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2021年07月09日
映画「間違えられた男」ー 平凡な市民が巻き込まれる冤罪という深い闇
「間違えられた男」
(The Wrong Man )
1956年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作・脚本マクスウェル・アンダーソン
音楽バーナード・ハーマン
撮影ロバート・バークス
〈キャスト〉
ヘンリー・フォンダ ヴェラ・マイルズ
アンソニー・クエイル
実際に起きた冤罪事件をもとに、事件に巻き込まれた男と、その家族の苦悩を描いたアルフレッド・ヒッチコックの傑作スリラー。
クリストファー・バレストレロ、愛称マニー(ヘンリー・フォンダ)は38歳。ベーシストとしてナイトクラブでの演奏が終わり、明け方に自宅へ戻ったマニーは玄関脇に置かれた牛乳を手に寝室へ向かいます。
眠っているはずの妻のローズは目覚めていて、歯が痛くて眠れないと言います。
歯の治療をさせてあげたいが、金銭的な余裕の無いマニーは、妻の掛けている保険で金が借りられるんじゃないかと思いつきます。
翌日、保険会社の支店に出向いたマニーは窓口で女性事務員に声をかけます。
保険証券を見せて、金を借りられないか、と尋ねるマニーの顔を見た事務員の表情がこわばり、少しお待ちを、と言って上司のデスクへ向かい、先日、拳銃を突き付けて強盗に入った男によく似ていることを告げます。
保険会社を後に、金の工面ができそうだと喜んで自宅へ戻ろうとしたマニーは、張り込んでいた刑事に玄関先で身柄を拘束され、警察署へ連行されてしまいます。
何がなんだか訳の分からないマニーは、妻が心配するから電話を、と言っても刑事は、心配は要らない、の一点張りで取り合わず、取調室での尋問が始まります。
自分が無実であることはマニー自身がよく知っていますから、落ち着いた態度で刑事の質問に答えようとしますが、目撃者の証言や、筆跡鑑定の結果などからマニーは不利な状況に追い込まれ、裁判所の手続きを経て、留置所へ入れられてしまいます。
一方、事件を知った妻のローズは、夫が無実であることを疑わず、弟と相談の上、7500ドルの保釈金を出してマニーを保釈します。
自由の身になったマニーは無実の罪を晴らそうと、弁護士のフランク・オコナー(アンソニー・クエイル)に相談。
マニーはアリバイを立証しようと、強盗が行われた日に旅行先で宿泊客たちとカードをしていた事実があることから、当時の宿泊客を探し出しますが、二人がすでに死亡。
アリバイの立証が絶望的になったことを引き金に、ローズの精神状態に異変が現れ始めます。
サスペンスやミステリー、スリラーなどを扱っても、ユーモアや娯楽性を盛り込むことを忘れないアルフレッド・ヒッチコックがここでは一転。身に覚えのない犯罪者として扱われた男の苦悩と、その妻が陥る暗黒に満ちた日常をリアルに描き出しています。
強盗犯人に似ているというだけで、ごく平凡な市民が犯罪者に仕立て上げられてしまう怖さ。
中でも一番の決め手となるのが筆跡鑑定で、犯人の残したメモを手掛かりに、犯人の書いた同じ文句を刑事が読み上げ、それをマニーが書くのですが、一度目はどうもハッキリしない。ところが二度目になると、マニーがスペルを間違えた。その間違え方が犯人の書いたものと同じであったという、あり得ないことが起こってしまう。
強盗に入られた店主たちも口をそろえて彼が犯人らしいと言う。
筆跡鑑定でも、犯人しか間違えようのないことをマニーがやってしまう。
あとは本人の自白になるのですが、もちろん自分は無実なのだから、自白できるはずがない。
この映画がかなり深刻性を帯びてくるのが、後半からの、妻のローズの精神状態。
マニーのアリバイを立証してもらえるはずの証人の二人はすでに死亡していると判り、そこからローズの様子がおかしくなっていきます。
この映画の怖さは、犯人に間違えられたマニーひとりの悲劇ではなく、当然ながら、その家族にも影響が及ぶということです。しかも、真犯人が捕まり、冤罪と認められたマニーは救われるとしても、ローズの精神障害はその後も長く残ってしまいます。
かつて江戸川乱歩も「D坂の殺人事件」だったかで、人間の記憶や視覚の頼りなさを書いていましたが、ここでは保険会社の事務員を含め、目撃者がマニーを犯人だと断定してしまっていることで、絶対的な思い込みがひとりの人間の運命を左右してしまう怖さ。
そしてそれは家族をも巻き込む悲劇につながってしまう。
このまま進めば、救いようのない映画になってしまうところでしたが、真犯人が強盗事件を起こしたことで、マニーの冤罪に結びつくことになります。
主人公マニーに「怒りの葡萄」(1940年)、「荒野の決闘」(1946年)、「ミスタア・ロバーツ」(1955年)など、巨匠ジョン・フォード作品でお馴染みの名優ヘンリー・フォンダ。
翌年の1957年に名作「十二人の怒れる男」での、他の陪審員全員が有罪とする中、物静かながら、粘り強く無罪判決へと導いてゆく陪審員を好演してアメリカの良心を表現しましたが、他方、その二年後の「ワーロック」(1959年)では貫禄十分の二丁拳銃の早撃ちガンマンに扮し、最後の決闘では保安官のリチャード・ウィドマークを圧倒しながら、拳銃を二丁とも捨てて静かに去ってゆくラストのカッコ良かったこと。
妻ローズに「捜索者」(1956年)のヴェラ・マイルズ。
後の「サイコ」(1960年)で再びヒッチコック作品に出演。
弁護士フランク・オコナーに「ナバロンの要塞」(1961年)、「アラビアのロレンス」(1962年)、「ローマ帝国の滅亡」(1964年)など、大作に顔をのぞかせるアンソニー・クエイル。
自作のほぼすべてにチラリと顔を見せる茶目っ気のあるアルフレッド・ヒッチコックは影を潜め(「間違えられた男」でもチラッと登場しますが)、冒頭、ヒッチコック自身が登場して、この映画が実話であることを語っているように、かなりシリアスなタッチで人間社会の不条理を描いています。
なぜ、こうまで目撃者は自信をもって、まるで関係のない人間を犯人だと決めつけてしまうのか。
早く犯人が捕まってほしいと願う心理が、そこに作用するのかもしれませんが、あまりにも無責任で、結果の重大性を考えれば目撃証言の信憑性(しんぴょうせい)をもっと疑ってもいいのではないかと思います。
不安におびえるヘンリー・フォンダの表情は印象的で、特に刑事に連行されて車に乗り込み、座席に座ってかたわらの刑事の顔を盗み見するシーンは、マニーの陥(おちい)りつつある不安な状況を表現した見事なシーン。
また、刑事二人も無闇にマニーを犯人と決めつけるのではなく、といって特別な温情を持って接するでもなく、容疑者とは余計な口をきかない、といった態度が、数々の事件を扱ってきた刑事らしく、親しみはもてないけれども、冷たい法の番人らしくてよかったなあ。
でもマニーが、妻が心配するから電話をさせてほしいと頼んでも、心配はいらない、の一点張りでまったく取り合おうとしなかったのには、やはり、容疑者を犯人として見る習性からなのかとは思うけど、容疑者に対しては寛大さがほしかった。
この映画を見て思うのは、犯人扱いをされて、この先どうなっていくのか不安を抱えながらもマニーが決して声を荒げることなく、静かに周囲の状況を見ながら行動していくところで、これは後の「十二人の怒れる男」の粘り強い陪審員を思わせ、苦難の経験を積んだマニーが精神的にも強くなって陪審員になったような、そんなことも連想させるヘンリー・フォンダの名演でした。
1956年 アメリカ
監督アルフレッド・ヒッチコック
原作・脚本マクスウェル・アンダーソン
音楽バーナード・ハーマン
撮影ロバート・バークス
〈キャスト〉
ヘンリー・フォンダ ヴェラ・マイルズ
アンソニー・クエイル
実際に起きた冤罪事件をもとに、事件に巻き込まれた男と、その家族の苦悩を描いたアルフレッド・ヒッチコックの傑作スリラー。
クリストファー・バレストレロ、愛称マニー(ヘンリー・フォンダ)は38歳。ベーシストとしてナイトクラブでの演奏が終わり、明け方に自宅へ戻ったマニーは玄関脇に置かれた牛乳を手に寝室へ向かいます。
眠っているはずの妻のローズは目覚めていて、歯が痛くて眠れないと言います。
歯の治療をさせてあげたいが、金銭的な余裕の無いマニーは、妻の掛けている保険で金が借りられるんじゃないかと思いつきます。
翌日、保険会社の支店に出向いたマニーは窓口で女性事務員に声をかけます。
保険証券を見せて、金を借りられないか、と尋ねるマニーの顔を見た事務員の表情がこわばり、少しお待ちを、と言って上司のデスクへ向かい、先日、拳銃を突き付けて強盗に入った男によく似ていることを告げます。
保険会社を後に、金の工面ができそうだと喜んで自宅へ戻ろうとしたマニーは、張り込んでいた刑事に玄関先で身柄を拘束され、警察署へ連行されてしまいます。
何がなんだか訳の分からないマニーは、妻が心配するから電話を、と言っても刑事は、心配は要らない、の一点張りで取り合わず、取調室での尋問が始まります。
自分が無実であることはマニー自身がよく知っていますから、落ち着いた態度で刑事の質問に答えようとしますが、目撃者の証言や、筆跡鑑定の結果などからマニーは不利な状況に追い込まれ、裁判所の手続きを経て、留置所へ入れられてしまいます。
一方、事件を知った妻のローズは、夫が無実であることを疑わず、弟と相談の上、7500ドルの保釈金を出してマニーを保釈します。
自由の身になったマニーは無実の罪を晴らそうと、弁護士のフランク・オコナー(アンソニー・クエイル)に相談。
マニーはアリバイを立証しようと、強盗が行われた日に旅行先で宿泊客たちとカードをしていた事実があることから、当時の宿泊客を探し出しますが、二人がすでに死亡。
アリバイの立証が絶望的になったことを引き金に、ローズの精神状態に異変が現れ始めます。
サスペンスやミステリー、スリラーなどを扱っても、ユーモアや娯楽性を盛り込むことを忘れないアルフレッド・ヒッチコックがここでは一転。身に覚えのない犯罪者として扱われた男の苦悩と、その妻が陥る暗黒に満ちた日常をリアルに描き出しています。
強盗犯人に似ているというだけで、ごく平凡な市民が犯罪者に仕立て上げられてしまう怖さ。
中でも一番の決め手となるのが筆跡鑑定で、犯人の残したメモを手掛かりに、犯人の書いた同じ文句を刑事が読み上げ、それをマニーが書くのですが、一度目はどうもハッキリしない。ところが二度目になると、マニーがスペルを間違えた。その間違え方が犯人の書いたものと同じであったという、あり得ないことが起こってしまう。
強盗に入られた店主たちも口をそろえて彼が犯人らしいと言う。
筆跡鑑定でも、犯人しか間違えようのないことをマニーがやってしまう。
あとは本人の自白になるのですが、もちろん自分は無実なのだから、自白できるはずがない。
この映画がかなり深刻性を帯びてくるのが、後半からの、妻のローズの精神状態。
マニーのアリバイを立証してもらえるはずの証人の二人はすでに死亡していると判り、そこからローズの様子がおかしくなっていきます。
この映画の怖さは、犯人に間違えられたマニーひとりの悲劇ではなく、当然ながら、その家族にも影響が及ぶということです。しかも、真犯人が捕まり、冤罪と認められたマニーは救われるとしても、ローズの精神障害はその後も長く残ってしまいます。
かつて江戸川乱歩も「D坂の殺人事件」だったかで、人間の記憶や視覚の頼りなさを書いていましたが、ここでは保険会社の事務員を含め、目撃者がマニーを犯人だと断定してしまっていることで、絶対的な思い込みがひとりの人間の運命を左右してしまう怖さ。
そしてそれは家族をも巻き込む悲劇につながってしまう。
このまま進めば、救いようのない映画になってしまうところでしたが、真犯人が強盗事件を起こしたことで、マニーの冤罪に結びつくことになります。
主人公マニーに「怒りの葡萄」(1940年)、「荒野の決闘」(1946年)、「ミスタア・ロバーツ」(1955年)など、巨匠ジョン・フォード作品でお馴染みの名優ヘンリー・フォンダ。
翌年の1957年に名作「十二人の怒れる男」での、他の陪審員全員が有罪とする中、物静かながら、粘り強く無罪判決へと導いてゆく陪審員を好演してアメリカの良心を表現しましたが、他方、その二年後の「ワーロック」(1959年)では貫禄十分の二丁拳銃の早撃ちガンマンに扮し、最後の決闘では保安官のリチャード・ウィドマークを圧倒しながら、拳銃を二丁とも捨てて静かに去ってゆくラストのカッコ良かったこと。
妻ローズに「捜索者」(1956年)のヴェラ・マイルズ。
後の「サイコ」(1960年)で再びヒッチコック作品に出演。
弁護士フランク・オコナーに「ナバロンの要塞」(1961年)、「アラビアのロレンス」(1962年)、「ローマ帝国の滅亡」(1964年)など、大作に顔をのぞかせるアンソニー・クエイル。
自作のほぼすべてにチラリと顔を見せる茶目っ気のあるアルフレッド・ヒッチコックは影を潜め(「間違えられた男」でもチラッと登場しますが)、冒頭、ヒッチコック自身が登場して、この映画が実話であることを語っているように、かなりシリアスなタッチで人間社会の不条理を描いています。
なぜ、こうまで目撃者は自信をもって、まるで関係のない人間を犯人だと決めつけてしまうのか。
早く犯人が捕まってほしいと願う心理が、そこに作用するのかもしれませんが、あまりにも無責任で、結果の重大性を考えれば目撃証言の信憑性(しんぴょうせい)をもっと疑ってもいいのではないかと思います。
不安におびえるヘンリー・フォンダの表情は印象的で、特に刑事に連行されて車に乗り込み、座席に座ってかたわらの刑事の顔を盗み見するシーンは、マニーの陥(おちい)りつつある不安な状況を表現した見事なシーン。
また、刑事二人も無闇にマニーを犯人と決めつけるのではなく、といって特別な温情を持って接するでもなく、容疑者とは余計な口をきかない、といった態度が、数々の事件を扱ってきた刑事らしく、親しみはもてないけれども、冷たい法の番人らしくてよかったなあ。
でもマニーが、妻が心配するから電話をさせてほしいと頼んでも、心配はいらない、の一点張りでまったく取り合おうとしなかったのには、やはり、容疑者を犯人として見る習性からなのかとは思うけど、容疑者に対しては寛大さがほしかった。
この映画を見て思うのは、犯人扱いをされて、この先どうなっていくのか不安を抱えながらもマニーが決して声を荒げることなく、静かに周囲の状況を見ながら行動していくところで、これは後の「十二人の怒れる男」の粘り強い陪審員を思わせ、苦難の経験を積んだマニーが精神的にも強くなって陪審員になったような、そんなことも連想させるヘンリー・フォンダの名演でした。