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このところ連日にわたってSOUL Survivor の方々からご連絡を頂き、少々興奮気味のファンキー爺ちゃんです。いや~、しかし皆様よく生き残っておられましたね。(笑)随分とご苦労されたのではないでしょうか。それでもあの当時の皆様のFUNKY加減はちっとも色褪せていないって感じが伝わってきて嬉しかったデス。結局、みんな根っからのSOUL BROTHER, SOUL SISTERなんでしょ、きっと。なんでも聞くところによると Brother Terryのところには、もう五月も終わるというのに春が来ているそうです。しかも「ぜっこうちょぉう~」らしいです。BOMB!!!!!いいなぁ、春で。。。。。委員長のところは初夏、盛夏、猛夏、爆夏の繰り返し季節ばかりで、最近はちょっとバテ気味です。ちなみにフィリピン女性の前で「バテバテ」と言うと「バストス!このスケベオヤジ」とか罵られますのでご注意下さい。(えっ!?)Hey man’… smell my fingerということでジョージ・クリントン元帥からのメッセージを聞きながら今日の日記を書いております。Uncle Jam wants you!It’s the rescue dance music from the blahs.やっぱりこーゆー日はFUNKADELICがピッタリとHeartにフィットします。こうしてP-Funkなどを聞いていると、ガキの頃夢中になったFunky Nightが思い出されます。赤坂みすじ通りにあった定食屋「びっくりや」のホルモン焼き定食はうまかったなぁ~。確か新宿の歌舞伎町裏、スタッセビルの正面にも支店があって、こっちの方はなめこ汁とさんまの塩焼きがうまかったなあ。80年代に入った頃だったかなぁ、ちょうどDJというシゴトにも行き詰って、ディスコ業界も様変わりを始めてた時期、よく深夜の赤坂でウダウダしていましたっけ確か深夜の仕事帰りにメシ食いに寄ったこの赤坂「びっくりや」の有線放送で、初めて「もんた&ブラザース」の「ジャーニー」って曲を聴いたんですよね。* *ジャーニー**うなりあげるバスは一夜のゆりかごハイウェイ明日へ続く摩天楼ニューヨークシティ、シカゴ・ウィンディ・シティバスは明日へ走る七色に染まり暮れるグランドキャニオン、デルタの果てのニューオリンズおまえの言ってたシスコ・インディアンサマー 着いたら絵はがき出すよきまぐれな一人旅 終える日も近い果てない闇とシートに抱かれて 星の瞬きに酔う街の暮らしで失くしかけてたものが 胸を熱く満たす日焼けした顔で戻るよお前のもとへ 流されずにやれそうさうなりあげるバスは一夜のゆりかご バスは明日へ走る* ***ホルモン焼き定食喰いながらビールもちょっと飲んで涙ぐんだ思い出があります。なんだかこの詩が心にじーんと染み込んできて、見たこともないアメリカの景色がぱぁーっと頭の中に浮かんで、穏やかな気持ちになった覚えがあります。赤坂みすじ通りから一ツ木通りに抜けると「ハレム」がありました。細い階段を下りていくと入り口のドアの前にアフロ小僧が居て、そこで金を払うと中に入れてくれます。なんだか貧乏くさい店でした。たまに店長のラリーとかが立ってたりして、赤坂のわりにはやたら泥臭い店でしたね。ラリーも店長になった頃はアフロも落としてすっかりオッサンくさくなってて、妙に大人っぽく見えました。そういえば彼も全日本ディスコ協会の全日本ソウルトレインダンサーズのメンバーでしたね。羽の付いたハットかぶってたっけ。男ばかりのむさ苦しいチームでした。(笑)なんつっても勝本会長自らリーダーで踊ってたんですから凄いショーだったですよね。ブラスコンストラクションのムーヴィンかなんかで踊ってましたっけ。ベルが髭つきの鼻眼鏡かけて笑わすんですけど、結構身内ウケっぽかったですね。最後は器械体操みたいに人間ピラミッドかなんか作っちゃって、ようわからんダンサーズだったですね。(笑)ディスコ協会は乃木坂のマンションの一室でした。乃木神社に近いとこだったですね。よくDJ見習いみたいなのがウダウダしましたっけ。確か80年前後に全日本ディスコDJ協会かなんか発足して、またも全国統一の野望に乗り出しましたが、この頃は新宿のDJグループとかが結構な勢力というか力持ってましたから、あまりパッとしなかったなぁ。赤坂といえば、勢いよく現れて勢いよく消えていった幻のディスコ「スーパーコップス・パート2」ですね。テレビ朝日の前だったかなぁ。地下一階のやたらデカイ箱でした。そういえば女性のDJがいましたっけ。モケさんとかいってたような気がします。このお店、女性用のトイレがやたら豪華だったんですよね。ってもちろん私は入ったことありませんからこの目で見たわけじゃありません。すべて当時の彼女のレポートでした。花壇とかあって広々としたデザインだったらしいですね。まあ、踊り場もやたら広くて正面の鏡もデカかったし、中々おしゃれなオーナーだったんでしょうね。そしてこの店で当時の最高のライバルだったジョニーと出会ったんですね。新宿のアフロ小僧軍団 Dancing Team BAD CHILDREN 参上って、乗り込んでいった私達ですが、鏡の前でやたら張り切って踊ってる逆三角形アフロしたヤツが居て、ちょっとしたダンスバトルみたいになったんですね。ジョニーも取り巻きみたいなHis Gangが出てきて、鏡の前では踊りの一騎打ちみたいな状態になりました。で、結局お互いにちょっと認め合ったりして、「じゃあ今度俺たちが新宿へ行くからさ」ってジョニーが言って、それからちょっとした二人の夢が始まりました。ジョニーとのこの時の出会いがなかったら、たぶん私はダンサーなんかにはなっていなかっただろうし、まして後年バンドなんかやっていなかったと思います。それだけ彼との出会いはインパクトの強いものでした。本名・こやまとおる、通称ジョニー、未だに歌っているのかなぁ。一度会ってみたい古き良き時代のライバルです。時代の脈略がありませんが、最後は六本木食堂。六本木交差点の近くにあったこの食堂は、近隣の水商売の人たちのための一杯メシ屋でした。今風に言えばトレーをもってセルフでディッシュをとるブッフェスタイルでした。(う~ん、BUFFETと言えるか?)味はイマイチでしたけど、色々なお惣菜を自分でチョイスできるし、とにかくリーズナブルでした。やっぱ六本木は庶民的なメシ食わせる店がヒジョーに少なかったからね。後年、ここに長崎ちゃんぽんの店ができたんじゃなかったかなぁ。その前はケンタッキーだったかなぁ。ちょっと記憶が曖昧です、時代もかなり飛んでるかもしれませんね。今日は爺のノスタルジック独り言でした。そんなセンチメンタルな気持ちにさせてくれる古きよき時代の戦友たちとの遭遇が続いております。(^・^)
2006年05月31日
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ディスコでグー!全国の70年代ディスコファンの皆様こんにちは。非生産活動推進委員会がお送りする道楽者日記のお時間です。さて、70年代から80年代にかけてディスコで活躍されていた方々を掘り出してきては、ネットで結んで遊びましょう、という大きなお世話、道楽の押し売り、中高年のとんでもない活動を開始してはや半年、続々とディスコ戦士の方々に名を連ねて戴いております「戦友会」ですが、この数日の間にまた数名の懲りない中高年の皆様にご入会頂きました。こうなってくると、非生産活動のクセに生産性を向上させて「戦友便り」の配信を行わなければならないという、遂に道楽者の命題、究極のパラドックスに陥った委員長でございますが、もともと根がいい加減な割にはどーらくには異常に拘るという、部分的勤勉症をその芸風としておりますため、仕事もほったらかして日夜せっせとどーらくにのめりこむ毎日が続いております。(こらこらっ!)ということで、この非生産活動への当局の追及、FBIのおとり捜査、あるいは行政指導による政府の介入などが懸念されますが、とにかくこの身がたとえどうなろうとも道楽者の増殖を目指し、人々の平和と幸福を祈りつつ「戦友便り」の配信に全てを捧げるつもりでございます。(ちょっと危なくねぇ?この感じ)え~、なお、この戦友会は70年代のディスコにおいて玉砕しました委員長の「遺品」の配布が主な目的ですので、皆で集まってナニかをしようとか、ダイレクトメールでナニかを売るとか、あるいは「出会い系」で茶飲み友達を探すとか、そういった類の行為は一切ございませんのでご安心下さい。また、お名前を連ねて頂きました戦友の皆様をネットワークで結ぶとか、サークルで囲むとか、そういった面倒臭いことも一切いたしませんので、仮に戦友同士で意気投合されたような場合はどうぞ勝手に盛り上がって頂ければ宜しいかと存じます。ということで、相変わらずの行き当たりばったり、成り行き任せ、気分しだいで責めないで、というようなことで今後ともよろしくお願い申し上げます。(なんちゃって)しかし、今まで思いつきで制作してきました「戦友便り」ですが、リストも何もなくだらだらと来てしまったため収拾がつかなくなっております。そのうちレビューのカタチで皆様にご紹介しようかとも考えておりますが、なんせ道楽まみれの今日この頃、本業の生産活動などにも追われ、いつになるかはわかりませんので期待せずお待ち下さい。(ノーガキこき始めると長いからね)ということで、今日はこれにて終了です。シーユートゥモロウ、ブラザー&シスタ、今日も一日頑張って下さい。アディオス!
2006年05月30日
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本日の日記タイトルは、先日サイパンにお越し頂きました慰問団代表のYUKI姐さんより頂戴した「慰問袋」の中にあった一冊の本、「オカンとボクと、時々、オトン」リリー・フランキー著のタイトルが気に入ったので、道楽者風にパクらせて頂きました。日記の内容はこの本とはなんら関係ありません。(笑)「ファンク、ファンキー、ソウル」音楽的表現というか、音楽的説明のために用いられるこのような記号は、その音楽とイメージ・概念を頭の中で整理するためのものですが、この言葉の持つ意味は決して万民に共通の概念ではありませんね。これはまあ言ってみれば「きんぴらごぼう」の定義について語るようなもので、「これがホンモノのきんぴらごぼうだ」なんてのは存在しないわけでして、そこにあるのは料理のメニューとして存在する「きんぴらごぼう」という記号でしかありません。日本人ならば殆どの人が「きんぴらごぼう」と聞けば、大体のイメージというかその物を認識できますが、その「味」となると統一できるようなジャンル別けは不可能です。まあ強いて言えば、その食材はゴボウを使用するというような原則があるだけで、その味付けや食し方などは千差万別、各地方から各家庭まで追っていったらキリがありません。最近では「ゴボウ」以外の食材を使用した「きんぴら風」とか「きんぴら煮」とかいうアイテムも登場してきて、「きんぴらごぼう」のコンセプトをより一層難解にしています。(笑)ということで本題に戻りますが、これらのジャンル別けというか記号は、元々はやはり黒人音楽という原則のもとに生まれた表現ですが、その感じ方接し方は千差万別、しかも近年は黒人だけに限らず人種を超えたカテゴリーになりつつあります。でもって私的には、タイトルに現したようにまずファンクがあってファンキー、そして時々その原則のソウルに立ち返るといったような循環プロセスが頭の中に出来上がっております。まずファンクありきってことですか。(笑)私の場合、ファンクというのはかなり重たい音としての概念が強く、やはり代表的な「音」としてはファンカデリック&パーリャメント系のPファンクや、ZAPP、ロジャーなどの脳髄を刺激するような粘りのあるリフが延々と続くようなものとして捉えています。端的に言うとリズムセクションがシンプルでヘビー、お経や念仏、タントラのような詩を繰り返し叫んでいるうちに自己陶酔に入っていける音楽(なんじゃそりゃ)みたいなものをファンク(FUNK)と位置付けております。そしてファンキーというのは、音楽だけにとらわれず、一般社会からはみ出した「粋」とか「洒落」をすべてひっくるめてファンキー(FUNKY)と現します。音楽的にはMake it funkyが全てで、「ファンキーに行こうぜ」みたいなノリです。(よくわかんないんですけど)要するに底抜けに明るくバカになれる楽しい音楽って感じでしょうか。私的にはこの「ファンキー」のルーツは不良少年時代の「シブイ」と連携しておりまして、面白さが適度にブレンドされたカッコよさみたいなものです。(なんだかなぁ~)例えば、煙草を取り出して一服するという場面で、家庭用の徳用マッチの大箱を取り出して火をつけるとか、煙草の箱を真中から縦に割って煙草を配るとか、上から下までビシっとコンポラで決めて、大正時代のじいちゃんの色眼鏡をかけているとか、そんなユニークな発想がルーツにあります。(よくわかんないんですけど)まあ、ちょっと間違えるとfunny になってしまうギリギリのところのカッコ良さみたいなもんでしょうかねぇ。一般常識の世界にチョットだけ飛躍したジョークを体現するって感じです。だから、フーテンの寅さんはファニーなんですけど、ビーバップハイスクールはファンキーなんですね。(これ以上言うと混乱するから止めてくれぇ~)ってことで、音楽的に言えば通常のカテゴリーの中にちょっとした洒落がまぶしてある音楽は全てFUNKYだし、その演奏者の立ち居振る舞いの中に現れる「味」が決め手です。私の時代のファンキーと呼ばれた音楽は、80年代に入ってユーロ化の傾向に進み、音的には俗に言うエレガントな路線に進化して行きましたが、根本的な「洒落」が変わったわけではなく、味付けが今風になったというようなものです。ですから、70年代のダンスミュージック・ファンには80年代のダンスミュージックは少々物足りなく思うのは当たり前で、更に80年代ファンは90年代の「音」が一層デジタルに聞こえるのも仕方のないことだと思います。でも、どれがホンモノのファンキーかって話は「きんぴらごぼう」の話と同じことで、その時代、その地域、そこに集う人々の数だけホンモノの規定があるわけで、それはその人なりの思い入れの上に成り立つものでしかありません。ですから、最後の取りまとめが「SOUL」なんですね。つまり「きんぴらごぼう」=「ソウル」ということですか。(笑)ファンクもファンキーも踊りもステップも、時々ソウルで統一していきましょう、ってことが今日の日記の落ちです。じゃあどこからどこまでをソウルと呼ぶの?じゃなくて、どこからどこまでソウルにしてしまうか、というのがSOULファンの使命なのです。ジジイの屁理屈、本日もご清聴ありがとうございました。
2006年05月29日
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中高年黒人音楽同好会の皆様こんにちは。潜伏期間23年目の道楽親爺ロニーです。この数日で非生産活動推進委員会主催の戦友会のメンバーが増えまして、いよいよ非生産活動が忙しくなって喜びを隠せない変なおじさんです。昔から何でも思いついたらすぐに始めちゃうところがお調子者らしいところなんですが、あまり物事を深く考えないで行動してしまうせいか、しまいには収拾がつかなくなってしまうなんてこともよくあります。(笑)この戦友会「戦友便り」も、元々は私の古いビデオのコレクションをDVDにコピーして保存していたのが始まりだったのですが、せっかくなら同じご趣味(笑)をお持ちの方にも楽しんで頂こうと思ったのがきっかけでした。あとは、私の時代のSOUL=DISCOファンが夢中になった「モノ」をばら撒いていけば、今の時代のファンの方々にも少しは昔の雰囲気を味わっていただけるかなというような思いもあります。私は現役引退(笑)と共に故郷ニッポン(笑)を後にして、異国の地に移り住んでしまったのでその後のDISCOやSOULがどうなったかなど知る由もなく、最近になってようやく少しずつリハビリが始まった(笑)というような状況でございます。それでも、あちこちから入ってくる情報の中には、「70年代DISCO」を神話(笑)や伝説(笑)などにしてしまった内容のものなども混ざっており、なんかちょっと違うんじゃねーの、とか思ったりしていたわけです。まあ、だからといって、そんな処に出張っていってノーガキこくほど暇でもないし、今更枯れた爺が出て行って「むかしはなぁ・・・」とか言ったところで、所詮くだらないことで見栄張るようなもんですから、そんなことはほっといて自分では自分なり、それなりにノスタルジックな気分を楽しんでいたわけです。ところがその内に、どうもそんな違和感をもっている爺は私一人ではなかったということがわかってきまして、彼方此方から昔を語る活きの良い爺が現れてきては意気投合してしまい、爺は爺なりに「こりゃ、いっちょやったろかい」などと久々に道楽者の血が騒いだのでした。そこで思いついたのが「戦友便り」でして、当時の「モノ」を実際に見てもらうことこそが、爺のノーガキに勝る最善の方法ではないか思ったわけです。当時の遊び人たちには、自分がどんな時代でどんな感性を持って遊んでいたかの検証(笑)というか自分史の感傷(笑)みたいなものになるし、当時を知らない人たちにとっては直接自分の目で見て感じてもらうことができる資料にもなると思ったんですね。評論家や偉い先生方がどうノーガキをたれようが知ったこっちゃありませんが、そんなくだらねー評論や偉そうなウンチクを真に受けて納得してる若者に爺のコレクションをばら撒いていったら結構面白いことになるかななんて思ったりしてます。いうなれば更なる道楽者を増殖させようという遠大な計画でもあります。(笑)ということで今日はKOOL & The Gangの2001年シカゴ・ライブを増殖させています。(笑)しかしまあ、思いつきで始めたことなもんで、今までどなたにナニを送ったかも覚えておらず、今更ながら整理を開始した今日は平和な日曜日です。とにかく道楽親爺のコレクションはかなりの量でございまして、このチョイスと申しますか、ジャンル別けとかも中々に工夫がいるわけです。(そうなの?)まあ、これが結構楽しい道楽なんですが、いくら道楽の押し売りだからって、何でもかんでも送れば良いってものでもありませんからね。年代や趣味によっては「お宝映像」どころか単なる「ゴミ」になってしまう場合もあるわけで、一応親爺は親爺なりに戦友の皆様の時代背景など考慮しつつ、選曲やジャンルの選定などして皆様にお送りしております。ということで、ご興味のある方はメールでお知らせ下さい。いつでもお気軽にどうぞ。ただ、SOULとかDISCOとか偏ったジャンルですので、体質的に合わない方は単なるゴミDVDにしかなりませんのでご注意下さい。(笑)でもって、今日のノーガキですが、とにかくこの「戦友便り」は皆様の感性を触発させるためのアイテムであり、道楽親爺からのメッセージも含んでおります。WATTSTAXのテーマでお馴染みのドラマティックスの「ワッチャシー・ワチャゲット」(What’cha see what’cha get)=見ることは得ること、「百聞は一見にしかず」ってことが道楽親爺からの基本的メッセージです。まずは「皆様の五感を使って感じて下さい」ということです。「見る、聞く、嗅ぐ、触る、食す」ですね。そして何よりも大切なことは視点はひとつではないということです。美術史家ジョン・バージャーの「イメージ」(原題Way of seeing)の言葉を借りれば、見方にはいくつもあるということです。美術を見るときには3つの法則があり、ひとつは作者の意図、二つ目は見る側の要因(とりわけジェンダー)が関係し、三つ目は女性は常に見られる側で、男性は見る側だったことを忘れてはいけないといっています。よく視点を変えてみるとまったく別の世界が広がるとか言われますが、まずはその基本的な視点というものを持たなければなりません。たとえばアメリカ・メージャーリーグは野茂投手が行くまでにも日本で中継はしていましたが、つまらないものでした。視点がなかったからですね。で、イチローが行ってから視点が大きく変わりました。大げさかもしれませんが、要は自分の関心の在処(ありか)が明らかになったということです。愛着みたいなものでもありますね。視点を変えると生き方も変わります。黒人女性で初めてアカデミー賞を取ったハル・ベリーは3年後に「キャット・ウーマン」でゴールデン・ラズベリー賞の最悪女優に選ばれて、なんと授賞式に参加しました。そのスピーチで「良き敗者になることができなければ、良き勝者になることもできない」と語りました。そして「あなたたちには二度と会わずにすみますように」と言って会場を後にしました。特に今のような情報過多の時代にいると、一方向の情報に乗ることが「楽チン」なので、大きな流れに身を委ねることが潜在的に「安堵」と錯覚しがちです。そしてもっとも大事なことは、その感じ方まで人の手に委ねてはいけないということです。あなたの感性はあなたのものなのですから。
2006年05月28日
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今日はもうひとつオマケで道楽親爺の回想から、歌舞伎町ファンキーディスコQ&B時代のひとコマをお送り致します。昨日までのお話にありますように、とにかく朝から晩までSOULだファンキーだ花だ提灯だとバカ騒ぎの毎日を送っていた私でしたが、本当に当時は何も考えずにただひたすら黒人になりきることと踊りで注目を集めることだけが全てでした。ですから店の中にいるときはもうとにかく暇さえあれば踊ってたし、寝てるとき以外はソウル漬けの毎日でした。そのうちそんな私に憧れて群れ出す常連が現れ始め、気が付けば周りはアフロ小僧だらけになっておりました。「弟子にして下さい」とかやって来るヤツもいましたね。大笑いですね。「弟子って、お前、DJかなんかになりたいの?」「いえ、ボク話下手だし、人前だと上手く喋れないからDJは無理です」「無理ですって、じゃあナニをしたいワケ?」「ロニーさんみたいになりたいんです」「俺みたいになりたいっつったってなぁ、で、どーなりたいわけ」「踊りが上手くなってホンモノのSOULマンになりたいんです」「ホンモノねぇ~」バカがバカに憧れるんですから、結局師匠も弟子もナニを持ってして師弟関係にあるのかさえわからずになんとなく群れていったというような感じですか。まあでもこの気持ちってわからなくもなかったですね。実際に自分だってディスコで出会ったブラザーや、プレイハウスに出ていたバンドのヴォーカルに憧れてこの業界に流れ込んで来たのですから、「なりたい」っていう実体なんて形のあるものではありませんよね。自分の目に移った「カッコいい人」みたいになってみたいって漠然としたイメージですから、別にその人間性とか、中身とかじゃなくて、要はそんな風になってみたいという、いうなれば変身願望みたいなものでしょうか。だから自分の立場で当てはめてみて、私自身が憧れた黒人アーティストって誰かなって振り返ってみると、そのきっかけになったのは新宿ビバヤングのチラシに乗ってたアフロの黒人おねーちゃんとか、ビッグトゥゲザーの夜のCMでバンプ踊ってた黒人のカップルとか、プレイハウスに出ていたハーフのヴォーカルとかなんですね。新宿プレイハウスに出ていたバンドは、後に「風林火山」ってバンドでデビューしたんですけど、全員ハーフのヴォーカルが三人いる面白いバンドでした。その中の黒人ハーフで長身のロニーと呼ばれるヴォーカリストに私は憧れて、お名前も頂戴したというわけです。何故か後年はDJロニーの方が業界で名が売れてしまったんですけどね。(笑)同じDJ仲間にジョイ吉野っていうヤツがいたんですけど、彼も同様で、昔赤坂マンハッタンでDJやっていたジョイ・ジンってちょっとしゃくれあごのDJに憧れて、勝手にジョイ吉野と名乗っていたんですが、後年業界ではジョイ=吉野になっちゃいましたね。とまあ、こんな具合で、よくよく考えてみたら、自分たちが業界に入るきっかけになった「憧れの人」はメージャーなアーティストじゃなくて、自分達の遊び場の中のヒーローというかアイドルみたいなものだったんですね。ですから、これはやっぱり不良の系統に繋がるわけで、当時の暴走族やツッパリグループなども、別にプレスリーやジェームスディーンに憧れて不良になったわけじゃなくて、その界隈のカッコイイ先輩とかに憧れて入っていくみたいな流れだったのではないでしょうか。そのうち、そのカッコよさを追いかけていくと、結局はプレスリーとかストーンズとかビートルズとかキャロルとか、そんなファッションに辿り着いていくみたいなことですね。私の場合も似たようなもので、プレイハウスのバンドマンに憧れて真似していくうちに、そのルーツであるSOUL MUSICのアーティストに次第に傾倒していった、というか影響をうけていったという感じです。その頂点にあったのがアース・ウィンド&ファイヤーでしたね。この話は長くなるので、これは別の機会に改めてします。さて、Q&Bで群れ出したアフロ小僧たちは、DJロニーを担いで勝手に盛り上がっていったのでした。どうもこのノリはツッパリ小僧の枠を抜け出ていなかったような気がしますね。まずはチームを作ろうってことになって、もちろん誰が言い出したのでもなくなんとなく自然な流れでした。ダンシングチーム・バッドチルドレンDancing Team Bad Childrenまあ、ネーミングはまあまあでしたが、刺繍で作ったワッペンというかパッチなんか作り出した頃には、しっかりと暴走族のシステムを踏襲したりして売りさばくヤツまで出てきて、一体ナニやってんだ、ってな感じでしたね。(笑)そのうち人数もどんどん膨れ上がってきて、歌舞伎町の裏通りQ&Bの前にはアフロ頭のバカがいつも屯するようになってくると、私自身知らないヤツらまでがステッカー貼って踊ったりして、自分の知らぬ間になんだか勝手にチーム化していってしまったんですね。ただ、目的がありませんから無害と言えば無害ですが、周りから見たら危ないグループでしかなかったかもしれません。その当時の後輩で相棒だったトオルってヤツが私以上にやはり「新宿」にこだわっていたせいもあってか、アフロしたツッパリみたいな感じでもありました。当時の六本木派がニットのスーツや仕立てのファッションでチャラチャラしていたので、「オレ達はジーンズでいこう」と言い出し、ニューヨークのコーラスグループ「The Voice of East Harlem」のジャケットの真似を始めました。(注)このグループは映画「SOUL TO SOUL」に出演してます。全員ジーンズにTシャツでそれが自然でとてもカッコ良いです。ジーンズだといわゆるハイヒール(ポックリみたいなのね)は似合わないんで、私とトオルが当時流行り始めていたハイヒールスニーカーを履き出すと、翌週には全員が同じスニーカー履いていたりして笑っちゃいましたね。東口の靴屋がびっくりしてました。毎日アフロした変なヤツが買いにくるんで、不審に思っていたんじゃないかな。こんな群れ出したアフロ軍団が夜な夜なディスコに出没するんですから、そりゃ名前だって売れていくのは当たり前ですね。ちょっとオーバーかもしれませんが、ディスコ版クールスみたいな感じですか。(笑)まあ、そんなこんなで知らぬ間にお山の大将になっていてしまったお調子者でした。
2006年05月27日
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全国の中高年の皆様こんにちは。前も後ろも上も下もしっかり中高年、慎んでお慶び申し上げます。「老け込むには早すぎる、連れ込むには遅すぎる」ということで、しっかり綾小路きみまろさんのパクリで始まりました今日の道楽者日記ですが、昨日のお話の中で疑問を持たれた方がおられるようですので、今日も引き続きディスコDJ&ダンサーの実態について語って参りたいと存じます。(なんちゃって)え~、当時の大卒初任給が10万円未満、DJのギャラが手取りで約20万円、しかも20歳そこそこの若造がかなり破格な給料を頂いていたわけですが、ではなぜに銭湯通い、店の賄いメシ、深夜喫茶で始発待ちなどの貧しい生活をしていたのでしょうか?それは、貰った金の殆どが「遊び」に注ぎ込まれたからなんです。(ふ~ん)以前にもこのブログで何度も書いてまいりましたが、何故ディスコで働くようになったか、あるいは何故DJなどという職業で舞い上がってしまったかといえば、それは楽しい生活を思い切りエンジョイしたかっただけのことで、決して安定した生活、あるいは将来の展望、人生設計などを持っていたからではありません。中にはセコセコと貯金をしながら生活費を節約し、将来の生活に備えて頑張っていた仲間などもおりましたが、私の回りに限って言えば、持ってるだけ、ありったけの金を使って遊んでしまうという、デタラメな生活に快感さえ覚えるようなゴミのような奴らばかりでした。それは誰だって良いアパートに住んで、最新の電気製品などを揃え、可愛い彼女と愛の巣を作りシヤワセな暮らしをしたいなどと考えるのは当然のことですが、それよりも何よりも毎日のスリルと興奮に身を置くことの面白さにかなうほどの夢ではありませんでした。日々の生活は最小限に切り詰め、手にした大金は全て道楽に突っ込んでいく、このような豪快なバカさ加減こそがお調子者の真実の姿だったのです。その内訳は、衣装代、アクセサリー代、レコード代(中古盤、新譜含めて月に10枚以上は買ってましたね、個人所有用で)、その他がディスコめぐりと彼女と遊ぶホテル代でした。もうこれだけだって手取り二十万じゃ足らんもんね。まあ強いて言えば私ゃ下戸だったので、酒代に余分な経費がかからなかったってとこが幸いだったかもしれません。これで大酒飲みだったりしたらたぶん20代で廃人になっていたのではないでしょうか。(笑)まあ、こんなバカ騒ぎの20代を過ごした私ですが、とことん遊び過ぎたおかげで、その後業界から足を洗った私が中年の親爺と化して行く中で、ブランドとか装飾品とかにまるっきり興味が湧かなかったのは、今にして思えばラッキーだったのかも知れません。見栄張るようなおしゃれ自体が結構バカバカしくなってましたからね。そんなバカ騒ぎの毎日がお祭りのような生活をしているのですから、家はただ寝る場所でしかないし、食事は空腹を満たすだけのことでしかありません。そんなことより、ディスコの中で自己顕示欲を発散させることが自分の生活の全てでした。昨日の日記にも書きました「日課」をご覧頂ければお解りになると思いますが、とにかく年中無休四六時中踊って遊んでるのですから、これで踊りが上手くならなければおかしいわけで、どんなにディスコが好きだからって、1ヶ月30日間毎日ディスコに通って、開店から閉店まで踊り続けることのできるヤツなんているわきゃありませんね。しかもお小遣いまで貰っていたんですから、こんな素晴らしい人生は無かったですよね。確かに「才能」とかもありますが、スポーツ同様、毎日の繰り返し反復練習こそが上達の道ですから、DJとダンサーはセットのようなもので独学と練習で実力はどんどん向上していくわけです。それともうひとつ大事なことは「見られるている」という意識ですね。ここらがプロの道への入り口で、人に見られることに自分の意識が慣れていくことで演じる自分が輝きを持ってきます。毎日毎日大勢の客の前で踊りをご披露していくうちに、見られている自分が次第に出来上がっていきますから、注目を集めるオーラみたいなものが自然に身に付いていくわけです。新人のアイドルとか俳優なんかも同様で、人前に出れば出るほど演じるキャラクターが出来上がっていくんですね。さあ、そうなってくるとバカのカリスマは益々調子付いてきますから、世界は俺を中心に回っているのだ、くらいなとてつもない幻想の世界へと導かれていきます。「まぁいにち~まぁいにち~ボクらはキュービーの、店で踊って嫌になっちゃうよ~」てな具合で、自分の店で人気者になるだけじゃ収まらなくなってきたバカのカリスマ教祖様は、バカな子供たちを引き連れて夜な夜なディスコに繰り出したのでした。当時から新宿派、六本木派と二分された勢力圏の中、数少ないSOUL情報を求めてあちらこちらのディスコを徘徊しては、「この店(ってかDJとか踊りにね)には勝った」とか「この店は結構タメだね」とか勝手なナマイキをこいてランク付けしたりして遊んでいたわけです。それでもソウルに関しちゃ、どうしても情報の中心に存在する六本木エンバシーを避けて通るわけにはいかず、まあ最低でも週に1回は通っていましたかねぇ。ドン勝本さんはソウル小僧達の頂点に君臨していたし、その頃設立された全日本ディスコ教会の金看板も、ディスコ業界では神戸の山口組のような輝きをもっておりました。(ロゴはかなりダサかったけどね・笑)ただねぇ、エンバシーには時々だけど本当に踊りの上手いブラザーがやって来てて、彼らの踊りはもの凄い刺激になりました。いわゆるファンキーフルーツとかロボットとか、アクロバティックな踊りを見せてくれるんだけど、とにかく鳥肌が立つほどカッコよかったですね。そんな生の踊りを見せられた日には興奮してしまって、すぐにタクシーぶっ飛ばして新宿に戻って、裏口から店に忍び込んで頭に焼きついた踊りをコピーしましたっけ。それだけ純粋に踊りに夢中だったんですね。ただね、それでプロのダンサーになろうとか、これで身を立てていこうとか、そんなことは一度も考えたことはありませんでしたね。ただ目指していたのは黒人になること、っていうか黒人みたいな日本人になることだったのかな。(笑)同じファッション、同じ業界の中で一番になることでしたから、突き詰めて言うとバカの一番になりたかったってことですか。(笑)第一、プロのダンサーとか言うけど、当時はそんなものディスコとは別世界のことだと思ってましたからね実際。だから、ディスコダンスコンテストとかで本気で振り付けとか考えて練習してきたヤツらとか見て、バカじゃねーのとか思ってましたからね。お前等はプロのダンサーでも目指すのか?みたいな感じです。だってSOULダンスなんてのは、その時の雰囲気や曲のノリとか、ビートで煽られて沸き起こるFeelingこそが踊りだと思っていましたから、振り付けまでして踊るなよ、みたいなね、こんな高々ディスコのダンスコンテストで何ムキになってんだよ、みたいなある意味自分たちを卑下したような感情も持ってました。その時はまさか自分がそのダンサーになるとは思ってもいませんでしたけどね。(笑)とにかく、マイナーで不良なことがSOULだと思っていたし、世間一般とは次元の違う世界で生きていることに生き甲斐を感じていたわけで、それをメージャーに持っていこうとする勢力と言うか空気にはことごとく反発したものでした。まあ根本的に不良の精神は今も変わっておりませんが、少なくとも金のためにアフロにジャンプスーツ着てYMCAは踊れなかったですね。せめてものプライドってヤツだったと思います。後年コメディアン系に流れていくことで多少は妥協しましたが、それもアフロを落としてSOULマンを廃業してからのことでした。(笑)
2006年05月26日
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あれから30年~、ディスコに狂った中高年の皆様、姿形は変われどもあの青春の日々、あの情熱は今もしっかりと心の中で生き続けているのではないでしょうか。艶やかな衣装を身に纏い三日と空けず通い倒したディスコティック、めくるめくような出会いの数々、煌びやかな照明、スポットライトに照らされて踊る恍惚のひと時、夢のような時代を体験された中高年の皆様、慎んでお慶び申し上げます。というわけで、今日は前回好評だった「ディスコDJ&ダンサーの正体」の続編です。(ウケるとすぐ調子付く性格は道楽者特有の体質です・笑)70年代中期、ディスコブームの到来に全国的な規模で新しいディスコが続々と開業していきました。本当に雨後のタケノコのごとく、新宿~六本木はディスコの街と化していったのです。まずは大型店の進出で一気に大衆路線化していったディスコは、それまでの暗い雰囲気から明るいエレガントな遊び場へと進化して行きました。新宿歌舞伎町だけでも、ざっと数えても10店舗以上はありましたからね。ちょっとしたスナックやバーでさえダンスフロアを作って「ディスコ」を名乗ったりしてましたから、その勢いはまさにとどまる事を知らないというような感じでした。さてここで問題です。(笑)70年代初頭、ディスコのルーツでもあります「踊り場」は数店しかなかったのに、たった数年の間になんと3倍以上に膨れ上がったディスコ、ではこれらの店のDJは一体どこからやって来たのでしょう?「そりゃ、DJ養成所みたいなところから来たんじゃねぇの」ブー!不正解。「ラジオとかのDJがアルバイトでやってたんじゃないの」ブー!不正解。「噺家の見習いとか芸人の見習いがやってたとか?笑」ブー!不正解。でもちょっと惜しい。(えっ?!)当時は大型喫茶店でサテライト風のDJを入れている店がいくつかありました。ここでDJをしていたのが、噺家さんの見習いとか、ラジオ局の見習いアナウンサーとかでした。でもディスコとはちょっと違います。では正解です。それは、ディスコファッションに身を包んだ「踊り場」就業経験者が新装開店と同時にそれらの店に潜り込んでいったのです。えっ?当時はSOULだのFUNKだの言ったところで、いわゆる経営者側・マネージメントサイドでそんなもの知ってる者はほとんどおりませんでしたから、ディスコの老舗みたいな「踊り場有名店」で働いていたことがあるとか、誰それさんの紹介だとか、その程度で即決したというのが実情です。(それって単なるハッタリとちゃうんかい)私の場合で言えば、当時DJをやっていた先輩の口利きで、たまたま以前働いていた同系列の支配人と顔馴染みだったということもあり、即日採用、翌日から新宿歌舞伎町の「Q&B」というディスコのDJとなりました。もちろんそれまでに皿回しの経験はありますよ。いくらなんでもまったくの未経験ではちょっと無理があります。とはいうもののやはり決め手になったのはその容姿ではなかったでしょうか。っていうと私がカッコ良い男だったみたいに聞こえますがそうではありません。アフロヘアにニットの黒人ファッション。ただそれだけです。そう、ただそれだけでこいつはディスコ音楽を知っているんだ、ということでした。だって、他にそんなこと知ってるやつがいないんですから比べようもありませんネ。(笑)当時アフロヘアとか黒人ファッションに身を包んだ多くの馬鹿者、ゴホン!失礼、若者達の多くがこの程度のハッタリでディスコを徘徊していただけですね。正直言ってこのディスコブームの走りだった時代は、客がそこそこ入ってさえいれば適当にヒット曲回すだけで皆踊ってましたから、別に誰でも良かったんですね。ただ、そのヒット曲でさえ把握できるようなスタッフが少なかったし、レコードの買い付けだって当時は輸入盤が殆どでしたから、キャバレー上がりの従業員がそんなことわかるわけがありませんでした。おおきく言えば、みんな学びながら手探りで進んで行ったってところじゃないでしょうか。だから、当時DJで客を呼んだとか、選曲の素晴らしさ、ベシャリの素晴らしさが店の「売り」だったなんてのはまず胡散臭い話ですね。ただ、同じ店でも、蝶ネクタイに黒のベスト着たリーゼントのにーちゃんがレコード回しているより、アフロヘアにジャンプスーツとか着たあんちゃんがブースにいた方がカッコ良い、ってか、絵になりますよね。ましてそれがベース(基地)からやって来た本物の黒人だったりしたら、それはもうスゲーことでした。英語喋ってるし。(笑)実際の話、ベースではこんなDJのアルバイト先が取り合いになってたってのも事実です。だから中にはどーしょーも無いヤツも結構いましたね。ただラリッてるだけとか、ただベラベラ喋ってるだけとかね。でもお客にしてみれば、この人はホンモノだからとかプロだとか勝手に思い込んじゃってるわけですから、DJさまのお言葉をありがたがったりしてましたね。そんな常連が増えてくるとしっかりその気になってしまうのがお調子者たる所以です。そんなもんでした。(笑)まあでも根が好きなことですから、それはそれなりに好きな道に突っ込んでいったってのも本当のことで、大好きなアーティストやカッコイイ踊りは、誰よりも早く習得したかったし、そうなると自然にビルボード誌とかベースのブラザーと仲良くなってPXからモノを仕入れたりとか、少ない情報の中から一生懸命先を争って情報収集にあたりました。(笑)ということで、私のQ&B時代の日課(笑)をちょっと振り返ってみましょうか。夕方3時は従業員の出勤時間です。点呼の後、皆で清掃して営業準備に入ります。DJの出勤時間は午後6時開店時間なのですが、従業員と一緒に賄いメシを食べるためにマジメそうなフリをして午後5時には出勤します。(良い給料貰ってるくせにセコイヤツです)DJブースの掃除などしてるフリをしながら5時30分の食事時間までウダウダします。食事の後は支配人とレジ係だけ残して全員でチラシまきに行きます。歌舞伎町から東口あたりまでウロウロしながらビラを配って歩きます。アフロ姿の派手なあんちゃんがビラをまくと年配の方々はビビって敬遠しますが、若いおねーちゃんたちは「髪の毛触らせて~、キャーっ!」とかいって喜んでくれます。テキトーに捲き終わると、主任のおごりで喫茶店に入ってコーヒーなど飲みながら一服してウダウダします。営業開始6時過ぎには全員で店に戻っていよいよ営業開始です。すでに常連の不良連中が数人入っていますが、DJさまは高飛車な態度で迎えます。「おまえらちゃんと学校行ってんのか?」(あんたに言われたくない)メインDJは一番客の入りが多いところで出演となりますので、それまではウェイターとか見習いとか、たまに支配人などが嬉しそうにブースに入ってサラを回します。DJさまはフロアで踊りの練習です。憧れの眼差しでその姿を追うアホな不良少年たちのために、時々ノーガキをこきながら踊りの手ほどきをしたりしてウダウダします。ようやく店内が賑わってくるあたりでDJさまの登場です。デタラメな英語でワーワー言いながらフロアを盛り上げます。溜まったリクエスト用紙に目を通し、DJさまのお気に入りが入っていればまず優先して回します。常連のSOULファンがひと通り踊ったあたりで、子供達のリクエストをかけます。フロアはメンバー総入れ替えと言う感じで、DJさまも、後は見習いに交代します。子供用ステップタイムの間は近所の喫茶店で彼女とウダウダしたり、近隣の店の周りを威嚇して歩き回ります。「俺を誰だと思ってるんだ」(単なるバカです)小一時間ほどウダウダした後、店に戻ってフロアに出て常連たちを前にこれ見よがしに新しい踊りなどを披露します。客に混じって踊りながら、今日は可愛いおねーちゃんが来ていないかなぁ、などと物色します。そんなこんなで気分が乗ってきたらDJ交代です。また自分の好みの曲を適当に選びつつデタラメ英語で「ライノン!ワオーッ!」とか叫んですっかり黒人に成りきって自分勝手に盛り上がります。適当に満足したところで晩御飯のお時間です。控え室に行って賄いメシを食べます。一服してちょっと休憩です。食後の運動にフロアで踊ります。ピーク時を過ぎるとまばらなフロアは常連しかいません。ここで皆様に踊りの手ほどきなどして遊びます。更に昔のヒットなどをかけさせて古いステップなどを知ったかぶって踊ったりします。12時を過ぎると終電組が一気に引き上げて、店内は新大久保方面に向かうカップルしか残っていませんのでスローバラード特集で盛り上げてあげます。ってか普段は聞けないスローを、アルバムの中からチョイスして勉強のために聞きます。おっ、こいつはちょっとカッコいいじゃんとかいうのがあれば辞書を片手にタイトルなどを覚えます。午前2時閉店。この後は始発待ちですから、金の無いときは深夜喫茶でウダウダと暇を潰しますが、ちょっと金に余裕のある時は深夜営業のディスコに繰り出します。他店も深夜は客が少ないのでアフロ小僧のSOULマンが踊れば異常に目立ちます。深夜に残っている客の大方は結構な遊び人たちですから、「あのSOULマンは誰だ?」とか「結構シブイ奴らじゃん」とか囁きが聞こえます。当然じゃないの、くらいな態度でDJブースに向かい、さっき覚えたばかりのスローナンバーなどをリクエストします。当然、そこのDJだって自分と似たり寄ったりですから、そんなアルバムの中のマイナーな曲など知るわきゃありません。すかさず、アルバム名などを指摘してハッタリこきます。「Q&BのDJらしいよ」とか噂にでもなればしめたものです。これで次第に名前が売れていくわけですね。夜が明ける頃、始発電車に乗って帰宅。「ああ、今日も楽しかったね」と満足して爆睡。空腹感で目覚めると銭湯の開く午後3時。おっと寝坊したぜ、とばかりに飛び起きて風呂屋へ行きます。おおかた朝まで遊んでますから風呂に入るのも3日に一度くらいが精一杯です。(汚ねぇーなぁ)ですから常にデカイバッグにはシャンプー&リンス、髭剃り、アフロレイキ、などの生活用品が入っており、彼女とデートの日などはホテルでしっかりと洗浄します。(笑)当時のソウルファッションにショルダーバッグはつきものでした。その理由が何故かはお解りいただけたかと思います。
2006年05月25日
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2006年5月16日現地時間午後2時30分サイパン島に慰問団が到着致しました。慰問団メンバーは、数少ない70年代ディスコ戦士のための博物館を設立された、千葉県千葉市でディスコZOOMを経営されておりますI社長と美人秘書Y嬢のお二人でございました。現地で出迎えました非生産活動推進委員会代表の私は、まずはお二人を慰霊のため戦跡へとご案内申し上げました。そして今回の慰問の最大の目的であります個人的ODAによる人道支援のため、一行はサイパン最大の繁華街ガラパン地区に繰り出したのでありました。(ドッカーン!)まず一行が目にした「ここがあの有名なブルー○グー○です」の看板に、「おおっ~」と声があがり、更にその横の手書き看板「第一興商のカラオケ・ここです」の文字に一同はひれ伏したのでありました。すでに委員長の日記でご紹介済みの恐怖のカラオケ店ですが、慰問団のお二人にとっては未開のジャングル、秘境への挑戦、水先案内人である委員長に無理矢理背中を押されてねじ込まれたのでした。ドアを開いた途端ミラーボールの淡い光に彩られた店内、虚ろなテレビモニターに映し出されたNHKの歌謡ショー、ど~んと広い店何に恐る恐る引き込まれていく3人のもとへ比国コンパニオンのおねーちゃんが登場、隅の席に案内されました。「聞きしに勝る悲惨な店」を実感されたZOOMの社長&美人秘書。「よし俺がこの店を支えてやる」の掛け声のもと、バーボンを一気に煽ったのでございました。口開けの客だと言うのに挨拶にも来ない店主にわき目も振らず勝手に盛り上がる慰問団一行。何気なくカウンターに目をやると、店主はインターネットの野球情報に釘付けです。「2対2で同点、今夜の阪神は打つでぇ~」客を客とも思わぬ態度。店を店とも思わぬ客。どっちもどっちの悲惨なカラオケ屋の夜、慰問団は個人ベースのODAを立ち上げてこの店を救おうなどとトンでもない与太話で盛り上がってしまいました。とそこへ観光客のジジイ軍団が数名迷い込んできて勝手に盛り上がり、古い演歌などわめき始め、更に地元の変なジジイがひとり紛れ込んできて「アメリカンパイ」などというとてつもなく長い英語の歌を歌いだしました。「この歌なんだっけ?」「パ~イ、パ~イ、アメリカンパイ、ってアメリカンパイじゃないの」「それにしても長いねこの歌」「早くやめて静かにして欲しいよね」「あれっ、これジャックダニエルじゃないじゃん」「うん、ボトルは以上に似てるけど、違うね」「おい、これバーボンじゃないぞ」とそこへとってつけたようなフルーツ・オードブルのサービス。「これはメロンか?」「パパイヤデス」「このオレンジちょっと小さくネェ?」こうして慰問団と委員長のサイパンの夜は更けて行きました。(なんのこっちゃねん)ということで、個人的ODAにより、千葉のSOUL DISCO ZOOMの支援のおかげで2日間は満員御礼でした。相変わらず隣の食堂から出前取ったり、たこ焼き食ったりしている不届き者もおりましたが、まだこんな店があるということで殺伐とした生活を送る道楽者たちにとってはなぜか「ほっとする」ひと時でもありました。ということで鼻の下が15cmほど伸びております委員長の姿をご紹介致します。撮影はあんじぇり~なYUKIさんです。(笑)ちなみに某ディスコの社長の画像もあるのですが、肖像権の侵害などで訴訟になる可能性もありますので今回は伏せておきます。(爆ドッカーン!!注>ちょっといかがわしそうな写真ですが、決してそのような類のお店ではありません。(そのようなって、どのような?)明るく健全なODAによる支援により現在も営業を続けております。ヨカッタ、ヨカッタ。
2006年05月24日
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What’s happening? Brothers and sisters.全国のディスコファンの皆様こんにちは。ディスコ戦没者慰霊団代表のロニー爺です。さて今日は70年代を疾走したディスコの華、DJとかダンサーとかの正体についてお話ししてみましょうか。まあ、芸能関係ってのは概ね似たようなもんだと思いますが、傍で見るより「芸」についての知識なんてものは案外いい加減だったりするわけでして、ディスコのDJだからSOULについては何でも知ってるんだろうとか、ダンサーなんだからどんな踊りでもこなせるんだろうかとか、回りが勝手に思い込んでるだけで、実際にはアマチュアというか、常連みたいな客の方が数倍も詳しかったり上手かったりするわけです。特に当時のディスコの勢いというか熱狂振りは尋常ではありませんでしたから、毎日毎日仕事に来てるのか遊びに来てるのかわからないような状態だったし、それで当時の水準から言えば高額な給料を貰っていたのですから、まともに音楽の勉強をしてステーション(ラジオとかTVのことですね)のDJになろうなどといった志を持った奴などいるわけがありません。もちろん、まったくいなかったとは言いませんよ。可能か不可能かは別として、そんな夢を持っていた連中も少なからずおりました。以前にもお話ししたように、ディスコDJになっていく経緯なんてこと自体が非常にいい加減なものでしたから、ほとんどの連中が成り行きでブームに乗っていったというようなところではないでしょうか。ウェイターやホールの仕事より楽でカッコ良さそうだ、しかも金回り女回りも良さそうだ、ぐらいのモチベーション(笑)ではなかったでしょうか。強いて言うならば、DJというポジション獲得までは、たとえそれが建前であろうと本音であろうと少なからず音楽の勉強、いわゆるSOULミュージックや踊り(ディスコダンス)の知識を一生懸命になって蓄積していきますが、一旦DJになってしまえばあとは「芸」そのものの向上よりも、待遇の向上を求めていくようになっていきますから、いわゆる「売名行為」に成功した者がより良い生活を営むといったような、非常に俗世間的なハッタリの世界となるわけです。まあ、こんな状況が後に仁義なき戦いDJ抗争事件(笑)を生み出すことになっていくのですが、その当時を生きていた誰もがそんな先を見る余裕さえないほどに毎日が刺激の連続であったことも確かです。ソウルとか踊りとかディスコにハマっていった者の原点と言えば、それが「カッコ良かった」ということと「心地良かった」という二つしかないと思うんですね。根本的には。それ以外の理屈は「後付け」(笑)で、やれ黒人文化がどーたらとか、人種差別問題がどーたらとか、ブルースの発祥がどーたらとか、そんなノーガキは「なぜ自分の心が惹かれたのか?」という疑問を追及していくうちに浮き上がってくる意味付けでしかないわけです。(って言っているお前が一番ノーガキ多いんじゃねぇか)カッコ良さの理屈なんてありませんよね。「感性」って言っちゃえばそれだけのことで、感じたところがツボだったというようなことです。ちょっと面白いのは、このカッコ良さの系図みたいなものがあって、黒人アーティストに魅せられてその真似をするヤツが出てきて、今度はその真似したヤツに魅せられてその真似をするヤツが現れる。これを繰り返していくうちに、その大元の黒人アーティストより、真似したヤツの方が有名になっちゃったみたいな現象が起こったりして、そうすると今度はその大元の黒人アーティストを崇拝するようなヤツが現れてきて、真似したヤツをこきおろす、「それは正統派じゃない」(笑)とかね。まあ、評論家とかマニアみたいな方々に多いのですが、自論の押し売りみたいな感じですか。白黒はっきりさせろ、みたいなもので、人の感性に白も黒もないわけで、彼らの理論の根本にあるのは、その道、あるいはそのジャンルで自分が一番であるという権威付けでしかないんですね。所詮、音楽や踊りみたいな芸能は古典とか伝統芸能は別として、一般大衆の娯楽なんですから、その感じ方まで教える必要はないわけですね。案外アーティスト自身もそれほど深く考えていなかったりしてね。所詮は道楽者ですから、楽しいことを楽しんでるだけみたいなとこが本音だったりします。ここら辺も大変に面白い現象と言いえますね。私の実体験も踏まえて言えることですが、いわゆるアマチュアの方がプロと呼ばれる道楽者以上の知識や高い感受性を持っている場合が多いということです。現長野知事の田中康夫氏などのディスコグラフィーなど拝見すると、その内容の深さには目を見張るものがありますし、彼が現役で遊んでいた頃の六本木界隈のディスコDJが太刀打ちできないほどの知識、情報量をお持ちでありました。彼の場合はこれを商品化して利益を得ることに成功しましたが、たぶん在野のディスコ研究家(笑)の中には、彼以上の思い入れと知識を持った方が数多くおられるのではないかと思います。ひとつの大きな枠の違いと言えば、働く側と遊ぶ側の視点というか角度、スタンスの違いでしかありません。だからといって、そのどちらの感性がその時代の真実であったかという問題は、その問題の立て方自体がノン・メイク・センスであり、無意味な議論というべきですね。その時代、その場所で、その人が感じたモノこそが真実であり、それはその時代と言うひとつの空間の中で生きた人たちのリアリティであります。その感性と言う共通分母が多ければ、それが「一般的」なコンテンツとして定着していくだけのことでしかありません。ディスコDJを経験した私の立場からもうひとつ突っ込んで言わしてもらうならば、当時の業界でDJなどという楽な仕事していたヤツにそこまで熱心に音楽を探求する余裕はなかったということではないでしょうか。(えっ!?)それはもう毎日が楽しくて楽しくて、家に帰ってまでバイオグラフィー調べたり、昔の音源引っ張り出して聞いたりとか、そんなお勉強をする暇などなかったってことですね。(笑)要するにそんな知識はディスコにゃ関係なかったということです。そんな知識がいくらあったところで、ダンスフロアのお客の足を止めずにいかに踊らせ続けるかという仕事の役には立たなかったってことです。だから、時たま妙なマニアに質問攻めにあってタジタジなんてこともありましたね。(笑)
2006年05月23日
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「70’sディスコ伝説」という本の中に70年代ファッションに触れている見開きページがあります。マキシコートやらパンタロンやら、当時の写真が散りばめられたページの左横に、六本木エンバシー後期のスタッフの集合写真・スナップが載っています。アフロ頭にお揃いのユニフォームを着たスタッフ全員集合。写真は白黒なのでわかりませんが、このユニフォームは赤地に白の縁取りが入ったゴスペル風デザインでした。ひょっとすると「大使館」時代も含めてエンバシーで作った最初で最後のユニフォームじゃなかったでしょうか。(私が見たことがないだけですから、ホントのところはわかりませんヨ)もちろん仕立ては福生のラッキーテーラーですね。(笑)写真中央はもちろんドン勝本氏、向かって右隣は店長の加藤ユキさん、そしてその隣にひとりだけフツー頭の少年がいます。この細い目をした(笑)少年こそ、16歳で新宿ポップに通い始め、ニッポンのJBこと勝本さんに憧れてBLACK MUSICに傾倒していった異色のSOUL MAN・ガミタ君です。とにかく黒人音楽=SOULが好きで好きでたまらないといった感じの彼は、私が知る限りではその音楽知識は日本でも指折りではなかったでしょうか。しかもとうとう最後までファッション的にはアフロもせず、派手なニットスーツも着ず、ひたすら音楽のみを愛した尊敬すべき男でした。私と彼との縁も妙な繋がりで、70年代前半、新宿でSOULバカを集めてダンサーズの真似事を始めた私は、当時アジト(笑)となった歌舞伎町「Q&B」(キューアンドビー)で相棒のトオルとDJでメシを食いつつ踊りの練習に明け暮れる日々を送っておりました。そこに彼、ガミタ君がポップ時代の常連で馴染みだったトオルを尋ねてやって来たのが私との初めての出会いでした。踊りはさほど踊りませんでしたが、その当時から異常なほどの彼の知識量には本当に驚ろかされました。70年代のSOULはもちろん60年代のR&Bアーティストの経歴、「踊り場」時代に流行ったステップの数々まで、なんでこんな若造がこんなことまで知ってるんだろうといった具合でした。更に、当時の私の彼女とも踊り場を通じてすでに顔馴染みであり、SOUL&DANCEで繋がった縁は後年まで続きました。そんな彼がDJデビューをしたという噂を聞きつけ、早速私は悪ガキ軍団を引き連れ応援に出かけたのでした。彼の最初のハコは歌舞伎町の入り口近くにあった「エストレ」でした。このお店が入っていたビルには当時ちょっと話題になったパブ「アルハムブラ」などもあり、比較的年齢層の高い客筋のファッション・パブやナイトクラブで賑わっておりました。尋ねていった私たちを出迎えてくれたガミタ少年、「ドゥーザダブルバンプ!」と腰まで振って興奮気味にその喜びを表現してくれました。お店はソファやテーブルもシックで落ち着いた感じのパブでしたが、音楽は極めて黒っぽいDJが中々フィットした大人の踊り場でした。その後、彼も私たちも時代の流れに逆らいつつも、次第にSOUL色はナリを潜めてゆき、大型店舗とダンスミュージック、ディスコサウンドに取り囲まれていってしまいました。70年代後半、ガミタ君は時代の波に逆らうように自分のSOULを追及し、ついにエンバシーへと辿り着きFUNK魂を見せましたが、彼の情熱に応えるだけのSOULファンもダンサーもすでに時代の流れからは外れていました。彼と最後に顔を合わせたのは赤坂マンハッタンでした。このお店も時代の始まりから数々のブラザー&シスターを排出した名門ディスコでしたが、時代の波には勝てるはずも無く、ダンスフロアではビージーズのナイトフィーバーが流れ、数名の若者がステップを踊っておりました。喋りと選曲でフロアを引っ張っていく古いタイプのDJスタイル、閑散とした店内に虚しく響くガミタ君の声、当時の熱狂をを知る者以外には時代の遺物でしかなかったのかもしれません。「ロニーさん、今からパーリャメントのドゥーザットスタッフのフィルム流すから踊ってよ」フロアの小さなスクリーンに映し出されたフィルムは、ジョージ・クリントン演じるドクター・ファンケンシュタインが「オレ達こそがホンモノのFUNK」「オレ達には生涯これしかないんだ」と叫んでいるようで、ガミタ君のメッセージのようにも聞こえてきました。その半年後、70年代ディスコの老舗のひとつ赤坂マンハッタンもその幕を閉じました。ただただSOULが好きで好きでたまらず、ずーっとその音楽の中で生きていたい。そんな純粋な思いを持って時代を生きた彼も私の戦友のひとりです。
2006年05月22日
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全国の中高年のみなさんこんにちは。上半身も中高年、下半身もしっかり中高年、謹んでお喜び申し上げます。昨夜は綾小路きみまろさんのライブビデオを鑑賞いたしまして、すっかり爺らしく盛り上がってしまった非生産活動推進委員会のロニー爺です。え~、実は先日、千葉のSOUL DISCO「ZOOM」のマスター&YUKIさんが遠路はるばるサイパンまで老兵の慰問にお見えになりまして、日本のテレビ番組コピーの差し入れをたくさん頂いたのでした。サイパン島で発見された元日本兵のような私ですが(笑)、現役ディスコ業界人のお二人とお会いして、初対面とは思えないほどの盛り上がりをみせてしまいました。ということで、ブラザー&シスタ、是非また遊びに来て下さい。道楽者の皆様もサイパンに起こしになられるときは是非ともお知らせ下さい。さて、この綾小路きみまろさんのライブショーは、彼の生い立ちから現在までを簡単に紹介するコーナーもありまして、その苦労話を聞いているうちに、芸のジャンルは違っていても下積み時代の生活は私らディスコ業界のそれとあまり変わらず、道楽者ということではやはり同族、同人種だと思いました。彼もキャバレー全盛時代にひとつの時代を築いたものの、結局はブームの後はそのツケに追われ一度は芸の道をあきらめたりもしたそうですが、歳を重ねるうちにようやく自分の初心を全うしたい欲求にかられ、中高年(笑)からの再スタートを図ったとのことでした。それさえもギャグにして「潜伏期間30年」と笑い飛ばす、きみまろさんのその毒舌センスこそ私の大好きなジョークそのもので、人生を斜め下から覗いた道楽者の感性です。私もディスコでDJやダンサーなどでもてはやされていた頃、当時の大卒初任給が9万8千円(10万円未満)程度の時代にあって、手取りで20万円以上もらっていたのですから、そう簡単にやめられるわけがありませんでした。しかも1日のうち、実働時間は数時間、あとはお店に遊びに来ている女の子をからかったり、フロアで好き勝手に踊ったりと、やりたい放題ですから、どんなにカッコつけてみたところで、コツコツと地道に努力して「志」を貫こうなどという殊勝な考えが起こるはずもありませんでした。私の友人の中には数名ではありましたが、こうしたチヤホヤに流されること無く自分の道をしっかりと進んでいったヤツもおりましたが、おおかたの仲間は「楽しい毎日」にどっぷりと漬かった生活に埋没しておりました。きみまろさんも仕事場であるキャバレーが1店、また1店と廃業していく中、あせりつつもツブシのきかない職業は天国から地獄へ落ちたようだと語っておられました。まさに私の人生とも重複するようなその経緯に、そのご苦労が身につまされるようでもありました。その後、マッサージ師の資格を取得してりしてごく普通の一般社会生活を目指したものの、当時一緒に下積み時代を生きた仲間たちが漫才ブームに乗ってテレビに出る姿を見て悔し涙を流したそうです。キャバレーで異常な人気に支えられ高額のギャラを取っていた頃、仲間は舞台での成功を夢見て貧乏な下積み生活を続けていた、その結果がこれか、とそう悔やんだそうです。まあ、ディスコ業界にあってはこの貧乏な下積みを重ねてメージャーを目指したヤツはほとんどおりませんでしたが(笑)、それでもまじめにやってたヤツはそれなりに業界で生き残って好きな道でメシを食っております。業界の質もスケールも随分と違ってはいますが、きみまろさんの悔しい思いは痛いほどわかるし、その後一念発起して再び漫談の道を目指した根性には感服しました。きみまろさんのその後の大ブレイクは皆様もご存知のことと思いますが、年齢や現実の生活も省みず、初心に戻って自身の好きな道に再度チャレンジしたその精神力というか根性は本当に素晴らしいものであります。到底私には真似のできないことですが、私も道楽者のはしくれ、メージャーとはいえずとも、せめて銭金抜きの道楽でもう一花咲かせてみたいと思いました。(思うのは勝手だからね・笑)ということで、中高年の道楽者の皆様、少しですが、時間もチャンスも未だ残されています。是非とも「もう歳だから」などとあきらめず、もう少しジタバタしてみませんか。非生産活動推進委員会から中高年の皆様に送るささやかな提言です。「もう少し悪あがきさせてくれぇ~」ちなみに私は今年で潜伏期間23年目に入ります。(笑)
2006年05月21日
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ソ~ルトレィ~ンって雄叫びと共にTSOPのテーマソングに乗って、アニメの機関車が煙を吐きながやってくる「Soul Train」がTV放映されると同時に、従来の「踊り場」もちょっと垢抜けたヤングの社交場(笑)となっていきました。もちろん時代背景にはベトナム戦争があったし、黒人の人種差別問題も絡み、アメリカの歴史がひとつの節目を迎えた時代でもありました。とにかく次から次へとブラックミュージック、いわゆるソウルミュージックがヒットを連発し、それまで地下に潜っていたR&Bがダンスミュージックに生まれ変わり、ファッションも黒人色がどんどん強くなっていきました。もちろんアフロヘアが流行り、やたらと裾幅の広いパンツ、踵が10cm以上もあるハイヒールなど、ニッポンのあちこちにも文字通りBLACK POWERの波が押し寄せてきました。そんな飛ぶ鳥を落とす勢いに乗ったディスコブームの真っ只中、新宿南口にまた1軒新しいお店がオープンしました。ディスコティック「ソウルトレイン」もうそのまんま。ソウルトレイン。何の説明も必要ないってくらいの店名です。確か1974年の暮れだったと思います。南口と言えば老舗のGETがあり、その隣には近年オープンした大型店ビバヤングが近隣のデパート関係を一気に吸い込んで、新宿の新しいプレイングスポットとなり始めた、まさにそんな時代でした。その大型パブ・ディスコ「ビバヤング」の真正面の雑居ビルの2階にオープンしたソウルトレインは、そのネーミングからして誰しもTVのソウルトレインのような黒っぽいお店を想像したに違いありません。もちろん当時アフロ小僧1年生だった私も、こりゃ修行の身には持って来いの店だな、などと一人合点をして、あわよくばビバヤングから転職したろかい、などとほのかな夢を抱いてそのドアを開けたのでした。ところが、お店に入った途端にアフロ小僧の描いた薔薇色のソウル・ドリームは音を立てて崩れ落ちたのでした。正面に箱のようなDJブース(と呼べるようなもんじゃなかった)、中央のダンスフロアの周りはこじんまりしたボックスが囲んでおり、二十人も踊ったら一杯になりそうな、せせこましい店でありました。ソウルトレインというからには従業員も皆アフロでBLACK一色のお店かと思ったら、突然リトルビーバーのパーティダウンがかかって、全員でチャチャです。ありゃ?何じゃこりゃ、ってなもんでした。頭の中でアフロ小僧は絶対に大歓迎されると信じて疑わなかった自分自身がとてつもなく恥ずかしくなり、当時ほぼふられかかっていた年上の彼女とふたり仲良くチャチャなど踊って暗~くなりました。しかもフロアが狭いので、チャチャを大振りで踊ると周りの人たちが迷惑する、というようなシュチュエーションに、自己顕示欲爆発型人間の委員長は非常に悲しい思いをしたのでした。まして従業員にはアフロは一人もおらず、これじゃビバヤングのアホタレウェイター達の方がずうっとマシじゃん、てな結論を得て、1時間と遊べずにお店を後にしました。ずっと後で知ったことですが、このお店はゲットのニックさんに対抗して、クック、ニック&チャッキーのメンバーのひとりチャッキーさんが開業したお店だったようです。(クックさんだったかも知れない)まあ、どーでも良いことなので記憶は定かではありませんが、ニックさんに対抗して作った店ってことは確かだったようです。そんな店名だけが勝手に一人歩きしたお店に、ある日一人のアフロ小僧が働くようになりました。委員長の働くビバヤングの目の前で白いニットパンツを履いた小柄なアフロ少年がチラシ巻きをしていたのです。後に彼はディスコ協会に所属し、エンバシーで働きながら全日本ソウルトレインダンサーズのメンバーとして華々しく(笑)デビューを飾りました。彼の名前は「タコ」。得意技はタコの八ちゃん風タコ踊りファンキーフルーツ。(なんじゃそりゃ)当時の彼を知る人ならば情景が目に浮かぶことと思います。残念ながら私との接点は殆どありませんでしたが、今にして思えば彼もあの時代の渦の中で「全日本ディスコ協会」という金看板に踊らされたアフロ小僧の一人だったような気がします。その後、私がバッドチルドレンなどというダンサーを引き連れてブイブイ言い始めた頃、ブラザーの踊りを盗みに六本木エンバシーへよく出没しては彼と顔を合わせることがありました。ある日などは、閉店後のエンバシーで店長のユキさんとSOUL談義に花咲いてウダウダしていると、フロアーから大騒ぎの喚声が聞こえます。何事かと目をやると、檻のようなダンスフロアでボクシンググラブをつけたアフロ小僧たちがボクシングの真似事で盛り上がっているではありませんか。もちろん先導しているのは会長です。と、そこから懐かしい声が聞こえたので目を凝らすと、新宿の兄貴イサムちゃんでした。「おう、ロニー来てたのか。タコがパンチ食らって墨の代わりに鼻血出しちゃったよ。ガハハ」多少はライバル意識もあったタコ氏ですが、この時の私は彼のことを簡単に笑う気にもなれず、少なくともSOULが好きで黒人ダンスに憧れて此処まで来た彼の気持ちを考えるとやるせなくなりました。その後、この全日本ソウルトレインダンサーズはビクターレコードのプロモーションで各地のディスコを巡り、セクシーバスストップのステップなどを広める重要な任務を務めたのでありました。ファンキー・タコと呼ばれた彼の名前、確か井上君だったかなぁ。言葉こそ交わしませんでしたが、今にして思えば、やはり同じ時代を同じような世界で生きた仲間の一人でありました。
2006年05月20日
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1977年頃の都内の盛り場は「ディスコ」一色、酔って歩けばディスコにあたる、みたいなそりゃもうとにかく凄い勢いでありました。最近の「和民」とかファミレスどころの騒ぎじゃありません。(笑)殆どの繁華街は「ディスコ」を中心に客足が流れていたのではないでしょうか。もちろん中核をなしていたのは新宿と六本木の二大勢力圏で、ちょっとおしゃれな六本木に対し、庶民的な新宿というような感じで人種的な区分が割と明確に現れておりました。さて、そのような二大勢力圏の狭間に揺れる特殊地域がありました。池袋(お待たせしました)ブクロなどと呼ばれていたこの土地は、もうすでにこの言葉の持つ雰囲気からして独特のムードと匂いを醸し出しておりました。けっこうな都会にもかかわらず田舎者扱いされ続け、理不尽な差別を受けていた池袋に燦然と輝き今も語り継がれるディスコがありました。アダムズアップル(なぜかいつも日陰モノ扱いでした)ちなみに日活映画で渡哲也さんが主演した「東京流れ者」や「関東流れ者」にも登場するこの土地は、当時からはぐれた流れ者がたどり着く都内最後の地区でありました。(その次に流れていくのは武蔵野吉祥寺で都下になります・笑)駅前の緊張感を一瞬にして忘れさせてくれるアダムズの店内は豪華絢爛「大箱」、更に当時のステイタスである生バンドも出演しているとあっては、東武東上線、西武池袋線などから参集してくる不良の溜まり場と化すには時間がかかりませんでした。そしてカウンターバーのようなつくりの円形DJブースの中で、ひとり場違いなおっちゃんが威勢の良い若者たちを威嚇しながらサラを回しておりました。タンバ店長の片腕、ヤマダ主任。小柄ながらも凄みのある風貌はまさにお水のプロ、いくつかの修羅場を潜り抜けてきたであろうその顔からは、今彼がプレイ中のシルバーズのブギーフィーバーでさえも押さえ込まれてしまうほどの威圧感をもったDJブースで格別の存在感を持っておりました。そしてダンスフロア右横のステージでは生バンド「BIB」ブラザース・イケブクロ・バンドとパッケージ・ダンサーズ「ファンキードールズ」が素晴らしい演奏と踊りを披露してくれていました。ちなみに、ドラマティックスのイン・ザ・レインを歌うソウルバンドは都内広しといえどもBIB以外にはなかったのではないでしょうか。さてこの店のチーフDJは新宿のジュリーと名乗る(池袋のジュリーとしないところに土地柄が覗えます・笑)今風に言えばイケメン、口達者な若者でしたが、なぜか合間を縫ってパンチ頭のヤマダ主任が煌びやかなブースに威風堂々と座っていたのでした。こりゃ、ひょっとするとダンスフロアでケンカでも起こされたら困るってことで、用心棒代わりに目を光らせているのか、と思われました。そしてこの強面のおっちゃんが、ブース横のカウンターに腰掛けたアフロ頭の私に話しかけてきたのでした。「今いくら貰ってんの?」「はぁ?」「新宿で回してんだろ」「いや、今はDJじゃなくてダンサーなんすよ」「だったら丁度言いや、こっち来ないか?」「こっちって・・・・」「ジュリーが来月で上がるっていうもんでさ、代わりを探してんだよ」「いや、でもボク今ダンサー始めたばかりだから・・・・」ありがたいお誘いを丁寧にお断り申し上げましたが、本音で言えば、こんなおっかないトコに通勤するのはゴメンだぜ、ってことでした。とにかくこの池袋駅の緊張感は世田谷生まれの不良にはちょっとテンションが高すぎましたね。(笑)月日は流れ、ジュリー共々新宿のトゥモローUSAに移った私は久しぶりに池袋を訪れました。それは同業のダンサーズ・ファンキードールズのリーダーでライバルであったジョニーが歌を歌い始めたという噂を聞いたからでした。くそっ、先を越されたか、という思いに地団太を踏みつつも彼に会いに行ったのです。さて店に入ってDJブースのカウンターに腰掛けると、ブースの中に小柄なアフロが座っているではありませんか。新人DJか?と思いつつ目を凝らすと、なんとそのアフロ小僧はあの強面のヤマダ主任ではありませんか。パンチが伸びてアフロになったの。まさかね、ってそんな感じでした。「さあ~、お待たせしました、次はBIBのバンド演奏です。そのまま踊り続けてチョーダイ。DJ、お相手はファンキー太郎ことヤマちゃんでした」誰だよ、ファンキー太郎って?すっかりパンチの威嚇は鳴りを潜め、温和なおっちゃんに変身したその姿、人懐っこいその喋りも中々堂に入ったものでした。まさか後年この人が新宿ポップコーンの花形DJになるとは誰が想像出来たでしょうか。ポップコーンのあったモナミビル6F「北の家族」で、揚げ出し豆腐でビールを飲むヤマちゃんは私らDJグループを前によく呟いておりました。「俺は業界デビューが遅かったし、所帯持ちだからお前等と違って生活かかってんだよなぁ~」あの人を食ったような独自の言い回しはコミカルなDJとして独自のスタイルを持ち、更に年の功もあってか、常連客や私たちDJ仲間の愚痴の聞き役にもよく回ってもらいました。「お晩です」で始まるベシャリはフロアで踊る客の注目を一気に集めるユニークなDJでした。そんな彼に師事した若手にエイジというアフロもどきのプリンス似の青年は、チャカカーンのWoman in a man’s worldのサックスソロで素晴らしいMCを入れてくれました。「デヴィッド・サンボーン、テナーサックス。デヴィッド・サンボーン、テナーサックス」決してコーラスパートにはMCを入れず、間奏部で喋るといったラジオDJ風セオリーを守るこのスタイルはヤマちゃんの教えでしょうか。「デヴィッドサンボーンはテナーじゃなくてアルトだってこと、誰か教えてやった方が良いんじゃネェか」「でももしヤマちゃんの教えだったら恥かかすことになるぜ」DJグループよりも黒服グループに人気の高かった子連れDJ、古き良きベシャリが主流だったディスコDJの名物男ファンキー太郎ことヤマちゃんは業界の「おとーさん」でもありました。後年、地方を回る機会が多かった私は、随分とヤマちゃん信者の黒服連中と会いました。それは、お水の武闘派中堅幹部からDJへと転向していったヤマちゃんのその生き方、面倒見の良い性格に慕っていた後輩が数多くいたという証でしょう。
2006年05月19日
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D.J.=ディスク・ジョッキーという名称の由来は、ラジオステーションでディスク(レコード盤)を選曲してPLAYする人、つまりディスクの上に乗る人(乗馬のジョッキーですね)という意味で呼ばれるようになったと言われています。そういえば昔のDJってカウンターバーのスツールみたいなのに腰掛けて、マイクの前で一人勝手におしゃべりしながらレコード回していましたから、その姿が乗馬の騎手のように見えたのかもしれませんね。さて、ディスコのDJの発祥はどうなのか?というと、はっきりとした記録も伝承(笑)もありませんが、ゴーゴーハウスや初期「踊り場」時代にはそんな洒落た職業はなかったような気がします。音楽係りみたいな感じでしょうか。私自身が「踊り場」に通い出した頃を振り返ってみても、DJなんて呼び方あまりしてなかったような気がします。更に、DJブースなどという立派なコンソールのあるお店もあまり記憶にありません。なんか小さな箱みたいな中にターンテーブルが二つ並んでいて、そこにこじんまり座ったおっちゃんというか、にーちゃんがレコード回しているみたいな感じだったですね。(笑)裏方でしたね。おもいっきり。それに当時の殆どの店が専門職みたいな感じじゃなくて、従業員が持ち回りで箱にはいってレコードかけたりしてましたから、音楽のプロ=ディスクジョッキーという感覚はあまりなかったような気がします。そのうちに六本木メビウスみたいにアクリル製のカプセルみたいなブースが登場してきて、プロっぽい雰囲気のDJが登場してきました。このあたりになると、ラジオ局とかのDJが「踊り場」にやってきて選曲してるのかとか思ったりして、それとなく特別な存在としてのジョッキーが登場してきました。とはいうものの、私のプレイング・スポット新宿では未だ「生バンド主体」のゴーゴーハウス系が多く、レコードで踊るという感覚はいまひとつマイナーな感じでもありました。バンドもいないセコイ店、みたいな感覚でしたから、レコードで踊るってのがダサいみたいなイメージでもありました。しかしこの「生バンド」という表現、凄いですねぇ。DRAFT BANDみたいなことになるのでしょうか?(笑)生じゃないバンドとは一体どんな形態なのでしょうかね。ってことで、バンド演奏の対極に存在したのがレコード係りにおにいさんでした。さて、新宿にもディスコが定着してきて、次第にバンドからレコードへと流れが変わっていく中で、現在のクラブDJのルーツであるディスコDJが続々と誕生していきました。といってもDJ学院とかDJ専門学校(笑)みたいな機関があったわけではありませんから、お店で働く若者たちがそれぞれに工夫を凝らしながら技術を磨いていった、という感じでありました。典型的なパターンがおなじみ新宿GETですね。70年代中期頃からはベースの黒人をパートで入れて雰囲気作ったりする店もありました。結局この時代でもラジオDJとディスコのDJは別物としてカテゴライズされていったわけですね。中には専門職として、「音楽喫茶」みたいなDJが入った喫茶店でラジオDJを目指す奴らもいることはいましたが、この手の人たちもジャンル的にはPOP&ROCKでSOULやR&Bに詳しい見習いDJはいませんでした。もちろん私もディスコでウェイターをしながら、ディスコという業種の形態や音楽的素養などを学びつつサラ回しなどを覚えていった一人です。ホールでテーブルを見回りながら「灰皿交換」(懐かしい響きだなぁ)やグラス下げ、カウンターに入ってバーテンをしたり、トレンチ片手におつまみを運んだりしながら、ディスコというもの全体を捉えていったのです。「チラシまき」とかいって街頭でビラ配ったりね。(笑)そのうちに自分でブースに入ってレコードを回すようになってみると、これらのウェイターの視線で見た客のノリとかが重要なファクターになってきますから、ディスコの営業は決して分業ではなく、従業員全員が作り出す「店」のキャラクターというものでもありました。まあ、DJに関して言えば、やはり向き不向きがあったし、ある程度の音楽的素養みたいなものもありましたから、才能とまでは言えませんが、相性みたいなものもあったように思えます。そりゃそうですよね。いくら持ち回りでDJやってるからって、全員がDJになっちゃったら営業は成り立ちませんからね。そんなこんなでみんなで持ち回り業務をしていくうちに、それぞれの個人的な感性、個性が出てきますから、踊りで客を引っ張って行くヤツや喋りがやたらと上手いやつ、ホールの管理がしっかりしてるヤツとか上手い具合にチームワークが整っていきます。とはいっても、所詮水商売に集まった人種達ですから、簡単にチームワークが生まれたわけではありませんが、従業員全員の個性と感性が一体となって開花した店がいわゆる「伝説のディスコ(笑)」となっていったわけです。そんな流れでディスコブームが東京に吹き荒れていた頃、未開の地「渋谷」にもチャレンジャー達が進出を始めました。1977年ごろ、時代を先取りしたゴッドネスがオープンしました。当時のディスコはなんといっても新宿と六本木で勢力を二分していましたから、その中間点である渋谷はまだまだ未開の地で商売的にはリスクもありました。この渋谷ゴッドネスにウェイターとして入ってきた18歳の少年が、レコードを回しながら面白いジョークを飛ばすDJと出会い、次第にディスコミュージックの世界にのめりこんでいきました。情熱を傾ければ必ず思いは叶う、そんなチャンスを秘めたディスコ業界でDJという職業にのめりこんでいった彼は、後に新宿のビッグトゥゲザーでDJとしてのポジションを得て、後にオープンした新宿シンデレラでその才能を開花させ、最後はB&Bというお店でトップランキングに入るDJを極めました。サーファー・ディスコのルーツとも言われた渋谷ゴッドネスから始まった彼のディスコ人生は、奇しくも新宿のサーファー・ディスコとしてその頂点を極めたB&Bというお店で彼もDJの頂点を極めました。彼の名前はトーマス。80年代のディスコDJの道を究めた戦友のひとりです。
2006年05月18日
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70年代中頃、日本のテレビでソウルトレインが放映されたのをきっかけにドカンと爆発したディスコブーム。その火付け役ともいえるフィラデルフィア・サウンドは、それまでの泥臭いリズム&ブルースを都会的なPOPダンス・ミュージックへと生まれ変わらせた新しい波でした。文字通り「ニューソウル」などと呼ばれて、ディスコダンスの主流となっていきました。もちろんそれまでの踊り場の流れであったJBはもとよりモータウン系やスタックス系、アトランタ系なども健在ではありましたが、ディスコという新しいカテゴリーとの確立と共に全体の流れはポップ路線へと大きく変わっていった時代でもあったのです。そしてもうひとつ、この流れを更に大きく引っ張ったマイアミ・サウンドの存在を忘れてはいけませんね。KC&ザ・サンシャインバンド(出た~!)彼らもスタートはそれまでのSOUL系の流れを汲む「ファンキーホーン」でしたが、ブラスとリズムセクションの奥行きはオーケストラを思わせるフィラデルフィア・サウンドに通じるものがあり、やはり出るべくして出た時代の覇者だったように思えます。ファーストアルバムでは、まだそれまでのSOUL系である従来の「音」を守りつつも、重めのリズムに軽いメロというようなチャレンジ精神もうかがわせています。更に同時進行系でジョージ・マックレーのロックユアベイビーなども登場してきて、踊りやすさとPOPさを強調するサウンドはジワジワと侵食を始めていたように思えます。そして第二弾「ゲッダウン・トゥナイト」でいきなりブッチギリの大ヒットを飛ばしたKCの快進撃は全米を席巻してしまったのです。しかしこの曲のイントロは未だに衝撃的でした。なんじゃこりゃって感じで、ダンスフロアで足を止めているところへいきなりのヘビーサウンドですからね、とにかく面食らいました。更に「ゲッダウン、ゲッダウン、ゲッダウン~トゥナイト~」ってリフのコーラスが頭から離れず、つい口ずさんでしまいます。さあそして極めつけ超爆ヒットの登場です。That’s the way I like itはいそうです。ザッツザウェイですね。このノリはとにかく凄かったです。口では説明できないほどの驚異的な大ヒットでした。「これがボクの好きなやり方さ」みたいな感じでしょうか。踊りはGet Down Tonight~ウォーターゲート~オールドマンに続いてポイントと呼ばれるダンスに変わり始めていました。後年これもバス・ストップ系ステップの課題曲みたいになってしまいましたが、あの時代のノリはとにかく尋常じゃなかったですね。とにかくどこのディスコでも必ずかかっていたし、それも2度3度は当たり前って感じでした。ディスコティック大爆発!=ザッツザウェイでしょう、なんと言っても!DJの選曲パターンとしては「That’s the way」を頂点に持ってくるような並べ方をどこの店でもしていたと思います。ざっと思い起こしてみると、K&G「スピリットオブザブギー」~BTエクスプレス「ピースパイプ」~タバレス「愛のディスコティック」(It only take a minute to fall in love)~ザッツザウェイ~こんな感じでしたかねぇ。もちろん昔はいわゆる「つなぎ」なんてありませんでしたから、この選曲の組み立てをDJの喋りで煽っていくパターンですね。ちなみにKCが白人の長髪野郎だと知ったのはプロモ用のフィルムが公開されてからです。もひとつオマケに彼がゲイだと知ったのはその10年後のコンサートビデオを見たときでした。(リトル・リチャードみたいになってました・笑)KCの名前が外れてインストもののサンシャインバンドのアルバムも結構軽いノリで楽しめました。ミドルヒットが「ショットガン・シャッフル」。ショットガンというあだ名のメンバーが作ったダンスナンバーでした。マイアミ・サウンドと呼ばれるムーブメントはこの後、VSOP~ベリースペシャルワンパターンのディスコサウンドへと継承されていくことになりました。私の記憶でKCの最後のHITは「シェイク・シェイク・シェイク」かなぁ。これも妙なステップで踊ってましたっけ。そういえばずっと後年になって、グロリア・エスティファンとマイアミサウンドマシーンってのが出てきたときは、ちょっとKC系の「音」を期待しましたが、これはまったく別モノのラテン系だったですね。(笑)
2006年05月17日
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今日はSOUL DANCEについて一発ブチかましてみましょうか。ソウルダンスの全ての原型はなんといってもブレイクダウンでしょう。バックビートに黒人独特の「間」、いわゆる溜めが形を崩すBreakdownこそFUNK BEATの基本だと思います。誰が作ったか知りませんが「ダンス変遷史」などというものに記されている、1972年のブレイクダウン=ルーファス・トーマスをそのまんま時代と曲と踊りをセットにしてレクチャーしてはいけません。(笑)ファンキー爺ちゃんは未だにしつこく言っておりますが、この曲にはこの踊りなんてシキタリは早く捨てましょう。たまたまヒット曲のタイトルがその踊りの名前になったという程度の認識で良いのです。あとは話の都合上、踊りの名前がないと説明が難しいという理由で便宜的にそう呼ばれる踊りのパターンだと考えて下さい。こんなもの映像で見れば一発で理解しちゃうんですけど、どうもシキタリを作りたがるニッポン人の国民性でしょうか、もったいぶって自由な踊りをカテゴライズしてしまう悪癖はそろそろ辞めにしたいものです。(笑)私のようなファンキー親爺が「そういえばあの頃はこんなステップで踊ってたよなぁ」とか「こんな踊り覚えてる?」などとノスタルジックに楽しむ分には毒にもクスリにもなりませんが、「この曲はこの踊りだ」とか権威付けして威嚇してはいけませんね。SOULファンならば誰もが知っていると思いますが、「WATTSTAX」という黒人版ウッドストックのようなコンサートフィルムがあります。70年代を代表するブラック・ミュージシャンが勢揃いした素晴らしい記録映画です。ワッツ市のスタジアムで行われたこのコンサートで、観客を興奮の坩堝に叩き込むファンキーなおっちゃんがおります。ルーファス・トーマスピンクの衣装で登場したおっちゃんがBREAKDOWNを歌い始めた途端に観客が一斉に踊り出します。体をガクン、ガクンと落として、まさにブレイクしてダウンするそのノリこそがBLACK FEELNGそのものです。さらに、ニッポン独自の命名「ファンキーフルーツ」を踊るちょっと太めのフツーの黒人にーちゃんもいます。跳ねてブレイク!両手を汽車の車輪に真似たフリに合わせて腰をゆっくりと動かします。これぞSEXY & FUNKYそのものですね。さらにデカイ帽子を被ったブラザーが向き合って踊っていると、周りもつられてどんどん踊りに加わっていきます。水玉模様のワンピースを着たアフロのおねーちゃんは、スタンド席で一人立ち上がって腰から下をガクガクと揺すりながらマジで乗っています。パンツが見えそうで見えないところがセクシーですね(笑)こらこらっ!ピンクの上下、ショートパンツにブーツ姿のルーファスおじさん、次の曲は「コケーコッ!」と鶏の物真似から入って「Do the funky chicken」です。遂に我慢しきれなくなったスタンドの観客は我先にとグランドに殺到してドッカーン!。一大ダンス大会の始まりです。10歳くらいの女の子もおすまし顔でブレイクダウン。誰もファンキーチキン・ステップでなんか踊ってませんね。(大笑)*1962年のステップ・ファンキーチキン=課題曲ドゥザファンキーチキン~ダンス変遷史よりグラウンドでクロスダウンするヤツやら、大手大足でブレイクするヤツやら、自己顕示欲と音楽で踊りを楽しむ喜びの体現がそこにあります。例えば、ブラジルのリオのカーニバルで踊る民衆のパッションとか、アフリカの祭りで踊る饗宴とか、体の底から自然と湧き起こってくるリズムに躍動する体がそこにあります。その姿を見て興奮しない人は、元々ディスコとかSOULとかFUNKYとかには向いていませんので違う道をお薦めいたします。(笑)私はその昔、この映画のサントラ(2枚組アルバム)に収録されているバーケイズのシャフトの息子(Son of shaft)でショータイムを演ってたものですから、未だにこのイントロのハイハットのシャカシャカって音とチャカポコ・ギターが鳴り始めると年甲斐も無く自然に体がビートを刻んでしまいます。ちなみに曲の始めに叫ぶ「I am a son of baaad!」ってのがあるんですが、どこかの本にはアイアムサナバビッチと叫んでいると書いてありましたが、私には「バーッド」って聞こえるんですけど、もしどなたか耳の良いネイティブスピーカーの方がいらっしゃいましたら、是非とも数十年にわたる親爺の疑問を晴らして下さい。(笑)ということで、映像とはいえどもこのようにモノホン(事実)をその目でご覧になれば、理屈無しに全てを理解できるのが音楽と踊りの魅力ではないでしょうか。さて、確か1974年頃だったと思いますが、新宿の「トゥゲザー」がリニューワルオープンした時に、深夜の時間帯にテレビコマーシャルのスポットが入りました。アフロのブラザー&シスターがバンプを踊っている、ほんの1分程度のスポットでしたが、とにかくそのしなやかな動きがメチャクチャカッコ良くて、どうしてもそのノリを真似したくて頭の中にしっかりとイメージを焼き付けたことを覚えています。ブラザーはピチピチのニットフレアーにへそ出しタンクトップ(Tシャツだったかなぁ?)、シスターはデカアフロにホットパンツ。そして二人が腰をぶつけ合うその「間」にブレイクダウンが入ります。そのダイナミックな動きがとにかくやたらカッコよく見えました。ソウルシスタは日本人ハーフのケリー。モデルクラブに所属していた彼女はスタイルも良く踊りも凄くセンスが良かったですね。後に彼女は目黒のファンキーホースにダンサーとして週3日ほど出ていましたが、その頃はいわゆるポイントという踊りが主流で、彼女は独自のアレンジで「ポイント」の腕を振るタイミングを微妙に外すブレイクダウン・スタイルで踊っていました。この時は既にアフロは落としてストレートヘアでしたが、170cmの大柄な体型ながら黒人特有のしなりのある踊りは独特の雰囲気を持っていました。当時のブームでアチコチから声が掛かって結構売れっ子モデルではありましたが、当時の熱狂の中にありながら決してチヤホヤに溺れることなく自分の生き方をしっかりと持っている大人でした。非常にクールな彼女は時代に流されること無くしっかりとお金をためて、自身の計画通り渡米して行きました。(今ごろは良いお母さんになってるのかなぁ)ケリー、一度彼女とあのCMバンプを踊ってみたかったなぁ~。(親爺の追憶)
2006年05月16日
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全国の道楽者の皆様こんにちは。遂に2年目に入りますこの非生産活動推進委員会ですが、今日は初心に戻って70年代のディスコのお話でハジけたいと思います。このブログを始めるきっかけとなった旧友テリー氏との出会いも、元をただせばマイク越谷さんが郵送してくれた1冊の本が始まりでした。数年前、家族を連れて久々にニッポンの土を踏んだ委員長は新宿の紀伊国屋を訪れたのでした。当時ズッポリとはまっていた終戦後の東京アウトローの資料を探してウロウロしているうちに、「風俗・文化」の棚にあった1冊の本が目に入り、手にとってページを開くと、なんとそこには私の心の中で封印された過去の出来事が散りばめられてありました。もう本当に忘れかけていたあの栄光の日々が甦ってきた委員長は、懐かしさと嬉しさがこみあげてきて、「遂に70年代リバイバルが来たのかぁ」などと爺臭いノスタルジーに浸ったのも束の間、同時に当時のあの何とも言えないわだかまりのような苦い思いも甦ってきたのでした。そこに写真入で「ご高説」をのたまっておられる大先輩方は、未だ現役健在頑張っておられる大御所の皆様ではありませんか。その時私の心に去来したひとつの思いは「これじゃ埋もれていった仲間が浮かばれないなぁ」という空虚な気持ちでした。(これってオーバーな表現じゃありませんよ・笑)確かに70年代前半はこれら大御所の皆様が語る業界の姿は、まさしく時代の生き証人、当時の真実であったと思います。がしかし、70年代後半から80年代前半にかけての業界では、すでに彼らはその現場にはいなかったし、彼らがいた店はその時代を先導していた場所からはかなり離れた存在でありました。それが、この本ではディスコの全てを知っているかのような威厳に満ちたインタビューが載っています。フツーに考えても、たとえどんな業界でさえ20年近くを先頭(トップランナー)切って走ることなんて不可能です。ざっと立ち読みしただけで当時の嫌な思い出が甦ってきて、結局は私の心の封印は解かれることも無く、その本をまた本棚に戻して帰りました。その後、サイパンに戻ってから、気になってインターネットで「70年代ディスコ」関連で検索していくうちに、日本ではリバイバルブームがすでに起こっていて、それなりの盛り上がりを見せていたことを知りました。そんなサイトを見ているうちに、あの紀伊国屋で見た本をもう一度じっくりと読んでみたくなって、マイク越谷さんにお願いしたのです。「ロニーは知らないかもしれないけど、この数年70年代ディスコがリバイバルしてて、この手の本も結構出てるからロニーが探してる本かどうかわからないけど、とりあえず近所の本屋で取り寄せてみるよ」ということで、送ってもらった本が「70’sディスコ伝説」でした。まあ、そんな経緯でその本が届いた数日後にはテリー氏のサイトにぶち当たり、かれこれ三十年ぶりの再会を果たし、あとは背中を押されたような恰好でこんなブログまで始めてしまいました。そして昨日は2年目の1ページを一周忌とし、過去の自分を弔って新たなスタートを切ることにしたのです。そこでこのブログを始めた時の初心に立ち返って、業界で埋もれていってしまった戦友の名前をなんとか残してやろうと思い立ちました。私はこうして、自分のことを書くことで多少は浮かばれていますが、やっぱりあの夢のような時代を一緒に生きた戦友たちがこのまま時代に埋もれていってしまうのは切ないので、こんな小さなブログの片隅ですが、せめて同じ熱病に浮かされた仲間を一人でも多く書き残していきたいと思います。たとえ戦友の名前を載せることが叶わないまでも、当時のこと、自分の見てきたことを語れば、あの時代がたった1冊の本でまとめられるほどの「熱」ではなかったことをみなさんに理解して頂けるのではないかと思います。昨年の5月から始めたこのブログでも、私の回想として当時のディスコの話を書いてきましたが、所詮は自分の経歴に色付けしたものばかりでしたから、これからはもう少し客観的に書いてみようかと思ってます。ただ、当時の資料も少なく、その殆どが私の拙い記憶からの読み込みなので、時代背景とか、脈絡が多少はずれることもあるやもしれませんが、とにかくあまり私情を入れずに当時のワンシーンを描いてみたいと思います。とはいっても、私はプロの書き手ではありませんし、思いつきで書くものですから系統立てた読み物にはなりませんが、ただ、当時のあの夢を見ていたような数年の激動を皆様にお伝えすることができたら良いなと思います。え~、前置きが長くなってしまいましたが、今日は「踊り=ステップ」についてひとつぶちかましてみましょう。ディスコ伝説に載っているステップの系譜ですが、1975年以降の踊りの殆どは大御所の皆様とは関係なく流行ったものです。バンプ~ウォーターゲート~オールドマン~レゲエ~ポイントと此処までの一連の流れは全てベースのブラザーたちから持ち込まれたもので、60年代~70年代前半までの踊り場ステップとはまったくの別物です。強いて言えば、ファンキーフルーツ、ハッスル、バス・ストップ、トラッキンが和製です。ファンキーフルーツは、踊り自体はアドリブですから、そのアドリブのパターンが先行して入ってきたものに勝手にネーミングしただけですね。ハッスルも似たようなもので、実際にブラザーが踊っていた「ハッスル」とジルバもどきの「ハッスル」とは同名異種です。バスストップは元々バリエーションが多くて、これが「バスストップ」だ、なんていうきちんとしたステップはありませんでした。トラッキンについても同様で、これもビクターレコードのプロモ、エディ・ケンドリックスのキープ・オン・トラッキンに無理矢理こじつけて作った踊りです。だからディスコでトラッキンなんて踊りを皆で踊ったという記憶はありませんし、ウォータゲートやオールドマンのようにディスコで客が一斉に踊っていたのを私自身見たこともありません。ポイント以降に流行った踊りがひとつありましたが、これははっきりいって名前がありません。誰かが勝手にウォークとか名付けて、またしてもビクターレコードのブギーウォークとかにからませて流行らそうとしたこともありましたが、全然違うステップが自然発生的に生まれて、企画者の目論みは外れたものの、結果オーライで中堅ヒットとなったのは皮肉でした。この踊り、確かアップダウンとか呼ばれているように思えますが、当時は誰もそんな呼び方してませんでしたね。大体踊りに名前付けてエラソーにするってパターンはバンプ以降無くなっていってましたから、どこぞの誰かが後年もっともらしく説明するためにネーミングしたのではないでしょうか。この踊りを新宿に持って来たのは、当時スーパーコップスの常連だったジョニーとそのグループだったし、私らがこぞってこの踊りを真似し始めてた頃、エンバシーじゃまだバスストップ踊ってましたから、この頃から世代交代が始まっていったのではないでしょうか。この踊り、簡単そうでやってみると結構難しくて習得するためには腹筋がかなり必要で、下っ腹が筋肉痛になった覚えがあります。(笑)
2006年05月15日
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いや~、なんだかんだ言いながらもとうとう1年間書き綴ってしまいましたね。よくもまあ、こんだけくだらねぇことを書き続けたもんだと、我ながら感心してしまいました。自己満足とはいえ、書いているうちに色々な方々ともめぐり合えたし、自分の中の本音もしっかりと見極めることができたし、とにかくこのブログに関係した皆様には深く御礼申し上げます。1年前、私はこの僻地の果てで地味ぃ~な生活をしつつ、「人生とはなんぞや(笑)」とか哲学しながらぼーっと毎日を暮らしていたわけですが、ひょんなきっかけから、世の中には自分と似たような道楽者がかなりの数いることに気づき、遂にその古い自分の殻を破ることができました。ですから、「死んでた自分」を埋葬したという意味で、今日は私の一周忌です。(^^)そうは言ってもそんなに自分の目の前の生活がガラリと変わるわけはありませんし、いつまたひっくり返るかわからないような綱渡り人生が安定したわけでもありません。ただ、モノを書くという行為が自分の中での精神的バランスを保つ唯一の方法であったことを認識したことが私にとっての救いになりました。今までは頭の中で考えたこと、心の中で芽生えたこと、これらをただ自分自身の中でグズグズと燻らせていただけのことが、書くと言う行為によって形となり、それを自分が再認識するというプロセスを経て、自分というものがなんとなくわかり始めてきたような感じです。もちろん、これからどうすれば良いか、あるいはどういう生き方をして行こうか、というひとつの指針が生まれてきました。なんか偉そーなノーガキたれてますが、生まれついての自己顕示欲発散型人間の私は、絶えず何かを支えに突っ張って生きてきたわけで、それが人生の半分を終了し、折り返し点に立ってみて、初めて自身の魂から湧き上がってきた叫びがやっぱり「道楽」だったのでした。(えっ?)要するに「現実的生活」と「道楽的生活」のけじめというか境目で、常に葛藤していた自分の心がここにきてようやく見えてきたというか、結論を得ることができました。それは、この二つの生き方を無理に分けて考えるから悩むので、どっちも自分の中から出てきた考えなら、いっそのことごちゃ混ぜにしていけばよいじゃないか、という極めていい加減な解答を見出したのです。(ふ~ん)今まで無理に現在の職場とか仕事とかと、このブログ関連の道楽と、できるだけ一線を引いてきましたが、それが逆に自分を迷走させていたことに気づいたのでした。所詮はこれだけの人間でしかないのですから、そのまんま全てさらけ出して行こうと、そう思い始めたのです。今更怖いものもないし、とにかくいけるトコまで行こうじゃないかと、そう思い始めた道楽親爺50歳です。(もうすぐ51だけど)え~、今日は著しく個人的、私的なことで恐縮ですが、1年前にこの手で葬ったつまらねぇ親爺の一周忌にあたり、生まれ変わった道楽者は道楽道に精進し、さらにグレードアップしたくだらねーコトの数々を皆様と一緒に楽しんで参りたいと思います。皆様の「貧乏自慢」「バカ自慢」もどんどんお寄せ下さい。自分の他にも似たような馬鹿野郎がいると安心して眠れる道楽者がたくさんいます。(笑)昔のSOUL&ディスコが好きな方はメール下さい。親爺の遺品(DVDコレクション)から厳選した懐かしのMUSICをお届け致します。辛い毎日を楽しく生きる最高のテクニックが道楽の進めと道楽者への変身です。さあ、みんなで手に手をとって究極の道楽者を目指しましょう!(なんだかなぁ~)
2006年05月14日
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唐突に思い出したタイトルは、1974年に近田春夫さんがリリースした和製ディスコサウンドです。バンド名は「ハルヲフォン」中々洒落たネーミングでしたね。今にして思えば、レイパーカーのレイディオなんてのと同じ発想ですね。自分の名前を文字ったネーミングってことで、近田先生の感性はちょっと早かったかもしれません。ちなみにこの曲、クラビがブンチャカ・ブンチャカ全面に出たダンスナンバーで、コーラスはタイトルそのまんま、ファンキーダッコ!ファンキーダッコ!ってな、ジョークともマジともつかない変な楽曲でした。確か間奏部分でブレイクが入って、当時アフロレイキでDJやってたサムって黒人のMCが入るんですね。DJ風に。ハ~イ、エブリバディ~!とか叫んでます。(笑)でもって近田さん、ファンキーダッコっていう踊りも考案して一緒に流行らそうとしたようでしたが、イマイチ無理があったようです。ダッコちゃん(ってたぶん知らないだろうなぁ・笑)の絵がジャケに載ってて、踊りもダッコするようにパートナーに絡むってな感じでした。バンプのノリで両手広げてダッコするみたいな感じですか(笑)当時の和製ロックバンドっていうのはまだ管楽器が入っていませんでしたから、本場のR&Bとかに比べるとサウンド的には非常に薄っぺらい感は否めませんが、クラビの跳ねるビートでファンクのドライブ感を演出した近田さんのアレンジとアイディアは秀逸でした。当時は完全にイロモノ扱いで、ディスコじゃほとんど誰にも相手にされなかったけど、私は個人的にこのジョークのセンスが好きでした。おふざけか、マジかよくわからないところがとてもFUNKYでしたね。(笑)確かウォーターゲートで踊ってたと思う(笑)後年、近田さんがラジオ番組のパーソナリティーとか始めた頃、彼が取り上げたのが平山ミキさんのマイナーヒット「真夜中のエンジェルベイビー」で、リメイクバージョンも作ったんじゃなかったかなぁ。当時、こんな埋もれた曲を知ってるヤツは少なかったし、「平山ミキ」自体をマジで聞いてたヤツはちょっと変なヤツが多かった(笑)から、結局リメイクもイロモノ扱いで終わってしまいましたね。(ちょっと残念だったね)「横須賀、横浜、原宿、六本木~、」って出だしで始まるこの歌はそれなりに当時の不良の心をくすぐる良い味を出していました。平山ミキさんのベストヒット版CDがリリースされたとき、私もすぐに買いましたが、この曲は残念ながらレパから外れておりました。(もう一度聴いてみたかった)ということで、この近田春夫さんて人は昔からかなり変わった人のようでして、商業ベースにあまりこだわらずご自分の感性を追っていかれる方のようです。業界デビューは1971年羅生門というバンドで、日本国憲法(平和・自由・愛)というロックアルバムをリリースしています。しかしスゲータイトルですね、ってか、なんじゃこりゃって感じです。メンバーは、杜吉弘(ベース:ハプニングス・フォーのペペ吉弘)、ポール湯川(ヴォーカル、ギター:ハーフブリードのポール・リー)、近尾春親(キーボード:近田春夫)、金沢純一(ドラム)、金子道大(サックス、ヴォーカル)の4人。ってか、たぶん誰も知らんでしょう、こんな人たち。時代的には日本のロック黎明期で、はっぴいえんど、フラワートラベリングバンド、頭脳警察、村八分などが活躍していた時代です。ちなみにこのペペ吉弘さんは映画「八月の濡れた砂」のサントラを手がけた人ですね。更に80年代に入ってからは手塚治虫先生のご子息、手塚まことさんと一緒に「星屑兄弟の伝説」なる映画制作で音楽監督をされてました。風貌が梅図かずおさんとイメージ的に重なるんですけど、独自の感性を持たれた面白い方でした。またも話が脱線しますが、このファンキーダッコ・ナンバーワンって曲、後年ダウンタウンブギウギバンドが出した「あ、そう」っていうディスコものによく似てました。こっちも管楽器なしのクラビ中心のダンスナンバーで、コーラス部はブレイクが入って「アッ、そう」っていうだけのもんだったんですけど、ちょっぴりファンキーでした。大手レコード会社がオケやスタジオ使ってそれなりに作ったディスコサウンドに比べたら、これらのマイナー編の方が数十倍は面白かったしFUNKYでしたね。やっぱ創り手の「楽しみ」みたいな洒落が音にも出てきますから、音だけ真似して作っても所詮は猿真似にしかなんないってことですね。当時の日本のロックバンドの中にも同時のGROOVEでFUNKYな音創りをしていたミュージシャンも沢山いたんですけどね、つまらぬ商売でこういった芽を摘んでしまったディスコ業界がちょっと腹立たしくも思えます。サディスティックス、チャー、桑名正博とティアードロップス、スペクトラム、キミコカサイ、金子マリとバックスバニー、ジョニー吉長、ジョー山中などなど、大衆路線には迎合しなかったツワモノたちがもうちょっとディスコ業界に浸透していたら、ニッポンのロックシーンももっと面白く変化していたのではないかと思います。っていうか、私が現役だった頃にこうしたミュージシャンと今風に言うコラボレイトしてみたかったなぁ~と思うわけです。ディスコ畑とロック・ライブ畑の融合みたいな。って、これもやっぱ爺のぼやきになっちゃうのかなぁ~。ブツブツぶつぶつブツブツ・・・。
2006年05月13日
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昨日の続きです。相変わらずの爺の昔話は多少時代のズレがあるかもしれませんが、記憶だけが頼りで書いてますのでその点は御了承下さい。さて、スリーディグリーズの爆発的ヒット「荒野のならず者」ですが、このタイトル、凄いですねぇ、西部劇の主題歌のようです。マカロニウェスタンみたいな感じもしますが、現代は「Dirty old man」ってことで、スケベ親爺って意味ですね。ニュアンス的には、「エッチね、このスケベ親爺は~」みたいな感じでしょうか。老練な軟派師が若い娘をたぶらかすやり取りを歌ったような、チョイセクシーなダンスナンバーですね。ちなみにこのアルバムは見開きになっていて、縦型のピンアップで三人がシースルーファッションで並んで立っているという豪華なものでした。しかも、シースルーっていうだけにスケスケで胸が見えるんですよね。アルバムジャケット開いた途端に目が釘付け、ドキっとしたのを覚えています。昔はこの手のR&Bジャケはちょっとエッチなのが多かったですね。シュープリームスとかティナターナーとか、肉感的というか泥臭い色気が漂っておりました。(^。^)スリーディグリーズは元々ストリッパーの流れから這い上がってきたグループですから、色気を売りにした戦略がバッチリ当たったってことでしょう。彼女達のデビューアルバム「メイビ(MAYBE)」なんかも、語りが入っていて当時にしてはかなりきわどいものでした。アルバム自体は可も無く不可も無く、フツーのコーラスグループのアルバムでしたが、このデビュー時からすでにお色気作戦は決まっていたようです。まあ、アメリカではメージャー志向のアーティストが、その下積み時代にどんなことをしていたかなんてのはあまりスキャンダルやゴシップにはならないようで、このあたりは「芸」のみを評価するという厳しいながらも業界の奥行きの深さを感じます。要は現在の「芸」を評価することと、過去ナニをしていたかとは別問題という捉え方が非常にはっきりとしています。マドンナも売名行為のために実験的なポルノに出たりしてましたし、古くはバーバラ・ストライザントなんてポルノ女優から道を切り開いた人ですね。今でも彼女が出演したポルノが売られていますが、もちろんマスコミも含めてそのこと自体でとやかく言う人はいないし、誰も気にもとめませんね。ここらへんはニッポンの業界とは雲泥の差があります。その昔、天地マリがソープで働いてたとか、そんなゴシップがジョークのように思えます。(ってか、ちょっと古すぎてついてこれなかったりして・汗;)え~、またも話が脱線しましたが、70年代の終わりから80年代初めはディスコブームの頂点とも言える時代だったわけで、その波紋は色々なジャンルの人々に影響を与えたと思います。昨日は日本のミュージシャンが海外録音に出かけた話をしましたが、逆に日本に出稼ぎに来ていた海外のバンドを使って日本デビューさせたりすることもありました。一番有名なのは「ディスコお富さん」で有名なエボニーウェッブですね。懐かしいでしょ。「イキナクロベェー、ミコシノマ~チュニ」キングレコード製作、深町純アレンジの和製ディスコサウンドでした。しかし、くだらねー企画だよね。ホント、ニッポン人の発想、特にレコード会社とか企業人の考える企画なんてこの程度ですね。バンドは当時赤坂ムゲンに出演していた黒人バンド・エボニーウェッブ。まあ、プロモーター、マネージャー、ニッポンのメージャーレーベルが絡み合って、彼らもチャンスは全てGETしたいと思ったのではないでしょうか。そーいえばこれも、なんだか妙なステップとか考案したヤツとかもいましたっけ。私的には、この企画の第二弾「民謡シリーズ」が好きでした。特に花笠音頭のイントロのメローなノリと抑揚のあるレディスヴォーカルの甘さが何ともイイ感じでありました。もちろんヒットなんかしやしませんでしたけどね。(当たり前だろって)あとは、ディスコ業界ではないんですが、もんた&ブラザースもちょっと異色だったし、フライング・ミミ・バンドとか、井田リエさんとか笠井キミコさんなんかも顔を覗かせていました。笠井キミコさんはハービー・ハンコックがプロデュースした「チェイン・リアクション」なんてのはもうかなりFUNKYなディスコバージョンでした。オリジナルはマイケル・フランクス、クルセイダースもこの曲は取り上げていました。とまあこんな感じでとにかく世界的な規模で「ディスコ」というものが浸透していった時代でもありました。ここらへんが、解釈の違いというか、商業ベースというか、一般大衆路線というか、ディスコという言葉がどんどん独り歩きを始めていってしまった時代でした。レコード製作者はディスコを単なる踊るサウンドという見方しかしていなかったし、後にユーロと呼ばれるようになったヨーロピアンサウンドも、リズムキープ、単調なビートにオーケストラ風の音で厚みをつけたデラックス・ダンス・ナンバーみたいな感性で捉えていたように思えます。特にニッポンでは、覚えやすいコーラスのリフと軽やかなメロディーがウケ易いってことに注目した各社は続々とこの手の「音」を導入してきました。「はろー、はろー、みすたーもんきー」って、ハローキティのルーツでしょうか。(笑)まったく意味がわかりませんね。「じん、じん、じんぎすか~ん」って、最近のモンゴルブームの先駆者ですね。そのうち、ラスプーチンだのモスクワだの北欧系も登場してきて、ララバイだのフライデーナイトだのサンチャゴラバーだのと、とにかく覚え易いゴロ合わせみたいなのが沢山、沢山出てきました。ここで踊り場⇒ディスコの流れは完全に絶滅して、踊る宗教となっていったわけです。(笑)最近ではズンドコ・サウンドとか呼ばれてますが、この当時を遊んだ方々にはそれなりに想い出になる楽曲なんですからバカ系とかいう表現はいけませんね。(笑)私のようなSOUL=FUNK系で育った親爺の感性とは随分と違った持ち味ですが、理解できないからといって見下してはいけません。たとえ体が受け付けなくても(^。^)ということで、アラベスクだのドゥーリーズだのボニーMだのと色んなのが出てきましたが、簡単に言えばニッポンは稀にみるマーケットで非常に儲かったってことでしょう。ボニーMはどうだか知りませんが、アラベスクやジンギスカン、ドゥーリーズなんてのは多分ニッポン人の間でしか語り継がれていないと思います。(笑)実態も不明ですね?そんなこたぁどーでも良いのですが、80年代初頭、こうした実験的サウンドがディスコに数多く投入されましたが、結果的にはニッポンのディスコ業界の寿命を縮めてしまったのも事実と言えそうです。(自分たちの手で時分達の首を絞めたってことでしょう)でも、怪我したのは現場の人間だけですね。商業的に関わってきた人たちは、次のステージに進んだというだけで、残された者はそこから本当に意味で地獄が始まったと(笑)もう少し時間をかけて、ディスコダンスというものを育てていったとしたら、ニッポンの音楽業界も随分と変わっていたのではないかと思います。といっても所詮は結果論ですから、言ってみればFUNKYじいちゃんの単なる思い入れとぼやきなのかもしれませんね。
2006年05月12日
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昨日は80年代に流行ったディスコ系サウンドのお話をしましたが、ちょっと書き忘れたこともあるので今日はその続編です。80年代はニッポンのROCKミュージシャン(POPSも含めてね)達が続々と海外レコーディングへと向かって行きました。まあ、いうなれば時代の流れというか流行りと言うか、海外で録音することがひとつのステイタスみたいな感じでありました。そのような海外(っていうか主にNY、LA~アメリカ)かぶれしてきた音楽シーンにあって、実力でインターナショナルの地位を築いていったアーティストもありました。昨日も書きましたが、なんといってもYMO(イエローマジックオーケストラ)の活躍は目を見張るものでした。なんせビルボード誌のTOP100にも載ったし、米国、英国ツアーも盛況で世界が注目したテクノ・サウンドということではニッポンが誇れるアーティストでありました。これって今思うとアキバ系テクノ人種のルーツのような気がしますね。(笑)そしてもうひとつ忘れてはならないグループがおりました。ラウドネス!私ゃこのあたりのメタル系は殆ど知らないし興味も無いのですが、彼らの活躍は手放しで称賛に値するものだと思います。(どっちかっつーとブリティッシュ系ですが・・・)前身バンドはレイジーですよね。アイドル路線のロックバンドから見事なホンモノへの脱皮でした。っていうか彼らは元々ホンモノ志向だったようで、ヘビメタはあまり得意でない私でも、こいつらうめぇ~なぁ~、と思いましたもんね。まあ、言ってみれば彼らも後に続くXジャパンとかのルーツのような気がします。とにかくなんだかんだ言っても「志」を捨てずに業界から飛び出した根性者といえます。さて、では私の得意のディスコ分野ではどうだったかというと、これが残念ながらディスコからメージャーに飛び出したヤツはいませんね。(所詮イロモノだったのかなぁ~)っていうか、ホンモノ志向のヤツはディスコなんか相手にしてなかったってトコでしょうか。売上伸ばすためのマーケットのひとつくらいにしか思ってなかったんじゃないかなぁ~。でもって、ざっと思い起こしてみましょうか。70年代前半でいうと、「リッキーと960ポンド」「スリーチェアーズ」なんかが印象に残っています。どちらもディスコ(っていうかゴーゴーハウス)のバンドから出てきた実力派ですね。当時はメシ食うためのディスコに出ていたバンドが結構多かったので、彼らが特別ディスコサウンドにこだわっていたというわけではありません。でも、サウンド的にはブラック、R&B系でしたけどね。スリーチェアーズには物真似で御馴染みのグッチ裕三さんがアフロして歌ってましたね(笑)マジで、上手かったし、コミックバンドじゃなかったですよ。ブラックファンのための雑誌「アドリブ」創刊号でも紹介されていたと記憶しています。そういえば、ウガンダさんも昔ゴーゴーボーイ(お立ち台で踊るサクラ)やってたし、彼はドラマーとしてバンドもやってましたね。確か「ズーニーブー」ってグループのヴォーカル(ハイトーンの歌手)と一緒にバンド組んでたと思う。売れる前の下積み時代です。それから「クリスタルキング」は有名ですね。そうだ、やはりディスコから出たバンドとして成功したのはこのグループでしょう。でも、彼らはソウルとかディスコでメージャーデビューしたわけじゃないから、私的にはちょっと感覚が違います。彼らは博多のディスコで演ってましたが、当時の業界でもかなり注目を浴びたバンドであったことは間違いありません。黒人ミュージシャンの間でも、確かリーダー格のキーボードプレーヤーの腕は評判でした。ちなみに彼らが「大都会」でブレイクするまえに、キングレコードから「ブープー・ハッスル」ってシングル出してます。もちろん企画倒れでした。いかにも和製ディスコサウンドって感じのダンスナンバーで、「ブープー・ザ・ハッスル!」とかいうコーラスが入っているだけのイロモノでした。後年になってかなりイイ線いってたのが「トミー・ザ・ビッチ」ですね。ジャケが色っぽかったし、トミーもセクシーでちょっと沖縄系みたいな黒っぽい感じで、当時の人気者笠井キミコを若くしたようなイメージでした。大ブレイクとまではいきませんでしたが、「抱いて火をつけて~GIVE IT TO ME ONE MORE TIME」は結構ディスコでもかかってました。私はアルバム収録の「シューラ、シューラ(だったと思う)」が中々お気に入りでせっせとかけた覚えがあります。「シュ~ラ、シュ~ラ」って色っぽい声で歌うんです。(ってそのまんまだっつーの)あとはねぇ、新宿のプレイハウスに出ていた双子のシンガー「キューピッツ」っていうのが、「マキシマム」って名前でデビューしました。こっちは英語で歌ってて、TVドラマ「チャーリーズエンジェル」のエンディングテーマかなんかだったと思います。タイトルは、確か「ナッシング~NOTHING」だったかなあ。昔よくプレイハウスで顔合わせてた馴染みだったので応援しましたが、結局一発屋で終わってしまったようです。でも元々根っからのミュージシャンですから、メージャー進出は果たせなかったけれども、未だどこかで歌い続けていると思います。その他和製ディスコてのが数多く有りましたが、そのほとんどがスタジオ集めて適当に作ったモノですから、ここで取り上げるほどのもんじゃありません。音楽的にはみなそれなりにイイ線はいってましたが、所詮は作りモノって感じで、私らにとっちゃ「本気」加減が全然伝わってきませんでしたから、所詮は時代の流れに埋没していったってことですね。ファンキービューローとかね、結構サウンド・センスは良かったけどね。だからなんだって感じですか。(笑)ポパイのスピニッジパワーとかも、頭痛くなりそうでしたね。ディスコなめてんのか!みたいな。随分とこの手の「ディスコサウンド」ってありましたね。このあたりから「ディスコ」という言葉が非常に安っぽくなってしまったような気がします。昔の「踊り場」から「ディスコ」に変わった時代は、洗練された大人にイメージがあったのに、後年は皆で手を挙げて「えらいヤッチャ、えらいヤッチャ」みたいなのがディスコの代名詞に成り下がってしまいました。そうだ、もうひとつイロモノで面白いのがありました。バンド名が思い出せないんですけど、映画「花の応援団」のテーマソング演ってたグループ。彼らのセンスは抜群に面白かったですね。音的にはロックなんですが、当時のイロモノの中では実力があって、わかっててやってるって感じがありました。イントロで「ちょんわ、ちょんわ~!」とか言い出してみたり、そのレパのタイトルからして楽しめました。「酒池肉林」「役者やのぉ」とかね。元は漫画の中のはやり言葉・セリフなんですが、これがマジで面白かった。「太っ腹ブギ」なんてのもありましたっけ。ふとっぱら~、ぱらぱら~とかコーラスが入ってて、いい味出してましたね。もし音が残ってたらもう一度聞いたみたいなぁ~。(笑)最後に、スリーディグリーズの快進撃も書いておきましょう。「荒野のならず者」で日本デビューを飾ったスリーディグリーズは、ソウルトレインのテーマ「TSOP」で一気にスターダムにのし上がりました。The Sound Of Philadelphia の頭文字TSOP、更に演奏はMFSB=Mother, Father, Sister, Brother の頭文字、コーラスは3℃(Three Degrees)って略英語も流行りました。そして日本では「苦い涙」という和製ポップの名作や、天使の囁き~日本語ヴァージョンなど、お茶の間のアイドルにまでなりました。私ゃ、新宿のビッグトゥゲザーに出演したとき楽屋でご一緒(笑)させて頂きましたが、色っぽかったですね。(こらこらっ!)ということで、また脱線してしまいましたが、この続きはまた明日書きます。
2006年05月11日
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え~、昨日はTOTOのDVDをご紹介しましたが、晩飯に立ち寄った近所の定食屋で古新聞を見ていたら偶然にも尾崎亜美さんのコラムに、ポーカロ兄弟、スティーブ・ルカサーとのセッションの話が乗っておりました。亜美さんいわく、当時はまだ海外レコーディング(まあ特に米国ですね)は例がなく、言葉もわからぬまま冒険に出たというようなことを語られておりました。(確か5月2日付東京新聞だったと思います。念のため・笑)でもって、アレンジャーはデヴィッド・フォスター(この名前懐かしいですね)、スタジオはポーカロ兄弟とスティーブ・ルカサー他豪華メンバー(といっても当時はまだ新鋭のミュージシャン扱いだったようです)で、ろくすっぽ英語もわからぬままアルバム創りが始まったとのことでした。ところが実際にスタジオに入ってみると、言葉以上に感性で理解してくれるその理解力の深さに驚いたそうです。さらにポーカロ兄弟+ルカサーのリズムセクションの素晴らしさはかなり刺激になったと言っておられました。え~、このアルバム・タイトルはすっかり忘れてしまいましたが、もう一度聴き直してみたいと思いました。亜美さんは作曲家としても松田聖子さんはじめ色々な方にも曲を描いておりますが、今でも私は彼女の子供っぽいハスキーな声が好きです。印象に深いのが、これもタイトルは忘れてしまったのですが、限定付録でアルバムのオマケについていたシングル盤「クリスマスソング」がとにかく良かったですね。歌詞も可愛くて、音は確かデヴィッド・フォスタープロデュースだったと思います。かなり昔の話で音源が手元にないのが残念ですが、もう一度聴いてみたい「音」です。80年代は日本のアーティストがこぞって海外レコーディングに出ていった時代でもありました。特に「L.A.録音」というタタキはアルバムコピーに頻繁に登場していました。まあ、猫も杓子もアメリカでレコーディングってのが一時の流行病みたいなものだったですね。(笑)野口五郎さんのLA録音ってのもあったなぁ~。ディスコの方でも日本のアーティストがちょこちょこ顔を出し始めてきて、それまでアメリカン・コンプレックスが強かった日本のROCKも次第に米国サウンドと融合しつつインターナショナル志向が生まれてきたのもこの頃だったような気がします。それまではアメリカのコピーを日本語でやっていたようなものが、次第に日本人も英語で歌うようになってきて、ちょっとしたハヤリにもなりました。その先陣を切ったのはなんといっても「ゴダイゴ」でしょうね。TVドラマの西遊記(境正章、夏目雅子主演)のテーマ「ガンダーラ」、ディスコでも踊ってた「モンキーマジック」なんか、日本の「音」じゃないと思ってた人もいたんじゃないかなぁ。メンバーも日米混成楽団みたいな感じで、やはり日本のROCK史上ではエポックメイキング的なバンドだったと思います。ちなみに最近知ったんですけど、ヴォーカルのタケカワさん、当時は英語はまるっきりダメだったそうです。(笑)私はてっきり皆ハーフかバイリンガルだとばかり思ってました。この後から続々とインターナショナルを目指すバンドが登場してきましたが、やはり英語で歌うというところがどうしてもネックだったようです。聴いてる方がわからないもんね。特にディスコあたりじゃ、ゲロンパッ~ブーギーだもんね。ってことで歌謡曲でもないアメリカンロック(ポップス)でもない、非常に中途半端な存在だったですね。でもサウンド面では既にYMO(イエローマジックオーケストラ)が世界的に高い評価を得ていましたし、JAZZ界でも日本人アーティストは目覚しい活躍をしていました。ちょっと時代の脈略が飛びますケド、チャーとルカサーの競演アルバムなんかも結構面白かったですね。商業的にはチョットこけたみたいですけど。(笑)つのだひろさんのジャップズギャップズなんかもかなり恰好よかったです。そして、私は個人的に、当時の最先端を走っていたグループとして「ショーグン」を挙げておきたいと思います。前身は芳野藤丸さん率いる「フジ丸バンド」を経て「ワンラインバンド」そして「ショーグン」と流れていったものです。メージャーヒットでは故松田優作さんのTVドラマ「探偵物語」のテーマが有名ですが、彼らのファーストアルバムをお聴きいただければわかると思いますが、とにかくミュージシャンとしての奥行きがとてつもなく深いことに驚かされます。簡単にフュージョンとかいう言葉で括ることのできないサウンドです。タイプ的にはオリジナル・サバンナ・バンドを彷彿とさせますが、ひとつのジャンル、音楽カテゴリーにこだわることなく、スウィング、ブギー、ロック、ポップ、ジャズの融合というか、エッセンスを含んだサウンドは今聴いても全然新しいです。っていうか、80年代じゃちょっと出るのが早すぎたのかもしれません。って今の時代まで待ってたら皆ジジイになっちゃてるからやっぱ無理だったのかなぁ~(笑)大橋純子&みのやセントラルステーションなんてのもいましたが、このグループも残念ながらちょっと中途半端でしたね。グラハム・セントラルステーションに憧れてたみのやさんのサウンドもヘビーで嫌いじゃなかったんですけど、やはり当時は一般受けするには歌謡曲路線を走らなければならなかったところが辛いトコだったと思います。TOTOの話から随分脱線してしまいましたが、なんだか80年代当時のバンド感性がちょっぴり甦ってきて懐かしかったですね。そういえば矢沢の永吉っつあんのP.M.9ってアルバムにルカサー氏のギターソロが入ってましたが、やたらカッコ良かったですよね。歌は相変わらずの矢沢節でしたが、「だぁれでもイイ~、騒いでくれ、ベェベェー!」で始まり途中のギターソロでいきなりガラッと雰囲気が変わったのに驚いたことを覚えてます。ちなみにあのアドリブソロは一発テイクだったと、矢沢氏がインタビューに答えていたのも印象的でした。スタジオ・ミュージシャンは時間給なので製作者の意図を出来るだけ早く理解して、素早くテイクを挙げることが売りのテクニックですから、その話を聞いて売れっ子のスタジオの感性は並大抵のものじゃないと実感した覚えがあります。まあ、日本でも同じで、スタジオ上がりのミュージシャンは百戦錬磨のツワモノばかりですから、なにやらせてもきちんとこなす職人技みたいなもんですね。あれっ、何の話してたんだっけ?ちょっとこの頃は話に夢中になると脳内ヒューズが飛びまくるようで失礼しました。ジジイの昔話バンド編80年代でした。ちょっと親爺の独り言~どうも私は最近の日本語のラップが気持ち悪くてしょうがないのですが、皆様はいかがでしょう?ファッション的にも米国産のヒップホップだし、身振り手振りとかも米国産、もちろん肝心の音も米国産、でもって日本語で喋るって、ヒジョーに気色わるいんですけど(笑)どうせ日本語でやるなら、日本のエンヤットットのビートに乗せて民謡風にやるとかすれば面白いのに、どうもこの手の若者を見ていると昔の自分たちを見ているようでこっ恥ずかしくなります。カッコはブラック中身は演歌みたいな(笑)だってさ、イエィイエィとか言って、日本語でラップしてる姿を英語圏の人たちが見たら、チンプンカンプン、たぶんギャグとしか思えないんじゃないかな。でも、韓国や中国なんかも米国産の音に乗せて原語でラップしてるから、これってアジア的な流れなのかなぁ~ブツブツぶつぶつブツブツぶつぶつ・・・・・・・・・・・
2006年05月10日
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道楽愛好家の皆様こんにちは。相変わらずどーらくをやり倒す非生産活動推進委員会でございます。さて、道楽親爺の最近のどーらくであります「DVD焼き」も順調にヤキ入れが進みまして、そろそろ「戦友便り」の続編に取り掛かろうとしております。そんな中、またしてもシブイDVDとめぐり会いまして、こりゃあ書かずに入られないネ、という感じで久々に音楽的ノーガキをコカせて頂きます。私は元々バンド志向だったものですから、ピンのヴォーカリストよりはバンドの方が好きで、特にライブものではやはりアドリブの技に目がいってしまいます。最近見たDVDではオープニングから一気に盛り上がってしまったCHIC、ちょと渋めのクール&ザ・ギャングなどがマイ・コレクションの上位ですが、またまた凄いライブビデオにぶち当たりました。TOTO~2003年ライブコンサートえ~、ジジイは評論家ではないので(っていうかかなりいい加減、物忘れも酷いので)、会場や日時などの詳細は省きます。(笑)とにかく最近のライブだったのですが、これが結構良かったデス。TOTOといえば80年代前期から中期にかけてAORとかいうジャンルでディスコでもプレーされたりしていましたが、私はボズ・スキャッグスのバックをやっていた頃から好きなアーティスとでもありました。ポーカロ兄弟とスティーブ・ルカサーは一時代を築いた素晴らしいミュージシャンでもありました。残念ながらTOTOのサウンドの核であったジェフ・ポーカロ(ドラムス)が他界してからは低迷していってしまった感がありましたが、今回このDVDを見て、彼らの実力というかセンスは未だ健在と再認識しました。そういえば、このTOTOのドラムセットが一時流行ったことがありましたね。ポーカロ・モデルとかいって、確かYAMAHAだったかなぁ、商品化しましたよね。バスドラ、スネア、タム、ハイハットなどがスチールパイプで固定されて、乱打にもポジションがずれないようなセットでした。残念ながらDVDのライブではポーカロの姿は見ることはできませんが(って当然ですね、故人のご冥福を祈ります)、代わりになんとあのサイモン・フィリップスがタイコを叩いているのです。(彼は他のメンバーに比べてあまり老けてませんでしたヨ)ちょっと私事で恐縮ですが、その昔私がバンドなんぞをやっていた頃にタイコを叩いていたモンチ田中が強く憧れていた左利きドラマーの凄腕がサイモン・フィリップスでした。彼はギッチョのくせに右セットのフツーのセッティングのまま叩いているんですね。モンチ田中がこれを真似していたのを非常に懐かしく思いました。左手でハイハット刻んで、右手でスネアを叩くんですよ。それもごく自然に。しかもオカズ(すんませんドンバ用語でアドリブのことです)もかなりシャープなロール打ち、オフビートなどなど、とにかくタイトなビートを刻んでくれます。カッチョ良かった~!元々TOTOはROCK系なんですが、うるさい音をタイトに聴かせるこの手法とテクは今聴いても全然新しかったです。そして、TOTOと言えばやはりダントツで人気の高かったギタリスト、スティーブ・ルカサーのトリッキーなギターも衰えることなく渋味が加わって、チョイ鳥肌ものでした。CHICのナイル・ロジャースの時もそうだったように、二人とも年季の入ったストラトを抱えている姿は同年代のファンとしてはたまらなくシブかったですね。まあ、メンバーも全員がそれなりに年食った感じで、全体的にぽってりとした白人系おっさんバンドと言う感じではありますが(笑)、こと「音」に関しちゃ、そこらの鼻タレROCKERが太刀打ちできるようなバンドではありません。え~、曲目はどちらかと言えばROCK系が目立ちますが、往年のディスコファンには御馴染みの「ジョージー・ポージー」「アフリカ」「ロサーナ」なども盛り込まれていて、その演出も中々に見事です。途中のアドリブではJAZZっぽいノリをチラっと見せたり、ジミヘン張りのトリッキーなサウンドを聞かせてくれたり、時にはヘビメタ風にディストーションの効いたハードなギターなど、まさにクロスオーバー、大人のテクをじっくりと見せ、聞かせてくれます。ということで、こればっかりはいくら口で説明したところで実感は湧きませんね。百聞は一見にしかず~What you see is what you get~ってことですから、道楽親爺の戦友便り最新版をお待ち下さい。(他にもまだまだ一杯あるからねぇ~)それとついでにマイケル・ジャクソン、見てしまいました。10年ほど前のライブコレクションですが、私は日本公演もこの米コンサートのビデオもテレビからの録画しか持っていないので、ヤキ入れもメンドーくさいてことでつい買ってしまいました。「デンジャレス・ツアー」ライブです。マイケル君、もう飽き飽きという感じなんですが、これがどうして、見るとやっぱりはまってしまうから、ディスコ親爺はダメですね~。つい踊り出したりしてしまうファンキー爺でした。実は、このライブの「HEAL THE WORLD」のシーンが好きだったのですが、私の所有ビデオはこの部分にノイズが入ってしまっていて、ついでだからとTOTOと一緒に買ってしまったんです。これで古ビデオは捨てられるから奥方にも怒られないでしょう。(笑)ちなみに私の長女が生まれた頃はJAPANツアーのビデオ毎日一緒に見てたし、長男の時はこのライブビデオ見てましたから、二人とも潜在意識に残っているんでしょうね。今回も黙って一緒に見ていました。(笑)心地よかったのかなぁ~。ということで、道楽親爺の戦友便りはこれから続々と発信していきますのでお楽しみに。なお、これらのどーらくDVDをご希望の方はメールにてアドレスをお送り下さい。気が向いたらお送り致します。(笑)ってか、ホントにこのジャンルが好きな人には不定期発送、気まぐれ選曲、思いつきコピーと言う具合ですが、ボチボチと皆様にお裾分けして参りたいと思っております。なお、非生産活動推進委員会主催「戦友会」の応募資格は、1.ビンボーである。2.昔ディスコで踊ったことがある。(あるいは昔のディスコに興味がある)3.一銭にもならない無駄なことをするのが好き。4.一般人が「くだらねー」というような趣味を持っている。5.爺の昔話を根気よく聞くことができる。6.著作権協会が嫌い。というような特異体質をお持ちの方はご遠慮なくメールをお寄せ下さい。戦友会の皆様、近日中に戦友便り最新版を配送致します。TOTOは今回は間に合いませんので、また次回ということで。ナニが届くかはお楽しみに(^o^)オマケ(しつこいぞぉ~)まだまだ続く「貧乏自慢」「バカ自慢」、面白いお話を聞かせて下さい。BBS、コメント、メール、なんでも結構ですから、どーらくもんのバカっ話を送って下さい。皆様からのどーしょーもない自慢話、馬鹿ネタお待ちしてま~す。
2006年05月09日
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いや~、ようやくゴールデンウィークも終わり一息ついた道楽者です。昨日は帰国ラッシュということで私も大忙し、早朝にコメントを打ち込んだだけで、とうとう丸一日パソコンの前に座ることができませんでした。マイク越谷さんの奥様ご一行も無事帰国されやれやれといったところです。今年はマイクさんもストーンズの来日公演で年明けから大忙しだったようで、今も週末はイベントやラジオの仕事でフル活動のようです。まあ、言ってみればマイクさんも自営業の一匹狼ですから、稼げるうちに稼いでおこうと頑張っているのでしょう。それでも相変わらず大酒飲んで騒いでいるらしく、体の方が少々心配です。奥様曰く、もういい加減年なんだから少しは控えれば良いのに、若手とイベントなど一緒になると結局朝まで飲み明かしてしまうそうです。業界らしいっちゃ、業界らしいんですけどね、やっぱ体が資本ですから少しはセーブして欲しいと思います。ちなみに、小林克也さんも心臓がちょっと弱ってきているとのことでした。ディスコ協会の勝本さんは癌らしいし、先輩方は皆そろそろガタがきはじめているようです。そういえば、同年代ではトーマスが早くも逝ってしまいましたが、先輩諸氏に比べてディスコ業界の戦友達は結局現実面でも苦戦を強いられているように思えます。越谷さんの奥様が帰り際におっしゃられておりましたが、「せんみつだから」普通の暮らしができるだけで幸せと思わなければ、こんな道楽持ちの亭主とはやってこれなかったと笑っていました。「せんみつ」って、せんだみつおじゃありませんよ。(笑)千に三つもない、ってことで、ヤマシのようなことを言います。だから業界で生き残って、かつ現役というだけでも、これは私たち道楽者にとっては成功者と言えますね。私の回りでは、鈴木昇治氏、松本みつぐ氏、オーティス中村氏、このあたりが成功者と言えるのではないでしょうかね。とにかく業界に生き残ってるだけでも尊敬に値するし、最後まで好きなこと、道楽を諦めなかったってことでは戦友として誇りに思います。あとはNETで再会したテリー氏などもちょっと変わった形で道楽を体現していますね。元々彼の芸風ってこんな感じだったから、これはこれで、やはり現役とも言えるのではないでしょうか。(笑)テリー氏は昔から時代を見る目というか、時代との関わり方の角度がちょっと変わっていて、そこが面白かったんですが、今もその志向性というかキャラはあまり変わっていませんね。私が新宿のブイワンという店で彼に初めて出会った頃は、すでにアフロを落として、今風にいうとアメカジみたいなカッコに凝ってまして、俗に言うヒッピーっていうのかな、そんな感じのノリでした。まあ、いうなれば流行の先駆けみたいな感性を持ってる人でしたね。でもって、その後しばらくぶりに会ったら、今度はアフロしてモロにブラックになってた。なんだ、あいつ時代を逆行しているのか?とか思ってるうちに今度はレゲエっぽくなってて(まだこの時代はレゲエはかなりマイナーでした)、麦藁帽子に草履とか履いて現れました。(うーん、なんか落ちつかんやっちゃなあ、って感じですか・笑)そして次に会ったのは小田急線の朝帰り電車の中でした。その時はロンゲでサーファーになってた。もちろんこの時代はまだサーファーはブームになっていませんでしたから、ハワイアンにでも憧れてるのか?とか思ったりしてましたね。とまあ、そんな感じで常に彼のアンテナは時代の先端をキャッチして独自の感性に取り込んでいく、というような芸風は今も変わっておりません。NETラジオやブロードキャスティング、DJなどなど、年なりの感性で時代を走っています。そうして考えてみると、彼も現役っちゃ、現役かもしれません。業界には籍を置かずともどーらくと時代の接点から言えば現役を走っていますよね。ということで、体は大事にして下さい。(笑)体有ってのどーらくです。くどいようですが、私もこうしてどーらく仲間の皆様と出会えたのも、テリーとの再会があってのことですから、彼に足を向けては寝れませんね。(笑)せめて肘くらいにしておかないと。ジジイの話はくどいんですケド、あの時代、後先考えずに突っ込んでいったバカ者たちが時代のデカイ波に呑み込まれていった時のジタバタさっていうのは、まさに津波に呑み込まれたような悲惨な状態であったわけです。その辛さというか、苦労をかき分けてなんとかここまでたどり着いた、というような感じではないでしょうか。ですから、こうして再びめぐり会った戦友の皆様との繋がりは、大切にしていきたいし、なんとかこのまま頑張ってみんなで三途の川まで泳ぎきっていきたいと願うばかりです。みんなで逝けば怖くないって(笑)えー、今日はどうも、道楽者の先輩の奥様に苦労話などを聞いてしまったせいか、センチメンタルな気分になってしまった道楽親爺ですが、今日も一日頑張ってFUNKYに生きます。どうぞ皆様もFUNKY魂を忘れることなく闘いの旅を続けて下さい。おまけ皆様からの「貧乏自慢」「バカ自慢」エッセイ募集はまだまだ続けますから、気が向いたら書いて下さいね。みんなでバカネタを笑うことが目的ですから、お気軽にお寄せ下さい。どんなネタでも歓迎です。道楽者に安らぎを与える馬鹿っ話をお待ちしております。
2006年05月08日
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お知らせ非生産活動推進委員会では只今「貧乏自慢」「バカ自慢」エッセイを募集中です。形式はこだわりません。あなたのつまらない自慢話をどしどしお寄せ下さい。コメント、掲示板、メール、どれを使って頂いても結構です。貴方の一銭にもならない自慢話を一方的に語って下さい。みんなでバカな経験を笑いモノにするというくだらない企画ですが、とてつもなくバカバカしい自慢話などには、気が向いたら賞品などもご用意しますので是非みなさまで遊んで下さい。お知らせ終わりえ~、ゴールデンウィークだというのに何処にも行けず、ウダウダとこんな爺のブログを読んでいる道楽者の皆様こんにちは。(笑)委員長もこうしてグダグダと日記を書き込む情けない日々を過ごしております。BOMB!まあ、私の仕事も基本的にはサービス業ですから、一般市民がお休みする時が忙しくなる時なので頭の中ではホリデーとか祝日とかは営業モードに切り替わります。一種の職業病かもしれませんね。さて、このゴールデンウィーク、なんと私の先輩マイク越谷さんの奥様がサイパンに遊びにきておりまして、昨日より妙な盛り上がりを見せております。残念ながら今回はマイクさんはストーンズ関係のお仕事でご一緒できなかったようですが、奥様のご姉妹お二人とそのご主人の計4人でお越し頂きました。マイク越谷さんといえば、なんといってもローリングストーンズのファンクラブ日本支部初代会長で、未だ現役、音楽評論家、DJ、司会などバラエティに富んだ活躍をされております。委員長とのお付き合いは、このブログで以前にも書かせてもらいましたが、70年代のディスコブームの時以来です。越谷さんはその昔「リブヤング」(?ちょっと記憶が曖昧です)というテレビ番組で、紺野雄二さんと一緒に司会などもしておりました。私とはちょっと畑が違いましたが、それでも70年代はディスコのお仕事などでご一緒させて頂いたりもしました。当時の私はとにかくやたら向こうッ気が強く、生意気でしたから、年齢的にもキャリア的にいっても大先輩なのにタメ口きいたりして、今にして思えば赤面ものです。それでも越谷さんは未だに私のことをロニーと呼び続けてくれて、昔のままのお付き合いをしてもらっています。今回も奥様が来られるにあたっては、何度も電話で確認をとるような結構マメな性格で、やはり業界で長くやってこれた理由がわかったような気がしました。とはいうものの相変わらず業界のノリで、「ところでさ、ロニー、ストーンズ見に来ない?名古屋の席が余ってるのよ、5万円のVIP席が・・・」てなセールスも隙を見て繰り出す中々のツワモノでした。あんたねぇ、私ゃ、食うや食わずでこんな僻地で暮らしているんだから、いくら音楽好きだってそんな高価な道楽は出来るわきゃねーだろって、しっかりお断りしましたが、まあ憎めないおっさんの一人でもあります。とまあそんな具合で、越谷さんご夫妻もご子息二人が手を離れて、ようやく自分の時間が取れるようになったようです。ってか越谷さん自身はずーーーっと道楽やり倒してるわけですけど、奥様はそれなりにご苦労されてきたと思います。確か前回ご夫妻で来られたときは、次男の高校受験合格のお祝いだったと思いますから、かれこれ10年前になるのでしょうか。それでも当時はまだお互い若かった。(笑)そういえば、今年の年賀状はストーンズのキース・リチャードとのツーショットでしたが、キースの老け方に比べて越谷さんが妙に若く見えたのには驚きました。しかし、このマイク越谷さんはなんと20代で家を建てたという堅実な道楽者として、未だ旧友や業界で語り継がれるほどの人物です。当時から、業界で集まりがあるたびに何かにつけては「なんせ20代で家建てたんだから・・・」と、羨望と嫉妬の入り混じった表現をされておりました。昨夜も奥様とお話しましたが、当時の業界で働いていた道楽者の中ではことのほか越谷さんはおっさん臭かったけど、いまこうして振り返ってみると偉い人ですね。若さという勢いだけでテキトウにその日暮らしみたいな生活を続けていた当時の私たちは、堅実にコツコツと頑張る越谷さんをバカにしたような目で見ていましたが、誘惑だらけの業界でしっかりと自分の生き方を全うしてきた結果が今の自分の姿ということです。まあそれでも、私はまったく後悔などはしていませんが、歳を経てようやく人それぞれの生き方を認め合えるようになったように思えます。青臭い言い方ですが、条件や環境は違ってもやはり同じ時代を同じどーらくに生きた者同志の友情みたいなものでしょうか。ちなみに越谷さんのご自宅は埼玉県所沢の奥地で、当時はもの凄い僻地でありましたが、今や新興住宅地で閑静な佇まいを見せております。先見の目があったのかね、マイクさん。息子二人が家を出た後、丸々一部屋がレコードとCDの倉庫になってました。以前にも試聴盤CDを山のように送ってもらいましたが、もう現役離れて数十年、中にはチンプンカンプンのCDもあって、結局会社のスタッフにプレゼントってなことになりました。皆異常に喜んでたけどね。(誰だってモノ貰って喜ばないヤツはいませんね・笑)えー、今日はなんだかまったく私事になってしまいましたが、久しぶりに会った昔馴染みの奥様ということで馬鹿笑いの一日を過ごさせて頂きました。もう1週間くらい居ようかしら、なんて言ってましたけど、マイクさんはこれで結構ハメ外して遊んでたりしてね。まあ、道楽者夫婦の大先輩って感じで、夫婦を全うされたお二人には頭が下がります。オマケですが、越谷さんからの電話、「そういえばさ、ジュリー(鈴木昇二)に会ったよ。ラジオ(番組)始めたみたいよ」「へぇ~、相変わらず頑張ってんだね」「ほら、彼、昔からスポンサー引っ張ってくんの上手かったじゃない・笑」「まあ、生活力だけはたくましかったよね」「みつぐ君も頑張ってるみたいよ」「そーゆー話聞くとちょっと嬉しいね」ってことで、今年はこうした昔馴染みの消息でも追ってみようかなとも思っています。
2006年05月06日
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お知らせ非生産活動推進委員会では只今「貧乏自慢」「バカ自慢」エッセイを募集中です。形式はこだわりません。あなたのつまらない自慢話をどしどしお寄せ下さい。コメント、掲示板、メール、どれを使って頂いても結構です。貴方の一銭にもならない自慢話を一方的に語って下さい。みんなでバカな経験を笑いモノにするというくだらない企画ですが、とてつもなくバカバカしい自慢話などには、気が向いたら賞品などもご用意しますので是非みなさまで遊んで下さい。お知らせ終わり先日の太平洋沖(トンガ王国近辺)地震では、皆様からご心配頂き誠にありがとうございました。世界の塵ほどのこんな島を気にかけていただいたことに感謝申し上げます。お蔭様で、被害はまったくありませんでした。ちなみにこの地震が起きた時、委員長はNHKの衛星放送をただぼーーーーっと見ていたのですが、画面の上部に「ただいま太平洋でかなり大きな地震がありました」というテロップが流れ、たまたま一緒にぼーーーーーっとしていた奥方に「なんだこれ、録画じゃねーよな」とか呟いておりました。ビデオ生活に慣れきってしまっているのものですから、日本のテレビ番組に流れるテロップはみんな過去の録画という先入観があるので、どうもテロップにたいして緊張感が湧きません。「これって衛星放送だから、番組は古くてもテロップはリアルタイムじゃないの」「そうだよな。でも太平洋ったって広いからなぁ、これじゃ見当がつかねぇじゃねぇか」地震災害は津波の心配もあるので、ちょっとマジになって画面をじーーーーーーっとみていましたが、中々更新されず、次第に眠くなってきてしまい、「NHK!テメェこんな中途半端な情報で見てるもんにどれだけ不安を与えているのかわかってんのか、こらっ!」などとテレビに向かって啖呵をきった委員長でした。「太平洋って、日本は大丈夫かなぁ、津波」ちなみに奥方は千葉県銚子市出身です。(って、もう身内は誰も銚子にはいないんですけどね、やっぱ心配なのでしょうか)「まあ、どっちみち津波なんかきたら、この島は丸ごと呑み込まれちゃうんだし、心配しててもしょーがないから寝ようっと」(さっきの勢いはなんだったんだって感じですね)ということで、ご心配頂きました皆様には重ねて御礼申し上げます。さて、今日は子供の日です。(なんだかなぁ~)え~委員長も昔からジジイをしていたわけではなく、ちゃんと子供をやっていた頃もありました。(笑)私らの子供の時分は「鯉のぼり」なんぞ立てることのできるウチはごく限られていましたから、高い棹の上で風に泳ぐ鯉のぼりに憧れたものでした。割り箸に画用紙で作った鯉のぼりを長屋の軒先に立ててみたものの、ちっとも風になびかず、クレヨンの雑な配色にしゅんとなったりしました。あの風にたなびく黒と赤の鯉のぼりはカッコよかったですね。口をバカっと開けてバタバタとなびく姿は勇ましい男のイメージでした。そのうち近所の鼻タレ小僧は新聞紙で作った兜なんぞを被って、ちゃんばらごっこの始まりです。まあ、こうして思い起こしてみると、ビンボー人はビンボー人なりに知恵を絞って色々な遊びを開発していたんですね。モノが無いからこそ想像力を発揮して色々な遊びを生み出していく能力が備わっていったのでしょうね。そう考えると今時の子供はちょっと可哀想かもしれません。XXゴッコとか言っても、それなりの遊びのアイテムが商品として売られているのですから、頭をつかって創造性を生み出すどころか、下手するとコスプレ反応で、本当に自分がなりきってしまうという危険な遊びになる可能性も持っていますよね。月光仮面になりたいって「ゴッコ」が始まれば、風呂敷被ってマスクにしたり、ちゃんばらゴッコと言えば棒切れを刀に見立てて振り回したりと、所詮は現実との境界線の外には飛び出せませんでした。ところが最近はバーチャルとかいって疑似体験もかなりリアルになって来てますから、この境界線を越えちゃうヤツが出てきても当然ですね。リセットできると思って殺しちゃった、とか言われた日には、ナニをどーしていいかもわかりません。良いか悪いかはわかりませんが、少なくとも私らの子供の時分では、同じバーチャルでも本気で殴ったり蹴ったりして痛みを覚えますから、人を傷つけるとどうなるかは漠然と理解できたものでした。そういえば最近は小説やドラマみたいな事件が多くなって来てますよね。これも現実と仮想の境界線が崩壊し始めたってことなんでしょうかね。とすると、ひょっとしてこのジジイのノーガキもそのうち境界線を突破して現実に転化していくのでしょうか?ってことは、ジジイのくだらねー道楽も、そのうち今時の子供たちの手によって現実化されることになるのでしょうか。だとしたら、今日からマジメにバカなことをしなければニッポンの未来を危うくする可能性を持っているのですね。そうです。道楽者愛好家の皆様、ニッポンの未来はどーらく者の手に委ねられているのです。さあ、皆で手に手をとってどーらくに励みましょう。(ハゲはおまえだろ)今日の与太話はなんかゴーインすぎてついていけないんですケド。BOMB!
2006年05月05日
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お知らせ非生産活動推進委員会では只今「貧乏自慢」「バカ自慢」エッセイを募集中です。形式はこだわりません。あなたのつまらない自慢話をどしどしお寄せ下さい。コメント、掲示板、メール、どれを使って頂いても結構です。貴方の一銭にもならない自慢話を一方的に語って下さい。今のところ締め切りはありません。私の気まぐれ、やる気がなくなるまで続けます。(あはは)テーマやジャンルは自由です。討論ではないので一方的に語るだけでOKです。とてつもなくバカバカしい自慢話などには、気が向いたら賞品などもご用意しますので是非みなさまで遊んで下さい。お知らせ終わりいよいよ始まりましたね~、遂にニッポンのゴールデンウィークが南洋諸島の小さな島にもやってきました。ということで、昨日あたりか委員長の回りも俄に慌しくなってきて、本業である生産活動の少々のプレッシャーを感じつつも、今日もまたこうして非生産活動を続けております。ということで、先週は妙なノリで道楽者根性を出し丸にしてしまいましたが、そのきっかけとなりました「タイガー&ドラゴン」を聴いたお店、臨界点ギリギリの営業活動が続くカラオケ・クラブに行ってまいりました。っていうか、昨晩はちょっとした地元の商店街の寄り合い(笑)がございまして、委員長の意思とは全く関わり無く連れて行かれたのでした。まあ、しかしゴールデンウィークだというのに、ここだけは別世界、どーしたらこんなに暇な店にできるの?と尋ねたいくらい閑散としておりました。しかも、私ら地元の寄り合い連中も、どーしたらこんなにずうずうしいことができるの?っつーくらいもうやり放題の営業無視、店主ないがしろ、好き放題のメチャクチャです。営業開始が8時だというのに7時半からドカドカと店に入りこみ、ハナだチョーチンだと大騒ぎの狼藉三昧。しかもこれに同調して座り込んで盛り上がる店主。これじゃ、この店も長いこたぁねーだろって誰もが思っていたのではないでしょうか。といいつつ、人の店だし、知ったこっちゃない、くらいのもんで、皆で勝手にバカ話をして異常な盛り上がりを見せたのでした。「オレさぁ、メシ食ってないからさあ、なんか出前取ってくれる?」「あっ、じゃオレも焼きそば頼もうかなぁ」「じゃオレはカツ丼」「なんだXXさんも食べてないのぉ?しょうがないね。じゃみんなで食べようよ」(最初からみんなここでメシ食うつもりだったんじゃねぇか)「Aちゃん(店主)、悪いけどさ、隣の○○レストランから出前とるね」「じゃあ、オレ行って頼んでくるわ。みんな注文ここに書いて」「じゃついでに煙草買ってきてくれる。それとさなんか乾き物、そうつまみも買ってきてよ」「おう、じゃみんな金だして。一人10ドルくらいで足りるかな?」(おいおい、ここは飲み屋じゃないんかい。なんでツマミまで自前で用意するんや)「ちょっとさぁ、カラオケの音うるさいから、テレビにしてよ」(っていうか、ここはカラオケクラブとちゃうんかい)「これで話がしやすくなったね」「後で酔っ払ってきたらどうせ歌うんだろ、マイク持ったら話さないくせに~」(これだけ好きにされてなんで何も言わんのやこの店主は)「あとさ、やっぱちょっと寂しいから女の娘一人くらい付けてよ。コンパニオン!」(おいっ、いいかげんにしろよ、おっさん)「阪神が負けとるんや」(この店主Aは熱狂阪神ファンです)「だから、Aちゃん今日は元気ないんだね。じゃほら、たこ焼きも買ってくるからさ、元気出してよ」(何故か近所でたこ焼き焼いてるおっさんがいます)「ほら、どうせ今日も暇なんだから、みんなで盛り上げてやろうよ」(ってお前等がいるから客が来ないんとちゃうか、ひょっとして)「かんぱ~い!」本当に年内まで持つのでしょうか、この店は。でもこんな便利な店が潰れてしまったら、この厚顔無恥、図々しさの教則本みたいな地元商店街のジジイたちは次のターゲットを探して徘徊するのでしょうか。ということは、この店はこの店ナリに次の犠牲者を出さぬため、ご同業の皆様のお役に立っているということですね。(そうかなぁ~)と、そこでまたもテーマソングが流れてきたのでした。「オレの話を聞けぇ~」(って随分引っ張るねこのネタ)そうだ、今夜はこのおっちゃんAの話を聞いてやろう、とちょっと慈善的父性愛に目覚めた委員長、このあと解散までのかれこれ3時間近くをこのおっちゃんの愚痴話でクタクタになってしまい、家にたどり着いた頃にはとてつもない疲労感に襲われ、久しぶりにストレス抱え込んだままベッドに倒れこんだのでした。「誰の話も聞きたくねぇ~」ということで、無口になった道楽者は今日から始まるゴールデンウィークを、粛々と生産活動的お仕事に従事いたします。どうぞみなさまも楽しいゴールデンウィークをお楽しみ下さい。Have a nice weekend!
2006年05月04日
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お知らせ非生産活動推進委員会では只今「貧乏自慢」「バカ自慢」エッセイを募集中です。形式はこだわりません。あなたのつまらない自慢話をどしどしお寄せ下さい。コメント、掲示板、メール、どれを使って頂いても結構です。貴方の一銭にもならない自慢話を一方的に語って下さい。今のところ締め切りはありません。私の気まぐれ、やる気がなくなるまで続けます。(あはは)テーマやジャンルは自由です。討論ではないので一方的に語るだけでOKです。とてつもなくバカバカしい自慢話などには、気が向いたら賞品などもご用意しますので是非みなさまで遊んで下さい。お知らせ終わり全国の道楽ファンの皆様こんにちは。世の平和と人々の暮らしに潤いを与える道楽者たちを支援するために設立した、非生産活動推進員会も今月で早1年目を迎えようとしております。今こうして振り返ってみると、よくもまあこんな愚にも付かないことをだらだらと書き綴ったもんだ、と我ながら呆れ返ってしまう反面、その昔、私同様に真剣に馬鹿なことに取り組んだ仲間がけっこう居ることに妙な心地よさというか、励みというか、まだまだどーらくを続けていくぞ、というような思い入れも生まれて、これから後半おつりの人生をなんとかお調子者のまま全うしたいと願う委員長であります。とにかく、実社会の生産活動に対する道楽者の非常に小さな抵抗運動として、これからも非生産的な活動を一生懸命していこうと思っておりますので、どうぞご賛同されるお馬鹿なお友達の皆様も更なるどーらくに精進して頂きたいと存じます。(なんちゃって)たまには結構マジな評なども書いてはおりますが、所詮どーらく親爺のノーガキですから、肩の力を抜いてお読みいただければと思います。先日ご友人から頂きました「ゴーマニズム系」の漫画をしっかりと読ませて頂きましたが、ちょっとヘビーな内容で余計にストレスが溜まったりして、こりゃイカンと思い、急いで「吉本興業」系のビデオを見て脳内消毒を致しました。(笑)そりゃ、もう50歳にもなるんだから、ちっとは世の中のことなども解り始めてきてはいますが、所詮は根が不真面目この上ないどーらく親爺ですから、あまりマジになってしまうとFBIやCIAあるいはニッポンの公安とかの調査が入ったりして悲惨なことにもなりかねますので、その辺はテキトーにふざけていきたいと思います。(ってか、もうそれ自体がお得意の空想癖に近いと思うんですけど)ということで、マジなこと2つ言ったらバカなこと3つ言うといった具合に、適度なバランスを保ちつつ官の追求をかわしながら道楽者日記を続けてまいります。(えっ?誰が追求するって?)さて今日は私、委員長の家庭で昨夜繰り広げられました家庭内討論・ディベートの模様をお話いたします。(実録です)昨夜、私が帰宅いたしますと、父親不在の食卓で一家団欒和気藹々とご夕食などを楽しんでいる家族から、待ってましたとばかりに質問攻めにあったどーらく親爺でした。「おとーさん、お調子者と単なるバカとは違うよね?」(長女)「単なるバカだからお調子者なんでしょ」(嫁)「XX(姉)は単なるバカで○○(妹)がお調子者なんだよ」(息子)「あたしはお調子者じゃないよ」(次女)一体この家族はナニを話題にメシを食っているのでしょうか。なかなか頼もしい家族ではございますが、ホンモノのお調子者の父親としては明快な解答を出せずタジタジとなってしまったのです。「お母さんがお父さんみたいなのをお調子者っていうんだよって言ってたけど、ってことはお父さんは単なるバカってこと?」(長女)「あのね、単なるバカってのは、人の話もろくに聞かず、周りの空気も読めず、一方的にくだらないジョークを言うようなヤツのことを言うの。でもってお調子者というのは、どんな状況でも人を笑わすことのできる調子の良いヤツのことを言うんだよ」(父)「ほらね、それってどっちもおとーさんに当てはまるでしょ」(嫁)「たとえばなぁ、パンツいっちょうで歩き回って人を笑わせるのがお調子者で、ずっとそのままのカッコしてて風邪引いたりするのがバカなんだよ」(父)「それってどっちも単なるバカじゃないの」(息子)「でもさ、バカは風邪ひかないって言うじゃない」(長女)「おやっ、お前そんなことわざどこで覚えたんだよ。すげーな」(父)「それはことわざって言わないの。ねっ、こういうことが単なるバカでお調子者ってことなの、わかった?」(嫁)「オレのはなしを聞けぇ~!」(父)「おとーさん、もうその歌聞き飽きたよ」(次女)「五分だけでもいい~」(父)「はいはい」(嫁)う~ん、いまひとつ説得力に欠ける「お調子者」の定義でしたが、どなたかこのテーマに対する明快なる解答をご存知の方は是非とも委員長にお知らせ下さい。
2006年05月03日
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2006年05月02日
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お知らせデス非生産活動推進委員会では只今「貧乏自慢」「バカ自慢」エッセイを募集中です。形式はこだわりません。あなたのつまらない自慢話をどしどしお寄せ下さい。コメント、掲示板、メール、どれを使って頂いても結構です。貴方の一銭にもならない自慢話を一方的に語って下さい。今のところ締め切りはありません。私の気まぐれ、やる気がなくなるまで続けます。(あはは)テーマやジャンルは自由です。討論ではないので一方的に語るだけでOKです。とてつもなくバカバカしい自慢話などには、気が向いたら賞品などもご用意しますので是非みなさまで遊んで下さい。「貧乏自慢」コンテストは、日ごろ生産活動に従事されている道楽者の皆様が溜め込んだストレスの発散場所として、非生産活動推進委員会によって運営されております。お知らせおわり道楽者の週末も滞りなく終了し、また今日から生産活動に励む1週間が始まります。ということで、先週はタイガー&ドラゴンですっかり盛り上がってしまった私ですが、一人で勝手にテンションが上がってしまい、そのおかげで新たな道楽にも目覚めることができました。さて、そんな相変わらずのどーらく根性出し丸で、今日は週始めらしく久しぶりにちょっと渋めの話題でお送り致します。どーらく親爺がちょっとばかり舞い上がっている隙に、またしてもメディアのアホたれは悪巧みの片棒を担いでいるではありませんか。このFUNKY爺ちゃんの目の黒いウチはメディアのヘタレどもの好きにはさせへんのじゃい。(って、いくら偉そうにあんたがそない気張っても、皆好きにやってまんがな)そうです、またもあの2大事件のお話です。以前にもこの道楽日記で取り上げましたが、またもあの二つの事件が同時進行でメディアに流されました。耐震強度設計偽装事件とライブドア事件です。なぜこうも同じ時期にスクープされたのでしょう。まるで塩辛い味噌汁をお湯で薄めるがごとく、事件の真相、問題の焦点に集中させまいとして意図的に話題を拡散させていると感じるのは私だけでしょうか?ここでFUNKY爺ちゃんはハッキリとこの構造を指摘しておきます。まず、姉歯元設計士以下関係者の一連の逮捕は「公開処刑」のデモンストレーションです。同じ「公開処刑」のホリエモン氏とはまったく正反対のデモです。これは実体のない「世間」と呼ばれるアホ、いや失礼しました、善良なる市民の皆様の溜飲を下げるために演出された茶番劇です。非常に簡単かつシンプルなフローチャートでご説明しましょう。先ず第一に、「認可」を降ろす監督官庁がなぜ民間にこれを委託したのでしょうか。これは自分達の悪事を水際で防ぐことが目的ですね。今までさんざん甘い汁を吸ってきた「官僚」が自らの保身のために作り出した、大変手の込んだ猿芝居です。まあ、かかわった奴らも確かに悪い奴らですが、結局はそこで強引にケジメをつけてしまおうというワルのもっと上手がいるわけですね。こんなもん、政府も民間もみな一緒になってやったことに決まってるではありませんか。まるで悪代官と町商人の三文芝居のようですが、結局は既得権益は闇の中で維持されていくというわけです。第一、 今回の逮捕だって皆別件逮捕じゃないですか。非常に苦しい「公開処刑」です。まあ、こんなもんでどうでしょうかってなもんです。「善良なる市民の敵に制裁を加える政府」それは良いですけど、事件の元々の発端はどこにあるのでしょうか?まあ、予想以上に善良なる人々が「公開処刑」に期待を寄せて、これ以上やるとちょっとヤバイかな、ということで、お得意の目くらましの術「ホリエモン保釈」で一気に焦点ボカシです。えー、ここは一応「遊びの広場」(笑)なので、これ以上は細かいことを書きませんが、難しそうで実は簡単なこの構図、一体誰が一番得をしているのかがわかれば、全てが見えてくるはずですから、道楽者のみなさんは是非とも黒幕(っていう実体が果たしてあるのかどうかわかりませんが)を推理して下さい。キーワードは「官僚」です。そして一番損をしてワリ食ってるのは善良なる市民、黒幕同様に実体のない世間です。以前にもお話した、どーらく者の哲学「良い人と呼ばれるようになったら人間しまいやで」というように、善良などと表現されるような一般市民にだけは成り下がらないように、みなでしっかりと世間をジョークにしていきましょう!そうです、道楽者の武器はジョークしかないのです。(えっ?)
2006年05月01日
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