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金子光晴著『ねむれ巴里』という本なんだが・・・・小さな活字でびっしり書かれた本なんで、長らく積んどく状態であったが、リタイアし、かなり経ったので、やっと読む気がわいてきたのです。【ねむれ巴里】金子光晴著、中央公論社、1973年刊<「BOOK」データベース>より中国から香港、東南アジア、そしてパリへ。夫人三千代との流浪の旅は、虚飾と偽善、窮乏と愛欲に明けくれるはなやかな人界の底にいつ果てるともなくつづく。『どくろ杯』につぐ、若き日の自伝。<読む前の大使寸評>小さな活字でびっしり書かれた本なんで、長らく積んどく状態であったが…リタイアし暇だから、やっと読む気がわいてきたのです。(蔵書は1973年刊の初版本だが、2005年刊の文庫本データとしています)Amazonねむれ巴里アマゾンの「なか見!検索」ではないが、本の一部を(人力入力で)ちょっとだけ紹介します。フランス航路の終着ともいえるマルセイユの場面を見てみましょう。p40~42 マルセイユの港から眺める周囲の小高い岩山が斑ら雪でものこっているように白く、和菓子屋で今日でも売っている吹雪まんじゅうというものによく似ていた。どうやら、それは石英質の岩が露出しているためらしく、そういう山肌は、フランスの各地の渓谷の断面にでもよく見うけられた。 マルセイユはフランスの南方海岸で暖かい欧州の筈なのに、南から来た僕には、かなりきつい寒さをおぼえたが、暦の上では、11月末であるから無理もない。先にこの地を通ったときも、やはりおなじような冬景色で、はだら雪のようにみえる岩々の眺望もまた、おなじであった。 顔色のわるい、もっそりとした男が、僕のそばによってきて、「マルセイユの名所を案内しましょう」とすすめ、いっしょにまごまごしている中国の地主の坊やや、お嬢さんたちの方をも、物色するようにじろじろと眺めた。それがこの土地の日本人案内人だということをしらず、夜行でパリに発つまでの時間をどうしようかとおもっていた矢先なので、すすめられるままに車にのった。 中国の学生たちも、はじめての西洋の港で心細いらしく、僕ののっている車にぞろぞろと乗りこんだ。海岸づたいにすこしゆくと、吹き飛ばされそうに風の強い坂路をのぼったところの海に突出した突堤の上のマルセイユのノートルダムのゴチック寺院と、さらに先の方の海上に、デューマのモンテ・クリストで日本人にも馴染みのふかい、シャトー・ディーフの牢獄の島がある。名所といっても、その二つを措いてめぼしいものはない。譚嬢は、僕にくっついてあるいて、僕を風よけにした。 彼女の手をつかんで僕は、胸のうえにあててあるいたが、その掌は、部厚ではあるが、百姓の掌ではなく、ひどく柔らかであった。彼女は先の夜のことを知っていたのかもしれない。上陸地がロンドンかリバプール、できたらアントワープか、ロッテルダムで五日、1週間の余裕があったら、たとえ、たがいに一言も通じあわない仲だとしても、自然に心もからだも流れあえることになるのが、現実の手応えとしてこちらにわかっていた。 そうした場合、確実に結ばれる結果になることが、じぶんの狭い経験からでも予想されるので、その自信が先手をとって、自然に、ふるまいが自由になり、潮の臭いのつよい寺院の彫刻の屏風の小ぐらい蔭につれていって、彼女のゆたかな腹部にこちらの腹をつけて、力いっぱい押しつけておいて、支えている手がふれたところの彫刻の人の足のような部分をいまにも壊しそうにみしみしいわせた。そこまでのぞきに来た陳君の顔がのぞいていたのに気付いて、そのときの僕の欲情は、たちまち泡となって凋んでいった。(中略) 僕が注意するのを押しきって四人は、日本の料理を食べてみたいと言いだして、きかなかった。彼らは、中国といっても奥地の産でひどく日本料理に好奇心を持ったが、口にあわないことは初めからわかっていた。案内人がこのときとばかりおし出してきて、遂に、マルセイユの日本料理屋に案内し、ころもばかりの天ぷらと、うすっぺらな刺身のつく腹ごたえのない定食を喰って、フランス食ならせいぜい10フランですむのに、30フランずつ払わせられて、昼すこし廻ったころに、僕は、中国人たちとも、案内人とも別れて一人になった。 別れればもうそれっきりのことで、到底、この人生で再会することはむずかしい人たちである。しかし、記憶はなかなかいつになっても新鮮なものだ。そして、妙なことに譚嬢をおもいだそうとすると、彼女よりももっとありありと、陳君の垂れた厚い唇と、たまった涎水がうかんでくる。パリに出て、フランス語をおぼえ、ソルボンヌか、もっと専門的な軍事専門の学校へ通って、一つところに下宿しているうちに、譚嬢は、どれほど嫌ってぷりぷりしながらも、ぷりぷりできるあいてがかけがえない頼りとなり、他国にいるという条件がふたりをくっつけてしまうことになる経緯がはっきりみえるようであった。壁ドン場面が生々しいですね♪風体がいまいちの陳君だが、日中開戦前に軍事教育を受けに渡仏するという時代的背景があるそうです。
2015.06.30
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図書館で『宮本常一「忘れられた日本人」を訪ねて』という大型のムック本を手にしたが・・・・フィールドワークの画像満載で、ええやんけ♪この種の大型ムックを借りると、図書館のありがたさを実感するわけでおます。【宮本常一「忘れられた日本人」を訪ねて】ムック、平凡社、2007年刊<「BOOK」データベース>より民衆の知恵をめぐって旅する稀代の民俗学者・宮本常一。「日本人」とはなにものか。その答えを求めて、土地土地の風景と人間の歴史を収めた膨大な記録と写真群を紹介する。宮本民俗学を解く論考も収録。<読む前の大使寸評>大型ムック本で、フィールドワークの画像満載という嬉しい本でおま♪junkudo宮本常一「忘れられた日本人」を訪ねてこの本の巻頭で佐野真一氏が、誕生百年のオマージュを語っています。<誕生百年、節目の年に:佐野真一>よりp3~4 宮本にいま注目が集まっているのは、誕生百年という節目にあたっていることもさることながら、誰もがいまという時代の閉塞感を無意識に嗅ぎ取っているためだろう。 日本の地方都市のどこを歩いても、目につくのは、死んだようなシャッター商店街ばかりである。そのとき、宮本の活動は未来を照らす、ほのかな期待の明かりのように見える。 私が『旅する巨人』(文芸春秋1996)という宮本の評伝を書いたのは、いまからもう10年以上も前のことである。その当時の大方の受けとめられ方は、「そんな奇特な男もいたのか」という程度の認識だった。それを思えば、時ならぬこの宮本ブームは隔世の感がある。 『旅する巨人』によって、宮本常一は“再発見”された。そんな果報な評価がある。その見方に甘んじて言えば、宮本へのこの注目は、時代のほうがやっと宮本に追いついてきた、そんな証のような気がする。 しかし、一つ気になるのは、どれも宮本を「聖化」して賞賛一辺倒なことである。この手放しの評価が読む者の胸にしみこんでいって、一人ひとりの生き方に知らず知らずに影響をあたえる伏流水という言葉はふさわしくあっても、一過的なブームという言葉はおよそ似合わない。 私は宮本についてコメントを求められる度、こういい続けてきた。 「宮本を顕彰することはあもういいかげんにした方がいいと思います。大切なのは、宮本の精神を継承しようとすることです。宮本は元々、民俗学は過去を振り返るための学問ではない、よりよき未来を拓くための学問だ、と言っています。宮本に詭拝して祭り上げることは、宮本の精神を冒涜することにもつながりかねません」 宮本“再発見”の第一段階は終わった。われわれに残された次の課題は、宮本の精神をどう生かせていくかである。 停滞した地域の復活を願って全国を歩き続けた宮本の旅は、決してノスタルジーを求める旅ではなかった。とりわけ戦後の高度成長期の旅は、経済と開発にひたすら邁進する地域に裏切られつづけた旅だったといえる。 もし宮本の偉大さを言うなら、それは裏切られも裏切られてもあきらめず全国行脚をつづけた精神の逞しさと、民衆を信じつづけたひたむきさにあった。宮本常一の恩師ともいえる渋沢敬三を見てみましょう。<渋沢敬三>よりp52~57■生まれながらのプリンス 渋沢敬三は、宮本常一が生涯の師と仰いだ人物。研究者として、アチック・ミューゼアムの主宰者として民俗学に確かな足跡を残しているが、その生涯は極めて特殊である。 明治29(1896)年、「日本近代資本主義の父」といわれる渋沢栄一の嫡孫として、東京・深川に生まれた。いわば「財界のプリンス」として生をうけた敬三だが、幼い頃から好奇心が強く、聡明さを発揮している。(中略) しかし、敬三には生涯逃れ難い問題があった。当主相続問題である。大正2(1913)年、栄一との関係がうまくいかなくなった父・篤二は廃嫡。おのずと当主相続の矢面に立たされた。渋沢家当主として生きること。そのことを伝えるために「お頼みする」と羽織袴の正装で75歳の栄一が頭を下げたという話は有名で、19歳だった敬三は栄一の姿に涙し、反発する術もなく、その願いを聞き入れた。そうして生物学への道を閉ざしたのであった。■柳田も一目置かざるを得なかった男 第一銀行、東京貯蓄銀行の取締役に就任後、昭和16年には第一銀行副頭取になった敬三は、翌年には日本銀行副総裁、つづいて昭和19年には総裁辞任に伴い、総裁に就任、そのまま終戦を迎える。戦後の幣原内閣では大蔵大臣を務めたが、内閣退陣後の昭和21年8月、GHQの公職追放令によりその該当者になる。(中略) 「金融緊急措置令」により地位も財産も捨て去った敬三は、昭和26年に追放解除になるまで、思う存分、民俗調査に打ち込んだという。もちろん宮本は度々旅先に同行しており、うち昭和25年に対馬調査に始まった八学会連合はひとつのピークで、「モノグラフ」や「文字資料」など先に挙げた手法やスタンスの集大成だったともいえる。 もちろんこれだけの学界を組織化し指揮ができるのは敬三をおいて他になく、彼の手腕が如何なく発揮された活動であった。この時期こそもっとも幸せな時期だったかもしれない。 敬三はしかし、常に謙虚でいることを心掛けていた。「資料を学界に提供する」という姿勢はその表れであろう。宮本に語った言葉、「学者になるな」ということにも符合する。さらに、日本民俗学の創始者・柳田国男が見落としてきた「落ち葉」を拾うことに心をくだいた。そうしながらも柳田を怒らせなかったのは、やはり敬三の日頃の謙虚さからであっただろうし、そこにかえって懐の深さを思わせる。 そして何より敬三は、プロジューサー的立場に徹した。誠実な人びとに対し、決して悪いようにはしないという彼のスタンスは、思想・信念を超え、敬三のもとに集まってくる多くの人びとを虜にし、彼らと師弟の関係を結んだ。実業界で、学界で、ある時は表に立ち、ある時は裏にまわり、さまざまな人を助けた。恐らくは、それを自らに課された役目と悟り、果たすべき使命と捉えたのだろう。 その姿からは、今の時代には見られなくなった「ノーブレス・オブリージュ」の精神が見える。そうして多くの人びとが堅い信頼関係を築きあげるなか、特に宮本とは30年も同居するほどの縁となり、「俺は君の防波堤だよ」とまで言わせたのだから、敬三が宮本に寄せる期待と信頼はまた特別なものだったに違いない。1960年代に、著作者としての名声がゆるぎないものとなったそうです。<忘れられない日本人を訪ねて>よりp90~93 雑誌「民話」(未来社)の編集委員として活動。そこに隔月で連載「年よりたち」を執筆した(1958~59年)。これまでの旅で出合った老人たちとのライフヒストリーで、昭和35(1960)年7月、これらは単行本にまとめられた。この本こそ、宮本の実力を世に知らしめた代表作『忘れられた日本人』である。 先に挙げた対馬の「梶田富五郎翁」をはじめ、篤農家の歩みや村の衆の談義など、古い時代の民衆の生き方を収録した。中でも67頁でも挙げた「土佐源氏」は、高知県梼原村に訪れた際、80歳をこす盲目の老人から聞いた印象的な話で、一見、平凡な人生を送った民衆にも、情愛深く、奔放に生きた現実があったことを、ヴィヴィッドに描写する様が話題を呼び、事実か創作かといった論議を含めて、多くの読者をつかんだ。「民衆はしいたげられて生きてきた」という思い込みをくつがえす、宮本の面目躍如たる作品である。 日本人にはこんなにもさまざまな生き方があった―。そのことを広く知らしめた宮本はまた、この著作中で昔よく見られた「世間師」について著している。「世間師」とは旅などで見聞を広くし、経験豊かな人のこと。宮本の姿もまた、旅で得た知識や知恵を説いて回る「世間師」と重なり合うものだった。 さて、昭和35(1960)年9月には、全国各地の島への旅で見聞きしたたくさんのことを、あまねく書き連ね、集めて編んだ『日本の離島』を刊行した。そして、昭和36年度の日本エッセイストクラブ賞を受賞、著作者としての名声は、ゆるぎないものとなった。
2015.06.29
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「フィールドワーク」でしょうか♪<市立図書館>・宮本常一「忘れられた日本人」を訪ねて・イチョウ 奇跡の2億年史・総特集 諸星大二郎・藤田嗣治手しごとの家<大学図書館>・窓花/中国の切り紙・住まいの冒険図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【宮本常一「忘れられた日本人」を訪ねて】ムック、平凡社、2007年刊<「BOOK」データベース>より民衆の知恵をめぐって旅する稀代の民俗学者・宮本常一。「日本人」とはなにものか。その答えを求めて、土地土地の風景と人間の歴史を収めた膨大な記録と写真群を紹介する。宮本民俗学を解く論考も収録。<読む前の大使寸評>大型ムック本で、フィールドワークの画像満載という嬉しい本でおま♪junkudo宮本常一「忘れられた日本人」を訪ねて【イチョウ 奇跡の2億年史】ピーター・クレイン著、河出書房新社、2014年刊<「BOOK」データベース>より長崎の出島が悠久の命をつないだ!ヒトの役に立ち、敬われてきたからこそ、この愛すべき樹木がたどったあまりに数奇な運命!2億年近く生き延びたあとに絶滅寸前になったイチョウは、人間の手で東アジアから息を吹き返した。その壮大な歴史を、科学と文化から描く名著。<読む前の大使寸評>人類の過去の記憶、過去のDNAに寄り添うようなイチョウがええなぁ♪葉っぱフェチの大使は、当然として樹木に関心があるのだが、一つの樹種で、これだけ分厚い本を見たのは初めてなんで・・・著者のこだわりも含めて、興味深いのです♪<図書館予約:(12/03予約、6/21受取)>rakutenイチョウ 奇跡の2億年史【総特集 諸星大二郎】ムック、河出書房新社、2011年刊<目次>より■リスペクトインタビュー 細野晴臣「日常に潜む何かを描かせたら、諸星さんは世界一だと思う」音楽家・細野晴臣が熱烈に語る、諸星大二郎へのリスペクト論。■幻の未発表マンガ1972年執筆。雑誌にも単行本にもどこにも掲載されたことのない幻の作品。「恐るべき丘」全32ページを完全掲載。■仕事場&本棚紹介奇妙で壮大で妖艶な作品群の「舞台裏」に潜入!愛用の筆記具から仕事場の本棚まで、カラー8ページで徹底紹介。■評論 「諸星大二郎と人類学」1.【対談】 諸星大二郎×呉智英 「諸星大二郎の神話世界」2.「人類学」で読み解く諸星大二郎 文・都留泰作3.「民俗学」で読み解く諸星大二郎 文・香川雅信4.「中国文学」で読み解く諸星大二郎 文・福嶋亮大<読む前の大使寸評>画像、写真が満載で嬉しい本でおま♪50作品解説、全290作品リストが充実しています。span-art総特集 諸星大二郎【藤田嗣治手しごとの家】林洋子著、集英社、20094年刊<「BOOK」データベース>より日本人の美術家として初めて国際的な美術界と市場で成功を収めた藤田嗣治。彼はまた、当時の男性には珍しく、身のまわりのものをことごとく手づくりし、暮らしを彩った、生活の芸術家でもありました。裁縫、大工仕事、ドールハウス、写真、旅先で収集したエキゾティックな品々…。本書では絵画作品にも描かれた、藤田がこよなく愛したものたちに焦点を絞り、そのプライベートな非売品の創作世界を解きあかします。本邦初公開の藤田撮影の写真、スクラップブックなど、貴重な図版多数をカラーで掲載。ここに現代美術の先駆者としての藤田嗣治が、蘇ります。<読む前の大使寸評>新書ヴィジュアル版と銘打っているとおり、カラー画像満載で嬉しい本でおま♪rakuten藤田嗣治手しごとの家【窓花/中国の切り紙】丹羽朋子×下中菜穂著、エクスプランテ、2013年刊<展覧会サイト>より福岡アジア美術館にて現代アジアに生きる民俗芸術や大衆芸術を取り上げる「生活とアート」シリーズ。5回目となる今回は、「窓花(まどはな)/中国の切り紙―黄土高原・暮らしの造形」を10月18日(金)から2014年1月28日(火)まで開催します。中国において、春節や婚礼の飾りなど、暮らしのさまざまな場面を彩ってきた切り紙。中でも窰洞(ヤオトン/横穴式の土の家)の障子窓に貼られ、ステンドグラスのように美しい光を室内に投げこむ「窓花」は、厳しい自然の中で、ひときわ印象深い切り紙です。そして、こうした豊かな紙の造形を絶えることなく伝えてきたのは、農村で暮らす女性たちでした。<大使寸評>この本は展覧会の図録として制作されたそうだが・・・・民俗学的なフィールドワークの成果を、本にまとめるとこんな本になるのか♪民芸品というよりも、もっとプリミティブな、生活習慣に近いような、アートなんだろう。この本には価格が記されていないが、楽天で見ると1800円と値付けられています。tenjinsite窓花/中国の切り紙―黄土高原・暮らしの造形窓花/中国の切り紙byドングリ【住まいの冒険】住総研著、萌文社、2015年刊<「BOOK」データベース>より私たちの住まいや暮らしは、高度消費社会の巨大な市場システムに埋没してしまった。「住む」ことや「暮らす」ことは本来それぞれに自分流があり個性的であってよいのに、その主体である住み手と住まいの間には、代え難い個別的な関係を見い出せていない。では、主体性のある住まいとはいったい何だろうか。本書は生きる場所としての住まいを取り戻そうとする多くの事例を取り上げ、哲学的洞察も交えて多面的な視点から問題提起する。<大使寸評>我々、団塊の世代が一戸建て住宅を取得しリタイアを迎えた頃、いわば人生スゴロクをあがった頃には・・・・終身雇用はなし崩しにくずれ、派遣社員が常態化していた。住宅取得に関しては、無策の政治と大手建売住宅メーカーにしてやられたとの感もあるわけです。rakuten住まいの冒険住まいの冒険byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き103
2015.06.29
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<住まいの冒険>図書館で『住まいの冒険』という本を手にしたが・・・ツリーハウスとか、シェアハウスとか、住宅商品化とか、大使にとって興味と杞憂、両面から気になったのです。ポストに入ってくる折込チラシのかなりの割合が、中古住宅のチラシである。また、新聞、テレビなど大手メディアでは建売住宅のCMが喧しいのだが・・・・そのCMに、何だかミスマッチ、あるいは的外れの感があるのです。(住宅商品化の焦点がズレているのか、あるいは、あえてずらしたままにしているのか?)このミスマッチに、供給側では大きな焦りが表れているんだろうね。また一方で、取り残される我々、需要側は、どう対処するべきなんだろう?【住まいの冒険】住総研著、萌文社、2015年刊<「BOOK」データベース>より私たちの住まいや暮らしは、高度消費社会の巨大な市場システムに埋没してしまった。「住む」ことや「暮らす」ことは本来それぞれに自分流があり個性的であってよいのに、その主体である住み手と住まいの間には、代え難い個別的な関係を見い出せていない。では、主体性のある住まいとはいったい何だろうか。本書は生きる場所としての住まいを取り戻そうとする多くの事例を取り上げ、哲学的洞察も交えて多面的な視点から問題提起する。<大使寸評>我々、団塊の世代が一戸建て住宅を取得しリタイアを迎えた頃、いわば人生スゴロクをあがった頃には・・・・終身雇用はなし崩しにくずれ、派遣社員が常態化していた。住宅取得に関しては、無策の政治と大手建売住宅メーカーにしてやられたとの感もあるわけです。rakuten住まいの冒険核家族、少子高齢化に触れたあたりを見てみましょう。<21世紀から未来へ>よりp57~60 戦後55年が経ち21世紀となった。 日本の家族や個人のあり方も激しく変わってきている。高齢化率は総人口が減少を向かえる中でますます上昇し続ける。2014年は65歳以上の人口は総人口の24%である。4人に1人は65歳以上になっている。 子どもと、生産年齢人口(15歳から65歳)は減り続けている。世帯の構成もひとり暮らし、夫婦のみの世帯、ひとり親世帯は増え続けるが、夫婦と未婚の子どものいわゆる標準世帯は減り続けている。 さらに統計的には顕在しにくいが夫婦と未婚の子どもといっても、子どもの年齢が20歳を超えているという世帯=パラサイトシングルのいる家族や事実婚やシェア暮らしなど、他人との同居も増加しており、一概には分類できないほど核家族の姿も多様になっている。 単身者も高齢から若年までさまざまな年代であり、単身である理由も死別や未婚、離婚だけでなく、単身赴任や別居離婚などの場合もある。 収入構造、労働形態、家族構成も世帯の姿も多様になり、個々の人も家族も姿が見えにくく、バラバラな日常を送り、多様な困難を抱えながら孤立している。他人だけでなく家族間でも育児や介護を助け合うこともできなくなってきている。 世帯数は一人世帯の増加もあるが、平均世帯人数は減り続けており、戦後1955年から2010年では半減して2.56人になっている。 ますます個人が孤立し、家族は機能せず、高齢化は進むが非婚や少子化で人口が減り、若い人がいなくなるという、データでみれば暗い予測しかなさそうだ。 個人の人権の尊重を基本として生まれた核家族であるが、核家族という形態自体が成り立たなくなっている。あるいはメルトダウンし始めていると言ってよいのではないだろうか。「住まいづくり」についても住み手の主体性は、家族のそれぞれが「これからどう暮らすか」「どう生きるのか」を真剣に考えることよりも、常識や因習、あるいはコマーシャリズムに翻弄され様々な幻想や経済的秩序のなかでの住まいの選択であったと思わずにはいられない。 高度成長期に核家族のための住まいとして造られた庭付き郊外一戸建ては、もはや高齢の単身者あるいは高齢夫婦のみの住まいとなりつつある。 最初から核家族のための家であったのであるから、親がひとりになったからといって、子ども世帯と同居する3世代同居を望んでも空間的にも仕組み的にも無理なのである。人口減少が始まり、世帯数を上回る住宅がすでに存在するにもかかわらず、多様な生き方、多様な世帯の形、多様な家族の形の受け皿となるには、ミスマッチな核家族のための家が膨大にあり、そのなかで私たちは大きな困難を抱え始めている。 そして、今後こうした核家族の住宅で高齢者の孤立死が多発する可能性、空き家がコミュニティ崩壊の原因となる可能性、人口が減少し消滅する町が出現することなども、すでに予測されている。住宅を造るときに、生活者のリアリティの側面で住み手の主体性が一向に発揮されてこなかった結果であろう。著者は「住宅を造るときに、住み手の主体性が一向に発揮されてこなかった」と、切り捨てているが・・・それでは、大使の立つ瀬がないではないか(泣)現状は「マイホーム神話の臨界」を越しつつあるんでしょうね。<『マイホーム神話の臨界』>よりp95~96 住宅社会学の可能性を試みる山本里奈氏は、「マイホーム神話の臨界」を見い出し、これからの家族と住まいのゆくえについて分析した。■家族の変容 わが国ではいまだに、「夫婦+子ども2人」からなる世帯を標準世帯と呼び、これに準じてさまざまな制度が定められている。実際に、夫婦と子どもからなる世帯がもっとも多かった1975年をみても、子どもが2人という世帯は児童のいる世帯全体の24.6%にすぎず、さらに2010年の時点では10%程度にまで減少している。加えて、この数値には祖父母と同居する家族や、ひとり親世帯など、ほかの類型の世帯が含まれることを考えると、現状で標準世帯は10%未満と推測される。 以上からも明らかなように、わが国の世帯構成は2005年ごろを転換期として、夫婦と子どもからなる世帯から単身世帯を主流とする時代へと向かっている。 これからの家族を考えるうえでは単身世帯のあり方が大きなポイントとなってくるのは明らかで、標準世帯に基づく施策を改めない限り、現状と政策は乖離せざるをえない。■住まいの変容 次に山本氏は、住まいの変容について、住宅の着工量と商品化の焦点の変化から説明している。「商品住宅(分譲住宅)」の着工量を調べると、1970年代以降は平均して30万戸の大量供給が持続するなど、経済の成長とともに推移してきたことがわかる。 商品化の焦点の変化を見ていくと、バブル期には、住宅の多様化が重視されるようになり、販売のアピールポイントは、色や形などのデザインやブランドの違いにシフトしていくことのなる。 さらにバブル崩壊後の超成長期に入ると、身体感覚に基いて住空間が再編されるようになり、アピールポイントは身体の快適性へとシフトしていく。■家族と住まいのゆくえ かつて人びとは、「家庭の幸福」を求めて住宅を購入するように水路づけられていた。しかし現在は、「身体の快適性」を求めるように訴えかけられている。社会の変化に伴い、家族と住まいも変容のときを迎えている。ひとり暮らしの時代へと移行するなかで、住宅と家族を結びつけるマイホーム神話は臨界へと向かい、住宅と身体を結びつける新たな快適性の神話が生まれつつある。昨今では、大手建売住宅メーカーは、一戸建てよりアパートの売出しに注力しているとか・・・貧乏な若年家族なんか販売対象から外れるのでしょうね。恐るべき商品化というべきか。
2015.06.28
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この本は展覧会の図録として制作されたそうだが・・・・民俗学的なフィールドワークの成果を、本にまとめるとこんな本になるのか♪「窓花」は民芸品というよりも、もっとプリミティブな、生活習慣に近いような、アートなんだろう。【窓花/中国の切り紙】丹羽朋子×下中菜穂著、エクスプランテ、2013年刊<展覧会サイト>より福岡アジア美術館にて現代アジアに生きる民俗芸術や大衆芸術を取り上げる「生活とアート」シリーズ。5回目となる今回は、「窓花(まどはな)/中国の切り紙―黄土高原・暮らしの造形」を10月18日(金)から2014年1月28日(火)まで開催します。中国において、春節や婚礼の飾りなど、暮らしのさまざまな場面を彩ってきた切り紙。中でも窰洞(ヤオトン/横穴式の土の家)の障子窓に貼られ、ステンドグラスのように美しい光を室内に投げこむ「窓花」は、厳しい自然の中で、ひときわ印象深い切り紙です。そして、こうした豊かな紙の造形を絶えることなく伝えてきたのは、農村で暮らす女性たちでした。<大使寸評>この本は展覧会の図録として制作されたそうだが・・・・民俗学的なフィールドワークの成果を、本にまとめるとこんな本になるのか♪「窓花」は民芸品というよりも、もっとプリミティブな、生活習慣に近いような、アートなんだろう。この本には価格が記されていないが、楽天で見ると1800円と値付けられています。tenjinsite窓花/中国の切り紙―黄土高原・暮らしの造形<窓に咲く花>よりp20~22 村の家を訪ねてまわる。どこの家の障子にも小さな切り紙。これは、おばあさんの切ったもの。ほらこんなのもあるよ。 カンの敷布団をめくって取り出した古い教科書には、たくさんの切り紙が挟んである。上手な人からもらったり、少しずつ切りためたり、開いて並べて、おしゃべりはつきない。「花」とは模様や美しいかたちのこと。切り紙にはいろんな用途があるけど、窓に貼るものを「窓花」と呼ぶ。 人々は、ヤオトンの唯一の明り取りである窓のことを「ヤオトンの目」といい、「窓花を貼らないと目が見えなくなるんだよ」そんなふうに言う人もいる。 花が咲いては枯れるように、窓に咲く花も季節がめぐるうちに、色褪せ破れていく。古い切り紙を型紙にして重ねて切る。すると、遠い昔のかたちがまた新しい命を宿して手の中から生まれる。物語を語るように、歌を歌うように、ふわりと生まれた新しい花が咲く。<結婚式には喜花を贈る>よりp34~35 セン北の人々は古くから、紙に切り出されたかたちの力を信じ、祈りや願いを託してきた。結婚式を彩る切り紙「喜花」はその代表格。 当日はヤオトンの窓や壁、嫁入り道具、新郎新婦が契りの儀式でかじる花饅頭まで喜花で飾られ、夫婦円満と子宝を願う吉祥図案で埋め尽くされる。 たとえば牡丹と石榴。「牡丹は女、乗っかる石榴は男。石榴は種子でいっぱいだ。昔は14、5歳で嫁いだからね。若い嫁も花を見れば、やるべきことがわかるってもんさ」ばあさまが、ニタリと笑ってこう語る。美しい花と実が、男女の結び合いだったとは! 言葉とかたちが響き合う、切り紙のなまなましい姿に触れるたび、ちょっとドキッとしてしまう。<言葉のように「かたち」を使う>よりp36~38 窓に咲いた「花」からは、切り手がそっと吹き込んだ言葉が聞こえてくる。おばあさん達は字を書けずとも、身の回りの動植物の姿から寓意を引き出し、真っ赤なかたちにのせて物語を紡ぐ、ひとつの「花」に幾重もの言葉を響き合わせ、かたちを読み解き、気持ちを交わす。 キーボードで文字を打つ私達の手からこぼれていった、かたちの豊かな力がここにある。ヤオトンの画像より
2015.06.27
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図書館で予約していた『イチョウ 奇跡の2億年史』を手にしたが・・・予想していた以上に分厚い本であった。とにかく、一つの樹種で、なぜこれだけ分厚い本になるのか?葉っぱフェチの大使は、当然として樹木に関心があるのだが、一つの樹種で、これだけ分厚い本を見たのは初めてなんで・・・著者のこだわりも含めて、興味深いのです♪【イチョウ 奇跡の2億年史】ピーター・クレイン著、河出書房新社、2014年刊<「BOOK」データベース>より長崎の出島が悠久の命をつないだ!ヒトの役に立ち、敬われてきたからこそ、この愛すべき樹木がたどったあまりに数奇な運命!2億年近く生き延びたあとに絶滅寸前になったイチョウは、人間の手で東アジアから息を吹き返した。その壮大な歴史を、科学と文化から描く名著。<読む前の大使寸評>人類の過去の記憶、過去のDNAに寄り添うようなイチョウがええなぁ♪葉っぱフェチの大使は、当然として樹木に関心があるのだが、一つの樹種で、これだけ分厚い本を見たのは初めてなんで・・・著者のこだわりも含めて、興味深いのです♪<図書館予約:(12/03予約、6/21受取)>rakutenイチョウ 奇跡の2億年史この本は日本人の業績に多くを割いているので、日本人読者にとって興味深いわけです。<泳ぐ精子>よりp93~96 そのイチョウは江戸時代からあった。明治時代になって東京大学教授に任命された伊藤圭介は、着任する前からこの木のことを知っていたはずだ。伊藤はシーボルトの教え子だった。いまでは樹齢300年、樹高80フィート(24m)になったこのイチョウは、1923年の関東大震災も、第二次世界大戦の東京大空襲も生き延びた。そしてこの気高い老雌木は、日本の近代科学発展にかけがえのない貢献をした。 小石川植物園は、かつて徳川幕府の薬草園だったところに設立された。1868年、日本の激動期にここの土地は明治新政府に移管され、できたばかりの東京大学の付属植物園となった。(中略) ドイツ人植物学者エドアルド・シュトラスブルガーは、1890年代にイチョウの生殖について関心をもちはじめた。ウィーン大学の植物学教授リヒャルト・フォン・ヴェットンシュタインは、同大学のイチョウの種子(胚珠)をシュトラスブルガーに送った。何十年も前にジョセフ・フォン・ジャカンが雄木に雌木の枝を接ぎ木した、あのイチョウにできた種子だ。種子は6月から9月初旬にかけて2週間おきに送られた。シュトラスブルガーはそれを題材に、イチョウの有性生殖のあれこれを記載した。しかし、彼の記録には重要な点が欠けていた。その穴をすぐさま埋めたのが、小石川植物園で働いていた平瀬作五郎である。 平瀬は熟達した技術者で画工であった。1895年、彼はイチョウの種子内で胚がどのように発生するのかを詳細に報告して発表した。そして1896年の夏じゅう、平瀬は小石川のイチョウに育つ種子を採取しては精査するという研究をくり返した。その年の9月9日、彼はそれ以前の研究者が見つけられないでいたイチョウの有性生殖の最終段階を、はじめて観察した人物になった。 平瀬が見たものは、植物学の世界を震撼させた。珠孔液に付着して種子(胚珠)内にとりこまれた花粉粒は、種子の先端にある組織の中で根のような管を一本、伸ばしていた。種子内にぶらさがる形になっているその管の、根元のふくらんだところには、一対の大きな精子細胞が種子先端の空洞内に放出されるところを見たのだ。精子は、数千の繊毛をらせん状の帯にしたものを同期させて動かし、短い距離を泳いで卵に到達した。 この奇妙な受精方法は当時知られていたほかのどんな植物の受精方法とも違う、と平瀬はすぐさま気づいた。精子が泳ぐ場面はシダ類やコケ類などではよく知られていたが、それまで種子植物で観察されたことはなかった。 平瀬の発見から二ヶ月もしないうちに、ソテツで同じく泳ぐ精子の観察が報告された。発見者の池野成一郎は帝国大学農科大学に所属しており、平瀬の研究を手助けしていたこともあった。どちらの発見も画期的で、日本人科学者の名が国際舞台にのぼる最初の二つの研究成果となった。1897年、池野と平瀬は研究結果を英語の共著論文にして世界に向けて発表し、1912年には二人そろって帝国学士院恩賜賞を受賞する初の生物学者となった。 植物の進化を探るという点で、池野と平瀬の発見は予期せぬ突破口を開いた。それ以前は、イチョウやソテツの受精は針葉樹と同じ方法なのだろうと思われていた。花粉粒から伸びる管を通して精細胞が卵に届けられる、という方法だ。泳ぐ精子が発見されたということは、イチョウとソテツの生殖方法は針葉樹よりシダ植物に近いことを意味する。これは、植物進化の初期においては生殖に水が必要だったことを思い起こさせる。長田敏行・東大名誉教授の解説の一部を紹介します。<解説>よりp341~342 イチョウは日本中いたるところにあり、1000年余を経たといわれる大木もあちこちに見られるので、日本にもかつて自生していたがいったん途絶えて、中国から導入されたものであると説明されても、にわかには信じられない方も多いのではないかと思う。 実際、街路樹としては最も好まれ、日本中に55万本余植えられている。さらに世界に目を向けると、イチョウは今や極地と熱帯圏を除いて各地に広く植えられているが、これも不思議である。 そのイチョウは二億年前に誕生し、中生代の後半には世界中に広く分布しており、きわめて多様な種分化をしていたことが知られている。ところが、新生代に入るとともに衰退し、中国南西部に一種類のみ残った。そのイチョウが日本へ持ち込まれて繁栄し、そして世界へ広がっていったことは、それ以上の不思議である。 世界中へ展開して入った過程は、専門家はともかく一般的にはそれほどよく知られていることではないだろう。そのストーリーの全容を示してくれるのが本書である。 このようなテーマを幅広い読者層に対して語るのに、ピーター・クレイン博士以上に適切な人はいないであろう。いやクレイン卿と呼ぶべきであろうが、ここではイギリスの習慣に従って、サー・ピーターと呼ばせていただく。 サー・ピーターの現職は、アメリカ・アイビーリーグの雄イェール大学の林学・環境科学部長である。もともと古生物学を専攻していたが、本書でも重要なテーマである分岐分類学の発展にも尽力され、それを武器に、チャールズ・ダーウィンによって「忌まわしい謎」と呼ばれた被子植物の成立とその後の発展に関する究明に大きく貢献された。 そのような業績から、世界で最も著名で影響力のある植物園、イギリス王立キュー植物園の園長に選任されて7年間務められた。研究上の成果のほかに、世界の生物多様性保全への指針の策定にも大きく貢献し、また、ミレニアム・プロジェクトの推進者としても力を尽された。このため2004年には爵位を得ている。イチョウ 奇跡の2億年史(1)イチョウ 奇跡の2億年史(2)イチョウ 奇跡の2億年史(3)
2015.06.26
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図書館で予約していた『イチョウ 奇跡の2億年史』を手にしたが・・・予想していた以上に分厚い本であった。とにかく、一つの樹種で、なぜこれだけ分厚い本になるのか?葉っぱフェチの大使は、当然として樹木に関心があるのだが、一つの樹種で、これだけ分厚い本を見たのは初めてなんで・・・著者のこだわりも含めて、興味深いのです♪【イチョウ 奇跡の2億年史】ピーター・クレイン著、河出書房新社、2014年刊<「BOOK」データベース>より長崎の出島が悠久の命をつないだ!ヒトの役に立ち、敬われてきたからこそ、この愛すべき樹木がたどったあまりに数奇な運命!2億年近く生き延びたあとに絶滅寸前になったイチョウは、人間の手で東アジアから息を吹き返した。その壮大な歴史を、科学と文化から描く名著。<読む前の大使寸評>人類の過去の記憶、過去のDNAに寄り添うようなイチョウがええなぁ♪葉っぱフェチの大使は、当然として樹木に関心があるのだが、一つの樹種で、これだけ分厚い本を見たのは初めてなんで・・・著者のこだわりも含めて、興味深いのです♪<図書館予約:(12/03予約、6/21受取)>rakutenイチョウ 奇跡の2億年史「表紙カバーのコピー文章」に、惹かれるのです。<表紙カバーのコピー>より 私たちの祖先が原生類人猿の祖先から分岐した700万年~500万年前ごろにはおそらく、イチョウはすでに衰退していた。ヒトの出現期には、ほとんど絶滅寸前になっていた。 地球の支配権をヒトが握ることは、イチョウの息の根を止めることになるはずだった。ところが、イチョウはほかの樹種とは異なり、ヒトとともに栄えた。 さまざまな利用価値をヒトに提供できたのと、何よりも、ヒトから崇められる存在になったことが大きかった。こうしたことのおかげでイチョウは執行猶予を得た。 18世紀には日本の長崎、出島に居留を許されていたオランダ人を通じて、ヨーロッパに伝えられるようになった。(本書1章より) ソウル、徳寿宮のイチョウ導入部の説明が、まるでSF小説を読むようにワクワクするのです。<長大な時間>よりp19~21 イチョウは植物としてはかなりの変わり者で、現生する近縁種が存在しない。かつてはマツやイチイ、ヒノキの親戚だと思われていたが、現在はそうでないことがわかっている。まず、19世紀初期の植物分類で針葉樹とは異なることが明らかにされた。その後、この樹木の生殖に関する科学的証拠、とりわけ1896年の日本での大発見がもたらされると、イチョウは現生植物の系統関係において孤立した位置にあることがはっきりした。 そして20世紀、植物の世界に進化の概念が入ってくると、イチョウは進化のカギを握る種としてさらに科学的に注目されるようになった。ダーウィンの言葉を借りれば、イチョウは「植物界のカモノハシ」なのである。 古植物学者たちは、地質時代をさかのぼってイチョウの系統を探りはじめた。イチョウはこんにち、植物の「生きた化石」の代表となっている・・・・時が置き去りにした樹木として、遠い過去の風景を身近な現代の風景へとつなぐ「架け橋」の樹木として。 イチョウは地球上に出現してからこのかた、ほとんどの時間をヒトがまだ出現していない世界、こんにちとはまったく違う世界で、とうの昔に絶滅した動植物とともに暮らしていた。イチョウとその仲間の樹木は、私たちの祖先が爬虫類から哺乳類へと変わっていくのをずっと見ていた。イチョウ葉の化石はすべての大陸で見つかっている。大昔の超大陸が大西洋で隔てられる前から、南半球の大陸が南極大陸と分離する前から、イチョウの歴史ははじまっていた。(中略) 地球の支配権をヒトが握ることは、イチョウの息の根を止めることになるはずだった。ところが、イチョウはほかの多くの樹種とは異なり、ヒトとともに栄えた。さまざまな利用価値をヒトに提供できたからでもあるのだが、何よりも、ヒトから崇められる存在になったことが大きかった。実際、イチョウは多くの国や地域で敬意を注がれる対象となっている。こうしたことのおかげでイチョウは執行猶予を得た。種子は珍味となり、植物油や薬として使われた。 特徴のある薬と長寿を誇るこの木は、仏教や道教、儒教において象徴的な存在となった。イチョウは中国から朝鮮を経て日本へと伝わり、日本古来の神道とも結びついた。中国、韓国、日本のイチョウの巨木は、たいてい仏教寺院か神社の境内に立っている。世界各地で、神性を帯びた樹木が登場しています。<樹木とヒト>よりp26~27 樹木は大切なシンボルとして、人類の文化と固く結びついてきた。旧約聖書の創世記でも、神は陸地の上に、美しく鮮やかな実をつけるさまざまな樹木を育成させ、エデンの園の中央に「生命の樹」を配したとある。アダムとイブが誘惑に負けて食べたのも「知恵の木の実」だ。古代スカンディナビア人は、世界はイグドラシルという大樹に支配されていると考えていた。 ヨーロッパにかぎらず、樹木に対する信仰は世界のあちこちで見られる。ヒンドゥー教では各種のイチジクと並んでクリシュナボダイジュとインドボダイジュが崇められてきた。仏陀は特別なインドボダイジュの下で悟りを開いたという。チチュウカイイチジクは古代エジプトの「生命の樹」である。イチジク属の五つの種はブラジルに連れてこられた黒人奴隷に端を発する民間信仰カンドンブレで大切にされ、礼拝所で奉られている。 樹木は社会文化史にも深いかかわりがある。アフリカから強制移住させられた人々は、バオバブの種子を新世界にもちこんだ。ブラジルという国名は、かつてこのあたりの多雨林によく生えていたパウブラジル(ペルナンブコ)という木に由来する。この木からとれる赤色染料は、初期のポルトガル商人を引きつけた。 聖書に何度も出てくるレバノンシーダーはレバノン人の民族の象徴であり、レバノン国旗の絵柄になっている。アメリカ、サウスカロライナ州のパルメットヤシも同じような意味合いをもっている。 バルバドスの国名は「あごひげを生やしたイチジク」という意味の樹木名、ベアーデッドフィグからきているし、中国でもイチョウを正式な国樹にしようと努力が重ねられている。 歴史的に重要な人物や出来事と、樹木が結びつくこともある。イギリスのボスコベル・ハウスにあるロイヤル・オークと呼ばれるオウシュウナラ(オーク)は、ピューリタン革命期のウースターの戦いで敗走した国王チャールズ二世が身を隠したとされる樹木の子孫だ。シャーウッドの森にあるオークの大木はロビン・フッド伝説にちなんだもので、毎年50万人の見物客を集めている。ギンコーという言葉の響きに反応しないのは、もしかして日本人くらいか?<イチョウの魅力>よりp39~40 シンボルとしてのイチョウ(ギンコー)は学術界のみならず商業界でもよく使われている。ギンコー・カフェはオーストラリアのメルボルンからドイツのフランクフルトまで、世界中のたくさんの場所にある。おしゃれなギンコー・スパやギンコー・レストランも、世界中のどこかにある。イチョウを模したデザインは、あらゆるタイプの広告に使われる。マーケティング担当者もブランド開発者も、ギンコーという言葉の響きと独特の形をした葉に、「現代的であると同時に時代を超越している」「エキゾチックだが身近」というイメージを、そしてなにより「エレガント」というイメージを重ね合わせる。 シカゴ郊外のオークパークには建築家のフランク・ロイド・ライトがかつて住んでいた家と仕事場があり、その庭に立派なイチョウの木が立っている。この木はライトがこの土地を買ったときにはまだ若木だったはずだから、家を増築するのに邪魔だと思えば深く考えず撤去することもできただろう。だが彼はそうせず、イチョウの木を囲むように建物を拡張した。ライトは何度か日本を訪れている。日本で目にしていたであろうイチョウに、彼は特別な思いを抱いていたに違いない。こんにちでは、毎年数万人の観光客が20世紀の偉大な建築家の「聖地」を訪れて、そのイチョウの木陰を通り、ギンコー・ブックショップで入場券を買う。(中略) イチョウとフランク・ロイド・ライトの組み合わせは意外でも何でもない。アーツ・アンド・クラフツ運動は、イチョウの葉をモチーフにした当時の製品にとりわけ強く影を落としている。優美でシャープな曲線美をもつイチョウの葉の形は、「機械への抵抗」という美学にぴったり適合した。イチョウはアールヌーボー運動でもモチーフになった。ナンシーとプラハにあるアールヌーボー様式の建物には、イチョウの小枝と葉のみごとなレンダリングがほどこされている。【本日のお酒。今、国内のウィスキー関連では一番ホットなシリーズではないでしょうか。ご存知イチローズ・モルトの新製品。これはブレンデッド・モルトになります。"Ginkgo"は銀杏の意。よく見るスペルだと思ったら、私の住む市の市木であるため、街路樹に多く使われており、"Ginkgo biloba"と学名を書いた札がくくりつけられているのを見ていたのでした】
2015.06.25
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1月にホンダN-BOXを衝動買いした大使だが・・・その後、(後追いではあるが)飽きもせず、車種選定の妥当性を検証しているのです。このたび、『N-BOX STYLE:Nでくるま旅』というムック本を買って、更なる検証に励んでおります。【N-BOX STYLE:Nでくるま旅】ムック、三栄書房、2015年刊<内容説明>よりホンダ・N-BOXに乗る人に役立つ情報がいっぱい。Vol.01は、N-BOXのタイプ別・アイテム別に楽しみ方を指南するほか、手軽にできるインテリアメイク、トラブルを未然に防ぐメンテナンスなどを収録。<大使寸評>Vol.01ということは、今後もこのシリーズは続くのでしょうね♪?とにかく、キャンピング仕様N-BOXのカタログを見るだけでも楽しいわけです。(標準車を買ってしまったので、もう遅いけど)それにしても、一つの車種で、このようなムックが出版されることに驚くわけです。それほど高価な本でないのが嬉しいが・・・マーケット上、こんなシリーズが成り立つのがすごい♪たぶん、このムック本は車メーカー、部品メーカー、出版社が組んで発刊されるので、本の価格を抑えてもペイできるんでしょう。bookportalN-BOX STYLE事後比較8と銘打っていますが・・・今回の記事は車種比較ではなくて、選定車種のチューンアップになっております(すいません-汗)**********************************************************************軽自動車購入後の事後比較7ホンダ N-BOXの自動車カタログ・価格比較N-BOXの性能Honda Cars明舞 学園南店
2015.06.24
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日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・ぼくらの民主主義なんだぜ ・「ドイツ帝国」が世界を破滅させる ***************************************************************ぼくらの民主主義なんだぜより<小さな声に耳を傾け、対話する:長薗安浩> 2011年4月から朝日新聞紙上ではじまった高橋源一郎の論壇時評。毎月1回、論壇雑誌や書籍だけでなく、インターネット上の言説にも注目しながら、高橋は日本の「いま」と向きあってきた。その初回から欠かさず読んできた私は、今年3月までの48本を掲載順に編んだ『ぼくらの民主主義なんだぜ』を読み、高橋が抱いている思いをひしひしと感じとった。 それは、タイトルにもある民主主義への危機感だった。東日本大震災と原発事故を機にあらわになったこの国の民主主義の脆弱さに直面し、戸惑い、時に悲嘆する一方で、高橋は絶望しないために、いつにもましてメディアの細部に目を配り、小さな声に耳を傾ける。そこには、既存の大きなシステムに依存しない、自分のことばで考えながら行動している人々が確かにいる。高橋はそれらの事実を紹介しつつ、民主主義への論考を深め、その基盤となる対話の重要性をくりかえし説く。〈「インテリジェンス」っていうのは、要するに「対話ができる能力がある」ってことじゃないかな〉 最後は多数決に拠るとしても、それ以前に少数の意見に耳を傾ける。対話をふまえて先に進む。高橋は、台湾でおきた学生たちによる立法院占拠事件をとりあげ、その撤退決定の際、リーダーがデモの参加者全員と対話した態度を讃えてこう記した。〈学生たちがわたしたちに教えてくれたのは、「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」だという考え方だった〉 自分の意見に与しない相手をすぐに罵倒する風潮が強まる中、そして数の論理で早々に憲法すら変更されそうな現在、私たちは民主主義に試されているのかもしれない。状況はかなり切迫しているが、それでもまずは相手の話をよく聞き、対話を求めていくしかないだろう。私たちの民主主義のために。 ◇高橋源一郎著、朝日新聞出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より大きい声より小さな声に耳をすませる。震災と原発、特定秘密保護法、若者の就活、ヘイトスピーチ、従軍慰安婦、表現の自由などを取りあげながら、壊れた日本を作り直す、絶望しないための48か条。著者の前人未到の傑作。【目次】ことばもまた「復興」されなければならない/非正規の思考/みんなで上を向こう/スローな民主主義にしてくれ/柔らかくっても大丈夫/「そのままでいいと思ってんの?」/一つの場所に根を張ること/「憤れ!!」/「憐れみの海」を目指して/民主主義は単なるシステムじゃない〔ほか〕<読む前の大使寸評>高橋源一郎の論壇時評は2012年8月から新聞スクラップしている大使である。だから、この新書の大部分を一度は読んでいるのだが、例の如く、記憶のかなたにあるわけです。新聞スクラップとかなりダブるけど・・・ハンディな新書で読むと、通底音が聴こえてきたりするのではないだろうか♪<図書館予約:未>rakutenぼくらの民主主義なんだぜ「ドイツ帝国」が世界を破滅させるより<国際社会の変動また的中?:佐々木俊尚(ジャーナリスト)> 人口動態の視点からソ連の崩壊や国際金融危機、「アラブの春」などを予測し的中させてきた著者が、ドイツの超大国化を警告する本。 EUが東欧を囲い込んだことによってこの地域の安価な労働力が利用できるようになり、これをドイツの製造業がうまく利用し競争力を高めた。これはEU域内の貿易の不均衡を生みだしたが、統一通貨のために為替調整が行われず、ドイツにさらに富が集積する結果になっている。この経済力がフランスを従属させ、周辺国を含めた「ドイツ圏」を生みだし帝国化している。EUでドイツは完全に一人勝ちの状態となり、盟主の地位を占めつつあるというのが著者の指摘だ。 背景には米国の衰退がある。著者によれば米国の戦後のシステムは、ユーラシア大陸の両端にある日独という二つの産業国家を管理することにあったが、このシステムが大きく揺らいでいる。加えて米国は中東での長い戦争に疲弊し、東アジアの不安定化によってこちらに注力するリバランス政策を採り、この結果、ウクライナ紛争など欧州の問題はドイツが先導するようになってきている。これがドイツを経済的のみならず、政治的にもパワーを強めることになっているというのである。 フランスの代表的な思想家であるという著者のポジションも考慮して読むべきだろう。しかし本書に描かれる世界秩序の流動化は、きわめて具体的でリアルだ。冷戦が終わり、米国が唯一の超大国であるパックス・アメリカーナ(米国による平和)の時代が幕を開けたと考えられたが、その時代は長くは続きそうにない。歴史的には長く超大国だった中国の復活やドイツの台頭など、国際社会は新たなパワーバランスへと移行しようとしている。この状況を日本人も心して俯瞰していく必要があるだろう。 ◇エマニュエル・トッド著、文藝春秋 、2015年刊<「BOOK」データベース>より冷戦終結と欧州統合が生み出した「ドイツ帝国」。EUとユーロは欧州諸国民を閉じ込め、ドイツが一人勝ちするシステムと化している。ウクライナ問題で戦争を仕掛けているのもロシアではなくドイツだ。かつての悪夢が再び甦るのか?<読む前の大使寸評>ソ連の崩壊、国際金融危機、アラブの春を予測し的中させた著者であるから・・・著者の説く「ドイツ帝国論」に注目せざるを得ないわけです。ところで、新聞スクラップの習慣のある大使は、その記事をデジタルでも残しているのだが・・・エマニュエル・トッドの分断される世界2015.2.19を再読してみます。<図書館予約:未>rakuten「ドイツ帝国」が世界を破滅させる**************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本朝日デジタルの書評から70
2015.06.23
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「東アジア」でしょうか♪しかし、今回は稀に見るほどシブいラインアップでんな。<市立図書館>・日本の文脈・巷談 中国近代英傑列伝・居住の貧困・近代日本版画の見かた<大学図書館>・朝鮮通信使の旅日記・装丁列伝図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【日本の文脈】内田樹× 中沢新一著、角川書店、2012年刊<「BOOK」データベース>より『日本辺境論』の内田樹と、『日本の大転換』の中沢新一。野生の思想家がタッグを組み、いま、この国に必要なことを語り合った渾身の対談集。<読む前の大使寸評>内田先生と中沢新一との対談ということで、知的にそそられるわけです。このお二人なら、どうしても攘夷、つまり、一見右翼的な言動になるんでしょうね♪<図書館予約:(6/09予約、6/16受取)>rakuten日本の文脈日本の文脈byドングリ【巷談 中国近代英傑列伝】陳舜臣著、集英社、2006年刊<「BOOK」データベース>より中国近代の幕開けは阿片戦争に始まる。アヘン取締りの欽差大臣、林則徐は戦争の責任をとって新疆に左遷されるが、彼がそこで構想したのは、塞防論、すなわちロシアとの国境線を守るべきというものであった。それに対する海防論の首領は李鴻章である。以来、中国近代の歴史はこのふたつの政治思想の中で揺れる。また、洋務運動から戊戌変法を経て辛亥革命へと続く苦難の歴史は、あまたの英傑の物語を生むことになる。本書では政治思想家にとどまらず、文人墨客をふくめた十五人の男たちに鮮やかな光をあてる。<読む前の大使寸評>このところ、嫌中ムードに燃え上がる大使にブレーキをかける意味でも、この本を読んでみるか・・・・ということでおます。rakuten巷談 中国近代英傑列伝巷談 中国近代英傑列伝byドングリ【居住の貧困】本間義人著、岩波書店、2009年刊<「BOOK」データベース>より職を失い、住まいを奪われる人たち、団地で進む高齢化と孤独死、規制緩和がもたらしたいびつな住環境…。人権としての居住権が軽視され、住まいの安心・安全が脅かされている日本社会の現状を詳細に報告。社会政策から経済対策へと変容した、戦後の住宅政策の軌跡を検証し、諸外国の実態をもとに、具体的な打開策を提言する。【目次】第1章 住む場がなくなる/第2章 いびつな居住と住環境/第3章 居住実態の変容、そして固定化へ/第4章 「公」から市場へ-住宅政策の変容/第5章 諸外国に見る住宅政策/第6章 「居住の貧困」を克服できるか<読む前の大使寸評>我が家は、阪神・淡路大震災の後に、一戸建てのプレハブ住宅を建てたわけですが・・・たぶん、この震災がなければ木質系の在来工法を選んでいただろうと思うわけです。この本で、プレハブ住宅がどのように書かれているか、興味深いのです。rakuten居住の貧困居住の貧困byドングリ【近代日本版画の見かた】岡本祐美著、東京美術、2004年刊<「BOOK」データベース>より浮世絵の伝統に立脚し、あるいは反発しながら、さまざまな試みに挑戦して時代時代の傑作を生み出してきた日本の近代版画。やがて日本版画は、国際的なコンクールで受賞を重ね日本を代表する美術にまで発展した。明治から昭和までの、個性きらめく版画家42人の特徴・技法・人間像がわかる一冊。<大使寸評>浮世絵版画から新版画への移行期の作家たちについても充実した内容になっています。個人的には、山本鼎、川西英、棟方志功、浜田知明、池田満寿夫あたりが気になるのです。ただ、この本では小村雪岱に一切触れていないのが、腑に落ちないのです。rakuten近代日本版画の見かた近代日本版画の見かたbyドングリ【朝鮮通信使の旅日記】辛基秀著、PHP研究所、2002年刊<「BOOK」データベース>より江戸時代260年を通じて、朝鮮から12回もの外交使節団が訪れていた。「朝鮮通信使」と呼ばれた彼らは総勢450人。漢城(ソウル)から江戸まで国書を携え、約1年の長旅をした。楽隊や文人、曲馬師をも含むエキゾチックなその行列は、当時の日本人にカルチャーショックを与え、各地でさまざまな事件や文化の渦を巻き起こした。現代に伝わる唐人踊りや人形からは、民衆の驚きと朝鮮ブームの熱気が溢れ出す。通信使ゆかりの町を絵図や写真とともに訪ね、日韓両国の友好と文化交流の歴史を探る。【目次】江戸時代の善隣外交は、こんなに盛大だった/漢城(ソウル)/釜山(プサン)/対馬/相ノ島・下関/上関/下蒲刈/鞆の浦/牛窓/室津/兵庫/大坂/京都/朝鮮人街道と彦根/大垣/名古屋/静岡/箱根から江戸へ/江戸-祭と音楽/江戸-絵画/日光<読む前の大使寸評>平凡社・東洋文庫『海游録』の訳文が読みにくいので、大使は往生したのであるが、この本はそんな読みにくさはないし、懇切な解説となっていて、ええでぇ♪rakuten朝鮮通信使の旅日記朝鮮通信使の旅日記byドングリ【装丁列伝】臼田捷治著、平凡社、2004年刊<「BOOK」データベース>より明治の洋装本以来、日本の装幀文化は、時を追って深みを増し、奥行きを広げていった。編集者による仕事、詩人による仕事、著者自装、画家、版画家、イラストレーターたちによる仕事。そして杉浦康平と杉浦を師と仰ぐデザイナーたち。また一方、独自の世界を築き上げたミニマリストたち。現代日本の装幀文化の水脈を、幅広く掘り起こした注目の書。<読む前の大使寸評>昨今では、版画について個人的ミニブームになっているのです。この本が版画と装丁の近縁性に触れていたので、借りる決め手になったわけです。rakuten装丁列伝装丁列伝byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き102
2015.06.22
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図書館で『近代日本版画の見かた』を手にしたが・・・画家別に、教科書のように丁寧な編集がなされていて好感を持ったわけです。大使一押しの川西英には触れているが、残念、小村雪岱には一切触れていません。【近代日本版画の見かた】岡本祐美著、東京美術、2004年刊<「BOOK」データベース>より浮世絵の伝統に立脚し、あるいは反発しながら、さまざまな試みに挑戦して時代時代の傑作を生み出してきた日本の近代版画。やがて日本版画は、国際的なコンクールで受賞を重ね日本を代表する美術にまで発展した。明治から昭和までの、個性きらめく版画家42人の特徴・技法・人間像がわかる一冊。<大使寸評>浮世絵版画から新版画への移行期の作家たちについても充実した内容になっています。個人的には、山本鼎、川西英、棟方志功、浜田知明、池田満寿夫あたりが気になるのです。ただ、この本では小村雪岱に一切触れていないのが、腑に落ちないのです。rakuten近代日本版画の見かた浮世絵版画から創作版画までの変遷を見てみましょう。<浮世絵版画から新版画へ>よりp10~11 江戸時代、複製技術の発達を促し、絵画芸術としても高い水準に達した木版画である浮世絵は、明治に入り次第に衰退していく。そのもっとも大きな原因は、銅板、石版、木口木版という、西洋から伝えられた新しい技術によって制作された印刷物の写実的表現が、平面的な浮世絵に比べて、当時の人々にとって新鮮で説得力をもつ表現であったことである。 そうしたなかにあって、月岡芳年、小林清親など、浮世絵の伝統に新しい西洋の表現技法を取り入れ、絵画的にも優れた作品を創造した絵師たちがいたことは忘れることはできない。小林清親 日本国内では、明治20年代には浮世絵は生命力を失い顧みられなくなるが、欧米では浮世絵の評価は高まるという皮肉な現象となった。 この状況を見聞きしていた浮世絵商渡邊庄三郎は、美しい日本の木版画の衰退を憂い、版元となって絵師・彫師・摺師の分業による伝統版画の復活をめざし、新版画運動を展開する。 それは、明治末期から巻き起こる創作版画運動に対抗するものであったが、結果的にみれば、この二つの活動が、日本の近代版画の隆盛時代を作り上げることにもなった。<山本鼎>よりp46~47■芸術としての版画をめざす 木口木版の彫師であり、画学生でもあった山本鼎が明治の末に直面したもの、それは彼が愛してやまない「版」が単なる複製手段と化し、その役割すら写真に奪われようとしている現実であった。 海外の創作版画、とりわけイギリスの作家ウィリアム・ニコルソンに感化された彼は、画家が版工程のすべてを手がける自画自刻自摺というシステムを日本にも根づかせ、版画を芸術の一分野として、油彩画や木彫と同等の地位に引き上げようとしたのである。 そして自らの力強い作品でもって、また技法解説の執筆や雑誌『方寸』の発行により、創作版画の「種蒔く人」としての歩みを進めてゆく。■斬新な色面構成 1911年、さらなる芸術修業のため渡仏した鼎は、新たな素材を得て珠玉の作品群を生む。それまでの骨太な造形から一転、パステル調の広々とした色面と表情豊かな刀遣いによる構成は素朴でありながら斬新、まさに木版ならではの表現である。 1916年(大正5)に帰国、18年には日本創作版画協会を結成。自ら蒔いた種が着実に育つのを見ることになるが、この頃から鼎は版を離れ、油彩あるいは美術運動へと傾いてゆく。したがって版画の制作期間は短く、残された作品も多くはない。しかしながら大正から昭和へ、そして戦後へと及び、数々の作家を世に送った創作版画の力強く太い流れの源は、山本鼎その人なのである。<版画王国と戦後版画史の形成>よりp125 日本は1951年のサンパウロ・ビエンナーレに戦後はじめて参加した。このとき駒井哲郎と斎藤清の版画が受賞して以来、版画家たちがわが国の代表者として、もしくは自主的に世界各国で開催される国際版画展に出品し、頻繁に受賞の栄誉に輝いた。 中でもヴェネチアでの棟方志巧と池田満寿夫の版画大賞受賞は、版画大国日本の呼び名を決定的にした。 また1957年より79年まで全11回開催された東京国際版画ビエンナーレは国際版画展の中では最大規模のもので、戦後の日本の版画史は同展での受賞者作品によって形成されてきたといえる。池田満寿夫小林清親の画像山本鼎の画像池田満寿夫の画像
2015.06.21
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図書館で『朝鮮通信使の旅日記』を手にしたが・・・平凡社・東洋文庫『海游録』のリベンジをしようと思ったわけです。『海游録』の訳文が読みにくいので、大使は往生したのであるが、この本はそんな読みにくさはないし、懇切な解説となっていて、ええでぇ♪【朝鮮通信使の旅日記】辛基秀著、PHP研究所、2002年刊<「BOOK」データベース>より江戸時代260年を通じて、朝鮮から12回もの外交使節団が訪れていた。「朝鮮通信使」と呼ばれた彼らは総勢450人。漢城(ソウル)から江戸まで国書を携え、約1年の長旅をした。楽隊や文人、曲馬師をも含むエキゾチックなその行列は、当時の日本人にカルチャーショックを与え、各地でさまざまな事件や文化の渦を巻き起こした。現代に伝わる唐人踊りや人形からは、民衆の驚きと朝鮮ブームの熱気が溢れ出す。通信使ゆかりの町を絵図や写真とともに訪ね、日韓両国の友好と文化交流の歴史を探る。【目次】江戸時代の善隣外交は、こんなに盛大だった/漢城(ソウル)/釜山(プサン)/対馬/相ノ島・下関/上関/下蒲刈/鞆の浦/牛窓/室津/兵庫/大坂/京都/朝鮮人街道と彦根/大垣/名古屋/静岡/箱根から江戸へ/江戸-祭と音楽/江戸-絵画/日光<読む前の大使寸評>平凡社・東洋文庫『海游録』の訳文が読みにくいので、大使は往生したのであるが、この本はそんな読みにくさはないし、懇切な解説となっていて、ええでぇ♪rakuten朝鮮通信使の旅日記京大名誉教授の上田正昭さんが、冒頭で朝鮮通信使の意義を述べています。<通信使の意義:上田正昭>よりp5~7 こうした「通信」「通商」のなかで朝鮮通信使がとりわけ注目されているのには、いくつかの理由がある。まず第一に忘れてならないのは、大義名分なき豊臣秀吉らによる文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)の戦後処理と国交回復をめざす努力の成果として、朝鮮王朝からの使節の来日が実現していることである。 徳川幕府の要請にこたえて使節を派遣した朝鮮王朝側が、その第3回(1642)までを回答兼刷還使と称して、捕虜として連行抑留された人びとを取り返すことを任務としたこともみのがせない。刷還使といわずに信使あるいは通信使を名乗るようになってからも、その第6回(1655)まで捕虜刷還の交渉は続いている。 第二に注目されるのは、その使節団の質と量である。朝鮮通信使の一行はおよそ400名から500名におよぶ大文化使節団であって、政治家・軍人ばかりでなく、学者・医者・画家のほか歌舞・音曲の名手なども参加していた。江戸滞在中の曲馬上演は、将軍家光の求めで行われたのがそのおこりだが、第7回(1682)からは「曲馬上演」が恒例化した。なお「良医」の参加も第7回からであった。 ちなみに使節団の人数については、第3回を300名とする説が多いけれども、近時の研究では460名以上であったことが確かめられており、最後の回(12回)は対馬どまりであったが、それでもその一行は336名であった。 朝鮮通信使のメンバーは多彩であって、幕府・各藩大名とのまじわりばかりでなく、日本の学者・文人・僧侶・医者・画家などとの交流もさかんであった。筆談唱酬(詩文の贈答)も活発に行われている。 徳川幕府と朝鮮王朝との間にくりひろげられた二百有余年の外交には、時期による内容の変化があって、これを一律に論ずるわけにはいかない。たとえば特別行事としての日光参詣は、寛永年間(第4回、第5回)と明暦元年(第6回)のみで、家康の日光山大権現廟に加えて、明暦度には家光の大ユウイン廟にも参詣した。そこには幕府側の意図があったが、そうした思惑をこえての善隣友好を、朝鮮王朝・徳川幕府の両者が莫大な経費を負担して実施したことを直視する必要がある。幕府が費やした額は100万両をこえる場合もあった。 朝鮮通信使の時期区分については、第3回までを国交再開期、第8回までをあらたな通交関係の確立期、第11回までを恒例遵守の安定期として、第12回以後を衰退期とみなす説が妥当と考えられるが、通信使の来日が終わったのちも、対馬藩では朝鮮訳官使の来島を中心とする外交がつづく。 朝鮮通信使を媒介とするまじわりのなかで、私がもっとも重視しているのは、日本の民衆が朝鮮通信使とじかにふれあった民衆のまじわり、すなわち民際外交の展開である。宿泊先の紹介として、ドングリ国関内の兵庫津を見てみましょう。<兵庫>よりp112~114 京大坂に近い兵庫津は、瀬戸内航路の要津で、室町時代の朝鮮通信使も、往復ともこの港を利用していた。とくに日明貿易が始まると、兵庫津は対明貿易の中心港としてにぎわい、三代将軍・足利義満や六代将軍・義教は、明船見物のため再三、兵庫津を訪れていた。 ところが、応仁の乱が始まると兵庫は荒廃。港の能力を破壊されてから対明貿易の中心は境に奪われ、昔の面影を失った。 しかし、豊臣秀吉が境の商人を大坂に移すと、兵庫津は大坂の外港として勢いを取り戻した。江戸時代の朝鮮通信使の一大船団は、計12回のうち兵庫津に11回立ち寄り、10回宿泊している。 文禄・慶長の役後初めての朝鮮通信使は慶長12年(1607)の4月7日、兵庫津に入港、兵庫城で兵庫を預っている片桐真隆の丁重な接待を受けた。 夜明けに室津を出航した一行は、網干、高砂、播磨、明石、須磨の瀬戸の浦々を回り、一幅の絵のようだと感じ入った。兵庫津の繁盛している様子は赤間関の比でなく、瀬戸内の第一級の外交都市であると称賛した。 第二次(1617)の通信使は8月16日、順潮に乗って兵庫に着いたが「日はすでに暗く東風が激しいので下船して浜近くの民家に止泊した。兵庫の住民がきわめて多く、民家も6000~7000戸に達する」と正師の呉充謙は記している。 通信使が船上での宿泊を中止して、深夜、民家へ移ることが可能なほど、兵庫の町人たちには実力があった。 兵庫津は1000隻を超える朝鮮通信使船団の入港に備えて、宿舎の検分に訪れる尼崎藩並びに大坂町奉行所役人たち、接待・案内係の関係者役1万人で、人口は3万人にふくれ上がっていた。宿舎の修繕、料理人の送迎、緒道具の調達、船入りの浚渫、桟橋設営、番所の増設、接待にあたる肝煎、給仕の割り当てなど、港始まって以来の人出である。 入港した通信使船団を、兵庫から大坂まで、帰国時には兵庫から明石までの曳船、送迎船派遣の義務があり、他に長州までの各港に通報する船など、送迎船を合計すると762隻、水夫など3762人、費用はしめて4万1424両。 文禄・慶長の役後1回目の使節の副師・慶ソンは、日本の国情を探る超多忙な毎日の中、鋭い観察記録を残した。(中略) 兵庫津は、江戸初期から幕末まで武士が少ない「民」の都市であり、「官」の都市・尼崎とよく対比される。 尼崎の人口が1万4000人前後であるのに対し、兵庫津は2万人前後で「民」のほうが遥かに多い。政治は尼崎が中心であったが、外交、経済、文化は兵庫津が中心であった。朝鮮通信使の大船団の入港は異文化との貴重なふれ合いの場であり、「民」中心の都市には進取の気象が溢れていた。
2015.06.21
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我が家は、阪神・淡路大震災の後に、一戸建てのプレハブ住宅を建てたわけですが・・・たぶん、この震災がなければ木質系の在来工法を選んでいただろうと思うわけです。確かに地震に対してはプレハブ住宅が一番強かったが、プレハブ住宅が好きというのでもなかったのです。このように個人的な好き嫌いがあるのだが、この本でプレハブ住宅がどのように書かれているか、興味深いのです。【居住の貧困】本間義人著、岩波書店、2009年刊<「BOOK」データベース>より職を失い、住まいを奪われる人たち、団地で進む高齢化と孤独死、規制緩和がもたらしたいびつな住環境…。人権としての居住権が軽視され、住まいの安心・安全が脅かされている日本社会の現状を詳細に報告。社会政策から経済対策へと変容した、戦後の住宅政策の軌跡を検証し、諸外国の実態をもとに、具体的な打開策を提言する。【目次】第1章 住む場がなくなる/第2章 いびつな居住と住環境/第3章 居住実態の変容、そして固定化へ/第4章 「公」から市場へ-住宅政策の変容/第5章 諸外国に見る住宅政策/第6章 「居住の貧困」を克服できるか<読む前の大使寸評>我が家は、阪神・淡路大震災の後に、一戸建てのプレハブ住宅を建てたわけですが・・・たぶん、この震災がなければ木質系の在来工法を選んでいただろうと思うわけです。この本で、プレハブ住宅がどのように書かれているか、興味深いのです。rakuten居住の貧困プレハブ住宅と分譲マンションの出現で、街の景観が変わったほどですが、そのあたりを見てみましょうp137~142<プレハブ住宅の発展> 住宅産業としてのプレハブメーカーが登場するのも、1950年代から60年代にかけてです。たとえば、もっとも古い積水化学は47年設立ですが、ナショナル住宅産業が50年、ミサワホームが51年、大和ハウスが55年、積水ハウスが60年といった具合です。そして87年には日経・住宅供給ランキング130社の上位5位までを、これらプレハブメーカーが占めるまでに成長することになります。これは国の産業政策としてのプレハブメーカー育成策によるところが大きかったのです。 プレハブ住宅は当初、組み立て住宅と呼ばれていました。価格は安いが粗悪で、物置などに使われることが多かったのです。ところが、東京オリンピック直前の63年、住宅建築の需要に対応する名目で、建設省が省内に「建築生産近代化促進協議会」を設けてプレハブ住宅促進を打ち出し、「住宅建設工業化の基本構想」をまとめました。それ以降、プレハブ住宅が一挙に拡大することになります。 さらに71年、建設省と通産省が80年までに一戸建てプレハブ住宅を、75年当時の約半分の価格(床面積100平方メートルで500万円台)で供給しようという「ハウス55」なるプロジェクトをスタートさせます。それによって、供給拡大に一層拍車がかかることになり、従来工法による住宅供給を超えることになったのです。つまり、国の後押しがあって、プレハブ住宅の需要が増え、メーカーはその基盤を確かなものにしていったのです。 しかし、プレハブ住宅は戸建てが中心でしたから、都市空間を著しく改変するまでには至りませんでした。その都市空間が一変するのはマンションという集合住宅供給が住宅産業の主力になるに至ってからのことです。<大型分譲集合住宅の建築ラッシュ> 戦後の東京で分譲集合住宅が初めて登場したのは1956年のことです。日本信販の子会社であった信販コーポラスが新宿区四谷に建てた四谷コーポラスが最初です。この集合住宅は高級志向で、当時としては珍しいセントラルヒーティングを備えており、500万~800万円台で分譲されました。同年には東急代官山アパートが賃貸集合住宅として誕生しています。 こうした富裕層を対象としたものが大衆化するのは、秀和が60年に青山レジデンスという集合住宅を売り出してからだといわれています。これらはいずれも都心につくられましたが、60年代末になると、郊外に大型の団地まで現われることになります。田んぼの中に公団や公社の団地と同様な街が出現したわけです。 ただし、このあたりまでは民間集合住宅の開発によって、周辺住民が異議を唱えるほどに空間が改変されてしまうことはなかったように思われます。また住宅産業も今日ほど巨大化していませんでした。それが一変するのは中曽根内閣によって、民間による都市再開発が進められて以来のことではないかと思われます。 中曽根内閣による民間資本への支援策は、都市・建築規制の緩和と国公有地の払い下げの二つを中心に進められました。うち規制緩和は、83年4月に経済対策閣僚会議で「今後の経済対策について―規制の緩和策による民間投資の推進策」が決定されたのを受けて、一気に走りだします。政府に民間活力検討委員会が設けられ、その報告に基き、建設省がまとめた「規制緩和等による都市開発の促進方策」は、それまでの都市計画法や建築基準法が行ってきた規制策を大幅に緩和して、民間資本が都市開発に参入しやすくしようとするもので、きわめて多岐にわたるものでした。 それは例えば、都市計画を見直し、大都市中心部の住宅地を中高層住宅に代える、特定街区での容積率の割り増しを行い、複数街区では未利用容積の移転を可能にする、住宅を用途とした建築物に大幅な容積率の割り増しを認める市街地住宅総合制度を積極的に活用する、などといった内容でした。これにより民間資本は市街地に大型集合住宅を開発しやすくなったのです。 東京では、隅田川の景観を一変させた超高層の集合住宅が出現することになり、それに続き各所でいわゆるタワーマンションと称される巨大集合住宅の建設ラッシュが起こります。そして住民との間でさまざまな紛争を起こすことにもなったのです。こうした施策が「中曽根アーバンルネッサンス」といわれたのは前述している通りです。 <住宅産業の繁栄、住宅政策の貧困> 国公有地の払い下げについては、中曽根首相の指示で政府に国公有地等有効活用推進本部が設けられ、まず人口10万人以上の都市にある国有地163件(65ヘクタール)などを払い下げることが決定されます。これを受けて大蔵省理財局長の私的諮問機関、公務員宿舎問題研究会が、わずか1ヵ月の検討で、そのモデル第一号として東京都新宿区の西戸山団地(30ヘクタール)の払い下げを決めたのを皮切りに、各地で旧国鉄用地を含め、国公有地の払い下げが行われることとなります。 この西戸山団地の払い下げを1983年、随意契約で受けたのは、三菱地所を発起人総代とする出資者募集に応じた不動産業56社により設立された西戸山開発会社です。この会社の中心になったのは中曽根首相に個人献金をしていた人物でした。同社はそれまで中層400戸の団地を中高層670戸の集合住宅団地に再開発しました。(中略) いずれにしても、この中曽根民活はそれまでの都市における生活空間を経済空間に変え、これをきっかけに大手住宅産業とデベロッパーがますます巨大化していくことになります。 こうした直接、住宅政策によらない、むしろ産業政策として進められた住宅供給が中高所得層の住宅取得・改善に果たした役割は無視できないところですが、だとしたら住宅政策は、そうした住宅供給に応じられない低所得層を対象とした施策をより重点的に進めるべき公的責任があったはずです。 その公的責任が縮小するばかりなので、逆に住宅産業による住宅供給が隆盛の一途をたどり、低所得層まで無理をして住宅取得するケースが増えるのです。 その結果、ローン地獄や破産状態に追い込まれる人たちが増え、また居住貧困、居住格差が拡大し、さらには街全体が壊れていっているのは、どう見てもいびつとしかいいようがありません。確かに東京の様変わりは劇的だったけど、中曽根さんと秀和が裏で繋がっていたりして?(未確認でおます)
2015.06.20
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図書館で陳舜臣著『巷談 中国近代英傑列伝』を手にしたが・・・おお神戸にゆかりのある陳舜臣さんの本やんけ♪このところ、嫌中ムードに燃え上がる大使にブレーキをかける意味でも、この本を読んでみるか・・・・ということでおます。【巷談 中国近代英傑列伝】陳舜臣著、集英社、2006年刊<「BOOK」データベース>より中国近代の幕開けは阿片戦争に始まる。アヘン取締りの欽差大臣、林則徐は戦争の責任をとって新疆に左遷されるが、彼がそこで構想したのは、塞防論、すなわちロシアとの国境線を守るべきというものであった。それに対する海防論の首領は李鴻章である。以来、中国近代の歴史はこのふたつの政治思想の中で揺れる。また、洋務運動から戊戌変法を経て辛亥革命へと続く苦難の歴史は、あまたの英傑の物語を生むことになる。本書では政治思想家にとどまらず、文人墨客をふくめた十五人の男たちに鮮やかな光をあてる。<読む前の大使寸評>このところ、嫌中ムードに燃え上がる大使にブレーキをかける意味でも、この本を読んでみるか・・・・ということでおます。rakuten巷談 中国近代英傑列伝中国の文化人といえば、何といっても魯迅でしょう。ということで、先ず魯迅を見てみます。<中国人の「たましい」を革新する魯迅>よりp119~121 中国の近代化の幕開けは、1840年のアヘン戦争から、と言われます。外国の「力」と接触して、自国の衰微を人びとが自覚したのが、中国の近代化のはじまりでした。アヘン戦争のあと、清国の衰退はだれの目にもあきらかでした。太平天国の戦争、清仏戦争、日清戦争と清国の傾斜はますます急になります。清国を倒して、新しい政権を打ち立てるしか、国の新生はない。そして1911年、辛亥革命によって帝国体制は倒され、中国は共和体制に移行します。 「体制」は文字のとおり、人間の体にあたります。近代中国の「からだ」をつくったのは孫文であり、「たましい」をつくったのは魯迅です。はじめ医学を学んだ魯迅は「中国人は医学で体を治すより先に、心を治さなければならない」として、文学活動に入る決心をするのです。 現代の私たちにとっては、魯迅を知ることは、近代中国を知ることなのです。 魯迅はペンネームで、姓は周、名は樹人です。魯は母方の姓からとりました。1881年、セッコウ省紹興の生まれで、原籍は湖南の道州です。とはいえ紹興に移住して魯迅の代で14世なので、もう生粋の紹興人と言ってよいでしょう。周家が紹興へ移住したのは、明末清初のころではないかと推測できます。まだもとの土地の気風がすこしは残る歳月かもしれません。「魯迅の背骨はもっとも硬く、彼には奴隷根性やへつらいの態度がいささかもなかった」とは毛沢東の魯迅評ですが、魯迅の背骨の硬さは、ひょっとすると湖南道州のものではないかと思えます。 紹興はもともと才子を生んだ土地です。「紹興爺」といって、名秘書の産地です。天下の形勢を知ろうと思えば、紹興爺に聞けという諺があります。秘書であるからには、裏面工作をしなければなりません。時代の流れを敏感にとらえて、主人のための方向転換もしなければなりません。頭の回転が速くなければなりません。頭の回転が速いことにかけては、魯迅は紹興の人間です。しかし、魯迅が裏面工作や妥協を得意とする紹興爺のたぐいではないことも確かです。頭脳は紹興ですが、背骨はどうやら湖南のものであるらしい。 湖南は昔から頑固者の産地として知られています。妥協を知らない、硬骨の湖南人の祖型は屈原(前343頃~277頃)です。屈原を生んだ楚は、すなわち湖南です。魯迅を読んでいると、ふと屈原が浮かびます。また屈原を読んでいて、いつのまにか思いを魯迅に馳せることもあります。屈原の詩は、憂国の情から発したものが多く、きわめて政治的です。 魯迅の作品は、中国が危急存亡のときにつくられました。魯迅は勇敢に戦いました。死に臨むまで、文学者、革命者としての戦いを放棄しませんでした。祖型の屈原よりも、魯迅のほうがみごとに湖南的な背骨の硬さをあらわしているように思えます。辛亥革命から1932年の上海事変頃にかけての魯迅を見てみましょう。p126~129 さらに、辛亥革命につづく袁世凱ら軍閥政治の台頭に国民はうんざりします。王朝を倒した勢力が、結局、旧勢力に近い者にその成果を奪われた歴史の事例は多い。こんどは軍閥の背後に外国の勢力があって、より複雑になっていました。 このころ北京にいた魯迅は「辛亥革命を見、第二革命を見、袁世凱の帝号自称、張勲の復ヘキを見、見来たり、見去って疑いはじめた。かくて失望し、落胆しきっていた」と、知識人の代表的な精神状況を述べています。 教育部に入った魯迅は、北京大学で小説史の講義などをしていました。その前に同郷の銭玄同にすすめられて、「白話文」のモデルともいうべき『狂人日記』が発表されたのは、5・4運動の前年、1918年のことです。 『狂人日記』は、儒教を徹底的に批判した小説で、儒教は人を食うものだ、と宣言します。掲載誌は1915年から発刊されていた陳独秀の『新青年』です。『新青年』の果たした啓蒙活動は高く評価されなければならないものです。その後、『シン報』に連載したのが『阿Q正伝』です。中国人の心に深く巣食っている主人公阿Qと同じ精神「弱い自分が負けると、相手をろくでもないと考えることで精神的に勝利しようとする習性」を容赦なく暴き出した小説です。当時、読者はまるで自分のことを書かれているような気持ちになり、小説はたいへんな評判を呼ぶことになります。 1919年5月4日、北京で起きた大規模な反日デモは、中国の反帝国主義運動として全国に展開され、学生、知識人の運動から労働者、市民まで参加する民族運動に発展します。この5・4運動は文化面、精神面での新しい革命でもありました。話し言葉で書く白話文はこのころには定着してきました。 5・4運動以後、中国の革命運動は、政治的には反帝国主義、精神的には反封建主義を明確にして、個性の解放をめざしていきます。意識革命とその周辺のものは、すべて5・4運動と関係があります。前途に希望を失っていた知識人も、5・4運動で自信をとりもどしたのです。 1932年1月、上海事変が起きます。魯迅はイギリス租界にあった友人の内山完造の家に避難します。魯迅には、蒋介石政府から逮捕状が出ていました。蒋介石政府の警察権のおよばない租界で、かろうじて文筆による抵抗をしていたのです。このころ、日本の友人である作家佐藤春夫や中国文学者増田渉たちは、魯迅の身辺の危険を恐れ、来日を誘っています。しかし、魯迅はそれをことわります。 若いときに留学した日本に再び行くことは魯迅の夢でした。しかし、蒋介石政府は日本の侵略に背をむけて、内戦をやめて抗日に立ちあがれと請願する学生を大勢、殺しています。いまは戦いのときです。若い彼らの死にむくいるためにも、戦いを放棄することはできないのです。 翌年、魯迅は友人の楊センをテロで失います。白色テロがつぎに狙うのは魯迅と言われていました。
2015.06.19
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図書館に借出し予約していた『日本の文脈』を、1週間後にゲットしたのです。(早期ゲットには、3年前の刊行など古い本が狙い目のようです♪)内田先生と中沢新一との対談ということで、知的にそそられるわけです。このお二人なら、どうしても攘夷、つまり、一見右翼的な言動になるんでしょうね♪華夷秩序や「中体西用論」など、中華についても、いいたい放題で語られていて・・・ええでぇ。【日本の文脈】内田樹× 中沢新一著、角川書店、2012年刊<「BOOK」データベース>より『日本辺境論』の内田樹と、『日本の大転換』の中沢新一。野生の思想家がタッグを組み、いま、この国に必要なことを語り合った渾身の対談集。<読む前の大使寸評>内田先生と中沢新一との対談ということで、知的にそそられるわけです。このお二人なら、どうしても攘夷、つまり、一見右翼的な言動になるんでしょうね♪<図書館予約:(6/09予約、6/16受取)>rakuten日本の文脈大使の関心といえば、まず華夷秩序への反発があるわけで、そのあたりを見てみましょう。<トリックスターとしての国民>よりp90~94内田:日本って、中華から見れば東夷、東のどんづまりにいるわけであって、外来の文明素材は一粒たりとも逃がさず全部取り入れて、それを咀嚼するしかなかった。丸山真男が『日本文化のかくれた形』(岩波現代文庫)で言っていたことですけれど、日本人の基本的な態度というのは「きょろきょろする」ことなんだそうです。外側に自分のところよりも上位の文化があって、「善きもの」はつねに外部からやってくる。日本の思想史を通覧してみても、そこに一貫して存在する「コンテンツ」はない。しかし、一貫して存在する「モード」はある。それは、外来のものにほとんど無批判に飛びついて、それを呑み込んでゆくという文明受容の態度ですね。そのつど、次々と支配的な思想は変化するけれど、変化する仕方は変化しない。 外からやってくるものは、良否を吟味することなしに、どんどん取り込んでいく。でも、それが咀嚼され、消化されて、自分の中にしっかり定着して、日本文化の堅牢な土台や骨組みになるかというと、ならない。 次の外来のものが来ると、それまでのものを「もう古い」と言って捨て去り、最新流行のものに飛びつく。でも、古いものを「古い」というだけで捨てて新しいものに飛びついた自分の過去の行動を正当化するためには、次に新しいものが来たときには、逡巡せずにいま持っているものを「こんなのは、もう古いもの」と言って捨てなければならない。そうしないと、話のつじつまが合わない。 だから、外来のものを取り込めば取り込むほど、渇望はいや増し、変化しなければならないという強迫はつのってゆく。丸山真男はそういう日本の変化への渇望のことを「きょろきょろ」という擬態語でみごとに示したと思います。 でも、こういう日本人の、外来のものに対して焼けつくような欲望を抱く傾向そのものを否定的にとらえる必要はないんじゃないかって僕は思うんです。二千年前からずっとこうやってきて、それでそこそこ気分よく暮らしているわけですから。 近代に入ってから、いくつか対外戦争をしたけれど、この65年ほどは、戦争もしていないし、国境線は侵犯されていないし、通貨も民生も安定しているし、自然もきれいだし・・・・結構いい線行っていると思うんです。 自分たちはローカルな後進国で、劣っていて、外側のどこかにすばらしい上位文化があって、それに追いつかなくちゃいけないって「きょろきょろしている」というあり方が日本人的であるというのなら、それはそれでいいじゃないか、と。そういうのが僕の考えなんです。「それが日本人なんだよ」っていう国民的合意を形成して、正確な自己認識をした上で生きていけばいいんじゃないの、というのが僕からのご提案なわけです。 その上で、そういう国民文化において、汎用性の高い言語とはどういうものだろうかということを考えてみると、学術的な言語としての外来の「真名」と、土着の「仮名」のハイブリッド言語なのではないかと思うんです。 外来のものと、土着のもの、その両方に足をかけて、ゆらゆらバランスをとっているような言語。そういう言語が日本語の歴史の中で、いちばん長持ちのする、日本人の身体にいちばん深くしみ通る言葉じゃないかと思うんです。そのハイブリッド性のうちにこそ、日本人の「魂」のようなものがあるのではないか、と。 (中略) アカデミックな世界にも片足を突っ込んでいるけれど、アカデミックな言葉だけで文章を書くのは厭だ。でも、生活者でございと居直って、頭も尻尾もないような、情念的なだけの言葉も嫌いである。スカッと論理の筋目を通したいけど、人間の弱さや傷つきやすさを勘定に入れない原理主義は大嫌い。そういうややこしいことを願っているわけです。原理と生活実感の二極のあいだで、きょろきょろ、ふらふらしている自分がいるんです。60歳になんなんとして、ようやくそれがわかってきた。「これが日本人の生きる道」だ、と。中華に対するメンツはさておいて、ローカルな文化で結構、集団的自衛権などもってのほかの内田先生である。大使はややいらつくわけだけど、貴重なご提案だと思うわけです。中韓が思想的な拠りどころとする「中体西用論」が、お二人でけちょんけちょんに語られています。<いくら入れても壊れない器>よりp139~140内田:日本の辺境性の一つに、外来の制度や文物を、とにかく一回全部取り入れるということがあります。「これは取る、これは取らない」と選り分けずに、とりあえず全部入れてしまう。そこで、外からどんどん取り入れたときに、自分の中身がぎっしり詰まっていると、構造が壊れてしまうので、外から取り入れても民族的な本体が損なわれないようにするためには、どうしたらいいんだろうって考えた。その結論が、自分をスカスカなものにしておくことで、その最良の例は、明治維新後の近代化ですね。 日本と中国と朝鮮の三つを比べるとわかりやすいけれど、中国人は「中体西用論」で、「すべての文明は中国が起源である」という考え方をする。いまはたまたまヨーロッパやアメリカが進んだ技術を持っているけれども、もとをただせば、みんなうちがオリジンなのである、と。火薬も羅針盤も紙も。中沢:北京オリンピックでも、うちがオリジンだってアピールしてましたね。内田:西洋風にアレンジされたものを使うけど、もともとはうちのだし、われわれの本体はまったく変わらない、というのが中体西用論。しかし、この思想は、19世紀の終わりに帝国主義国家が侵略してきたときに効果的な対抗をすることを致命的に妨げた。 すべての起源は中国にあるということになると、国外に中国人の知らない新しい概念や構想が存在するということはあってはならない。それを認めると知的な華夷秩序の全体が崩れてしまう。中国オリジン説になじまないものはシステマティックに排除される。 それは「小中華」である朝鮮も同じですね。そのとき、日本は、外来の制度文物を入れては適当にアレンジしてローカライズするということを1500年以上もやってきていたので、平気でどんどん入れちゃうわけですよね。長いあいだ、中国のものを入れることに慣れているから、外国語の文献を翻訳するにしても、日本語に存在しない概念を二文字の漢字熟語に置き換えるだけだから、ほとんど「漢訳」なんですよね。 ルソーの『社会契約論』は中江兆民が訳すんですけど、日本語訳と漢訳を同時にやっているんです。意識としては、外国語を外国語に置き換えているだけだから、それによって民族的アイデンティティが揺るがされるとか、そういうことは起きないわけです。だから、日本人は外来のものの受容と換骨奪胎が得意なんです。土着語的な本体の上に、外国起源の新しい概念を「トッピング」するだけなんですから。この語らいには、大使も溜飲を下げたしだいでおます♪
2015.06.19
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日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・江戸日本の転換点―水田の激増は何をもたらしたか・セルデンの中国地図***************************************************************江戸日本の転換点―水田の激増は何をもたらしたかより<列島改造!! 成長の限界に直面:]柄谷行人(哲学者)> 明治以後、江戸時代の社会は、概して否定的に見られてきた。それが参照すべきものとして見られるようになったのは、むしろ近年である。それは、戦後日本で、「日本列島改造」と呼ばれた経済の高度成長があったあと、成長の停滞とともに、環境問題など、さまざまな矛盾が露呈してきたことと関連している。そのため、江戸時代に、低成長で持続可能な経済のモデルが見いだされるようになった。 本書が覆すのは、江戸時代にそのように静的な社会があったという見方である。実は、17世紀に日本中で、新田開発が進められた。見渡すかぎり広がるような水田の風景が生まれたのはこの時期である。それまで水田は主として山地にあった。これこそまさに「日本列島改造」である。それはまた、水田を中心にした植物・動物の生態系を作り出した。水田は同時に、狩猟の場であり、ため池は漁労の場であった。本書では、そのあり方が、加賀藩の篤農家、土屋又三郎が書いた『耕稼(こうか)春秋』や『農業図絵』を使って、具体的に説明される。 ところが、18世紀に入ると、この発展は飽和状態に達し、また、水田の普及がさまざまな困難をもたらした。最大の問題は、地味の低下による肥料の必要である。その結果、草山がつぶされ、干鰯(ほしか)などの肥料が使われるようになった。そのために、農業は貨幣経済の中に巻き込まれた。また、それまであった生態系の循環が壊れた。この停滞期の状況は、田中丘隅(きゅうぐ)の農書を通して説明される。 こう見ると、江戸時代の水田農業が18世紀に成長の限界、環境の破壊に直面したことが明らかとなる。それを克服できないままで幕藩体制は終わった。したがって、江戸時代をたんに環境保全、低成長社会のモデルとすることはできない。むしろ、この問題に先駆的に取り組んだものとしてみるべきである。 ◇武井弘一著、NHK出版、2015年刊<「BOOK」データベース>よりなぜ水田を中心にした社会は行き詰まったのか。老農の証言から浮かび上がる歴史の深層。米づくりは持続可能だったのか?新田開発は社会を豊かにする一方で農業に深刻な矛盾を生み出した。エコでも循環型でもなかった“江戸時代”をリアルに描き出す力作。【目次】序章 江戸日本の持続可能性/第1章 コメを中心とした社会のしくみ/第2章 ヒトは水田から何を得ていたか/第3章 ヒトと生態系との調和を問う/第4章 資源としての藁・糠・籾/第5章 持続困難だった農業生産/第6章 水田リスク社会の幕開け/終章 水田リスクのその後と本書の総括<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:未>rakuten江戸日本の転換点―水田の激増は何をもたらしたかセルデンの中国地図より<自由な海こそ富や文化の源泉:吉岡桂子(本社編集委員)> 雲のように波がうねる緑がかった海原を、中国沿岸部と東南アジアの島々が取り囲む。淡い砂色の陸地には、薄い青と茶に塗られた山々。シダや竹、アヤメが繊細に描かれ、ゴビ砂漠にはチョウが舞う。心象風景のごとくあいまいな陸に対して、港を結ぶ航路は細かく記されている。 幅1メートル、長さ1.6メートルの山水画風の地図は、400年ほど前に作られたとみられている。この時代に、海洋にかかわる国際法を先駆的に論じた一人である英国の法律家セルデンが手に入れ、オックスフォード大学に寄贈していた。本書は、東アジア史、とりわけ中国に詳しい著者が、地図の来歴を探る物語である。 地図の真ん中に位置するのは、南シナ海。近年は、領有権をめぐって国益が激しくぶつかりあう海域だ。だが、著者は、この地図から国家の、ましてや現代の争いを解析するわけではない。商人に行き先を示す「海図」として、国際紛争とは無縁のものとみなしている。国力の増大につれて所有を声高に主張する中国には「(地図の存在が)外交ゲームの切り札にはならない」と注意深く釘をさす。 主役は「地図と交差した物語を持つ人々」。富を求めて命をかけて海を渡った商人や船乗り、海の向こうの文化や宗教に好奇心を抱いた東西の知識人である。スチュワート朝の英国から明代の中国、香辛料の権益をめぐって欧州各国が争ったインドネシア東部の島々へと舞台は回る。東インド会社が商館を置き、欧州や中国の人々が住んでいた長崎・平戸も登場する。 著者が仕掛けた羅針盤に従って読み終わると、序章の言葉を思い出した。「愛国心や国益は、純粋な知識の探求を阻む強力な要因になる」。異なるものが共存し、行き交う自由な海は、富や文化の源泉となってきた。国家の威信から海を解き放てるか。セルデンの地図はいま、そう問いかけているような気がする。 ◇ティモシー・ブルック著、太田出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より400年のときを経て1枚の地図が歴史を変えた。英国で発見された中国の古地図には、鎖国下の日本を含む東アジアによる大航海時代の記録が残されていた!世界に衝撃を与えた地図の謎に迫る歴史ノンフィクション。<読む前の大使寸評>吉岡桂子委員の推す本であれば、いい本だと思います。ちょっと無責任な寸評かもしれないが、それだけ吉岡委員を信頼しているわけです。<図書館予約:未>rakutenセルデンの中国地図**************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本朝日デジタルの書評から69
2015.06.18
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大学図書館で観たDVD映画のその後です。このところ、鑑賞ペースが落ちているが・・・劇場で観る映画の迫力には敵わないと思うからでしょうか。・舟を編む (2014.12.1観賞)・インターステラー(2015.6.15観賞)****************************************************************************【舟を編む】石井裕也監督、2013年制作、H26.12.01鑑賞<Movie Walker作品情報>より2012年度の本屋大賞で第1位に輝いた、三浦しをんの同名ベストセラーを松田龍平&宮崎あおいの主演で映画化したヒューマンドラマ。15年の歳月をかけて、24万語収録の一冊の辞書を作り上げていく主人公と、老若男女揃った個性豊かな辞書編集部の仲間たちの姿を丁寧に描き出す。監督は『ハラがコレなんで』の石井裕也。<大使寸評>三浦しをん原作の場合、原作が先か、映画が先か悩ましいのである。『まほろ駅前多田便利軒』は、映画を先に観たが・・・これは良かった♪『神去なあなあ日常』は、原作を先に読んだが、なんか映画が色褪せたように感じたわけです。この映画『舟を編む』には、もうひとつ没入できなかったわけだが・・・でも、原作を読んで挽回する楽しみが残っているわけです。(苦し紛れの評価になったけど)movie.walker舟を編む【インターステラー】クリストファー・ノーラン監督、2014年米制作、2015.6.15観賞<Movie Walker作品情報>よりクリストファー・ノーラン監督によるSFドラマ。環境の変化などの影響で食糧危機に陥り、滅亡の危機を迎えた人類が新たな星を目指す姿がつづられる。宇宙へ旅立つ元パイロットの主人公をマシュー・マコノヒーが演じ、彼とその娘との愛が描かれる。彼と共に新天地を目指す宇宙飛行士をオスカー女優のアン・ハサウェイが演じる。<大使寸評>最新の宇宙理論に則った、やや頭でっかち気味の映画だと感じたわけです。地球の危機に宇宙を目指すのが、アメリカの開拓精神ということなんでしょうが・・・宇宙を目指す前に、もっとやることがあるではないかと、いらつくわけです。(つい反米意識が出る大使である)ブラックホールや5次元の世界が見られるハードSF映画であるが・・・自分の娘の臨終に立ち会う場面がいちばん良かった。いろんなテーマを入れ込み過ぎた感があるのだが、この場面で救われる気がしたのです。それにしても・・・2時間50分の長時間映画は、見ててやや疲れるのです。movie.walkerインターステラー****************************************************************************大学図書館でDVD観賞(その13)
2015.06.17
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「ビジュアル本」でしょうか♪<市立図書館>・恋するソマリア・朦朧戦記・川西英回顧展<大学図書館>・日本のものづくり遺産・手づくり木工事典#53図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【恋するソマリア】高野秀行著、集英社、2015年刊<「BOOK」データベース>より台所から戦場まで!世界一危険なエリアの正体見たり!!アフリカ、ソマリ社会に夢中になった著者を待ち受けていたのは、手料理とロケット弾だった…。『謎の独立国家ソマリランド』の著者が贈る、前人未踏の片想い暴走ノンフィクション。講談社ノンフィクション賞受賞第一作。<読む前の大使寸評>あれ?講談社ノンフィクション賞受賞作を集英社から刊行しているけど・・・そのあたりの仁義は、どうなっているんだろう?高野さんの破天荒な人柄は、その著作『謎の独立国家ソマリランド』、『世にも奇妙なマラソン大会』を通して、よく知っているのだが・・・・この本も面白そうである。<図書館予約:(3/3予約、6/11受取)>rakuten恋するソマリア恋するソマリアbyドングリ【朦朧戦記】清水義範著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より長生きするだけが、能じゃない!最初はただのクイズ大会だった。ホームで暮らす老人たちの退屈しのぎが、次第にエスカレート。性も闘争本能も解放して突っ走る彼らを、もはや誰も止められないー破茶滅茶な「老楽」小説!どうなる、日本。<読む前の大使寸評>清水さん得意のドタバタ小説であるが・・・老成して枯れてきたか?、老楽小説だって?面白そうやんけ♪<図書館予約:カートで待機していたが、図書館内で見っけ♪>rakuten朦朧戦記【川西英回顧展】金井紀子編、小磯記念美術館、2014年刊<「BOOK」データベース>より美術展冊子につき、データなし<パッと見の大使寸評>今まで見た川西英図書のなかでは、いちばん充実した内容になっています。「生誕120年 川西英回顧展」「生誕120年 川西英回顧展」byドングリ【日本のものづくり遺産】国立科学博物館産業技術史資料情報センター編、山川出版社、2015年刊<「BOOK」データベース>より日本の「産業技術」は、いかにして世界有数になりえたかー「蚊取線香」から「ウォークマン」「写ルンです」まで…国立科学博物館登録の「未来技術遺産」からわかる、日本で生まれた技術革新の歴史。2008-2014年度登録の「未来技術遺産」(重要科学技術史資料)をすべて収録。「未来技術遺産」の登録分野ごとに年表、コラムで解説。理系でなくてもわかる。<パッと見の大使寸評>国立科学博物館とタイアップした本、独法の補助金とつながりのある本?ということで異色の本ではあるが・・・・内容は、カラー写真も多く、思いのほか充実しています。rakuten日本のものづくり遺産日本のものづくり遺産byドングリ【手づくり木工事典#53】ムック、婦人生活社、2002年刊<「MARC」データベース>より特集では、家族みんなで利用できる大きなベンチの作り方を紹介しています。また、この号から「木のおもちゃ」の作り方、イギリス木工修業レポートの連載がスタート。<パッと見の大使寸評>パッと開いたページに「X-Yテーブル付きフライスセンターを使ってペンスタンドロボットを作ろう」という見出しと製作図面が出てくるけど・・・フライス盤の宣伝と見間違ったのか?いやいや、電動工具の紹介ページでした。他にも「英国木工修業」連載があったり、国際家具デザインフェア旭川2002とか、なかなかクリエイティブであり・・・お見それしました。rakuten手づくり木工事典#53*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き101
2015.06.16
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一時期、電動工具集めにはまった大使であるが・・・材木が高いし、木工にあきてきたせいもあり遠ざかっていたのです。図書館で『手づくり木工事典#53』というムックを手にしたが・・・最新の輸入電動工具類が載っていて、また悪い病気がうずくわけです(笑)【手づくり木工事典#53】ムック、婦人生活社、2002年刊<「MARC」データベース>より特集では、家族みんなで利用できる大きなベンチの作り方を紹介しています。また、この号から「木のおもちゃ」の作り方、イギリス木工修業レポートの連載がスタート。<パッと見の大使寸評>パッと開いたページに「X-Yテーブル付きフライスセンターを使ってペンスタンドロボットを作ろう」という見出しと製作図面が出てくるけど・・・フライス盤の宣伝と見間違ったのか?いやいや、電動工具の紹介ページでした。他にも「英国木工修業」連載があったり、国際家具デザインフェア旭川2002とか、なかなかクリエイティブであり・・・お見それしました。rakuten手づくり木工事典#53次のようなドイツ製電動工具の説明に、ツボがうずくわけです。このあと、ネットで探してみるか。<バベコのテーブル付きフライスセンター24400>p46 X-Yテーブル付きフライスセンターの最大の魅力は、ビットと材の関係を、X、Y、Z軸方向へ自在に動かして加工できるところ。金属加工にも用いられており、木工作業に要求される機能を十分に満たしています。付属モーターには、単速タイプと変速タイプの2種類あり、用途に応じて選ぶことができます。ネットで探すと117,720円(税込)とありました・・・ウーン♪?
2015.06.15
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図書館で『日本のものづくり遺産』という本を手にしたが・・・ン? カラー写真が多いが、なんかプロ向きの記事になっているなあ。国立科学博物館産業技術史資料情報センター編という、やや堅い内容の異色の本でした。【日本のものづくり遺産】国立科学博物館産業技術史資料情報センター編、山川出版社、2015年刊<「BOOK」データベース>より日本の「産業技術」は、いかにして世界有数になりえたかー「蚊取線香」から「ウォークマン」「写ルンです」まで…国立科学博物館登録の「未来技術遺産」からわかる、日本で生まれた技術革新の歴史。2008-2014年度登録の「未来技術遺産」(重要科学技術史資料)をすべて収録。「未来技術遺産」の登録分野ごとに年表、コラムで解説。理系でなくてもわかる。【目次】1 映像・情報・コンピュータ/2 電気・電力/3 産業機械/4 自動車・船・一般機械/5 金属/6 化学/7 繊維・紙・木材/8 鉱業・建設・窯業/9 食品・農林漁業<パッと見の大使寸評>国立科学博物館とタイアップした本、独法の補助金とつながりのある本?ということで異色の本ではあるが・・・・内容は、カラー写真も多く、思いのほか充実しています。rakuten日本のものづくり遺産冒頭に<「未来技術遺産」って何ですか?>というQ&Aがあるので、一部を紹介します。Q4:登録されるとどうなるのですか?A:「未来技術遺産」に登録された資料の所有者の方々に、登録証と記念盾をお渡しします。ささやかな顕彰ですが、これにより人々の理解とともに大切な遺産を文字通り「未来」へ遺してもらうことができればと思います。そのため国立科学博物館は登録資料、すなわち「未来技術遺産」を国民の皆さんへ広く伝えるとともに、所有者には定期的に保存状況を確認させていただくなどのアフターケアを行っています。Q6:なぜ国立科学博物館は「未来技術遺産」登録制度を始めたのですか?A:例えばご年配の方々なら憶えていらっしゃると思いますが、昭和30-40年代は真空管のラジオやブラウン管テレビが当たり前でした。それがICやトランジスターといった半導体に代わり、薄型の液晶やプラズマテレビが今では一般的になっています。技術の移り変わりは、とても速いものです。真空管やブラウン管が過去の遺物となれば、生産していた企業もそれに決別し、新しい技術に取り組まざるを得ない状況にあります。ですから過去の技術者たちが築いた製品や経験は、世界的な激しい技術革新と産業構造の変化のなかで急速に失われていきます。現代の経済的視点からしたら、それらはすでに役割を終えた「過去の古い技術」かもしれません。しかし、その「技術」を創造すべくさまざまな壁を乗り越え、努力を続けた先人たちの思いとあわせて、日本の「技術」を人類の智として世界に発信するとともに未来の人々へも伝えていく義務があると、私たちは考えています。それでは、ものづくりの代表例として「電卓」を見てみましょう。「電卓」が育んだ最先端産業p461.半導体技術 トランジスタからIC、LSIといった半導体技術は当初、宇宙・軍事といった国家事業分野でアメリカが先導していました。日本企業は民生機器への応用に取り組み、電卓への半導体の搭載もそのひとつでした。 電卓産業はその後、本家のアメリカを凌いで世界一の規模となっていく日本の半導体産業発展のきっかけをつくりだしました。2.太陽電池技術 光エネルギーを電気エネルギーに変える太陽電池が世界で初めて電卓に搭載されたのは1976年、シャープが発売したEL-8026でした。当時は充電池を併用し、太陽電池で充電する方式でしたが、翌77年には現在の太陽光発電にも使われるアモルファス太陽電池が開発され、応用範囲が格段にアップ。太陽電池の実用化を促したのも電卓でした。3.液晶技術 液晶の存在は1888年にオーストラリアの植物学者F・ライニッツアーが発見しました。80年後の1968年にアメリカで初めて液晶を使った表示装置が開発されましたが、商品化に至らず放置されたままになります。この技術が将来の低消費電力化につながる可能性に気づいたシャープはいち早く実用化に取り組み、73年に世界で初めて液晶表示を備えた電卓EL-805を世に送り出します。 その後各メーカーが液晶開発に乗り出し、日本の液晶技術の向上につながりました。81年340億円だった日本の液晶ディスプレイ生産はおよそ20年後の2000年、当時の40倍となる1兆4000億円に達しています。業務用に6万円ほどの関数電卓を購入したときの高揚感を覚えているが・・・電卓は今では百均で買えるほど激変したコモディティとして、思い入れが深いのです。斯様に、ガラパゴス内では卓越していたシャープであるが・・・中国が世界の工場となった現在では、中国の経営感覚、判断スピードの煽りを受けて業績不振に喘いでいます。2015.3.4シャープに2度目の業績下方修正をもたらした単純かつ深刻な原因より<液晶テレビは価格競争が激化> 次に営業利益を見てみよう。図3は営業利益の修正額を事業セグメントごとに分析したものだ。これを見ると、液晶テレビ等に代表されるデジタル情報家電と屋台骨である液晶の落ち込みが目立つ。しかも、両事業とも営業利益は2月3日の修正で大幅下方修正となっている。 デジタル情報家電には、液晶テレビを主要製品とする事業とスマートフォンを主要製品とする分野が含まれるが、今回の下方修正の原因となったのは、売上高と営業利益ともに、すべて液晶テレビを主要製品とする分野だ。 シャープは液晶テレビの市場動向を見誤ったようだ。米国では30種類以上を展開する製品戦略が浸透せず、国内では高精細の「4Kテレビ」の商品化で出遅れた。低価格攻勢を仕掛けてくるアジア勢に対抗するためにも、4Kテレビのような高付加価値製品こそシャープが主戦場とすべき製品分野であるはずだが、そこで出遅れたとなっては泥沼の価格競争に巻き込まれるだけだ。
2015.06.15
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神戸においては、川西英の知名度は「神戸百景」の作者として抜群であるが・・・全国となるとそうでもないようで、歯がゆいのです。このブログのトップ画面の上のほうに「川西英 神戸百景 -百の版木をきざむ旅-」を掲げているのは、川西英を全国に知らしめたいという願望もあるのです。このたび図書館で『川西英回顧展』という本を借りたけど・・・ええでぇ♪【川西英回顧展】金井紀子編、小磯記念美術館、2014年刊<「BOOK」データベース>より美術展冊子につき、データなし<パッと見の大使寸評>今まで見た川西英図書のなかでは、いちばん充実した内容になっています。神戸新聞ガイド「生誕120年 川西英回顧展」川西英の画業について金井紀子さんが次のように述べています。<川西英の画業とは?強みと弱みと>よりp15~16 川西英は、美術学校を出ていないが、造形・色彩感覚に優れ、版画家として大成した。風俗描写も上手だった。コンプレックスもあり、謙遜を込めてディレッタント(好事家、趣味人)と自称したが、相当な自負心を持っていた。 ディレッタントという言葉は、他人が安易に使うと批判的になる。川西の画業の評価を趣味的なものと下げてしまう傾向があり、注意する必要がある。 彼は大変な負けず嫌いで、集中力があった。やり遂げないと気がすまない性格が、版画「神戸百景」制作の原動力となったが、一方で誰もついて行けなくなった面もあるかもしれない。友人に恵まれたが、制作は孤高の境地であり、生活全般の雑務を取り仕切る楢枝夫人や取材に同行する信太郎、版画の後継者・裕三郎等、家族に支えられた。 川西は心底、版画が好きで、池長孟と似た部分がある版画のコレクターだった。サーカス、神戸風景など得意で人気を得た主題を持ったのは幸運だった。 デザイナー兼商売人の顔もあり、依頼仕事で神戸風景を量産した。表紙画や絵葉書の原画制作は膨大な量にのぼる。自分が生み出したモチーフを記号化して繰り返し使う面は、「究極の自己摸倣」である。 川西作品に携わる者は点数の多さと同じような作品名に驚かされる。時代背景もあるがエディション番号が無いこと、版画風の肉筆画のバリエーションの多さ、「普及版」という職人に版木を渡して摺らせた作品が存在する、本人の手によらない「後摺」が出回ったこと等、迷路に踏み込んだような状況に直面する。 それでも、作品の大部分が1979年度に神戸市に寄贈されたことは幸いで、神戸市民の財産である(現・神戸市立博物館蔵)。 川西英の業績は、兵庫の古い町の文化を受け継ぎながら、サーカス、オペラといった外国文化の刺激を受けて、独自の洋風の木版画表現を確立した点にある。浮世絵の伝統とは異なる創作版画を表現手段とし、油彩画制作では望めなかった評価を国内外で得た。何より、地元の神戸・兵庫風景を描き、地域性と普遍性を兼ね備えた作品を発表した。それが独創性、とむしろ外国人に評価された。この記事も版画あれこれ に収めておきます。
2015.06.14
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高野さんの破天荒な人柄は、その著作『謎の独立国家ソマリランド』、『世にも奇妙なマラソン大会』を通して、よく知っているのだが・・・・この本も面白そうである。図書館で借出し予約して、約3ヶ月、やっと『恋するソマリア』をゲットしたのです。【恋するソマリア】高野秀行著、集英社、2015年刊<「BOOK」データベース>より台所から戦場まで!世界一危険なエリアの正体見たり!!アフリカ、ソマリ社会に夢中になった著者を待ち受けていたのは、手料理とロケット弾だった…。『謎の独立国家ソマリランド』の著者が贈る、前人未踏の片想い暴走ノンフィクション。講談社ノンフィクション賞受賞第一作。<読む前の大使寸評>あれ?講談社ノンフィクション賞受賞作を集英社から刊行しているけど・・・そのあたりの仁義は、どうなっているんだろう?高野さんの破天荒な人柄は、その著作『謎の独立国家ソマリランド』、『世にも奇妙なマラソン大会』を通して、よく知っているのだが・・・・この本も面白そうである。<図書館予約:(3/3予約、6/11受取)>rakuten恋するソマリアソマリ人に対する、高野さんの痛いほどの思い入れが冒頭で述べられています。<「はじめに」より>p10~11 ソマリ人は誇り高い反面、冷徹なリアリストでもある。世界の先進国がそう簡単にアフリカの一国(もしくは一民族)に関心を持つなどとは考えていない。世の中を動かすのは所詮カネと武力であると正しく理解し、一冊や二冊の本が大勢に影響を及ぼすなどとゆめゆめ思わない。加えて、「あたしのことをそうやすやすとわかられてたまるか」という高慢な美人のように面倒なプライドも持ちあわせている。ましてや、私のように頼りない「小さい目」(東アジア人のことをソマリ人はそう呼ぶ)が自分たちに小銭以外の利益をもたらすなど想像もできないのだ。 私は彼らについ言いたくなる。私はたしかに非力だが、あなたがたをこんなにわかっている外国人は他に何人もいないのだよ。本を書いて他人に伝えられる人も他にいないのだ。全く知られないよりずっとマシだろう。それがわかってるのか。ソマリ人よ、みんな私の話を聞いているのか? 気づくと、私は、世界にソマリ人を知らしめる以前に、ソマリ人に対して「自分のことをわかってくれ」と叫んでいた。今まで世界のいろいろな土地に行き、いろいろな人々と出合ったが、「認められたい」などと思ったのは初めてだ。 ソマリの素の姿を知りたい。ソマリに自分のことを認めてもらいたい--。 ほとんど脅迫観念のようにそればかり考え、三度、四度とソマリの土地に舞い戻っていった。 いつの頃だろうか。ソマリ人が近づきがたい美女とダブッて見えるようになってきたのは。すげなくされればされるほど、相手が素晴らしく見えてしまう。いや、そのくらい美化しないと、これほどまでに入れ込んでいる自分を正当化できないのかもしれない。彼女のことが魅力的だから好きなのか、好きだからなんでも魅力的に見えてしまうのか、それすらわからない。 この気持ち、まるで十代から二十代にかけてさんざん経験した片思いのようだ。 実際、知り合いには「高野さんの入れ込み方は恋愛みたいですね」と笑われたし、旅の日記を読み返すと、「ソマリランドではこの片思い感が辛い」とか「ソマリ人にいくら尽くしても何にもならない」など、演歌のようなセリフが散見され、痛いったらありゃしない。寝ても覚めても、片思いのような脅迫観念・・・・この本のタイトルの由縁が明かされたわけだ♪読後の感想は、またのちほどに。
2015.06.13
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<チャッピー>ニール・ブロンカンプ監督作品ということで、久々に封切り映画を観てきたのです。手元不如意ということもあり・・・封切り映画は、月に1回足らずのペースに厳選されているのです(笑)。【チャッピー】ニール・ブロンカンプ監督、2015年米、メキシコ制作、H27.6.10観賞<movie.walker作品情報>より『第9地区』のニール・ブロムカンプ監督が、自身の出身地である南アフリカのヨハネスブルグを舞台に描くSFアクション。見聞きしたものを吸収し、驚くべきスピードで成長していく人工知能を搭載されたロボット、チャッピーがたどる運命を描く。ブロムカンプ監督がかつて発表した短編が基になっている。<大使寸評>感情を持ってしまった人工知能ロボット、チャッピーが登場するが・・・チャッピーが忍者が扱う手裏剣を投げたりするシーンもあるし、思いのほか日本向け作品にもなっています。鉄腕アトムvs鉄人28号を髣髴とするようなロボット対決が見られるが、若しかして監督は日本マンガのファンなのか?人型ロボットが警察機構のメインとなって働く近未来が描かれているが、このような未来は案外と近い将来に実現するのかも知れないな~。ニール・ブロンカンプ監督の前作『エリジウム』も面白かったが、『チャッピー』は第一作『第9地区』のテイストを継承していて・・・・この可笑しくて、ほろ苦いようなテイストが、ええでぇ♪ movie.walkerチャッピー『エリジウム』のときは、事前の新聞広告を見たので、封切り初日、初回上映の入場列の先頭(いの一番)で入場して観たのだが(笑)、この『チャッピー』は広告がほとんど無かったので、上映に気づくのが遅れたのです。以前にDVDで観た『第9地区』を紹介します。【第9地区】ニール・ブロンカンプ監督、2009年米、南ア制作、H24.2.17観賞<goo映画、作品情報>よりキャストは無名、監督は新人にも関わらず口コミで評価を集め、全米興行収入1億ドルを突破、本年度アカデミー賞で作品賞をはじめとする4部門にノミネートされた話題作。SF娯楽作でありながらも、根底には人種差別、国家や企業のモラル、格差社会などを想起させるメッセージ性の強い内容が評価されたのだろう。<大使寸評>今は改善されたと言われる南アの人種隔離政策であるが・・・・ヨハネスブルグをSFの舞台にする辺りに、言外に人種隔離政策への批判があったりして。 movie.walker第9地区第9地区:大当たりのB級映画byドングリ
2015.06.12
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ロシア高等経済学院教授、アレクセイ・マスロフさんがインタビューで「不一致まだ見えぬ若夫婦のようだ、各所で駆け引きも」と説いているので、紹介します。中国と同床異夢のようなロシアは、なかなかしたたかです。・・・大丈夫?安部さん。(アレクセイ・マスロフさんへのインタビューを6/10デジタル朝日から転記しました) ロシアと中国の動きを念頭に、「力による領土拡大を許さない」ことを確認した主要7カ国首脳会議(G7サミット)。片や、中ロの最近の結びつきは「蜜月」とも呼ばれる。だがモスクワの中国専門家、アレクセイ・マスロフ氏は、両国の連携の底に潜む同床異夢の側面を指摘し、日本にロシア外交の再検討を迫る。《モスクワで5月に開かれた「対ドイツ戦勝70周年」記念式典には米欧日の多くの首脳が出席を見送る一方、中国の習近平国家主席が出席した。 中ロ首脳会談では、西シベリアから天然ガスを中国に供給する計画を進めることや、モスクワとボルガ川沿岸を結ぶ約800キロの高速鉄道建設への中国の協力などが決まった。その後、地中海では、中ロ艦隊による初の合同軍事演習も実施された。》Q:中ロの結びつきは、最近一層深まってきたように見えます。A:今日のロシアと中国には共通の目的、志向がたくさんあることを、まず押さえるべきです。それは世界の最強国と同列に立ち、それらの強国に自分たちの要求を押しつけたいという願いです。 ロシアの多くの外交専門家たちは最近、G7を『去り行く20世紀の遺物』と位置づけ、中ロとインド、ブラジル、南アフリカでつくるBRICS首脳会議などこそが『21世紀の機構』といいます。現在の中ロはいわば、新婚間もない、お互いの『性格の不一致』もまだよく見えていない若夫婦のような状態だとも言えるでしょう。Q:やはり蜜月関係ですか。A:内実をよく見なければなりません。中ロの良好な関係は何よりも経済分野で顕著ですが、その基本は依然、ロシアの石油、天然ガスの対中輸出です。ロシアは国内の先端技術や新規製造業を盛んにするための協力拡大を望んでいますが、進展は見られない。 天然ガスは、中国への供給価格の交渉が難航しています。中国は中央アジアのトルクメニスタンからもガスが買えるので割高な価格で急いで合意する必要がないし、ウクライナ危機の影響もあって欧州向け供給量が減ったロシアの足元を見ています。石油も、中央アジアで中国に最も近いカザフスタンは中国に安く売る姿勢を見せます。こうした環境で、中国は『より友好的な価格』などの優遇をロシアに求めているのです。Q:欧米との関係悪化後、プーチン大統領は「ロシアは東を向く」と語りましたが。A:中国は『ロシアは中国を向いた』と受け取りました。しかし、ロシアにとって『東』とは、日本、韓国、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国も指しています。中国は『ロシアのガスと石油は中国だけに』という考えですが、ロシアは日本も含め、東方で協力してくれるすべての国にガスや石油を売りたいのです。 ■ ■《中国の習指導部は、今後の大きな外交戦略として、陸と海のシルクロード経済圏構想「一帯一路」を打ち出す。ロシアとかかわるのが、中国の資金によってアジアと欧州間で内陸部の輸送インフラなどを整備する構想だが、ロシアはこれに全面的に参加する意向までは示していない。》 シルクロード構想の本質は、中国の立場を強める政策です。中国は多くの国々を、自分たちの政策実現のためのコマと見なしています。中国が新しい輸送網創設のために投資をすることは、多くの国にとって利益ではありますが、それらの国々が中国に完全に従属してしまう恐れもあります。 ロシアにもベラルーシ、カザフスタンなど旧ソ連圏の国々との間で経済統合を進める構想があります。主な目的は先端技術を中心にした製造業や繊維工業、畜産業などの再生ですが、ロシアは2000年以降の原油高騰で得た潤沢なお金をこれらの分野に投入するのを怠り、後れをとりました。片や中国はこうした分野が強力です。だから中国に主導権を握られることのないよう、シルクロード構想には全面的に参加せず、連携にとどめるという、複雑な対応をとっているわけです。 ■ ■Q:経済的利害を巡る中ロのさや当ては分かりましたが、政治面はどうでしょうか。5月のモスクワでの式典出席でも、米欧と新興国では対応が分かれましたが。A:世界に新たな二つの陣営が形成されたとは言えないでしょう。ロシアは米欧との協調から離れ、『ロシアの側』にあると見なす『極』を束ねて米欧に対抗する政治モデルに戻ろうとしています。しかし、中国が完全に『ロシアの側』かといえばそうではない。中国は非常に柔軟で、米国とも、貿易や技術協力での関係強化に積極的に努めています。Q:ロシアによるクリミア併合も、中国は承認していませんね。A:中国はクリミア問題から賢く距離を置いています。新疆やチベットなど多くの地域で分離主義の問題を抱えているため、独立や分離の動きを刺激しかねない問題を恐れているのです。Q:でも中国は歴史認識問題でロシアとの共闘に熱心です。A:中国は、日中戦争が第2次世界大戦の一部だったことを改めて明示したいのです。大戦で中国が果たした役割や大戦の勝者だったことを、世界はほとんど忘れてしまっている。それを世界に思い出させるためには他の大国の支持が必要で、それがロシアなのです。 実際に日本に勝ったのは国民党政権です。共産党の役割は相対的には大きくありませんでした。ただ、国内の経済格差など多くの問題に加え、日本やベトナム、フィリピンとの領土紛争が山積している状況で、習指導部は国民統合を強化する必要があります。日本を引き合いに出して『共産党の指導で戦争に勝った』と改めて国民に示し、政権の正統性を固めようとしているのだと思います。 プーチン氏は中国の政治ゲームのおもちゃになりたくありません。5月のモスクワでの式典も、世界各国に共通する歴史的な勝利を祝いつつ、欠席した国の首脳を批判しない態度を保ちました。 ■ ■Q:政治面でも中ロの利害はぴったり一致しているわけではない、と。こうした状況に、日本はどう対応するべきでしょうか。A:ロシアは極東などに数十の特別発展地域を設け、進出企業の税金を減免しています。優遇は日本企業に対しても同じですよ。たとえば極東で食料を日ロで共同生産して、大需要が見込める中国に売るプランもありうるでしょう。 ロシアの政府や経済界には、日本が非常に可能性のある協力相手で、対中関係での重しになるとの見方があります。プーチン大統領はいま、『ロシアが中国の政策の一部になってしまった』と国内から批判を受けています。日本が独自のプランをもってロシアに進出するなら、プーチン氏にとってはそんな批判をかわすことにつながる。それは重要なことです。Q:日本との関係強化のため、ロシアは北方領土問題で譲歩をする用意があると思われますか。A:ロシアの社会を覆う愛国心の高まりを考慮しなければなりません。領土問題を前向きに解決する意味を、あらゆるロシアの社会層が正しく理解するためには、日本のことを信用のおける長期的な協力相手と見なせるような、信頼関係の醸成が非常に大切です。 経済、文化、科学、教育などの分野で両国の接触をもっと強めるべきです。歯舞、色丹や国後での共同経済協力の提案をしてもよい。極東のハバロフスクでも、こうした協力は可能です。協力が着実に成果をあげれば、『お金のために島を渡した』などと、プーチン氏は言われずにすみます。 信頼醸成という観点から見ると、安倍晋三首相のウクライナ訪問は時宜にかなった動きとは言えません。ロシアは対中関係を強化していますが、アジアに別の協力者も求めているのです。安倍氏のウクライナ訪問は、ロシアの発展の方向をもっぱら中国とのきずなに求め、日本との接近に反対する人々を利してしまいました。 いまや中国の力は、ロシアよりずっと強い。もし極東の日本や韓国から企業進出や政府の協力がこず、ロシアを支援しないなら、中国はロシアの極東、シベリアの資源を簡単に得て、世界最強の大国になる。そんな状況が日本の利益にならないことは明らかでしょう。ロシアの中国傾斜を和らげる視点からの、バランスに配慮した外交が大切だと思います。 *Alexey Maslov:1964年生まれ。モスクワ大学で中国近現代史を学ぶ。専攻は中国文明論・現代史。中ロ学術交流で要職も務めている。<取材を終えて> 「ロシア少林武術連盟会長」でもある。少林拳発祥の地、中国河南省の少林寺で25年前から武術を学び、禅の教えも研究。多様な中国人と交流を重ねるマスロフ氏は、ロシアでは異色の中国学者だ。 ソ連崩壊後の中ロ友好の拡大で、ロシアの中国専門家には、現在の中ロ蜜月が強固な戦略的協力関係に発展するとの見方が官民を問わず大勢だ。そんな中、同氏は、中国的思考も具体的に知る立場から、日本の取るべき道を率直に語ってくれた。(大野正美)グローバリズムが生んだ鬼子のような中ロ蜜月であるが・・・その帝国主義的動向をG7がいくら批判しても、ただ空しく響くようです。本来、中ロ日の関係は三すくみであり、剣を持ちながら握手するような緊張感があるわけで、安部さんはアメリカに気兼ねすることなく、毅然と対応してほしいものだ。中ロ蜜月、その内実ロシア高等経済学院教授2015.6.10 この記事も朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2015.06.11
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内田先生の『街場の文体論』が積読状態になっているのだが・・・やや大使のキャパを越えるというか、要するに内容が難しいためである。これでは、アカンということで、読み進めました。内田先生の半年間の授業の最初の部分を見てみましょう。p15~17<読み手に対する敬意> 敬意は「お願いです。私の言いたいことをわかってください」という構えによって示されます。それは「お願いです。私を通してください」という懇請とはまったく種類の違うものです。 敬意というのは「読み手との間に遠い距離がある」という感覚から生まれます。自分がふだん友だちと話しているような、ふつうの口調では言葉が届かない。教師に対して失礼であるとかないとかいう以前に、そういう「身内の語法」では話が通じない。自分のふだん使い慣れた語彙やストックフレーズを使い回すだけではコミュニケーションが成り立たない。そういう「遠い」という感覚があると、自分の「ふだんの言葉づかい」から一歩外に踏み出すことになります。自分がふだん使わない言葉づかいで語るようになる。 言葉がうまく通じない人にどうしても伝えたいことがある場合、皆さんだって必死になって身振り手振りで、表情豊かに、さまざまな言い方を試みますでしょう。何とかして相手に思いを伝えようとすれば、必ずそうなる。 情理を尽して語る。僕はこの「情理を尽して」という態度が読み手に対する敬意の表現であり、同時に、言語における創造性の実質だと思うんです。 創造というのは、「何か突拍子もなく新しいこと」を言葉で表現するということではありません。そんなふうに勘違いしている人がいるかもしれませんけれど、違います。言語における創造性は読み手に対する懇請の強度の関数です。どれくらい強く読み手に言葉が届くことを願っているか。その願いの強さが、言語表現における創造を駆動している。 でも、少なくとも今の僕たちの学校教育の中では、子どもたちに「情理を尽して語る」という言語実践を求めることはまずありません。敬意の表現というと、ただ「敬語を使う」ということだと教えられる。それは違うと僕は思います。 「敬」という文字の原義は、白川静先生によれば、「神に仕え、神を恐れるときの心意」だそうです。つまり、敬意を向ける相手というのは、原理的に言葉が届かない相手なのです。なにしろ、先方は神さまなんですから。その原義のうち、いまでは「査定する上位者に対する恐怖」だけが残っていて、「あらゆる手立てを尽して」という遂行的な構えのほうは忘れられている。 数十年にわたり賢愚とりまぜ腐るほどさまざまな文章を読み、また自分も大量の文章を書いてきた結果、僕は「書く」ということの本質は「読み手に対する敬意」に帰着するという結論に達しました。それは実践的に言うと、「情理を尽して語る」ということになります。冒頭で、いきなり結論めいたお話になりましたね。ずっと飛びますが・・・・内田先生が村上春樹の世界性を語っています。半年間の授業の最終講としてとりあげているので、かなり思い入れがあるようです♪p289~293<言語の魂から来るもの> 村上春樹の父は、中国で戦争を経験しました。でも、そこで彼が見聞きしたのは、「言葉にできないこと」でした。言葉にできない「メモリーズ」を父は半世紀にわたって、毎朝仏壇の前で祈り続けるというかたちでしか保存することができなかった。でも、その「メモリーズ」はたしかに、間違いなく息子に伝達されました。 現に、村上春樹は「中国」をめぐって、くりかえし不思議な物語を書いています。『中国行きのスローボート』という不思議な短篇があります。どうしても中国人に自分がほんとうに言いたいことを伝えることができないで、無意識のうちに、何の邪気もないまま、くりかえし中国人を傷つけてしまう不思議な青年が描かれています。『ねじまき鳥クロニクル』ではノモンハンを描きました。 そして、たぶん読み落としている人が多いと思いますけれど、エッセイでは、村上春樹は中華料理が一切食べられないと書いています。ラーメンとか餃子とかも一切口にできない。子どもの頃からずっとそうだったそうです。別にどういう個人的な意味があるわけでもなく、とにかく食べられないと。僕はそのエッセイを読んだあと、『ねじまき鳥クロニクル』を読んで、エルサレム賞のスピーチを読んで、中国についてのいろいろな要素がつながったような気がしました。 村上春樹における「中国」とは、「飲み込むことができないもの」なんです。自分は「中国」を飲み込めない、咀嚼できないと。どうしても「中国」を飲み込めないトラウマ的な核がある。 トラウマというのは、それを記述する言葉がない「虚の経験」のことですから、「それについて」書くことはできません。できるのは「それが書く」ことだけです。その「虚の経験」そのものが、村上春樹という書き手をおしのけて、自分で語り出すというかたちにする他に、この「飲み込めないもの」が何なのか、どのような機能を果たしているのかは、わからない。 この長く、個人的な苦闘が村上春樹の文学的営為のひとつの通奏的な主題をなしているように僕には思えます。どうして、そう思えるかというと、実は僕の父親も19年間中国にいたのだけれど、帰ってきてから中国で何をしてきたのか、ついに家族にも何も話さないまま死んだからです。 日中友好協会の活動を熱心に支援して、中国人留学生たちを次々引き取り、保証人になり、家を探し、仕事を探し、家に呼んでご馳走し、金を貸した。なぜ、父親がそれほど中国人に献身的にかかわるのか、僕たち家族はよく理解できませんでした。父も説明しなかった。でも、中国人に対してまるで巨大な「借り」でもあるかのようにふるまうのは、父の側に何か深い傷のようなものがあるからだろうということはうっすらと感じられました。父は「言葉にできない」深い傷を負っている。それは現実の中国人に、住む場所や食べ物や着る物を提供するという、ごくごく具体的なふるまいによってはじめてわずかながら癒される質のものらしい。そのことは、父のふるまいや中国について語るときの片言隻句から想像できました。 父がついに語らぬままだった「メモリーズ」のごく一部分だけを僕は「僕自身のメモリー」として遺贈されました。それは僕には、「そもそも経験をしていない経験についての記憶の欠如」という屈折したかたちで受け継がれています。たぶんそれが僕自身の中国に対する見方に大きく影響を与えている。父は何も言わなかったけれど、無言のうちに、「言葉にできないもの」を僕に伝えた。それは「ソウル」から「ソウル」への伝達ということなんじゃないかなと僕は思うのである。(中略) 村上春樹の世界性ということは久しく僕の研究主題なのです。なぜ日本人作家の中で、村上春樹だけが例外的に国際的なポピュラリティを獲得して、世界中で数億人の読者を獲得しているのか。 自身がトラウマ的経験をしている作家はいます。幼児期の精神外傷が人格の暗部を形成したという作家はいます。でも、自分が経験しなかった経験についての記憶の欠如、「言葉にできない経験」を遺贈された作家、「虚の経験」をおのれの根拠に抱え込んでしまった作家はもしかすると、あまりいないのかもしれない。それが村上春樹の世界性の根拠をなしてきたのではないかという気がします。内田先生の最終講で…村上春樹の世界性、普遍性について、ちょっとだけわかった気がするのです。【街場の文体論】内田樹著、ミシマ社、2012年刊<内容紹介より>30年におよぶ教師生活の最後の半年、著者が「これだけはわかっておいてほしい」と思うことを全身全霊傾け語った「クリエイティブ・ライティング」14講。「アナグラム」「エクリチュール」「リーダビリティ」「宛て先」・・・・・・こうしたトピックを有機的に連関づけながら、「生きた言語とは何か」を探る。「この本がたぶん文学と言語について、まとまったものを書く最後の機会になると思います。そういう気持ちもあって、「言いたいこと」を全部詰め込みました」(あとがきより)<大使寸評>クリエイティブ・ライティングの真髄は「読み手に対する敬意」であると内田先生は説くわけで・・・受験技術にはなり得ない破格な文体論となってま♪Amazon街場の文体論街場の文体論1byドングリ街場の文体論2byドングリ街場の文体論3byドングリ
2015.06.10
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内田先生の『街場の文体論』が積読状態になっているのだが・・・やや大使のキャパを越えるというか、要するに内容が難しいためである。これでは、アカンということで、読み進めております。ハイブリッド言語とも言われる日本語であるが…日本語という枠が日本人の思考に影響を与えているという視点が興味深いのです。p214~218<文法・音韻が日本人の行動・思考にどう影響しているか> 人間の身体や知性がどういうメカニズムで動いているか、われわれはまだよくわかっていない。特に脳のメカニズムはわかっていない。僕たちが今扱っているのは、知性の問題、それも言語の問題ですが、実際に、どういうふうに言語は構造化されているかよくわかっていない。 日本語というものは世界でも類を見ない特殊なハイブリッド言語ですけれど、その特殊な言語を使用していることが日本人の思考や感情にどのような影響を及ぼしているのか。まだほとんどわかっていない。 もちろん、日本語学という学問はあります。日本語の文法構造や音韻の研究はしています。でも、文法構造や音韻規則が日本人の行動や思考にどう影響しているかということの研究をしているわけではありません。しようったって、研究のしようがない。でも、僕はこの授業でそういう話をしたいわけです。 言語や記号についての一般論はソシュールの時代からずっと進化してきています。でも、それは一般論であって、特殊な日本語の中で生まれ、日本語で語り、聞き、思考しているわれわれの言語現象を全部説明できるわけじゃない。日本語という特殊な言語には一般論的知見だけではカバーしきれない謎がある。あって当然です。 僕たちは日本語という「ランガージュの檻」に閉じ込められている。フランス人やアメリカ人が閉じ込められているのとは違う檻に閉じ込められている。だから、日本人だけを選択的に幽閉している「ランガージュの檻」を開錠するためには、フランス語話者や、英語話者や中国語話者が使っているのと同じ「鍵」は使えない。 もちろん、万国共通の「鍵」もあるのですが、日本人だけが縛られている特殊な装置を解除するためには、僕たちが自分たちでその方法を発明するしかない。誰も日本人に代わってそんなものを考え出してはくれません。 前も言ったように、日本語の特性は表意文字と表音文字を併行利用する点にあります。表意文字(ideogram)と表音文字(phonogram)を併用している。 ヨーロッパ言語は表音文字です。図像がない。でも、日本語では漢字とひらがな、カタカナをまぜて使う。漢字は表意文字、ひらがな、カタカナは表音文字。 カタカナには、日本語の土着の語彙には存在しない外来語であることを示す働きもあります。「マイクロフォン」とか「ホワイトボード」という言葉はカタカナで書く。「ホワイトボード」というカタカナを見れば、「これは日本語じゃない」ということがわかる。そこから音が通じる英単語を想像する。なるほど、「ブラックボード」に対して「ホワイトボード」なのねとカタカナの表音表記から英語の原綴を想起することができる。 カタカナ・ひらがな・漢字それに外国語や数字や記号も入ります。それらのカテゴリーの違う記号が全部同時に入力されたものを僕たちは読んでいる。この脳内の文字処理がどうなっているか、よくわからない。(中略) 失語症という病気があります。交通事故にあったり、頭に何かが刺さったりしたせいで、脳に傷がついて、文字が読めなくなる。ところが、日本人は失語症の病態が二つある。漢字だけ読めなくなる場合と、仮名だけ読めなくなる場合と。つまり、脳内で仮名と漢字では処理している部位が違うということです。だから、一方の脳内部位が欠損しても、他方が生きていれば、どちらかは読める。図像処理か音声処理か、いずれかはできる。この特殊性は、必ず日本人の言語運用に影響しているはずです。 特殊性の一つは、日本人の識字率が高いということです。たぶん、日本語は文字が覚えやすいんだろうと思います。僕は大学に入ってからフランス語を専門的にやったのですが、大学院の頃は朝から晩までぶっ通しでフランス語の文献を読んでいました。集注しているときは、テクストは意味として目に入ってくるんですが、集中力が落ちてくると、突然解体してしまう。文字列がバラバラに崩れて、一字も意味がわからなくなる。 26種類しかない文字をつなげたり、切ったり、組み合わせたりする作業は思いのほか集中力が要るんです。表音記号ですからね。 子どものときにまず耳でフランス語を覚え、学校に行くようになってから音に対応する文字を覚えた人の場合には、文字が解体して意味不明になるようなことは起きないと思うんです。集中力が途切れても、とにかく文字列を拾って、それが出す音を聴いているかぎり、いずれ「知っている言葉」が出てくる。でも、僕のは文字から入って覚えたフランス語だから、疲れてきて、文字列が図像的に解体すると、もう意味がわからない。音も聴こえない。テクストは単なるぐちゃぐちゃの模様にしか見えない。 その点、漢字は絵ですから、解読が楽なんですよ。英語やフランス語だとむずかしい用語は必ず綴りが長くなりますよね。15文字くらいの綴りの字は平気で出てきます。似たような綴りが多いから、ぐいっと凝視しないと単語が特定できない。でも、日本語の場合は楽ですよ。 だって熟語といっても、基本、漢字2字ですからね。図像的にインパクトのあって、意味の輪郭がはっきりしている漢字が二つばんばんと並んでいると、語義を理解するときの脳の負荷がまるで違う。日本語のほうがずっと楽です。なるほど、漢字は絵なのか・・・だから本の1ページを眺めたとき、だいたい何が書かれているかわかるんだな♪【街場の文体論】内田樹著、ミシマ社、2012年刊<内容紹介より>30年におよぶ教師生活の最後の半年、著者が「これだけはわかっておいてほしい」と思うことを全身全霊傾け語った「クリエイティブ・ライティング」14講。「アナグラム」「エクリチュール」「リーダビリティ」「宛て先」・・・・・・こうしたトピックを有機的に連関づけながら、「生きた言語とは何か」を探る。「この本がたぶん文学と言語について、まとまったものを書く最後の機会になると思います。そういう気持ちもあって、「言いたいこと」を全部詰め込みました」(あとがきより)<大使寸評>クリエイティブ・ライティングの真髄は「読み手に対する敬意」であると内田先生は説くわけで・・・受験技術にはなり得ない破格な文体論となってま♪Amazon街場の文体論
2015.06.09
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釜山から大阪までパンスターフェリーで帰ってきた大使は、約300年前に、この航路を通った朝鮮通信使に関心があるわけです。父の残した『朝鮮通信使・FUKUOKA STYLE』という冊子に朝鮮通信使の記事が載っているが、なかなか充実しています。季刊の地方誌ではあるが…ええでぇ♪【朝鮮通信使・FUKUOKA STYLE】季刊雑誌、福博綜合印刷 、1991年刊<内容説明>古書なので、表紙画像も内容説明もなし。表紙画像の代わりに、目玉の頁の画像を載せました。<大使寸評>これも父の本棚にあったので引き継いでいる。地方で出版した季刊雑誌であるが、画像が多くて、日韓の外交史、現在の壱岐対馬、釜山にふれた内容も・・・いけてるで♪kosho朝鮮通信使・FUKUOKA STYLEp30<『海游録』にみる日本観察:明石善之助> 『海游録』は、1719年(享保4)、徳川吉宗の将軍職襲位(8代目)を祝って訪日した9回目の通信使一行に、製述官として随行した申維翰による記録である。 この年の4月、漢城(ソウル)を出発した通信使一行は10月に江戸に到着し、翌年1月に漢城に帰国、復命しているが、その間ほぼ9ヶ月の旅のありさまが、じつに細かく書き記されている。 漢文で書かれたこの日本旅行記が、姜在彦氏によってみごとに日本語に移され、平凡社・東洋文庫に収められたおかげで、われわれは約300年昔の日本や日本人のようすを、まるでいま目に見るように知ることができる。 国家を代表する使節団に選ばれて随行しただけに、申維翰は当時の朝鮮国第一級の儒者であり、文人であった。それだけに、彼の日本を見る目は冷静で、『海游録』全編に流れているのは、つねに客観的な眼差しと、朝鮮国の代表であるという強い自覚、および責任感である。 しかも、冷静で客観的な文章の行間には、旺盛な好奇心と学問的な探究心があふれ、その自然な感情のたかまりが、申維翰自身の人間的な魅力を十分に浮き上がらせている。 とりわけ興味深いのは、各章に散見する彼の「日本人論」である。たとえば「倭人の習性は、軽ひょうにして、事に遭うとたちまちにして愕き、そしてさわぐもののようだ」とか、「民の俗は、詐りと軽薄さがあって、欺くを善くす。すなわち、少しでも利があれば、死地に走ること鷲の如くである」などと、かなり痛烈であるが、それも土地が狭くやせて貧しいからだろうと、その拠ってくるところもちゃんと分析している。 また、日本人には利口ですばしこい者が多く、朴訥で重厚な者が少ないのは、日本全体の険しい地勢などの環境によるものだろう、とも書いている。 彼のこういう「日本人論」は、バブル経済の汚濁にまみれた、現代の日本にあてはめても、かなりあたっているように思えるし、日本人は昔も今も変わらないのか、などと妙に納得してしまう。 また、晴着を着て、まるでお祭りのような感じで通信士の行列を見物している群衆には、温かな好意を寄せているが、豊臣秀吉がらみのことになると、筆は一転して厳しく、明らかな敵意が見てとれる。秀吉のためにいわれなく侵略され、国土を荒らされた朝鮮民族の、怒りの深さが露われている、といえる。 ともあれ、日本人の好奇心の強さには、かなり辟易したようである。p25<京・大坂の通信使:仲尾宏> 江戸時代の京都といえば、江戸の旅人に「花の田舎なり」「きれいなれどなにやらさびし」とひやかされたように、しだいに斜陽都市と化していくが、江戸時代の初期はまだ殷賑をきわめていた。 1617年(元和3)に入洛して大徳寺に宿泊した朝鮮使節の正使・呉充謙は「屋宇が相連なり、市〇(商家)が櫛比し、物貨の盛んなること、民庶の衆は大坂に十倍する。大道が通衝し、左右に観光する者が森々として並びたっている」と、京の街のにぎやかさをたたえている。 しかし18世紀の前半ともなると、江戸は人口100万をこえ、当時では世界一の大都市となり、そのころの使節の記録でも、江戸の繁華は「大坂・倭京に倍す」という表現があらわれる。 さて京都は、幕府が諸大名と天皇との接触を禁じる目的で、参勤の行列も伏見から大津へぬけ、そのため薩摩藩主と同行する琉球使節も京都を通らないため、300名をこえる朝鮮使節の京入りは、京童の一生一代の外国人を見物する機会であった。 宿舎は江戸時代全11回の京都滞在中、最初の3回は紫野大徳寺、そのあとは1719年が本能寺にかえられたほかは、すべて洛中本国寺であった。(中略) 一行の通り道は、室町通、三条通など当時の目抜き通りであったが、1764年に一行を見物した大坂・鴻池家の番頭格・草間直方は、「これよりその道筋大坂の如く家々皆綺羅をつくし、美麗にかざり申し候。朝鮮人もまた当春正月大坂にて見物致候とは大いに違い、皆衣服さつぱりと着替え申し候」とのべている。p52~61<朝鮮通信使の航路をたどって> 60キロに満たない釜山-対馬。晴れわたった海峡の彼方に、双方の陸地が顔を見せることがある。まさに指呼の間ともいうべき距離も、200年以前の造船術では命を賭しての船旅であった。■釜山 5月18日。湾口から一時に帆をあげて行くこと20里ばかり、大洋口にいたる。櫓を漕いで船を進めようとするが、風が逆らい、波怒り、進むことができない。そこで、いっせいに絶影島に停泊した。[海游録]■対馬:佐須奈 佐須浦(佐須奈)は、一名沙々浦ともいう。対馬島の西北端にあり、嶺嶽が四方からとりまいて一大環の如くである。その高さは百〇もあろうか。そこに松、杉、風竹、橘、柚、冬伯、棕櫚のたぐいが生え、鬱蒼としている。そのまん中に海水が入り込んで、円い環状の池を作る。[海游録]先日、図書館で『海游録』を図書館で借りて読んだのだが…訳文の漢字が難しいので、ながめた次第です(汗)【海游録 朝鮮通信使の日本紀行】申維翰 (著), 姜在彦 (翻訳) 、平凡社、1974年刊<カスタマーレビュー>より江戸幕府・徳川政権下の享保4年(1719年)、9回目の朝鮮通信使に製述官として随行したのが申維翰だ。江戸に向かう道のりで見聞した当時の日本の風土なども詳述している。 最初に立ち寄るのは対馬。そこで、対馬藩に対朝鮮の交渉役として抱えられていた、雨森芳洲と出会う。彼はそのまま江戸まで同行した。 雨森さんには、きっと心のどこかで、辺地・対馬藩に勤めていることへの、「役不足」感が、鬱積していたのだろうか。そのことを申は見抜く。 さらに、役目を終えて、芳洲はが別れを告げる場で涙する。その涙が、自分との別離のためではないことを看破している。<読む前の大使寸評>旅程に組まれた各地に、異文化のカルチャーショックを与えた朝鮮通信使である。通信使から見た当時の日本の光景や日本人が興味深いのです。Amazon海游録 朝鮮通信使の日本紀行海游録 朝鮮通信使の日本紀行byドングリ
2015.06.08
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4日の深夜にNHKスペシャル『戦後70年、豊かさを求めて、第2回』の再放送があり、また観たのだが・・・・この放送の文字おこしのようなサイトを見つけたので紹介します。(文字おこしとは、ありがたいものだ♪)"バブル"と"失われた20年" 何が起きていたのかより「NHKスペシャル」: 戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて「第2回」より<“バブル”と“失われた20年” 何が起きていたのか > 今日はバブルと失われた20年について。日経平均株価は右肩上がりだったが80年代後半に急激に加熱した。当時は財テクという言葉が流行っていた。 NHKの財テクで名を成した経営者を取材した「世界の中の日本」では阪和興業社長の北茂社長を取材していた。世界の金融市場で財テクを駆使して巨額の冨を築いていた。阪和興業は戦後に北社長が2人の兄と設立した会社だった。創業三十年の記録映画がある。日本の高度成長を支えた鉄鋼の流通を担い急速に成長した。 社訓に掲げられた方針は様変わりしていく。オイルショックで高度成長に陰りが出てきた。鉄鋼もそれまでのような需要が望めなくなってきた。幹部だった新宅国昭さんは「利益第一主義を提示させた」と話す。北社長は公演で「今からの時代は売買益で利益は伸びない。何かで補わなければならない」と話した。 アメリカでは海外からの資金調達や金利の自由な設定などが進められていた。アメリカの元財務次官補のディビット・マルフォードさんが取材に応じた。「日本の金融市場を自由化することで日本の投資家の選択肢を広げたかった。アメリカの金融機関を進出させるねらいもあった」と話す。 阪和興業は金利の低いアメリカの金融機関でお金を借りて高金利の日本の銀行や株・為替で運用した。阪和興業では財テクの利益が本業の2倍にもなっていた。山一證券の内部資料によるとニギリ違法な取引が行われていた。当時の株式部長である石原弘康さんは「金融自由化で証券会社の顧客獲得競争に拍車がかかった。 無茶するなと腹に思っていてもうまくいっていた。それはダメだという雰囲気もなかった」とのべた。阪和興業の担当幹部さえもその以上に築いていた。日経平均株価は4年で3倍以上に上がっていった。麻布建物元社長の渡辺喜太郎さんは銀行から巨額の融資を持ちかけられるようになった。「銀行は使え使えって言ってきた」と語る。金融自由化により企業が自力で資金調達をすることになり、不動産業への融資を増やした。渡辺さんの資産は一時7000億円になった。 堺屋太一氏は「不動産屋などがすごくお金を使っていた。いつでも儲かる仕組みができていた」と話した。野口悠紀雄氏は「あり得ないことが起きていた」と話す。野口悠紀雄は「日本の地価はバブルを起こしていると論文を書いたが、非常に強い非難を浴びた」とコメントした。本業での行き詰まりの金融自由化が重なって、企業は財テクに傾倒していった。堺屋氏は「企業は金融に走り、素人は不動産に走った」とした。 日銀の元幹部佃亮二さんが取材に応じた。「おれたちはバブルの戦犯だな。なんであの時にきちっとしたことが言えなかっと今だから話している」と語った。85年9月のプラザ合意でドル安を目指すことを決めた。背景にはアメリカの貿易赤字がある。日米貿易摩擦は深刻で、日本に対して円高誘導と金融緩和を求めてきた。 円高にするとアメリカは輸入を抑える効果が挑める。金融緩和を行うと景気が上向き、アメリカ製品を日本に輸出できる。FRB元議長のポール・ボルカーさんは「日本は強大な経済大国だった。アメリカは太刀打ちできず、追い越されてしまう事態だった」と話す。当時交渉にあたった大場智満さんは「アメリカの軍事力が日本をカバーしてくれたのでまとめなければいけないと強く思っていた」とコメントした。 金融緩和の際、公定歩合を利下げし市場の資金の量を増やした。地価の上昇は加速した。このときに日銀の中でバブルへの危機感が強くなった。佃氏は「これ以上公定歩合を下げる必要はないというのは行内の共通認識だった」と話すが日銀はその後も利下げを行った。 プラザ合意から一年経つと円高が進み円高不況が起きた。宮澤喜一大蔵大臣はこれ以上円高が進まないようにアメリカに協力を求めた。ベーカー財務長官は「アメリカが期待するほど円高は進んでいなかった」としてさらに利下げを指示した。さらなる利下げを回避せよという声の中心に生え抜きの副総裁三重野康さんがいた。澄田智総裁に利下げをするべきではないと時間をかけて説明した。しかし1ヶ月後、澄田総裁は利下げに踏み切った。 宮澤・ベーカー共同声明では円高の進行を抑えながら利下げを行うとした。さらなる利下げで地価は上昇し、郊外にも広がった。日銀の理事たちの間では早く利上げに転じるべきとされていた。そんな矢先にニューヨーク証券取引所をブラックマンデーという株価の暴落が襲った これはアメリカから日本、世界へと広がった。ここで利上げに踏み切れば金融市場の危機を招くと機運は一気に沈んだ。ようやく利上げに動いたのは89年5月だった。高度成長の終焉、金融自由化、プラザ合意の中でバブルは極限を迎えていった。 1990年1月に株価が下落に転じた。財テクを進めてきた阪和興業の北社長は巨額の損失を出し辞任した。会社は本業に回帰したが立て直しまでは長い時間がかかった。顧客獲得に明け暮れニギリを拡大させた山一證券は損失隠しを続け自主廃業に追い込まれた。元副社長の石原弘康さんは「経営方針の根幹を徹夜しても議論するとか、思い切って社長に直言するとか、そういう後悔はものすごく残っている。あれだけのことになるんなら」と語った。 地価も急落していった。日銀の利上げや大蔵省による不動産投資の総量規制で銀行の姿勢が一変した。麻布建物の渡辺喜太郎さんは一時7000億円まで資産を拡大したがバブル崩壊で会社は破綻した。「ジェットコースターのようなもの。その時は嫌だった」と話した。日本銀行元理事の佃亮二さんは「おれたちはバブルの戦犯だな。あの時やるべきことをやるべきだった。残念だという他ない」とコメントした。 野口悠紀雄は「金融緩和は構造的な問題を行っていた。これらが運用先を失ったことが大きかった。日本の金融機関は資金の運用先として手っ取り早く不動産を選んだ」と話した。堺屋太一氏は「日本国内の人口構造、雰囲気などが盛り上げたという感じがする。団塊の世代がちょうど30.40代になったときにおこった。日銀が公定歩合をあげても止まらなかった」と話した。また、「日本が強いからアメリカ市場に食い込めると勘違いしていた」と話した。 1979年にアメリカで出版された「Japan as No.1」には日本の製造業の強さに注目が集まっており日本の自動車や半導体が世界トップに躍り出た一方でアメリカでは、自動車工場の閉鎖が相次ぎ製造業の競争力が低下し、産業構造の転換が始まっていた。 堺屋は、70年代までは技術進歩は大型化、大量化、高速化だったが80年代になると省エネルギー、情報化、多様化の技術となったと話した。野口は今から見ればアメリカで製造業が衰退しサービス産業が成長するのは正しい方向だったが、我々の目にはアメリカ経済が弱くなったとしか見えなかったと話した。日本はこれから大成長すると過信していたため、地価や株価が上がっても当たり前だという風に考えられていたという。 バルブが最高潮に達した1989年以降、米ソが冷戦終結や資本主義が広がり、韓国など新興国台頭、中国が市場経済へ参入、日本では金融機関の破綻やリストラが相次ぎ、企業倒産時代や非正規雇用の拡大、デフレなど世界は激動の時代を迎え、失われた20年はこうして過ぎていった。 日本のバブル崩壊後のGDPはこの20年ほとんど変わっていないが、韓国、中国は急激に成長している。失われた20年で日本はどんな環境の変化に直面したのか大手電機メーカーの元会長が語った。 日本で60年以上続いた大手電機メーカー・三洋電機が一昨日姿を消した。三洋は1947年井植さんの父親で松下幸之助の義理の弟にあたる井植歳男が創業したもので国産初の噴流式洗濯機を製品化するなどし会社は急成長した。70年の大阪万博では社名を掲げたパビリオンを出し人を丸ごと洗う未来家電「人間洗濯機」が話題となった。86年に社長に就任した井植さんだが、その後グローバル競争の荒波にのまれることとなる。 90年代には韓国サムスンがグローバル企業に変貌を遂げサムスン・イ・ゴンヒ会長はすべての商品を安く、良く、早く作ることができる企業が良い企業などのですと話した。日本の技術者のヘッドハントがサムスンの技術力を加速させ、中国でも後に世界有数の家電メーカーとなるハイアールが台頭していた。井植さんが視察に訪れたのは2001年で、その直前まで10年以上このメーカーの存在に気付いておらず、自分では意識していなかったが80年代のジャパンアズナンバーワンがどこかにあったのかと反省したとは述べた。 中国や韓国の台頭になぜ気づけなかったのかについて三洋電機・元社員の西澤さんは、国内市場での戦いに明け暮れていたという。熾烈さを増すコスト競争から抜けだそうと各企業は新機能開発に舵を切り三洋は洗濯機の音や消費電力を抑える僅かな機能の差をめぐって開発競争を続けたが、西澤さんは2005年くらいに海外メーカーがドーンと来たときに日本の商品を持っていったら要らないという機能の商品ばかりだたっと話した。機能を詰め込んだ分、中国韓国に価格で差をつけられていった。 93年以降の三洋電機とサムスン、ハイアールの売上の伸び率はサムスンは5倍、ハイアールは90倍という驚異的な成長を遂げていた。2000年代に入るとアメリカ シリコンバレーで続く画期的なテクノロジーであるITによる技術革新が日本企業を追い詰めることとなった。 (以降、文字数制限により省略、全文はここ)【放送を見て思うのだが】ハイアールがサンヨーの一部を買収、サンヨー本体はパナソニックが吸収したが・・・シャープもこの轍を踏むかのように、後追いしているのではないか?シャープ経営陣や経済官僚も空しい抵抗を続けているように見えるが・・・護送船団方式ではグローバリズムに対しては無効というべきなんでしょうね。アップルは中国と競合せずに、中国を利用しているわけで・・・この戦略は日本の自動車メーカも採用しているが、さて、どうなることやら?今後の主戦場は2.5次産業とも言える「アマゾンvs楽天」なんかになるようです。コンビニやニッポン的流通、日本的オモテナシとかヤクルトおばちゃんなどが、日本の強みとなるのでしょう。株主より日本的雇用を重視した新日鉄の今井社長にしても、やむなく7000人の人員削減を行ったそうだが・・・その間、経済産業省、厚生労働省は、経団連の負け戦におんぶするだけで、主導する能力は既に失っていたようです。労働力不足、土地余りのなかで、新しい倫理観、価値観が求められているが・・・生き残るのは、高度技術サービス産業つまりグーグルのような、2.5次産業であるとのこと。団塊の世代のノウハウが残っている今が、最終的転換点あるいは崖っぷちとの認識が必要と、締めくくられた。
2015.06.07
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<ディズニー映画を見てきた>工事中ハリウッド映画に愛想をつかせた大使であるが・・・先日(2015.1.23)観た『ベイマックス』は、実に10年ぶりくらいに観たディズニー映画でした。反米意識が希薄だった子ども時代の大使は、人並みにディズニー映画を見てきたわけです。で、過去に観たディズニー映画を集めてみました。ところで、『スターウォーズ』はディズニー配給であるが・・・これら配給作品は別扱いとします。・ベイマックス(2014年)・ムーラン(1997年)DVD鑑賞・ポカホンタス(1995年)DVD鑑賞・わんわん物語(1955年)・ピーター・パン(1953年)DVD鑑賞・ダンボ(1941年)・ファンタジア(1940年)・ピノキオ(1940年)・白雪姫(1937年)・佐々木マキさんのディズニー鑑賞wikipediaディズニー作品<『ベイマックス』を観てきた>昨今、大阪で快調なUSJに行ったこともないし・・・・ハリーポッターも観てないし、アナ雪も観ていない大使も、さすがに『ベイマックス』となると・・・覗いてみたい誘惑にかられて先日(1/23)観にいったのです。(大使のやせ我慢は、かなり時流に乗り遅れているのかも?)ロボット工学が若者の間に浸透した近未来が描かれているので、理系の仕事に従事した大使からみても、かなりオタクっぽいというか、良くできているとは思うのですが・・・でも、何かしっくりこないのだが何故なのか?ストーリー展開が早いのだが、これが米国風なのか、とにかく老境にさしかかった大使にとって早すぎるのだ(笑)ベイマックスに組み込む行動パターンチップには介護と戦闘の2バージョンあるわけで、戦闘チップを組み込めば悪と戦う戦闘ロボットに変身するのが、オタクから受けるのでしょう。(戦闘ロボットパターンだけの映画にしないのが、ディズニーのマーケティングなんでしょうね)仲間を大切に思うところや、大富豪の総取りを嫌う感性は万国共通の思いであり・・・良い悪いは別にして、主人公ヒロの感性は日系人というか、アメリカ人そのもののようです。【ベイマックス】ドン・ホール 、 クリス・ウィリアムズ監督、2014年米制作、2015.1.23鑑賞<movie.walker解説>より近未来の架空の都市を舞台に、癒し系ロボットと兄を失い心を閉ざした少年との心の交流を描くディズニーアニメ。鈴をイメージしたつぶらな瞳を持つケア・ロボット、ベイマックスのデザインをはじめ、サンフランシスコと東京が融合したかのような都市など、日本の文化から多大な影響を受けたファンタジー。<見る前の大使寸評>このアニメはどこかで見たような気もするが、大使は『鉄コン筋クリート』と『となりのトトロ』を彷彿とするわけです。見る前から敵愾心がわきおこるが・・・気になる作品ですね。movie.walkerベイマックスベイマックスに危機感byドングリ<ムーラン>橋本関雪の木蘭のアップです。なんで、木蘭(ムーラン)かと言えば、以前、ディズニーのアニメ「ムーラン」を見て気になっていたからです。東洋を舞台にした、ディズニーにしては稀な作品だったではないでしょうか。ウィキペディアの木蘭を見てみましょう。木蘭より老病の父に代わり、娘の木蘭が男装して従軍。異民族(主に突厥)を相手に各地を転戦し、自軍を勝利に導いて帰郷するというストーリー。日本軍の占領下にあった上海の華聯が製作した映画『木蘭従軍』(1939年)は、プロデューサーの張善?たちの異民族(即ち日本)への抵抗の意思を暗喩した作品とされるが、彼らの屈辱と苦衷の日々を察していた日本側責任者の川喜多長政はこれに異議を唱えなかったとされる。およそ半世紀たった1998年、ディズニー映画『ムーラン』が作られ日本や中国でも公開された。以下の作品は、おいおい追記する予定です。<ポカホンタス><わんわん物語><ピーター・パン><ダンボ><ファンタジア><ピノキオ><白雪姫><佐々木マキさんのディズニー鑑賞>『ノー・シューズ』という本で、佐々木マキさんがディズニー映画の感想を語っています。<ディズニーのひ>よりp200~203 小学校の行事で最も愉しかったのはだ。年に一度、近所の映画館を午前中だけ借り切って、子供たちがディズニーの映画を鑑賞するのである。ぼくの通っていた小学校だけの行事かも入れない。そうだとしたら先生たちはよくやってくれたものだと思う。 何年生になったら何を観るというのが決まっていて、順番は忘れたが、例えば毎年1年生は『バンビ』、2年生は『白雪姫』、3年生は『ピノキオ』・・・という具合になっていた。 学校から映画館へ堂々の分列行進をしていく時のわくわくした気分。近所の人たちが手を振ったり、小さい子供たちが何ごとだろう、と目を丸くして見ていた。 いつも斬り合いや撃ち合いを観ているお馴染みの映画館で、その日は普段観られない特別なものが上映されるのである。それが映画なのだから堪らない。座席に着いた子供たちの昂奮振りときたら大変なものだ。 映画が始まった。ぼくは―いや、ぼくたちはアニメーションの魔術に忽ち酔いしれた。 長編が終わると、必ずミッキーやドナルドの短篇をやってくれた。これがまたおもしろかった。それらの中で、最も印象に残っているのがの話だ。ジャックの役をするのが、ミッキー、ドナルド、グーフィーの三人で、深夜に床板の割れ目から出た豆の芽が、見る見る巨大な蔓に育って、うねりながら家を壊して伸びて行く場面の、アニメーションならではの不気味さと、空中高く運ばれていくのにミッキーたち三人は眠ったまま、というところから来るギャグは忘れられない。 『ダンボ』は学校から観に行く作品にはいってなかったので、叔父に連れて行ってもらった。新開地のテアトル神戸のロビーで、ダンボの面を頭に載せた8歳のぼくの写真が残っている。 高校生の時『眠れる森の美女』を観たのを最後に、ぼくは長い間ディズニーのアニメーションから遠ざかっていた。それが30を過ぎて子供ができてからは、子供たちを連れて春休みや夏休みに上映されるディズニーを観に行くようになった。もちろん子供たちは大喜びである。 おとなになってから観ると、子供の頃には気が付かなかったことが判って、また違うおもしろさがある。 酔っ払ったダンボの幻覚は、まるで1960年代末のサイケデリック・イメージである。ダンボに飛び方を教えるカラスたちは明らかに、お洒落な黒人として描かれている。『わんわん物語』のトランプとレイディは、顔といい役柄といい、これはもうクラーク・ゲイブルとヴィヴィアン・リーである。そうすると『ピーター・パン』のティンカー・ベルはレスリー・キャロンだろうか。嫉妬に駆られたティンカー・ベルの触れた葉っぱが焼け焦げる、というギャグは日本のという言い回しを思い出させる。 フック船長が左手のフックを取り替えるところは、のちのブルース・リーの映画が真似をした。『白雪姫』の背景の色調が柔らかいのは、どうやら透明水彩を使っているらしい。王子様はどう見てもデクノボウである。ピノキオのはいる玉突き場は、全体の形が大きなエイトボール(つまり、役立たず・ろくでなしの意)である。コオロギが最後にもらったメダルには・・・・と書いていけば切りがない。ディズニーはいつ観てもおもしろいのだ。
2015.06.06
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「近代史」でしょうか♪<市立図書館>・柳田国男の故郷七十年・韓国の品格・にっぽん俘虜収容所<大学図書館>・日本橋檜物町・つげ義春を旅する図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【柳田国男の故郷七十年】石井正己編、PHP研究所、2014年刊<「BOOK」データベース>より小林秀雄も絶賛の隠れた名著・柳田国男の口承自伝を読みやすく最編集して復刊。【目次】故郷を離れたころ/私の生家/布川時代/辻川の話/文学の思い出・交遊録/私の学問<読む前の大使寸評>この本は柳田国男入門には最適とのこと。兵庫県民なら、なおさらやで・・・ということで借りたわけです。rakuten柳田国男の故郷七十年柳田国男の故郷七十年byドングリ【韓国の品格】重村智計著、三笠書房、2008年刊<「BOOK」データベース>より幕を開けた李明博vs.金正日の死闘!もう媚びない、という「韓国の品格」とは?韓国経済は、再び「上昇気流」に乗る!李明博大統領で韓国・北朝鮮はどうなる-。<読む前の大使寸評>李明博大統領がレイムダックになる前に出された本である。7年前のこの本では、離米従中スタンスまでは予想していないが・・・「親北・反日・反米」政策という視点に見るべきものがあるようです。rakuten韓国の品格韓国の品格byドングリ【にっぽん俘虜収容所】画像なし林えいだい著、明石書店、1991年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし<読む前の大使寸評>追って記入rakutenにっぽん俘虜収容所【日本橋檜物町】小村雪岱著、平凡社、2006年刊<裏表紙>よりわが国装幀史上屈指の名作、泉鏡花『日本橋』を手がけた日本画家・雪岱。その仕事は、挿絵・装幀はいうにおよばず、舞台美術の世界でも一家をなすほどで、本職の画業に収まらない広がりと奥行を持っていた。同じく画家であり名文家の誉高い鏑木清方から非凡な文才を評価されていたが、遺した文章は多くない。本書は雪岱の死後、有志の計らいで成った貴重な一冊。同時代人による雪岱評アンソロジーを併録。<読む前の大使寸評>装丁史上の大家ともいえる雪岱の本であるだけに、この本の装丁が素晴らしい。もちろん、巻頭の画像、雪岱のエッセイ、雪岱評アンソロジーも・・・ええでぇ♪heibonsha日本橋檜物町日本橋檜物町byドングリ【つげ義春を旅する】高野慎三著、筑摩書房 、2001年刊<「BOOK」データベース>より「ガロ」の編集者だった著者がつげ作品の舞台となった風景をさがして東北の秘湯から漁港の路地裏までを訪ね歩く。砂煙のまいあがる会津西街道で見つけたワラ屋根のある景色や、老人たちとともに時間がとまった上州・湯宿温泉、赤線の雰囲気を残す東京下町など、貧困旅行を追体験する。失われた日本の風景のなかに、つげ義春の桃源郷が見えてくる!つげ義春との対談も収録。図版満載。<読む前の大使寸評>漂泊願望があるつげさんだから、その旅の独特な味には・・・しびれるわけです♪rakutenつげ義春を旅するつげ義春を旅するbyドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き100
2015.06.06
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台湾の実業家・辜寛敏(クーコワンミン)さんがインタビューで「ひたすら掘った穴、沖縄では火炎放射、我々が死んだかも」と語っているので、紹介します。(辜寛敏さんへのインタビューを6/4デジタル朝日から転記しました) 第2次世界大戦が終わった1945年までの50年間、日本の植民地だった台湾。戦争末期、旧日本軍に従軍した人たちもいた。自民党などの日本の政治家とパイプを持つ、実業家の辜寛敏さんもその一人だ。自らの従軍体験に基づいて、靖国神社からA級戦犯を分祀すべきだという思いを強めている。 《辜氏は日本統治下の台湾で「5大家族」と呼ばれた名家の出身。第2次大戦後は、中国大陸からやって来た国民党が独裁統治した台湾を離れ、日本に30年間在住。事業の傍ら「台湾独立運動」にかかわり、今は独立志向の最大野党・民進党の有力支援者だ。インタビューは日本語で行った。》Q:戦時中、旧日本軍に従軍されたそうですね。A:私が軍におったのは終戦の前の1年足らず。米軍が、フィリピンの次は台湾、さらにその次は沖縄か、日本本土に進攻すると考えられていた。兵隊の数を増やそうと言うことでしょう。旧制の台北高等学校、台北高等商業学校の学生が徴兵された。私は台北高の高等科2年生だった。 装備はお粗末だった。武器は学校の軍事訓練に使っていた三八式歩兵銃だ。それも数が足りない。私は第1分隊長をやりましたけど、鉄砲の数が足りなかったからゴボウ剣だけ持っていた。Q:三八式は明治38年ごろから旧日本軍で使用された小銃ですね。ゴボウ剣、とは?A:銃の先につける銃剣をゴボウ剣って言ったんだ。Q:軍ではどんな任務を。A:今から考えるとね、あんな装備と訓練、それに学生出身ということで、とても戦力になることはできなかったと思うんだ。だけどなにしろ、なんとか台北市の防衛に現地の学生を使おうと言うことだったんでしょうね。 米軍が上陸して台北に進攻するとすれば、台北の北側の海から川沿いに来る道と、山を越えて来る道が考えられた。山の方に配置された我々は、予想された山の中の道の近くに、たこつぼを作って、横穴を掘る。やったことはこういうことだけですよ。Q:たこつぼ?A:一人の兵隊が三つばかり地面に穴を掘るんです。たこを捕る時に使うたこつぼのようなものを作って体をひそめる。米軍に攻撃されて、ひとつが駄目になったら、別のに移れ、と。横穴は、米軍が上陸前に行う艦砲射撃から退避するためだった。 当時、食料の準備は3日から5日分。米軍がもし上陸してきたら、台北まで食料を受け取りに行くことは不可能だった。食料の面から言っても、持ちこたえられない。やっていたことは全く無駄だったね。兵舎もなんもなかったんだ。我々が木を切って、柱を立てて、屋根を葺いてと。資源も何もなかった。だけど当時の若い人の気持ちというのは、何しろ国のためということでね、おかしいなと思ったのは後になってのこと。 それでも我々はいくらか考えのある若い人だったな。この戦争は本当に勝てるのかという疑問はみんな持っていた。ただ、それを口にするとか、行動にあらわすということはなかったね。Q:当時の台北高校では台湾人学生はどれくらいいたのですか。A:1割5分から2割くらい。もともとは台湾籍の人間は投票権がないかわりに兵役の義務はなかった。だが、戦争末期にはそんなことは言っておられなくなった。 台湾の人からも、これは不合理だという不満はなかった。日本人、台湾人の区別なく、愛国心に満ちていたと思うなあ。当時はまだ台湾人差別はあったけれど、日本の統治があと10年、15年続いたら、台湾の若者は気持ちの面でも完全に日本人になったと思いますよ。 ■ ■Q:実際には、米軍は台湾に上陸してきませんでした。A:米軍は沖縄に上陸した。台湾にいた我々としては正直、ほっとした。必ず台湾に上陸するだろうと言われていた。台湾を飛ばして沖縄に行ったということは意外でしたな。台湾が攻められたら、私はここにいなかったでしょうな。 戦後70年ということで、戦争当時のいろんな記録映画を見た。沖縄戦の映画を見ていると、米軍が上陸して、横穴に向かって火炎放射器を放射したんですね。表にいる人はもちろん、奥の人も犠牲になった。それを見て、米軍が台湾に上陸したら我々はあれと同じだったんじゃないかとつくづく思いましたね。ショックだった。Q:掘った穴の中で、自分も焼き殺されていたかもしれないと。A:沖縄戦の前に、敗戦は確定的だった。日本内地は無差別な空襲を受けて、それに対して抵抗のしようがなかったんですよ。それなのに軍は、『本土決戦』などと言って国民を駆り立てていった。 無駄に国民の命を犠牲にすることは軍にしても国家にしても、許されないことだと思う。戦局は変えられないと分かっていながら、なお犠牲を強いた軍や政治のあり方は、大きな間違いだった。そういうことから、私が申し上げたいことは、靖国神社のA級戦犯は分祀すべきだということです。 戦争を指導したA級戦犯が靖国にまつられている現状。これは日本自体が解決しなければいけないことだと思うんです。日本は戦争の責任がこの人たちにあることを認めて、靖国から分ける。 しかし、分祀のあとは、国のために命を亡くした人に我々が敬意を表することにクレームをつけてくれるな、と。中国、韓国とそういう話し合いにもっていかなきゃいかんと思うんだな。Q:戦争指導者には国民に犠牲を強いた責任があると、考えているわけですね。A:そうです。その責任を日本国民として、日本国として、しっかり考えるべきだと。ドイツのメルケル首相が来日して、『ドイツが欧州で和解を進められたのは過去ときちんと向き合ったから』と語りましたね。先の戦争で起こした罪は積極的に認めて、そのうえで平和や国際協力に貢献していく道を、日本の社会に示したかったんじゃないかと思う。 愛国心は日本のすばらしい特徴です。それは第2次大戦前も後も同じだと思う。だが、A級戦犯は(靖国神社から)はっきり分けなければアカンと思うんですわ。中国の指導者も考えるべきだ。歴史解釈だとか何とかいう気持ちは分からないでもないが、それだけでは問題の解決にならない。 ■ ■Q:安倍晋三首相の安全保障政策に対しては、日頃から支持を口にされていますね。A:積極的平和主義はいいんですよ。台湾への影響も大きい。地域の安全保障を考えた場合、台湾は地理的に非常に重要で、何か変化が起こると北東アジア全体が大きな影響を受けてしまう。日本は中国のことを考えて台湾に触れないようにしてきたけど、最近は台湾の重要性を分かってくれているように思う。 一方で、安倍さんは、『侵略の定義は定まっていない』と言いましたな。ああいうことは言わなくてもいいことじゃないですか。日本に何かプラスになるんですか。侵略と認めたから日本がどうこうなるという話ではないでしょう。自民党の偉い人に『日中戦争はどういう理由でやったのか』と聞いたことがある。答えられなかった。別に、当時の中国が日本の脅威だったから戦争が起こったわけじゃないんですよ。Q:なぜ歴史問題について発言しようと思ったのですか。A:私の父の辜顕栄(1866~1937)は日本の台湾統治に非常に協力して、貴族院議員にもなった。(1937年に勃発した)日中戦争前の状況を見て、戦争になったら中国の人間がどれだけ犠牲になるかと、東京と(当時、中華民国の首都があった)南京を行ったり来たりして戦争回避に動いた。 結局、東京で過労で死んだんですけどね。ああいうときにああいう人が、両国の間を取り持とうとしたというのは悪くなかった。 日本は戦後、平和国家としての務めを果たしてきた。台湾の将来の安定を考えても、残された中国や韓国との歴史の問題をぜひ解決してもらいたい。 いま88歳です。2年、3年と戦場にいたような人はもう90歳過ぎ。従軍した体験を、身をもって語ることができる人はどんどん少なくなってきているわけだ。日本でも少なくなっているけど、台湾人はもっともっと少ない。だからこそ、この話をさせてもらおうと思ったんだ。 *辜寛敏:1926年生まれ。水産業などの事業の傍ら、シンクタンク「新台湾国策智庫」を主宰。2008年、民進党の主席選挙に立候補して敗れた。<取材を終えて> 辜寛敏氏の母親は東京下町生まれの日本人だ。それでも、「靖国」という日本人の心の奥底にかかわる問題について、外国人が発言して良いのかという思いもあったという。 辜氏の安全保障をめぐる考え方は日本の保守派の主張に近く、朝日新聞の論調について「理想的すぎる」と疑問を呈する人でもある。だから、A級戦犯分祀を求める意見は少し意外だったが、日本に愛着を感じるからこその発言だと感じた。(台北支局長・鵜飼啓)台湾で日本軍にいた私辜寛敏2015.6.4 この記事も朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2015.06.06
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図書館で『柳田国男の故郷七十年』という本を手にしたが・・・・この本は柳田国男入門には最適とのこと。兵庫県民なら、なおさらやで・・・ということで借りたわけです。【柳田国男の故郷七十年】石井正己編、PHP研究所、2014年刊<「BOOK」データベース>より小林秀雄も絶賛の隠れた名著・柳田国男の口承自伝を読みやすく最編集して復刊。【目次】故郷を離れたころ/私の生家/布川時代/辻川の話/文学の思い出・交遊録/私の学問<読む前の大使寸評>この本は柳田国男入門には最適とのこと。兵庫県民なら、なおさらやで・・・ということで借りたわけです。rakuten柳田国男の故郷七十年まず、大使のツボともいえる木地屋のあたりを見てみます。p118~120<木地屋のこと> ふるくから山奥の原始林地帯に入って、木地の材料を求め、これを加工していろいろの木器を造って里に出していた木地屋の生活には、われわれとして研究すべきものがたくさん含まれている。 小倉とか小椋、大蔵など、オグラという言葉は、私は山上の「小暗き所」という意味だろうと思うが、こういう苗字や地名は、大体において、この木地屋に由縁があると見られる。 近江の君ヶ畑や蛭谷などを心の故郷としたこれら同業の人々は、近江、伊賀、伊勢はもちろん、北陸にも東海にも東北にも、また中国から西国の果ての九州の島々にも、いたるところその足跡を残している。 田中長嶺の書いたものとして世に知られる「小野宮御偉績考」なども、木地屋についての問題を扱い、遠く南北朝の時代にも遡ろうとする面白い試みであるが、何分にもその基になるものが全部近江蛭谷に伝わる作りごとから出発しているので、信用いたしかねるのである。 本の出来た年代にしても、私がこの事柄をいい出したときよりは、やっと十年ぐらいしかさかのぼれないのである。収録されている古文書の写しなども、太閤時代の長束正家という人に関するものなどは、本物らしいが、他はどうも疑わしいものが多い。 しかし木地屋そのものは、なかなか興味のある問題をもっている。播州西部の谷間でも話にきくし、但馬、丹波、越前あたりにかけても、その拡がりが認められる。 全国の木地屋の総元締と伝えられてきた近江の木地屋も、愛知郡の蛭谷や君ヶ畑、犬上郡の大君ヶ畑など、それぞれの系統があったらしい。しかもここでは寛政、享和のころにはすでに木地の材料がなくなって、ただ諸国に散らばっている木地屋を糾合するだけであった。木地屋の系統といえば、私は面白いことから近江と地方とのつながりを知ったことがある。 明治40年前後私が内閣の役人をしていたころ、賞勲局に横田香苗という人がいた。彦根藩士で、名家の出で、学者でもあった。もと警視庁の捜査係をしていたこともある。他のことではあまり冗談も言わない人だったが、この人の話に、維新前、今の日比谷に彦根藩の邸があって、そこに一人、近江犬上郡大君ヶ畑の木地屋に関係のある者がいた。いつも道楽をして金が足りなくなると、箱根の木地屋に行って僅かだけれど借りて来たというのである。つまり箱根の木地屋が大君ヶ畑の系統であったからという話であった。 箱根の木地屋は一時寄木細工などをしていたが、やがてこれでは手数がかかるので、それも廃れてしまった。明治になって、山林を自由に伐ることができなくなった木地屋は、大体二つに分かれてしまったようである。 まず少し有能の士は里に降りて来て木地の卸し売りをし、方々と連絡をとって大規模な生産や供給をした。次に能力の乏しい方は、コケシなどを造るようになったのではなかろうかと考えている。 私は近ごろまた木地屋のことに興味をもち出したのは、民族の国内移動ということを調べるのに、この山間を漂泊した木地屋などは最もよい例だと思うからである。先日、竹中大工道具館の企画展「木地屋 小椋榮一の仕事」で「木地屋集落と移住ルート」を観たのだが・・・・営々と移動した庶民の活力または悲哀に感じいったのです。木地屋集落と移住ルートこの記事も木地師についてに収めておきます。
2015.06.05
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図書館で『韓国の品格』という本を手にしたが・・・・著者の重村智計さんには、見覚えがあるのです。少なくとも、単なる嫌韓本でないことは、読まないでも解っています。【韓国の品格】重村智計著、三笠書房、2008年刊<「BOOK」データベース>より幕を開けた李明博vs.金正日の死闘!もう媚びない、という「韓国の品格」とは?韓国経済は、再び「上昇気流」に乗る!李明博大統領で韓国・北朝鮮はどうなる-。<読む前の大使寸評>李明博大統領がレイムダックになる前に出された本である。7年前のこの本では、離米従中スタンスまでは予想していないが・・・「親北・反日・反米」政策という視点に見るべきものがあるようです。rakuten韓国の品格2008年のイ・ミョンバク大統領誕生あたりの韓国の政治状況を見てみましょう。p128~131<左翼政権はもう、こりごりである> イ・ミョンバク候補は、「極貧家庭の出身」だった。本来なら、左翼勢力がかつぐべき候補であった。与党(左翼)の「売り」を、野党候補に握られては戦いにくい。韓国の社会は、まだまだ貧しい階層が多い。この人たちの票を取れなければ勝てない。 その意味では、イ・ミョンバク大統領は、左翼勢力にとっては相手にしたくない候補だった。何よりも「極貧家庭の出身者」を、与党は攻撃しにくい。しかも学生運動の指導者で、歴史に残る「日韓条約反対闘争」の指導者として「有罪判決」を受けていた。この経歴は、韓国では誰も非難できないのだ。 しかも、イ・ミョンバク大統領は、軍事政権や、野党ハンナラ党の旧保守人脈にはまったくつながりがなかった。逆に、日韓条約反対闘争の学生運動の指導者の一人であった。投獄もされた。 貧しい家庭出身で、反政府運動の学生指導者であり、投獄経験者。これは、通常であれば左翼政治家の経歴である。左翼勢力は困り果てた。 07年の大統領選挙では、「左翼政権はもう、こりごりである」との国民の意向が表明された。イ・ミョンバク候補と、保守系無所属の李会昌候補の得票数は60%を超えた。左翼勢力の得票数は32%程度でしかなかった。 この予想以上の敗北の現実に、極左政党である民主労働党でも、「今後は北朝鮮と一線を画すべきだ」との主張が飛び出した。韓国の左翼勢力は、これまでのように北朝鮮べったりでは生き残れない現実に直面している。 韓国では、北朝鮮とその指導者を称賛し、支持する勢力を左翼勢力と呼ぶ。その左翼勢力がこれまで過去10年間、権力を握っていた。韓国では、過去10年間、誰も「金正日総書記は独裁者だ」とは発言できなかった。保守派の政治家でさえ言えなかった。もし発言すれば、大変な攻撃を受けた。社会的に抹殺されかねなかった。それが韓国の、時代の空気だった。 かつて、日本にも「社会主義幻想」の時代があった。中国や旧ソ連の社会主義を賞賛した時代である。社会主義幻想の時代は、共産主義イデオロギーが市民権を得た時代である。左翼でなければ、大学教授にはなれないと言われたほどだった。日本の学生運動が理論的よりどころとしたのは、中国や旧ソ連による「マルクス・レーニン主義」であった。(中略) 世界の各国が、社会主義の失敗を確認した時代に、韓国だけは「社会主義幻想」が強化される現象が見られた。これは、しかたのない歴史発展の一過程かもしれなかった。国家や社会は、歴史の過程を飛び越して次の時代に移行することは難しいからだ。日本も、明治時代から、一足飛びに平成時代には移行できなかった。 この10年間、韓国では社会主義に関する書籍が解禁された。左翼政権は、かつての軍事・保守政権を全否定するイデオロギーを政策に移した。韓国の90年代から07年まではイデオロギー対立の時代であったのだ。左翼と保守が、イデオロギーによる闘争・対立と、憎しみに明け暮れた時代であった。日本も、1950年代から70年代までは、イデオロギー対立の時代であった。韓国では、それが遅れてやってきた。読んでみると、韓国を温かく見守る日本人ジャーナリストであることがわかります。(昨今では稀有なジャーナリストでんな)イ・ミョンバク大統領誕生時には、大使も期待したものです。だけど、任期終了時には竹島上陸パフォーマンスなんかが有って・・・歴代大統領と同じく晩節を汚したわけで、大使もがっかりしたのです。(ナショナリズムに堕したことは汚点になると思うのです)
2015.06.04
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図書館で『つげ義春を旅する』という本を手にしたが・・・・漂泊願望があるつげさんだから、その旅の独特な味には・・・しびれるわけです♪【つげ義春を旅する】高野慎三著、筑摩書房 、2001年刊<「BOOK」データベース>より「ガロ」の編集者だった著者がつげ作品の舞台となった風景をさがして東北の秘湯から漁港の路地裏までを訪ね歩く。砂煙のまいあがる会津西街道で見つけたワラ屋根のある景色や、老人たちとともに時間がとまった上州・湯宿温泉、赤線の雰囲気を残す東京下町など、貧困旅行を追体験する。失われた日本の風景のなかに、つげ義春の桃源郷が見えてくる!つげ義春との対談も収録。図版満載。<読む前の大使寸評>漂泊願望があるつげさんだから、その旅の独特な味には・・・しびれるわけです♪rakutenつげ義春を旅する「ゲンセンカン主人」は、群馬の湯宿温泉のイメージで構想されたようです。p134~136<「ゲンセンカン主人」と湯宿温泉> 怪優・佐野史朗がつげ義春役を演じた映画「ゲンセンカン主人」が上映され、予想外のヒットとなったのは、1993年の7月であったが、映画の原作であるつげ義春の同名作品が『ガロ』誌上に発表されたのは、映画をさかのぼること25年前、1968年の7月号においてである。 つげ義春は、「ゲンセンカン主人」の1ヵ月前に「ねじ式」を発表しており、一部の読者のあいだでおおいなる衝撃をもって受け止められていかが、「ゲンセンカン主人」もまた、「ねじ式」に優るとも劣らないほどの評価を持って迎えられた。 あらすじを紹介しておこう。死んだような静かな温泉町にやってきた中年男は、駄菓子屋の老婆から、ゲンセンカンの旦那にウリ二つだといわれる。日本髪を結ったゲンセンカンの女主人は、耳が聞こえず、口も不自由だった。かつてゲンセンカンを訪れた男は、女主人と関係をもち、そのまま宿に留まったという。老婆の話に興味をそそられた中年男はゲンセンカンに泊まろうとする。「そんなことをしたらえらいことになる」と、温泉街の老婆たちが必死にとめようとする。ビュービューと嵐がふきすさぶ中、ゲンセンカンに近づいていく男。旅館の玄関先で恐怖で顔をひきつらせた女主人と旦那がその男を待ちうける。 発表当時、私は、「ゲンセンカン主人」から「ねじ式」以上の戦慄をうけた。この作品は、闇の深淵に迫ろうとする作者の強い意志がうかがわれると同時に、自己破壊の衝動ともいうべき存在論的な内向性が露わであった。たぶん、この作品には、「ねじ式」以上に、作者の思念なりが如実に表されたとみていい。 「ゲンセンカン主人」が発表される数ヶ月前、上州や信州の旅から帰った作者は、深夜、私の住まいを訪ねて、旅行譚に花を咲かせた。そのとき、氏は、群馬の湯宿温泉について、より多くを語ろうとしていた。ワラ屋根のある風景を求めているけど、今でも残っているだろうか?p57~60<ワラ屋根のある風景>高野:桧枝岐の温泉はどういう感じでした。つげ:温泉はどうということはないんです。温泉は、村はずれに共同浴場が一軒ポツンとあるだけで、ですから泊まった宿も普通の風呂だったんですね。そういえば、あとになって泥湯に行ったけど遅かった。泥湯もだいぶ改築されて、ワラ屋根はなくなってましたからね。高野:奥会津の周辺では、あとどこか強く印象に残っている場所はありますか。つげ:ちょっと離れているけど、北温泉なんかも好きですね。高野:北温泉については、エッセイやペン画、水彩画などで何度も紹介していますね。つげ義春といえば北温泉というぐらいで、つげさんの影響で、ぼくも7、8回行っています。じつは1週間前にも、雪の北温泉に行ってきたばかりなんです。つげ:北温泉に近いというか、白河から岩瀬湯本に通じる街道とか、高野さんも行ったことのある勢至堂とかの宿場に興味があったので、会津の方に行ったんでしょうね。高野:会津西街道は、ひんぱんに行ったり来たりしているようですものね。当時、あんな人里離れた街道には、誰ひとり関心もっていなかったと思いますよ。つげ:なんかウロチョロしているんだね(笑)。やはり、古い街道に関心があったからでしょうね。高野:ぼくは、つげさんの持っている地図帳に鉛筆でしるしがしてあったので、そういう宿場の存在を知ったわけですけど、つげさんは、どこから知識を得たんですか。つげ:民俗学者の宮本常一さんの本にでも紹介されていたんでしょうね。ワラ葺きの家や宿場がごっそり残っているとか書いてあったのかもしれない。高野:なるほど、宮本さんの本か。ぼくは、つげさんが行ったり来たりしているころから十数年たって会津西街道へ向かうわけですけど、横川宿に行ってみて、つげさんは70年代の初めころにすでに訪れているので、よくこんなへんぴなところを知っていたなあ、と不思議でしょうがなかった。つげ:そうね、雑誌や旅行案内の本で紹介されることもないしね。なんかありそうだなあ、という勘というものかもしれないですね。ですから、偶然ということかな。高野:「旅籠の思い出」の中で中三依の大黒屋に泊まったら宿の夫婦がケンカをはじめてしまってなんて書いていましたけど、写真をみると、大黒屋もワラ葺きですね。しかし、70年代に入ってもまだ宿屋をやっていたということは、泊まる人がいたということでしょう。あのへんに民宿はまだなかったころですものね。つげ:商人宿ですね。あそこで、すこし話を聞いているんですけども、泊まる人は、やはり商人なんですよ。雪の深いところですから、行商人がやってくるんです。ですけど、だんだん商人よりも釣り客が増えてきたと言っていました。高野:釣り客といえば、つげさんにすすめられてはじめて岩瀬湯本に行ったとき、ゴールデンウィークのせいもあって、湯口屋は釣り客がいっぱいで、泊まれなかったんですよ。味気のない別館の方に案内されてしまった。 そうですか、会津西街道の存在は知っていたけれども、中三依や横川の宿場にあんなワラ葺きが残っているとは、想像もしていなかったんですね。つげ:そう、本当に偶然だね。あの近くに山王峠というのがあって、そこにも宿場があって、本陣が残っていたんですよ。つげさんの“多摩川体験”が載っています。p281~282<「散歩の日々」「無能の人」と武蔵野> さて、いよいよ調布篇のクライマックスである。「無能の人」シリーズが『COMICばく』に発表されたのは、1985年6月から翌年の12月までだった。「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」「カメラを売る」「蒸発」の6篇で構成され、独立したそれぞれが、ユーモアとエロスに富みつつも、奥行きの深い秀作として結実していた。 その根底に横たわっていたのは、孤立感であり、またあるとくべつの虚無感であったりしたのだが、全体を包み込んでいたのは、読み物としての娯楽性であったと言えよう。 十数年を経た今日、これらの作品は、名作のほまれ高いけれども、発表当時にあっては、マンガベスト100(『COMIC・BOX』誌上)で、マンガ評論家、読者を含め誰ひとりとして1票も投じていなかったのだ。けっきょく、竹中直人の映画化によってあらためて注目されることになったといってもいい。この事実は、マンガ評論家のお粗末さを物語っている。 ところで、当シリーズのなかで「鳥師」はさらに一段と抽象性の濃い、そして精神性の強い作風を示していた。もちろん、「鳥師」とて、多摩川の河原で石売りにはげむ助川助三の貧乏物語がベースとなっている。したがって、ここでは、シリーズの代表作ということで「鳥師」をとりあげるにとどめたい。 つげ義春は、1978年から93年までの15年間を多摩川東岸の染地の団地ですごした。この団地は、20棟以上が並ぶ大きなものだった。作者は、団地に近い多摩川の土手を散歩するのを日課としていた。あるとき、河原で石拾いに精を出している老人に出遭い、「無能の人」のモチーフを構想したらしい。 いわば、多摩川の土手道や河原は、作者にとっての憩いの庭というか、生活空間のひとつであったと思われる。団地住まいになる以前の酒井荘や富士マンションも団地からそう遠くない距離にあった。つまり、作者は、「無能の人」までの20年を多摩川ぞいで暮らし続けていたわけだ。多摩川周辺の風景がことさら好みにあっていたのか、それともたんに家賃が安かったからであるのか、その理由は知らない。 作者は、つねづね、山奥でひっそりと暮らしたいという願望を抱きつづけていた。だが、団地住まいをやめたとはいえ、じつは現在も多摩川ぞいで日々を送っているのである。ということは、“多摩川体験”25年に及ぶ。
2015.06.03
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「絵本」でしょうか♪<市立図書館>・雑木ガーデン・だから日本はズレている・目で見るグリム童話<大学図書館>・小さな星通信・江戸職人づくし図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【雑木ガーデン】成美堂出版編集部編、成美堂出版、2011年刊<「BOOK」データベース>より真似したい雑木の庭のヒントがいっぱい。四季の移ろいを感じる庭。都会の真ん中に森の小道を再現。古くからある庭にモダンさをプラス。 <読む前の大使寸評>我が家の庭造りのコンセプトが落葉樹の雑木林にあるわけで・・・・雑木ガーデンについてもっと知りたいというわけです。Amazon雑木ガーデン雑木ガーデンbyドングリ【だから日本はズレている】古市憲寿著、新潮社、2014年刊 <「BOOK」データベース>よりリーダーなんていらないし、絆じゃ一つになれないし、ネットで世界は変わらないし、若者に革命は起こせない。迷走を続けるこの国を二十九歳の社会学者が冷静に分析。日本人が追い続ける「見果てぬ夢」の正体に迫る。【目次】「リーダー」なんていらない/「クール・ジャパン」を誰も知らない/「ポエム」じゃ国は変えられない/「テクノロジー」だけで未来は来ない/「ソーシャル」に期待しすぎるな/「就活カースト」からは逃れられない/「新社会人」の悪口を言うな/「ノマド」とはただの脱サラである/やっぱり「学歴」は大切だ/「若者」に社会は変えられない/闘わなくても「革命」は起こせる/このままでは「2040年の日本」はこうなる<読む前の大使寸評>斎藤環が古市憲寿のズレに注目しているが、団塊世代の「おじさん」として、それを見ているだけでは・・・あかんのやろな~。<図書館予約:(12/08予約、5/26受取)>rakutenだから日本はズレているだから日本はズレているbyドングリ【目で見るグリム童話】野村ヒロシ著、筑摩書房、1996年刊<「BOOK」データベース>よりカラーで楽しむ『グリム童話』一枚絵の世界。いばら姫、蛙の王様、赤ずきん、ブレーメンの音楽隊、白雪姫…美しい図版と読みやすい翻訳で贈る16話。 <大使寸評>赤頭巾、白雪姫、シンデレラ、ブレーメンの音楽隊等が当時の絵柄で見られるのが、ええでぇ♪一枚絵(原語イラスト)のページ、訳文付きイラストのページとお話(文字だけ)のページの3パターンがあり、一枚絵では発刊当時の雰囲気まで伝わってきます。Amazon目で見るグリム童話目で見るグリム童話byドングリ【小さな星通信】奈良美智著、ロッキング オン、2004年刊<商品説明>より日本を代表する世界的アーティスト、奈良美智の書き下ろし自叙伝が完成。青森県弘前市に生まれた幼少時代から、東京、名古屋での学生時代、そして単身ドイツへと渡ってアーティスト・デビューを果たし、日本における現代アート・ブームの牽引者となった現在まで。その足跡を作家自ら書き記したノンフィクション。また未公開絵画も含め、各時代毎の貴重な絵画もふんだんに掲載。秘蔵写真や過去の住居の間取り図など、普段うかがい知る機会の少ない現代アーティストのプライバシーも知れる1冊です。<読む前の大使寸評>奈良美智の個人史ということだが、2004年刊行の本にしては、先駆的な趣向できれいな装丁の本である。それにしても、なんでドイツ留学だったのか?ということで読んでみましょう。rakuten小さな星通信小さな星通信byドングリ【江戸職人づくし】画像なし北尾政美, 朝倉治彦著、岩崎美術社、 1980年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データなし<大使寸評>職人の生態、各種商店、商談場面、行商風景、行商道具、花魁、銭湯、調理等々の画像が、全ページにわたって載っていて、まさに江戸時代の日本人の民俗が見えるのです。・・・言ってみれば、民俗学資料の宝庫のようなものではないか♪rakuten江戸職人づくし江戸職人づくしbyドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き99
2015.06.02
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図書館で『目で見るグリム童話』という本を手にしたが・・・・赤頭巾、白雪姫、シンデレラ、ブレーメンの音楽隊等が当時の絵柄で見られるのが、ええでぇ♪一枚絵(原語イラスト)のページ、訳文付きイラストのページとお話(文字だけ)のページの3パターンがあり、一枚絵では発刊当時の雰囲気まで伝わってきます。【目で見るグリム童話】野村ヒロシ著、筑摩書房、1996年刊<「BOOK」データベース>よりカラーで楽しむ『グリム童話』一枚絵の世界。いばら姫、蛙の王様、赤ずきん、ブレーメンの音楽隊、白雪姫…美しい図版と読みやすい翻訳で贈る16話。 <大使寸評>赤頭巾、白雪姫、シンデレラ、ブレーメンの音楽隊等が当時の絵柄で見られるのが、ええでぇ♪一枚絵(原語イラスト)のページ、訳文付きイラストのページとお話(文字だけ)のページの3パターンがあり、一枚絵では発刊当時の雰囲気まで伝わってきます。Amazon目で見るグリム童話一枚絵とは、江戸時代の瓦版に似たところがあったようです。p10<一枚絵とは> 一枚絵というのは、古くからある、庶民のための絵入り新聞のようなものです。15世紀ごろからヨーロッパ中に広まっていました。 この値段の安い絵入りの刷り物は、読み書きが自由でない人々の間に、キリスト教の教え、通俗的な知識、世界のふしぎ、恐ろしい出来事、珍しい話などを広めました。ですから江戸時代の瓦版に似たところがあります。 いずれにしても、こうしたマスプロ印刷物は、石版印刷、木版印刷、銅版印刷など挿し絵を扱うやり方が広がるにつれて、盛んになりました。 こうした印刷技術の発展とともに、一枚絵は、19世紀には、大人にも子どもにも欠かせないコミュニケーションの手段となりましたが、20世紀になると、次第に「まんが」など新しいマス・メディアに取って代わられて、姿を消していきました。大きさは、新聞の片面よりやや小さめです。著者は「あとがき」でグリム童話の魅力を語っています。p235~236<あとがき> グリム童話は、子ども図書館などの「お話のおばさん」たちの間では大変評判がよいようです。その方々に聞くと、みなさん「子どもたちがグリム童話を一番喜んで聞くから」とおっしゃいます。そうかな、とこのごろ思っています。ほんとうは、ご自分が一番面白いと思っているのではないかな。だって話すほうが面白いと思って話していなかったら、聞くほうが面白がって聞くわけがないでしょう。 とかくするうちわたしも「老年」に達しましたが、いまもなお面白くグリム童話を読んでいます。ドイツの児童文学にもなかなか面白いものがあり、いろいろ訳したり、紹介したりしてきましたが、そのどれよりもグリム童話が面白いと感じています。 わたしだけではありません。グリム自身が晩年に至るまでこの本とつきあっています。『グリム童話集』の初版(1812年)を出したとき、グリム兄弟は20代の後半でしたが、最後の第7版(1857年)を出したときにには、70代の初めになっていました。しかも版を重ねる度に、この本に手を加えているのです。そのやり方については批判がないではありませんが、そんなふうに死ぬまで手を加えたというのは、この本を大事に思っていたからでしょう。 どうでもよかったら、ほっておいたに違いありません。そのわけを立ち入って考えてみると、それはグリムがこの本の普遍性を直感していたからだろうと思います。グリム童話が人間の普遍的な根底に届いている、と言ったのでは足りません。そうではなくて、人間の普遍的な根底から生じてきているのです。それは、同じモチーフの話が世界中にある、というようなことからも感じられますが、それにとどまりません。 この本は、人間精神の可能性に全体として対応していると思うのです。カントは『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』という本を書いて、人間が立っている普遍的な基盤を、真と善と美という面から、明らかにしました。カントはそれを非常に難しい言葉で論理的に説きましたが、グリムはそれを、違った面から、やさしい言葉で直感的に説いているのです。ちなみに、グリム童話についてはグリム兄弟コレクション - 福岡大学図書館が、ドイツの絵本については復刻 世界の絵本館ベルリン・コレクションが充実しています。
2015.06.02
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図書館で『日本橋檜物町』という本を手にしたが・・・・とにかく、この本の装丁が素晴らしいのです。【日本橋檜物町】小村雪岱著、平凡社、2006年刊<裏表紙>よりわが国装幀史上屈指の名作、泉鏡花『日本橋』を手がけた日本画家・雪岱。その仕事は、挿絵・装幀はいうにおよばず、舞台美術の世界でも一家をなすほどで、本職の画業に収まらない広がりと奥行を持っていた。同じく画家であり名文家の誉高い鏑木清方から非凡な文才を評価されていたが、遺した文章は多くない。本書は雪岱の死後、有志の計らいで成った貴重な一冊。同時代人による雪岱評アンソロジーを併録。<読む前の大使寸評>装丁史上の大家ともいえる雪岱の本であるだけに、この本の装丁が素晴らしい。もちろん、巻頭の画像、雪岱のエッセイ、雪岱評アンソロジーも・・・ええでぇ♪heibonsha日本橋檜物町小村さんが生い立ちの地を語っています。p29~32<日本橋檜物町> 私は明治42、3年の頃まで日本橋の檜物町25番地で育ちました。丁度泉鏡花先生の名作「日本橋」にかかれました時代の事で、その頃のあの辺は、誠に何とはなしに人情のある土地でありました。 25番地と申しますと、八重洲岸から細い路地を入って左側の一廊で、私の居りました家は、歌吉心中と云って有名な家で、こまかい家の建てこんでゐたあの辺に似合わず、庭に小さい池があり間数は僅か四間の狭い家でありましたが、廻り縁に土蔵のある相当に古い建物で、此土蔵の二階の真黒になった板敷に心中の血を削ったあとが白々と残って居りまして、いかにも化物屋敷の名のつきさうな家でありました。 私方では些事を少しも知らず引越の真最中、前の染物屋の隠居に注意をされまして老人などは甚だ気味を悪がりましたが、兎に角此所に居据り永年の間住ひましたが別に不思議なことはありませんでした。 家の横手にすこしの空地がありまして、真中に元の総井戸の跡へ引きました共同の水道栓があって、空地を囲って、芸者屋、役人、お妾さん、染物屋、町内の頭、魚屋、魚河岸の帳つけ、それに私の家の小さな勝手口がぐるりと取り巻いてゐました。頭の家では雨が降りますと大勢の人が集まってよく木遣の稽古をして居りました。私も門前の小僧で少しは覚えましたがいつの間にか皆忘れてしまひました。 此の頭のおかみさんが此所でも評判の美しい人で、頭の恋女房といふ事でした。色の白い誠に姿のよい人で、小さな女の子がありましたが、子を抱かせるのは気の毒な程の若々しさでありました。此のおかみさんがひどい霜の朝など前の晩の火事へ駆けつけて夜明に帰って来た頭の刺子半纏を水道へ大盥を持出して重さうに洗ってゐますのをよく見かけました。(改造 昭和15年5月)小村さんの人柄が表れているところを見てみましょう。p219~220<小村さん:久保田万太郎> わたくしは「小村さん」とばかり呼んで、どんな場合でも、「小村君」とも「雪岱さん」とも呼ばなかった。小村さんの、やさしい、しづかな、落ちついた、ときに遠慮ぶかすぎはしまいかとさへおもわれた人がら・・・おそらく小村さんは、一生のうち、ただの一度でも癇癪声をふりしぼったことはなかったらう・・・が、わたくしに、さう呼ぶことの正しさをはじめっからわきまへさせてくれたのである。 わたくしが小村さんにはじめて逢ったのは大正4年の3月である。そのとき、本郷座で井伊、喜多村の一座が鏡花先生の『日本橋』をやってゐた。わたくしは、そのころ春陽堂から出てゐた「新小説」の編集主任の本多直次郎さんにさそはれ、それをみに行き、たまたま茶屋で本多さんから引合はされたのである。 これよりさき『日本橋』の原作は、そのまへ年の9月、千章館といふ本屋から書下しで出たもので、その装丁をしたのが小村さんだった。だから、わたくしは小村さんについて、逢はないまへからいろいろと知ってゐたのである。 それにしてもその『日本橋』の装丁の目もあやに美しかったことよ。日本橋 そのころ、小村さんは根岸に、お年よられたおっ母さんとふたりでつつましく住んでゐた。わたくしは、浅草から、しばしば訪問した。そして間もなく、わたくしは、わたくしの三四冊目の短篇集及びはじめての随筆集の装丁をしてもらった。 爾来二十四五年、わたくしは、何冊わたくしの著作集を小村さんの手に委ねたことだらう? しかも終始かはることなく・・・といってはうそになる、有名になればなるほどいよいよ熱心に、いよいよ親切に、いよいよ身にしみまさる仕事をわたくしのためにしてくれた小村さんである。・・・この記事も本に携わる職人たちに収めるものとします。
2015.06.01
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