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え~、最近はDVD~VIDEO~TVの争奪戦で揺れる道楽者一家の茶の間ですが、昨夜は「下妻物語」で久しぶりの一家団欒と相成りました。先週から末娘10才がTVドラマ「24」にどっぷりハマッてしまいまして、シーズン1、2、3と立て続けに見続けているもので、ファミリー内ではTVをめぐる内部抗争にまで発展しておりました。倅は相変わらずプレステ小僧だし、長女はアニメ系、その間を縫って嫁は日本のテレビ番組、そこに親爺が買い込んできた邦画DVDですから、使用順位を巡って毎晩対立が続きます。なんてったってガキ等は夏休みですからね。もうずーーーーーーっと家でグダグダ、デレデレしてて、我家は共稼ぎなものですから、両親が家を出た後は子供の天下になります。一応どーらく者を標榜する親爺のファミリーですから、道楽器材はそれなりに揃っておりまして、テレビは大中小と3台、プレステは日本モード、USモードの2台、VIDEOはダビング用に2台と骨董品SONYベータマックス1台、更にDVDコンポ・リージョン1モード、DVDプレーヤー・リージョン2モード、何故かレーザーカラオケ・システム、これにSONYバイオPC1台、IBMノートPCといった具合で、これだけ玩具があるにも関わらず、テレビとプレステソフトの取り合いで始終揉めております。長女18歳、長男16歳はそれなりに思春期ですから、最近はちょっとオマセな番組やDVDも見るようになってきて、いつの時代も御馴染みのトモダチとの長電話や、グループ交際(笑)みたいなパーティやら映画などへ出かけることもあって、末娘はどうも耳年増化してきています。正直言って、田舎で良かったなぁ~っていうのが実感です。これがもしニッポンだったら、この程度では収まっちゃいなかったでしょうね。なんてったって道楽者の子供たちですから。え~、前置きが長くなりましたが、昨夜はたまたま一家全員が皆リビングで何することもなく寛いでいたので、親爺は有無も言わせず先日ニッポンで購入したDVDをぶち込んでプレーボタンを押したのでした。いきなり妙なアニメ画像が飛び出し、一同からブーイングの声。「なにこれ?」「おかーさん、おとーさんがまた変なモノもって来たよ~」「この絵ってパワーパフガールに似てない?」ということで唐突に始まったこの物語に一同は、グズグズ言いながらもつい画面に引き込まれていったのでした。しかし、この映画のセンスは完璧にコミックスのノリですね。最近はこんなテンポのドラマが流行っているのでしょうか。そういえばタランティーノとかも言ってみれば似たようなセンスですよね。従来の映画という「型」をぶち破っていく手法というか、テレビ化された映画というか、コミックス化された映像というか、MTV系というか、まあ、ヘリクツはともかくとしてとにかく面白かった。みんなで笑えた。久しぶりに家族全員で楽しめました。モモコとイチゴの友情物語。。。。。。。。話の内容は書く気になりません。こればっかりは見た人じゃなきゃたぶんわからん感性でしょう。ってか、ジジイとしてはあまり屁理屈が出てこないんですよね、この映画に関しては。だからと言って、絶賛するほどの映画でもないし、かといってつまらん映画でもない。どっちかというと面白い方だったし、印象にも残っています。なんなんだろうね、この感触は。どうも親爺の哲学癖の分析対象にはならないというか、ジャンルが違うというか、まあ、率直に言って見た人じゃなきゃわからんってことでしょう。(そのまんまじゃん)う~ん、これってやっぱどっちかというとコミックに近いかもしれない。マンガの絵とかコマの中のキャラが生きていて、言葉とかでは説明できないっつーか、見る人の感性で受け取るものが違うってことでしょうかね。だから、軽い気持ちで「も一回見る?」みたいなことにもなる感じです。まあジジイとしてはこの手のノリは大好きですから、とにかく理屈ぬきで絶賛します。そういえば、昔の東映映画「ビーバップハイスクール」とかも、こんな感じのノリだったような気がしますね。少女漫画と少年漫画の融合みたいな感じかな。でもこのセンスって非常に微妙なところで、下手な監督とかが撮ったらギャグにもならないくだらねーアホドラマに成り下がっていただろうし、「間」の取り方を一歩間違えたらホントのバカしかみないようなバラエティー番組みたいなものに成り下がってしまってたでしょうね。ってことで、非生産活動推進委員会は監督に敬意を持って称賛させて頂きます。(監督の名前もよー覚えとらんけど)それにしても「フカキョン」っていうんですか、深田恭子さん、イイ味出してましたね。私はこの映画見るまでその存在すら知りませんでしたよ。もうひとりの土田アンナさんも良かったですね。モデル出身だそうで、ちょっと線が細い感じもしましたが、少女漫画には不可欠なルックスです。どっちにしろキャラクターのビジュアル性を重視した点は大成功でしょうね。ロリータもヤンキーも理想のルックスキャラではないでしょうか。巷に溢れ出ている女子高生たちがコレを見て勘違いしないことを祈るばかりです。ロリータにしろヤンキーにしろ、この二人だから絵になるキャラなんで、一般庶民が軽い気持ちで追っかけたりしたら、世の中とんでもなくグロテスクな世界に入りこんでいきますので、是非とも皆様は鏡に映し出されたご自身のルックスとよ~~くご相談されてから御検討願えれば幸甚と存じます。(笑)ウチの子供たちにウケた理由のひとつには、舞台となった茨城県とジャスコが出てきたことでしょう。(えっ?)実は、我家の里帰りはいつも嫁の姉の住む茨城県鹿島市だったものですから、子供たちにとっては映画の中で絶賛される(?)ジャスコがひどく身近に感じていたのだと思います。更に、この姉の旦那はイギリス人でして、長女はウチの長女と同い年、しかも名前はアンナ、もちろん日英ハーフで最近モデルの仕事なんぞも始めた茨城育ちの妙な娘ですから、子供たちは映画の中のイチゴと、この従姉妹が重なって感情移入していったのではないかと思います。映画に出てくる田園風景、ウチの子供たちが幼少時お世話になった鹿島の姉上のウチの近所と非常に良く似ていたのも共感を呼んだ理由かも知れません。さすがに牛はいなかったケド。(笑)
2006年06月30日
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いや~、遅ればせながらこの映画をDVDで見ました。日本にいる頃よく読んでいたマンガだったので、映画化されたときから気にはなっていたのですが、私の場合はDVD化されるまで待たなければいけないのと、DVDの入手が中々面倒なので、邦画に関してはどうも時期はずれになってしまいます。まあ、映画の内容はそれなりに良かったというか、原作自体がこういう淡々としたほのぼのタイプのドラマなので期待通りといったところでしょうか。私はどちらかと言うと内容そのものより、当時の風景をどれだけ再現しているかが見所でした。先月あたりから、なぎらけんいちさんの著書を読んでいたせいか、当時の街並みや風景にやたらこだわっていたものですから、映画という動く画像で当時の光景に出会えたら嬉しいかななんて思いながら見ていたのですが、このブログでも散々取り上げました「霞町物語」の舞台そのまんまの映像には感動しました。もちろんドキュメンタリーや記録映画ではありませんから、「再現」を超えるものではありませんが、この時代に育った私には充分に満足のいく映像でした。欲を言ったらキリがありませんが、登場人物の体型とか顔立ちとか、こればかりはどうにもできませんね。(笑)んか昔は全体的にもう少しこじんまりしていたような気がします。現代人の体型と比べて当時の大人は、もうちょっと小ぶりで貧乏臭かったような気がします。栄養が行き届いていないみたいなね。(笑)例えばオート三輪なんかもね、子供の目線というのもあるのでしょうが、もちょっと大きな存在感があったような気がします。でも建設中の東京タワーを背にして大通りを堂々と走る都電や、平屋の商店街の街並みは私の子供時代そのまんまでした。銀座の街並みも懐かしかったし、上野駅の暗い雰囲気の中に活気が溢れる独特の雑踏は当時の雰囲気がよく出ていたと思います。子供のパラダイス「駄菓子屋」の感じも良かったですね。今でも昔ながらの駄菓子屋が結構あるんですよね。売ってるものはだいぶ変わってきましたが、私も日本で駄菓子屋に遭遇すると、無理矢理子供を引っ張っていって自分が遊んじゃったりしますね。昔はとんでもないもので結構1日遊び呆けたものです。モノが無いってのもシヤワセのひとつだったのかもしれませんね。モノが無いから遊びを創造していくので、想像の世界で戯れる快感というのは子供の世界独自の共同幻想だったですね。もちろん今の子供たちだって創造性は持っているのでしょうが、もう私達の時代の脳や感性とは別なものになっているんでしょうね。ただヒトツだけ言えるのは、私達の時代は目にするもの、手にするもの、その全てが新しい「存在」であったということではないでしょうか。大人も子供も、新しいモノに出会うと言う意味では初体験という同じ衝撃をもっていたと思うんですね。だから創造性も膨らんだと、そんな気がします。テレビの登場にしても、「テレビ」というモノを囲んで上は爺ちゃん婆ちゃんを筆頭に、お父さんお母さん、ねーちゃん、にーちゃん、そして鼻タレ小僧も、初めての体験を共有したわけですから、これもひとつの家族の絆みたいな名残だったのではないでしょうか。今の子達は生まれた時からビデオがありますからね。そう考えると、もう私らの時代とは完全に別の感性を持っている人種です。ということで、ジジイのヘリクツでございますが、このところ邦画のDVDにハマっている道楽親爺です。懐かしの写真もまた少し手に入れましたので、そのうちご紹介させていただきますね。
2006年06月29日
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先日、戦友会有志SPINさんからCD&DVDのパッケージが届きまして、久しぶりに昔の記憶が甦りました。CDの方は70年代中期から後期にかけてディスコ、特に新宿界隈で流れていた和製ディスコサウンドのようなヒット曲と、かなりマニアックな選曲のSOUL&DISCOコレクションでした。すでに30年も前の音源ですが、今聞き返してみると結構面白いものもあったんですね。当時は未だSOULかぶれのDJだったせいか、バカにしていたような楽曲もこうしてよくよく聴いてみるとそれなりに楽しめるのは、やはりそれだけ歳を取ったということなのでしょうか。(笑)浅野ゆう子さんのセクシーバスストップなんて、ホント20年ぶりじゃないでしょうかねぇ。十年位前に、確かC.C.ガールズとかいうグループがカバーしていたのを聞いた覚えがありますが、オリジナルを聞いたのはディスコ業界を退いて以来初めてではないかと思います。浅野さんの想い出といえば、当時渋谷にあったRCAレコード洋楽宣伝のアキバ氏のもとを訪れたときにエレベータで偶然ご一緒して、やたら大柄の女の子だなぁという印象が強かったですね。彼女がちょうどセクシーバスストップのプロモの打ち合わせで来ていた所に、洋楽ディスコ(KC&サンシャインバンド大爆発の時代ですね)のプロモに呼び出された私に丁度いいからと言ってサンプル盤を手渡されました。ディスコプロモもよろしくといって紹介され、ご挨拶したことを覚えています。まあ社交辞令的にお世辞のひとつも言ったような気がしますが、実際にディスコじゃほとんどかけんかったね。オリジナルにかなりムカついていたこともあったし、ジャリタレふぜいがディスコを舐めんなよ、ってなもんでした。(若かったよね)あおい輝彦さんもいい味出してましたね。確かこの曲をディスコでかけていた頃は50年代R&Rのリバイバルと重なっていて、割と違和感なく皆で踊っていたような記憶があります。ワイルドワンズの「思い出の渚」とか、ポールアンカのダイアナとか、なんかそんな流れだったような覚えがあります。そういえば森田公一とトップギャランの「青春時代」なんてのもかけてワーワー言ってたような覚えもありますね。なんだったんだろうね、あの頃のノリは。そういえばスリーディグリーズも和英二種類のバージョンで発売、というのがパターンでしたね。天使の囁きとかミッドナイトとレインとか、日本語バージョンはディスコではあまりかかった記憶がありませんが、今聞いてみると結構イイ味出してますよね。カタコトの日本語が可愛いみたいな。さて、DVDの方はというと、なんとあの伝説のダンサー庭師ファミリーのビデオクリップでした。いや~、懐かしかった。「踊り場」の思い出がしっかりと甦ってきました。いわゆる「ステップ」の伝統芸みたいなものでしょうか。昔の踊り場と言えばやはり「チャチャ」が基本ですね。当時はみなコンポラにスリッポンで足を床にパシッと打ってステップ踏んでました。ダンサーズの棟梁もたぶん当時は粋なコンポラでターンとかしてたんでしょうね。金髪リーゼントで。(笑)両手を前でクロスさせながらステップする仕草がまた、当時を髣髴とさせてくれて親爺は大変懐かしかったです。ファッション的にもコンポラからスリーピースに代わっていく時代、ターンをする時に上着が翻るあの爽快さも伝わってきて私ゃ嬉しゅうござんした。ちなみにニックさんなんかも顔出してましたが、相変わらず古い踊りは中々のもんです。JBの真似、ステップで床を滑る踊りは「さすが」と声を上げたくなりました。踊り場の発祥から現在まで現役でいるんですから、これはもうそれだけで称賛に値するのではないでしょうか。良くも悪くも、この世界でとうとう道楽をやり倒したということでは、道楽者の大先輩として頭が下がりますね、ほんとに。(ただ、時々ビートが外れてた・・・やっぱ年なのかなぁ)なんにせよ、私らの時代のダンス小僧が憧れたステップの第一人者ですから、まだまだ現役でウダウダして頂きたいと思います。しかしM棟梁のファミリー、凄いですね。一家揃ってどーらく者ですか。(笑)本当に踊りが好きなんですね。お子様がまたよくついていらっしゃって羨ましい限りです。うちの子たちも昔からP-FUNKとか子守唄に聞かせて育てたんですけど、どうも親爺のノリにはついてこれないようで、その昔、ソウルシーシーを教えようとしたら、課題曲はスパイスガールズにしてくれなどと言われてしまい、意気消沈してしまいました。最近はブリトニーとか、若手ばかりでジジイはそろそろついていけない状況に陥っております。でも最近子供用の映画でモータウンサウンドとかがリバイバルで使用されているせいか、懐メロの質問や音源の問い合わせが来るので、かろうじてオヤジとしてのプライドは守られています。(笑)まあ我家は南方系ですから、みなポッチャリ、ポワーンとしていてオヤジ以外はSOULとは程遠いファミリーのようです。ということで、SPINさん、懐かしのパッケージをありがとうございました。久々に目にしたパルビのチャチャは南洋ボケした親爺にはかなりの刺激となりました。伝統の踊り場ステップ継承者であります伝説のダンサー庭師様、今後益々のご発展とご家族の皆様のご健勝をお祈り申し上げて、一本締めでお別れとさせていただきます。それでは皆様、お手を拝借、よぉーっ!パシッ!(誰だステップ踏み鳴らしたヤツは)ありがとうございました。
2006年06月28日
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え~、道楽者のタイ旅行記もいよいよこれでおしまいです。タイのプーケット島はあのインドネシアを襲った大津波の被災地でもあり、私が暮らすサイパン島とは観光リゾート地としても同じアジアの競合ディスティネーションということもあり、この日は観光の後現地在住の日本人会の皆様と親睦を兼ねたパーティが催されました。実際に被災された地区はわずかで、インドネシアに比べればその被害も比較的軽かったようですが、それでも被災された方々の精神的ショックはかなり大きかったようで、未だにトラウマとして残っている方もおられるとのことでした。もちろん在日本人の方のほとんどが観光産業に関わっておられたということもあり、観光客優先の緊急活動であることの重圧もかなりあったようでした。また、報道関係がものすごい勢いで入り込んできて、企業、団体、個人を問わず、あらゆるところから情報収集の取材攻勢に辟易したとおっしゃっておられました。ある個人の発した「壊滅状態です」の一言が報道されたことによって、プーケット全体が壊滅状態とも取られる情報が流されたため、復興後の集客に大きな弊害を及ぼしたそうです。しかも、津波被害の一番大きかった映像を頻繁に流し続けたため、当面はキャンセルが続き日本のマーケットはほぼ全滅だったそうです。もちろん復興後の報道はほとんどされておらず、無責任な報道関係者に憤りを感じるともおっしゃられておりました。まずは情報操作が必要で、軽率な一言が後の生活に影響を及ぼすことをくれぐれも注意するようアドバイスを受けました。もうひとつ、現地ダイバーをまとめた会長さんのお話の中で、被災後しばらくはお客さんもなく毎日することがなかったので、近隣のショップに呼びかけて、せめて海中のサンゴを修復することにしたそうです。毎日毎日潜っては割れたサンゴを積み上げて元の形に戻したり、破損したかけらなどを取り除く作業を行ったそうです。そんな作業を続けていたある日、修復していないサンゴを見つけたら、壊れたままの状態からすでに成長を始めていて、形は変われども生き続けていることに気がついたそうです。そしてその時、我々は一体何をしようとしているのだろうか、と思ったそうです。我々人間の手で修復できるものは、我々人間が作ったもので、自然のものは自然の中で勝手に修復されていくのだと、その時実感したとのことでした。結果として、災害に遭遇したことで在住日本人の繋がり、絆が深まったことが、今後の地域発展の支えになりましたと、日本人協会会長の言葉で懇親会は終了しました。その後やや興奮収まらぬ出席者たちの会話も弾み、和やかな雰囲気の中でパーティは閉会しました。とそこへ再び現地ガイドのエーちゃんの登場です。「エー、ミナサマ、コレカラ、ニューハーフショーニイキマスノデ、ロビーニアツマッテクダサイ」そうです、ツアー最終日のメインイベント、ニューハーフショーへと出発です。プーケットで有名なニューハーフのダンスショーらしいのですが、連日盛況のこのショーを是非とも見て欲しいというツアー幹事さんの勧めで、一行はバスに乗り込みプーケットタウンの小劇場に向かいました。劇場は地方のちょっとした小劇場といった芝居小屋でしたが、ロビーには踊り子さんたちのポートレートなどが飾られていて、まあそれなりの雰囲気を持っておりました。「これってオカマの宝塚みたいなもんだろ」誰かが言っておりましたが、ニューハーフってのは精神的には女なんだから、宝塚じゃないと思いますね。(笑)ということで、ショーはというと、凄いセットに煌びやかな衣装、まあ思っていたよりはまとまりのあるものでしたが、これって踊り子さんたちがオカマじゃなかったら単なる学芸会じゃん、といったところでしょうか。(なんじゃそりゃ)踊りがねぇ、なんかよーわからんというか、みんな好きで踊ってるようには見えませんでしたね。仕事のためにやってるみたいなね。だから踊り自体に華がありませんでした。とは言うものの、確かにキレイな子も随分といて、みんな見ているうちに倒錯した世界へと引き込まれていったようでした。(笑)なんかうまく表現できませんが、男だとか女だとか、ちょっと境界線を彷徨ったみたいな。(笑)記念撮影がありましたのでご覧下さい。この撮影の後、両脇のおねーさんに「チップ、クダサイ、ミンナニ、ミンナニ」と低い声で囁かれ、なんだかなぁ~って感じでしたが、価値観のわからぬ手持ちのバーツを配ってお開きとなりました。ちなみにこの後タウンの繁華街でちょっと飲んで帰ったのですが、通りにはこのニューハーフの踊り子さんたちがウロウロしておりました。(こっちが本業かい)南国で酔っ払って良い気持ちになってたら男も女も区別つかんもんね。(^。^;
2006年06月27日
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え~、今日も引き続きタイのお話です。バンコクで1泊して翌日は半日観光をして、視察団一行は今回の目的地プーケット島に向かいました。バンコクから国内線で約1時間ほどでプーケット空港に到着。ここでもまたHISプーケット支店のお世話になりました。プーケットはバンコクに比べると多少湿気が少なく風もあり、サイパンからやって来た我々一行にはあまり違和感なく馴染めた感じでした。一同は用意された大型バンに乗り込み、一路アルカディア・ヒルトン・ホテルへと向かいました。そして、我々のお世話をしてくれるガイドさんの紹介がありました。なんとプーケットに矢沢がいた!なんと我々の面倒を見てくれるガイドさんはエーちゃんだったのです。マイクを持つその姿。ニヤッと笑ったその笑顔。こんなところでアルバイトしてたんですか、矢沢さん。写真だとわかりづらいのですが、ちょうど渡米した頃の矢沢永吉つぁんにクリソツでした。無精ひげの感じといい、笑ったときの目のあたりなんかホントうりふたつでした。日本語がちょっと変なところも(笑)エーちゃんそのもので、私はそれがとにかく可笑しくてガイドの話は殆ど上の空でした。ということで到着したホテルはリゾート地に相応しい庭園のような趣が施してあり、施設内がプールで囲まれ、離れにはスパなどもあり、素晴らしい環境のホテルでありました。ただ、雨季ということもあって天候は少々曇りがちで、海も大変荒れており、全体的にシーズンオフといった感じでありました。到着日はやはりホテル内のレストランでタイ料理のコースを頂き、この日は皆大人しくお休みなりました。ちなみにトムヤンクンはバンコクで頂いた王宮料理メニューの方が数段美味しかったです。明朝はいよいよ今回の視察の目的である津波被災地をまわり、その復興の軌跡を辿るという少々お堅いツアーになりますが、どうもお天気がイマイチ冴えないこともあってか、昨夜のバンコクの疲れか、ツアー参加者は皆就寝につきました。
2006年06月26日
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せっかくですからバンコクの夜のお話も少々。先日も書きましたが、私が今回このツアーに参加した本当の目的は、バンコクで居酒屋「マリコ」を営まれている武山真理子さんにお会いすることでした。ということでバンコク到着日、夕食の後は当然夜の街に繰り出すことになりましたが、今回のツアーには女性の参加者もいるため、男性組、女性組と分かれることになりました。女性で参加したのは、サイパンで潜水艦ツアー催行会社のマネージャーと、医療サービス(通訳他)会社を経営されている女社長のお二人でした。その他私を含め8名のおっさん連中は、この夜のバンコクを楽しみにして来ているわけですから、たった一夜の滞在を有意義に使うためにも早く歓楽街へなだれ込みたくてうずうずしており、夜のガイドさんと念入りな打ち合わせに入っておりました。(笑)私にとってもこの一夜しかチャンスがないので、なんとかこの歓楽街ツアーをかわして単独行動へと持って行きたかったわけですが、そこはそれ、一応業界連中のツアーですから、多少の営業活動あるいは業界の力関係なども作用しておりますので、男性グループから離脱するのも多少気遣いが必要になります。「なんだよぉ、付き合い悪いなぁ」とか「カッコつけてないで行きましょうよ、夜の街へ~」とか言われるわけです。観光地で見かけるおなじみの光景、ホテルロビーでウダウダする団体日本人観光客そのものという感じでしたが、普段自分たちが相手にしている鬱陶しい客に自分たちが成り下がっていることにも気づかず、酔っ払った勢いでガイドにグダグダ言うジジイたち。そこで潜水艦会社のY子さんが「私たちはナイトバザールに行ってみます」と言い出したので、「あ、オレもそれ見てみたい」とうまく同調。ホテルのすぐ近くにあるナイトバザールには最近できたランドマーク大観覧車があり、私はこれをしっかりとネタに「やっぱ、これは乗っておかなきゃ、バンコクのツボは押さえたことにはならないでしょう」とか煽って、それとなく戦線離脱に成功。おっさん連中の中にも数人は行ってみたいとかいうヤツもいて、ここでツアーは2組に分かれることになったのです。ヤッターって感じでしたが、結局バザールへはサブマリーンY子さんと私の二人だけとなり、なれない夜は危ないということで、今回お世話になっているHIS社の現地支店長が付き添ってくれることになりました。まあ、おっさん連中も女性参加者にへそを曲げられてはいかんということもあり、幸いもうひとりの女性参加者R子さんは疲労のため部屋で休みたいということで、女性一人をほったらかしにするわけにもいかず、ここはエスコートをひとつお願いします、みたいな流れになったのでラッキーでした。ということで、私とサブマリンY子さんは支店長の案内でナイトバザールへ突入。札幌の大通り公園のようなところにものすごい数の屋台が出ていて、それはもうお祭り騒ぎでした。「ヤタイデタベナイホウガイイ」というワタナ君の教えを守り、食べ物には一切触れませんでしたが、民芸品やら仏像やら面白いものがたくさんあって、こりゃ一晩じゃ見切れんね、という感じでした。そういえば、タイで有名なトゥクトゥクと呼ばれるバイクタクシー(サイドカー)にも乗ってみたかったのですが、これも名ガイド・ワタナ君から「コレ、ジコアッタラ、ミナニゲルカラ、チヌコトモアルチ、ホケンハイッテナイノデ、ヤメタホウガイイデス」という注意事項を思い出し、サブマリンY子さんと「止めといた方が良いよね」ということになりました。さあそしてサブマリンY子さんのお目当て大観覧車に到着。さすが人気モノ、かなりの列ができていました。しかし、このシステム、全席総入れ替え制なので、3回転ほどすると停止して、3組ずつ乗り変わります。「どこからどこまでってちゃんとわかってんのかなぁ」当然の疑問が起こりますが、まあそんな疑問などまるっきり無視したシステムに納得する以外はありません。そこで現地HIS支店長が一言。「この国は、時として理解できないことが国民の常識だったりすることがあって面食らいますが、誰も疑問にも思わず不合理なシステムに文句も言いませんね」ふーん、そうなんだぁ。と言ってる矢先に私たち3人の前の現地人らしきカップルが列からはじかれて、私たちを先に観覧車に誘導する係員。どうしたの?って感じでしたが、支店長いわく、今日は混雑してるから二人だけでは乗せないというようなことでした。ちなみにシートはベンチタイプの向かい合った四人がけです。「かわいそうね。じゃ二人だけで乗れないのかしら」とちょっと同情気味のサブマリンY子さん。「ってことは次の二人組と相乗りさせるってことですか?」「そういうことになりますかね」「3人ならいいの?」「でも、あの子達、あのままじゃ一生乗れないんじゃないの。だってカップルの相乗りなんて誰も好まないでしょう」「はい、こういう意味のよくわからないシステムがここではよくあります」観覧車は動き始めましたが、美しい夜景とともに乗り口に取り残された二人が哀愁を誘います。お約束の三回転して出口に着きましたが、例のアベックは未だ列の横で順番待ちをしています。なんだかなぁ~って感じでした。しばらくウロウロした後で、私は支店長に居酒屋「マリコ」の所在地を尋ねましたが、残念ながらご存じない様子、そこで住所を取り出して行き方を聞いたのですが、やはりタクシーを使う以外ないようで、しかも言葉はタイ語以外はたぶん通じないから、運転手が店を知ってれば良いけど、知らないとなるとちょっと難しいと言われました。また、このツアー中にナイトツアー組から頻繁に呼び出しが入ってきて、どうも落ち着かないので、この件はあきらめることにしました。残念!タイは国王の即位60周年ということで、王様の生まれた日の色のシャツ、黄色いシャツを着た人がやたらといて、国民の国王に対する従順さが町全体に現れていました。もちろんビルや商店の前にも国王の写真やポスターがあちらこちらに貼られていて、まさに「王様の国」という感じでした。そういえば名ガイドのワタナ君も「タイジンワ、ミンナオウサマガスキデス」と言っていたのを思い出しました。日本風に言えば「天皇陛下万歳」ってことかなとも思ったりしましたが、サブマリンY子さんがぽつりと面白いことを言いました。「この国の人って、本当にみんな王様が好きなんですね。でも王様はみんなに何をしてくれてるんですかねぇ」愚問とも思えない疑問です。確かに。昔の日本人が盲目的に天皇陛下を奉ったように、ここの国民も皆、王様に敬意を表していますが、果たして国王は国民に何をしてくれているのでしょうか?相変わらずの屁理屈をコキながら、サブマリンY子さんとはここで別れ、私は支店長と共にスケベジジイたちの待つ夜のクラブへと出張って行ったのでした。まんざら嫌いなわけではありませんが、旅の疲れもさることながら、今回の一番の目的が達成されなかった無念さで、あまりはしゃぐ気にもなれず、お得意の気ぐるみ営業顔となり、テキトーな酒宴で盛り上がりました。可愛い娘たちが狭い店内にぎっしりと並ぶ姿を見て、この国は、タイにはまる世界のジジイたちの資本で支えられているのかと思いました。同時にY子さんの言う「王様は国民に何をしてくれているのか」という疑問が頭の中を駆け巡りました。理性と欲望。人間とはそういうものなんだということでしょうかね。でも私の相手をしてくれたおねーちゃんも十分可愛かったです。「ホテル、イッショニイク?」英語より日本語の方が通じるというのも驚きでしたが、おねーちゃんの口から出た言葉を聞いて「王様は何をしてくれているの?」と聞き返したい衝動にかられましたが、この類のお話は今回の私のテーマ「マリコ」の中にきちんと描かれていて、マリコさん本人に合うことは叶いませんでしたが、この本とバンコクとの因縁はここで見事に昇華された道楽者の一夜でした。
2006年06月25日
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先日行って参りましたタイ・バンコクのお話を少々。まずバンコクの第一印象は、空港が怖かった。インフォメーションが全て「文字化け」(笑)したようなタイ語文字の羅列、その下に英語標記はしてありますが、とにかく煩雑でどこをどう行けば良いのか、これが大変困難でした。しかも空港内を行き交う人達のバラエティに富んでること格別です。さすがに国際都市バンコクの国際空港、その施設の広さもさることながら人の数も多く、まさに人種の坩堝といった感じでした。特に目に付いたのがヨーロッパ系の人たちでした。中でもドイツ人がやたら多かったのには驚きました。さてそんな空港の中をウロウロと出口を探して歩いているとイミグレーションの標識が目に留まったので、中央通路を左に折れて入国審査の列に加わると、何故か審査官がたったの二人しかいません。更に周りを見渡すと色の黒いアジア系の人たちばかりです。あれっ、さっきまでいたヨーロッパ系の人たちは一体どこへ消えたのだろうと訝しく思っていたら、突然エアポート・セキュリティらしき人が私達の前にやって来て、聞きなれない言葉を喋りながら身振りで向こうへ行けと促してきました。恐る恐る英語で「イミグレーションはここじゃないのですか?」と尋ねると、「あなたたち観光客は向こうの出口へ行って下さい」となんとか聞き取れる英語で答えてくれました。なんだよ、イミグレが2箇所もあるのかよ、とブツブツ言いながら更に200メートルほど先に進むと、今度はそれらしい入国審査カウンターがあり、並んでいる人たちも白人系ヨーロピアンやら日本人、韓国人、中国人らしき人々でごった返しており、やれやれという感じでなんとなく安心して列に加わりました。長い列の先には怖い顔をした審査官のおじさんが、一人一人パスポートと顔を見比べて入国手続きを行っています。やだなぁ~、なんか質問されるのかなぁ~、とかちょっとナーバスになっていたら、突然制服警察官を引き連れた刑事のようなおっさんがカウンターの向こうからドカドカと入ってきて、私の隣に並んでいたインド人風の男三人を拉致していったのです。(そりゃ拉致じゃなくて連行って言うんじゃねぇの、フツー)別に抵抗するわけでもなく男三人は刑事さんたちに連れられて奥の事務所のような所に連れて行かれました。それを目撃していた列の人達のまわりにちょっと重苦しい空気が流れました。やだなぁ~この感じ。いきなりワケのわからない言葉でまくし立てられて別室に連れ込まれたりしたらどーしようかなぁ、とか少々弱気になりましたが、一応仲間もいることだし、なんとかなるだろうと気を取り直して自分を納得させた道楽親爺でした。イミグレのカウンターの向こうには大きな字で「サワディー」と書かれたバナーが掛かっておりました。あ~、こんなことならNHKの海外放送のタイ語をもう少しマジメに見ておくんだったなぁ、などと後悔しつつ順番を待ちました。さて、愛想の悪いイミグレ官も無事パスしてようやくタイ・バンコクの地を踏んだ道楽者。しかし、暑い、とにかく暑い。同じ南国とはいえサイパンとは比べ物にならないほど湿度が高く、一気に旅の疲れが出てくるような感じでした。ツアー一同は早速送迎バスに乗り込みホテルへと向かいました。今回ガイドをしてくれたのはHISバンコク支店のワタナ君。なんでも日系のハーフということで日本語も喋るタイ人でした。「ワタチノナマエワ、ワタナデス。ワタチノオトーサンニホンジンデス」「えっ?ワタナベさん?」「イエ、チガイマス。ワ、タ、ナ、デス。ヨロシクオネガイチマス」ちょっと太り気味のワタナ君ですが、額一杯に汗をかいて一生懸命に案内をしてくれる姿に一同はその彼の誠実さを実感したのでした。「アノ、コノドーロワ、ニッポンノODAデツクラレマチタ。モチロンニッポンノヒトタチガギジュツモモッテキテクレマシタ。ダカラニッポントオナジカタチシテマス」確かに街並みを見るとまるで日本の首都高を走ってるような感じで、まるで違和感のない景色になんとなく懐かしさのようなものも感じました。こりゃ、池袋あたり走ってるのと同じだぜ、みたいな感じで、車も右ハンドル、車線や道路幅も日本のそれと殆ど変わりないようでした。「アノ、ミナサンニチュウイダケチトキマスノデ、キイテクダサイ」ワタナ君はハンカチで額の汗を拭きながら一生懸命に話してくれました。「アノ、バンコクニワ、ヤタイ、イッパイアリマス。ヤタイチッテマスネ?アノ、ゴハントカイロイロノモノウッテマス。デモ、コレ、タベナイホウガイイデス。アトデオナカイタクナッタリチマス。アノ、ミナサンノ、タベタオサラトカ、コレアラウノ、ミズヒトツシカナイ。ダカラキタナイノサラ、マタツカッテタベマス。ダカラ、ヤタイ、ヤスイケド、イカナイホウガイイデス」何故かワタナ君ちょっと興奮気味で日本語が乱れてきました。「ソレカラ、バンコク、スリ、オオイデス。コレキヲツケテクダサイ。ダカラ、サイフトカ、バッグトカ、デキルダケミエルトコ、オカナイホウガイイデス。カイモノチテルトキ、バックノナカノモノ、トラレマス。ダカラ、アルクトキワバッグ、マエニカケテクダサイ」ふ~ん、NHKの海外安全情報でもやってなぁ~。「アトネ、ダイジナモノ、コレ、ミンナホテルアズケテクダサイ。セーフティボックスアリマス。トクニ、ニホンジンノパスポート、チュウゴクジンニウルト、ゴマンエンクライチマス。ダカラ、ニホンジンノパスポート、コレヨクウレル。パスポート、モッテアルカナイホウガイイ」へぇ~、日本のパスポートはやっぱ価値があるんだね。「ソレカラ、バンコク、アブナイノヒト、タクサンイマス。アノ、ワタチ、ニホンニ、スンデタコトアリマスイッテ、ハナチカケラレテモ、コレ、ツイテイカナイホウガイイ。コレ、ツイテイクト、ジューストイッテ、クスリノマサレルネ。ソレ、ネムクナルノクスリ。メガサメタラ、ニモツゼンブナクナッテル。アト、テガミヨンデクダサイ、イウヒトキタラ、コレモハナチテワダメ。ワタチ、ニホンノトモダチ、テガミモラッタ。デモ、ヨメナイカラ、ヨンデクダサイ、イッテ、テガミ、ウチニアルカラ、キテクダサイ、イッテモ、コレ、イカナイホウガイイ。ツイテイクト、ウチデトモダチトカ、オネーサントカ、オニーサントカイテ、ゲームチヨ、ユッテ、トランプスル。ソレデ、オカネマケテタクサントラレル。」ということで、なんやかんやで約30分ほど、してはいけない注意を受けました。しかし、ワタナ君日本語の「し」が言えないようです。みんな「チ」になってしまいます。「タイノオオサマ、チロイゾウ、モッテマス」最初意味がよくわからなかったのですが、「白い象」だったんですね。こんな楽しいガイドさんとのひと時の後、いよいよ宿泊先のホテルに到着しました。「DUSIT HOTEL」素晴らしい高級ホテルでした。しかし眼前に広がるこの景色は、違和感がないというか、懐かしいというか、やはり東京の風景、しかも私の住んでいた頃の時代の東京の街並みという感じでした。もうすでに午後7時を過ぎており、ホテルのタイ料理レストランで王宮料理を頂いたあと夜の街に出て、またも驚きでした。過去日本のODAと共に日本人がやって来て、日本人街のようなものを作ったそうですが、その雑多な街並みは私が遊んでいた70年代の池袋西口あたりにそっくりでした。日本語のネオンや食料品店の屋台、ビルの店舗は「飲み屋」の看板に彩られ、屯しているホステス風のおねーちゃんやら、観光客やら、なんだかとても落ち着いてしまったのは私くらいなものでしょう。日本のそれと唯一異なっているのは、やはりヨーロッパ人がウロウロしていることでしょうか。この辺もなんか妙な情緒があって、私には結構フィットしました。ちょっとビルを見上げると高架線に電車が走っています。SKY TRAINと呼ばれるモノレールです。それを見たとき私の脳裏に一瞬閃きが。。。。。。「これって、ブレードランナーで描かれていた近未来都市じゃん!」SF映画の名作といわれたリドリー・スコット監督ハリソン・フォード主演「ブレードランナー」に出てくる未来の街並みがまさしくココです。確か監督のインタビューでは、日本の大阪をイメージして作ったといっていたように記憶していますが、この風景を目の当たりにして監督の感性にあらためて感心させられました。数十年前にこのビジョンを持っていたとは、凄いの一言に尽きます。ということで、妙に私の感性とFITしたタイ・バンコクは意外とアキバ系が似合いそうな都市でした。
2006年06月24日
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どうもこのところ偶然か知りませんが、団塊世代の青春時代を回顧するようなものにぶつかっています。昨日もご紹介しました「MARIKO」という本も、基本的には団塊世代の時代総括のような内容でしたし、先週ご紹介した東京の懐かしい写真も元々は、なぎらけんいちさんの著書から調べていったものでした。更に昨夜は映画「パッチギ」なるものを見てしまい、なんだか昭和30年~40年の頃の思い出が甦ってきたりしました。 http://catalog.rakuten.co.jp/rms/sd/catalog/detail/sv0g101354cidBIHJ-1/そういえば「二丁目の夕陽」とかいうマンガも映画化されたりして、ひとつの流行というかトレンドのようなものになっているようですね。ということはこの後に続くトレンドからいうと、私たち70年代青春組のカルチャーがリバイバルされることになるのでしょうか。しかしこの「パッチギ」という映画、舞台は京都でしたが、私などが憧れを持って眺めていた先輩達の姿と重複して中々ジジイ好みの映画でした。在日朝鮮人と日本人の高校生、共に不良高校生いわゆるツッパリ少年を中心とした当時のPOPカルチャーが笑いと共に描かれていて中々面白かったです。タイトルのパッチギとは俗に「朝鮮パンチ」と呼ばれる頭突きのハングル名ですが、確かに私も高校生の頃はこの必殺技を良く使いました。私らはチョーパンと呼んでいましたが、立川育ちの戦友yu-jiさんも立川乱闘編長高生との戦い(笑)の中でこのパッチギが多用されていたことを語られておられます。もうひとつ偶然手にした本で「殴られ屋」というのがありまして、これは晴瑠屋明(ハレルヤ・アキラと読みます)という元ボクサーが歌舞伎町で殴られ屋をして金を稼ぎ借金を返済するという、かなりハチャメチャなアウトロー的ノンフィクションでした。 http://item.rakuten.co.jp/book/1737792/しかし凄いですよね。街頭で見ず知らずの道行く人を捉まえては、3分千円で自分を殴らせるという大道芸人のようなことを実際にしちゃったヤツがいるというのも驚きでしたが、ここまで彼を駆り立てたものは一体なんだったのかと考えると、前述の「MARIKO」さんもそうですが、そこには自分の道楽だけを頼りに生きた人間存在のリアリティがあります。(注)もちろん殴らせるといっても、相手のパンチはちゃんとかわすんですよ。本当に殴らせていたんじゃ体がいくつあったってかないませんからね。死んじゃいます。(笑)二人とも大そうな物言いは一切しておりませんが、こと「芸」に関しては常人には理解できぬこだわりがあるように思えるのは私の思い入れが強いせいでしょうか。それにしてもこういった方々の現実を、たとえ本からとはいえ目の当たりにして感じるのは、やはり生きるということは決して理屈でなく、その場その場で直面する現実に対峙する姿でしかないと思えてきます。ただ、世の中、現実は、そうなっている、ということですね。あとは個人で勝手に理屈を付けたり意味を付けたりして納得するだけのことで、実際に目の前にある現実と自分の関わりなどというものは、「ただそうなっている」というだけのことで、それ以上でもそれ以下でもなく、そーゆーふーに出来ている、としか言いようのないものであるのが現実であるという結論が導き出されます。(なんだかなぁ~)えー、毎度御馴染みの屁理屈になりましたが、現実を下手な理屈で解釈しようとするのは人間のエゴでしかなく、たとえ納得したところで目の前の現実が変わるわけでもなく、すべては時と共に変化しているということでしょうか。そういえば、先日のプーケット旅行で催されました現地懇親会の席上で、津波の被害に遭われた現地ダイバーの会長さんが興味深いことを言っておりました。「津波の後、破壊された珊瑚礁を修復するためほぼ毎日海に潜っていましたが、ある日気がつくと自分達の手をかけていない場所に生息する珊瑚は、壊れたままの形で生き続けており、更に成長もしているんです。その時、自然のものは自然に修復されていくんだとあらためて気付かされました。そして自分達のやっていることは一体なんなんだと。更に、人の手による修復が必要なのは人間が作ったものや、被災で受けた我々の心の傷なのではないかと。こうして我々が自然によって右往左往させられている中でも、その自然はゆっくりながらも自身で修復を行っているのです」そうなんですよね。自然災害とかいいますけど、これは人間の作ったものに対する人間の考え方であり、自然そのものは災害でも利益でもなく、ただそうなっているだけのことなんですよね。さすがにヘリクツ好きの私もこの話にはノーガキさえコケませんでした。ということで、このところ系統立てたようにこのような哲学的影響が強まってきておりますが、これも何かの暗示なのでしょうか。それとも道楽者に訪れた新たな展開なのでしょうか。正直言って私の中の何か(たぶん道楽の一種だとは思いますが・笑)が目覚め始めたような気がしてなりません。人生の半分以上は終了してしまった道楽爺にとって、これから先の後半戦はいよいよ究極の道楽の始まりになるのかもしれませんね。
2006年06月23日
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道楽者のみなさま、しばらくのご無沙汰でした。実は、17日(土)からタイのバンコク~プーケットへ行って、今朝帰って来ました。半分仕事、半分どーらくでしたが、ひとつには昨年の津波による被害から見事な復興を遂げたプーケットの事情を視察し、サイパン島の危機管理に役立てようというような主旨で、急遽地元観光業界有志によるツアーが組まれたのでした。私は以前から個人的にどーしてもお会いしてみたい女性(ひと)がバンコクにおりまして、これは大変良いチャンスだと思い参加することにしました。その女性はバンコクのスクンビットという地区で居酒屋「マリコ」を営まれている「まりこ」さんという方なのですが、とにかく道楽者の大先輩ということもあり、その波乱万丈な半生を生きられた方にひとめでもお会いできればと思い、出不精のどーらくものが何年かぶりに重い腰を上げたのでした。これだけ思い込んで出かけたのですが、結論から言えば結局お会いすることは出来ませんでした。元々ツアーの目的はプーケットでしたので、バンコクは夜に着いて翌日には出発ということで、チャンスは到着日の夜だけだったのですが、そこはやはり個人旅行ではないため、時間の制約もあり、バンコク市内を少し回っただけで終わってしまいました。(飛行機の遅延もあったので)まあ、道楽者を自負する私が非常に興味を持った方ですが、元々は宮崎学親分の著書で知ったアウトローのひとりでもありました。以下に参照URLをご紹介しておきますので、興味がおありでしたら是非ともお読みになってみて下さい。http://item.rakuten.co.jp/book/1500728日劇のダンサーからベトナム戦線で米軍キャンプの慰問に行ったり、東南アジアをドサって回ったというホンモノの道楽者です。ただ、この本は彼女の半生記のフリをしたノンフィクションの形は取っていますが、その内容やテーマは彼女自身の人生や生活とはあまり関係のないアウトローのお話ですので、自伝的な小説を期待してお読みになるとちょっとがっかりされるかもしれません。この本で語られているのは、「人生論」や「生き方論」のような意味付けをすっ飛ばした、現実とはあるがままの、ただただそうなっているのだという大変にクールな一冊です。だからこそ不良や道楽者には、たぶん著者が言わんとしているその「現実」というものが素直に伝わってくると思います。特にベトナム戦の中で踊り続ける「まりこ」さんの中には、陳腐な人生論や、とってつけたような生き方論など全くなく、輝きの中で踊り続けること、ただ己の道楽を完結させるためだけに踊り続ける「現実」だけが語られていて、私自身も今まで心の中で燻っていた「現実」がまたひとつ、なんとなく形になり始めたのでした。そういった意味もあって、何がどうするとか、会って話を聴くとかではなく、ただこの目でご本人のお姿を見てみたいという思いでバンコクに向かったのですが、残念ながら仏陀にここでは「縁」は与えられませんでした。でも、月並みではありましたがバンコクの街並みや夜の世界を覗いてみて、またひとつ心の重荷が下りたような爽快感に包まれつつツアーも無事終了し、今朝方サイパンに戻って来ることができました。書きたいことは沢山あるのですが、これを整理するにはもう少し時間が掛かりそうなので、まとまり次第またブログで書いていきたいと思います。それとは別に、バンコク~プーケット・ツアーで体験した面白い土産話も画像を付けて書いていきたいと思います。
2006年06月22日
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今日は書くこと無いのでチョットお知らせでぇ~す!FUNK! RUSH! RUSH! RUSH!みんな急いで!カウントダウンに入ってますヨ。Crush!? Crash!? どっちでも良いけど炸裂まであと7日。往年のソウルブラザー&シスタ、ダンスフリーク、FUNK好き、BLACK専、みんなで踊ろう六本木ブーメラン!ということで「ファンクラッシュ」に是非とも遊びに行ってやって下さい。親爺の戦友たちが手薬煉引いて待ってます。行けばきっと何か良いコトありますよ。もしも無かった人は、終了後、非生産活動推進委員会のCS(カスタマー・サティスファクション)にお問い合わせ下さい。慎んでお慰め申し上げます。今夏最大のイベント「ファンクラッシュ」は、6月23日(Fri)19:00~24:00Boomerang 六本木 2,000 YEN with 1drink DJsDJ.TerryDJ.Studio530DJ.Inabaデス。詳しくはこちら ・・・ http://funkrash.com/
2006年06月16日
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昨日に続いて昭和30年代の新宿東口の写真を載せます。高野(フルーツパーラー)の前は竜宮マーケットでした。現在の東口駅前と比べてみても、面影は残っているような気がします。 それにしても当時から人も多く雑多な感じは、新宿らしくて郷愁を覚えます。スクランブル交差点の信号機がレトロですねぇ。ここは現在「さくらや」ビルですね。もう一枚、新宿南口代々木近辺。小田急線南新宿駅です。 この駅も最近は随分と様変わりしたようです。新宿駅と南新宿駅の間隔は5分もなく、この駅を利用する人はあまりいなかったように思います。井の頭線の渋谷-神泉間みたいな感じですか?後ろに山野ホールの看板が見えます。小田急ロンスカーはオルゴールを鳴らしながら疾走していました。夏はロマンスカーに乗って江ノ島に行くというのが子供の憧れでしたが、残念ながら幼少時にロマンスカーに乗ったのは1回だけで、それも小田原行きでした。その反動で成人してからこのロマンスカーで江ノ島にはチョクチョク出かけました。藤沢駅で路線が切り替わり進行が逆になって、藤沢-江ノ島間のメイン路線は最前列に乗っていると後ろ向きに走り出すので、少々ロマンスは崩れていまいます。(笑)
2006年06月15日
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昭和46年(1971年)の新宿西口駅前通りです。左手が大ガードですね。右手側のビルにクインビーの看板が見えます「キャバレー・クインビー・チェーン」このビルに私が働いていた「V-one」がありました。この頃はまだキャバレーだったんですね。前列の女性のファッションがまさに時代を語っております。当時、私はまだ16歳ですから不良少年1年生ってところです。踊り場が不良少年少女の憧れの場所、あるいは特別な場所でありました。ジ・アザー、ポップ、ゲット、トレビ、まさにステップ時代の幕開けといったところでしょうか。これら有名店以外にもゴーゴーハウスとか呼ばれていた店もいくつかありました。東口にはフーテンと呼ばれるあんちゃんたちが、ビニール袋にプラボンドを入れて吸い込んでおりました。アングラとかサイケとかヒッピーとか、とにかく色んなアメリカ文化がごちゃ混ぜになって押し寄せてきた時代でもあります。確かこの頃東口二幸(今のアルタ)にマクドナルドがオープンして、銀座から始まった歩行者天国が新宿にも導入されたと思います。大学生はフォークブーム~学生運動みたいな流れでヒッピー風キタナ系ファッション、高校生は学ラン自慢(笑)にアイビー、後にヤンキーと呼ばれるツッパリ・ファッションが一気に広まっていった時代ですね。でもこの西口のアーケード裏のやきとり横丁とか、今もあまり変わってない感じがしますね。昨年でしたか息子を連れてここの「回転すし」に入ったら店員がイラン系で、客は中国人とかタイ人とか東南アジア系の人たちが沢山いてびっくりしました。でもって親爺は息子に「おっ、次は結構いけそうな中トロだから見逃すな」とかノーガキ垂れていたら、隣の中国人のご家族の皆様が一斉に中トロの皿に手が伸びました。そうか、どれが美味いか品定めするにしても、元々生魚は食わない人たちだから選別が難しいんだろうなぁ、とか勝手に納得しましたが、皆様「中トロ」はさすがにお気に召したようで、次もこの親子の後に続け、みたいな視線を一気に浴びました。別にからかうつもりはなかったのですが、息子が「しめさば」が好きなものですから、チョイ厚めの「こはだ」を取ってやると、それーってなもんで後に続く中国人家族でございました。満足そうな息子の顔とは裏腹に、隣席のご家族全員は一口運んでそのまま皿に戻しました。ごめんね。。。。
2006年06月14日
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これは渋谷の道玄坂です。現在の東急世田谷線、当時は玉電と呼んでいましたが、渋谷から三軒茶屋経由で二子玉川、世田谷の下高井戸を走っていました。現在残っているのは三軒茶屋-下高井戸間のみです。引込み線の後方に見えるビルが東横百貨店ですね。当時の渋谷はこの東横デパートが中心でした。 映画の看板が少し見えていますが、この道玄坂の中ほどに渋谷東宝がありました。反対側は戦後の闇市の面影を残す雑多な商店街が軒を並べてしました。もう一枚は昭和30年代の赤坂見附駅周辺です。前々回の六本木交差点の写真と同じ時代です。 都電が堂々と走っていますね(^。^)背広姿のサラリーマンでしょうか、ちょっとレトロでファンキーです。道幅も当時にしては随分と広く感じますが、交通量もかなりのものです。やはり東京の中心という感じがします。霞ヶ関も近いし、料亭やキャバレー「ミカド」、ラテンウオーターなど紳士の社交場としても有名だったのでしょうね。またしても浅田次郎さんの霞町物語が頭に浮かんできました。
2006年06月13日
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今日のタイトルはちょっとオーバーですが、私の育った世田谷、昭和45年頃の小田急線の梅が丘駅前の写真です。 ちょっと見にくいかも知れません、国士舘大学のデカイ広告塔が聳え立っています。こんな街で私は育ち、しっかりとグレていったのです。(笑)反対側に羽根木公園とかがありますが、商店街はこちら側に集中していました。もちろん国士舘への通学路だったし、都立明正高校も同地区にありました。今にして思えば結構変な街でしたよね。時々この駅前に蛇腹の学ラン長グツ姿のガキ親爺みたいな軍団が整列して、「オーッス!」の連発ですからね。で、その横をアイビー少年みたいな都立坊やたちがしらーっと歩いていたりして、それが自然な駅前でした。この通りに後年有名になった「みどり寿司」がありました。そしてこの駅前にあった数店の喫茶店に地元の不良グループが屯していたのですが、それでもなんかイマイチ垢抜けないツッパリ少年少女たちでしたね。 さあ、そしてもう一枚は、私の戦友テリーの故郷、小田急線「成城学園前」駅前です。 もうすでに雰囲気が違いますね。我が心の梅が丘に比べて町全体が垢抜けていますね。お金持ちって感じです。地理的には多摩川の手前、もうすぐ川崎ってとこですが、世田谷の高級住宅街としては田園調布とならんで有名なところです。最近テリーのサイトで「告白」がありましたが、理由はともかくこんなところに住んでたってことだけでも自慢できるのではないでしょうか。私の同級生なんてほとんどが地元商店街の倅や娘でしたから、成城学園なんて聞くと緊張したものです。(笑)街全体が醸し出す雰囲気が、なんかネクタイのブレザーとか着込んだええとこの坊ちゃん嬢ちゃんって感じがしますよね。東宝撮影所とかも近くにあったし、「若大将」とか「グループサウンズ」とかいうイメージがありましたね。
2006年06月12日
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昭和34年の写真です。写真正面は誠志堂書店です。現在はこの交差点の上を首都高速が走っています。このブログでも話題になった「霞町物語」に出てくる主人公達は、こんなところで子供時代を過ごしたんですね。そして東京オリンピックで大都会を演出するためにこの界隈も区画整理され、道路が整備され高架首都高速が建設されていったのですね。ちなみにこの当時私はまだ4歳です。まさかこの十数年後、アフロ頭でこのあたりをウロウロ、ウダウダするとは誰が想像できたでしょうか?ウチのおふくろに言わせるとあのあたりは下町だったけど、駐留軍のキャンプがあったからオンリーさん(米兵相手の女性のことですね)とか、ズベ公、やくざが結構いたと言っておりました。銀座だって戦後栄えた街だとも申しておりました。てか、その辺は今もあまり変わらないような気がしますね。ただ人種は更に複雑になったようですが・・・・。路面電車の線路がわかりますか?六本木にチンチン電車が走っていたのですよ。あの首都高の真下ですね。ちょっと懐かしい写真、ほかにも数点入手しましたので少しずつ紹介していきましょう。レトロファンっていうか、元不良少年少女の皆様どうぞお楽しみに。
2006年06月11日
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70年代中頃、ツッパリ少年少女のアイドルは何と言ってもキャロルとダウンタウンの二大グループでした。リーゼントに革ジャン、ツナギ着とか、後年クールスや横浜銀蝿などに続いていったツッパリ・ロックンロールの原型でした。そして、当時一世を風靡したダウンタウン・ブギウギバンドのヒット曲の中で、特に印象深く、ディスコでもよくかけた曲に涙のシークレットラブがあります。まあ、フツーに聞くと切ない女心を歌ったバラードなんですが、当時この曲をリクエストしてきたアフロ姿のおねーちゃん、いわゆるヨーパン嬢がひとりおりました。当時20歳そこそこの私でしたが、たぶん彼女はもうチョイ年上、23~4歳といったところでしたでしょうか。そして彼女のボーイフレンドはもちろん横田ベースのブラザーでした。スタイルも良く顔立ちも上品でインテリジェンスのあるおねーさま、夜毎アフロヘアのカツラをかぶり、横田ベースからやってくる彼氏と新宿のブイワンで待ち合わせ。彼がやってくるのは大抵午後10時過ぎでしたから、たまに早く到着した彼女がぽつんとテーブルに座ってぼんやりしながら虚ろな目をしていたのが印象的でした。そんなある夜、いつものようにひとり早く入店してきた彼女がDJブースのすぐ横のテーブルに座りました。客もまばらな平日、私はDJブースに入ってスローナンバーをプレイしておりました。そこへ彼女が珍しく顔を覗き込んできて「涙のシークレットラブかけてよ」と言ったのでした。私は一瞬耳を疑って「えっ?」と驚きの表情。彼女はごく自然に「ダウンタウンブギバンド、あるでしょ?」と念押し。私にしてみれば、アフロのヨーパン嬢とツッパリ小僧御用達のダウンタウンが結びつかなくてちょっと意外なリクエストでした。閑散としたフロアに宇崎竜童の切ない詩が響きます。ふとテーブルを見ると彼女の横にはボーイフレンドのデュース君が並んで座っていました。彼女はいつになく虚ろな目でミラーボールが光が流れるフロアを見つめていました。~ シークレットラブ 思い出さえ誰にも言えずに ~20歳のアフロ小僧が垣間見た大人の恋、みたいなものでした。その後彼女と偶然に地下鉄の中でバッタリ会ったことがありましたが、夜の姿とはまったく違って、今風に言えばキャリアウーマンのような颯爽とした別世界の人間のようでした。お互いにちょっと気恥ずかしかったので、「あっ、どうも」ってな感じで会釈して別れましたが、ガキはガキなりに「人を好きになるってことは永遠の謎」だなと思いました。この数年後、ボーイフレンドのデュースは、まだ私が新宿で働いていることを知って一度尋ねてきたことがありました。除隊間際の休暇だったそうで、友達二人を連れて歌舞伎町のトゥモローUSAに遊びにやって来たのでした。久しぶりの再会に私も興奮しましたが、時代はとっくに先に進んでいて、賑やかなダンスフロアで一緒に気合の入らないダンス「サンフランシスコ」などを踊って帰りました。ちょっと哀しかった。帰り際、GIRL FRIENDは?と聞くと、にやっと笑っただけで何も答えませんでした。たった1~2年の夢のようなSOULブームでしたが、今にして思うと4~5年分の体験を味わったような気がします。そんな夢のような時代、夢のような世界で、きっといくつもの夢や恋が生まれたんでしょうね。夢破れて山河あり・・・・なんちゃって。(ってか、ちょっと違うんじゃネェの)ということで、当時のディスコ英会話を思い出しました。ブラザー達の口癖が「デショ」でしたね。「I don’t like fight デショ。Fightダメデショ」「You like a girl デショ? Me too ダカラintroduce me デショ」とにかくどんな会話でも最後にデショをくっつけてましたね。
2006年06月10日
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70年代当時のブラザーっていうとやっぱアーミーでしたよね。私達の全盛期はベトナム戦も終わり、いままで張り詰めていた緊張がドッと解かれたような時代でした。まあ、そんな開放的なムードがソウルブームへと導いたのかもしれませんね。もちろん当時はそんなことはまったく理解できないほどデカイ頭でウロウロしてましたが、それでも兵隊さんの分類くらいは出来ました。ベトナム戦の時は徴兵制度がまだ生きていましたから、根っからの軍人の中に混じって適度なインテリや良識派がいたし、単なる不良の暴れん坊みたいなのもいて、アフロ小僧もだんだん中味が見えるようになってくると、お付き合いできそうなお友達も次第に絞り込まれていきました。幸いにも私が働いてたN観光チェーンは横田ベースからのパートタイムが主だったので、あんまりタチの悪いブラザーとはお友達にはなりませんでした。横田はエアフォースですからもともと良識ある人が多かったし、ディスコでパートするのも彼らナリに横の繋がりというか、人間的な繋がりで引き継がれていましたから、アフロした妙な日本人の子供たちともフツーに相手してくれました。(笑)それに比べて横須賀マリーンは凄かったですね。船が着いたっていうと、ブラザーが塊になって夜の東京になだれ込んできました。もちろんお目当てはおねーちゃんですから、仲間同士で情報交換もしていて、新宿ならこの店に行けとか、六本木だったらこの店だとか、ちゃんとブラザー・ハント・マップみたいなのがしっかりとありました。時々チャレンジャーは新宿とかの大箱になだれ込みますが、システムの不明瞭さと英語が通じないもどかしさに、結局はブラザー御用達店に行かざるを得なくなるわけです。もちろん御用達ナンバーワンはエンバシとハレムですね。ただ、ヨーパン一人にブラザー5人とかいうような争奪戦ですから、たまに場外乱闘なんてこともあるわけで、それはそれで無責任なギャラリーであるアフロ小僧たちは歓喜して見物したりしました。まあ、ヨーパンとか呼んでましたけで、こういったおねーちゃん達だって別にそれで商売していたわけじゃありませんから、適切な呼び名ではなかったと思います。(笑)ただ黒人が好き(笑)みたいなのと、やっぱ競争率が異常に高かったですから、そのチヤホヤ加減も相当だったし、ニッポンのあんちゃんに比べて女性に対する接し方はそれなりに異国情緒に溢れたものでありました。(笑)ただね、いつの時代もこういうところで遊ぶ人間は男にしても女にしても、あまりマジメな人間とは言い難いですから、どーしても不良っぽいのに惹かれてしまうんですね。特にハレムあたりに集っていたブラザーは結構危ないのもいましたから、そのスリルを楽しむなんていうちょっと変わったおねーちゃんたちもいましたね。その反面、中にはEW&Fに傾倒している宗教家みたいなブラザーが混じってたりして、DEVOTIONなんてマジで歌っちゃうヤツとかもいて、その辺は中々に面白かったですね。まあ、大方がジョージ・クリントン&ファンカデリックみたいな黒人らしい黒人でしたが、時々教養のある知性派みたいなのが混じってるところが今の兵隊さんたちと大きく違うところでしょうか。でも、こういう知性派みたいな人たちはやっぱもてないんですよね、残念ながら。まあしかし、あの狭くて薄暗い店内に漂うムスクの匂いに包まれていると男でさえ妙な気になってきますから、好奇心旺盛なおねーちゃんにとっちゃまさにハレムだったんでしょうね。(よくわかんねーぞ)特にあの腰をピッタリと合わせて摺り合う独特のチーク・ダンスは色っぽかったですね。誰だってあの腰の動きを見ていたら変な気になっちゃうのは当たり前で、こーゆーのを目の当たりにしているうちに段々危ない雰囲気になっていっちゃうんですね。(笑)そういえば一度ハレムのトイレでちょい顔見知りのブラザーと一緒になって、冗談で指鉄砲指したら異様に怯えてましたっけ。その反応がね、凄かった。で、結構マジで怒って「冗談でもそうゆー真似はするな!」って言われました。たぶん草もかなり入っていたとは思いますが、銃に対する恐怖心ってのは平和なニッポン人には理解できないほど生活に密着してるんだなぁと思いましたね。モデルガンなんか見せたらどうなるんだろって思いました。しかし、あの頃のブラザーたちは今頃どこで何してるんでしょうかね。考えてみれば彼らもニッポンの良い時代に遊んだシヤワセ者ですよね。今時の兵隊さんじゃニッポンの物価についていけないだろうし、歓迎どころが嫌がられるのがオチですね。ちなみに私のうちに近所のレンタルDVDショップ(ブロックバスターチェーン)の店長が、昔岩国基地に居たっていうんで結構仲良くなりましたが、白人なんでちょっと話が合わない部分もありますが、それでも彼にとっての日本の想い出はやっぱり楽しいものであるようです。
2006年06月09日
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74年~75年にかけて流行った踊りで一番忘れられないのはやはりレゲエ~ポイントでしょう。4拍子のブンチャカ、ブンチャカという独自のレゲエ・ビートがディスコに入りこんでくると同時に、おどりも4ステップで踊るレゲエとかいうのが出回りました。はじめの内は男女で向かい合って左右に動いていたのですが、これが自然なバリエーションの中で前後にも動くようになり、両手をおサルのように動かしていたのが、相手を指すような仕草に変わり、誰ともなくポイントと呼ぶようになっていました。これは誰かが仕掛けたとか誰かが作ったとかではなくて、本当に自然の流れで生まれてきた踊りです。ただ、今までの踊りと違って男女ペアで踊るというパターンが画期的でした。これはバンプ以来のペアダンス・パターンでしたが、ニッポンでは一番浸透しにくいカタチの踊りでもありました。これも私の推測ですが、当時ペアで踊るってパターンは出来合いのカップル、いわゆる彼女と彼氏にのみ許される行為で(笑)、その場で顔合わせただけの見知らぬ他人と踊るということがマダマダ一般普及していなかった時代で、結局パートナーのいない奴らは一人で踊るしかないわけで、結局ステップに頼っていったのではないでしょうか。だからこの時代のディスコは、なんとなくバランスに欠けたチグハグな感じでもありました。ただ時代の勢いはまさにSOULブームでしたから、妙なステップもそれほど目立たずに棲息していたということでしょうか。(笑)ほとんどのステップはGET経由だったような気がします。といってもいわゆる昔のステップではなくて、当時生まれたステップでしたから全国的に統一されたモノではありませんでしたね。たぶん、ステップ=ゲットという神話が形骸化して低年齢層に引き継がれていったというようなトコではなかったかと思います。私自身もSOUL=DISCOとしては、やはりこの時代が最高だったと思います。とにかく毎日楽しくてしょうがないっていうか、毎日ドキドキ、ワクワクの連続でした。横田基地発信のニュースソースと横須賀発信のニュースソースは、アフロ小僧達の夢を膨らませる生のアメリカ便りでした。ミッドウェイが入ったと聞くや否や、みんなでエンバシやハレムに出かけて行って最新のヒットと踊りに狂乱し、そこで屯するヨーパンのねーちゃんや暗やみに目ばかりがギョロギョロしたブラザー達の中にもぐりこんでは、束の間の異国、アメリカを味わったものでした。アフロしてソウルファッションしているということで、自分たちもすっかり成りきっていたのですね。とにかくブラザーの仕草を真似することが時代の最先端みたいなことで、皆でこぞってKOOLを吸ってみたり、ゲンコツぶっつけあって「WHAT’S HAPPENING?」とか気分出してみたりと、どこまで黒人になりきることができるかということが、ひとつのスティタスでもありました。頭にデカイ櫛を刺してみたり、スーパーフライと呼ばれる帽子をかぶってみたり、とにかく派手なこと目立つことが快感のようなものでした。更に、そーゆー自分たちが特別扱いされることに無常の喜びを感じたりしてましたから、いつの時代も目立ちたがり屋というか自己顕示欲発散タイプの人間にとっては人生最高の青春だったと思います。たとえ俄仕込のSOULブラザースでも、羨望の眼差しで持ち上げてくれる一般大衆ばかりでしたから、否が応でも成り切るには時間のかからぬことでした。当時は今ほど情報源やニュースソースがふんだんにあるわけじゃありませんから、言ってる本人だってどこかの聞きかじりとか、本人の勝手な解釈で無知な素人にノーガキ垂れたりしてたわけですね。六本木アフロレイキのロゴだった、赤黒緑の3色ソウルカラーでできたアフロ専用の櫛が結構な人気で、アフロ小僧たちはこぞってこのレイキの争奪戦に乗り出しました。私も横田ベースのブラザーに頼んでPXで買ってきてもらったりしましたが、この3色コームはとうとう入手できませんでした。そのかわり出刃包丁みたいなデカイヤツを貰って、「どーだ、こんなデカイのはちょっとねぇーだろ」くらいに自慢しましたが、肝心の櫛の部分が長い針金だったもんで、毛が絡み付いて痛く痛くてあまり実用的ではありませんでした。実際には木製の櫛が一番使いやすかったんですけど、ちょっとダサくてね、持ち歩いていたのはハッタリ用ですね。ディスコでおもむろにバッグから取り出して、これ見よがしにアフロを逆立てる、みたいな感じでした。(笑)それにしても、ブラザーたちは「アフロレイキ」などとは呼んでいませんでしたね。普通にコームと言ってました。だから、買ってきてもらうときに「アフロレイキ」って言っても中々通じなくて苦労した覚えがあります。こんな感じで英語から日本語っていう流れの中では、みんな結構間抜けなこと言ってましたよね。ゲンコツぶっつけあう独自の挨拶で「CHECK IT OUT」とか意味のあるような無いようなセリフを聞きかじって、この挨拶を「チェッカー」とか言ったりね。ブラザーは「ダッチ」とか呼んでましたね。ダブル・ダッチ・バスとかに使われているダッチです。まあ簡単に言えばダチってことですか。(笑)あと、「What’s happening born?」とか言われて、俺はボンじゃねぇそ!とか怒ったりしてね。バカですね。まあ極めつけは「RIGHT ON」ですけど、これなんかも気分の良いとき、カッコよい時、特別意味のない感嘆詞なんですけど、やたらうれしくて「ライノン、ライノン」とか言ってました。何がライノンなのかよーわかりませんが、とにかく踊っててライノンの連発。あとはよくブラザー同士が言っている「Same man, what’s going on?」とか、セイメーンって聞こえるもんだから、SAY MANとか言って見たりして、「What?」とか逆に突っ込まれてオドオドしたりして、それでもなんか黒人と話してる自分が好きみたいな、自己陶酔でした。私の記憶で一番新しいのはパブロックって踊りでしたね。もうディスコ引退間際でしたからあまり気にもしてなかったんですけど、POP ROCK(パップロック)がパブロックになっちゃったみたいなね。こんなことが良くありましたから、その手の歴史書(笑)なんて案外いい加減なもんです。
2006年06月08日
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昨日に引き続いて当時のヒット曲と踊りを振り返ってみましょうか。ウォーターゲートからオールドマンに移り始めた頃、一気に爆発したのがマイアミサウンド・TKレーベルのスーパースター・KC&The Sunshine Bandでした。ファーストアルバムからのヒット「ファンキーホーン」からいきなり垢抜けたって感じの大ヒットがGet Down Tonightでした。思わせぶりなイントロからいきなりダダーッと入ってくる大変にノリに良いダンスナンバーでしたね。でもって、このビートが何故かオールドマンのギッタンバッコンにピッタリ合ってたんですね。あとあまり語られることのないヒットに「ゲットダンシン」とか「シェイム・シェイム・シェイム」とかありました。もちろんアベレージ・ホワイト・バンドもこの頃登場してきました。平均的白人バンドのワリにはかなりFUNKYでしたね。でもどっちかといえばピックアップピーセスはウォーターゲートに合ってたかな。次のカットザケーキもファンキーフルーツとかにあってました。異色なところではイギリスから飛び出したジミー・ジェイムスの「ファンキーオールドマン」ってそのまんまの邦題ですが、オリジナルは長いので忘れました。(汗;ただ、この曲でオールドマンをムキになって踊るとぎっくり腰になりそうで怖かったです。もうひとつ、バズーガの「ダイナマイト」ってのもニッポンのみヒットしたんじゃなかったかな。「ダ~ィ~ナ~マ~ィト」って掛け声が入ってるだけのインストもんでしたが、結構重めのFUNKでした。そしてドッカーンと大ブレイクしたクール&ザ・ギャングの「スピリット・オブ・ザ・ブギー」でロボットやファンキーフルーツと呼ばれるSOULマンならではのFUNKYダンスが流行り出しました。このアルバムにはジャングルブギーのニューバージョン「ジャングルJAZZ」が入っていて、往年のKGファンを喜ばせてくれました。とにかく当時彼らのサウンドはFUNKの代表選手みたいだったですね。カッコ良かったし踊りやすかった。ホントにノレました。愛のディスコティック:タバレス(これも皆よく踊ってましたね)(注)邦題がね、凄いですね。It only takes minuteってとこで結構笑ったりしてましたね。(えっ?)1分もかからないって。(何が?)ピースパイプ:BTエキスプレス(絶好調だったですね。何故かこの後BIGヒットには恵まれなかったようです)ザッツザウェイ:KC & The Sunshine Band はいはい、もう言うことはありませんね。とにかくスゲー勢いでしたよ、当時のノリは。ちなみに、愛のディスコティック~ピースパイプ~ザッツザウェイって3本立ては当時の山場だったじゃないでしょうか。踊りの方もオールドマンがちょっつ疲れ始めてきて、レゲエ~ポイントに移っていった時代です。後年は「バカ系」みたいに言われるようになってしまいましたが、当時は皆で楽しくFUNKYに踊ってました。誰かがつまらねーステップなどに当てはめちゃったから、後年誤解を生んだのです。似たような流れにミラクルズのラブマシーンとかもありますね。つまらねーステップなどの課題曲にしてしまったために原曲が正しく評価されない、というような妙な流れになっていきました。当時の隠れたヒットには、「スーパージョウズ」なんてものありましたっけ。コーラスに「Super Jaws」って入ってるだけのインストものでしたけど、ブラザーにも結構人気があってレゲエ~ポイントで踊ってましたね。あとピープルズチョイスの「ディスコ天国」(Do what you wanna do)もよくかけた覚えがあります。なんでディスコ天国なんかなぁ~、って感じですが、日本版のシングルジャケはメンバーの写真が載ってて、ちょっとハゲめのおっさんが居て、それでなんとなく私的にはランキングが低かったですね。(笑)そんなもんです。カルフーンのダンスダンスダンスも中堅ヒットでした。イントロのギターのリフがファンキースタッフ系の当時の流行みたいでした。これも変なステップ踊ってたヤツいたなぁ~。インストもんといえばシルバーコンベンションの「フライロビンフライ」ってのも、いきなり登場してきてブラザー達のハートを鷲づかみって感じでした。みんな飛んでたからだろって?はいそのとおりです。なんかこのけだるい感じのビートと「フライ~」ってコーラスが異次元の世界に連れて行ってくれました。(笑)後年はゲロンパッブーギーで格下げされてしまいましたが、これだってくだらねーステップなんかつけないでそれなりに踊ってれば、まあまあの線は行ってたはずですね。もうひとつ「ディスコバタフライ」ってのも中々のヒットでした。これってモハメッドアリを讃える歌だったんで、ブラザーが結構喜んで踊ってましたっけ。「蝶のように舞いハチのように刺す」ってアリの賛美歌でした。これもへんなステップにしちゃった奴らがいたなぁ~。FUNKY系統ではアイズレーの「ファイトザパワー」とかブラスコンストラクションが人気でした。ブラスコンストラクションは当時にしてはかなりビビッたグループで、これだけブラスアンサンブルを前面に押し出したバンドって過去無かったんじゃないですか。タワーオブパワーですら、ここまでの洗練された音は出せなかったですよね。まさにコンストラクションというにはピッタリの「音」でした。ただ、やっぱりマニア受けで一般には今イチって感じでしたね。長かったし。(笑)こして振り返ってみると、このころから妙なステップで踊ってるヤツがチラホラおりましたですね。たぶんきっかけはチャイニーズ・カンフーじゃなかったでしょうか。流れは新宿ゲットの中学生でしょうね。もうこの頃のGETは昔の面影さえ無くしていたように思えます。壊れちゃったみたいな。「鶯谷ミュージックホール」とかかけてジョーク飛ばしたり、なんか子供に媚びていったような感がありましたね。ステップ=GETが形骸化してしまって、後年は妙なステップが中学生によって広められたみたいなとこでしょうか。そのうちにバスストップとかが入ってきて、この流れと合流して、いわゆる後付ステップと呼ばれる「新・ステップ時代」が生まれて行ったのではないでしょうか。もちろんこれは私の推測ですからなんの裏付けもありません。
2006年06月07日
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道楽親爺の気まぐれ、なぜか突然思いついたので当時のヒット曲と踊りを思い返してみましょう。バンプ~ウォーターゲートいわゆる踊り場ステップ時代が一皮ムケたあたりですね。でも、バンプって、それほど踊った記憶がないのは何故でしょう。踊りに行って、せいぜい1曲か2曲ですね、野郎同士で尻ぶつけ合って喜んでたのは。おねーちゃんの周りでこれ見よがしに踊ってから、「バンプやってみる?」とかくだらねーナンパとかしましたっけ。まあまず断れるのがオチでした。でもって、ウォーターゲートが入ってきて、鏡の前で踊る路線が爆発して踊り場の主流となっていきました。ハッピーピープル:テンプテーションズエキスプレス:BTエキスプレスハイジャック:ハービーマン(オリジナルはバラバスだったっけ)レディママレード:ラベル(注)この曲は特に思い入れがありますね。「キチキチ~アヤイヤイ~」ってとこで皆なぜか首振って踊りました。まるでデンスケみたいに首振ってました。なんだったんだろ。ファンキーホーン:KC&ザ・サンシャインバンド緑色の神様(For the love of money):オージェイズ(注)しかし凄い邦題でしたね。ドル札が緑色だったからって注釈がついてましたが、「マネ、マネ、マーネー」ってコーラス部がシブかったですね。オリーブの首飾り:ポール・モーリア(ってか、なんだったろうねこれも)吼えろドラゴン:カールダグラス(ご存知カンフー・ファイティングです)(注)ソウル・エンバシーでもかかってました。よくブラザーがへんてこな空手の真似とかして踊ってましたっけ)ロックユアベイビー:ジョージ・マックレー(古い人はチャチャでした)愛の航海:ヒューズ・コーポレーション(やっぱ古い人はチャチャ)ファンキー・ウォーターゲート:JB’S(注)ジェイビーズはよくこうした流行のタイトルソングをやってました。あとヴァン・マッコイのディスコ・ベイビーの盗作みたいなのとか、オハイオ・プレーヤーズのスキンタイトのパクリみたいなのとか、結構売れるためには何でもやる、みたいな感じだったですけど、JBはソウルの神様だから何やっても許されるんだと思ってましたね。(笑)この理論の延長線上にディスコ教会会長も居て、何やっても許されるんだと思ってました。(爆! いやホントですよ。リアリティ~ファンキー大統領~ヘル~マイサング:ジェームス・ブラウン(注)まさに脂の乗り切った絶頂期というような感じでした。とにかくこの頃は2枚組アルバムが当たり前でお小遣いの少ないソウル小僧にはチト辛かった。だから、この当時のコレクション見ると、JBはみなシングル盤ばっかりですね。(笑)パパ・ドント・テイク・ノー・メスってミディアム・ナンバーがあったんですけど、アルバムじゃB面一面のロングヴァージョンで、聞いて踊ってるうちに何処かに行ってしまうような恍惚感がありました。フツーのお客さんは「なげぇーよ、いい加減にしろよな」みたいな。(笑)ファイヤー:オハイオ・プレイヤーズ(注)スキンタイトに続く大ヒットでした。このグループのアルバムジャケはずーっとエッチでした。メンバーにひとりターバンしたおっさんが居て、インド系なのかなぁとか思ったりしてましたね。ちなみに次のスィートスティッキー(Sweet Sticky Thing)で、FUNKファンはちょっと肩透かし喰ったみたいでしたが、私は個人的にこのJAZZっぽい感じが好きでした。K&Gもそうなんですが、元々JAZZを目指してたグループっていうかミュージシャンが、メシ食うためにクラブでダンスミュージック演ってたってのが多いんですよね。だからちょっと売れてきたら、少しは自分達のやりたいものも取り混ぜるみたいな感じですか。さよならは言わないで:キャロル・ダグラス(注)この曲はもう御馴染みのスタンダードって感じでしたが、なぜか競作で色々な人が歌ってました。でも当時の中堅ヒットとしてはキャロル・ダグラスでしょうね。このあと恋の診断書とか、なんかよーわからんアイドル系だったですかね。そろそろ絶滅しかかった元祖ステッパーがチャチャで踊って最後の意地を見せました。マイティ・マイティ:アースウィンド&ファイヤー(注)CBS移籍後通算3枚目のアルバム「Open our eyes」からのシングルヒットでした。宗教色の強いグループでしたが、当時は意味もわからず踊ってました。この後シャイニングスターで大ブレイクして一気に盛り上がりました。バーサ・バット・ブギー:ジミー・キャスター・バンチ(注)バン、バン、バババン、バンバンバーンって、ドリフターズじゃないよ。妙な出だしのちょっとミディアム・テンポのこの曲、意外と流行ってたんですよね。後にキングコングとかでブレイクするジミー・キャスターですが、私的には結構好きなアーティストでした。Everything Manとか自分で言ってましたが、まさにマルチミュージシャンの面目躍如といったとこでしょう。E-manブギーなんてかなりカッチョ良いダンスナンバーでした。ジャングルブギー~ライムタイムピープル:クール・アンド・ザ・ギャング(注)とにかくこの時代はKOOL一色と言っても良いくらいよくかかってましたし、ヒットが連発でした。今更言うことありません。Keep on Bumpin’:KG’S(注)K&Gの弟分ってなことでデビューしたKG’S。JB’Sみたいなもんでしょうか。でも彼らのアルバム「マスター・プラン」とか後の「KG‘Sバスストップ」とか結構良いノリで踊りやすかったね。ということで長くなりましたが、このあとKC&ザ・サンシャイン・バンドのGet Down Tonightが登場してきて、踊りもオールドマンへと移って行きました。この時代に大変印象的だったのが、BTエキスプレスの「エキスプレス」爆ヒットを追うようにして、JB’SがJB’Sモノレールっての出したんですが、輸入盤が中々に入手困難で、幻の名作みたいなプレミアが付いたのを覚えています。ウォーターゲートで手をくるくる回しながら歩き回るみたいな踊りのバリエーションがあって、なんか子供の電車ゴッコみたいな感じでしたね。電車の次はモノレールか?ってこの辺のセンスがやっぱ面白かったですね、当時は。
2006年06月06日
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このところ立て続けに70年代のディスコの渦に巻き込まれた方々(笑)と遭遇を重ねる委員長でございますが、皆様からいただく言葉の端々に当時の思い出、忘れかけていたことなどがリアルに甦ってくることもあり、まさに貴重なキーワードとして更なる追憶に埋没していく今日この頃です。(笑) そんな懐かしい記憶を辿りつつふと思いついたのですが、あの当時、70年代中期に爆発したSOULブームに乗っかって、確かにディスコが乱立していきましたが、あの頃の私たちは本当にディスコのことをディスコと呼んでいましたっけ?「踊り場」と呼ばれていた時代から遊んでいた方々や、ブームに便乗してアフロを始めたダンス小僧など、私も含めあの時代あの当時遊んでいた不良がディスコなどと口にしていた記憶がないのです。でも確かに当時の「広告」や店のロゴなどをみると「ディスコティック」と書かれてあります。では実際にどうだったかというと、たぶん店の名前で表現していたのではなかったでしょうか。たとえば、「今日、エンバシ行く?」とか「コップスに行くけど一緒に行かない?」とか、あとはやはり「踊りに行こうよ」とか言ってたと思うんですね。決して「ディスコ行こうよ」とか「六本木のディスコ行かない?」とかは言わなかった。まあどーでも良いことなんですけど、最近はノスタルジックに「昔ディスコで働いてました」とか「昔はディスコによく行きました」とか表現してますが、当時はディスコという言葉が持つイメージは、遊び人にとってかなり白々しい、間抜けな響きがあったように思えます。それも、ディスコのルーツは踊り場にある、といった遊び人特有の暗黙の「掟」みたいなのがあって、やはり「踊り場」は「踊り場」だったし、自分たちはその過去を引きずっているのだということを暗に意識する意味でも「ディスコ」とは言わなかったように思えます。会話の中で「ディスコ」という表現を使った場合、それは「私は新参者です」と名乗りを上げるようなもので、たとえそれがアフロにポックリの最新ファッションをしていたとしても、オレ達ゃ「踊り場」時代から踊ってんだ、というような血筋(笑)の継承者であることを強く意識した不良のメンツのようなものでもありました。もうひとつ、ブームの立ち上がり時期はお店の名前=ディスコ=ブランドというような構図があったように思います。ひっくるめたカテゴリーとして「ディスコ」とは捉えていなかった。ディスコ全域を指す言葉としてはやはり「踊り場」が残っていたし、不良や遊び人に認知されたということが「店名」で表現されるというようなちょっと入り組んだ構造(笑)だったように思えます。あと、このブームの走り、70年代前半は「踊り場」=プロっぽいというのは、そのほとんどが小箱だったし、暗いイメージこそが黒人=SOULみたいな認識だったと思います。だから、当時の大箱は「踊り場」としてのプライオリティは低かった。トゥゲザー、プレイハウスなどはゴーゴーというイメージが強かったし、せいぜい許せてアップルハウス、ブラックシープ、だったような気がします。つまり、なぜ新宿がイモ扱いされたかというと、いち早くこのような大型店舗が進出したからではなかったからではないでしょうか。六本木だって大箱といえばボビーマギーくらいだったし、やっぱ、この店は昔から遊び人ランクは低かった。(笑)ということで、古くからの血筋を守るソウルブラザース系はどうしてもスノッブに拘り、小箱戦略を取り、古臭い不良の溜まり場を一掃して大衆娯楽に持っていこうとするコマーシャル系は大箱戦略を取ったということでしょうか。そして、大箱の物流作戦に負けた。(笑)ですから70年代中期で引退していった者もいれば、時代に迎合して生き延びた者もあり、更にはニュージェネレーションも出てきて、結局は時代の波に皆呑み込まれていったわけですね。ですから、この「ディスコ」という名称の捉え方で案外その人の時代背景がわかるかも知れませんね。
2006年06月05日
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What’s happening brothers and sisters?道楽者の皆様お元気ですか。非生産活動を開始してはや1年が過ぎ、更に道楽に磨きがかかる委員長でございます。さて今日は、以前お話したお調子者の正体の後編、お調子者がその絶頂期にどのようなデタラメな生活をしていたかという自爆的体験談です。歌舞伎町の「Q&B」というディスコで一気に盛り上がってしまった委員長は、群れを成していったアフロ小僧たちの神輿として担がれていくうちに、ダンサーズなどという生意気な仕事をするようになっていきました。70年代中期当時、歌舞伎町のど真ん中にあった東宝会館7階に新装開店する超大型ディスコ「トゥモローUSA」でデビューを飾り、その後そのまま居ついてDJなどもするようになっていきました。70年代後期はディスコが一気にメージャーにはじけていった時代で、それまでのSOULやR&Bと呼ばれる黒人音楽も少しずつ洗練されたダンスミュージックとして生まれ変わりつつありました。まあ、委員長のようにアフロヘアで黒人音楽にかぶれ切ったSOUL小僧にとっては、少々面白くない流れではありましたが、それでもまだSOUL系のファンやダンスマニアも生き残っていて、ディスコの中身も多少色分けされていった時代でもありました。ダンスフロアは時間交代制(笑)、あるいはDJの持ち味交代制のような感じで、ソウル&ファンク~いわゆるディスコサウンド~ミーハー系ダンスミュージックみたいな三色が基本でした。FUNKで従来のダンスマニアが踊っているときは、若年層ステップ系はじっと我慢、ドン、ドン、ドン、ドンとバスドラのワンツービートが流れ出すとジワジワ、ゾロゾロと踊り手選手交代みたいな感じでした。どっちつかずでフラフラ踊っていたサラリーマン系フツーの一般大衆が場のつなぎみたいなもんでしたね。(笑)彼らにとっちゃ何でも良かったわけで、回りがどーなろうと知ったこっちゃない、ってなもんで、ネクタイ頭に捲いちゃったりしてワォーとか言ってヘラヘラしてました。とは言っても、営業的にはやはり主力はミーハーグループでしたから、必然的に委員長の持ち場、DJパートは深夜番が中心でした。ということで今回も当時の日課を簡単にまとめてみました。午後5時起床。風呂など入ってメシ喰って午後9時出勤。すでに盛り上がっている店で40分ほど黒っぽい音楽をかけて、踊りもご披露する。(注)トゥモローUSAの場合、社長の意向で、DJブースでサラ回しながら踊るというのが条件でしたので、ブースの上でロボットとか踊りのカタをご披露します。まあ、これが結構ダンスマニアにはウケて、これ見に来てた常連も少しいました。10時前後で、当時の花形DJジュリーの最終パートが始まり、その後はフィリピン人のリト君、ソウルブラザー・ジョーと引き継がれていきます。はい、そうです。私のパートは9時からの40分以降は11時過ぎまで回ってきません。ではナニをしているかというと、彼女が来ているときは歌舞伎町近辺をウロウロしながらウダウダします。特にアポのないときは、店の常連と踊りますが、他DJがヤキモチを焼くのであまりお好みの選曲はしてもらえません。でも、適当に妥協してドナ・サマーとかで踊ります。まだこの当時はDJという職業はバンドマンとならんで、ちょっと特殊なカテゴリーだったので、結構夢見がちな若いおねーちゃんたちが一緒に踊ると喜んでくれました。そんなこんなで楽しくウダウダしているうちに段々フロアの客も減っていき、2回目のステージ(笑)に上がる頃には半分以上は居なくなっています。やたらデカイ箱でしたから、客の引けた後はがらーんとしてかなり寂しくなります。それでも頑張ってFUNKYとか言いつつ踊って見せますが、時間と共に更にフロアの人数は減っていきます。午前12時を過ぎ1時近くなると、ホールは居残り組だけになり、ダンスフロアはほぼガラガラになります。ここでブラザー・ジョーの最終ステージになり、2時以降は私一人でウダウダします。深夜はもうとにかくテキトー、デタラメ、やり放題って感じで、時々夢見がちなおねーちゃんが「一緒に帰りたい」などと言って待っててくれたりしますが、客もまばらなデカイホールでサラ回すのは結構辛いものです。ドナサマーのLP盤一面に入ったロングヴァージョンとかジャイアン・トシングル・ロングヴァージョンとか、そんなものばかりのオンパレードになります。たまにSOULファンみたいな常連が残ったときは、他の客ほったらかして踊りを教えたりして夜が明けます。午前4時閉店。後は深夜喫茶に行くか、吉野家でメシ喰ってビール飲んでウダウダしながら始発待ったりして朝帰ります。拘束時間は午後9時~午前4時で7時間チョイですが、実働は4時間~5時間といったトコでしょうか。こんな感じですから、ナニかしなきゃいけないと思ったりしたわけですね。でも、こんな楽な生活してるとぬるま湯にドップリみたいな感じですから、よっぽど強い意志がなければ何もできませんね。70年代後期から80年代に入る頃は、DJなんてのはもう日陰の存在になっていきましたから、こんな楽しい時代を生きれた自分はシヤワセ者だったのかもしれません。もちろん、この楽をしたばかりに後半のDJ生活はかなりキツイものになったというのも事実です。DJさま、なんて持ち上げられてた時代は、回りもよくわかりませんからテキトーなハッタリが通じたんですけど、後年はね、もうみいんな実体が見えてたから、その待遇はかなり変わって行きました。
2006年06月03日
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非生産活動推進委員会では、70年代ディスコ戦士生存者の皆様を中心にご連名頂き、「戦友会」なるClosed Networkを展開中でございます。まさに当会の面目躍如、一銭にもならない非生産的行為です。NETWORKといっても、皆でどこかに集まって何かをしようとか、サークルのような活動をしようとかいうような大それたことは考えておりません。Soul Survivorの皆様と愚にも付かないノーガキをコキあったり、昔の遺留品や道楽の残骸などを持ち合っては楽しむ、というきわめて非生産的な活動集団であります。とは言うものの、日々遭遇いたします生存者の方々の生活に潤いを与えるためにも、ナニかもう少し楽しめる遊びはないものかと、かなり薄くなった頭をひねりながら一晩考えましたところ、「やっぱ無理なんじゃない」という結論に達しました。(なんだよ~)ただ、せっかくですから、古い戦友の皆様同士の交友関係もアリかな、などとも考え、皆様が気軽に参加できるネットワークくらいはあったら良いのではないかと思い、とりあえずネーミングしてみました。どうも戦友テリーの影響が強いせいか、妙な造語というか簡略文字形態的ゴロ合わせみたいなものになってしまいましたが、ネットのソウル・トレインってことで、SOUL-NETRAINというのはいかがでしょうか。正しい読み方としては「ソウル!ねっ、トレイン」と可愛く発音して下さい。(で、ナニするわけ?)名前考えただけで、何をどうするのかは全く決まってません。(^。^;まあ、とりあえずですね、現役で頑張っておられる千葉のSOUL DISCO「ZOOM」と、戦友テリーのイベント関係でウダウダする仲間というのはどうでしょうか?(で、どーするわけ?)実際にNET外で活動している戦友が少ないので、とりあえず「戦友会」はこの二つを支援するという名目でウダウダしようという結論に達しました。(なんだかなぁ~)ということで、「戦友会」の皆様、これからはネットでソウルトレインを走らせてSOUL-NETRAINの輪を広げていきましょう。(結局意味よくわかんないんですけど)とにかく、ZOOMかFUNKRASHに参加してもらって、そこでお友達になった方にはもれなく「良いこと」がある、ってことでどうでしょう。(えっ?)幸運を呼ぶSOUL-NETRAIN。(おお~っ!)まあ、SOULとかFUNKとかDISCO DANCEのお好きな方は皆で集ってウダウダしましょう、ってことです。(てかそのまんまじゃん)残念ながら当委員会はヘッドクォータが謎の孤島にありますので、委員長が姿を現すことはほぼありませんが、Brothers & Sisters としてご参加頂きますと、委員長から素敵な戦利品のプレゼントなどもございます。(きまぐれだけどね)なお、ネットというのは「顔」が見えませんから、BBS等で勝手に名乗りを挙げてご参加下さっても、どなたがどなた?ということで判別ができませんので、できれば参加される前には下記サイトを通じて必ず正体を露わにして下さい。特にハンドルネームだけではご本人かどうかの判別もできませんので、ルックスに自身のない方でも決して恥ずかしからずに(笑)IDチェックを受けて下さい。突然ダンスフロアで「こんばんは!Yakitoriでぇ~す!」とか「T男参上ぉ~」とか「大泣きじじいでぇ~す」とか叫ばれても、単なるヨッパあるいはキモおやじとしか扱われませんのでくれぐれもご注意下さい。そのうち「SOUL-NETRAIN」のロゴデザインでも作りましょう。歳喰ってもやってることは30年前とあまり変わらんね。しまいにゃステッカー作って売ってたりしてね。(笑)ということで、ニッポン在住のみなさま!下記サイトをご参照の上、是非ともご参加下さい。ZOOMのBBSはこちらhttp://6112.teacup.com/zoom/bbs戦友テリーの春が来たスペシャルイベント「ファンクラッシュ!」はこちらhttp://funkrash.com/
2006年06月02日
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昨日の青山通りのレストランについて皆様より色々情報を頂きありがとうございました。近日中に昔の地図などを入手してからもう一度思い返してみます。(^・^)ということで、今日は脈略もなく「映画」のお話をさせてもらいます。先週からこちらではロードショーで盛り上がっておりまして、さすが夏休み前に興行成績のよさそうな映画が続々とラインアップされています。ちなみに学校は6月からSummer Vacation に入りますので、今日から子供たちがウダウダし始めます。(あ~あ)とにかく道楽者の私ゃ映画も大好きですから、先週から子供たちを引き連れて片っ端から見倒しました。コンプレックスは便利ですね。昼間は料金も安いし、これで字幕が付いていたら言うこと無いんですけどね。ちなみに大人$4.50、子供$3.50です。夜間だけ大人が$7で学生が$4.50になります。まあ、なんといっても話題作「ダビンチコード」は大盛況、こんな田舎でも売場の前に列ができました。で、内容は・・・・・、ほとんどわかりませんでした。幸にもZOOMのYUKI姐さんから以前文庫本を頂いていたので、これから読んで復習します。(^^;しかし、長いワリにはなんか見せ場のない映画でしたね。前評判が高かっただけに、皆がっかりしたんじゃないですか。とにかくトム・ハンクスが話してばっかりって感じです。あんまりけなすとこれから見に行く人に悪いのでこの辺にしときます。でもネイティブでもない私が字幕なしで見た映画ですから、私の評はあまり参考にならないと思いますので、ニッポンのみなさんは字幕付きでじっくりとご鑑賞下さい。次は「ポセイドン」です。パニック映画の傑作ですか?とにかく凄かった。(ってナニが?)迫力満点の脱出劇。壮大なセットはスリル満点。結構のめりこめます。そして特筆すべきは、字幕がいらなかった。(爆!!!以上。(笑)続いて「MI3」これも面白かったですね。(ナニが?)アクションシーンも見ごたえあるし、とにかくトム・クルーズの金太郎飴みたいな映画です。私も個人的にはトムさん好きなので、そこそこ楽しめました。TOMのためのTOMによるTOMの映画。以上。もうひとつオマケに「X-MAN3」。特撮(古い表現ですんません)大好き親爺は満足です。見てて楽しいし、それなりにドキドキもしました。SUPERMAN return が楽しみです。(えっ?)最後はオーバー・ザ・ヘッジです。末娘の御供でおとーさんは仕方なく連れて行かれました。最近のこの手の映画って、ゲームの延長線上にあるような気がしますね。これって連動したビジネスなのではなかろうか、とふとそんなことを考えてしまった親爺でした。ちなみに映画はそれなりに親子で楽しめる内容です。娘がちょっとウルウルしてましたから、子供にとっては宜しいのではないでしょうか。私は個人的には、この「カメ」の存在がどうしてもウザったくて、やはり自分はどーらく者なのだとつくづく思い知らされました。(笑)今週は「RV」と「The Wild」っていう2本を見たらおしまいです。次は「カリブの海賊2」や「オーメン」など話題作が続きますから楽しみです。
2006年06月01日
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