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さて毎度おなじみ爺の昔話は、どうも話し出すとテーマが横道に逸れて行ったりして長くなりますが、今日も引き続き70年代の不良と踊り場のお話です。しかし、当時学ランで堂々と「踊り場」に出入りしていた彼らのメンタリティには今でも頭が下がります。といってもこんな大胆な行動ができるのはやはり蛇腹の学ランしかなかったのでしょうね。まあ言ってみれば、蛇腹ブランドというか、代紋というか、この学ラン見て向かっていくのは北の学生くらいのものでしたね。それにしてもボンタンに長靴ってファッションも凄かったですね。ナガグツですよ。あのゴム製のながぐつ。まあ、これも言ってみればブランドのひとつだったわけですが、戦闘隊員の証みたいな(笑)天下ゴメンの長靴でした。蛇腹の学ランにダブダブのズボン、その上から長靴を履いたオールバックとか角刈りした童顔のおっちゃんみたいな奴らが、揃ってスクールメイツみたいな振り付けで踊る姿って想像つきますか?(まさに人生はジョークです)でもそこに集う若者も皆似たり寄ったりで、時代を消化しきれていなかったというのが実際のところだったような気がします。いろんなものがいっぺんに吹き出てきた時代みたいな感じでした。アングラとかサイケとかヒッピーとか、長髪にベルボトムジーンズで髪振り乱して騒ぐハードロックと共にドラッグ(って当時はそんなカッコ良いものじゃなかったネ)でラリパッパなんてのが注目を集めたり、50年代からの系統でリーゼントにポマード塗ったくって不良を気取る奴ら、学ランの丈を長くしてみたり、ズボンの腿幅を広げて少年ヤクザみたいな道を走る奴らなどなど、とにかくいろんなものがごった煮的に登場してきた時代だったような気がします。学ランの変遷はたぶん、大学の応援団からの流れだったのでしょう。エンダンとかダンブとか呼ばれていましたが、当時の大学の応援団といえば、ヤクザも一目おくほどの硬派軍団でしたし、その恰好は長い学生服にやたら太いズボンという出で立ちで、ちょっと硬派がかった奴らには憧れのファッションでした。そういえば「花の応援団」なんてマンガもありましたね。どおくまんプロの。そんな大学の応援団ファッションが高校生の間で取り入れられるようになって、ボンタンや長ランなどのネオ高校生ファッションが生まれていったのですね。(笑)そしてこの頃の高校生の私服のメインはジーンズでした。全国的なブームで一気に盛り上がったスリムジーンズ。BVDのTシャツにビッグジョンとかエドウィンとかの細身のジーンズというのが一般的な私服パターンでした。しかも腰まで落として履く妙な流行がありました。(しかしリーバイスはやっぱ高かったから皆手が届かなかったのかなぁ~)まだ当時の日本人はGパンを腰で履く体型ではありませんでしたから、異常に足が短く見えました。しかも腰のあたりからブリーフがはみ出します。ギャグですね(笑)(これって最近流行ってる感性の先取りだったのかなぁ~)女子もこの手のファッションが流行りました。ピチピチのジーンズに白いビーチサンダル、紺色のスタジャンなんか着て厚化粧したズベ公みたいなんが人気でしたね。あの白いビーチサンダル、全国的な規模で流行りましたね。なんだったんですかね。白いビニールで細くて薄いサンダルが細いジーンズの足先で妙に色っぽかったなぁ。(って足フェチじゃないよ)まあ、当時の女の子で不良ってのは結構少なかったから、競争率も高かったですね。このあたりが最近の子供たちとちょっと違ってたところかもしれませんね。パンチ頭でボンタンに革ジャンみたいなガキ親爺のくせに、連れてる彼女が麻丘めぐみ(知ってるかなぁ)みたいだったとか、妙な取り合わせのカップルもけっこういました。とにかくこの時代のファッションというのは、まだまだ垢抜けていない子供の背伸びみたいなものだったような気がします。私も高校に入りたての頃は、先輩のファッションを真似するだけで精一杯、踊り場どころの話ではありませんでした。ボンタン仕立てるっていったって、当時の金で3~4千円の高価なものですから、昼の弁当代コツコツ貯めたり、パチンコで一山当てるとか、麻雀でバカ勝ちするとかして頑張らなければ、中々に追いついてはいけない状況でした。しかもリーゼントにはパーマもつきものですから、このパーマ代だってバカにはなりません。ボンビーの代表選手みたいな私にとっては、こんな不良修行の道は大変に険しかったですね。(笑)さてそんな時代にいち早く「踊り場」体験をした私ですが、早速地元のバカが屯するサテンなどでストーリーを大幅に改ざんして吹きまくりました。「そりゃ、スゲーとこでよぉ、もう女はみんなマブイしよぉ、こっちは国○舘の奴らに囲まれてて動けないしよぉ、Tと二人だったらソッコーで軟派してたぜ」とにかく新宿の「踊り場」に行ったという事実だけで、バカ達の先手を行ったという自慢話に花咲いたってところでしょうか。それでも私にとってみれば、ちょっと過激な不良の世界を垣間見たってなもんで、自分の住む世界とは別のことだと思っておりました。新宿は新宿でも相変わらず週末は新宿の昭和館に出かけ、東映ヤクザ路線に埋没するバカな少年でありました。ジュラルミンの摸擬刀なんか買ったりしてね。晒し捲いてボンタンに雪駄はいて近所を徘徊したりして、バカの典型でしたね。そんな私のバカ人生にいよいよ春がやってきたのでした。いかんせん私の通っていた高校は男子校で、1学年だけでも生徒数が千人近くいましたし、別学で女子生徒が100人ほどはいたものの、女ッ気はまったくなしの軍隊のようなところでしたから、万年女日照りともいうような状態でした。そんなところに降って湧いたような「お見合い」の話が舞い込んできたのでした。場所は新宿の喫茶店「ハイハ」でした。さすがにこーゆーことはしっかり覚えてますね。同じクラスの不良バカ数人が「オレもオレも」と出張って行きました。相手は新宿にあった関東女子学園、通称カンジョの生徒でした。男子校と女子高のお見合いですから似たモノ同士ということで、向こうも男日照りに喘ぐ女生徒がやってくるだろうと期待に胸膨らませ一同は150円のコーヒーで3時間も争奪戦を繰り返したのでした。この時の仲介者は当時のアイドル路線のようなカワイコちゃん系でしたが、彼女が連れてきたお見合い相手は長いスカートにコートの襟を立てた三人組でした。「おおっ、不良だっ!やれる!」と誰もが心の中で叫んだのでした。とまあ、そんなに世の中旨い話はあるわけないのですが、なんとこの中の小柄なねーちゃんの熱い視線を受けた私は一気に勝負に出たのでした。「で、電話番号教えてくれよ」(なんじゃそりゃ、単なるバカしかやらない軟派じゃん)「う~ん、じゃこっちから電話するからそっちの教えて」普通はこれってお断りの合図ってことなんですけど、何故かこれがうまくハマってしまい、お付き合いをすることになったのでした。ということで、こんな何処にでもあるくだらねー話は飛ばしますが、この付き合いがきっかけで各地のパーティにご招待される身分となったわけです。当時は頻繁にこのようなパーティが開催されておりまして、背伸びした不良の集まりがそれなりに遊んだものですが、いかんせんガキの集まりですから、ちょっとイジケタ野郎なんぞが現れて大暴れしてパーティを台無しにされたりすることもあったのです。「潰し」などと呼んでおりましたが、数人のツッパリ小僧が派手にケンカなどおっぱじめた日には、せっかくのお楽しみパーティもマッポの手入れを喰ったりして、悲惨なことにもなりかねません。そんな事情から、パーティの主催者は必ずアベックを集めるということが鉄則でありました。軟派目当てのにーちゃん、ねーちゃんもこの筋の紹介がなければ入れない、というようなルールがあったのでした。ということで彼女との何度目かのデートがこのパーティだったのです。新宿西口の一角にある喫茶店を借り切って、夕方の3時頃からパーティは始まりました。パーティ初デビューの私はここで彼女が皆に混じって踊るその姿を見て、遂に東映路線からの脱却を試みたのでした。(っつーか、パーティでひとり浮いてただけだろ)それにしても皆で楽しそうに踊っている彼女の姿は、なんとも表現し難いほどに私の不良心を揺さぶりました。(相変わらず大げさなやっちゃなぁ)そうです、このパーティの一夜こそが私の人生の転機となった「踊り場」への入り口だったわけです。まあ、正直言ってこの一回で急に目覚めたってわけでもないのですが、何度かこのような状況に遭遇していくうち気が付けば、彼女以上にムキになってステップを追っていたというのが実際のところでした。(いや~今日も長くなりましたね)
2006年03月31日
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え~、「霞町物語」に端を発した「踊り場」ネタで盛り上がる今日この頃(笑)ですが、引き続き爺の昔話、70年代の不良のお話をいたしましょう。それにしても、きっかけとなった小説の著者・浅田次郎さんですが、駒場出身と聞いて今まで頭の中でモヤモヤしていたものがすっきりとしました。以前から氏の極道シリーズなどを読んでいても、どことなくインテリゲンチャの影が見え隠れして、自分の育ってきた不良の道とは多少の距離というか違和感がありました。これで全て納得という感じです。っていうか、氏が言うほどに氏の見てきた世界は人生の吹き溜まりにまでは行っておらず、まだまだ上流不良階層(なんじゃそりゃ)で、私のような財なし、閥なし、学なしの三拍子揃った下流底辺不良階層とはイジケ方やグレ方の感性が違っているわけです。(笑)ただ、同じルーツのような部分で、江戸っ子気質みたいなところに共感が持てて、氏が不良として生息していた環境が自分のいた風景と重なったのでした。「霞町物語」では氏のご母堂のエピソードが出てきますが、私はこの章が大変気に入っております。ということで相変わらず前置きが長くなりましたが、小説の中味はともかくとして、当時(1950年代~60年代)の麻布界隈に生息していた不良の生態(笑)が描かれていますのでご興味のある方は是非お読みになってみて下さい。さて、私の体験談的「踊り場」回想で、昨日はファッション、特にコンポラと踊り場の相関図(笑)などご紹介致しましたが、今日は当時の「踊り場」に集う不良少年達の実像に触れてみたいと思います。(笑)まあ、私もこうしてしみじみと過去を振り返って見ますと、一体いつ頃から「踊り場」に行き始めたのか記憶も定かではありません。まあ言ってみれば初体験でさほどのインパクトはなかったということでしょうか。確か最初に行ったのはゲットだったと思います。高校に入って本格的なバカ路線を走り始めた夏休み、堀越学園に通う地元の仲間T君と不良修行に明け暮れていた頃のことでした。このT君は稼業が飲食業で、当時新宿にも店を出していた関係から、地元仲間の間でも頭ひとつ飛び出した不良でした。すでにこの頃妙に大人っぽい彼女などを連れて新宿を徘徊しておりました。まあ、どちらかといえば軟派タイプでしたが、このT君が彼女の元彼のツッパリに呼び出されてひと悶着おきそうだ、という知らせを受けて私が同行することになったのです。まずはナリで負けてはいけないと、当時アイビーだった彼にボンタンを履かせ、革ジャンでハッタリをかまし、更に私は当時相当にかぶれていた日活ヤクザ路線のようなファッション、丈の長い背広に開襟シャツというような、どっから見てもただのバカにしか見えない可愛いツッパリ小僧二人は敵地へと向かったのでした。確か西口辺りの喫茶店でその元彼と会ったと思います。まあどちらかといえば、私も硬派というほどに腕に自信があったわけではありませんから、結構緊張しまくった状態でT君に連れられていったわけで、この時の記憶は断片的でほとんど覚えがありません。薄暗い店内のカウンターに彼は座っていました。当時は喫茶店とバーが一緒になった店が結構多かったので、もう店に入った途端、この雰囲気に威圧されかなりテンションが上がっていました。しかも彼のナリを見て血の気が引きました。蛇腹の学ラン、ボンタンに長靴、オールバックに剃りこみの後も青々しい(笑)、ガキ親爺のような風体にダチのT君ともども口の中が乾き、目の辺りが涼しくなりました。T君は彼の手招きを受け、突然首を引っ込めるような仕草で「オッス!オッス!」の連発です。これが蛇腹の学ランのシキタリだとは知っておりましたが、まさか同じ学校に行ってるわけでもない自分たちが彼らのシキタリに合わせるのも妙な気がしましたが、ともかく私もT君に合わせて「オッス!オッス!」で後に続きました。彼はカウンターでペパーミントフィズかなんか飲んでたと思います。ごっついナリの割には可愛いもの飲んでたりして、当時の不良少年達の雰囲気がうかがい知れますね(笑)結局、なんのこたぁない、この元彼からT君へ「彼女を頼む」みたいな涙ぐましい男の情みたいな浪花節で終わったのですが、この後この彼の先導で「踊り場」に行くことになったのです。西口のガードをくぐったのは覚えていますから、やっぱりゲットだったのかなぁ。本当にこの後の記憶は曖昧です。なんせ踊り場に向かう道すがら、時々声をかけられて緊張しまくっていたので、周りの景色などほとんど目には入っていませんでした。「彼氏(私のことですね)はセイガク?」「オッス!、自分はサクラです」「サクラってニッサク?」「オッス!」「そうか、頭良いんだな」「オッス!」てな調子で、何を言うにもオッスが入ります。まあこんな感じで伏せ目がちに歩いていたので、一体どこをどう歩いてどこに入ったかも殆ど分からぬままお店に着いたのですが、またここでも緊張が走りました。店の前で同じ学ランに長靴姿の面々が一斉にオッス!の連発で、この元彼を出迎えているではありませんか。更に彼らのスルドイ視線は私とT君に浴びせられます。(なんだぁ、この小僧は~、みたいな)こっちもなんだかわからずオッス!でお返しです。この軍団に紛れて店内に入ると、もうそこは熱気ムンムン若人の集い、似たような奴らがくんずほぐれつ押し競饅頭のような状態でした。ベースとドラムがやたらとインパクトのある音楽がガンガン鳴り響く中、蛇腹グループが入ると道が空きます。(モーゼのようだったですね)しかも、店内の常連らしきツッパリ小僧たちがみな挨拶をしてくるではありませんか。こんなシーンは映画でしか見たことのない私はもう緊張の限界でした。テーブルに付くか付かずのところで、この蛇腹の大将の一団はおもむろに踊り出しました。両手を胸元辺りで左右に振りながら上に上げる仕草は、その蛇腹と長靴、オールバックのファッション・スタイルからは想像もつかない可愛い振り付けでした。(ちなみに後で知ったことですが、この曲はジェームス・ブラウンの「恋が欲しくて」でした)とまあ、記憶の断片を辿るとこんな一夜が私の踊り場初体験といったところでした。もちろん、この体験で一気に踊りに目覚めたなんていうことはありません。いくらなんでもそんな一足飛びに業界に迷い込んでいくわけはありませんよね。とにかく踊り場に行った、という事実だけが地元のバカグループの間で尊敬されることであったという事実だけは記しておきます。(笑)この後ドツボにハマって人生を踏み外していくのですが、やはりその影には女ありってことで、この話はまた明日。(爺の話はすぐ長くなるので、ごめんね)
2006年03月30日
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今朝はおなじみ戦友テリーからちょっと心温まる(笑)エピソードのメールを貰い、心なしか気分良好の道楽オヤジです。ということで、今日はこのFeeling Goodなままノスタルジックに昔を振り返ってみたいと思います。そういえばこのブログを始めたきっかけも、昔話だったんですよね。どうも書いているうちに自分自身で悦に入っちゃった感じで、後半は懺悔録みたいになりましたが、おかげで私の人生は見事不死鳥のように甦ることが出来たのです。(って、相変わらずお調子者丸出しです)さて、その昔、不良少年の如何わしい夜の遊び場といえばなんといっても「踊り場」だったわけですが、この「踊り場」という語感が当時は非常にスノッブ的な、一種独自な雰囲気を醸し出しておりました。しかし今にして思えばこの表現、そのまんまというかセンスのかけらもありませんね。ただ、この表現には一応カテゴライズされた業種が含まれていたような気が致します。生バンドが出ていて、酒飲むことがメインで、寄った勢いで踊る場所が用意されている、そんなトコは「コンパ」とか呼ばれていて「踊り場」とは原則的に区別されていました。さらに大きなホールで、やはり酒飲むことがメインのダンスホールみたいな場所は「パブ」とか呼ばれていたし、サイケデリックみたいなヒッピーの系列でハードロックぎんぎんみたいな店は「ゴーゴー」とか「ゴーゴーハウス」なんて言われてました。客層的に分類してみても、コンパやパブは勤め人主体、年齢別で言うと20代~30代の大人の社交場(笑)みたいな感じでしょうか。ゴーゴー系はどっちかというとキタナ系若者、大学生系フーテン野郎とか、オフタリドンでラリッてるヤツとか、ベルボトムジーンズに長髪、アングラ・ファッションなどとも呼ばれていた若人が集う場所、そして私たちが熱狂した「踊り場」は、これらのダンスホール的大衆酒場とは一線を画し、それなりのシキタリ、不良の掟に縛られた非常にスリリングな遊び場でありました。まず当時の主流はなんといってもコンポラスーツ。コンテンポラリースーツ、略してコンポラ。当時の主流は玉虫生地の細身のスーツで、衿も細くズボンも細い。そのほとんどは仕立てで、くるみボタンでおがみひとつボタン、サイドベントは短く、ポケットはナナメ、ズボンはハイウェスト・ベルトレスで平均5センチ、くるみボタン2つで横留め、裾は踝に掛かるか掛からないかのギリギリで、ソックスはナイロンのストッキング、靴は細身のスリッポンでナイロンの靴下が見えるところに「粋」があった。シャツは仕立てのタブカラーか市販されているピンホールシャツ。もちろんカラーは低く、ネクタイも上着の襟に合わせて細身の一色。ちょっと生意気な奴らは裏地に凝ったりして、東洋系の柄の入った裏地などで競い合ったりした。中には襟のデザインにこだわる奴らも出てきて、ショールカラーやカラス衿(いわゆる上が大きな衿)、逆に下を大きくしたものや、ショールの部分にサテンを縫いこんでタキシード風にしたものもあった。生地も段々とエスカレートしてゆき、アムンゼンやタキシードクロス、格子柄の玉虫とか、とにかく「粋さ」を競ったファッション遊びだった。頭髪はもちろんリーゼント。前髪はチョイパーマで膨らませて、サイドはポマードで艶出ししてきちんと止める。これは踊りを踊ってもカタが乱れないようにチック系などで固定するヤツも多かった。汗にまみれて柳屋のポマードや、MG5の臭いが踊り場に充満したりして、この匂いも踊り場の特徴である。(ほんとかよ)更に小道具もそれなりに凝っていて、財布も布地の縦型や本牛革などオヤジの品を持ち出してきて見栄を張るやつもいたが、大抵中味は5千円以下、下手すると五百円札と千円札しか入っていなかった。中には何を間違えたか、浮世絵四十八手がデザインされている布地の財布を持ち歩いているヤツもいた。タバコはショートホープが渋いとされていたが、ハイライトも沢山いた。ちょっと若手はセブンスターだったが、時にはエムエフなどという国産のメンソールを持ち歩いていたアホもいた。たぶんクールやセーラムが買えないので、我慢していたのだろう。そのくせ、ライターだけはダンヒルとかデュポンなどを持っていたから不思議だ。(どうせオヤジのモノか、どこかで万引きしてきたモノだろう)まあ概ねこんな感じのファッションを適度にアレンジした不良たちが「踊り場」の主流だったが、女の子たちはどうだったかというと、これが案外いわゆるアイビー系が多く、ボタンダウンのシャツ(ブラウス)にスポルディングのカーディガンなど羽織って、膝丈のタイトスカートにパンプスみたいなオーソドックスなスタイルが多かった。ただコンポラ野郎達が血眼になって追っかけたのは、やはりミニのタイトスカートに黒のストッキング、ミニのチャイナドレスなどを着込んだ不良ねーちゃんたちだった。どっちにしろ目一杯背伸びして早く大人になろうとしたバカだったことには間違いない。あとは私の時代はファーラーと呼ばれたニットのフレアーパンツにアロハとか、この頃から「ヤンキー」などという名称で呼ばれるようになったファッションも出始めていた。更にスカマンとか呼ばれる横須賀マンボ、股幅の割には裾がやたらを窄まったズボンや、腿のあたりからピッタリと絞まった細身のパンツにモヘヤのセーターとか、ボンタンにスカジャンなどというケンカ仕度で登場するヤツらも結構いた。根本的に「踊り場」は踊りがメインなので、コンポラ系不良少年はあまり格闘技は好みではなかったが、いつの時代も時代の先端を競うところにはかならずいざこざがあるもので、そのうち用心棒代わりに腕の立つやつなどが出入りするようになっていったあたりから、「踊り場」にあらたな伝説が生まれていった。(ふ~ん)そして極めつけ「踊り場」の憲法とも言える原則中の原則、それが「ステップ」だった。まずは、このステップを覚えなければ遊ぶこともままならず、このシキタリこそが「踊り場」というブランドのすべてであった。そしてこのステップを巧みにこなすツワモノだけが「踊り場」のリーダーとして君臨できる栄誉を与えられたのである。(おおっ~!)かくしてこの「踊り場」が不良少年達の間で神格化されていった最大のポイントは、やはり踊り、ステップでした。今にして思えば「盆踊り」的なもので、皆で同じ踊りを踊ったわけですが、当時はこの連帯感とか、自分たちだけの特権意識みたいなものがとてつもなく価値のあるものだったんですね。まあ、盆踊りは大げさかもしれませんが、スクールメイツとかモダンダンスとかの振り付けで皆で同じ踊りを踊るってのは、めくるめく快感であったわけです。さらに付け足すならば、そんな場所で遊んでいる自分が非常にカッコよかったと思えた時代でもありました。まさしくアンダーグラウンドの魅力だったわけです。これがオーバーグラウンドしてディスコになっていくのですが、あの薄暗くて危ない雰囲気とR&Bが醸し出す退廃的ムードは不良にとってのこの上ない快感だったわけです。
2006年03月29日
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今朝はちょっと重たいニュースから始まりました。(以下サンケイ新聞より抜粋)オウム真理教の麻原彰晃被告(51)=本名・松本智津夫=の控訴審手続きで、東京高裁(須田賢裁判長)は27日、弁護団が期限内に控訴趣意書を提出しなかったことや、訴訟能力を欠いていないことを理由に、麻原被告の控訴棄却を決定した。弁護団は決定を不服として、高裁に異議申し立てなどの手続きを取る方針だが、決定に関する違法性の有無が審理されるにとどまるため、今回の決定が覆る可能性は低く、一審・東京地裁の死刑判決が確定する公算が大きくなった。う~ん、ちょっと考えてしまいますね。最近の司法のやり方を見ていると、世論というか大衆メディアというか、世間とかいったものにひどく迎合してきているような気がしてなりません。別に私は麻原氏擁護派でもなんでもありませんが、「裁判」というものについての疑問が頭をもたげてきます。先日の日記でもちょっと書きましたが、光市事件の司法判断にも同じ思いです。(産経新聞記事よりコピー)光市事件1999年山口県光市の会社員宅で妻(当時23歳)と長女(同11か月)が殺害された事件。当時18歳の少年の被告(現在24歳)は殺人罪等に問われ、1、2審で無期懲役の判決を受けたが、死刑を求刑していた検察が最高裁に上告。 今月、被告の弁護人2名が辞任し、安田弁護士と足立弁護士が新たな弁護人となった。上告審が14日に行われる予定だったが、安田、足立の両弁護士が欠席し口頭弁論が開けなかった。この記事に関連して以下のようなコメントがメディアから流されました。最高裁第3小法廷(浜田邦夫裁判長)「正当な理由に基づかない不出頭で、極めて遺憾」検察「欠席は裁判を遅らせるのが明らか。弁護人不在のまま弁論を行い、結審すべき」 被害者の家族「これほどの屈辱を受けたのは初めてだ」これらの状況については、私の尊敬する宮崎学親分のコメントを以下に無断ですが転載させてもらいます。メディアは、「極めて異例」などという相変わらずの表現を使って、安田弁護士が死刑廃止運動のリーダー的存在であるために、死刑判決が出る可能性のあるこの裁判を遅らせているかのような印象を抱かせる報道をしているようである。しかし批判すべきは裁判所・検察などの安田弁護士へのヒステリックな反応である。そのような感情に流されることなく、事件の真相が一体何であるかを冷静に分析し報道するのがメディアの役割である。ということで、大きな刑事事件の度に巻き起こるこのような、「早く吊るせ、早く処刑しろ」あるいは「理由などはどうでも良いから早く終わらせろ」的な世論に迎合して媚を売るような司法官僚とメディアの姿勢に危惧を感じます。言ってみれば、「殺す」という結論を大衆に納得させる「正義」をいかに演出するか、あるいはどのように大衆が納得する「処刑」をするか、ということでしかありません。ちなみにラウブドア事件もこれに近い状態ですね。被害者の方々には心から同情致します。殺人事件ではありませんが、私も過去何度か傷害事件の被害者体験もしております。しかし、お上によって裁いてもらう、あるいはお上の手で殺してもらう、といった類の嘆願を世論が後押しし、それをメディアが煽るという行為には納得がいきません。ましてや、その世論に迎合する司法の判断も非常に怖いものだと思わねばなりませんね。今日はちょっとヘビーな話になりましたが、たまには道楽親爺も世の中のためにまともなことも言っておかないと、まじめに社会生活を営む皆様に申し訳がありませんので、時々はこのような重たい話題を取り上げますので、どうぞ皆様もそれなりにお考えになってみて下さい。
2006年03月28日
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ちょっと道楽ボケした月曜日のどーらく親爺です。いや~、さすがに丸々一日をどーらくに費やすと翌日は結構廃人系です。(笑)本も読んだしビデオも見たし、DVDも焼きまくったし、オマケに先日ぶっ壊してしまった外付けDVD器機もドサクサに紛れて処分したし、トドメは散髪ですっきり頭となり、思い残すことのない日曜日でした。(ヨカッタ、ヨカッタ)さて、そんな昨日の締めくくりは奥方のご友人からのスペシャルビデオの登場でした。根が変人系の我ファミリーですから、奥様も例外なく変なおばさんで、そのお友達もまた個性的な方ばかりです。って言っても、あんまり友達いないんですけどね。っつーか、友達になれる人がいないっつーか、この人も結構世の中なめてますから。そりゃそうです。なんつったって旦那が道楽者ですから、ワイフがフツーの人であるわけがありません。そんなフツーじゃない人とお友達になれる人はやっぱりフツーじゃないわけです。というわけで、このお友達の奥様が「これ、絶対旦那好みだよ~」と喜々として持って来たビデオが「TVタックル・世紀のバトル・超常現象」でした。(なんだぁ~?)昨年の年末にオンエアされた特番ですが、しかし、スゲー番組でしたね。ひとつ驚いたのは、あの「神々の指紋」で有名なグラハム・ハンコック氏が登場していたことでした。もちろん私は一連の彼の著書は読んでおりましたので、こりゃちょっと興味深かったです。しかも、ピラミッド研究でおなじみの早稲田大学の吉村教授も出演とくれば、これは相当な期待が持てます。もちろん大槻教授も出ておりました。興奮の約2時間、笑いすぎて腹が痛くなりました。所詮こんなものでしょう。しかしたま出版の韮沢編集長、良い味出してましたね。サイコーです。若い頃はどっぷりはまった「たま出版」ですが、結構危ない出版社ですよね。これなら私でも本が出せるんじゃなかろうかと思ったくらいです。ハンコック氏も終いには呆れ返っておりましたが、この顔ぶれですべてギャグにしてしまう製作会社のテクニックも大したものです。(ってかいーかげんにしろよって感じです)それにしても世の中にはワケのわからん怪しいジジイが結構沢山いるもんですね。ノストラダムスの予言も良いけど、こんなんで人脅してゼニ儲けすな!と叫びたいですね。最近話題の細木先生なども同様の扱いをされたりしているようですが、少なくとも人生の修羅場を幾度となく乗り切ってこられた彼女に比べたら、この研究家と呼ばれる方々の貧相な人生感はもうジョークさえ通り越して、彼らこそが超常現象ではないでしょうか。まず第一にきちんとディベートができる能力もないのに、やたらと屁理屈を捏ねたがるこのようなおっさんたち、彼らは一体普段何をしてメシ喰っているのか不思議でなりませんでした。科学者つかまえて、ケンカ売るのは勝手ですが、「お前等科学者は人間の存在自体をまだ説明できていないじゃないか」という理屈にもならない理屈には脅威さえ抱きました。この人たちは一体自分たちはなんだと認識しているのですかね。これじゃ危ない宗教団体と同じですね。とまあ、昨夜の道楽の千秋楽はこのような楽しいビデオで、大笑いの家族団欒を過ごさせて頂きました。調子付いた奥様は子供たちにスプーンを曲げて見せたりして、超常現象でしばらく盛り上がりましたが、それでなくてもビンボーなんだからこれ以上スプーンを無駄にするな、と親爺は青筋立てて怒りましたが、子供たちは「どうやってやるの?教えてよ」などと、皆でスプーンを持ち出し夜中まで騒いでおりました。「うーん、この力って、曲げたものを戻せないところがネックだよね」「ネックとかじゃなくて、無駄なことすんじゃないっての」「曲がったスプーンを元に戻せたら商売になるのにね」「なるかよ、そんなもん」「あたしが曲げて、あんたが戻せば原価ゼロじゃない」道楽者一家の楽しい日曜日はこれにて終了でした。
2006年03月27日
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どうも年をとると朝が早いのか毎日の習慣なのか、日の出とともに目覚めた道楽親爺は、昨夜のDVD焼き作業の疲れも無く、道楽三昧の日曜日をENJOYするために早速ブログの書き込みです。昨夜は音楽モノ2本と、20年前のNHK特集ドキュメント昭和6時間をDVD化しました。更にその合間にはゴーマニズム関係を2冊、それに宮崎学親分の著書「法と掟」を読了。そして今日は栗本慎一郎先生の「シリウスの都飛鳥」を読み始めました。この本はかなり刺激的です。以前からこのブログにも登場する三輪山と古代王朝の謎についてのお話です。これは単なる神秘モノとか古代ロマンとかいった類のものではなく、きちんとした調査としっかりとした論証の集大成です。しかし、私が十数年前に遭遇しました霊能力者から聞かされた、霊的予言(?)というか霊的な話と少しずつ符合していくことにちょっと不思議な感じがしてなりません。まあこのお話もそのうち私の頭の中でまとまったらご紹介いたしましょう。といことで、今日は残りの古いビデオのDVD化を進めつつ、古代史のロマンを読み、仕上げは散髪です。切るほど髪の毛があるのかって?それが哀しいかな伸びるところはやっぱり伸びてくるんですよね(笑)シャンプーは消費量が少なくて経済効果をもたらしてくれているのですが、散髪に関しては料金に割引がないというのはちょっと理不尽ですね。時々息子を伴って出かけるのですが、彼の散髪における労働量あるいは散乱した散髪の清掃費などを計算すると、親爺の散髪は少なくとも2割引きくらいになっても良いと思うのですが、なぜか同じ料金を請求されます。等価交換の理論に従うならば、散髪対象である髪の毛の量は等価の対象となるはずなんですけどね。などと相変わらず道楽爺のくだらねー屁理屈は早朝からフル稼働でした。今日は我が家のKGBと言われる末娘はご学友とお出かけ、長女と長男はスキューバ・ダイビングのライセンス(PADI)取得試験に出かけます。奥方はお仕事ですから、道楽親爺の日曜日は独り占めです。(ヤッター!)だから早起きなんですねぇ。いや~清清しい朝だ。海も空も透き通るほど美しい。(根っからのお調子者ですね)しかし今日はこれで、一昨日壊した外付けDVD WRITERの処分ができそうです。この数日は脳が爆発しそうでしたが、今日は清清しい日曜の朝を向かえ、1日中道楽にどっぷりとはまりますね。それでは道楽者の皆様も楽しい日曜日をお過ごし下さい。(^。^)Have nice day, have a good time! なんちゃって。絶好調!
2006年03月26日
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またしても日本航空の不祥事です。この日記でも何度か書きましたが、ホントにもうどーしょーもないですね。つい最近、安全対策にウン億円の予算を投入してなんたらかんたら言ってた新社長の言葉は一体なんだったのでしょうか。(わしゃ泣いて言うとるんぞ!)ということで、いささか取り乱した道楽親爺ですが、ウィークエンドは山のような道楽スケジュールが待ち構えており、ちょっと憂鬱な土曜日の朝です。えー、まず今一番のはまりまくっている道楽でありますDVD焼き。毎晩シコシコと家族の冷たい視線を浴びながらもマイペースでどんどん「焼き」ははかどっていますが、遂に外付けDVD WRITERが死んでしまいました。昨晩いつものように就寝前、WRITEモードにして「焼き」をかけたまま消灯。今朝起きて、焼き上がりを確認すると、ひぇ~!画面が固まっているではありませんか。更に「I/Oデバイスのエラーです」の表示。なんのこっちゃねん。とDVDを取り出そうとしてもウォーン、ウォーンと回転したまま反応はありません。こりゃヤバイってことでとにかく電源をシャットダウンしてから再起動。PC本体は無事でしたが、外付けは昇天です。朝早くからウダウダしているところへ末娘登場。「おかあさん、お父さんがコンピュータ壊しちゃったみたいよ~」ひぇ~、KGBの手先かお前は。北朝鮮へ行ったらきっと良い仕事するぞ。などと言っている場合ではありません。それでなくとも道楽グッズ購入には冷や汗ものでしたので、こんなに早くオシャカにしてしまったことがバレたら何を言われるかわかりません。「違うの、これはね電圧の乱れでね、ちょっと画面が固まっただけだから・・・・」理由にもならない理由、ウソにウソで固めた屁理屈を念仏のように唱える道楽親爺。幸いにも我家では長男以外エレクトロニクス関係には疎いので、なんとか言いくるめてテレビのニュースに話題をそらせます。「また日航かよ。ホントにもう最悪だな。俺等の生活をさんざ犠牲にしたくせして、結果これだもんな。こりゃ、またご意見メールでも送らにゃいかんなぁ」などと爺臭いことを言いながらなんとか切り抜けました。さあて今夜はどうやって道楽を楽しもうかなぁ、などと呑気垂れている親爺ですが、こなると、DVDレコーダーと内臓のWRITERだけが頼りです。これで効率よく焼くにはどうしたら良いか?こんなこと考えてること自体が結構楽しいんですよね(笑)もともと「ながら」が大好きな私ですから、焼いている時間の使い方も色々計算しながら週末のスケジュールを組み立てます。1時間のVIDEOを焼いている間にこの短編を読んで、次は2時間の映画を入れてPCでコピーして、ここでランチを食べて・・・・・。しかしこの才能を生産活動にうまく利用すれば、結構まともな暮らしができるのではないかと、時には考えることもありますが、やっぱり好きなことを見返りなしでやるという快感にはかなわないのでしょうね。これは博打とかにも似た様なものですね。競馬や競輪にのめりこんで研究に研究を重ね、っていうのと同じです。それだけの労力や分析能力を生産活動に使えば、博打で一攫千金狙うより効率的に金銭を手中にできると思うのですが、やぱり不毛な努力に快感を感じる道楽者の性でしょうか。夢みたいなものを喰って生きるってことなのでしょうね。ということでいささか憂鬱なウィークエンドの幕開けですが、非生産活動推進委員会では当面このような非生産活動を邁進していきます。外的に侵害されぬよう細心の注意を払いつつ、いつかは道楽者の皆様にこのベネフィットを共有して頂くことを目標に頑張って行きます(^o^)なんちゃって。
2006年03月25日
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昨夜は浅田次郎先輩の「霞町物語」を読みました。実は最近、アマゾンが海外にも配送してくれるという事実を知りまして、ためしに買ってみた本がこれでした。以前子供にせがまれてPS2ゲームの攻略本を買ったことがあるのですが、これは海外配送不可だったため、てっきり日本のアマゾンは国内のみかと思いこんでいたんです。i-Tuneなども同様で、海外からの邦楽購入は手続きが面倒だったので、日本製品の通販はあきらめておりました。そんな事情から日本の本の購入は、もっぱら電子書籍によるダウンロードだけでした。これはこれで中々便利なのですが、どうも新刊とか、自分の好みの本が少ないため(ちょっと趣向が変わっているので)、多少不満を抱いておりました。ところが私の会社の社員が子供の絵本をアマゾンで買っていることを知り、版権によっては海外発送もしてくれることにようやく気付いたのでした。ということで、早速数冊の本をオーダーしてみたところ、先日無事に配送され手元に届いたというわけです。しかし、それでなくても未読の本が山積みされているというのに、またまた余計な道楽を増やしてしまった親爺ですが、もうこなったらトコトン道楽に埋没してやる、と覚悟を決めたのでした。(っていうか、好きなことやり散らかしてるだけだろ)えー、前置きが長くなりましたが、この「霞町物語」は正直言って、私が読んだ浅田先輩の著作の中ではイチバンのお気に入り作品となりました。小説の内容はともかくとして、1960年代から70年代にかけての赤坂・六本木界隈の風景が実に生き生きと描かれていて、本当に懐かしい思いで一杯になりました。もちろん浅田先輩は私より5つほど年上ですから、いうなれば私の時代の不良小僧が憧れた「粋な不良」の元祖といったところでしょうか。そこに描かれている東京者の気質が大変的確に表現されていて、私にとっての当時の思い出なども色々と呼び起こしてくれました。更にあとがきには、伝説の「踊り場」青山パルスビートのDJ石田さんなどが当時のことを語っていて、これもまた私にとっては大先輩であるディスコDJの元祖でもあり、不良少年たちがずっと引きずってきた「誇り」のようなものを垣間見ることのできたひと時でした。あとがきで石田さんが語っている同年代へのエールは、歳の差こそあれ私自身にも跳ね返ってくる大変に心地良い言葉でした。当時の不良仲間でまっとうな暮らしをしているヤツはたぶん少ないと思うし、それでこそ同じ時代を生きた「証」だとも思えるし、「粋」という名の「馬鹿」を張り合った当時の仲間が、その「誇り」を抱えたまま生きていて欲しいという、多少時代掛かったノスタルシーかもしれませんが、「もう少し突っ張っていこうぜ」というような掛け声だけはかけていきたいと思いました。少なくとも当時の仲間には「あたりまえ」なことを言って欲しくないし、「あたりまえ」な生き方もしていて欲しくないと思うのは道楽親爺のわがままでしょうか。どんな暮らしをしていようが、すっかたぎの勤め人になっていようが、はたまた犯罪者になっていようが、ジャンキーであろうがアル中であろうが、つまらない人生を生きていて欲しくないと願うばかりです。夢のような時代を突っ走って生きた戦友には、みなそれなりの戦後(笑)があったでしょうから、今ようやくと冷静に振り返ることのできる歳を迎えて、生き残った戦友とあの時代をもう一度語ってみたいと思いました。
2006年03月24日
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先日、K-UNITのKUNIさんから情報を頂き、70年代後期のディスコ時代の戦友の生存を確認いたしました。戦友の名はマーティー・ブレーシー。その昔「もんた&ブラザース」でドラムを叩いていた黒人ミュージシャンです。なんと、彼は今も現役バリバリ、頑張っているではないですか。戦友としてこれに勝る喜びはありませんね(^o^)ご興味のある方は彼のサイトを是非ご覧下さい。http://www.mju-p.com/彼とは75年頃だったかなぁ~、新宿西口にあったファンキー・ディスコV-one(ブイワン)で知り合いました。彼はまだ横田基地勤務で、仲間とバンドを組んで新宿ブラックシープなどに出演したりしていて、そのメンバーにカーティスというトロンボーン奏者がいて、そのカーティスがV-oneのDJをしていたこともあって、ちょくちょく店に出入りしていました。まあ、当時は私もまだ二十歳そこそこの若造でしたから、向こうから見れば黒人好きお調子者ジャパニーズ・ボーイみたいなものだったでしょうね(笑)この当時、彼と一緒にバスストップのステップをお客に教えたりしたことを覚えています。この頃は結構生意気真っ盛りの私は、マーティーのことを「ダチ」扱いしておりました。歳の差も人生経験も雲泥の差だったのにネ。しかし、彼の名前、マーティーだったんですね。私はずーーーっと、マーティンだと思ってました。これが当時のディスコ業界の英語認識の実情ですね。(お前だけだろ間違ってたのは)彼もそうでしたが、このバンドメンバーのほとんどが日本に住みたがっていました。ほとんどが戻ってこれませんでしたケド。ニッポンは平和だし、皆優しい、などと言ってくれてましたが、要はディスコで働くニッポンの青年たちのほとんどがノーテンキな奴らだったってことでしょう(笑)そんなこんなで彼等の除隊とともにアフロ小僧のSOULライフも成長し、いつのまにか気が付けば自分がディスコのステージに立っておりました。そこでまた一人の黒人ミュージシャンと出会ったのですが、このジョーという名の黒人から彼等のデビューシングルとプロモ用のバイオを見せられたときは目を疑いました。なんと「HOT SNOW」というそのバンドのドラマーがマーティーだったのです。「オー、ワタシ、シッテルヨ、カレ、マーティンデショ?」なんて、ちっとも英語になっていないカタカナ日本語で尋ねると、「Oh, you know him」などと言ったかどうだか定かではありませんが、妙な因縁に二人驚いたものでした。(ってそんな大げさなもんじゃないけど)当時、日本のディスコに屯していた黒人といえば、そのほとんどが兵隊さんだったので、モノホンの黒人ミュージシャンと知り合った私は今まで自分が見てきたブラックカルチャーは全てアーミー系だったことを知ったのでした。とまあそんなエピソードを重ねつつ、ディスコ業界に埋没していった私がある日テレビで見たニッポンのバンドの中に、見覚えのある黒人がいることに衝撃を受けました。(しかし、大げさなやっちゃなぁ)なんと、しわがれ声で「ダンスィンオールナイッ!」と歌うみょうなにーちゃんの後でドラムを叩いている、ひょろっとしたギョロ目の黒人は、そうですあのマーティーだったのでした。「戻って来ていたんだぁ~」などと思って感心しているうちにこのバンドは大ブレイクして、しっかりメージャー路線を走り出しました。さすがのジョーも口にはしませんでしたが、ちょっと悔しそうでしたね。その後しばらくして、私は偶然赤坂ムゲンの前でマーティーと遭遇しましたが、彼はもう昔のひょうきんなマーティではなく、売れっ子バンドの名ドラマーとしてのマーティでした。「ジョーも山岸ジュンジとバンドやるみたいだよ」と言う私に彼は、「アーソウ。デモ、モンタガイチバンネ~。ジャアネ」とあまりにもそっけない態度にちょい傷ついた道楽者でした。結局その後彼とは会うこともありませんでしたが、今も現役、更にパワーアップして活躍している様子を見て、ちょっと嬉しかったですね。やはり同じ時代をシェアした仲間が頑張っている姿は、戦友として誇らしいし、自分も頑張ろうというファイトが湧いてきます。ということで、生存情報(笑)をくれたKUNIさんには感謝です。え~、もし皆様もどこかでこのようなディスコ戦死の生き残りに遭遇された場合は、是非ともこの爺のサイトまでご一報いただけると往年のディスコ野郎は最高に幸せです。何をしていてもいい。犯罪者でもジャンキーでも良い。生きてさえいてくれたら(笑)ってそんな思いで一杯の道楽親爺です。
2006年03月23日
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いやいやニッポンの野球が遂に世界を制覇しましたね。アメリカの属国ニッポンが本家アメリカを凌いだ記念すべき日と言えそうです。まあ、ニッポンだって相撲という本家本元を外国人に取られているのですから、まさにボーダーレスな世界になってきたということでしょう。しかし私の子供の頃は、まさか日本人がアメリカの大リーガーになれるなんて夢のような話で、実際にアメリカの大リーグなんていわれてもピンとこなかったってのが実際のところでした。ですから世界戦で優勝するなんてことは、当時のマンガの世界でも想像できない出来事だったのではないでしょうか。私の子供の頃は娯楽が少なかったせいもあるのでしょうが、まず男の子なら野球、とりあえずバットとグローブ持って野球でした。もちろん当時はグローブなんてのは高級品というか贅沢品でしたから、持ってる子供は旨い下手はともかくチームのレギュラーになれる、みたいな資本的ヒエラルキーによって秩序が保たれていたわけです。(笑)ええとこのボンなどはユニフォームまで着こんで、鼻タレ小僧のリーダーになります。もちろん背番号は3番、ポジションは花形ピッチャーで4番バッター、野球のヒーローです。グローブ持ってないビンボー人の倅は球拾いで、たまに運がよければピンチヒッターみたいな感じでバッターボックスに立ちますが、ホームランなど打った日には花形リーダーの逆鱗に触れて二軍落ち(笑)ってな世界でした。それでも皆夢中になって日が暮れるまで遊びましたね。人数が揃わなければ三角ベースなんていう特殊ルールまで駆使して遊びました。そういえばマンガの世界もこの時代は野球ヒーローものが全盛でした。○スポーツマン金太郎凄いですね、足柄山から出てきた金太郎が読売ジャイアンツに入団して大活躍。なんとライバルは桃太郎でした。○黒い秘密兵器球が増えたり、消えたりする魔球を投げる凄いピッチャーのお話でした。○誓いの魔球故千葉てつや先生の名作です。バッターの手前で球が止まってスローになるという魔球を操る高校生バッテリーが巨人軍に入団するところからお話は始まりました。○巨人の星もうおなじみです。日本全土を揺るがした超大ヒット作品でした。○ミラクルセブン(立ったと思う)貝塚ひろし先生の作品で、これもミラクルボールという魔球を操るピッチャーのお話でした。○サムライジャイアンツこれはもうかなり後年になってからの登場ですが、主人公のキャラクターがちょっと型破りだったところが異色でした。○男ドアホウ甲子園野球マンガといえば水島先生というくらい、マンガファンにはおなじみです。甲子園と名付けられた男の子のお話。○アストロジャイアンツいやー、これは凄かったですね。未来野球マンガって感じでしたが、今にして思えば世界一に輝いたニッポンの野球を見越していたのかもしれません。ということで、昭和30年代の野球マンガは「魔球」が鼻タレ小僧を夢の世界に連れて行ってくれました。40年代に入るとちょっとリアリティのあるストーリーとキャストに、野球少年たちは自分の将来の姿を夢見ました。50年代は現実とマンガの融合のような形で読者を楽しませてくれました。(あぶさんなんて、実在の人物のような錯覚さえ起こしましたよね)60年代は・・・・、すいません、私この時代ニッポンを追い出されてしまいましたので、この後のことはよーわかりません(笑)それにしても昔の野球マンガは荒唐無稽ながら、ワクワクしながら読んだ覚えがあります。寺田ヒロオ先生のスポーツマン金太郎なんてもう一度読んでみたいですね。今考えてもその発想はかなり道楽者的感性でしたよね。
2006年03月22日
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全国の隠れ道楽者のみなさまこんにちは。日々の着ぐるみ生活ご苦労様です。いつかこの着ぐるみをかなぐり捨て、素っぴんの道楽者になれる日を夢見て今日も1日生産活動に従事して下さい。(笑)ということで、今日はそんな着ぐるみ生活を全うされているマジメな道楽者の皆様のために、非生産活動推進委員会から実生活にはまったく役に立たない人生論をお送り致します。毎日の着ぐるみ生活に疲れた方や、非道楽者からのハラスメントにめげそうな方、愛想笑いを続けすぎて顔の筋肉が引きつりそうな方など、道楽者親爺からの緊急支援対策第一弾です。(って別に第二弾があるわけじゃないけど)肩の力を抜いてお読み下さい(^。^)この仮説は、私が二十数年前に触れた「情熱のペンギンごはん」という1冊の本から触発された理論でもあります。著者はコピーライターの糸井重里先生とイラストレーターのテリー湯村氏(だったかなぁ)で、そのイラストもさることながら内容があまりにも飛びすぎていたために、一般大衆の理解を超えた出版物として、ほぼ変態以外のなにものでもありませんでした。更にコレに続く「へんたいよいこ新聞」などという、道楽者の鑑のような本も出版され、当時の私はたちまちにしてこの糸井ワールドのファンとなったのでした。さて、前置きが長くなりましたが、今日皆様にご紹介する愚にもつかない道楽者の屁理屈は、人間の生命についてです。命と言った方が解り易いかも知れませんが、この人間の持つ命というのは、通常は一人ひとつと思われていますが、実はひとりふたつ持っているという大胆な仮説からなりたっています。(ええーっ!?)「人生は一度」と言いますが、実は人の生命は二つあるのです。そして人が一度目に生まれてくるときには、人には二つの生命があることを知っているのです。ところが、二度目の命を生きるときにはこの「二つある」という記憶が消されてしまいます。ですから一度目の人生を生きる時には、「まだもう一回あるんだから好きなことを思いっきりやっちゃうぞぉ~!」ということで、結構デタラメな人生を送ります。時にはすき放題やり放題で人を傷つけたり、時には殺めたりしてしまうわけです。「どうせ死んだって、もう一回チャンスはあるんだから」と思い、命がけのバカ騒ぎも平気でやらかしてしまいます。さて、さんざんデタラメな生き方で好き勝手やった一度目の人生が終わり、二度目の人生を生きるときは、「もうこれが最後だからマジメに生きて人生を全うしよう」などと殊勝な心がけで生まれてきますが、命が二つあったことはすっかり記憶から消されています。ということで、当然二度目の人生をマジメに歩き始めたヤツの前には、一度目の人生を生きている無謀なヤツが現れ、デタラメな行為を繰り返してマジメな人生をないがしろにしてしまいます。「なんと酷い奴らがいるもんだ。神も仏もあったもんじゃない」などと言って嘆きます。そして二度目の人生を生きる人々は集い神に祈りを捧げるのです。「この罪人たちをお許し下さい」合掌道楽者のみなさま、さあ、今日も頑張って一般社会で善良なる市民を演じましょう!
2006年03月21日
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道楽者の皆様こんにちは。皆様の週末はいかがでしたでしょうか?道楽親爺の週末は、以前からお話しているように日頃の道楽にプレッシャーを感じつつも道楽まみれの一日でした。そんなこんなでちょっとお疲れモードの月曜日です。昨晩はNHKでニューオリンズの特集をやっておりましたが、復興はまだまだといった感じで一般市民の苦労は続いているようです。黒人の多いところなので、インタビューでは人種差別的な皮肉を州政府にぶつける人たちも数多くいましたが、「自然」の前には人種も地位も関係ないように思えます。やっぱり人の作ったものはどこか間が抜けているわけで、そんな不完全なモノが自然の力でなぎ倒されて、手も足も出ませんといったところでしょうか。過去の日記にも書きましたが、最近は「自然」を賛美したコマーシャルな生産活動が多く目に付きますが、テレビの中や雑誌の中の自然は人工的な自然であって、本当の自然は人間が賛美することすらも恐れ多いモノであると思います。私の住む南洋諸島も、必ず年に1度、2度は台風がやって来て島をキレイ(笑)にしていってくれます。ありきたりの言葉ですが、「自然」はそんなにあまっちょろいものではありませんね。台風に襲われたら、人間が作ったモノなんてたったの1日で壊滅状態です。家がなくなったり、木が倒れたり、岩が崩れたりして、そんな「自然」の前には人間なんてのは無力以外の何ものでもありません。まして、デカイ会社の社長だろうが、海岸をうろついているレゲエのおじさんだろうが、自然の前では丸裸です。壊れた家を何とかしてくれ、とか言ったところで、程度の差こそあれ皆同じ被害を蒙っているわけですから、そういう面では自然は平等のような気がします。そんなときに頼りになるのは、やっぱり身内やご近所の人たちの相互扶助の精神です。結局行き着くところ、これが人間に与えられたひとつの生存方法としての手段のような気がしますね。色々と理屈をコイては色々と作ってきた人間社会ですが、もとをただせば、こうしたお隣近所と助け合って生きていく、ってことに集約されるのでしょう。ちょっと話が飛躍しますが(いつものことですね)、太古の文化文明で文字を持たなかった文化を蔑む傾向がありますが、これもこうした自然との共生という観点に立ってみるとちょっと疑問です。本当に秩序と統率の取れた人間の社会があったとしたら、果たして文字が必要なのか?ということですね。文字にして記録に残すってことが、そもそも文化の荒廃なのではないか、と道楽親爺は思ったりするわけです。このところ世界的な規模でやたらと自然災害が続発しておりますが、地球という生命体が自浄作用で生まれ変わろうとしているのかもしれませんね。とは言っても、人類としてはもう後戻りはできませんから、なんとか自然との共生、調和を模索していくしかありません。ちなみに私の暮らしている南方の人々は、心の根っこでは台風を年に一度の浄化作用と捉えている様で、島をキレイにしてくれると本気眼で言います。そこらへんに過去から受け継いだ自然との共生の知恵みたいなものを見て取るのは私の思い込みでしょうか。でもね、台風のあと海岸に打ち上げられたゴミの中に、ニッポンのスーパーのビニール袋や弁当のパックとかが混じっているのを見ると、今自分たちが生きている時代というものを強く感じてしまいます。
2006年03月20日
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連日連夜DVD焼にのめりこむ道楽親爺です。いやいや、そんな道楽親爺にもようやく週末がやってまいりましたね。ということで、古~い、懐かしのビデオテープも着々とDVDに収められ、親爺の遺品はこうしてデジタル映像として残されていくのでした。昨晩はブルーノート・JAZZのライブ2本に取り組んだのですが、残念ながら磁気テープの劣化がひどく、画面がフレームアウトしたりノイズが酷く、結局これは断念しました。これもひとつの節目と観念して、このテープは処分することにしました。しかし、約2年ぶりに発掘された親爺の遺品の中には、かなり貴重な映像があるのですが、やはり保存状態が悪かったのでしょうか、多くのTAPEが傷んでおりました。昨日の日記にも書きましたが、クリーブランドのROCKフェスはなんと12時間に及ぶコンサートの編集ヴァージョンをテレビから録画したのですが、合計3本のテープに収めたはずなのに、最初の1本がほぼ死んでおりました。更に同じテレビ番組(HBO)のSOULコンサートのビデオもほぼダメ。何とか見れそうな部分だけを新たに編集ダビングしてみましたが、一番カッコよかったパートが見れなくて残念でした。アーティストをざっと上げると、メイズ、アレサフランクリン、テンプテーションズ、バーケイズ、レイクサイド、アイズレーブラザース、EW&F、ティナ・マリー、ジギー・マーレーなど、今更ながら凄いラインアップでした。特にティナ・マリーは白人でモータウンの閥があるので偏見を持っていたのですが、どうしてどうして、ファンク魂、声量共に見直したという感じでした。レゲエも普段はあまり聞かないのですが、ジギー・マーレーもかなり良かったですね。ボブ・マーレーのアイショットザシェリフをやったんですが、これも非常に味わいのある演奏で魂の音楽という面目躍如といったところでした。それなのに、このパートは全てノイズと傷で死んでました。(悲しい~!)昔はこうしたテレビコンサートをよく録画したのですが、最近はもっぱらDVDばかりで、番組チェックもしていません。ていうか、HBOの契約やめちゃったし、MTVも契約切れで更新してません。さすがにビンボー親爺の道楽もそこまでは手が廻りませんね(笑)しかし、こうして古い遺品を引っ張り出してきては見ていると、時代が戻ってきたような錯覚を起こすから不思議です。一昨日はクリーブランドのフェスのビデオを見たのですが、これも延々と4時間、とうとう最後まで見続けてしまいました。ざっと出演者を紹介します。ラリーグラハム、ジョージ・クリントン&P-FUNKオールスターズ、これは凄いでしょ。こんなメンバーが揃ってステージに立ったんですから驚きでした。後は、ブルース・スプリングスティン、ボブディラン、シェリルクロウ、ボン・ジョビ、ブッカーT&MJ‘s、チャックベリー、ジェームスブラウン、ボズスキャッグス、スラッシュ、などなど、その他にも、コンサートの合間に懐かしの映像が入り、ジャニス・ジョップリンやレッドツェッペリン、エリッククラプトン、ジェフベックなど、もうROCKスター満載のイベントです。こんなことなら、もう少しきちんと録画保存しておけばよかったと今更悔やんでも後の祭りです。画像も粗く、時折ノイズも入りますが、なんとか見れるところだけをつなぎ合わせてDVDに録画しました。ということで、今夜は残りのテープを処理します。クルセイダースの日本公演、ナベサダのスタジオライブ、日本JAZZフェスティバル、ジョニ・ミッチェル、高中正義・・・・こりゃとても1日じゃ無理だね。やっぱ、専用のビデオデッキ買おうかなぁ~(笑)音楽だけじゃなくて資料用の記録(ドキュメント)映像もあるんですよね。NHK特集とか志ん生師匠の画像とか、日本古代史の探索(笑)とか。本も読まなきゃいけないし、あ~、また今日も脳が爆発しそうです。なおDVD化が終了しましたらリストをアップしますので、ご興味のある方や同じ趣味でどーらくを楽しまれている方、また、変態系不思議大好き親爺の皆様はご連絡下さい。コピーを差し上げます。これは非生産活動を推進する委員長の使命と思っておりますので、お気軽にどうぞ。たまには委員会としての活動もしないといけませんよね。委員長なんだから。ちょっと時間がかかるかもしれませんケドね(笑)
2006年03月18日
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毎日せっせと非生産活動に精を出す道楽親爺ですが、似非労働者としての生産活動もそれなりに忙しく、なんとかそれなりのバランスを持ってこなしてはおりますが、今の状況を一言で表現するならば「道楽まみれ」といったところでしょうか。(BOMB!)先日も書きましたが、デスクの上には未読の本が山のように積み上げられ、仕事の合間を見てはしこしこと読んでおりますが、いかんせんジャンルの幅が広すぎて、時々脳が爆発しそうになります。(笑)仕事の合間に読書しているのか、読書の合間に仕事をしているのか判らないような状態ですが、乱読もここまで来ると頭の中の組み立てがかなり入り組んで来ます。更にメールの問い合わせやら報告がどんどん入ってきます。先日の「EM菌による浄化プロジェクト」に関する報告書が毎日のようにメールで送られてきます。地元のボランティアの組織化の相談や、EM総合ネットの比嘉氏より具体的な資料をご送付頂いたり、なんだかこれも関わらざるを得ない状況に成りつつあります。(お調子者の野次馬根性のツケですね)同時に先日調査を依頼したフィリッピン観光治療ツアーの報告が入ってきました。これには驚きです。さすがに凄いフィリピンネットワーク!なんと私が治療を受けたこちら現地のクリニックのカルテ(治療データ)が、すでにマニラのクリニックに照会され、かなり具体的な治療プロセスが届きました。これは現地クリニックの受付及び事務を担当しているフィリピン人が、私の秘書のフィリピン人の依頼を受けてケソンシティにある自分の関連クリニックを紹介してくれたのでした。恐るべしフィリピン人ネットワーク!屁理屈大好き親爺はまたもここでひとつの教訓を得ました。国が信用できない、あるいは社会保障システムを持たない国の民は、個人で情報のネットワークを形成し、かつそれを頼りにする以外に生き延びる術がないということをあらためて学びました。まあ、これも言ってみれば私の持論、仲間の掟に従って生きるってことと基本体には同義ですね。国とか法律とかあまり頼りにしていないというか、自分達の生存は自分たちで守っていくしかない、ビンボー人特有のタフな考え方です。もちろんこれこそが相互扶助の精神に則った、非常に人間的で合理的な社会システムのような気がします。ちょっと話が脱線しましたが、マニラのクリニックの連絡先(地図まで付いてる)と治療プロセスなどが届き、後はこちらのスケジュール次第というような手回しの良さです。ただ、肝心の見積が乗ってないんですね。どうせ日本人だから金は持ってるだろう、くらいのことなのでしょうか。(笑)と、そんな思いをめぐらせているところに緊急呼び出しです。観光客のおねーちゃんがゴルフカートから落ちて倒れている、とのことで急いで出張って救急車で病院に担ぎ込みました。怪我人のおねーちゃんはこちらに撮影に着ていたグループの一人で、二人乗りのカートに仲間同士6人で乗って振り落とされたとのことでした。付き添いのスタッフはいかにも業界人って感じのあんちゃんでしたが、どうしてこの手の業界の若者というのは自分中心にしかモノを考えないのか不思議です。自分達のバカのせいでどれだけの人間が動かされているのかということをまったく認識していないというか、被害者意識だけがやたらと強くて、怪我人が大事に扱われるのは当然とでもいうような態度には少々呆れてしまいました。保険の確認や、常備薬の有無、アレルギーについて等など、事務的な手続きを行う救急隊やスタッフに、「そんなこと言ってないで早くなんとかしろ」というような態度です。私も面倒臭いのでほぼ無視して事務的な処理をしましたが、このような転倒による傷害の場合は、頭を打っている可能性もあるので本人の意識を確かめるためにも、できるだけ口頭で質問をして本人に返答させたりして会話を継続させます。「なんでこんなときそんな質問をするんだ。彼女が苦しんでるじゃないか」などといったチープな正義感に満ち溢れたこのあんちゃんが所属する撮影グループの仕事が一瞬にして理解できます。更に病院についてからも、看護婦による同様の質問、カルテ作りが行われます。「なんど同じことを聞くんだ。早く医者を呼べ」言葉が通じないことが幸いすることもあります。やれやれ、レントゲン検査もしましたが、特に問題はなく打撲ということで数時間後には退院してきました。念のため帰国してからCTスキャンを取るようにアドバイスを受けましたが、ありがとうの一言もなければ、すみませんの言葉もありません。(ちなみにこのグループのにーちゃん、ねーちゃんたちは今朝もまたキャピキャピ言ってはしゃいでおります)昼過ぎからオフィスに戻ってメールを確認。なんとこのサイトのトラックパックに「渡航移植」についての記事が入っていました。ちょっと目を通しただけですが意外と皆さんの関心の深さに驚きました。でもねぇ、この日の病院での体験を踏まえて考えるとまたも脳がハレーションを起こしそうでした。(笑)もうひとつ、知り合いからのメールで、死刑廃止運動などで知られる安田好弘(やすだ・よしひろ)弁護士(58)のニュースが届き、これも脳味噌が大暴れしそうな内容でありました。 安田弁護士はオウム真理教、麻原彰晃(あさはら・しょうこう)被告(51)の一審で主任弁護人を務めたほか、山口県光市の母子殺害事件で殺人罪などに問われた元少年(25)の弁護人でもあり、先日行われたこの裁判を欠席したことで話題になっています。(この話はまた改めて・・・・ちょっと奥が深いので)そんなこんなでようやくウチに帰ると、やりかけのビデオのDVD焼きが待ち構えておりました。「お父さん、早くかたずけてよ~」疲れた体に鞭打って深夜のコピー作業は行われます。でも見ているうちについまたのめりこんでしまう道楽親爺、HBOスペシャル、クリーブランドで行われたロックフェスティバルのライブをとうとう最後までみてしまい、気が付けばアサ~!ってか、もうお仕事の時間です。一体私は何のために生きているのでしょうか?あ~、脳が爆発しそうだ! 道楽まみれの道楽親爺は今日もまた道楽に埋没するのです。
2006年03月17日
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えー、最近の道楽親爺はCD/DVD焼きにちょっとハマってしまって、ボンビー生活の中何故か日々アイテムが増えてきております。元はといえば、クローゼットやキャビネットの奥に積まれた親爺のどーらくの遺品みたいな、古~いカセットテープやらビデオテープ等の処分を命じられたのが始まりでした。えっ?誰の命令かって?そりゃ奥方に決まってるではありませんか。しかしなんですね、道楽親爺に処分命令を下すこのおばちゃんも、二十数年前はこの古~い音楽を聴きながらどーらく者の肩に持たれてラブラブモードで盛り上がったりしたこともあったんですよね。今にして思えばそんな美しい時代もあったのです。しかしその遺品の数々も今はゴミくず扱いされ、子ども達のスペースがいるんだから処分しなさい、などと言われて「光陰矢のごとし」などとたそがれた道楽者の成れの果て親爺でした。とは言いつつも、転んでもただ起きないどーらく者は、この追い詰められた状況下で更なるどーらくの追求を試みたのでした。(笑)そりゃ、他人にとっちゃクズみたいなモノですが、どーらく親爺にとってみりゃやっぱり残しておきたい思い出の数々です。(^^)そこで手始めにカセットテープからCDへのコピーを試みました。カセットの原音は二十年以上も前のものですから、かなり劣化はしているものの、もう二度と手に入らない楽曲も含まれているので、なんとか残したいという親爺のささやかな希望からこのプロジェクトが開始されたのでした。(そんなたいそうなもんやないやろ)カセットの音源をMP3音源に変換してCDに焼く。これが思ったほど簡単な作業ではなく、結果として娘のI-Riverをこっそり拝借して音源の複製が始まりました。「お母さん、お父さんが私のI-River返してくれない~!」仕方なく少女の抗議に屈した親爺は、夜間作業を強いられることになったのです。そのためにはヘッドフォンが必要ですから、多少高額でもプロ仕様の道具を購入しました。これで夜中の録音作業もはかどり、親爺のお宝テープは着々とCD化が進んだのです。「お母さん、なんか凄い高そうなヘッドフォンがあるけど、これお父さんのかな~」またしても子供のチクリにギクッとする親爺。「処分してって言ったのに、なんでモノが増えるのよ~」更なる抗議に追い込まれる道楽親爺でしたが、何とか貴重盤のCD化終了。ようやくダンボール箱のカセットテープは子供のゲームソフトとポジション交代。「どうだ、これで文句ないだろ。次はビデオだな」というわけで、次は貴重映像が詰まったビデオコレクションのDVD化です。すでにこの十年で整理に整理を重ね、その本数も約5~60本までになったビデオコレクションですが、これを効率よくDVD化するには、やはり新アイテムが必要です。「お母さん、パソコンに変なものがくっ付いてる~」ついに外付けDVD Writerの存在が発覚。(っていうかバレるに決まってるじゃん)二度目の抗議にもメゲず粛々と作業は進行しました。しかし、このペースでは効率も悪く時間もかなり浪費せねばなりません。しかも子供のパソコン使用頻度から見ても、深夜作業の続行は避けられません。え~い、こうなったらトコトン行っちゃえ~!「お母さん、ビデオデッキの横にヘンな新しいデッキが付いてる~」三度目の抗議にも屈せず遂にDVDレコーダーの登場です。これは凄い。メチャ早い。これでがんがんコピーできるぞ!「これじゃビデオが見れないじゃない。やるんなら夜中にやりなさいよぉ~」ということで、コピー専用のビデオデッキ購入を密かに企む道楽親爺です。捨てても増えるどうーらく人生。なんちゃって。
2006年03月16日
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これは作家のつかこうへいさんが書かれた本のタイトルです。かなり昔の本ですが、確か「娘に語る祖国の話」といったシリーズとして、つかこうへいさんが出版された中の一冊です。つかさんといえばすぐに名作「蒲田行進曲」を思い出しますが、つかさんは在日韓国人の二世として日本で育ち、かなりアウトローな世界にも足を踏み入れた数少ないホンモノの道楽者のひとりです。(ってこれは私の見方ですが)著作の中にはこの「蒲田行進曲」の主役、銀ちゃん(映画では風間杜夫さんが演じてました)の実像に触れる部分も出てきて大変興味深かったのですが、何よりも私が感動したのはそこに結論が書かれていなかったということでした。この手の本によくありがちな人生訓のような結論がなく、本の全編に流れるテーマ、我娘に自分のことを語るという、その姿勢に人間の奥行きを感じました。「お父さんにもわからないんだ」というその普通の語り方にとても感動しました。それは、たとえ親子とは言えどもこの世界に生を受けて誕生してきた人間として、同じように悩み、同じように思考をめぐらし、同じように感じるという、ごくごく自然な生き物としての人間が表現されているのです。この本と出合ったのは、もうかれこれ十数年前になりますので、細かな内容は忘れましたが、人間として普通に、ごく普通に、人生というもの、生きるということを素直に受け入れることの出来た数少ない本でした。ページ数も少なく、エッセイにも似た内容でしたが、私同様、世の中をナナメに見た感性が満ち溢れてはいるものの、その語り口が非常にポジティブで、はっとさせられたことを覚えています。私のようなへそ曲がりの道楽者は、わかったようなことを言うヤツとか、何の疑いもなく教科書のような正論を諭すヤツ、世間一般に言う「良い人」がどうも苦手です。特に神仏に話の結論を持っていかれてしまうと、それ以上は何の解決もなく、思考停止に陥ってしまうその論理が非常に腹立たしく思えたりします。そんなへそ曲がりを救ってくれた一言がこの本のタイトルでした。そうなんです。みんな幸せになるために生まれてきたんです。理屈はないのです。それが答えなんですね。みんな答えは自分の中に持っているんです。それ以上の答えはないし、それ以下の答えもありません。だから私は「良い人」なんて呼ばれたら人間はお終いだと思っています。ということで、これから先もこうして世の中をナナメに見ながら愚にも付かないことを言い続けたいと思っています。所詮人間は弱いものですから、すぐに頼るものを見つけてきてはよりかかるし、自分しか頼るものはないんだと意固地になったりもします。それはそれで良いのです。だって、人はみな幸せになるために生まれてきたんですから。
2006年03月15日
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みなさんはEM菌というものをご存知ですか?有用微生物群と呼ばれるEMとは、もともとは化学肥料や農業に替わり、土地を育てることにより物質が育つという考えのもと、1982年に開発された土壌改良剤です。この用途は広く、畜産や水産、ゴミ処理などの衛生面やさまざまな環境面などで活用され、水質浄化に関する分野でも大きな成果をあげています。このEM菌は沖縄の琉球大学農学部の比嘉照夫教授によって開発された技術です。すでに十数年前から各方面で紹介、反響を呼んでおりますが、最近では大阪湾の浄化や道頓堀側の浄化などにも利用され注目を集めています。そのEM菌についてのセミナーが昨日サイパンで行われまして、道楽者の野次馬親爺はしっかりと参加して来たのでした。私自身も船井総研のセミナーや本で随分と前から興味はあったのですが、実際に目にするのは今回が初めてで、その実施実践は日本国内に留まらず、すでに世界各国の地域で有効利用されており、データとしてもきちんとした成果を上げていることが紹介されました。講師はこのEM技術を開発された比嘉教授のご子息、比嘉新氏で、EM技術の普及を目的とした株式会社イーエム総合ネットを運営されております。お話の中で、開発者の比嘉教授の言葉に「神に与えられたもの」というくだりがあり、できるだけ沢山の方々にこの恩恵を広めて行きたいという、素晴らしい理念に基づいて普及活動を行われております。ですから、この原液の培養は誰でも簡単にでき、従来の化学肥料や薬品に比べてコスト面でも大変な経済的効果があり、かつ自然との融合を図るという、何の悪因も持たない素晴らしい技術であることを実感しました。実際に日本のテレビでも紹介されたそうで、今一番注目を集めえているのが大阪湾と道頓堀川のようです。実際にヘドロが減少してシジミなど魚が戻って来ているそうです。「すべての生命は母なる海から生まれた」このスローガンを掲げて、海のもとである川、その上流から浄化していけば効果は更に広がるということで、ジワジワとこの運動が身を結んでいるようです。このブログでも何度も言っておりますが、我々を取り巻く「自然」と呼ばれるこうした環境と共に暮らす我々の生活は、もう後戻りはできませんから、なんとか融合の道を模索していくしかありません。そういった中でのこの技術は、我々の未来に明るい道筋をつけてくれるものだと思います。(ご興味のある方は是非とも家庭菜園などからお試しになってみて下さい)ところが、またしてもここで現実的な弊害が頭をもたげてきます。それは、ここまで目に見えて実証された技術がなぜ一気に普及していかないのか?という疑問ですね。前にも言いましたが、「本当に良く効く風邪薬があったら宣伝しなくても売れる」というのは理屈で、現実的にはそんなクスリが世に出回ったら製薬会社が潰れてしまう、というカラクリが実際には作動しています。同様に、このEM技術をなぜ行政が正面から取り組まないのか?といえば、これらの環境整備のために地方自治体に割り当てられた予算が莫大であるということです。大阪湾や道頓堀のヘドロを除去するためのプロジェクト予算が、年間何億円も大阪府に割り当てられています。効果があろうがなかろうが、この予算の元で生計を立てている業者さんも数多く居るわけです。となれば、この低予算大効果のEM技術を行政が認めて認可するようなことになると、困る人があちこちにいるわけです。以前にも、卵作り一筋のおっちゃんの話にもありましたが、「無農薬野菜」を奨励すると農協で取り扱う農薬が売れなくなる、というのと同じ原理ですね。とまあ、世の中はなんだかんだ言っても、未だこの経済システムのカラを破ってはいません。それでもこうした「神様から与えられたもの」はこれからもどんどん出てくることでしょう。ひょっとすると、これがいわゆる人類究極の戦い、ハルマゲドンなのではないかと、道楽者親爺は思うわけです。十数年前に私が遭遇した霊能者が語った予言(?)はここでもまた妙な符合をしてます。このEM総合ネットの本拠地は名古屋にあります。さらにこのEM浄水運動は、大阪湾から大和川を溯って奈良県三輪山「おおみわ神社」にまで行き着きました。セミナーで講義を聞いていた私は正直言って、とても不思議な気がしました。この記事を評価する
2006年03月14日
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えー、昨日は日曜日ながらちょっと生産活動が忙しかったもので、日記はお休みしてしまいました。昨夜はNHKで故古今亭志ん生師匠のインタビューを見ました。未だにその人気を誇る落語界の巨匠ってな感じですが、この人の生き方には本当に頭が下がります。もう生活自体が全て落語ですよね。そういえば最近見たテレビドラマに「タイガー&ドラゴン」という、落語をテーマにしたホームドラマがありましたが、毎回落語の話を取り入れて展開する面白い番組でした。まあ、一口に落語と言っても色々な語り口やタイプがありまして、中には艶っぽい話とか、人情話とか、怪談話まであって、昔の娯楽とすれば今のテレビ以上に庶民の間では大きな楽しみの一つだったのでしょう。しかし、この落語のネタというのがとにかく面白いですね。何処にでもある日常の風景の中に「笑い」を見つけてみなで人生を楽しむという、非常に道楽者的人生の体現は、その生活が貧しければ貧しいほど笑いのセンスが深くて共感を呼ぶという、一種自虐的な行為ではありますが、とにかくこの理屈のいらないナンセンスさは最高です。特に関東ではこの「洒落」というところに「粋」を見出す傾向があるようで、「江戸っ子は宵越しのゼニはもたねぇ」などど豪語するハッタリは、貧乏人のやせ我慢みたいなところがあって、これがまた笑いを誘います。いうなれば「貧乏自慢」なんですが、だんだんエキサイトしてくると、「何を言ってやがんでぇ、オレッちの方がもっと貧乏だぜ」とか、「なにおっ!オレの方がテメェの百倍は貧乏だぜ」とか、当人たちは必死で自慢比べをしているわけですが、傍で見てる者にとっては単なるバカ自慢というだけでほっときゃ良いものを、時たまこれにバカな野次馬が加わったりすると、もう手が付けられないほどバカと貧乏のデスマッチと相成ります。ただ、落語の面白さはこのエンディングにきちんとオチがあり、このオチのセンスこそが「洒落」になるわけです。ちょっと凝ったオチになると、筒井康隆風ブラックジョークというか、メビウスの輪のようないくら考えてもよくわからないような哲学的なものもあり、そこら辺が笑いの最高の魅力だと思います。最後にペーソスで泣かせて、「良いお話だったね」なんてことにはまずならないところが、笑いの「粋」でもあるわけです。客席で「う~ん」なんて頷いていると、「お客さん、こんな話で頷いちゃいけませんよ、落語なんだから。あんた、噺家の言うことに頷いているようじゃ、人生お終いだよ」なんて、お客を諭して更に笑いにしちゃったりしますから凄いですよね。NHKの古いインタビューでは、志ん生師匠が浅草時代に歯医者に行って歯を抜いた話が出てくるんですが、抜いたまでは良いが貧乏してるから抜いた歯を矯正できない。「いくら噺家だからって歯がなきゃ困るだろ。これじゃほんとにハナシカだって」そう言って洒落にして笑っちゃう。そんな駄洒落が絵になる道楽者ってのは、その人の人生の裏づけがあるからで、どれほど貧乏を掘り下げたかという一種独特の美学があります。当然奥さんや家族はそれ以上に苦労されたのでしょうが、この貧しさの上に立つ笑いというものこそが人生哲学そのものなわけでして、やはり道楽者としては究極の道楽を極められたこの偉大な道楽者の先人に改めて敬意を表したいと思います。ということで、今日は現役道楽者のひとりから皆様へのメッセージを送ります。みなさん、ニッポンの文化、ビンボーカルチャーのルーツ、寄席へ行って落語を見ましょう。落語には人生のエキスが凝縮されています。生きることに疲れたら寄席へ行って道楽者の悟りを開きましょう!
2006年03月13日
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結構楽しみにしていたドラマだったんですが、非常につまらなかったですね。テレビドラマということで長いせいもあるのでしょうが、結局全部見れませんでした。早送りして飛ばしながら見ていたのですが、それでも途中で居眠りコイたりして、やーめたって感じです。こんなのは映画の2時間以内が限界でしょう。いくら「秋葉系おたく」が主役だからって、ちょっとキャストをデフォルメし過ぎのような気がします。演技もわざとらしいし、笑ってもらおうとしているのがミエミエっつーか、あれじゃ変なヤツをみんなで笑いものにして楽しんでるのとなんら変わらないと思うし、どうせエンディングはペーソスで締めくくって感情に訴えて泣かすって作法でしょう。私の一番嫌いなタイプのドラマですね。(最後まで見ていないからわからんけど)原則的にオタクも道楽者の仲間だと思うし、その感性が突出していて一般人には理解できないところが面白いわけで、その面白さを一般人の常識に取り入れて笑いを取ろうとする根性が気に入りませんね。まして、さんざん笑いものにしておいてから、「彼等だって真剣に生きているんだ」みたいなことを押し付けられると、パンチを入れたくなります。私は秋葉系の実態をもう少しマジメに取り組んで描いてくれるのかと期待していたのですが、なんのこたぁない、単なる美女と野獣のラブストーリーの定番じゃないですか。しかも双方のキャラが異常にデフォルメされてて、結構腹立ってきてムカつきました。ちなみに我家では長女だけが見ていました。さすがのテレビドラマ好き奥様も、途中でハナちょうちんぶら下げて爆睡しておりました。娘の場合は秋葉系オタクに興味のあるクラスメートがいるので、参考のために見ていたようですが、結構涙もろい性格なもんで時々ウルウルしたりして、オヤジに「おまえなぁ、こんなんで泣いててどーすんだよ」などとヤジを入れられつつも最後まで見たようです。ということで、道楽オヤジはちょっとがっかりでしたが、その後偶然面白い記事を目にしたのでちょっと抜粋してご紹介しますね。これは私の尊敬する宮崎学親分が出演した、新宿ロフトでの討論会「部落と差別」の中での、司会の永江氏(ライター)とのやり取りの中のほんの一部です。永江匿名掲示板に溢れている伝説をいろいろ分析すると、あれだけ差別的言葉が飛び交うのに一つだけ出てこない言葉がある。それは貧乏人っていう言葉なんです。実は2ちゃんねらーっていうのは大半が年収300万円以下の貧乏人で構成されていて、貧乏人こそが最も過激な差別者であるというパラドクスがありますね。宮崎 その貧乏人こそが一番過激な差別者であるということがあるんだけど、・・・・・・2ちゃんねらーってのも初耳でしたが、確かにスレッドに貧乏人ってことば見たことありませんね(笑)私も何度かこの「2ちゃんねる」覗いたことありますけど、中にはかなりブラックなギャグが入っていて面白いものもあったんですけど、やっぱり道楽者にはチト肌が合いませんでした。だいたいこの匿名ってのが私は元々大嫌いでして、氏素性を現さずモノを言うのであるならば、もうちょっと皆様のためになることを言えと言いたい訳です。宮崎親分の指摘するように「その貧乏人こそが一番過激な差別者である」というように、書いている本人達も知ってか知らずか、結構くだらねー人間に成り下がっているわけで、そこで展開される言葉のやり取りは、やっぱり遊び以上に危ない世界であるように思えるし、そこに自分の活路を見出しているとなると、これはちょっと怖い感じがしますね。さすがの不良道楽オヤジにも理解不可能な世界だと。大体、人の悪口や批判、誹謗中傷をするのであれば「名を名乗れ!」と言いたいですね。それが出来ないのならば、せめてもう少し品のある、節度をもった表現で書くのが礼儀ではないかと、そんなふうに思うわけです。ちなみに電車男のドラマに登場した「書き込み」の文面は、たぶん実際のモノを使ったのではないかと思いますが、短い文章の中にも書き手の感性は確かに生きているような気がしました。だからこそ、書き手の顔がキャラとして登場してしまうと、このドラマの根本的な部分であるNETの神秘性というか魅力というか、そういったものが非常につまらない三文芝居になってしまった感がありますね。相手の顔が見えないからこそ、電車男も素直に彼等の「声」を聞けたのだと思うし、自分自身もパソコンの前で自分を表現できたのかな、なんて思うわけです。そこら辺が本質的なNETの魅力ではないかと、そう思うわけです。ってことで、今日はちょっと評論家ぽい道楽オヤジでした。
2006年03月11日
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今朝のニュースでちょっと気になったことがあるので、ちょっとマジメなことを書きます。「海外で心臓、肝臓、腎臓の移植を受けた患者は、少なくとも453人との調査結果を、厚生労働省研究班(主任研究者・小林英司(こばやし・えいじ)自治医科大教授)が9日公表した。」心臓、肝臓の移植は米国が多かったのに対し、腎臓は中国とフィリピンが目立ったようです。先日このブログでも書きましたが、フィリピンの医療ツアーなどは、国が観光産業のひとつの柱として奨励しているのでこれから益々需要は増えると思います。渡航移植は国内での臓器提供者不足を背景に増加、一方でアジアでは臓器の売買や死刑囚からの提供があると問題点も指摘されています。「フィリピンでは心臓でも手に入る」とかよく冗談のように言われていますが、これを簡単に倫理問題として片付けることができるのでしょうかね。問題はもっと奥の深いところにあるわけで、こうした物事のうわべだけを取り沙汰して構える安易な正義感には非常に腹立たしさを覚えます。かくゆう「売春」も同様の問題だと思うのですが、すべては現行の経済システムの中で起こっている現象なわけで、そこを見ずして何の「倫理」かと言いたいですね。例えば、幼い我子の命を守りたいがために臓器移植に望みを託す親、貧困の苦境から家族を守りたいがために臓器売買に走る親、そのどちらにも真実があるわけで、これを安物の倫理や道徳で評論すること自体が倫理に外れている様な気がしてなりません。方程式でいえば、金は高いところから低いところに流れるというだけのことで、それを大国の倫理で偉そうに人権問題などというのは非常におこがましいことです。そういう「倫理」を振りかざす方々の日常を見渡せば、生命の存続に必要とされる食料の数十倍の食物を浪費し、なおかつ廃棄しているわけです。片や、飢餓に苦しむ同胞が日々命を落としているという現実が同時に存在するわけです。賞味期限が切れた弁当は廃棄して毎日捨てられています。リアルタイムで雑草すら口にすることも出来ずに死んでいく同胞がいます。これを倫理・道徳という名の同じメージャーで計れるのでしょうか?医療用の血液を国が買い取る政策を打ち出して、貧困農民が血液売買に殺到しました。血を多量に抜かれた農民は農業に従事できなくなり、地方自治政府はあわてて血液の摂取を制限するため、半分を体内に戻すようにしました。この安易な処理がエイズをもの凄い速さで蔓延させることになりました。東南アジアから売春目的で売買されていく少女たちは一向に減少しません。需要があるから供給されるので、その根本的な構造を見ずしてなんの「倫理」でしょうか?更にその供給をしているのは自国の同胞です。こんなことをあげつらっていくら書き出したところで、何も変わりはしないでしょうが、少なくとも安易な「倫理」に乗っかってワーワー騒ぐだけの烏合の衆にならぬよう気をつけるための「警告」にはなると思います。一人でも多くの人が、ちょっと視点を変えるだけで、世の中の流れが少しでも変わればと願う気持ちで一杯です。これが今の自分にできるせめてもの「良心」です。この記事を評価する
2006年03月10日
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70年代のBLACK POWERを代表する「黒いジャガー/シャフト」の監督がお亡くなりになりました。今日はこの訃報から70年代の黒人映画を振り返ってみたいと思います。ゴードン・パークス氏(米写真家、映画監督)ロイター通信によると、7日、ニューヨークで死去、93歳。死因は明らかではない。 1912年、カンザス州フォートスコット生まれ。ホームレスを経験しながら多くの職を転々とし、中古のカメラを買ったことをきっかけに写真家となった。40年代末に「ライフ」誌に入り、同誌で初めての黒人カメラマンに。ファッション誌「ヴォーグ」のカメラマンも務めた。 カンザス州の貧しい家庭に生まれた黒人を描いた自らの小説を基に、69年に映画「知恵の木」を初監督。代表作「黒いジャガー」(71年、原題シャフト)は、黒人俳優を起用し観客も黒人層をターゲットにした「黒人映画」の先駆けとなった。息子のゴードン・パークス・ジュニア氏も映画監督。私はこの映画をリアルタイムで見てはいません。というか日本で公開されたのかどうかも知りません。タイトルに邦題が付いているところを見ると、劇場公開はされたのかもしれませんね。当時は映画より音楽が先に入ってきて、映画そのものは見ずともディスコヒットは必ずサントラとして流れ込んで来ていましたから、SOULファンは「音」だけ聞いて映画の内容を想像したりしていました。レコードジャケットの写真とか見て、ストーリーを勝手な想像で膨らませたりしてね(笑)どうもこの時代の思いは私の中で未だに強く残っていて、ビデオショップなどでたまにこの時代の映画を見つけると衝動買いしてしまったりします。シャフトも、昨年ビデオショップの中古コーナーでDVDを見つけて買ってしまいました。何十年ぶりに目にした映像はヤッパリ古くて、ストーリーも今見るとかなり稚拙で、ノスタルジー以外の何ものでもありませんでした。でも、オマケについていたアイザックヘイズのデモ編集風景は良かったですね。当時の楽器や録音機材もかなりレトロでしたが、とりあえずバンドで「一発録り」してアレンジを考えながら進めていくみたいな雰囲気は大変に懐かしい光景でした。また、当時のファッションが凄い。(笑)Black is beautiful そのまんま、当時自分たちが憧れた黒人ファッションがノスタルジックな気分を更に盛り上げてくれました。そういえばこの「シャフト」はサミュエル・ジャクソン主演で近年リメイクされてましたっけ。主題歌も、後にバーケイズがSon of ShaftというHITにつなげるほど、当時のインパクトは凄かったことが想像できます。黒人による黒人のための黒人映画、更に音楽もSOUL一色、そんなプロパガンダにも貢献したのでしょう。映画とサントラの関係で言えば、SOULの大御所が続々と映画音楽に着手して行ったのもこの時代です。そういった意味でもシャフトはエポック・メイキングだったと思います。クレオパトラ・ジョーンズ/クインシー・ジョーンズトラブルマン/マーヴィン・ゲイスローター/ジェームス・ブラウンスーパーフライ/カーティス・メイフィールドなどなど・・・・・。スーパーフライは確か日本でも劇場公開されたのではなかったですか。私は何故か日曜洋画劇場で見ました。しかも吹き替え版で。(笑)この映画はちょっと屈折した時代背景が読み取れます。主役は白人、ヤク(ドラッグ)の密売人とシンジケートの話で、当時のアメリカ文化の憂鬱と矛盾をうまく大衆路線にして見せてくれました。サントラも大ヒットしました。ファッションもスーパーフライなんていう帽子が流行ったりして、やたらと幅の広いパンタロンスーツにマキシコートなんかも着込んだ覚えがあります。このころはディスコヒットと直結していたせいか、ほとんどがアクションもの、ハードボイルド系だったですね。最近はもっぱらコメディー系になってしまいましたが、これもやはり時代の流れなのでしょうかね。70年代も後半になるとカー・ウォッシュとか、黒人社会の日常を描いたドラマなども登場してきました。そして極めつけは「ルーツ」でしょうね。これは日本でもテレビ放映されて相当の反響を呼びました。クンタ・キンテが奴隷としてアメリカに連れて来られてから現在に至るまでの一族の歴史は、アメリカ近代史の中での黒人問題をきちんと捉えた秀作でした。まあ、結構お調子者のニッポン人はこのドラマに刺激されて、アメリカの人種差別問題に首を突っ込んだりしましたが、単一民族思想の島国育ちのニッポン人がそう簡単に意見を言えるほど単純な構図ではありませんね。70年代後半は黒人が白人(というか全米という)社会への切込みを行った時代でもあります。ディスコという時代のムーブメントを利用して、黒人社会の枠から真のメージャー展開をはかった時代ではなかったでしょうか。でも黒人ファンにとってはちょっと寂しい感じでもありました。エディ・マーフィーだって、サタデーナイトライブに出ていた頃はムチャクチャ面白かったのに、ハリウッドに行ってからは大衆コメディアンから庶民のアイドルに成り下がってしまいましたものね。まさかディズニー映画に出るとは夢にも思いませんでしたよね。ということで、またまた道楽者の話は脱線してしまいましたが、突破口を開いた「人」というのは案外評価が低かったり、時代の影にかすんでしまったりして、きちんとしたポジションを得ていないように思いますね。言うなれば、ゴードン氏は、後に続く黒人監督スパイク・リーなどメージャー進出の先鞭をつけたアーティストとしてきちんと評価してあげたい人物の一人として、心から氏のご冥福をお祈りしたいと思います。
2006年03月09日
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全国の道楽者の皆様こんにちは。非生産活動委員会がお送りする、たいして役に立たない生活情報のお時間です。さて、今日の情報はフィリッピン歯科治療ツアーのお話です。いやー、昨夜私の知人でもありますフィリピン人手配師と会ってきましたが、想像以上に凄かったですね、この治療ツアー。当人も奥歯を嬌声してブリッジをかけたそうですが、費用は5千ペソス、ドル換算して約200ドル、円だと2万2千円くらいですか。(立派な歯科整形でした)まさに日米の治療費の十分の一です。しかもクリニックもかなりな数があるので、もっと詳しく調べればもっとリーズナブルなところがあるはずだ、とも言っておりました。更に旅費も、シーズンによって航空会社が安い周遊券を出すので、時期を待てば往復400ドルくらいでホテルも付くとかいう話に至っては、道楽者親爺の心はすっかり異国の地に飛んでおりました。最近ではインプラントも増えているようで、1ヶ月滞在して集中治療する外国人も多いような話でした。費用的に見てもおよそ二千ドル(二十二、三万円)くらいで完璧だそうです。しかし、このインプラント、私はちょっと懐疑的ですね。だってそうでしょ、元々手入れが悪くてガタガタな歯になったヤツが、インプラントのようなデリケートな義歯移植で毎日の手入れが長続きするわきゃありませんよね。歯茎だって痩せたり太ったりしますから、マメに調整しなければ余計な負担が掛かるでしょうし、歯科医にだって毎週は通わなくてはなりません。特に年取ったら、そう小まめに通院するのはメンドーです。ということで、道楽者親爺はテキトーな義歯を入れてもらえばそれでOKなわけで、どうせあと10数年もしたら歯も一本ずつ自然に抜けていって、いずれは入歯のお世話になるのでしょうから、そんな大金を投入してまで完治させるつもりはないのです。とにかく安心した道楽者は、ゆっくりとスケジュールを立ててフィリピンに治療に出かけることにします。(今は未だ非常事態宣言が解除されていませんから渡航禁止です)こんな話から昨夜はフィリピンの話でど~んと盛り上がりましたが、ところ変われば常識もがらりと変わるってつくづく思いましたね。しかもフィリピンというと、どうも歓楽観光地のイメージが強いので、なんか怪しげな感じがしますが、マニラなんぞはどうしてどうして中々の大都市です。確かにノーテンキなニッポン人には多少危険かもしれませんが、そのくらいのリスクを負っても十分に採算のあう治療コースだと思います。ニッポンだってちょっとヤバイ病院なんぞに関わってしまった日には、命を落とすこともあるのですから、あとは「運」みたいなものです。まあ、昨夜の話を聞いた限りでは「安いから質が悪い」っていう疑念は払拭されました。手配師などと表現しましたが、ちょっと目先の利くフィリピン人はみな似たようなことやってますから、決してプロというわけではありません。ちなみにこの手配師は女性です。実は、彼女は十年ほど前私の会社で働いていたこともあり、現在は保険会社に勤めており、外国で働く同胞フィリピン人を対象とした生命保険の勧誘のために当地を訪れています。もちろんマニラでは数人の友人とタクシーサービスなども手がけており、非常にアクティブなフィリピーナです。ということで、ご興味のある方は私までご連絡下さい。きちんとご紹介させていただきます。但し、多少の英会話能力は必要ですよ。(笑)彼女は来週まで当地に滞在していますが、マニラに戻り次第歯科医を片っ端から当たって詳細を送ってくれる約束をしてくれましたので、これもまた後ほどお知らせしますネ。なんのブログかよくわからなくなってきましたが、道楽者の気まぐれですから興味のあることは何でも首突っ込んでいって、できるだけ面白そうなことをピックアップして皆様にお届けしようと思ったりしております。
2006年03月08日
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全国の非生産活動ファンの皆様こんにちは。冥府魔道のどーらく道を追及するロニーじいさんです。さあ今日もしっかりとどーらくに励み、みんなで立派なろくでなし野郎を目指しましょう。ということで、このところ社会派ブログのような非常にタメになるお話を書いてきたのですが、先週末のオヤジ・カラオケ・ディスコ・ナイト以来すっかりどーらく者の本性が露となり、結局は皆様のご期待通りろくでもないジジイのブログとして復活いたしました。(笑)さて、昨日届いたムツカシそうなマンガ本に続いて、今朝はなんと「疑惑のJAL」特集の週刊誌が数冊届けられました。(やれやれって感じですね)実は私が住んでいるサイパン島は昨年の10月より日本航空が全面運休してしまいまして、それはそれは大変な騒ぎだったのです。(って過去形では終わらずに現在も進行中なのですが・・・)もちろんこんな僻地の離島で就航路線が消えるということは、即、島民の死活問題となる訳ですから、「はいそうですか」といって頷くわけにはいきません。そこですぐに「反対運動」が組織化され、なぜか野次馬親爺の私が急先鋒を務めることになったのでした。って偉そうなことを言うわけではありませんが、「反対運動」などというもの、大手企業は複雑な利害で繋がっていますから、まず島の観光産業を代表するような大手企業はそう簡単に旗揚げはせず、静観するといったような状況だったのです。なんだかんだ言ってみたところで、結局は大国の利害でビンボー人が右往左往するおきまりの構図はどーらく親爺の反骨精神を揺さぶったのでした。わかりきっていたことですが、大手企業の社員は自身の将来を賭してこんな運動に参加するわけも無く、それこそ評論家のようなノーガキばかりコイてエラソーにしているだけで、そんな態度を見て不良ジジイは更にエキサイトしてしまったのでした。こうなったら右翼のダチに頼んで街宣車を日航本社に差し向けたろかい!などと親爺のクセに過激な発言で一気に人気者となってしまい、挙句の果ては反対運動の推進役に祀り上げられてしまったのでした。(ホントに生まれついてのお調子者ですよね)この顛末はまた折を見てお話しますが、それはそれは本当に良い勉強をさせてもらいました。道楽者的視野で見ても相当に面白いエピソードが沢山ありましたので、そのうちご披露いたします。これはマジでかなり奥行きのある経験でしたが、今はまだ公開できないこともいくつかありますので、もう少し時を見計らってお話させて頂きます。まあ、そんな経緯もあって今朝の週刊誌が届けられたのでしょう。とまあ、気がつけば私は本の山に埋もれているではありませんか。ゴーマニズム宣言、疑惑の日本航空、月刊タイム誌、トラベルジャーナル、噂の真相「浅田次郎の不倫相手告白」、更にゴッドファーザーリターンズ。(かなりメチャクチャなセンスしてますけど、自分の中ではきちんと繋がりがあるから不思議ですね)しかしこれはいくらなんでも単なる道楽者親爺にしてはちょっと許容量を超えています。しかも最近すっかりハマってしまっているDVD WRITERもあり、このブログも書かなきゃならないし、遂に道楽者どーらくに溺れる状態となりつつあります。(いったいあんたはいつシゴトしてるんかい?と突っ込まれそうですよね・笑)いよいよ非生産活動が生産活動を凌駕しはじめてきて益々収拾のつかなくなってきた道楽者は、この危機を果たしてどのように乗り越えていったら良いのでしょうか?(って、みんな自分で捲いた種だろ)ってことで、今日は「電車男」のビデオが手に入ったので夜が楽しみです。(こらこら、ちっとも反省しとらんやないけ)更に、今日のディナーはフィリッピン人手配師(ってヤクザじゃないよ)と、マニラの歯科医について調査してもらうことになってます。ちなみに折れた前歯は、地元のアメリカ人歯科医師に仮の義歯を入れてもらい、なんとか体裁を保っている今日この頃です。(笑)しかしこの歯科医師、女性なんですけど、優しい顔してるくせに結構強引なセンセで、「悪い歯はぜーんぶ抜いて入れ換えましょう」なんてニコニコして言うんですよね。今流行のインプラントですか、これをどうしてもやらせたいようで、こっちは食うや食わずのビンボーしてるってのに、あまりにあっさり言われると力が抜けます。ひょっとして良いカモだと思われてんのかなぁ。ということで、今日はこれからこの1万ドル近いトリートメントプランのキャンセルをして、フィリッピンへの治療観光ツアー計画を練ることにします。この話はまた明日。。。。。。。。
2006年03月07日
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今朝出勤してみると、私のデスクの上にダンボールの中箱がどんと乗っておりました。なんじゃこりゃ、と恐る恐る箱を開けてみると、中には単行本がぎっしり詰まっているではありませんか。(爆弾じゃなくて良かったね)中から一冊を取り出して手に取ってみると、小林よしのり著「新・ゴーマニズム宣言」なる漫画本1巻から8巻の他、漫画で見る経済史とか、ゴーマンガ・シリーズ、さらに怪しげな「WILL」という月刊誌が10月号から1月号まで入っておりました。なんじゃこりゃ、とまたまた訝しく思った私ですが、デスクの上、箱の横に小さなメモがありました。「よろしかったらお読み下さい。気に入って頂ければまたお届けします。XXより」XX氏は当地でも古株の日本人で、よく出版社の仕事(主にグラビア撮影のコーディネーター)をしているので、時々こうした差し入れをしてもらったりしているのです。あまり深いお付き合いではないのですが、年齢も近くお互い長いこと当地に残留(笑)している関係で、町内会的友好関係で繋がっています。う~ん、ひょっとして私はこーゆー類の人間に思われているのだろうか、などとちょっと考えてしまいました。数冊を手に取りペラペラとページを捲って目を通しましたが、漫画のクセにやたらと字が多く、しかも所々文章だけのページなどもあって、これは非常にムツカシそうな内容だなあ、などと溜息をついていると、贈り主XX氏からの電話です。「今朝お届けしといたんですけど、ご覧になりました?」「はあ、どうも朝早くから恐縮です」「いやいや、今日は朝イチでそっちにロケがあったもんですから」「すみません、重かったでしょ、こんなに沢山」(一応社交辞令が無意識に口から出るようになった私も今や立派な社会人?笑)「いやー、どうせウチに置いといても誰も読みませんから、好きな人に読んでもらった方が良いかなと思いまして」(そんな誰も読まない本を読ませようってのかい)「いやいや、こんなに沢山頂いたら読み終えるのに相当時間がかかりそうですね・笑」(人間関係を大切にする大人の会話ができるようになった道楽者です)「気に入ってもらえて良かったです。また新しいのが着いたらお届けしますよ」(別に気に入ったとは言ってないんですケド)「いやいや、これだけでも十分時間かかりますから、それはまた後ほどということで・・・」(これ全部読まなきゃいけないのかなぁ~)というような会話でした。しかし私は一体どんな変態ジジイだと思われているのでしょうか。一昨日は調子くれてカラオケ・クラブでバカ騒ぎして中年ジジイの恥をさらしたばかりだというのに、今日はノーガキ好き屁理屈ジジイにさせられてしまった道楽者親爺でした。しかし、この本の内容は凄いですね。靖国問題に朝日新聞、更には北朝鮮や中国、教科書問題まで、ニッポンの思想がぎゅうぎゅう詰めです。私は理屈は好きですが、自分の気に入った理屈しか読まんタチなもんで、こうムツカシー話題ばかりに迫られると脳が爆発しそうになります。もともと道楽者を標榜して憚らない私ですから、基本的には思想などという立派なモノは持ち合わせておりません。強いていうならば、仲間の掟に従って生きるということが人生のポリシーであり、所詮は社会的一般人を演じているだけの似非労働者です。できれば仕事なんかしないでずーっとブラブラしていたいだけの単なる怠け者親爺なのですが、生まれついての野次馬根性と、関わったら後に引けない負けず嫌いの性格、更に頭を抑えられると反発したくなるへそ曲がり根性が見事にブレンドされた、究極の変なオジさんなのです。その昔(っていつもジジイの話は昔話です)、ジョー山中さんとチト河内さんの「切狂言」というアルバムに「役者ばかりの芝居小屋」という歌がありましたが、まさしく世の中は役者ばかりで溢れた世界なわけでして、なんだかんだと言いながらも、みなそれぞれに自分なりの役を演じているわけです。でもって、この着ぐるみは時と場所によって鎧になったり、コスプレになったりしているうちに、いつの間にか中味の自分がこの着ぐるみと合体してしまったりするのです。(また始まりましたねジジイの屁理屈が)ということで、このジジイの屁理屈は思想ではなくて哲学かもしれませんね。なんか「思想」より「哲学」の方がカッコ良い感じがしますね。「思想」っていうと袴に着物あるいは、しっかり背広にネクタイかなんかつけなきゃいけない感じがしますが、「哲学」ってのはジーンズにTシャツとか、ちょっとヒッピーっぽくてファンキーな感じですよね。(そうなの?)どうも一昨日のドンちゃん騒ぎの余韻が頭の中に未だ残っているようで、だんだん言ってることがワケわからなくなってきましたが、私の「着ぐるみ」思想(笑)のルーツもやっぱり漫画だったんです。子供の頃読んだ、あるマンガに私の脳髄はビビッと電気が走ったような衝撃を受けたのでした。そのマンガというのは永井豪さんの「おもらいくん」でした。おもらい君という乞食の少年が主人公のこのマンガ、おもらい君の体は実は垢で出来ていたというエピソードがあり、この話に私は相当なショックを受けたのでした。なんとこのおもらい君が何十年ぶりにお風呂に入って体を洗ったら、体中の垢が落ちて中味はつるつるの痩せこけた少年だったという衝撃の展開だったのです。(なんだかなぁ~)この時幼いながらも私は人間というものについて直感的な悟りを得たといっても過言ではありません。(こらこら)そうです。人間は垢にまみれた生き物なのです。(そうなの?)真っ白な体で生まれてきた人間も、世間に出て暮らすうちにいつの間にか世の垢にまみれてだんだん色濃い人間となり、いずれはその垢に埋もれいってしまうということを悟ったのです。漫画で悟ったというのも道楽者らしくて笑えますけど、本当にこれは私の実際の体験談なのです。(笑)ということで今日は道楽者親爺の思想と哲学についてのお話でしたが、みんなも頑張ってこの「着ぐるみ」を脱ぎましょう!
2006年03月06日
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全国の道楽者の皆様こんにちは。日夜、非生産活動に身を捧げる冥府魔道の道楽貧乏、「ビンボーはどうすれば治るのか」という人類究極のテーマに命がけで取り組む非生産活動推進委員会がお送りする、愚にもつかないお話の時間です。今日は、私の大活躍した70年代後半から80年代にかけて同じ時代を活きていた、異国の戦友に出会ったお話です。昨晩は、私の同業者であります某ゴルフ場の社長に招かれ夕食をご一緒いたしました。その席で先方のゴルフ場のメンテナンス担当者を紹介されたのですが、リトと名乗るこのフィリピン人のおっちゃんの日本語があまりにも流暢なので、思わず経歴などを尋ねてしまった私でした。そして驚いたことに彼はその昔日本で仕事をしていたことがあり、しかも2度ほど日本人と結婚したこともあるとのことでした。やっぱりという感じで、私はすぐに道楽者特有の匂いを感じ取ったのです。そんな経験を持つフィリピン人といえばバンドマン以外にありません。もちろんフィリピンバンド大活躍の時代は私の青春時代なわけで、間違いなく私と同じ時代を生きた戦友と直感しました。初めは自嘲気味にしていた彼の昔話でしたが、「ずっと同じバンドにいたの?」という私の質問に、彼も同じ匂いを嗅ぎ取ったのか堰を切ったように一気に話が溢れ出ました。バンドは時代ごとに変わったけれども、自分は広島と名古屋で二度ほど日本人と結婚して全国を回ったというような話でした。残念ながら東京は都内でなく川口とか大宮あたりで活躍していたようで、当時の私との接点はありませんでした。しかし、あの当時の狂気とも思えるディスコブームを、そのステージの上で体験した者だけが分かち合える、時代の記憶がお互いの胸に去来しました。ご夕食を招待してくれた先方の社長さんも妙に盛り上がる二人にちょっと圧倒されたようでしたが、それならこの後飲みに行こうということになりまして、毎度お馴染みカラオケクラブに繰り出したのでした。いやー、もうこうなると勢いは止まらないって感じです。頭髪の寂しさも似たもの同士、何の因果か南の果てに流れ着いたのもほぼ同じころ、挙句の果てがゴルフ場なんぞで働いている道楽者二人は暗黙のうちにお互いの美しい青春時代を偲んだのでした。You make me feel brand newおーっといきなりスタイリスティックスから聞かせてくれます。コーラスパートも一人で歌いこなすバンドマンならではのコピー歌唱法。ファルセットも見事にハイトーンで伸びのある声でした。随分と歌いこんだキャリアが滲み出ておりました。隣の席で演歌などを歌うご近所のお年寄り連中を尻目に、英語ヴァージョン連発でがんがん盛り上がってしまう変なオッサン二人。コンパニオンのフィリピーナ嬢もヤンヤの声援で懐メロディスコ合戦です。「このハゲ親爺二人は何者?」などというヒソヒソ話が聞こえます。「こらこら、俺たちを誰だと思っているのかな君たちは」「ウタ、ウマイネー、(リト氏を指して)アナタノトモダチ?」「うん、ハゲ友」「ギャハハー、オモシロイネ、アナタ」「面白いだけじゃないぞ。ウタも歌うし踊りだって踊れるんだぞぉ」「ホントニ?ジャ、オドロウヨ」ワォー!セックスマシーン!ゲロンパッ!ゲロンライ!親爺絶好調でドンちゃん騒ぎとなりました。ということで益々調子付いた元ディスコ野郎のハゲ親爺二人は国境を越え、人種を越え、往年のディスコヒットメドレーなどを繰り出し、時々隣の席の演歌親爺が嬉しそうにフィリピーナと歌う「銀座の恋の物語」などを挟みつつ、しっかりと盛り上がったのでした。「俺たちはなぁ、おまえたちがまだオムツつけてハイハイしている頃、ニッポンの大都会で人気者だったんだぞぉ」などとちょっと自慢も入りましたが、久しぶりに息の会うおっさんと出会えた喜びに普段はあまり見せたことのない裏の顔を見せてしまった道楽者でした。「クーヤ(フィリッピンでは兄さんと言う意味でこう呼びます)、オドリウマイネ」「当たり前だろ、おじさんは昔道の上で踊ってたんだぞぉ」「ギャハハー、アナタホントニオモシロイネエ」「フタリトモオナジシゴトシテタノ?」「そうそう、オナジシゴト、だから同じハゲで今も同じシゴトね」「ギャハハー、デモムカシハハゲジャナカッタデショ?」「当たり前だろ!ちょっとスケベだけどね」「ギャハハー!」最後のキメは桑田バンドのスキップビートでした。スケベッー!スケベッー!スケベッー!ゴルフリゾート勤務管理職50歳。久しぶりに弾けてしまった一夜でした。
2006年03月05日
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もうちょっとこだわりたい懐かしの60年代テレビ番組ということで、今日は当時の時代背景なども考察(笑)してみましょう。確か昔は、学校で有害番組として「見てはいけません」指定が発動されたりしたテレビ番組とかありました。かなり強い印象がある「三バカ大将」。もうこれは完璧なドタバタコメディーで、ストーリーも何もあったもんじゃないというか、かなりアナーキーなお笑いモノでした。学校の先生はこれらを低俗番組という表現で「見てはいけません」風な教育的指導を行っておりました。しかし、子供ってのはダメと言われると余計にしたくなる子の方が圧倒的に多いわけで、先生や親の言うことをきちんと聞いていたのは1割にも満たなかったのではないでしょうか。というか、当時の親たちもカルチャーショックという感覚で言えば、子供と同じスタンスで時代と向き合っていたと思うんですね。だから、学校の先生はダメというものの、親自体がそれを見たがっていたということもあったわけです。要するに、当時の親たちだってそんな番組見るのは生まれて初めてなわけで、親子が年齢を越えて時代の文化と関わっていたってトコが非常にユニークだったと思うわけです。今の時代で言えば、「とんねるす」とか今のお笑いネタってのは、この60年代の文化を引き継いでいるわけですから、私くらいの年齢の者(親)が見れば、大方は過去の笑いを踏襲しているので笑いの「底」が見えるわけです。だから、その笑いが生み出す感性の予測が、自分達の生きてきた過程とある程度重なるので、子供(若い世代)とはひとつクッションを置いて冷静に見ることができます。でも当時は戦後のご破算によって、大人も子供もゼロからのスタートを切ったのですから、見るもの聞くもの全てが新しかったというのが事実ではないでしょうか。そういう意味では「お茶の間」という環境がきちんとそこに存在したわけですね。プロレスを見て家族全員が白熱したりとか、シャボン玉ホリデーのギャグが全国ネットで普及(笑)したり、とにかくテレビを中心に人が集うという「お茶の間」が間違いなくありました。さて、では学校で推薦した優良番組とはどんなものだったのでしょうか。もちろん天下のNHKがご推奨でした。「ジェスチャー」「私は誰でしょう」「十の扉」「夢で会いましょう」私は子供心にもこれらのどことなく「知的」な雰囲気と、堅苦しさがちょっと苦手でした。これらの番組をお茶の間で見ている家庭とは一体どんなところなんだろう、という素朴な疑問が常に頭の中にあったからです。たぶん学校の先生のお茶の間は、応接間のカウチやソファーにきちんとした姿勢で座ってお紅茶などを啜りながら、これらの番組を見ながら知的な会話をしているのだろうなぁ、などと多少のヒガミ根性なども加味されて想像したものでした。しかし、この学校の指導を受けて教育テレビしか見させてもらえなかった子供たちは、一体どのような大人になったのか非常に興味がありますね。これって、いうなればひとつの洗脳とかに近いものですよね。私はどちらかというと低俗の極み、有害番組の洗礼を受けた王子様でしたから、当時の優等生からみたら相当にアナーキーな存在だったことは確かで、たぶんPTA評価ワーストチルドレンのトップランキングに属していたのではないかと思います。「あの子とだけは遊んではいけません」「お友達を選びなさい」みたいな親同士の暗黙の了解があったような気がします。(笑)でも子供は正直ですから親の思惑とは裏腹に、クラスのお調子者が連発するテレビギャグはそういう子たちにこそウケまくって、道楽者の人生はここで大体の道が敷かれることになります。結局そういう子たちも間接的に有害番組のソースを体験していたことになります。(ってことは私は有害ギャグの伝道師にだったのかなぁ)まあしかし、何をもって「有害」と判断したのかちょっと興味がありますね。当時の親たちでも結構アナーキーなギャグは新鮮だったと思うし、クレージーキャッツのネタなんて未だに踏襲されていますから、当時の感性で言えば大人も子供もインパクトはかなりなものだったのではないでしょうか。後年、ドリフターズによって受け継がれ、志村ケンやビート・たけしによってリメイクされましたが、これらも低俗番組のレッテルを貼られましたね。私が思うに、世の中の「笑い」に対する物差しみたいなものがあるとすれば、それは「ペーソス」と「ナンセンス」の基準ではないでしょうか。笑いのルーツで言えば、チャップリンはペーソス、バスター・キートンはナンセンス、こんな分類によって判断されているように思います。この対比は有機質と無機質みたいな感覚ですね。どうも「知的」という分類はペーソスが好きなようで、いわゆる人情コメディーみたいなものですか。フーテンの寅さんなんてのが典型的ですね。下品な笑いでもオチに人情話が入って泣かせれば、それはそれなりに評価されます。同じギャグでもオチに泣きのないドリフターズはダメで、ドラマの最後に人情劇が入っている寅さんは良いってことです。どんなにバカなことをして笑っても、必ず最後には人生訓みたいなものが描かれている、というパターンがいわゆる「知的」センスだと思っているのかもしれません。でも正直言って、生の人生、人の世の中は無機質な笑いの方が多いわけで、ただ可笑しいから笑う、理屈のいらない笑いが救いになっているということが実体ではないでしょうか。ですから私自身も根本的にはペーソスギャグはあまり好きではありません。子供の頃の有害番組指定のトラウマが残っているのでしょうか(笑)、どうもこの類の「お笑い」は見ていて白々しくなるばかりで、変に理屈をつけて「知的」ぶる感じが幼少の頃味わった劣等感というか、優等生の白々しさといったものを彷彿とさせられ、もっとふざけてごちゃ混ぜにしたくなる衝動にかられたりしてしまいます。(私ってちょっと危ない性格でしょうか・笑)ということで、私の精神を練磨してくれた昔のクリエーターの皆様に敬意を表したいと思います。シャボン玉ホリデー大人の漫画馬鹿丸出しゲバゲバ90分あっと驚く為五郎~ワッハハ~・・ナニ!?
2006年03月04日
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いやー、やっと始まりましたね、日本航空の大改造。ようやくシンマチ社長も腹を括ったのでしょうか。クーデターを起こした取締役4人もきちんと同罪で裁かれたようですね。とは言うもののこの「御家騒動」は、ごく少数のトップ経営陣の「ご乱心」というか「ご乱行」というか「利権欲」というか、まだまだすっきりしません。シンマチ社長が責任を取って辞めるってのも、これだけ騒ぎになってようやくだし、更にこの後は代表権はないと言っても会長職に残るわけでしょ。どうして、もっとすっきりと行かないのですかね。相変わらずのジタバタは見苦しい限りです。しかも、新体制の改善目標と新たな資金導入についても、演出がミエミエのような気が致します。「安全対策に多額の資金を導入する」って当たり前じゃないですか。人の生命を預かって商売してるんですから、企業理念から言えば一番の根幹をなす大きな柱でしょ。ここを重点的に見直して改善をはかるって偉そうに言ってますけど、じゃあこの数年間は何もしてなかったってことじゃないですか。そんな当たり前のことができない大会社の経営陣に変わって登場した新社長の所信表明がこれですから、ちょっと情けないですね。更に「値上げ」と、また「不採算路線の廃止」だそうです。何を偉そうにノーガキ垂れているんでしょうか?駅前商店街で「たこ焼き」焼いているおっちゃんだって、そんな当たり前なことわかりますよ。たこ焼きを1日1000個焼いて売上2万円、ガス代、仕入れ代、場所代その他雑費を差し引いたらオレの人件費は出ない。じゃ値上げをするか、もうちょっと頑張って300個多く売るしかない。当然ですよね。「10円値上げして、1日800個焼こう」って発想はまず起こりませんよね。だいたい飛行機を飛ばすことが商売なのに、それをどんどん止めていってどうしようっていうのでしょうか?赤字路線の運航を止めたからって中枢機関の経費は変わらないじゃないですか。体の中心である本社本体はそのままで、生存機能の手足を切っていくっていう理屈がまったく理解できませんね。あんたらは何でメシ食ってんねん、とお聞きしたいものです。ちなみに国際線の社長に至っては「稼働率100%でも採算が合わない、赤字だ」とノタマッておられました。タコ焼き屋のおっちゃんだって、どんなに頑張ったって1日1500個しか焼けないたこ焼きを「ウチは1日2000個焼かないと儲からないんです」とは言わないでしょう。1500個しか焼けないなら、1500個で利益を出す方法を考えるのが商売ではないのでしょか?このあたりの考え方が親方日の丸で育った会社といわれる所以ではないでしょうか。売れないからって、自分たちで勝手に安売りしといて、これでも儲かりません、って、一体経営者の責任というのはどこにあるのでしょうか。挙句の果ては儲からないから辞めます、だって。これが日本を代表する企業の経営理念なのでしょうか?交通機関というのは公共性のあるビジネスですから、路線の運航については地元の経済や住民の生活と密接に関わっています。それを簡単に「儲からないのでやめます」というのはあまりにも短絡的な処理の仕方です。止められちゃった地域の住民は死活問題にもなっています。まして、正確に言うなら「儲からなくなったのでやめます」で、就航当初から何十年も赤字経営をしてたわけはないはずで、以前は利益を生んでいたのですから、やはり経営者としての責任が問われるべきではないかと思います。ということで今日は、少々ジジイの愚痴になりましたが、腐りきった日本航空を立て直すには日産のカルロス・ゴーン氏のような社外からの強力なパワーを注入する以外ないのではないでしょうか。JALの御家騒動にご興味のある方は、小説「沈まぬ太陽」をお薦めいたします。ちなみに私はきちんと名乗りを挙げて何度も日本航空にメール投書しておりますが、質問に対する回答は未だありません。まあ当然っちゃ当然ですけどね。株主でも何でもありませんからね。でも生活が脅かされた地域住民の一人として、これからもしっかりと言うべき事は言うつもりです。今日は結構マジな道楽者オヤジでした。この記事を評価する
2006年03月03日
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今日は60年代の洋物ドラマを振り返ってみましょうか。当時はまだ西部劇が全盛だったですね。スティーブ・マックウィーンの「賞金稼ぎ」はよく見た覚えがあります。ショットガンを短くした斬新なスタイルがカッコ良かった。チャック・コナーズの「ライフルマン」ってのもありました。ちょっと顔がでかくてごつかったせいかイマイチだったですね。(笑)ちなみにこの人、チャック・コナーズは「ルーツ」という黒人ドラマでライフルマンのスタイルの農場主を演じていましたが、キャラは結構白人のイヤなヤツでした。忘れてならない二大超人気ドラマが「ローハイド」と「ララミー牧場」だったですね。ローハイドには若き日のクリント・イーストウッドが出てました。ローレン、ローレン、ローレンって歌、流行りましたね。ロードムービーの草分けですね。牛の群れを牧場から牧場に運ぶ一団が、毎回色々な出来事に遭遇するというドラマでした。ウィッシュボーンって名のコックさんが印象的でした。ララミー牧場はバヤリースのCMと淀川長治さんの解説がセットになってました。馬車が河を渡って水しぶきをあげるオープニング、ララミー、ララミーってコーラスが耳についています。ララミー牧場で暮らすスミスの下へならず者の早撃ちガンマンのジェスが転がり込んでくるところからドラマはスタートしました。このジェスってのが不良っぽくてカッコよかったですね。ロバート・フラーですか。番組の途中に入るCMはチンパンジーがバヤリース・オレンジを飲むんですよね。吹き替えは確か谷啓さんだったと思う。女性ガンマンが出てくる「アニーよ銃を取れ」っていうのも当時はちょっと斬新でした。早撃ちの名手アニーがぶっ放す二挺拳銃にシビレました。兄弟の活躍を描いたドラマ「ボナンザ」、子供向け「ローンレンジャー」も記憶に残っています。日曜の朝はアメリカン・ドラマの定番枠でした。「ルーシー・ショー」「じゃじゃ馬億万長者」は相当に面白かったですね。子供心にもアメリカのドタバタコメディーの面白さに魅了され、未だ見たことのない漠然としたアメリカに夢を見ていたことを覚えています。「名犬ラッシー」もロングランでしたね。お母さんが加藤治子さんに似ていたと思ったのは私だけでしょうか?(笑)あとは記憶がイマイチなんですけど、「サンセット77通り」だったかなぁ、セブンティセブン、サンセットっていうコーラスが耳に残っています。クーキーっていうポマード塗りたくったキザな男が出てました。声は鈴木やすしさんだった。「ルート66」もやってたと思うんですけどあまり記憶がありません。ちょっと大人のドラマに「弁護士ペリー・メイスン」っていう法廷劇がありました。レイモンド・バー主演のシリアスなドラマに意味も良く分からず見ていたのを覚えています。ちなみに米国版「ゴジラ」だ一作にレイモンド・バーが出演しています。といっても、アメリカで撮った部分を本編にねじ込んだだけですけど、日本人には馴染みがある役者だったのかな、なんて思います。本当はまだまだあったんですけど、当時10歳かそこらの子供だった私の記憶に残っているのは断片的なアメリカのイメージだけです。思えば、この時しっかりとアメリカ文化の洗脳を受けた子供たちが我々の世代なのですね。そう考えると私たちの時代以降、アメリカと日本は潜在的に文化を共有していることになりますね。日本はアメリカの州のひとつだというのも納得がいきます。
2006年03月02日
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私の生まれた1955年は、ソニーがトランジスタ・ラジオを発売した年です。テレビは1953年頃に17インチの白黒テレビが発売されて、ニッポン初のテレビ放送NHKに続いて55年にはTBSが開局しました。私が物心ついた時分(60年頃でしょうか)、テレビを電気紙芝居なんて呼ぶ大人も随分とおりましたし、テレビのある家にご近所が押しかけて行って観賞するなどというのんびりした時代がニッポンにもありました。皆正座してテレビ観賞して、家庭劇場といったところでしょうか。そんな時代、私たち鼻タレ小僧が興奮し、お茶の間を沸かせたドラマを振り返ってみましょうか。私の中で一番古い記憶は、「鉄人28号」と「鉄腕アトム」です。といっても、アニメじゃありませんよ。実写版です。鉄人28号は漫画とはかなりかけ離れた人間と同じ大きさのブリキの箱みたいなロボットでした。鉄腕アトムも妙な着ぐるみを着て、頭にはヘルメットのようなモノをかぶり、それでもこちらはかなり漫画に忠実だったと思います。残念ながらストーリーはほとんど記憶にありません。同時期に流行ったドラマは、お馴染み「月光仮面」「怪傑ハリマオ」「ジャガーの眼」「七色仮面」「少年ジェット」「海底人8823(ハヤブサ)」「ナショナルキット」「少年探偵団」「風邪小僧」「白馬童子」「紅孔雀」「隠密剣士」、ついでに映画「赤胴鈴の助」「笛吹き童子」とか時代劇もけっこうありました。少年ジェットはかなりのロングランだったんじゃないですか。月光仮面が白いオートバイに乗ってるのに対し、少年ジェットはスクーターだったですね。愛犬シェーンも早かった。スクーターと一緒に走ってたんだから。(笑)「少年ジェットは今日も行く」っていうナレーションが耳についています。更に永遠の宿敵ブラックデビルが中々に渋いキャラでした。怪盗ルパンのような雰囲気で短いステッキを持って現れてくる。外国人っぽい風貌で喋り方もちょっと特徴がありましたね。色々な人に変装して登場するくせに誰がどう見ても間違えないだろってくらいな凄いキャラでした。何故かジェットのことをゼットと発音します。そして少年ジェットの必殺技は「ウー・ヤー・ター」。構えてウーヤーターって叫ぶと地鳴りがして回りが地震に揺れるというスゲー技でした。忘れてならないキャラがもう一人、トンダモンタ(跳田もん太)ってスゲー探偵がいました。風邪小僧、白馬童子は東映時代劇のテレビドラマ決定版だったのではないでしょうか。なんと主演は山城新吾さんでした。カッコよかったですね、山城さん。いい男だった。メンコもブロマイドも随分集めました。駄菓子屋に新聞紙の袋に入った総天然色の写真が1枚5円だったかな。七色仮面は千葉真一さん、二代目だったですね。初代は名前忘れたけど、後年特捜最前線に出てた人です。(笑)その後千葉ちゃんは「アラーの使者」「暗やみ五段」などを経て「キイハンター」でブレイクしました。怪傑ハリマオはカバヤ食品提供だったかな。主題歌は三橋美智也さんが歌ってたと思う。しかしこの時代はまだ映画のスタイルを踏襲してましたよね。お茶の間劇場も中々頑張っていました。「お笑い三人組」「おらぁ三太だ」「バス通り裏」「事件記者」そういえば柳家金梧楼がもの凄い人気でした。エノケンも未だ健在だったですね。「ワタナベのジュースのもとだよ、もう一杯~」なんてCMもありました。粉ジュース、あれは斬新でしたね。子供心に、粉が溶けてジュースになるってのがたまらなく嬉しかった記憶があります。その後コーラの元だとか、ココアだとか、粉製品(笑)が一杯出てきました。最後は水に溶かさずに粉を舐めちゃうから指も下もオレンジ色になっちゃったりして。「マルキン自転車ほいのほいのほい~」ってなCMソングも耳に付いてます。インスタント食品ブームもこの頃から始まったんじゃないですか。明星ラーメンとかいまだに売れ続けているニッシンのチキンラーメン。どんぶりに入れてお湯を注いでふたをするとラーメンができるって、そりゃ画期的な食品でした。今やラーメン大国ニッポンのスタートがここら辺りなんでしょうね。そういえば、パンもこの頃からおしゃれになりました。三角錐の「あましょく」とかサンリツのラビットパン(ただウサギっぽい型してただけなんですけど)なんかおしゃれだった。(笑)60年代に入るとアニメが登場してきて一気にブームとなりました。やはり草分け的存在は手塚治虫先生の「鉄腕アトム」でしょう。「空を越えて~、ラララ星の彼方~」全国の子供たちをテレビの前に釘付けにしました。提供は明治製菓、上原ゆかりのCMとアトムのシールが異常な興奮を呼びました。当時はグリコのオマケが定番だったところにシールの登場で市場が沸きました。すかさずグリコは「鉄人28号」で巻き返しをはかり、ワッペンという新たなアイテムの登場となります。(しかしなんであんなに夢中になったんかなぁ)そしてちょっと大人っぽいキャラでエイトマンの登場です。子供心にも従来のロボットものに比べて科学的な臭いがしていました。それなりの裏づけ理論みたいなものがちゃんとあって、なんかワクワクしましたね。タバコに強化剤が仕込まれていたりとか、高速で走るときの加速装置があったりとか、それなりに理知的な香りを漂わせていました。なぜか提供(スポンサー)は丸美屋食品だったですね。「おー、フジヤマ、マルミヤ、スキヤキふりか~け」なんていうのがあったデスね。桂小金治師匠ですか。しかしスキヤキふりかけってのも豪華でしたね。確かに牛肉の味がしました。(笑)ちなみに丸美屋さんてふりかけ以外になんか作ってたんですかね?さあ、そして新たなブームを巻き起こした「隠密剣士」の登場です。忍者ブーム大ブレイクって感じですか。「霧のとんべぇ」「服部半蔵と伊賀七人衆」とか、しまいには忍者の末裔なんて先生が出てきて忍法の解説までしてました。そしてトドメは何と言っても「忍者部隊月光」でしょう。このアイディアって今でもいけそうですよね。自衛隊で忍者部隊募集したら若手が集まるかも。(笑)ファッションがまた斬新でした。ヘルメットに刀背負って編み上げブーツでしたからね。ひとり「くのいち」がいるんですよね。可愛かったなぁ~。誰だったか覚えてないけど。紅一点って感じで、番組の頭でピストルを使って隊長に叱られるんですよね。「バカっ!拳銃は最後の武器だ!」っていう隊長のセリフにしびれました。しかし40年以上も前のことなのに結構鮮明に覚えているから不思議です。
2006年03月01日
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