監督・脚本・編集セルゲイ・エイゼンシュテイン
撮影エドゥアルド・ティッセ
〈キャスト〉
アレクサンドル・アントノフ ウラジミール・バルスキー
ロマノフ朝による君主政治が陰りを見せ始めた1905年、第一次ロシア革命が起こります。
国内ではストライキが頻発し、草原に燃え広がる野火のように革命の炎は全土に広がろうとしていました。
満州(現・中国東北部)の支配権をめぐり、ロシアは日本との戦争に突入しており、国内では不穏な社会情勢、対外的には日露戦争という混沌とした状況の中、日清戦争で勝利を得た日本は軍事力を強化。まとまりを欠いたロシアは日本との戦況において敗色が決定的なものになっていました。
1905年、日本海海戦で日本はロシアのバルチック艦隊を完全粉砕。ロシアの敗北が決定的になる中、遠く離れた黒海では一隻の戦艦が竣工されようとしていました。正式名称「ポチョムキン=タブリーチェスキー公」、略称「ポチョムキン号」です。
映画「戦艦ポチョムキン」は不穏なロシアの国内情勢を背景に、民衆による革命のうねりを鋭くとらえたサイレント映画の傑作です。
映画は史実としての「ポチョムキン号の反乱」から幕を開けます。
ウジの湧いた肉を食べさせられることへの反感から、水兵たちの間にストライキが起こります。上官たちは、命令に背いたとして数名の水兵たちを銃殺にしようとしますが、やがて指導的な立場になるワクリンチュク(アレクサンドル・アントノフ)によって上官たちへの反乱の火ぶたが切って落とされます。
水兵たちに乗っ取られた「ポチョムキン号」は港湾都市オデッサに寄港し、反乱の銃撃戦で死んだワクリンチュクの遺体を港に安置します。
ワクリンチュクの遺体は民衆に革命の気運を燃え立たせ、それが後にオデッサの階段の虐殺へとつながってゆくことになります。
世界映画史上最も有名な6分間「オデッサの階段」
ポチョムキン号は革命の象徴としてオデッサの民衆の大歓迎を受けます。
港に安置されたワクリンチュクの遺体の周りには人々が押し寄せ、どこからともなく続々と民衆が集まってきます。
このオデッサの港の場面は素晴らしく、自然主義の絵画を見るような美術感覚であると同時にオデッサの町そのものが美しいということもあるのでしょう。
現在はウクライナの一部ですが、ロシア帝国の時代には経済や文化の交流都市であり、多くの民族が共存する他民族都市でもあったことから、活気と混沌の入り混じる独特の魅力を持った町として、プーシキンやゴーゴリ、ゴーリキーといったロシアの文豪たちの創作の舞台となったようです。
そんなオデッサの港にポチョムキン号は寄港し、革命を叫ぶ民衆が続々と押し寄せたことで、革命を恐れる政府はコサックからなる軍隊をオデッサに派遣して民衆の鎮圧にあたることになります。
映画史上最も有名な「オデッサの虐殺」の場面は、狂乱と流血、階段の上から無表情に発砲し、市民を殺戮する軍隊、逃げ惑う群衆、倒れて踏みつけにされる子ども、息の絶えた子どもを抱え、抗議に向かう母親。
サイレントなので群衆の悲鳴は聞こえてはきませんが、ドキュメンタリー映画を観るような恐怖と混乱の映像は、阿鼻叫喚の殺戮の現場を目撃するかのような生々しい迫力に満ちています。
中でも赤ん坊を乗せた乳母車が階段を転がっていく場面は、後にブライアン・デ・パルマ監督、ケヴィン・コスナー主演の「アンタッチャブル」で、ユニオン駅の銃撃戦の中でそのまま引用されており、「オデッサの階段」の中でひときわ抜きんでた場面となっています。
技術的な面が盛んに評価されている「オデッサの階段」ですが、革命のうねりの中で避けることのできない流血と狂乱を見事にえぐり出した映像だと思います。
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