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我家に迷い込んで来ました子猫Aですが、かれこれ1ヶ月を過ぎまして順調な発育を遂げております。子猫Aについては、10月21日付の日記をご参照下さい。http://plaza.rakuten.co.jp/unproductivedoer/diary/200610210000/どういう因果で舞い込んできたかはわかりませんが、一丁前に道楽者一家の一員となった子猫は、やはり道楽的影響を受け伸び伸びと育っております。まあ、伸び伸びっつーか、好き放題っつーか、傍若無人っつーか、言ってみりゃシヤワセモノですね、いや、シヤワセネコですか。(笑)どうです?このふてぶてしい態度。大の字になって寝てますねー。ちなみにこいつはメスです。でもって、結局「ミーミー」と名付けられました。どうもウチの家系、特にヨメの血筋は中国に縁が深いようで、昔から縫ぐるみとか、野良犬、野良猫の類に命名する際は、必ずこのような中華的呼称が付けられます。末娘などは、まだものごころ付く前から、プレゼントに貰ったクマの縫ぐるみとかに、「メンメン」とか「シャンシャン」とか名付けていたくらいで、何か目に見えぬ血統みたいなものを信じざるをえませんね。(笑)ということで、ミーミー嬢は最近野生の本能が目覚めたのか、一家全員が揃うと手当たり次第にじゃれまくって、家中を走り回り、どちらかと言うとネコというよりネズミに近い行動を取っています。でもって、へそ曲がりの道楽親爺は、未だに「ピー助」と呼んでからかっています。「おとーさん、もう名前はミーミーに決まったんだから、ピー助はやめてよ」「これはおとーさんとこのネコの関係なんだから、これで良いんだよ」「それじゃミーミーが混乱するでしょ」「いや、ピー助にとっては、一人だけ違った関係の変なヤツがいるって思ってるはずだから、それで良いんだよ」「頑固オヤジ・・・・」ということで、毎晩帰宅した道楽オヤジは「ピー助」と叫びます。ピー助は呼び声に答えるように飛び出してきてオヤジの足に爪を立て噛み付きます。何故かじゃれ方がちょっと他と違うような・・・・・・。おかげで足と言わず手と言わず傷だらけのオヤジは、昼間のオシゴトで時々、接客の際に恥ずかしい思いをする今日この頃です。(夫婦喧嘩じゃないよー)爆!
2006年11月30日
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久しぶりにチョイ硬めのネタです。相変わらずのタイムラグで申し訳ありませんが、昨夜見たテレビ番組録画「教育について考える・テレビ討論会6時間」で感じたことをノーガキこいてみたいと思います。お手軽に語れるテーマではないのですが、とりあえず思いついたことを書いてみます。司会はビートたけしさんと爆笑問題。ゲストも色々なジャンルの方々が登場されました。特別ゲストは、久米宏さんと石原慎太郎東京都知事で、このお二人が視聴率確保のためのメインコメンテーターってとこでしょうか。テーマは教育全般についてでしたが、とりわけ、昨今流行にまでなってしまった「自殺」と「いじめ」の問題がクローズアップされていました。爆笑問題の太田クンは以前からかなり面白い感性の持ち主だと認識してましたが、論点は割と的を得ていて、頭の固くなってしまったジジイたちに比べたら、少しは「今」というものを捉えているのかなとも思えました。あと、最近やたらとメディアに登場しているヤンキー先生とかいう人も出てましたが、非常に緻密な理論立てで、その真摯な姿勢は中々のものではないでしょうか。ただね、テレビ番組という枠に乗っかってるコト自体がね、どうもイマヒトツしっくりきませんでしたね。いみじくも、久米さんが言ってましたが、視聴率を稼ぐための番組を作るシステムがある以上、視聴者の意識(レベル?)を飛び越えた番組は絶対にできないってことですね。需要と供給のバランスってことで言えば、見てる人が喜ぶモノを供給する側に、見ている人たちの教養とか常識とか意識以上、つまり視聴者より高度な知性的番組は作れないし、作る必要が無いってことです。これはまったくその通りだと思いますね。更にタケシさん曰く、「カメラを向けられた人が素のままの状態でいるわけがない」ってとこもまさしくその通りで、たとえ街頭インタビューとか、素のままの人にアプローチしたところで、カメラの前に立っているのは、やはり演技者だってことですよね。まあ色々な論議が行われたわけですが、どう頑張ったって今の子供達の核心に迫ることなんてのは無理なような気がします。批判的に、親が悪い、学校が悪い、社会制度が悪いって声高らかに叫んでみたところで、じゃあどうすれば良いのって答えは誰も持っていないわけですよね。そんで出てくるのが、教育制度の見直しとかいう、現実からかなりズレたところで検討が始まるみたいな、机上の空論でしかありません。挙句の果ては、石原センセーの「戦時下に育った子供のように・・・」っていう根性忍耐論みたいなエリート理論です。そんなに大人好みの良い子ばかりで一杯になったら、もっと追い詰められて死ぬヤツがでるだろうと思いますね。第一、戦時下だって、バカなヤツはいただろうし、体制に反発したはぐれモノだっていたはずですね。戦時下の苦しい時代を生き抜いた子供たちのすべてが、国益に適った仕事をしているのかっていうと、じゃあヤクザになった子供たちとか、部落出身の子供たちはどうなんだって言いたくなりますね。なんかね、私のようなへそ曲がり野郎はどうしても、石原センセーのような立派なお考えにはついて行けそうもありません。どちらかというと、太田クンのようなちょっといじけたガキ育ちのような考えに傾いてしまいますね。特に私のようにニッポンを離れて、ビンボーなアジアの人々と長く生活を共にしてきた人間にとっては、日本国民自体がかなりアホに見えるし、アホの生産に血道をあげる国、みたいな印象が強く残りました。タケシさんがポロっと言った「アフリカのどこかの浜に打ち上げられたシャチだか鯨だかしんないけど、それを助けるために募金をどうのって言う前に、そのアフリカの子供たちに配るワクチンとかを買ってやる方が先だと思うんだけどなぁ」ってのがズバリ今のニッポンを表しているような気がしました。
2006年11月29日
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さんざっぱら昔のディスコを揶揄してノーガキ垂れておりましたが、自分だってケッコーいい加減な仕事してたんじゃねーか、という自戒の意味も込めまして、委員長が描いたレコジャケのイラストをご紹介しちゃいましょう。ハドソン・カウンティ?曲も満足に聴いた覚えすらありませんね。当時は何でもバスストップをタイトルにくっつければ売れる、みたいな風潮がありました。一体どのくらいの数のバスストップがあったんでしょうかねぇ。平浩二?バスを待つ間に~、って違うだろそれは!(ってかつまんねーギャグ言ってんじゃねー)まあ、いずれにせよ、どこかのマイナーレーベルから持ってきた、とってつけたようなディスコサウンドだったんでしょうけど、当時はこんな仕事でお金貰ったりしてたんですから、プロの皆様には大変失礼を申し上げました。(笑)ライナー・ノートとかも何枚か書かせてもらいましたけど、いつも「インチキ臭いなぁ~オレ」って後ろめたさが付いて回ってましたね。そういえば自分的に気に入って書いたイラストもありましたっけ。もうとっくの昔に忘れてたことだったんですけど、戦友でもある先輩のシュガーパイガイが教えてくれまして、遠い記憶が甦ってきたんですね。タイトルは「ディスコ・ブギ・ママ」っていうんですが、もちろん曲もそのまんま、ディスコ、ディスコ、ブギー、マ~マってリフの続く、少しだけファンキーなダンスナンバーでした。絵柄はマザーっぽいソウルシスタがフランスパンを抱いて踊ってるっつーような、これもそのまんまのイラストでしたけど、これは自分でもケッコーその気になってプロモのお手伝いをしました。結論としてヒットには繋がりませんでしたけど、まあ、それなりに仕事したって想い出があります。当時は業界の中でも、皆ひとつでもふたつでも抜きん出てやろうって感じで、ライバル意識もギンギンでしたから、反勢力みたいなのが、「つぶしたれー」とか「あいつだけに良い思いをさせてたまるか」みたな抗争もありました。まあ、入ってみりゃ井の中の蛙ってとこなんですけど、悲しいかなビンボーな奴等ばかりだったので(笑)、ケッコーせこいこともしてましたっけ。ちなみにバスストップ系では、マンハッタン・バスストップっていうのが結構気に入ってました。原題はBREAK AWAYだったかな。あと、ディスコバタフライなんてのも好きでしたね。モハメッドアリを讃えるディスコサウンドみたいな~、蝶のように舞いハチのように刺す~って歌なんですけど、なぜか邦題はディスコバタフライ?FUNK系ではKG'SのKG BUS STOPってのでよく踊りました。間奏のアドリブが面白くて、ここでロボットとか入れると受けましたっけ。え~、最後に全然関係ないんですが、ホリーズのバスストップも大好きでした。(えっ!?)
2006年11月28日
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Hey, you!What’s your name?ヘイ、ユー、おまえは誰なんだ~。。。。。唐突に思い出しちゃったんですけど、昔こんなヒット曲が出回りましたね。左とん平さんのヘイ・ユー・ブルース。ちょうど踊り場が一般人に解放され始めた頃ではなかったでしょうか。(笑)なんかテレビ番組でステップダンスみたいなのが紹介されたような気がします。アフロヘアーに、何故かハイウェスト・ベルトレスの細身のパンツかなんかはいてたおにーちゃんが踊っていたような、そんなおぼろげながらの記憶しかないんですけど、なんかそんな番組を見たような気がします。この曲自体の記憶も薄いのですが、今にして思えば、これっていわゆるラップじゃなかったんですかねぇ。唄じゃなかったような気がする。確か、とん平さんがブルース系のBGMにのっかって喋ってる、みたいな感じでしたっけ。なんかこの手のキワモノって、結構好きでしたね。時代はちょっとズレるかもしれませんが、常田富士夫さん(?)、日本昔話の声をやってるおじさんですね、彼が昔出した妙なレコードも遠い記憶にあるのですが、誰か覚えてませんか。タイトルも忘れちゃったんですけど、フレーズだけはしっかり耳に残ってます。「はげ山のハゲ鷹がハッシッシー、ハッシッシーと鳴いたのさぁ~」とかいう、割とファンキーなノリの曲だったですね。まあ、委員長が15~6歳の頃ですから、当時としては結構危険な唄(笑)として発禁になったりしたのかもしれませんね。同時期にマンダム~男の唄みたいなのが流行ってましたっけ。チャールズ・ブロンソンのCMで「う~ん、マンダム」ってヤツですね。(笑)あとは、テレビの公開番組で勝ち抜きバンド合戦みたいなのが毎週日曜日やってまして、これはかなり熱くなって毎週欠かさず見ていた覚えがあります。もちろん番組名も覚えていないんですけど、確か、優勝者はアビーロードへ行って録音、デビューできるという、当時のバンド小僧にとって夢のような賞品でした。なんせ、あの頃は末期ビートルス・ブームでかなり盛り上がっていましたから、ビートルズ=アビィロード・スタジオみたいな、ハワイ以上に夢の海外旅行でもありました。(笑)でもって、この番組には、当時委員長が遊びに行っていた踊り場に出演していたバンドが出たりして、ケッコー興奮しましたね。バンド名もすっかり忘れてしまいましたが(ってかほとんど覚えて無いじゃん)、ヴォーカルのおにいちゃんがアフロだったってことと、サンタナのジンゴーとかやって注目を集めていたことを覚えています。なんせ当時はハードロック系全盛の時代でしたから、ちょっと黒っぽい感じは逆に目立ってました。でも、2週勝ち抜きくらいで落ちちゃったのかなぁ~。最後に優勝したグループは3人組のジャネットというロックバンドでした。さすがに優勝者は覚えてますねー。今で言うとアルフィーみたいな感じかな。3人とも長髪で、ちょっとブリティッシュ系のグループだったと思う。もちろんアビーロードまで行って録音してレコードデビューもしたんですけど、結局鳴かず飛ばず、なんとなく埋もれて行っちゃったんですね。それから数年して、たまたま委員長は当時付き合っていた年上の彼女と、中央線中野駅前のブロードウェイという商店街をウロウロしていたら、なんと中古レコード屋さんにそのジャネットのデビューシングルが飾ってあったのです。なんかとてつもなく懐かしくて、思わず買ってしまったんですね。確か1枚100円だか200円だったと思います。タイトルは~・・・・・・・・忘れた。(やっぱり)でもサビのフレーズは覚えてます。(そんなんばっかりじゃん)「愛してた~誰よりも~、心から~愛してた~」ちゃんとコーラスも綺麗にハモってて、ギターソロもかなりカッチョ良かった。なんでコレが売れんかったんかなぁ~、みたいな感じでしたっけ。時代がちょっと早過ぎたのかもしれませんね。そんでもって、その時一緒に買ったのが、リッキーと960ポンドの新宿三文オペラってレコードでした。これもケッコー良い味出してましたねぇ。残念ながらこれらコレクションは日本を脱出する際、ぜ~んぶ処分してしまったので、今更懐かしがっても手も足もでませんね。残念!
2006年11月27日
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相変わらずタイムラグのあるネタでノーガキこきますが、先日差し入れ頂きましたDVDコレクションに入っていた邦画「亡国のイージス」を見ました。これが案外面白かったのと、映画鑑賞中ずっと、ある戦友を頭に思い描いていました。その戦友というのは、このブログを通じて知り合った、元不良少年ディスコ戦士yu-jiさんです。もちろんこのブログとメールを通じたお付き合いだけですから、未だ面識はありません。それでも、なんだかずーっと昔からの仲間のような気がする、特別な印象を持つ戦友の一人です。Yu-jiさんは委員長などとは違って、かなり壮絶な体験を経て成長された方なのですが、中でも突出して凄いのは海上自衛隊へ入隊したその不良魂というか、ヤケクソ根性、ゴホン!いや失礼、とにかく委員長の人生経験の中でもちょっと異色な戦友のひとりと言えます。ご興味のある方はyu-jiさんのサイトをご覧下さい。http://www.d2.dion.ne.jp/~majinbuu/denpa/denpa.htmそんな経緯もあってか、この映画はもちろん海自が主役と言うか、イージス艦が舞台になっていますので、画面を見ながらずっとyu-jiさんのことを考えていました。映画の方は、簡単に言ってしまうと、現在の軟弱な日本の防衛、外交、自衛隊の体質などに焦点をあてた、中々タイムリーなドラマでした。たぶん原作ではもっと奥行きのある内容で、映画では描ききれなかったキャスト一人一人の人生観~人間性が中核を為しているのでしょうが、まあ、2時間の枠で収めるとしたらこの辺がギリギリかなという感じでした。ちょっと真田さんがカッコ良過ぎっていうか、フツー死んでるだろ(笑)ってとこですが、まあまあ、許せる範囲のヒーローではありました。映画終了後も委員長自身はどうもyu-jiさんのことが心に引っかかって、ぼんやりとですが、人の生、つまり人生ですね、そんなことを考えてしまいました。実はyu-jiさん、以前からちょっとした病に臥せっておりまして、お見舞いにすら行けない自分がちょっと歯がゆくて、悶々とした気持ちが続いているんですね。たぶん、突っ張り通してきたyu-jiさんのことですから、こんなこと言ったら笑い飛ばされそうなんですけど、どうも他人とは思えない感情が高ぶってしまうんですよね。こればかりは言葉とかでは表現できないことなんですけど、子供の学校はミッション系なんですが、その隣にあるエホバの館を目にするたび、テレビや雑誌で防衛庁や自衛隊について云々されるとき、映画「TOKYO DRIFT」を見たとき、その度々にyu-jiさんのことが頭に浮かんでくるのです。ある日は、横須賀の三笠公園でyu-jiさんと待ち合わせした夢を見たこともありました。Yu-jiさんが現れる前に目覚めちゃいましたけどね。(笑)しつこいようですが、年取ると涙腺が弱くなるってヨメに言われてますが、なんだかyu-jiさんのこと思うとウルウルきちゃうんですよね。なんなんだろう?って、自分でもよくわかりません。一度も会ったこともないし、まして口を利いたことすらないのに、とても不思議です。そして、yu-jiさんからメールで病気の話を聞いたとき、心の中に浮かんだひとつのシーンがずっと尾を引いているんです。横須賀のどぶ板通りでスカジャンを買ったジジイの私は、その場でそのスカジャンを羽織って三笠公園へ向かいます。もちろんyu-jiさんと会うためです。メールで約束した「ダサいスカジャン着て待ってる」の言葉どおりに。そして、三笠公園にはyu-jiさんが笑顔で立ってます。初対面の二人なくせにお互いの昔話に花が咲きます。「ゆーじさん、今日は会えて良かったよ」「ロニーさん、オレもです」「今度は一緒に踊りに行こうよ」別れ際、ジジイの私は叫びたい衝動に駆られてしまいます。「ゆーじ、死ぬなよ。約束だぞ」 約束だよ、yu-jiさん。
2006年11月25日
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昨夜は我家のお気に入りNHK番組「英語でしゃべらナイト」に、カリスマ・ギタリストとか言われるマーティ・フリードマンって米国人が出てました。ヘビメタのギタリストなんで、委員長は彼の存在すら知りませんでしたが、この人、とにかく凄いんです。ナニが凄いかって、日本マニアなんですよ。日本在住3年半ということでしたが、もうかなりの理解度で日本語を流暢に喋ります。なんでもパフィーが大好きで、日本文化が大好きで、更にJポップの大ファンだということです。まあ、これだけニッポン贔屓してくれると、たとえヘビメタ野郎でも道楽親爺は嬉しいですね。でもって、彼が幼少の頃、ハワイで聞いた演歌に心動かされたのが日本文化との出会いだったということでした。美空ひばり、都はるみ、八代亜紀、、、、悲しい演歌が心の底を揺さぶったと言ってました。それからニッポンへの憧れが強くなって、必死に日本語を勉強したそうです。ツアーに出てる間は日本語で日記を書いたりして、文字の勉強もしたそうで、漢字もかなりの数こなせるほどのツウです。ちなみにこの番組の司会はパックンという米国人漫才師(コメディアンとは本人も言っていない)が出ていて、従来の語学番組にはないユニークな切り口で英語学習を啓蒙してくれています。そう、要するに英語学習用のテレビ番組なんですが、毎回登場するゲストが旬の人たちで、それだけでも十分に楽しめる内容になっています。昨晩は、彼の他にジャネット・ジャクソンへのインタビューもありました。インタビュアーは釈由美子さん。彼女はこの番組で英語を覚え始め、毎回色々なゲストを交えながらブラッシュアップしていく姿が、ヒジョーに前向きで、初心者にとっては英語学習に対する勇気を与えてくれています。今回も、かなりたどたどしい英語でのインタビューでしたが、ジャネットも随分と譲歩しつつ答えているのがわかって、ちょっとほのぼのした気持ちになりました。余談ですが、ジャネットの眉間のシワ(縦皺)がちょっと気になりました。彼女曰く、今が一番シヤワセとか言ってましたけど、眉間のシワはどうも神経質そうな一面が現れているようで、なんとなく素直には頷けませんでしたね。(ってか大きなお世話だと思う)でもって、今回のゲスト、マーティ氏を見ていて思ったのは、ニッポン文化もいよいよアメリカ文化のコンプレックスから脱却できそうな時代がやってきたのかなぁ、ということと、自分が憧れてていたアメリカ文化(っていうか黒人文化ね)への向き合い方とは随分と違うことに気がついたんですね。委員長の青春時代(笑)は、とにかく黒人に一生懸命近づこう近づこうとしていたわけですが、今、思い返せば、なんのこたぁない、外面だけを真似してただけで、結局は自分の中で満足に消化すらできていなかったということですね。だって、このマーティ氏は、まずファッションは間違いなく米国系ヘビメタだし、やってる音楽も英語のROCKだし、ようするに自分のスタイル、アイデンティティはきちんと持った上で、ニッポンのカルチャーと接しているんですね。ってことで、アメリカン・コンプレックスが克服される時代の到来って言いましたが、やっぱりこれはコンプレックスの裏返し現象でしかないと思いました。なぜかって?だって、彼、マーティ氏は日本人になろうとするわけじゃなくて、文化の融合を試みているわけですよね。別に日本人そのものになろうとしているわけじゃないってことです、つまり、米国人である自分というものをしっかりと持った上で、日本文化に強く惹かれ、それを自身のARTの中で表現しようとしています。ところが、一方、アメリカ文化を追う日本人の殆どが、アメリカ人になろうとするところからスタートしていますよね。この違いこそがコンプレックスそのものなんですね。もちろん、日本人の全員が全員そうだとは言い切りませんよ。いくら道楽者のノーガキだからって、そこまで横柄な物言いはできません。(笑)ただ、自分の若い頃を振り返ってみても、根本的には日本人であることの意識は非常に低かったように思えますし、音楽的影響とか、黒人文化への傾倒とかを志向する前に、まずは黒人の真似をするところから始まっていったわけですね。真似が悪いとか言ってるのじゃなくて、自分自身がしっかりとしていないのに、表面だけをいくら追っても、結局は核心にはぶち当たらないってことなんです。10代後半で黒人音楽とダンスに魅了されて、真似することだけで突っ走った約10年後、ようやく自分が少し見えてきて、自分なりの答えを見つけ始めたとき、初めて判ったことが自分の生まれた国と文化についてだったんですね。そして更に10年、本土ではありませんが、いわゆる米国圏内でそれなりにアメリカという外郭を知り始め、黒人文化というものをきちんとしたスタンスで見ることができるようになりました。更に10年、自分の生まれ育った国の周辺の人々を見ることで、更に自分の追い求めていた「モノ」が手ごたえのある形として掴み始めたときに悟ったことが、オレは「日本人」ということだったのです。(ふ~ん)まあ、また始まったいつもの道楽者の屁理屈なんですが、世界広しと言えども日本人ほど面白い民族はまずいませんね。考えれば考えるほど妙な民族です。せっかくこんな面白い民族に生まれた自分が、なぜもっと自分たちについて考えなかったのかと思うと、なんか時間を無駄にしたような気がしてなりません。せっかくですから、みなさんもひとつ自分の生まれ育った国と民族に少し興味をもたれてはいかがでしょうか。面白いですよ、ニッポン人は。知れば知るほど面白い国だし、変な民族です。
2006年11月24日
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ということで、今日はTHANKSGIVING DAYです。今日からホリデーに入るので、我家では子供たちがウダウダして鬱陶しくなります。普段はギリギリまでグデグデと寝てるくせに、連休の始まりは何故か妙に早起きです。今朝も長女がしっかりと早起きしてテレビの前に座っておりました。「なんだ、今日はどっか出かけるのか?」「んーん、Sponge Bob見るの」「なんだ朝っぱらからマンガかよ」「だってさ、THANKSGIVING SPECIALでさぁ、スポンジバブ24HOURSスペシャルやるんだよ。凄いよね、1日スポンジバブやるんだって」「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」「友達とさぁ~、どのエピソードが一番面白いかって話したらさぁ、みんな同じヤツが好きだったんだよねぇ~」「みんな、って、お前らみんな高校生だろ?未だこんな子供のマンガ見てんのか」「でもさぁ、途中からDIRECTORが変わってから面白くなくなっちゃったんだよね」「そんなことまで調べてんのか」「おとーさん、聞いてよ、そのDIRECTORね、ドラエモンっていうんだよ、面白いでしょ」「ドラエモン?って日本人か」「そうじゃなくて、DRYMONって人。ほら、これってドラィモンでしょ」「・・・・・・・・」「でね、このDRYMONが辞めて新しい人になってから、つまんなくなっちゃったのね。だから、今日は昔のエピソードが見られるから楽しみなんだ」「た、たのしみって、おまえもう18だろ」「それとさ、SEIYA(彼女の弟です)が教えてくれたんだけど、声優も変わったのね。ほら、ドラエモンとかも声優が変わってから人気が落ちたでしょ。あれと同じだと思うのね。でも、SEIYAって凄いよね、私は全然気が付かなかったんだけど、すぐに声が変わったって教えてくれたんだよ。ディレクターが変わったのも教えてくれたし」「そんなもんで感心してどーする・・・」ってなことで、我家は今朝から24時間テレビで盛り上がっております。SPONGE BOB SQUARE PANTS はスポンジで出来たBOB(ボブ)という四角いズボンをはいた少年が活躍する、海の底の世界で繰り広げられるファミリードラマです。相棒はヒトデ少年のパトリック、隣に住むイカおじさんやBOBの働くハンバーガーショップのカニ店長やガールフレンドのキャンディなどが登場して、毎回くだらないバカ話で盛り上がると言う、ある意味米国でも低俗番組にランキングされているしょーもないマンガです。どうも最近は日本にも登場したようで、キャラクターグッズを時々見かけます。(ってか、そんだけ知ってるってことは、自分だってケッコー見てるじゃん)ウチの子供たちも、T-シャツやらペンやら、色々とグッズを使っていますが、なんでこんなくだらないマンガが受けるのか、ちょっと疑問の親爺です。ジジイの世代だと「ドリフターズ」のしょうもないギャグとか、電線マンの電線音頭とかに狂喜した感覚のようなものなんでしょうかね。とまあ、そんなわけで、朝っぱらからサイパンらしいノーテンキな1日が始まりました。
2006年11月23日
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関西では「おでん」のことを「関東煮」と書いて「カントウダキ」と呼ぶらしいです。もともと「おでん」というのは関東地方の料理だったのでしょうか?実は、先日御来島された慰問団からの差し入れでおでんダネを頂きまして、昨晩は久しぶりにおでんを食べました。残念なことに、長女はおなかの調子が悪いせいか食欲がなく、次女は風邪引いてダウン、結局我家のおでんは、委員長とヨメ、長男の3人で頂くことになったのでした。まさかこんなことになるとは思っていなかったヨメは、頂いた具をイッキに鍋にぶち込んでしまい、溢れんばかりのおでんの山に、さすがの食いしん坊家族も3人では消化できませんでした。「なんでいっぺんに作っちゃうんだよ。小出しにすれば楽しみが増えたのに・・・」「おでんはねぇ、煮込めば煮込むほど、煮詰まるほど味が染み込んでおいしくなるの!」「でも、これちょっと多くねぇか」「どんどん食べないと片付かないでしょ!」ということで、ヨメが冷蔵庫、冷凍室、食品棚をば~んと開けて指し示す食料品の数々。特に食品棚、食器棚に溢れんばかりにぎゅうぎゅうと押し込まれたお菓子の数には、さすがの委員長も少々ビビリました。「糖尿病になるかもしんない・・・」ということで、慰問団の皆様、お土産ありがとうございました。委員長一家は溢れんばかりの食料に囲まれて充実したシヤワセな時を過ごしております。(汗;さて、おでんネタにもどりますが、委員長は子供の頃からどうしても気になるネタがひとつあるのです。それは「ちくわぶ」です。ねっちょりとした舌触り、形はちくわに似ていますが、味は全くの別物。かといって「つみれ」とも違って、同じ練り物の中でも異色といえそうな性格。(笑)そして、この「ちくわぶ」の語尾を飾る「ぶ」の存在が、どうしても華麗なるおでんネタの品位にそぐわない語感が許せないのです。その白くて柔らかいSEXYな容貌で、おでん鍋の中でもひと際光り輝くはんぺん。いかなる巻物の中でも、その華麗なる中身では追随を許さないゲソ巻き。厳かな豆腐という家系に育ったおでん鍋のプリンスがんもどき。あらゆる練り物の存在価値をねじ込んだつみれ。紅一点、そのままの姿ながらおでん鍋を脇から支える名バイプレーヤーこんにゃく。そして、鍋業界に燦然と輝く永遠の王者たまご!そのどれを取っても個性溢れるキャラクターに見せられてしまうおでんダネの面々ですが、さて、このちくわぶの存在は、一体おでん鍋の中でどこに位置づけられるのでしょう?HEY!ちくわぶ!おまえは誰なんだ?いったい何処からやって来たんだ!?ということで、どーでも良いことなのですが、おでんファンにとっては避けて通れない宿命のアイテム「ちくわぶ」について考察を加えた一日でした。(あーあ)追伸:今夜もおでんダネ~(笑)ひと鍋で二度楽しい!ちくわぶは全部ヨメに食べさせちゃったもんね(^^; 今夜はまっつぐ帰ろうっと!
2006年11月22日
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千葉から御来島頂きましたソウル・ブラザーズ&シスターズご一行様のフェアウェル・パーチーは「ビーチガーデン」というレストランで厳かに行われました。(笑)場所はサイパン島の中心地ガラパンのビーチに面した、マクドナルドの裏になります。まあ、フツーの観光客はあまり行かないようなローカル向けの「焼肉屋」さんです。焼肉食べ放題$15 ソフトドリンク付焼肉+寿司食べ放題$20というよーなかなり強引なお店です。このお店のオーナーはもちろん韓国人ですが、何故か寿司カウンターみたいなのがあって、ローカルフィッシュなどの握り寿司や巻き寿司などが並んでいます。あとは、キムチやらナムルやらスープやらテンジャン味噌汁やらビビンバやらがドーっと並び、ショートリブ、ロース、豚、鳥、イカ、レバーなどなどがずらりと並び、テーブルには炭火のコンロが置かれていて、とにかく食べ放題なのです。さて、お店に到着した一行は、ツアー最終日ということもあって、とにかく徹底的に喰うぞ!みたいな勢いで一気に盛り上がったのでした。ではその模様をどうぞ。 カルボ・ブラザース・ヨッシー君は好奇心満々、何故か寿司を一皿運んできました。委員長「寿司はねぇ~、やめといた方が良いよ。韓国味だから」YUKI姐「ごま油とか入ってるのかしら?」委員長「まあ、そんなもんだね」ヨッシー「取る前に行ってくださいよー。もう持ってきちゃったもん」ということで、ローカルまぐろとイカの握り寿司などを一皿いきました。委員長「一皿でも食ったら$5UPになるよ」ヨッシー「え~、そうなんすか~」 さて、可愛いお嬢ちゃん二人はなにやらせっせと飲み物を運んできては呑んでおります。「だってコーラとか飲み放題なんだもん」「でも、そんなにジュースばっか呑んだらおなかが膨れて肉食べれなくなるよ」片や、もう一人の嬢ちゃんは何故かたまねぎを山盛り運んできました。「たまねぎは焼くのにちょっと時間かかるよ」「私、たまねぎ好きなんです」てか、こんなに喰えるのか?ってくらい山盛りでした。写真のお箸の先を注目して下さい。これ何個目かのたまねぎです。この日は、昼間みんなでゴルフやビーチで散々遊んだせいか、ちょっとお疲れモード入ってましたね。それでもケッコー食べ散らかして「ごちそーさまでした」。お会計は頭割りです。委員長の頭の中では、$15x6人プラスビール3本と寿司バー1人前で$110くらいかなぁ~ってことで、まあ一人頭$18ドルもあれば足りるだろってことで、委員長が一括精算で納めようと思っていました。「ハイ、ドーモ、アリガトゴジマシタ」 レジのオバちゃんがカタコトの日本語で差し出した請求書には$81と大きく書かれていました。えっ!?と動揺する委員長。そこにYUKI姐さんが来て、「ひとりいくらになるかしら?」「は、はちじゅういちどる、だから~」ケッコー小心者の委員長は動揺を隠せません。「$81って随分安いわねぇ~」と素直に感心するYUKI姐さん。「と、とにかく、こ、ここはオレが払っちゃうから~」微妙な委員長の態度を察したYUKI姐さん、さすがお互い筋金入りの道楽者です。あ、うんの呼吸で事態を察した姐御は号令をかけます。「はぁ~い、ひとり13ドル50セントだって」いそいそと精算を済ました委員長はさっさとお店を後にします。ナニを慌ててるんだかァ~とはしゃぐ一行。清算業務に携わった二人のみが知るドタバタの理由。 背後でノーテンキに盛り上がる若者と対照的に、ドル札を握り締めたまま緊張の面持ちで走るYUKI姐さんに注目して下さい。(笑)この後、就寝前に今日一日の反省を兼ねて、もう一度演算をしてみました。$15→ローカルディスカウント20%→ひとり$12プラスビール3本$9=$81が~ん! あってるやんけ! 寿司は3つしか食べてないから計算外だったんかぁ~。でも、待てよ、ってことは、全員ローカルだと思われてたってことか~。喜んでよいものかどうか、とにかく千葉ZOOMの皆様、楽しいサイパンの夜をありがとうございました。また来てね~!(笑)
2006年11月21日
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さて、戦友会千葉支部で結成されましたサイパン慰問団は2006年11月14日(火)にサイパン島に到着しました。一行はすぐに戦没者慰霊のため島の最北端バンザイクリフへと向かったのでした。昨年6月に天皇皇后両陛下がご巡幸されたコースを辿り、大戦中の最高指揮官南雲中将が指揮を執られたという最後の司令部、ラストコマンドポストにて若手三人組は合掌しました。 今、戦記映画で話題になっております「硫黄島」も壮絶な戦いでありましたが、サイパン島も負けず劣らず凄惨な戦いだったことが、バックの戦車残骸が物語っております。しばし全員で黙祷~合掌。さて、訪島における任務をひとつ完了して、一行はご夕食のためサイパン最大の繁華街ガラパンへと繰り出し、いよいよ慰問を開始したのでありました。まずは、委員長馴染みの中華料理店へ直行。北京ダックなどをつまみながら歓談、旅の疲れもなんのその、しばし酔いも回り始め、中国人ウェイトレスとの会話にも花が咲きました。「ホーリンソーワタメデス」「えっ、法輪功?」「ソウソウ、ホーリンソー、イマネ、アメリカアブナイカラ」「アメリカが危ないの?」「ソージャナクテ、タベレナイカラ、ホーリンソー」「う~ん、なんだろう」「アノ、カワリニ、チンゲンサイ、トカ、カンクンナラアリマス」「(ピンポーン~判りました)ああ、ほうれん草ね」「ハイハイ、ソウデス、ホーリンソー、タベレナイノ」え~、今アメリカではほうれん草からO-157が出て、食用が制限されています。(やれやれ)とまあ、こんな調子で一気にサイパンの風土に馴染んだ慰問団ですが、到着日のウェルカムパーチーはやはりここしかありません。(ドキドキ)そうです、ここがあの有名なブルーラグーンです。 恐怖のナイトクラブ、カラオケ・サドンデス!もう何も言う事はありません。このお店の詳細について知りたい方は当ブログを読み直して下さい。5月頃の日記に、この店がどんなに凄いクラブなのかが記されています。しかし、まあ、異常な盛り上がりを見せましたね。まずは画像をご覧下さい。つまらん説明などいらんでしょう。 お~っと、いきなりですか~。これはサンプラザ中野さんでしょうか?テンぱった松山千春さんかもしれません。さらに、サドンデスは続きます・・・・ おお~っ!この人が幻のソウルマンと呼ばれた千葉ZOOMのDJでしょうか。「シャチョー、イッキョク、ウタッテクダサイ」いやいやいや、驚きました。千葉の幻のダンサーと言われたロボットの達人は、マイケルジャクソンよろしく歌いながら踊ります。このような光景は決して都会では見ることの出来ない、まさに幻のステージです。なんと、テーマ曲は「自動車唱歌」小林旭。(ドッカーン!)びっくりした~(^^; おお~、可愛いお嬢チャンのデュオ。若い娘が一緒でよかったねー。これ、ジジイだけだったらかなりテンション高過ぎて「脳卒中」で逝っちゃったかも。(爆!ちなみにお隣の席には慰問団より更なるご年配のグループがおられまして、コブシの効いたスルドイ選曲で盛り上がっておりました。そして、ここでホロリとさせる憎い演出。日本では絶対に見ることの出来ない大物二人のデュエットです。YUKI & SHUN 初めてみる麗しき熟年カップルの大人の味。委員長はウルウルと来てしまいました。(理由はナイショ!)ウチのヨメが歳取ると涙腺が弱くなると申しておりましたが、まさにこの光景を見た委員長はほろりときてしまったのです。ちなみに、弱くなったのは涙腺だけじゃないとも言われました。(前立腺とか?こらこら)ということで、ドッカンドッカン盛り上がる一行は、酔いも頂点に達しつつ、マイク持ったら離さないモードに入って行ったのでありました。さらに、委員長と戦友SHUN兄の二人はなぜか妙な唄を口ずさんでおりました。「エンジンのお~と、ごぉうごぉ~うと~、ハヤブサはゆ~く」 お前ら生まれてねーだろって感じですが、やはり戦友です、はまるツボが同じです。「前にね、この唄うたったらさ、怒られたんだよね。エンジンと言うな!発動機と言え!って」ぎゃははー!「そうか、エンジンは鬼畜米英の言葉だもんなぁ~」まさに戦友会慰問団に相応しく、頭がスパークした過激な一夜でした。それにしても委員長の顔が見えないって?いやいや、もちろん私はトリを務めますから・・・ 今回の慰問団ツアー、最後の締めくくりは、委員長と兄弟の契りを結んだブラザー・ヨッシーとのツーショットです。「サイパン・カルボ・ブラザース」結成。え~、ちなみにカルボとはタガログ語で「ハゲ」を意味します。BOMB!
2006年11月18日
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全国のどーらく者の皆様、3日間のご無沙汰でした。サイパンの道楽親爺がお送りするしょーもない日記再開です。実は、委員長の使用しているサーバーが不調で、っていうか、サイパンって電話局がひとつしかないため(独占企業ですね)、しょっちゅうサーバーがダウンしてしまうので、思い切ってサーバーを変えたんですね。そんなこんなで落ち着いて日記を書く暇がなかったので、お休みしてしまいました。それと、戦友会千葉支部から慰問団が御来島されまして、ちょっとばかしハメを外してしまったため、日記がおろそかになりました。ということで、昨日、慰問団一行は無事日本に帰国されましたので、本日はまず慰問団のご紹介をさせていただきます。ちなみに、昨日、戦友テリーのブログに「そうるふるないと」として紹介された、元六本木エンバシーの店長加藤ユキさんとスタッフ江連さんの画像がアップされていて、お二人のお顔を見た委員長は年甲斐もなくウルウルしてしまい、とてつもなく素晴らしい感動を味わうことができました。委員長が冗談のように使っている「戦友」という言葉ですが、本人はいたってマジメに戦友と思い込んでいるフシがありまして、殊更このような画像と出逢うと思わず熱くなってしまうのです。あの時代を本気で過ごした者にしかわからない共通の思い入れが、戦友としての、ある意味独特の感性として今もなお生き続けていることを思うと、どうしても戦友意識が強くなってしまいます。さてノーガキはこのくらいにして、「そうるふるないと」サイパン編は、千葉ZOOMのYUKI姐&マスターと御供のGANGS3名による合計5名の慰問団で壮絶な2泊3日の旅を敢行した記録です。(笑)ということで、慰問団道中記は追々ご紹介していきますが、まずは今回のメインイベント(ってそんな大袈裟なもんじゃないけど)、サイパン最大唯一のディスコ「GIG」へ乗り込んだ記念写真からUPさせていただきます。まずはお店の前で記念撮影(笑)ピラミッド型のお店の前にはスフィンクスもあり、何故か店先に屋台風のバーがあります。BGMはユーロ系というかダンス系というかダダダダダといった音が連射されていました。マスター「こーゆー音楽はジャンル的になんて呼ぶんですかねー」委員長「ユーロみたいな、ちょっとアフリカ系?レゲエっぽさもあるなぁ」YUKI姐「最近は何処行ってもこんなのばっかりだよねー」マスター「ある意味、テクノって言うんじゃないかなぁー」委員長「うん、そーだね、これはテクノ系かもしんない」YUKI姐「今時の若い子たちはトランス系みたいな」委員長「何トランス?変圧でもすんの?」という無意味な会話があり、御供の若衆3人は近所のお店を徘徊、しばらくしてようやく店内へ進みました。委員長はすかさず長年住んでる役得を利用しつつ、VIPカードなどを提示して「まけてくれよ」交渉開始。(土産話にその模様を記しますネ)なお、以下のやり取りは一応英語で行いました。(ってか当然日本語なんか通じないし)委員長「このカード使えないの?」店員「あなたは適応されます」委員長「フツー、VIPカードはグループでも適応するんじゃないの」店員「少々お待ち下さい。確認します」店員どこかへ電話するが、どうも埒が空かない様子。委員長「OK、もういいよ。カード返して」店員「ごめんなさい、確認が取れないんです」委員長「いいよ、別にあなたにクレームしてもしょうがないし、明日GMに電話するから。こんな使えないようなカードをなんでくれたのか聞いてみるよ」店員「(かなり焦る)今、スーパーバイザーを呼びますから」委員長「(ここで水戸黄門ばりに名刺を出す)もし、連絡が取れたら電話するように言ってよ」(狭い島ですから肩書きがケッコーものを言います)店員「(名刺見てちょっとビビり、急に態度がSIR付けになる)ちょっと待って下さい。今スーパーバイザーが来ますから」と、そこへスーパーバイザーが現れ、VIPカードと名刺を見て、更に委員長の顔を覗って、いよいよ結論が・・・・・店員「お一人様$20で結構です」ヤッターっ!全員$5の割引になりました。(名刺の肩書きのワリにはケッコーせこくねぇ、やってることが)ということで店内になだれ込んだ一同は、がら~んとした、だたっぴろいダンスフロアーとテクノ系だかレゲエ系だかユーロ系だかわからん音がガンガン響くホールを前に、しばししらーっとしましたが、とりあえずテーブルについてグダグダとしておりましたが、さすがに我慢しきれなくなった委員長はDJブースに向かいました。Can you play seventies? DJ: Seventies?Yes, seventies. Because we are old style dancers.(笑) Would you please!DJ: OK,OK.おーっと、いきなりBEST OF MY LOVEからスタートです。もうこうなりゃヤケクソだ、みたいな、せっかく20ドルも払ったんだからしっかり元は取ってかえるぞ、みたいなノリで早速委員長が先導してダンスフロアへ向かいます。続いてYUKI姐さん、若手2名が踊り出しました。MORE THAN WOMANどうもDJサマの認識は70’s=サタデーナイトフィーバーのようです。NIGHT FEVERが~ん!そこまでするかぁ~。ってか、まあこんなもんですね。何故かうろ覚えのステップ、踊っちゃいましたね、右手上げて。でも、YUKI姐さんのステップ、トラボルタポーズの4回目はストップモーションが入ります。「違うんじゃない?違うよ」「ここは、こうだよ、止まらないで」(ちょっと庭師Mさん風になりました・笑)何ムキになってんのかよーわかりませんが、YUKI姐さんのJOKEも判らずにノーガキをこいた親爺でした。残念ながらマスターの素晴らしいステージは見れませんでしたが、そのうち現地の若者数名が入店してきて、ドンジャがドンジャガ、わけわからんようになったので、皆おとなしく帰りました。(さー帰ろっかー、みたいな感じですね。デレデレという感じで退場です)何はともあれ、SISTER ANGELS 美人三人娘のおかげで、単なる舞い上がりジジイのひととき(笑)にはならずに済みました。(おねーちゃんたちがいて良かったネ)ちょっと踊り足りなかったジジイですが、元気のあるうちにもう一度ニッポンのどこかで燃え尽きてみたいと思いました。(こらこら)ちなみに帰宅して娘にその話をしたら、「私のクラスメートとかに会わなかったでしょうね?嫌だな恥ずかしい、おとーさん、まさか踊ったりしなかったよね、もしそんな姿見られたら何言われるかわかんないから・・・」実の娘ながら親爺の真の姿を知らぬ少女でした。(ナニ真の姿って?)おとーさんは悲しい。(T.T)
2006年11月17日
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70年代前半は「生バンド」って表現がよーく使われてましたっけ。ビヤガーデンとかちょっとしたコンパとか酒場でも、表看板に大きく「生バンド出演中」なんて書かれてありました。まあしかし、今にして思うと、この「生」ってのが凄いですよね。「なまビール」とか「なま演奏」とか「なま本番(こらこら)」とか、生って言葉の持つ意味はヒジョーに奥深いですね。(笑)生じゃないバンドってどんなんだろ?って思いますけど、要はレコードとかアナログじゃなくて、目の前でバンドマンが演奏をするってことが、当時どれだけ高いステイタスを誇っていたかということが窺い知れます。(笑)でも、そのワリにはお店によっちゃ、ケッコーいい加減なバンドも出てましたね。レパートリーも少なくて、ステージで毎回同じ曲しかやらないみたいなね、飲み屋と喫茶店の中間みたいな小さなお店にそんなんが多かったですね。ってことは、この業界って昔からいい加減だったってことですか。(笑)当時のディスコバンドのレパートリーを思い出してみましょうか。まずすぐに頭に浮かぶのがサンタナかなぁ~。ブラックマジックウーマンとオイェコモバ~ボクのリズムを聞いてくれの2曲は、もうどのバンドも必ずと言って良いほどやってました。踊りはマンボとかチャチャですね。コンパ系とかだとストップ・ザ・ミュージックとかビートルズなんかやってましたっけ。踊り場系、いわゆるディスコの前身的お店なんかだと、スライストーンのTHANK YOUとかTAKE YOU HIGHERとかマンドリルのフェンスウォークなんかをよくやってました。あとはカーティスメイフィールドの「フレイディの死」(映画スーパーフライのサントラ)やビーグルとか、ドゥービーのロング・トレイン・ランニングも定番でした。ブラザールイなんかもあったなぁ。WARのGET DOWNとかシスコキッド、世界はゲットーだ、プラウドメアリーやノック・オン・ウッドとかもありました。でもって、時々ブラックナイトとかツェッペリンのブラッグドッグやロックンロールなんかもやったりして、今にして思えば結構バラエティに富んでましたね。(笑)ただ、基本的なバンドの編成はギター、ベース、ドラム、キーボード+ヴォーカルですから、管楽器とかが入ってる楽曲はケッコー辛いものがありました。チェイスの「黒い炎」とか管楽器抜きでやったりして、しょぼいってな感じでした。70年後半になると、もうSOUL一色になってきて、スティービーのスーパーステーションとか裏切り者のテーマとか、アイ・ショット・ザ・シェリフとか、かなりダンスナンバーが主流になってくると、いわゆるHARD ROCK系はナリを潜めたというか、踊り場ディスコとは別の道を歩み出しました。この流れが後年ライブハウスと呼ばれる形態に進化していったのではないでしょうか。しかし、このライブハウスってのも妙な表現ですよね。これ、アメリカ人にそのまんま「LIVE HOUSE」って言うと、?????って変な顔されますね。(笑)その当時、ライブハウスは英語だとばかり思っていた委員長は、仲間の黒人ミュージシャンに「We try to play at Live House」って聞いたら、ぽかーんと口を開けたまま「What?」って何度も聞き返されました。日本にはこういった日本人の勝手な都合から生まれた造語が結構あるので気をつけましょう。(笑)あと忘れてならないのは不滅の名作「メリージェーン」ですね。つのだひろさんの空前絶後のヒットナンバー(笑)。当時、日本人が英語で歌った曲がヒットするなんて、そりゃスゲーことでした。これだけは未だに「感服つかまりました」って感じでしょう。(笑)日本を代表するROCKミュージシャン、つのだひろさん、成毛滋さん、高中正義さん、この三人は日本のROCK維新を推進した人物ではないでしょうか。もちろんそれ以外にも、内田裕也さんとかフラワートラベリングバンドとかの存在もありますが、ポップス的ヒットを果たし、かつ、ニッポンのROCKミュージシャンに影響を与えたと言う点では、このメリージェーンは永遠に語り継がれても良いほどの楽曲のひとつではないでしょうか。ということで、70年代中期以降は空前のディスコブームで、従来のニッポンのバンド編成ではコピーに対応しきれず、またヒット曲のサイクルも次第にエスカレートしていき、結局はバンドという形態はディスコから消えていってしまいました。かろうじて赤坂のムゲンでは、かなり後年まで黒人バンドのライブショーで頑張っていましたが、80年代に入ってからはユーロビートなるデジタル系サウンドに圧されていってひっそりとその幕を閉じました。淋しかったですね。もうあんな粋なお店は二度と出てこないでしょうね。あの頃のディスコ・クラブのノリってコンサートやライブハウスでは味わえない、独特の雰囲気があって、何処となく不良っぽくて、粋でおしゃれだったなぁ~。まあ、そんなこと言ってる私も、すでに日本の文化を離れて20年ですから、最近のムーブメントには疎くてあまり偉そうなことはいえませんが、少なくとも、バンド演奏で踊る快感っていうのは、ディスク音響で踊る心地良さの数十倍はあったような気がします。カチッ、キチッと出来上がった音楽ではなくて、もっともっと人間臭い味わいがあったような気がします。ってこんなこと言ってると爺臭いって言われそうですが。。。。(笑)
2006年11月14日
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ここ数日、爺の70年代ディスコの昔話で花咲いたので、せっかくですから昔のバンドのお話もしておきましょうか。ナニを隠そう(ってか別に隠してないけど)委員長は、その昔バンドマンになりたかったのでした。(ふ~ん)まあ、同年代の人ならまず似たような道を歩んでこられたと思うのですが、小学生の頃はグループサウンズですね。トップの座に輝いていたザ・タイガース、ザ・スパイダース、テンプターズ、ジャガーズ、カーナビーツ、オックス、ちょっと大人っぽかったブルーコメッツとゴールデンカップス、寺内タケシとブルージーンズなんてのもいましたね。初期ブルージーンズには後のワイルドワンズの加瀬邦彦さんがいました。加山雄三さんのランチャーズもフォーク系GSってなちょっとアイドル系もありましたっけ。ランチャーズには喜多嶋修さんが居ました。子供心にスゲーって思ったのは、ブルーインパルスってグループでした。当時はまだ珍しかった管楽器入りのバンドだったですね。そだ、ビーバーズってのも後年、寺内たけしさんのバックやってましたっけ。「3年目の浮気」でカラオケの人気者になった黒沢ヒロシさんがいたバンドです。あとはバンドじゃなかったけど歌って踊れるジャニーズもいました。あおい輝彦さんがいたんですよね。「太陽のあいつ」ってテレビドラマの主題歌で大ヒットしました。そんな時代背景で育った委員長ですが、洋楽ではなんといってもモンキーズでしたね。テレビドラマも面白かったし、ヒット曲もすごくポップで子供ウケしてました。声優さんも良かったですね。マイク:長沢純さん、ミッキー:鈴木やすしさん、ピーター:太田博幸さん、デイビー:高橋げんたろうさん、まさか後年うっかり八べえになるとは思いませんでした。(笑)そして、ピンキーとキラーズの登場で一気にアイドル路線全開となりました。委員長がアイドルに恋した初めての経験だったですね。ピンキーこと今陽子さん。男の子のくせに女性週刊誌とか買っては写真切り抜いてましたっけ。(笑)そして委員長がバンドをやりたいと思い始めたのがこの頃でした。お年玉を貯めてガットギターを買ったのが小学校6年生の時で、わけもわからず買ってしまったものの、ボロンボロンと弾いては気分だけミュージシャンになりきっていました。ちょっと間違えると小林旭のギターを抱いた渡り鳥みたいだったけどね。(笑)楽器を手にすれば音楽に対する興味も更に拡がり、ようやくこの頃からビートルズやローリングストーンズなども聴くようになりました。中学生になったころ、60年代後半はフォークブームが巻き起こり、ネコも杓子もギターを抱えてワーワー言い出しました。委員長が持っていたのはナイロン弦のガットギター、巷の流行はスチール弦のフォークギター、子供心に「あれっ、これってなんか違ってる?」みたいな感じでした。オレは古賀メロディーとか東京ロマンチカ目指してんじゃねーぞ!とか思って一気にエレキの世界に突入です。つっても、当時のエレキギターなんてムチャムチャ高価なものだったし、アンプWITHスピーカーがなければ音も出せませんからね、ビンボー人の倅にそんな真似できるわきゃありませんでした。で、どーしたかっていうと、古い拡声器のマイクとスピーカーをばらして、ガットギターの穴にマイク突っ込んでスピーカーから音出す、みたいなかなりムチャクチャ強引なことやって人気者になりました。(頭痛くなりそうですね~月亭可朝かおまえはっ!)それでもクラスメートのちょっと生意気コク奴らと、ショッキング・ブルーのヴィーナスとか悲しき鉄道員なんかコピーしました。ストーンズのテル・ミーとかね、比較的簡単なヤツをね、ジャンジャカジャーンってコード弾いて叫んでました。フォークブームも歌謡ポップス系になってくると、ベッツィ&クリスの白い色は恋人の色とかフランシーヌの場合とか森山良子さんなんかも大活躍の時代になってくると、ギター小僧のための雑誌「ガッツ」なんて出てきて、アルペジオ奏法などを解説してくれたりしましたっけ。でもって吉田拓郎の登場ですね。凄かったですよね、このブームは。でも、へそ曲がりの委員長はこっちじゃなくて、やはりハードロックの世界へと進んで行ったのです。当時の不良はすべからくハードロックでしたね。(そーかなぁ)フォークみたいな軟弱なもんやってられるかー、みたいなね、突っ張りましたね。でも野口五郎とかは歌ってましたけどね。(笑)70年代に入ってからはもうとにかくロックでした。レッドツェッペリン、グランドファンク、ディープパープル、サンタナ、ブラックサバス、もうとにかく手当たり次第って感じで聞きまくりました。高校生ともなるとバンドを組んで音楽喫茶とかに出るような奴等もいて、自己顕示欲爆発方人間の委員長は、すっかり自分の進む道を描き始めておりました。そしてキャロルの登場です。なんだかなーって感じですよね。あの時代の高校生って、かなりムチャムチャなジャンル別けがありましたよね。概ねファッションはリーゼントにボンタンとかスリムパンツなんですけど、シンナー吸いながらハードロック聴いたり、踊り場にも出入りしたり、NTV紅白歌合戦なんか見に渋谷公会堂に行ったりと、感受性の強い時代はつかみ所がなかったですね。委員長自身はこの時代、どの路線で行くか相当な心の葛藤がありました。(ふ~ん)周りを見渡せばバカの見本市のようなリーゼントにボンタンのツッパリ、バンド好きな奴等のところに行けば、皆長髪にベルボトムジーンズでピースなんか吸って「お前らまだまだ子供だよ」とか言われるし、背伸びして新宿あたりに出れば、コンポラやアイビーのにーちゃん、ねーちゃんたちに「踊りも踊れないんじゃしょーがないよ」とか言われて、一体オレはどーすれば良いんだ、みたいなね、悩みました。(フツーの学生で良かったんじゃねーの)まあ、無難なところで、いわゆるヤンキーみたいなところで収まったんですけど、その頃の同級生に立川在住のバンド小僧がいて、ある日二人でギターを弾いて遊んでいたら、彼が妙なコードをバシっと決めたんです。かなりシャープなカッティングでね、ちょっと不良っぽい音だったんですねそれが。いわゆる7thとか6thってヤツなんですけど、それまでメージャーだのマイナーだの言っても所詮は歌謡曲に毛の生えたようなもんしかコピーできなかった委員長にとって、このテクニックは強烈なインパクトでした。「な、なにそれ?」「B.B.キングのフレーズだよ」「えっ?ビービーキング?」「ブルースギターには必ずこういうオカズが入るんだよ」「オカズ?ってメシの話してんじゃねーよ」頭のヒューズが爆っと飛びました。よおし、ナニがなんでもエレキギターを買うぞ!委員長17歳の時の決断でした。
2006年11月12日
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えー、このところ昔話が続きましたが、書いてるうちにまたいろんなことを思い出したので、しつこいかもしんないけどもうちょっと書きますね。(笑)このテーマの当初に言った、偽者(ニセモノ)についてです。これは、委員長が現役時代からずっとひきずったまま、未だに抱き続けているトラウマにも似た感覚です。前にも言いましたが、SOUL系ディスコDJのルーツは、ウェイターに始まる従業員からのスタートですから、目標としてディスクジョッキーを目指して業界で働いていた人間とは根本的に違っていました。確かにその時代ではプロ意識もあったし、専門職という自負も持っていましたが、所詮は非常に狭いジャンルの中だけでお山の大将になっていただけのことで、きちんとアナウンサーとしての基礎である発声練習や発音の勉強をしたわけでもなく、楽曲の勉強などもせず、ただ成り行きでなってしまったというのが事実です。まあ、かろうじて、好きこそものの上手といわれるように、ことSOUL、ダンスミュージックに関しては誰よりも早く沢山の情報を漁ったりはしていましたが、所詮は少ない情報量の中での素人の手習いですからどうしても限界があります。DJ養成所や専門学校などがあろうはずもなく、結局はアチコチの店を回っては手探りで自己学習する以外になかったわけです。そんなわけで、アチコチのディスコを回ってはそれなりにDJ仲間などもできるようになると、だんだん業界の中身が見えてきて、それまで自分が抱いていたコンプレックスのようなものが、実は単なる幻想だったと思い知らされたとき、今度はそれがコンプレックスを通り越して不安の泥沼と化して行ったのでした。(笑)だってそうでしょ、たとえディスコとはいえ、DJなんて職種についたのだから、下手したらラジオのディスクジョッキーに繋がる道だってあるんじゃないかとか、音楽関係の仕事に就けるんじゃないかとか、それなりに将来への夢や希望も生まれてきますよね。ところが実際に自分の周りにいるDJ達といえば、ジャケットのタイトルも満足に読めないし、アーティストのバイオだの年譜だのと言ってみたところで、「ふ~ん、そうなんだ、でもこれ踊り易いよね」ってなことがせいぜいでした。今まで耳にしていた彼らの英語だって、それなりに皆英語は喋れるものだと思い込んでいた委員長は、それが単なる聞きかじりのテキトー英語だと知ったときには、それまで漠然ながらも描いていた将来の夢が音を立てて崩れ落ちていったのでした。(笑)かろうじて、多少なりとも放送関係を目指すDJが居たことが救いにはなりましたが、そんな彼らだって英語なんてまず話せなかったし、音楽知識だってかなり偏っていたし、せいぜいが音楽喫茶のパーソナリティ止まりってな感じでした。「あー、オレはこんな世界でこれから先どーすりゃ良いんだろう」などと溜息をついて嘆いてみたりはしましたが、そんなお前は一体何様なんだってなもんで、高卒でアフロして派手なカッコして遊びまわっている単なるバカに将来の心配など元々お門違いのお話で、すでに人生を捨ててしまった自覚などないままに、我を憂いていた委員長こそが典型的な時代を代表するお調子者に過ぎなかったわけです。当時のDJが買っていた輸入シングルには、マーカーで書き込まれた暗号のようなものがよくありましたね。MS → ミディアム・スローSG → スロー・グッドFUNK → そのまんま(笑)レコードラックの中から、こんな暗号(笑)を目安にして選曲してたんですからねー、どんなもんか大体想像がつくでしょ。時々英語が難しくて読めないタイトルはアーティスト名だけ言って、NEW SONGとか言ってごまかしながら紹介していたんですからテキトーそのものですね。一時が万事そんな感じでしたから、結局はプロ中のプロみたいなお店「エンバシー」に皆通ったわけです。そこで、ホンモノのブラザー達が踊る人気の曲をメモライズしたり、店長のユキさんにお話を聞いたりして、自分の店で真似をするみたいなところが当時の実情ではなかったですかね。もちろん新宿には新宿なりの流行とかもありましたが、やはりBLACK MUSICの頂点に君臨していたお店と言えばEMBASSYだったですね。でもって面白いのは、所謂ロック系DJはエンバシとかハレムなんかにはまず行かなかったし、ファンキーとは言ってもファンクなんて言葉はほぼ使いたがりませんでしたね。なんだったんかなぁって思います。当時パートナーを組んでいた新宿のジュリーこと鈴木氏なんかも、踊りを踊ってる姿なんて一度も見たことなかったし、一緒にディスコに遊びに行った記憶など全くありません。ただ、喋りはね、当時から本当に上手かった。きちんと曲の間奏パートで喋って、コーラスが始まる前にきちんと終わる、基本中の基本みたいなセオリーはずっと守ってましたね。ラジオ番組の模倣みたいな感じです。それに比べて、委員長とかソウル系DJは喋るというよりは叫ぶみたいな(笑)、テキトー英語を連発して、あとは駄洒落とか、フロアのおねーちゃんからかったりとか、デタラメなことやってました。当時のDJの雰囲気を味わってみたい方は、戦友テリーのサイト「ファンラジ」を是非ご参照下さい。(爆! http://funky-radio.com/bbs.htmlあの頃のDISCO DJのスタイルを垣間見ることができますよ。あのころの定番フレーズといえば、RIGHT ON、GET DOWN、KEEP ON DANCIN’、みたいな聞きかじり単語を羅列するだけみたいなもんだったですね。しょーもないヤツは歌詞カード読んだりしてね、もうワケわかんなかったですね。(笑)まあ、SOUL系のディスコにはベースの黒人がアルバイトで来てたりして、それなりに雰囲気は盛り上がってました。ヒットとダンスを持ってくるブラザーは一種のヒーローだったですね。今にして思えば兵隊さんのアルバイトなんだから、向こうだって素人に毛の生えたようなもんだったんですけどね、そりゃ黒人が黒人音楽かけて英語しゃべるんですから、そりゃカッコ良かったですよね。そんなニセモノDJが活躍してたディスコ業界に衝撃的なレコードが登場しました。それは、東芝EMIがプロモーション用に作ったDJ入りノンストップ・ディスコヒット・メドレーでした。DJはMR.KATSUYA KOBAYASHI。今でもしっかりと覚えてますよ、トップナンバーはBTエキスプレスのピースパイプ。その他東芝のヒット曲、タバレスの愛のディスコティック(It only takes a minute to fall in love)、WARのローライダーなんかが効果音も交えた英語のMCに乗って紹介されているノンストップ・オムニバスでした。これには、大袈裟じゃなくてニッポン中のディスコDJが驚いたんじゃないでしょうか。もの凄い衝撃だったですね。だってこのレコードかけておけばDJなんていらないし、ノリノリの内容はそれだけでディスコには充分通用しましたからね。自分たちがどれだけニセモノなのかということを見せ付けられたようなものでした。個人的見解ですが、このレコードの登場、っていうか小林克也さんの登場で、ニセモノDJの時代は終わったと、そう本気で思いましたね。だって、こんなの聞かされたら、もう恥ずかしくて英語なんか喋れませんでしたもんね。さあ、それからは皆で英語のお勉強です。少なくともデタラメ英語はやめて、ちゃんと意味のあることを喋りたいと思うのは当然のことでしょう。よくジョイ吉野なんかと、このレコード擦り切れるほど聴きましたよ。ノートにヒヤリングして書き写したり、耳で覚えたフレーズを繰り返し練習したり、それまでは先輩達の見よう見まねでやってたことなどが一気に胡散臭く思えてきて、酷く恥ずかしく思えましたね。このあたりからようやく、本当の意味で黒人音楽を学び始めたということではなかったでしょうか。スラングの意味なんかも覚えるようになって楽しくなったりもしました。それなりの英語の文章を、教えてもらった通りに喋ったりすると、常連のBROTHERたちから「お前はいつから英語喋るようになったんだ?」みたいにからかわれたりして、それが嬉しくって、つたないボキャブラリーを屈指して必死にカラの頭を使いましたね。まあ言ってみれば、ここにきてようやくSOULへの道に踏み込んだってな感じでした。とは言ったって、赤ん坊が言葉喋ったくらいのものですけどね。いくらなんでも独学で、しかもディスコで英語覚えてペラペラ喋れるようになったら誰も苦労はしません。っていうか、じゃあ今までのオレ達はブラザー達にとってどんな人間だったんだ、とか考えると、それはもう恥ずかしさを越えて、井の中の蛙をとことん思い知らされたような感じで、また落ち込むみたいなね。(笑)「日本人の調子クレたバカな子供たちがアフロしてオレ達の真似してやがるぜ、見てみろよ」とか言って笑いモノにでもされていたのがオチですね、マジで。まあ、それからはテキトー英語はやめて、できるだけきちんとした英語を喋るようになりました。ジョイ吉野は日系アメリカ人の友達作って、発音ごとフレーズにして一生懸命暗記してましたね。一時ご一緒したシュガーパイガイもちゃんとしたセンテンスの英語を使っていました。このあたりからですね、少しずつホンモノ志向が芽生えてきたのは。ただ、委員長の場合は根がどーらく者のお調子野郎ですから、人とは違う道を行くぞってなもんで、言葉を使わない突破口を見つけたんですね。そうでう。もうおわかりですね。それがダンサーだったんです。(ドッカーン!)
2006年11月11日
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昨日で終了するはずだった本シリーズ(笑)ですが、ちょっと言い足りないことがあるのでオマケ編で~す。えー、70年代後半に巻き起こったディスコブームの中に颯爽と登場してきたディスコDJたちは、ロック系、ソウル系の2大トレンドに分かれつつも、やはり当時のブームはソウルミュージック(ダンスミュージック)が主流だったので、主導権はソウル系DJが握っていました。俗に言うSOUL MAN、アフロヘアに黒人ファッションに身を包んだ成りきり小僧たちが、業界を我がもの顔で歩き回っていた時代ですね。片やROCK系といえば、長髪にバギーパンツとかベルボトムジーンズにミニTシャツとか、ピチピチのジャケット、ウェスタンシャツなんぞを着込んで、フォーク系とも混ざり合ったファッションでアフロ小僧に対抗したりしてました。まあそんなこんなで、都内は雨後のタケノコのごとく新しいディスコが次々とオープンしていきました。ニューオープンと同時にDJも次から次へどこからともなく現れてきて、それなりにDJという職業も定着し始めていったのです。この当時はまだまだSOULが主流でしたから、DJとして採用されるにはそれなりのハッタリが必要でした。ロック系で言うハッタリは、ステーションやブロードキャスティング系の仕事をしているってのがウリで、商店街の有線放送の営業をしたことがあるとか(笑)、地方のラジオ局でお仏壇のCMナレーションを20秒ほどしたことがるとか(笑)、とにかく音楽知識は任せてチョーダイみたいな感じで、得意のおしゃべりや選曲など、一応は放送局でも仕事できるくらいの持ちネタはあります、みたいな売り込みをかけたりしてました。対してSOUL系は、黒人音楽とダンスに関しちゃチトうるさいぜっ!てなもんで、老舗GETでウン年間働いてましたとか、六本木エンバシーで黒人相手にしてましたとか、アフロレイキで冷凍ポテト揚げてました(笑)とか、専門バカ系(今で言うとオタク系ですか)でハッタリかます人たちがほとんどでしたね。ソウル馬鹿みたいな。もちろん、エンバシやアフロレイキ出身者がそんなにたくさんDJになっていったわけではありませんから、まあ、要は新進ディスコに行って、俺は経験者だから任せなさい、みたいな売り込みで、しっかりもぐり込んでいったというような感じでしょうか。だからすぐに正体がばれて、いなくなっちゃったヤツなんかもケッコーいましたね。夏前にいなくなったと思ったら、新島のディスコでDJやってたとかね。(笑)まあブームの走りだった頃は、DJ同士お互い顔見知りくらいの仲間が配置されていて、老舗とまでは行かずとも、ソウルディスコが流行りはじめる前の著名店の従業員だったような連中が、おおかたのディスコのDJとして収まったってとこでしょうか。かくゆう私もビバヤング~V-one~Q&Bなどを通って業界のうるさがた(笑)みたいになっていったわけです。同期でいうと、テリーとかイサムとか、ジョイ吉野とか、もちろんシュガーパイガイとか、SOULマニアって括りで皆繋がってはいたんですよね。でもって、SOULブームと言っても、所詮は長続きするわけもなく、しばらくするとソウル系DJにすっかりポジションを取られてしまって日陰者だったロック系DJ達が、いよいよ反撃を開始し出したのでした。その発端がバスストップに代表されるステップダンスだったんですね。都合上、昔のステップと区別するため、これを第二次ステップブームとでも呼びましょうか。(笑)それまではアフロしたにーちゃん、ねーちゃんが、やれウォーターゲートだ、オールドマンだ、ポイントだ、ハナだチョーチンだとデカイ顔して牛耳っていたのですが、それを影からメラメラとライバル意識の闘志を燃やすロック系が次々とポップス系ダンスナンバーを繰り出してきたのでした。「さぁ~、これからはヨーロピアンサウンドの時代ですよ~、みんなでエレガントに踊りましょう」みたいなロック系DJが得意とするMCで、イージーリスニング系のダンスナンバーを駆使して主役の座奪還を試みたのでした。そのダンスミュージックに乗って、ティーンエイジャーを中心とした所謂バスストップ系のステップが席巻し始めると、それまでのSOUL系DJは猛反発してステップ皆殺し作戦に出ます。(笑)これが仁義なき戦いDJ戦争歌舞伎町の乱ですね。(あははー)頑なに古いタイプのディスコのパターンを守ろうとすればするほど、アフロ姿は浮き上がり、更に拍車をかけるようにお店自体も明るい大型店が台頭していったのです。ここで、ソウル馬鹿達も岐路に立たされることになったのです。今まで自分たちが引きずってきたSOULを貫くか、時代の波に迎合してエレガント・ディスコで生き残るかという苦渋の選択を迫られることになったのでした。(笑)職人気質を保ったままSOULへの道を進む者は時代の波に逆行して、更に黒っぽいお店、エンバシーやハレムへと進み、時代に妥協してDJとして生き残る道を選んだ者は、「ああ、パーリャメントをかけたい」と呟きつつも、そんな希望を噛み殺して、なんとかソウル系アーティストにしがみ付きつつドナ・サマーあたりでお茶を濁したのでした。(笑)ところが時代の波は更にロック系DJを煽り、アラベスクなどという刺客を送り込んできたのでした。がーん!「ああ、天は我を見放したかぁ~」などと嘆いても後の祭りです。SOUL一筋生き残ってきたソウル系DJに残された道は、「さあ~リクエストいっちゃいましょう~」などと叫んで騒いで自分を捨てて我を忘れることしかなかったのでした。(笑)そしてこの後STUDIO54が大ブレイクして、音と音を繋いでいく新たなDJスタイルが登場するに至って、ロック系もソウル系ももはや単なる古いDJ親爺となって時代の隅に追いやられていくことになってしまったのでした。覇者交代の儀式とでもいうのでしょうか、新人類などと呼ばれる若手DJが登場する頃には、ディスコブームを創り出した(っていうかたまたまその時代に生きてただけですが)老兵たちはそれなりの道を歩むことになったのです。今、あらためて時代を振り返ってみると、確かに時代の流れは誰にも変えることはできなかったでしょうが、つまらない対立や見栄、目先の利益を追った我欲が、ブームの終焉を早めてしまったというのが本当のところではないでしょうか。今でも「夢のようなブームだった」と思えるのは、それは自分たちがどうにでも作ったり変えたりできる時代だったということであり、自分たちが先導すればそれなりのカタチを描き創ることが出来得た時代だったということでもあると思うんですね。そういう意味では、私らはまさしくその時代の最先端を走っていたということであり、それは間違いのない事実であったと言えるのではないでしょうか。歴史に「たら、れば」はないと言われますが、あの時、先頭を走っていたリーダーたちが、目先の利益や、つまらない上下関係の権威付けに惑わされずに、もうちょっと業界を育てようというような気持ちでスクラムを組んでいたとしたら、現在のダンスシーンやディスコ(クラブ)業界もレジャー産業のひとつの業種としてもっと定着し、確立されていたような気がします。(やれやれ、なんとか今日は終わりそうだね)ちなみに、時代がディスコブームの終焉に向かう途中、生き残ったSOUL馬鹿戦士数名は、より黒い世界を目指して、当時生き残った数少ない昔ながらのSOUL DISCO、BRAG EMBASY とHAREMに流れていきました。SOULブーム全盛期、エンバシー出身者、ハレム出身者がある種のエリート扱いだったのも事実として歴史に残しておきたいですね。なんのエリートかって?そりゃSOUL馬鹿のエリートに決まってるじゃないですか。(笑)DJになりたいがためにEMBASSYで働き始めたヤツも実際にいたし、地方のSOULディスコに行けば、エンバシーで働いていたってだけで一目置かれたくらいです。(某業界で言えば神戸の名門Y組のバッジみたいな金看板でした)そんな名門、日本のSOUL音楽の殿堂、アフロ小僧の憧れ、それがEMBASSYだったのです。そして、当時のSOUL馬鹿達が憧れたその人は、EMBASSYの店長、SOUL BROTHER MR.YUKI KATOだったのです。
2006年11月10日
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いやー、ようやく標題の話に辿り着きました。ジジイの話はすぐに横道に逸れちゃうから長くなってしまうんでゴメンね。ということで今日は完結編です。(笑)まあ、委員長がナニを言いたかったのかということを突き詰めて言っちゃうとですね、70年代後半に巻き起こった空前のディスコブームの中、雨後のタケノコのように乱立していったディスコと共に、雨後のタケノコのように登場してきたディスコDJという職業が、極めていい加減な成り立ちであったということ、そして私自身の中でずっとトラウマ(笑)となっていた「偽者」劣等感みたいなものを皆様に伝えたかったからなんです。このニセモノというのは、もちろんラジオやテレビなどメージャーなメディアで活躍されているディスク・ジョッキーの方々に対して抱いていた感情。感覚であり、それは決してディスコ業界の中で自分を卑下していたということではありません。逆にディスコ業界では持ち前のツッパリ根性で、「オレが一番すげぇーん」だみたいなプライドだけはずっと持っていましたから、劣等感というのは一般社会における自分の位置付けという意味です。そうですね、一般の皆様には理解しにくいかもしれませんが、言ってみりゃ学歴みたいなものに近い感覚ではないでしょうかね。中卒のセールスマンが時流に乗ってバンバン成績を上げてチヤホヤされていくんですけど、ある時ふと周りを見渡してみると、地道ではあるがきちんとルートに乗って出世して行く仲間がちゃんと存在していて、彼らはみな大卒のごくフツーの一般人であった(笑)みたいな、そんな感じでしょうか。(なんだかなー)昨日までの日記で書いてきましたように、ディスコDJなんてものは元々きちんとしたレールの上を走っていたわけではなく、その業界にいた、数人の音楽好きの趣味が高じて成り行きでドツボにはまっていってしまったみたいなものなわけです。(笑)それでもその趣味の系統というのもきちんと存在していて、いくら誰でもなれるからといっても、それはそれなりに時代の流れから生まれた系統系列がありました。まずはディスコの乱立から始まっていったディスコDJの誕生は、もちろん70年代初期にその原型を作った諸先輩方の流れが主流でした。皆様ご存知のドン勝本さんとかニック岡井さん、ポップとかジ・アザーとかゲットとかのスタッフの流れですね。(委員長は新宿のことしかよーわからんので、他の地区のことは知りません・笑)もちろん音楽的にはリズム&ブルース~SOULってことで、いわゆる黒人音楽と踊りの好きな人の集まりですね。同時に、この時代の白人ROCK系のお店から出てきた流れもありました。まあいずれにせよ、どちらも専門職みたいな人がいなかったこともあり、そんなお店に関わってきた人たちが創始者みたいなことになっていったのではないでしょうか。委員長の経験から言うと、この2大潮流(笑)が後年まで続いてDJの大きな二大系統になっていったのではないかと思います。当時、ラジオの音楽番組や音楽雑誌なんかでも、白人系ROCKの専門家と名乗る方々はすでに随分といたし、タイプ的には音楽を聞かせて紹介する音楽評論的DJですね。この手の評論家やDJが後年メージャーになって地位を確立していくわけですが、ただ、この当時でもすでに白人系ROCKは、SOULに比べてある程度市民権を得ていたと思うんですね。情報的にはかなり一般にも浸透していたと思います。この手のDJが、前述したような音楽喫茶とかでサテライトDJなどをしていたメージャー予備軍、二軍のような存在でした。これはもう明らかにステーションへの進出を目指す下積みDJグループであり、ディスコDJとは志向性を異にする流れに乗っていたと思います。片や、ディスコDJと言えば、その形態がDJというだけで、別に喋る技術に秀でるとか、評論的音楽知識を蓄えるとかいう必要性も薄く、要はダンスフロアでお客を踊らせることをメインとした、結構いい加減な(笑)ものだったわけです。まあ、いい加減っていえば皆いい加減で、今にして思えば、ROCKにせよSOULにせよあの当時どれほどの専門家が居たのか?っていうとかなり疑わしいわけで、先輩のマイク越谷さんとかがローリングストーンズのファンクラブ初代会長をやってたり、コンノユウジさんとか中村とうようさん、福田一郎さんなんかが、洋楽評論家みたいな肩書きで、それなりにモノを書いたり語ったりしていたわけですが、そんな彼らだって数少ない情報を元にノーガキをコイていたワケで、聞く方、読む方はそれ以上に情報が少なかったわけですから、それらのノーガキをありがたがって受け取っていたというのが実際のところではないでしょうか。(えーと、ちなみに北海道の姐御kyさんもこの時代お名前がチラホラ出ていたようです)えー、相変わらずにすぐ話が脱線しますが、早い話、当時はちょっと詳しいってくらいの人たちが専門家として君臨(笑)していた良い時代だったのです。これは音楽だけに限らず、ファッション業界なんかも似たようなもんで、メンズクラブが創刊されたり、VANジャケットとかが流行ったりと、若者文化(笑)の黎明期みたいなもんだったんじゃないでしょうか。今、メンクラのバックナンバーなんかたまに目にすることがありますが、くろすとしゆきさんでしたっけ、ケッコーしょーもないこと言ってますよね。(笑そんなの皆、頭から丸呑みしてたんですから、SOULだディスコだ花だ提灯だって騒いでた頃を振り返ると恥ずかしくなるのと同時に、なあんだみなテキトーなこと言ってメシ喰ってたんじゃねーか、みたいなね、素人相手にハッタリかますみたいな、まるで新興宗教ですよ。まさに Sweet & Bitter ですね。(えっ!?)(笑)でもって、委員長の時代で言うと、同期の赤シャツのみつぐ氏や新宿のジュリーこと鈴木昇治氏なんかが、メージャー志向DJグループの代表格でした。みつぐ氏は元々白人系ROCKに詳しかったし、鈴木氏は洋楽全般にわたって勉強してましたね。確か委員長が鈴木氏と知り合った頃、彼はモナミビルにあった「テムズハウス」っていう絨毯パブでDJやってましたね。クレージーホースとかムゲンのあったビルです。彼はマジでステーションのDJ目指してたし、合間をみて歌舞伎町にあった音楽喫茶「白馬車」で深夜のアルバイトとかもしてました。その時白馬車のチーフDJだったのがブルこと渡辺たかし氏ですね。彼もヒジョーに良い声してましたね、ルックスはブルドッグでしたけど。(笑)ブルさんにしてもジュリーにしても、当時、かなりプロっぽかったですね。お茶飲みながら音楽の話してても、アーティストの名前が出ると、すぐにヒット曲のタイトル、年代、メンバー構成とかバイオグラフィーみたいな話になって、まるで勉強会みたいな感じでした。まじめにベンキョーしてんだなぁ~って思ってましたね。こうしたメージャー志向系DJを総称してROCK系と呼んでましたが、彼らの特徴は、ほとんどが踊れなかったってことですか。(笑)それに比べて、委員長のような、ディスコでウェイターとかしてるうちにDJみたいなものになってしまったグループを、SOUL系と呼んで区別してましたが、こちらの特徴は踊り好き(笑)ってことでした。このあたりが線引きになるのでしょうが、SOUL系はどっちかというと、DJは好きでなったというよりは、楽して金稼いで、余った時間は踊っていたい、あわよくばおねーちゃんをナンパして気持ち良くなりたい、というヒジョーに不純なモチベーションによって成り立っており、ROCK系の生粋のDJ志望とはその本質がまったく違っていたと思います。このあたりが、委員長の言うところの「ニセモノ」なんですね。(Plastic とも言いますねー)ただひとつだけ、同じ時代を生きた仲間として言えることは、それでもこの両者は結局ホンモノにはなれなかったっていうことでしょうか。ROCK系の中にもやはり血統みたいなものがあって、その入り口からメージャー系とマイナー系の分かれ目は存在していて、某有名DJの付き人とか弟子とか、あるいは放送局系(ブロードキャスティング)社員とかがあくまでも主流で、新宿の水商売上がりは所詮何処まで行っても二軍扱いだったことは事実でした。結局、実力の世界とか言ってはいるものの、放送局という縦割り企業の中にあってはたとえDJとは言えども、学歴や人脈などの枠外から切り崩せる限界があったわけです。まあ、言うなれば何処の業界もこの体質はあまり変わりはありませんね。今、自分自身を振り返ってみると、委員長の持つメディアへの不審とか広告業界の偽善とかは、この時代に形成されたものだと思います。あれっ!?また話が終わらなくなっちゃった。えー、もうちょっと書きたいので、最終回おまけ編ということで明日につづく。。。。。(ってか、もうちょっと頭でまとめてから書けよ!)
2006年11月09日
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え~、遠回りに遠回りを重ねましたが、遂にディスコDJのお話に辿り着きました。前2作の日記にも書いたように、踊り場からディスコへと進化を遂げる過程で、単なる音楽係のお兄さん(笑)からディスク・ジョッキーなどというカッチョ良い名前の職業へと変化を遂げて行ったお兄さんたち(笑)ですが、自分自身がいざ業界の中に身を置いてみて初めて知ったその実態こそが、その後の委員長の人生におけるトラウマとなっていったのでした。(ちょっとオーバーかもしれない)委員長の体験的記憶で言えば、DJなる存在自体の認識を持ったのは、やはり六本木メビウスでしょう。アクリル製のカプセル型DJブースにそれなりの人が入って、レコードを回しながらマイクを使って喋るという、いわゆるラジオ番組で言うところのサテライトスタジオみたいな雰囲気を持つこのお店は大変画期的な「踊り場」に見えましたね。大体、それまでの踊り場のDJブースなんて、裏方さんの部屋みたいなもんで、DJの顔も見えないようなのが当たり前でした。そういえば昔、時計屋さんて、時計の修理とかもやってたでしょ。お店の隅っこに小さな小部屋みたいなのがあって、薄暗い中に裸電球のスタンドかなんかが煌々と光ってて、天眼鏡(古っ!)みたいな目玉眼鏡をかけた職人さんが小さな腕時計を分解したりするんですよね。そんな感じが、当時の踊り場の音楽係のおにーさんって感じでした。ダンスフロアー(ってか踊り場ね)の隅っこに小部屋があって、裸電球の下でせっせとレコードかけてるみたいな感じですか。(笑)そんな従来の薄暗い雰囲気をぶち破って一気におしゃれなディスク・ジョッキーとかになって登場してきたメビウスは、新宿の悪ガキにとっちゃ、そりゃもうまぶしくてエレガントな大人の遊び場ってな感じでした。それでも、当時はDJなんて自分たちとは別の世界の人たちだ、くらいにしか思っていませんでしたから、まさか自分がそんなものになろうなどと思うことすら頭にはありませんでした。まあ、どっちかというと、この時代の委員長はバンドマンにあこがれてましたから、レコード回して人気者になろうなどとは考えもつきませんでした。それでも当時、DJってのが活躍していたお店もいくつかありました。新宿だと歌舞伎町の「白馬車」や「穂高」など、深夜営業の大型喫茶にはサテライトスタジオよろしくガラス張りのブースの中でDJがおしゃべりしながら音楽を紹介する、いわゆるラジオ番組の模倣みたいな感じのお店がありました。始発待ちのお客さんからのリクエストに答えたり、セイヤング、オールナイトニッポンばりのパーソナリティを気取ったDJが勝手にしゃべっては音楽を流す、みたいなお店でした。あとは吉祥寺にベルファンっていう中堅規模のコンパがありまして、ここではバンドとDJが交代で音楽を流すという、当時にしては結構面白い企画のお店だったですね。こういったお店に出ていたDJは、もちろんステーション(ラジオ局)とかのDJを目指すプロ志向の人ばかりで、噺家の弟子とか、FM局や有線系のDJをしているような人が多かったと思います。もちろんジャンルは洋楽&邦楽のポップス中心ですね。まあ、当時の委員長の頭の中では、こうしたディスクジョッキーがディスコ(踊り場)でレコードを回している人とまったくリンクしていませんでしたから、ラジオのジョッキーの延長が巷のDJで、ディスコにいるDJは別世界の人だと思っていました。てなことで、いざ自分がディスコで働くようになって業界のことがわかるようになってくると、こんな楽で見栄えの良い仕事は他にはないと思いましたね。おねーちゃんにもモテそうだし、一般人とはちょっと違う、というスノッブ感覚も充分に満たしているし、なんせ自分で演奏するとか、練習するとか、そーいったメンドーなプロセスをすっ飛ばしていきなりデビューできるという、素晴らしいチャンスに溢れた仕事、というのが怠け者の自己顕示欲爆発型人間としては、この上もなくもってこいの職業だと認識したわけです。なんせ、業界に入って出会ったDJという方々の殆どが、「なんだよ、俺らとほとんど変わらないじゃん」って印象の方が強くて、それまでは、DJなんてやるには何かオーディションとかライセンス取得みたいなものが要求される特殊技能だとばかり思っていましたから、ここで道楽者の血が一気に噴出して、楽して良い給料がもらえるディスクジョッキーという職種に突っ込んで行ったのは当然のことだった思います。それまでは、それなりにバンドマン目指してギターの練習とかしてた委員長ですから、業界入りするには下積みを重ね、練習を重ね、メンバーを集め、更に練習を重ねてようやくステージに立てる、というような勝手な思い込みだけで燻っていたわけで、それが、ただレコードを回すだけでいきなりデビューできるという、夢のようなチャンスが目の前に突然現れたのですから、そりゃ突っ込まないワケがありません。早速、あちこちのディスコを巡って実態調査を開始した委員長は、更なる驚愕の事実にぶち当たったのでした。当時乱立し始めたコンパ系ディスコ、中型~大型店舗にはたいてい黒人DJが居て、その合間を繋いでいる日本人DJは、専門職ばかりではなく、店の従業員が入っている場合もあり、しかもGETなどの小型店ではウェイターとかが持ち回りでやっているではありませんか。「なんだよ、ウェイターしながらDJやるんじゃ、ちっとも楽じゃないし、目立たねーじゃなーか」という大変不埒な考えで頭が一杯になってしまい、益々この業界のいい加減さに眩暈を覚えた委員長だったのです。そんな思い上がりも甚だしい委員長は、新規オープンの店に出張っては自慢のアフロとハッタリで「DJいりませんか?」と売り込みに励んだのですが、いくらなんでも「じゃ、ひとつ頼むわ」なんて雇ってくれるお店があるわきゃありません。実際、DJの経験なんて殆どなく、アフロしてるからってSOULミュージックに秀でいてるわけでもないし、多少はマシな踊りが踊れるってことくらいが自慢の、単なるハッタリ野郎の夢はあっさりと破れ、仕方なく新宿西口にあったV-oneというお店に入りこんだのでした。ってか、あっさり諦めちゃうような仕事だったってことは、あっさりとなれる職業だってことでもあるわけで、まあ、このV-oneでウェイターをしながらDJもボツボツと始め、いよいよドツボにはまっていったわけです。あれっ!? 今日もまた系譜の話にまで辿り着かなかったですねー。しつこいですか?明日もう一回書きますね、完結編。(終わるかなぁ~)
2006年11月08日
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えー、昨日はディスコDJの話をするつもりでいたら、そこに辿り着く前に脱線してしまい、ゴーゴーとバンドの話で終わってしまいました。まあ、実際に委員長もゴーゴー喫茶とかゴーゴーハウスとかで盛り上がった時代は、未だ小学生~中学生でしたから、実体験として知っているわけではありません。かろうじて、グループサウンズ全盛期、新宿のアシベやアングラなんたらとかいうところに、従兄弟のにーちゃんと行ったことがあったというくらいのものです。話がまた脱線しますけど、当時の流行言葉「アングラ」ってのは未だにインパクトが強く残っています。UNDER GROUND(アンダーグラウンド)の略でアングラですね。なんか当時は意味もよくわからぬまま、知ったかぶって口走っていたような気がします。アングラ劇団とかアングラ喫茶とか、思春期真っ盛りの少年の目にはちょっといかがわしさとエロっぽさが漂う淫靡な言葉でした。そういえば映画「ウッドストック」で、みんなで素っ裸になって泳ぐシーンとか、遊ぶシーンがありましたけど、憧れましたねぇ(笑)、いいなぁ~、オレも仲間に入りたいなぁ~みたいな。(笑)フリーSEXとかいう言葉も、少年の心に強烈な妄想を掻き立てるキーワードでした。とまあ、そんな時代を経て(ってどんな時代やねん)、ベトナム戦争も終わり、ちょっとひと息つく時代、そんな中で急速に流行り出したダンスミュージックがR&Bでした。細身のパンツにリーゼント、後に踊り場の流行となっていくコンポラスーツ(コンテンポラリー・スーツ)に身を包んだティーンエイジャーが踊りに狂っていくわけですね。そういえば、この頃だったかなぁ、衛星中継ってのが初めてテレビに登場して、なんとそこで不良少年たちが目にしたのは「テンプテーションズ」だったんですね。白黒テレビでやたら光沢のある映像に移った彼らの姿は、そりゃまあ、なんと言って良いものか、ニッポン人にとってはたぶんよくわからない音楽だったのではないでしょうか。黒人がお揃いのスーツをビシッと着込んで歌いながら踊るそのステージは、従来の裸にジーンズ、長髪を振り乱しながら叫ぶ怪しげなロックバンドとは一線を画す、ちょっとしたエンターティメントのショーとして、認知されていく第一歩だったような気がします。ということで、当時の踊り場にも、こうした黒人グループのコーラスと踊りを真似するムーブメント(笑)が起こり始め、いわゆるステップ時代の到来となっていくわけですね。ドン勝本さんがおっしゃられているように、当時のゴーゴーからR&Bのダンスミュージックへの移行は、その踊り方に遊びの全てがあったということで、ステップというカタを作ることで初心者にも踊りの楽しさを解ってもらおうというような意図もあったと思います。なんせそれまではゴーゴーっていうくらいですから、とにかくワーワーいって体くねくね動かしたりしていただけで、ポップミュージックで踊りを踊るなんてことはまだまだ特別な世界だったのだと思います。今にして思えば、それまでデカイ音だして、サイケだアングラだハナだチョーチンだって騒いでたあんちゃんたちが、フォークソングなる、ちょっと軟弱な方向に進み始めた時代でもあったので、このあたりから若者(笑)の方向性が分かれて行ったのではないでしょうか。従来のゴーゴー系から踊り場へ移行して行った若者は、文字通り地下に潜り「踊り場」なるちょっと不良っぽいムーブメントを形成し始め、地下から地表にオーバーグラウンドしていったグループはフォークの御旗の下に集結し、ニッポンのポップスへと進んで行ったのでしょう。(ってかテキトーな推測ですから、テキトーに聞きましょう・笑)まあ、そんなにきっちりと境目があったわけでもなく、大きな塊としてみた場合、そんな流れで進んで行ったってことですか。だから当時の踊り場も、ゴーゴーの流れを汲むお店にはまだバンドが出ていて、相変わらず永久のヒットメドレーみたいのやってたし、小箱の店では最新輸入盤みたいな感じで次から次へと新曲が掛かっていたし、きちんとカテゴライズされるにはまだまだ時間がかかったわけですね。ですから、不良の1年生みたいな委員長くらいの年代のガキたちは、音楽性そのものよりも、薄暗いダンスホールで、ビシッと細身のスーツで決めた先輩方の並んで踊るステップを憧憬の目で追っていたようなわけで、その根本にはそこに屯する色っぽい先輩のおねーさま方に遊んで頂きたいという、好奇心とスケベ根性の塊だけが原動力となって不良修行に励んで行ったのです。そして、その不良小僧たちの憧れこそが、踊り場でステップをご披露してくれる従業員の皆様であり、その方々こそが、ドン勝本さんであり、ニック岡井さんであり、その取り巻きの皆様であったわけです。そうこうして踊り場に通っていくうちに、だんだんとお店の事情もわかってくるようになると、踊りを踊れることと、その音楽を知っていることがセットにならなくてはいけないと勝手に思い込んでいくようになります。それは、ラジオの音楽番組の影響とかもありますが、ディスクジョッキーはその曲についての知識があって、それなりのノーガキを垂れるからですね。では踊り場ではどうかというと、別にそこでノーガキを聞くようなマジメな子供はいませんから、踊りが上手いことの方が重要なファクターでしたし、この当時はDJなる認識もあまりなかったのではないでしょうか。レコード係のおにーさんみたいなもんですか。(笑)ただ、ステップの上手いお兄さんがレコードを回すときは、やっぱり真剣に聞いたし、そのお兄さんが回す曲を知っているということがその場所で優位に立てるひとつのステイタスみたいなものだったわけです。だから、新曲なんかが出た場合は必死コイテ曲名やアーティストをメモライズして、次のお兄さんのDJタイムにはこれ見よがしにリクエストしたりして、「おおー、やるじゃんおまえ」みたいに言われることで、気持ち良くなっていったわけですね。(笑)そのうち、それが次第にエスカレートしていくと、自分もそこの店のお仲間に入ってみたくなるのが馬鹿のパターンですね。いわゆるドツボにはまるというやつでしょうか。(笑)かといって、高校生の分際でアルバイトもないだろうってことで、悶々とした気持ちを抑えながらも、その手の本を見つけてきては読んでみたり、黒人音楽の好きな先輩のところでレクチャーを受けたりしつつ、一生懸命に予備隊としての実力をつけていったのです。もう完璧に馬鹿の典型ですね。ガッコの勉強などろくすっぽしたこともないくせに、輸入盤の英語を読みたいがために熱心に辞書引いて意味調べたり、まあ夢中になりましたね。委員長の場合はバンドマンもヒジョーになりたい職業(笑)のひとつでもありましたので、英語の歌詞の訳など結構マジメにやりました。その合間を縫ってギターの練習などもしつつ、ステップのお勉強もしたりして、そりゃ大忙しの青春でした。高校を卒業する頃になると、自分の心の中ではしっかりとしたある種の方向性というか、趣向が芽生えておりました。バンドマンになって踊り場に出演するか、踊りを見てもらうことでオカネを貰う仕事につくか、とにかく目立ったことで一旗挙げたいと夢見るようになっていたのでした。もちろん、それらの夢は、将来有名なアーティストになるための下積み修行のような、避けては通れない道だと信じて疑わなかった、何処にでも居る大バカヤロウのひとりだったのです。あれっ!?また今日もDJの系譜に辿り着く前に話がそれましたね。えー、しつこいと言われそうですが、続きはまた明日。(爆!
2006年11月07日
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3日ぶりの日記復活デス。ちょっと大人の仕事が忙しかったもので(笑)、どーらくの時間が取れませんでした。(汗;さて前回の日記で、HARUさんからのコメントを頂きました70年代のディスコDJについてちょっとノーガキをコイてみたいと思います。(笑)たぶん当時HARUさんが感じていたことと、委員長の感じていたものが同じだったということもありますが、ディスコ・ディスク・ジョッキーについての成り立ちみたいなものが実は、極めていい加減だったということが当時から少なからずコンプレックスになっていたような気がするんです。まあ、当時業界に関わっていた人なら概ね似たような感覚でいたのではないかと思います。何に対するコンプレックスかといえば、もちろんそれはラジオやTVで活躍するプロのディスクジョッキーや評論家の皆様に対してです。大体、ディスコのルーツであるゴーゴーハウスそのものは、バンドがメインでしたから、「生演奏」で踊るというのが常識で、ディスク(レコード)の音源はバンドの合間を繋ぐジュークや有線みたいなものが一般的でした。ですから、70年代初頭はロックバンド=ゴーゴーとして認識されていたのではないでしょうか。新宿のアシベ会館(ゴーゴー・アシベ)とかは、グループサウンズ全盛の頃から不良の溜まり場、エレキで痺れた(笑)若者が髪振り乱して踊り叫ぶ悪の巣窟のように言われていましたよね。今で言うドラッグとかでラリッちゃったりして、元祖不良の老舗みたいなもんですか。(笑)まあ、ドラッグったって今みたいに種類も豊富にありませんから、オフタリドン(ピンキーとか呼ばれてましたっけ)とか睡眠薬ガリガリ噛み砕いてコーラと一緒に飲む、みたいな、結構マジで危なかったですよね。(笑)あとはシンナーかな。どっちにしろ、最近の健康ドラッグ(笑)とかに比べると結構危ない遊びだったような気がしますね。そーいえば子供用の喘息のシロップ薬なんかもありましたっけ。えー、すぐに話が脱線しますが、バンドの話に戻すと、何故バンドだったのかというと、当時は外国のヒット曲のディスク(レコード)が日本で発売されるのが大変遅かったからなんですね。まあ遡ると戦後進駐軍が日本に入ってきて以来、この形態が続いていたようですが、要は最新の外国(まあ主に米国ですが)のヒット曲をダンスホールで踊るには、日本のバンドのコピーしか方法がなかったんですね。だからバンドもできるだけ原音に忠実にコピーしようと躍起になったし、できるだけ早く原音を入手することがバンド・ビジネスの要でもあったわけです。ということは、音源入手が一番早いのは米軍基地ですから、必然的にベース周りのバンドが当時の花形ということだったわけですね。ただ、当時ゴーゴーの主流はROCKでしたから、比較的コピーも容易だったのですが、流れがリズム&ブルース、いわゆるSOUL系に変わっていったあたりからは管楽器が入ったバンドと、それまでのトリオやコンボ編成のROCKバンドとは相当な差が現れ始めてきたんですね。だってジェームス・ブラウンのコピーなんてブラスが無かったら、薄っぺらい単調なリフレインが続くだけでしょ。(笑)まあ、元々JBのヴォーカルなんてのはコピーできるはずもありませんが、セックスマシーンとか当時の課題曲なんかをそれなりにコピーしていたわけですね。ゲロンパ、ゲローライって歌ってごまかしたみたいな~(笑)そうこうしているうちに、ベースのGIが日本に持ち込んでくるディスク(レコード)そのものを入手するようになってくると、ダンスホール(踊り場)も次第にヒット曲が充実してくるようになったわけですね。バンドが演奏する、いわゆるそれまでの定番ヒットメドレーから、ビルボード誌のヒットチャート順位に沿った原音の入手を目指すようになりました。言い方を変えれば、質より量ってことですか。バンド演奏の技術(コピー優劣)から、ディスク(レコード)の所有数みたいな競争へと移っていきました。そして、後の輸入盤業界の先駆けとなったアーリーバード吉岡氏の大活躍もあって、都内の踊り場に直輸入盤シングル・ディスクが回り始めていったのでした。(ってなんか歴史ドキュメントみたいですねー)同時にダンスホール(踊り場)はリズム&ブルース、いわゆる黒人音楽、ダンスミュージック一色の時代へと突入していき、それまでゴーゴーと呼ばれた踊り方も、ステップなる形のある踊りへと移っていったのでした。いよいよ、このあたりから、ステップとDJの密接な関係が踊り場に築かれていき、後年のディスコブームなる世界的な流行が始まっていくんですねー。あれっ!? ディスコDJの話するつもりだったのに、なんか遠回りになっちゃいましたね。ということで、続きはまた明日。(^^;
2006年11月06日
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What’s happening?You’ve got keep on doing the right thing man you know.ってことで、今日はちょっとバテレン風にキメてみました。というのも、昨夜、千葉県在住の戦友会落下傘部隊隊長より届きました入魂DVDを見てしまい、久しぶりに若き血潮が脈打って騒いだ委員長だったのです。先日も秘蔵版JBライブを見たばかりだったのに、またしても貴重な映像を目の当たりにして、道楽親爺51歳にしてPURE SOULの直撃を受けました。言葉じゃ語れませんね、このFEELINGは。とにかく、これがSOULだ!ってもんです。(なんじゃそりゃ)そんなこんなでふと思ったんですが、やっぱりSOULという独自のスタイルを作った偉大なアーティストをもっともっと世に広めなければいけませんね。パッケージショーっていうのかな、いわゆるエンターティメントとしてのSHOW BANDのスタイルの全てのルーツがココにあるんですよね。あと、最近のデジタルサウンドも、元々はこうしたフルバン(管楽器入り楽団)をカバーするためのものだったってことを忘れてはいけないと思いましたね。いくら周波数や音色をデジタル化しても、人が奏でる生の感触はライブ演奏でぶちかまされたらひとたまりもありません。しかもエンターティナーはたったの一人、そして彼のFEELINGですべてがアドリブ的に進んでいく、って凄いショーです。指揮者が詩って踊ってタクト振って最後はミュージカル仕立てで盛り上げる。まあ、過去さんざん語りつくされたことではありますが、今更ながらにその芸術性に刺激を受けた夜でありました。もうひとつ、再認識したことは、未だにJBのステージを越えたSOULアーティストは出てきていないってことですか。ジャクソンズやマイケルのステージもそりゃ凄いし、感動しましたが、結局はJBのステージに憧れ追いつこうとして生まれてきたものだし、言ってみれば土台は何も変わっちゃいませんね。オケ(楽団)の編成が大掛かりになったり、ダンサーズをミュージカル張りに仕立ててみたり、シンセやデジタル系楽器の導入、あるいはレーザーや大型スクリーンによるビジュアル効果など、年々ゴージャスにはなっていますが、根本的なものはJBのステージとほとんど変わっていません。日本で言えば矢沢の永吉つぁんなんかもこれらを踏襲してますよね。こうした古い形をぶち破るアーティストが出現してきてはじめて、ニューSOULなるものが生まれるのではないでしょうかね。まあ、過去幾多のアーティストがチャレンジしてきたことなのでしょうが、結局は乗り越えられなかったってことになるのかなぁ。いずれにせよ、皆JBの延長線上に乗ってるってとこでしょうか。とまあ、こんなノーガキをブツブツをこきながら、興奮の一夜を過ごした親爺ですが、もう1枚オマケに入っていたDVDを見て、一気に力が抜けてしまいました。「ディスコ祭り」ですか?正直に言っちゃいます!「なんだよー、なんも変わってないじゃん」う~ん、70年代、80年代のノスタルジックな集いなのかも知れませんが、こんなに進化してないスタイルってのもなんかギャグに近いかなぁ~なんて思っちゃいましたね。NICKさんとかが紹介されてDJとかやってましたけど、当時GETとかで遊んでた人はそれで「なつかしいねぇ~」なんて言ってんでしょうけど、なんか私にはよーわからん世界でした。特に気になってしまったのが、DJブースでウダウダしている人たちと、MCのしゃべり、30年前とほぼ一緒じゃないですか。(笑)「さあ、みなさん、今夜スペシャルDJをお招きしています。ミスター・ニック・オカイ~!」って、なんか委員長が昔歌舞伎町でやってたのそのまんまで、ちょっと恥ずかしくなりましたねー。日本語プラス誰でもわかるような胡散臭い英語。これって年寄りの「茶のみ友達」系の集いなんですか(笑)私ゃ、小林克也さんが出てきて以来、ディスコDJももうニセモノの時代は終わったと思っていたんですけど、相変わらずニセモノじゃないですか。(爆)私ゃ、昨今のディスコ(クラブっていうんですか?)は、もうすっかりインターナショナルになってるもんだとばかり思ってましたが、あいかわらずニッポンのディスコなんですね。あんまり過激なこと言うと、またアチコチに影響を及ぼしてしまうのでこの辺にしときましょう。それからバンドが出てましたが、結構面白かったですね。大阪モノレール(?)でしたっけ。JB復活クラブみたいな趣でしたが、これも昔と変わっていない事実がひとつ。やっぱSOULバンドはヴォーカルがね、ニッポン人じゃムツカシーのですかね。やりたいことはわかるが、ちょっと無理かなぁ~。まあ、あそこまで拘ってるのですから、傍でトヤカク言う必要もないでしょう。ジジイ的に思ったのは、昔からSOULバンドのネックはブラスだったんですけどね、最近は日本人もお金持ちになったし、若い子でもブラス志向の人も増えてきて良い傾向ですよね。これからじゃないでしょうか。日本のバンドはホーンセクションがないから、それをカバーするためにシンセとかデジタル楽器に走っていったわけで、こうして生楽器でバンドが編成できるのだったら、コピーはほどほどにしてオリジナルを目指せばよいのになぁ~なんて欲が出てきますよね。昔はスペクトラムとかジャップスギャップスとか、チョイ新らしめでは米米クラブなんてのも随分と奮闘しましたよね。そーゆー意味では今後のオリジナリティの模索がこのバンドの将来の決め手になるのかなぁ~なんて漠然と思いました。それにしても、今の時代、日本でバンド目指す若者が羨ましいですよ、ホント。楽器だってリーズナブルな値段で手に入るし、録音技術だってアマの域をすでに脱しているんじゃないですか。自主制作盤だって気軽にCDでリリースできるし、街中で勝手に歌ったり踊ったりしてもあまり怒られないし。(笑)あー、せめてあと20歳若かったらなぁ~。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。(没
2006年11月02日
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昨日のハロウィンナイトにタイムリーなサプライズが届きました。以前にウチの娘がブツブツ申しておりました、「日本からお菓子が届けば良いのに」という祈りが通じたのか、なんとお菓子のパッケージが届いたのです。しかも、パッケージの中味は、母娘ともに喜ぶバラエティに富んだラインアップで一家団欒シヤワセになりました。「やっぱり願いは通じるんだよね」と娘。「わ~、冷蔵庫が食べ物で埋まるってシヤワセよね」とヨメ。「おとーさん、一人で勝手に食べちダメだからね」と末娘。「でもこれっておとーさんに送られてきたものでしょ」とさすがに息子はクールでした。「ほらね、だからあたしはサンタクロースを信じてるんだよ。信じている人のところには必ず来るんだよ」と娘。「それとこれとどーゆー関係があるわけ?」と息子。「だから、信じてお願いをする人のところには必ず願いが叶うっていうモラルなんだよ」ということで、なんかよーわかりませんが、長女18歳、未だにサンタクロースを信じ続ける南国娘です。この思い込みの強さはまさしく親の血をより濃く受けてますねー。早速ハロウィンポーズで記念写真です。さすがに子供たちはキャンディー貰いに近所を歩き回ったりはしませんが、クラスのお友達と「お化け屋敷ごっこ」とか、キャンディーパックを売り歩いてDONATIONを集めたり、それなりのハロウィンのイベントを楽しみました。貴重なニッポンのお菓子は冷蔵庫のスペシャルコーナーにしっかりと保存され、KGB娘の数量の確認とINSPECTIONが完了しました。たぶん3日も持たずにカラになると思うけど、何はともあれ、おーさん、ありがとうございました。この御礼はあらためて・・・・・・。
2006年11月01日
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