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笑福亭仁鶴さんご夫妻とアンカレッジ航空(アラスカ)にて出発までもう数日、またツアー参加者に呼び出しが掛かりました。このツアーに参加する人は述べ100人、大変な団体です。ところが、その内、30人がオーバーブッキングで当日飛べない事になったのです。今回のツアーは往復JALを使うはずだったのですが、30人分オーバーブッキングであぶれ片道ちはアエロフロート(ソ連航空)で飛んでほしいと言うのです。その代わり、出発は前日。ツアー日程が1日延びる事になる・・・・。少しでもヨーロッパに永く滞在できる・・・・。私はすぐに飛び付きました。しかし、思ったより希望者が少なく、その後、旅行社も大変だったようですが、その後の事はわかりません。 さあ出発、当時は大阪空港から羽田空港乗り継ぎ、アンカレジ(アラスカ)経由、パリと言う経路でした。生まれてこの方、海外はもとより、飛行機自体乗った事のない私は、何もかもが珍しく、大阪空港に着いた時、一番に思ったのが芸能人の多さでした。当時一せんで活躍されている方ばかりで、その方たちを見ているだけで楽しかったです。その中で一番のビッグスターと言えば、ビートルズのリンゴスターでしょうか。恥ずかしながら、私はあまりビートルズに関心がなく、リンゴスターも知らず、「へんな名前」くらいにしか思っていませんでした。そうゆう人間には、相応にしてチャンスが訪れるものです!私が待合所で座っていると、上下レザーを着た、外人が私の横に座りました。周りが少しざわめきだしました。彼は数人の外国人と一緒でしたので、私はなんとなく怖いような気がして、すぐに席をたちました。そして、乗り継ぎ空港でターミナルに向かうバスの中で、彼はまた、私の隣に座りました。後で、クラスメートに「サイン貰った?」と訊かれ、なんの事やら、[あの人、ビートルズのリンゴスターだよ。」と言われても・・・・、ビートルズの名前くらいは知っていましたが、メンバーの名前など皆目わかりません。クラスメイトに「勿体ない、勿体ない」と連発されましたが、そんな事よりも、私はヨーロッパに行ける事で胸が一杯でしたし、飛行機の中、私のすぐ近くに座られた、笑福亭仁鶴さんと中田カウスさんの方が面白くて気になっていました。そして憧れのパリに着いてからですが、その話はまた・・・。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.31
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ツアーパンフ 次期学生の為、感想文を書かされました日本調理師学校では、毎年希望者を募ってヨーロッパクッキングツアーと言う研修旅行がありました。ヨーロッパの有名レストランの食べ歩きです。先生方には、「君も参加しないか」と誘われていたのですが、当時でも相当な金額でこれ以上両親に負担を賭けたくありませんでした。それに、旅行中、授業を休むのですから、欠席にされたら、成績にひびきます。まあ、そこの所は、学校側の行事ですから、欠席あつかいにならないと言う返事でした。ただ費用の事が・・・両親は「お前が行きたかったら行けばいい」と言ってくれました。先生方も「費用の方は、ローン(当時は月賦と言いました)が利くから就職してから、自分で払って行けばいい」といわれますした。留学の夢も途絶えたし、やっぱりあこがれのヨーロッパに行ってしまえ!と、まだ就職の方も決まっていなかったですが、思い切って行く決心をしました。当時はパスポート1つ取るのにも、色々な制約があり、私が未成年だったせいか、両親名義の口座に幾ら以上の残高(残高証明)があるのか、とか、パスポート用写真は、ネクタイ着用とか、もう、あまり記憶に残っていませんが、中々大変だったと思います。それと、今はもうなくなったと思いますが、1回のみ有効のパスポートがあったと思います。私は、少し高額にはなりますが、後々の事を考え、5年間のパスポートを取りました。勉強の傍ら、旅行説明会や、何やらで色々出席することが増え、旅行の荷物の説明会の様なものまでありました。なんの事はない、業者が会場に来ていて、海外旅行用必需品、旅行用歯ブラシやら、ドライヤー、使い捨て紙パンツまで売っていました。移動の多いツアーは、洗濯が一番大変だと言うことでした。後に解った事ですか、そういう物は、たいてい、フリーサイズが多く、痩せていた私は、ツアー中、スラックスの中で、紙パンツがズルケっぱなしで、四六時中、引っ張り上げる羽目になりました。それともう一つ、恥ずかしかった事は、20時間に及ぶ、飛行機旅を、ネクタイにスリーピースと正装で乗り込んだ事でした。周りを見ると皆ラフな格好で、「~君、随分キメてきたけど、飛行機の中、永いから辛いよ」と言われた時です。本当に恥ずかしい話ですが、日本を出国する時は、マジでパスポートの写真と同じ格好をしなければいけないと思っていました。その時はなんと答えたのかも憶えていませんが、相当自分の中で恥ずかしかったのは事実です。そんなこんなでヨーロッパに出発ですが、旅行内容は、またこの次に!http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.30
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進路担当の先生の話を聞いてからも、私は諦めが付かず、何としても海外に行こうと、考えました。向こうで留学が出来ないのなら・・・、一番に考え付いたのが、外国航路の船のコックになる事でした。住めないまでも世界各国に行けますし、うまく行けば、外国での受け入れ先も見つかるかもしれないですし。ところが、進路担当の先生から良い返事はもらえません。当時外国航路には貨物タンカーしかなく、中で作る料理は、言わば賄い食と言うか、カレーライスとかカツ丼だとか、そう言う系統の物ばかりで、「君が頑張ってやって来た事にプラスにならない」と言われるのです。あまりにも就職活動をしない私に先生も手を焼いたものか、実家に連絡がいったらしく、父から電話があり、「外国料理に拘らなくてもいいじゃないか、神田川先生が気に入ってくれているなら、日本料理でも」と言うのです。実家は元々日本料理の店でしたので、父もそれを望んだと思います。そしてある日、また先生に呼ばれ、「伊勢志摩に卒業生が沢山働いている良いホテルがある、ある事情で、試験が遅れているから、今から願書を送ってあげるから、一度そこを受けてみては」 と進めていただいたのが、志摩観光ホテルでした。そして「そこで働いて、お金を貯めたら、単身フランスに乗り込めば」 しかし労働許可等どうしたら良い物か・・・。先生は「そんなもの、観光ビザで入ってモグリで働く事も出来る、そんな日本人は山ほどいる」と。私は学校の先生からモグリと言う言葉が出るとは思いもよらなかったのでビックリしましたが、結局、先生の説得に負け志摩観光ホテルを受ける事になりました。ここで一言いって置きたい事は、本当にもう時効ですから言えますが、当時殆んどの人が観光ビサでフランスに入国し、働いていた事は事実です。とは言ってもそちらで働いてその店のオーナーに気に入ってもらえれば、労働許可はともかく、勉強と言う事で滞在許可が出る事もありました。先生が言われたのは、あくまでも私の進路を早く決めさせようと配慮された事だったと思います。そして志摩観光ホテルの入社試験に向かうのですが・・・、その前にフランス研修旅行があり、次はその話をしてからにします。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.29
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一学期も終わりに近ずき、夏休み前、私は、調理師学校の1年分のフランス料理科目を一つの辞書の様な手帳に仕上げました。(それは、後にフランスで大変役に立ってくれたのですが)それを山本のおばちゃんたちが見て「それ、欲しい~わ~」とよく言われていたので、同じ物を、夏休み中に5冊作ろうと思いました。中々大変な作業でしたが、いつもおばちゃんたちにはお世話になっているし、2学期におばちゃんたちの喜ぶ顔が見たくて、必死でした。でも、そのお蔭で夏休みが終わる頃には、フランス料理の1年分の授業は殆んどマスターしてしまって、2学期からの授業が随分楽になったことは確かです。(今の方が、よほど忘れてしまっているかもしれません) でも私の通っている調理師科は1年ですので、早い人たちはもう、夏休み中に就職活動を始めている人もいました。私の場合は、留学が目標だったので、就職活動もせず、何とか、勉強の方で成績順位を下げないようにと頑張るしかありません。ところが、2学期も半ば、進路担当の先生に呼ばれ、「就職どうするのか、早く決めないと、良い所はほとんど残ってないぞ」と・・・?この進路担当の先生は私が、高校から、日本調理師学校に入る時、学校説明の面談をしていただいた先生で、私の1学期の成績を大変喜んでいただき、それから何かに付けて目をかけて下さっていました。そんな事もあり、その先生には、おく面もなく、勉強を頑張って留学したいと伝えました。先生は少し困った顔をされ、(私も本心、図々しかったかなと思ったのですが・・・)「留学制度はもう3年前から、なくなったんだよ」と。 「ゲー!!」 私は初めて聞く話で目の前 真っ暗でした・・・・。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.28
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まぐれだったかもしれませんが、校内二位だったのです。私は小、中、高校とそんな成績を取った事はありませんでした。私はビックリですか、仲良しグループの人たちは自分の事の様に喜んでくれました。でもまだ一位の人がいますし・・・・。ところがその一位の人と言うのが、同じクラスだったのです。私と違い、寡黙で真面目そうで、冗談も言わなそうな、いかにも勉強一本やりな感じで、筆記試験では勝てそうもないかな、って感じで。そんな私を感じたのか、53歳の山本のおばちゃんに「あんなん、負けたらあかんで~」って、いつも発破をかけられました。このおばちゃん、すばらしくバイタリティーがあり、あの神田川俊郎先生にもズバズバ物を言う様な方でした。私はこのおばちゃんにどれほどお世話になったことか。一生懸命努力されても、やはり年齢です。筆記試験は大変良い成績を取って見えましたが、実技試験が中々難しくて、後半は追試が重なって、その練習にお付き合いする事が増えました。帰りが遅くなると、「~君、家帰ってもご飯たいへんやろ」と近くの定食屋へ連れて行ってもらい、「お酒も少しはええやろ~」といつもご馳走にになっていました。(まだ未成年でしたが、今は時効です)世間では、大阪のおばちゃんはえげつないで~とか何とかいいますが、私はこの大阪のおばちゃんたちにどれほどお世話になった事か・・・、ですから、私は今も大阪は大好きです。話が飛びましたが、この成績を維持できれば、留学も夢ではないかな・・?と思っていたのですが・・・・・!http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.28
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フランスに行く前に・・・話が随分前後しますが、これからの若い料理人の人たちの為になるのかどうだか解りませんが、私がフランスに行く前の話をしたいと思います。私の実家は飲食店を経営していた所為か、私自身は憶えていませんが幼い頃から料理人になりたいと、小学校の作文にも書いていたそうです。普通科の高校に通い、本来は大学に進むところ、調理師学校に行くことを決めたのは2年生の時だったと思います。私自身そんなに頭が良かったとも思いませんが、担任の先生があまりにも大学に行くように進めるので、父親が大変喜んで調理師学校はダメだとか何とか言って、反抗した私は1ヶ月も口を利かなかったのをよく憶えています。私は他の科目はともかく、英語だけは好きで、担任の先生が英語の先生だった所為か、気に入られていたようです。でも私は頑として自分の意見を通しました。当時、調理師学校で有名だったのは、大阪の辻学園日本調理師学校とあべの辻調理師学校でした。どちらも有名な学校でしたので、学費も名古屋の学校と思うと随分高かったと思います。どちらも元は同じ学校だったそうですが、私は日本調理師学校の留学制度に目が行き、どうしてもここに進みたいと両親に頼みこみ、丁度わたしの高校の先生と日本調理師学校の校長が大学の同級生と言うことで、説得にも一肌脱いでくださいました。日本調理師学校は当時、天六校、梅田校、そして夜間の部を合わせて千人を優に超す日本最大の調理師学校だったと思います。そして、年間30人の留学生を海外に送っていると・・・・。私は当初、そんなにマンモス校とは知らず、何とか30番までに入れれば、留学させてもらえるものと思い、生まれてこの方、この1年間ほど、必死に勉強した事はないと思う程熱中しました。勉強だけではありません。月に一度は抜き打ちで包丁検査、頭髪検査などもあります。それにひかかればすぐに減点です。私は頻繁に床屋に行けるわけもなく、すぐにバリカンを買い、丸坊主にしました。(ですから未だに調理師学校時代の写真はあまり見たくありません)調理師学校は普通の学校と違い、生徒の年齢もまちまちで、私が親しくさせてもらった方には53歳のおばちゃんもいました。私たちの仲良しグループは、私が一番年少で、40代の方が多く、勉強もやはり、若い学生よりも真剣で、大変勉強になりました。そして、一学期の期末試験が終わり、その結果が発表されて、私は目を疑いました・・・・・!http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.27
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アルザス カイゼズベールにて以前、私をフランスに派遣した企業のフランス駐在員の方に聞いた話ですが、一つのレストランで日本人が二人になると、よくケンカやトラブルが起きて、現地に飛んでいかなくてはならない、との事です。私もアライ君やアズマさんら、3~4人の日本人と働きましたが、いたって仲が良かったと思うので、あまり信じられなかったことですが。パリや都会に出て行くとそんな話をよく聞きました。フランスの田舎では、当時あまり日本人にお目にかかれなませんでしたので、偶然にも知り合えば一遍に仲良くなれたように思いました。それと私が知り合った方々が良い人ばかりだったのかもしれません。私が思うにはやはり同じ店で働く事はそこで認められようとライバル意識も生まれてくるでしょうから、一概には言えませんが。そのライバル意識を良い方にもっていければ良いと思うのです。それは日本人同士だけでなく、他の国の人ともです。せん越かもしれませんが、私から、これからフランスに行こうと思っている若いコックさんに言えることは、どこの国に行っても、一生懸命働けば、必ず認めてくれると言う事です。フランス人はプライドが高いとよく言われます。確かにそうでしょう、しかしひた向きに頑張る者を必ず評価してくれるのは、日本となんら変わることはありません、いや日本以上かもしれません。私の事を言うのも何ですが、日本に帰国して、もう四半世紀も経ちますが、今でもあちらに訪れると、以前と変わらず家族として迎え入れてくれます。私にとってアルザスは第二の故郷とも思っているのです。笑われるかもしれませんが、TVの{うるるん滞在記}などを見ていると、昔の事が思い出されてくるのです。違う文化風習の中で生活するのは、決して楽な事ばかりではありません、そしてその時は必死かもしれません、でも何年か経って振り返ってみると、辛いことよりも、楽しかった事うれしかった事の方が、思い浮かんでくるのです。どうぞ、これからの若き料理人の皆さん、頑張って悔いを残さぬ様に励んでもらいたいと思います。何だか説教じみた話になってしまいました。次はもう少し楽しい話をしたいと思います。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.27
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何年かぶりにフランスへ行くと、いつも困るのが何かに付けて、自動販売機化されている事です。たとえば、電車のチケットなどは、日本の券売機と違い、文章を追って、次のステップに進まないと、最終的には、購買出来ないのです。単語力が堪能な人ならいいのですが、私のように随分忘れてしまっているような人は途中でつまずき、辞書など開いていると、タイムオーバーで解除されてしまいます。(私の場合は機械オンチなのでなおさらかも・・・)各駅には一応、窓口で買える所が用意してありますが、大変数が少なく、外国人はもちろん、フランスのお年寄りたちも機械は使えず、窓口に人が殺到することになります。ですから、出発時間によほど余裕をもって駅に行かないと、乗り遅れる可能性が高くなります。そして、その窓口も6時には閉まってしまうので、私などは、深夜見ず知らずの青年に頼んで自販機で買ってもらった事もありました。それとお札が使えない事も不便です。近郊へ行くのならともかく、遠方で高額になるとコインで払う訳にもいかず、カード精算になると、余計にややこしくなるのです。頻繁にフランスへ行けるなら慣れるでしょうが、何年ぶりかでフランスへ行く私は以前の事は忘れてしまって、毎度毎度、悪戦苦闘する羽目になります。フランス国ももう少し、お年寄りと外国人に親切になってもらわないと、せっかくの旅行も楽しくなくなってしまうのでは・・・?と心配しているのです。そんな事を考えているのは、私だけでしょうか?私は会話の方は何とかまだ使えるのですが、旅行中、一人旅をしている日本人青年たちと知り合って、話を訊いてみると、フランス語どころか、英語もほとんど話せない人が殆んどで、それでよく、一人旅をする勇気があるなあ~と感心してしまいます。考えてみれば、昔の私もそうだったんでしょうね・・。今、それだけ私が年を取ったのでしょうか・・・・・・。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.26
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カンヌ映画祭も過ぎ、短い休暇も終わり、(と言っても私はアルザスで働いていましたが)ムーラッションでの追われる日々が始まりました、が、私は仕事よりもアルザスの事が気がかりで、オーナーと料理長にどのように話しを切り出したらよいものか、気の重い日々が続きました。当然アズマさんには、すぐに話しましたが、アズマさんの意見では、「アルザスに行った方が良いと思う」と言うことでした。そんな折、すぐお隣の村の三ツ星レストランムーラン・ド・ムージャンの予約が取れたのです。予ねてから、念願のレストランでしたので、アズマさんと大喜びしていると、料理長が私に「ムージャンで働きたくないか?」と聞いてくるのです。まだ退社の事も切り出してないのに、私はドキっとしました。ムージャンに就職出来ればこんなすごい事はないのです。でもアズマさん曰く「期待を持たせているだけで、わからないよ」と言っていました、し、うちの料理長とムージャンのヴェルジェ氏が知り合いと言うのは、聞いた事がありませんでした。でも、今度のムージャンの食事が済むまでは黙っておく事にしました。さてムージャンのお料理ですが、何がどうのと説明しようと思うと、何も憶えていないのです。美味しかったと思いますが、何を食べたのかも、憶えていません。ワインはバンドールロゼをいただいたと思うのですが・・・やはり、気にしない様にしていてもアルザスに帰る事を切り出すのが、いつも頭から離れなったのかもしれません。そして、料理長に話をする決心をしたのですが、その時の話はまた今度します。 http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.25
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今日は快晴、洗濯日和です。沢山の洗濯物を持って朝も早くから、ヒッチハイクでカンヌへ向かいます。と言ってもいつもヒッチハイクが成功する訳ではありません。大体フランス人が運転している車は止まってくれません。止まってくれるのは、アラブ人か他の国の旅行者の人です。私たち東洋人の二人ずれでは、乗せる方も勇気がいる事と思います。ヒッチハイクが成功しなくても、以前と違って、二人で話しながら歩けば1時間位すぐですし、天気が良ければ苦になりません。午前中はビーチでのんびり洗濯干しをし、カンヌの市場などを散策して、ホテルを取り、昼時には、安くてなるべく充実したランチを捜してレストランやカフェを回ります。そして洗濯をもう一度干し、ホテルに荷物を置いて夜の街に繰り出すのですが、夜の食事は、行き付けの日本料理屋さんになります。飲み物は、行き付けと言う事もあり、日本酒を一升瓶で出してもらい、二人で飲んだ分だけ勘定してもらう事になっていましたが、大体一晩で空けてしまったように思います。最初の頃、アズマさんは、私が若いのに彼と同じペースで飲むのでビックリしていました。でもさすがにアズマさんも強かった。気分が良くなるとその店の閉店までいて、そこの料理長さんのアパートに泊めてもらう事もありました。彼もフランス料理を勉強する為にフランスに来たそうですが、前のレストランで何かあったようで、今は、日本料理屋で働いて、語学学校に通っているそうです。彼も私より5~6歳年長でした、が優しい人で、親しくなってからは、私たちの休みの日には行動を共にして、よくお昼ご飯を奢ってもらいました。そして私がラ・ムーラッションを退職するにあたり、彼のお陰でうまくいったのですが、その話は又今度いたします。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.25
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ルディグ氏と。カンヌ ラ・ムーラッションにて 7南フランスの夏は(バカンスシーズン)一番の稼ぎ時で、ラ・ムーラッションも同様です。それでかどうだか解りませんが、その前に5日間、レストランを休むと言われました。ここにいてもいいし、旅行に行ってもいいと。ここにいると言っても、こんな不便な所で5日間、買出しにも大変だし・・・考えたあげく久しぶりにアルザスのルディグ氏の元へ行き、お世話になったお礼にお手伝いに行こうと思い立ちました。往復何十時間もの道のりですが、懐かしさの方が先に立ち、すぐに決断、(アズマさんもスイスの元いた職場に顔を出すと言っていたので、こんなところでひとり残ったらたまったものではないですし・・・)そそくさと用意しました。料理長は「そんなに嬉しいのか・・・」とか何とか言ってましたが、隠しようがありません。そして、ルディグ氏の方には、突然行って驚かせてやろうと思い立ち、その企ての楽しさに、いても立ってもいられませんでした。片道13時間の旅も苦になりません。懐かしいミュールーズの駅に着き、いつもだったら、そこから電話をして迎えに来てもらうのですが、その日はタクシーを使い、あくまでも到着までは極秘事に・・・・。レストランの手前でタクシーを降り、お客のようなふりをしてカフェの方から入って行くと、マダムは忙しそうに立ち働いていて、勝手に席に着いた私に気がつきません。いえ、お客が入ってきたのは気がついていて「ボンジュール」の挨拶は届いたのですが、私だと気が付かなかったようです。注文を取りに来て、私の顔を見た時のマダムの驚きは、私が想像していたものよりも、はるかに上回ったものでした。マダムのあまりにも大きな驚きにレストラン中の人たち(常連のお客さんまで)が集まって来てしまったのです。そして一声に「どうしたんだ!」と。ほとんどの人がカンヌを辞めてきたと思ったようです。事情を話すと「なあ~んだ」と、安心をしたのかガッカリしたのか解らない返事が返ってきて・・・、ただ以前より慌ただしいような雰囲気が感じられました。それで訳を訊いてみると、コックさんがセルビスミリテーユ(兵役)に取られて大変だと言うことでした。私はすぐに着替えて、料理場に入りました。ルディグ氏やマダムは疲れているだろうから、手伝わなくてもいいと言ってくれました(カンヌとは大違いです)が、こんな時にこそ、お世話になったご恩を、少しでもお返ししなければ、と思いました。いや、それよりも、私が顔を出した事をこんなに喜んでもらった事の方が、私には感激だったように思います。少しはお役に立てたかどうか、あっと言う間の4日間でしたが、帰りにまた夜行列車の中で食べてとお弁当とワインを持たせてくれました。そして、言いにくそうでしたが、「うちでは、カンヌほど給料は払えないが戻って来てくれないか」とも言われました。以前ここで一ヵ月半、拾ってもらったご恩を思えば、すぐにでも「はい」と応えたかったのですが、(カンヌの料理長にも随分よくしてもらっていたので)「一度訊いてみます」としか答えれませんでした。帰りの列車は(どうしたら良いものか)、ワインを飲んでも一睡も出来ませんでした。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.24
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カンヌ ラ・ムーラッションにて 6追われる様な日々を送り、明日は休み。前々から、カンヌのお隣ナプールの三つ星レストラン、ロアジスへ行く事になっていて、アズマさんと「明日は何を食べよう」などと、はしゃいでいました。それを聞いた料理長が、「明日は何を着て行くのだ」と心配してくれました。私はもちろんスーツを着ていくつもりでいる事を告げると、、そのスーツを見せてみろと言われ、「そんな地味なスーツ、コートダジュールでは着ない、貸してやるから。」ともってこられたのが、クリーム色かかった上下白のスーツ。「イ!」結婚式でもあるまいし、こんな色のスーツ着る人なんて・・・、と思いながらも、はっきりとは言えず、「アズマさんと差がつきすぎるので」とやんわり断りました。それにしても、あのスーツ、以前 映画「ミスターレディー ミスターマダム・・?」の主人公が、こんなの着てなかったかナーと。確かに南フランスはリゾート地ですので、派手な格好の人が多いのですが、自分にはとても着る勇気などありません。さてロアジスに到着して、まず、レストランの雰囲気が南国風で、ロアジス・・・オアシスのイメージそのままでした。オーナーのウチエ氏もサービスの人たちも大変親切で、私たちが、料理人でフランス料理を勉強する為、フランスに来た事を告げると料理場まで案内していただき、料理を作るところなど色々説明していただきました。帰り際、記念にとメニューもお土産にいただき本当に嬉しい一日でした。そのメニュー(写真上)は今も私の宝物として保管してあります。ついでに、映画「ミスターレディー ミスターマダム」について一言。この映画は、南フランス サン・トロペが舞台で、カンヌから目と鼻の先の所ですが、私の南フランス滞在中、あの映画に出てくる様な人にお目にかかった事はありません。やっぱり映画は大げさに出来ているのでしょうね。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.23
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ホテル グレイ・ダルビオン10年ぶりで、カンヌに訪れ、まず行こうと思っていたレストランが、このホテルの中のロワイヤルグレイでした。当時、カンヌ市の中で、格の上のホテルは何件かありましたが、レストランとしては、まずここを挙げるべきでしょう。私と友人の杉君が、この年フランスに訪れたのは、九月の初め頃で南フランスはまだヴァカンスの色が濃く、賑やかで活気に溢れていました。フランスの夏は、日照時間が長く、この時期でも、夜9時位まで明るかったと思います。カンヌはニースと比べ、鉄道駅からビーチまでが比較的近く、その間にビーチに平行して繁華街が建ち並んでいますので、私たち個人旅行者には、大変便利がよく、コート・ダ・ジュールの宿はまずカンヌで取ろうと思っていました。私たちが取った宿は、駅の案内所で紹介してもらったホテルアスコットと言う、まあ安ホテルの部類に入るような所で、ケチるところはケチって、その分食事に回そうと・・・(杉君は独身貴族でしたが、私は・・・・) その日、昼間は有料ビーチでのんびり過ごし、昼食は夜のディナーにそなえ、そこで、軽くスパゲティーを頂きました。さあ、待望のディナーです。私たちは、8時にレストランを予約していたのですが、まだ日は明るく、他にお客さんはなく、一番乗りになってしまいました。そう言えば私がカンヌで働いていた時は12時がラストオーダーだったのを、その時やっと思い出しました。天気も良く、私たちが案内されたテーブルは、中庭のテラスで中々の雰囲気です。やはりここはメニューデギュスタシオン(懐石)を取ろう。ワインはやはりバンドールのロゼ。私たちだけですから、沢山のウエイターに囲まれ良い気分です。ただ友人の杉君は、肉料理に頭の付いた鳩のローストが出て、「ワ!」と一言、見ただけで食べれなくなり、私が、二羽食べるはめになってしまいました、・・・この旅行中、同じような事が度々で、メイン料理を二人前食べ続けたような気がします。その代わりデザートはすべて彼に食べてもらいました・・・・・。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.23
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仕事が済んで寝酒にロゼワイン。深夜4時、たこ部屋の様な所でリンゴ箱をテーブル代わりに・・こんな生活の日本人コックさんは当時、ごまんといました。アズマさんと。カンヌ ラ・ムーラッションにて 5昼のサービスが済んで、ホッとしている頃、働きたいと言うコックさんが尋ねて来たとの事。日本人らしい・・・。その人が料理場に通されて、お互い目が合った瞬間「ア!」 ビックリです。以前私が働いていたアルザスのメゾン・デ・テートの先輩の友人で、一度、アルザスに遊びに見えたことがあり、夕食をご馳走になった方だったのです。彼も私がまさかアルザスからカンヌに来ているとは思ってもみなかったでしょう。しかし、彼は私がこの店にいる事を知って、「君がいるなら、ここには入れてもらえないね。」と残念そうでした。私は「大丈夫、大丈夫、今、人が足りないし、知り合いだから、頼んであげる」・・・・・正直、私は「やったー」って気分でした。彼 アズマさんは、私より5歳程年長でしたし、以前会った時も親切な方だったので、これほど心強い人はいないと思いました。予想は的中、私より、もちろん技術も経験も豊富だし、案外、物をはっきり言う方だったので、頼りになり、一遍に仲良くなれました。休みの日には、一緒にカンヌのビーチに洗濯を干しに行って、その晩は日本料理屋さんで思いっきり飲んだり、レストランから村まで、ヒッチハイクしたり、夜中、仕事が済んでから寝酒をしたり、一人の時は全然そう言う事はありませんでしたから、毎日面白くて。それと気難し屋の料理長にアズマさんは、よく嫌がらせをしていました。それは、料理場では仕込み中、日本語だけで話しをするのです。三人だけの料理場ですから、当然、料理長だけが、仲間はずれにされる形になります。料理長は、鼻歌を歌ったりして気を紛らわしているようでしたが、あまりに気の毒で、何気なく話しかけると、すごく嬉しそうな顔をして、一遍に子供みたいになっていました。料理長の我がままはそれからも相変わらず治りそうもまく、それでも相手をしていると、アズマさんに「君は、お人よし過ぎる」とよく言われていました。間に入って少し戸惑う事もありましたが、来た当初と思えば、ずっと楽しい日々が続きました。 http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.22
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写真右 サービス担当の彼女、名前は忘れてしまいましたが、何しろお喋りで、ラテン系女性はかくある物かと。ポパイによく似て明るい子でした。カンヌ ラ・ムーラッションにて 4ある日 パイ生地を折っていたトリコン氏が急に何か叫びだしました。朝方は機嫌が良かったのに・・・?見るとパイ生地がうまく膨らまないのです。何度も繰り返していたようですが・・・。その日 三ツ星レストランのオーナーシェフ、トロワグロ氏の予約が入っていて、その料理に使いたかったようです、が、見るも無残な出来ばえでした。元々、このレストランの料理場は暑すぎて、パイを折る設備ではありませんでした。でもこのまま行くと、また機嫌が悪いままサービスに突入しなければなりません。私は何とかトリコン氏をなだめて、以前、ミノヤさんに習ったカメリヤのパイを折ることにしました。正直、気温が高すぎてあまり自信はありませんでした・・・。生地を温めないように、何度も冷蔵庫で冷やしながら、普通の倍もの時間がかかってしまいました。いざ焼いてみたら、予想よりも膨らみすぎて、返って怒られるのではないかと思いましたが、トリコン氏は大変ご機嫌でした。その晩、難なくサービスも進み、トロワグロ氏が料理場へ挨拶に見えました。私は彼を本の中でしか見た事もなかったですし、初代東京マキシムの料理長だったのも知っていましたので、大変感激しました。二言三言、何か話しかけられましたが、今は何も憶えていません。それ以来とは言わないですが、益々トリコン氏が私に優しくなって来た様に思いました。他の三ツ星レストランに率先して予約をしていただいたり、その時の服装にまで気を使っていただきました。 そしてこのレストランを退社する事になるいきさつには、色々あったのですが、そのお話は、まだまだ先の事となります。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.21
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ラ・ムーラッションオーナーとカンヌ ラ・ムーラッションにて 3こちらでの、私の住まいを紹介しましょう。住まいと言っても4畳半ほどの部屋に2段ベットが二つ、そこに4人の男たちが寝泊りするのです。フランス人一人、アラブ人二人、そして私。アルザスとは大変な違いです。でも、一日中料理場にいて、ほとんど寝るだけですので、あまり苦にもならなかったのですが、ただ一つ、困ったのが、洗濯物でした。この店は、言わばオーベルジュと言って、お客さんの宿泊設備があるのです。ですから、洗濯物は外に干すなと言われいました。ところうが、私たちの部屋は、半地下にあり、部屋干しにすると2~3日しても乾かないのです。しまいに変な臭いがしてきて・・。洗濯といっても、洗濯機がある訳じゃなく、自分がシャワーを浴びる時についでに足ふみ洗濯をします。なんだか昭和初期の話のようですが本当です。色々考えた末、思い付いたのが一週間溜めた洗濯物を休日にカンヌまで出て、ビーチに干すことでした。国際映画祭で世界的に有名なカンヌのビーチに洗濯物を干しに行くなんて、贅沢と言うのか情けないと言うのか。まあ休日の最初の仕事が、ビーチでの洗濯干しでした。でも、簡単にカンヌまで出ると言っても、前記したように、バスが通う最寄の村まで、小1時間は歩かなければなりません。サンタクロースさながら、大きな袋を背負ってです。見た目難民のような風体です。(その頃床屋に行く時間がなく鬱陶しい前髪だけ自分で切っていたので、お河童になり、なおさらでした。)ただ、一週間に一度のカンヌは、自分にとって本当に息抜きになりました。乾いてゆく洗濯物を見ているだけで嬉しくなります。そして好きな物を食べて安ホテルに泊まって翌朝暗い内に店に帰る。その繰り返しでした。そして数ヶ月が過ぎ、相変わらず仕事に追われる日々、料理長が、突然カウントダウンを始めたのです。それも、夜中の12時少し前です。まだ仕事の真っ最中です。前記したようにこの店は、はやくて深夜2時、遅ければ4時までの仕事です。12時がオーダーストップでは、仕方ありません。 話を戻しますが、カウントが0になった時、レストランからウエイターが飛び込んできて、シャンパンを音をたてて抜きだしました。それでも私は何のことやら解りません。そして皆からおめでとうと言われて初めて気が付いたのです。私の誕生日でした。ここ数ヶ月、追われるばかりの生活で自分の誕生日など覚えてもいませんでした。嬉しいのと恥ずかしいのが相まって、でも感激しました。料理長曰く、「このシャンパンの代金、後で請求するから」と・・・料理長の照れ隠しでした。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.19
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今でこそ言えることですが、私がフランスアルザスに就職して、随分大変だったのは、友人知人がフランスパリに旅行に来るとお呼びがかかる事でした。やはり日本からみれば、誰でも同じフランス内だから、案内をしてくれ、と連絡がくるのです。当時、私のいたコルマー市からパリまで、夜行列車で6~7時間はかかったのです。2日間休みを取ろうと思うと、週休一日半ですので、前週の半日分を出勤させてもらって、合わせて、2日にし、夜行列車で往復する事になるのです。エデル氏の息子さんの機嫌が悪い時は連休が貰えず、1日を夜行列車で往復した事もありました。フランスは当時イタリアほどではありませんが、決して治安が良いとはいえず、夜行列車で怖い思いをした事は一度や二度ではありません。今は日本と同じ様な座席の列車が増えていますが、当時はコンパートメントと言って、6~8人の個室になっていて、一室の中に同じグループが入っているコンパートメントは要注意です。そう言う部屋には、決して、入らないことです。鍵を閉められ、カーテンを下げられたら、まったくの個室になってしまうのです。ですから私はだいたい老夫婦や子供が混じっているコンパートメントを捜して同室させてもらっていました。それと一度は夜の仕事が長引いて、電車の時刻にぎりぎりなり、走って駅に向かっているとき、4人の警官に止められて、銃を付きけられたときもありました。それは丁度パトカーが巡回中、私が老婦人とすれ違い、警官は私が物を取って逃げたと思ったようです。あの時は心臓が止まるかと思いました。なにしろ、パトカーから4人もの警官が飛び出してきて、銃を付きつけ、腕を取って塀に押し付けられたのですから・・・。本当に映画の1シーンのようです。その時は同僚が私が電車に間に合ったか心配して、車で見に来てくれたので何とか濡れ衣も晴れ、電車にも間に合ったのですが・・・。そんな事もしらず、日本からの友人知人はフランスの料理は口に合わないだとか、飛行機が永過ぎて疲れただとか何とか・・・・、勘弁して下さい。 パリの街角で。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.18
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カンヌ ラ・ムーラッションにて 2料理長の名前はムッシュ・トリコン。トリコン氏の気の短さはお伝えしましたが、と言っても決して性格が悪い人ではありません。1週間もして仕事に慣れてくると、殆んど怒鳴る事もなく、私がデザートをこなすのを、すごく喜んでくれました。仕事中もよく冗談を言ってくれます。私も笑って応えますが、まだ言っている事がよく解りません。案外、ムッシュは寂しがり屋だったように思います。そんなある日、新しいコックさんが入ると聞かされました。やったー。これで少しは余裕ができるかな・・? その前に、前日トリコン氏が「僕は英語を話すが、おまえも話せるか?」と聞いてきたのです。私は、「日常会話くらいなら。」と答えておきましたが、何のことやら・・・解りません?新しいコックさんが到着して、挨拶をすると、まともな返事をいただけません。私より、年長なので失礼な挨拶をしてしまったのかナ? どちらにしろ彼もすぐに着替えて仕事です。しかし、どうもおかしい・・・。トリコン氏が、私に「通訳してくれ!」と言うのです。「はあ~~?」 なんと新人さんはイギリス人だったのです。(昨日は英語が話せると言っていたのに。) 後々聞いたのですが、この店の仕事は、ハード過ぎると、コック仲間に広がって、フランス人はほとんど働きに来なくなったそうです。 フランス語が話せようが話せまいが、私にとってはこのコックさんに辞められたら大変です。まず思い付いたのは、ちゃんと午後の休憩を彼にあげる事でした。この店は朝7時半から翌朝2~4時まで、ぶっとうしの仕事です。普通の神経ではとても保ちません。彼の仕込みの分を自分がやってでも辞められるよりましです。料理長もその頃には、私が勝手に、他の人を休憩に行かせようがどうしようが、何も言わなくなっていました。それどころか、私が一人で仕込みをしていると、ビールやワインを差し入れてくれて、手伝ってくれるのです。他の従業員の人たちもその変貌ぶりにはビックリでした。この優しさをもっと前から、表わしていたら、フランス人であろうと、働きに来るのにと思いました。そして3日ほど過ぎて、いつものように新人コックさんに休憩に行くように言ったら、自分の包丁まで持って休憩に行くのです。「夜のサービスがあるからまだ持って行かなくても・・・」と彼に・・・返事も返ってきませんでした。夜サービスが始まる時間にも彼は、現れません。料理長に聞いたら、「さっき辞めると電話があった」と。 「ゲーー!」また しばらく一人か~。それからも、数人のコックさんが来ましたが殆んど外国の人でした。私も外国人ですが・・・そして、それから料理長はじめ、オーナー他、従業員の人たちが、あまりにも親切すぎるように感じました・・・
2007.05.17
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ニースのビーチです。カンヌのビーチと違い、砂浜ではありません。海岸沿いにはやはりホテル、レストラン、カフェなどが建ち並び、カンヌとよく似ていますが、海岸沿いは、より一層華やかな感じがします。お隣にモナコが控えている事もあり、やはり高級感が漂います。レストラン付き有料ビーチで、ワインなど飲みながら、景色を眺めると、映画「太陽がいっぱい」の一場面を思い起こさせます。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.16
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カンヌ ラ・ムーラッションにて 1 ミュールーズを夜8時半の夜行に乗り、カンヌに着くのが翌朝の10時位です。寝台を予約したかったのですが満席で、普通チケットで行くことになりました、普通座席なら空いているだろうと思ったのです。。あまかった~。座るどころか、13時間半の長旅を、通路の壁に押し付けられて立って行く羽目になったのです。やっとの思い出でカンヌに着き、迎えに来ていただく事になっていたので、お店の方へ電話をしました。そうしたら、今度は、そこからバスに乗り、Mouans-Sartoux(ムーアンサルトー)と言う村まで来いとのことです。衣類やら本、包丁、半端な荷物ではありません。最初から話が違うみたいで少し不安になりましたが、今更もどる訳にもいきません。ムーアンサルトー村に着いて、またそこから電話をすると、「これから迎えに行く」との事。それから十数分後、背の高い中々ダンディーな方が、車でやってきました。(後で分かったのですが、彼はメートル・ド・テル、給仕長さんでした) ここからまた車で・・・?着いた所は、国道沿いではありましたが、見渡す限り何もない草原の中の一軒屋だったのです。どう考えても、あの村から、歩いて1時間はかかりそうな所です。えらい所へ来てしまったな~・・と思いながら、案内のまま、料理場に付いていきました。料理長らしき人と若いコックさん、それに洗い場さんらしい二人のアラブ人がいました。「はじめまして、よろしくお願いします」のあいさつをするかいなか、「部屋に荷物を置いて、すぐ着替えて来い」と返ってきました。メゾン・デ・テートとは、えらい違いです。料理長からしたら、「こんな昼時に来て」と思っていたようですが、私としてもこれ以上早く着くのは、不可能でした。結局その日は朝2時まで仕事をしました。前日もそうでしたが、料理長のイタリア語訛りの言葉があまり理解できません。忙しくなってくると、苛立ってくるのか、怒鳴る蹴るは当たり前、鍋まで投げつけてくる有様です。あの時のルディグ氏の言葉が思い出されました。そんな日々が3~4日続いたでしょうか。しかしそこのレストランの料理は言わばヌーベルキュイジーヌで、その場で仕上げる物が多かったのです。すぐに仕事の流れが憶わりました。そしてその晩、料理長がまた、怒鳴り始めたとき、「ここの料理なんか、1週間で憶えてやる」と反対に啖呵をきってやりました。料理長は目が点になっていました。後に他から聞いた話では、今まで何人もの日本人がすぐに辞めていったそうです。そして、私が入店した時にいた、若いコックさんも、ほとんど私と入れ替えに辞めていきました。当然のように思いました・・・・http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.16
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ご丁寧に返事をいただいたレストランは、フランスでもさすが超一流です。オーベルジュ・ペールビーズ、ラムロアーズ、ボアイエー、ラ・コート・サン・ジャック、マノアール・デスタン、グルーズ、等々、私たちの年齢のコックさんなら、誰でもし知っている名店です。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/recipe.htm
2007.05.15
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ルディグ氏のもとで1メゾン・デ・テートを退職して、一時お世話になることになったルディグ氏のレストランはコルマー市より南に50キロ行ったMorshwiller-le-bas(モーシュウィレー・ル・バ)と言う2000人ほどの村にありました。村には、レストラン1件、カフェ1件、バー1件、パン屋1件、歯科医院、薬局、スーパー、郵便局、タバコ屋、すべて1件づつあり、生活に必要な物は一応揃う所でした。田舎と言っても、都市ミュールーズ市の近郊ですし、メゾン・デ・テート時代一度食事に寄せてまらっていましたので、あまり驚く事はありませんでした。ただ、その頃の彼の店は、従業員も十分足りていましたので、私はあくまでもお手伝いで置いていただく形でした。彼の料理はメゾン・デ・テート譲りなので、私も比較的、お手伝い出来たと思っています。それでもあまりご迷惑をかけない様にと、次のレストランを捜して、お手伝いの傍らフランス中のレストランに手紙を出し続けました。何処のレストランも定員一杯のご返事でした、(返事を丁寧に頂けるお店は、ほんの少しですが、殆んど、さすが2~3星レストランでした)70通を超した頃でしょうか、(話に聞いたところ、200~300通出された人もいたそうです。)一通の電報が届いたのです。「すぐに連絡されたし」。本当にやったーと言う気分でした。ルディグ氏のレストランにお世話になってもう1ヶ月半になっていたのです。すぐに電話をしました。ところが、先方の言葉が(フランス語なのに)あまり意味が解らないのです。ルディグ氏に代わっていただいて、先方の話を聞いてもらいました。そうしたら、今度は、ルディグ氏の語気が荒くなり、電話の横で、何がなんだか解らないまま、突っ立ていると、私の方を見て、「冗談じゃない」と一言。彼が言うには、「今日これから来てくれ」と言う話だったそうです。今度のレストランは、南フランス・カンヌからの電話だったのです。ここから900キロ・・・それを簡単にこれから来いと「非常識にも程がある!」、彼からしたら、何を言っているんだ、って気持ちだったと思います。・・「慌わてなくてもいいからもう少し他をあたればいい」と、そして彼の言葉はイタリア語訛りだから、私のドイツ語訛りのフランス語では、苦労するだけだとも言ってくれました。しかし、これ以上ご迷惑をかける訳にもいきませんし、前々から南フランスにも行ってみたいと言う気持ちがあったので、すぐに決心をしました。本当にお世話になりました。ルディグ氏はもちろん、ご両親、おばあちゃん、弟、妹、洗い場のおばさんまで、優しくしていただきました。旅立ちの日、夜行列車の中でと、お弁当と大好きなオードヴィーを持たせていただきました。ありがとう。明日の昼前には、カンヌです。 http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/recipe.htm
2007.05.15
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私が次に行く事になっていたレストランカメリアのパンフレットです。左の方がドラベーヌ氏。しかし、27年前の物がよくあったと、そのことに驚きです。ある日のエデル氏9年も明け、もうすぐ一年、「今度はパリに近いカメリアかぁ~」、期待に胸 弾ませていました。カメリアのオーナー ジャン・ドラヴェーヌ氏は、フランス料理協会副会長の肩書きを持つ方で、中々親切な方だとミノヤさんに聞いていました、「君なら、きっと気に入られるよ」と言っていただいていたので、あまり不安もなくその日を待っていました。ところがある日、エデル氏の息子さんに呼ばれて、一方的に「まだ辞めさせられない。」と言うのです。私は訳が分からず、「こちらでお世話になるのは一年間の約束です」・・・と。 彼が言うには、「うちも人が足りないんだ勝手な事を言うな。」と。 でも気に入らないからと言って皆を辞めさせたのは自分じゃないか・・・のどから出そうな言葉をこらえ、どうしても行きたいとのみ言いました。彼はおもむろに電話をとり、「うちにいる日本人は使い物にならないから」と、目の前でカメリアを断ってしまったのです。 そしてクビだと。ミノヤさんはもう帰国された後だし、目の前が真っ暗でした。私は呆然として料理場に帰っていきました。シェフのケレー氏が私の顔を見て「どうしたんだ」と心配げに尋ねてくれました。事情を話すと「よし分かった」と何処かへ出ていかれました。数分後、帰って来て、「いまルディグ君に電話をして、しばらく預かってもらえるように頼んできたから心配するな、そこで、また新しい所を捜せばいいじゃないか」と。本当にうれしかった。そのルディグさんは,私のホームページによく登場していますが、元はここの副料理長だった人で私も半年ほど一緒に働いていたのです。でも、息子と意見が合わず、最初に独立された方でした。翌日荷物をまとめて、エデル氏に挨拶をしに行きました。なんとも済まなそうな顔をしてみえました。息子の方は口もきいてはくれませんでしたが、気にもなりませんでした。もうその時には、メゾン・デ・テートは息子の代に代わっていたのを感じました。それ以来、エデル氏にお会いする機会もなく、そしてメゾン・デ・テートは違う人の経営になった事だけが聞こえてきました。 ある日のエデル氏 終わり。 http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.14
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オーベルジュ・デゥ・リール(アルザス イルハウズン村)の中庭です。近くに小川が流れ、風光明媚なたたずまいですある日のエデル氏8パリ郊外の二つ星レストラン、カメリアから息子さんが帰ってきました。彼はエデル氏とは違い、周りの評判はあまり良くなかったようです。メゾン・デ・テートは、元々伝統料理が売り物のレストランでした。彼はそれが気に入らなかったのでしょう。料理はもちろん、合わない料理人は何人も辞めさせられました。私も好きではなかったのですが、次にカメリヤへ入店させてもらえる事になり、・・・と言うよりも、辞めさせられたら大変ですし。(と言うのも、仕事が見付からず、転々としている日本人が、本当に多かったのです。)しかし、料理場の雰囲気が一変してしまったようでした。私は、あと数ヶ月でカメリヤに行けるそれだけが楽しみでした。そんな時ですカメリヤのパティシエ、ミノヤさんが研修にみえたのは。ミノヤさんは、帰国にあたり出身の北海道の気候に近いアルザスの料理を憶えたいとの事でした。その機会に私はカメリヤのデザートを教えてもらえました。ある日、ミノヤさんご夫妻と荒井君と私をエデル氏が昼食にご招待してくれました。場所は夏に働かせていただいたランデヴー・デ・シャスでした。 ミノヤさんにカメリヤで息子が世話になったお礼と言うことらしいです。そこで意外な事を聞いてしまったのです。ミノヤさんははっきりものを言う方で、カメリヤでの息子さんは、サラダの掃除しかやってなかった、と、そして、誰よりも一番早く帰るスペシャリストだった、と。唖然としました。何よりも私はエデル氏が気の毒で顔も見れませんでした。息子さんは慌てて否定していましたが、きっとその通りでしょう。その結果が後に自分にのしかかってこようとは、そのときは少しも知りませんでした・・・・ http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.13
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ホテルペピニェール。リボービル村の郊外にあるリゾート専用ホテル。私たちのアルザスツアーのために友人が紹介してくれました。ここのオーナーのガイドで、アルザスのカーブ巡りが実現しました。このホテルはシーズンオフで閉鎖中でしたが、特別に見学させていただき、オードヴィーをご馳走になりました。ある日のエデル氏7少しは言葉にも慣れ、メゾン・デ・テートの同僚たちと親しくなってからは、仕事のあと頻繁に飲みに誘われるようになりました。近くのBarなら途中でご無礼する事も出来ますが、遠くのディスコでは帰るに帰れず、朝まっでお付き合いする事になります。私は志摩観光ホテル時代からお酒は飲める方でした。しかし皆は飲んだり踊ったりしていますが、私はダンスが出来ず、朝まで飲みっぱなし状態です、当然二日酔いで仕事になります。ある朝、エデル氏が私の顔を見て、ビックリして「具合でも悪いのか」と訊かれました。まさか二日酔いとも言えず「少しお腹の調子が・・・」と言うと、エデル氏は本当に親身になって心配し、「今、薬を持って来てやるから」と。 うそを付いて申し訳ない気分になりました。待っていると、濃い紅茶とラム酒をもって来られました。下痢と思われたのでしょう。ラム酒は40度もある言わばブランディーです。そんな物を飲んだら、余計に・・・・「さあ、いっきに飲みなさい」今更うそとも言えません。天罰だ~・・・後はご想像におまかせします。私は歴代の日本人の中で最も幼く見えた所為か一番可愛がっていただいた様に思います。エデル氏が料理場を去って、事情を知っているシェフが、「誰だ~そんなに飲ませたのワ~」と怒鳴っている声が、外のトイレにまで聞こえてきまいした。 (因みに、同僚たちは、「おまえは給料、少ないから」と奢ってくれる事がしばしばでした。)http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.12
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カテドラル(大聖堂)のサイド (この写真は絵ハガキから拝借しました)私の三年間のアルザス生活のなかで、ストラスブールは北端、住まいが南端と言う事で、訪れた回数が5~6回。その度に天気に恵まれず、他から写真を拝借しました。ヨーロッパno.1の高さ(142m)を誇ったストラスブールのノートルダム大聖堂のです。何度かの戦火に見舞われ、完成までの260年におよぶ市民の苦労は並大抵な物ではなかったそうですが、その話は、さておき。年の暮れにはこの大聖堂の前広場に、クリスマスの市が立ち、イルミネーションも相まって、それは素晴らしい景色になります。私は仕事柄、その時期行った事がないので、聞いた話ですが・・・。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.11
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フランスのぶどう畑は収穫がし易いように、縦に栽培されています。私もぶどう収穫期(ヴァンダンジュ)にはアルバイトでぶどう狩りに行きました。その話はまたいつかしましょう。ある日のエデル氏6今日も仕事が終わって明日は休み、そんな時またエデル氏に呼ばれました。「明日の昼食はここでするといいよ」と。 「わっ、またか?」心の中で思いました。ところが・・・「明日は、エグザマンがあるので勉強になるから来なさい」と。エグザマン? 訳も分らず、帰ってから辞書を引くと「試験? なんだ~?」 翌朝出勤をすると、すごい人だかりです。話を聞けば、調理師試験が始まったそうです。エデル氏は、全フランス料理協会理事、アルザス料理協会会長の肩書きをお持ちの方で、年に一度のこの試験にメゾン・デ・テートが会場になるのは珍しくないそうです。審査員は、名だたるレストランの料理長さんたち、会場はすごい緊張で一杯です。私は、何をしたら・・・?ボーーとしていたら、「材料は、用意してあるから、今日、お手伝いに来ている人たちのランチを作ってくれ」とエデル氏に言われました。 えー、こんな会場の真っ只中でー・・・・自分が試験に来たような気分です。 案の定、仕込みを始めると、審査員の方々に囲まれ、「その方法は、どうゆう効果があるのかね?」「どうしてその様な火の通し方をするのかね?」と一々質問攻めです。ノートを取っている先生までいるのです。十数人前なんとか作って、席についた時には、脱力感で食欲なんてありません。 帰り際にエデル氏に呼ばれ、「この人が、オーベルジュ・デゥ・リールのポール・エーベルラン氏だよ」と紹介してくれました。エデル氏は、来年、私がここを卒業してから次にどうしたらよいのか、色々考えていてくれたのだと思います。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/
2007.05.11
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アルザス地方について今更と言う気もしますが、少し書いておこうと思います。アルザス地方はドイツ、スイスとに接し、幾度もの戦争で、フランス領になったり、ドイツ領になったり、大変な苦労をしいられました。年輩の方ならご存知の事と思いますが、アルザスを舞台にした映画{最後の授業}はあまりにも有名です。私がお世話になったルディグ氏のおばあちゃんも元は、ドイツ人だったそうですし、彼女は、ドイツ語の方がお得意だったようです。このように、アルザスには、ドイツの血を引かれる方が多く、日常会話で使われるアルザス語は、殆んどドイツ語に近いです。地形は南北に170キロと長く、ワインの製造が盛んで、南北に走る、ブドウ畑(ワイン街道も)も有名です。気候は緯度でいえば北海道くらいですので、寒い地域ですが、地球温暖化の所為か、近年暖冬続きだそうです。(私が働いていた頃は、外のプロパンガスが凍る事もありました。) アルザス地方は、オーラン県、バラン県に別れ、バラン県の県庁所在地がストラスブール市になり、オーラン県がミュールーズ市とコルマー市になると思いますが、このストラスブール市、ミュールーズ市、コルマー市の周辺だけにアルザスの人口の半数が集まっています。ですから、都市を少し離れると、ブドウ畑や農地が広大に広がっています。その所々に、教会を中心とした小さな村々が点在しそれは美しい地方です。今から20年程前、フジテレビ系でしたでしょうか、「アルザスの青い空」と言う山下真二さんと荻野目慶子さん主演のドラマがあり、その舞台になったニーダモーシュヴィル村もコルマー市のすぐお隣りで、小じんまりとした教会を中心とした村です。そのような村々が沢山点在し、アルザスの風景をかもしだしています。そして、ストラスブールはドイツからのフランスの玄関口になり、ミュールーズはスイスからの玄関口になります。ヨーロッパを旅する方で、フランスから、ドイツ、または、スイスに行かれる人は、ぜひ途中下車をして、アルザスに立ち寄ってみて下さい。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/----- Original Message ----- From: >To: ??????@ob3.aitai.ne.jp>Sent: Thursday, May 10, 2007 11:12 AMSubject: 10日の日記
2007.05.10
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メゾン・デ・テート料理場。 左から ローベール ルディグ氏 アルベール フランソワ アクチュー 私 ある日のエデル氏5 メゾン・デ・テートに入店した時のお話をしていませんでした。パリから500キロ、アルザスと言う当時あまり聞きなれない地方に就職が決まり、当初、私は少しばかりがっかりしたのを憶えています。 フランスと言えば やはりパリのイメージが強かったですから・・・。早朝パリから電車に乗り、コルマー市のメゾン・デ・テートに着いたのは、もう夕方近くでした。エデル氏のお話を少し伺って(親切に英語で話してくださいました。)一旦、それからの住まいに案内されて、夕食にはレストランの方に来るように!と言われました。その夜は、お客さんとして、食事が用意されていていました。はじめて食べるアルザス料理。ドイツの影響なのか、どの一品もものすごいボリュームです。最初に出されたのが、キッシュロレーヌ、その次がイノシシのテリーヌ、これは、イノシシの頭に詰め物をして蒸し焼きにした物で、一切れが、大人の手のひらよりも大きいのです。日本から長旅で、疲れていた所為か、全然食が進みません。それでも残したら失礼ですし、どうしたらよいものか・・・。結局、ウエイターがいない内にハンカチで包んで素早くポケットにしまいました。スープはなんとかいただきました、が、メイン料理は、これぞとばかりの厚切りサーロインステーキでした。もうハンカチはありません。さすがにギブアップして、正直に食べれない事を詫びました。それ以来、どこのお宅に招待を受けても、まず最初に「日本人は、あまり食べれない」と言うのが私の口癖になってしまいました(当時私は52キロしか体重がありませんでした。)翌日から仕事が始まり、訳の解らない言葉の中で、悪戦苦闘する日々が続くのですが、その話は、また今度。 ただ毎朝、エデル氏は、出勤されるとまず私の所へきて、挨拶をすると、頭を撫でてから去っていかれるのです。その度に周りから笑われていました。エデル氏は当初、私の事を15~16歳だと思っておられたようです。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/----- Original Message ----- From: >To: ??????@ob3.aitai.ne.jp>Sent: Wednesday, May 09, 2007 11:17 AMSubject: 9日の日記
2007.05.09
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私が一番最初にお世話になった、(エデル氏のレストラン) コルマー市のレストラン、メゾンデテート(頭の家)です。名前の由来は壁面に彫刻されている何十もの顔からきています。この建物は、1609年に建てられ、市の文化財にも指定されています。地下にはコルマーno.1と言われるカーブが有り、現在は、ホテルレストランとして、リニューアルされ、人気を集めています。ある日のエデル氏4夏のバカンスも済み、メゾンデテートでの仕事が始まりました。アルザスは避暑地でもあり、バカンスを他の地方と一と月ずらし、7月に摂ります、ですから8月は稼ぎ時のピークです。皆に会える。そんな期待と共に出勤してみると、なんとコックさんが8人しか来ないのです(バカンス前15人) 皆の話では、辞めた人は二人であとは、バカンスから帰って来ていないとの事。それからの一月間は、大変でした。その店ではオードブルからデザートまで、各部門を二人で受け持つのですが、バカンス前からデザートの部門は私一人。それが肉料理とデザートの二部門の掛け持ちになってしまったのです。朝から晩まで休みなく仕込みをしても、サービス時になれば、メイン料理とデザートを続けさまで出さなければなりません。 人の所為にする訳ではないですが、この時はフランス人のいい加減さに腹もたち。そんな苛立ちから、一度だけあの優しいシェフ、ケレー氏と大喧嘩になってしまいました。今もその時の後悔が残っています。(その後もどれ程お世話になったことか。) やっとのおもいで一ヵ月が過ぎ、本当にシェフにお詫びをしました。そんなある日、エデル氏に中庭に呼ばれ、「ようやった」とポケットからクシャクシャな500フラン札を出して、手に握らせてくれました。ずっと解ってらしたようです。私には、大金でした。(当時日本から見習いとして勉強に行くと大体400~800フラン{¥15000~40000.-}のお給料が相場でした。) それから毎月中庭に呼ばれました。(他のコックさんに分らないように・・・)http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/----- Original Message ----- From: >To: ??????@ob3.aitai.ne.jp>Sent: Tuesday, May 08, 2007 10:58 AMSubject: 8日の日記
2007.05.08
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アルザス コルマー市から南へ数キロの所にあるエギサイム村です。私の古き友人のパティシエが住んでいる事から、たびたび訪れました。村の中心に教会を配し、円形に家々が建ち並んでいて、とても綺麗なところです。私がいた時とは違い、現在は観光の名所として、訪れる人々の多さにおどろきましたある日のエデル氏 3フランスへ来て初めてのバカンス。 お金もあまりないし、1ヶ月間どうしよう・・・最初に考え付いたのは中古自転車を買って、南フランス ニースまでの900キロの旅でした。でも周りの人たちに反対されて断念。 エデル氏が心配してくれて、近くの1つ星レストラン ランデヴー・デ・シャスに行く事になりました。そこのシェフはミュレー氏と言い、大料理人だと、うちのシェフも言っていました。 フランスでは、日本と違い、朝一番に出勤するのは料理長です。私は、志摩観光ホテル時代から、少なくとも一時間は早く出勤する習慣だったので、当然シェフより早く入ったのですが、シェフは私を見てすごく驚いた顔をするのです。レストランのウエイターがシェフに目覚めのコーヒーを運んできて、私にも、苦笑いをして、すぐにコーヒーを運んで来てくれました。一緒に頂くことになり、何気なくシェフのコーヒーを見たら、なんと中身が赤いのです・・・?そうです。シェフは皆の出勤の前にないしょで赤ワインを飲んでいたのです。私は1ヶ月間、その事には触れませんでした。そしてお世話になった最後の日、Barで赤ワインをご馳走になり色々なお話を聞かせてもらいました。俳優の勝新太郎さんにそっくりな赤ら顔で、100キロを超すすごい体型を小さなカブに乗せて出勤される姿が可笑しくて、どうか今もお元気であれば、と心から思います。今回はエデル氏の話になる前が長くなり過ぎてしまいました、また次で!!http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/-- Original Message ----- From: >To: ??????@ob3.aitai.ne.jp>Sent: Monday, May 07, 2007 11:01 AMSubject: 7日の日記
2007.05.07
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優しいシェフ ケレー氏前にも登場していますが、フランスでの最初のシェフ ケレー氏は本当に優しい方でした。背丈は私よりも低く、少し小太りで大変陽気な方です。でも彼の作るフォアグラのテリーヌは大変な評判でヨーロッパ各国に輸出していました。ある日の朝、地下冷蔵庫に行かれたシェフが大声で何かを叫んでいるのです。訳が分からず降りて行くと、冷蔵庫の中がエスカルゴだらけなのです。生きたエスカルゴは、お腹の中の物をだすためにカゴに入れて2~3日断食をさせるのですが、どうもそのカゴの蓋がはずれていたようなのです。私はすぐにピンときました。当時メゾン・デ・テートには、14~15歳の見習いコックさんが数名いて、彼らはお腹が空くと地下冷蔵庫でつまみ食いをするのです。きっとそのカゴの中身を覗いて閉め忘れたのでしょう。冷蔵庫の壁はもちろん、牛肉、ソーセージ、野菜あらゆる物に這いずり廻って、悲惨な状態でした。さすがに、あの優しいシェフの頭から湯気が出ているようでした。結局、犯人は分からずじまいでしたが、時には、怖い時もあるんだ、と。しかし、私にはいつも冗談ばかりで、ある日、あまりにもくだらない冗談をいわれたので、「もう、シェフときたら」と、何気なくシェフの肩を小図いたのです。一瞬料理場が、凍ったようにりました。シェフはもちろん笑ってましたし、気にもされていませんでしたが、後で、見習い君たちに、「私がシェフを叩いた、私がシェフを叩いた」と散々言われました。私の知らない所では、相当厳しい方だったのかもしれません。でも、今でも私は優しいシェフの顔しか思い浮かびません。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/index.htm----- Original Message ----- From: >To: ??????@ob3.aitai.ne.jp>Sent: Sunday, May 06, 2007 11:06 AMSubject: 6日の日記
2007.05.06
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こちらは、ストラスブールのpetite france(小フランス)と言われる所です。アルザスの特徴、木組みのコロンバージュと言われる建築方法が、随所に観られます。春には家々の窓に花が咲き乱れ、それは美しいところです。http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/----- Original Message ----- From: >To: ??????@ob3.aitai.ne.jp>Sent: Saturday, May 05, 2007 11:05 AMSubject: 5日の日記
2007.05.05
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おもちゃの様な佇まいですが、こちらはコルマー市の旧市街です。写真左はフェーフージュと言うアルザスでも有名なレストランです。 残念ながら、私の働いていたレストランとよく似た料理だったので、一度も伺ったことは、ありません。 スペインの娘さんは情熱的 あれはまだ、アルザスで働きだして、2ヶ月程の頃でしょうか。休憩時間、アパートへ帰る途中、覚えたてのフランス語を使いたくて、カフェに入りました。あいにくカフェのテーブルは詰まっています。娘さんが一人座っているテーブルに相席をお願いしたところ、心良く、OKしてくれました。すぐ話しかけた訳ではありませんが、本に見入っている目がほころんでいるようでした。勇気を出して話かけてみると、待ってましたが如く、こちらに話をされるのです。話を聞いていると、彼女は、留学生でスペイン人、図書館でアルバイトをしているとの事。フランス語がとても上手で、私のつたない語学力では、フランス人と区別が付きません。私はタドタドしい言葉で、料理の勉強にフランスへ来た事、そして、ここの近くのメゾン・デ・テートで働いている事を伝え、楽しい一時を過ごし、帰宅しました。そして2~3日過ぎた頃でしょうか。いつもの様に、朝の仕込みに追われている時、料理場がいつもと違う雰囲気に騒がしくなりました。私は自分の受け持ちの仕込みに必死で、そんな事にかまっていられません。今度は、笑い声が起こり、振り向いてみると、すぐ後ろに先日の彼女が立っているのです。それも両手にソフトクリームをもって・・・。私は本当に目が点になりました。約束をした憶えもなく、何が何だか・・・・仕事に追われていた時でもありますし、なんとか帰っていただいたのですが、先日の会話を思い起こしても、それ程親しくなったとは思えません。ましてや、職場にくるなんて!!・・・それ以来、シェフをはじめ、料理場仲間から、「まだ 来たばっかりなのに、なんて手の早い奴だ」と、何かにつけて、冷やかされる羽目になりました。 シェフは、私に「フランスに永くいれば、君も・・・・」・・・ とてもここで書く事が出来ないような冗談を言って私を驚かしたものです。当時は、若かったのです、今の私なら笑い飛ばしていたでしょうに・・・・。 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@ob3.aitai.ne.jp> Sent: Friday, May 04, 2007 11:09 AM Subject: 4日の日記
2007.05.04
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田舎の有名人 アルザスでは、珍しく三人もの日本人が、一レストランに集まりました。 と言っても、パティシェのミノヤさんは、帰国にあたり、郷土北海道の気候に近いアルザス料理をメゾンデテートに研修にみえたのですが、こんな事でも、当時のアルザスでは、ニュースになったのでしょうね。 先輩のミノヤさん(写真中央)には、お菓子の基礎を教えてもらいました、後輩の荒井君(左端)には、お酒の飲み方を・・・(何しろ強かった) 写真二番目は、エデル氏の息子さん、右端は、優しいシェフのケレー氏、フォアグラのテリーヌを作らせたら、フランスでも指折りの方です。海外にも随分輸出していました。ちなみにアルザスはフォアグラの名産地です。 http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/ ----- Original Message ----- From: > To: ??????@ob3.aitai.ne.jp> Sent: Thursday, May 03, 2007 11:05 AM Subject: 3日の日記
2007.05.03
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----- Original Message ----- From: > To: ??????@ob3.aitai.ne.jp> Sent: Wednesday, May 02, 2007 11:07 AM Subject: 2日の日記
2007.05.02
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今、話題になっているミッドランドスクエアー名古屋に出店された、オーベルジュ・デゥ・リールのメニューです。もちろん、わたしが勉強させていただいた時の物ですから、かれこれ28年も前の物になるでしょうか。上記したメゾン・デ・テートオーナー、エデル氏とオーベルジュ・デゥ・リールのシェフ、エーベルラン氏の親交からのご好意です。オーベルジュ・デゥ・リールのあるイルハウズン村は、交通の便がなく、コルマー市からタクシーを使わないと行けない様な所でした。 エデル氏が気を使って、従業員のアルベールさんに送るように言ってくれたのは良かったのですが・・・・なんとゴミ捨て用のトラックの荷台ではありませんか。アルベールさんに店のずっと手前か、行き過ぎてから、降ろしてくれと頼んだのですが・・・・なんと玄関に横付けされてしまいました。オーベルジュ・デゥ・リールのボーイさんもビックリですが、私も顔から火が出る様な思いでした。今では、懐かしい思い出です。が、 しっかし、あの時は、スーツで決めて、さっそうと入店するつもりだったのに・・・フランスを代表する三ツ星レストランにゴミトラックで入店した人は未だかつてなかったのではないでしょうか・・・? メニュー右下は、ポール・エーベルラン氏のサインです。現在のシェフは、息子さんになられます。 http://www.ob3.aitai.ne.jp/~le-vert/ ----- Original Message ----- From: > To: ??????@ob3.aitai.ne.jp> Sent: Wednesday, May 02, 2007 11:07 AM Subject: 2日の日記
2007.05.02
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アルザス コルマー市のptite venise(小ベニス)と言われる所で小さな運河の両脇にホテルやレストランがあり、春から夏にかけ、花々が咲き誇り大変風光明媚な場所です。 ある日のエデル氏 2 まだ私が、メゾン・デ・テートでお世話になったばかりの頃、エデル氏に「バーゼルに行った事はあるか?」と訊かれました。大変綺麗で観る所が沢山ある町だと言う事です。まだ、まともに電車にも乗ったことがない私は当然「ありません」と。 「では、明日連れて行ってあげるから、朝8時に来なさい」との事。 翌朝、冬のフランスは日が明けるのが遅く、まだ真っ暗です。寒い日ではなかったのですが雨が降っていて、あまり観光日和ではないような・・・・メゾン・デ・テートに着いて、エデル氏に地下冷蔵庫の荷物を自動車に運ぶように言われました。ふた抱えもあるダンボール箱が三個。中はフォアグラのテリーヌとの事。 それから、ドライブが始まりました。エデル氏の運転は、どうしても右にブレて溝にはまりそうです。(フランスは車は右側通行) 手に汗握るドライブが、小一時間続いたでしょうか。 着いたのは、スイスの税関でした。フォアグラの輸出です。(バーゼルはスイス側国境の町) 雨の中、ダンボールを抱え、濡れた石畳の階段を登らなければなりません。当然エデル氏には無理な事です。検査が済んだら、またそれを抱えて降りなければなりません。後はどうなったか、皆さんはもうお分りでしょう。足を踏み外してしまったのです。ただ中身が高価な物だけに、自分の体を下にして荷物をかばうしかありません。背中から腰にかけてずぶ濡れです。やっとの事で、フォアグラを送り、初めてのバーゼル。動植物園もあるそうな。 最初に連れて行ってもらったのが近くのカフェでした。カフェ・オ・レとクロワッサンを頂いて、さあー観光だ~。 エデル氏の一言 「今日は観光に向かない天候だから、帰ろう。」・・・・それ以来、28年間バーゼルを観光した事はありません。 (でも、帰ってから、「お昼に好きな物を食べなさい」とお小使いをいただきました。) ----- Original Message ----- From: > To: ??????@ob3.aitai.ne.jp> Sent: Tuesday, May 01, 2007 11:14 AM Subject: 1日の日記
2007.05.01
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