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子供の頃サルスベリとして覚えてきた百日紅は長い夏に耐えて長く咲くので、歳とともに好きになってきた。今日は狭い庭にも少しある植木を剪定してもらっている。松はどうしても自分じゃ手に負えないから、松や高い木だけ頼んだ。松が自分には不可能なことが理由だけど、手におえないことはアウトソーシングしようと妻がさかんに言うようになった。近所のFさんは、ほぼたぶん同世代なんだけど、身なりも立ち居振る舞いも端正な人だ。ところが半年ほど前から、少しいつものようでないので、いぶかしく感じていた。妻が近所の人から聞いた話では、自宅の植木の剪定をしていて落ちて頭を打ったのだという。大事には至らず復活傾向と思われるのだけど、そういうこともあるし、もう頼めることは頼もうという生活方針にシフトしようというわけなのだ。自分のことは自分で、と将来の不安をどこかで類推しながら、僕はそう心がけているのだけど、政府(=妻)の方針は示されたわけだ。自分のことは自分で、ってなんか子供のしつけみたいだけど、高齢期になるとふたたび心得ごとになってくる。でも、頼めることは頼もう、との加減の調整は結構むずかしい。。なんかどこかで聞いたような・・・あ、民でやれることは民で、そうだ。純一郎節だった。純一郎氏はきらいじゃなかったが、当時なぜアベコベ氏を後継にしたのか、世紀の疑問だ。後悔しているかもしれない。
Aug 31, 2014
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医療にもいろいろ問題はあると思うけれど、 人が人を治すという尊くて不思議なことには 賞賛を覚える。 人が人を裁くという制度にも問題はあるけれど、やはり人間社会の秩序の破綻を防ぐには不可欠だ。 人が人を評価するという事柄になってくると、これはもう良くも悪くも人間ワザのカオスの中の力技だ。 社会人になって2年目に僕は人事部門に移された。コンピュータもまだ普及途上時代で、月122時間残業するような羽目になったけど、残業は時の勢いであとにしこりが起きるものじゃない、問題は、権限はなにもなくても人事事務に関わるだけで機密にアクセスしながらの日々になることだった。人を人が評価する世界の疑念が身体にまとわりつく不快感となんとなく人事担当が特権意識を持つ矛盾がいやだった。 今のアベコベ氏は軽薄な世論に増長して権力を乱用しているが、国民不在の大臣人事や幹事長交代操作で、いやな記憶が蘇る。権力の横暴はますますしたたかに進行している。 福島、沖縄などの知事選からはなんとか流れを牽制できる良識を見せてほしいです。あまりにも偏向しています。
Aug 30, 2014
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僕もそうだが、自分では歳をとったと思い、そのようなことをよく言う。でも、どこかでそれほどにはそうは思っていない。 よく人から若いですねとか言われる。そんなの別に意味ないじゃんと思うのだけど、 もうお歳ですねえ、といわれるよりは ましに決まっている。決まっているけど、その関係のことはみんな言い過ぎだ。 今日も、木工の体験レッスンの人に、その人は何度目かで毎回すごく 喜んではいてくださるのだけど、最初の時よりお疲れのように見えます、と言われた。そして、 いつまでも元気でいてほしいです~と続けた。 まあ饒舌な人のおしゃべりの勢いだから、他意もないけれど、社交儀礼の流れであるほど、 高齢期の者にそういうことは言わないほうがいい。 と僕は思う。 本人がいちばん分かっていることだからだ。 妻は長年英米人講師を招いて英会話サークルをしているが、在日外人が異口同音に言うのは日本語お上手ですね、と言われるのは嫌な感じがするらしい。 事の重大性はちがうけれど、 日常的な人間関係 の流れには表面化しないままで過ぎる違和感というものは滔々と流れているね。
Aug 29, 2014
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父はakiraは大企業のほうがいい、と言っていた。大企業に世話になったほうがいいと感じていたようだ。父は教師のあとは大企業に居たから大企業の良さは知っていた。それも旧財閥系だったし、僕も子供ながらにそのよさは見ていた。終身雇用の時代だったからだ。 父が居た企業には弟が入った。僕は神戸の大丸が好きだったというだけで、勧められたから入った。 1年目からやめたくなった。 最初1階の売り場だったので、光の入り具合で館内の空気の埃が見える時があり、こんな中で一生過ごしたくないと思った。ぜんぜん社会人の使命感も会社人の使命感もなかった。 職場の女性との交際で上司から、キミの将来のためによくない、などと言われてそれならやめるとごねた。 本社に転勤になり、機嫌を直してしまったので、長く企画や開発ばかりの役回りになった。自分しかできないと自負する仕事もいくつかした。 それでもなんどもやめようとした。 でも不思議にその都度、やめにくい障害物が現れるのだった。 それはいわば会社や上司に恩を感じるできごとだった。でも、最後に現れた障害物は、まさに障害物だった。 積極路線で進めていたある事業が思うようにはいかずに粉飾ではないがきわどい無理を していた。そのときのトップである上司の立場を守らざるを得なくなった。その無理が解消しはじめるまでに3年以上かかった。皮肉なことに、消費税のかけこみ消費で切り抜けたのだった。 僕はもう50になろうとしていた。乗り換えの最終列車を探した。 バブル時代で売り手市場だった。でも、ふと年齢が気になって思わぬ縁ができたのが、公益企業が初進出しようとする有料老人ホームだった。 なにもかもがゼロから事業にはやりがいがあったし、時代とともにという高揚感もあった。その7年は、それまでの29年よりも濃く、でも、それまでの 29年でできていた自分を全力投球できたのだった。 だからそれでよかったと思う。 父の僕に対する期待には副わなかったけれど、3世代目の僕の息子が父と同じ大学を通過したし、今では社会的に僕より上にいっている。
Aug 28, 2014
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母は当時としては平均的な専業主婦だった。母は父の母と 折り合いが悪かった。夫婦間では大きな障害だったと思う。 そのほかにも、父にも人並みに女性問題があったような気がするが、よくは分かっていない。 僕よりはましだったのではないかな。 行きつけの飲み屋さんで大事にされていたようだけど、それは商売だからそんなものだろう。会社の職場関係でうちにもよく出入りしていた女性がふたりあって、そのうちのひとりには母は疑念をもっていたようだった。 後年、僕にも似たような環境が生じていたから、ああこういうことだったのかな、と思ったりした。 今の時代は女性時代だから相対的には減っていると思うけれど、男性を立てることが上手なデキル女性は必ず居て、職場では男も活き女も活きた。 でも、末期がんだった父が、僕に激怒したことがあった。妻が、職場の女性のことで僕を非難して父に訴えたのだ。病人に対してなんていうことをするのかと僕こそ内心激怒したが、妻にすればそうするほどに激怒していたことにもなる。 でもそのとき、母が苦にしていたことは、父の場合にはそれほどでも なかったのかもしれないとそう思ったのだった。
Aug 27, 2014
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父が仕事をやめた75歳という年齢を僕は通過中である。仕事をやめてからの父は、囲碁・ゴルフ・レコード鑑賞の日々を過ごした。ある頃から、時間をもてあますような感じが出てきた。まだ**時かあ・・・という嘆息が出るようになった。現代人は忙しくなるばかりで、およそみんな時間がない時間がないと思っているのに、それは不可思議なことであった。今思えば、後年寿命を決めてしまった病がすこしづつ育っていたのかも知れなし、そのせいで、好きなことへの気力が徐々に損なわれ始めていたのかもしれない。そういえば、80越えてからだけれど、ゴルフをやめている。囲碁クラブで救急患者になったこともあった。病に加えて、そのような後ろ向きな事態が父の心情に影を落としていたのかもしれない。まだ++時かあ・・・と自分が嘆息するようになるとは想像できないけれど、そんなことにはなりたくないと、どこかで怖れている自分がいる。通勤する仕事は僕は57でやめたから、職業欄には最初は輸入業としていたが、種々雑多なことを少しづつするようになってからは、自営とだけ書いていた。ひと様に言うほどの収入もない今でも自営と書いている。lapdesk.jpは仕事じゃなくアクティヴィティだけれど、まだ++時かあ・・・と呟くことを恐れているゆえの、長い長いフェードアウトのエンディングロールが僕なりの演出手法なのだと思う。
Aug 26, 2014
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このところ熱中症のニュースが消えている。今朝など湿度94%だったそうだ。高校野球も終わって、夏が終わってゆく。さよなら夏の日、真夏の果実、あの夏の日がなかったら、・・・でも老境には無縁になってきた。・・・高校野球が来年は100周年だという。高校野球の代名詞「甲子園」のおかげで、僕は甲子園で生まれた、というと全国どこの人にも通じる。生まれたのは大阪の病院でだけれど、そのときの父母の住居は甲子園球場の傍だった。甲子園球場の傍に父が勤めていた学校があったからだ。それは後年、僕の出身学校でもある。その学校は、1923年の大会で優勝している。その頃父はまだ子供だから、教師じゃなかったけれど、教師になってからの教え子の中にはプロ野球のホームランバッターで監督にもなった別当薫さんがある。父は戦後転職したけれど、別当さんがバットをオーダーしていたバット工場がなぜかその後育った今の住宅地の傍にあった。父は104歳だからもう居ない。優勝するような学校だった母校も戦後は受験校になって野球は万年弱い。バット工場も居なくなった。別当さんも、華麗でダンディー、眼鏡のTVCMが似合う人だったけど、もう居ない、1999年に他界している。母校もずっと前に山手に引っ越している。今あるのはフランス系のホテルなので、僕が好んでよく行くのは、そうした背景からだ。98回もの夏が通り過ぎて行った.99回目が通り過ぎてゆく。
Aug 25, 2014
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妻がラジオ体操に通い始めて1年を越えている。 元はと言えば、お向かいの奥さんが誘ったのだけど、誘った奥さんのほうは早々に断念しちゃった。 妻の場合、しばらくしたら効果を実感したらしいし、傍目にもそう感じられた。 妻はだいたい身体の不調はなんとかして自分でなおしてゆくタイプで、それは持ち前の真面目さと知的好奇心が支えとなっている。 この一年間での妻の心身の安定度は身内である僕にも安堵するプレゼントだし、助かってもいる。 ラジオ体操はもちろんフィジカルな有効性がある。妻は腰痛気味なのも改善してるし、前屈運動も多分年齢の割りによくなった。僕なんか前屈が自分で可笑しくなるほど苦手だし、テニス封印してもう5年近いから身体能力は検査されたくもない。 ラジオ体操に来る人々はそれでも身体に不具合感じてる人が多いみたいだという。でもその反面、リスペクト感じる人が多いらしくて、それも妻の励みにもなっているようだ。 ラジオ体操は確かに、日本文化が生んだいかにも日本人らしい、優れた文化遺産だと思う。
Aug 24, 2014
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ホーキング博士の罹病でALSは知られているが、その支援活動で寄付か氷水かぶるかが話題らしくて、大学教授である息子にも役が回ってきた。ちょっとなんだかなと思っていたので、身内にかかわりが出てくると批評もしにくい。最初の孫が10歳になり、だから息子も社会の中堅以上になっていえるということだ。息子が10歳の時に僕は電子キットを買い与えた。これからの時代は英語とパソコンは当たり前という意味だったのが、ITの専門家になってしまったのは計算違いだった。もちろん親の出る幕じゃないから仕方ない。僕に回ってこないことだけは確かなようだ。氷は氷でも、かき氷ブームのほうには便乗して、yukiさんプロデユースでわずかにまだ残る南極の氷でのかき氷ショットバーをして夏を送ろうと思う。
Aug 23, 2014
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各地で起こってはいるけど、広島のは特別に凄かったし痛ましい。線状降水帯、バックビルディング現象というものが想定を越えたものだったらしい、いつどこでも起こりえるとのことだ。自然の猛威という言葉が実は残虐な現象のことだったのだ。最近は空振りになることも恐れずに、という言い方が出回るぐらい想定の限界が実感できる。もちろん、避難指示がもっと早かったらなと思う。当事者は生きてる気がしない衝撃だろう。原発爆発の検証もいまだにほんとの意味ではできていないのは複雑な背景はあるだろうけれど、異常と言うしかない。当時、東電と政府の連携にはもちろん極限状態がありパニックだったと思う。亡くなった吉田所長も当時の首相菅直人氏も責任者でもあり犠牲者でもあった。吉田さんが菅首相のことをあのオッサン、と言い、菅氏は吉田さんを戦友と回顧表現したのは、僕はどちらもそうだったろうなと思う。吉田さんからすれば、いくら東工大出身首相であっても、オッサンに過ぎないし、パニック状態の一国の首相の行状を僕は責めても仕方ないと思う。あんたならどうする、という話だ。麻生のオッサンだったら?福田のオッサンだったら?アベのオッサンだったら?その答えは迷宮入りだけど、オッサンでしかなかっただろうことは同じだ。菅さんだからまだましだったのではと僕は思うけれど、反発する人のほうが多いだろう。でも、吉田さんも殺されたし、菅さんも殺されたと思う。でも、それらはいずれも、時代が提起している深刻で重大な示唆に富んでいる。
Aug 22, 2014
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実はもう二回も、このブログの記入中に消えました。ブログやめる理由にしてもいいぐらい、以前からこのソフトには脆弱性が潜んでいます。認知症の母上のことでこれからどうしていけばいいかというお友達の課題についてでしたね。認知症はとくに個人差があることはいわずもがなですし、認知症の権威者も専門家も限界があるのが現実だと思います。ましてや僕などはということですが、家族でも職場でも人並み以上には体験してきました。個人差がいろいろというなかで、一人の方の時間経過の中では、年々変容してゆくということが言えますね。あらゆる問題行動を発症しながらも、長い時間を経て、ある種の安定というかそれは老衰現象bでもあるかもしれないけれど、次第に収斂していくようには僕には思えます。だからまずは、ご家族は根気よくいずれは来る平穏な日々に向けて、愛情を絶やさないことだと思います。認知症の人の最良の治療薬は家族と言うビタミンしょうね。娘なのに、どなたでした?とおっしゃってもそのときはムキにならないで普通に私が**よ、と微笑まれるのがいいし、健常者でしかできないそれが努力と言うものでしょうね。時間はかかりますね、1年2年、3年かもしれない同じ症状も、きっと変わってゆきますよ。怒ってばかり、わけ分からないこと言ってばかり、排泄物で遊んだりもするし、あっというまにどこかに徘徊していってしまうかもしれない。病気のせいですから、病気も変化していくし、そのなかには快復現象も混じりますね。僕は思うのですが、基本的にはその人らしさはコアの部分で生き続けます。ですので、10年15年の歳月ですと、大きな流れとしてはその人らしさを通奏低音にしつつ、次第にその人らしさに包まれながら、弱って行かれます。家族の再会はある意味復元されてゆく、とそういうふうに僕は思います。ネバーギブアップ、根気よく寄り添うことこそ、最高のビタミンであり、健常者にしかそれはできないことだと思います。臨界点間際の日々を通過せざるを得ないけれど、きれいごとみたいですが、愛情しかないです。情感は認知症が重くても生きていると思います。僕個人は、母親には悔いがあります。でも、震災の時、全壊の実家でた助かったのは、初期症状のおかげでもあります。センシティブな人だったから、もっと前ならパニックになったかもだけど、助けに行った時はわけがわからないのか、倒れてきた土壁がもたれかかったままで苦笑いしていました。義母の場合は、15年以上続きましたが、妻の献身で長く無事だったと思うし、問題行動の百貨店のようなメニューを経て、もともと穏やかな人柄だったから、静かに終末期を過ごしました。できることはしたほうがいいでしょうね。僕も、牛乳パックの解体作業を義母と一緒にしていた時期があり、その区切りがつきますと、さ、これもって帰ろ、と言うのが口癖でした。被災でマンションでみな住んでたから、いつも帰りたかったのでした。もちろんけなげで泣きたくなる話です。なんどもなんども徘徊で警察にお世話になりました。徘徊もまた本人ならではの理由があります。ホームで設計上回遊廊下を作るのはほんとは人権問題ですが、事故防止にはやむをえないのです。ホームでは7年しか仕事していないですが、うち3年はオープン準備でしたから、運営は実質4年でした。でも、最初に認知症になられたのは元仏文大学教授の男性でした。そのkぁ他の場合は、文字通りconfusedの日々でした。アメリカの先進ホームを訪ねたり体験宿泊したりした時、痴ほう症状の人をconfused peopleと表現していて、それはとても分かりやすいでした。視力が悪くなるように聴力が悪くなるよぅに知能もわるくなるのは長寿の証だし、長寿ととの交換条件ですね。その元教授も、つぎになられたふたりのご婦人も、いずれも人格穏やかな品性豊かなお方でした。そうなられる前から家族や世間の温かさの恩恵をフルに享受されていた、という気もしました。そういう方ほどなりやすいのかなとさえ思います。いずれにしましても、その人でないようでいて、絶対にその人なのです。そのひとらしく混乱しながらも、長く寄り添ってさしあげることができたら、またその人らしさだけが残るような日々が来る。そう信じて接することではないでしょうか。蛇足ですが、現代人は忙しすぎるので、忙しそうに見せるのはいけません。やはり、その方のストレス源になられないよいうに、ということもとても大事でしょうね。これはもう取り返しつかないけれど、反省でもあるのです。
Aug 21, 2014
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人の生涯は出会いと別れでなりたっているというふうにも言える。それは言い古されていることだけど、僕は出会いは分かるけど、別れってあるのかなと長年思っていたのだった。なぜかというと、世間でいう別れはいくつかあったけれど、それらは互いに不本意な背景や土壌があり、ある種の着地点に行きついて、あるいはJターンしたりUターンするわけであって、お互いにそう認識を共有しているという軌跡をもっている。だから、意思疎通の断絶はない。ところが、、そうではなくて、これが別れというものなのかと気づかされるような経過を辿るストーリーがあって、その戸惑いと理不尽さへの祈りのようなものがクライマックスになった頃、僕はブログというシステムを知ったのだった。それは初めての挫折とでもいえるものだった。今はもうネット空間から消えている当時の日々とそれが通奏低音になっていたブログはある意味一貫したメロディーとともにあったと思う。でもたしかに、プライバシーがかかわるとその関係する個人の尊厳にかかわるからできなかったし、今もそれはできない。遺言扱いでないとそれは成り立たないのだ。だから、僕の場合にブログが成り立たないのは実は最初からそうだったのだと思う。ほんとは書きたいのだけど書けないという押し殺されたエリアでしか生息できないからだ。別れなどなかった時代でも、あの1.17があり、僕の会議中救急事件もあった。ブログ時代になってからでも、僕の脳出血事件もあったし、3.11もあった。やはり結構年を取った。もともと別れのブログだったと言える。別れのブログと別れる、ということにもなる。
Aug 20, 2014
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ブログをあとひと月でやめる、と言ってみても、好きにすれば?というだけのことで、なんか独りよがりなことだけど、あとひと月で12年にもなるのでもう終わりにするということなのだ。いつまでも同じようなことしているのは、性分に合わないというのもあるのだけど、もちろん少し深いわけがないわけじゃない。12年ってひとくちに言うには12年というのは過ぎてしまったなどと思いたくないという意味では十分すぎるほど十分なのだ。ブログなど始める経過のルーツに居る君は、歳なんか関係ない、という名言で種火を点けたのだった。関係なくないよと自制していた僕が自制を緩めるまでにはそう歳月は要らなかった。翻って今は、歳なんか関係あるという12年だったと歴然としている。思えば20年だけれども、20年間の後半というのは、それが現実のものとなってゆく歳月だったということだ。それでいいのだけれど。。。。
Aug 19, 2014
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ブログ終わるまであとひと月になった。
Aug 18, 2014
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思えば現役の頃の僕の仕事は日曜日はなかった。およそ定休日があったのは昔の百貨店時代の月曜だったり水曜だった。今、日曜日は、妻が教会に行くので僕にはフリータイムが多い。教会は年1~2回は妻のためについてゆく。これは免罪符にはならないが、僕の負い目はかすかに軽くなる。このことは、人生レベルの負い目のひとつなのだけど、人間が作っている大仕掛けなことにはあまり僕は馴染めないので、どうしようもない。かといって、教会など行ってくれるな、とだけは考えたことはないし、家族であれ他人であれ、それは認めるし、いわば寛容である。教会は宗教のことは何も知らないけれど、地域社会に根付いているので、現代では村や町内会や近隣社会よりもコミュニティ性があると僕は理解している。地域社会が生きているのだ。言い換えれば、生涯いちばん長く継続している人間関係がそこにはある。だから、妻ぐらいの世代になると、ずっといろいろな人々や家族とともに歳を重ねてきているし、おたがいにおたがいの人生をある意味共有している。これはとてもすごいことのように僕は思う。
Aug 17, 2014
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ヘイトスピーチはお互いに抑制しようと国際政治では話題になるが、最高権力者に関してのヘイトスピーチはどうなんだろう。ヘイトスピーチとぃうこと自体はある意味支持する。ヘイトスピーチを生む原因こそ問題だからだ。僕はブログの末期にヘイトスピーチばかりしている。自分でもいやだ。ブログ始めたモティベーションが揮発していった以上、現実の脅威に話題がいく。あとひと月だし、もうしたくはない。昨日の9時のNHKニュース枠で丸山明宏さんが出ていたので、政府広報化しているのにちょっと安心した。そういう段取りまで事前検閲しにくいとも思うけれど、職員の良心も死んでいないと思った。もっとも、キャスターと丸山さんの呼吸は合ってはいなかった。丸山さんもまた、狂った日本国の生き証人のひとりだ。さすがに現政権へのヘイトスピーチはしなかったが、僕には十分伝わった。
Aug 16, 2014
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僕の人生では、物心ついた頃は戦争の末期だった。父の弟が出征前の海軍服で縁側に立っていた。相手を殺すか殺されるかだけの狂気のために、洗脳されている国民のひとりにされていた。人間じゃない部品のようなものだ。部品にまでならなかった大多数の国民の日々も狂気の体制と抑圧で正気を失うか失っているふりをしていたと思う。父の弟は南洋で短い人生を終えた。1945.8.15は日本国民が解放された日だと僕は認識している。それからの半世紀以上の再生の日々はどんなドラマよりドラマチックだし、世界に誇れる日々だった。日本人が世界モデルになれるほどの平和主義に挑戦してこれたのだった。その原動力は、あの東日本大震災の犠牲者の100倍以上にものぼる、あの狂気の戦争で犠牲になった310万人もの人々の後悔と人生を壊された数千万人の深い苦悩と教訓から来ている。断末魔の状況で生じた特攻のようなものを美化したりそれは今でいう自爆の狂信なのに、戦争の免疫のない世代が多数になって、感染症のような頭の首相が権力者にもなってしまって、日本人の誇りがいま正念場にさらされている。式典にいちばんふさわしくない危険思想の者が式典でまた虚飾のスピーチをする国なのだ。日本人がいちばん試されているときがきている、と今、最高に幸せだった人生の終盤で僕は強く思う。
Aug 15, 2014
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1945年の今日、終戦前日の今日のことは全く覚えていない。2014年の今日とはいかに違っているかを想像できる日本人もう少なくなっていく。今日は午後からカラッとした夏らしい日になった。お盆らしい人々の行き来が目立っている。なんという平和、なんという豊かさだろう。もちろん、被災地の疲弊は想像できる。放射能禍が疑われる事象も増えるばかりだ。でも、日本の課題は経済ではない。経済も課題ではあるが、政治家の役割ではない。政治家が関わると碌なことはないからだ。でも、政治家は選挙のことがいつも頭にあるから、経済を利用する。その包装紙には***ミクスとデザインされている。実態はダーティなものなのに。しかも、制裁という愚かなことに参加するので、政治が後退するだけでなく、経済にまで理不尽な混乱を及ぼしてしまう。なにもしないで一歩で引いて観ることだ。一歩も二歩も3歩も引くほうがいい。アベコベ氏の権力をはく奪するまでは、彼の中の優先順位を監査し、変えさせることだ。
Aug 14, 2014
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中学の時の最初の担任の先生は湧川先生で、チビの僕はいちばん前だし可愛がってくれた。あまり可愛がってくれるので、ちょっと負担で悩んだぐらいだった。湧川先生は沖縄出身のいかにも沖縄の人らしい小柄だが毛が濃い彫の深いお顔だった。社会の先生で、憲法を教えてくれた。ケンポウノじぇんぶんにこおいうことがかいてある。。。今でも耳に残っている。9条も力を入れて教えてくれた。僕は勉強は好きじゃないけど、それは内容的に腑に落ちることだった。国際連合のような組織に関心が湧いたのも関係している。今思えば、わくかわ先生は戦地沖縄で生き残った人なので、当時まったく連想しなかったけれど、特別な思いがあったにちがいない。少なくとも、僕は教えられた。ノーベル賞当局が278だかの平和賞推薦候補のひとつに受理したのは正直びっくりしたが、人や団体しか対象にならないからということで、9条を守ってきた日本国民に、という推薦になっているそうである。日本国民といっても、除外しなくてはいけないような人が半分以上は居るみたいだから、仮に受賞したらどうなるのかと思ってしまうけれど、99.99%ありそうにないし、もし0.00が消えそうになかったら、オリンピックとちがってアベコベ氏の仲間たちが巧妙に防止するだろう。でも、僕はオリンピックよりも1万倍価値があると思う。オリンピックは禁煙政策の遅れが是正されるだろうこと以外には僕は困ったことだと思う。日本のような特殊な立場にある首相がなぜわざわざ亡国の源泉である原発や武器をセールスするのか。平和の輸出は経済効果がないからなのか?強欲至上主義はいつまで生き続けるのか。平和で豊かな国が再生される誕生日になった8月15日が今年も近づいてくる。でも、国民の敵がそこにいる。はやく退場させてほしい。
Aug 13, 2014
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テレビを多少見るようになって、と言ってもニュースだけど、監視の意味もある。メディアの抑圧傾向が気になるからだ。昨日、ニュースのあとの番組をニュース枠で言ったので見てみた。最近のNHKは政府広報色も強いけど、NHKのコマーシャルも多い。夜だけど朝イチ、とかいう番組だった。家庭内別居がテーマだったがいかにも朝イチらしいし、今の4NHKらしい。でも、結局「いまイチ」だったから途中からはもう見なかった。家庭内別居なら、僕もまあその一種だ。ただその説明はむずかしい。結婚制度は実によくできた仕組みだけれど、民主主義と同じで、人類が行き着いた理想形ではあるが、無理があり、完全でもない。家庭内別居はふたりの距離の調節によって最適な関係を維持する現実的な知恵でもあるし、それ自身が時の経過で変容してもいくものだ。また、家庭内別居の関係がそうでない家庭よりも円満で優れていることもある。夫婦のことや家庭のことは、他人からは分からないものだと思う。およそ議論に値しない。トーク番組のテーマによさそうに思うのは、それはそうかもしれないけれど、余計なお世話であるし、出演者も丸裸にはなっていない。ただ、弁護士でも医師でもなく、家裁調停員でも評論家でもなく、結婚生活の危機に関するコンサルタントというか、コーテチングというサービス業はありえるのではないかと僕は思っている。有資格者があるかどうかは分からない。資質的には、後期高齢者がいいでしょうね。僕は結構ですけど。
Aug 12, 2014
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自衛隊は60周年だという。ゆうべNHKがその番組を流していた。政権広報だからなと思って見ていたけれど、そういう意図ではないにしても、後味はよくなかった。感化される若者も居そうだ。とすると、意図はそこにあることになるけど、見る人が見れば却って逆効果かもしれない。幹部候補生の訓練の中の銃の訓練がとり上げられていたからだ。当たるようになる訓練。当たるって何に?人間なのだ。そんな訓練してなんになる。。。。もちろん、軍隊というものは基本的に殺人組織だ。アベコベ氏は自衛隊を軍隊にしたい人物だ。でも、今の自衛隊は、いままで一度も人は殺してはいない。今までの日本の自衛隊は、誇りにできる存在なのだ。でも、人を殺す訓練はする。今の政治状況なら、いつかは人を殺してしまうだろう。そのような事態のときは、もちろんそれにとどまらなくなる。ミサイルや空爆になると、殺す恐ろしさは変容するし、狂気が支配する。
Aug 11, 2014
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昔から、台風は日曜にやってくる。 家は僕と同様に老いている。 僕は家と同様に老いている。 多少の構えはするけれど、 相手が強暴なら、そのときはそのときだな、ということだ。 台風は、県内だけど100キロほど離れて通過して行った。 風がなければ生じない雨漏りでも、風との相乗効果で今回はひどかった。数年前に自分で瓦を触って出なくなっていた箇所と、今まではなかった2か所との3か所から雨漏りがして、壁に地図描いたり、床を水浸しにした。 いつも思う。 この家は自分の体を見ているかのようだ。
Aug 10, 2014
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憧れる職業を子供たちにアンケートしたら、 政治家といういのは141位だったと聞いたことがある。 140位は、刺青師だったそうだ。 子供は邪心がないから、子供の心に映っている姿は正体を示唆していると思う。 もちろん、そんなことであってはいけないに決まっている。 決まってはいるけれど、それじゃ将来に希望がない。希望がないだけならまだいいが、悪くなる一方だ。 141位の職業のトップに立つアベコベ氏だけど、僕は彼を首相に選んだ覚えはない。6割の人しか投票に行かなかった選挙で、行った人の4割しか投票しなかった党が8割もの議席をとってしまって、 その党の権力争いで党が勝手に選んだだけの人だ。 その結果として、厚顔無恥な権力乱用で続々とアベコベ路線は行く。 何かの感染症のようなアタマとしか言いようがない。 民主主義というものの中で政治をする者なら、民主主義という仕組みには矛盾もあるという謙虚さを持たなければならない。 哲学も見識もなくても仕方はないとして、人としての謙虚さと自分がやっていることの分別はもってもらわないと困る。 内閣と与党人事に手をつける。相変わらず馬鹿みたい。 変えなくちゃいけないのはまず自分だろ。 だれか、 「アイツをなんとかして」 あまりにジャストミートな表現だから、いただいちゃったよA子さん。
Aug 9, 2014
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平成になった最初の春、僕は転職した。平成7年の秋に転職後の役職を退任した。その12月に アメリカ感傷旅行をして、翌月から輸入業に転じた。その半年後、平成8年8月8日に、輸入業は妻に任せて事務所を立ち上げた。 その少し前にすでに貸し机を借りて東京の大衆演劇の関西広報を請け負っていたので、体裁もあって10坪強の事務所を借りて、8月8日8時にスタートしたのだった。その事務所はバルコニーに植え込みがあって、契約に来たころはつつじが満開だった。 その後まあいろいろなことをしたけれど、結局はお金儲けはできなかった。 でも、お金儲け以上のことばかりだった。 2008年8月8日、仕事めいたことはもうフェードアウトちゅうだったから、ラップテープル倶楽部を始めた。途中改称して今のlapdesk.jp になっている。 この秋、神戸のトーアロードで開催される神戸トアロードクラフトフェアに出展する。震災後に始まったイベントの今回は最終回だという。最終回に初めて出展する。 神戸は、青春を遊ばせてくれた街だし、やはりいちばん好きな街だ。だから、敢えてメモリアル参加する。lapdesk.jpとしても、これが出展活動の最終になるかもしれない。 流れとしては、来年からはネットに軸足を移してゆくつもりだ。
Aug 8, 2014
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キタは日本の状況を掌握しているからアベコベ氏の都合も承知の上でおそらく年内に出すべきものは出してくる。もちろん交換条件は獲得する。そしてもちろん、核に関してはどんなことがあっても断念するはずはない。ちょうどそれはアベコベ氏が平和憲法を変えるのを断念するはずがないのと同じだ。 人為的に作り出された経済指標も利用して、もしかして消費増税の追加は先送りしたりする手口もあるかもしれないけれど、愚民政策を過信して総選挙にしてしまって改憲可能な勢力への野心を急ぐかもしれない。傲慢が過ぎる その時がチャンスだ。 歪んだ野心を見抜くかどうか、 日本人の健全な見識にかかっている。 アイツをなんとかして! のこれが答えだ。
Aug 7, 2014
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未だに原発が一番安価なエネルギーだと嘘を言い、一番安定したエネルギーだと嘘を言い、福島の事故はコントロールできていると嘘を言い、基準に適合した原発は再稼働すると嘯き、審査に適合したというのは安全とはまた違うと仲間に言わせ、審査はするが再稼働をしていいということはまた違うと仲間に言わせ、日本製原発は世界で最高に安全と他国にまで売り込みに行き、日本が自らに禁じていた武器輸出に手を染め、集団的自衛権容認で憲法を蹂躙する、 日本と日本人をめちゃくちゃにしかねない人物が平和祈念の場で虚飾の演説をしているのをみんなどう思ってるのか。 アイツをなんとかして。 僕もそう思う。
Aug 6, 2014
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僕がアベコベ氏と命名していることに、反発しないで引用してくれる人が約2名いる。それは僕の孤独を癒す。 何もかもアベコベ逆コースと思う人がどれぐらいいるかは僕は気になることだけれど、政財官の癒着もまたそのひとつで新装開店しちゃっている。ということは、日本のエスタブリッシュメントに広く根ざしているから、多勢に無勢であることは確かだろうと思う。 もう遠からずこの世を去るぼくみたい人物が何を言っても無意味だけれど、本来絶対にそんな言い方などするはずない品性と知性の女性がアイツをなんとかして とコメントするぐらい心を痛めている人もあることは事実なのだ。僕はその言葉にはその通りだともちろん思ったけれど、あんなに素敵な女性まで悩ませるなんて許せない、とあらためて思った。 そのとき、「許せない」という言葉が自分の中でこだました。 ずっと前なのだけど、 何かについて書いていて、そこで「許せない」という表現を交えたことがあったとき、ある別な素敵な、やはり僕の中にリスペクトの気持ちも強い或る女性が、僕の、許せない、という言葉に強い批判的な反応をしたことに僕は意表を突かれたことがあった。 僕は自分を相当に寛容な人物だとは思っているのだけれど、それでも、許せないなあという考えを表明したくなるときがある。 今ガザ地区で起こっている戦争などはまさに「許せない」のぶつかりの負のスパイラルから来ている。 たしかに、「許せない 」の彼方には人として絶対にしてはいけない次元がある。 不用意に「許せない」と表現したときのその批判にはたぶん傾聴すべき理由があったのだろうと思う。 たまたま実は今日、嬉しい出来事があった。 連絡が途絶えていた、まさにその人と、FBで再会したのだ。 途絶えていた理由は時間関係からはそれではない別な事情とは思うけれど、あらためて聞いてみようと思う。
Aug 5, 2014
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東日本で生活基盤が壊れた人々の中には、生活の満足レベルというものは切り替えられるものだと体験している人も多いと思う。20年前の大震災を被った僕も、そう思ったのだった。当たり前の日々が不意に壊れたとき、価値観というのは色々多様なものであり得ることに気がつく。 もちろん、復興願望があるのは極めて普通だから、そのうち慣れ親しんだ消費生活の大河に身をゆだねていく。 でも、見たものは見た。現実の割れ目に垣間見た人間の強欲への疑問。 ウルグアイ大統領のスピーチに引用されていた昔の賢人の言葉。。。 貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。 大統領が言うように、グローバリゼーションににコントロールされ てしまった姿が人類にはある。アメリカが世界中を漁るのに負けじと中国が漁り続け、もちろん日本も同じように振る舞う。巨大地震からも原発爆発の取り返しつかない事態からも何も学ばない政権が悪事を重ね続けていく。 まるで中毒みたいなものだ。
Aug 4, 2014
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今朝ラジオの絵本の番組で落合さんが引用されて初めて知ったのだった。 ウルグアイは僕がスペイン語を少し習った若いころ、行きたい国だった。 結局南米そのものに行く機会はなかったのだけど、半世紀もしてから、またウルグアイに興味が復活した。2012年の環境問題の国際会議の席上だったらしい。 清貧の大統領のこの静かな演説は心に響いた。基本的に僕の中にある疑問と通じるし、共感を覚えたからだ。 アベコベ氏のような感染症的アタマには、所詮無理な話だけれど、人類が自分自身に問うべき現実がある。 「アイツをなんとかしてください、」 と本来ならなんの心配もいらないはずの恵まれた境遇にある素敵な女性にまでそう言わせてしまうアイツが何もかも陳腐なありきたりの国に貶めてゆく日々をぼくら日本人は過ごしている。 日本国民の良識を汚染し続けているのだ。 汚染は陸海空の汚染だけじゃない。
Aug 3, 2014
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二十歳前後にこの本を買った。なんとなく書店の本棚から選んだのだった。 それから、結構加藤周一の著作を読んだ。青春の迷いの日々でもあったので、手紙を書いたこともある。ただ人並みにそうするものだと大学に入っただけだったから、どうしたらよいかわからなかった。加藤周一ははがきにぎっしり書いてくれた。学問というものは、どれでもみな、深めていけば同じです、という趣旨だった。 加藤さんは東大医学部から医師になったけれど、小説を書き、新しい形態の詩の運動をし、評論家となり、研究者となった。文学を始め、政治社会文化の論客になった。その造詣はげ芸術にも及び、日本人なのにカナダの大学を中心にたぶん英語やフランス語で、西洋美術史を 教えたのだった。 途中からあまりの広い展開にもう僕には姿も追えなくなったのだった。 「ある晴れた日に」は処女作の小説だけど、絶版だったので、直接借りたこともあった。太平洋戦争の終わりに多感な青年期を過ごされたのだ。 昭和の知性と呼ばれる巨星になられたけれど、晩年は憲法9条を守る活動にも指導的な役割を果たした。 加藤さんの溢れる知性はその文章と文体に縦横無尽に表現されたので、たぶん僕は文体に魅了されたと思う。 文体は読む自分自身の中でこだまのように響いた。僕はこだまを味わうような読み方の癖がついた。 それは音楽のようなものでもあったから、音楽を聴きながらその書かれた内容を分かろうとすると、速度というものは得られにくかった。それが、僕が本が早く読めない自分の欠点の言い訳だ。速く読めないから、途中で放置するということの言い訳でもある。 過日の速読術の2時間講座では、何文字かづつ纏めて読む訓練の延長上に速読がある、ということだったと思う。 速く読むということと、読んでる内容を 頭脳的に処理するということとはなかなか一体になりにくいように思う。分かろうとすると時間が止まるからだ。 だから、止まらないで分かり続けないと速読の成果は出ない。目が速く読んでるのに、受け取る頭が働いていない、というのが僕にはある。 別の速読術の先生の本には、何倍速ものを録音を聴きとれるようにする、という速聴訓練がその前提になるとある。たしかに読むということは読んでる自分を聴いていうということでもある。 ちょっと見えてきたものがある気がしてきた。 なにをいまさら、と馬鹿にされそうでもあるけど。。。。
Aug 2, 2014
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男の平均寿命も80歳になったらしい。 そう言われても、健康寿命となるとまた違う。 もう4分の3世紀生きてしまっている僕は、健康寿命のほうが切実だし、それと同時に、もう4-5年で絶対的な壁があると思い知る。 わざわざ知らせなくていいよ、とも言いたくなる。 実際に、毎日どこか思っている。今日も生きていると。今日も生きているけど、とも。 過日、速読術の講座に行った時、後から入ってきた人が隣に座ったので、講師の指示で何度か隣の人と組むことになった。 いかにも本が好きそうなその女性は、世代的にはかなり若かったのだけど、僕の中で昔の情感に抵触するものがあってハッとした。知り合って深く交流する関係になった人と不思議に似ていたからだ。講座に集中しにくいぐらいだった。 僕は講座のアンケートを誰より早く終えて、逃げるように帰ったのだった。ちょっとどきどきした。 もうなにも起こせない。もう何も起こり得ない。 逃げよう。 数日の間、どこかほろにがいようなときめきの蒸気が漂っていた。 数日たってから、その原因である人にメールした。 生きているからいろいろあるわよ、と返信が来た。
Aug 1, 2014
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