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昭和文壇側面史(著者:浅見淵|出版社:講談社文芸文庫) 文壇の「側面史」とは何かというと、文壇に登場した人物がどういう人物か、どんなエピソードがあるか、ということのようだ。 昭和の初めから昭和42年まで、著者がどういう人とつきあってきたか、どんなことを経験したかということを回想している。文壇にも派閥があり普通の感情を持った人たちが小説を書いているわけだが、作家がどういう人なのかはわかっても、書いた作品の価値がどういうところにあるのかについてはほとんど触れていないのがかえって面白い。 なにしろ、書かれたのがだいぶ前なので、「プレイ・ボーイ的作品でいま売り出し中の野坂昭如」(p360)などと書いてあって驚かされる。 ただ、文章はわかりにくいところがあり、どの語を修飾しているのか判断に迷うようなものもある。例えば、「のち北京で客死した太宰治の東大時代の同期生」(p213)など、太宰は北京で客死したのではない、ということを知らなければ誤解しかねない。 また「瞥見」ということばが好きらしく、特に前半には頻繁に出てくる。「ぼくは文学部の事務所で、小宮山君が製本した三百枚の卒業論文をはやばやと提出しているところをたまたま瞥見し、ぼくはまだ一枚も手をつけていなかったので圧倒感を覚えたものだった。」(p95)という具合。 副題として「回想の文学」とあるが、これはどういう意味なのだろう。内容は文人の回想ではあっても文学の回想ではない。回想を文学として書いたもの、という意味なのだろうか。それらしい気負いは感じられず、思い出話のように思えるのだが。解説にある初版の写真を見ると、「回想の文学」などという文字はないので、文庫化に際して編集部で勝手に入れたものと思われる。どういう意図で入れたのか全くわからない。
1998.12.09
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小さき者へ・生まれいずる悩み(著者:有島武郎|出版社:岩波文庫) だいぶ昔に読んだこともあるような気もするのだが、すっかり忘れていた。なるほどこういうものだったのか。確かに心を打つものがある。 「生まれいずる悩み」の方は、再会するところまでは教科書か何かに載っていた記憶があって、そういえばこういう話だったと思い出したが、全体を通して読むと、苦悩がよくわかる。 現実生活の中の自分と、「かくありたい」という自分との二重生活を送るというのは、時代を超え、個人差を越えて普遍的なものであるわけで、だからこそ、今までこの作品が残っているのだ。 それにしても、解説を読むまで、森雅之が有島の子だったとは知らなかった。黒沢明の「白痴」を見た時、「不思議な雰囲気の人だなあ」とは思っていたが、「小さき者へ」に出てくる長男だったとは。
1998.12.04
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号外・少年の悲哀(著者:国木田独歩/|出版社:岩波文庫) 国木田のものをちゃんと読んだことがなかったので読んでみた。八編のうち「春の鳥」は読んだ記憶があった。 若くして病に倒れたが故に自然主義の旗手として名を残した人だが、現在の感覚からいえば小説としては未完成のように思えてしまう。話の展開というものがあるわけでもなく、生活の一断面を切り取って見せているようなものが多い。かといってそれが読んでいて退屈なわけではなく、妙に心引かれるものがある。だからこそ、こんにちまで名を残しているわけだろう。
1998.12.03
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古典の窓(著者:馬淵和夫|出版社:大修館書店) 古典を読む上で、気づいたこと、疑問に思ったことなどについて述べたものが中心だが、今昔物語については、著者がどのように考えてきたかを論文を時代順に並べ、昔の考えを改めていった過程もみせる。 ただし、今昔の書誌学的な考察については、知識のない当方としては、読んでいても全くわからない。印象に残ったのは、今昔は、未完成のまま世に出たらしい、ということだけ。 そのほかの考察も、文法の細かい考証などはわからないところもあるのだが、文法だけが判断の基準なのではなく、「作品の理解には国語学的知識のみでは不十分であり、ひろく万葉人の生活と心情を知って初めて理解が可能になるであろう」(p13)という態度をとり、そうしてこそ理解できるという実例を見せている。 また、常に理詰めというわけでもなく、「この第二の解釈をとりたいと思うのである。なぜなら――この方がおもしろいからである」(p77)という文もあり、何と柔軟な頭脳だ、と驚かされた。 以下、印象に残ったこと。 師にあたる人の説に異議を唱えたところでは、そのことについて気兼ねしている。(p35) ヤマタノオロチと糸針説話に関連があるのでは、と考えている。(p106) ただし、糸針説話に登場するのが、「決して歓迎されるはずのない虫類がその対象になったことはいえるようである。」(p110)というのは、中国で広く伝わっている懸空寺型の民間故事に、人参や何首烏が登場するのとは合わない。 p215の山中の髑髏の話は『日本霊異記』にもあるが、あえてそれには触れていないのはなぜか。
1998.12.02
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