竜さんしかいない。 で、健さん・お竜さんには「(悪質な)別の組」という仮想敵がありまして、二人はこの仮想敵からのプレッシャーを浴び続ける。で、最終的には、健さんが(救世主として)自ら犠牲となって相手の組をやっつけ、自らは警察にしょっ引かれるという。 もう、これ、ラップじゃん。任侠映画って、ラップなんだ。否、ラップは任侠映画だ。 あるいは、日本のに限らず、西洋の「ギャング映画」の構図もまた、ギャングスタ・ラップの構図と同じかな。そう考えると、黒人男性ラッパーたちが『ゴッドファーザー』や『スカーフェイス』といったギャング映画に触発され、ラップの歌詞の中でこれらの映画が言及されるのも良く分かります。 ま、「ギャングスタ・ラップ」って本人たちが言っちゃっているんだから、「ラップは任侠映画だ」って言ったところで、別に新しい発見でもなんでもないのですけれども。でもそういう風に捉えたら、ちょっとラップが理解できるようにはなったかな。 でもさ、逆にラップの世界観を知った後で映画『ゴッドファーザー』を振り返ると、あの映画の中で、マイケル・コルレオーネの奥さんになる「ケイ」っていう女性が出てくるじゃん? で、あのケイの悲劇ってのは、結局、ビッチにもなれず、ニッガにもなれない女性が、ギャングの男性社会の中で居場所を失っていくことなんだ、と理解すると、ねえ、すごくよく分からない? 私は、そう考えて自分で「なるほど!」って思っちゃったんだけど。 まあ、とにかく、難しい本でもなんでも、読めばそれなりに考えることは出てくるもんですな。
November 7, 2016
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今年も11月に入り、いよいよ卒論指導が本格化して参りました。で、今日は今シーズン初めて、卒論の添削をやっちゃった。 毎年書くことですけれども、添削ってのは、なかなか骨が折れるものでありまして、ゼミ生が書いてきた原稿のいいところをできるだけ残し、悪いところをどう書き直すか、苦心のいるところでございまして。 はっきり言って、私はこの添削が天才的に巧い。いや、「天才的」ではなく、真の添削の天才です。だけど、その作業自体はものすごく嫌い。だって、「自分だったら、こうは書かない」と思うものを、我慢して我慢して、できるだけその原文の良さを活かしながら書き替えるのって、隔靴掻痒というのか、「あーーー、もうっ!」っていう感じをずーーーっと味わい続けなければならないんだもの。 だから、ゼミ生から卒論の原稿が送られてきても、はじめのうち、なかなか手が付けられないの。なんとかその作業を回避しようと、他に用事を作ったりなんかして、とにかく逃げ回る。 だけど、11月に入るとなると、さすがにもうグズグズしていられない。そこで今日、ようやく重い腰を上げて、「あらよっ!」って感じで添削に着手。 ま、作業を始めれば、序章くらいあっという間に直しちゃうんだけどね。天才だから。 というわけで、ついに添削に着手してしまった私。これから2ヶ月というもの、この作業が週末の主な仕事になるわけでございます。やれやれ。だけど、本腰を入れてやり始めれば、面白くないこともないんだけどね。こちらとしても、知らなかったことを勉強させられることもありますし、何よりもこの作業を通じて、我がゼミ生たちの本当の姿みたいなものが見えてきますから。文は人なり、でね。 さて、今日はこの後、実家で夕食をいただいてから、また明日からの仕事に備えて名古屋に戻ります。つかの間の実家滞在でしたが、両親の更なる老いを感じることも多々あり、この先、どうなっていくのか、不透明かつ不安なところが出てきましたが、まあ、今からそんなことを悩んでも仕方がない。困ったことが生じたら、その都度、なんとか対処していくしかない。努めて明るく、ポジティヴに参りましょう。
November 6, 2016
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夏休み以来、久々に帰郷したわけですけれども、共に80歳台の両親の暮らし、なかなか大変でございます。 何が大変って、必需品の買い物が大変。 例えば電球が切れたとする。 昔だったら、その辺の電気屋とか、あるいはスーパーとかで電球を売っていたので別に困りもしないのですが、今は白熱電球なんか売ってないじゃん? で、仕方ないからLED電球買うわけですけれども、これも色々種類があって、年寄りには選べないわけ。 で、結局蛍光灯みたいな色味のLED球を買ってしまって、洗面所に取付けてみたら、えらく寒々しい灯りになってしまった。LED球でも「電球色」を選べば少しは良かったのでしょうけど、年寄りにはそんな区別つかないからね。 一事が万事、そんな調子よ。 だから今日は、とりあえず今必要なものを私が全部買ってきました。 例えば、修正テープとかね。 書き間違いをした時に使う奴ですけれども、両親ともそういうものの存在自体を知らないわけ。それで、ずっと「修正ペン」を使っていたようなのですが、あれも出が悪かったりして使い難い。そこで、修正ペンよりテープの方がいいんじゃない? と思って、テープの方を買ってきて使い方を教えてあげたのですが、「ほう、最近はこういうものが出たのか? 確かにペンより使い易い!」と。こういうのが出たのって、最近じゃないと思うのですけど、年寄りには分からないわけですよ。 それから父の電気剃刀も買ってあげました。今まで使っていたのが壊れたらしく、ここのところ昔ながらのT字カミソリで剃っていたというもので。 ちなみに今まで使っていたというのは、3万円くらいする高級品で、クレイドルにブッ挿しておくと自動的にアルコール洗浄するとか、そんな機能がついている奴。だけど、そんなの、実際には使わないわけよ。要するに、「こいつ疎いな」と思った店員に高い奴を掴まされただけの話で。 そこで、私は昔ながらの、ごく普通の三枚歯のパナソニックの電気剃刀をゲット。しかも敢えて「交流式」の奴を購入。というのは、父としては、充電して使うのではなく、使う度にコンセントにプラグを差して使うだろうと思ったから。だから、4千円くらいで買えちゃった。 あとね、らくだのシャツと股引ね。 最近の下着って、高機能で、薄いけれども温かい、みたいなのがあるでしょ。ヒートテックみたいな。だけど、年寄りにはそういうのは通じない。年寄りの目には、「薄い=寒い」なの。実にシンプル。で、「オレは、昔ながらの分厚いらくだのシャツ、らくだの股引が欲しいのに、どこにも売ってないんだ」と嘆く訳。年寄りは、見た目なんかどーでもいいのよね。「ぶわぶわした下着だと、上に着るものに響く」とか、そういうことは眼中にない。 だから、これはネットで探して買いましたよ、らくだのシャツと股引。めっちゃ、ぶわぶわの奴。 ってなわけで、今日はそんな感じの「年寄りショッピング」をずーっとして、当面必要なものは買いそろえたかな。 しかし、そういうことをしながら、今の世の中、あまりにもモノがあり過ぎて、あまりにもモノが多様過ぎて、年寄りには生き難い場所になってしまったんだなあと痛感しましたね。ま、だからといって、昔に戻った方がいいというわけでもないのですけれども。 要するに、私がたまに実家に戻って、そういう用を果たしてやればいいのかな。今後は、もう少し頻繁に、せめて月一くらいで帰ろうかな。
November 5, 2016
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いよいよスーパー・チューズデーが迫ってきましたが、ここへ来てチャッキー・クリントン氏のメール問題が再燃してトランプ氏の支持率と大差ないことになり、混迷の度を増して参りました。 こうなってくると、あり得るね、トランプ大統領。 その根拠は、1.アメリカに根強い「女性嫌い」の伝統 そういうところ、あるからね、アメリカには。ずいぶん前に、「黒人大統領と女性大統領、どっちが先に実現するか」ってな話題がありましたが、事実としてアメリカ人は前者を選んだわけだし。2.ベテラン嫌いの傾向 政治のベテラン=様々な癒着、という概念がアメリカ人にはある。オバマさんもそうだし、ケネディも、ブッシュ・ジュニアもそうだけど、国政にあまり長く携わった経験がないポッと出の人の方が大統領になる可能性が高い。そうした前例に比べると、チャッキーはあまりにも長く政界に居過ぎました。3.とにもかくにも「変革」 オバマさんも「チェンジ」の一言で大統領になったわけですが、二大政党制のアメリカでは、変革が常に求められる。トランプがいいかどうかわからないけれども、とにもかくにも、現状からの変革になることは間違いない。そこが、アメリカ人にはアピールするわけね。4.分かりやすさ 上記3と関わるけれども、トランプ候補は少なくとも「オレが大統領になったら、アメリカの国益を優先する」という分かりやすい方針を示しておりますが、チャッキーが大統領になったらどうなるのか、さっぱりわからないという。アメリカ人は「分りやすさ」を重視するからね。分かりやすいトランプを選ぶということは十分あり得ます。 ま、どうなるかは分かりませんが、混迷の大統領選、日本人の大半は「だけど、まさかトランプを選ぶほど、アメリカ人は○○ではないだろう」と思っているでしょうが、勝負師のワタクシ、「大逆転でトランプがチャッキーに勝利」を予想しておきましょうかね。 ・・・え? 「チャッキーって誰だよ?」って? いや、ヒラリーさん、映画『チャイルド・プレイ』に出演してたとき、「チャッキー」っていう役名だったでしょ。 ・・・え? ヒラリーさん、『チャイルド・プレイ』に出演してない? ホント? チャイルド・プレイ3 [ ジャスティン・ワーリン ]価格:1000円(税込、送料無料) (2016/11/4時点) さてさて、週末、特に用事があるわけではないのですが、ちょいと実家に戻って親の顔を見てこようと思っております。法事や何かが色々あって、元気なうちに親孝行しないとな、っていう思いが生じましてね。 ということで、次回は東京からのお気楽日記、どうぞお楽しみに!
November 4, 2016
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今日は身内の法事がありまして、三十五日の供養と、集まった親族での会食などがありました。 といっても家内サイドの話なので、親族が集まると言っても完全アウェイでありまして、こういう時、人見知りの性格ってのは、身の置き所がないもので・・・。 でも、たまたま家内の従兄弟に私と同世代、そして大学の同窓という人がいたものですから、これ幸いとこの人を掴まえて色々話をして割と面白かった。この人は10年ほど会社のベルギー支社で働いていたという面白い経験の持ち主だったこともあり、あまり馴染みのないベルギーという国のことも聴けましたしね。 だけど、アレだね。若い頃は「同じ大学の出だからって、それが何?」的に突っ張るところのあったワタクシですが、この歳になると、同窓ってちょっといいな、みたいな気になるから不思議。少しは丸くなったんですかね。 それにしても、今回、真宗大谷派のしきたりのようなものに触れて、色々勉強することがありました。 たとえば私は仏教徒として死んだら「戒名」をつけてもらうもんだと思っていましたが、「戒名」というのは出家仏教で言う呼び方で、真宗大谷派のような在家仏教では、「戒名」と言わずに「法名」と言うんですな。それに、そもそも戒名とか法名というのは死んだらつけるものではなく、本来は生きているうちからつけるものなんですと。で、大谷派では、お釈迦様から一字をもらって「釈○○」というような法名になるのだとか。 そうなんだ。でも私みたいに、もともと「釈迦楽」という苗字の場合はどうなるんすかね? 俗名が既に法名みたいじゃん。 あと、大谷派では、法事の読経の後に、御縁様(大谷派ではお坊さんとか和尚さんとか、そういう風には呼ばないんですな)が集まった人々に説教をするという風習があるようで、曹洞宗で育ってきた私からすると、それもちょっと新鮮でした。 で、その説教の中でも、私の心に残ったのは、亡くなった人を送る側の心得のこと。 まあ普通、人は亡き人を送る時、「せめて葬式くらいは立派に出してあげよう」的な、つまり残された側が亡くなった方のために何かをしてあげる、的な風に考えがちですよね。 だけど、真宗大谷派はそうは考えないと。 葬式というのは、亡くなった人が、残された人々に対してこの世の無常について最後の教えをしてくれる機会であって、亡くなった方が残された我々のために貴重な教えを垂れてくれたのだと考えるべきだと。 なるほど! 亡くなった人のために・・・なんていうのは、我々の思いあがりもいいところなわけね。納得。 ま、そういうことも含めて、今回の一連の法事を通して、あれこれ勉強させていただきました。この歳になっても、知らないことばっかりですな・・・。
November 3, 2016
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うちの大学、来年度から新しいコースが発足し、私もそこのメンバーなのですが、今日はその新コースの旗揚げ会といいましょうか、構成メンバーの顔合わせという意味もあって、飲み会をやってきました。 で、その会がお開きになった後、多くの同僚が二次会に流れて行く中、クルマを運転する都合上飲めないワタクシと、体質的にアルコールを受け付けないF先生は、ちょいとミスドに立ち寄ってコーヒーを飲んでいくことに。 で、男二人でコーヒーを飲みながら、今果てたばかりの飲み会の反省(何ソレ?)などをしていたのですが、ふと周りを見回して気付いたことが一つ。 夜9時半の駅前のミスドって、若い女性のお一人様ばっかりなのね。 で、そのお一人様女性たちは一様にラーメンなどを啜っておられる。そう、ドーナツ狙いじゃなくて、ガチの夕食狙いなのよ。 ははーーん! なるほどね! 多分、彼女たちは残業後のOLさんたちなんでしょうな。で、そんな時間ですから、家に帰ってから改めてご飯を作るのは面倒臭い。でも、かといってこの時間に開いている飲み屋なんかに入って一人で食事するのもためらわれるだろうし、そうなると、彼女たちに入れる店ってミスドしかないわけですよ。基本ドーナツ店だから女性でも入り易いし、そこでラーメンなどのメニューがあれば、それで夕食を済ますことができる。 ドーナツ専門店がなぜラーメンとか飲茶とか、そういうメニューを用意しているのか、今分かったわ。それを必要としている夜のお一人様OLのためだったのね。 OLも大変だ・・・。 っつーことで、飲み会の後の夜のミスドにて、日本社会のある側面を見たような気がしたワタクシだったのであります。
November 2, 2016
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香山リカさんの『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』という本を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、2006年に出版されているので、今から考えれば10年くらい前の状況ということになるわけですが、香山さんによると、その数年前くらいから香山さんのもとに、「私の前世を見てください」的なことを言ってくる人が出現し始めたというのですな。つまり、何らかの悩みの原因は前世にあって、それに適切に対処すればいいだろうと思うような人、つまり、スピリチュアルにハマる人がこの頃から出てきた、と。 で、そういう現象に触発されて香山さんが色々調べ始めると、前世を信じていたり、輪廻転生を信じている人がものすごく多い(50%とか60%レベル)ことが分かった。特に子供や若者、それから女性にその傾向が顕著だったそうで。 で、そういう精神世界っていうのは、一昔前はオカルトとして扱われたのだけれども、21世紀のそれはネーミングからして「スピリチュアル」と無害でファッショナブルなものに変えられ、明るく前向きなものとして捉えられる傾向が強く、そういう精神世界からのメッセージは「直観」などの形で我々に届けられるので、そういうものに敏感に耳を傾ければ、ハッピーな毎日が送れます、的なものになってしまった。浅見帆帆子さんとか、中野裕弓さんとか、佐藤富雄さんとか、「ミラクルハッピーなみちゃん」こと佳川奈美さんなんてのが、そうした新世代スピリチュアリストの騎手に数えられるのだそうで、彼女たちのノリは、「恋もお金もスピリチュアルでゲット!」的なものなのだとか。 ちなみに、こういった新世代のスピリチュアルの顕著な特徴の一つは、「お金儲け」を否定しないところ。香山さんの言葉を使えば、「スピリチュアルな生活を送りたいと思いながらも、お金がほしい、新しい洋服やバッグがほしい、と金銭欲、物欲から逃れられない人たちにとっては、「お金はスピリチュアル的にも悪いものじゃない」というこれらのメッセージは、「私は間違っていないんだ」と自分を正当化してくれるに違いない」(53)と。 で、拝金主義を肯定するスピリチュアルが、企業家にとって好都合であることはもちろんで、だからこそ京セラの稲盛和夫会長をはじめ、スピリチュアルに傾倒している企業家も多い(斉藤貴男『カルト資本主義』)。 さらに近年では、遺伝子工学の村上和雄さんやソニーの天外伺朗さんのように、れっきとした科学者/エンジニアの間でも、この宇宙には「サムシング・グレート」と呼ぶしかないような超自然的な存在を仮定しないと説明のつかないことが多い、と考える人が増えてきたし、経営学者・飯田史彦さんのように「生きがい論」を論じる中でスピリチュアルな要素を取り入れる人も出てきた。ま、要するに現代という時代は、大企業の企業家や研究者、大学教授などの「ちゃんとした人」までも、スピリチュアルに惹かれている、そういう時代であるわけですな。 で、香山さんによれば、そんな現代のスピリチュアル・ブームの頂点に立つのが、江原啓之氏であると。 だけど、これまた香山さんによれば、江原さんはご自身のスピリチュアルにおける主張を、時代ごとに微妙に修正しているというのですな。 まだ江原さんが有名になる前、1990年代に著述家としてデビューしたての頃は、割と「世のため人のために尽くすのが人の生きる道」みたいなことを言っていたのですが、阪神大震災とかオウム真理教の事件なんかがあったりして、スピリチュアルなことがちょっとタブーっぽい扱いをされた時期であったこともあって、彼の言説はあまり評判にならなかったんですな。しかしその後、このタブーが薄れると、先に挙げた同時代のスピリチュアル系ライターと同じく、江原さんもスピリチュアルを通じた「現世利益の追求」と「個人の幸福の追求」を訴えるようになり、人気が出始める。しかしテレビ出演などが増え、林真理子さんとかよしもとばななさんなどの著名人との対談などを通じて全国的な知名度が高まると、そうして得られたお金は、世間のために還元しなければならない、という風に(つまり、あまりにも強い個人主義を抑える方向で)さらに修正してきたと。 でまた、江原さんを有名にするのに一役買ったのが「オーラ」という概念で、美輪明宏さんとコラボした『オーラの泉』という番組を通じて、この「オーラ」概念はさらに有名になっていくわけですが。ただ、あまりにも「オーラ」が有名になってしまったために、江原さんは信奉者の方々から「私のオーラは何色?」的なアホな質問ばかりされるようになり、そういう意味では、江原さん的には困った状態にもなっているのではないか、というのもまた香山さんの読みでして。 ところで、江原さんなどの現代のスピリチュアル・カウンセラーの信奉者に共通するのは、自分たちの人生がうまく行ってないことの原因を、本人の努力の欠如ではなく、「あなたの前世のカルマが・・・」とか言って、本人の預かり知らぬところに帰してもらいたいと考えているところだと。そしてその上で、「だから、あなたは今のままのあなたでいいんですよ」と言ってもらいたい。つまり、自己肯定の根拠を与えてもらいたいわけですな。 香山さん曰く、現代のスピリチュアルが従来の宗教などと異なるところはここだと。香山さんの説明を引用すると、「人々がスピリチュアルに求めるものの本質は、「私」という存在に対する全面的肯定であり、「いまの自分の明るい気分」ではないか」(172)。 スピリチュアルってのは、そういう安全な受け皿なわけね。 だからこそ、江原さんのように体が大きくて、でもむしろフェミニンな、と言ってもいいようなやさしさがある、ぬいぐるみみたいな・・・っていうか、トトロみたいな感じのスピリチュアル・カウンセラーの人気が高まるのは、当然であると。 しかし、そういうものだからこそ、やはり現代のスピリチュアルには、「利己主義」「現世主義」から抜け出せないのであって、そこに大きな問題がある--これが香山リカさんの本書を通じた結論でございます。 ま、そんな感じの本。 だけど、それほどはっきり書いているわけではないとはいえ、香山さんの書きぶりを見ていると、スピリチュアルの現世的/利己的側面に対してかなり批判的であることは感じられます。もっとはっきり言えば、香山さんは「金儲け」ということ自体に批判的なんですな。「拝金主義」って言っちゃっているもんね。だから、それをも肯定するスピリチュアルはダメだと。 で、私に言わせれば、そこが「浅い」と。金儲けが好き=人間としてダメ、という、そういう固定的な見方から一歩も出てないからね。その辺のことに関する柔軟性のなさは、ちょっと驚くほどだなあ。そんなんでカウンセラーとか、勤まるのかい? ということで、そういう根っこのところで賛同できないところは多々ありますが、でもね、まあ、現代日本のスピリチュアルな状況とか、それにかかわっているライターの情報なんかはそれなりにこの本からゲットできたので、読んだ甲斐はありました。ま、もともと数百円で買える新書なんだし、それ以上のことを期待するのも大人げないか・・・。スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 [ 香山リカ ]価格:777円(税込、送料無料) (2016/11/1時点)
November 1, 2016
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