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図書館に予約していた『だから日本はズレている』という新書をゲットしたが、五ヶ月半待たされたわけで・・・・果たしてこれだけ待つと、新書の賞味期間が過ぎてしまうではないか?と心配されるわけです(笑)新書のテーマが短期的視点で書かれることが増えているようだが・・・半年後に生き残る新書の戦略とは何なのか?という読み方も面白そうである、いやホント。【だから日本はズレている】古市憲寿著、新潮社、2014年刊 <「BOOK」データベース>よりリーダーなんていらないし、絆じゃ一つになれないし、ネットで世界は変わらないし、若者に革命は起こせない。迷走を続けるこの国を29歳の社会学者が冷静に分析。日本人が追い続ける「見果てぬ夢」の正体に迫る。【目次】「リーダー」なんていらない/「クール・ジャパン」を誰も知らない/「ポエム」じゃ国は変えられない/「テクノロジー」だけで未来は来ない/「ソーシャル」に期待しすぎるな/「就活カースト」からは逃れられない/「新社会人」の悪口を言うな/「ノマド」とはただの脱サラである/やっぱり「学歴」は大切だ/「若者」に社会は変えられない/闘わなくても「革命」は起こせる/このままでは「2040年の日本」はこうなる<読む前の大使寸評>斎藤環が古市憲寿のズレに注目しているが、団塊世代の「おじさん」として、それを見ているだけでは・・・あかんのやろな~。<図書館予約:(12/08予約、5/26受取)>rakutenだから日本はズレている行政の効率化をめざし2020年から実施予定の「マイナンバー制度」であるが・・・縦割り行政から脱皮できないニッポンで、それがうまく機能するわけないという気がするのだ。そのあたりを見てみましょう。p95~98<あまりにも不便な「マイナンバー制度」> 東日本大震災では本人確認が難しいケースが相次いだ。着のみ着のまま逃げ出し、避難した人々は、自分が誰かを証明するものを持っていない。安否確認や被災者名簿などの作成は一筋縄ではいかなかったという。 国家の根幹を成す税金に関しても「クロヨン」と呼ばれるように、どこまで実態に即して捕捉できているか疑問だ。捕捉率の業種間格差は減少傾向にあるという研究もあるが、帳簿の必要ない白色申告を続ける人は多いし、税務署員の数も多いとはいえない。さすがに2014年からは白色申告でも帳簿作成が義務化されるというが、それもどこまで徹底されるかわからない。 家で確定申告ができるe-Taxなどもあるが、ICカードリーダーが必須なうえに、電子証明遺書の取得などもあり準備が非常に煩雑だ。 もっと、この国は便利にならないのか。 実は2013年、日本が「素敵な監視社会」へ踏み出すための第一歩となりそうな法律が成立した。国民全員に個人番号を割り振って、納税に関する実績や年金情報などを政府が一元的に管理できるようにする「マイナンバー法」だ。 もし制度設計者の思惑通りに全てが進めば、年金手帳や健康保険証、介護保険証が一枚のICカードにおさまる。医療費の支払い状況はネットで確認できるし、「消えた年金」問題も解消される。様々な情報が一元的に管理されるので所得把握の精度も上がる。役所の窓口でのたらい回しもなくなる。 ただしネックがある。その導入と運用にかかる費用がちょっと高いのだ。いくつかの試算があるが、システム設計と導入に数千億円、加えてランニングコストが毎年数百億円はかかると言われている。まあ、便利な監視社会実現のためには仕方がない。 ネックはあと少しある。マイナンバー推進論者はよくエストニアやスウェーデンをモデルケースとして挙げる。しかし共に小国で、日本と単純に比較できない。しかもエストニアは電子政府化を進めすぎた結果、サイバー攻撃の被害に遭い、国家機能が麻痺する事態に陥った。また他国でも共通番号を使ったなりすまし犯罪が相次いでいる。 ネックはこれで最後だ(本当はもっとあるが、きりがないので止める)。マイナンバーのキモは、各省庁がバラバラに管理していたデータを一元化して、個人を適切に管理し、行政を効率化することだ。しかし省庁間の連携が進まずに、いっこうに普及しない「住基ネット」の二の舞になる可能性がある。これが一番問題かもしれない。古市さんが2040年の日本の姿を予測しています。・・・かなりディストピアである。p218~220 今から約30年後、2040年の日本の姿を予測してみた。<30年後の幸福な階級社会> 上海から久しぶりに日本へ戻ると、すぐにタクシーに乗り込んだ。羽田空港から都心へ向かう時に見えるビル群、湾岸部の風景は東京オリンピックが開催された頃から大きく変わっていない。もしかしたら、僕が『絶望の国の幸福な若者たち』という本を書いた30年近く前と比べても、東京という街の雰囲気自体はあまり変化がない。 だけど、あの頃は笑いながら言えていた「絶望の国」という言葉は、だいぶ真実味を帯びるようになっていた。 相対的貧困率が4割を超えた2040年の日本では、誰も「貧困問題」や「格差社会」なんてことを語ろうとはしなくなった。そんなことは、もはや社会の前提だからだ。 しかし人々は幸せそうだ。裕福な親の子は裕福な、貧しい親の子は貧しい階級社会は、人々の生活満足度を再び上昇させた。社会学では相対的剥奪というが、人々は自分の所属する集団の中での比較で幸せを測るから、階級移動の夢が閉ざされた社会では、逆に幸福度が上がってしまうのだ。「まあ、私たちはこんなもんだろう」と。 日本でも目に見えて階級社会化が進行した2030年代には、街でデモや暴動が起こった。特に2031年に最低賃金法の撤廃や公的年金廃止などが含まれた社会保障と雇用一体改革の強行採決時には、国会を老若男女が囲んだ。97歳の田原総一郎や90歳になった柄谷行人は非常に満足そうだった。 その頃は一時的に人々の幸福度も下がった。しかし階級が固定し、人々がそれを当たり前のことだと思うようになると、再び幸福度は上がったし、治安も回復していった。 治安維持に一役買ったのは、「ベーシックインカム」と「改良プロザック」の配布だ。生活保護制度の代わりに、毎月一定の電子マネーを配布するベーシックインカム制度が導入されたため、人々はとりあえず衣食住の心配をする必要はなくなった。電子マネーでの給付によって使用履歴が管理されるため、嗜好品に散財されることもない。 プロザックは1980年代から使用されている抗鬱剤だ。当時から鬱状態を正常に戻すだけではなく、積極的な気持ちになれたり、人生を成功に導く薬だとマスメディアで取り上げられていた。 かつては自殺衝動などの副作用が認められたプロザックも改良が進み、現在では「ハッピーサプリ」という名前で国家が一部の労働者に無料配布している。「ハッピーサプリ」が配られるのは、ファストフードの店員や介護職など「移民相当職」と呼ばれる労働者に対してだ。 日本は欧州のように、低賃金労働を移民に任せるという選択肢を最後まで取らなかった。というか、取れなかった。東アジア諸国の経済水準が上昇し、職業機会が増えたため、それらの国の人々にとって日本へ移住するメリットがなくなってしまったからだ。古市さんが「おじさん」の罪を説いています。大使の耳が痛いけど。p234~236<「おじさん」の罪> 僕はこの本で何度か「おじさん」という言葉を使ってきたが、それは何も「中年男性」に限った特徴ではない。比較的、中年男性に「おじさん」は多いと思うが、彼らだけが「おじさん」というわけではないし、彼らのすべてが「おじさん」というわけでもない。 「おじさん」とは、いくつかの幸運が重なり、既得権益に仲間入りすることができ、その恩恵を疑うことなく毎日を過ごしている人のことである。 かつては男性でありさえすれば、多くの人が「おじさん」になることができた。高度成長期やバブル期など、経済成長が続いていた日本では企業社会が積極的に若者たちに対してその門戸を開いていたからである。 はじめは「おじさん」の世界に理不尽さや違和感を抱いていた若者も、次第にそのルールに順応していく。会社のカラーに染まり、組織の意向を疑わなくなり、「おじさん」の世界の一員になっていく。 人は今いる場所を疑わなくなった瞬間に誰もが「おじさん」になる。 たまたまラッキーで「おじさん」になれただけかも知れないのに、それを自分の手柄のように思い込む。そして、「おじさん」界の外にいる「若者」や「女性」に対して冷たくなっていく。自分の幸運を棚に上げて、不遇な状況にある人を自己責任だと切り捨てる。そういった人を、僕は性別や年齢に関係なく「おじさん」と呼ぶ。 しかし今、堅牢だと思われた「おじさん」の世界自体が壊れ始めている。業績の悪化に苦しむ老舗企業、誰も解決策を見出せない社会問題にたじろぐ政治家たち。 もちろんさすがに「おじさん」も自分たちの世界の崩壊に気付いている。しかし、その解決策がまた「おじさん」流なのだ。強いリーダー、ポエムのような憲法、東京オリンピックソーシャルメディア。そういったもので、社会が何もかも変わることはあり得ない。 「おじさん」は「今ここにないもの」に過剰に期待してしまい、「今ここにあるもの」に潜んでいるはずの様々な可能性を見過ごしてしまっているのだ。 もし本当にこの社会を変えたいならば、「おじさん」たち自身から変わらなければならない。しかし疑うことを忘れた「おじさん」に、そんなことはできない。そうして発生する「おじさん」の世界を巡る負のスパイラルを、本書では描いてきた。2040年の予測まで描いているので、半年くらいで陳腐化する新書ではないようですね。だけど、せっかちなメディアの広告欄に載ることは、もうないでしょう。だから日本はズレている1
2015.05.31
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図書館に予約していた『だから日本はズレている』という新書をゲットしたが、五ヶ月半待たされたわけで・・・・果たしてこれだけ待つと、新書の賞味期間が過ぎてしまうではないか?と心配されるわけです(笑)新書のテーマが短期的視点で書かれることが増えているようだが・・・半年後に生き残る新書の戦略とは何なのか?という読み方も面白そうである、いやホント。【だから日本はズレている】古市憲寿著、新潮社、2014年刊 <「BOOK」データベース>よりリーダーなんていらないし、絆じゃ一つになれないし、ネットで世界は変わらないし、若者に革命は起こせない。迷走を続けるこの国を二十九歳の社会学者が冷静に分析。日本人が追い続ける「見果てぬ夢」の正体に迫る。【目次】「リーダー」なんていらない/「クール・ジャパン」を誰も知らない/「ポエム」じゃ国は変えられない/「テクノロジー」だけで未来は来ない/「ソーシャル」に期待しすぎるな/「就活カースト」からは逃れられない/「新社会人」の悪口を言うな/「ノマド」とはただの脱サラである/やっぱり「学歴」は大切だ/「若者」に社会は変えられない/闘わなくても「革命」は起こせる/このままでは「2040年の日本」はこうなる<読む前の大使寸評>斎藤環が古市憲寿のズレに注目しているが、団塊世代の「おじさん」として、それを見ているだけでは・・・あかんのやろな~。<図書館予約:(12/08予約、5/26受取)>rakutenだから日本はズレている今ではクール・ジャパンという用語も定着したが、使う人の思惑で一人一人のイメージが異なるクール・ジャパンを見てみましょう。p40~48<「クール・ジャパン」の誕生> 「クール・ジャパン」という言葉がここまで普及したのは、それほど昔のことではない。ネタ元は1990年代に登場したイギリスの「クール・ブリタニア」だ。イギリスの持つ古臭いイメージを打破することが目的で、イギリスのような大国までもが国家のブランド戦略に乗り出したことが当時話題になった。 もっとも、イギリスでクール・ブリタニアはちっとも普及せずに、数年で死語になった。一方の日本では、2005年頃から、村上隆などの現代アートを海外で展開する際などに用いられるようになり、2006年には『クール・ジャパン―世界が買いたがる日本』(祥伝社)という本も発売された。 そして次第に、アニメやマンガ、映画、ファッションを中心とした日本のポップカルチャーを総称する際に「クール・ジャパン」の文字が躍るようになっていった。 政府もこの動きを後追いした。民主党政権時代、経済産業省が2010年にクール・ジャパン室を開設、翌年には同省に生活文化創造産業課(通称クリエイティブ産業課)も設置された。 クール・ジャパン政策は自民党政権にも受け継がれた。初代クール・ジャパン戦略担当大臣に任命された稲田朋美が、フランスで開かれたイベントでゴスロリファッションを披露、世間の温かい視線を浴びたことは記憶に新しい。 当初はアニメやマンガといった「オタク」的な文化、渋谷の「かわいい」ファッションといったポップカルチャーを指して使われていたクール・ジャパンという用語だが、最近では日本食や伝統工芸までがその範疇に含まれるようになった。(中略)<出雲大社はクールじゃない?> クール・ジャパンに関しては2011年に「クール・ジャパン官民有識者会議」による提言も出されている。提言によれば、「世界は『つながりあった共同体』であるという気運も興って」おり、「日本人が本来持っていた精神性への原点回帰と新たな『進化』を遂げ」て、「日本ブランドの輝き」を取り戻すべきだという。 そのためには和魂漢才や神仏習合など「二分法をこえる日本的創造性」といった「日本流の自覚」などが必用らしい。 また、日本は「枕草子」などで「小さきもの」を尊ぶ文化があったから、「小ささと引き算の活用」で日本を伝えたいとか勝手な日本文化論がとうとうと語られる。本殿の高さが48メートルあったとされる出雲大社や、世界最大の陵墓である仁徳天皇陵を完全に無視した日本文化論で、関係各所からクレームが入らないか心配だ。 それで肝心な結論はというと、地域を活性化する「クリエイティブ・タレント」を養成したり、世界中からクリエイティブな人を呼び込む「クリエイティブ・フォーラム」を開催したり、「新たなライフスタイルや産業の創造」が必用とのこと。 立場の異なる複数の有識者が参加する会議の報告書が、抽象的になってしまうことは仕方ないとしても、あまりにも具体性にとぼしい。 というか、何度読んでも一体「クール・ジャパン」が何なのかということさえもわからない。おそらく、会議の参加者、官僚、政治家の一人一人がイメージしている「クール・ジャパン」が違うのだ。 日本のコンテンツを海外に輸出する話なのか、逆に観光客を日本に呼び込む話なのか、ただ「日本ってやっぱりすごいよね」って言い合いたいだけなのか、それによって結論はまるで変わってくるはずだ。なのにその前提が共有されていない。そりゃ、議論もまとまるわけがない。 僕がわかったことは、要するに国もクール・ジャパンが何かをわかっていないのだということだ。彼ら自身がわかっていないのだから、政策に一貫性がないのも当然だ。 政府はクール・ジャパン戦略推進事業(海外展開支援プロジェクト)として採択した事業に補助金を支給しているが、本当に国として支援すべき事業か怪しい案件も多い。本来はビジネスになると踏むから企業は海外に進出しようとするはずなのだ。補助金なしで成り立たないビジネスなんて先行きが不安すぎる。 2012年度の補正予算では843億円がクール・ジャパン関連予算として計上されている。内訳をみると、外務省が「21世紀東アジア青少年大交流計画」の拡充のために150億円を要求している。3万5000人の若者たちに日本を訪問させることによって、「日本ブランド」「日本的な『価値』への国際理解を増進」させたいらしいが、こんな事業までを本当に「クール・ジャパン」に含めてしまっていいのだろうか。p86~88<「ものづくりの国」は終わったのか> 日本の家電メーカーの戦略が間違っている三つ目の理由、それは製造業における世界的なパラダイムシフトに、乗り遅れているという点だ。「ものづくり」の世界は、今その仕組みを急速に変えつつある。たとえばアマゾンの電子ブックリーダー「キンドル」、グーグルのスマートフォン「ネクサス」といったように、IT企業が続々と自社ハードを発売し、製造業に新規参入している。 何もグーグルはただ家電を作りたいわけではない。彼らにあるのは、サービス産業の一部にプロダクトをいかに組み込めるのか、という視点だ。そこで求められるのは日本企業が得意としてきた「匠の技」や「すりあわせ」といった高度な技術ではない。 キンドルという製品が使いやすいに越したことはないけれど、それ以上にどれだけの電子書籍が揃っているのか、パソコンとの連携は容易かなどを消費者は総合的に評価する。製品単体の満足度ではなく、サービス全体の体験でモノが選ばれる時代になっているのだ。 一つの一つの機能はすごいんだろうけど、仕組み作りが下手で、グランドビジョンを描けない。スマホ機能搭載とか部分最適は得意なのに、製造業の再編という世界的なシフトには無頓着。すっごく「日本的」だ。 確かに戦後の日本は「ものづくり」で発展してきた。しかし日本が「ものづくりの国」であり得たのは、冷戦のおかげだったとも言える。 東側陣営の中国は世界市場には参入していなかった。韓国や東南アジア諸国は親米独裁政権だったため政情も不安定で教育水準も低かった。そんな中、アメリカなど一歩先行く先進国で衰退した製造業を、肩代りする国として日本は躍進できたのだ。
2015.05.31
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(勝手に関西遺産)では、関西弁がときどき取り上げられるが・・・・今回のは、ええでぇ♪「んなあほな」とは上方落語協会の情報誌のタイトルなのだそうです。2015.5.27((勝手に関西遺産)ツッコむだけちゃうねんより ■んなあほな 18歳のときに関西で暮らし出した。「ほかす、って放っておくことじゃないの?」「煮抜き、ってゆで卵なの?」。学校でもバイト先でも、数え切れないカルチャーショックを覚えた日々。 この言葉の、独特の響きを耳にしたときのことも忘れられない……、って、あれ? いつやっけ。大阪の寄席、天満天神繁昌亭で、五つのひらがなが並んでいるのをはっきり意識したのは間違いないんやけど。 「んなあほな」 見かけたのは上方落語協会の情報誌、そのタイトルなのだ。笑福亭仁鶴さんの弟子、笑福亭仁勇さん(56)の案だったそう。「『ん』で始まるから、目立つと思ったんですよ」と命名者は明かす。 「いきなり『あほな』はキツいけど、前に『んな』って付けると、ノリツッコミのようになるんじゃないかなあ。『そんなあほな』の『そ』がかすれたんでしょうね」。関西のツッコミ文化の一翼を担う言葉だ。 子どもたちが落語に取り組んでいる上荘小学校(大阪府阪南市)の授業参観で、女の子のこんなしゃべりにウケたなあ。 「一万てな年の人がこの世の中におるんか」「おったらオモロイやろなあ」「あんた、おいくつです?」「わたし、一万です」「一万とはお若く見える。どー見ても、九千九百九十七!」「んなあほな」 頭ごなしに否定するんじゃなく、ボケを受け止め、ちょっと楽しむゆとりさえ感じませんか。落語家の桂文珍さん(66)は実に雄弁である。 「しょっちゅう会話で使うけど、相手を愚弄しているわけじゃない。商取引でも使うような、ファジーさがあってね。関西の楽しい言葉、成熟した文化から生まれた柔らかい言葉でしょう。ほかの地域では、あまり受け入れられていないが故のいとおしさを持っているんですよ」 「それにね、常識に対する非常識のような『んなあほな』ことから新しいビジネスや発見、発明が生まれることがある。そんなことを考えられる人は良い意味ではクリエーターやけど、社会性を欠いていれば『あほ』。紙一重やけどね」 おっ、奥深いなあ。あきれた「んなあほな」もあるけど、これまでの考えをくつがえす新たな視点を面白がる土壌と、どこかでつながっているのかもしれない。 もとい、そもそも「ん」で始まる日本語って、ほかにあるのか? 広辞苑に「ん」の欄はささやかにあった。「ンジャメナ」「んす」「んず」「んとす」。なんのこっちゃ。「んなあほな」の方がはるかにポピュラーな気がするけどなあ。 こんな遊びはいかが。ほかす、粋(すい)、いかつい、いんじゃんほい、いちげん、んなあほな。関西のしりとりは、「ん」で終わる言葉をだれかが言っても「んなあほな」と続けられる。すかさず「なんでやねん」とツッコんで、負け?!(篠塚健一)■シンガー・ソングライター 嘉門達夫さん(56) いろんな場合があるけど、「この間モスバーガーに電話したら『モスモス』って出たで」なんて言われたら使いますよね。ありえないことをわざと言うてるときに、こうツッコむ。アホなこと言うてるでコイツは~という感じ、でも愛情はあるんです。東京の漫才だと「バカなこと言ってるんじゃないよ」かな。「んなあほな」は相手をさげすんでいるんじゃなくて、愛を持って包み込んでいる感じがしますよ。おおきに!「勝手に関西遺産」10年勝手に関西遺産4
2015.05.30
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図書館で『小さな星通信』という本を手にしたが、これは旅行記か?♪・・・ヨーロッパやアメリカの地図、写真がやたら多い本である。とにかく、奈良美智についてもっと知りたいということで、この本を借りたわけです。【小さな星通信】奈良美智著、ロッキング オン、2004年刊<商品説明>より日本を代表する世界的アーティスト、奈良美智の書き下ろし自叙伝が完成。青森県弘前市に生まれた幼少時代から、東京、名古屋での学生時代、そして単身ドイツへと渡ってアーティスト・デビューを果たし、日本における現代アート・ブームの牽引者となった現在まで。その足跡を作家自ら書き記したノンフィクション。また未公開絵画も含め、各時代毎の貴重な絵画もふんだんに掲載。秘蔵写真や過去の住居の間取り図など、普段うかがい知る機会の少ない現代アーティストのプライバシーも知れる1冊です。<読む前の大使寸評>奈良美智の個人史ということだが、2004年刊行の本にしては、気のきいた装丁の本である。そして、こんなにきれいで若々しい個人史は、初めて見るような気がするのです。rakuten小さな星通信それにしても、なんでドイツ留学だったのか?ということで読んでみましょう。p40~42 そして1987年、3度目のヨーロッパ旅行に出る。今回の目的ははっきりしていて、5年に一度のサイクルでドイツのカッセルという町で開催される『ドクメンタ』という国際美術展を観に行くことだった。ドクメンタでは現代美術の最前線に触れることができるし、毎回展覧会を構成する人(キュレーターといいます)が変わり、その人なりのテーマが見えて面白いというのもあるのです。 ドクメンタを観た後、僕は愛知の大学卒業後に大学院には行かずにドイツに行った同級生の小林君を訪ねた。彼はデュッセルドルフという町に住み制作していた。学校に入るでもなく、バイトしながら屋根裏のちっぽけな部屋で毎日絵を描いていた。 彼のところにしばらく居候して、学生時代の思い出話から今制作し考えていることをお互い語ったのだけど、ドクメンタというたくさんのアーティストが集う大きな展覧会を観た後でありながらも、ひとりぼっちで異国に住みバイトしながら制作する彼の姿勢は、等身大のリアルさで僕の心を感動させたのだ。彼と一緒に美術学校ものぞいてみたのだが、学生たちの作品は日本の学生に比べて個性こそあれ、技術的にはたいしたことはなかった。(中略) 「そうだ! 僕は今アーティストになりたいわけじゃない。まだまだ道を探す学生でありたいんだ! 本当の意味での学生に!」という結論を導き出させた。 帰国後、そんな思いは僕にドイツへの留学を決意させた。予備校の生徒たちが美術を学ぶべく美大に進学するように、僕も初めて学ぶという気持ちを持ってドイツに行こうと決意したのだ。1988年5月、僕は生徒たちが見送る名古屋駅のホームに立っていた。p54~57<1988-1994> 思い出深い屋根裏に住んで3年目に、僕はもっと家賃の安い学生寮に引っ越した。その学生寮はキリスト教の団体が経営していて月額1万5千円という安さで、寮生にはドイツ人はもとより東欧やベトナムから来た若者たちもいて、特にベトナム人たちはみんな難民(ボートピープル)としてドイツに来た人たちだった。 みんな学校も専攻もいろいろだったのだけども、ベトナム人は卒業後すぐに職につける電気技師養成学校に通う人が多かった。彼らと話すことで、僕にとってのベトナム戦争はより現実味を帯びたが、ドイツという国でこうしてベトナム戦争を肌で知っている人たちと接するとは思ってもいなかった。彼らはよくベトナム人同士で集まっていたけども、同じアジア人だからか、僕もその集まりによく呼ばれた。 そこには戦争中にアメリカ軍のナパーム弾によって顔を焼かれ、SFXの怪物のような顔をした人もいた。彼の顔を初めて見た時、正直なところ本当にモンスターの仮面をかぶっているみたいで、そう思うことで冷静に見れたのを思い出す。彼はドイツの自動車会社で営業をやっているのだが、客に好印象を与えなければいけない日本の会社では、もし入社できたとしても決して営業なんてさせてはもらえないだろうと思う。そして、彼らから僕がかつて見たベトナム戦争の有名な報道写真のナパーム弾を背に受けて、両手をあげて泣き叫ぶ少女、その少女の行方も知ることができた。その女の子はドイツに送られ、皮膚移植を受けて回復し、将来は自分も医師になって人々を救う夢を持ったが、医師にはなれず、しかし看護士として現在は病院で働いているという。(中略) 僕は学生寮にいる間、そこで知り合ったハンガリー人と一緒に彼の里帰りに便乗しハンガリーに行ったり、ポーランド人と一緒にポーランドを巡ったりすることができた。その旅行が、外国人が一人で行くことでは経験できなかったであろう旅になったのは言うまでもなく、彼らに感謝しているし、それも学生寮という世界があって初めてそういうチャンスが僕に与えられたんだろうと思う。この本が発刊された2004年には世界的なメジャーになっていたわけだが・・・早すぎるような個人史かも♪p138~140<2003年秋 アメリカ巡回個展> パリで迎えた2003年は、以前にもまして外国での展覧会の多い年になっていた。アメリカでは『マンガ世代の現代日本美術』的な展覧会への参加が数箇所の美術館であったし、それ以外でも『子ども』というキーワードでくくられたり、『戦争』や『悲惨』という観点から構成されたヨーロッパ各国の美術館での展覧会にも出品した。 自分の作品だけが、なんだか急に一人歩きをしていっているような感じではあったけども、冷静に振り返るとすべてはケルン時代から始まっていたのだった。一人ドイツにやって来て、アカデミーで学び、いろんな人に出会い、少しずつ外に向かって広がっていった自分の世界が、それを知った人たちによって自分の手の届かないところにまで行ってしまっていたのだ。 その数年間で、僕個人も予期せぬぼくの作品の愛好者たちを獲得していた。それは、たとえばステージの下から見あげていた大好きなミュージシャンだったり、銀幕でしか見ることのできなかった俳優や、文筆家、そして名も知らない一般の人々だった。そして、秋にはアメリカ国内の美術館を巡回する個展も開催されることになるのだけど、それは僕の作品を真剣に観ていてくれた美術館の人々によるものなのだろう。 僕の初めてのアメリカでの美術館巡回個展は、五大湖の一つエリー湖のほとり、オハイオ州のクリーブランドから始まる。クリーブランドは、あの『ROCK AND ROLL』という言葉の発祥の地でもある。それはクリーブランドのあるラジオ局のDJが放った言葉だった。そして今や『ROCK AND ROLL』は、世界の若者の共通言語だ。僕は、自分のアメリカ初の巡回展が、そんな町から始まることに感動せずにはいられなかった。
2015.05.29
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図書館で『江戸職人づくし』という本を手にしたが・・・職人の生態、各種商店、商談場面、行商風景、行商道具、花魁、銭湯、調理等々の画像が、全ページにわたって載っていて、まさに江戸時代の日本人の民俗が見えるのです。この本はモノクロではあるが、絵に添えられた説明文の解説もあり、興味深いのです。【江戸職人づくし】画像なし北尾政美、朝倉治彦著、岩崎美術社、 1980年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データなし<大使寸評>職人の生態、各種商店、商談場面、行商風景、行商道具、花魁、銭湯、調理等々の画像が、全ページにわたって載っていて、まさに江戸時代の日本人の民俗が見えるのです。・・・言ってみれば、民俗学資料の宝庫のようなものではないか♪rakuten江戸職人づくしウィキペディアによれば、北尾政美(きたお まさよし)とは、江戸時代中期の浮世絵師。狩野派に転じた後の鍬形恵斎(くわがた けいさい)の名でも知られる。今日ではややマイナーな存在であるが、江戸時代には俗に、「北斎嫌いの恵斎好き」という言葉ができるほど評価された絵師である・・・だそうです。文化庁の文化遺産オンラインで近世職人尽絵巻を見てみましょう。近世職人尽絵巻より鍬形恵斎(1764-1824)は浮世絵師北尾重政の門人だが,津山藩松平家のお抱え絵師となった異色の経歴を持つ。本図巻は白河侯松平定信の需めにより描いたもので,江戸における多種多様な職業に従事する人々を,軽妙かつ生き生きとした筆致でとらえているこの本の1ページ目に上に掲げた大工の絵が載っています。そして絵に添えられた説明文(原文)が各ページの上部に載っています。 大工は小工に対しての名にして 棟梁は都料匠なるへし また飛騨のたくみといへるも一人の事にあらす むかし飛騨より京師に上りて結番せし故 番匠の称ありとそ 今柱たてに伊呂波の字を書く事は高野大師の堂たてられし時よりはしまれりと 頓阿法師の高野日記にはしるせり 鉋は鈍きかよく候そ みやこの大工は敷居をけつるに三日手をはなさすといひ伝えて候そや
2015.05.28
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朝日のコラム「波聞風問」にチャイナウォッチャーとも言える吉岡桂子記者の記事を見かけたので紹介します。吉岡記者が、中国の友人を気遣っています。2015.5.24<拘束中の友へ 再び会い、議論できる日を>より 浦志強(プーチーチアン)さん、ニンハオ。 中国を代表する人権派弁護士として知られるあなたが、中国当局に拘束されて1年余りが過ぎました。民主化運動が弾圧された天安門事件から25年を迎えた昨年春、知人宅で開かれた事件を研究する会に参加したことが、拘束のきっかけでした。 数日前、民族の恨みをあおったり、騒ぎを挑発したりした罪で起訴されたニュースが流れました。ずっと心配していた日本の弁護士や研究者たちは、とても怒り、悲しんでいます。米国政府は深い懸念と早期の釈放を、欧州連合(EU)は裁判の公正と外国の大使館員の傍聴を、それぞれ求めています。 中国内でも内陸の重慶市の庶民10人が、あなたへの迫害に反対する声明を出しました。当時の市トップの政治手法を批判したネット発言を理由に、司法手続きなしで拘束されたところを助けられた、と書いてありました。地方の共産党幹部から訴えられた作家を、自由な言論が社会の公正を保つとの考えから弁護したこともありましたね。 中国版ミニブログで10万を超すフォロワーがいた、あなたに対しても、共産党の政策に批判的な書き込みが問題視されていたようです。「相手(ウイグル族)を敵と見なすなんて、でたらめだ」「釣魚島が中国のものかどうかなんて、私とは何の関係もない」「もし日本が中国の一部を統治したら環境保護、教育、医療面で状況は今よりも良くなっていた」などの部分です。 北京に住む知人は「影響力をもつ彼を黙らせ、社会の改革に向けて発言する人々を牽制(けんせい)するためだ。言論の空間は狭まっている」と起訴を嘆いています。昨年来、多くの弁護士や記者、NGOの活動家が捕らえられています。70歳を超える人までも。年長者を重んじる儒教の故郷として、暗黙の了解で拘束を免れてきた年齢なのに。 中国では歴史的に、政治家から経済人、庶民にいたるまで、日本との縁がいつなんどき悪材料に転じ、「友人」を苦しめることになりかねない。そう悩む日本人もいます。中国とうまく商売をするには、余計な口出しは禁物と考える人もいます。 しかし、中国がルールに従って動く国になることは、日本の経済にも安全保障にも深くかかわります。その実現に努める中国の方々との交流の積み重ねは、関係の安定を築く礎になると信じています。再び会い、日本の言論環境の変化を含めて意見交換できる日を待つ人もまた、たくさんいます。 拘束中のあなたに宛てた奥様からの公開書簡を読みました。厳しい調べによる嘔吐や失神、糖尿病や高血圧の持病を案じていらっしゃいました。北京の厳しい夏がすぐそこです。くれぐれも保重身体(お大事に)。吉岡記者がAIIBとADBの競合について、正論を語っています。2015.5.3<ADBとAIIB 競い合うべきものとは>より カスピ海沿いの資源の都、アゼルバイジャン・バクー。第2次世界大戦時にヒトラーも狙った油田を抱える国で2日、開発金融を担うアジア開発銀行(ADB)の総会が始まった。来年には50周年を迎えるADBは、中国主導で創設されるアジアインフラ投資銀行(AIIB)から挑戦を受けている。 ADBの初代総裁を務めた元大蔵官僚、渡辺武氏(故人)は著書「アジア開銀総裁日記」に、こう書く。 「アジアから見た日本は、郷土を捨てて都会に走り、成功者として再び郷土に戻ってきたものに似ている」 ADBの設立は戦後20年あまりたった1966年。日本が「大東亜共栄圏」を掲げてアジアを舞台に戦った歴史の記憶が、今よりずっと濃い時代だ。渡辺氏は、こうも記す。「経済大国にのしあがった」日本が受け入れられるかどうかは、自らの振る舞いで決まると。日本にとってADBは、経済を通じてアジアとの関係を築き直す道具でもあった。 発展を急ぐアジアの国々では、高度成長を享受する日本の経済力への期待が高まっていた。いっぽう、警戒や反感もあった。本店選びは3回の投票を経て、東京は1票差で敗れてマニラに奪われている。 米国との関係も微妙だった。 米欧の一部は「世界銀行があるのになぜADBが必要か」と懐疑的だった。本店誘致をめぐっても、米国は「極めて冷淡」で「常に味方と考えて、全面的に信頼する危うさ」を指摘する日本の外交文書も残る。 慎重だった米国が加盟に転じた背景には、ベトナム戦争がある。東南アジアへの関与を強める必要が高まったからだ。東西冷戦下では、ADBも「反共」戦略の一部だった。 当時を知る人によれば、複雑な立ち位置の日本は、出過ぎないよう配慮しながらADBの創設と運営に取り組んだという。多くの議論は国連のアジア極東経済委員会で進められている。 AIIBを今、大国間の政治ゲームの断面で切りとれば、中国の「圧勝」に映る。この地域に深く関与してきた日米の否定的な態度をよそに57カ国を集めてみせた。だが、途上国や新興国の開発や成長への支援は本来、息の長いものである。「一回裏」でゲームは終わらない。 中国の台頭で、日本がアジアで唯一の経済大国ではなくなった。同時に、50年前のアジアと異なり、開発独裁下にあった多くの国は民主化した。プレーヤーは政府や権力と結んだ財閥だけではない。国境を越えて共有できるルールを提案するには、幅広い接点が必要だ。ADBにもAIIBにも、資金を調達する世界の市場や株主を抱える企業、住民やNGOと協力しあう力こそが試されている。ここで以前のインタビュー記事を紹介します********************************************************************<吉岡桂子記者の渾身インタビュー記事>中華文明に関する吉岡桂子記者渾身のインタビュー記事を紹介します。・台湾、ひまわりの芽は邱義仁2015.3.17・中国、権力と文学閻連科2015.2.06・政治化するナショナリズムワンチョン2014.11.15・中国、成長の罠香港大学教授2014.02.26・中国の「不動産バブル」大手不動産会社トップ2014.01.28・中国 国有企業の行方張維迎2013.11.07・中国と影の銀行張維迎2013.8.02朝日新聞の吉岡記者といえば、チャイナウォッチャーとして個人的に注目しているわけで・・・・その論調は骨太で、かつ生産的である。中国経済がらみで好き勝手に吹きまくる経済評論家連中より、よっぽどしっかりしていると思うわけです。波聞風問一覧に吉岡記者の中国論が載っています。<吉岡桂子記者の渾身記事14>
2015.05.27
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中国大使をつとめ、習近平を知悉する著者が語る中国の実情とのこと・・・本屋で立ち読みしていて衝動買いしたのです。【習近平の中国】宮本雄二、新潮社 、2015年刊<「BOOK」データベース>より猛烈な反腐敗闘争、戦後秩序を揺さぶる外交攻勢、急減速する経済の立て直しー。二〇一二年の総書記就任以来、習近平は猛烈なスピードで改革を進めている。基本的な方向性は間違っていない。しかし、まさにその改革によって、共産党一党支配の基盤は崩れていかざるを得ない。危ういジレンマに直面する中国は今後、どこに向かうのか。中国大使をつとめ、習近平を知悉する外交官が描いた「苦闘する超大国」の実情。<読む前の大使寸評>中国大使をつとめ、習近平を知悉する著者が語る中国の実情とのこと・・・本屋で立ち読みしていて衝動買いしたのです。bunshun習近平の中国尖閣諸島沖事件があって以来、また南沙諸島での中国の基地造成が進むなかで、中国脅威論が語られることが多くなった。この本で、中国脅威論が述べられているので見てみましょう。p216~218<中国脅威論を理解できない中国人> 昨今の中国脅威論の高まりを、中国の人たちは、なぜそうなるのか理解できないでいる。脅威論を煽るのは、中国を悪者にして、自分たちの悪行を隠し、よこしまな利益を得るためだと考えている。中国の「ものの考え方」が、中国脅威論の高まりという結果をもたらす仕掛けになっていることに、彼らの多くは気づいていない。 その考え方とは、「中国の基本的国策は平和と発展であり、世界の平和と発展のために大国としての責任を果たし尽力する。しかし領土や主権、海洋権益と言った中国の生存と発展のために必要不可欠なものにっついては、一切譲歩はしない」とまとめることができる。 つまり、自分たちの「革新的」な権利や利益を侵犯することは決して許さないという姿勢と、世界の平和と発展のために努力することとは両立すると考えているのだ。 なぜなら中国の「権利や利益」を守るのは当然であり、侵犯する相手が悪いのだから、世界の平和と発展を損なっているのは相手だ、という理屈になるからだ。 だがここに本質的な問題がある。それは、正しいか正しくないかを自分たちで決めているからだ。中国は、世界大国になれば何が正しいかを自分で決めることができると考えているが、それは大間違いだ。アメリカはそうしているではないか、と言いたいのであろうが、そうではない。 アメリカでは大統領が決めたことにも議会は反対できっるし、国民も監視している。国際輿論もある。ルール違反をしたり、国民が正義だと思っていたことでも、いずれは是正する。戦後の国際政治秩序は、ルールに則った行動をすることを求めており、大国が自由に振る舞うことを簡単には許さないのだ。 中国が軍事大国になるのは当然だと思っていても、中国以外の世界は「はい、そうですか」というわけにはいかない。軍事力は相手を破壊する手段ではあるし、持っているだけで相手を恫喝できるからだ。 一昔前、中国から「核兵器を持たない国に対して核は使用しませんので安心してください」などという説明を聞いたことがある。これは、無防備な人にナイフを背中に隠しながら「このナイフは決して使いませんので安心してください。ところでお金を少々貸してくれませんか」と言うようなものだ。兵力に大差があると、相手を脅して目的を達成することはできるのだ。 中国は、これだけの世界大国となり、巨大な軍事力を持つようになった。その軍事力をどのように使おうとしているのか、国際社会に説明する必要がある。合理的な説明を聞くことができなければ、他の国は中国の意図に猜疑心をいだき、それに対抗する動きをするだろう。 不必要な、かつ地域と世界を不安定化させえる軍拡競争に入る必用はお互いにない。だからそれを避けるためにも、中国の説明は必要なのだ。とりわけ地政学的な対立関係に入ったアメリカとの間では、十分な意思疎通をする必要がある。 中国がするべき説明は、中国の考える世界像や世界秩序を語るものでなければならない。そういう大きな目標を達成するために、軍事力はどういう役割を果たすのか。このことを世界に通用する言葉とロジックで話す必用がある。それが曖昧のまま軍事力の増強を続ければ、中国の意志を他者に押し付け、自国の利益を拡張し、覇を唱えるためにそれをやっているのだと思われるであろう。なるほど・・・自己中・中国の最大の難点(そして弱点)は、自己を客体視できないことなんでしょうね。宮本さんの将来予測を見てみましょう。冷静な宮本さんは、大使などが「ワーストシナリオを渇望すること」にも釘を刺しています。p224~225<ベストシナリオとワーストシナリオの間> 私は、中国の将来は、すべてうまくいってアメリカをいずれ追い抜くベストのシナリオから、すべてがうまくいかず中国共産党の統治が崩壊し中国が大混乱におちいる最悪のシナリオまでの間をさまようものになるだろうと思っている。私個人の皮膚感覚としては、ベストのシナリオよりもワーストのシナリオの方が可能性は高いとも思っている。 どのシナリオに落ち着くかは、この本の冒頭で述べたように、中国のかかえる問題の深刻化のスピードと中国共産党の統治能力向上のスピードとの間の相関関係で決まる。 中国社会はこれからさらに変化し、それに対応して中国共産党も変化していく。これが常識的な将来予測だ。つまり速すぎる変化を経て、中国の経済成長のスピードも遅くなり、社会の変化も次第にゆっくりとしたものになっていく。そして中国社会の自己反省も始まる。 この自己反省はすでに始まっており、拝金主義にどっぷりとつかった社会の風潮に対する反発は強まっている。仏教やキリスト教、それに道教といった宗教に対する関心も強まっている。中国社会の価値観や倫理観も、伝統的な価値観の影響を強く受けながら、これから大きく変わっていくであろう。 つまり中国のベストシナリオに恐怖するのでもなく、またワーストシナリオを渇望するのでもなく、その二つの可能性がありうることをしっかりと頭の片隅に置きながら、それでも中国は着実に前に進んでいく蓋然性が高いと想定しておくべきである。王朝崩壊のメカニズムとも言える易姓革命が語られています。p133~135<易姓革命におびえる共産党> 共産党は、中国において他と較べようもない強大な組織だ。それなのに、彼らはいつも「統治の正当性」の影におびえている。改革解放政策がこれほど成功を収め、中国の国民もこれほど豊かになったのに、かえって国民の不満は強まっている。 そして共産党は道なき道を試行錯誤で前に進んでいる。だから時には自信も揺らぐ。統治に自信がなくなればなくなるほど、民が怖くなるのだ。このことは中国の歴史と切っても切れない関係にある。 中国は「易姓革命」を信じてきた社会だ。この考え方は中国古代に成立した。「天」という絶対的な存在があり、「天子」(皇帝)は「天命」を受けて天下を治める。だが、もし(姓を持つ)皇帝に不徳の者が出て、民の支持を失えば「天命」は革まる。そこで他の姓を持つ有徳者が天命を受けて新しい王朝を開くという考えだ。姓が易わり、天命が革まったのだ。これが「易姓革命」だ。 確かに中国では、いかに栄華を誇った王朝といえども、最後は草の根の民の力で倒されている。そしてそれまでの皇帝とは異なる姓を持つ人物が新たな王朝を建ててきた。民の支持を失えば民に倒される。これが民間バージョンの易姓革命観であり、現代の指導者も間違いなくこの意識を持っている。(中略) 今から振り返ると、1949年の中華人民共和国の成立当時が、国民の間で共産党の声望が最も高かった時期だった。日本を打ち負かし、中国から外国を追い払い、輝かしい新中国をつくった。そして国内では正義と公平の社会をつくろうと努力した。少なくともかなりの数の党員は、そうしていると信じていた。これを見て多くの国民は、共産党による統治は正当性を持つと考えた。統治の実体が、そう思わせたのだ。 しかし共産党の統治は、毛沢東による政治闘争に次ぐ政治闘争となり、経済は疲弊し、社会は破壊された。文化大革命でその頂点に達した。民心は完全に離れ、これに危機感を募らせたトウ小平が、改革開放政策を打ち出した。トウ小平のこの政策は、「統治の正当性」を取り戻すことに最大の狙いがあったのだ。 「統治の正当性」を如何に取り戻すかは、依然として彼らにとっての強迫観念なのである。中国共産党のものの考え方の中に、われわれの想像以上に、国民との関係が大きな位置を占めていることを頭に入れておく必要がある。
2015.05.26
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浜坂ハーフ2015の結果は、2時間29分台という凡庸なものでした。まあ、大使より速い老人ランナーが如何に多いかを、実感させられたレースとでも、言いましょうか。(レース前の長距離走は1時間走を2回だけという、なめた態度がよくなかったかも・・・汗)でも、マラソンバスを利用して一泊旅行を兼ねる浜坂ハーフは楽しいわけで・・・泊まった民宿で、来年度マラソンの宿泊予約をしてきたのです。レース後は、今回もユートピア浜坂に向かったのです。源泉かけ流しの大浴場で汗を流したあと、大広間で弁当(マラソン会場でもらったおにぎり)を食べたわけです。そのあと寝転がって、地元の人が歌うカラオケを聞いたり・・・至福のひと時でんがな♪このレースの記録詳細です。【浜坂ハーフ2015】60歳以上男子順位:140位台/194人(ラップタイム) (1K換算)5K 31’23 6’167K 44’32 6’34 10K 66’46 7’24 12K 80’00 6’3713K 86’47 6’4615K 101’07 7’1016K 108’19 7’1117K 116’30 8’1118K 123’51 7’21残3 124’41 残2 133’38 8’57ゴール 149' 8’くらい気温は27℃くらいで、過酷というほどではなかったが、ゴール前のヨレヨレ状態が見て取れます。大使にとって昨年が体力的な曲がり角だったのかもしれません。で、このコースの過去の記録を見てみましょう。【浜坂ハーフ2014】60歳以上男子順位:120位台/184人(ラップタイム) (1K換算)1K 6’19 6’19(実際は5’40くらい)2K 11’52 5’323K 17’49 5’564K 23’51 6’015K 29’52 6’017K 42’35 6’21 折り返し 68’08 12K 75’55 6’3513K 82’41 6’4515K 96’55 7’0716K 103’43 6’4818K 120’07 8’12残2 128’26 8’19残1 136’19 7’52ゴール 143' 7’30くらいラップタイムを見てみると、一時はキロ8分台にも落ちる体たらくで…要するに、疲労と暑さでヨレヨレで走っているのが見てとれます。(ま~晴れて30℃くらいあったけど、それは言い訳に過ぎません)【浜坂ハーフ2013】60歳以上男子順位:80位台/200人(ラップタイム) (1K換算)スタート通過時に時計押し間違え1K 2’39 実際は5分くらい2K 7’54 5’163K 13’16 5’204K 18’38 5’215K 24’20 5’4210K 55’12 6’10折り返し 57’43 15K 85’34 6’0718K 104’13 6’13残2 113’00 残1 119’51 6’50ゴール 126’ 7’くらい(正式記録2時間9分台)サブツーを狙ったが、この結果には不満が残るのです。【浜坂ハーフ2012】60歳以上男子順位:110位台/164人(ラップタイム) (1K換算)スタートライン通過22秒1K 6’04 6’042K 11’54 5’494K 23’48 5’575K 29’54 6’0610K 63’03 6’4315K 96’09 6’31残3 125’3620K 132’14 7’13残1 133’01 ゴール 140’ 7’20くらい故障明けの完走狙いでした。昨年(2014年)が体力的な曲がり角であったことが見てとれます。もう、前年の記録が維持できたら立派という年代になったのでしょうね。浜坂ハーフマラソン結果2014
2015.05.25
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日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・草木成仏の思想 安然と日本人の自然観・遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち***************************************************************草木成仏の思想 安然と日本人の自然観より<人間の傲慢がもたらす自然の怒り:本郷和人(東京大学教授・日本中世史)> ひところ「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という言葉がよく使われた。成仏とは仏になること。また心の働きをもつ「有情」に対し、心の働きのない植物などを「無情」という。そうすると、「山川草木悉皆成仏」とは、無情であっても仏になれる、との意味になる。 哲学者の梅原猛が仏教思想の中からこの言葉を見つけ出し、中曽根康弘首相(当時)が政治の場でしばしば引用した。私たちはすべての生物・自然と調和し、共棲してきた。「共存の哲学」こそが日本民族の生き方である、と説いたのだ。日本人は自然に優しい、環境を大切にする、という表現は現代でも耳にする。 その思想は真実だろうか。著者は忘れ去られていた安然(841?~915?)という学僧の事績を発掘する。彼の手になる『斟定(しんじょう)草木成仏私記』を現代語訳し、その他の著作も吟味しながら、この問題を考察していく。そして「真如」という概念に着目し、安然が「草木が自ら発心・修行し、成仏する」との理解に至ったことを解き明かす。 著者の論点はさらに、日本人と自然の関係へと進んでいく。日本人は本当に環境に優しく、自然を大切にしてきたのか。いや、そんなことはない。私たち日本人は昔から、開発と称して自然を破壊してきたではないか。自然の大部分はどんなに科学が発達したとしても了解不能な領域に属しているのだから、「原子力を制御できるなどというのは傲慢以外の何ものでもない」。 安然が説く「真如」とは、「かたちのある何か」ではない。有情・無情が生成し、帰滅していくところであり、それに思いをいたし接近していくことこそが信仰である。その意味で、人間の思い上がりや不勉強が自然(無情)の怒りの元となり、天災をもたらす、という考え方なり信仰は、十分に成立すると著者は説く。傾聴すべき提言であろう。 ◇末木文美士著、サンガ、2015年刊<「BOOK」データベース>より「草木などの植物も仏になる」という草木成仏論は、いつ、どのように生まれてきた思想なのか?-それは単なる「自然の賛美」でもなければ、「日本古来の自然観」でもない。平安時代に注目され、議論されてきたその思想を根拠から問い直し、自然との向き合い方を再考する。<読む前の大使寸評>中国人が論語を引合いに出すのなら、日本人なら「草木成仏の思想」やで・・・と、中華嫌いの大使は、そう思うのである。なんか、中華との対抗でしか考えられないのが、度量が狭いのだが(笑)<図書館予約:未>rakuten草木成仏の思想 安然と日本人の自然観遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たちより<数百万人、大戦最大の「後遺症」:吉岡桂子(本社編集委員)> 欧州は歴史のかさぶたに覆われている。乾いて癒えたように見える皮膚もあれば、血がにじんでいる傷口もある。 その一枚をめくると、第2次世界大戦が欧州に残した数百万人の難民の苦難の物語があった。英国のテレビプロデューサーだった著者が、大戦最大の「後遺症」をドキュメンタリーのように描く。戦争の記憶や記録は「民族ごとに構築されてきた。客観的に書くのは容易ではない」と自覚しながら、民族や国家の枠を超えた歴史の俯瞰に挑んだ。 舞台は、1945年の終戦をはさんだ約10年間のドイツ。主役となる「難民」は、ヒトラーの大虐殺を生きのびたユダヤ人だけではない。ナチス時代に欧州各地から強制連行された労働者、自発的な出稼ぎ、戦争捕虜、共産主義の旧ソ連から逃れようとした人……。ポーランド、ウクライナ、ユーゴスラビア、バルトの国々など、さまざまな背景を持つ人々が難民として吐きだされ、迫害や伝染病、飢えの恐怖にさらされた。 彼らはどこからどのようにやって来たのか。そして、どこへ行ったか??。時が過ぎたからこそ出てきた記録や当事者の証言を生かしながら構成する。外国人への嫌悪や差別をあけすけに語る人がいる。連合国が設けた難民を支援する国際機関の収容所には、「上から目線」の偽善もある。悲劇に潜むきれいごとだけではない生々しさが、欧州の大きな歴史を人々の物語に紡ぎ直している。 難民は、米国が深くかかわった欧州の復興や東西冷戦、イスラエルの建国といった世界の歴史の渦の中にありながら、その潮流を作る存在にもなったという。著者が戦後の出発点とする「難民危機」を追うと、和解と統合の「優等生」では語り切れない欧州の苦悶と打算が見える。戦時の強制労働の問題、移民の受け入れや民族主義への向き合い方など、日本がいま抱える課題への示唆に富んでいる。 ◇ベン・シェファード著、河出書房新社、2015年刊<「BOOK」データベース>より行き場のない数百万の放浪者!-それは大事件だった!想像を超えた苦難と悲劇の実話。迫害、食糧、伝染病など、多くの要因が絡む巨大な人口移動が、いかに戦後をつくったかを詳細に描く!<読む前の大使寸評>難民とか移民、そしてディアスポラが大使の関心事である。吉岡桂子委員の推す本であれば、いい本だと思います。ちょっと無責任な寸評かもしれないが、それだけ吉岡委員を信頼しているわけです。<図書館予約:未>rakuten遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち**************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本朝日デジタルの書評から67浜坂ハーフ結果報告については、疲れているので明日とします。
2015.05.24
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図書館で『海と女とメタンハイドレート』という本を手にしたが・・・・「メタンハイドレートあれこれ」をしたためたとおり、メタンハイドレート開発には関心があるのです。でも、この本では、青山千春本人の面白さがメインのようです♪【海と女とメタンハイドレート】青山千春, 青山繁晴著、ワニ・プラス、2013年刊<「BOOK」データベース>より建国以来初の自前資源、メタンハイドレート。日本国民の多くが期待を寄せるこの資源の、魚群探知機を使う安価にして確実な探査方法で日本の特許と諸国(アメリカ、オーストラリア、ロシア、中国、韓国)の特許を持つ青山千春博士。そして、彼女はその特許の使用料を1円たりとも取らない。祖国のための特許であり、自らの利益のための特許ではないのだ。メタンハイドレート調査・研究のキーパーソンであり、国士でもある博士は、同時に青山繁晴氏の配偶者であり、二人の息子の母でもある。船乗りを志し、門前払いの大学の中から、かすかに開いていた東京水産大学の門をこじ開けるなど、この国にある性、年齢などの様々な差別や障害としなやかに、そしてしたたかに戦ってきた彼女のピュアな道行は、やがてメタンハイドレートとの出会いにつながり、世の女性たちと祖国に勇気と元気をもたらす。<読む前の大使寸評>夫婦共著の本は、ありそうで、あまりないようですね。この本では、夫唱婦随なのか婦唱夫随なのか判然としないのだが・・・いずれにしても明るく、開拓精神旺盛なところが、ええでぇ♪rakuten海と女とメタンハイドレート青山千春の原点あたりを見てみましょう。p78~82<将来は南極に行って化石を掘る!> この授業が、私の「謎を解きたい気持ち」に火を付けました。“これは絶対、南極へ行って化石を自分で掘るしかない!” そう決意しました。 この授業が私の人生の方向を決めました。それからは、どうやって南極に行くのがいいのだろうと真剣に考えるようになりました。 大陸移動説の話を聞いて、すぐに猪郷先生が顧問をしている「地学班」―いわゆる「地学部」なんですが、女子学院ではクラブのことを「班」といいます―に入りました。 それから先生と一緒に埼玉県の長瀞や秩父の山に巡検(フィールド調査)に行き、フズリナや二枚貝の化石などをハンマーで叩いて採取しました。(中略) フィールド調査の面白さを教えてもらいました。そしてフィールド調査には「努力」が導き出す「運」も大事だとわかりました。 猪郷先生との出会いがなければ、いまの自分はありません。船乗りにならなかっただろうし、もちろんメタンハイドレートを発見することもなかったです。猪郷先生、ありがとうございました。 私が41歳で博士号を取った時に、やっと夢に近づいたので、うれしくて猪郷先生に真っ先にお知らせしました。先生からは「40代は研究者が最も活躍する年代です。大いなる社会貢献を期待します」といううれしいメッセージをいただきました。 さらに、私がメタンハイドレートの研究を始めた頃には、日本地質学会に入る必用が有りましたが、水産学博士の私には異分野である日本地質学会には知人がいませんでした。会員の紹介者がいなければ入会できない決まりがありました。そこで、会員である猪郷先生に紹介していただき無事に入会することができたのです。二人の子どもの子育ての目途がたった後、理系女子のフロントランナーとして初志貫徹をめざすところが偉いわけです。p144~151<航海士の免許も取り、36歳で大学院へ> ちなみに東水大の後輩に、小野寺五典・現防衛大臣がいます。小野寺さんは、私が大学を中断している間に東水大に入学したと思います。その頃すでに、女性として初めて東水大に入学した「青山千春」が伝説化していたそうです。(文字数制限により省略、全文はここ) 修士課程では、最初は魚のことや魚群探知機の設計など、基礎的なことを学ぶので、それは大変でした。なかなか興味が湧かなかったからです。 しかし、そこは堪えて学ばなければ、その後の自分のやりたい研究ができないと自分に言い聞かせて、修士課程の2年間はたくさん実験をし、とにかくデータを数多く集めました。 そのときは、大学所有のひよどりという19トンの、機関士と船長とふたりで運転する小さい船に乗って、千葉県の館山まで行き、そこで実験を重ねました。 大学4年の卒業論文以来12年ぶりに書く論文なのでなかなか苦労しました。4年の頃は手書きだったのに、ワープロで書くようになっていたり、4年のときには計算は卓上の計算機でやっていたのに、パソコン上でプログラムにより高速計算できたり、まるで浦島太郎状態でした。 (中略) <運命を変えた「ナホトカ号」重油流出事故> そんなある日のこと。「魚群探知機で海底のこともいろいろと調べられることがわかってきた」というようなドクターの論文を書いて間もない頃、「ナホトカ号」調査の話が私のもとに舞い込んできました。 それは1997年1月のことですが、重油を積んだロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」が、悪天候のため船体が真っ二つに折れて、船体の大部分が島根県隠岐島沖に沈没したのです。問題は沈没した船体にどれくらいの重油が残っているのかっわからないことでした。 そこで、船に積んだ魚群探知機からの超音波で、魚群ではなく、海底や海の中を探索するという研究を行っていた私のところに、海中の重油の湧出量を計測できないかという依頼が来たのです。この調査を成功裏で終わったあとの回航中に、メタンハイドレートを見つけることになるわけです。最後に、夫・青山繁春から妻・千春へのエールを見てみましょう。p219~222<陸と男とニッポン航海記> 横川千春という少女が、大学に出願すらできなかったとき、突破口を開いてくれたのは、ピアニストのお母さんでした。 その後の障害は、ことごとく、ありのままに申してぼくが全面支援して突破してきました。性別、年齢で日本国民をあらかじめ勝手に分けること、そして官僚や政治屋、企業の既得権益、東大という虚名にひれ伏すマスメディアの愚かな権威主義、それぞれの利己主義、祖国をみずから貶め「敗戦国」にして「資源のない国」であることをむしろおのれの過去の業績を守ることに結びつけてきた学者たちの自己防衛第一主義、それらとひとつひとつ、たった今も戦っています。 ひとつには、ぼくは弱い立場に立つひとを護り応援するのが、子供の頃から、ご飯を食べるより好きです。 しかし、もっと大きな理由があります。 それは青山千春がぼくの配偶者、かあちゃんだからでは、ありませぬ。 ぼくたちはみな同じ定め、一度だけ生まれて一度だけ死にます。 ぼくは近畿大学の経済学部で、客員教授として国際関係論を教えてもいますが、毎年の春、男女の新入生への最初の講義でいつもこう言います。 「祖国には、きみしかいない」 女も男も、大学名も何もへったくれもありません。 たとえば鈴木優子さんという学生がいるとして、その名前はどこにでもあっても、この鈴木優子は、この先に宇宙が何百億年続いても、決して再び産まれることはありません。 ぼくらは、死すべき存在だからこそ、絶対的にかけがえのない存在です。 その個性の発揮を不当に阻むものとは、命ある限り、あらゆる最前線で戦います。 日本海にあるような表層型そして結晶状のメタンハイドレートを極めて安価に、そして確実に発見できる方法で、青山千春博士が、日本の特許をあっという間に取ったのを皮切りに、アメリカ、オーストラリア、ロシア、さらに韓国、そして日本人の特許を認めたくない中国の特許すらも、どんどん取っていったとき、ぼくは独研の命運と最終経営責任を預る立場として、一度だけ、こう聞きました。「おい、自然科学部長。特許を持っていたら、その特許技術を使う人や組織からは、特許使用料を取るのが当然だよ」 独研本社で執務中だった青山千春博士は、顔を、えっと上げてこう言いました。「社長、何をおっしゃるんですか。私は祖国のために特許を取ったんです。使用料なんか取りません」「おまえ、(社会に疎いはずの日本の)科学者のくせして、祖国なんて言葉をどこで覚えたんだ」「・・・・私の作った技術は、誰にも使いやすい技術です。それだからこそ、意味があると思いますが、私が特許を取らなかったら、中国や韓国が特許を勝手に取って、日本は戦争責任があるから使うなと、きっと言ってくると思います。それを未然に、きちんと防ぐために特許を取ったんであって、祖国と世界のためにどんどん私の技術を使って、環境に良い、人類に良い、新しい資源を見つけて欲しいと思います。お金のために取ったんじゃない。それが社長の決めた独研の経営方針ですよね」「よし、分かった。その通りだ。きみは正しい」 これで、永遠に特許使用料を一円も、一セントも取らないことが決まりました。まさか、青山千春博士から、祖国とか戦争責任という言葉が出るとは思わなかったが、博士の高邁な方針には敬服する大使でおます♪コンソーシアム体制 メタンハイドレート開発には「メタンハイドレート資源開発研究コンソーシアム」という、いわゆるムラが形成されているが・・・はたしてこのムラは日本の国民にとって有力な資源開発となってくれるのか? メタンハイドレートからメタンガスを取り出すには、減圧の度合いを60-70%に上げて生産する必用があるようだが…取出ガス費と生産費用の対比が商業化の目処となるわけで、コンソーシアムには生産施設の改良・実用化が委ねられているようです。それを税金で運用するならば、納税者としてはコンソーシアムに誤魔化されないようチェックする必要があるわけですね。(経産省に対して疑い深い大使である) なお、コンソーシアムの試算によれば、ガス生産費用は46~174円/m3で、米シェールガスの10円/m3よりそうとう高いらしいでぇ。(シェールガスの5倍くらいでおさまるなら・・・御の字やで)この皮算用のリスクとロングスパンがお役所にとっては・・・たまらなく美味しく見えるのでしょうね。このあと、浜坂ハーフマラソンに向けて出発します。結果報告は明日以降になりますので、よろしく♪
2015.05.23
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杉浦日向子のまんが『百日紅』に出てくるお栄を題材にしたアニメ映画が公開中であるが、視る前に個人的予告編を作ってみました。それにしても・・・新聞で4面ブチ抜きで広告されていたのには、驚きました。ネット情報を見てみましょう。原監督も杏も杉浦日向子作品の大ファンだったようですね。杏が、原作・杉浦日向子×主題歌・椎名林檎に大喜び!より杉浦日向子の同名コミックを映画化した『百日紅~Miss HOKUSAI~』の初日舞台挨拶が、5月9日にテアトル新宿で開催。声優を務めた杏、松重豊、濱田岳、立川談春、清水詩音、原恵一監督が登壇した。原監督も杏も杉浦日向子作品の大ファンだったので、初日を迎えた喜びもひとしおだ。原監督は「自信をもって観てもらえる作品になりました。何より、原作者の杉浦日向子さんや自分に対して、誠実に作った作品です」と力を込めて挨拶をした。主人公・お栄の声を担当した杏も「1年前にお話をいただき即諾しました」と喜びを口にした。また、主題歌「最果てが見たい」を椎名林檎が手がけたことについても「小躍りするくらいうれしかったです」と言った後「最果てを本当に見たいのか?それとも、追い続けるのが作り手の業なのか?というところがとてもリンクしていると思いました」と曲への思いを述べた。つらつらと個人的予告編を書いたが、書いた後、映画を観に行ったのです。・・・で、くだんの鑑賞フォームを作ってみました。【百日紅~Miss HOKUSAI~】原恵一監督、2015年制作、2015.5.21鑑賞<movie.walker解説>より江戸時代に当時の風俗をとらえ、庶民から愛された“浮世絵”。浮世絵に生涯を捧げ、3万点を超える作品を発表した浮世絵師・葛飾北斎とその娘・お栄と、江戸に生きる人々との交流を描いた、杉浦日向子の同名漫画を『カラフル』の原恵一監督がアニメーション映画化した人間ドラマ。主人公・お栄役で杏が長編アニメ作品の声優に初挑戦。<大使寸評>お栄の顔は原作のほうが好みだけど、杉浦日向子の軽妙で怖いテイストは概ね再現されているように思います。それにしても、お栄がおかま置屋に乗り込み、一晩ともにする場面もあったりで、思った以上に大人向けアニメであり・・・アナ雪は見ない大使だけど、これなら、ええでぇ♪この種のアニメでペイできるなら、日本のアニメも爛熟してきた感があるのです。(ということで、この映画の収支決算を知りたいわけです)movie.walker百日紅~Miss HOKUSAI~この記事も杉浦日向子アンソロジーに収めるものとします
2015.05.22
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23、24日と一泊で、浜坂ハーフに出走するのだが、この際モチベーションを高めておきたいのです。兵庫県は五つの風土を包含しているわけで、一つの県という意識が希薄な、最たる県のようです。でもね、大使が継続的に出走しているレースのなかの筆頭が浜坂ハーフであり・・・毎回、日本海側の風土もええやんけ♪という気がしているのです。で、このコースの過去の記録を見てみましょう。【浜坂ハーフ2014】60歳以上男子順位:120位台/184人(ラップタイム) (1K換算)1K 6’19 6’19(実際は5’40くらい)2K 11’52 5’323K 17’49 5’564K 23’51 6’015K 29’52 6’017K 42’35 6’21 折り返し 68’08 12K 75’55 6’3513K 82’41 6’4515K 96’55 7’0716K 103’43 6’4818K 120’07 8’12残2 128’26 8’19残1 136’19 7’52ゴール 143' 7’30くらいラップタイムを見てみると、一時はキロ8分台にも落ちる体たらくで…要するに、疲労と暑さでヨレヨレで走っているのが見てとれます。(ま~晴れて30℃くらいあったけど、それは言い訳に過ぎません)【浜坂ハーフ2013】60歳以上男子順位:80位台/200人(ラップタイム) (1K換算)スタート通過時に時計押し間違え1K 2’39 実際は5分くらい2K 7’54 5’163K 13’16 5’204K 18’38 5’215K 24’20 5’4210K 55’12 6’10折り返し 57’43 15K 85’34 6’0718K 104’13 6’13残2 113’00 残1 119’51 6’50ゴール 126’ 7’くらい(正式記録2時間9分台)サブツーを狙ったが、この結果には不満が残るのです。【浜坂ハーフ2012】60歳以上男子順位:110位台/164人(ラップタイム) (1K換算)スタートライン通過22秒1K 6’04 6’042K 11’54 5’494K 23’48 5’575K 29’54 6’0610K 63’03 6’4315K 96’09 6’31残3 125’3620K 132’14 7’13残1 133’01 ゴール 140’ 7’20くらい故障明けの完走狙いでした。昨年(2014年)が体力的な曲がり角であったことが見てとれます。もう、前年の記録が維持できたら立派という年代になったのでしょうね。浜坂ハーフマラソン結果2014
2015.05.21
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今回借りた8冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「日本」でしょうか♪<市立図書館>・日本の樹木・漢字と日本人・海と女とメタンハイドレート・神戸ルール・キャプテンサンダーボルト<大学図書館>・毎日つかう漆のうつわ・日本、漆の国(季刊銀花105号)・最貧困女子図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【日本の樹木】舘野正樹著、筑摩書房、2014年刊<「BOOK」データベース>より本書では、あらためて木の美しさと不思議さを再発見してもらうために、基礎生物学から生態学までをふまえ、ヒノキ、ブナ、ケヤキなど代表的な26種について進化の秘密を紹介します。自然環境のなかで成長した本来の樹形を写したカラー写真をとおして、緑樹の影のしたたかな生き残り戦略について楽しく学びます。<読む前の大使寸評>カラー写真が多くてビジュアルはグー、挿入されたエピソードも植生や歴史などの薀蓄に溢れていて・・・ええでぇ♪rakuten日本の樹木日本の樹木byドングリ【漢字と日本人】高島俊男著、文藝春秋、2001年刊<「BOOK」データベース>より「カテーの問題」と言われたら、その「カテー」が家庭か假定かあるいは課程か、日本人は文脈から瞬時に判断する。無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。本来、言語の実体は音声である。しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。では、なぜこのような顛倒が生じたのか?漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。<読む前の大使寸評>著者は中国文学専攻の学者肌ではあるが、講談社エッセイ賞とか読売文学賞を取ったり、週刊誌のコラムを連載したり・・・大活躍でおますな~♪rakuten漢字と日本人漢字と日本人byドングリ【海と女とメタンハイドレート】青山千春, 青山繁晴著、ワニ・プラス、2013年刊<「BOOK」データベース>より建国以来初の自前資源、メタンハイドレート。日本国民の多くが期待を寄せるこの資源の、魚群探知機を使う安価にして確実な探査方法で日本の特許と諸国(アメリカ、オーストラリア、ロシア、中国、韓国)の特許を持つ青山千春博士。そして、彼女はその特許の使用料を1円たりとも取らない。祖国のための特許であり、自らの利益のための特許ではないのだ。メタンハイドレート調査・研究のキーパーソンであり、国士でもある博士は、同時に青山繁晴氏の配偶者であり、二人の息子の母でもある。船乗りを志し、門前払いの大学の中から、かすかに開いていた東京水産大学の門をこじ開けるなど、この国にある性、年齢などの様々な差別や障害としなやかに、そしてしたたかに戦ってきた彼女のピュアな道行は、やがてメタンハイドレートとの出会いにつながり、世の女性たちと祖国に勇気と元気をもたらす。<読む前の大使寸評>夫婦共著の本は、ありそうで、あまりないようですね。この本では、夫唱婦随なのか婦唱夫随なのか判然としないのだが・・・いずれにしても明るく、開拓精神旺盛なところが、ええでぇ♪rakuten海と女とメタンハイドレート海と女とメタンハイドレートbyドングリ【神戸ルール】都会生活研究プロジェクト編、中経出版 、2013年刊<「BOOK」データベース>より春は「いかなごのくぎ煮」でGO、GO。学校給食の争奪戦といえば「とくれん」。イノシシを見ても驚かない自信がある。私立女子校アイテムはファミかばん(だった)。「油引き」の油くささが忘れられない。日直じゃなくて、日番。<読む前の大使寸評>神戸人、関西人あたりを狙い撃ちしていて、マンガのページもあったりで、楽しく読める本である。rakuten神戸ルール神戸ルールbyドングリ【キャプテンサンダーボルト】阿部和重, 伊坂幸太郎著、文藝春秋、2014年刊<「BOOK」データベース>より世界を救うために、二人は走る。東京大空襲の夜、東北の蔵王に墜落したB29。公開中止になった幻の映画。迫りくる冷酷非情な破壊者。すべての謎に答えが出たとき、カウントダウンがはじまった。二人でしか辿りつけなかった到達点。前代未聞の完全合作。<読む前の大使寸評>売れっ子作家2人による合作ということで気になるわけです。サスペンス仕立てなので、それなりに面白そうである。エキサイトニュース阿部和重と伊坂幸太郎の合作で『キャプテンサンダーボルト』が抜群におもしろいに、合作のウラ話が載っています。<読後の寸評>コピー機のサービスマン井ノ原が盗んだ情報で家計の足しにするところなんか、生活感があるというか、サスペンスが増すわけです。無鉄砲な(結果オーライの)疾走感が感じられるのだが・・・伊坂幸太郎に阿部和重という悪友が加わり、スピードは倍加しているわけです。<図書館予約:(1/07予約、5/19受取)>rakutenキャプテンサンダーボルト【毎日つかう漆のうつわ】赤木明登, 高橋みどり著、新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>よりやさしい手ざわり、ほのかなぬくもり、とろっとした口あたり…。基本のお椀から、あると楽しいうつわまで。輪島の塗師と人気スタイリストが、毎日使える漆のうつわを紹介します。<読む前の大使寸評>値段からすると高価な民芸品そのものなんだが・・・それを毎日使えるんだろうか?(つい貧乏人根性が出る大使である)rakuten毎日つかう漆のうつわ毎日つかう漆のうつわbyドングリ【日本、漆の国(季刊銀花105号)】古書につき画像データ無しムック、文化出版局、1996年刊<「BOOK」データベース>よりデータ無し<読む前の大使寸評>季刊銀花の古書となると、ネット情報を見つけることさえ難しいのです。日本、漆の国(季刊銀花105号)byドングリ【最貧困女子】鈴木大介著、幻冬舎、2014年刊<「BOOK」データベース>より働く単身女性の3分の1が年収114万円未満。中でも10~20代女性を特に「貧困女子」と呼んでいる。しかし、さらに目も当てられないような地獄でもがき苦しむ女性たちがいる。それが、家族・地域・制度(社会保障制度)という三つの縁をなくし、日銭を稼ぐしかない「最貧困女子」だ。可視化されにくい彼女らの抱えた苦しみや痛みを、最底辺フィールドワーカーが活写、問題をえぐり出す!<読む前の大使寸評>追って記入rakuten最貧困女子*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き98
2015.05.20
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図書館で『漢字と日本人』という本を手にしたが・・・・著者は中国文学専攻の学者肌ではあるが、講談社エッセイ賞とか読売文学賞を取ったり、週刊誌のコラムを連載したり・・・大活躍でおますな~♪先日『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』という本を読んだ時、読めない漢字が頻出するので往生こいたわけです。韓国人の訳者があやつる漢字に、なにやら違和感と悪意(笑)を感じたわけで…漢語ないし漢字についてもっと知りたいということで、この本を借りたわけです。【漢字と日本人】高島俊男著、文藝春秋、2001年刊<「BOOK」データベース>より「カテーの問題」と言われたら、その「カテー」が家庭か假定かあるいは課程か、日本人は文脈から瞬時に判断する。無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。本来、言語の実体は音声である。しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。では、なぜこのような顛倒が生じたのか?漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。<読む前の大使寸評>著者は中国文学専攻の学者肌ではあるが、講談社エッセイ賞とか読売文学賞を取ったり、週刊誌のコラムを連載したり・・・大活躍でおますな~♪rakuten漢字と日本人同音異義語の話です。韓国では問題視されていながら、どうしようもなくて、放置されていますね。日本人はこれを許さず、徹底的に注釈を加えてきたようです。p154~157<顛倒した言語> いかに鋭敏なる日本人なりといえども、すべての同音語をただしく聞きわけられるわけではない。瞬時に文字を思いうかべて相手の発言を正確にうけとる、その最大のヒントになるのは、その語の出てくる文脈、ないしは環境なのであるから、おなじ範疇に属しおなじ環境で出てくる、きわめてちかい関係にある同音語のばあいは、聞きわけはしばしば不可能である。しかしそういうばあいには、発言者もそのことを先刻承知であるから、必要に応じてちょっと言いかえてみたり、簡単な注釈を加えたりして用を弁ずる。この言いかえや注釈も、おおむね慣例ができている。 たとえば「ワタクシリツ(私立)の学校」と「イチリツ(市立)の学校」、「モジテン(字典)」と「コトバテン(辞典)」と「コトテン(事典)」、「エコーギョー(工業)」と「ヤマコーギョー(鉱業)」と「オコシコーギョー(興行)」、「ワタクシノシアン(私案)」と「ココロミノシアン(試案)」等々。 おもしろいのは、日本人がこういう言いかえや注釈つけをめんどうがらず、むしろたのしげにやっていることさえあることだ。まぎらわしいし、誤解のもとだからこういう言葉は廃止しよう、と言う人はめったにいない。むしろ、わざわざまぎらわしい同音の語あらたにつくる。 「字典」「辞典」があるところへもう一つ「事典」をつくる。すでに「企業」があるのに、さらに「起業」をつくる。まぎらわしい同音の語がふえるのを楽しんでいるかのようである。(中略) 言語学の教えをまつまでもなく、本来、言葉とは人が口に発し耳で聞くものである。すなわち、言語の実体は音声である。しかるに日本語においては、文字が言語の実体であり、耳がとらえた音声をいずれかの文字に結びつけないと意味が確定しない――コーコーという音は「高校」あるいは「孝行」という文字に結び付けてはじめて意味が確定する――のであるから、日本語は「顛倒した言語」であると言わねばならない。同音異義語のメカニズムや漢語との確執が語られています。(国粋的な著者は、日本語と漢語との関係を腐れ縁と称しています)p240~245<やっかいな重荷> 西洋の言語学者は、言語は音声であり、文字はそのかげにすぎない、文字は言語にとって本質的なものではない、と言う。 これはもちろん正しい。人が口に音声を発し、それを耳に聞いて意味をとらえるのが言語の本質である。 人類は数万年前から言語をもちいてきた。そのながい歴史のなかで見れば、文字が発明されたのはごく最近のことである。また、地球上のすべての言語が文字をもつわけではない。文字を持つものはむしろ少数である。 漢語伝来以前数千年、あるいはそれ以上にわたって、日本語は、音声のみをもってその機能を十全にはたしていたはずである。文字のうらずけなしに成り立たなくなったのは、千数百年前に漢語とその文字がはいってからのち、特に、明治維新以後西洋の事物や観念を和製漢語に訳してとりいれ、これらの語が日本人の生活と思想の中枢部分をしめるようになって以来である。 現代の日本においては、ごく身近で具体的な物や、動作の形容には、本来の日本語(和語)がもちいられる(みちをあるく、やまはたかい・・・)。これらはもちろん音声が意味をになっている。耳で聞いてわかる。文字のなかだちを必要としない。 しかし、やや高級な概念や明治以後の新事実には漢語がもちいられる(語彙、文字、最初、漢語、高級、概念、等々)これらの語も無論音声を持っている。けれどもその音声は、文字をさししめす符牒であるにすぎない。語の意味は、さししめされた文字がになっている。 日本人の話(特にやや知的な内容の話)は、音声を手がかりに頭のなかにある文字をすばやく参照する、というプロセスをくりかえしながら進行する。(中略) しかも日本語は音韻組織がかんたんであるため、漢語のことなる音が日本語ではおなじ音になり、したがって一つの音がさししめす文字が多くなる(たとえば日本語でショーの音を持つ字、小、商、省、症、松、等々。これらは漢語ではみなことなる音であり、音自体が意味をになっている。これらが日本語ではすべて「ショー」になるので、日本語の「ショー」はもはや特定の意味をつたえ得ない)。 (中略) 日本の言語学者はよく、日本語はなんら特殊な言語ではない、ごくありふれた言語である、日本語に似た言語は地球上いくらでもある、と言う。 しかしそれは、名詞の単数複数の別をしめさないとか、賓語のあとに動詞が位置するとかいった、語法上のことがらである。 かれらは西洋でうまれた言語学の方法で日本語を分析するから、当然文字には着目しない。言語学が着目するのは、音韻と語法と意味である。(中略) 漢字は、日本語にとってやっかいな重荷である。それも、からだに癒着してしまった重荷である。もともと日本語の体質にはあわないのだから、いつまでたってもしっくりしない。 しかし、この重荷を切除すれば日本語は幼児化する。へたをすれば死ぬ。 この、からだに癒着した重荷は、日本語に害をなすこと多かったが、しかし日本語は、これなしにはやってゆけないこともたしかである。腐れ縁である。なるほど、日本語と漢語の関係は腐れ縁なのか。著者・高島俊男のスタンスは本居宣長のように国粋がかっていて・・・その論調は中華嫌いの大使にとっても心地よいわけです♪漢字と日本人1漢字と日本人2
2015.05.19
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図書館で『毎日つかう漆のうつわ』という本を手にしたが・・・・朝ドラ『まれ』にも、輪島塗の職人修行が出てくるやないけ♪で、漆器についてもっと知りたいということで、この本を借りたわけです。【毎日つかう漆のうつわ】赤木明登, 高橋みどり著、新潮社、2007年刊<「BOOK」データベース>よりやさしい手ざわり、ほのかなぬくもり、とろっとした口あたり…。基本のお椀から、あると楽しいうつわまで。輪島の塗師と人気スタイリストが、毎日使える漆のうつわを紹介します。<読む前の大使寸評>値段からすると高価な民芸品そのものなんだが・・・それを毎日使えるんだろうか?(つい貧乏人根性が出る大使である)rakuten毎日つかう漆のうつわこの本で、民芸品の本質を語るところがありました。p56<塗師屋と作家と職人と> ここで、漆の器がどのような流れで作られていくのかを見てみましょう。輪島では、「塗師屋」さんが主に製造の要となる役割を担っています。 堅牢な輪島塗は、江戸時代にはブランドとして確立し、全国に顧客を持っていました。その顧客を行商してまわり、注文を受け、輪島に帰って、職人さんをとりまとめて製作するのが、塗師屋の親方です。各地の良家に出入りすることのできた塗師屋の親方は、当時の流行や洗練された文化を身につけて帰ります。 能登半島の先端という僻地にありながら、垢抜けた器を作り続けてこられたのは、優れた塗師屋さんのプロデュース能力ゆえなのです。近代になり、流通制度が発達すると、一部の塗師屋さんは企業化し、製造した漆器をデパートなどの小売店に卸す問屋さんになりました。 また個人の立場で、作品作りをする芸術家も登場しました。その多くは、蒔絵や沈金など加飾の職人さんですが、自らの意匠と技術を磨き上げ、公募展に応募して受賞を重ねて、やがて漆芸作家として認められるようになります。しかし、漆芸作家も、本来は工程の一部を担う職人の一人です。 したがって、自分の専門以外の工程は、他の職人さんに注文して製作をしているのです。漆芸作家の作品も、個人の名前を看板のようにしながら、塗師屋さんを中心にした販売システムに組み込まれていきました。 そして、高度経済成長期から、バブルの時代にかけて、輪島塗は高級漆器として売上を伸ばしました。ただ、作れば何でも高く売れた時代に、多くの塗師屋さんは漆本来のニーズ、つまり「使う」ということを見失っていったように思います。バブルの崩壊とともに市場が急速に縮小すると、漆器が売れない、何を作っていいかわからないという時代がやってきます。 そんな産地のあえぎの中から、新しい作り手たちが生まれてきたのです。「ぬりもの」を作る人たちです。彼らは、漆の器を「使う」という原点に戻そうとしているように見えます。みな、もともとは木地師だったり、下地職人だったりと、さまざまな工程を担う職人さん。漆という素材に対する愛情に溢れ、何のために作るのかという目的と、美しく良いものを作ろうという意志を持ち担うべき工程では自らの手を動かす。 漆芸作家の場合は、作品が芸術的な自己表現の手段だったり、技術的なオリジナリティ=起源が、作家自身に帰属していることが重要です。一方、職人は自己表現を目的として物作りをしませんし、技術も意匠もその起源は、作り手個人にあるのではなく、人間の暮らし、日々の営みの中にあるのではないでしょうか。p66<輪島の魅力> 金沢から北へ120キロ。車でも2時間近くかかる。地続きといえども、輪島は日本海に突き出た半島の先端、名前のとおり陸から離れた「島」の感覚に近い。僻地だからこそ、大きな経済の流れに取り残されたように伝統的な文化が残っているのかもしれない。それが、この町のいちばんの魅力なのだ。 塗師文化もその一つだろう。多くの漆器産地が江戸時代に藩の庇護のもと発達したのに対して、輪島は独自の道を歩んできた。半工半商。つまり、自分で作った漆のうつわを、職人自らが担いで旅に出て売り歩く。この職人自らの行商こそが、現在の輪島塗師屋の起源なのだ。 お客さんは、当時勃興してきた豪商や豊かな上層農民。つまり武士などの特権階級ではなく、庶民に使われていたのだ。それゆえに輪島は、けっして派手ではないけれど、丈夫で実用的な、そして大らかさと温かみのある漆のうつわを提供しつづけてきた。それを支えていたのが、塗師と顧客との対面販売による信頼関係だった。そのやり方は今もなお受け継がれている。 だからこそ、多くの産地が衰えたにもかかわらず、輪島塗師は生き残ることができたのだろう。
2015.05.19
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図書館で『日本の樹木』という本を手にしたが・・・・カラー写真が多くてビジュアルはグー、挿入されたエピソードも植生や歴史などの薀蓄に溢れていて・・・ええでぇ♪【日本の樹木】舘野正樹著、筑摩書房、2014年刊<「BOOK」データベース>より本書では、あらためて木の美しさと不思議さを再発見してもらうために、基礎生物学から生態学までをふまえ、ヒノキ、ブナ、ケヤキなど代表的な26種について進化の秘密を紹介します。自然環境のなかで成長した本来の樹形を写したカラー写真をとおして、緑樹の影のしたたかな生き残り戦略について楽しく学びます。<読む前の大使寸評>カラー写真が多くてビジュアルはグー、挿入されたエピソードも植生や歴史などの薀蓄に溢れていて・・・ええでぇ♪rakuten日本の樹木樹木には「寿命の戦略」があるんだそうです・・・冒頭のプロローグより紹介します♪p6~8<樹木の適応戦略> 日本だけを見ても、樹木の種類は千近くにもなる。これらをすべて覚えることは難しい。しかし、樹木の生き方はそれほど多くはない。生き方を知れば、ある特徴をもつ種の適応の仕方はほぼ間違いなく推定できる。 筆者は、樹木の生き方を類型化するための一つの指標は「寿命の戦略」だと考えている。ここでの寿命とは、地滑りなどの物理的撹乱によって決まるものとしよう。1.常緑高木は長い寿命が期待される場合の戦略 たとえば200年以上の寿命が期待できるものとしよう。安定した平原や緩やかな尾根などがこうした場所だ。この期間を生き続けるためには、幹や根が丈夫でなければならない。この場合の丈夫さとは、菌類や細菌類の攻撃に耐えられることを指す。 そのためには幹や根の体積あたりの密度を高くすることが効果的だ。このような性質は成長速度の低下をもたらす。その場合、成長の初期にはより成長の速い樹木に負けてしまい、暗い林床で成長することを余儀なくさせられる。 暗い林床での成長には、一年中葉をつける常緑という性質が効果的だ。常緑高木は暗い林床で成長を続け、長い寿命の間に巨大な植物体を作る戦略である。【大使:屋久杉や楠なんかが該当するんだろう】2.落葉高木はもう少し寿命が短い場合の戦略 50年から200年の寿命が期待できるとしよう。この期間を生き抜くために必要な幹や根の体積密度は、常緑高木ほど大きくなくてもよい。密度を下げると成長速度を大きくすることが可能だ。 常緑高木よりも成長速度が大きいのならば、常に明るい環境で光合成ができる。明るい環境で効果的に光合成を行うには、常緑葉よりも薄く、しかし寿命の短い落葉性の葉が効果的だ。 落葉高木は、明るい環境で速い成長を続け、比較的短期間に大きな植物体を作る戦略である。【大使:比較的北国のカツラ、ブナなんかが該当するんだろう】3.中低木はずっと寿命が短い場合の戦略 50年以下の寿命しか期待できない環境もある。たとえば河川敷などであり、時々おきる大洪水によって植物は根こそぎ流されてしまう。短い寿命しか期待できないのならば、幹や根の体積密度はさらに小さくてよく、中空にできればさらに成長速度を上げることができる。 当然明るい環境が期待できるので、葉は基本的に落葉性だ。成長は速いのだが、植物体が大きくなる前に寿命が尽きるため、植物体が小さなうちから花を咲かせ、実をつけることになる。 明るい環境で非常に速い成長を行い、短期間のうちに子孫を残す戦略である。【大使:柳やウツギ類なんかが該当するんだろう】この本には26種の樹木が載っているが、そのうちのケヤキとクスノキを見てみましょう。p64~66<ケヤキ> ケヤキは落葉樹の中で、唯一構造材(柱)にまで使われる。とにかく木目が美しい。川崎の日本民家園には総ケヤキ造りの家があるのだが、今造ったら何億かかるかわからないほどの豪邸だ。 ケヤキ作りの家は買えないが、もう少し小物ならば何とかなる。筆者はケヤキでできた臼を買った。これは二代目である。 初代は亡き母親が結婚した頃に入手したということなので、80年ほど使ったらしい。初代があまりにみすぼらしくなったので、最近二代目に買い換えたというわけだ。(中略) 筆者は子供の頃から植物を育てるのが好きだったのだが、稚樹から高木になるまで世話をしたのはブナとケヤキ、そしてシラカバだけである。ケヤキは中学の友人の家から貧弱な苗を抜いてきて植えたものだ。このケヤキだが、秋になると赤く色づくので、造園業者から売ってほしいといわれたことがある。 結構良い値がついたのだが、思い入れのある木なので、丁重にお断りすることにした。その後、隣家に迷惑がかかるほど大きくなってしまい、町の公園に寄付することになった。時々見に行くとさらに大きくなっていて、何だか誇らしい。 筆者のケヤキは紅葉が売りなのだが、一般には木目の美しさがケヤキの最大の特長だ。ケヤキの木目をよく見ると、結構太い穴が見える。これは水を通す道管だ。ケヤキのように太い道管がまとまって存在しているものを管孔材とよぶ。肥大成長をはじめる春先に道管ができ、その後は細い道管や繊維ができる。この太い道管の部分が美しい木目を作っている。他に、ミズナラなども管孔材を作る。 樹種によっては木目が見えない。これは細めの道管が一面に分布しているためだ。散孔材といい、ブナやカエデなどが散孔材を作る。(文字数制限により以降省略、全文はここ)トトロp42~44<クスノキ> アニメ映画の「となりのトトロ」には巨大な常緑広葉樹が登場する。これがクスノキだ。アメリカで見た英語版のトトロでは、中心人物のサツキちゃんが「カンファーツリー」と叫んでいた。カンファーはカンフル(樟脳)のことであり、クスノキの英語名である。そう、クスノキはカンフル剤の成分であるカンフルを含む樹種なのである。 カンフルのように、すべての生物に必須というわけではない有機物を二次代謝産物という。植物の二次代謝産物の多くは被食防御のために作り出されており、おそらくカンフルも例外ではない。 植物の被食防御には主に三つの方法がある。一つ目はスダジイのところで述べたようにタンニンを使う方法だ。消化の阻害を目的としている。二つ目はカンフルのような物質を使う方法であり、これは毒を使うやり方である。 植物の毒素にはアルカロイドと呼ばれるものが多いが、これは二次代謝産物のうちでアルカリ性を示す物質の総称である。 そして三つ目は、物理的な硬さを使う方法である。葉寿命の長い常緑樹は厚くて硬い葉をもつのだが、この意義の一つは「虫の歯が立たない」ようにすることだ。多くの常緑樹の葉では、これら三つの方法をすべて採用している。常緑樹の葉を見たら、手で触り、噛んでみよう。硬く、渋く、苦いことに気づくはずだ。苦いのが毒の味である。人間は有毒なものを苦いと感じるようにできている。
2015.05.18
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図書館で『漢字と日本人』という本を手にしたが・・・・著者は中国文学専攻の学者肌ではあるが、講談社エッセイ賞とか読売文学賞を取ったり、週刊誌のコラムを連載したり・・・大活躍でおますな~♪先日『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』という本を読んだ時、読めない漢字が頻出するので往生こいたわけです。韓国人の訳者があやつる漢字に、なにやら違和感と悪意(笑)を感じたわけで…漢語ないし漢字についてもっと知りたいということで、この本を借りたわけです。【漢字と日本人】高島俊男著、文藝春秋、2001年刊<「BOOK」データベース>より「カテーの問題」と言われたら、その「カテー」が家庭か假定かあるいは課程か、日本人は文脈から瞬時に判断する。無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。本来、言語の実体は音声である。しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。では、なぜこのような顛倒が生じたのか?漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。<読む前の大使寸評>著者は中国文学専攻の学者肌ではあるが、講談社エッセイ賞とか読売文学賞を取ったり、週刊誌のコラムを連載したり・・・大活躍でおますな~♪rakuten漢字と日本人漢語の単語は、原則「一語一音節一字」なので千五百ほどの音節数で、事足りるそうであるが・・・・この事実に、日韓の民は驚くわけです。そのあたりを、見てみましょう。p35~39<一語一音節一字> 漢語の単語は、原則として、すべて一音節である。その一つ一つの単語に個別の文字がある。すなわち語の数だけ字がある。逆に言えば、字はみな、固有の音と、その音があらわす意義とを持つ。一語一音節一字なのであるから、当然のことながら、一つ一つの文字(漢字)が持つ音はみな一音節である。「ゆき」とか「まくら」とかいったふうな、複音節の音を持つ文字はない。 右の五行について、ちょっと説明をくわえます。 原則として単語はすべて一音節、というのは例外もあるということで、外来語には二音節以上の単語もある。葡萄(ブドウ)、■葡(ダイコン)、■璃(ガラス)、菩薩(ボサツ)など。しかしそう多くはない。 音節の数は千五百ほどで、単語は原則としてすべて一音節、ということは、単語の数が全部で千五百ほどしかないのか、と言えば、無論そんなことはない。 まず、別の単語だけれどもたまたま音が同じ、という、いわゆる「同音異義」の言葉がかなりある。 これはまあ、めずらしいことではない。人が口から発することのできる音の種類はかぎられているのに、世の事象は無数、したがって単語の数も何万何十万と無数にちかいほどあるんだから、どんな言語にも同音異義ということはある。日本語だって、たとえば「コイ」という音には、「濃い」「恋」「鯉」「来い」などのことなる言葉が同居している。漢語にもそれはかなりある。たとえば「衣」も「医」も高くたいらなイ(yi)である。 それから、非常に多くの言葉が、二つの単語のくみあわせでできている(つまり二音節である)ということがある。 たとえば日本にも輸入されてひろくもちいられている「学校」「教育」「入学」、それに「■業」(日本では「卒業」)「考試」(日本では「試験」)「及格」(日本では「合格」「及第」)などの言葉、みなそうですね。二語のくみあわせでできている。もしこれらを「単語」と呼ぶならば、漢語には二音節の単語が多い、ということになる。しかし、一つ一つの語が意味を持っていて、それがくみあわさって言葉ができているのだから、こうした言葉は「複合語」とでも言ったほうが適当でしょう。日本語の二音節の言葉とは性格がちがう。(中略)<二音節で安定> 漢語というのはおもしろいことばで、単語はすべて一音節なのだが、それが二つあつまって二音節のかたまりになって安定する。だから「学校」とか「教育」とかいったふうな二音節の(したがって二文字の)くみあわせ語が非常に多いのです。 であるから、おなじような意味の単語を二つならべた言葉が多い。ものすごく多い。それがそのまま日本にはいってきて日本人に負担をかけてきた。いまもかけつづけている。 たとえば、右に「負担」という言葉をつかった。これがそうです。「負」も「担」も人が荷物を持つことで、「負」は背中に持つ、「担」は肩に持つというちょっとした違いはあるけれど、どっちにしても比喩的にもちいているのだから大差はない。「負」でも「担」でもいいものを、「負担」と同じような語を二つならべる。日本人は字を二つおぼえねばならないことになる。 右に「比喩」という言葉をつかった。これもなぞらえるという意味の言葉を二つならべたもので、二つならべて安定するのである。さっきから「安定」という言葉を何度ももちいているが、これもそうですね。そのほか「幸福」とか「闘争」とか、「山岳」とか「道路」とか、あるいは「樹木」とか「健康」とか「尊敬」とか「真実」とか、みんな同じような意味の単語を二つならべたものだ。こういう言葉は何百も、あるいは何千もあるから考えてみてください。 で、日本語で言えば「やま」とか「みち」とかのひとつの言葉について、すくなくとも二つ、しばしばそれ以上の漢字をおぼえないと言葉がつかえない。もともと日本語には同じような意味の語をかさねないと安定しないというような性格はないのに、漢語ではそうだから、文字はなんでも二つ以上おぼえなきゃならない。無駄な労力みたいなものです。 そして「皮膚」だの「福祉」というのになると、二つならんでいる字の上も下も意味は同じことだのに、その言葉だけのためにほかにはあまり用のない字をおぼえないといけない。「膚」や「祉」はほかにはあまり使い道がありませんね。上に負担になっていると言ったのはそういうことです。 (注:■は大使が読めない漢字です)斯様に、著者は文句タラタラであるが・・・・逆に言えば、こういうふうに語を組み合わせて造語するので、音節数はたったの千五百ほどでも、単語の数は何万も何十万も可能なんでしょう。p45~48<漢字の音> 以上何度も述べてきたように、漢語の単語はすべて一音節であり、それを一字で書くのだから、漢字の読みはすべて一音節である。これが日本にはいってくると、二音節になっているものが数多くある。これは日本人の口が不器用だからである。 右の三行について説明をくわえます。 漢字とその音とその意味――それがつまり漢語そのものだ――は、二千年ちかくもむかしから江戸時代にいたるまで、長期にわたって日本に流入しつづけた。しかしまとまってはいってきたのは、平安時代はじめごろまでの二百年か、三百年か、それくらいの期間である。 一つ一つの漢字はすべて、それぞれ個別の音、つまりよみを持っている。日本人はそれをなるべく忠実にまねてそのとおりに発音しようとする。その日本におけるよみのことを、漢字の「音」と言います。 たとえば「漢」という字。これをカンとよむ。これがこの「漢」という字の音である。「字」をジとよむ。これが音である。あるいは「本」という字をホンとよむ。これが音である。 もちろん不器用な日本人がまねをするのであるから、本来の発音そのとおり、というわけにはゆかないよ。日本式になまっている。それを「音」というのである。 で、漢字の音が日本にはいってきた。その時代というのは、中国では、六朝から隋、唐の時代である。特にこの唐の時代に、日本人は漢字の音を最も熱心にとりいれた。六朝から唐にかけてというのは、西暦で言えば、だいたい三世紀ごろから十世紀ごろにかけての時期になる。 で、漢語も変化している。そのうち、いま言った六朝から隋、唐にかけての時代の漢語、これを「中古漢語」と言う。中古の漢語、ってことじゃないよ。それ以前の上古漢語、そのあとの中世漢語と区別して中古漢語と言う。日本にはいってきた漢語の大部分はこの中古漢語である。そしてそれを現在にいたるまでつかっている。それ以前のもそれ以後のもあるが、多くない。 この中古漢語は、ながいながい漢語の歴史のなかでも最も重要なものである。それに中古漢語の時代というのは、こんにちから見て比較的ちかい時代であり、資料も多いから、その様相がよくわかる。特に中国人自身が、自分たちの言語を自覚的に見つめ、ふかく研究した時代であるから、たいへんよくその様相がわかるのだ。 現在中国でもちいられている漢語、これを「現代漢語」と言う。こんにちふつうの日本人が「」と言っているのが、この現代漢語である。現代漢語は、中古漢語の直系の孫くらいにあたる。だからもちろん、祖父である中古漢語にソックリである。しかっしまあ、なにぶん千数百年もの時間がたっていることであるから、いろいろ変化しているところもある。人間で言えば、いくらおじいさんにソックリの孫だと言っても、こまかい点ではいろいろちがうところもあるのとおなじことだね。 ところが日本語のなかの漢字音は、中古漢語をそのまま保存している。いやもちろん、相当ゆがんだ形で、ですよ。なんで「ゆがんだ形」かと言うと、日本人の口が不器用だからだ。
2015.05.17
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図書館で『神戸ルール』という本を手にしたが・・・神戸人、関西人あたりを狙い撃ちしていて、マンガのページもあったりで、楽しく読める本である。【神戸ルール】都会生活研究プロジェクト編、中経出版 、2013年刊<「BOOK」データベース>より春は「いかなごのくぎ煮」でGO、GO。学校給食の争奪戦といえば「とくれん」。イノシシを見ても驚かない自信がある。私立女子校アイテムはファミかばん(だった)。「油引き」の油くささが忘れられない。日直じゃなくて、日番。<読む前の大使寸評>神戸人、関西人あたりを狙い撃ちしていて、マンガのページもあったりで、楽しく読める本である。rakuten神戸ルール49のルールには「イノシシを見ても驚かない自信がある」など、お笑い系も含まれているが・・・わりと真面目なルールを見てみましょう。先ずは神戸弁から・・・p94~96ルール28<語尾は「~とう」>「自分、神戸の人やろ?」と、真性神戸人を見破るための便利なキーワード。それが神戸弁の代表選手に挙げられる「~とう」だ。 使い方としては、「何しとう?(しとん?)」→「御飯食べとう」といった具合。神戸市のゴミの分別収集のイメージキャラクター「ワケトン」でも使われ、ICカードのPitapaの広告でも「知っとう?」と使われるほどに浸透している。「テレビ見とう」「雨が降っとう」など、万能に使えるので神戸ビギナーもマスターしやすい。 じつは神戸弁のルーツは、大阪を中心とする摂津弁と姫路を中心とする播州弁が入り混じったものと言われる。よって「とう」も播州弁(=神戸人がコワがる)の「~とる」の流れを汲む独自の言葉とも言われるが、近年はむしろ大阪の言葉(摂津弁)と混在しつつある流れが生まれている。 たとえば「~よう」。これは神戸弁独自の意味では「し始めている」状態を指す。「雨が降っとう」なら「雨が降っている」だが、「雨が降りよう」は「雨が降り始めた」という意味になるわけだ。だが、摂津弁では「~よう」を同じ「している」の意味で使うため、神戸でもその影響からか区別せずに使う人が増えている。 また、神戸や京都でよく使われる尊敬語の「~はる」は、元々、神戸では播州弁の流れを引く「~てや」(先生が来てやけど=)が使われていた。だが、今では大阪の「はる」文化が完全に浸透。姫路でさえ「てや」文化が廃れつつあるという。阪神間の人の交流が密なゆえ、その明確な境界線がなくなっているのが実情だ。 というわけで、神戸ビギナーならまずは「~とう」をマスターすべし。「『とう、とう』ゆうて、自分、ウルトラマンか!」と、大阪人あたりに突っ込まれるぐらいにマスターしたら、神戸人合格といえそうだ。神戸人も尊敬語「はる」を使いだしたとあるが、それはたぶん大阪よりの人たちのことで、我々播州よりの者には、ちょっと抵抗があるのです。次のルールは、大使も実感しておるわけです。p116~117ルール35<生活&快適性重視!> ルール34でも引用した『現代の県民気質』から、調査データをもうひとつ紹介しよう。「今住んでいる所は住み良いか」という設問に、全国平均(83.6%)を上回る約87%の人が「イエス」と答えているのだ。(兵庫県ベース)。 と書くと、そりゃ「神戸ラブ」な神戸人なら当たり前!と思うかもしれないが、興味深いのはこの調査が1996年に実施されたものであること。つまり、震災の1年後。まだ復興途上にある時点で、この高い数字はスゴい。それだけ神戸人が自分の街に自信を持ち、ポテンシャルを信じ、そして街を深く愛している。その表れとも言えよう。 先にも述べたように、神戸人の郷土自慢は神戸の街のあり方、住みやすさに集中する傾向がある。「街のサイズが、ちょうどいいから買物もしやすい」「人が多すぎない」「ほどほど都会で、ほどほど自然もある」「どこでもスグに街の中心部や大阪にだって行けて便利」「山風が吹くから、熱がこもらなくて夏も過ごしやすい」などなど。 だから、神戸人は神戸より大都市で刺激の多い東京や大阪にちっとも憧れを抱かない。自分にとって大事なモノ、神戸らしいモノが集中するこの小さな街こそが彼らの快適の指標に合うものであり、街の規模、店の数、インパクトなどは重要視する価値基準ではないのだ。だから、大阪人に「(神戸って)ちっちゃ!」などと揶揄されようと、気にしない。「住みやすさいちばん!」と我が道を行く。それがマイペース神戸の強みでもあるのだ。おつぎは、歴史が育んできた「最たる神戸ルール」だと思うわけです。p118~120ルール36<来るもの拒まず、去るもの追わず> くり返し述べたように、神戸は明治維新後に成立した新興都市である。古くから兵庫港を起点に栄えた経緯があるといっても、やはり「神戸」としての歴史と言えば、開港後の百数十年に過ぎない。 神戸独特の雰囲気と気質は、その間に従来、住んでいた播州人や大阪人に交易などのビジネスに伴って全国から集まってきた人々が加わり、さらに異国のヒト、モノ、文化がミックスされ、作り出されたものなのだ。 このように歴史や人間関係のしがらみが存在せず、港町として新しいものを取り入れてきた経緯からだろうか。神戸には人やモノなど「来るもの拒まず!」という面がある一方で「去るもの追わず」――そんな気風が存在する。「来るものには誰かれなくヤアヤアと握手をし、去るものにはまた来たまえと手を振ることを惜しまないような良く言えば開放性、悪く言うとオッチョコチョイの町」と、神戸を称したのは作家・田辺聖子だが、「オッチョコチョイ」とは異質なものに対する警戒心が薄い、端的に言えば「気にしない」という意味だろう。 もちろん、外来文化のフィルター役として培ったDNAでその真贋はシビアに見極めるが、とりあえず来るものは迎え入れる。その代わり、去るものも追いすがったりしない。ベタな浪花節はこの開放的な港町にそぐわないといった風情だ。 良く言えばスマート。悪く言えばドライにも見えるが、こうした気質が功を奏してきた部分もある。 不幸な史実だが、神戸は開港以来、水害、空襲、震災と数々の壊滅的な災害に見舞われてきた。そのたびに何かは失われつつも、ゼロから立ち直ってきた経験がある。それも、歴史が浅く、過去に対するしがらみや執着が少ないゆえだろう。終戦直後の闇市も神戸の三宮が先駆けてスタートしたとも言われ、バブル崩壊や震災によって転換期を迎えた都市開発も、医療産業都市構想を打ち出すなど新しい道を走り出している。「神戸はふりむかない街である」 神戸に関する数多くの著書を持つ神戸生まれの作家・陳舜臣はそう称する。合理的でどこかクールな軽やかさこそが、当人も気付いていなかったりする神戸人の強みなのかもしれない。大使はもともとマイペースであり、開放的な神戸のルールがぴったりと合ったわけでおます。ありがとう神戸やで♪この本も神戸関連の本に収めておきます。
2015.05.16
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図書館に借出し予約していた『町内会は義務ですか?』という本をゲットしたのです。嫁さんが自治会の会計、更に副会長をさせられていた時、その大変さを横で見ていた大使は他人事とは思えないのである。【町内会は義務ですか?】紙屋高雪著、小学館、2014年刊<「BOOK」データベース>より地域コミュニティーは大切…でも面倒は極力避けたい…そんな建前と本音が現実になる場が、町内会・自治会。団塊Jr.世代の著者は町内会長(自治会長)をついひきうけてしまい、その仕組みと実態に驚きつつ、てんてこまいに。ちょっとした成果に充実感をえたりもしたが、最後は“つるしあげ”にあった末、一風変わった「ミニマムで楽しくラクな町内会」の創生へと至った。体験を通し、歴史や、法的な位置づけ、統計データも踏まえ、町内会・自治会の今後のあり方を提言する。<読む前の大使寸評>嫁さんが自治会の会計、更に副会長をさせられていた時、その大変さを横で見ていた大使は他人事とは思えないのである。民主主義の実験場所という視点で、読みすすめるのが正しい読み方なんでしょうね(サヨカ)<図書館予約:(4/30予約、5/8受取)>rakuten町内会は義務ですか?任意なのか、強制なのか?…町内会のキモを見てみましょう。p23~26<任意加入 これがすべての出発点> イヤ~な顔をされることが多い町内会の加入。この件に関しては、よく質問されることがあります。「町内会って、強制ですか?」「強制ですか」ときましたか。「町内会とは強制である」というのはよく考えるとものすごいフレーズですし、「結婚は忍耐である」みたいに、何か本質的すぎることを言っているようににも聞こえますが、もちろん、これは「強制加入ですか」という意味でしょう。「町内会って義務ですか?」と言い換えてもいいかもしれません。 戸建てが多い田舎の町内会や、逆に都心の公営住宅などの町内会では、「入るのが当然です」という扱いをされることが少なくありません。良くも悪くもコミュニティーとしての圧力が非常に強いのです。「町内会って入らないとダメですか?」「ええ。もちろんです。会費は2ヶ月に1回で1000円です。それから回覧板は…」と取り付くしまもなく、実務的な説明が始まっていきます。入って当然、という流れです。 しかし実は、町内会への加入は義務ではありません。 この問題は、長らく議論がありました。町内会の役割を強調したい人たちは、町内会加入は義務だと主張します。町内会の役割を否定したい人たちは加入は任意、つまり入る・入らないはその人の自由なのだと言います。 そしてついにこの問題で裁判にまでなってしまい、最高裁判所にまで争いがもちこまれました。最高裁が下した判決があります。それは「町内会は強制加入団体ではなく、脱退は自由」という判決でした。 この裁判は、県営団地に入ったAさんが、団地自治会(町内会のことです)の役員方針に不満で退会を申し入れ、以後の自治会費を払いませんでした。そのために団地自治会側は裁判をおこし、自治会費を払うように求めたのです。 この裁判は、地裁と高裁でAさん側が負けました。しかし、最高裁で逆転勝利したのです(2005年4月26日)。(中略) このケースでは、その団地自治会を退会するさいの規約が、もう少し念が入っていれば結論自体はどうなっていたかわかりませんが、肝心なのは、自治会(町内会)っていうのは強制加入団体じゃないよね、と断じている点でしょう。 この判決は、もっと立ち入ると共益費がからんだり、いろいろとややこしいのですが、ここではそのあたりをすっとばして、町内会は強制加入じゃないんだということを最高裁が結論づけた、という点だけにざっくり注目します。 私は、法律や判決で下ったことがみんな正しい、あるいは、その法の考えに無条件に従うべきだ、という立場には立ちません。 しかし、この判決は、私の主張の組み立てに沿うものでした。だから、私はこの判決、つまり確立されたルールを尊重すべきだと言いたい。 (中略) 言い方をかえると、どんなに活発で、参加者の多い町内会であっても、「加入は自発的意思であり、任意だ」ということです。それはこれからの時代に町内会を発展させるというか、生き残らせて、リニューアルしていくためにも欠かせない大原則だと思うのです。紙屋さんは、町内のボスじじいのような協議会会長との闘いに疲れはてたようで(笑)・・・・次のように述懐しています。p113~114<自主的な組織である以上起こり得る必然> 問題は、町内会というものが、法に定められた制度ではなく、自主的・自治的な組織である以上、民主的にそれをコントロールする水準は、住民にまかされざるをえないということです。法律で「規約は必ず必要」とか「総会は年1回以上」とか「役員選挙は必ず秘密選挙」とか定めるわけにはいかんのです。 逆にいえば、たとえ規約もなく、総会も定めていない、会計報告もないような「非民主的」町内会であっても、参加者がよく集まって話し合い、本当に和気あいあいとやっているなら問題はないのです。小さなコミュニティーでは、四角四面の手続きをもうけるのではなく、そのほうがうまくいくことは十分ありえます。 私の知っている、ある町内会は、内部でごたごたが起こり、批判者を排除し、二度と復帰できないような制裁を規約にもりこんだあげく、「この条項は永久に変えられないものとする」という一文を入れました。総会での厳粛な手続きを経て、です。 アホか、と思いますね。 こんな条項をいくら入れても、たとえば役員が一新されて、この規約全体を廃止して別の規約を一からつくり直したり、この「永久不変条項」のすぐ後に「前条は特にやむを得ない事情がある場合に限り、改正することができる」と別の条項を追加してしまえば、あっさり無効化できます。 要は、憲法や法律ではないのですから、そのときどきの住民の多数がどう考えているかで決まるのです。規約やルールというのは、一応の目安にすぎません。自主的な組織のルールとはそういうものです。本当は、何かを押しつけることはできないのです。…なるほど、民主主義の勉強になりますね。ところで、校区自治協議会という組織があるようだが・・・・これは行政と自治会の接点でもあり、民主主義の矛盾のルツボのような組織なんでしょうね。(悪くすれば戦時中の隣組になってしまうのでは?)
2015.05.15
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全権大使といっても下僕がいないので、国内の情報にさえ疎いわけでおます。湊山温泉が廃業の危機にあったようだが・・・急転直下、運営継続との報道があったのです♪その喜びは、さきほど以下のようにツイートしました。(5/13ツイート)ドングリ@mdonguri:神戸の源泉掛け流しの湊山温泉5月10日廃業が、一転、入浴料は680円を変えず14日に営業再開へ静岡県の地ビール製造会社がリニューアルと再開をサポートしたようで…あんたは偉い♪詳細をネット情報で、見てみましょう。2015.5.6モーニングバード廃業寸前平清盛ゆかりの温泉を救ったのは?より平清盛ゆかりの温泉が廃業間際に救われた!<湊山温泉が廃業?!>廃業すると聞き、初めて来た客。従業員は失業するのでショック。平清盛も入った兵庫県の湊山温泉。最盛期には1日1300人来ていた客。しかし、それが1日350人まで落ち込んだ。これでは経営していけない。松富康夫社長も努力を重ねたが廃業を決意。<運営継続の決定!>源泉かけ流しの温泉、湊山温泉。廃業1週間前に、救い出してくれた企業があった。伊豆高原ビール。社長の増田真啓さんが先月湊山温泉を訪れた。「心惹かれるものがあった」地域に根差している温泉。スタッフと客が楽しくやっている施設を作りたい。そう思った増田真啓社長。<湊山温泉、今後も地域のふれあいの場に>4月の上旬に妻と湊山温泉に入った増田社長。湊山温泉のために一肌脱ぎたいと決意。次の行動は速かった。5月1日から3日間。一人一人のスタッフと話し合った増田社長。大半のスタッフが引き続き勤務してくれることに。湊山温泉は観光温泉ではない。地域に根付いた。料金値上げができなかった。この気持ちを引き継ぎ料金は据え置き。今後も地域コミュニティの拠点として運営。湊山温泉は5月14日に再開。銭湯としては高めの料金(680円)になっていたが・・・冷い自然水を良質の温泉として提供するには、清掃時の水道水、加温用燃料の経費がかかるわけで、大使はこの料金でも納得して通っていたのです。お客が減少し、この料金で営業するのは限界と、旧経営者は判断したそうだが、新しい経営者が、立て直しを図るようで・・・・うれしいかぎりです。ドングリ国の名所めぐり より「湊山温泉」を再掲します。<湊山温泉>銭湯方式の営業なんだけど、清盛ゆかりというからには歴史は古いようです。湊山温泉よりその昔、平清盛も湯治した温泉といわれており、800年以上もこんこんと涌き続けている。営業時間/AM7:00~PM10:30(定休日 / 毎週水曜日)※最終受付はPM10:00まで入浴料金/大人 630円(現在は680円)久々の湊山温泉よりちなみに、@nifty温泉の湊山温泉評価は概ね良好です♪関西の激渋銭湯 もおすすめやでぇ♪
2015.05.14
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図書館で『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』という本を手にしたとき・・・嫌韓ムードが澎湃と立ち昇るなか、この種の友好的な本を読むのも一興かと思ったわけでおます。【海游録 朝鮮通信使の日本紀行】申維翰 (著), 姜在彦 (翻訳) 、平凡社、1974年刊<カスタマーレビュー>より江戸幕府・徳川政権下の享保4年(1719年)、9回目の朝鮮通信使に製述官として随行したのが申維翰だ。江戸に向かう道のりで見聞した当時の日本の風土なども詳述している。 最初に立ち寄るのは対馬。そこで、対馬藩に対朝鮮の交渉役として抱えられていた、雨森芳洲と出会う。彼はそのまま江戸まで同行した。 雨森さんには、きっと心のどこかで、辺地・対馬藩に勤めていることへの、「役不足」感が、鬱積していたのだろうか。そのことを申は見抜く。 さらに、役目を終えて、芳洲はが別れを告げる場で涙する。その涙が、自分との別離のためではないことを看破している。<読む前の大使寸評>旅程に組まれた各地に、異文化のカルチャーショックを与えた朝鮮通信使である。通信使から見た当時の日本の光景や日本人が興味深いのです。Amazon海游録 朝鮮通信使の日本紀行この本で鞆浦、牛窓あたりの船旅を見てみます。p97~100<鞆浦と牛窓> 28日。黎明に順風を得て帆を張り、出発した。波頭また激して、蓬々の響きは雲水と相呑み、相吐く。■窓の下で膝をのばすと、身境やや爽やかなるを覚える。 俄かに左辺の山口を見ると、白い姫垣が海に臨み、清く輝いていてなまめかしい。人家にして眼に入るもの千余戸、それが数里にもわたってつづく。望めば四、五の物見櫓が松橘林の外に■出し、大きさはほぼ小倉城の如し。しかしめずらしくうっとりさせる観は、それにやや劣る。傍らに戦艦数隻があり、備■を設けることははなはだ壮である。倭人の言によれば、地名は三原である。 三原は、名酒および佳紙多く、海中の名邑と称す。安芸州の属県だが、太守は家臣を遣わして代理をさせているという。 また行くこと十余里、たちまち翠壁があり、水面に削り立っている。壁の上は土をならして土台とし、その上に小庵を築いている。居僧が四、五人、鐘を叩くとその音が響いてくる。倭人の言によれば、この名は海潮山盤台寺である。僧は世間と行き来がなく。ただ船が通過するを待ち、その鐘の音に応じた客が投じた食物を得て、生活の糧にするという。そこで各船は、米穀を贈ることにした。 一人の僧が崖をおりて小舟に乗り、米を受けて去った。僧はその容貌が粗野にして、文字も解しなかった。 未の刻と申の刻の間に、鞆浦にいたる。聞けば、ここは牛窓からへだたることわずか二百里、と。風に乗って前進しようとした。しかし緒倭が言をきわめて、「宋太守の船がおくれており、それが来るまで待つべし」と言う。その船が来ると、日は暮れかかった。 太守がまた言うところによれば、「沿路に使館を設け供具するのは、すべて関白の命ずるところである。そのために地方官が費やしたところのものは、もう還すことはできない。今ここを素通りすれば、これは、護行の藩臣をして那法に違反せしめることになる」と。このように力説するので、ついに帆をおろし、館に入った。 鞆浦は、備後州に属する。使館は福禅寺である。寺は海岸の山の下にあり、棟宇は宏大、帳御は豊侈である。湾口から使館にいたるまでほぼ六、七里なるべし。路上にはことごとく重席を舗き、一点の塵もない。五歩ごとに一本の竿を植え、竿には一つの大燈を懸け、もって路をはさむ。夜を視ること昼の如し。 瓦葺きの屋根や市■が■々として寸隙なく、見物の男女は、錦衣を着て、東西に満ちあふれている。そのなかには、商客、あそびめ、富人の茶屋も多く、各州からきた使官が往来し、住舎も繁華にして目に溢れるばかり。これまた赤間関以東の一都会である。 海岸は山高く秀でて海に臨み、三面は緒山が相控えて湾をなす。山の根が海に浸っているところは、石を削って堤となし、その平整なること裁断した如くである。松、杉、橘、柚など百果の林が、蒼翠として四方を擁し、それらが水面に倒影す。人みなここにいたると、第一の観なりと主張してゆずらない。(中略) 9月初一日。晴。三使臣は、それぞれ船上において望閲礼をおこなう。風波が目に満ち、故国をへだたる数千里の外にあって、各船からの■唱を聞けば、感懐は倍加する。 巳末の刻に、風はたちまち静まり、すなわち舟を曳いて行く。これより水路狭く、両傍には障碍物が多い。ふりかえって左右をみれば、倭船は分かれて一の字陣勢を作り、首尾があたかも魚を貫いた如く、ほとんど数十里にわたる。その中に一路を開き、三使船はその中から進む。また奇観である。 まだ牛窓に至らざること二十里ばかり、備前州の使者が舟に掉さして来る。そして使臣に別■を致し、また余にも葛粉一箱、塩漬鯛一折を■した。別幅には「備前国主従四位侍従継政」と書いていた。 日が西に傾く頃、牛窓に泊す。遥かなる山は湾を控え、景観が爽■である。竹を挿して魚梁となし、遠近には網船や釣艇が散在する。湾上の人家は、数千戸はあろう。 使館の供帳は鞆浦の如くに盛んである。傍らに一塔あり、上に胴柱をたて、半空に高く突き出ている。名を本蓮寺という。 西に港口を穿ちて一舎を設け、絶勝である。題して曰く、「学士館」と。左右には沐室や■厠があり、ともにそれぞれ精妙である。庭には蘇鉄、棕櫚、その他の草木類が異香を放ち、疎秀淡潔の感がある。草に似た細い木があり、枝繁り、葉細く、花は淡紫色である。俗に皐月と呼ぶ。 食事がおわった頃、雨森らの緒人が、備前州の緒文士を案内して来た。筆硯と紙軸を置き、長篇短律をもってたがいに唱酬した。(注:■は大使が読めない漢字です)釜山から大阪までの航路は、パンスターフェリーでたどったことがあるので、(勝手ながら)個人的旅情があるのです。ただ、快速フェリーはしまなみ海道から瀬戸大橋、明石大橋の間を、あっという間に通りすぎたけど。瀬戸大橋蛇足になりますが…とにかくこの本には、当用漢字に出ていない読めない漢字がやたら多いわけで・・・書き写すだけで、往生こいたわけです。1974年発刊時に、訳文としてこんな漢字を使うのは、衒学のそしりを受けかねないと思うのです(プンプン)この本の冒頭に訳者が書いた凡例が載っているので、一部を付記しておきます。<凡例>一、申維翰『海游録』は、1719年に、徳川吉宗の将軍職襲位を賀するために派遣された朝鮮通信使に製述官として随行した著者が記録した日本紀行である。それは、同年四月にソウルを出発して翌年正月に復命するまで、261日間に及ぶ。 (通信使一行475名)一、テキストとしては、『海行総載』第一巻(1914年)に収録されているものと、『海游録』(1907年)を使った。両者にはそれぞれ誤字や脱落があるが、両者をつき合せることによって、できるだけそれを訂正した。一、原文は、いうまでもなく漢文である。儒学者であり詩文を能くする申維翰の文章は、ときには痛烈な風刺と諧謔が、ときにはおだやかな詩情が、こもごも華麗にして変化に富んだ流れをなしている。
2015.05.13
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図書館で『まっくら、奇妙にしずか』という本を手にしたとき・・・ちょっと、ショーン・タンに似てなくもないなと思ったわけです。【まっくら、奇妙にしずか】アイナール・トゥルコウスキィ著、河出書房新社、2008年刊<「BOOK」データベース>よりいつの話なのか、どこの話なのか、いつかどこかで起こりそうな、雲をつかむような話。不思議な男は、きょうもどこかで漁りをつづけているーブラティスラヴァ世界絵本原画展グランプリ、レーゼペーター賞、トロイスドルフ絵本賞2席など、数々の賞を受賞。<読む前の大使寸評>3年間かけて400本の芯を消費してシャープペンシルだけで描かれた緻密な絵とのことで、見てみたいわけです。rakutenまっくら、奇妙にしずかこの絵本に、機械のような変な魚や鳥が出てきます。ちょっと、ショーン・タンに似てなくもないわけです。トゥルコウスキィの絵をネットで探してみました。「まっくら、奇妙にしずか」の画像よりトゥルコウスキィの絵は変な機械を詳細に描いているけど、人間的な感情が感じられないわけで・・・・世界絵本原画展グランプリの作品に対して不遜な物言いではあるが、絵としては、やっぱ、ショーン・タンが上なんだろうね。(好みの問題なんだろうけど)これらの画像もSF風イラストに収めておきます。
2015.05.12
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図書館で予約していた『ダイオウイカは知らないでしょう』という本をゲットしました。ちょっと見てみると・・・短歌のシロウトだった西加奈子が、関西のノリでブイブイ言わしてるでぇ♪なんか、大阪のオバチャンの片鱗が見えるような気がするで。【ダイオウイカは知らないでしょう】西加奈子著、マガジンハウス、2010年刊<「BOOK」データベース>より気鋭の作家二人が、三十一字に入魂!限られた字数に秘められためくるめく妄想と物語は味わい方も無限大。穂村弘、東直子、山崎ナオコーラ、いとうせいこう、華恵、山里亮太、ミムラ、光浦靖子、星野源、俵万智、勝山康晴、山口隆、ともさかりえ、入山法子…個性豊かな14人のゲストたちとともに、言葉遊びの世界を大冒険。<読む前の大使寸評>知らない人もいるが14人のゲストたちが多彩である。それから・・・帰国子女でもある西加奈子の言語感覚も興味深いだがや♪<ちょっと見の大使寸評>短歌のシロウトだった西加奈子が、関西のノリでブイブイ言わしてるでぇ♪なんか、大阪のオバチャンの片鱗が見えるような気がするで。<図書館予約:(4/30予約、5/8受取)>amazonダイオウイカは知らないでしょう 西加奈子の言語感覚が次の短歌に表れているが、ええでぇ♪【卒業】「わたくしあなたを卒業します」はは、入学させた覚えはないぜ【鎌倉に吟行して】釈迦牟尼の優しい顔は残酷が似合うだろうね「ここが最果て」歌人・俵万智を加えた対談を見てみましょう。p119~121【寅】いらっしゃい!太った?元気?腹減った?寅の娘が笑う食堂俵:「寅」かあ。私もちょうど干支の歌を12首作っているところなんです。実は私は寅年生まれで、寅年の歌人による「寅年の歌」っていう特集があるので(笑)。西:ウチらの歌、ヒントになるかも。せきしろ:なるわけないと思うぞ。一同:(爆笑)俵:西さんの歌、すごくいいですよ。読んだらすぐに伝わってきます。寅年生まれの元気な看板娘のいる食堂。店に入ると立て続けに声をかけられる、という。西:実は、ウチの友達が「寅子食堂」という店をやっていて、行くと元気の出るいい店で、それをイメージしたんです。歌に詠んだ「寅の娘」というのは、その友達のお母さんが寅年やからで、「寅の子」で「寅子食堂」なんです。ホンマのことをいうと、そのコの生まれは甲年なやから実際は寅年生まれの娘ではないんです。でも、「寅」というとその子の顔しか浮かばなくて。俵:あ、そうなんだ。せきしろ:なんかこう、シブがき隊の「スシ食いねェ!」を彷彿とさせるものがある。俵:「太った?」「元気?」「腹減った?」だもんね(笑)。西:「髪切った?」っていうのも考えたんですけど。俵:それだとタモリさんになっちゃうもんね(笑)。西:あと、「太った?」「痩せた?」っていうのも考えたんですけど、それやと、あんまりお客さんに興味がないように感じたから、「太った?」「元気?」「腹減った?」にしてみたんです。俵:食堂だからね。「痩せた?」はないかもね。だからこの上の句は不動だと思いますよ。この言語の並びは変えないほうがいい。馴染みの常連さんがたくさんいる食堂の雰囲気がリアルに出てますし、元気で温かい感じがしますし。これは私たちのような歌人もよく使う手のひとつなんですけども、会話体を入れると臨場感が出ますね。そのうえ口語が五七五七七に馴染みやすいという利点もある。私もよく会話は入れますね。西:ハテナやびっくりマークは歌に書いてもいいですか?俵:大丈夫です。ただ、耳で聞いたときにはそれが伝わらないので、聞いたときにもわかるように書くのは大事ですね。短歌の基本は耳で聞いてもわかることだと思います。この場合だったら、「いらっしゃい」は聞いただけでも、「!」の元気さはすごく出てるのでいいと思います。でも、「寅の娘」と書いて「寅のコ」と読ませるとか、そういう演歌チックなのは私は好きではないですね。西:耳で聞いたときと、目で読んだときと誤差がないほうがいいんですね。俵:最近は、目で読むことも多いから、平仮名にするか、片仮名にするか、漢字にするか、は考えたりしますけれども。基本は聞いてもわかるように。ただ、ひとつ気になるとすれば、この歌は、「寅の娘」の意味が読者にわかりにくいかもしれない。だから、お題の「寅」は着想を得るための発射台と捉えて、元気な看板娘のいる食堂の歌、にしてしまったほうがわかりやすくなるのかも。
2015.05.12
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図書館で『辛くてオイシイ韓国』という本を手にしたが・・・つい韓国で食べた辛い料理を思いだすわけです。中華料理屋で食べた赤いチャンポンには、その辛さに閉口したけど・・・その他の赤い料理は、見た目ほど辛くなくて、これはクセになりそう、いやクセになったのです。【辛くてオイシイ韓国】日本放送出版協会著、日本放送出版協会、2001年刊<「BOOK」データベース>より利川で幻のケゴリキムチに会い、木浦で名物生タコのおどり食いと格闘し、水原の骨付きカルビに涙する…全身で味わいつくす韓国“食”紀行。<大使寸評>日本人チームが書いた韓国料理レポートであるが・・・・伝統の味、多彩なキムチなど、味についてなかなかディープであり、ええでぇ♪rakuten辛くてオイシイ韓国大使が韓国に出張中の定番メニューといえば・・・・朝はソルロンタンで、昼は韓国メーカの社食、夜はキムチチゲだったのです。朝は自前で食べたが、夜は韓国メーカの前の食堂で接待で食べたわけです。接待といっても、残業前の夜食として食べるわけで、だんだんと、安いメニューに落ち着くわけで・・・キムチチゲは嫌というほど、食べたのです(笑)。でもね、会社をリタイアした後に韓国旅行に行った際、食べたくなったのが・・・・もっとも安い鍋物・キムチチゲだったのです。東横イン釜山駅にいちばん近い食堂で食べたキムチチゲです。味は、ま~普通でしたが、弁当缶に入れた赤色ご飯(玉子焼きのトッピング)が付いているのが、この店のこだわりのようです。キムチチゲ・・・ということで、この本でキムチチゲのあたりを見てみましょう。p42~43<古漬けキムチも、ちゃんと食べ尽くす> 韓国で「どんなキムチがおいしいの?」というのは、愚問だ。 日本では各家庭ごとに味噌汁の味があるように、韓国も家庭によってキムチの味は異なる。味だけでなく漬け具合も、浅漬けが好きな人もいれば、白菜が透明になるほど発酵したものを好む人もいる。 キムチは一般的に、漬け始めてから2週間くらい経つと、味がなじんでおいしくなるといわれる。そのくらいの浅漬けでも、あるいはさらに発酵させて酸味が出たものでもそれぞれ独特の風味を持っている。キムチはさまざまな発酵段階の味を楽しむことができるのだ。 白菜キムチが好んで食べられる時期は漬けてから1ヵ月くらいが多いようだ。この時期のキムチは、味がしっかりしみ込み、やや白菜の歯ごたえがある状態。だが、まったく違う味を好む人もいる。 キムチ好きの中には、相当発酵が進んだものを好む「通」がいるが、それでも少数派のようだ。 漬けてから半年も経って、発酵しきったキムチはどうするか。味が極端に酸っぱくなってしまった白菜キムチは、そのまま食べるより調理したほうがおいしいからだ。 代表的なのは、近頃日本でもすっかりおなじみのキムチと豚肉を煮込んで作るキムチチゲ。これは、発酵が進んだキムチでなければいい味が出せないし、白菜の柔らかい食感がまるで違う。古漬けキムチの面目躍如の一品だ。 また、キムチの炊き込みご飯もいい。米を研いで、通常のご飯を炊くのと同じ分量で水を入れ、そこに古漬けの白菜キムチを細かく刻んで加える。炊き上がるときれいな色に染まり、味もしっかりしみ込んだ炊き込みご飯になる。この記事も韓国料理あれこれに収めておきます。
2015.05.11
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「韓国」でしょうか♪<市立図書館>・ダイオウイカは知らないでしょう・日本と韓国は「米中代理戦争」を闘う・町内会は義務ですか?・辛くてオイシイ韓国<大学図書館>・まっくら、奇妙にしずか・海游録 朝鮮通信使の日本紀行図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【ダイオウイカは知らないでしょう 】西加奈子著、マガジンハウス、2010年刊<「BOOK」データベース>より気鋭の作家二人が、三十一字に入魂!限られた字数に秘められためくるめく妄想と物語は味わい方も無限大。穂村弘、東直子、山崎ナオコーラ、いとうせいこう、華恵、山里亮太、ミムラ、光浦靖子、星野源、俵万智、勝山康晴、山口隆、ともさかりえ、入山法子…個性豊かな14人のゲストたちとともに、言葉遊びの世界を大冒険。<読む前の大使寸評>知らない人もいるが14人のゲストたちが多彩である。それから・・・帰国子女でもある西加奈子の言語感覚も興味深いだがや♪<ちょっと見の大使寸評>短歌のシロウトだった西加奈子が、関西のノリでブイブイ言わしてるでぇ♪<図書館予約:(4/30予約、5/8受取)>amazonダイオウイカは知らないでしょうダイオウイカは知らないでしょうbyドングリ【日本と韓国は「米中代理戦争」を闘う】鈴置高史著、日経BP社、2014年刊<「BOOK」データベースより>4月のオバマ訪韓で迫られた「踏み絵」を振り切り、7月の習近平訪韓で“ルビコン河”を渡り始めた韓国。激変必至のアジア地図、日本はいかに進むべきか。米中の対立激化、北朝鮮の変節、ロシアの影ー。一気に流動化する世界の「これから」を読み解く。<読む前の大使寸評>良質な鳥瞰図のような視点と、グローバルで政治的な視点と併せ持って考えることが肝要ではないでしょうか。つまり、激高しやすい彼の地の民と同じ土俵で論争するよりも、論争は脇に置いて、民間交流に徹するわけです。<図書館予約順位:7(12/15予約、5/2受取)>rakuten日本と韓国は「米中代理戦争」を闘う日本と韓国は「米中代理戦争」を闘うbyドングリ【町内会は義務ですか?】紙屋高雪著、小学館、2014年刊<「BOOK」データベース>より地域コミュニティーは大切…でも面倒は極力避けたい…そんな建前と本音が現実になる場が、町内会・自治会。団塊Jr.世代の著者は町内会長(自治会長)をついひきうけてしまい、その仕組みと実態に驚きつつ、てんてこまいに。ちょっとした成果に充実感をえたりもしたが、最後は“つるしあげ”にあった末、一風変わった「ミニマムで楽しくラクな町内会」の創生へと至った。体験を通し、歴史や、法的な位置づけ、統計データも踏まえ、町内会・自治会の今後のあり方を提言する。<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(4/30予約、5/8受取)>rakuten町内会は義務ですか?【辛くてオイシイ韓国】日本放送出版協会著、日本放送出版協会、2001年刊<「BOOK」データベース>より利川で幻のケゴリキムチに会い、木浦で名物生タコのおどり食いと格闘し、水原の骨付きカルビに涙する…全身で味わいつくす韓国“食”紀行。<大使寸評>日本人チームが書いた韓国料理レポートであるが・・・・伝統の味、多彩なキムチなど、味についてなかなかディープであり、ええでぇ♪rakuten辛くてオイシイ韓国辛くてオイシイ韓国byドングリ【まっくら、奇妙にしずか】アイナール・トゥルコウスキィ著、河出書房新社、2008年刊<「BOOK」データベース>よりいつの話なのか、どこの話なのか、いつかどこかで起こりそうな、雲をつかむような話。不思議な男は、きょうもどこかで漁りをつづけているーブラティスラヴァ世界絵本原画展グランプリ、レーゼペーター賞、トロイスドルフ絵本賞2席など、数々の賞を受賞。<読む前の大使寸評>3年間かけて400本の芯を消費してシャープペンシルだけで描かれた緻密な絵とのことで、見てみたいわけです。rakutenまっくら、奇妙にしずかまっくら、奇妙にしずかbyドングリ【海游録 朝鮮通信使の日本紀行】申維翰 (著), 姜在彦 (翻訳) 、平凡社、1974年刊<カスタマーレビュー>より江戸幕府・徳川政権下の享保4年(1719年)、9回目の朝鮮通信使に製述官として随行したのが申維翰だ。江戸に向かう道のりで見聞した当時の日本の風土なども詳述している。 最初に立ち寄るのは対馬。そこで、対馬藩に対朝鮮の交渉役として抱えられていた、雨森芳洲と出会う。彼はそのまま江戸まで同行した。 雨森さんには、きっと心のどこかで、辺地・対馬藩に勤めていることへの、「役不足」感が、鬱積していたのだろうか。そのことを申は見抜く。 さらに、役目を終えて、芳洲はが別れを告げる場で涙する。その涙が、自分との別離のためではないことを看破している。<読む前の大使寸評>旅程に組まれた各地に、異文化のカルチャーショックを与えた朝鮮通信使である。通信使から見た当時の日本の光景や日本人が興味深いのです。Amazon海游録 朝鮮通信使の日本紀行海游録 朝鮮通信使の日本紀行byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き97
2015.05.10
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『朝日デジタルの書評から』フォームや『読みたい本』フォームを作っているのだが、これを市図書館の予約に利用しようと、思い立ったのです。図書館から「貸出し準備OK」のメールが続々と届き、受取りに出向くのに忙しくなり・・・図書館予約が軌道に乗った感があるのです♪これまでの予約内容と予約候補は以下のとおりです。<予約中>・イチョウ 奇跡の2億年史(12/03予約済み)・だから日本はズレている(12/08予約済み)・キャプテンサンダーボルト(1/07予約済み)・イスラム国(2/25予約済み)・恋するソマリア(3/3予約済み)・文体の科学(3/14予約済み)・台湾の歓び(3/15予約済み)・教団X (5/4予約済み)<カートで待機中>・朦朧戦記・英国一家 日本を食べる・夜また夜の深い夜<予約候補>・21世紀の資本・経済と人間の旅・サラバ!・原色 木材加工面がわかる樹種事典・オートメーション・バカ<予約分受取>・世界で一番美しい猫の図鑑(8/21予約、12/16受取)・驚きの介護民俗学(12/23予約、12/28受取)・敗戦とハリウッド―占領下日本の文化再建(11/14予約、2/06受取)・本屋さんで待ち合わせ(2/17予約、2/22受取)・ノー・シューズ(9/9予約、2/25受取)・・・最長待機記録・佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人(3/8予約、3/13受取)・東京ブラックアウト(1/07予約、3/18受取)・工作舎物語(2/11予約、4/21受取)・証言班目春樹(4/20予約、4/29受取)・日本と韓国は「米中代理戦争」を闘う(12/15予約、5/2受取)・ダイオウイカは知らないでしょう(4/30予約、5/8受取)・町内会は義務ですか?(4/30予約、5/8受取)【奇跡の2億年史】ピーター・クレイン著、河出書房新社、2014年刊<「BOOK」データベース>より長崎の出島が悠久の命をつないだ!ヒトの役に立ち、敬われてきたからこそ、この愛すべき樹木がたどったあまりに数奇な運命!2億年近く生き延びたあとに絶滅寸前になったイチョウは、人間の手で東アジアから息を吹き返した。その壮大な歴史を、科学と文化から描く名著。<読む前の大使寸評>人類の過去の記憶、過去のDNAに寄り添うようなイチョウがええなぁ♪銀杏をいただくときは、そのあたりに感謝していただきましょう。<図書館予約:(12/03予約済み)>rakutenイチョウ 奇跡の2億年史イチョウ 奇跡の2億年史byいとうせいこう【だから日本はズレている】古市憲寿著、新潮社、2014年刊 <「BOOK」データベース>よりリーダーなんていらないし、絆じゃ一つになれないし、ネットで世界は変わらないし、若者に革命は起こせない。迷走を続けるこの国を二十九歳の社会学者が冷静に分析。日本人が追い続ける「見果てぬ夢」の正体に迫る。【目次】「リーダー」なんていらない/「クール・ジャパン」を誰も知らない/「ポエム」じゃ国は変えられない/「テクノロジー」だけで未来は来ない/「ソーシャル」に期待しすぎるな/「就活カースト」からは逃れられない/「新社会人」の悪口を言うな/「ノマド」とはただの脱サラである/やっぱり「学歴」は大切だ/「若者」に社会は変えられない/闘わなくても「革命」は起こせる/このままでは「2040年の日本」はこうなる<読む前の大使寸評>斎藤環が古市憲寿のズレに注目しているが、団塊世代の「おじさん」として、それを見ているだけでは・・・あかんのやろな~。<図書館予約:(12/08予約済み)>rakutenだから日本はズレているだから日本はズレているby斎藤環【キャプテンサンダーボルト】阿部和重, 伊坂幸太郎著、文藝春秋、2014年刊<「BOOK」データベース>より世界を救うために、二人は走る。東京大空襲の夜、東北の蔵王に墜落したB29。公開中止になった幻の映画。迫りくる冷酷非情な破壊者。すべての謎に答えが出たとき、カウントダウンがはじまった。二人でしか辿りつけなかった到達点。前代未聞の完全合作。<読む前の大使寸評>売れっ子作家2人による合作ということで気になるわけです。サスペンス仕立てなので、それなりに面白そうである。エキサイトニュース阿部和重と伊坂幸太郎の合作で『キャプテンサンダーボルト』が抜群におもしろいに、合作のウラ話が載っています。<図書館予約順位:110?(1/07予約済み、神戸市は入荷待ち)>rakutenキャプテンサンダーボルト【イスラム国】ロレッタ ナポリオーニ著、文藝春秋、2015年刊<「BOOK」データベース>より対テロファイナンス専門のエコノミストが放つまったく新しい角度からの「イスラム国」―。多頭型代理戦争の間隙をつき、領土をとり、いち早く経済的自立を達成した「イスラム国」は、テロリストがつくる史上初めての国家となるのか?<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約順位:7(2/25予約済み)>amazonイスラム国【恋するソマリア】高野秀行著、集英社、2015年刊<「BOOK」データベース>より台所から戦場まで!世界一危険なエリアの正体見たり!!アフリカ、ソマリ社会に夢中になった著者を待ち受けていたのは、手料理とロケット弾だった…。『謎の独立国家ソマリランド』の著者が贈る、前人未踏の片想い暴走ノンフィクション。講談社ノンフィクション賞受賞第一作。<読む前の大使寸評>あれ?講談社ノンフィクション賞受賞作を集英社から刊行しているけど・・・そのあたりの仁義は、どうなっているんだろう?高野さんの破天荒な人柄は、その著作『謎の独立国家ソマリランド』、『世にも奇妙なマラソン大会』を通して、よく知っているのだが・・・・この本も面白そうである。<図書館予約:(3/3予約済み)>rakuten恋するソマリア【文体の科学】山本貴光著、新潮社、2014年刊<「BOOK」データベース>より長短、配置、読む速度…目的と媒体が、最適な文体を自ら選びとった。古代ギリシアの哲学対話から、聖書、法律、数式、広告、批評、小説、ツイッターまで。理と知と情が綾なす言葉と人との関係を徹底解読する。<読む前の大使寸評>(文字数制限により省略、全文はここ)<図書館予約:(3/14予約済み)>rakuten文体の科学【台湾の歓び】(文字数制限により省略、全文はここ)【教団X】(文字数制限により省略、全文はここ)【朦朧戦記】(文字数制限により省略、全文はここ)【英国一家 日本を食べる】(文字数制限により省略、全文はここ)【夜また夜の深い夜】(文字数制限により省略、全文はここ)【21世紀の資本】(文字数制限により省略、全文はここ)図書館予約の軌跡17図書館情報ネットワーク 蔵書検索システム上記の<予約候補>であるが、今後は神戸市の予約サイトの「予約カート」に入れて待機することにしよう。
2015.05.09
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図書館で『日本と韓国は「米中代理戦争」を闘う』という刺激的なタイトルの本を手にしたが・・・・内容は、韓国の「離米従中」マインドの解説が主であり、戦争を描いてはいないのだが、図書館で予約してゲットした手前、読むことにしたのです。【日本と韓国は「米中代理戦争」を闘う】鈴置高史著、日経BP社、2014年刊<「BOOK」データベースより>4月のオバマ訪韓で迫られた「踏み絵」を振り切り、7月の習近平訪韓で“ルビコン河”を渡り始めた韓国。激変必至のアジア地図、日本はいかに進むべきか。米中の対立激化、北朝鮮の変節、ロシアの影ー。一気に流動化する世界の「これから」を読み解く。<読む前の大使寸評>良質な鳥瞰図のような視点と、グローバルで政治的な視点と併せ持って考えることが肝要ではないでしょうか。つまり、激高しやすい彼の地の民と同じ土俵で論争するよりも、論争は脇に置いて、民間交流に徹するわけです。<図書館予約順位:7(12/15予約、5/2受取)>rakuten日本と韓国は「米中代理戦争」を闘うなぜ、韓国人だけが「中華帝国」に親和的なのか・・・・不思議ですね。そのあたりをこの本で見てみましょう。p154~156<いつの間にか先祖返り>Q:なぜ、韓国人だけが「中華帝国」に親和的なんでしょうか?世界のほとんどの人々がそれを嫌うというのに。鈴置:「中華帝国」で優等生だった、という意識からと思います。韓国人は民族的な上下意識が強いうえ、漢民族に続いて自分たちが世界で2番目に偉い、と信じてきた。 ことに女真族が「中華」となった清朝以降は「自分たちが中華の正当性を継いだ」と自信を深めたのです。今も「中華帝国」再興の折には、韓国が「世界の副大統領」になれる、と思っている。Q:民族なり国の序列を決めて、何の意味があるのでしょうか?鈴置:私もそれが疑問です。でも、韓国では「序列」が極めて重要なのです。韓国紙を見ても、毎日、何かしら国別ランキングが載っている。儒教的な発想としか私には説明できません。Q:確かに日本語版を見ていても、各国料理の世界化指数ランキングといった、あまり聞いたこともない調査が連日、報じられます。鈴置:男性がポルノに支払う金額の国別順位などというのも見たことがあります。Q:いずれにせよ、韓国人にとって、日本よりも上か下かが大事なようです。鈴置:そこなのです。米国が主導する世界では、自分よりも日本が上に扱われていると韓国人は考えてきました。もし中国が主導する世界になれば、韓国の方が上になるという確信があります。 歴史的にも、韓国は中華世界ではNO2と信じていた。しかるに日本人は化外の民で、ランキング外でした。現実の国際関係を見ても習近平主席は日本などは相手にせず、ソウルを先に訪問してくれる。 「中国が支配する世界」には慣れもあるし、そこでは「より高い地位」というボーナスもあるのです。韓国人はいつの間にか先祖返りしていたのです。Q:世界観の先祖返りですね。鈴置:その通りです。先日会った米国のアジアハンズも「中国の台頭で、韓国が一気に本性を現した」と感に堪えないように語っていました。Q:「韓国の先祖返り」という認識は米国で一般的になったのでしょうか。鈴置:普通の人はともかく、外交専門家の間ではかなり広まりました。米国でこれを指摘していたのが戦略家のルトワック(Edward N.Luttwak)氏です。 この人は2012年発行の著書『自滅する中国』で「韓国が中国の言いなりになるのは恐怖からだけではない。文化的な敬意が主な理由だ」と言い切っています。 ルトワック氏は冊封体制を「天下」、その下にあった韓国を「模範的な属国」と表現しています。 5月20日に東京で講演した際も、よほど「天下」という単語を強調したかったのでしょう。中国語で「Tianxia」と発音し、次にわざわざ日本語で「Tenka」と発音してみせました。Q:米国の対韓認識の変化は現実にどう影響するでしょうか?鈴置:すでに影響が出始めたように見えます。米国はMDで見切り発車しました。その中核となるTHAADを韓国に配備する方針を5月末に突然、打ち出したのです。 韓国が米国主導のMD参加を拒むなら、米国は勝手にやるから―というわけです。背景には「韓国とはいくら話し合っても無駄だ。中国が支配する世界を受け入れているのだから」との見切りが感じられます。なるほど、儒教社会では序列が大事なのか・・・韓国へ出張した際、彼の地の会社内で、その序列を感じたものです。ところで、ここで述べられた鈴置さんの論調は、ネット記事(2014年)のどこかで見たような気がするので、探してみます。・14年6月したたかに、なりすます韓国・14年9月「米国の上着」と「中国の下着」をまとう韓国人・14年11月韓国はなぜ「法治」を目指さないのか・14年11月「韓国異質論」のススメ朝鮮日報の次のコラムを読むと、「離米従中」を決め込んだ韓国のスタンスがよく表れています。2015.5.8【コラム】韓国に冷たい「太平洋国家」日本より 島国・日本は、韓半島(朝鮮半島)経由で渡ってきたアジア系と、南太平洋からやって来たポリネシア系がつくった古代文明から出発した。米国の文化人類学者、ルース・ベネディクトは、日本を理解する古典に挙げられる著書『菊と刀』で、天皇について、太平洋の島々で見られる「神聖首長」と同じ概念だと記した。日本の二重性は、その後も続いた。2000年近くにわたってアジアの国際秩序だった朝貢体制の外部に位置し、明治維新後はアジア主義と脱アジア主義が交差する中で歴史が進んだ。「大東亜共栄圏」を叫んでいたのに、第2次大戦で敗れると、米国主導の西側世界に喜んで編入された国が日本だ。 今回の訪米で、安倍首相が米国に対し露骨な求愛を行う一方、アジア諸国は無視したことにより、日本はアジアを脱して「太平洋国家」へと一歩進んだ。日本のこうした動きは、言うまでもなく宿敵・中国の強力な台頭を警戒しているからだ。太平洋を結ぶ米国主導の対中封鎖網への参加と、太平洋諸国との経済的つながりの強化に、国の命運を賭けているのだ。 脱アジアの動きを加速させている「安倍日本」が、北東アジアの隣接諸国に配慮するとは思えない。中国中心の新朝貢体制に編入される可能性が高いとみられる韓国に対しては、なおのことそうだろう。謝罪する気が特にない相手にこれを要求し続けるのは、互いに煩わしい。今や、「東洋3国」ではなく「太平洋国家」へと脱皮しつつある日本と共に生きていくための、より冷徹な対日関係を構想すべき時が来ている。基本的には、韓国と論争しても得ることは少ないのだが、隣国を見直すという視点も必要だとは思うのです。
2015.05.08
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「美術」でしょうか♪<市立図書館>・絵本作家のアトリエ3・怒れるおっさん会議・証言斑目春樹<大学図書館>・黒澤明、天才の苦悩と創造・伝説の映画美術監督たち×種田陽平図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【絵本作家のアトリエ3】母の友編集部著、福音館書店、2014年刊<「BOOK」データベース>より新世代、14通りの絵本道。シリーズ完結編!伝えたいことを、自分らしく。【目次】片山健ー濃密な記憶を原動力に/平山和子ー植物の美を描くよろこび/甲斐信枝ー生き物の声に耳をかたむけ続けて/五味太郎ーそこに「おれ」はいるか/佐々木マキーいつも心におおかみが/林明子ー畏れが描き出す子どもの真実/大友康夫ー出会いと経験に導かれて/西村繁男ー多様なものを多様なまま描く/レイモンド・ブリッグズーユーモアに隠した人間愛/パット・ハッチンスー子どもの背中を押す絵本/スズキコージー大人と子どもがぶつかり合う/和田誠ーどう見せるかへのこだわり/ユリー・シュルヴィッツーインスピレーションの赴くままに/さとうわきこーたくましく自立した女性像を<大使寸評>14人の絵本作家のうち、佐々木マキ、レイモンド・ブリッグズ、和田誠を知っているのだが・・・この3人のインタビューが見られるなら、御の字でんがな♪rakuten絵本作家のアトリエ3絵本作家のアトリエ3byドングリ【怒れるおっさん会議】田尾和俊, 勝谷誠彦著、西日本出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より1日目(軽井沢へようこそ/嘘つきどもにだまされるゆでガエル/うどん県、名乗る前の裏事情/僕らが住む地方を豊かに変えようじゃないか!/夜ふけのないしょ話)/2日目(君は故郷を愛しているか/マーケティング人生論/自分を変える、慣例を破る)田尾和俊(タオカズトシ)1956年、香川県生まれ。1978年、地元広告代理店に入社。1982年、『タウン情報かがわ』創刊と同時に編集長に就任。1989年、同誌に穴場讃岐うどん探訪記「ゲリラうどん通ごっこ」の連載を開始し、讃岐うどん巡りブームを起こす。1995年にタウン誌編集長から同誌出版社社長に就任。2002年に退社し、2003年より四国学院大学教授<大使寸評>このお二人の組み合わせと話題は、関西人から見れば、かなりエッジが立っているわけです。データベースの田尾さんの略歴が、すごい♪rakuten怒れるおっさん会議怒れるおっさん会議3byドングリ【証言班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?】班目春樹, 岡本孝司著、新潮社、2012年刊<「BOOK」データベース>より事故当時、総理官邸内では何が起きていたのか。根幹となる原子力安全規制のどこに問題があったのか。そして、なし崩し的に進む再稼働は本当に安全なのかー。この国が戦後最大の危機を迎えた一週間、原子力安全委員長として官邸で事故対応に当たった班目春樹氏が語る「原発の真実」。【目次】第1章 未曾有の非常事態(三月一二日早朝、福島第一原発へ/ベント成功!? ほか)/第2章 官邸機能せず(「インチョウが来ました」/情報がない ほか)/第3章 霞が関の罠に嵌った原子力安全委員会(初の記者会見で/漏れ出した放射性物質量を初めて推計 ほか)/第4章 安全規制は何を誤ったのか?(無責任な緊急提言/世界に取り残された日本の安全規制 ほか)<読む前の大使寸評>原子炉安全の学者でもある著者が、専門家の立場で班目委員長の証言と事故処理について検証しています。何につけ敗因を検証し、今後の改善に資することは有益なことだと思うのです。班目春樹・元教授には、個人的に面識があったので、興味深いレポートです。<図書館予約:(4/20予約、4/29受取)>rakuten証言班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?証言班目春樹byドングリ【黒澤明、天才の苦悩と創造】ムック、キネマ旬報社、2001年刊<「MARC」データベース>より黒沢明の創造の軌跡を演出ノート、絵コンテ、関係者の談話、座談会などから探り、塩野七生、キアロスタミ、池辺晋一郎、井上ひさし等がその魅力を分析する。貴重なスナップも多数掲載。<読む前の大使寸評>監督の描いた絵コンテ(カラー写真)や『トラ・トラ・トラ!』のシナリオ、『トラ・トラ・トラ!』から黒澤監督途中降板の真相、『七人の侍』演出ノートなどが載っていて、これは見所満載である♪Amazon黒澤明、天才の苦悩と創造『トラ・トラ・トラ!』から黒澤監督途中降板byドングリ【伝説の映画美術監督たち×種田陽平】種田陽平著、スペースシャワーネットワーク、2014年刊<「BOOK」データベース>より映画監督・種田陽平が聞く13人の映画美術の巨匠たち。【目次】木村威夫/横尾嘉良/間野重雄/水谷浩/西岡善信/朝倉摂/池谷仙克/竹中和雄/井川徳道/森田郷平/村木与四郎/ワダエミ/ダンテ・フェレッティ<読む前の大使寸評>村木与四郎さんとの対談で、『トラ・トラ・トラ!』の黒澤監督降板劇の真相が出てくるのだが・・・・日米の交渉スタッフが映画作りの部外者だったので、黒澤監督がおかんむりだったようですね。rakuten伝説の映画美術監督たち×種田陽平伝説の映画美術監督たち×種田陽平byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き96
2015.05.07
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図書館で『証言班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?』という本を手にしたが・・・・原子炉安全の学者でもある著者が、専門家の立場で班目委員長の証言と事故処理について語っています。【証言班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?】班目春樹, 岡本孝司著、新潮社、2012年刊<「BOOK」データベース>より事故当時、総理官邸内では何が起きていたのか。根幹となる原子力安全規制のどこに問題があったのか。そして、なし崩し的に進む再稼働は本当に安全なのかー。この国が戦後最大の危機を迎えた一週間、原子力安全委員長として官邸で事故対応に当たった班目春樹氏が語る「原発の真実」。【目次】第1章 未曾有の非常事態(三月一二日早朝、福島第一原発へ/ベント成功!? ほか)/第2章 官邸機能せず(「インチョウが来ました」/情報がない ほか)/第3章 霞が関の罠に嵌った原子力安全委員会(初の記者会見で/漏れ出した放射性物質量を初めて推計 ほか)/第4章 安全規制は何を誤ったのか?(無責任な緊急提言/世界に取り残された日本の安全規制 ほか)<大使寸評>原子炉安全の学者でもある著者が、専門家の立場で班目委員長の証言と事故処理について検証しています。何につけ敗因を検証し、今後の改善に資することは有益なことだと思うのです。班目春樹・元教授には、個人的に面識があったので、興味深いレポートです。<図書館予約:(4/20予約、4/29受取)>rakuten証言班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?当事者も、我々も1号機爆発には衝撃を受けましたね。p75~78<1号機爆発の衝撃> 12日の午後5時頃、私は官邸5階にある総理の執務室から呼び出されました。 この時は、私は隣の総理応接室にいました。応接室には当時、原発問題に対応する関係者が集まっていました。この頃、状況は少し落ち着きを見せていたと思います。というのも、午後2時半頃、1号機のベント弁を開けることにようやく成功したという連絡が入って来ていたからです。 これで、水を入れられるようになる。格納容器の破裂も食い止められる。少なくとも事態の悪化は止まるのではないか―。 そんな期待を膨らませていた矢先、総理執務室に呼び込まれたのでした。 何事かと思って入った執務室に菅さんがいたかどうかはよく覚えていません。少なくとも姿を見た記憶はない。当然話もしていないでしょう。保安院の平岡次長とは応接室から一緒でした。その他、その場には何人かの人がいましたが、政治家で覚えているのは福山官房副長官です。 「テレビを見て! もうすぐ映像が流れるはずだから」 強い口調でそう言う福山さんに促されて画面に注目していると、しばらくしてものすごい映像が飛び込んできました。1号機の建屋上部が爆発して吹き飛んだのです。 その瞬間、私は凍りつきました。 「あー、水素爆発だ」 平岡次長によれば、私はそう言ったそうですが、覚えていません。 ただ、水素爆発であることは見た瞬間に分かりました。爆発の仕方から見ても、それ以外はあり得ないと思いました。 1号機では前日から格納容器の圧力が上昇し、建屋の放射線レベルが上がっていました。多分、すでにメルトダウンが起こっていたのでしょう。そのプロセスで核燃料の被覆管が溶けて、水素が大量に発生していたはずです。格納容器から建屋の放射線レベルが上がるほどの量の放射性物質が漏れ出していたということは、同時に水素も格納容器の外側に相当漏れて、建屋内に溜まっていたと考えられます。 格納容器も内部の圧力が高くなれば、扉や、電線の貫通部、上部を覆う蓋の結合部のすき間などから、気体などが漏れ出すことを疑ってもよかったのです。 その結果、水素が建屋内に貯まり、濃度が上がれば、当然爆発します。考えてみれば当たり前のことなのですが、想像が及ばなかった。その可能性について事前に警告できなかったことは大いに悔やまれました。 政治家を含めて、いろんな人に怒られるだろうな、世間からも相当バッシングを浴びるかもしれない――。そんな思いがグルグルと頭の中を巡っていました。 「何が起きたんです。どう思いますか」 ここもよく覚えていないのですが、周りにいた人たちによれば、福山さんは、怒るのではなく、昂ぶる感情を抑えるような口調で、そう質問してきたそうです。 質問されたなら、私はたぶん「水素爆発ですね」と答えたはずです。 爆発という非常事態に直面しながら、不謹慎だと思うかもしれませんが、実はこの時私は内心、やや楽観的なことを考えていました。 建屋の上部がポンと吹き飛んだのだから、格納容器自体は大丈夫だろう。格納容器とその内側の圧力容器には放射性物質がある。チェルノブイリ事故のように、これがすべて飛び散るのが怖かった。映像から見て爆発は格納容器の外側で起きたなずだ。これで水素ガスが抜けて作業がしやすくなったし、ベント弁はすでに開いているから、注水も本格化するはずだ。これで事態の悪化が食い止められるかもしれない―。 しかし、この後、菅さんをはじめ政治家たちは、私は信用しなくなってしまいました。 国会事故調の報告書にも、この件については、専門家に対する不信感として一節が割かれています。 「斑目委員長が『起きない』と断言していた爆発が12日15時36分に1号機で発生したことを契機に、官邸政治家における政府内の原子力専門家に対する不信感は頂点に達し、官邸政治家が前面に立つ本事故への対応体制が形成されることとなった」 前にも述べた通り、チェルノブイリで起こった水蒸気爆発は、高温の核燃料が冷却水に触れ、発生した水蒸気により原子炉自体が一気に吹き飛んで核物質が外部に飛散するというものです。これに対して、原子炉炉心部から漏れた水素が外で爆発する水素爆発の危険度は低いのですが、爆発は爆発だということで、混同されてしまったようです。p80~83<皆が政治家の顔色をうかがい始めた> 1号機がすでに炉心溶融、すなわちメルトダウンが起こっていると考えられることを、保安院が12日午後の会見で公表していました。まさに緊急事態でした。ところが、この発表を契機として、官邸の情報の判断には、技術的な合理性とは別のものが混ざり込むようになってしまったのです。 ことの発端は、保安院が炉心溶融の見解を発表したことに、枝野官房長官やその周囲が不快感を示したことでした。状況から見て炉心の溶融はもう疑う余地がありませんでしたが、枝野さんにはそうした詳しい情報が十分に伝えられていませんでした。そもそも、枝野さんたちには技術的な内容について詳細は理解できていなかったのですが、そこへいきなり「メルトダウンが起こっている」という話が入ってきたために、「いったい、どうなっているんだ」ということになったというのが真相のようです。そのため枝野さんの周辺は保安院に対して、きちんと情報を官邸に伝えるようにと強く抗議したということです。 保安院としては、寺坂院長が逃げ出してしまったこともあり、この抗議に過剰反応を見せます。今度は、その日の夜の記者会見などで「メルトダウンはまだ起こっていない」と真逆のことをメディアに説明し始めたのです。また、メルトダウンに言及した広報担当者も交代させられました。 福島第一原発で何が起きているかということについて、政治家、官僚、東電などそれぞれの思惑が交錯する中で、この頃から理解や判断に政治的なファクターが色濃く反映されるようになりました。(中略) メルトダウンの情報公開もそうですが、官邸にいる政治家の顔色をうかがうことが最優先となった関係者の間では、責任の押し付け合いや事実の隠蔽、かばい合いが始まっていました。 福島第一原発の状況についても、まず、技術的な基礎知識さえない政治家に報告し、理解を求めることが優先され、正確な状況を関係者の間で十分に情報共有できなくなっていました。破局的な事態なのに、しかも、そうなってまだ一日も過ぎていないのに、こんな無責任な対処をしていては事態の悪化を食い止められる訳がない。 本来なら、情報を密に交換し、知恵を出しあい、最も合理的な対策を次々に実施することが急務でした。しかし、特に保安院はひどかった。寺坂院長が逃げ出した後も平岡次長以下、何人かの幹部はいましたが、政治家が技術的なことを尋ねても、誰も答えない。それどころか、保安院の掴んでいる情報すら官邸には上げてきませんでした。保身テクニックに長けた官僚たちが、責任を回避したうえに、学者を手玉にとることは、赤子の手をひねるようなものだったのでしょうね。原子力ムラは政産官学の利権集合体のようなものであるが・・・・学のトップのような斑目委員長から、かくも責任感溢れる証言や提言が示されたわけである。(ちなみに、政とは政権党、産とは東電・原子炉メーカ、官とはエネ庁・保安院、学とは各大学の学識経験者あたりか)現在進行形の福一事故であるが・・・これら証言や提言が活かされることを願うものです。証言班目春樹1byドングリ
2015.05.06
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図書館で『証言班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?』という本を手にしたが・・・・原子炉安全の学者でもある著者が、専門家の立場で班目委員長の証言と事故処理について検証しています。【証言班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?】班目春樹, 岡本孝司著、新潮社、2012年刊<「BOOK」データベース>より事故当時、総理官邸内では何が起きていたのか。根幹となる原子力安全規制のどこに問題があったのか。そして、なし崩し的に進む再稼働は本当に安全なのかー。この国が戦後最大の危機を迎えた一週間、原子力安全委員長として官邸で事故対応に当たった班目春樹氏が語る「原発の真実」。【目次】第1章 未曾有の非常事態(三月一二日早朝、福島第一原発へ/ベント成功!? ほか)/第2章 官邸機能せず(「インチョウが来ました」/情報がない ほか)/第3章 霞が関の罠に嵌った原子力安全委員会(初の記者会見で/漏れ出した放射性物質量を初めて推計 ほか)/第4章 安全規制は何を誤ったのか?(無責任な緊急提言/世界に取り残された日本の安全規制 ほか)<大使寸評>原子炉安全の学者でもある著者が、専門家の立場で班目委員長の証言と事故処理について検証しています。何につけ敗因を検証し、今後の改善に資することは有益なことだと思うのです。班目春樹・元教授には、個人的に面識があったので、興味深いレポートです。<図書館予約:(4/20予約、4/29受取)>rakuten証言班目春樹 原子力安全委員会は何を間違えたのか?水素爆発前の戦場のような福一の現場に菅さんが斑目委員長を伴って乗り込んだシーンが、斑目委員長によって語られています。イラ菅の面目躍如?となっているが・・・後で、菅リスクと言われています。p20~25 福島第一原発の原子炉は、圧力容器の外側の格納容器底部にある圧力抑制室に大量の水が貯めてあり、こうした状況で発生した蒸気を冷やして水に戻す仕組みになっています。しかし、圧力抑制室の冷却能力にも限度がある。能力が低下し水蒸気が増えると、格納容器の圧力が上がっていきます。そこで、水蒸気をどこかで外部に逃がす必用があります。 そのための最終手段が「ベント」でした。 緊急時のための最終手段として取り付けられている格納容器の「ベント弁」を開けて、外部に格納容器内の水蒸気を放出して圧力を逃がします。一方、圧力容器もSR弁を開いて圧力を下げ水を入れやすくする仕組みで、「フィード・アンド・ブリード」といいます。「圧力を逃がしながら(ブリード)、水を注ぐ(フィード)」という意味です。 前日から首相官邸に詰めていた私は、官邸の政治家や、東電から官邸に来ていた幹部職員たちに、冷却水の注水と、この「ベント」の早急な実施の重要性を何度も繰り返し訴えました。東電も、応急対策の最優先事項として取り組んでいました。 しかし、原子炉及び格納容器内の水蒸気を外に出すと、放射性物質も外部に出てくる可能性がある。原子炉は守れるのですが、同時に副作用も起こりうる措置だと言えます。 官邸を出る前の情報では、ベント弁を開ける作業に随分手間取っていました。前夜から5,6時間も、まだかまだか、と東電から成功の報告を待っていました。だから、福島第一原発でタイベックスーツ姿の作業員を目にして、ベントにより漏れ出した放射性物質から身を守るためなんだろうなと考え、私は安堵の息を漏らしたのでした。 もちろん、放射性物質の流出は困ったことですが、とりあえずベントに成功したのなら、後は水を入れ続ければいい。原子炉の過熱は抑えることができ、事態は収束できるはずだ、と期待したのです。 もっとも、私は原子力安全委員会の作業服を着ていました。菅さんや同行した政治家たちは官邸の作業着姿です。誰もタイベックススーツは着ておらず、マスクもしていません。 後の解析では、この時もう1号機はメルトダウンしていたようだし、実際に通常より高い放射線が1号機では検出されていたことを考えると、たぶん全員が被ばくしたと思います。どれくらいの線量かは分かりません。そもそも、その場ではそれどころではなかったし、誰も被ばくに気がついていないようだったので、私も何も言いませんでした。 「そんなことを聞きに来たんじゃない!」 タイベックススーツ姿の作業員に続いて、二重扉から免震重要棟に入ると、二階に案内されました。中に入るときは、総理大臣一行だからといって、特に優先されませんでした。それほど、現場は切羽詰っていたということでしょう。菅さんを特別扱いする余裕すらない様子でした。 小さな会議室があり、東電の武藤栄副社長と吉田所長と並んで待っていました。ほかに、官邸から同行していた首相補佐官の寺田学さん、先に現地入りしていた経済産業省の池田元久副大臣、経済産業省原子力安全・保安院の黒木慎一審議官もいた、と思います。 東電の原子力部門の最高責任者である武藤さんが、なぜベントが遅れているか、説明し始めるのを聞いて、私は残念ながら自分の見立てが間違っていたことを知りました。ベントはまだできていなかったのです。まさにぬか喜びでした。 武藤さんは、ベント弁を開けるには、圧縮空気を送るコンプレッサーと電源が必用で、その手当に手間取っている、などと話していました。何がベントの障害なのかは、私も聞きたかったことです。 ところが、1,2分して、菅さんが怒鳴り始めました。 「そんなこと、そんな言い訳を聞きに来たんじゃない!」 例によって周囲を威圧するような強い口調でした。 「そんなこと」とは、つまり技術的な話ですが、その最も肝心な説明が聞けなかったことは、この後大きな禍根を残すことになりました。詳細を理解できなければ1号機だけでなく、2、3号機でもベント操作の支援ができないからです。実際、その後、2、3号機でもベント操作が難航し、結果的に1号機から3号機で炉心損傷に至ったことを考えれば。あの時、菅さんが技術的な説明を遮ったことは、対策の足を引っ張るものだったと言わざるを得ません。一体、何をしに現場へ行ったのでしょうか。 「今、決死隊を作っています。すぐにでもベントしますから」 とっさに吉田所長が引き取って、そう宣言しました。机の上に図面も広げて、詳細を省いて菅さんにベントの早期実施は可能と説明していました。やや芝居がかったパフォーマンスでしたが、たぶん、これ以上、菅さんとやり取りしても時間の無駄と考えたのでしょう。 私は、もっと技術的な問題を武藤さんたちに尋ねたかったのです。しかし、完全にテンパっている菅さんが脇にいるので、質問もできず、黙って聞いているしかありませんでした。せっかく現地まで行ったのだから、もっと詳しいことを聞いていれば、その後の助言に役立てることができたかもしれない。そう思うと、大変残念です。それにしても、菅さんと斑目さんは防護服もマスクも付けずに現場に立ち、被ばくしているが・・・待ったなしの危機が感じられます。この本に原子力安全・保安院長の逃亡エピソードが語られています。寡聞にして、この事実を初めて知ったのだがが・・・・この腐ったような組織であれば、さもありなんと思った次第です。p38~40<“敵前逃亡”した保安院院長> それでも、10条通報のあと、より深刻な事態である15条通報があれば、私は首相官邸に出向こうと覚悟していました。その間、関係者と連絡を取りながら、原子力安全・保安院に福島第一原発の最新情報は入っているか、執務室でチェックしていました。 私のデスクの前には大型のテレビモニターが並んでいます。そのうち一つには、保安院の緊急時対応センター(ERC)の映像がリアルタイムで流れます。緊急呼び出しの時とは違って、今度は向こうの担当者と電話が通じたものの、あちらにも、ほとんど情報は届いていませんでした。災害時に情報が入ってこないというのは、事態の深刻さを物語るものです。便りがないのは、この場合、悪い知らせということです。 15条通報を受け、午後5時40分頃、官邸に向かいました。 到着すると、まず官邸5階の総理執務室に通されました。 「助けて下さい」 私を出迎えた保安院のナンバー2である平岡英治次長がそう懇願しました。いったい何事かと思いました。だいたい、本来この場にいるのは保安院トップの寺岡信昭院長のはずです。ところが、姿が見えない。 後で聞いたのですが、菅さんに原発の状況を聞かれたのに、寺坂さんはまともに質問に答えられなかったようです。それを厳しく叱責されたため、官邸を辞した後でした。 その後、私は官邸内で寺坂さんにお目にかかった記憶はありません。 寺坂さんは、経産省の事務官です。大学では経済を専攻し、経済はともかく、原子力はずぶの素人でした。ところが、どうしたことか、技術に精通しているべき保安院の院長に就いていました。寺坂院長が答えられなかったので、次は平岡次長が菅さんに詰問されました。平岡次長は技官ですが大学では電気を勉強していて、原子力には詳しくない。 日本の不運か、菅さんの悲運か、こんな時に、適任者が適切なポストにいない、とはまさに痛恨の極みです。平岡次長の「助けて」は、そういう理由だったのでしょう。 確かに、菅さんにも相当に問題はあります。すぐに怒鳴り散らす。携帯電話だと、耳に当てて話すと鼓膜が破れるのではないかと思うくらいです。何日か後、私が直接電話で指示を受けたときは、電話を机の上に放り出してしまいました。怒鳴るだけでなく、人の話もちゃんと聞かない。話を遮り、思い込みで決め付ける。 震災発生後は、いつもテンパっていました。精神状態がガチガチで、ほとんど余裕がない。一国のリーダー、それも国難とも言える危機的な状況では、リーダーの座にふさわしい人物だったかどうか。 だからといって、寺坂さんのように、叱責されたから自らの職責を放棄して官邸から逃げ出してしまっては、話になりません。最も大切な瞬間に敵前逃亡したわけですから、決して許されざる行為だと思います。原子力安全・保安院と言えば・・・・福一の事故処理では、その当事者として報道場面に頻出していたが、その無能さが知られてくるに従って、徐々にフェイドアウトしてしまったことを思い出しますね。政府やメディアによって、この事故の責任追及がなされたが・・・・原子力安全・保安院と東電あたりが最も黒っぽいのであって、危機管理を指揮する立場になかった原子力安全委員会に矛先を向けるのは、筋違いだったのでしょう。
2015.05.06
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みどりの日の昨日(4日)、小雨のなか、三宮の神戸国際会館に出かけたのです。プラントハンター西畠清順というNHK番組を見て目を付けていた樹齢約500年のオリーブの木を見ようということです。おお これが樹齢約500年のオリーブの木か・・・・・思ったより小さいがな。屋上に植えるには、あまり大きな木では無理があるかも知れないし、これが限度なのかも。他にも国内外の200種くらいも植えられたとのこと・・・・写真をバンバン撮ったので、その一部を紹介します。
2015.05.05
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<怒れるおっさん会議>図書館で『怒れるおっさん会議』という本を手にしたが・・・・このお二人の組み合わせと話題は、関西人から見れば、かなりエッジが立っているわけです。データベースの田尾さんの略歴に、讃岐うどん巡りブームを起こすとあるが・・・すごい♪なお、高松で5年間過ごした個人的事情もありこの本をチョイスしたわけだが、とにかく、うどんは、食べなれた讃岐うどんが一番でんがな♪(もっとディープに言えば、宇高連絡船のデッキで食べたうどんが一番でんがな)【怒れるおっさん会議】田尾和俊, 勝谷誠彦著、西日本出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より1日目(軽井沢へようこそ/嘘つきどもにだまされるゆでガエル/うどん県、名乗る前の裏事情/僕らが住む地方を豊かに変えようじゃないか!/夜ふけのないしょ話)/2日目(君は故郷を愛しているか/マーケティング人生論/自分を変える、慣例を破る)田尾和俊(タオカズトシ)1956年、香川県生まれ。1978年、地元広告代理店に入社。1982年、『タウン情報かがわ』創刊と同時に編集長に就任。1989年、同誌に穴場讃岐うどん探訪記「ゲリラうどん通ごっこ」の連載を開始し、讃岐うどん巡りブームを起こす。1995年にタウン誌編集長から同誌出版社社長に就任。2002年に退社し、2003年より四国学院大学教授<大使寸評>このお二人の組み合わせと話題は、関西人から見れば、かなりエッジが立っているわけです。データベースの田尾さんの略歴に、讃岐うどん巡りブームを起こすとあるが・・・すごい♪rakuten怒れるおっさん会議田尾さんや勝谷さん、つまり・・・・讃岐うどん巡りブームを仕掛けた張本人たちのウラ話が、ええでぇ♪p98~104<地方には勝谷さんみたいなおじさんがいないんです> 田尾:田舎にジャーナリズムみたいなものはゼロです。日本全国の規模でいくと、例えば大新聞が大本営発表する、嘘を書く、みたいなことが言われてますけど、全国レベルなら週刊誌だったり、ネットだったり、勝谷さんみたいな個人だったり、そうでないメディアもいっぱいあります。確かに大新聞とテレビというのが圧倒的なメディアだから、そこが動かない限りなかなか全体が動かないけれど、全国レベルだとそれに対抗して闘うメディアみたいなものがいっぱいあるんですよ。ローカルはそれがない。だからやっぱりテレビと新聞が、そのローカルのメディアの大半を握っているんです。勝谷:そうなんや。田尾:やっぱりローカルは狭いから、自分が攻撃をしたら攻撃した人と飲み屋で出くわす確立が高い。町で会う確立が高い。仕事場でもどこかでつながっている確立が高いんです。 だから全国ネットのメディア以上に、ローカルの新聞社や放送局は、腫れものに触わるように基本的に行政批判をしない。非難するのは事件を起こした時だけですよ。明らかに犯罪だから。さらにその周りに週刊誌がない。ローカルメディアとしての週刊誌がないんです。勝谷:つまり第三者機関がないんだ。田尾:ないんです。勝谷さんみたいなおじさんがおらんのですよ、ローカルには。地元の県の行政とか、県のいろんな政治や議員に噛みつく個人の評論家がいない。勝谷:地方で講演すると、JC(青年会議所)とかがらみで地方文化人ってひとりはいるんですわ。だいたいジジイごろしのおねえちゃん。パーですわ。何も知らん。何を言うてもだめなんだけど、それは必用な人であって地元の緩衝材なんだね。田尾:それでね、「ネットがあるやないか」っていう人がいるんだけど、ネットの中で、行政とかに対して批判する人に知識がなさ過ぎるんです。勝谷:うん、そう。田尾:なんで知識がないんかっていったら、地方行政の闇の部分を地方メディアが報じないから。勝谷:ネットの人は発信するけれども、情報収集するメディアがないわけですわ。田尾:ないんです。だから感情だけで発信するんです。勝谷:もっと言うと地方のメディアが書いてもリテラシーがないから自分らのことを言われてるってわからないわけ。アホの中でぐるぐる回ってるわけですよ。田尾:「アホ」いうのは勝谷さんが言いましたからね(一同笑)。勝谷:特に香川県みたいな狭いところはそうですわ。自分らが「うどん県」とかなんか言われて、それがどんなに世の中で笑われているか、わからないわけですよ。田尾:わからない。それでね、一部意識のある人はわかるんです。恥ずかしくて仕方がないって。さらに「さぬきうどん駅」。高松市長が、「JR四国の高松駅がさぬきうどん駅いうて、香川県全体のイメージを取り込むのはいかがなものか」とか言って、結局わずか数日で、「さぬき高松うどん駅」に名称が変ったんですよ(一同笑)。恥ずかしくて日記に書けなかったです。内山:駅の愛称として14年3月末まで使うらしいですね。勝谷:田尾さんたちが麺通団をやり始めて僕が応援し始めた時、どれだけ冷たかったことか。田尾:僕らゲリラというよりも、のけものだったですよね。勝谷:のけものだった。田尾:いじめに遭いました。勝谷:なぜかって言うと、メジャーなうどん屋が。田尾:権威のあるところがね。勝谷:そいつらが力を持ってたわけです。内山:そこ、もうちょっと深くお願いしますわ。勝谷:うわあ、怖いなあ。田尾:これは僕、ちょっと帰られへんようになるで・・・。勝谷:本当にどれだけ冷たかったか。新宿に麺通団の店を出した時に、県がパンフレットを置いてくれって言ってきたけど反発したんや。あれだけ僕らがずっと言っていた時に鼻にも引っかけなかった県が、パンフレットを置いてくれって、断るって言うたんですよ。それ、僕らのプライドですけれども。そんなもんですよ。何がうどん県ですよ。じゃ、そもそもからいこうか?内山:そもそもから。勝谷:そもそも田尾さんが、ゲリラうどん通ごっこを始めたのがきっかけですね。田尾:そう、それまで讃岐うどん界から無視されていた店が面白いってことに僕らが気付いたんですわ。僕が1989年に当時の『月刊タウン情報かがわ』に連載を始めたコラムです。それまでメディアで紹介されていた讃岐うどんは、郷土の名産、歴史と伝統、生活に密着した食文化といった視点だったんです。 でも僕らは「人を動かす情報発信」のビジネスをやってたんで、そうではなくて、「面白い、楽しい、怪しい」という視点で捉えていったんです。当時の讃岐うどん界いうのは豪華な店、伝統のある店、格式のある店というのが讃岐うどんの店の代表でした。勝谷:そういう一般店の中にも、立派な店はいっぱいあるんですけどね。田尾:一応県にもうどん関連の部署があって、それに組合や研究会が一緒になって讃岐うどんのPRに始まって、当然、行政から税金も出てるからいろんなことをやってた。研究会というのは、香川大学の名誉教授の方が中心になってやっている讃岐うどんの研究グループ。讃岐うどんの伝統、歴史、文化、技術なんかを研究してた。 僕らは若者文化を扱っていたので、若い人たちが讃岐うどんで動くかどうか、つまり、若い人たちを讃岐うどんで動かすということを目的に掲げた。だからうどん情報も、その基準でピックアップする店を決めてた。有名で権威のある店を紹介したのでは若い子は動かない。当時の香川の若者は、讃岐うどん=ダサい、おやじの食い物、歴史や文化や伝統はちっとも面白くないっていうイメージを持っていた。 そこに、あの例の怪しい製麺所の店を発見したんですよ。讃岐うどんのヒエラルキーで行くと底辺ですよ。ピラミッドの一番下ですよ。上にも上がれない、おそらく組合でも発言権はないんじゃないかと思うくらいの店を、「これはレジャーとして面白い」「若い子を動かせる」ということでいじり始めたら、ブームがドーンって来た。みんなが同じように「こっちの方が面白い」って言ってくれて、勝谷さんも飛んで来てくれて、で、全国区になってお客さんも来た。勝谷:無視されていた、要するに江戸幕府の統治システムから外れた人たちに飛び込んだ感じやな。田尾:そうです。そうです。今まで無視されていた人たちの方に火が付いて、お客さんがドーンって来た。讃岐うどんブームって、ヒエラルキーの一番下の製麺所型の怪しい、小さい、汚い、辺ぴなところにある製麺屋さんの「ついでに食わしてくれるうどん」、ここがブームの発端であり、いまだにずーっと原動力なんですよ。そしたら、今までずっと上に君臨していたグループにとってみれば、なんか面白くないわけです。行政の無責任ぶりを知り尽くしているジャーナリストと言うべきか…役人、役所を嫌って、ゲリラに徹するところが、さっそうとしてまんな♪お三方が、原子力発電の経営体制は悪の巣窟などと、いいたい放題であるが・・・戦時の大本営のような原発経営体制(無責任体制)に問題の本質があるのでしょうね。(内山:西日本出版社社長、松田:ライター)p158~162<なおも無防備な原子力発電所>内山:僕今、関西電力の原発を検証する本を作っているんです。このままでは関西もえらいことになるんではないかと思って、30年ほど前から思ってたんですけど。田尾:批判する時は、数字を付けてくださいよ。何でもかんでもやめさせて、その結果、関電の経営を揺るがすことになったら、電気代が上がりますよ。電力会社は経営悪化を防ぐために電気代を上げるのが認められているんだから、悪いところを糾弾するのはどんどんやったらいいと思うけど、それをやることによって我々国民がどれだけの犠牲を払うことになるのかをセットで語らないと、「恨みを晴らしたけどこっちが大きな被害を被った」みたいになりますよ。内山:石油とかなんであんなに高いんですか。言うてますやん。諸外国よりはるかに高い金で買わされてるって。韓国の3倍とか、アメリカの9倍とか。交渉力がないってこと?勝谷:そう。言い値で買うしかないの。田尾:電気は、停電してなかったら、みんな「大丈夫なんだ」と思っている。停電にならなければ、みんな「このまま行けるじゃないか」って言うでしょう?でも、経営者になったらわかるけど、中で何が起こってるか、どれだけえらいことになっているか、また表面化してないだけで、下でどんどん、どんどん上がってきてたりする。内山:イデオロギーじゃなくて。つまり、あの形でやるんだったら情報公開をせなあかんのちゃうかっていう話ではないかと思うんですけど。田尾:情報公開したから全部許してやるっていうこともないでしょ。内山:でも、納得はできる。田尾:いろんな情緒の部分を原理原則と照らし合わせて考える。これが原則なのに、その周りにあるいろんな情緒を持ってきて、原則を曲げる。(文字数制限により省略、全文はここ)右翼の勝谷さん、ノンポリの田尾さん、それにアナーキストのような内山社長が加わり・・・この原発テーマに対しては、思いのほか話がかみ合っていますね。とにかく、大手メディアでは、この種の本音が語られることが少ないので・・・・ゲリラ的ジャーナリズムに期待したいものです。
2015.05.04
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図書館で『絵本作家のアトリエ3』という本を手にしたが・・・・14人の絵本作家のうち、佐々木マキ、レイモンド・ブリッグズ、和田誠がいるではないか♪これだけいれば、御の字である。【絵本作家のアトリエ3】母の友編集部著、福音館書店、2014年刊<「BOOK」データベース>より新世代、14通りの絵本道。シリーズ完結編!伝えたいことを、自分らしく。【目次】片山健ー濃密な記憶を原動力に/平山和子ー植物の美を描くよろこび/甲斐信枝ー生き物の声に耳をかたむけ続けて/五味太郎ーそこに「おれ」はいるか/佐々木マキーいつも心におおかみが/林明子ー畏れが描き出す子どもの真実/大友康夫ー出会いと経験に導かれて/西村繁男ー多様なものを多様なまま描く/レイモンド・ブリッグズーユーモアに隠した人間愛/パット・ハッチンスー子どもの背中を押す絵本/スズキコージー大人と子どもがぶつかり合う/和田誠ーどう見せるかへのこだわり/ユリー・シュルヴィッツーインスピレーションの赴くままに/さとうわきこーたくましく自立した女性像を<大使寸評>14人の絵本作家のうち、佐々木マキ、レイモンド・ブリッグズ、和田誠を知っているのだが・・・この3人のインタビューが見られるなら、御の字でんがな♪rakuten絵本作家のアトリエ3勝手ですが、ドングリ国出身の佐々木マキについて読んでみます。p59~60<小さなおおかみ> 実家は謄写版印刷という、ささやかな印刷業を生業としていた。家計は苦しかったが、職業柄、白い紙がたくさんあり、少年時代には夢中になって少年漫画の主人公たちを書き写したものだったという。 1950年代は手塚治虫と杉浦茂が漫画界の両巨頭。特に杉浦がお気に入りだった。「杉浦茂の漫画は畳の上に寝転がって、お菓子をかじりながら読んでいると本当に楽しい気分になれるんです。今、目の前にいる子どもを一瞬笑わせるにはどうしたらいいか、そこに賭けていた人かなって思います」。 そうした作品に触れるうち、次第に自分で漫画を創作するようになる。 「といっても、たわいもないギャグ漫画でしたけどね。中学生になってからは、映画のワンシーンを思い出して、シリアスなタッチの一コマ漫画を描いたりもしましたが」。 両親も絵が好きで、家には「美術手帳」や「芸術新潮」といった雑誌がそろっていた。マキさんにとって、絵を描くことはとても自然なことだったのである。 暮らしは豊かでなく、大好きな漫画本もたくさん買えるわけではなかった。そこで友人たちと相談し、当時は神戸に限らず日本中にたくさんあった貸本屋でそれぞれが一冊ずつ借りては回し読みをした。ベビーブームの時代ゆえ近所には同年代の子どもが多く、一緒に遊ぶ友達にも困らなかったのである。とすると、自身は『小さなおおかみ』の主人公のような孤独な少年ではなかったのか? マキさんはちょっと考えてから、「いや」と言った。 「友達がいて楽しくて、という表面的には穏やかな状態のときもありますが、それがずっと続いているわけでもないんです。あのおおかみは心の中にいつもいたと思います。子どもって自分の力じゃどうにもできない問題が多いでしょう。逃げ場がない。そういう状況で、なんとか自分を保って生きていくのは大変です。そんなとき、あのおおかみがやってくるんです」。暮らしは豊かでないといっても、家には「美術手帳」や「芸術新潮」といった雑誌がそろっていたようで・・・・恵まれた環境だったようですね♪
2015.05.03
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図書館で『黒澤明、天才の苦悩と創造』という本を手にしたが・・・・パラパラめくると・・・・監督の描いた絵コンテ(カラー写真)や『トラ・トラ・トラ!』のシナリオ、『トラ・トラ・トラ!』から黒澤監督途中降板の真相、『七人の侍』演出ノートなどが載っていて、これは見所満載である♪【黒澤明、天才の苦悩と創造】ムック、キネマ旬報社、2001年刊<「MARC」データベース>より黒沢明の創造の軌跡を演出ノート、絵コンテ、関係者の談話、座談会などから探り、塩野七生、キアロスタミ、池辺晋一郎、井上ひさし等がその魅力を分析する。貴重なスナップも多数掲載。<読む前の大使寸評>監督の描いた絵コンテ(カラー写真)や『トラ・トラ・トラ!』のシナリオ、『トラ・トラ・トラ!』から黒澤監督途中降板の真相、『七人の侍』演出ノートなどが載っていて、これは見所満載である♪Amazon黒澤明、天才の苦悩と創造ところで『トラ・トラ・トラ!』という映画は、どんなだったか・・・・先ず、過去の日記から映画評を見てみましょう。このときは、黒澤監督途中降板など知らずに観たんですが。【トラ・トラ・トラ!】リチャード・フライシャー監督、1970年米制作、H24.7.30観賞<goo映画解説>より太平洋戦争の火ぶたを切った真珠湾奇襲作戦の全貌を描いた大型戦争映画。製作総指揮はダリル・F・ザナック、製作は「ブルー・マックス」のエルモ・ウィリアムス。監督は、アメリカ側が「ミクロの決死圏」のリチャード・フライシャー、日本側が「スパルタ教育・くたばれ親父」の舛田利雄と「きみが若者なら」の深作欣二。ゴードン・W・プランゲの「トラ・トラ・トラ!」とラディスラス・ファラーゴの「破られた封印」を基に、アメリカ側はラリー・フォレスター、日本側は菊島隆三と小国英雄が共同脚色。<大使寸評>戦争オタク必見の映画でんな♪ 冒頭、軍楽隊が「海ゆかば」を演奏するところで、おもわず涙する大使であった。とにかく膨大な数のカーティスとカタリナ飛行艇の実機が爆破されたが、さすがアメリカ映画の物量には驚いたのだ。そして、こんな国と戦争した無謀さを実感。goo映画トラ・トラ・トラ!この本では、黒澤監督途中降板の顛末が多くの関係者によって語られているのだが・・・・そのなかで、佐藤純ヤ監督とのインタビューを見てみましょう。p38~42 佐藤監督は、『トラ・トラ・トラ!』で第2班監督として携わる。北海道でのロケーション撮影は行うが、黒澤監督が降板すると同時に、この映画から手を引く。その直後白井佳夫氏によるインタビューが行われ、「黒澤明集成3」(小社刊)に収録されているが、今回は改めて回想してもらい、また新たな証言をお聞きすることができた。(聞き手:野上照代)Q:佐藤さんはB班監督だった訳ですが、黒澤さんと一緒に降りられたんですね。佐藤:そうです。アメリカのプロデューサーに呼ばれて、(黒澤監督降板後を)全部引き受けろと言われたんですが、黒澤さんと一緒に仕事がしたくて引き受けたので、黒澤さんが辞めるなら僕も辞めますと言ったんです。 僕は、黒澤さんと別れたのは、68年12月30日に、黒澤さんが東京へ引き上げるというんで、松江さんや村木さんや7人くらいで一緒に帰って。ちょうど「七郷都落ち」みたいな気がしてきましたね。 その時以来、黒澤さんとは何年もお会いしていなくて、ある時、黒澤さんの何かの作品の試写に行ったらお会いして、それが最後でした。「元気かい?」とおっしゃって、随分懐かしがってらっしゃいましたね。Q:最初に青柳哲郎プロデューサーから頼まれて、B班つまりセカンド・ユニットということだったんですね?佐藤:そうです。黒澤さんは、ロケーションはしんどいので北海道のロケは全部任せるとおっしゃって、「僕はセットをやるから」と。 北海道は、駆逐艦に海上給油するところ、それから連合艦隊がハワイへ向けて出発するのを見送る地元民というところの何カットかです。黒澤さんの描いた絵コンテを持って行きました。海上給油の、駆逐艦と給油艦の間にロープを張って作業中に水兵が海に落っこちるというところは、たまたま嵐が来て撮れたんです。3,4カットあったと思いますが、艦隊の出発を地元民が見送るところは雪待ちでした。 実際にカメラを回したのは多分2日ぐらいだったと思います。あとは雪待ちで、毎日朝起きるとピーカンで、2週間ぐらいは今日は洞爺湖へ行こうとかどこへ行こうとか、遊んでいました。カメラマンは植木等さんの兄弟の佐藤忠さんでした。(中略) 黒澤さんがしょっちゅう言っていたのは、黒澤プロダクションとしてアメリカと契約しているということを本当に気にしていました。逆に言えば、毎晩、哲ちゃんにそれを吹き込まれていたということでしょうが。でも、実際には、黒澤プロの社長としての立場と、監督・黒澤明としての立場はものすごくギャップがあったということでしょう。いろいろ言われて節約しなきゃと思っても、監督として思う存分やりたいし、金勘定がわかる訳ではないし、辛かったと思いますよ。 それに輪をかけたのが、俳優として素人を起用したということでしょうか。 選んだのは黒澤さん自身ということなんですが。結局、いろいろもめて照明部がストライキということで1週間休みを取って、その間に、松江さんたちと、素人に演技指導をした訳です。Q:とは言っても、なかなか難しいでしょう。みんな年齢がいっているし、社会人として地位のある方なので怒れないし佐藤:海軍将校たちも、みな海兵経験者から選んだ訳ですが、実際の海軍の人たちの行動と黒澤さんのドラマとしての動きがズレてくるんですね。そうすると、段々テンションが上がってきて・・・・。亀田さんという実際に真珠湾攻撃に参加された人がアドバイザーとして参加してまして、「亀田さん、実際にはこうかもしれないけど、ドラマにはならないから変えてもいいかな」なんて聞きまして。そうすると、こんどは俳優の人たちが動けないんです。それでまた爆発したりして。(中略) 見ていて、僕は金輪際やるまいと思ったのは、やはり、プロデューサーと監督兼任というのは絶対だめですね。コッポラみたいに自分の金でやって、自分の金なんだから文句言うなということなら別ですが、人の金でやる場合はね。Q:プロデューサーが一緒に戦ってくれるんならいいんですが、青柳プロデューサーは最初からアメリカ側だったらしいし。それに(黒澤さんは)言葉ができないということもあって、外国語のできる人を信用するしかない訳ですし。(2001年9月19日)なるほど、黒澤プロの社長そして、監督・黒澤明としての葛藤に、アメリカとの文化摩擦が加わったのか・・・・黒澤天皇でなくても、切れてしまうんじゃないでしょうか。図書館で『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』という本も同時に借りたが・・・・この本にも黒澤監督途中降板の真相が載っていて、ご満悦の大使でんがな♪伝説の映画美術監督たち×種田陽平byドングリ
2015.05.02
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図書館で『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』という本を手にしたが・・・・この本に『トラ・トラ・トラ!』の黒澤監督降板劇の真相が載っていて、興味深々でんがな♪【伝説の映画美術監督たち×種田陽平】種田陽平著、スペースシャワーネットワーク、2014年刊<「BOOK」データベース>より映画監督・種田陽平が聞く13人の映画美術の巨匠たち。【目次】木村威夫/横尾嘉良/間野重雄/水谷浩/西岡善信/朝倉摂/池谷仙克/竹中和雄/井川徳道/森田郷平/村木与四郎/ワダエミ/ダンテ・フェレッティ<大使寸評>村木与四郎さんとの対談で、『トラ・トラ・トラ!』の黒澤監督降板劇の真相が出てくるのだが・・・・日米の交渉スタッフが映画作りの部外者だったので、黒澤監督がおかんむりだったようですね。rakuten伝説の映画美術監督たち×種田陽平『トラ・トラ・トラ!』の黒澤監督降板劇の真相あたりです。p177~180 06年6月に行われた対談に際し、村木は当時刊行されたばかりの「黒澤明vsハリウッド―『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて」(田草川弘著)を用意して種田を待っていた。この本は60年代後半、黒澤明が20世紀フォックス資本で撮るはずだった映画『トラ・トラ・トラ!』の監督降板劇の真相を探ったものである。村木:この本は、日本側に関しては事実と違う記述も見受けられるけど、20世紀フォックス側のデータはよく調べてある。これを読むと、日本側のプロジューサーだった青柳哲郎がおかしなことを言っているのがよく分かります。要するに、それまで1回も映画の現場で揉まれたことのないスタッフが、英語ができるだけで重要な交渉の場に立ってしまったから話がこんがらがっちゃった。クロさんも思い込みが強いから、脚本は全部自分で書いて、その通りに撮れると思っていた。種田:最近でこそハリウッドとのやり方が日本側も分かってきたけれど、当時の考え方のギャップがあまりにも大きかったんでしょうね。村木:間違いの種は、フォックス側が何かにつけてクロさんに安請け合いしたこと、例えば向こうは一度、零戦が奇襲するハワイ島・真珠湾のミニチュア模型を、日本のスクリーンの3倍の大きさで作れると言ったんだ。ところがしばらくして、「そこまでサイズが大きいと、ライティングの光量が足りなくてピントが合わない」と言い出した。要はアメリカ側も映画を知らない人間が交渉の場に立っているから、できるできないの判断が付かず、それが現場に降りてきて揉めてしまう。種田:黒澤監督は『トラ・トラ・トラ!』の前、66年にアメリカのエンバシー・ピクチャーで「Ranaway Train」を撮ることになっていましたが、このときはどうだったんですか?村木:『暴走機関車』は機関士が心臓発作を起こし、機関車が逆方向に暴走する話だけれど、この際もアメリカ側は鉄道の運行を止め撮影すると言っていたんです。逆走し始めた機関車と、それを知らずに進行してきた機関車がぶつかる直前ですれ違うシーンも、実物を動かして撮ろうと、今考えればそんな危険な撮影、許可なんて下りるわけないんだけど。クロさんは始末に負えないほど人が好くてね。出来ると言われるとすぐに信じちゃうんです。うまく行くと批評家は「凄い」と褒めるけど、そうじゃないときは『トラ・トラ・トラ!』になってしまう。種田:例えば『羅生門』(50)では黒澤さんのビジョンがうまく映像化したわけですが、その違いは何なのでしょう?村木:敗戦直後の東宝争議で、クロさんは山本嘉次郎さん、成瀬(巳喜男)さん、谷口千吉さんと東宝を退社して「映画芸術協会」を設立するでしょう。それで49年、大映に赴いて『静かなる決闘』を撮るんだけど、大映の方も監督の扱い方が分かって、次の『羅生門』では永田雅一社長を始めスタッフがうまくクロさんを乗せた。種田:セットが大きくなるのは、静岡の御殿場で撮るようになってからですか?村木:御殿場は、ロケ先で野次馬に騒がれるようになったのも大きい。だったら人が簡単には来られらない場所にセットを組もうという発想になった。ただ、『七人の侍』の頃からすでに、セットが大規模になる傾向があって、1年以上の制作期間中、3回ぐらい途中で撮影がストップしたんだけど。種田:むしろ3度止まっても完成できたのが凄いなと。村木:クロさんは狙って撮影を途中で止めるんですよ。一番いい場面のチャンバラの手前で撮影を止めて、そこまでのラッシュ映像を製作陣に見せる。そうすると話は面白いし、「もうちょっとで終わりだから・・・」と製作側もお金を出す。そしたら、より大きく作り直しちゃう。種田:でも、そのスケールの大きさが黒澤さんの持ち味なんですよね。例えば『羅生門』にしたって、脚本に具体的説明はなく、ただ一言「門」とあるだけ。それが映画になると、巨大なモニュメントのようにそびえ立っています。村木さんが手掛けた『隠し砦の三悪人』(58)の石段にしても、日本映画では見たことがないほどのスケール感ですよね。村木:『隠し砦』の石段は、他の作品よりは小さいですよ(笑)。まあ、僕はいつも一回り大きく作るからね。種田:それはなぜですか?村木:そうしないと、クロさんから必ず何か言われて癪だからね。ただ、本当を言うと僕は脚本に合わせて作るのが上手いんだ。東宝でも最も安い美術製作費で作られた『小象物語 地上に降りた天使』(86)も僕、あの映画は夜の話ですから、さすがに象舎だけは作りましたが、あとは撮影所内の建物に金網なんかをあしらって檻っぽく見せた。種田:なるほど、村木さんの場合は小さく安くもできるけれど、黒澤作品に限っては一回り大きくなっちゃうと(笑)。村木:そういう意味では、僕のやっていることは大体インチキなんです。『夢』(90)では珍しく、クロさんが幼少期を過ごしたという本郷近くの家の門を本物らしく再現したら、「僕のうちの門は近所でも有名なくらい大きかった」とくる(笑)。そういう人なんだよ。だから、『椿三十郎』では部屋の隅っこに茶室を作った。その手前の庭に椿の木を置いて、それを一番端から望遠で撮ると、とても奥行きが出るからね。種田:普通の日本人が見ている風景よりも大きい世界観は、黒澤さんの肉体の大きさの反映ですか?それとも村木さんの志向性?(中略)村木:結局、映画美術なんて、現実の借り物である映画のさらに借り物だからね。借り物だけが独立して、大きく発展するなんてありえない。大きい企画を生み出すプロジューサーが現れないと、次世代のクロさんは生まれないんじゃないかね。僕はそう、思いますね。
2015.05.02
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30日の安部さんの米議会演説に対して、中華の報道はわりと淡々と論評しているが・・・かなり堪えているもようです。(中国の軍拡が静まるならいいけど)図書館で『図解世界史』という本を手にしたが・・・・尖閣諸島沖事件が起きて以来、中国は覇権体質を緩めるどころか、加速しているが・・・中国の覇権体質は必然なのか?という今日的難題について、地政学的に見てみたいと思ったわけです。【図解世界史】ムック、成美堂出版、2006年刊<カスタマーレビュー>より世界史の授業は時系列の流れに偏りがち。地理的な関連が歴史上のできごとに影響している事例は多い。人類の誕生からポスト冷戦の時代まで、時間の流れと空間の広がりを美しいビジュアルとコンパクトな解説文で紹介。<大使寸評>尖閣諸島沖事件が起きて以来、中国は覇権体質を緩めるどころか、加速しているが・・・中国の覇権体質は必然なのか?という今日的難題について、地政学的に見てみたいと思ったわけです。rakuten図解世界史この本で、東アジアの地政学を学びたいのです。先ず、中華創生のあたりを見てみましょう。p40~41<中国史上初の統一王朝秦の誕生と始皇帝の威光> 「戦国の七雄」といわれた強国のうち、西方に位置した秦は、商オウらの改革(変法)などにより、富国強兵に成功していた。そして政王の代に他の6国を滅ぼし、前221年、史上初めて中国を統一した。 統一を遂げた政王は都をカン陽に定め、自ら皇帝(始皇帝)を称するようになった。国内統治は、郡・県を基本行政単位とし、長官として中央から官僚を派遣する郡県制を適用し、直接統治による強力な中央集権体制の確立を推進した。 また、宰相李斯を用いて焚書坑儒などの思想統制を行ったほか、行政や徴税の円滑化のために文字、度量衡、貨幣、車軌(車軸の長さ)を統一した。さらに、異民族である匈奴の侵入を防ぐため、戦国時代の諸国が建設した長城を強化・延長し、万里の長城を築いた。 始皇帝は自らの威光を全国に知らしめるため、5回にわたる巡幸を行ったほか、カン陽には壮麗な宮殿を建設した。また、後年始皇帝の陵墓付近で発見された兵馬俑坑からは、数千体もの兵士や軍馬の俑(副葬品)が発見され、改めて当時の始皇帝の威勢が示されることとなった。 しかし前210年に始皇帝が没すると、過酷な支配に対する民衆の反感が高まりを見せ、陳勝・呉広の乱を機に反乱が全国に広がり、前206年に秦は滅亡した。<劉邦が秦末の動乱を制し、漢が長期政権を樹立する> 秦末の動乱のなか、貴族出身の項羽が一度は天下を手にするが、農民出身の劉邦(高祖)がガイ下の戦いで項羽を破り、前202年に漢王朝(前漢)を建てた。 前漢は第7代武帝の時代に最盛期を迎える。武帝は匈奴を挟み撃ちするため大月氏や烏孫に使者を派遣するなど、西域を重視したほか、南越や衛氏朝鮮を滅ぼして領土を拡大した。また、これらの大遠征によって財政が圧迫されると、塩、鉄、酒の専売、均輸法や平準法の制定などにより財政難を克服しようとした。 しかし、武帝の死後は、大土地所有者が豪族となって勢力を伸ばす一方、朝廷では外戚と宦官の政争が続くなど、漢の政治経済は揺らぎはじめ、後8年、外戚の王モウが帝位を奪って新を立て、漢王朝はいったん滅亡する。この本で、史上最大のモンゴル帝国を見てみましょう。p64~65<遊牧民の英雄チンギス=ハンがユーラシア大陸を席巻> 12世紀、モンゴル高原では遊牧民の緒部族が争いを繰り返していた。モンゴル族のテムジンは13世紀初頭、諸部族を統一してチンギス=ハン(ハンは王の意)の称号を受けると、千戸制という軍事・行政制度を取り入れ、強大な軍を編成した。また、契丹人の耶律楚材を重用して、政治・経済の制度を整えていった。 チンギスに率いられたモンゴル軍は、華北の金へ侵入し、西アジアのホラズム朝、中央アジアの西夏を滅ぼした。 1227年のチンギス=ハンの死後、第2代ハンとなったオゴタイは、金を滅ぼし、カラコルムを首都として、バトゥに西への遠征を命じた。バトゥはロシアを征服し、ヨーロッパへ進撃。強大なモンゴル軍の前にヨーロッパ軍はひとたまりもなく敗れるが、オゴタイの死の報せを受けたモンゴル軍は引き返し、ヨーロッパは征服をまぬかれる。第4代モンケ=ハンは、弟のフビライおよびフラグに遠征を命じ、フラグはアッバース朝を滅ぼし、フビライは大理、チベットなどを征服した。こうして、ユーラシア大陸に史上空前の大帝国が誕生し、東西交流が活発化した。永楽帝が統治した明代が、漢民族の最盛期だったようです。p66<モンゴルを追い払い、中華帝国を回復した明> 1351年、江南地方で「紅巾の乱」とよばれる大規模な農民反乱が起こり、元を打倒し、漢民族の王朝を復活させる動きが高まった。そのなかで、モンゴル人はモンゴル高原へ撤退し、68年、農民出身で紅巾の乱にも加わっていた朱元ショウが、「回復中華」を旗印に応天府(南京)を都として明を建てた。 長い中国の王朝交代史のなかでも、農民から皇帝にのぼりつめた例は、ほかに漢の高祖があるくらいである。 洪武帝となった朱元ショウは皇帝権力の強化を図り、行政府である六部を皇帝直属とし、科挙を復活させた。また、民衆を民戸(農民)と軍戸(軍人)に分け、民戸は里甲制による徴税を実施し、軍戸は衛所制による兵制を敷いた。 洪武帝の死後、実力で帝位を奪い取った永楽帝は、大運河を改修して豊かな江南と華北を結び、都を順天府(北京)に遷した。また、数度にわたるモンゴル高原への遠征、ベトナム併合、鄭和の遠征など、積極的な外交を進めた。 永楽帝の死後、北方のタタールやオイラートが勢力を回復し、華北を脅かす一方で、沿海部では中国人、日本人の私貿易商人による襲撃(後期倭寇)が頻発し、北慮南倭となって明の体制を揺るがした。中国史上最大の版図は、清の満漢併用制の体制によってもたらされたようです。p68<北方民族の帝国・清による中国支配> 現在の中国東北部一帯にいたツングース系の女真(満州)族が急速に台頭し、1616年にヌルハチが後金を建てた。後金は明を破って東北部を制圧、第2代ホンタイジになると、内モンゴルを併合して清を名のった。 清は、八旗という独特の兵制による強力な軍を保有しており、第3代順治帝のときに、李自成を倒して中国の支配者となった。 清は北方民族の王朝ながら、科挙を行い、中央行政機関に満州族と漢民族を同数配置する満漢併用制をとるほか、中国文化を尊重した。しかし一方で、辮髪の強制、清の支配を否定する思想の弾圧など、威圧政策も行い、少数民族による支配体制を固めた。そして、康熙帝、雍正帝、乾隆帝の3代約130年の間に清は最盛期を迎え、モンゴル、チベット、台湾などを加えた版図は、中国史上最大となった。日清戦争の本質は、列強のなりふり構わない侵略であったようですね。p115<朝鮮半島をめぐり日本と中国が衝突> 明治維新後、欧米諸国との不平等条約の改正が大きな外交課題となった日本は、列強にならい植民地獲得を目ざした。 当時、李朝の治下にあった朝鮮では、摂政の大院君が鎖国政策を堅持していたが、日本は1875年の江華島事件を機に、翌年日朝修好条規(江華条約)を締結して、朝鮮を開国させた。 朝鮮国内では、ビン氏一族など親清派の事大党が清の力を借りて体制に維持を図ったが、金玉均ら親日派の独立党が84年に甲申政変を起こすなど、内政は不安定であった。 そして、94年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、鎮圧のために清軍が出兵すると、対抗して日本も出兵。両国が衝突して日清戦争に発展した。 この戦争に勝利した日本は、95年に清と下関条約を結び、多額の賠償金のほか遼東半島、台湾などの割譲、列強と同等の通商特権など、多くの権益を獲得したほか、朝鮮の完全独立を認めさした。 一方、朝鮮半島への進出を目ざしていたロシアは、日本の遼東半島領有に反対し、ドイツ、フランスと組んで遼東半島を返還させた(三国干渉)。 それまで「眠れる獅子」といわれていた清だったが、日清戦争の敗北でその弱体ぶりが明らかになると、列強は続々と中国への侵略を開始。ロイアは東清鉄道の敷設権を獲得したほか、遼東半島南部の旅順、大連を租借。ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスも威海衛と九竜半島を租借した。これにより、日本を含む列強の、中国での勢力図が画定した。日清戦争の敗北がトラウマとして、またコンプレックスとしていまだに尾を引いているようですね。だけど、他者からどう見られるかに頓着しないのが中華の中華たる由縁であるから・・・今の強引な体質は痛い目に遭わないかぎり変らないような気がする。
2015.05.01
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