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どーらく愛好家のみなさまこんにちは。このブログはビンボーに奉仕して50年、非生産活動推進委員会によって運営されております。さて、今日はちょっと1950年代~60年代にかけて、少年少女を魅了した懐かしのテレビ番組についてお話します。昨日私は、とあるスーパーで1枚2ドルの看板に引き寄せられDVDがドンと積んである特売棚でつい立ち止まってしまいました。相変わらずの野次馬根性、道楽者気質、とにかく何にでも首を突っ込まずにはいられない大馬鹿野郎は、そのDVDの山の前でしばし感動してしまったのでした。なんとそこには私がビンボーの真っ只中、ご幼少の頃熱狂したアメリカのテレビ番組のDVDが、特売のパンストのように薄い厚紙のジャケットに包まれて無造作に積まれてあったのです。ローンレンジャー、コンバット、ボナンザ、賞金稼ぎ、パパは世界一、ルーシーショー、などなど。原題ばかりなので、当時の日本語のタイトルが思い出せないものも随分ありますが、とにかく懐かしいドラマが投売りされているのでした。そういえばアメリカもそろそろドラマのネタが尽きたのか、このところ昔の人気ドラマのリメイクが随分出ていて、ノスタルジックな流れがあるのでしょうか。映画では、「じゃじゃ馬億万長者」「奥様は魔女」とか結構面白かったですね。奥様は魔女などは、2枚組DVDで本編の他にオマケDVDが付いていて、昔のドラマの数編が収録されていました。こうして時代を経て見直してみても十分に面白く、下手するとリメイクされた新作映画よりデキが良いのではないでしょうか。ということで、その気になった道楽者親爺は早速数枚のDVDを買い込んで来て、意気揚々と帰途についたのでした。「ハイヨー!シルバー!」(原語ですからちょっと発音が違いますね)パカパカパン、パカパカパン、パンパンパーン、そうです、ウィリアムテルのテーマで始まるこのドラマが蘇ったのです。白い二挺拳銃を打ち鳴らし(っていうか白黒だから白にしか見えないんだけど)、マスクを付けたローンレンジャーが颯爽と白馬に跨っての登場です。あの頃のアメリカのテレビドラマは日本の鼻タレ小僧の夢のお話だったですね。アメリカ人のクセに日本語喋ってたし。(笑)名犬ラッシーなんてのもインパクトが強かったですね。美しいお母さんにたくましいお父さん、デカイ庭付きの家でコリー犬を放し飼いにしている、そんなアメリカの一般家庭は、四畳半一間の汲み取り式便所のアパートで暮らすガキたちにとっては夢のまた夢の世界のお話でした。いいなぁ~、こんなキレイなお母さんがいて、とか思いましたよね(笑)だってあの当時、父兄会とか授業参観なんて地味ィ~な着物着て来たお母さんとか沢山いましたものね。ウチなんかバーちゃんだったし(笑)この時代に育った私達の世代はアメリカ文化への憧憬をしっかりと埋め込まれてしまったのでしょうね。だから潜在的に未だアメリカには頭が上がらないのかもしれません。スーパーマンやローンレンジャーの時代、ニッポンのテレビ番組は月光仮面とか隠密剣士でしたものね。でもこの時代に育まれたニンジャとかサムライが今や、ニッポンの新しいポップカルチャーを生み出しているのですから、日本もまんざら捨てたものではありませんよね。最近のアメリカの若者はニッポンの文化に影響を受け、憬れたりしているのですから、もう今の私には時代の感覚が追いついてはいけないのかもしれません。アニメにしたって、私達のころはディズニーとかの煌びやかなイメージがあったし、日本のアニメ映画は漫画というジャンルから抜け出ていませんでした。「眠れる森の美女」なんて、あのお姫様の美しさに子供ながらキャラに恋したりしましたよね。王子様になって「くちづけ」をしたいとかね。(笑)それがどうです、今やニッポンのアニメは世界を席巻したばかりでなく、「MANGA」というひとつのブランド生み出したではありませんか。凄いですね。やっぱこういうことさせたら日本人にかなう民族はないのかもしれませんね。鉄腕アトムに始まって、鉄人28号、狼少年ケン、魔法使いサリー、宇宙少年ソラン、伊賀の影丸、風のフジ丸、ひみつのアッコちゃん、スーパージェッターなんてのもありましたっけ。あの頃、アメリカに負けじと戦った当時の職人のみなさんの捲いた種が、今ようやく実を結んだということですね。日本も昔の作品をいくつかリメイクしましたが、みいんなコケましたね。エイトマン、キューティーハニー、鉄人28号、仮面の忍者赤影などなど、あの時代の興奮はモノのない時代だったからこそ熱狂したので、今時の子供にはちょっと無理でしょう。エイトマンなんて当時のキャラではかなり画期的でしたよね。シール欲しさに食べもしない丸美やのふりかけ買ってはよく怒られました。(笑)どのテーマソングだって未だに歌えますから、当時のインパクトはもの凄かったと思います。ROCKだSOULだJAZZだとか言っても、結局はこの時代の音楽が潜在的に私達の中で今も息づいているわけですね。しかしタイムボカン・シリーズのサウンドはかなりファンキーでしたね。
2006年02月28日
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どーらく者の皆様こんにちは。ビンボーを守り続けて50年、非生産活動推進委員会会長、道楽者ロニーじいです。昨日の続きで、ちょっと思い出したことがあるので今日はその話をしましょう。えーと、今から16、7年前になりますかね。私はその頃、サイパンでとんでもない商売を思いついたジジイの口車に乗っかって、結構危ない世界に入りこんでおりました。(しかし、よくもまあ次から次へとこうワケのわからないことに首を突っ込むかなぁ~)危ないとは言っても、その昔新宿あたりでブイブイ言ってた頃の身体的危なさと違って、というより、もっと危ない精神世界の方面へと突っ込んでいった頃のことです。何故かこの時期、やたらと「霊能者」とか「霊媒」とかいう人たちに数多くめぐり会いました。中でも一番凄かったのが、オオモノ主の御霊を守る眷族の一団と称する霊能者が現れ、「地球の霊的地軸がシフトする」ので「柱を結ぶ神社を建てる」という壮絶な聖戦のお話しでした。オオモノ主ってご存知ですか?古事記とか日本書紀に出てくる神様ですね。まあ、ニッポンはやおろずの神々がおわしますので、この説明は省略します。興味のある方は古事記の解釈本でもご覧になって下さい。ということで、この教祖様(教団ではなかったのですが、都合上そう記します)は、18弁の菊の御霊をもたれており、神に仕える御霊を与えられているとのことでした。何でも人間は皆16弁の菊の御霊を戴いており、この弁数が多いほど神界との繋がりが強いそうです。ちなみにここで繋がった縁のある御霊は、みな三重県の三輪山にある大三輪神社が社となると言われました。そして当時は、ちょうどノストラダムスの大予言が第二次ブームとして喧伝されており、1999年の予言について誰もがこぞって持論をぶち上げていました。そしてこの教祖様も同様に地球の地軸がシフトすると力説していたのでした。「地球の霊的な軸が名古屋を貫いてサイパンを通す」そんな内容だったと思います。そして、時代は1999年ではなくその後の2000年以降だと言っておりました。ちなみに不思議大好き人間の私は、当時すでにノストラダムスの「諸世紀」の和訳本もきちんと読んでおりましたし、神道系では霊的な白山神界に興味を持っておりました。(っていうか、興味ない人にはまったくわからない世界ですね)ということで今日のお話は「予言」についてですから、この時のことはまた改めてするとして、結局この教祖様は神社を建てることもなく焼身自殺という壮絶な終局を迎えました。ちょっとしたブームも下火となり、なんのこたぁない、1999年も無事通過し、現在に至るまで世界がひっくり返るような出来事はありませんでした。(世界の惨事は確かに多発しておりますが、人類滅亡の危機は回避されました。笑)あれからすでに15年以上の月日が流れた現在、ふと振り返ってみると何となく辻褄があったようなあわないような、そんな気分です。だって名古屋といえば、「愛・地球博」に新国際空港「セントレア」でしょ。霊的な話は別としても、世界の中心としてその名を轟かせたというのは事実です。もうひとつ、これはサイパンのお話ですが、昨年は天皇皇后両陛下が戦後60年目にして初めてサイパンの地を訪れ、数多くの戦死者の慰霊を行われました。更にサイパンの正式名称、北マリアナ連邦の知事選挙がありました。(いうなればサイパンの大統領、政府の最高責任者です)そして、僅差で当選した新政権が発足しました。新知事は民族的マイノリティ(少数部族)からの代表で、民族の悲願とも言うべき当選でした。そしてこの知事を支援する団体が何故か名古屋の投資家グループなのです。2006年の年明けと共に新政権は新しい体制作りを日々推進しています。(かなり強力な政策を次々と打ち出しています)う~ん、あの予言はやはり当たっていたのでしょうか?それは、当時こんな時代が来ることを予見するのはまず無理だったような気がします。まさに1990年代の前半は日本のバブル真っ只中で、サイパンも不動産をはじめ、異常な景気に皆が狂乱していた時代ですから、「名古屋が世界の中心になる」なんて言ってた教祖様は皆に笑われるだけでした。「名古屋人の名古屋贔屓は病的だから」とかも言われたりしてました。「名古屋が中心になる前に大阪とか神戸がなるだろ」なんていう人も随分いました。う~ん、確かに阪神はあの痛ましい大地震で世界の中心にはなりました。もうひとつだけ、私の心に引っかかることがあります。その当時、教祖様に紹介された一人に名古屋のBMWのディラーをされていた方がおりました。教祖様いわく「彼は織田信長の生まれ変わりだ」そうで、これには私も正直言って、いくらなんでもそれは話が飛びすぎだろ、と思っておりました。案の定、こちらでの商売は一年と続かず、いつのまにか居なくなっておりました。でもって、今年の新知事の就任式で紹介された名古屋の投資家グループの代表、日本とサイパンの橋渡し役を務めた方が名古屋BMWの総代理店社長だったのです。まあ、偶然といえば全て偶然かもしれません。私だけがちょっと心に引っかかる出来事でした。最後に、未だ心に残っている教祖様の言葉がひとつ。「我々は龍神族で神の眷属である」ニッポンは龍の姿をしているのだそうです。ニッポン列島を図的に見ると龍の形になっていて、サイパン島を図的にみるとタツノオトシゴ(竜の落とし子)なんだそうです。そのうちこの答えにもめぐり会うかもしれません。楽しみだなぁ~。
2006年02月27日
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今日はちょっと面白いアメリカ雑誌のトピックスから与太話をひとつ。雑誌名は「SUN」God bless Americaという$2.99の安い本です。内容は「神秘の世界」とか「超常現象」とか「自然の驚異」とか、日本ならさしずめ「たま出版」系といったところでしょうか。(笑)なぜこの本に目が留まったかというと、表紙に載っていたのが超能力者「エドガー・ケイシー」だったからです。ケーシーとワイフの結婚当時のセピア色の古びた写真に「未公開写真」「最後の予言」という叩きに目を奪われ、気がついたら本を手にとってレジに並んでいました。彼のオーラに引き寄せられたのかもしれません(笑)さて、このエドガー・ケイシー(1877年―1945年)という人がどんな人かというと、かなり有名な超能力者(?)で、ライフ・リーディングと呼ばれる彼の能力は人の前世の記録を読むことができるというものでした。彼いわく、なんでも彼がトランス状態で睡眠に入ると、人類の全ての記録が保管してある場所、アーカシック・レコードと呼ばれるところからその人の前世の記録を読むことができるそうです。興味のある方はたま出版から彼の伝記が出ているのでお読み下さい。似たような話に「アガスティアの葉」という本がありますが、こちらは東大教授の青山圭秀氏がインドで体験した、やはり過去世との出会いのお話です。彼はインドで数々の神秘体験を経て、人間の魂の全記録が記されているというアガスティアと呼ばれる木の葉に出会うまでが体験記として書かれています。続編もあり、そこには彼が目にしたアガスティアの葉に書かれてあった自分の未来を、自身が自ら実証していく内容になっています。ちなみに私は不思議なこととか、神秘体験が大好きです。一時はたま出版にどっぷりとはまり、一連のミステリック・ブックを片っ端から読み漁ったこともありました。日本の古事記はもとより、アトランティス、ムーからUFO、さらにはキリスト教から仏教、神道、星の教団・クリシュナムルティまで、とにかく手当たり次第に読みまくりましたし、日本の黒住教、天理教、大本教、真言密教、阿含宗の教義も受けました。とにかく元々が野次馬根性というか好奇心旺盛だし、不思議大好き人間ですから、もちろん私自身もいくつかですが奇妙な体験もしたことがありますので、知りたい欲求につき動かされて荒唐無稽な古代史やら、日本=ユダヤ同祖論、サンカ族なども未だに興味は尽きません。ということで、今日は冥府魔道のどーらく道を突き進む道楽者親爺から、テレビタックルでもお馴染みの超常現象の賛否についてアドバイスをひとつ申し上げさせていただきます。はっきり言います。巷にあふれている、いわゆる超常現象のほとんどがインチキです。その昔、20年くらい前でしょうか。私は正直言ってこれらの超常現象肯定派でした。っていうか今でも肯定派なんですけど、要はよく確かめもせずに何でもそこに結びつける風潮というか、流れがあるということをきちんと把握した上での肯定派なんです。なんというか、そうであって欲しいという感情が、些細なことでもやみくもに超常現象として騒ぐ心理がそこにあることに気づく必要があるということですね。特に精神的に弱い人や、暗示にかかりやすい人などは本当に要注意です。私事ながら例としてお話しすると、私が暮らしているサイパン島というところは第二次世界大戦に巻きこまれて二万人以上の方々がなくなられた小島です。終戦からまだ六十年しか過ぎておらず、たぶん魂は未だに島の中に漂っているのではないかと思います。そんな墓場のような島に住んでいると、日本以上に不思議な体験にも遭遇いたします。バンザイ・クリフなどと呼ばれる集団自殺(天皇陛下バンザイと叫んで飛び込んだ崖)した場所もあります。そんな場所で私が写真を撮れば、海の波間に途方もない数の顔が浮かんできます。ある霊能者の方からは「あなたは大物主の眷属だった」と言われ、80体以上の不浄霊が憑いているからこのままでは命が危ないと言われ、即刻家族を連れて大三輪神社まで御参りに行ったこともあります。ちなみにその霊能者の方はその後焼身自殺をされました。(話せば長くなるので・・・)ある人には「ムー大陸人の末裔だ」とも言われました。その度に右往左往してはお払いを受けたり、言われたとおりの儀式をしたり、文献を読み漁ったりと、いわれるがままという感じでした。まあ、救いは根が道楽者ってとこで、とことんいくほどのコンジョがなかったおかげでド壷にハマルことなく現在に至っております。(笑)そんなもん全部言われるままにしてたら、その方がよっぽど危険な人生です。こんなエピソードもそのうちご紹介しますが、それはそれは色々なことを経験しましたよ。そんな壮絶な体験を踏まえて、敢えて言います。ほとんどがインチキです。確かに神罹ったことや、霊的な現象というものは間違いなく存在します。ただ、存在するということと、今私たちの現実とがどうかかわっているのかということはまったく別の問題なわけです。人間がこの仕組みを理解していない、あるいは理解できないということと、この仕組み自体が勝手な人間の都合で現象として姿を見せることはまずないのではないでしょう。霊とか超能力とか、言葉に惑わされているだけで、その状態や経緯を冷静に考えてみて下さい。個人的に現象面で人間に影響を与えたり作用するような霊とか能力だったら、人間とさほど変わらないものじゃないですか。個人の行いが悪くて天気が変わるわけないし、こっちが雨で困っていても、むこうでは恵みの雨として喜んでるかもしれません。たかだか人間の一挙手一投足で神様が動くわけありませんよ。UFOなんてのもちょっと興味深いですね。最近アメリカではXファイルなんていう、ちょっと過激なドラマが登場しましたが、仮にもし人類より高度な存在の生命体があるとすれば、乗り物なんかに乗ってやってくる必要があるのか?って疑問が生まれます。直接私たちの心の中に存在を意識させる事だって可能ではないでしょうか。それを霊魂とか神罹りとか言うかもしれません。最近はチャネリングとか言われているようですが、理論的にはこっちの方が信憑性があるような気が致します。こんな話はまたあらためてゆっくりしますけど、以前に西野流合気道の西野先生が来られたとき、横に並んだ数十人がゆっくりと気を入れてスプーンを曲げて見せてくれたことがありました。ちなみに一番端に座っていた私の家内もぐにゃりとスプーンを曲げました。曲がったスプーンはもとに戻らないのでレストランは大損害でしたけど。(笑)でも、西野先生はそれを超能力とは言いませんでした。誰もが遺伝子を読み返せばまだまだこんな力が出てくるとおっしゃっておられました。だから気孔をやりなさいと薦められました。それともうひとつ、役に立つ力かどうかはこれから人間が考えていくことだよ、とも言っておられました。確かにそうですよね。スプーンを曲げる力だって、何の役に立つかってことが重要です。ちょっと脱線しますけど、そういう意味で私は大槻教授が好きです。むやみに人に恐怖感を与えて、しかもそれで銭儲けするやつらが実際に存在するわけで、そういう被害から守ることと、自分をきちんと把握できる意識を呼び起こすためには、教授のような理論派も必要かなと思います。ということで、またも結論的には道楽の薦めになります。ちょっとした日常の感性を大事にするだけで人生はがらりと変わったりします。霊魂やお念仏より、ちょっとしたその日のお天気や、道端の草花、本当に日常にあるちょっとした「何か」を感じる心を養っていくだけで、たぶん人生は前向きに廻り始めるはずです。
2006年02月26日
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いや~、驚きましたね。フィリピンのアロヨ大統領が非常事態宣言を発令しました。マルコス政権が倒れて以来、クーデターが画策されたのは初めてではないでしょうか。ピープル・パワーと呼ばれる集会があちこちで開かれているようですが、結局はビンボーな庶民が苦労するだけのことですね。ということで、実は私は先日前歯を折ってしまいまして、情けないことになっております。えっ?、それとフィリピンとどういう関係があるのかって、それが大ありなんです。今やフィリピンの観光産業の柱となっている事業をご存知ですか?それは医療観光ツアーなんです。日本もそうですが、アメリカの医療費は更に高額で、保険に加入するのもかなりの額の支払いが必要になります。ニッポンの場合は国民健康保険などという非常に便利なものがありますが、米国では健康保険はすべて任意で加入しなければなりません。そこで、国外で治療を受けるシステムが着実に進行しています。特にフィリピンには、米国を含め先進国(こーゆー表現はあまり好きではないのですが)の医師達が続々と大病院に就職しており、技術はもとより最新医療機器が完備された病院が数多くあります。もちろん魅力はなんといっても治療費です。概算でも日米の10分の1程度と言われています。まあ、一番注目を集めているのは臓器移植とか、内臓疾患の手術ですね。日本で2千万以上かかる手術が2百万くらいでいけちゃうそうですから、旅費や滞在費をかけてもおつりの方が多いくらいです。米国では保険会社との提携も出来るようになり、保険が適用されれば更に安価で治療が可能だそうです。観光と治療をセットにしたツアーをフィリピン政府が観光事業の柱として推進し始めてからは、これが瞬く間に世界に広がり、今や治療のためにフィリピンを訪れる観光客が激増、さらにその滞在中にあがる収益も非常に伸びているそうです。良いことか悪いことかはわかりませんが、安くて安心、さらに親切とくれば、この事業が成長するのは目に見ています。ちなみに私の折れた前歯は、アメリカ人医師の大手歯科医で見てもらったところ、義歯を入れてその他全て直して9千ドルいう見積を頂きまして、しっかりブルーになってしまいました。もともと歯は丈夫じゃないもんで、いずれは総入歯かななんて思っていましたが、いくらなんでも9千ドル(約100万円ですよ)は酷すぎるじゃないか!と地団太踏んだ道楽親爺でした。差し歯が1本800ドル(約8万8千円)と言われ、日本の相場を調べたところ、やっぱり似た様なもので6万から8万はするそうです。これじゃニッポン人に成りすまして日本に行ってもおんなじだ。(っていうか日本人だろ元々)早速、フィリピンに問い合わせたところ、「う~ん、見てみないとワカラナイケド600ドルくらいじゃない?」とあっさり言われました。航空運賃が約500ドル、治療が約600ドル、滞在費が多分200ドル前後、どう考えても2千ドル(22万円)もあれば十分観光つきでいけるじゃん。ということですっかりその気になっていた私に飛び込んできた今朝のニュースは、「行くな!」「来るな!」のショッキングな出来事でした。ついでですから、親爺の調査によると、通常の内臓疾患手術の入院料は、ビデオ・テレビ付個室で1泊$10(約1100円)で、手術代(ポリープ摘出)が$300くらいだったそうです。更につい最近差し歯を入れてもらった女性の話だと、3泊4日で観光して立派な前歯を作ってもらって、旅費、滞在費込みで千ドル掛からなかったと言って、思い切り口を開いて笑ってくれました。(うーん、確かに見事な前歯でした)ということで、フィリピン政府推奨の医療観光ツアー、皆様も是非調べて見て下さい。思い悩んでいるよりは、ちょっとリスクを冒しても前向きに進めば何とかなるかもしれません。もうひとつ、現地でガイドを頼むと1日5ドルも出せば朝から晩まで面倒みてくれるそうです。ただし、きちんとした紹介者がないと危険ですから、このあたりは周到に計画しましょうね。私が行ったら、必ず詳細なレポートを書きますからね。期待していて下さい。といってもこの事態が収まるまで待つしかありませんね。いくらなんでも命がけの治療にはまだ行きたくないもんね。
2006年02月25日
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え~、今日は朝からサーバーがダウンしてしまいまして、おちついて日記を書くことができませんでした。ちょっと手抜きですが、名言集第五弾をぶちかましてみましょう。○Irving Shrewsbury 1875-1944 米国のユーモア作家A capacity for self-pity is one of the last things that any woman surrenders.自己憐憫(れんびん)の能力はどんな女性でも手放そうとしないもののひとつである。最近は女ばかりでなく男にもナルシスト系が増えてきていますね。食物のせいでホルモンのバランスが崩れていると指摘する偉い先生もおります。○Samuel Butler 1835-1902 英国の風刺作家The one serious conviction that a man should have is that nothing is to be taken too seriously.人が持たなければならぬ1つのまじめな信念とは、何事もあまりまじめに受け取ってはならないということである。道楽者は生まれつきこの才能を持っているようです。っていうか、まじめになれないんだよね、何でも(笑)○John Billings 1818-1885 米国のユーモア作家Credit is like chastity: both of them can stand temptation better than they can suspicion.信用は純潔に似ている。どちらも疑いの目で見られるよりは誘惑に耐えようとする。今日の極めつけ名言はこれです。深いですね。非常に奥行きのある言葉です。あまり考えすぎてはいけません。特に道楽者の場合は社会的信用をあまり重視していませんので、仲間内以外はあまり気にしない傾向があるようです。
2006年02月24日
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今日は道楽者の価値観についてのお話です。人間の生活、人生において一番肝心で大事なモノといえば、それはやはり「価値観」ではないかと思います。ではこの価値観は一体どこから、あるいは何から生まれてくるのでしょう。ということで、今日は道楽者の体験を踏まえて、この価値観という得体の知れないものについてみんなで考えてみたいと思います。稚拙な例ですが、価値の象徴として宝石の王者「ダイヤモンド」を使って、ちょっとしたお話を作ってみました。とある宝石店のショウ・ウィンドウに飾られている数百万円のダイヤモンドの指輪を眺めている女性が二人居ます。一人は二十歳そこそこのまるでファッション雑誌から抜け出してきたような女性、もう一人はすでに高齢ながら品のある女性、ともに普通のごく一般的な女性です。若い方の女性は若いながらもしっかりと自分の人生を見据えて、将来はファッション関係の仕事で身を立てようと考えています。そのためにも、多少の無理は承知で一流のデザイナー、一流のブランドを身に着けることで自身の感性を養ってきました。それこそ食べるものも食べず、がむしゃらに働いてお金を貯め、目標に向かって突き進んでいます。そして、このダイヤを手に入れることが今の彼女の最終目標でした。片や年配の方の女性、若い頃は生活するのが手一杯でおしゃれひとつするわけでもなく、家族のために一生懸命働いてきました。そして今、ようやく家族の負担から開放され自由の身となり、金銭的にも多少のゆとりが生まれ、若い頃に憧れたダイヤを遂に手に入れることができるようになりました。さて、対照的なこの二人ですが、彼女たちがダイヤを手にした時、貴方は一体そこから先どんな人生を想像しますか?私の想像はこんな感じです。若い娘の方は、自分の目標を達成した充実感に益々自信がみなぎって、更に自分の理想を追って力強く進むでしょう。もちろんその自信の象徴であるダイヤの指輪は、彼女の一番美しい時代を最高の輝きで彩を添えてくれています。このダイヤモンドは、彼女の美しさを最高に引き立てる装飾品としての役目を見事果たしました。高齢の女性の方は、長い間夢に見た女性としての自由とそれなりの富を得た今、その夢の象徴であったダイヤを手にすることで、自分の人生の充実感と満足感に溢れ、残りの人生を全うする張り合いも生まれてきます。このダイヤモンドは、彼女の人生のある意味での結晶として、その役目を見事果たしました。これはあくまでも私の勝手な想像から生まれた作り話ですから、実際にはこんなに簡単に人生を語れませんが、もちろん人生は楽あれば苦ありで、二人のこの後のこともちょっと考えてみましょうか。若い娘の方は、ダイヤの輝きが彼女の若さを引き立て、それこそ彼女の望むような男性とのロマンスも生まれるでしょうし、仕事も順調に進んでいくでしょう。まさに一番美しい時代を見事に開花させることに成功した女性です。咲いた花は必ず散るのが世の道理ですから、頂点を目指して階段を駆け上がった彼女の下には、次々と第二、第三の彼女が追ってきます。彼女は新たな輝きを求めて新しいダイヤを追い求めていくようになります。形のないものが信じられなくなったとき、それは形のあるものにすがることで安心を得ようとします。年配の女性はダイヤを手にした日から、まるで少女の頃のような若々しい気分で毎日を楽しく過ごしています。ダイヤを見つめるたびに自分の人生を振り返って、その生き方に間違いはなかったと納得し、家族のために頑張ってきた充実感に満たされ、今手にしているこの自由を思い切り満喫しています。どこに行くときもこのダイヤを片時も離しません。そんな楽しい毎日ですが、何かが足りないことに気がつきます。確かにダイヤは今の彼女を慰めてはくれましたが、ダイヤを手にした彼女にロマンスの彩りは与えてはくれませんでした。さあ、貴方だったらどちらのダイヤモンドを選びますか?若いうちに無理してでも強引に手に入れるダイヤと、若いうちは我慢して堅実な人生を歩み、ある程度の余裕が出来てから手に入れるダイヤ、どちらのダイヤも価格は同じですが得る価値は全く違います。モノに価値を求めることは比較的簡単ですが、心の中にある価値には形がないのでちょっとやっかいですね。この記事を評価する
2006年02月23日
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さて、昨日の続きです。(今日も青字は私のコメントです。よけいなお世話だって?)「『農薬』」は「『農毒』」 うちの鶏の餌は、先週、釧路まで買い付けにいったのだけど、いまならサンマ、港であがったばかりのを乾燥させてね、こいつを400トンほど買ってきた。でも、やすい卵はチリやペルーのミールとか肉骨粉を飼料にしている。何がどう入っているかわからないから、わしは使わない。 知ってるかい?日本の農業ってのは毎年、農薬何十万トンも使ってる。これを日本中に毎年ばらまいてるの。それが土にしみこみ、川に流れ海に入るのさ。あんた、ちょっと舐めたら人が死ぬような毒もいっぱいあるんだよ。それを「農薬」なんて言ってさ、ありゃ「農毒」ですよ。中国の「残留農薬」なんて騒いでいるけど、それどころじゃないよ。日本の農薬使用量の方がよっぽど上さね。そんな土壌、環境で採れるモノを「自然だ」って言ってありがたがってちゃいけませんね。くどいようですが、もう後戻りは出来ないんですから、「自然」という意味も時代に合わせてしっかりと理解しなければいけませんよね。メダカもドジョウもいなくなるよ、そりゃ。うちの農場は農薬いっさい使わないからほら、みてごらん、蜘蛛の巣だらけ(笑)ちゃんと虫がいっぱいいるからね。 わし信じらんねんだけどね、消費者って馬鹿だよ。安ければそれでいいと思ってるんだな。車や映画になら金だす、ベンツだオペラだなんて言ってるけど、卵にお金出すのは嫌なんだなあ。自分の体になるものなのに、クスリや農薬いっぱい入った食い物食ってる。わし考えられないよぉ。 うん、卵が中心だけど畑もやってる。これからは野菜もしっかり作らないといけないと思って、今年からは前より本気でやることにした。九州の佐賀に友達がいてそこに昨日まで行ってたのだけど、赤峰勝人っていってね、「ニンジンから宇宙へ」って本書いて、10万部売れたって。農業の本で10万部売れるなんてないよ。彼の畑にいくと、元気でちゃうねえ。畑に入っただけで、わーっと体のなかから元気になるさ。それが、東京のデパートやスーパーの野菜売場、よく見に行くけど、どこもここもみなだめだねえ。わし見たらわかるのよ。合格ひとつもなし。あんなものを食ってちゃあ脳細胞だっておかしくなるぜ。作る方にもモンダイあるけどね。ごくたまに野菜でいいのあるけど、一緒にならんでいるのがダメだから、あれじゃあ消費者はわからない。耳の痛い話ですね。私も若い頃は福神漬けライスで金節約してディスコ通ってました。(笑)カップヌードル啜って一生懸命金貯めて、ブランド品買って、ヴィトン抱えたまま貧血で倒れて昇天なんてね(笑)野菜売り場だけじゃなくて、人間の世界も似たようなもんですね。良い器(人間)がいても、皆一緒くたにして同じような中に混ぜちゃうから、結局目立たずに並んじゃうんだろうね。個性を大切に、とか言ってるわりには、子供の頃から画一化した育て方して、見栄え良く平均的な人間を作ろうとしてるよね。 うちの野菜は全部自分のところの鶏の鶏糞を使ってる。だから農薬も、クスリも無縁だよ。作る側だってコンビニ弁当食って「無農薬野菜」作って売りまくろうったってそりゃヘンだよ。農薬使わない作物を作るってことはその人まるごと人間の生き方の問題だからね。でも、赤峰さんのマネなんかその近所に住んでいる人だって誰もしないよ。この近所でもねえ、わしが無農薬やクスリの入らない飼料で鶏卵やってみせても誰も真似しないよ。私の言いたかったことも実はこういうことなんですね。いくら自然食品だ無農薬だと騒いでも、身の回りにはまったく正反対のモノばかり出回っているし、そんなもの喰って育ってきてる体なんだから、自然を無理に詰め込んだら逆に壊れちゃうじゃないかって。それは時代の流れに逆行する行為だと思うんですよね。人工的な世界で自然のものを手に入れようとすること自体が、えらいわがままで迷惑な行為になっちゃう。大勢の中の少数だと特にね。これは人間の生き方の問題なんだから、そう思って信じるのだったら静かに自然の地へ行って暮らせば良いことで、ことさら自己顕示する必要はないんだよね。「環境が危ない」とか「自然は素晴らしい」とか、「だから私はこうして自然を取り込んでいる」って、「だからあなたもそうしなさい」って、それは大きなお世話だと思うんだよね。結局はそれぞれ本人が選ぶことなんだから。警鐘を発することは必要だと思うけど、やっぱりそれが全て素晴らしいってのもどうだかね。 無農薬だと隣の畑から虫が寄ってきて困らないかって?そんなことないんだよ。健康な植物ってのは元気でね。虫は未消化窒素、硝酸体窒素が多いと寄ってくるんだけど、健康で自然な野菜ならそんなことないからね。そりゃちょっとぐらい葉っぱの端を喰うやつも中にはいるけど、それぐらいは人間さまがサービスしたっていいじゃない。虫喰うったってこの程度さ(と、はっぱの写真をみせてくれた。ほんの数ミリの穴がいくつかあいていた) だいたい「害虫」なんて言葉も間違ってるよ、虫は神様が作物同様に下さったものだ。ばい菌なんていうけど、人間のからだのなかに何兆も細菌がいるから生きてられるんだぜ。「神虫」であり「神菌」と呼んだ方がいい。 一方で「農毒」を「農薬」なんていうから、うちの隣の、金持ちの農家なんか「よそが4度かけるなら、うちは5度、農薬かけてるから上等だ」なんて思ってる。わし考えられないよぉ。でも、本気で日本の百姓はそう思ってるさ。こりゃ一種の洗脳だよなあ。 むろん自分らではそんなの食わないよ。「東京の人は丈夫だなあ」なんて感心しながら一週間に一回農薬かけて自分はいい百姓だと思ってる。おれの友達だけど「大松、おまえがなんといってもおれはかける。農薬は畑のドリンク剤だ」なんて言ってるねえ。そんなの食べて健康でいられるはずないよ。脳細胞が破壊されちゃうよ。大学の先生の言うこと信じてちゃだめだよ。評論家とか先生とか呼ばれる人たちに実体験を持つ人はほとんどいませんね。せいぜい試験管の中とか顕微鏡の中の実体験でしょう。どんなものでも本気で実体験をすれば評論なんて書いてられないはずですから。もし本気で関わりを持つようになったら、第三者の立場でモノを言う前に自分がその中に入っていくものですよね。「何が医学の進歩なのか」だって考えてごらん。医学が進歩した進歩したって、毎年医療費が上がってる。なにが進歩なもんか。医療が進歩してるっていうなら、患者が減って医療費が減らなきゃおかしいだろうよ。それが毎年増えているのに、進歩だ進歩だなんて言ってる。わし信じらんねえよぉ。まったくその通り!単純明快な理屈ですね。単に寿命が延びたってだけで、根本的なものは昔から何も変わっちゃいませんね。下手したら悪くなってる。病院だって患者が居なけりゃ成り立たないしね。やっぱり生産活動の一環ですから、利幅の高い薬売るのは当たり前です。(笑)隣の爺さまは98歳まで、うちに自転車にのって遊びに来ていた。99歳ちょっとで亡くなったがね。死ぬまで元気だったさ。うちのおばあちゃんも元気だったけど、最後は「家で死にたい」というのを、看護婦がきて「このまま家で死んだら警察沙汰になるから入院させなさい」って無理矢理入院させちまった。ばあちゃん病院で最後まで「家にけえせ、喰いつくぞ」って点滴嫌がってたなあ。おれ孫だからね、なんもできんかった。見ていてつらかったで。農薬使わないって、大変なんだよ。何がって、農協からにらまれるんさ。百姓はみな借金してるの。それが「無農薬・無肥料でやる」なんていったらたちまちにらまれてつぶされるのさ。だって、農薬数十万トン誰が売ってると思うのよ?農協ですよ。おれもさんざんやられたさ。だから、なにくそっと思ってやってきた。一番の問題はここらへんですね。今現在こうした構造のシワ寄せが一気に噴出し始めてますね。まあ、人間の作った構造とか組織なんてものは結局こうなる宿命なんでしょう。人が集まって金のために生産活動を繰り広げると必ずこうなります。あとはこの反骨精神というか、皆が目覚めて意識を変えて行くしかありません。「次の世代のことを考えて人間じゃないか」世の中の偉い人って、全然えらくない。うちの農場も近年、いろいろな人がくるようになったけど、大学の農学部出たなんてのはどうもねえ。大学出るとダメになるような気がする。ブツブツ文句言ってタネ蒔いてもダメだっての。よく育たないよ。鶏も植物もけっこう人間の心がわかっちゃうんだな。偉い先生ってのもなあ、現場知らないよ。役所も昔は、市より県、県より国、って正しい情報も持ってるのかと思っていたら、とんでもない、上にいけばいくほど正しい情報は少なくて、たくさん持ってるのが予算。だからばらまくしかないんだろうなあ。確か養老孟子先生も同じようなこと言ってましたね。「大学なんか行っちゃダメだよあんた、大学行くと馬鹿になるよ」ってばあちゃんに言われたって。人間だったら、自分の子や孫の世代、いや1000年先2000年先考えて当然なんでないのよ。それが、いま世の中で偉いってのは、子供だましのファストフード売って大儲けした社長だとか、健康でない野菜や卵うって日本一の売り上げあげたスーパーの社長とか、そいう人が偉いっていうのおかしいよな。マネーゲームの解説書みたいなもんですね。こういった人たちが巷でチヤホヤされてますが、たぶん実体はかなりくだらねーものだと思います。算数はカシコイだろうけどね。人の道ってことで言うと、「金と地位」がゴールというセオリーでしかないからね。せめて、これから10年かけて、日本の農家の農薬使用量を10分の1にしたい。おれはホンキでそう思ってる。同志もいるよ。フランスやドイツはそれをやったんだな。わしは行って見てきたよ。でもこれは消費者がカシコクならないと無理だね。どうしたらいいって?まず自分のアパートでもなんでもいいからプランターでタネと土買ってきて無農薬・無肥料でちゃんと野菜が育つって体験するのがいいと思うよ。そして食べ比べてみるこった。わしもこれから生産者の同志をつのっていまの不自然な農業流通体制と闘うつもりだよ。わしは百姓だ。だから百姓の役目果たしているだけだよ。2002年10月14日 千葉県旭市 大松農場で良いですねぇ、おっちゃん。自ずと頭が下がります。ちなみに私にも富士の裾野で農業器機の販売に携わっている友人がいますが、彼も近年の排ガスとか環境問題について一番遅れているのが日本だって言ってます。何が遅れてるのかって、それは意識の遅れですね。この農場のおっちゃんが指摘するように、消費者、いわゆる一般民衆の意識が低いということですね。これだけふんだんに情報が溢れているにも関わらず、クズのような情報ばかりに振り回されて、しかも自分自身で何も判断しようとしない私たちこそ、改善が必要ですね。たぶんね、こんな話をするとまた「自然回帰」とか叫び出すヤツが出てくるんでしょうが、一番簡単な答えがアンチテーゼという幼稚な対極理論ですね。今の環境の中で「自然」な生活をしようとしたら、フツーの生活の3倍以上の経費も精神力も必要となります。その方がよっぽど体に悪いじゃん。(笑)この記事を評価する
2006年02月22日
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今日はちょっと興味深いお話をご紹介しましょう。千葉県旭市で農場を営まれる農場主、大松秀雄(おおまつ・ひでお)さんのお話です。これは4年ほど前のインタビュー記録からの抜粋なんですが、私自身も感銘を受けたのでデータとして保管しておいたものです。長くなるので、今日と明日の二日間に別けて載せます。ということでまずはパート1。(青字は私のコメントです。でしゃばってゴメンネ/笑)「お日様と風のあたる鶏舎で」 日本には1億4000万羽のニワトリがいるけど、その半分は、真っ暗な風も日光もあたらないところで、アメリカのミールや肉骨粉やって育てる。なぜって?飼料は外国のが安いし、暗らけりゃ無駄に動かないから餌も食べない。卵だけ生ませるなら効率がいいのさ。そのかわり病気になるからその餌にはいっぱい抗生物質とかクスリが入っている。それが、みなさんがスーパーで買ってる10個100円とかの卵だよ。うちの農場は今、58000羽の鶏を飼っているけど、同じ広さでだいたい60万羽を飼うのがふつうだ。10倍だね。 5万羽の鶏を飼って、うちは年商で2億1500万円ぐらいだけどね、これを儲かるようにしたらまあ、6億円まではいくさ。一個10円高くしたら、一日50万円はいってきちゃうのだもの。15人従業員がいるけどふつうは6万羽だと2人でやるのだけどね。お金儲けることが第一ではないさ。 うちの鶏はほら、鶏舎みてごらん、風は通るし日も当たる。だからニワトリが元気なんだよ。不健康な親鶏から健康な卵ができるはずがない。ん?なんで鶏舎に雄鶏がまじってるって?そりゃあ、あんた、こうして話をするのもわしだって聞き手に女の人がいるといないとじゃ気合いが違うよ(笑い)。鶏だって一緒さ。卵産もうという意欲が、鶏舎に雄がいるといないとじゃあ違うわ。あはは。ほんとうだよ。実に奥行きのあるお話ですね(笑)やっぱり男と女は緊張の中にこそ生きる張り合いが生まれるのです。「大松農場の蜘蛛の巣がはった鶏舎」このあいだ見学してきた農場は17億円の売り上げがあったな。でも、卵そのものの質はうちのほうが断然上だよ。ま、自然農場とかいってるけど、売り方がうまいのは確かだけどねえ・・・わし下手でね(苦笑)。でも、このあいだカルフールってフランスのスーパーからバイヤーが買いにきた。うちの卵なら1個60円でも売れるっていって、契約を結んだんだよ。バイヤーはフランス人だったけど、「肉骨粉で狂牛病が発生する可能性は20年も前からわかっていたから、当時から対策をたてて、安全な食肉を供給する体制をとってきた。だから当社はまったく被害がなかった」ってさ。 いや別にカルフールの肩を持つわけではなくてね。そのバイヤー自身、自分が病気をして食物の大切さに気がついたという経験を人だった。そういう勉強をしている日本のスーパーのバイヤーにあったことがないのさ。日本のバイヤーはみな「売れるかどうか」とか「利益があがるかどうか」とかしか頭にないけど、このフランス人は・・・なんとか・ベネティさんとかいったな、「まず、安全なものを客に提供する」って当たり前のことをいって、やってた10万頭の牛を肉骨粉なんかあたえずに、自前で安全な食肉を育てていたっていうからえらい。フランス人気質というのも何となく頷けますが、本気で生きるってことは、やはり自身の経験、体験からしか育っていかないものですよね。「大病と断食療法」わしが食べ物の重要さに気がついたのも若い頃病気したからだ。 いや、昔はね、わしも「オートバイ買いたい」ってふつうの、ばあちゃんっ子だったのよ。ただ、兄貴も弟もはやく死んで、17,8歳のころ大病してさ、腎臓も肝臓も、そこいらじゅう悪くてね。千葉はすごい病院があってさ、その院長先生が専属のようにみてくれたけど何年もよくならなくて、とうとう人にきいた静岡県の断食道場にいったのよ。 そこで、まったく薬つかわないで、虫下し飲まされて、水だけ飲んで2週間断食したあと玄米たべてたら40日で治ってしまったのさ。もうひょろひょろに痩せたけど、気分は爽快だった。なんせ3年病院で治らなかった病気がそれだけで治ってしまったのだもの。わしは、それから食べ物がいかに大事か、それつくる百姓の仕事がいかに大事かわかったさ。そんで当時は鶏3,40羽いたかなあ、それが1000羽になりゃ嫁さんもらえるっていわれて、一生懸命やったさ。 気がついたらわし39歳でやっと嫁さんもらえたの・・・そう思ったのよ。そしたら友達が「大松、おまえもう一度年数え直してみろ」って言うから「変なこと言うなあ」と思ったけど、数えてみたらわし、49歳だった・・・(笑い)いいですねぇ、こののんびりした感覚。まさに生きているって実感が湧いてきますね。見てくれとか、歳とか、飛び越えた現実がそこにありますよね。後半のパート2は更にヒートアップしていきますよ。明日をお楽しみに。この記事を評価する
2006年02月21日
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さあ第四弾はちょっと奥行きのある言葉ですよ。心して読んで下さい。(笑)○James Matthew Barrie 1860-1937 英国スコットランドの劇作家(ピーターパン他)If you have charm, you don’t need have anything else; and if you don’t have it, it doesn’t matter what else you have.魅力があれば他に何もいらないが、それがなければ他にどんなものを持っていてもしょうがない。はい、その通りですね。「魅力」って言葉にすると簡単ですが、人の魅力ほどつかみ所のないモノもありません。特に恋する男女にとっての魅力ほど不可解なものはないですね。○John Barrymore 1882-1942 (米国の俳優)Love is the delightful interval between meeting a beautiful girl and discovering that she looks a haddock.恋とは美しい少女に出会ってから、その娘が魚のタラに似ていることに気付くまでの喜びに満ちたひと時である。やさしくハンサムな王子様は実はボラだったってのもあります。(笑)女性に限らず、恋というのは不思議なドラッグでしょうか?幻覚作用は世界一です。○Ambrose Bierce 1842-1914 (米国の作家・ジャーナリスト)Calamities are of two kinds: Misfortune to ourselves, and good fortune to others.不運には二通りある。自分自身にふりかかる不運と他人に注がれる幸運。極めつけの名言です。似たような言葉に「人の不幸は蜜の味」なんてのもありますね。道楽者の親爺、いやビンボーを守り続けた親爺に言わせれば「不幸だ」なんて言ってるうちはまだまだシヤワセなんですね。不幸という言葉すら忘れてしまった日々を生きている人も世界には沢山おります。○John Billings 1818-1885 (米国のユーモア作家)A woman will sometimes confess her sins, but I never knew one to confess her faults.女は時々自分の罪を告白する。が、私は自分の欠点を告白した女に出会ったことがない。これはどちらかというと、女性に捧げる言葉ではないでしょうか。最近は男も卑怯者が多くなって、往生際の悪いやつが蔓延っておりますが、女性に関してはこの手のちょっと芝居がかった「告白」ってのにコロっと逝ってしまう男性も多いですよね。その昔、私も随分と逝かされました。(えっ?)男と女の間には暗くて深い河がある、って野坂昭如さんですか?旨い表現です。どうやっても超えられない河が男と女の間には流れていると、私も思います。それでもやっぱり私は「女」が好きです(^。^) (こらこら何言ってんだ!)どうも歳を取ると精神年齢は退行していくようで、最近は素朴な女性の美しさに目が行く自分に気がつくようになりました。しかし女は華があっていいですよね。世の中を明るくしますよね。男は年取るとむさ苦しいだけです。(笑)ということで、超えられない河をボートで漕ぎ出す道楽者親爺の戯言でした。
2006年02月20日
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今日は私が今一番気になっている話題をふたつお話します。まずひとつ目は、NEWS WEEK先週号のトピックスから「ソウルフードに危険信号」です。なんと現在、アフリカ系アメリカ人(黒人のことですね)の人口全体に占める糖尿病患者の割合が14.8%だそうで、これに対して白人は8%、しかもアフリカ系アメリカ人の3人に一人が高血圧らしいです。そしてこの原因がソウルフードにあると言われているのです。しかし、SOUL FOODと言えば、私のようなSOUL馬鹿をやり倒してきたようなヤツにとってはBLACK POWERの象徴のようなもので、これが否定されると言うのはなんとなく寂しい感じがします。映画のタイトルにもなったSOUL FOODこそブラックアメリカンのアイデンテティと言っても過言ではないのでしょうか。フライドチキン、マカロニチーズ、豚のスネ肉シチュー、ポテトの甘煮などなど、黒人文化がもたらした伝統的な料理であるソウルフードが今や生まれ変わろうとしているのです。(ってニッポン人にはどーでも良いことですが・笑)その昔、六本木アフロレイキではソウルフードがメニューにあって、ソウル馬鹿のしったか野郎はこぞってわけもわからず喰いまくったものでした。確かに油ギトギト、ねちっこいテイストは体に悪そうでした。(でも日本人が作ってたんだよね)ということで食生活、食文化は国によって随分と違いますが、アジア系食文化は欧米の食生活環境に比べるとかなりヘルシーではないかと思います。それでも飽食の時代と呼ばれる現在、先進国と呼ばれる裕福な国では妙な加工品ばかり食べているせいなのか、体質も随分変化してきているようです。「スーパーサイズミー(SUPER SIZE ME)」というアメリカ映画では、1ヶ月間マクドナルドだけを食べ続けたらどうなるかって、本当にアメリカ人らしい作りのファーストフード産業を告発するようなドキュメンタリーがありましたが、黒人に限らず私たちも食生活を少しは見直した方が良いかもしれませんね。かといって、いきなり自然食品に飛びつくのもどうかと思いますが、せめて日常のチョイスでセーブできるものはした方がよさそうです。自然回帰の危険性についても過去の日記に書きましたが、ここまで来てしまったら今更後戻りはできませんから、せめて月10回のマクドナルドを半分の5回にするとか、野菜の量を増やすとか、少しずつでも自身でコントロールするだけの意志も必要ではないでしょうか。そういえばマクドナルドの肉は食用ミミズだとかいう話もありましたが、今更何を言ってんだかって感じですね。牛だったら良くてミミズだったら気持ち悪いって、それじゃミミズさんに失礼ではありませんか。同じような話に鯨がかわいそうだとか、ミンクがかわいそうだとかいうのも似たり寄ったりですね。サメは悪いやつでイルカは良いやつなのかって、じゃあイルカさんに食べられちゃうアジさんやイワシさんはかわいそうじゃないのかって、キリがありませんね。って、また脱線しちゃった(^^;さて二つ目の話題はというと、これがなんと私の大好きなシリーズ「ゴッドファーザー」の新作がペーパーバックに登場したのです。タイトルも「GOD FATHER RETURNES」帰ってきたゴッドファーザーですか?(それを言うなら「ゴッドファーザーふたたび」だろ)さて新作は1955年(なんと私の生まれた年ですね)以降のドン・ヴィト・コルリオーネ・ファミリーのエピソードをフラッシュバックさせながら、70~80年代のマイケル・コルリオーネの活躍が書かれています。と言ってもまだ読み始めたばかりですから内容までは詳しくご紹介できません。なんせ原文(英語版)を読んでいるのでちょいと時間がかかりそうです。わからないところは子供に教えてもらったりしながらコツコツと読んでます。(笑)プロットは映画のパート2に似た感じで、マイケルの時代とヴィトの時代をうまく交錯させながら進んでいくようです。マリオ・プーゾォの原作本ですから、全体の流れやトーンはそのままですが、なぜか映画パート3で登場してくる三代目のドンは描かれていないみたいです。たぶんあの話は映画のために無理やり作った感じがしないでもありませんね。一度HBOというケーブルチャンネルで、コッポラとプーゾォのシナリオ製作現場の取材を見たことがありましたが、コッポラのイメージとプーゾォのイメージはある程度整っていたようでした。それでも映画の方はやはりイマイチでした。話のテンポがちょっと早すぎて焦点ボケしていたように思えます。特にコンシリオーリ役のトム・ヘーゲンが出てなかったし、その息子がバチカンに行くとか、ちょっと無理もあったし、ジョン・サベージも結局エキストラみたいな役でしかなかったし、ちょっと物足りなかったですね。裏話によると、トム役のロバート・デュバルがギャラが折り合わなかったため降板したというようなことでした。まあ、このあたりの辻褄合わせもどんな展開になるのかちょっと楽しみです。そのうち日本語版(翻訳本)もでるでしょうから、ファンの皆様は乞うご期待ってとこですか。
2006年02月19日
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どうもこのところ一連のニュースを見ていると情けない話ばかりでうんざりです。いつからニッポンのお父さんたちはこんなに往生際の悪いジジイに成り下がってしまったのでしょうか。そりゃいつの時代だって「卑怯なヤツ」はいるのでしょうが、いくらなんでも皆が皆、揃いも揃ってこうジタバタする姿を見ていると情けなさを通り越して、怒りさえこみあげてきます。まずは日本航空の内紛、というか恥さらし騒動には空いた口が塞がりません。その昔「仁義なき戦い」という広島ヤクザの抗争を描いた小説がありましたが、その原案となった美能幸三氏の獄中手記の最後の一行にこんな言葉が記されていました。「どうしようもない者が頭に立ったから下の者ばかりが苦労して、つまらぬケンカが大きな抗争へとなっていった」まさに現在の日本航空の姿そのものです。業務改善命令は一体なんだったんでしょうか?挙句の果てに自分の部下に退陣要求を突きつけられたシンマチ社長、臆面もなくクーデターを起こした取締役4人に対して「元々の責任はお前等だろ」などと公言する姿は、見苦しさを通り越して醜悪です。退陣要求をした取締役4人にしても何をトチ狂っているのか、署名まで集めて来て一体何を偉そうにカッコ付けているのでしょうか。現場の社員が起こした騒動ならまだしも、管理責任者同志が罪のなすりあいをしてどうすんだって感じですね。社長が辞めて解決するような単純な構造だったら、こんなに何年も問題が繰り返されるわけはありません。少なくとも人命に関わる、しかも公共性のある企業が、地域の利害、利用者の安全をないがしろにして、自分達の保身にばかり終始している経営者の醜態はもう沢山です。「おまえら経営陣全員が辞めろ!」たぶんJAL社員もそう思っているのではないでしょうか。ナショナル・フラッグから引き継いだ「誇り」や「企業理念」は一体どこに行ってしまったのか、社長を筆頭に現経営陣全員に言いたい。「おどれら男らしゅうせいや!」ということで少々過激になりましたが、一刻も早く健全な会社となって就航地域住民に愛される航空会社に生まれ変わってもらいたいものです。まあ、ニッポンを代表する企業がこんな調子ですから、圧して知るべしって感じですね。耐震強度疑惑問題も益々醜悪な様相を呈して来てますし、東横インも最悪、ライブドア関連も見苦しい、金に纏わるスキャンダルはそのいずれもが醜悪です。せめて演技でも良いからもう少し潔くカッコつける人がいても良いと思うんですけどね。まあ、こんなことをあげつらってノーガキを書いていたらいつまで経っても終わらないし、言うだけだったら誰でもできるだろくらいに反対に批判されそうですが、JAL問題に関しては決して他人事ではなく、私個人としても実際に関わっていますので、ご意見のある方はメールでもなんでも直接お寄せ下さい。私はどこぞの大会社役員と違って逃げ隠れはしませんのでいつでもどうぞ。しかし、こんな往生際の悪い企業の責任者たちを見て育ったその社員達は一体これからどんな会社経営を行っていくのでしょうかね。さらにそんな大人達を見て育つ子供たちは一体どんな社会を創りだしていくのでしょうか。怖いですね。自分の年齢に当てはめてみると、私たちが見て育ってきた環境は未だ多少の救いがあったような気がします。子供の目は純粋ですから、親の愚行や矛盾はしっかりと見ているものです。私の時代、こうした大人の狡さや愚行、矛盾などを親や大人に対して率直に指摘できる環境が多少はあったし、それに答える親や大人も小手先の理屈で説き伏せるのではなく「大人だってわからないことが沢山あるんだ」というような、正直な姿勢も見せてくれていました。良い意味でも悪い意味でも、それなりに大人が手をかけて子供を育てるという環境がありました。とはいうものの、そんな育ち方をしてきた今の私達が子供たちとどうやって向き合っているのかといえば、非常に手抜きをしているように思えてなりません。子供の時代を飛び越えて、もう早くから大人にしてしまう。援助交際とか少女売春とかが良い例ですね。もうとにかく現行の経済システムの中に無理矢理子供を押し込んじゃう。そのくせ都合の良いときは「子供」として振舞わせる。まるでペットのように扱われる子供は、そんな親の勝手をちゃんと見ているから大人と子供を上手く使い分けています。昨日も5歳児2人が刺殺されるという惨い事件がありましたが、相次ぐ児童惨殺や虐待はまさに大人と子供の垣根が崩壊している現実を如実に語っています。所詮大人だって子供の延長線上にいるわけですから、別の生き物でもなんでもない同じ人間です。ただ、成長の過程で大人と子供の垣根がきちんと作られていくのであって、歳を取ったからといって勝手に、しかも自然に垣根が生えてくるわけでもありません。特に今の社会環境では、大人も子供も情報の渦の中に巻き込まれていますから、処理する能力に合わせたフィルターもないままにいきなり個人のもとへ直接情報が飛び込んできてしまいます。更にその「情報」が「生」であるのか「加工」であるのかさえ見分けがつきません。つまり、現実と虚実の区別は情報受信者に委ねられるということになります。もちろんこれは良い面も悪い面もあるわけですが、「社会」というひとつの秩序がある以上はどこかで線引き、あるいはフィルターのようなものがどうしても必要になります。元々はメディア、マスコミがこの役割を担っていたのですが、ご存知のとおりメディアはすでに死滅しています。ということで今日は結構硬い話になりましたが、道楽者親爺としてはこんな状況にもメゲルことなく(頭は禿げましたが)、あきらめず抵抗を試みていこうと思っております。道楽者親爺は非生産行為を推進して道楽者をどんどん世の中に送り出すことにします。この悲惨な祖国ニッポン再生に向けて道楽者親爺の戦いは続きます。(なんちゃって)
2006年02月18日
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今日は昨日の続きです。私の知人、イタリア在住の麻生弥壽子さんから届いた手紙から寿命にまつわるルーマニアの伝説をご紹介いたします。その昔、天の神が生き物たちを招集し、その寿命と暮らし方を定めたという。人間は世界の王として君臨し、その寿命は30歳と決められたが、人はこれを短いと不満を持った。次に、常に重荷を背負って50歳と宣言されたロバが「どうか20年差し引いて頂きたい」と言うのを聞いた人間が、ならばその20年を貰い受けたいと言って20年を授かった。次に犬が呼ばれ、主人である人間の家や財産を守って40歳と聞いて震え上がり、何とか半分にしてもらった。そこで人間がまたこの20年を貰い受けた。さらには60歳と言われたサルの半分も得て、人の寿命は百歳と決まった。そして人間は、ロバや犬やサルの寿命からもらった歳の分だけ、それらの動物の苦労も背負った。伝説というか民話のようなこのお話自体はシンプルで特別に面白いものではありませんが、良く考えると今も昔も人間の生への執着と言うのは変わっていないのかもしれませんね。それにも増して、生きることの苦労、辛さを持っているのは人間だけのような気がします。動物が自殺したって話はあまり聞きませんよね。ってことは、この伝説のように人間は動物の辛苦を背負っているということになるのでしょうか。でも楽しい事だってあるだろ。辛いばかりが人生じゃないぞ。そんな声も聞こえてきますね。そりゃそうですよね。辛いって気持ちは楽しいって気持ちの対極にあるのですから、相対するものがなければどちらの感情も生まれてはこないでしょう。ところでルーマニアといえばまず頭に浮かぶのが「ドラキュラ」伝説です。私は原作を読んだことはないのですが、映画は数え切れないほど見ました。子供の頃は怖くてトイレにいけなくなったりもしましたが、最近ではおしゃれなバンバイヤ・バフィーなんてのもあるし、ドラキュラもブランド化されましたね(笑)私が特に印象に残った作品は、フランシス・フォード・コッポラ監督のドラキュラでした。ブラム・ストーカーの原作を彼が解釈するとこうなるのか、みたいな感じで、ホラーというよりはラブ・ストーリーに近かったですね。もちろん変身シーンとか吸血シーンは、それはそれはオドロオドロしい素晴らしい映像で見せてくれますが、結末は悲恋の末の残酷な終焉という感じで、怖いというよりは人間の欲望というか業のようなものを考えさせられました。しかし「血を吸う」ってのもどことなく淫靡な感じですよね。血縁ともいうくらいですから、人間の潜在意識に「血と性」は切っても切れないイメージが埋め込まれているのでしょう。前から言っているように、私は何でもノーガキで解釈する変なクセがあるので、映画もどちらかという哲学的な理屈っぽいのが好きなんです。だから「地獄の黙示録」とかも、何度も見ては一生懸命解釈しようと未だ試みています。じゃあ、おバカな映画は見ないのかっていうと、そこはそれ本腰の入った道楽者ですから、くだらなければくだらないほどシビレてしまうという、結構変態オヤジでもあります。ということで、せっかく品の良いプロローグだったのに、最後は相変わらずの道楽者の与太話に脱線してしまいましたが、高齢のカリスマ・レディー・ミス・ヤスコ・アソウに敬意を表して、今日は彼女からのエアメールのお話をご紹介しました。
2006年02月17日
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昨日はダブルレインボーをご紹介しましたが、偶然かどうか昼過ぎに私の手元にもダブルレインボーならぬダブル・レターが舞い込んできました。ひとつは中学校の同級生からのメールで、NETサークルの「ゆびとま」を通じての35年ぶりの再会でした。この「ゆびとま」というのは日本全国の学校の同窓生を網羅した素晴らしいサイトですので、皆様も是非ご覧になって下さい。特に私のような爺になりますと、中々、小学校や中学校の頃の同級生に出会う機会もないので、このサイトは画期的なアイディアだと思います。「ゆびとま」とは「このゆびとまれ」の略です。http://www.yubitoma.or.jp/中学生といえばまだ15歳未満ですから、私もまだまだ本格的なグレ方はしていませんでしたが、思春期の真っ只中、高校受験などもあって、精神的には一番不安定な時期だったので当時のことはかなり鮮明に覚えています。彼からメールが届いたとき、彼の名前を目にしたとたん当時の思い出が一瞬にして蘇ってきました。空白の35年(笑)をこれからボチボチと語り合っていきたいと思います。もうひとつの手紙はイタリアからのエアメールでした。十年ほど前にサイパンでご縁ができた素晴らしいスーパー・レディ、麻生弥壽子さんからのお便りです。麻生さんは元々ドイツオペラの歌手で、一時はNHK仙台で番組の司会なども務めたこともある才女で、私が知り合った頃はドイツの名門ビール「ホフブロイ」の輸入元をされておりました。同時に「ホフブロイ」というドイツのビアホールを新宿の歌舞伎町で開業され、一時は各界の著名人に称賛されるほどの人気のあるお店の経営もされておりました。一度お招きに預かり、お店を訪問したことがありましたが、なんとステージではご自身がビアジョッキを片手にドイツ民謡などを歌われて、まさにミュンヘンのビアホールそのままの再現というような素晴らしいお店でした。どうも出自の卑しい身分の私にはちょっとピンと来なかったのですが、まあなんというかヨーロピアンタイプの社交場、いわゆる有識者のサロンのような雰囲気でもありました。当時この女傑(失礼)、女社長はすでに六十近くにも関わらず、世界各国を飛び回り、それはそれは行く所行く所で旋風を巻き起こして歩くカリスマ・レディでした。確か民放の番組でも彼女の密着ルポのような形で紹介されたこともあったと思います。その後色々とあって(どんな人生にも色々ありますよね)、現在は実の妹さん家族とイタリアのリボルノに住まわれています。この妹さんも凄い方で、お嬢様がイタリアバレエの先生としてイタリア政府から招聘されて一家で移住、ご本人も合気道の師範代として道場を持たれております。前置きが長くなりましたが、すでに80近いご高齢にも関わらず、日本-イタリアはもちろん近隣のドイツ、スイスなどにも飛び回る相変わらずのスーパー・レディぶりを発揮しているようです。私との関係もこうした文通のようなお付き合いが未だ続いており、毎年私の誕生日には必ずバースデイ・カードが届きます。彼女の次男と私が同い年で、偶然にもその息子さんともサイパンでの因縁があり、なんだか親子のような関係にも似たお付き合いともいえます。私も親の縁には薄く、彼女も子との縁に薄く、立場は違えど母親の生き方、子供の生き方、それぞれをお互いの目を通して振り返っているような感じがしてなりません。そんな手紙のやり取りをかれこれ10年ほど続けていますが、私は昨年このブログを始めたことをきっかけに、子から母親に向けた愛のメッセージを形にしたいと思い、文章を書く決意をしました。何とか彼女が生きている間に、彼女の息子の代わりとなって子供から母親に贈るメッセージを描きたいと思いました。それは彼女のために書くことを通じて、実際には、私は実の母親に宛てたメッセージを描くことでもあり、私からのメッセージを受け取った彼女は、実際には実の息子からの声を聞くことになるのです。とは言うものの、これがやっぱりというか、中々思うようには書き進めません。「母と子の絆について本を書くから、書き終わるまで元気でいて下さいね」そう簡単に約束はしてしまいましたが、結局1年が過ぎようとしています。毎日のブログで何とか文章力はついてきたと思いますが、果たして自分の中にあるこの思いを表現できるのか、書けば書くほど迷いが深まります。道楽者一世一代の「どーらく」に向けて何とか書き抜こうと思います。ということで、せっかくですから明日は、彼女、麻生弥壽子さんからの手紙に書かれてあったルーマニアの伝説をご紹介してみようかなと思っています。
2006年02月16日
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今朝は南の島にシャワーが降り注ぎました。今の時期は乾季に当たるので本来は雨が少ないのですが、日本同様、異常気象のせいでしょうか、この数年乾季、雨季のサイクルが微妙にズレてきています。雨の季節は「虹」が心を和ませてくれます。島の会社や店名に「レインボー」という名を数多く見かけるのも頷けます。ドライブ中、散歩中、買い物中、海水浴中、サーッとスコールが訪れると、皆足を止めて雨宿りをします。早い雨雲が通り過ぎるのを待っていると、雲の間から熱い太陽の光が差し込んできて鮮やかな虹を映し出します。その神々しさには何とも表現し難い自然の不思議というか、光の神秘とでもいうのでしょうか、水平線からどーんと浮かび上がる光の柱は一瞬にして人々を異次元の世界へ誘います。人と自然の束の間の触れ合いみたいなものでしょうか。でも、この光景は太古の昔から今も変わらず人間の眼で見ることの出来る、まさしく現実そのものです。ほんの一瞬ですが、果てしない宇宙の片隅のこの地球に存在する自分という生命を感じさせてくれる自然の描くメッセージのような気がします。もちろん自然が自分勝手な人間のためにメッセージを送ってくるとは思えませんが、せめてそう考えることで今を生きている意味について振り返ることができれば、また人生は楽しくなります。ということで「生」の虹をお届けすることはできませんが、せめて写真だけでもと思い、画像を載せてみました。ちょっと見ずらいかもしれませんが、左にもう一本虹が掛かっているのがわかりますか。今朝見た虹はダブルレインボーでした。頻繁に現れるとは言うものの、さすがにダブルで虹が掛かることは大変珍しいことですから、何とかこの感動を皆様にもお裾分けしたくてオフィスに飛んで帰ってデジカメを掴んで走りましたが、残念、すでに消え始めておりました。慌ててシャッターを切りましたが、かろうじて残骸(笑)が残っていたので、何とか私からのこの「癒し」メッセージは気持ちだでもお伝えできそうです。人間もまんざら悪いものではありません。このブログを始めてからパソコンに向かう時間が以前にも増して多くなりました。最近タイプを打ちながらふと思いついたことがあります。人間の体をハード、心をソフトに当てはめて考えてみると、ハードは各種各様の仕様がありますが、ソフトは共通、つまり同じOSで動いているのかな、なんて思います。せいぜい違ってもMACとWINDOWSの二種類(笑)くらいのもので、結局は人間の心なんて万人共通かな、なんて思うんですね。ただ、ハードとしての体は千差万別、みな体質や特徴がバラバラで、たぶん二つとして同じものは存在しないかな、なんて考えてしまいます。ということは、同じOSソフトを使っているのなら、間違いなく互換性があるはずで、たとえMACとWINDOWSの違いでも互換ソフトだってあるし(笑)、基本的に分かり合えないはずはないと思えるんですね。たまたま選んだ(というか割り当てられた)ハードとしての体が違うだけで、動かしているシステム自体は皆一緒ということになります。ということは個性なんていうものは実際のところ体の違いでしかないのではないか、とそう思うわけです。そして必ずOSにセットでついているソフトが「思いやり」なのかな、なんて思います。みんな同じソフトで動いているのですから、システムに異常が起これば修復ソフトの「思いやり」は全機種共通で作動するのではないか、とそんな愚にも付かないことを考えてしまった朝のひと時でした。
2006年02月15日
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今日はバレンタインズ・デイです。きっとニッポンではチョコーレートが飛ぶように売れているのでしょうね。恋人たちにとってはクリスマスと並んで、二人の愛の思い出作りには欠かす事のできない楽しいイベントのひとつでしょう。恋に落ちている若い皆様には、是非とも心に残る想い出を作っていただきたいと思います。しかし恋する気持ちというのは不思議なもので、いくら歳を取っても持ち続けているものなんですね。というか、本人は歳を取っている自覚がないというか、体というハードは段々衰えて中古化していくのは解っているのですが、心というソフトは昔からさほど変わってはいないのです。ただ、悲しいかな、体験や経験を重ねていくうちに、人生にはパターンというものがあることに気が付いてしまうので、次第に感受性が鈍くなっていってしまいます。だからこそ、未開の地へ足を踏み入れようともがくわけです。まあ言ってみれば、食道楽の上手いもの探しのようなもので、まだ食したことの無い味を求めてさまよっているといった感じでしょうか。ていうと、なんだか放浪者のような感じですが、これは行動そのものよりも感性の刺激を求めているので、実際の生活の中で見分けのつく行為ではありません。未だ感じたことの無い「何か」が未だどこかにあるはずだ。そんな感覚を持って、刺激的なことを求めてはやまない人間の性のようなものです。この感覚が危ない方向に向かってしまうと、一般常識を逸脱した「快感」の世界へ引きずり込まれたりしてしまうので、年齢と体力を考慮しながら生きなければなりません。もうひとつ、過去の残像を求める人たちが意外と多いことも事実です。特に若い頃チヤホヤされた人にこの傾向が強いようです。かくゆう私もそのひとりで、その昔、狭い世界ではありますが、ちょっとチヤホヤされたものですから、良い歳になってもそのクセが抜けきれず、大人になる(笑)のに随分と苦労しました。そりゃ、いくつになっても遊び続けることができるのならば、誰だって遊び続けていたい訳で、それで実生活がうまく営まれていけるのならば、そんな幸せなことはないでしょう。いくつになっても恋した時のフワフワした気持ちを持続できたら、人生はいつでもパラダイス、最高の毎日でしょう。まあ、そんな夢のような人生を歩める人が全くいないとも言えませんが、フツーの人はやはり年齢と共にあきらめざるを得ないのが現実でしょう。ただねぇ、時々いるんですよね、抜けきれていない人が、たま~に現れるんです。往年のプレイボーイ、プレイガールみたいな感じでしょうか。もちろん「若作り」というよりそのままの地で行っているセンスの良い方もいるのですが、かなり無理があるなぁ、という方もいらっしゃって、これはまたこれで良いベンキョウになります。良い歳コイたカッコマン的アホなトチ狂い野郎は別として、男の場合は社会に揉まれて磨かれていくのか、割と渋味を伴ったカッコ良さを体現している人も多く、同性から見ても良い歳の取り方をしてるなあ、と感心させられることもあります。逆に女性の場合は、やはり外観に拘るというか、外見が第一というか、ファッション性に重点が置かれているようで、その中味まで体現されている方が少ないのは少々残念です。この違いを道楽者的な解釈試みますと、男女の関係はある年齢を境にして逆転していくのではないかと思うのです。思春期の一番多感な時期は、女性の方が早く「大人」になっていきます。この頃、男は未だ子供と大人の境をうろついておりますので、同世代の女性から見ると頼りないガキのような存在であるわけです。男は女性に潜在的母性をも求めますから、女性にしてみればこれから開花しようという時代にウッとしいガキにまとわりつかれたくないというような態度で、男はしっかりと女性にないがしろに扱われます。たまに運の良いヤツは包容力のある年上のお姉さまに恋の手ほどきなどを受けて成長しますが、ほとんどのガキ野郎達はこの屈辱をなんとか乗り越えようと社会への取り組みに一生懸命となり、生活設計なども考えつつ大人になっていきます。一方、多少の背伸びはあるものの「大人の女性」となりつつある女たちは、父性的な包容力のある年上の、しかもある程度経済的余裕もある大人の男に惹かれていきます。時々、運の悪い女はその見かけに騙されて妻子持ちの親爺の手に掛かり落とし穴にはまったり、親子ほどの歳の差のある恋愛により一層大人への階段を駆け上がって行ったりしてしまいます。数年を経て、男性も女性もそれなりに社会と人間の関わりの中で、自分の人生を冷静に受け止められる年齢となります。ここらでようやく、自分のサイズにあったパートナーとめぐり会うわけです。ところが、ここで落とし穴にはまった数人の男女はそのトラウマからか、多少の関係では満足できずに更なる試練の道を歩むことになってしまうのです。思春期に憬れた女性にガキ扱いされた男は当時の残像を追い求め若い娘に走ります。思春期に大人の男に教育を施された女性は実らぬ恋から醒めても、それ以上の男を追い求めますが、男が自分に求めていたものは単なる「若さ」だったことに気付いた時には、その一番の魅力だったものがすでに翳りを見せ始めていることを悟ります。男はその社会的位置や経済力から、思春期の残像を求めて若い娘を追いかけますが、結局はその「若さ」を手に入れることはできても、心の穴を埋めることはできません。恋する彼女にガキ扱いされたために、一人前の男を目指して社会的立場を得ることに執着した男と、その若さという美しさを、花を愛しむように大事に扱ってくれる大人の男を求め美貌を磨くことに執着した女、そのどちらもお互いに失ったものを取り戻すことが出来ない男女は未だにこの空回りから抜け出すことができません。ということで道楽者爺のくだらないノーガキですが、私は個人的にはやっぱり女性の方が損かなと思います。若い時分は「ダッセー!」とか「つまらないヤツ」とか言われた男でも、歳喰ってそれなりの社会的立場につくと、やはりそれなりの若い娘がチヤホヤしてくれます。それがたとえ商業ベースだとしても、若い時分の鬱屈した思いはそれである程度は解消されるように思えるのです。片や、女性の場合は、若い時分に蝶よ花よとチヤホヤとされた分、余計にその外面に執着せざるを得ません。しかも若いうちからある程度出来上がった男性を見てきていますから、多少の男では中々に満足できません。ちなみに私は欲望の赴くまま人生を踏み外してしまった大馬鹿野郎ですので、どちらのパターンにも当てはまりません。それなりに社会の底辺でうごめく単なる道楽親爺です。そして道楽親爺から女性の皆様に一言。私も若い頃は女性の容姿にばかり拘ってその尻を追い掛け回しておりましたが、結局歳を取った今も容姿はともかくやっぱり若い女性に鼻の下を伸ばすだけの、単なるスケベ爺にしかなりませんでした。男なんてものはみな結局こんなアホなものです。ですから、若いうちはつまらない教養や道徳などに洗脳されず、その若さを十分に高い価値として人生を楽しんで下さい。「おねーちゃん可愛いね、寿司でも食いに行こうか」などと少々胡散臭い爺に誘われても、臆することなく連れて行ってもらって、トロだのウニだのイクラだのと普段食べれそうもない高価な食材を思い切って堪能して下さい。そこで妙な迫られ方などした場合には、「あーおいしかった、ごちそうさま~。じゃお父さんにしかられるから早く帰ります」などと言ってしっかり割り切って帰途につきましょう。ということで、今日はバレンタインズ・デイですから、貴方の若さを十二分に発揮してより良い人生をエンジョイして下さい。若い男性諸君は、今の青春を彼女とエンジョイしたければ一生懸命働いてお金を稼いで彼女を喜ばして上げて下さい。女性とのお付き合いには程遠いという君は、鉄の意志でベンキョウして良い会社に入るか起業して大金持ちになって、後年若いおねーちゃんを片っ端から口説きましょう。今の女日照りを克服する努力をするよりは、後年に望みをかける努力をした方が確率は高いと思いますから頑張って下さい。BOMB!!
2006年02月14日
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昨日ノーガキを書いた映画「いま会いにいきます」の余韻を引きずっています。私はどうも性格的に、心で感じたモノは理屈にして消化しないと収まらないクセがあるようで、未消化のこの映画のシーンのいくつかかが未だ頭の中を巡っています。つまりこの映画は私の心の中の何かに共鳴したようで、この何かがはっきりするまではたぶんこうしてずっとグズグズと燻っているような気がします。この、感性を理屈にする作業というのは、いわゆる「恋」とかの状況に良く似ていて、いきなり心の中に飛び込んできた「何か」をエゴと理性が心の中で葛藤を繰り広げ、それを一生懸命に頭の中で理論立てて整理するといった行為のようなものです。この映画では、二人の主人公が出会ったところからお互いの解釈が始まり、最後に双方の解釈の結合を見るというようなストーリー仕立てになっています。このあたりが私の性格の「理屈をつけて消化する」行為と一致していて、惹かれるかもしれません。愛は盲目、愛は幻想とか言われますが、相手の心の中がわからないから、人生は楽しいわけで、想像の中にいる相手と現実の心を持った相手との狭間で私たちは踊っているわけですね。でもって、最後はやっぱり「思いやり」で完結するのですが、現実は生きていますから、完璧なエンドマークは「死」を迎えるその日まで訪れることはありません。どうも育ちが悪かった(笑)せいか、ちょっとへそまがりの私は、世間で言う「感動」のドラマとか小説みたいなものが話題にあがると、どーしてもそのエンディングの後のことを考えてしまいます。特に恋愛モノは、その結ばれるまでの二人の心の葛藤が大きければ大きいほど、結末の感動が増幅されます。死ぬの生きるの言って大騒ぎの挙句、ようやくとたどり着く結末は人に感動を与えてくれます。もちろん私だってそこまでクールなわけではありませんから、それはそれで感動もするし涙も流します。心で受け止めるわけですね。ただ、私の場合は、ここで終わらないところがちょっとへそまがりというか、人生を斜めに構えているというか、どうしてもそのエンドマークの後を考えてしまうのです。特に、惚れた腫れたの恋愛ドラマになると、どうしてもエンドマークの後の人生を想像せずにいられない、ちょっと変なヤツなんです。命を賭けて、それこそ体を張って愛する人と結ばれるようなドラマは、人々に感動を与え、自分もそんな燃えるような愛に生きてみたい、と誰もが思ったりするわけです。しかし、そこで燃焼しきってしまった二人はその後どういう人生を歩むのか、そんな素朴な疑問が湧いてきてしまうのです。要は長い人生の中で一番美しく、純真で無垢な心を持った時代を切り取って表現するのがドラマですから、元々その話の後先はあまり関係ないというか、それは言っちゃあ「おしまい」なわけなんですけども、どうも育ちが悪すぎたせいか、考えずにはいられない困った親爺なのです。というのも、実際に私の青春時代、もう、キラキラ星のごとく輝いていた先輩や友達が何人かいたのですが、必ずといってよいほど彼等のその後の人生はフツーの、しかも非常に地味ぃ~な生活、ともすればかなり悲惨(笑)な状況になっており、まさに夢のような青春を送ったエンドマークの更なる結末が、かなりのリアリティーを持っているわけです。え~、例に挙げると、私の青春時代は「同棲時代」なんて劇画、映画がちょっとしたブームだったこともあってか、なんと16歳の高校生ですでに同棲している同級生がおりまして、双方の親も認めた関係で二人仲良く手をつないで登校して来ておりました。もちろん未成年者ですから、どっちの親か知りませんが実家の二階にあるアパートに住んでままごとみたいな生活をしていたわけです。いや~、彼等は輝いていましたね。親も一風変わっていて、息子をミュージシャンにしたいなんぞと言っておりまして、ふたりは時代の寵児というか、翔んでいたっていうか、時代を超えていたカップルでした。そんな彼等と偶然新宿の歌舞伎町で出会ったのは、高校を卒業してかれこれ5~6年は経ったころでしたでしょうか。あんなに輝いていたロック青年は、その自慢の長髪も短く刈り込んで野暮ったいスーツなぞ着込んで「ハンコ」のセールスマンをやっておりました。卒業以来の再会に、彼は臆することもなく人のおごりでタダ飯、タダ酒を飲んだあげく、人のタバコまでバクバク吸いまくった挙句、グチをたらたら溢しまくって、あの颯爽と輝いていた頃の面影は完全に消え失せておりました。話によると、同棲していた彼女とは高校卒業と同時に結婚し、すぐに子供が産まれ、音楽の道を志すも才能がなかったのか、挫折、結局はハンコ屋のセールスマンとなり、今は都下の公団に暮らす単なるしょぼくれた親爺に成り下がっていた(当人の弁)のでした。「でもお前等は初恋を全うしたんだから幸せだろ?」「恋ねぇ・・・・」それだけでした。でも彼の人生もまだ続いているわけですから(のはずです)、これだってひとつの場面のエンドマークに過ぎず、この後もストーリーは続いていきます。それにしても殆どの人が、大なり小なり若さの勢いで結婚するのでしょうから、感動や感激もほどほど人並みが良いのかもしれませんね。あんまり燃え尽きちゃうと残りの人生が燃えカスになっちゃうもんね。
2006年02月13日
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ようやく我家に戻ってきましたDVD「いま会いにいきます」を見ました。まずは感想・・・・良かった。最近、どうも回りがうるさくて「世界の中心・・・」とか「1リットルの涙」とか、いわゆる泣けるドラマみたいなヤツをやたらと見させれていたので、またかなぁ、なんて思っていましたが、正直言って悪くはなかったです。細かいことを言えば色々と出てくるのでしょうが、私は基本的にこういった「大人向け少女漫画」みたいなのが結構好きです。自分がわりとドロドロした世界で育ってきたせいか、この手のドラマを見るとなんかほっとしてしまいます。偶然、このDVDを見る前に、NHKでやっていた小田和正氏と星野仙一氏のトーク番組をたまたま見ていたということもあり、懐かしい感触を持ったままで映画にはスムーズに感情移入ができました。基本的には、私はオフコースとか小田さんの音楽ってあまり好きじゃないんですが、どういうのかな、ちょっと優等生すぎる、みたいな感じがダメでしたので、数多くを知っているわけではありません。でも、心に響く「詩」と「メロディー」と「声」のバランスが非常に整っていて、心に残る楽曲が数曲ありました。トーク番組の中で小田さんが、「現実はこんな詩のように奇麗ゴトではなく、もっとドロドロしていることは誰しも解っている。だから、せめて歌の中ではキレイな世界を表現していきたい」と語ったところに非常に共感が沸きました。そうなんですよね。作り物だからこそ、そこには夢や美しいドラマがあるので、何もその作り手が奇麗ゴトで生活しているわけではないんですよね。作り物の中で不良を演じている誰かは、ひょっとして現実では優等生なのかもしれない、とそんなことをふと思ったわけです。そして、「いま会いにいきます」だったものですから、素直に見れたというのが正直な感想です。私がまだ若者現役だったころは胸がキューンとするようなこともあったはずなのですが、どうも歳を重ねていくうちに、その感触さえも実感の伴わない過去の単なる記憶のひとつとしてしか残っていない「抜け殻」に色が付いたような感じでした。そういえば、似たような映画に「ペギー・スーの結婚」なんてのがありましたが、人間はある程度の歳になると過去を振り返って「恋する気持ち」の残像を呼び起こしたくなるのかもしれません。もう現役の直感的な感情は二度と味わえないということを知りつつも、こういったドラマで当時の感触が呼び覚まされることを期待するのかも知れませんね。でも、映画の竹内結子さんの表情、場面ごとに全然変わっていくのには大変驚きました。普通、この手のドリーミーな映画は、イメージを固定して撮るのが当たり前なのに、彼女の顔の表情は各場面で色とりどりといった感じで、もの凄く素晴らしい映像表現だと思いました。監督の腕かなぁ。ちょっとドキっとしました。最後にひとつ、個人的に感動したセリフがあります。「この子をこの世界に導き出すために私は貴方と結ばれる。この子を導き出してあげなければ・・・・」私も子供を持つ親としてこのシーンはちょっと感動しました。親子の関係ってこういう連綿とした絆で結ばれていくのかなぁ、と思いました。気になる人は是非ご覧になって下さい。
2006年02月12日
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え~、今朝の新聞からしょうもないおっさんというか、本当のアホじじいの事件をひとつ。フィリッピンのマニラ国際空港で、千葉県の71歳の男性が「爆弾を二つ持っている」と冗談を言って警察に拘束された。フィリッピンでは空港で「爆弾」に関する冗談を言うことを厳しく禁止しているそうで、この馬鹿じじいはくだらねー冗談を言って、空港警察に拘束されたようです。まあ、しかしこのアホタレじじいに限らず最近は暇と金を持て余した世間知らずのじじいが海外、特に東南アジアに行ってこれでもかっ、つーくらいニッポンの恥をさらけ出していますね。ホント、いーかげんにせえ、と言いたいです。しかし、意外とこういう爺はマジメに人生を生きてきた勤勉親爺だったりするんですよね。家族のため、子供のため、大した遊びもせず、大きなハメもはずさず、社会の典型的な歯車、企業の一兵卒となって働いてきたフツーのおっちゃんが、定年後に狂い咲きする悲惨な姿を私は何人見たかわかりません。私の経験では、まず狂い咲き爺の原因はその大半が奥様との別れですね。長年連れ添った伴侶との別れ。死に別れもあるし生き別れもあります。大方の爺が昔気質の実直な性格で、いわゆる「つまらないオヤジ」なわけです。面白いコトひとつ言うわけでもなく、女房や子供と和気藹々と過ごすわけでもなく、なんとなく無愛想で野暮ッたいオヤジ、そんな人が定年を迎えてやることがなくなると一気に老け込んでしまい、挙句の果て伴侶に先立たれたりした日には、もう狂い咲きサンダーロード(古っ!)状態でとことんいっちゃったりしますね。女は強い!私もすでに中年からじじいの仲間入りを果たしたわけですが、最近シミジミ思うのが、女性は強いってことです。今更のことではありますが、女性は常に人生に明るさを持っていますね。たとえ、ばーさんになっても、それはそれなりに花があります。それに比べて、爺のだらしの無いことといったら、同性として見ていて情けないというよりは可哀想になってしまうほど小さくなってしまうのは何故でしょう。大した取り得もなく朴訥と生きてきたおっちゃんが定年退職を迎え、死に別れにせよ、生き別れにせよ、伴侶を失った後に残ったものは何か?なんもないんですね。だから、誘われるまま近隣のアジアへ出かけてわけのわからぬまま昇天してしまうのです。今朝のニュースの登場した爺なんぞは、たぶんこの典型的なパターンではないでしょうか。冗談のTPOがわからないアホってな感じでしょう。大方、現地の若いフィリイッピーナかなんかに「パパさん」かなんか言われて、シンショ丸ごと吸い上げられていることにも気付かず、つまらねー冗談を言っちゃ、本人だけ受けてるみたいなバラ色の生活を送っていたのでしょう。今やアジアの「カモネギ」ナンバー・ワンはニッポンのじじいですから、特に世間知らずのじじいは金の使い方もようわからないので、やさしくしてくれるおねーちゃんの言いなりみたいなことになっていることでしょう。最近は中国出張美女軍団みたいなのもアジアのあちこちに進出しておりますから、年金暮らしの小金持ったじじいは最高のターゲットです。まあ、本人の金だし、本人の人生ですから他人がどーこーいうものでもありませんが、道楽者オヤジとして体験を踏まえてひとつだけ言いたいことがあります。それは、シンショ注ぎ込んで「リメンバー青春!」とか言ってるうちは良いですけども、寿命には約束というものがありませんから、金の切れ目が縁の切れ目で、その時うまく昇天できればいいですけど、更に生きながらえたりした場合は、いつまで続くかわからない悲惨な老後を送ることになるので注意してもらいたいものです。実際、私もかなり多くのこういった悲惨な老後を送っておられる方々を見てまいりましたが、「なんでこんなことになっちゃったのおっちゃん?」というくらい、なんでこんな見え透いた罠にかかっちゃうかなぁ?ってなもんです。「この娘たちは心がやさしいから」はいはい、人間はみなやさしい心を持っているのです。たまに悪魔が入り込むだけです。「私はお金目当てじゃない、って正直に言ってくれるから」泥棒に入って、私は泥棒ですっていうヤツはいません。「私の死後、彼女の生活を支えるだけのものは残してやりたい」死ぬ前に全部取られちゃったら身も蓋もありませんね。といった具合に、どーしてもうちょっと冷静な目でみれないか不思議ですね。やっぱ、若いうちは多少、ハメ外すくらいの「遊び」は必要ではないかとつくづく思う道楽者爺です。まあ、一番の罠は安く遊べるってとこでしょうかね。東南アジアで遊ぶには日本の相場(物価)の少なくとも半分で、それもかなりな豪遊、生活ができますから、やっぱり惑わされちゃうんでしょうね。仮に、こうゆう爺が銀座辺り行ってチヤホヤされたとしても、その気にはならんでしょうね。本人たちだって十分わかっていますからね。でも、それがなんでフィリッピン、中国やタイへ行くと本気になっちゃうんですかね。言葉が通じない分、自己満足な想像で舞い上がっちゃうのでしょうか?でもバーちゃんがはまってシンショ潰したって話はあまり聞いたことがありません。結構若いアジア人に入れ込んでるバーちゃんも実際にいるんですけどね、やっぱりソロバン勘定がしっかりしてるんでしょうねぇ。ということで、やっぱり女は凄いってことですね。
2006年02月11日
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さあ、昨日に引き続いて今日はちょっと長めの英文にチャレンジしてみましょう。○ Helen Rowland 1876- (米国のコラムニスト)A man snatches the first kiss, pleads for the second, demands the third, takes the fourth, accepts the fifth and endures all the rest.「男は初めてのキスは奪い、2度目は嘆願し、3度目は要求し、4度目は受け取り、5度目は引き受けさせられ、そして後のキスはすべてじっと我慢する。ちょっと意味深ですが、よ~く考えると笑えます。A woman marries the first time for love, the second time for companionship, the third time for support, and the rest of the time just from habit.「女性は初めての結婚は愛のためにし、二度目はつれあいを求め、三度目は生活のために、そして後はずっと習慣のため。。。。」習慣というか、慣わしというか、癖というか・・・・。Telling lies is a fault in a boy, an art in a lover, an accomplishment in a bachelor, and second nature in a married woman.「ウソをつくことは少年にとって欠点であり、恋人にとっては手練手管、独身男にはたしなみ、結婚した女性にとっては第二の天性」え~、ちょっと時代が違うということもあるのでピンと来ないかもしれませんが、女性コラムニストらしい道徳的(笑)な名言集でした。オチがちょっとおとなしい感じですね。
2006年02月10日
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○George Eliot 1819-1880 英国の女流作家I’m not denying that women are foolish.God Almighty made them to match the man.「私は女性が馬鹿であるということを否定するつもりはありません。全能の神は男性とつりあうように女性を作っただけです」日本にも万能的なことわざ「天に唾する」というのがありますが、男性の皆様、努々女性をないがしろにしてはいけません。後に加速が付いて我が身に降り注がれます。(笑)○Henry Fielding 1707-1754 英国の作家Beauty seldom recommends one woman to another.「美人はめったに同性に気に入られない」最近はそうとも言えないように思えますが、一般的にこのセオリーは当てはまるような気が致します。男性の場合は意外と同性に人気のある人が女性にも人気があったりしますね。叶姉妹様などは同性にも人気があるようですが・・・・。○Benjamin Franklin 1706-1790 米国の政治家・科学者・発明家歴史上の偉人の言葉ですので、特別に二つほどご紹介しましょう。He, that is good for making excuse is seldom good for anything else.「弁解の上手い男は、めったに他に得意なものがない」口先三寸、口の上手い男と知りつつもコロっといかれる女性が多いのは何故でしょう。(笑)To find out a girl’s fault, praise her to her girl friend.「女の子の欠点を見つけるには、その子の女友達の前で当人を褒めてみること」う~ん、深いですね。私には試してみる度胸はありませんが、なんとなくその状況が目に浮かんできてちょっと怖いです(笑)世紀の著名人、ベンジャミン・フランクリンとは言え、やはり女性には相当翻弄されたのではないでしょうか。最後は「ツッコミ」の極めつけです。○Havelock Ellis 1859-1939 英国の心理学者・作家What we call moral is simply blind obedience to words of command.「私たちが道徳と呼ぶものは、単に命令に対する盲従に過ぎない」いわゆる洗脳というヤツの典型的な例が「道徳」ですね。本来、道徳と呼ぶならば人類共通のモラルであるべきですが、時と場所によってかなり飛躍するのは何故でしょうか。それにしてもこの「道徳」ってヤツは一体誰が作っているのでしょうかねぇ。ということで、全女性の皆様、ベンキョーになりましたでしょうか?(なるわきゃねーだろ!)バレンタイン・デイも近づいておりますので、そのうち第三弾も行きますよ。お楽しみに。。。。。
2006年02月09日
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今日は私の会社のスタッフがイラクから戻ってきました。彼は州兵として約3年間の米軍のイラク派兵を無事終了し、無傷で帰国してきました。マリアナ連邦からの出兵は約200名ほどでしたが、残念ながら2名の戦死者を出してしまいました。米国ではすでに徴兵制は廃止されていますから、今回のイラク戦争のような場合、前線(戦地)への出兵増員は州兵(有事の際の予備兵)及び志願兵を募ります。米本土はともかくとして、準州や自治領などにいる米国民にとっては将来の安定を図るためのチャンスとして数多くの志願兵が殺到します。服務期間は3年~4年で、軍事恩給や数々の手当てが支給され、年金や老後の厚遇が保証されるからです。貧しい国で家族の生活の安定を図るため、まさに命がけの選択とも言えます。もちろん喜んで戦地に送り出す家族などいるわけがなく、誰だって好き好んで戦地になど行きたがるはずはありません。更に、このような地域では戦争に対する賛成、反対の論争、運動はほとんどありません。たまに有識者らしい人たちが新聞のコラムに意見を載せる程度です。要は戦争の賛否を語れるほどの生活の水準さえ満たされていないということです。では何のために戦地に向かうのか?それは自分達の家族が少しでも裕福な暮らしを保つためというのが最大の理由です。ブッシュ大統領や米国、あるいはイラク人のために戦争をやっているという意識は、たぶん彼等にはないでしょう。どっちにしろ殺し合いに他ならないのですから。仮に、そういった人たちに戦争について尋ねれば、大方の人が「反対」を唱えるでしょう。それは国際情勢や国と国の利害などとは無縁のところで、「人が人を殺すことは悪いこと」という単純明快な考えに基づくものです。まあ、「戦争」については奥行きがありすぎて、こんな話をしだしたら本当にきりがありませんのでやめておきますが、誰に聞いたって戦争が好きで兵隊さんになりたいなんていう人はほとんどいないのではないでしょうか。ある意味においては、強い使命感のような好戦的考えを持つ方はいると思いますが、それでも人殺しを好む人なんていうのはごく少数だと思います。もちろん私も基本的に戦争は反対ですし、自分だって兵隊になんか成りたくないし、自分の家族だって巻き込まれたくないと願っています。もちろんどこの国であろうと戦争なんてやって欲しくはありません。でも、少なくとも今日戦地から戻った米軍の一兵士の家族は、彼が戦争に行って働いたことによって、彼等の住んでいるこの貧しい国である程度の安定した生活が保証されたわけです。その反対に、戦地で生活が脅かされ家族を失っている人々も同時に存在するわけです。そして私はインターネットという贅沢な文明の利器を使って、偉そうなノーガキを書いています。このインターネットに限らず、最先端の技術のほとんどが軍需産業からの恩恵を受けていることはご存知ですか?つまり戦争のための軍事技術として開発されたものが、時代や需要に応じて民間に再生されているのです。極論かもしれませんが、仮に戦争(軍隊)がなければ、このインターネット・システムですら開発は十年以上遅れたと思います。莫大な開発費と高度な頭脳を結集させることができるのは、軍事予算をふんだんに使うことができる国があるからです。そしてその国で生活している人々はその恩恵を受け、よりよい生活を営んでいます。つまりそういった俗に言う先進国に生まれ、育ち、生活している私には、そうは簡単に戦争反対の旗を振ることができません。賛成、反対は子供でもできます。賛成でも反対でも、問題は、ではどうすれば平和を実現できるか、という具体的なビジョンを提示しなければ、単なるYES、NOゲームでしかありません。似たような事例に、原発反対運動というのがあります。これも非常に難しい問題なのですが、エネルギーに関しても非常に入り組んだ仕組みが絡んできます。今の人類に電気は空気や水と同様に大変貴重で必要なものです。そして、この電力を養っているのが石油を使った発電と、核を利用した原子力発電です。効率的に言えば原子力発電の方が有利なのは明らかです。では何故エネルギー事情は中々進展しないのでしょうか。難しい話は別として単純に言ってしまえば、石油が必要なくなると世界経済が回らなくなってしまうからです。石油を保有しない国はエネルギー対策として代替エネルギーを模索しています。そのひとつが原子力ですね。以前、このブログで書いた、「本当によく効く風邪薬があったら宣伝しなくても飛ぶように売れる」という私の意見は、そういう意味から言うと飛ぶようには売れません。というのも、そんなクスリが世に出ては既存の製薬会社が潰れてしまう恐れがあるからです。こういう風に考えていくと、色々な疑問が生まれてきます。例えば、電気自動車なんていうのもそろそろ出始めましたが、現在のガソリン車に比べて非常に低燃費、低公害で、私も個人的に素晴らしいと思うのですが、中々市場に出てきません。何故でしょうか?(そんなに問題が多いとは思えないのですが)更に、そんな情報を流したり、宣伝をしたら広告代理店はすぐに立ち行かなくなってしまうでしょう。(このあたりが私がメディアに対してすぐに過激になってしまう理由ですね)え~、話がどんどん飛躍する道楽者の悪いクセで、すぐ脱線してすみません。今日は私の会社のスタッフが無事に戦地から戻ったお祝いがあります。私の平和運動は、私の目の前にある家族と地域住民との生活を向上させることから始まっています。(まずはビンボーをどうやって直すか?ってことですね。笑)それと、常に問題提起をしていくこと。少なくともこのブログを読んだ人は何かしら考えてくれるでしょう。とにかく現状に疑問を持たずに進むことほど危険なことはありませんから、皆様、是非とも道楽者の目を養って、絶えず繰り出される一方的な情報や、感情に流されないようにしましょう。この記事を評価する
2006年02月08日
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バレンタイン・デイも近づく今日この頃、道楽者のファンキーじいちゃんより名言集をご紹介しちゃいましょう。ちなみに女性から男性に愛を告げるチョコレートという「風習」はニッポン独自のもので、「クリスマス」に次いで資本主義戦略に見事に洗脳された典型的なパターンです。というわけで、まずはその一。「恋とは、一人の女が他の女と違っているという幻想」Love is the delusion that one woman differs from another.別に女性だけに当てはまることではありませんが、「恋に落ちた」瞬間から特別な存在となる人が誕生するわけですね。その昔、オフコースというグループが歌っていました。小田和正さんの詩ですね。「はじまりはいつも愛、それがきまぐれでも、ただ青くきらめいて、嘘のかけらもなく」そうですね、単なる気まぐれでも始まりはいつも愛なんです。ということでその二。「恋は戦争に似ている。始めるのはたやすいが、終わりにするのはやっかいだ」Love is like war.Easy to begin but very hard to stop.愛は戦いだと誰かが言ってましたが、そういう意味では戦争と同じかもしれません。平和な終結はまずありませんね。戦い済んで日が暮れて、楽しい日々の後は鬼のような修羅場を迎えます。「なんであたしゃこんな人に命を賭けても良いと思ったのかしらん」なんて振り返った時にこそ新たな「愛」がお互いの心に訪れるのです。(なんちゃって)つづいてその三。「恋とは、知性より想像力が勝つこと」Love is the triumph of imagination over intelligence.これもよ~くわかりますね。恋しているときは「痘痕もえくぼ」というくらい、なんでも都合の良い解釈をします。まあ言ってみれば、この良い方に解釈するってことが「愛」なのかも知れませんね。会っていないときの想像は良いことばかりですが、これが終焉に向かい始める頃には悪意の権化となってしまうのは何故でしょう(笑)ということで今日のトドメ、その四。「教会とは、天国に行ったことのない紳士達が、そこへは絶対に行かないような人々に天国のことを自慢げに話す場所」A church is a place in which gentleman who have never been to heaven brag about it to person who will never go there.「とにかく祈るのです」(T.T)以上は米国の批評家で編集者の Henry Louis Mencken 1880-1956 の語録から抜粋しました。
2006年02月07日
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卑怯者というのは一体どういう人を指すのでしょうか?というわけで、今日は唐突とした始まりになりましたが、先日の日記で私が怒りをぶつけたマスコミのへたれ記者、アホライターのみならず、最近はこのような「卑怯者」が世の中のあちらこちらに蔓延しておりまして、道楽者の爺としては情けないやらムカつくやらで、書かずにはいられない心境でございます。匿名というのは、確かに時と場所によっては必要な場合もありますが、名を伏せてモノを言うという行為自体が何か背徳性のあるようなことと思えてなりません。また、この「匿名」というのが妙に信憑性を持つような語感があることも問題だと思います。名乗れないからには理由があるのだろうという、聞き手(読み手)の勝手な思い込みで、語られる(書かれる)内容がさも真実のように理解されがちなのには困ったものです。まあ、なんでもかんでも直球のストレートで勝負しろとは言いませんが、せめて公共性のテーマを語ったり、私的な内容を伝えるときは本人の社会的な立場(地位とか名誉じゃありませんよ)を明らかにした上で発言するというのがルールだと思うのですけどね。私は、新聞や雑誌のコラムで妙なペンネームみたいなものを使う輩が大嫌いでして、したり顔でエラソーなノーガキ垂れているこういった筆者が一番の卑怯者ではないかと思うわけです。一度、業界の方に尋ねたことがあるのですが、担当者が持ち回りで記事を書くこともあるので、ペンネームというよりはコラム担当の総称だというようなこともおっしゃられておりましたが、それならば尚更「名を名乗れ!」と言いたいのです。身辺雑記のような、枠埋め記事くらいならさほど気にならないのですが、政治経済、行政等の話になると、この匿名はどうも生意気に思えて仕方がありません。仮にも一般大衆の皆様が直接関わる話ではないことを良いことに、大した知識もなく偉そうに大上段に構える物言いは、時に苛立ちさえ覚えます。先日も書きましたが、マスコミ・メディアに籍を置きながら、自らがメディア批判するようなタイプの筆者に対しては、公の下に引きずり出したくなる衝動にかられてしまいます。少なくとも記事を書くことを生業として金を貰っている以上は、自分の所属する団体を批判するのは掟破りです。それじゃ、自分の会社の悪口言って憂さを晴らしている単なるグチ親爺と一緒ですね。それほど自分の批判に自信があって正しいと思うなら辞めれば良いだけのことです。自分だけは安穏な立場にいて、なおかつ名前も伏せて、社会批判、体制批判をするなどという行為は「ひきょうもの」以外の何ものでもありません。そんなにイヤなら読まなきゃ良いでだろ、ってごもっともでございます。もちろんこーいったくだらない記事を偉そうに書くヘタレは無視しているのですが、全国紙とかのコラムに載っていたりすると無性に腹が立ってしまうのです。もひとつオマケに、もっとズルイ卑怯者は「掲示板」などにくだらない抽象記事や名指しで人を侮蔑する輩ですね。それこそ「見なきゃ良いだろ」と言われそうですが、一度目に入ったものは抹消できない性格なもんで、言わずにはいれないこともあります。多かれ少なかれ、そんなとこでグダグダいうヤツは似たもの同士なのでしょうから、名乗りを挙げるどころか、まともに人と話のできるような奴らではないのでしょう。私怨を公共の場であげつらうのはどうかと思う次第でございます。「文句があるならゴチャゴチャ言ってネェで表に出て来てはっきり言え」ただそれだけでございます。私もすでに五十の歳を過ぎた親爺ではございますが、自分の言ったこと書いたことには責任を持ちますので、この記事を読んで一言おありの方は直接メールでも掲示板でも結構ですから私宛にいくらでも思いの丈をぶちまけて下さい。補足ですが、昔は不良だったとか、優等生だったとか、そんなこたぁどーでも良いので、今現在をどう生きているかということが唯一のリアリティだと思いますので、どうか皆様も卑怯者にはならないまっすぐな生き方をして下さい。って言ってる私も、三流の落ちこぼれ親爺の愚か者で大そうな人間ではありませんが、これから益々混迷するニッポン社会を生き抜く為にも、毎日生産されるクズ情報に惑わされず、常に冷静な目を養っていくことを提言いたします。
2006年02月06日
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いや~、今日も時間がなくてゆっくりとPCの前でキーボードを打てませんでした。ということで、今日は先日の役に立たない英語一口フレーズに続いて、大変くだらない小話をひとつ。英語を習いたての日本人が最初にぶち当たる「TO」と「FOR」の使い方に悩むお話です。(結構有名な小話ジョークですので、もしご存知でしたらご勘弁下さい)日本語で言うところの「~に」という場合、英語では「TO」と「FOR」の二通りの表現方法があるのはご存知だと思います。一般的に「FOR」は「~のために」という強い意思が入った場合の用法として教えられていますよね。「あなたのために」=「FOR YOU」といった具合に、目的がはっきりとした意思の上に使われるので、「TO YOU」に比べてあなたに(へ)と強く表現するようなものとして頭に入っていると思います。さて、とある英語習いたての日本人がニューヨークへ向かうため、空港でリムジンバスの切符を買おうとしました。「TO NEW YORK」と言うと切符が二枚出てきました。おっと、これは発音が悪かったか、たぶん「TWO」と「TO」を聞き間違えたのだろうと、駅員に言い直しました。「FOR NEW YORK」と言い直すと切符が四枚出てきました。ありゃりゃ、こりゃ弱った、今度は「FOR」と「FOUR」を間違われてしまったかと、頭の中はありったけのボキャブラリーが駆け巡ります。「え~と・・・」切符が八枚出てきました。おそまつさまでした(合掌)またまた、つまんねぇ~の声が上がりそうですね。ちなみにこの後、もうひとつオチができたそうで、もしご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。もちろん頭をひねって自作されても結構です。道楽者の道楽として、もうひとつ決め手のオチを考えてみて下さい。
2006年02月05日
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「中々ええコンジョしとるやんけ」私の率直な意見でございます。え~、ホリエモン氏逮捕から早二週間が過ぎようとしておりますが、自分のスタイルを貫き通す堀江氏に道楽者を代表してエールを送りたいと思います。番頭だか代貸しだかしりませんがあっさり官の手に落ちた宮内某氏に比べて、さすが親分だけあって良い根性を見せてくれていますね。私はもうちょっと線が細い人かなと思っていたのですが、中々にあっぱれな態度です。私の尊敬する宮崎学親分も言っておりましたが、今回の騒動を見ていて思ったのは、その昔東大出身の秀才が金融ベンチャーに乗り出し一斉を風靡しながらも、最後は自殺という悲惨な末路を辿った昭和の有名な事件を思い出さずにはいられませんでした。この話は1949年の出来事ですから、もちろん私が生まれる前の話ですので実際にその顛末を見たわけではありません。これは高木彬光氏の「白昼の死角」という小説を読んで知った話です。その小説のモデルとなったのが、東大出身の山崎氏という男が「光クラブ」という金融業を起こして短期間で財をなしたが逮捕、釈放のあと自殺をはかったというところからこの小説は始まり、鶴岡七郎という彼の友人が社会への復讐をこめて数々の詐欺を働いて行くというピカレスクロマンです。天才詐欺師のサクセスストーリーは角川映画にもなりました。ということで、私もホリエモン氏逮捕の時に気がかりだったのが「自殺」でした。しかし、さすがに現代の相場師とでも言いますか、彼の根性は意外と太かったようでその後垣間見る彼の言動もしっかりしたもので、ちょっと見直しました。大体、これだけガチガチに固められたニッポンという国で財も閥もない若造が己の知恵だけを頼りに一攫千金を狙うには、ギリギリのところで勝負する以外にはないわけで、出た釘を打たれてへこむくらいなら最初から自分のサイズに甘んじて生きるべきです。もちろんこんな屁理屈、愚にも付かないノーガキを垂れている私に、人の生き方をどうのこうの云うほどの資格も権利もありませんが、「官にたてつく」「権力に屈しない」というポリシーだけは未だに持ち続けておりますので、そういった意味においてはホリエモン氏とも多少は繋がっているのではないかと思います。しかし、この事件を取り扱っているメディアのアホタレたちは、私以上に偉そうな能書きを大上段に構えて世間に撒き散らしておりますが、このアホタレたちこそホリエモン氏の根性を見習えと言いたいくらいです。毎度お馴染みの下世話なゴシップ話でワーワー言ってるアホタレくらいは未だ許せますが、ジャーナリストを気取ったヘタレどもにはムカつく以上に力が抜けてきます。特に批評とかコラム記事を書いているヘタレどもには、いっぺんお前等地獄を見せたろかい、と叫びたい衝動にかられたりします。彼等のほとんどの言い草が、自分たちの所属するジャーナリズムを揶揄して、報道の公共性に欠けているとか、ジャーナリストの視点がないとか指摘して、あたかも自分こそが公共性の目を持つジャーナリストであるかのごとく立ち回るという非常に稚拙な表現でもあります。マスコミ・メディアが一時はホリエモン氏を持ち上げ、今はその私生活の暴露記事に終始している、といった類の論評は今時の小学生だってできます。第一、おまえらはそーゆーしょうもないメディア業界でメシを食わせてもらっているということを、まず恥ずかしいと思わないのか、と言いたいですね。どうも最近の風潮でしょうか、自爆ネタといいますか、自身の所属する組織を否定して見せることで、どうしようも無い組織に所属はしているが、さも自分は公正で客観的な目を持っていると云いたげな無責任で単なる自己顕示欲を満足させるための意見が横行しているようです。これじゃ、フーゾク行って遊んだ挙句、相手のおねーちゃんに「こんなことしてちゃダメだよ」って説教するアホ野郎と同じですね。あるいは、私は戦争反対なんですけど、私の国は戦争を始めちゃったもんで、仕方なく私も関わってしまってます、とか言ってるのと同じです。どんな団体であろうと組織であろうと、その中でメシ喰って生活している以上は、他人事では済まされないのです。自分だけをうまい立場においたまま、あちこち評論するというやり口は一番せこくてこずるい立ち回り方です。メディアの「ホリエモン叩き」をあげつらってどうのこうの言うのは、それはメディアの人間じゃなくて外野席である我々一般市民の仕事です。少なくともメディアの中に籍を置くものであるのならば、ジャーナリストとしてメディアを批判するのではなく、この事件の側面をきちんと書くことがジャーナリズムの仕事です。それを書くと、こっちから叩かれますとか、あそこが邪魔してきて書けませんとか、そういったことを報道することがジャーナリズムではないのでしょうか。おまえらがメシ食わせてもらってるメディアを批判する前に、「私もその中のひとりです。こんな情け無い業界ですんません。非力ですが私一人でも頑張ってしっかりした記事を書きますから、応援して下さい」くらいのことをいうヤツがいても良いのではないかと思いますけどね。マスコミのええかっこしいのヘタレども。こんなオヤジにこれだけ云われて悔しかったら、皆がベンキョウになるようなタメになるしっかりした記事を書いたらんかい!いつまでもくだらない記事書いてたら、そのうち名指しでこのブログに載せたるぞぉ~、毎日新聞!朝日のオドレも名指しで書くぞぉ~!ということで、意外に頑張りを見せるホリエモン氏に道楽者親爺はちょっと男気を感じてしまいました。元々「官」の嫌いな私ですから、ホリエモン氏にはもっともっと官をおちょくってもらって、無責任なギャラリーである道楽者を楽しませてもらいたいものです。楽しむためなら道楽者親爺は、このブログ使っていくらでも援護射撃しまっせぇ~!この記事を評価する
2006年02月04日
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いや~っ!いよいよ南国の楽園サイパンのピークシーズンがやってまいりました。日本の避寒地として近距離のグアム・サイパンはこれから最大の山場を迎えます。残念ながら、昨年のJAL全面運休のあおりで観光客数がどか~んと減ってしまいましたが、それでも日増しに来島者が増えてきております。ということで、ゆっくりとPCに向かってタイプする時間もなく、今日は取り急ぎのテーマ「あまり役に立たない英語一口フレーズ」です。あまりというか、ほとんど役に立たないと思いますが、雑学とか酒の肴とかみやげ話?にどうぞ。皆さんの体の部分で、胸と腰の間の両脇を何と呼んでいますか。わき腹?う~ん、わき腹よりもうちょっと背中側のあたりはどうでしょう?特に名称はありませんよね。では英語でこの部分を何と呼ぶでしょう?あまりマジメに考えないで下さいね。道楽者の質問ですから、それなりに考えましょう・・・・・。正解は「Love Handle」です。ピーンと来た人はかなりエッチな人でしょう(笑)スラングとも言えませんが、ラフな関係で使われる言葉です。え~、その何ですか、Make Loveの時にハンドルを握る部分ということで、こういった表現が使われます。特にフィットネスクラブとか、スパなんかでの会話によく登場します。「サウナでだいぶラブ・ハンドルが細くなったわ」爆笑!てな感じですか。つまんねぇ~っ!って声も聞こえそうですが、今日は英語版オヤジネタでした。----- Original Message ----- From: >To: ??????@gtepacifica.net>Sent: Friday, February 03, 2006 11:55 AMSubject: 3日の日記
2006年02月03日
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私の心の中には未だに渋谷のど真ん中で燦然とそそり立つ東横デパートのイメージが強く残っています。東京オリンピック以降、日本経済が急成長を遂げ、渋谷の街もすっかり近代的な街並みとなって行きました。東横は東急デパートに変わり、東横線は東急東横線となり、駅のはずれには西武百貨店が建ちパルコが出来、緑屋がセゾングループに取り込まれ、昔の渋谷はきれいに模様替えをしました。そういえば道元坂には玉電と呼ばれたチンチン電車が、三軒茶屋~二子玉川~下高井戸間を走っていました。これも東急世田谷線と改名され、三軒茶屋~二子玉川の路線は地下鉄に変わり、国道246も高架線首都高と交わり、私の子供時代の面影は見る影もなくなってしまいました。それでも私の脳裏には、渋谷=東横の図式はしっかりと残っています。あの頃の東横デパートは子供の憬れの地でもありました。玩具売り場は常に人でごった返し、かつて目にしたことのないような電池で動くブリキのロボットやら自動車、ホルスターに収まった銀色の二挺拳銃に、ビンボー人の小僧たちは目くるめくパラダイスに夢を見ました。最上階のお好み食堂には、鼻タレ小僧達のあこがれ「お子様ランチ」の日の丸の旗がショーウィンドウの中から手招きをしておりました。入り口で食券を買ってテーブルに置くと、ウェイトレスのお姉様がやってきて、手馴れた手つきで見事に片手で券を二つにぶち切り、颯爽とオーダーを運ぶ姿に憬れさえ抱いたものでした。トドメは屋上のミニ遊園地です。グルグル廻る飛行機やモーターボートに乗って興奮した頃が私にもあったのです。10円で遊べるドライブゲームやら、今で云うUFOキャッチャーのようなゲームもありました。帰りは地下の東横のれん街で晩ご飯のお惣菜を買って帰りますが、試食コーナーではちょいと気の利いたオバちゃんが「坊や、ちょっと食べてみる?」とか云われてその気になってパクつくと、母親に無理矢理手を引っ張られて退場するという理不尽な思い出もありました。ということで今回の東横インのしょうもない顛末は、私の心の東横が崩れ落ちるような情けない事件です。その昔、渋谷界隈で「トーヨコ」と言えば、駅前にど~んと控える大ビルヂングを思い描いたものですが、最近ではこのビジネスホテルとのれん街くらいにしか名残がありません。そんな由緒ある東横の名を汚した不届き者に、創業者(誰だか知らんけど)は草葉の陰で泣いていることでしょう。ちなみに私の奥さんは東横学園女子短期大学出身です。(やはり東横には縁があるのです・笑)卒業生は東横のれん街で引き取ってくれるという噂がまことしやかに語られていたそうです。しかしこのところ建設業関連のスキャンダルが立て続いてメディアを賑わしておりますが、これはどうもなんか怪しい雰囲気ですね。実は先日、例の防衛庁建設局に関わる談合事件の当事者の方とお会いしまして、色々とバカ話をさせて頂いたのですが、日経新聞がドカドカやってきて取材を受けたとのことでした。でもって、奥様は大変驚かれたそうですが、まさかこんな大きな事件になっているとは知らなかったようです。ご夫妻がお帰りになられた日のニュースで報道が始まったので、今頃東京ではすったもんだしていることでしょう。笑い話に、その方のパートナーの弁護士の先生がいらっしゃって、「オレのところには来ないぞ」と憤慨されて、自分で日経の記者を呼んで取材を行ったとのことでした。結構、まともな方でもやはりメディアには弱いのでしょうか。名前が出ることは宣伝活動の一環として捉えておられるようです。更に、今朝のニュースでは大手ゼネコンにまで発展しているようで、こちらの槍玉に挙げられたK建設の方も非常に懇意にして頂いており、これはまた明日からのニュースが楽しみです。え~、世の中には必ずウラがありますから、是非とも道楽者の皆様は無責任なギャラリーとして、この社会現象の裏側にうごめく怪しい陰謀を推理して楽しんで下さい。これが結構やり始めるとはまってしまいます。とにかく新聞は少なくとも3紙は読みましょう。それぞれの力関係で解説や表現が違いますから、これを比較して見るだけでも結構楽しめますよ。CNNなんかもご覧になると、海外では日本の事件をどのように見ているか、なども更に道楽者の道楽に彩を添えてくれます。
2006年02月02日
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アメリカンユーモアに「人生はたまねぎみたいなもの」というのがあります。「皮を一枚一枚むいていくと中には何もない」と云った当たり前のようなジョークなんですが、この皮を剥く作業というのが「生きる」ということになるのでしょうか。James Gibbons Huneker 1860-1921Life is like an onion.You peel off layer after layer and then you find there is nothing in it.大きな外皮から剥き始めて、段々と核心に触れるように皮も小さくなってきて、最後の一枚を向いたところで結局は何も出てこなかった、そんな感じでしょうか。でもこの最後の一枚を向き終わったところに「死」というものがある以上、この体験は本人しか出来ず、更に一度しか経験できません。だから、極めて漠然ながら結末はたぶん何もないのだろうと思いながらもせっせと皮を剥いてしまう、そんな私はやっぱり悲しいジョークの体現者です。もうひとつ好きなユーモアに「金持ちだけが貧乏人に満足を説いて聞かす」というのがあります。これはイギリスのジャーナリストHolbrook Jackson 1874-1948の名言ですが、非常に的を得ていると思います。Only the rich preach content to the poor.どんな人生を歩んでも決して満足しないのが人間だと思うし、資本主義社会で言うところの合法的搾取を裏付ける屁理屈がまさにこれだと思います。似たような言葉に「職業に貴賎はない」なんてのもありますが、日本は島国のせいか比較的職業で極端な色分けはされていないのでごまかされがちです。私が日本に住んでいた二十数年前、非常に疑問に思ったことがありました。某テレビ局が主催したチャリティー番組で、24時間かけて日本全国の方々から募金を募るというような視聴者参加番組でした。まあ、やらんよりはやった方が良いだろうくらいなものですが、じゃあ番組スポンサーはどうなの?とか出演者はどうなの?とか色々な疑問が沸き起こってきます。テレビにはきちんとCMなりスポンサーの名前や商品が流れているわけだし、番組制作会社が経費「ゼロ」で仕事してるとは思えないし、ましてやタレントの所属事務所だって、その日はギャラなしで働いたとしても、美談のヒーローでイメージアップすれば、仕事も増えるからすぐに元は取り返せます。それに引き換え、視聴者参加とか乗せられてなけなしのおこづかいを供出させられた子供たちとか、じーちゃん、ばーちゃんの善意とか云われてへそくりを取り上げられた年寄りなんかは、また明日からせっせと小銭を貯めなければなりません。その一瞬の奉仕活動の満足感で貧乏人の小銭を巻き上げる効率的なシステムとも云えます。まあ、出した方も「気持ち良い」ってことで満足かもしれませんが、それじゃフーゾク行って一瞬の気持ちよさに小銭を出すのとなんら変わりありませんね。そんなに慈善事業に参加したいなら、まずはテレビ局とスポンサーで大金をど~んと出して、きちんとした経理士つけて、もちろん公認会計士ですよ、監査付の、でもって支援する事業とか投資の管理をしっかり番組で放送するとか、寄付金の管理状態を誰もが閲覧できる公開議事録みたいなものを作ってもらいたいものです。「皆様からの寄付金でアフリカに井戸を作りました」とか云って、アフリカの貧しい人々が井戸の水を浴びて喜んでる映像なんか見せられて納得していてはいけません。本当の支援とか慈善なんてものはもっと厳しいものでなければいけないのです。100万円の寄付金で井戸堀に使った金がきっちり100万円なんてことはありえないし、そこで働く人々の賃金や、工事を請け負った業者さんへの支払い明細などもきちんと公開する義務があるし、寄付した方々にはこれを知る権利があります。慈善とか福祉なんてものは、そう簡単に自己満足で完結するような行為ではありません。たかが100円、千円と云って供出する人が何万人もいれば、それは税金のかからない立派な資金となります。金が集まるところには必ず欲も集まります。金を捨てるなら別ですが、少なくとも慈善の目的で供出したのなら、その金の使い道にまで関わる必要があります。慈善団体で働いている人たちを見て、「あいつは怠けてて寄付金を無駄使いしている」とか「不必要なものを買いすぎている」とか、後先考えずに気持ちよく金を出したくせに、結局はそういったトコでぶつくさ云うのが人間です。でも、これってなんか似てませんか。そうです税金払ってる私たちと、その税金を使って国を運営している人たちの関係そのものではありませんか。ということで、最後は僭越ではございますが私の言葉で締めさせていただきます。「人生はジョーク、ジョークは人生そのものだ」この記事に点数をつける
2006年02月01日
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