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お知らせデス非生産活動推進委員会では只今「貧乏自慢」「バカ自慢」エッセイを募集中です。形式はこだわりません。あなたのつまらない自慢話をどしどしお寄せ下さい。コメント、掲示板、メール、どれを使って頂いても結構です。貴方の一銭にもならない自慢話を一方的に語って下さい。今のところ締め切りはありません。私の気まぐれ、やる気がなくなるまで続けます。(あはは)テーマやジャンルは自由です。討論ではないので一方的に語るだけでOKです。とてつもなくバカバカしい自慢話などには、気が向いたら賞品などもご用意しますので是非みなさまで遊んで下さい。「貧乏自慢」コンテストは、日ごろ生産活動に従事されている道楽者の皆様が溜め込んだストレスの発散場所として、非生産活動推進委員会によって運営されております。お知らせおわりさて、今日は委員長の戦友YUKI姐さんからの自慢話です。YUKI姐さんはその昔、委員長同様アフロヘアーを地毛でかましていた頼もしいソウルシスタです。私は残念ながら現役で実物は見たことありませんが、っていうか未だお会いしたこともありませんのでアフロの大きさ、タイプ、お手入れなどについての詳細は不明です。女はいつだってミステリアスな方がFUNKYです。(笑)ちなみにSOUL MANはSOUL SISTERをソウル・シスタと発音します。(ってどうでもいいことですけど、一応解説しときます・笑)ということで、前置きはこれくらいにして、それでは筋金入りのどーらく者・シスタYUKI姐さんのお話をお楽しみ下さい。オレの話を聞けぇ~バカ自慢・車でだるま落とし昔、店の看板車両を通勤に使っていた時(屋根に選挙カーのように看板とスピーカーがついてる警察の許可をもらい期間限定で音を流して走るやつです)、我が家から仕事場まで約15分、帰りは静かに帰りますが、出勤時は「音」出してアフロ頭のヘンな姉ちゃんが運転して行く訳です。本人はあまり羞恥心がありませんからこの車に乗ることは全然イヤじゃなかったんですど。。。期限切れで 音も出さずにそのままその宣伝カー使っていたある日、我が家を通り越してチョット寄り道して行くことになりました。草木も眠る丑三つ時、車さえすれ違わない住宅街、総武線の高架をくぐり抜けようとしたその時「バーン!!」「ひゃ!何の音?」 と、首をすくめ徐行する私。辺りは別に何も変わった様子なし…停車してバックミラーをおそるおそる覗いても動くものなし。第一 暗くてほとんど見えません。「何だったの…?まっいいか」発進しようと後方確認したら な、なんと!宣伝カーの上の部分がいかにもここへ置いた状態で道の真ん中にポツン(と言うよりドカン)と!これは大変!車が来たら事故だぁ~!(…って、もう自爆事故だっつうの)と急いで車を降り、拾いに行ったのですが、重たくて私一人の力じゃビクともしません。さて、困った。。。こんな時間 誰に頼めばいいの?警察は絶対ヤダなぁ。そうだ!この時間起きてるのはあいつらだけだ!・・・早速 いつもヤナ顔しないでリクエストかけてあげてる特攻服で来る暴走族軍団に近くの公衆電話からお願いしたのでした。男の子3人バイクに乗ってやって来て、1kmくらいの道のり我が家の駐車場まで徒歩で運んでもらいました。やれやれ・・・しかし、ホントにきれいに飛ばされてましたよ。屋根は無傷、ちぎれたスピーカーのラインが痛々しかったけれど。翌日、出勤してオーナーに顛末を報告・・・しばらくみせしめでフツーに乗っていました。いやいや、さすがソウル・シスタ、期待を裏切りませんね。タイトルの「車でだるま落とし」っていうのについつい引き込まれてしまいました。ダルマ落としの、あのスコーンという感じが、トンネルのヘリに看板スピーカーがぶち当たって落ちた瞬間とうまくイメージリンクしました。こーゆーことなら「必殺」の文字を入れておくべきでしたね。(笑)必殺!車でダルマ落とし(臨場感がでますねぇ~)(そうかなぁ~)しかし、特攻服のお助け部隊3人がそのブツを運んでる姿を想像しただけで、もうかなりテンション上がりますね。ウンショ、ウンショ、とか声掛け合って運んだんですかね。しかも真夜中に。それもアフロねーちゃんが陣頭指揮取ってんでしょ。(笑)可笑しいというよりは、見かけによらぬ硬派なボランティアという感じがして清々しささえ感じられますが、時代が時代で良かったですよね。今だったらATMでも盗んでんじゃないかって、通報されてますよ、きっと。(笑)そういえば新宿でも歌舞伎町にブラックシープがオープンした時に宣伝カー走らせていましたっけ。当時私は南口のビバヤングという店で働いていたのですが、SOULミュージックをガンガン鳴らして新宿通りを走るライトバン見て「カッコいいなぁ~、オレもあれに乗って新宿を走り回りたいなぁ」と思いましたね。当時の馬鹿野郎の自己顕示欲を挑発する憧れの行為でした。YUKI姐さん、そんな車に乗っかって街中を走ったなんて、メチャメチャ目立てて、私ゃ羨ましいです。私も一度やってみたかった。では、調子くれて委員長の馬鹿自慢も一発。オレの話を聞けぇ~ 2分だけでもいい~昔、新宿の名物男に月光仮面という新聞配達のおっさんがいました。レインボーメッシュのはいったデカアフロのカツラをかぶり、白のタイツにブーツを履き、白のTシャツにサテンのジャケットを着て、朝刊配達をしているのです。しかも小型のカセットプレーヤーを肩から斜めにぶら下げて「月光仮面」をBGMに走るのです。(これ実話です。確か新聞にも記事として載ったことがあったと思います)仕事帰りの東口駅前。始発電車目指して交差点を渡ろうとしたところで月光仮面登場。彼はアフロ頭の私を見つけて仲間だと思ったのでしょうか、突然私の前に走り寄り、手を掴んだのです。「行こう、早く!行こう」有無も言わさぬ強引なアプローチに逆らうことも出来ず、わけもわからぬまま南口の甲州街道付近まで伴走させられてしまったのでした。月光仮面の歌に乗って。(笑)自己顕示欲が満たされるはずだったこの行為も、新宿駅前は勤め人と学生が一定方向に無言、早足で進む朝の通勤通学タイム、ご迷惑以外のなにものでもありませんでした。っていうか、単なるバカ、下手すると皆怖がって道を空けたりして。なぜ月光仮面の誘いに無用心にも乗ってしまったのか未だに謎の出来事でしたが、新宿の名物男・月光仮面と一緒に新聞配ったのは新宿広しといえども私くらいのものでしょう。私は選ばれたアフロ男だったのです。ちなみにその後、偶然かどうか知りませんが月光仮面のおじさんは私の職場トゥモローUSAにも現れました。(まさか会いに来たんじゃないよね)さすがの私も、このときばかりはお友達と思われたくなかったので必死こいて隠れましたね。(爆!!ということで、皆様からの更なる自慢話をお待ち申し上げております。
2006年04月30日
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非生産活動推進委員会では只今「貧乏自慢」「バカ自慢」エッセイを募集中です。形式はこだわりません。あなたのつまらない自慢話をどしどしお寄せ下さい。コメント、掲示板、メール、どれを使って頂いても結構です。貴方の一銭にもならない自慢話を一方的に語って下さい。今のところ締め切りはありません。私の気まぐれ、やる気がなくなるまで続けます。(あはは)テーマやジャンルは自由です。討論ではないので一方的に語るだけでOKです。とてつもなくバカバカしい自慢話などには、気が向いたら賞品などもご用意しますので是非みなさまで遊んで下さい。さて、昨日はyu-jiさんから「タイガー&ドラゴン」の音源をメールしてもらい、ピーハツな一日を過ごすことができました。(笑)ちなみに帰宅して夕食時にデカイ音でPLAYしたところ、「こうして聞いてみるとやっぱり和田アキ子だよね。~とても悲しいィ~わぁ~、アナタと別れて~」と口ずさむ嫁。(サビメロに入ります)おーっと、いきなり一家で大合唱です。「オレの話を聞けぇ~」さすがに道楽者親爺率いるFUNKY一家でした。(BOMB!)っていうかなんなんだろこの展開はって感じでした。(ヤレヤレ)さて、話はぶっ飛びますが、昨日は某旅行社(ツアーエージェント)の女社長とランチをご一緒致しました。彼女とは同い年(学年はあんたより一年下だと言い続ける彼女、私とのお付き合いもすでに10年以上の月日が過ぎようとしております)で、お互いほぼ永住組みたいなものですから、気心の知れた仲間でもあります。彼女はその昔、新宿歌舞伎町の東宝会館(私が働いてたディスコのあったビル)の地下にあったカントリーパブ「ウィッシュボン」の常連だったそうで、同じ時代にビルの地階と7階でブイブイ言ってたという妙な因縁もあります。(あれっ、何話そうとしてたんだっけ? そだ、ランチの話だ)たまにはステーキでも食べようよと誘われた私は、「もういい加減歳なんだし、こんな真昼間からステーキなんか食ったら体脂肪率が上がるぞぉ」などと抵抗したのですが、彼女の恐るべき食欲の前には抵抗できず、近所のステーキハウスに入ったのでした。まあ、スペシャルランチですから、安いことは安いので文句は無いのですが、それでもやはり昼間からの牛肉ステーキは50歳を過ぎた親爺にはちょいとヘビーでした。120gのステーキをご飯、スープ、サラダと一緒にぺロッと胃袋に収めた彼女は、満足げにデザートのアイスクリームなんぞを平らげたのでありました。さすがに私はライス抜き、デザートもコーヒーにして、バランスを保ちましたが、それでも満腹感に目の皮も弛んできたりしておりました。そして彼女は食後の一服とともに食後の与太話を開始したのです。「ボージョーボー裁判はさぁ、結局中国人が負けて看板下ろして決着ついたんだけどさ、今度はその店の隣でさ、帽子をかぶったボージョーボー売り出してさ、結局これもイタチごっこで、限がないのよねぇ」ここで、ボージョーボー人形について説明しよう。(タイムボカンシリーズのナレーション富山敬風にお願いします)数ヶ月前にニッポンのテレビで紹介されたサイパン名物のボージョーボー人形は、地元の言い伝え「幸福を呼ぶラッキーチャーム」として、その番組取材でやってきた某製作スタッフによって実証されたことからブレイクした民芸品です。まあ実証と言うかどうかはわかりませんが、その女性スタッフがこれをお土産にもって帰った途端、縁談がとんとん拍子に進んでめでたくゴールインというような出来すぎエピソードを全国ネットで流したものですから、そりゃ一気に大ブレイク、なんとその一週間後にはネットオークションで1万円近い値が付いたそうでした。人形は、確か$5くらいで売られていた、木の実(ってかほとんど使い道のない実です)を乾燥させて顔に見立て、これを紐でつないだ貧乏くさい飾り人形(っていうか、おまじないに使う民芸品みたいな人形)です。もう何十年も前からある地味ぃ~な民芸品で、地元の大型スーパーの隅に埃を被りつつも地味ぃ~に売られていたお土産でした。そんな民芸品が一夜にして熱狂の渦に包まれたのですから、田舎の孤島はもう大変な騒ぎになりました。まず、日本からの問い合わせがあちらこちらに入り、みんながダース単位で一気に購入を開始したものですから製作工場は大パニックです。工場ったって、地元の家族が数人で地味ぃ~にやってるようなトコですから、この突然訪れた熱狂に右往左往する家族。平和な田舎の民の生活を一夜にして豹変させてしまう恐るべき資本主義の誘惑。(なんちゃって)なんせ、それまで店の隅っこで地味ぃ~にぶら下がっていた10センチほどの人形、確か$5くらいで売られていたと思うのですが、ある朝からいきなりショーウィンドウに飾られて$10の値札をかけられたのでした。もちろん私のところにも日本から直通電話がバンバン入ってきました。「はぁ? ボージョーボー? えっ? なに、に、に、二十個ぉ~?」てなもんで、日本でそんな騒ぎになってるなどとはまったく知らない道楽親爺は、なんだか物好きな人もいるもんだね、などとブツブツ言いながら買出しに向かったのでした。そんな親爺がスーパーに行ってみて驚いたのは言うまでもありません。店頭のメインの座を射止めた人形が1体、見本と書かれたポップには$20の値札がついているではありませんか。「おい、ジョーダンだろ。いくらなんでもこりゃぼったくりじゃん」ってことで、私は少々腹立たしく思いながらも、工場へ出向いたのでした。なんつってもこの工場のおっちゃんは近所の顔なじみですから、原価とはいかずともせめて卸値(ってそんな大そうなもんじゃないだろって)で融通してくれるだろ、などと結構ノーテンキに構えて行きました。あいにくおっちゃん不在で、身内のオバちゃんが出てきて言うには、卸値7ドル50セントでミニマム100個、などとぶっきらぼうに言われてしまいました。とまあ、そんな騒動が1週間ほど過ぎた頃には、アチコチの店頭に「ボージョーボー人形」の看板が上がったのでした。しまいにゃ食堂の店先にまで現れ、その価格も最高は$35まで高騰しました。(いやいや皆様強欲でございます)そして、ここでついにサイパン島を揺るがす大事件が発生したのでした。(ば~ん!NHKその時歴史は動いた風にお願いします)なんと、繁華街のど真ん中にぽつんと建つ一戸建ての如何わしいラーメン屋。店先の「らーめん」の看板の下、「元祖ボージョーボー人形」なる看板が掲げられたのでした。しかし、どこからどうみても中国人経営の胡散臭いラーメン屋で、元祖ボージョーボーは相当に無理があります。(ってか、地元民にしかわかんねぇーだろーなこの異様さは)さあ、これを見てブチ切れした工場長のおっちゃん、なんと弁護士を立てて訴訟を起こしたのでした。(あ~、シヤワセを呼ぶボージョーボー)ということで、話はランチタイムの与太話に戻ります。(結構長いよね前フリが)結局、このラーメン屋は看板を下ろして決着したのですが、今度はその隣で帽子を被ったボージョーボーを売り出したのでした。(あーあ)まあ、最近ではこのボージョーボーを使ったペア人形だの、携帯ストラップ(にしちゃチト大きいケド)とか、色々なバリエーションが登場してきてますから、別に「オリジナル」の看板さえ掲げなければ良いんじゃないの、と思うのですが、この新作ボージョーボーはオリジナルの看板付だったのです。実はこのオリジナルという出し方が微妙なわけで、曲者です。つまりこのオリジナルという表現は、何に対してオリジナルなのかということですね。日本でも似たようなことがよくありますけど、これって揚げ足取りみたいなもんですから、この話はこの辺で止めましょう。さて、こんな与太話に花咲いた二人ですが、実はつい先日、私は戦友テリーのBBSに似たようなくだらねー書き込みをしまして、その時テリー氏が「ボージョーボーのバストをXXcmにして・・・・」というジョークを繰り出したのでした。そしてその時、私の脳裏に稲妻のごとくあるアイディアが閃いたのでした。「ブラジャー付のボージョーボー!コレはいける!」(・・・・・・・・・・・・・・)私はこのアイディアを友人の女社長にぶつけてみたのです。「どうこのアイディア?名付けてボージョーボーだじょう人形。売れそうでしょ?」「でもさ、ボージョーボーのバストって言ってもさ、丸い実にどうやってブラをつけるの?」「それを考えるのが社長の仕事じゃない」「えっ?なんで私がそんなもの考えなきゃいけないのよ」「ひょっとしてこの人形が大ブレイクしたら、一気にビルゲイツみたいになるかもしんないだから、そのくらい頭使わなきゃダメだよ~」「ビルゲイツねぇ~・・・・・」「ボージョーボーだじょう人形!」「・・・・・・・・・・・・・・・・」
2006年04月29日
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いやいや、早速盛り上がってしまいました「貧乏自慢」コンテスト!(えっ、これってコンテストだったの?)どうぞ皆様もお気軽に遊んで下さい。くだらなければくだらないほど高い評価を得られるという究極の非生産活動「貧乏自慢」「馬鹿自慢」、あなたの一銭にもならない自慢話を勝手に語って下さい。ルールは簡単。掲示板でもメールでもコメントでも何に書き込んで頂いても結構です。ただし、提案とか質問は不可です。もちろん誹謗中傷もダメですよ。ここは何といっても品の良い道楽者の集まりですから、どーらくに関するものでしたらジャンル、年齢、性別は問いません。っていうか、勝手に書くだけですから。(笑)ということで、早速いってみましょう。まず最初はyu-jiさんからです(^~^)本文ご紹介の前にちょっとノーガキこきます。(もったいぶってゴメンネ)「貧乏自慢コンテスト」のきっかけとなったクレイジーケンバンドのタイガー&ドラゴンですが、実は私、未だフルコーラスで聴いたことがございません。っていうか、CDも持ってないし、おとといテレビで見ただけですから、詩の内容はよく理解しておりません。(相変わらず頼もしいいーかげん・お調子者野郎ですね)そんな私にうれしいお知らせ。Yu-jiさんから歌詞の考察が入ったのでした。凄いです、このこだわり、横須賀へのプラトニックな愛に溢れています。それではタイガー&ドラゴンの歌詞のバックグランドをしっかりと噛みしめながらお楽しみ下さい。これは歌詞に描かれている横須賀の町並みの過去と現在の比較考察、昔と今の情景を鋭い描写で語るもうひとつの横須賀ストーリーです。それでは皆様も歌詞を口ずさみながらどうぞ。オレの話を聞けぇ~!昔) (吉倉)トンネル抜けると・・・(右にEMクラブがあって左にベースのドックと)海が見えるから・・・今) (吉倉)トンネル抜けると・・・(右にEMクラブを潰して作った変な高層ホテルがあって、左にスーパーのダイエーがあって、その奥にある高速道路の高架のせいで海がめちゃくちゃ見えにくいけど、一応)海が見えるから・・・昔) そのままドン突きの・・・三笠公園で・・・(その先に道はちゃんと出来てるんだけど、まだ工事中のせいで大きなコンクリートバリアが何個も置いてあって行き止まり、ドン突きの左側が三笠公園入り口、とてもわかりやすい)今) そのままドン・・・突かない・・・あれ?三笠公園の入り口は?・・・あ、行き過ぎちゃってる、歌と道が全然違うじゃねーか。この歌を聴いてその気になって、車ぶっ飛ばして横須賀くんだりまで出かけて、歌をナビ代わりに頼って行ったら大変なことになるところでした。ありがとうございました。しかも実体験に基づくエピソードも添えられています。どぶ板通りも昔は、危険な香りがいっぱい満ちていて、日本人お断りのバーがいっぱいあって、警棒をぶら下げたアメリカ兵のS.P(各艦艇持ち回り当番の憲兵)が2人ペアでいつも歩いてて、アメリカ兵が喧嘩してるのをS.Pが見つけると警棒をめちゃくちゃ振り回してぼこぼこの血まみれにして、サイレンを鳴らして来る軍用バンにぶち込んで基地内のモンキーハウス直行とか、そんな危なさが大好きな街だったけど、今はなんか変に健康的で寂れた商店街になっちゃって時代を感じますね。基地前のハニービーはまだあるけど、先代が引退したから口から火が出るほど辛かった本場物のタコスも日本人向けに変に甘い味に変わっちゃったし。あの不思議な時代はもう2度と無いねぇ。素晴らしいほどの時代描写に男の哀愁すら感じてしまいます。しかし、ニッポンの領土でありながら「日本人お断りのバー」とは一体どーゆーところだったのでしょうか?しかも70年代にすでにタコスを売っていたとは、なんとも素晴らしい街ではありませんか。当時、酢ダコのことを英語でタコスと言うのだと思っていた素晴らしいヤツも一人や二人ではなかったのではないでしょうか。「おまえら知ってっか?英語ってのはなぁ、何でも逆さまにひっくり返して言うんだぞ」シッタカ野郎のしたり顔が今でも目に浮かびます。最後にyu-jiさんから誠実な訂正までもらいましたので付け加えておきます。トンネル抜け「れば」、海が見えるから♪ の間違いでしたね。更にトドメは「電気くらげ」という歌詞から、ヴォーカルを和田アキ子さんと推定したあたり、やはりyu-jiさん、タダモノではありませんね。続いて本日二人目の貧乏自慢はYakitoriさんからです。オレの話を聞けぇ~!俺はジョン・レノンと背中をくっつけあった仲だぜ。(笑) こんなのはどうですか? イギリス人に言ったら、「おーいみんな聞いてくれ、こいつジョン・レノンと会ったんだってよ!」ってな感じで取り囲まれて小一時間尋問を受けました。(笑)軽井沢で後ろのテーブルでジョンがコーヒー飲んでただけなんですが。死んだ年の夏です。いやいやこれも凄い体験です。歴史的一瞬という荘厳さに思わずハッとしました。ジョンの生前、日本でコーヒータイムの空間をシェアした、単なる通りすがりのただの人としてひっそりと生き続ける美しい想い出ではないでしょうか。しかも背中合わせの軽井沢というところがいかにも道楽者好みです。これがハイアットとか赤プリだったりしたら興醒めですね。軽井沢という清楚な雰囲気とジョンの繊細さが見事に溶け込んだ素晴らしい自慢話です。何といっても極めつけは「死んだ年の夏」というところが更に叙情的で涙を誘います。さて最後は手前味噌ながら私の貧乏自慢をひとつご披露いたしましょう。オレの話を聞けぇ~!二分だけでいい~「電気くらげ」というキーワードに触発された私の貧乏自慢は、「オレは渥美マリの弟と同じ高校に行ってたんだぞぉ~」です。妙な下心を持つ思春期真っ只中のバカ達が弟に擦り寄って行きました。「ねーちゃんの下着持って来いよ。オレがさばいてやるから。ひともうけしようぜ」すでにこの当時からオークションに手を染め始めていたバカ小僧どものお話でした。(で、下着はどうなったかって、そんな上手い話があるわきゃありませんよ)ついでにもうひとつ、和田アキ子さんが地のまんま主役を張った、1970年公開の映画「野良猫ロック」、なんと舞台になったディスコは新宿サンダーバードでした。この頃からじゃないでしょうか。ゴーゴーハウスから踊り場とかに呼び名が変わっていったのは。映画では梶芽衣子さんとふたりスケバンを演じる和田アキ子さん、「ボーイズ・アンド・ガールズ」という歌を歌ってます。しかも一部英語ヴァージョンです。更に、モップス、オックス、オリーブなどGSも出てますし、井上陽水になる前のアンドレ・ガンドレもチラッと出てきます。和田アキ子さん、この当時本当に現役バリバリスケバンでしたから、ジージャンにジーパンスタイルがやたらカッコ良かったです。ちなみに和田さんは関西系ですから、ホントにケンカになった場合は関西弁になります。昔は京都のベラミとかで歌ってたらしいです。(山口組の田岡組長が狙撃されたクラブとして有名です)和田さんのお父さんって確か柔道の師範されてて、和田さんも子供の頃からビシバシと仕込まれたおかげで強くなられたそうですね。とにかくこの映画は新宿の街を縦横無尽に暴れまわるとんでもないアナーキーな映画でした。え~ここで委員長からお知らせです(笑)この70年代を疾走した日活アクション映画のサントラをプレゼント致します。応募資格は、70年代の日活アクション映画を熱く語る人、あるいはマニアにしか受けそうもない関連ネタ自慢できる方に限らせていただきます。(っていうか、はっきり言ってマニア以外は誰も聞きたくないと思うし)曲目は、1.野良猫ロック・セックスハンター 2.野良猫ロック・マシン・アニマル 3.不良少女魔子 4.禁じられた一夜・デュエットヴァージョン(これが凄い。なんと梶芽衣子と安岡力也のデュオです) 5.無頼のテーマ(渡哲也さん主演のヤクザ映画です)では、皆様からのくだらない自慢話をお待ちしております。
2006年04月28日
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えー、唐突に始まりました今日の道楽者日記は、クレージー・ケン・バンドの「タイガー&ドラゴン」をBGMにお読み下さい。昨夜は某クラブに行きまして、相変わらず客のいない店内で「いつまで持つかなぁ、この店・・・・」などと下世話な心配などしておりますと、突如として冒頭のような雄叫びが聞こえてきたのでした。「オレの話を聞けぇ~、二分だけでいい~」おっと、これは以前ビデオで見た「タイガー&ドラゴン」というテレビドラマの主題歌じゃん、とか思いつつ、静まり返った店内にぽつんと虚ろな映像を映し出すテレビに目をやると、画面では胡散臭そうなおっさんがシャウトしているではありませんか。しかも現地で放送されている唯一の日本語放送、NHKワールド衛星放送「歌謡ショー」からの録画です。(もちょっとましなビデオないんかいな)好奇心旺盛な道楽親爺はテレビに近づき、枯れた店の経営者に愛想笑いなどで社交辞令を交わしつつも「この店、年内まで持つかなぁ~」などと憂えながら画面を覗き込んだのでした。しかし、以前にビデオで見たドラマ「タイガー&ドラゴン」、確かTOKIOの長瀬君主演で落語をテーマにしたコメディだったと思いますが、あの主題歌を歌っていたのがこのクレージー・ケン・バンドだったんですね。まあ、確かに耳に付く歌でもあり、音的にも私らの年代の親爺好みサウンドです。テレビドラマを見ていたときは、「聞けぇ~」という叫び方が矢沢の永吉つぁんのシャウト歌唱法(笑)に似てたので、ちょっと印象には残っていたのですが、良く聴いてみると詞にも70年代のキーワードが散りばめられていて、親爺たちに捧げるちょっとしたDedicate Songかなとも思いました。「ふ~ん、こんなおっさんが歌ってたんだ」などと妙に納得した親爺でした。ということで、別にバンドの話はどーでも良いのですが、このサビのセリフ「オレの話を聞けぇ~」ってところが妙に頭に残ってしまい、更に「二分だけでいい」ってとこがかなりFUNKYだったので、どうもこのまま捨て置くことができません。(どーゆー意味やねん)この二分というのは一体何を根拠に規定されたのでしょうか?更にテレビ画面で見る限りでは、このおっさん、この曲を結構マジで歌ってます。今時こんな歌をマジで唄うヤツも唄うヤツだけど、聴くヤツも聴くヤツで、今の時代とのミスマッチとノスタルジック・センチメンタルが入り混じった微妙なFUNK魂が漂っています。今時の広告代理店(電通とか博報堂とか・笑)マーケティングアドバイサーあたりなら、パロディ系70年代風味を盛り込んだ音創りにしてくだらねーギャグにしそうですが、どうもこのケンさんはどこまでマジかわからない風貌が中々に芸達者と言えそうです。といった具合にこのおっさん、道楽親爺の関心をグッと引きつける「何か」をお持ちです。そういえば、最近NHKワールドにも登場してきたパパイヤなんたらとオヤジダンサーズとかいうのがおりましたが、あんな下品な企画を考えたヤツには親爺の広島弁が炸裂しそうです。私ら70年代をマジでディスコと関わってきた人間にとっては、あのパロディだけはちょっとムカつきますね。単なるオヤジにディスコダンスをさせて笑いものにするくらいは構いませんが、そこに70年代ディスコ・テイストを絡ませるあたりはどうもいただけません。更にその師匠と名乗るココナッツじゃなかった(笑)、パパイヤとかいうおっさん、ナリだけは一丁前に装ってますが、ちょっと、いや、かなりズレてます。大体アフロしたソウルマンがYMCAは踊らねぇーだろフツー。喰うに困ったヤツならいざ知らず、仮にゼニ積んで頼まれたとしても「なめんなよ」って断りますね、それがホンモノのディスコ野郎、ソウルマンの意地ってもんです。(何ムキになってんだよ)ということで、マンゴーじゃなかった(笑)、パパイヤとかいうおっちゃんがどこで何をやろうと別に知ったこっちゃありませんが、ことSOULと70年代ディスコに関しちゃ黙ってられないFUNKY親爺がいることを知るべきでありますね。(そうなの?)大体、本人が知らん時代を肴にしてゼニを稼ごうという料簡が気に入りませんね。「オレの話を聞けぇ~、二分だけでいい」ということで、ようやく話が繋がりましたね。(どこがやねん)ついに私はようやくこのブログ、「非生産活動推進委員会」の使命に目覚めたのでした。(なんか強引過ぎてついていけないんですケド)そうです、私がこの委員会を立ち上げた主旨は、日々の生産活動に疲れた皆様のオアシスとなるべく場所を提供することであったのです。(だから?)非生産活動委員会は本日ここに、「オレの話を聞けぇ~、キャンペーン」を提案いたします。ヤッター!(なんじゃそりゃ)当委員会では皆様から「貧乏自慢」を募集致します。(えっ?)皆様の日常生活、身の回りで起こったこと、心の奥底にある叫び、などなど、経済的にまったく役に立たない非生産行為をお寄せ下さい。といってもこれは某ちゃんねるの某掲示板とは違いますので、あくまでもご自身の自慢話に限らせていただきます。一銭の値打ちもない自慢を是非ともお聞かせ下さい。え~、ルールは、当ブログのコメントでも掲示板でもメールでもどれを使って頂いても結構ですが、倫理審査は委員長の私が全権を保有いたします。(笑)討論(ディベート)ではありませんので、提案とか、ご質問は不可とします。「オレの話を聞けぇ~!」ってことで、とにかく一方的に話して下さい。「二分だけでいい」ってことで限度は二分以内とします。(読んで二分くらいネ)締め切りはありません。だらだらと続けますから、思いついたらいつでもどうぞ。キャンペーンってことなら、何か賞も出さなくちゃいけませんね。(^。^;どーしようかなぁ~。とにかく何か考えますね。非生産活動らしい賞品を提供いたします。ということで、どうぞ皆様どしどしご応募下さい。どうです、少し人生が楽しくなってきたでしょ?相変わらずの成り行きいーかげん野郎の思いつきですから、どうせ長続きしないと思いますケド(笑)、しばらくはワクワクしながら遊んでみませんか?
2006年04月27日
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このところシブイ(笑)話題が続いております非生産活動推進委員会ですが、委員長の面目にかけてと、なんとか頑張って渋めのノーガキをたれております。(^0^)そこで今日はちょっと趣を変えて、引き続き「不良の絆」というテーマからかつて私が感動した映画のワンシーンを二つ取り上げてみたいと思います。まずは、不良少年の絆を見事に描いたフランシス・フォード・コッポラ監督の「アウトサイダー」です。もうタイトルがそのまんまって感じですが、これは50年代~60年代頃のアメリカのお話で、山の手に住む中流階級の子供たちとダウンタウン、いわゆる下町に住む下層階級の子供達の葛藤を描いた名作です。原作は十代でデビューした女流作家S.ヒントンの小説です。ストーリーはお馴染みの不良同士の対立を軸に、思春期の少年たちの心の葛藤とその成長を描いていきます。下町の不良グループ「グリース」と山の手の不良グループ「ソッシュ」は、その居住区と親達の社会的地位によって対立しています。まあ、この手のストーリーはアメリカ映画の定番で、ウェストサイドストーリー、理由無き反抗、暴力教室などなど、昔から随分と描かれてきました。映画の内容については深く触れませんので、ご興味のある方はどうぞご覧になって下さい。下町育ちの不良の方なら結構感動しますよ。主題かもスティーヴィー・ワンダーが歌っています。(エンディングタイトルで涙しますよ、きっと)さて、私が非常に心揺さぶられたワンシーンですが、それはこの映画の主人公であるポニーボーイ(トーマス・ハウェル)とジョニー(ラルフ・マッチョ)の二人が関わってしまう事件への導入部でのシーンでした。二人で映画を見に行った後帰宅してみると、ジョニーの家では両親が大喧嘩をしています。(貧乏人の夫婦喧嘩もお決まりですね・笑)ジョニーは家に帰りたくないと言って庭で野宿を始めます。ポニーボーイはそんなジョニーを見過ごしに出来ず、夫婦喧嘩が終わるまでと付き合いますが二人とも転寝をしてしまい、気がつけば深夜を過ぎていました。ポニーボーイは両親を亡くした3兄弟の末っ子で、本来ならば施設に預けられるところをなんとか長男、次男が働きながら面倒を見ています。そんな家庭ですから、ちょっとした不祥事が起こればポニーボーイはすぐに施設に収監されてしまうので、門限を守らず遅く帰宅したポニーを長男は父親代わりに厳しく嗜めます。兄に殴られて激しく抵抗したポニーボーイは家を飛び出してジョニーの元に走ります。庭でそのまま野宿をしていたジョニーは、勢い飛び込んできたポニーボーイと二人深夜の街に出て公園に着きます。映画はここで山の手の不良グループ「ソッシュ」と二人が遭遇し、乱闘となり、ジョニーがナイフでソッシュの一人を刺してしまうところからドラマは佳境へと進んでいきます。ちなみに刺される山の手の不良少年は、「ダンスに夢中」のレイフ・ギャレットです。(笑)どこに私が心打たれたかというと、それはこの「腐れ縁」というような絆なんです。この二人はお互いの心の痛みを十分に知っているからこそ、お互いを庇い合い、結局は二人でとことん行ってしまうことになるのですが、最後まで付き合ってやるよというお互いの腐れ縁みたいなところに非常に惹かれるわけです。自分自身の経験でも同じようなことが幾度と無くありました。遠い昔、まだ小学生かそこらのガキの時分でさえ、「お祭り」などの賑やかな場所で遊び呆けてしまい、所詮は群れた仲間も一人二人と帰宅していく中、後先考えずつるんでしまう仲の腐れ縁。お互い、親に大目玉食っても心の中に芽生えた連帯感みたいなものは、いくつになっても生き続けるもので、そんな絆が未だに私にとっての掟のようなものでもあります。さて、もうひとつの映画は金子正二氏の遺作となった「竜二」です。このお話は、あるヤクザがカタギになることに挑戦するというちょっと変わった映画です。金子正二氏演じる竜二という中堅ヤクザが、ある時稼業に嫌気がさしてきてカタギになることを試みます。まあ、前半のヤクザの生活が妙にリアリティがあって面白く、更にカタギになった先輩ヤクザなども登場して、非常に日常的な世界の中でストーリーは進んでいきます。ということで話は端折りますが、竜二がようやくカタギの生活にも慣れ始めた頃、昔の仲間が尋ねてきます。ヤク中で追い込みかけられて逃げ隠れしながら昔馴染みを頼ってくるのですが、カタギの竜二には今更何もしてやれません。竜二は手にした給料を握らせますが、所詮そんなハシタ金でどうにかなるものでないことはわかっていますが、涙ながらに懇願するお互いの胸の内が手に取るように解り、ひどく心を揺さぶられました。結局、この相棒は死んでいってしまうのですが、線香を上げに行った竜二がうらぶれたアパートで昔の舎弟桜金造に出会います。このシーンも痛いほど身に沁みました。自分が離れた場所、そこでは相変わらずの世界が繰り広げられていて、そこで生きる人間は未だに自分を同じ世界の人間として見ている、そんな言葉にもならない哀しみが本当にリアルに描かれていました。同じ腐れ縁でもこちらは少々哀しい絆のワンシーンでした。まあ、言ってみれば虚構の塊のような世界でカッコつけていた一人の男が、一般社会へ飛び出してみたものの、その世界の狭間で見たものこそが、自分の住むべき場所を再確認しただけだったというような話なんですが、中々に趣のある映画でありました。特別お薦めするほどの映画ということでもありませんが、不良映画(笑)にご興味のある方はどうぞご覧になってみて下さい。
2006年04月26日
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昨日は「こころざし」について書きましたが、Yakitoriさんから男っぽいコメントを頂き、久しぶりに侠気という気質について考えてしまいました。私は、この侠気というものは強弱の差こそあれ日本人には誰にでも備わっている気質だと思っているのですが、最近の情けない不祥事の数々を見ているとこの気質もすでに失われつつあるのかなとも思えてきます。私の祖父は福井の百姓の出でしたが、祖母は新潟の武家の出で、共に東京で縁が結ばれ渋谷で一旗あげた成り上がり者の典型でした。色々な商売をしながら一家を成していったわけですが、最後は運送業として小さいながらも若い衆を抱えて世田谷に看板を掲げるまでになったようです。そんな血筋ですから、私も幼い頃からしっかりと義理と人情の浪花節を聞かされて育ちました。母子家庭で育った私の隣には常に祖母が付き添っており、「話」といえばとにかく浪花節、時代劇なら忠臣ものか股旅もの、現代劇でさえ義理と人情の侠客伝みたいなものを四六時中聞かされておりましたから、否が応でも侠気が育まれる環境にありました。まあ、テレビを見てても東映の股旅物(長谷川伸シリーズですね)や、主君の仇討ち美談、たまに連れて行かれる渋谷の東横劇場では弁天小僧菊の介ですから、ものごころ付く頃にはもういっぱしの侠客像が出来上がっておりました。とにかく子供の頃から叩き込まれた教えには、「卑怯なことはするな」と「義理を果たせ」更に「弱いものへの人情を忘れるな」といった具合に、この徹底教育された「侠気」はたぶん私の中で一生変わることなく生き続けていくことでしょう。男親がいなかったせいもあるのでしょうが、祖母は孫である私にはかなり厳しくこの躾を施してくれました。たとえば子供の頃、メンコ遊びで仲間と組んで近所の悪ガキからメンコを巻き上げたりしたことがばれたりしたら、それはもう殴る蹴るのお仕置きの果て自分のメンコまで手土産に持って謝りに行かされたりしました。また、その頃よくつるんで遊んでた長屋の幼馴染も、親父が網走帰りの筋者で、どっちの家でも「卑怯」だけはとにかくご法度でしたから、たとえガキの遊びといえども卑怯なやり口は決して見過ごしにはされませんでした。今思えば近所同士がそうして子供の教育を見守っていた良い時代だったのかもしれませんね。人のうちの子供だろうがなんだろうが、悪いことしたら出張ってきて怒られたりしました。そんな環境で育った子供たちがいっぱしの不良を気取る頃には、妙な仲間意識なども芽生えて、ちょっとした任侠の世界に近い付き合いにもなっていました。思春期近くなると、同級生と言えども家庭環境の違いなどもひしひしと感じ始め、結局は幼い頃から同じ環境で育った者同士が自然と群れを成すようになり、学校の中でもいくつかのグループに分かれ始めます。原始共同体の発生ですか(笑)最近の子供たちは、家庭環境といっても昔のように極端な貧富の差もないし、片親とか共働きとかも当たり前のようになってきてますから、こうした群れ方というのも今はなくなってきているのでしょうね。私の時代では、商店街の子供、サラリーマン家庭の子供の二種類に大きく分かれて、その他貧乏人の子供というのが最下位に控えておりました。(笑)当然私は下層階級に所属しておりましたが、一番結束が固かったのもこのグループではなかったかと思います。まず、このグループには平和な家庭というものがほぼ無く(笑)、絶えず何かしらのトラブルに見舞われており、イザというときにモノを言う「金」が常に無いというお決まりのパターンが恒常的に押し寄せてくるという、そのような悲惨な環境下で育まれた友情ですから、すでに人生の縮図を見せ付けられた者同士の固い絆ともいえるものでしょう。そんな修羅場に生きていながらも、卑怯を嫌い、義理と人情に生きることを叩き込まれていくのですから、そのままやくざになっていく仲間がいたのも不思議ではありませんね。まあ言うなれば「お互いの痛みがわかる」ってことに尽きます。しかし、今にして思えば、「銭金の問題じゃねぇんだ」とか「金で片付く問題じゃねぇんだ」とかいう台詞は、確かにカッコ良い啖呵ですが、元々唯一の解決策であるべき金が無いのですからそう言う以外に無いわけです。(笑)同じ貧乏で苦しんでいる仲間が苦境に立っているとき、銭金のない仲間ができることは体を張ること以外にないのです。よしんば助けることが叶わぬまでも、仲間を一人置き去りにはできないという最下層ならではの思いやりがお互いに通じ合う、そんなギリギリの絆でもあります。その思いやりが世間一般で言う常識はずれだったり、世の中の法に触れることであったり、あるいは破壊的な力の行為であったりしても、その絆、いわゆる仲間の掟を守ることが侠気であり美学でした。もうひとつ言わせてもらえば、貧乏だからこそ体を張れるということであり、守るものが「生き方」以外の何物でもないからこそ仲間の絆が生まれるってことです。下手に金や物を持っていると判断が鈍るし、見えるものも見えなくなったりしてしまいます。だから同じ不良で育った者同士でも、ちょっと金回りが良くなってきたりすると「守り」に入っていってスケールが小さくなってしまうヤツや、いっぱしの顔を持つようになって親分のような立場になって、いわゆる世間一般当たり前のこと、人並みな常識みたいなわかりきったことを言い出したりするつまらないヤツになったりしてがっかりさせられることもありました。世の中が定めた「良」からはじかれることが「不良」なわけで、そう考えると不良とは呼ばれるものの誰しもが良を基本に持っているということになります。それは生活する世界や時代で「良」を選別する規格が違うだけのことで、「不」はいつでも「良」に成り得るということです。そして人間としての普遍的な「良」というものが、「侠気」とか「任侠」とか呼ばれるものではないかと思います。昭和の伝説的人物、不良の神様と言われた万年東一氏の言葉を借りれば、「任侠とは、損とわかっていてもやること、損とわかっていることに賭けることができること」そして「だからよく考えてみるとバカなんだよ」というように、いまや世の中からこうした馬鹿さ加減が忘れ去られようとしているように思えてなりません。(俗に言うそろばんずくってやつですか)大体不良と言うのは「良」を見限ったこの馬鹿さ加減に美学を持つ生き方ですから、既成の価値観を見下したところでカッコをつけることが不良ということにもなります。ですからこの侠気、任侠と言うのは、ヤクザやアウトローだけが持つものではなく、その職業ではなしにその生き方にこそ存在する、誰もが持っている資質であります。さて最後になりますが、「良」より更に複雑で一番厄介な「善良」という存在にはどうかくれぐれもご注意下さい。
2006年04月25日
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道楽者の皆様こんにちは。非生産活動推進委員会がお送り致します、ほとんど役に立たない人生コラムです。昨日の日曜日はこのブログ日記をお休みさせて頂きました。とにかく今日まで単なる勢いだけで書き綴って参りましたこの日記ではございますが、こうして昔話などを繰り返しているうちに、何十年と私の心の中にモヤモヤとしていた何かがようやく「言葉」というカタチになって現れ始め、なんとなく現在の自分というものの外郭が見え始めたようにも思えます。とは言うものの「だからなんだ」というようなものですが、とにかく今まで私の心の中に燻っていたものが吐き出されたような感じで、この歳になってようやくスッキリ、サッパリ、けじめがついたというようなことでもあります。ところがこうして言い切ってしまってみると、こうした爺のノーガキも実はモヤモヤしたものがあったからこそ書いていた、あるいは書いてこられたという妙な結末に辿り着いてしまったのです。(っていうか、これって屁理屈のリンクみたいな感じなんですけど)とにかく、昨日一日ぼーっとしてこんな屁理屈を、あーでもない、こーでもないと思いめぐらしているウチに居眠りをこいたりして、「やっぱりオレは頼もしいどーらく野郎だった」などと妙に納得したりしたのでした。(なんのこっちゃねん)まあ、簡単に言ってしまうと書くことがなくなったということなんですが、だからといってこのままやめちゃうのもなんだしなぁ、とか考えているウチに安穏としたお昼寝に突入していったのでした。(えーかげんなやっちゃなぁ)ところが、このうつらうつらとした鼻提灯状態の中で浮かび上がってきたキーワードがあったのでした。それが「志(こころざし)」です。なんと清々しくも気高い言葉でしょう。なんかもうこの一言でどんな人間の人生も肯定してしまうほどの尊さがありますね。なんだか日本海の荒波に向かって岸壁に颯爽と立つ武士のような姿が想像されます。(笑)どんなに虐げられようが、苦境に立とうが、「志」という錦の御旗がある限り、人は神々しくも胸を張って生きていける、そんな姿を象徴する言葉です。では、私のような道楽者を象徴する言葉って一体なんでしょうか。「三日坊主」いやいや、どんな人間の人生をも否定的にしてしまう、実に退廃的な言葉ですね。(笑)このボウズという表現になんとも投げやりな姿勢が伺えます。「坊主と乞食は三日やったらやめられない」とか、どこかで聞いたことがありますが、ちょっと意味が違いますねぇ。(笑)それにしても何かをやり遂げた人の結末として、この「志」という言葉はどのような見返りよりも素晴らしいご褒美だと思います。それに比べて、何かをやり遂げられなかった人を形容する「三日坊主」というのは、侮蔑をこめた言葉でありながら、どことなく憎めないものがあります。よぉ~し、やるぞ見ておれ~!屋根の上に立って空を見上げる凛々しい志士のような姿を心の中に思い描いて立ち上がりますが、三日もせぬうちに障害にぶつかって、ポテっと落ちる姿は結構笑いを誘います。だいいち、この手の志士に周囲は始めから何の期待もしていませんね。(笑)でも、こうしたアホな志士が存在するからこそ、ごく一般のフツーの人々も安心して暮らしていけるのです。(そうなの?)そりゃそうでしょ、そんなに「志」ばかり持った人間で世の中溢れてたら、おちおち居眠りもできませんね。そんな緊張だらけの世界を誰も望んではいません。それにどんな人間だって口には出さずとも、少なからず心の中に思い描く志は持っていますし、結果が出て初めて口に出せるということでもあります。それを軽く口走ってしまう、いわゆる大風呂敷野郎はある意味、結果が出せなかった善良なる一般市民のためのスケープ・ゴート的存在なわけです。志半ばで倒れた志士に与えられる努力賞の影には、こうした三日坊主が必要なのです。「まあ、気を落とすなよ。口先だけでコケた三日坊主の与太郎に比べれば、ここまでやったお前は立派だよ」というように、これも三日坊主という立派な役割を演じている道楽者あってのことなのです。そして、この道楽者の「中途半端な生き方」も、それはそれでひとつの志ではないかと思うのです。道楽者からの提案「テキトーの奨め」です。
2006年04月24日
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その昔、不良少年の教科書とも言われた矢沢永吉氏著「成り上がり」は、当時のツッパリ小僧やらロック少年、バンド小僧などを虜にした立身出世物語でした。金も頭も無く、ただロック音楽に人生を賭けて成り上がっていった男が語る、現代版「豊臣秀吉」みたいなペーソス・ストーリーです。かくいう私も一時はこの本を読んで勝手に盛り上がったバカのひとりですが、所詮はそこまで成り上がっていくほどの根性も精神力もない、どこにでもいる夢見がちな単なる若者のひとりであって、その本に描かれた泣き笑いエピソードに自身で酔ったというだけのことでした。まあしかし、あれだけの一大ブームを巻き起こした「エーちゃん」はやはりニッポンのロック史に残るヒーローであることは間違いありません。とにかく人生にいじけてしまった奴らにとっては、最高のカリスマであったろうし、その言も行動も、日頃抑圧されたいわゆる落ちこぼれ野郎たちにとっては胸のすく活躍だったと思います。(カッコよかったよね)少々カタチは違いますが、私もバンドを作ってレコーディングをしたことがあったのですが、それが偶然にも矢沢さん率いるキャロルというバンドがデモ録りに使用した時のスタジオだったりして、これはひょっとするとオレもエーちゃんのようにビッグになれるのかなぁ、などと都合の良い夢を見たりしたことが思い出されます。その後何年かが過ぎ、この本で語られたいくつかのエピソードと同じような場面が自分の周りでも起こり、その時初めてエーちゃんの体験と自分の体験が重なりあって、実感のある自身の哲学となっていきました。まあ言ってみれば「学習」ってことでしょうか。先人の言葉に心が沁みたというような感じですね。そういう意味でもある種の教科書という表現は決して大袈裟ではないと思います。私がこの「成り上がり」という本の中で共鳴した体験はいくつかあるのですが、中でも一番印象に残っていて、なおかつ今でも明確な持論として残っているエピソードがあります。それは、エーちゃん率いるバンドの下積み時代のお話で、地元横浜でもそこそこの人気を得ていた頃、エーちゃんが歯痛で寝込んでしまい、リーダーを欠いたバンドはなし崩しに低迷して行ってしまいます。そんなバンド・メンバーの間ではそろそろ将来の不安も募り始め、同時に彼らが出演していた店に出入りする若者たちにとっても「遊び」の時代が変わり始めていました。メンバーの中ではエーちゃんが一番頼りにしていたギタリストの木原氏も、大学へ戻るかプロの道へ進むかという岐路に立っていました。そんな状況でエーちゃんは歯の治療を終えてバンドに復活してきましたが、ほんの数ヶ月の間に周りのもの全てが変わってしまっていたことに気がつきます。彼らのバンドに熱狂した「客」たちも時代の終焉に向けて一人二人と社会へと出て行きます。当然彼らのステージもジワジワと追い詰められていくことになり、同じ時代を生きた仲間がここでひとつの節目にぶち当たります。そして、木原氏から最後通告を受けるエーちゃん。矢継ぎ早に話題を繰り出すエーちゃん、何とか木原氏の口から「別れ」の言葉を出させないようにと願う、そんな追い詰められたエーちゃんが一番頼りにしていた相棒から別離を告げられるエピソードです。(ちょっと男女の別れ話にも似た情景でした)ある時期を同じ熱狂の中で過ごした仲間。熱病にかかったような青春の一時代。あたかもそれが自分達の全てであるような狂気に満ちた時代に翳りが見え始める頃。浮かされていた熱に醒めていく過程で、それぞれが社会とのかかわりや生き方についてようやく冷静に判断を取り戻していきます。そして帰るところのあるヤツらだけがその帰るべく場所に戻って行き、帰るところのないヤツらはそこでしか生きていけないことを受け入れるしかない。その、時代にひとり取り残された時の疎外感、孤独感は、体験したことのない人には絶対に理解できないものだと思います。どんな時代でも、どんな世界でも、このような大きな分かれ道は必ず存在し、選択するのは自分自身でしかなく、この選択を評価できるのも自分自身でしかありません。でも私は、二つの生き方を秤にかけた時にどちらを選んだかという解釈ではなく、実はすでに選んでいた人生を生きているという解釈を持論としています。だからその根底に流れている「帰るところの無い」ヤツらというのは、すでに岐路に立つ前に帰るところを捨てているのです。そしてこの帰るところのない生き方を選んだヤツらこそが、本当に信じられる仲間であり、その感性こそがホンモノであると、未だに私は信じています。私の体験で言わせてもらえば、1970年代後半のディスコという非常に狭い世界の話ではありますが、やはり時代の流れに衰退していく過程でDJ仲間やバンド仲間も一人二人と消えていきました。ある者は大学生に戻って行ったり、ある者は稼業を継いでいわゆる一般社会人となっていったり、役所に就職したヤツもいました。結局残ったヤツらの顔ぶれを見ると、やはり時代の始まりから関わってきたヤツばかりなんですね。これはどういうことかというと、もう戻れないところまで来てしまっている自分をよく知っている、というか初めから選択肢がないんです。逃げ道がない。そうして振り返ってみると、学生に戻っていったヤツらなんていうのは、一番要領の良い部類で、もう初めから帰ることを前提に遊んでいるわけですね。要は同じ世代のグループの中でちょっとカッコつけていたい、というようなファッションの世界でしかない。元々そんなリスクのある生き方を本気でしようとは思っていません。いずれは大学出て企業に就職して、みたいな漠然ながらもある程度の生活設計があって遊んでるわけです。滑り止めみたいな感じでしょうか。とりあえず大学出てれば何とかなるだろなんてのが殆どですね。当然、そんな片手間で遊んでるヤツらに、時代をクリエイトしていく感性など生まれるはずがありません。稀に、もの凄い感性、才能があって人生の岐路に立つ人間もおりますが、そういう逸材はどっちに転んでも名を成していますね。(笑)よくアマチュア・バンドとかに多いのもこの手の連中で、上手くいったらそっちに行く、みたいな考えです。では、その「上手くいく」っていうことの正体ですが、言わずもがな、それは安定した生活ってことですね。あわよくば大金掴むみたいな。食べるのに困らない生活があって、世間にチヤホヤされつつ、自分の好きなことをやっていく、というような限りなく都合の良い夢に乗りつつ、しかもダメなら学生に戻ってテキトーに勉強して卒業すればどっか就職はできるだろ、みたいなマスタープラン(笑)ですか。もうお分かりですね。彼らの底辺に流れている考え方というのは、社会に出て人並みな生活をするということが全ての前提になっているということなんです。とりあえず安全な経済社会のシステムの一部には籍を置いておいて、ロックだソウルだパンクだ、ハナだチョウーチンだと屁理屈こいては遊んでいるわけです。一方、これらの選択をすでに蹴り飛ばして遊び一本で突っ込んでいったヤツには、社会人としての人並みな生活は出来るにこしたことはないが、さほど期待はしていません。というより、安定した生活をするために業界に入ったわけではありませんから、そんなことよりも好きなことに全身まみれて関わっていたいという欲求の方が強いわけです。後先考えずに飛び込んでいったというような、結構行き当たりバッタリな人生を歩き始めたのですが、同時にこれでメシを喰っていかなければならないという命題も背負い込んでいますので、傍で見るほど気楽でもありません。そうこうして育まれていく感性が時代を引っ張っていくわけですが、それでも才能の無い人間だって当然いますから、これは可哀想でも仕方の無いことで、本人の努力やキャリアだけではどうにもならないことだってあります。それでも、どーしてもそれが好きで辞められないっていう往生際の悪いヤツ、もうこれしかないから何とか生き残ろうとしてジタバタしているヤツ、戻るはずのガッコからも蹴り出され、業界からも弾きだされてしまったヤツ、そういうロクデナシ野郎達こそ、私の愛すべき「戦友」たちなんです。逃げ場の無い生き方こそが、私にとって唯一信じられるリアリティなんですね。自分は常に安全圏に身を置いていてノーガキを垂れたり、自分でやったこともないくせに、あるいはできもしないくせに人を評価するとか、あるいは周囲の環境を見ながら上手い立ち回りを考えるとか、そんな薄っぺらな人生を生きている人間の対極にいるのがこうした不器用な私の愛すべき道楽馬鹿なんです。みなさんが「成り上がり」という本をご覧になったかどうかはわかりませんが、不良のカリスマ・矢沢永吉のような男がもし貴方の生活に入りこんできたとしたら、たぶん貴方はその生き方に憧れるどころか先ず拒否反応を示すと思いますよ。現実にこんな強引に我を通していくハッタリ野郎みたいな男が現れたら、普通の人は迷惑だし付いていけないと思います。でも彼は嫌われようが傷つこうがそれをやったのです。そして自分の思いを貫いた。だから、やらなかった人間が彼を評価することはできませんね。よくありがちな三文屁理屈に、こうした人物を評論することによって、その人物と自分が対等であるかのように思わせようとする人がいますが、これは大きな間違いですね。ニッポンの総理大臣について誰でも評論はできますし、ノーガキを垂れるのは勝手ですが、それで総理大臣と自分が同位置、同格になったつもりになると回りの人たちが大変迷惑しますからやめましょう。どうしても同格であるとアピールしたいのなら、少なくとも国会議員になって議会に参加しなくてはいけませんね。まずは同じ土俵に上がってからのお話です。またちょっと脱線してしまいましたね。
2006年04月22日
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先日この日記で捜索をお願いした私の戦友チェング宮内君ですが、彼の正式名称はミヤウチ・マサキと言います。冗談抜きで、もしこのような人物に遭遇しましたら是非ともお知らせ下さい。お願いします。あるいは、サイパンでロニーが心配していると伝えて下さい。チェングに会ったら伝えてよ~、ロニーが待ってるとぉ~(五番街のマリーの替え歌でお願いします・笑)さて、昨日は私がこのチェングと言うバカ友とサイパンに来ることになった経緯をお話しましたが、このように昔からかなりデタラメな生き方をやり倒してきた私は、その後サイパンという孤島にはぐれてからもまったく反省するわけでもなく未だにデタラメな生き方を続けております。ということで、今日はこのサイパンで出会った面白いオッサンの話をいたしましょう。オッサンと言ってもサイパンで出会った当時はまだお互いに三十代でしたから、今にして思えばまだあんちゃん程度の年齢でした。そのおっさんというかあんちゃんは、当時「なんとなくクリスタル」などという小説で一世を風靡した現長野県知事と同姓同名でした。仮にタナカ氏としておきますが(笑)、私が彼と出会ったのはサイパンでビデオショップを始めて1年ほどたった頃でした。ガリガリに痩せた一見ポン中のような感じのお水系野郎でしたが、私にはすぐに同種族であることが感じ取れました。彼の登場からしてすでに道楽者の馬鹿野郎丸出しでした。ビデオショップに現れたタナカ氏は、当時一緒に店に出ていた私のWIFEをつかまえて、「ねぇねぇ、どこに住んでるの?電話番号教えて」と声をかけてきたのでした。まあそのころはMY WIFEもまだ20代で若かったですからね、一応ナンパの対象になったりもしておりました。ってか、サイパンまで来てナンパすんなよとか言いたかったですけどね。(笑)まあこっちにしても相当に気合の入ったいーかげん野郎でしたから、すぐに匂いをかぎ分けて、「おっちゃん、面白いね、この状況みてちょっと変かなぁとか思いません?」と声をかけたのでした。「えっ、何が」と年季の入ったおとぼけ技です。ってかホントにボケてたのかもしれません。(笑)「それってひょっとしてナンパですか?大きくジャンルわけすると」と率直な質問をぶつける私に彼は「う~ん、まあ、大きく別けるとそういうことになるのかなぁ」ということで、私に遅れること1年、サイパンにやってきたおっさんでした。タナカ氏は私よりひとつ年上、赤坂のコルドンブルーにいたということで、もちろん同世代ですからディスコもそこそこ行っていたようです。とはいえ「お水」ということでは一緒でしたが住んでた世界はちょっと違っていたようでした。元々の出身は東京タワーの真下だったそうで、やはり区画整理で川を越えていった人々の一人だったようです。偶然と言えば偶然で、私の小学校の同級生であった秀才娘の姉上と婚約していたことがあったというのも何かの縁があったのでしょうか。この秀才娘は一家揃って全員東大という、おりこうさんのサラブレッドのような家系の娘でした。私の同級生であったそのお嬢ちゃんも、小さいころから異常なほどに頭の切れる娘でありましたし、その姉上様もガッコを代表するような天才少女のようなお嬢様でした。そんなお嬢様と、このどーみても軽薄そうな単なるポン中のあんちゃんとが婚約していたという話は俄かに信じがたかったのですが、破談になった理由がお嬢様の精神破綻だったと聞いて、こりゃひょっとしてこのあんちゃんが気を狂わせたんじゃなかろうか、などと疑ったりしてしまいました。それにしてもこの天才肌の一家の娘と付き合っていたくらいですから、彼の頭脳もそこそこにではあったのでしょう。「天才と狂人は紙一重」というのが彼の持論でした。とまあ、前置きはこのくらいにして、このタナカ氏の面白さをそろそろ語らせていただきましょう。彼はお水で育った私の同類でしたが、実は彼の本職はばくち打ちだったのです。ギャンブラーと言えばカッコ良いですが、彼の風貌から滲み出てくるイメージはどう見ても「博打」打ちでしかなく、博打の最中にトイレでシャブかなんか打ってそうな顔に険のでるような感じでした。(笑)そんな不良仲間にサイパンという僻地で遭遇した私は、久々に見た道楽野郎とすぐにお友達になると早速彼の生い立ちなどを根掘り葉掘り聞いたのでした。彼は某私立大を卒業後すぐに「お水」の世界に入るが、同時にプロ雀士を目指して雀荘に入り浸り、競馬競輪、花札賭博からバカラまで、とにかく賭け事という賭け事にはすべて首を突っ込み、そのうちに某組のお偉いさんの代打ちなどをするようになり、本格的なばくち打ちの世界へと入っていったとのことでした。そんな遊侠三昧の生活で知り合った某クラブの女性と結婚し一女をもうけましたが、ハナからまともな生活など望まぬ男でしたからすぐに離婚、養育費や生活費のために当時流行りのポーカー屋を始めて一儲けしたのですが、桜の代紋の追及を逃れるためサイパンへ来た、という漫画アクションの安物劇画のようなストーリーでした。そんなこんなでしばらくは遊んで暮らすくらいの小金を持ってきていたタナカ氏でしたが、所詮は道楽者の遊び人ですから、こんな田舎でいつまでもぼーっと燻っていられるわけがありません。ひと月ほどしたある日、タナカ氏から呼び出された私はビーチ沿いにあった掘っ立て小屋のバーで商売の相談を受けたのでした。「実はオレの筋からさぁ、変な掛け軸と壷を貰ったんだよね」「へぇ~。じゃあ高価なものなんじゃないの」「そうだねぇ、それでも10万はしないと思うんだけどね」「10万でも十分高価じゃないの」「でさぁ、ここにはさ、韓国人とか中国人の金持ちが結構いるよね」「ああ、資本家みたいな連中が結構いるよね」「で、どうだろ、この掛け軸と壷をさ、1千万とか2千万の値札付けて飾っておいたら売れないかね」「そりゃいくらなんでも無茶じゃないの。特に中国人なんてのはこういったものの鑑定とかにはうるさいから、結構目利きがいるんじゃない」「そうそこがポイントなのよ。要はそんな玄人っぽい詐欺師を相手に話を持ちかけたらいけるんじゃないかと思うのね」「詐欺師?」「ほら、どうせこういう骨董品みたいなもの集めてる爺とかってのはさ、道楽で集めてるわけだから、日本の国宝級の品ですみたなことを言えばさ、モノ好きな親爺が買うかも知れないじゃん」「・・・・・・・・・」「戦時中、日本の資産家のウチにあったシロモノが出てきた、みたいな話だったら信憑性もあるじゃない。戦禍に巻き込まれずに保存されてたみたいな」「でもこの島って玉砕して全滅だったんだよね」「だからそこらへんを上手く立ち回って売りつける詐欺師がコレに乗ってくればさ、たとえ折半でも十分おいしいと思うんだよね」「でもさ、それまで店の家賃とか生活費はどうするわけ?」「そりゃ決まってんじゃない、なんとかツケにして粘るのよ」「ツケねぇ~」「たとえ1年無収入でも、売れたら一発で精算、店じまいってことで、それまではこれひとつ売ることだけに集中するんだから、難しいこと考える必要もないし、どうだろ?まともな商売してたって、どうせ毎日悩むんだから、ツケで粘るのも悩みは一緒じゃない。だったら、ケチケチ悩んでないで1年分まとめちゃえば気が楽じゃない」ということで、一晩で何千万円が動く博打を経験してきた者のみが知る狂気の世界でした。とにかく彼の発想はデタラメ以上のメチャクチャでしたが、なんだかんだと言いながらも、こんな与太話を繰り返して3年ほどグダグダしてましたね。最後はアパートの家賃踏み倒して帰って行きましたが、半年後に免許を取ると言って戻ってきたのですが、運悪く台風に見舞われ試験は延期、結局それから二度と戻ってくることはありませんでした。(やっぱ日頃の行いが悪いんだろうなぁ)たぶん今でも都内の高級雀荘あたりに出入りしていると思いますが、同じ道楽者でも博打ウチだけは注意が必要です。かなりの量のエンドルフィンが脳内に溢れ出ている方々が多いので、この脳波に共鳴してしまうと取り返しのつかない人生を送ることになりますのでくれぐれもご注意下さい。
2006年04月21日
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昨日までのあらすじ(笑)ディスコDJで食いつぶした私はひょんなことから、当時の流行り商売であったレンタル・ビデオのお店を任せられ、そこで旧友DJ仲間だったチェング宮内と再会しました。ビデオのダビング技術に凝り固まったチェングと新たな生活設計を企む私、そんな二人がセコイ商売を思いつきせっせとビデオのコピーに明け暮れる日々が続いておりました。道楽者のチープドリームはいよいよクライマックスに突入です。レンタル商売は在庫数が勝負ですから、とにかく1本でも多くのコピーソフトを作ろうと、せっせと店の片隅でダビングを続ける私のところに胡散臭いおっさんが二人尋ねてきました。「ここはコピーが随分とありますね」なんじゃこのおっさんらは?ってなもんですが、そこは商売ですから「ええ、まあ、そうなんですけど、VHSはオリジナルですから、ベータはそのコピーなんでそんなに画質は悪くありませんよ。その分二百円安くしてありますから」なんて答えると、そのおっさんはいきなり私の目の前に名刺と身分証明書を突きつけてきました。「私は日本著作権協会から委託を受けて違法コピーの調査を行っております」さらにそのおっさんの後ろに突っ立っているぼーっとしたおっさんを指差して、「こちらは○○法律事務所の方です」うすうすこんな日が来るだろうとは感じていましたが、まさかこんな地味ぃ~でしかもボーっとしたオッサンが調査員だとは思いませんでした。もっと、こう颯爽とした刑事さんみたいな人たちがドカドカと来て、パッと警察手帳かなんか見せて「査察です」とかなんか言うのかと思っていたのに、ちょっと期待はずれでしたね。なんか「へっ」って感じで、迫力ねぇなぁ~とか思いましたね。「コピー商品で御商売されているようですが、これは違法行為であることはご存知ですね」「はあ、でもウチはVHSはちゃんとオリジナルを買ってますから」「著作権管理上の損害賠償訴訟の対象になります」「はあ、じゃすぐにしまいます」「こちらの経営者はあなたですか」「ええ、まあ、そんなもんです」「一応、私共の顧問弁護士でありますこちらの先生の事務所に一筆入れて頂いて、これらの違法ソフトを任意提出して下さい」「任意提出?ですか?」「はい。今後このようなコピー商品を置かないという約束と、違法ソフトの処分をこちらの弁護士事務所にお任せする旨の書面を頂きます」「ああそうですか。じゃもう全部持ってって下さい」「いや、私共が持っていくのではなくて、任意で提出して頂くので弁護士事務所に送付して下さい」「そ、そうふって、これだけの本数を梱包して送るんですかぁ?」「そういうことです。ここで扱っているコピーソフトの全てを提出して下さい。それで和解したことにします。もし御了承いただけないようですと訴訟ということになりますので、莫大な賠償金を求められることになります」ひぇ~、こりゃちょっとした追い込みじゃん。ってなもんで、風采の上がらぬおっさんふたりに恫喝された私ですが、根がテキトー野郎ですから、訴訟でもなんでも別にオレが困るわけでもなんでないし、好きにしてヨ、みたない相変わらずのお調子根性が頭をもたげてきたのでした。「あのぉ~、じゃこっちのアダルトとかも一緒に送った方が良いですよね」「いや、そっちは私達の管轄外ですからお任せします」「へぇ~、じゃポルノはコピーしても良いんですか?」「いやそうじゃなくて、それはそれで違法にあたりますが、今は著作権管理を委託されている会社の商品について調査しているので、それはまた別の機関で行われると思います。ですから、やはりコピー商品は扱われない方が良いと思います」「じゃあ、この黒ラベルとか覆面ビデオなんかはどうなるんですかね?」「さあ、これらは著作権協会に登録していないので私の担当外です」「あのぉ、この先にコピーばかり置いたレンタル店があるんですけど、あそこはどうなるんですか?ウチより悪質だと思うんですけど」「もちろん先ほど調査させて頂きました」「ってことは店のテープ全部任意提出するんですか」「まあそういうことになりますが、詳しいことはお話できません」「テープの梱包は時間かかるし、郵便で送っていいですか」「一応これも和解条件の一つなんですが、調査から10日以内と定められていますので、宅配便を使われた方が良いでしょう」「黒ねこヤマトがよいですかねぇ、それとも佐川急便の方が早いかなぁ」ということで、そんなくだらない質問を続けてかれこれ1時間くらいグダグダしていたのですが、そのうち向こうも面倒臭くなったのか名刺を置いて帰って行きました。実はこのおふざけにはちょっとした理由がありまして、当時違法コピーよりも重罪だった「海賊版」と呼ばれる映画ソフトが出回っていて、これは製作者、販売業者、レンタル店の全てを徹底的に調べるという情報が入っておりましたので、なんとかこれだけはかわさなければならなかったからです。もちろん店頭におおっぴらには出せませんから、常連さんとか、映画マニアみたいなお客さんにこっそり貸し出すというような、いわゆる裏ビデオみたいなものでした。私の店ではさすがに裏ビデオは扱いませんでしたが、この「海賊版」はしっかりと常連ファンができ、毎月新作は結構な回転率で良い商売になっておりました。この海賊版というのは、輸入ビデオ(アメリカ映画のソフト)にワープロで字幕を打ち込んだもので、当時はロードショーとほぼ同時にこれらのソフトが出回ったりしました。更に、日本では配給がつかないマイナー、いわゆるB級映画とか、映倫のボカシ修整が入らない画像とかがマニアの間で人気となり、地下の商売としてそれなりのネットワークが張られていたのです。当時はカバン屋と呼ばれるこれら業者は店の閉店時間ギリギリにやって来ます。たぶん、改造ビデオは1本で、あとはダビングしていくのでしょうから、流通システム的に言えば裏ビデオと似たりよったりでした。どうも出自が卑しい私は、こういった反体制的な闇の商売とか密売みたいなものに引かれるタチなものですから、向こうも匂いをかぎつけるというのか、結構お友達になったりして、画質もそこそこ比較的早いルートのダビングが回ってきておりました。とまあそんなワケで、調査員の手が「海賊版」に触れぬよう、なんとかしらじらしいバカ話ではぐらかしたのでした。しかし、いつの時代もこういった流行に乗った商売を考えるヤツがいるんだなぁ、と感心したものでした。なんか世の中の隙間を縫うっていうのでしょうか、その発想が非常に面白いですよね。しかも遊び心に溢れています。さて、ガサいれを喰った私の店ですが、もちろんオーナー会社では「おまえ個人の経営ってことでゴマかしてくれ」ってなことで、まあ、それは当然のオツトメですから反論するはずもありません。この頃、オーナーは系列で4、5軒持っていましたから、組織的にコピー商品を扱っていたことがばれると厄介なことになるので、なんとか私個人のところで抑えきれってことでした。私はさっそくチェングに電話を入れました。「おい、ラッキーだぜ、ガサ食ったからテープは廃棄処分だ。どうせ数なんか数えやしねぇから、半分頂いちゃおうぜ」てなことで、チェングに車を用意させ、閉店後の店にこもって商品の選別です。人気のない映画は全て任意提出用、回転率の高いソフトは全て私とチェングで責任もって廃棄処分と致しますってなもんです。音楽ソフトは全て個人の所有物となりました。(これで私が古いMUSICビデオを所有しているワケがお分かりいただけたと思います)道楽バカ二人のチープ・ドリームに向けてビデオソフトの在庫が一気に揃ったのでした。翌日、私は早速弁護士のセンセーにお電話を申し上げ、平身低頭慇懃無礼(笑)態度で、どのような処分でもお受けいたしますなどと殊勝なことを言いつつ、センセーのご指示通り始末書一筆添付してダンボール箱に詰めたコピーソフトを弁護士事務所に送付したのでした。(着払いにしたろかと思いましたが、今後のこともあるので自腹切りました・笑)さて、私の会社からは「よくやった、ご苦労さん」などと労いの言葉を頂きましたが、こんな状態ではこの商売もどうせ長続きはしないだろうから、それならいっそのことチェングと相乗りして一発賭けにでるか、と考えたのでした。そんなこんなで郊外の駅前店舗を探しているうちにチェングがデカイ山を引っ張ってきたのでした。「サイパンでビデオショップやろうぜ」「えっ?裁判?」「違うよ、サイパンだよ。とにかくもうちょっと辛抱してろよ。近いうちに話が煮詰まるから」このアホタレの一言で私の人生はトワイライトゾーンへとワープしていったのでした。爺の話はどんどん脱線して止まらなくなりますので、一応このお話はこれでおしまいということで、レイダース・サイパン編はまたあらためて。。。。。。。。
2006年04月20日
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京浜東北線東十条駅前でビデオショップをやっていたのは、確か1984年頃だったと思います。ようやくビデオデッキも10万円を切るようになって、一般家庭に普及し始めるのと同時に映画や音楽のソフトが続々と登場してきました。もちろんこのハードの普及にはAV系ソフトの貢献なくして語れませんが、更に裏ビデオなる怪しげな存在が起爆剤になったことは事実です。(笑)昨今のインターネット・ハード(いわゆるPCですね)の世界的規模での普及を促進させたのもアダルトサイトなワケで、いかに人間はスケベなモノであるかということをあらためて認識する必要がありそうです。(爆)ということで、根っからの道楽者根性と、当時未だ目新しかったビデオ屋という職種がうまく重なって、私はこのAV(アダルトじゃなくてオーディオ&ビデオね)関連にのめりこんでいきました。そんな時代に道楽者ドリームを一気に加速させるバカがまたひとり現れたのでした。チェング宮内くんの登場です。その昔、新宿は歌舞伎町のディスコでDJのハコ取りに絡んだセコイ陰謀を企んだお友達でしたが、彼もやはり自分の時代の終焉を迎えてジタバタとその居場所を見つけてさ迷っていたのでした。そりゃ、さんざん楽して生きてきた道楽野郎たちですから、お互いその環境に大きな差があるわけでもなく、これから先は誰か頼れそうなヤツがいればなんとかよりかかりたいというような悪あがきをしていたわけですね。そんな往生際の悪い二人がしばらくぶりの再会を果たしたのも、バカの共鳴、いつものことながらアホがアホを呼ぶと言うバカ連鎖反応のようなものでした。さて突然私を訪ねて来たチェングは、さすが口先商売でメシ喰ってきたツワモノですから、会ったとたんに堰を切ったように喋り始めたのです。まあ、要約すると、自分は未だ業界でメシは食っているが、この先どこまで続けられるかわからないし、できればここらで足を洗うことができないかと考えていて、オーディオ、ビデオ関係の仕事がしたいというような勝手な希望をのたまったのでした。どうも彼は私が自分で出店して経営していると思い込んでいたらしく、「シメタ!」ってなもんで私にもたれかかってきただけのことでした。世の中そんなに甘くないと、私は説教など垂れて彼を諭しましたが、所詮は道楽者の二人ですから勝手なノーガキを吹きまくっているうちにセコイ夢などを見るようになっていったのでした。しかし、この時のヤツの生活はかなり常軌を逸脱したものでありました。もともと変なヤツの見本のようなヤツでしたが、彼の住まいを訪れたとき、私の目の前に広がるその異次元空間に畏怖を覚えました。下落合にあった彼のアパートは鉄筋コンクリート3階建て、病院跡をアパートにしたもので病棟のような異様な雰囲気そのままの部屋でした。ドアを開けると突然黒い生き物がどどーっと押し寄せて来て、鳥肌の立った私の体にまとわりついてきたのでした。(な、なんだ、悪霊か?)多数の息づかいとうごめくように足下にまとわりつく生き物たち。それはチェングが飼っていた黒色のダックスフント6匹だったのです。(あー良かった、犬で)足の短い胴長の犬達の歓迎を受けて部屋の中に入ると、そこはおよそ8畳ほどのワンルーム、中央にボロボロのカウチとソファがひとつ、その正面には当時まだ出始めたばかりのSONYの21インチ大型テレビがどんと鎮座し、その下のラックにはSONYベータマックスHIFIステレオ(当時20万円くらいしました)が2台とステレオアンプ、その横にアンティークなターンテーブル、そしてこれらの器機の両端には大型のJBLのスピーカーが荘厳な趣で並んでおりました。(ちょっとしたディスコでも使えそうなシロモノでした)もうそれだけでこの異常な生活がわかりましたが、更に私を驚かせたのがビデオラックに並ぶテープの数です。もちろんDJですから大きな棚に収納されたレコードの数にはさほど驚きませんでしたが、その横に並べられたベータマックスのおびただしい数のコレクションにはさすがにびっくりしました。その当時録画用のブランクテープはノーマルタイプでさえ1本千円はしましたし、HIFI用のクロームテープはその1.5倍から2倍の価格が付けられていました。ですから、通常一般家庭ではVHSなら3倍モード、ベータなら1.5倍モードで録画、消去を繰り返して使い回すのが当たり前という時代に、これだけのテープを保存所有しているこの男は一体?というちょっと空恐ろしい感情を隠せない私でした。そんな光景を目にして立ちすくむ私に彼は、自分のコレクションを自慢するようにラックからテープを取り出しリモコンを操ったのでした。ば~ん!JBLのスピーカーから大音響で流れてきたのは「キャッツアイ」のテーマです。そしてテレビ画面にはアニメドラマ「キャッツアイ」のオープニングシーンが映し出され、ソファに深々と腰をおろしたチェングは煙草に火をつけると得意そうな顔で言いました。「CM抜きはブランク画面を9コマ戻せばぴったりつながるんだ」「はぁ?」「このジョグダイヤルは便利だぜ。前はポーズボタンでコマ送りしてたんだけど、これを使えばつなぎ目のレインボーノイズも消せるんだ」「え?」「今編集中のガンダムとうる星やつらが終わったらコレ(キャッツアイ)を仕上げようと思ってるんだ」「し、仕上げって?」「ああ、家にいるときは溜まった録画画像を編集していくんだけど、このところちょっと忙しくて進んでいないんだ」「へ、編集って、テレビ番組を全部録ってるのか?」「ああ、休みの日は一日中テレビ見てる」へぇ~~~~~~~~。この当時はまだオタクという言葉はなかったと思いますが、すでに秋葉原の常連であったチェング宮内は間違いなくオタクの元祖でしょう。こんなアパートの薄暗い部屋で、JBLのサラウンドシステムとSONYのHIFIビデオデッキから再生される長編アニメを犬6匹に囲まれながら見ている30歳間近の男チェング宮内。(今にして思えば結構あぶないヤツでしたね)まさかこのあとコイツと二人、南の孤島サイパンに渡るとは誰が想像できたでしょうか。さて、道楽野郎のお調子者にオタクのエンジニアがついたら鬼に金棒(えっ?)、セコイ貧乏人の考えそうなチープなドリームの始まりです。せっかくビデオショップにいるんだから、ここでコピーをバンバン作って、どっか田舎町の商店街にでもレンタルショップを開業すればぼろ儲け、というような非常に安直な考えの下、二人の構想は膨らんでいったのでした。まあとにかく目標が出来るってことは人間を成長させますから、この安易でチープな夢に向かってバカ二人はスタートを切ったのでした。しかし、この時の二人が頭に描いた夢というのは概ねこんな感じでしょう。チェング宮内氏「好きなアニメに囲まれて一日過ごしたい。しかもそれでメシを喰っていきたい。あわよくば金も掴みたい」私「コピーなんぞはどうせ長続きしないからこれで一気に資金を稼いで、合法店にまで持っていけたら、それから別の生き方を考えよう。それまではコイツに危ない橋は渡ってもらうしかないね」ということで、私が提案したのは郊外の駅前にコピーのレンタル店を開業して、チェングに任せるというものでした。コピーソフトは私の店から毎月せっせとダビングして送れば、仕入れ代は録画テープの原価とカラーコピー代だけですから、絶対に損するはずがありません。しかも今や流行の商売ですから、大型店が進出する前の田舎の駅前ならば十分に見込みが立ちます。さあ、目標が決まった道楽者には迷いはありません。(所詮一直線バカですから)私は店のソフトを片っ端からダビングしていきます。業者からパッケージ用のケースを買い込んだり、大型店からレーザーディスクを借りてきてコピーしたりと、そりゃもうマメに働きました。チェングはチェングで、千葉テレビのビデオジョッキーで使用した「シブサン(四分の三インチテープ)」のミュージックテープを勝手にダビングしたり、テレビアニメをレンタル用にシリーズものとして編集したりと、夢のビデオショップに向けてバカ二人はガンガン邁進していったのでした。そして、JASRAC・日本著作権協会の調査指導員が東十条のレンタル・ビデオ・ショップ「サバーバン・ハウス」の捜査に入った時、夢の実現にむけてせっせとコピーソフトを制作する二人の道楽者に新たな人生の展開が訪れたのでした。もったいぶってるわけじゃないけど、明日につづく・・・・・・・。
2006年04月19日
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昨日の日記で古いVIDEOのお話をしましたが、今日は何故私がこんなに沢山のVIDEOテープを所有しているのかということをお話いたしましょう。(ってそんな大そうな話ではありませんが)実はその昔、なんと私はレンタル・ビデオ・ショップをやっていたのです。(ええっ~!)って別に驚くほどのことでもありませんが、ディスコ業界を引退した私はしばらくの間ゲームセンターで働いておりましたが、ちょっとしたきっかけからレンタルビデオのお店を任されることになったのでした。まあ、ここで働いたことが後のサイパン行きの道筋を引いたことになるのですが、元々DJなどというマニアックな職業にいた私は、新しいモノ好きという性格も幸いしてか、マニア的要素のあるこの商売に結構のめり込んでしまいました。(映画も好きだったからね)当時はようやくレンタル・レコードが定着し始めた頃でしたから、ビデオショップも後に続く商売としては急速に広がっていきました。ただ、その頃はソニーと松下電器の確執と言うか対立と言うか、VHSとベータなる2種類のタイプがシェアを争っていたので、ひとつのソフトに二つのタイプのテープを用意しなければなりませんでした。また、レンタルレコードが切り開いた著作権使用料の問題も、ビデオ業界が後追いする形となり、割と曖昧なまま市場が広がっていったのです。ですから、当然仕入れのコストを抑えるためにVHSかベータのどちらかのマスターテープを購入してダビングするというパターンがレンタルショップの主流でした。更にレーザーディスクも登場し、レーザーからビデオにコピーしたものなども出回り、コピーやり放題みたいなことになっていきました。はじめの内はこんな感じで恐る恐るコピー商品を扱っていたのですが、そのうちに豪快にコピーを大量生産する店が出始めて、いよいよジャスラック(日本著作権協会)のお出ましとなったのです。この当時はちょうどカラーコピー機なども登場して、ビデオデッキもステレオ・ハイファイ・4ヘッド(今じゃ当たり前ですけど)などの高級機種もダビングにはかなりの威力を発揮しました。更にレーザーディスクからテープへのコピーはさほど画像が劣化しなかったため、レーザーを買い込んでコピーを販売する闇の業者なども現れる始末でした。もちろんこの展開には価格競争という熾烈な戦い(笑)があったわけですが、当時のビデオソフトはとにかく異常に高かったですからね。映画で平均1本1万5千円から2万円、音楽モノで6千円から1万円前後が相場でした。ということでレンタル代も1本800円~千円くらいが相場でした。確かブランクテープが1本千円くらいしてましたから、さほど高いとも思いませんでしたし、デッキを持っているという優越感もあったというような時代です。さてそんなところに登場した全品コピーのお店ではいきなりの500円均一とか、3本借りたら1本無料とかいうようになり、一気にビデオブームが巻き起こったのでした。そりゃコストが全然違うもんね。もちろん開業資金からして勝負アリですから、どうやったってかなうわけがありません。そんな店が駅前の一等地で堂々と商売を始めたのですから、これをお上が放っておくわけがありません。先ずは見せしめに店閉めさせられた事件が報道されます。(くだらねー駄洒落言ってんじゃネェって・爆!)確かメーカー及びジャスラックが何億円だかの損害賠償で提訴して、コピー店を廃業に追い込んだと思います。っていうか任意でコピー品を放棄して自主廃業したわけですから実質的に訴訟には至っていないと思いますが、それだけの重罪であるということをメディアを使ってアピールし、レンタル店に脅しをかけたわけですね。ただ、レンタルレコードと違って、ビデオの場合はソフトの価格が高かったことと、ソフトの普及がハードの普及に比例するという発展期でもありましたから、レコード業界ほどには問題が拡散しませんでした。だって、ビデオソフトの購入層のほとんどがレンタル店だったわけですから、あんまり法規制で著作権を追求していくと業界が萎縮してしまう恐れがあったわけです。しかも2種類のタイプで未だシェア争いを行っていましたから、あまりきつく締め上げてしまうと普及が進まなくなるといった命題も抱え込んでおりました。とまあ、そんな流れで優良店みたいなお墨付きをもらった店が生き残り、ゲリラ店は次第に潰れていったというわかりやすいお話です。さて、私の店はどうなったかといいますと、そこはそれ道楽者の不良親爺ですから(ってまだこの頃は親爺にはなってませんね)、こんな高いソフト一体誰が買えるんじゃい、とか、そこまで言うならいっそコピーできないようなソフトを開発したらええやんけ、とか突っ張っておりました。(この後コピーガードなる技術が登場しました)なにせ根が道楽者ですから、もうこの頃はコピー技術にも凝り始めてしまい、いかにダビングの劣化を抑えて効率よくコピーを行うか、などということに日々頭を捻っておりました。(う~ん、なんか今も似たようなことやってるなぁ~)いつものパターンで、バカはバカを呼ぶってことで、この道楽者の匂いを嗅ぎ付けて、マニアックな道楽者がやってきたのでした。おかっぱ長髪にビーチサンダル、独自のスタイルを貫くDJ仲間だったチェング宮内クンの登場です。私の店は北区の東十条という駅前にあったのですが、偶然に電車で乗り合わせた昔馴染みのブルこと渡辺氏がチェングを伴って訪ねてきたのが始まりでした。当時のチェングはバイリンガルが売り物で、千葉テレビのビデオジョッキーや来日アーティストの取材インタビューなどの傍ら、郊外のパブでDJをしながら細々と生き残っておりました。数年ぶりの再会でお互い旬の過ぎた時代の生存者同志、漠然とした将来への不安などを語りあったわけですが、なんとこのチェングが私を訪ねてきた理由のひとつはビデオソフトをタダで借りたいという、非常に彼らしい打算的な目的があったのでした。しかもビデオのコピー編集に異常なほど凝り固まっており、今で言うオタクそのものでありました。そう考えるとヤツこそ元祖オタクではなかったでしょうか。しかも彼のコレクションは全てアニメ、それもテレビの連続番組をCM抜きして編集した非常にマニアックなものでありました。変なヤツでしょ。もうこの時すでに30歳近かったんですから、私の驚きは彼との歌舞伎町の出会い「真冬のぞうり履き野郎」以来の衝撃でした。(笑)つづく・・・・・・・
2006年04月18日
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相変わらずはまっているDVDのヤキ入れを毎晩セコセコと行っている道楽親爺です。ヤキ入れの合間を見て古いVIDEOも整理もしているのですが、テープにカビが生えてたり、傷物になってノイズだらけで死んでしまったテープもいくつかあって、少々ブルーになった親爺でもありました。まず一番悲しかったのは、一生の思い出ともいえるEW&Fのライブが傷物になってしまっていたってことです。このテープはパイオニアが開発したレーザーディスクの初回リリースで入手したコピーでした。確か1980年代のライブだったと思います。もちろんモーリスホワイト健在の頃のもので、エンディングは一人ずつピラミッドに消えていくという趣向のステージで、アンコールはレッツグルーブで盛り上がって大爆発みたいな、彼らのある意味頂点を極めたライブ・コンサートの映像でした。EW&Fはなんといっても私にとってはアフロ時代そのものだったので、機会があればライブ映像を録っていましたが、モーリスホワイト以下オリジナルメンバーのライブはこの1本だけでした。(そんなに大事ならもっとちゃんと保存しとけっつーの)最近売られているDVDはすべて後年のモノばかりで、あの当時の興奮はもう二度と味わえないのでしょうか(T_T)その他死んでしまったTAPEには、ティナ・ターナーの自伝映画とジャクソンズ・ストーリーがあります。ティナの方は映画だったと思うので多分探せばまだ手に入るかもしれません。ジャクソンズの方は確かHBO製作のTVドラマだったのではないかと思いますので、これは入手が難しいかもしれません。ティナ・ターナーの方は結構感動しましたね。少女時代にロードしてきたアイクのバンドと出会い、コーラスガールからメインヴォーカルになるまでのアイク&ティナ・レヴュー時代、R&Bで名声を得て夫婦となったアイク&ティナ・ターナー時代、アイクのドラッグへの依存と家庭内暴力で離婚、その後業界から遠ざかった暗い時代、そしてデヴィッド・ボウイらのカムバックへの支援を得て不死鳥のように甦るまでをしっかりとしたプロットで描かれていました。これはかなり素晴らしい映画でした。ちょっと話が飛びますが(いつものことですね・苦笑)、昔見た映画に黒人ダンサー・ジョセフィン・ベイカーの一生を描いた素晴らしいドラマがあったのですが、なんとなくこれに合い通じるものがありました。ジョセフィン・ベイカーは後年、二桁にも及ぶ孤児を引き取って養子にして育てました。ティナはアイクの愛人の子(愛人がアイクの元に置いて出て行ってしまった子達)を引き取って我が子として育てました。どうしてこうも黒人女性は懐が深いのでしょうかねぇ。今もう一度見てみたいと思いましたが、テープは縦にノイズが入っていてボツ!でした。ジャクソンズの方は、ジャクソン夫妻の出会いからモータウンへの売り込み、兄弟の確執、親子の確執などを乗り越えて、ジャーメインを残してイギリスへ渡るところまでが描かれていました。これは役者が演じるドラマに記録フィルムなどが挿入されていて、ロードに出たファミリーの舞台裏やエド・サリバン・ショーなどの映像も入った貴重なTAPEだったのに本当に残念です。HBOとかテレビ製作のドラマはあまりDVD化されていないんですね。こんなことならもっときちんと保存しておけばよかったなぁ、と言ったところで後の祭りですね。貴重と言えばもう一本凄いVIDEOをボツ!にしてしまいました。それはレスポールのアニバーサリー・コンサートの記録でした。ギター好きの方ならご存知と思いますが、あのレスポールというギターの創作者であるMR.レスポールお爺ちゃんに敬意を表して集ったギタリストたちとの競演でした。とにかくメンバーが凄かった。(未練がましいからもうやめましょうね)そのうちDVD化されるでしょうから、気長に待つことにします。そういえばドゥービーブラザースのサンタバーバラのコンサートVIDEOもあったのですが、これは何故か映像が途中でぶちきれてました。たぶんウチの子が子供の頃いたずらしてイレースしてしまったのでしょう。まあ、一時これら昔の遺品と言うかSOUL(魂)に封印をしていましたので、いまさら引っ張り出してきてもそう都合よく残ってはいませんよね。(もったいないことしたなぁ)まして、こんな時代が来るとは思ってもいませんでしたからね。こうして古ビデオを整理して思ったんですが、これらのコレクションは1980年後半から90年前半のものばかりなんですね。ってことは米国本土でも70年代リバイバル・ブームはこの頃起きていたってことでしょうか。私はまったく知らなかったのですが、この90年代前半はニッポンでもリバイバルブームが巻き起こったようですね。今にして思えば、そんな時代をこんな僻地に隔離されていて良かったんでしょうね。もし日本にいたらまた調子付いて、出張って行って再起不能になっていたかもしれません。ということで10年も出遅れたリバイバル親爺ですが、これからブツブツと古い話などもしながら、あの夢のような時代と我心のSOULを書いていきたいと思います。時々話が飛びすぎてついて来れない人もいると思いますが、そこは道楽の仙人みたいな暮らししてますから、テキトーに読んで楽しんでいただければ幸いです。やっぱ人生はテキトーが一番です(^o^)
2006年04月17日
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全国のどーらく愛好家のみなさまこんにちは。非生産活動に従事して50年、道楽親爺がお送りいたしますほとんど役に立たない人生コラムです。社会的義務を果たすため、日夜奮闘されております同志の皆様の疲れた精神を癒すため、FUNKY親爺は今日も与太話をせっせと書きます。さて、先日は私が40歳にして初めてゴルフなんぞというものに取り組んだお話を致しましたが、せっかくですからどれだけデタラメな親爺だったかということもお話ししておくことに致します。実はそれまでにも随分と勧められていたのでしたが、どうも私は基本的にこのような贅沢な遊びが嫌いでして、どちらかというと不健康、安上がり、一攫千金のような要素のある遊びこそが私にマッチした遊びだと思っておりました。麻雀、ビリヤード、競馬、おいちょかぶ等、できるだけコストをかけずに楽しみながら小遣いを稼ぐというゲームが大好きであった私には、ゴルフなんぞという遊びは金持ちのどーらくで、自分の住む世界とは別の世界だとも思っておりました。まして若い時分にはディスコなどという華々しい世界でブイブイ言っておりました私ですから、精神的にはいくつになってもROCKERを自負していたのであります。ところがそんな私に衝撃をもたらせたのがジョー山中氏でした。このブログでも何度か書かせていただきましたが、私の大先輩でもありますし、妙な縁もあるホンモノのROCKER、ジョーさんがゴルフをしにサイパンを訪れたのでした。それはそれはとにかく驚きでした。しかもあのレゲエファッションでゴルフバッグ担いで現れたのです。どうも私は回りにつまんねぇ普通のおっさんしかいなかったせいか、「ゴルフは紳士のスポーツです」ってな洗脳をどっぷりとされていましたから、この現場を目撃したときは目から鱗、ひょうたんから駒、なんとも言えぬ衝撃だったわけです。そぉ~かぁ~、そーゆーのもアリだったんだぁ~。と一瞬に理解した私は早速この新たなチャレンジへと向かっていったのでした。まずは道具を揃えなければいけませんが、もともとデタラメの教科書、テキトーの見本のような親爺ですから、そんなわけのわからない遊びにたとえ100円だって使う気にはなれません。お蔭様で職場が職場ですし、どんな世界でもしっかりと生きていくお調子者親爺ですから、ほっといても色々とお世話をしてくれる方々がおりまして、「ゴルフ始めようかと思ってんですよね~」などと漏らした翌日には「これ使いなさい」とか「まずはこれで始めてみたら」とかアチコチから声がかかり、あっという間に準備万端整ったのでした。まあここらあたりまでは良かったのですが、どうも持って生まれたこの気質というか、自分で言うのもなんですが「まじめになれない」性格なもんで、たかがゴルフごときに大切などーらくの時間を費やすのも勿体無いってことで、すぐにコースに出ようなどと考えていた私に「待った」の声がかかったのでした。もちろんこんな面倒くさいことを言い出すのは、決まって地元の若年寄のような連中です。自分たちがしてきたように、私にもシキタリを押し付けてきたのです。道具を快く提供してくださった方々は私の性格を十分に承知しておりますので、突き詰めて言えば、私がこういったシキタリ破りのようなことをするのを半ば期待しているようなところもありますから、そんなしゃっちょこばったことは一言もおっしゃらずただニヤニヤしているだけでした。「いきなりコースなんかでちゃ駄目だよ。まずルールを勉強しなきゃ」「ゴルフはマナーが第一だからね。まずマナーから入らなければ」「まずは練習場に行って、フォームとかが固まってからだよ、コースデビューは」などなど、どーしても私の頭にたって手ほどきをしたいような感じです。ということでそんなシキタリに従う親爺ではありません。なんせ年季の入ったデタラメ野郎です。「しゃらくせ~!好きにさせろよ」てなことで、ゴルフバッグを担いでコースにいきなり飛び出したFUNKY親爺は、なんとTシャツに短パン、スニーカーという、当時ではまだ斬新(笑)なスタイルでグラウンドに立ったのでした。そこにやってきたのは部下のロコたちで、「ボス、これ使え」ってプラスティック・バッグに山盛りのロストボールでした。よっぽどコイツらの方がFUNKYじゃん。ってことで気を良くした私は、わけもわからずゴルフクラブをびゅんびゅんと振り回したのでした。それを見ていた我がスタッフたちはヤンヤの声援です。そうかぁ~、こいつらも俺のこの八方破れみたいなゴルフが楽しいんだぁ、などと勝手な思い込みでウケ狙いのようなゴルフデビューを果たしたのです。ということで、私はこの10年で3つほどゴルフクラブのセットを変えましたが、一度もお金を出して買ったことはありません。しいて言えば、在庫整理で二束三文の古いスパイクを$20、デッドストックの手袋$10を買っただけです。あとはぜ~んぶ貰い物です。(まあ、仕事柄そんな余禄もありますよね)でもって、まわりの芸の無いおっさんたちは相変わらずで、うらやましいのか、ねたんでいるのか、あるいはあきれているのか、未だにノーガキをたれに時々現れます。道具なんか買ったことがないということを自慢にしている私に、ひとりだけすばらしいとほめてくれた人がおりました。それはご同業の某ゴルフ場支配人でした。「プロゴルファーと一緒じゃないですか。彼らは自分で道具なんか買ったことないですよ」(それはちょっと違うと思うんですケド・笑)「いやいや、ゴルフったって所詮は博打ですから。道具に拘るよりも勝ち負けに拘らなきゃね」ごもっともでございます。テキトー野郎のゴルフはこうしたデタラメなデビューから始まりましたが、未だに本気になるほど夢中にはなれませんね。やっぱ、金持ってるヤツのどーらくという気がして、自分にはイマイチあってない気がします。だからこそ余計にこんなものに金突っ込むのは馬鹿らしいという態度ですが、それでもたまには接待ゴルフなどもこなすテキトー親爺です。運動もしないとね、もういい加減な歳だから(笑)
2006年04月16日
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キリストの受難~復活イースター(復活祭)は敬虔なカトリック信者たちによって、イエス・キリストが十字架を背負わされ棘の冠を被り鞭打たれ処刑されるまでのドラマが演じられます。檀家というか信者たちは肉食を絶って喪に服しキリストの復活を待ちます。しかし熱狂的な信者は本当に鞭打ちの刑を再現し、ホンモノの木の十字架を背負いゴルゴダの丘に見たてた近隣の丘や山まで歩きます。そして人類を救うために成就されたジーザスの復活を祝うのです。ジーザス復活!ジジイ復活!くだらねー駄洒落言ってんじゃねぇ!と怒られそうですが、頑張ってジジイは復活します。せっかく非生産活動を推進してきたのですから、もう少し非生産行為を普及させてみようかななどと思いたって今日も書きます。実は、昨夜偶然NHKの衛星放送で最近の就職戦線の特集があって見ていたのですが、コメンテーターと評論家のおっさんが「今の若者はお金にならないことはしない」という体質があり、「そういう世界を造ってしまった大人の責任」とか言っておりました。ふ~んって感じですが、いつの時代だって子供は大人のツケを払っていくのですから、今更そんな当たり前なこと言ってもしょーがねぇーだろって感じですね。そのツケを払っていくことが次代のツケを生んでいくんですから、そんな大人の都合とか思い通りにいくわきゃありませんね。とまあ、またしてもそんな愚にもつかないことをブツブツ考えていたワケですが、道楽親爺としてはせめて「金にならないこと」の面白さも少しはわかってもらいたいなぁ、などと思い立ち、もうしばらくこのブログでグダグダ言っていこうかと思ったのでした。昨日のテレビに出てた大学生は東京大学とか筑波とか、いわゆるカシコイもんが行くガッコの生徒と「下流社会」とかいう本の流行とを重ねたドキュメンタリーでした。ファンキー爺ちゃんに言わせれば、そんなエリートみたいなもんの話してどないすんじゃいとか思いましたが、なんだか若いくせに年寄りじみたその顔が印象的でしたね。どっちにしろ大学っていうか学歴っていうのか、ニッポンのシステムはそう簡単に変わらないと思うし、ビンボーより金持ちの方が良いに決まってんだから、この流れに乗せようと思うのは親心だろうし、そういった教育を受けた子供はその流れには逆らわないと思う。でもね、みんながみんなその流れに乗っていくことはできないわけで、野球やってる子供全員がプロの選手になれないのと一緒で、世の中おりこうさんばっかりになっちゃったらそれこそ成り立たなくなっちゃうだろうし、そんな世の中にしようとは誰も思っちゃいないわけです。(なんてったってテキトーが一番ですね)だから、「一流企業は良いぞ、生活が安定する」って言うヤツもいれば、「これからはIT関係が良いぞ」とか言うヤツもいるし、「ゲーノー人が楽しくて良いぞ」とか言うようなヤツもいて、そんなのが混ざり合って社会が成り立っているのですから、くだらねー「大人の責任」などと口走らずに、現在のシステムに目を向けていくべきではないかと思います。だってねぇ、一流大学とか言ったってね、電話の応対ひとつできない学生がね、いきなり「金を稼ぐ人間」に生まれ変われるわきゃないでしょう。企業戦士を育成するためのプロセスとして学歴社会があるくせに、ガッコではちっとも金を稼ぐ具体的指導は行ってませんね。これを本音と建前とかいう表現にするともっと陳腐です。私にも経験がありますが、それなりのガッコ出てても、敬語ひとつ満足に使えなければ、電話ひとつ満足に出れない、そんな学生が殆どです。そんな奴らに何年かかけて社会の常識とかを教えていくわけですよね、会社の金使って。でも大学のプライオリティや高卒、大卒といったモノサシで給料が決められてしまう、というよくわからないシステムに則って会社は回っています。これってギャグですね。だって、会社で求めているのは「金稼ぐ戦士」でしょ。だったら、会社大学とか作って、具体的なノウハウを教えた方が早いと思うんですがね。営業接待の仕方とか、ばれないワイロの配り方とかね(笑)テレビの話に戻ると、大学でサークルとかクラブに入って楽しいことしてた学生が、就職を考えてボランティアとか企業でのアルバイトをしてきた学生と比べられて、「内定」取りの差を嘆いたりしてたんですけど、なんで遊んでた楽しさを後悔するのかちょっと不思議でしたね。どだい「遊び」なんて一銭にもならないからこそ楽しいので、そんなものが資本社会の価値観で図れるはずがないのに、なんでそこでそーゆーモノサシを持ち出してくるのかなぁ、って率直な疑問でしたネ。身近な例でひとつ挙げますけど、東大出て米国に2年留学して大手外資系に入社した女性がいます。(もちろん私より全然年下ですし、現在も現役です)仕事に疲れたからってことで、僻地に遊びに来たんですけど、ゴルフしようが飲みに行こうが、カラオケで歌おうが、傍で見ていてちっとも楽しそうに見えない。「楽しいの?」って聞くと「うん、リラックスできて楽しい」っていうんですが、なんというか、子供のようにワクワクしたり感情が高ぶったりとか、そんな表情がまるっきり出ないんです。でもって話聞くと、もう30半ばなのにボーイフレンドもできないって言うんです。時々合コンとかにも行くけど、どうもそこにやって来る男がアホに見えてしまうって言うんですね。話聞くと彼らの年収も彼女には敵わない。その言い方も決してイヤミのある表現ではなくて切実な思いってな感じでした。まあ、正直言って美人って感じでもないし、可愛らしいって感じでもなく、なんつーか理路整然とした「女性」という感じなんですね。当然、「男が欲しいッ」っていうふうにも見えない。要は必要ともしてないってことですかね。麻布の一等地にある豪華マンションに住んで、年に一度は長期休暇で海外旅行に行く、とか言ってましたが、ファンキー爺ちゃんは何も感じなかったし、ひどく可哀想に思えたんですね。まあ、こんな例は特別かもしれませんが、「オレはバカでよかったなぁ」って、つくづく思いましたね。(負け惜しみじゃないよ)こうしたらこうなるってシステマティックな生き方をしちゃうと、結局は頭で理解できないことを受け入れなくなっちゃうのでしょうね。まして男と女の関係なんて、どう考えたって理屈では理解できませんからね。ということで、そういう私もいつひっくり返るかわからない道を歩いていますが、その先の読めない、行き当たりバッタリの人生がときに恨めしく、時に楽しく、そして時に快感であったりして、だからこそ毎日ハラハラ、ドキドキ楽しもうという気持ちに昇華できるわけです。できれば若い皆様にも、こうした「いーかげん」さというものを是非とも知っていただきたい思います。
2006年04月15日
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今日はグッド・フライデーで、イースター・ホリデーが始まります。って別に私はクリスチャンでもなんでもないんですが、どうもまわりがワーワー言ってるもんで、なんとなくそんな雰囲気かなぁ~といった感じです。さて、道楽親爺は昨日のブログ日記で言いたいことは全て言ってしまったので、なんか、もうブログに書くことなくなっちゃいました。長いこと心の中でウダウダしていたことがハッキリしたので、なんだかもうスッキリ、サッパリって感じで、これからどーしょうかなぁってなもんです。確かこのブログ始めたのは昨年の5月だったと思うので、せめて1年は続けようかなぁ、なんて思ってます。もちろん非生産活動というか道楽というか、相変わらずのバカなことは一生続けていくつもりですが、歳をとったせいか、今の世の中に対して何か言っておく必要があるのかな、などという気もないではありません。どうせ私が考える程度のことなどたいしたモノではありませんが、私らの後に続く「困った奴ら」とか「どーらく者」とかに何か役立つことでもできないかなぁ、とも思っています。といっても今更おっさんの出る幕ではないのかもしれませんね(笑)まあ、あとはどーらく中に負傷した戦友や戦線離脱してさ迷ってる戦友を見つけ出して励ます、ってライフワークもありました。私もここで知り合った戦友の皆様からしっかりハゲまされましたから、古い戦友の捜索活動は続けていきたいと思っております。ちなみにワタクシ、今一番気になる戦友というか大馬鹿野郎のパートナー、チェング宮内という男のの消息を追っております。サイパンで戦闘中に行方不明になったバカヤロなんですが、もし何か情報がありましたら私までお知らせ下さい。なんでも噂に聞いた話じゃ、横浜あたりで外国人向けのタクシー?ハイヤーの運転手をしてるらしいとのことです。バイリンガル、英語バリバリで首がやたら短い丸顔の童顔親爺です。横浜ったってひろ~いからね。でも変な親爺ということにかけては、まず間違いなく個性的なヤツですから、そんな変な親爺の運転するタクシーに乗りあわせたら、是非ともサイパンの戦友が消息を追っているとお伝え下さい。それだけで解ると思います。(ってこれってマジです)ということで、皆さんがクリスチャンかどうかしりませんが、楽しいイースター・バケーションをお過ごし下さい。明日も書くことあるかなぁ~
2006年04月14日
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ということで4日連続ノーガキ・シリーズ第四弾です。まあ、なんだかんだ言っても踊りをパターンに閉じ込めていってしまったら、衰退が加速されるのは目に見えていますネ。更にこれらを支えた常連の存在も見過ごせません。一概に常連と言ってもそのグループもひとつではなかったし、従業員に気に入られる者、DJや趣向に惹かれる者、常連同士で群れを成していった者、しつこく出入りして従業員に煙たがられた者(笑)などなど、「常連さん」と一口に言ってもピンからキリまで多種多様なグループが散在していました。だからお店によっちゃステップ主流だったトコもあったし、ステップ組を排除していたような店もあったし、そんなこんなしてるうちに流行のサイクルというか時代の流れも加速して、オカマだ、テクノだ、パンクにヘビメタだ、ハナだチョーチンだと次から次へと目まぐるしく転がって行きました。(まあ当然の成り行きですね。自分たちでそうしちゃったんだから)とまあ、当時のおおまかな業界の裏側はこんな感じだったわけですが、いくら私が業界にいたからって全てを知ってるわけでもないし、言ってることが全て正しいというわけでもありませんから、全体像としてのイメージとして捉えてもらえば幸いです。(なんちゃって)そりゃいくらなんでもあれだけの数があったディスコの全てを知ってたりしたら、それこそ大ぼら野郎です。(私ゃハッタリ爺じゃないし、ディスコ王でもありません・笑)それはその時代、その時代、その店、その店での出来事、シキタリがあったはずですから、その現場にいた人の話こそが事実ではないでしょうか。しかも時代の流れで、足の動かし方、手の動かし方が一つや二つは変わっていっても仕方のないことだと思います。所詮は伝言ゲームみたいなものですから、たどり着いたら全然別のモノになってたりして。(笑)なにはともあれ、自分が青春を賭して遊んだディスコとダンスが今も世代を超えて生き続けているということは道楽親爺にとっては大変嬉しいことです。どんな形にせよ、黒人音楽と踊りの魅力は時代を超えて楽しめるものだと思いますし、昔のようにつまらないカタにはめ込まないで、もっともっと皆で自由に楽しめば良いと思います。私たちのようなディスコ全盛期を生きた人間が不本意ながら残してしまった負の遺産ですが、つまらぬカタにはめ込むことで個人の感性を殺して欲しくはありません。ディスコ(今はクラブですか?)は自由に踊るところです。タコでもイカでも良い、お気に入りの音楽を聴いて踊る、それ以外に何もありません。以前にも書きましたが、私は現在ゴルフ場に勤務しているんですが、実は勤め始めて十年以上ゴルフをやったことがなかったんですね。それはまだ私の心の中にはSOUL魂というかROCK魂があって、ROCKERとゴルフは無縁だと思っていたからです。ところが十年ほど前にジョー山中氏が訪れ、ゴルフをされることを知って「そんじゃオレもゴルフやってみようかなぁ」なぞと思い立ったのです。(って、これがディスコ・ステップとカンケーあんのかよ)まあ、最後まで聞いて下さい。いくらリゾート地とはいえ、それまで一度もゴルフクラブなど持ったことすらない人間が、いきなりコースに出たのですから大体の想像はつくでしょう。もともと根がファンキーなお調子者野郎ですから、コースに出る前にはもちろん緒先輩方から色々とご指導を頂きました。ゴルフというのは伝統のあるスポーツでマナーに厳しい遊びなんだぞぉ、とか、ゴルフは紳士のスポーツと言われるように節度ある態度で接しなければダメだぞぉ、とか、逐一ことごとくクギを刺されたのです。更に、コースに出る前には練習場に行けとか、良いコーチを紹介してやるから基本とマナーを習って来いとか言われました。Tシャツ、短パン、スニーカー姿でいきなりゴルフコースに登場した道楽者親爺40歳、華のデビュー姿がそこにありました。(うるせぇなぁ~ってもんでしたね。好きにさせろよ、みたいな)「オレは此処で10年以上仕事しているけど、おめぇらの言うような紳士には一度もお目にかかったこともないし、コースでのイザコザに巻き込まれて往生したことも一度や二度じゃネェぞ。それに、前のグループに球打ち込んで怪我させたとか、マナーが悪いとか言って怒鳴りあってるジジイも何人も見てきたぞ(怒!)」(あいかわらず完全に世の中舐めきってますね)正直言ってこの時の私は、その昔、向こう意気だけでディスコ業界に立ち向かっていった頃の精神状態とほぼ同じでした。「ステップ」だの「しきたり」だのハナだチョウチンだと、自分と似たような奴らにノーガキこかれて「はいそうですか」と頷くようなお行儀の良い紳士ではありません。「なんでおめーらの言いなりにならなきゃなんねぇんだよ」という、もって生まれたへそ曲がり根性というか反骨精神というか、ツッパリ気質が現れたのでした。とまあ、こんな具合でゴルフもかなりデタラメなやり方で飛び込んだのですが、結局はディスコ同様、体当たりで身を持って体験しながらルールを悟っていったようなわけです。結局誰にメーワクかけたわけでもなく、今もそれなりに楽しんでます。(下手くそだけどね)とは言っても、やはりどんな遊びでもルールはあるわけで、いくらカタにはめられるのが嫌だからって、ルールを無視したのではそれこそ無法者になってしまいます。どんな世界でも、その枠の中には秩序というものもちゃんと存在しますから、人としてのマナーも当然生まれてきますし、基本的なルールはこうした秩序の中から生まれ出たものであることも理解しています。でもほとんどの「カタ」は権威を保つためと、序列を意識した威嚇にすぎないということを若造の頃から学んできた親爺には、どうしても底の浅い人間関係の上に成り立つシキタリにしか見えなかったのです。こんな体験を通して、年齢も重ね、そしてようやく私の心の中で長いこと燻っていた「核心」にぶち当たったのでした。なんで黒人音楽に惹かれたのか、あるいは黒人文化に見せられたのか、という本質的な部分です。「なんでお前等の決めたシキタリに従わなきゃなんねぇんだよ」ってことと、もうひとつ、「こんなことしてみたらもっと面白いんじゃねぇか」っていう好奇心、突き詰めていえば自由な精神の解放だったんです。私は黒人じゃありませんから、ホントのことはわかりませんが、私の解釈として言わせてもらうと、「白人の作った世界のシキタリになんでオレ達が合わせなきゃなんないんだ=オレ達の精神を蹂躙しようとするルールを壊さなければいつまでたっても奴隷じゃないか」という心の叫びこそがSOULではないかと思うわけです。人種差別の法的縛りは時代と共に瓦解していってますが、根本的な精神的な束縛、あるいは呪縛、洗脳は、外側からではなく自らの精神を解放しなければ成就されないということです。これはよく考えてみれば黒人だけの問題ではありませんね。ニッポン人だって国家という既成の概念に精神が洗脳されているわけで、子供の頃から教え込まれてきた「常識」というのは「全体」にとって非常に都合の良いシステムなわけです。でも、だからといってこのルールを真っ向から否定していったら単なる反逆者、ならず者になってしまいます。極端に言えばテロですよね(爆!)ですから、まずはルールに従ったやり方で、その精神性をひとつずつ解放していくしかないのです。ここで、私がバスストップと出会ったときのお話を思い出して下さい。私が驚いたのは、黒人が「やってみようよ」と誘ってきたことだったのです。これは「一緒にシキタリをぶっ壊してみないか?」って問いかけですよね。新しい踊りが出来たから教えてあげる、じゃないんですよ。わかってもらえますかこの違い。「この音楽はこの踊り」って洗脳がある限り、いつまで経っても音楽の受け手に過ぎないんです。体制に取り込まれた中の主体性の無い個でしかない。その主体性のない個の集まりの中で、オレはお前より上を行ってるから教えてやるんだ、って考えこそが問題なのです。(同じ世界で背比べしてるだけですね)でも、「この音楽をコレで踊ってみようよ」っていうのは、あきらかにそこに個の意思があるんです。全体に対する個の主張、主体性があるんです。またちょっと脱線しますが、DJのテクニックにスクラッチというのがあります。これは1980年代頃から始まった「遊び」のひとつなんですが、これを初めて耳にしたときは本当に驚きでした。ぶっ飛びましたね。こんなんアリかよって。だって当時はまだターンテーブルとかレコード針とか相当に高価なものだったし、それこそ音楽職人のような方々や技術屋さん(当時のヤマギワ電気とかね・笑)が見たら頭から湯気噴いて怒鳴りちらすか、有無も言わさずぶん殴られるかってなもんでした。これだって、たぶん始まりはちょっとしたきっかけからだったと思います。いくらなんでもいきなりそんな発想が生まれてくるわけありませんから、DJが見つけたちょっとした感性の発露だったと思うんですね。要はこの遊びを面白がって始めたとき、この遊びをどう捉えたかってことが根本的な問題なわけです。たぶん良い子の間では決して流行ることのない遊びだったでしょうね(笑)実際に私の現役時代も、業界関係者のほとんどが「ムチャクチャだ」と言って蔑んでました。私自身も、レコードは贅沢品、ステレオ機材は高価品として育って来てますから、空いた口が塞がらないというか、いくらなんでもこりゃ無理だろと思ってました。あれから十数年、現在は当たり前の「音」として認識されてます。ここで、あらためて話を黒人=FUNKに戻しますと、自分達の精神を支配下においている白人社会の常識を「遊び」で覆していく、これこそがFUNKの真骨頂ではないかと思うのです。そして、これは黒人だけの得意技ではなく、世界の人々、精神を束縛されている人々が唯一その抵抗を試みることのできる平和的な叫びだと思うのです。「遊び」で抵抗するみたいな精神は、江戸っ子の「粋」とか「洒落」にも合い通じるものがありますね。落語の世界なんてのもまったくFUNKYそのものです。(また脱線してるぞ)それと最後にこれだけはどうしても言いたいことなのですが、「差別」の一番奥深い部分として皆さんに投げかけたい問題があります。それは、「差別が一番酷いのは、差別されている者同志の中で起こる差別である」ということです。(ステッパーを一番差別しているのはステッパーだった、みたいなね)このブログでも以前ご紹介したことがありますが、アレックス・ヘイリー原作の「ルーツ」の舞台となっているアフリカの旧ダホメ王国で奴隷売買をしていたのは、なんと同じ人種の同族であったという事実です。ご興味のある方は栗本慎一郎著「経済人類学」関連の書をご参照下さい。更に日本では部落問題の中にも同様の問題提起がされておりますので、ご興味のある方はこちらもご参照下さい。宮崎学著「近代の奈落」いや~、一気に書き殴ってしまいましたが、ディスコのステップがまさか差別問題まで飛躍するとは自分でも思いもよりませんでした。でも、この何十年か、ずっとずっと心の中でくすぶっていたモヤモヤがこれで一気に晴れた感じです。あーすっきりした(笑)やっと自分が言いたかったこと、心の叫びが遂に解放されました。道楽親爺の回想完結編これにて終了です。(じゃ~ん!)
2006年04月13日
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爺の話は長いので、またまた昨日の続きでゴメンネ。(笑)ということで、「バンプ」から新しいディスコの時代が始まった、ということにしておきましょう(笑)別にバンプじゃなくても良いんだけど、俗に言うステップ時代が終わったと。だからと言っていきなりそーゆーステップが無くなったなんてことはあり得ません。まあ、いうなれば大型店の強みで、広いダンスフロアのあちこちでそれなりに皆が好き勝手踊っていたような感じですか。ステップあり、バンプあり、ジルバあり、チャチャあり、タコ踊りありってか、まあいわゆるお祭り騒ぎでした。そんなディスコ一色で盛り上がる若者たちが溢れる繁華街の商戦は、日々益々エスカレートしていきます。片やステップの老舗「踊り場」は次第に影が薄れて、ステップ愛好家達によって細々と営まれておりました。この時代の老舗を支えたのは、不良の低年齢化が進む中で従来のシステムに則った中高生が過去のシキタリを引き継ぎつつ伝統を守っていたのでした。(笑)でももうこの頃のステップっていうのは、その昔色男が競い合った踊りとはかなり違ってきていて、フォークダンスみたいなことになってきてましたね。チャイニーズカンフーとかね。中学生が並んで跳ねてた。(笑)とはいうものの実際には時代の流れには勝てず、ディスコブームというか、このダンスムーブメントは世界的な規模で一般大衆の娯楽へと転化していきました。そんな勢いに乗って本国アメリカから上陸したのがバスストップというステップでした。踊りの流れから言うと、バンプ→ウォーターゲート→オールドマン→レゲエ→ポイント→ハッスル→バスストップかな。レゲエあたりまではきちんと順番に流れてきたんだけど、ポイントあたりからは結構ごちゃ混ぜだったですね。実際にハッスルなんていうのも、あんなペアダンスじゃなかったし、バスストップっていうのも元々はステップじゃなかった。ファンキードライバーとかとも呼ばれていて、ドライブするアクションを入れたフリーダンスだったんですけど、バスの運転手が乗客乗せて走るみたいな感じから、みんなで並んでステップ踏んでいくうちにそう呼ばれるようになったのではないでしょうか。(これは推測です)ただ、バスストップという名で残っていったのはステップの方でした。ハッスルも同様に残っていったのはビクターレコードとディスコ協会が作ったジルバもどきのペアダンス。だから当時の黒人に「ハッスル」って言ったって意味は通じなかったですね。(笑)でも私は個人的にこのハッスルは正解だったと思ってます。バンプ以来のペアダンスですから、ステップやシャカリキ踊り野郎の悪しき習慣を打ち壊す創作ダンスだったと思います。だから私もハッスルだけはアチコチで踊って広めました。(結局大した流行にはならなかったケドね)ということで、ここで登場したバスストップが従来からの伝統芸ステップと合体して、新たなステップブームが捲き起こったのです。この回想録で繰り返し私が言っている「洗脳」というのがこのことなんです。ステップで育った若手ダンサーの頭の中には、踊り=ステップ=課題曲という固定概念がしっかりと埋め込まれてしまっていますから、昔からの伝統技ステップ(笑)と革新ステップであるバスストップが別モノであるということも知らず、みいんなひっくるめて「ステップ」として括られちゃったんですね。更に時代というのは資本社会のルールで回っていますから、ディスコブームが金になると踏んだ大手企業はしっかりと利潤追求に動き出します。当然利潤追求はディスコ経営者もしっかりと賛同してきますから、全ての利害が一致した、というようなことになっていったわけです。ということで、せっかく初期ステップ時代の悪習を知らずにバンプから入ってきた一般大衆ディスコフリークたちに、またしても「ステップ」というマインドコントロールが始まってしまったのでした。「なんでもバスストップ」時代の到来です。課題曲=ステップの洗脳が効率的に生産活動に利用されたのです。SOULディスコの流れで関わってきたアフロ小僧はみな思ったんじゃないんですか。「こんなはずじゃなかった」と。しかし時すでに遅しってことで、「セクシー・バスストップ」がディスコを席巻していきます。ハッスルで失敗したビクターレコードとディスコ協会のリベンジってことで、これは大当たりしました。昔ながらの「踊り場」から流行り出したステップではなくて、明らかに金儲けの手段として流行らせたステップでありました。大体、この踊りの基本ステップはバスストップのパターンとはなんも関係ありませんね。バスストップは原則的に跳ねません。動きそのものは腰を落としてバックビートに後乗りです。だからカッコ良かったんで、あんなに踊り場で跳ねちゃいけませんね。ということで、このセクシー・バスストップは昔ながらの伝統芸ステップでもなく、黒人が持ち込んできたバスストップでもなく、まったくの別モノ、和製創作ステップでした。課題曲=ステップが金を生む、の構図は二匹目のどじょう合戦を巻き起こしました。話の都合上「第二次ステップブーム」とでもしておきましょうか。(笑)え~、せっかくですからここでディスコの内側についても少しお話しておきましょう。(笑)私は80年代以降現役を引退しましたので、その後のことはわかりませんが、70年代当時のDJという職業的地位はさほど高くもなく明確なポジションではありませんでした。私がDJを始めた頃は、その店の従業員(いわゆるウェイターですね)が持ち回りでやったりするスタイルが主でした。ゲットなんかがその典型ですね。そのうち大型店が進出し始めてくると、チェーン展開とか企画室とか、企業戦略的な経営が主流になってきて、専門職としてのDJが登場してきます。ここらが乱立したディスコ経営の分岐点ではなかったかと思います。店の経営、企画部、DJ&照明、というような3部門3柱が基本でしたが、きっちりとこの三つが分かれていたわけでもありません。私のいたトゥモローUSAなどは店長(社長)のカラーで企画まで決めていたし、マネージメントはDJに一切口出ししなかったりと、それは各店各様の個性みたいなものがありました。そんな中、少なくとも私はSOUL系アフロ小僧出身でしたから、音楽面ではかなりSOULに固執したし、踊りも「ステップは業界を滅ぼす」というしっかりしたコンセプトを持っておりました。(ふ~ん)結構生意気なこと考えてましたね。当時から屁理屈が好きだったもんで。(笑)それでも当然フロントと衝突したことだって何度もあります。「リクエストかけてやれよ」「ステップ野郎が多すぎるから雰囲気壊れますよ」「DJは客踊らせてなんぼだろ」「ステップのさばらしたら上客が来なくなってガキの溜まり場になりますよ」「ガキだって金払ってんだから客なんだよ」「こっちだってちゃんとバランス考えて選曲してんだから任せて下さいよ」「何でメシ喰ってんのかよく考えろよ」てなもんでしたね。まあ根本的には自分自身がステッパーとして「踊り場」時代を経験してきてましたから、あの盆踊り的軍閥主義みたいな感覚がニッポン人から抜けきるまでは、本当の意味でディスコは定着しないだろうと信じていたからです。(ほぉ~)ステップというのはパターンの繰り返しですから、パターンさえ覚えてしまえばすぐに飽きがきます。それを飽きさせず持続させるには新しいパターンを生み出さなくてはなりません。この繰り返しが続けば自然とパターンのサイクルは早くなってくるし、そうなると生産効率優先になりますから、手当たり次第に新しい楽曲を注入していかねばなりません。必然的に似たような楽曲が大量生産され、その場しのぎのステップが量産されていきます。そしてある日、見向きもされなくなるほど飽きられてしまう。そんな構図が見えていたからです。(ふ~んそうなんだぁ)余談ですが、この構図ってなんかニッポン人の体質構造と非常によく似てませんか?ガッコのテストに当てはめてみるとよくわかります。同じパターンのテストで良い成績を争うってな感じですね。テストのフォーマットが単一的ワンパターンで、その回答は記憶力にかかっている。要はたくさん覚えた人が勝ちみたいな。ですから理論とかフォーマットを応用する力は評価されない。能力を評価するフォーマットが同じなんですね。だから絶対にそのフォーマット以上の才能は生まれてこない。仮に出たとしても頭を押さえ込まれてしまいます。下手すると「村八分」みたいなことで、あくまでも協調性重視の和を持って尊しとする思想で統一を図る。(えーちょっと脱線しすぎですね・笑)ではフォーマットの応用力のあるステップは無かったのか、というとそんなことはありません。ジルバとかチャチャといった大変奥行きのある素晴らしいフォーマットである「ステップ」があります。ここがひとつのポイントですが、ジルバもチャチャもペアダンスですね。チャチャはマンボの変形です。男女が対峙して踊るモダンの流れでいわゆるラテンと呼ばれる系統ですね。ジルバの変形にはサルサがあるし、これは変形というと失礼な表現になりますが、ラテン系の国別、民族別バリエーションです。ただ基本的にラテン系はSOUL、FUNKのバックビートと違って「前乗り」ですから、根本的なステップは違います。どちらも基本ステップはシンプルでワンパターンですが、踊りの中にアドリブがふんだんに入るように出来ています。もちろん男女ペアの掛け合いで成り立つ踊りですから、その曲、その場のフィーリング次第でバリエーションは自由です。(あ~話がどんどん脱線していくなぁ~)だから未だにチャチャなんてのはディスコでも引き継がれ生き残っているのではないでしょうか。1から10までガチガチのステップとは違いますね(笑)要は基本ビートの取り方フォームみたいなものですから、ビートをキープさえしていれば、後はどんな踊り方を挟み込もうが自由というステップです。逆にそのアドリブが見せ場としてダンサーの「粋」さを競う遊びになります。「此処で右足を上げて2回転して手拍子」とか、そんな細かな振り付けや決まりはありませんね。それはスクールメイツとかの振り付けです。あとひとつ、私がステッパー時代に覚えたウォーのシスコキッドというステップは、後年プロの振付師さんに教えてもらったモダンのベーシックとほぼ同じでした。(これも実話です。山口百恵さんの振付師をされていた方です)でもって、私がその振付師さんにサタディナイトフィーバーの「ナイトフィーバー」のステップを教えたんですが、その時の話の中で、やはりモダンのバリエーションも創作していかなければ振り付けのパターンがマンネリ化するとおっしゃられていました。それで、ネタを仕込みにゲットのニックさんなどからディスコのステップを教わり、変わりにモダンのベーシックを教えたというようなエピソードをお聞きしました。そんなステップ創作時代の裏話を聞いて、なんとなくその当時のダンサーたち、つまり私らの大先輩たちが夢中になった踊りへの情熱も、自分たちが今熱くなっているディスコダンスへの情熱も、基本的には同じルーツから生まれてきているのだなぁと思ったりしました。また長くなっちゃいましたね。ということで、ようやく自分の言いたいことがハッキリとしてきましたので、もうちょっとノーガキこきたいのでまた明日・・・・・。
2006年04月12日
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さて、昨日に引き続いて1970年代のディスコ・ステップのお話です。70年代中期、「バンプ」という踊りによって従来の「踊り場」が一般庶民(笑)に開放されたのと同時に、ディスコティックという言葉が巷を賑わせ、新しいお店が続々と開店していきました。その手の雑誌や本などではこの「バンプ」という踊りが、ディスコに革命を起こしたみたいに表現されていますが、実際にはブームというほどの騒ぎでもなく、猫も杓子もディスコになだれ込んだとは言うものの、相変わらずフロアでは一般大衆に紛れてステッパーたちがソウルシーシーやチャチャなどを繰り広げたりもしておりました。時たまシッタカ野郎が男同士で尻をぶつけ合って「これからはバンプだぜぇい!」とか叫んでおりましたが、男同士で尻ぶつけ合って何が楽しいの?みたいなもんでしたね。(笑)ただ、アメリカでは(っていうか黒人たちは)、踊りはペアが原則みたいなことになっているのだということをそれとなく知らしめたのが、このバンプではなかったかと思います。もともとニッポン人には男女ペアになって踊るという風習(笑)はありませんでしたから、これはフォークダンス以来の衝撃ではなかったでしょうか。(ほんとかよ)まあ、いずれにしても、一般市民を「踊り場」に誘い入れるきっかけにはなったはずです。さらに体をぶっつけて踊るってことも、男女が面と向かって踊り合える口実にも繋がり、そういう意味では「ステップ」に続く新しい「踊り場」の型が登場したわけです。なんせそれまでの「踊り場」っていうのは、チークタイム以外は男女一対を単位としていませんから、隊列組んで並んで踊るという、言わば人格無視、男女無差別、徹底的に個の主体性を押し殺した軍閥的状態でありました。(笑)当時でも時代の最先端を走っていると自負していた不良たちですらこんな始末ですから、二人っきりで隊列離れてステップでも踏んだ日には、「テメー、そんなとこでイチャついてチャラチャラ踊ってんじゃねーよ」くらいに言われて、すぐ隊列に取り込まれてしまいます。(まさに屈折した青春時代でしたね)男と女の愛の表現(くっさぁ~)あるいは男と女の出会いを演出するダンスになるはずだったステップも、結局は盆踊りの域を脱せなかったってことでしょうか。(笑)まあ、考えてみればリズムアンドブルースで踊るという、このパターンを普及させようとしたステップ創始者の願いも実際にはこんなところにあったのではなかったかと思います。R&Bで踊ることを広める手段として、入門者用のカタである「ステップ」を普及させてみたら、実際にはその理念とは裏腹にこの「ステップ」は個の感性を一切認めない流儀になってしまった、そんな感じでしょう。更に巷の不良の間では相変わらず「パーティー」などのステップ大会は続けられておりましたし、相変わらず昔ながらのステッパーが仕切ったりもしておりました。ただ、この頃になると実際にステップバリバリで踊っていた現役兄貴や姐御もそれなりに歳喰って引退していきますから、その時代の「遊び」の本質はずり落ちてしまい、その技としてのステップだけが形骸化して受け継がれていったのだと思います。「この曲はこのステップで踊らなければいけません」みたいな儀式化というか諸式化が行われたのでしょう。本来、ダンスなどというものは基本の型こそあれ、各自が感じたままに踊るのが当たり前なのですが、どうもニッポン人は個性というのが苦手な人種だし、反面こういった所作諸式が大好きな民族ですから、地元の青年団の団長あたりが音頭を取ると後に続けとばかりに皆一色に染まっていってしまいます。えー、まさに和を持って尊しとする、聖徳太子の教えですね。(笑)そんな時代に花開いたソウルブームのきっかけがバンプだったのです。確かR&B=SOULもニューソウルなどと呼んで、やたら新しさを強調していたように思えます。ところがここでまたひとつ時代の流れが歪な動きを見せ始めます。今までの「踊り場」という一種独自な遊び場がオーバーグラウンドしてくると、当然それに合わせた受け皿が必要になってきます。ビジネス的に言えば大衆娯楽としての効率的利潤の追求になりますから、従来のステップ中心の老舗のような敷居の高い店より、気軽に出入りできる新しい趣向のお店に一般大衆は群がります。俗に言う大型店の進出ですね。R&Bとダンスを普及させようと奮闘した「ステップ」創設者たちの念願がここにきてようやく叶ったわけですが、「ソウル」=「ディスコ」が広く一般大衆に受け入れられるような時代が実際に到来してみると、これらの創始者が活躍していたお店は、逆に時代の流れに取り残される結果となっていってしまったのです。老舗とか名門とか、形骸化したステップを信奉する一部マニア以外は、こぞって新しいお店、新しいスタイルへと群がっていきます。さあ、そうなってくるとステップ信奉者たちは、より意固地になって「古い」ものへのこだわりを押し付けてきます。しかしまあ、この頃(74年~76年)はまさに雨後のタケノコのように全国的な規模でディスコが乱立していった時代ですね。流行ってことで言えば一般的に新しいモノが好まれるに決まってますから、とにかく次から次へと新しい試みの店がオープンしました。(これはディスコに限ったことではありませんね)「一元さんお断り」みたいな常連たちが取り仕切る意固地な店よりも、誰でもどうぞ、いらっしゃいみたいな店が増えれば客足も当然なびいていきます。こうしてディスコという遊びのスタイルが世間一般に浸透しはじめたころのお客の流れは、大きく言って三つの層に分けられると思います。ひとつは古来からの伝統芸ステップ(笑)を引き継ぐ踊り場不良組、ふたつめは「踊り場」時代を経ずしてディスコから入った一般大衆組、みっつめは「踊り場」にも多少出入りのあった、とりあえず踊りの流れは知っている中間層。そんなマーケティング・セグメント(笑)から、受け皿であるお店の方向性がおのずと導き出されていきました。まさに時代の流れといったものでしょう。更に元々のSOULミュージック自体がディスコというマーケットにうまく乗って、次々とメージャーヒット、いわゆるダンスミュージックが登場してきて流行歌=POPSのヒットチャートを席巻していったのです。覇者交代の時代そんな感じで過去踊り場の花形スターだった常連ステッパーたちは、ニューソウル=フリーダンスに転向するか引退を余儀なくされたのでした。そして新しいディスコの覇者、アフロヘアーに黒人ファッションのソウルマンたちの登場とあいなったわけです。まあ言ってみれば時代の認めた「カッコ良さ」=「流行」が変わっただけのことでしたが、踊りに関してはここで「ステップ」という「縛り」が外され、踊り場のシキタリ、いわゆる洗脳が解かれたのでした。「みいんな好きに踊って良いんだよ~」猫も杓子もタコもイカもごちゃ混ぜにはなりましたが、とりあえず音楽を聴いて感じたままに踊るというディスコダンスが持つ本来の形にはなりつつありました。ステップは死んだのか?というと、どっこいこれがまだ生き残っていたのです。昔は今と違って中央の流行が地方にいきわたるまでにはタイムラグがありますから、東京で流行ったものがすぐに全国展開したかといえばそんなことはなく、ディスコという商売の形態はかなりのスピードで進んで行きましたが、お客の方がついていかないというような状態であったと思います。ですから、地方でも小奇麗なディスコが続々とオープンはしましたが、お客は相変わらずの古いステッパーが屯するといった具合でした。これが俗に言う地域別ステップの変遷として、ローカル色豊かなバリエーションを生んだのです。(笑)(特に赤羽とか川口のディスコは凄かった・爆!)そしてもうひとつ、不良の低年齢化に伴うシキタリの伝授ですね。(笑)いつの時代も不良に憧れるバカたちはいますから、兄貴姐御に憧れた若造たちはディスコデビュー前にパーティーで「ステップ」の洗礼を受けます。ここらにも時代の流れとしてのタイムラグがあったのですね。純真無垢な中坊(中学生組)とかツッパリ小僧一年生みたいな不良予備軍みたいなバカたちは、しっかりとステップ=踊りの洗脳を受けます。ただ、伝授する先輩にしても、いうなれば「ステップ」二世ですから、その時代を現役バリバリで踊っていたわけではありません。パーティーにしても、代々先輩方から受け継いだ形式に則って開催されたものですから、そのパターンだけが踏襲されていたようなものでした。ここで三世たちのマインドコントロールが行われ、「ステップ=ディスコ」という、間違いではないが正解ではないという図式が埋め込まれたのでした。この流れがいわゆる後付ステッパーとか呼ばれるグループやタケノコとして分派していったのでしょう。もちろんこれは私の分析に元ずく持論ですから、皆様もそれなりにお読み下さい。所詮道楽爺のノーガキですからあんまりリキまず楽しんで頂ければ幸甚と存じます。(なんちゃって)もうちょっと書きたいから、明日につづく・・・・。
2006年04月11日
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いや~昨日のアクシデントには参りました。結局DVDレコーダーは蘇生できずこれでお別れとなりました。(合掌)我家のKGBは目ざとく追求してきましたが、豪華ディナーと多少のUnder the tableでなんとか危機を回避したどうーらく親爺でした。(食いしん坊バンザイ!)ということで、今日は昨日書くはずだった日記の続きを書くことにします。先週は昔の「踊り場」ネタで長いこと盛り上がりましたが、おかげで当時のことなどもしっかり思い出させていただきました。もうすでに忘れかけたことでもありましたが、「踊り場ネタ」を書いていくうちに今まで私が言いたかったことがようやく自分自身でも見えてきました。それは昨今ダンスマニアで取り沙汰されている「ステップ」についてです。このブログでも書かせていただいたように私も70年代前半の「踊り場」に屯するステッパーの一人でもありました。そんな私が何故ステップを捨てて(笑)、黒人世界にのめりこんで行ったかという根本的なお話をさせて頂きます。(ってそんなたいそうなことじゃないんですケド・・・苦笑)いわゆる当時のステップというのは、非常に排他的な意味合いを持つ一種の宗教のようなものだったわけです。その創作者の意図や理念はともかくとして、巷で流行となり始めた頃にはその「踊り場」という非常に狭義な世界での「掟」というか「憲法」というか、踊りを楽しむ、あるいは遊ぶ上での縛りとでもいえる形式(流儀とでも行ったほうが適切ですか)が押し付けれらていました。どうもこれはニッポン古来のニッポン人気質と申しますか、国民性と申しますか、型(カタ)ありきといった類の形態に当てはまるものだと思います。何をするにもそこには「形式」というものがあって、その形式に当てはまらないものは仲間として認めない、みたいな感覚でしょうか。まあ、それが全国ネットで展開されれば、国民の常識となるので別に問題はないのですが、これが各地、各共同体とかだけで普及した常識であったために問題が巻き起こってしまったわけです。これはあくまでも私の推測ですが、ステップ考案者というか創作者の意図は、当時はまだポップ音楽で踊りを踊ると言うことが日常的でなかったため、それをなんとか一般に普及させるためにはカタを作った方が親切だろうということではなかったかと思います。まあ言ってみれば昔のダンスホールみたいな感覚ですから、ジルバやタンゴを習うような感覚で入門させようみたいなことではなかったかと。もちろん私は創作者本人でもないし、その時代を知りませんから本当のことはわかりません。あくまでも推測です。私の知る70年代をざっと振り返ってみても、ゴーゴーなんてカテゴリーでモンキーダンスとか、スイムとかサーフィンとか、そんな踊りもありましたから、モダンダンス以外のダンスってのも全くなかったわけではないと思います。まあ、それにしても皆で決まったステップを合わせて踊るってのは、誰だって楽しいはずで、村の盆踊りだってフォークダンスだってみんなで踊れば楽しいに決まってます。ところが、こんな形でスタートを切った「踊り場」のステップも、そこで遊ぶ人間達の権威付けというか特殊性というか、エゴの道具として作用し始めていってしまったんですね。これが第一次ステップ時代の過度期にあたるのではないでしょうか。要するに「踊り場」の流れを作っていった時代の遊び人(私らの大先輩たちですね)は、そこで遊ぶことの優越感や独自性をプライドとして持っていましたから、そこに一般人が流入してくることをひどく嫌悪したわけです。もちろん地域性も多分にあったと思います。(東京でも山の手と下町じゃ遊びのプライドも随分と違いましたからね)言ってみればこのパターンはいつの時代のどんな遊びにも付いて回ることですよね。ちなみに私はゴルフ場で働いてますから、「ゴルフは紳士のスポーツ」みたいなハッタリを知ったとき、なぜかこのディスコのステップとオーバーラップしたものです。(笑)高貴な方々の贅沢な遊びが大衆化に向かう中で、権威とか、優越感を維持させる装置としてこのような格式、儀式みたいなものが形骸化して残っている。もちろん、創設時当初は、同好の志の集まりの中で、そのセンスや趣向や格式を尊重して楽しんだ遊びの「粋」は間違いなく存在したと思いますし、それに憧れて後を追う者たちによってその習俗や慣習は引き継がれていったのでしょう。話が遠回りしましたが、要するにこの「踊り場」も大衆化していく過程で「ステップ」という形式だけが形骸化したものなのです。当時の不良少年たちが憧れた兄貴や姐御たちのカッコよさを引き継いだ若手が、その「粋」を守ろうとして、あるいは自分たちこそがそれを継承していくことを願って、このステップを権威付けていったのでしょう。そうなると必然的にこれらの形式はどうしても排他的にならざるを得ませんね。「これがXXのステップだ」とか「○○のステップも知らないくせに」とか、伝統芸を守る者達の手によって保守的な政策(笑)が散りばめられます。ところが、このステップの舞台となる「踊り場」は資本主義の理論で回っていますから、伝統芸保護(笑)よりも実利を求めていくのは当たり前なので、革新勢力によってどんどんと塗り替えられていきます。時代の流れは誰にも止められません。そのうちに伝統保護グループも結局は時代の流れには逆らえずに淘汰され消滅していきますが、この「ステップ」だけは形骸化して残っていきます。まあ、いうなればこの辺りの事情が、いわゆる常連(客側)と店(経営者側)の基本的なスタンスの差と言うか違いでしょう。踊ってる方は自分達の都合だけでモノ考えてますけど、店は売り上げが上がらなければメシ喰っていけませんからね。ただ、人間の考えることとかエゴなんてのは時代に関わらず同じですから、たとえ形骸化された「ステップ」とはいえ新たな権威付けを生み出す道具となってしまうわけです。私自身も体験してますから、自分の後に続いてステップを踏む人間が増えれば増えるほど快感は増幅され、この地位を守るためには更なる排他的秩序を生み出していくのは仕方のないことです。権力とまでは言えませんが、ひとつの頂点に立つ快感ってのは人間の本質ですね。ところが時代と言うのは常に古いものをぶっ壊すことによって進んでいきますから、いずれはこんな時代にも終わりが訪れます。皮肉なもので、このステップ黄金期をぶち壊したのはステップ生みの親でもある黒人音楽そのものであったわけです。ここで私個人の話に戻すと、私がこの「ステップ」という呪縛から解放されたのは横田ベースのブラザーたちとの交流からでした。このブログにも登場したマーティ・ブレイシーとか、新宿で共に働いた黒人たちが新たな踊り「バスストップ」を持ち込んできたとき、当時すでにステップには飽き飽きしていた私は正直言って「何だよ、またステップかよ」というような印象がありました。ところが彼らの教え方が、ニッポン人のそれとはまったく違うものであることに大変な驚きを感じたのです。「凄いんだよコレ、横田じゃどんどん新しいステップがやってくるんだ。やってみようよ」そんな感じで手を引かれて渋々踊った私ですが、この彼らの屈託のなさにはちょっと違和感を覚えたくらいです。自分達の時代じゃ、これ見よがしに威嚇するように踊った新作ステップでしたが、彼らはまるで新しいゲームをみんなでやってみようよ、といったような態度で誘い込んできます。本当にこの時です。私の心の中で従来のいわゆる「ステップ」の呪縛が解けたのは。たぶん「踊り場」の老舗で行われていた「ステップ」の普及も、当初はこんな感じではなかったのでしょうか。それがいつのまにか、伝統芸みたいなものにまで祭り上げられてしまって、広めるはずの「踊り」をタコツボに圧し込めていってしまったのではないかと、そんな思いが湧き上がってきたのでした。誰が作ったステップだろうが、どこの店で流行っているステップだろうが、そんなことはどーでも良いことで、黒人音楽が踊りに適した音楽であることと、ビートに委ねて体を動かすことが気持ちの良いことであり、それを体験できるのが「ディスコ」で、この楽しさを分かち合うことがダンスミュージックの素晴らしさである、とそんなことを悟った弱冠二十歳の私がSOULにのめりこむきっかけとなった出来事でありました。(これは正真正銘、私の体験に基づいた実話です)ということで、馬鹿なお調子者ではありましたが、この日から私は踊りの楽しさを皆様に知って頂こうとステップ否定派の急先鋒となって行ったのでした。(まあ、これがアンチディスコ協会というようなことにも繋がっていったんですけどね)とはいうものの、結局このバスストップっていうのは大したブームにもならず終息していったのですが、ちょっと歪な形で第二次ステップ派として生き残っていったんですね。長くなるのでこの話はまた明日ってことで。
2006年04月10日
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道楽者の待ちに待った日曜日がやってきました。さあ今日も非生産活動に精を出すぞぉ~と、日の出とともに起床、まずはDVDにヤキを入れることからスタートしました。PCでライブ映像にヤキ!古いVIDEOをぶち込んでヤキ!その間にワープロで「昔話」の回想を打ち込みつつ、冷蔵庫から道楽者の餌を取り出しかじる。CDプレーヤーで懐メロ・リバイバルソングなどを流してすっかりリラックスモードに入り、すべては順調にスタートした道楽者の日曜日。これで今日も1日どっぷりと道楽にハマるぞぉ~と、すっかり気ぐるみを脱いで単なるどーらく親爺に変身したが、ここでトラブル発生です。つい半月ほど前に購入したDVDレコーダーがついにキレたのです。ブチっと音を立ててモニター画面が真っ黒になりました。ひえぇ~!なんてこったい!慌ててディスクを取り出してみましたが、パワーのオン、オフ以外はまったく作動しません。御愁傷様です。しかし考えてみればこのところのヤキは確かにキツかったと思います。そりゃ、家庭用機器の常識でいえば尋常な稼働率ではありません。(安物ってこともありますけどね)まあ、貧乏人の特質でもあります「安物買いの銭失い」ってやつですね。どうもこの体質は子供の頃からちっとも変わっていないようで、先日の日記でもご紹介した突っ張り少年時代に買ったバーゲンのスリーピースのお話みたいなもんで、見栄えと値段ですぐに飛びついて衝動買いしてしまう癖はイイ歳した爺になった今もまったく変わっておりません。懺悔の値打ちもないということで道楽親爺の日曜日の夢はもろくも崩れ去ったのでした。結局、道楽に入れ込んで買い込んだ親爺のおもちゃは二つとも死んでしまいました。まだまだ山積みされたVIDEOがあるというのに、志半ばで倒れた道楽親爺は意気消沈。さらにこの遺骸をどうやって処理するか考えねばならないのです。我が家のKGB、末娘がこの事態を察知する前に手を打たねばなりません。ということで、どーらく爺はこれからこのレコーダーを近所の中国系修理屋に持ち込んで悪あがきをすることにします。(やれやれ)「おとうさん、何してるの?」ゲッ!KGBの登場です。「見りゃわかるだろ、ワープロ打ってんだよ」「またDVDコピーしてんの?」「そうだよ。テレビが見たいんなら、今このレコーダーはずすからちょっと待ってなさい」おーヤバっ!(冷や汗出た)続いて息子も起きてきました。「お父さんはこれからちょっと出かけるから・・・」あ~、憂鬱な日曜日になっちゃったなあ~。幸いテレビでは「スポンジボブ・スクウェアパンツ」が始まったので、子供は画面に釘付けです。こういうときは親爺は邪魔だから鼻も引っ掛けんね。ということで、これから道楽親爺は最後の悪あがきに出かけてまいります。それでは全国の道楽者の皆様、今日はこれでお別れです、さようなら、また明日
2006年04月09日
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親爺の昔話も調子付いて遂に10日間が過ぎました。しかしまあ、よくこれだけ次から次へとアホネタが出てきたものです。ただ不思議なもので、ふと思い出す当時のシーンはかなり鮮明なビジュアルで甦ってくるんですね。精神的にも当時のままの状態が一瞬にして飛び込んでくる。ただ、さすがに時代の脈略がないというか、断片的にフラッシュバックしてるようなもので、前後の辻褄とか、その当時の背景なんかは結構曖昧ですね。その瞬間のシーンだけがリアルな映像として記憶に残っているみたいな(笑)ということで、今日は私と「FUNKY STUFF」の出会いについての回想です。確か1972年の夏頃だったと思うのですが、当時踊り場でもいっぱしの顔を売り始めていた頃のことです。馬鹿の集まりマタンキ団というのがありまして、そのメンバーの一人に立川在住の石坂という小柄な少年がおりました。彼は高校生バンドのメンバーでベースを弾いており、私が少なからず音楽的な影響を受けた友達の一人でありました。そんな彼が銀座の某音楽喫茶(今で言うライブハウスみたいなんかなぁ~)に出演するということで、早速マタンキ団に召集をかけてはるばる銀座まで出張って行ったのでした。店の名前もすっかり忘れましたが、松坂屋の裏手にあった二階建ての喫茶店というかスナックというか、店の中央にステージがあって、毎日2~3バンドが出演しておりました。踊り場とはまたちょっと違った感じで、バンド演奏を聞くということがメインのお店でした。当日は、その夏マタンキ団が遊びに行った新島で知り合った御茶ノ水界隈の女子高校生と待ち合わせなんぞをして、みな意気揚々と銀座に繰り出したのでした。まあ所詮新宿がメインの不良少年達ですから、彼女等にしてみればそこはそれやはりイマイチ垢抜けない不良少年グループみたいなもので、テキトウに相手されたような感じだったワケですが、普段あまり見たことも触ったこともないようなカワイコちゃんグループにみな目が血走って、思いっきり背伸びして出かけたのでした。私はいつもながらのコンポラでしたが、他の奴らは何を血迷ったのかアイビーというかトラッドというか、えーとこのボンみたいなカッコして現れたのには大笑いでした。所詮は川崎の生田の土建屋の息子とか、高田馬場の商店街で煙草屋を営む家の倅とか、向丘遊園のフツーのサラリーマンの倅みたいな奴らですから、恰好だけはそれなりでも額には剃りこみ後から飛び出した間抜けな槍毛がイモにーちゃん丸出しを物語っていたのです。とまあ、ちょっとした集団見合いみたいなものだったのですが、当然店の前で会った途端に「お呼びでない」状態で、マタンキ野郎達は必死こいてアプローチするのですが、何を言ってもねーちゃん同士が顔見合わせてクスクス笑うばかりで、相手にされていないことも悟れず往生際の悪いアホ野郎たちでした。そんなこんなで会場で和気藹々(って野郎たちだけで喜んでたんですが)で2階席に陣取り、石坂君の出番を待ったのでした。石坂君のバンドは3人編成で、ギター、ドラム、ベースのトリオでした。バンド名は「レッドゾーン」。赤道?みたいな感じですか。レパートリーは当時不良少年の人気を一気にさらったキャロルの「ルイジアナ」とか「ファンキーモンキーベイビー」とか、さらにサンタナのエビルウェイとか、グランドファンクとか、編成が編成だけにレパにも限界があって、どちらかというとROCK系のバンドでした。「たどり着いたらいつも雨ふり」(モップスだったっけ?)とか、日本のポップスなんかも混ぜて演ってました。一応はプロとしてギャラ取ってましたから、演奏はまあまあ、アマバンドの域はチョイ超えていたと思います。さて私の昔話のメインは彼らのバンドではなくて、対バン(もうひとつのバンド)の方で、こちらはフルメンバー6人の本格的な大人バンドでした。ドラム、ギター、ベース、キーボードの4リズムに管楽器サックス1名を加え、女性ヴォーカル一人の計6人、当時でも管が入ったバンドは珍しかったので、その登場は踊り場を彷彿とさせました。オープニングはサンタナのブラックマジック・ウーマンで、すぐにマタンキ団のハートわしづかみにしました。お調子者野郎たちですから、テーブルの前のちょっとしたスペースでチャチャなんぞを踊り出す始末です。バンドの女性ヴォーカルのおねーちゃんはこの小僧達のリアクションに気を良くしたのか、「じゃあ、ダンスナンバーやるから、もっと踊って!」と一声かけてカウントを取りました。ピーッ!いきなりどこからかホイッスルの音が響き、ドドーン、ドドーン、ドーン!パラララーッ!ギターのシャープなカット、リフが続きます。Can get enough! Do the funky stuff, try,try,いやー、びびりましたね。調子くれて踊っていたマタンキ団も一瞬棒立ちでステージを見ていました。なんじゃこりゃ?って感じでした。「なんだよこれ?JBか?」「知らねぇ、聞いたことねぇな」「どーする?踊るか?」「ステップは?」「知らねぇ、ブレイクダウンでも踊るか?」なんていってるうちに、元は踊り好きの馬鹿達ですから、なんだか知らぬ間に乗りまくっていたわけです。そんな姿を見て、山の手のお嬢チャンたちも見る目が変わってきました。やはりこの当時、踊りを踊れるってことがいかに凄いことだったのかということですね。(そうなの?)ということで、演奏が終わった後ヴォーカルのおねえさまから説明がありました。「これは今横須賀で最高に受けている曲で、クールアンドザギャングというグループのファンキースタッフと言います。私たちいつもは横須賀や横浜のクラブで演奏しているんで、今はみんなこの曲で踊っています」みたいなことを教えてくれました。ファンキースタッフかぁ。マタンキ団の全員がすでにこの曲の虜になっておりました。この後、私は早速レコード屋さんに足を運んでこの曲を探しましたが、どこの店でも「ありません」「わかりません」で、踊り馬鹿の好奇心は更に膨らんでいきました。確かその1~2週間後だったと思います。ようやく新宿の踊り場でもファンキースタッフが流れ始めました。それでも私がようやく輸入盤のワイルド&ピースフルを手に入れたのは、その3ヶ月後でした。日本発売は更に遅れること半年だったですかねぇ。しかしこのサウンドは衝撃的でした。今までのダンスナンバーはどちらかと言えばR&B色が強く、泥臭い感じでブルージー、なんとなく暗い感じが背後にありましたが、このファンキースタッフは底抜けに明るく、しかもどことなくJAZZの雰囲気も漂わせていて、とにかく新しい踊り場の幕開けといったイメージがありました。そしてまさにその頃の踊り馬鹿達が感じたように、時代はディスコへと移っていったのでした。若さは常に古いものを壊していきますからね。私自身、このレコードは本当によく聞きました。レコードの溝が擦り切れてなくなるくらい聞いたし、踊りました。アルバムのほぼ全曲ヒットしたんじゃないですか。B面1面に入っていたワイルド&ピースフルも、当時JAZZなどまるっきり知らない私でも聞き入って感動したものです。そんな私の青春にとってもコンポラとの訣別、ステップ・ダンスからの卒業、お水の道へまっしぐら(笑)そんな思い出深い曲との出会いでもありました。ちなみに、山の手お嬢チャンとはどうなったかといいますと、いくら踊りで目立ったからってそんな上手い話があるわきゃありません。その後ピザ屋でピザ食って解散です。石坂君だけは、この中のプロボウラー目指していたお嬢ちゃんとしばらくお付き合いしていたようです。石坂君、天パーで小柄のファンキーなヤツでした。今もミュージシャンやってるのかなぁ。私は彼からセブンスやシックス・コードの使い方を教えてもらいました。当時の私にとってはかなり強いインパクトを持ったキャラクターの刺激的な人物でしたネ。オマケ連日カキコミ頂きましたyu-jiさんのサイトにリンク貼らせてもらいました。不良少年の海自体験のお話など、また一風変わった戦友のお話をお楽しみ下さい。ディスコとはジャンルを超えていますが、中々興味深くて面白いですよ。
2006年04月08日
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いやー、このところ異常な盛り上がりを見せる「踊り場」ネタですが(っていうかおまえが勝手に盛り上がってるだけだろ)、毎日ポンポンと飛び出すキーワードに、古い記憶がどんどん甦ってまいりましたので、きょうはひとつ横田エアフォース基地近辺にあった「ラッキー・テーラー」のお話をしましょう。(あったって書いちゃったけど、もし今も健在ならごめんなさいってことでよろしくです)えー、当時はまだドルがとてつもなく強かったですから、基地の周りには仕立て屋さんが何軒かありまして、兵隊さんの洋服などを作っておりました。まあ、横浜や横須賀とかに比べると福生の横田基地周辺は地味ぃ~なところでしたが、ジェットが飛び交ったり、誇りっぽい道路をアメ車が横切ったりして、フェンスを隔ててちょっとした異国情緒を醸し出しておりました。まさにフェンス沿いの国道にぽつんぽつんとお店があって、やってるのかやってないのかわからないような、これまた非常に地味ぃ~な佇まいをみせていたのです。そんな仕立て屋の1軒に「ラッキー・テーラー」という、ソウル馬鹿御用達のお店がありました。オーナーは中国人のおっちゃんで、勿論裁断師も縫製職人も中国人でしたが、とにかくどんなデザインだろうがこなしてくれる重宝な店でした。しかし、店といってもガラス張りのくせに中は生地(反物)が山積みされてて、店内は殆ど見えず、中に入っても同様に生地の山に囲まれて応接セットが無造作に置いてある、殺伐とした店でした。テーブルの上にはアメリカの通販のカタログ(JCペニーとかね)が散乱していて、ソウル馬鹿たちはこのカタログの中から好みのデザインを見つけてはオーダーするといった趣向でした。しかしこのカタログにも驚きましたね。黒人専門のファッション誌みたいなものがあって、ジャンプスーツやら、オリジナルニット製品がこれでもかってくらいに載っていました。当時はとにかく情報がやたら少なかったし、特に黒人(SOUL)の情報源なんてのはベースから入ってくる以外は、レコード会社の商業用ニュースだけでしたから、このカタログ本をみているだけでも気分はもうアメリカだったですね。(笑)冒頭にも書きましたが、ソウル小僧の御用達イコール全日本ディスコ協会御用達でもあるわけですから、どんなに奇抜なデザインを考案しようが、出来上がってこれを着て行く所は皆同じだし、結局は出何処は皆一緒みたいなもんで、とにかくアフロ小僧でこのラッキー・テーラーを知らないヤツはいませんでした。この店のオーナーのおっちゃんがまた素晴らしいキャラクターでして、今ならさしずめバラエティ番組の天然ボケタレント顔負けでした。店を入ると奥にあるカウンターデスクにでんと座ってお茶なんか啜ってましてね、客を客とも思わぬ態度なんですが、愛想だけはやたら良いんですね。(中国人っぽいていうのかなぁ)変な日本語だし、頭も結構禿げ上がっちゃったりしてるんだけど、とにかくニコニコしてるわけです。だからって客に媚び売るわけでもなく、福生=基地の前の店主って感じでした。(意味よーわからんぞ)「おっちゃん、こんちわ~。ジャンプスーツ作りに来たよ」「あ~、コンチワ。イイキジハイッタヨ、アタラシーノ」「本当!?じゃそれ見せてよ」「あ~、ソコネ、ソコノイチバンウエ、ソレソレ」(って座ったまま指差すだけ)「おっちゃん、これってこの前来た時にも新しいのって言ってたんじゃん」「あ~、エンバシーノヒト?」「違うよ、俺らは新宿だよ」「センシュウ、カツモトサンキタヨ」「違うよ、新宿のダンサーズだよ」「あ~、キョウカイノヒト?」「違うっつーの。俺らはバッドチルドレンっていうダンサーズ!」「あ~、カツモトサン、ダンサーズノユニフォームツクッタネ」「えっ、そうなの?どんなやつだった」「ソコノウエニアル、ソウ、ソノアタラシーキジツカッタヨ」「だからおっちゃん、俺、先月もこの生地見たよ、新しくないじゃん」「あ~、アカノシャツトパンツノセットネ」「ふ~ん、赤のユニフォームねぇ」「ソウイエバ、キノウワジョージガキタヨ」「誰だよジョージって?どこのヤツ」「あ~、ミンナキョウカイノヒトジャナイノ?」こんな無意味な会話のやり取りがあって、自分たちで絵を書いたりしてデザインが決まると、裁断のおっちゃんが呼ばれて型紙をどう作るか相談します。このおっちゃんがまた変わり者で、無口な上に日本語が殆どわからない。(っていうかわからないから無口なんだろ)ボタンの位置とかファスナーの位置とか細かに絵を見せて説明すると、ふんふんと聞いていて、数分沈黙の後、中国語でおっちゃん同士の会話、再び説明、沈黙、中国会話、こんなことを繰り返してようやくデザインの型紙が検討されます。「あ~、ダイジョブ、コノヒトワハサミノプロダカラ、シンパイナイヨ」「あのさ、ボタンはくるみにしてジッパーは横だからね」「あ~、ダイジョブ、ダイジョブ、ライシュウカリヌイダカラ」「本当に大丈夫かなぁ~」「あ~、ホラホラ、チョットカンガエルジカン、コレヨンデ」と、おっちゃんは、広げたデザインブックの間に挟まって見開いた小さなポルノ雑誌を手渡します。一瞬にして商談の緊張が解け、アフロ小僧は目が血走ります。おおーっ、スゲーってなもんで、その当時はこんな本は中々手に入りませんでしたから、急に無口になったアフロ小僧はカウチに腰をおろして雑誌に目が釘付けです。しばらくして裁断のおっちゃんからオッケーの合図が出て商談成立です。「あ~、コレネ、ココノジッパーノトコロガネ、チョットムズカシーネ、デモ、ロクセンハッピャクエンデイイヨ」小僧は頭の中でガイジン女の裸が揺れてますから、はいはいってなもんです。「あ~、ジャ、マエキン、ドースル?ハンブンハラウ?」はいはいってことでお金払ってさようならみたいな感じです。「あ~、ジャ、ライシュウ、カリヌイダカラネ、ワスレナイデネ、ハイ、アリガトゴザイマシタ」いや~、さすがに中国人は商売の天才です。今にして思えば、これってボケじゃなくて商売のテクだったのかもしれませんね。とは言うものの、やぱりこのおっちゃんの人柄がみんな気に入ってたんでしょうね。
2006年04月07日
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何処まで続くかノスタルジー・シリーズってことで、爺の遠い記憶を辿りながら毎日楽しんで書かせてもらってますが、昨日は立川(牛浜)のBPカンケイのカキコミがありまして、またしても戦友に遭遇したって感じです。(yu-jiさんありがとうございました)いやー、しかし凄いですねyu-jiさん、海自とは。浅田次郎さんみたいですね。でも当時の不良って結構自衛隊行ったヤツも多かったですよね。私のダチにも二人ほど陸自行ったヤツらがおりました。稲城市のバカ二人でしたが、当時あのあたりは新興住宅地みたいなところで、都内から移り住んできた人間ばかりで出来た町だったせいか、結構ムチャクチャな奴らも随分といましたね。上福岡なんかも似たような感じでしたが、川崎と埼玉のギャップ(笑)も多少ありました。上福岡のバカは当時既に早くも塀の中に旅立っておりました(笑)結局、子供の暴れっぷりに親も手が付けられなくなって自衛隊にぶち込んだみたいな感じでしたが、浅田さんの本を読んでみて彼らの自衛隊での活躍が目に浮かびました(笑)さて、カキコミではもうひとつキーワードを貰いましたが、当時のファッションで忘れてならない「コンチ」ってのがありましたね。ちょっと大人っぽい響きです。私が高校を卒業する頃はボンタンツッパリも翳りを見せ始めていて、皆スリーピースを買い込んで「これからはコンチだぜ」みたいに、ワケもわからず背伸びしていたことを思い出しました。更にこの頃はガキの間でもブランド品などもボチボチ登場し始めてきて、おなじみJUNだとかダーバンだとか、よーわけもわからずカタカナを乱用したりしてました。タバコも洋モクにしたり、シガレットケースや高級ライターなどを持ち歩くのがちょっとしたハッタリでした。ダンヒルとかディポンとか、ちょっとオマセはカルチェ(カルティエ~とか生意気な発音して自慢するヤツもいました)とかね。(相変わらずのバカだねぇ~)貧乏人は相変わらず安物ジッポーを持ち歩いてました。ご多分に漏れず私も、コンポラ仲間をいち早く出し抜いてスリーピーで変身をはかろうと試みました。偶然下北沢に出来たばかりの吊るし専門店に「太郎と花子」(だったかなぁ)ブランドのベージュのスリーピースが1万九千八百円で目玉商品としてぶら下がっていたのを目ざとく見つけて、数少ないご親戚から頂いたお年玉と麻雀で稼いだ二万円を握り締めて店に駆け込んだのでした。お~し、これでオレも今日からはコンチで皆に差をつけるぞぉ~、と気合を入れてアスコットタイなどを首に捲いていざ出陣!てな処に、バカ息子の道楽に嘆く母親から厳しいご指摘が入ったのです。「おまえ、これ夏物だよ。こりゃ背抜きだから着るには未だ早いよ、カゼ引くからよしなさいよ」どうりで着心地がばかに軽いと思いました。「いいんだよ、男は多少の寒さでも歯食いしばって我慢するところが粋なんだよ」あーあ、と言葉を失う母親を尻目にバカ息子は仲間の待つ新宿歌舞伎町へと出張っていったのでした。底冷えのする街中を文字通り歯を食いしばって早足で歌舞伎町「モアモア」へ飛び込んだ私は、そこで待ち受けていたバカ友たちをみて唖然としたのです。ほぼ全員がスリーピース・スーツやらトラッド風のブレザーにアスコットタイなどに変身しているではありませんか。しかも全員頭は相変わらずのリーゼント。何処から見ても田舎者の東京見物にしか見えません。「しかし、おめー似合わねぇ~な」「人のこと言えんのかよ、テメェだって鏡でそのカッコみてみろ」田舎芝居の猿役者勢揃いです。「せっかくコンチ決めたんだからよぉ、俺らもそろそろ六本木じゃねぇか」「そうだよな、やっぱここらじゃガキっぽい女しかいねぇもんな」そのガキっぽい女にもほとんど相手にされていないアホばかりのツッパリ小僧軍団でしたが、未開の地は常に夢と冒険のロマンに満ち溢れているのです。やっぱし、新宿野郎に取っちゃ六本木は夢とロマンに溢れた憧れの都会って感じでしたね。(ふ~ん)とにかく六本木には大人っぽい粋なおねーちゃんがザクザクいると勝手に思い込んでおりましたから、想像だけが先行して独自な妄想を生み出していたんですね(笑)そんなファッションの変わり目でもあった時代ですが、踊り場の方も形式が変わりつつあり、従来のステップダンスは次第に影を潜め、いわゆるディスコダンスというような誰でも気軽に踊れる一般大衆娯楽へと突入して行きました。今までは踊り場のシキタリとして、ステップ知らないヤツはは入れない、みたいな敷居が一気に外され、猫も杓子もタコもイカも皆が一斉に踊り場に雪崩れ込んで行ったの頃のことでした。それでもチャチャは永遠不滅って感じですよね。
2006年04月06日
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1970年代の不良のお話をかいつまんで書いてまいりましたが、私が「踊り場」と出会う前までの不良人生は世田谷周辺の非常にローカル色豊かな内容ばかりです。所詮は駅前の喫茶店に屯して、蛇腹の学ランに逃げ隠れしながらダックスに乗って近隣を徘徊する近所の鼻ツマミ者程度の不良でした。世田谷の梅が丘というところは、天下に轟く国士舘大学・高校・中学があり、そのすぐ近くに都立明正高校があり、小さい規模ながらも学生を中心とした地味ぃ~な駅前商店街、ちょっと外れると閑静な住宅地といった、妙なバランスの土地柄でもありました。文字通り梅の名所として羽根木公園などというそこそこの大きな公園があり、著名人や芸能人なども割と数多く住んでおりました。そのくせ朝夕の通学時は、まるで軍隊のような蛇腹の学ランにゴム長靴軍団が駅前に整列し、デカイ声で「オッス!オッス!」を連呼する姿などの異常な光景がごくあたりまえのように日常に溶け込んでいた妙な街でした。そんな街ですから、不良といったところでまだまだ可愛げのある悪ガキの集まりといったものでした。それでも、皆高校に行くようになると、別の地域の不良たちとの交流もそれぞれに始まり、目一杯背伸びして不良の順位を競ったりもしましたが、まあ、それでも不良小僧のほとんどが地元商店街の倅や娘だったので、その枠内でそれなりの青春を謳歌した(笑)不良ごっこでした。そんな環境の中で育まれた中途半端な不良少年であった私は、「踊り場」に出入りするようになってネオンの街に泳ぎ出した頃には、地元の不良連中との修行では物足りなくなってきており、更なる好奇心に誘われるまま生き急いでいったのでありました。この頃にはいっぱしの踊りバカとなっていた私は、踊り場で築いた不良小僧の人脈などを屈指して「踊り場」からの脱却を試みていたのでした。(なんじゃそりゃ)バカの背比べも次第にエスカレートしていき、「踊り場」でも少々古株常連などになってしまうと、そこはそれ、更に今以上の背伸びをしようとするのがバカの特質ですから、同じレベルの高校生のもうひとつ上を行くことを試みたのでした。どういうことかといえば、「ガキみたいな女じゃつまらんぜ」などと利いた風な大口を叩いて、「大人の女をものにするんじゃ」というような、所詮はバカの上塗りに過ぎない新たな修行の道へと進んでいったのでした。(やれやれ、バカはいつまでたってもバカのままです)「踊り場なんて所詮はガキの溜まり場よ」などとノーガキを垂れつつ、徒党を組んで新宿歌舞伎町の大人のお店へと流れていったのです。当時、「踊り場」の流れも多少変わりつつあり、小箱から大箱、薄暗いところから煌びやかな店の時代へと突入しておりました。いわゆるパブ・ディスコとか呼ばれる店が出始めた頃ですね。早速、踊り場の常連などと手に手を取って、これらの大型店に出張って行ったツッパリ小僧たちですが、なんとここには身震いするほどの異常な興奮が待ち構えていたのです。その頃のチマチマした「踊り場」のダンスフロアに比べて、やたらでかいフロアーにはいわゆる大人のねーちゃん達がワケのわからぬタコ踊りをしているではありませんか。もちろんそれに混じってネクタイ野郎やおのぼりにーちゃんみたいな学生などもいて、そこに颯爽と登場したコンポラ小僧のステップ軍団は見事にフロアの花形スターとなっていってしまったのでした。思い起こせばその昔、大学生のあんちゃんに連れて行ってもらったサントリーパブで体験した世界、タコ踊りの大人たちをまるで引き連れるように、そこで先頭切って踊っていたリーゼント野郎こそが、今の自分であったことに気が付いたのでした。とにかく踊るステップ、踊るステップ、自分の後ろに続く年上のねーちゃん、にーちゃんが、必死になって金魚の糞のようになって付いてくるのです。まるで教祖様にでもなったような夢心地でした。「生きてて良かった。踊りやってて良かった」(しょうがないね、どうも)この時ほど不良をやってて良かったと思ったことはありませんでした。(あーあ)さあこうなってくると、この教祖軍団はもう自分たちこそがここを仕切るべき人間だ、くらいに大勘違いも甚だしく大脱線して行きます。「俺らでステップ作っちゃおうぜ」神をも恐れぬ不届き者たちは、さらにその世界で王者として君臨することを夢見ていったのです。「合言葉はマタンキ!」(こらこら)当時の高校生の間で爆発的大ヒットしたマンガ「トイレット博士」に登場するマタンキ団の踊り場グループ結成です。(へぇ~)マタンキを合言葉にアチコチのパブを巡るステップ小僧軍団は、無知な大人相手に踊りを教える傍若無人な行いは益々エスカレートしていったのでした。パブ・ツゲザー(当時はこう表記してました)、プレイハウスに屯し始めたステップ小僧軍団は、フロアを仕切り、バンドにも鬱陶しがられ、挙句には入り口に貼り紙などで牽制されるほどの実力を持ち始めていたのでした。(ふ~ん)「当店ではステージに向かって隊列を組んで踊る、メダカ・ステップダンスはお断りいたします」なっ、なんと、オレ達はメダカだったのかぁ~。行き場を失ったステップ軍団は、こんな仕打ちにもメゲず新天地を求めて歌舞伎町をさ迷い歩いたのでした。一度快感を味わったバカたちは今更古巣の「踊り場」に戻るはずもありません。「デカイ店がダメなら小さい店でも良いじゃん」てなことでバカはバカなりに考えて、更なる拠点(アジト)を探したのでした。そして遂にステップ時代の終焉とも言えるこの時代に、メダカ軍団の黄金時代を築いた店が日の目をみることになりました。歌舞伎町「モアモア」~ジュークとバンドのパブ~踊り場を卒業した不良デパガや不良OL、さらに大学生、専門学校生が集まるちょっと大人の店でした。
2006年04月05日
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まだまだ続きますよ、踊り場ネタ。書いているうちに色んなこと思い出すんですけど、歳のせいか結構物忘れも早くて、いざ書こうって時に「あれっ?なんだったっけ」てなことで余計に話が堂々巡りしてしまいます。ということで今日はこのネタの発端ともなった青山パルスビートにまつわるお話です。正直言って、私はパルスビートにはほんの数回しか行ったことがありませんでした。当時でも青山はちょっと別世界みたいな、不良業界(なんじゃそりゃ)でもかなり先端を走るグループという印象がありましたし、所詮自分とは住む世界が違う、みたいなイジケ根性があったのも確かです。私も新宿あたりの踊り場を武者修行しているうちに、下町系不良グループとの交流は結構できあがっていたのですが、やはり渋谷~青山~赤坂~六本木といった不良グループには多少のコンプレックスがあり、特に出自の卑しい自分は彼らと対等に張り合うことすらできないイジケ野郎でもありました。世田谷じゃ、やっぱ田舎者扱いされてたし(笑)そんな出身地別不良ヒエラルキー(笑)の中段に位置する世田谷のツッパリ小僧は、1学年で生徒数が千人以上もいる高校でベスト10にランキングするほどの名物男マサシのお誘いで地下鉄に乗っかってはるばる青山のパルスビートへと出向いたのでした。こいつは一文字眉毛のマサシといわれる小柄なヤツでしたが、今にして思えば南方系の面構えでしたね。色も黒かったし私以上に毛深かった(笑)さてこのマサシが所属していたチームが青山みなごろしでした。みなごろしって漢字一文字で書くんですけど、別に私はその手の専門家じゃないので、その漢字もよー覚えておりません。っていうか当時でもそんなムツカシー漢字は覚える気もありませんでした。(笑)その頃、学校の踊り自慢たちはクラスを超えてツッパリ小僧達の間でチヤホヤされるようになってきたりして、当然クラス対抗ステップ自慢吹きまくり大会みたいなことになり、ある日マサシの教室に自慢野郎が集結したことがありました。「おめぇ、どこらで踊ってんの?」「オレはゲット専門」「俺等はトレビかな。たまにポップ」「なんだテメーら新宿ばっかじゃん」「じゃおめーはどこ行ってんだよ」「パルスに決まってんだろ」一同?????どこだよパルスって、みたいな感じで、さすがに不良バカのトップ10にランキングされるほどのツワモノですから、ここでぐーーんとバカ達に差をつけたのでした。ということで、この後教室では各自自慢のステップご披露会が催されたのですが、音もないのにようやるわってなもので、傍からみたらバカ丸出しです。それでも踊り自慢だけが理解できる微妙な隠し技の数々(笑)がご披露され、ここでマサシが一気に皆を煽ったのでした。「ようし、じゃ、みんな今度の土曜日パルスで踊ろうぜ。おめーらにホンモノのパルスのチャチャ見せてやっからよぉ」とにかく何でも先頭切って仕切りたがるマサシ少年、以前はクラスの全員におにぎりを持ってこさせ授業中におにぎり合戦などをやらかす、もうそれは本当に手の付けられない極上の馬鹿野郎でした。さてそんな誘いに乗って、新宿の踊り場に通う踊り自慢たちが青山パルスビートに集結したのでした。ネオンギンギラ、ごちゃ混ぜ人種がごった返す新宿の街しか知らない世田谷の田舎小僧は、青山通りの落ち着いた雰囲気にすでに呑まれてビビっておりました。そんなバカ野郎の同級生が集結してくる中、颯爽とCB500に跨って登場した小柄な一文字眉毛は白いマスクを外し、どてらのような革ジャンを脱ぐと、エンジ色の光り輝くコンポラスーツを着ていたのでした。(おおーっ!)其処此処から集まった踊りバカたちですが、待ち合わせの青山通りの前ですでに勝負アリというような感じで、みな硬直したまま店内に入っていったのでした。まさに全員がおのぼりさん状態。これで一気に頭を取られた小僧連中は、ここで更にトドメを刺されたのでした。「んじゃ、踊ろうぜ!」マサシの一言で全員が立ち上がったとき、大見得切ってマサシはコンポラの上着をぱっと脱いだのです。そして、さもこれ見よがしにピンホールのシャツを腕まくりするような仕草をしました。肩から腕にかけたあたりを誇示するようにしてシャツには、SOUL POWER MASASHIの刺繍が施されていたのです。(まいりました)正直言って、この時コイツは普段一体どんな遊びをしているんだろうと思いましたね。昼の弁当代貯めて、新宿の西口の小便横丁で100円の天丼食って踊り場に通っている自分と、刺繍入りピンホールシャツを着て、豪快に吹きまくるこの少年との差こそが人生の縮図そのもののような気がしたものでした。(ってちょっとオーバーですか?)ということで、私のパルスの想い出は非常に苦くて辛い(笑)青春の1ページとして今も心の奥で生きております。(合掌)
2006年04月04日
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70年代の「踊り場」ファッションは以前ご紹介させて頂きましたようにコンポラが主流でしたが、当時の悪ガキ達のファッションをちょっと振り返って見ましょうか。高校生ファッションも都立と私立とでは随分と違っていましたね。当時、都立高校は制服(学ラン)から私服へと変わり始め、男女共学ということもあってか比較的カジュアルな感じでした。まあ、無難なところでアイビーみたいな感じでしたかね。反して私立はガチガチの学ラン派が殆どでした。ちなみに私の母校では学ランからブレザーに変わって、サラリーマン養成学校のように毎日みんなでネクタイを締めて通学しておりました。都立の私服化に伴って私立のブレザー化が普及し始めた時代でもありました。この当時、週刊平凡パンチに高校生ファッションの特集が組まれ、帝京高校のツッパリが写真入で紹介され、リーゼント、長ラン、ボンタンなどのツッパリブームに火が付きました。っていうか、いつの時代もそうなんですけど、こうしてマスコミが取り上げた時点ですでに本当のブームは終焉し始めているんですけどね。それでも具体的にファッションの説明が施された特集記事に、血湧き肉踊らせたツッパリ小僧1年生たちは、そのカッコ良さにシビレ、猫も杓子もリーゼントにボンタンで一気に盛り上がったのです。しかし、この本の特集は当時のツッパリ予備軍が喉をゴロゴロ言わせて喜びそうなマニュアルでしたね。確か5~6人の帝京生が写真に載り、文章では具体的なツッパリ用語なども紹介されていました。「おお、そうか、ハイカラーは上着の丈に比例するのか~、勉強になるなぁ」などと妙に納得したものでした。ハイウェストの高さや、ダブル裾幅、ベルトの種類などこと細かに記された内容は、当時のセンスの集大成でありました。(笑)とは言うものの、このようなツッパリ・ファッションはまだまだ社会的地位を得てはおらず、実際の時代の流行とは別のものであり、あくまでも一部のティーンエージャーの流行でありました。一般的大衆の間では、学生運動~ヤクザ映画~ロック~フォーク~元祖アイドル等など、新しい波に呑み込まれては右往左往する青春時代でもありました。(笑)何故かこの時代は、学生運動=東映任侠路線=ハードロック&フォークというような等式があり、新宿は特にこれらが混沌とした街でもありました。そういえば藤圭子もバリバリだったですね、この時代。背伸びして学生運動に参加して、屁理屈こね回す高校生がいるかと思えば、長髪にクスリ飲んでヒッピーを気取るヤツもいたりして、更に神田川周辺のアパートで同棲生活を夢見るヤツら(笑)などもいて、一体オレはどの道へ行けば良いのだ、などと悩んだ時代でもありました。右翼に傾倒して教育勅語かなんか読んで広めてたヤツもいました(大笑)全体的な流行で言えば、私らの上の世代は長髪にベルボトムのジーンズ履いてフォークギター弾く四畳半フォークみたいなのが多かったし、フーテンとかいう言葉が出始めたのもこの頃だったですね。クスリとかシンナー遊びなども出てきました。また、ちょっと軟弱なフォーク路線とはうって変わってやたらデカイ音でガンガン行くハードロックみたいなのも盛り上がっておりました。私自身もハードロックにはかなり傾倒してエレキギターなんぞも買い込んだりしましたが、同時進行で進むツッパリの道も捨てきれず、二階のマリちゃんにも憧れたりして、多感な思春期を送っておりました。天地真理に代表されるアイドル清純派ってのもこの頃が出始めだったような気がします。そういえば、アイドル見たさにNTV紅白歌合戦なども渋谷公会堂に見に行った覚えがありますね。ボンタン履いて(笑)でもって公会堂の周りにはバイク軍団とか蛇腹の学ラングループとかも結構いましたね。爺臭いカッコしてるくせに真理ちゃん見に行ってたんですからお笑いです。クラスのアイドル追っかけグループのガリ勉君たちとも顔合わせたりして、翌日ガッコで顔あわせるのが照れくさかったりして、余計に突っ張っちゃったりして(笑)単車連中もまだこの頃は純粋にレーシングチームっぽいセンスがありました。世田谷では「鼠小僧」ってのが大所帯でしたが、私の地元民は「小次郎」っての作って頑張ってましたね。どうせなら武蔵の方が強いんじゃねぇかなぁ、なんて一人思ってましたが、この頭を張ってたM田さんてのが結構カリスマっぽかったですね。ファッションもライダーズ・ジャケットみたいな革ジャンにアポロキャップ被ったりして、街道レーサーを気取っていました。集会とかいってもまだまだ大人しいものでしたが、いつ頃からあんな無茶苦茶な団体になって行ってしまったのですかね。まあ、バカが集まって所帯が大きくなると、色んなヤツが出てきて勢いに乗って行ってしまうものなんですね。というわけで、何故かちっともファッションの話になりませんが、当時の突っ張り小僧のアクセサリーを振り返ってみましょうか。化粧品で人気が高かったのは資生堂のブラバスでした。ちょっと高価な男性化粧品でしたが、柑橘系の香りに痺れた小僧が沢山いました。サイドバックを固定するチックもかなり必需品でした。ポマードは艶出しにはもってこいなのですが、乱れやすいし汚れがつき易い、ってことでオールドスパイスのチックとかMG5のチックが重宝されました。ちょんバッグと呼ばれる親爺の通勤カバンが流行りました。なんのこっちゃねん、ってなもんですが、薄くて軽いバッグをぶら下げるのが不良のステイタスでした。特に茶色いカバンは人気が高く、がに股にペラペラのカバンを振って歩く姿に痺れました。貝印の髭剃りは1本10円で切れ味も鋭く剃りこみにはもってこいでしたが、なんせ一枚刃ですから傷だらけ血だらけなんてこともザラにあって、剃りこみがどんどん失敗して終いには坊主なんてこともありました。床屋で剃りこんでもらうヤツもいましたが、深さを競う「ソリ」はやはり自分で入れなければなりませんでした。一文字、三面と呼ばれるつま先が光った革靴がおしゃれでした。「カンサイ」などとも呼ばれてました。かかとに金具打ってカツーン、カツーンと音立てて歩くてるとっちゃん坊やもいました。とにかく一言で言って、爺臭いものがすべて「シブイ!」とされて、ステイタスを守っておりました。
2006年04月03日
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ヤンヤヤ、ヤヤーヤン、チャッチャッ!、ヤンヤヤ、ヤヤーヤン、チャッチャチャッ!かわいいひとよ、ここにおいで~ (おいで~)「踊り場」入門コース最低でもこのステップだけはマスターしよう!って誰が決めたか知りませんが、とにかく課題曲がいくつかありましたね。なんといっても必修科目はゲットレディでしょう。当時シングル盤で出回っていたのはレアアースのライブヴァージョンでした。もう一曲は冒頭でイントロをご紹介した(笑)、パーティーの華、お遊戯的ステップ課題曲クック、ニック&チャッキーの「かわいい人よ」です。これも今にして思うと結構ギャグでしたよね。可愛いツッパリ小僧とかおませなアイビーガールズが輪になって踊るみたいな、竹の子を馬鹿にはできませんね。まあ言ってみればルーツみたいなもんです。あとはJBのセックスマシーンとシュープリームスのストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラブでソウルシーシーを覚えて取りあえず踊り場の敷居は跨げます。(笑)さあこれでお決まりのステップは覚えたし、いざ出陣!ってことで目一杯吹き上がって出かけたものの、場末のパーティーと違って「踊り場」ではこれら定番曲はそう簡単に登場してきません。ということで緊張に緊張を重ねてワンドリンクの氷もすでになくなり、空のグラスを下げられた頃、おまたせしましたゲットレディの登場です。おーっと常連が一斉に陣頭指揮に当たります。し、しかし、なんじゃこのサウンドは、やけに軽いしテンポも早い。練習曲とは違うじゃん、みたいな、オリジナルも知らずに踊ってたんですからお笑いですね。ゲットの定番、テンプスのゲットレディ、しかもライブヴァージョン。なんとか回りに合わせて踊っては見たものの、まだまだ修行が足りませんでした。出直してきます。ってなことで「踊り場」の厳しさ(笑)を知った私は、いよいよステップ習得の修行に力が入ったのでした。なにせ根が単純ですから、ここまできたらとことん行くぞステップ習得、ってなもんであちらこちらの踊り場へ武者修行の旅の始まりです。裏切り者のテーマ、窓辺のデート、ABC、恋が欲しくて、黒い戦争、マザーポップコーン、ホットパンツ、ブレイクダウン、荒野のならず者、シスコキッド、スーパーステーション、ファンキーブロードウェイ、ダンス天国、いやいやキリがありませんね。とにかくステップ習得に血道をあげるうちに、そこ此処の常連たちとも馴染みになって行く頃にはすっかりドツボにはまってしまった高校生は、しっかりと将来の道を究めていったのでした。この頃になるともうパーティーには必ず声が掛かるほどの踊り達者となっておりました。もちろんご参加の皆様にステップのご教授など申し上げ、ショータイムにはバック転こそできませんでしたが、ダウンとチャールストン、ブロードウェイでしっかりと人気者の地位を不動のものとしておりました。ちなみに、東中野のお友達が連れてきた例の踊りの先生はトレビの常連でしたが、ここであの屈辱はしっかりとお返しいたしました。「ステップ教えてくれよ」ついに彼が私に傅いたのでした。しかしこの頃のパーティや踊り場でいざこざの種になったのが、これまたステップを巡る首位争奪戦だったのも今にして思えば皆熱かった証拠です。「おいっ!これはチャチャだろ」「違うよ、ソウルシーシーだよ」「田舎じゃそうかも知んねぇけど、ここらじゃチャチャなんだよ!」「ふざけんなよ!ゲットはソウルシーシーだぜ」「ここはガキの踊り場じゃねぇんだよ、ポップじゃチャチャで踊るんだよ」「ステップはゲットが一番なんだよ」「こっちゃあアザーからの常連なんだよ、なめんてんじゃねぇぞ」てなことで馬鹿を張り合うツッパリ同士がステップ巡って場外乱闘なんてこともありましたね。(やれやれ)更に、これはGET中心でしたが、番外編ってのも結構ありました。パーティでも軟派用出し物として女の子にウケ狙って必死こいて踊ったりしましたね。「きままなジーナ」なんだかなぁ~。妙なステップだったよね。「狙い撃ち」山本リンダさんですね。確かチャチャの変形だったと思う。「ナオミの夢」ヘドバとダビデ、東京音楽祭グランプリだったっけ?確かソウルシーシーで踊ってたような(^。^そういえばチークタイムに振り付け入りで一人踊りする「ストップ、ルック、リッスン」てのもありましたね。当時の私はダイアナ&マーヴィンがオリジナルだとばかり思っていました。You are everythingもそうだったんですけど、スタイリスティックスもこの頃はじ~んとくる歌唱コーラスグループでしたよね。個人的にはフロム・ザ・マウンテンなんてのが好きで、ファルセットのハイトーンに涙を落としたこともありました。いつのまにかビクターレコードの手先となって、ファンキー・ウイークエンドとか出した頃は新宿ソウルトレインに遊びに来てしっかりと軟派してましたね(^~^;今こうして冷静に振り返ってみると、私の時代実際にはこれらのステップは踊り場と言うよりはむしろパーティ中心で踊られていたんですよね。踊り場でこれらのステップをリアルタイムで踊ってた人たちって、やっぱ私らなんかよりもう一回り上の人たちだったですよね。もちろんゲットのニックさんとかジ・アザーやパルビなんかが全盛の頃ですね。リアルタイムで私が盛り上がってこの道を究めだした頃の踊りって言うと、やっぱスティーヴィーのスーパーステーションとか、クールアンドギャングのファンキースタッフだったですね。いうなればこれはステップの終焉にあたり、新時代の入り口でもあったわけです。そして古い踊り場はこぎれいに様変わりしてディスコティックと呼ばれるようになっていったのです。
2006年04月02日
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全国の不良爺婆の皆様おはようございます。日々盛り上がっております70年代の不良と「踊り場」のお話はまだまだ続きます。なんせ爺の話はよく飛びますから、話しているうちにどんどん盛り上がっていってしまいますので、どこまで行くかわかりませんが、とにかく思いつくまま語らせて頂きます。ということで、この話を書き始めた時から私が「踊り」にハマッていった頃のことをずーっと思い出そうとしているのですが、そのきっかけというか、どうして踊り場に通うようになっていったのかがどうもイマイチはっきりとしてきません。ただ、「踊り」いわゆるステップを見た、あるいは体験したのは、昨日も書いたとおり「踊り場」ではなく、仲間が開いたパーティだったことは確かです。当時はこういった仲間内のパーティってのが結構流行っていまして、喫茶店とかスナック、レストランとかを借りてバカが集うといった催し物でした。パー券とか買わされるのですが、今の様にワープロとかパソコンなどない時代ですから、ガリ版印刷みたいなヤツとか、コピー(っていったって昔のは青っぽかった)とか、ヒデーのは手書きの券で、子供のお誕生会みたいな雰囲気でした。まあ、会場だってなんのこたぁない、スナックとか喫茶店の営業前の時間を場所貸しするみたいな感じで、とってつけたようなオードブルにコーラやジュース飲んで、無理矢理作ったスペースで自分達の持ち寄ったレコード回して踊るってだけのものでした。いうなれば踊りがメインだったんですけどね。それでもデカイものになると、ほんとに「踊り場」借り切って100名近い動員数があったりして、それはそれなりに胸ワクの楽しいものでした。まあ、おおかたは二~三十人集まれば良い方で、まずは当然赤字ですから、金持ちのどーらく息子みたいなヤツが仕切るってパターンが多かったですね。だから場所も結構ローカルっぽいトコもあったし、その地域、テリトリーで集まる不良の質も随分と差があり、それがまた不良のネットワークを作ったりしておりました。私が顔を出していたのは、やはり渋谷、新宿、中野、ちょっと背伸びして青山ってな感じでした。ちょっと遠征して町田とかね。(笑)この辺りになると、川崎、横浜、湘南方面からも集まってきますから、その不良のバリエーションも多彩で、会場は結構テンションが上がったりしました。都内の場合はまず電車、バスなどの公共機関を通じて大人しく集まってきますが、町田あたりだとバイク、四輪など族関係者も大挙してやってきますので、必然的に騒々しくなるのは当たり前です。そうなるともう、踊りどころの騒ぎではなく、威嚇がメインになりますので、必ず場外乱闘などが始まったりして、かなり危険な宴会となります。ところが根が馬鹿野郎の見本のような奴らばかりですから、こーゆー危険なパーティに参加することが男の勲章みたいに大勘違いする変な奴らも増えてきて、しまいには木刀や短刀、ヌンチャクやチェーンなどを隠し持って「力」を誇示するワケのわからない奴らも登場してきて、主催者を泣かせます。ということで、こんな危険な場を取り仕切るために地元の有力者をお迎えするようになるのです。ローカル色豊かな地域ではこのような関係から構成員なる組織化が始まり、いつしかこの傘下に「族」関連の青少年たちが取り込まれていったわけですね。(都下不良少年の変遷と歴史より・爆!)私の地元も世田谷は武蔵野ですから、決して都会のシティボーイというほどには洗練された不良ではありませんでしたが、それでも都下の暴力的センスに比べればまだまだ品があったように思えます。そんなパーティに顔を出しているうちに、当時の彼女が夢中になって踊る姿を見て、これはいかん、これじゃ男のメンツが潰れる、オレも良いカッコをしなければ、などと不良独自のミエが頭をもたげて来たのでした。そこで、早速クラスのお調子者のツテを辿って、踊り上手を紹介してもらい、昼休みに特訓を受けたのでした。(なんせ千人近い生徒数ですから、どんなジャンルでも必ずエキスパートは見つかりました)先生は東中野在住のSという飲み屋の息子とそのダチでした。まずはソウル・ステップとソウルシーシーだったですね。しかし、今までリズムアンドブルースなんてジャンルの音楽をマジで聴いたこともない私が、BGM無しでステップの手ほどきを受けたのですから、チンプンカンプン、ビートもなにもあったもんじゃありません。ただ、先生二人の足先を追って動かすだけで、「めんどくせぇ~」ってことになり、結局この講習会は1回で終了しました。(う~ん、思い出してきたぞ~)そうです、きっかけらしききっかけはこれだったような気がします。この時東中野のSが連れて来たステップ通のダチの態度にムカついたのが始まりでした。「で、いつもどこで踊ってんの?」彼の問いかけに答えられなかった私を見下した目で見るその態度に、ツッパリ根性がメラメラと燃え上がり「テメー、いつか見返してやるからなぁ」といったお馴染みのバカの闘志に火をつけたのでした。(これがベンキョーに生かされれば人生も変わったろうに)さあこうなった不良バカは止まりません。早速踊りの定番課題曲の収集です。それまで家で聞いていた音楽ジャンルは、グランドファンク、サンタナ、ユーライヤヒープ、レッドツェッペリン、ディープパープル、キャロル、高倉健、藤純子、渡哲也、加山雄三(こらこらいいかげんにせんかい)といった私が、ジェームスブラウン、テンプテーションズ、シュープリームス、今まで聞いたこともないようなアーティストのレコードを探し始めたのです。まずは定番課題曲を調べ、ダチのコレクションから借りてきたり、所有レコードを売ったり交換したり、近所のレコード屋から万引きしたり(こらこら)、涙ぐましい努力でした。そこそこレコードは集まったものの、さて肝心のステップを習う術が見つかりません。そこで私は中学校のダチの下宿を訪れ、そこに住んでいる大学生の先輩方に相談したのでした。(この発想は我ながら上出来でしたね)なにせ、不良のメンツをかけた挑戦ですから、彼女はもとより地元のダチや、クラスの仲間にも知られず、一気に派手なデビュー目論んでおりました。(やれやれ)大学生の先輩方は同じガッコの後輩ということもあり、そんじゃとりあえず行ってみるかということで、連れて行かれたのは新宿歌舞伎町の妙なパブでした。(たぶんサントリー・パブってな店だったと思う)「これって踊り場じゃねぇんじゃねぇの?」私の質問にダチのAも「その辺のことはオレもよくわかんないけど・・・・」といった具合で、私の目指す「踊り」と彼らの理解する「踊り」の違いに一抹の不安を抱きつつも修行の第一歩は始まったのでした。カウンター・バーに並んで腰かけて、当時おなじみのサントリーホワイトのボトルが登場、とりあえず水割りなんぞを飲みつつフロアを点検。数人の大人(ってその歳の自分から見た感じですね)がジュークボックスの音楽で踊っています。どーみてもこれは踊り場のステップではない。いわゆるゴーゴーだ。などと心の中で呟きながらも、ブラックマジックウーマンにくねくねと体をゆする変な奴らをぼーっと見ておりました。そうこうするうちにバンド登場。なんか踊り場から次第に遠ざかっていくこの雰囲気に軽い眩暈を覚えた私でした。(笑)バンドの演奏が始まるとチラホラと踊り場の人数が増えていきます。STOP THE MUSIC!おっと全員が手を前に出してストップモーションです。おお、ステップだぁ~。と状況を理解できぬまま興奮するバカ。「踊ってみれば~」先輩の声が掛かります。そのうちフロアにはタコ踊りのにーちゃんねーちゃんに混じって、リーゼント野郎やポニーテール嬢などが紛れ込んでいることに気付いた私でした。ワン、ツー、スリー、フォー! ンジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッー!ゲロンパ! ゲロンライ!やったぜ!これはセックスマシーン!ようし覚えるぞ~、ってなもんで狭いフロアの後ろ、できるだけリーゼント野郎たちの背後に廻って踊りを盗み見ました。ということで、よく思い出してみると私の踊りデビューはここらあたりだったようです。でもこの時、このリーゼント野郎たちがジュークの前で陣取ってステップを踊る姿、更にその後で年配の兄ちゃん姉ちゃんがそのステップを必死コイテ真似する姿を見た不良少年は、遂に自分の進むべき道を見出したのでした。(あ~あ)
2006年04月01日
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