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日本で関帝廟がある町は、中華街のある神戸、長崎、横浜くらいであるが・・・大使は神戸に住んでいながら、今まで関帝廟に参ったことがなかったのです。関帝廟のお盆が今日まで(8/28~8/30)ということで・・・どんなかな?という野次馬根性もあり、見に出かけたわけです。関帝廟より財の神として名高い三国志の武将・関羽を祀った霊廟。入口の山門に掲げられた「関帝廟」の扁額は、世界的に有名な書道家・于右任(蒋介石の元秘書)によるものです。「鯉の滝登り」(登竜門)の故事になぞらえた中門、北京の紫禁城と同じ皇帝色の瓦に青龍の像を配した本堂など、廟の敷地には中国の雰囲気が漂います。お盆期間なのに、中国人の参詣も思いのほか少なくて・・・たぶん日本人は大使だけという感じで、落ち着いて写真を撮ることができました。供えてある紙製のお飾りは、今夜9時ごろに燃やしてしまうそうです。日本に住む華僑たちは、わりと郷に従うというか穏やかなたたずまいであり、外国で暮らす知恵も長けているようです。また、ご近所の日本人たちもヘイトスピーチをするでもなく、これも開放的な神戸の良さかもしれませんね。(このあと、大使の撮った写真をアップ予定でおます)
2015.08.31
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<打って出る 京都府立植物園>図書館で『打って出る 京都府立植物園』という本を手にしたが・・・おお 京都府立植物園が頑張っているではないか♪大使は府立植物園のリピーターでもあるので、この本を借りた次第です。【打って出る 京都府立植物園】松谷茂著、淡交社、2011年刊<「BOOK」データベース>より一時60万人を切った来園者数を77万人まで回復、全国の公立総合植物園で4年連続トップを達成した松谷茂名誉園長が熱く語る、植物園人としての15年間、なんとしても絶やさない、なんとしても咲かせたい、なんとしても楽しませたいと、「生きた植物の博物館」であり続けるための京都府立植物園の総合力と底力。<読む前の大使寸評>この植物園によく通っている大使であるが・・・もしかして、松谷園長の管理方針に惹かれていたのかも。最近はヤノベケンジ作の女神像「フローラ」を期間限定(展示は10/25まで)で飾っているようだから・・・見に行こうと思っているのです。rakuten打って出る 京都府立植物園女神像「フローラ」3年前の日記から、京都府立植物園を再掲します。ドングリ国のウツギ類、コデマリの咲き具合から類推すると・・・・・京都府立植物園のヤブデマリが見頃だろう。連休が過ぎた頃、ここのヤブデマリの見頃に合わすように繰り出すのが大使のパターンなんですが、今年のこのピンポイント予想がバッチリ大当たりでした♪ヤブデマリ1ヤブデマリ2比叡山を借景にしてうっそうとした感じがいいですね。植物園1クスノキの並木もなかなか年季が入っているようです。植物園2東福寺まで足をのばして、「八相の庭」を見てきました。紅葉の名所は、この時期は若葉がきれいで人出も少ないし・・・・気分はええでぇ♪東福寺ちなみに京都府立植物園にてに、2年前(2010年)のヤブデマリが見られます。
2015.08.30
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図書館で『西原理恵子の人生画力対決4』という本を手にしたのです。このシリーズは確か第7巻まで出ているが・・対決している最近の漫画家をほとんど知らないので、読むのをパスしているんです。だけど、この第4巻ではかわぐちかいじとヤマザキマリが載っているので借りた次第でおます♪【西原理恵子の人生画力対決4】西原理恵子著、小学館、2011年刊<「BOOK」データベース>より日米開戦、サイバラvsテルマエ・ロマエ。【目次】vs理論社とわたくし 決着編/vsかわぐちかいじ先生/vs寺田克也先生/vs石塚真一先生/vsかわぐちかいじ先生&寺田克也先生&石塚真一先生/vsヤマザキマリ先生/vsコンドウアキ先生/vs浅野いにお先生/vs花沢健吾先生<大使寸評>7人の対決者のうち二人を知っているので、借りたわけですが・・・それだけ、最近の漫画家を知らないということになります。知っていたのは、かわぐちかいじとヤマザキマリでおます♪この本によると、著者は以前よりヤマザキマリが目障りだったようで・・・誌上の対決内容は、「このクソアマ~」とそうとうに険悪な内容となっていて面白いのです♪(イタリア人と結婚し、シカゴ在住で、マンガが日本で売れているとくれば、険悪になるのもわかるが)さいばらりえこの酔ったもん勝ち・・・・全員出待ちしている間に「人生酔人対決」になっているところがコワイでぇ♪この本を読んで得た収穫は、寺田克也という漫画家を発見したことでしょうか。rakuten西原理恵子の人生画力対決4寺田克也、かわぐちかいじ、ヤマザキマリのサイトを覗いてみましょう。西原理恵子の画力との差は言わずもがな・・・でんな。寺田克也の画像よりかわぐちかいじの画像よりヤマザキマリ の画像よりこのシリーズの第一巻だけは、ものめずらしさもあって購入しているのです。【西原理恵子の人生画力対決1】西原理恵子著、小学館、2010年刊<「BOOK」データベース>よりすべての漫画家に喧嘩売ります。己の記憶と漫画人生のみで大御所漫画家たちに勝負を挑む。爆笑お絵かき対決。<大使寸評>予想していたとは言え、鉄コン筋クリートの画力との落差に愕然とします(笑)(これが、美大を出た者の画力なんだろうか?)ま~ 下手さを商売にする西原の度胸と商魂に脱帽するしかないのでしょう。Amazon西原理恵子の人生画力対決1
2015.08.29
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図書館で『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)』という本をみつけたのだが・・・・おお、『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)』を読んでいるので、これを読めば本書は完結するわけだ♪ということで、借りたのです。「世論とメディアによる戦意高揚」という内容の本を、NHKの出版社から出しているわけだが・・・皮肉というか、出るべくして出たのかも。【日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)】日本放送協会編、日本放送出版協会、2011年刊<「BOOK」データベース>より高揚を創出した戦争報道の知られざる側面、開戦を決断したリーダーたちの驚くべき実態。新資料が明かす「なぜ」への回答とは。新たな角度から太平洋戦争までの道のりに光をあてた「メディアと民衆」と「指導者」を収載。井上寿一、ジョン・ダワー、佐藤卓己、半藤一利ほかによる最新の「読み解き」も収載。【目次】第3章 メディアと民衆ー“世論”と“国益”のための報道(“熱狂”はこうして作られた/世論とメディアによる戦意高揚/横並び報道と被害者意識/ラジオが導いた戦争への道のり)/第4章 指導者ー“非決定”が導いた戦争(開戦・リーダーたちの迷走/“非決定”という恐るべき「制度」/アメリカの誤算/1941年、開戦までのアメリカ)/日米開戦史を再考する/対談 太平洋戦争開戦前の「日本と日本人」(半藤一利・松平定知)<読む前の大使寸評>「世論とメディアによる戦意高揚」という内容の本を、NHKの出版社から出しているわけだが・・・皮肉というか、出るべくして出たのかも。rakuten日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)戦時のメディアについて、京大の佐藤卓己准教授、東京経済大の有山輝雄教授のご意見を見てみましょう。<ジャーナリズムの変質とメディア>p41~43当時の国民は満州事変を熱狂的に支持しました。あのような熱狂がなぜ起こったのでしょうか。佐藤:戦後に歴史教育を受けた私たちの世代は、満州事変をどうしても「十五年戦争」の枠組みのなかで考えてしまいます。満州事変は十五年戦争の出発点であり、その最後の終着点が1945年の終戦であるというように。 当然のことですが、当時は満州事変を十五年後の敗戦で終わる戦争の出発点と見ていた人はまずいないわけです。もちろん、“これが悲劇の始まりだ”というように行く末に警鐘を鳴らす人もいたでしょうが、ごく少数でした。 では、当時の人たちにとって満州事変が何だったのかというと、多くの人が、それは1905年に終わった日露戦争の戦後処理問題だと見なしていたのだと思います。1905年から1931年の満州事変までは、約25年という期間です。それは1945年の敗戦から1972年の日中国交回復よりも短いわけです。 戦争の記憶という視点からすれば、当時の日本人は日露戦争から満州事変までを一連の連続的出来事としてとらえていたはずです。その意味で、満州事変は日露戦争で日本が獲得した利権をどう維持するかという切実な国益論として認識されていたということをまず理解する必要があります。メディアの果たした役割については、どうお考えですか。佐藤:1930年代に「全国紙」が台頭してくるなかで、激しい販売合戦が各地方で起こってきます。そうした読者獲得レースにおいて戦争のニュースは、メディア企業にとって必要不可欠な素材だったわけです。 その素材を他紙よりも魅力的に報道し、より多くの読者にわかりやすく解説をしていくこと、それはメディア企業として自明な論理でした。その結果、過熱した戦争報道が展開されました。満州事変の発端となった柳条湖事件が関東軍の謀略だったことを、どの新聞も報道しませんでした。佐藤:当時の新聞人や政府高官の回想や日記などを読むと、柳条湖事件が関東軍の謀略だったことは、関係者の間では「公然の秘密」だったことがわかります。にもかかわらず、事実を報じなかったわけですから、現在の報道倫理からすれば批判されるべきことでしょう。 ただ一方で、当時のジャーナリズムにおいては、“国益論”が非常に強い論理的な正当性を持っていたことも間違いありません。もちろん、そうした状況でどこまで報道をするのか、といったことで、ジャーナリズムの真価が問われるのだと思いますが。 しかし、まず当時のジャーナリズムの急速な大企業化、それと同時にサラリーマン化が進む記者の在り方といった問題があります。さらに、おそらくそれ以上に大きいのが受け手の側の問題です。 満州事変以後、軍部に批判的な新聞に対して不買運動など受け手の側からの圧力がかかってきます。このときに、メディア企業のある意味では“脆い”部分が現われてきたことは指摘できるでしょう。<本当の“国益”を追求しなかったメディア>p66~69二・二六事件(1936年)のときに、言論の自由が終わったとよくいわれます。有山:二・二六事件で言論の自由が終わったというよりも、よく考えてみれば、明治末期に新聞紙法という法律ができて以来、新聞社側が大きな運動を起こして言論の自由を求めるといった運動は展開されてこなかったわけです。議会内で新聞紙法の改正運動は何回も行われていますが、新聞社が読者に言論の自由を呼びかけて大きな運動を巻き起こすというようにはならなかった。日本のジャーナリズムにおいて、言論・報道の自由を求める運動が非常に弱かったのだと思います。 基本的には、与えられた枠のなかで自分たちのジャーナリズム活動を行い、そのことにさほどの疑問も持たずにいた。ですから、必ずしも二・二六事件が転機というわけではなく、明治期以来の延長線上で捉えたほうがいいと思います。二・二六事件では新聞社が襲撃されましたね。新聞社の側で軍に対する脅威も高まったのではないでしょうか。有山:もちろん恐怖感も持ったでしょうし、対抗心もあったと思います。しかし、それが言論・報道の自由を守るという観点から捉えられていたようには見えません。二・二六事件に際して、政府によるいろいろな統制がありましたが、それに対する大きな反対運動も起こらなかった。なぜ、反対運動が起こらなかったのでしょうか。有山:大正初期の頃までは記者たちによる言論擁護の運動というのが盛んに行われていきました。ところが大正中期以降、記者たちは新聞社という企業の枠内に閉じ込められてしまうようになりましたから、企業としての新聞社では反対運動が起きなくなっていきました。日中戦争以降の報道については、どのようにお考えですか。有山:いわゆる挙国一致という状況になって、新聞社が“国益”を代弁する、あるいは先取りして“国益”を主唱するという状況になりました。しかし、「あのときにジャーナリズムが“国益”を乗り越えられなかったこと、あるいは否定できなかったことがジャーナリズムの戦争協力になったのだ」ということを、今の時点からいう人がよくいますが、私はそうは思いません。 それよりもむしろ、当時の新聞ジャーナリズムが当時の政府や軍部が主張する“国益”をそのまま受け入れてっしまったことが問題だったと思うのです。本来であれば、“国益”の内実というものを改めて考えて報道していく、むしろ“国益”について追求するという方向があってしかるべきだった。 当時の新聞社が“国益”に従順だったというのは、実は本当の“国益”を追求しなかったからだと思います。本当に“国益”を追求していけば、軍部や政府が主張している以外のかたちの“国益”もあるというように、新たな局面を開く、“国益”を追求することによって“国益”を乗り越える展開もあり得たかもしれません。当時の記者たちの手記や証言記録などを読むと、“国益”という言葉が頻出します。当時は末端の記者たちまでが“国益”というものを考えていたと。有山:そうだと思います。ジャーナリズムの一つの社会的使命(当時の国家的使命)を果たそうと多くの記者たちが考えていた。そうすることで自分たちは国家に貢献していることになり、正当化される、あるいは自分自身の活動が意味づけられるという考え方になっていったのだと思います。 その意味で、“国益”というのは非常に重要なキーワードなのですが、おまじないの札のように取り扱ってその内容を考えず、ありがたがってそのまま受け入れていたところが問題だと思います。日中戦争時に、同盟通信の社長がメディアを代表して協力を約束しました。これは、メディアを通じた世論形成を目指していたということでしょうか。有山:政府の側は世論形成を目指していましたが、メディアの側もそれに積極的に協力したのです。ところが、メディア側には自分たちが大きな曲がり角で重大な選択をしたという意識はほとんどなく、日常的な活動のなかでの小さな選択を繰り返していた。 しかし、気がついてみると、自分たち自身が身動きが取れなくなってしまい、考え直す契機を見出すことができないということになったのだと思います。どこかの悪い人間が策略をめぐらして大きな方向に変えていったということではありませんから、これは、メディアの構造的な問題として考えるべきことだと思います。『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)』を再掲しておきます。【日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)】日本放送協会編、日本放送出版協会、2011年刊<「BOOK」データベース>より新たに見つかった膨大な証言・資料から浮かび上がる太平洋戦争へと至った「本当の」道のりとは。大きな反響を呼んだ「外交」と「陸軍」を収載。第一線の研究者による解説も充実。【目次】第1章 外交ー世界を読み違えた日本(“外交敗戦”孤立への道/1930年代日本を支配した空気/外交に活かせなかった陸軍暗号情報 ほか)/第2章 陸軍ー戦略なき人事が国を滅ぼす(巨大組織“陸軍”暴走のメカニズム/陸軍を狂わせた人事システム/日本が陥った負の組織論 ほか)/陸軍暴走の連鎖/なぜ、日中戦争をとめられなかったのか<読む前の大使寸評>責任をとらないとは今でも官僚のサガであるが、当時の状況を見てみましょう。rakuten日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)byドングリ
2015.08.28
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今回借りた7冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「クール・ジャパン」でしょうか♪<市立図書館>・世界から猫が消えたなら・日本語ぽこりぽこり・日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)・松岡正剛の書棚・ベン・シャーンを追いかけて<大学図書館>・寺山修司劇場『ノック』・天気待ち今回、ベン・シャーンとアーサー・ビナードという相性が良いお二人の本を借りたが、まったくの偶然なんですよ。お二人とも日本が好きなんです。図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【世界から猫が消えたなら】川村元気著、小学館、2014年刊<「BOOK」データベース>より郵便配達員として働く30歳の僕。ちょっと映画オタク。猫とふたり暮らし。そんな僕がある日突然、脳腫瘍で余命わずかであることを宣告される。絶望的な気分で家に帰ってくると、自分とまったく同じ姿をした男が待っていた。その男は自分が悪魔だと言い、「この世界から何かを消す。その代わりにあなたは一日だけ命を得る」という奇妙な取引を持ちかけてきた。僕は生きるために、消すことを決めた。電話、映画、時計…僕の命と引き換えに、世界からモノが消えていく。僕と猫と陽気な悪魔の七日間が始まった。2013年本屋大賞ノミネートの感動作が、待望の文庫化!<読む前の大使寸評>著者の経歴を見ると、映画プロデューサーとして『電車男』『悪人』など製作したそうだが、本書が初の著作だそうです。それが大ヒットしたのだが・・・天才肌の新人なのかも♪rakuten世界から猫が消えたなら世界から猫が消えたならbyドングリ【日本語ぽこりぽこり】アーサー・ビナード著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>よりイビキへの感謝、クシャミに対する不満、そしてメロンたちが直面している苦境!みずみずしい感性と、軽妙な語り口と、適度の毒で今の時代を楽しくひっくり返すエッセイ集。【目次】1 海を挟んでつれション/2 メロンの立場/3 夜行バスに浮かぶ/4 鼾感謝祭/5 ターキーに注意/6 おまけのミシシッピ<大使寸評>ビナードさんのこなれた日本語に驚くが・・・・ビナードさんや親類たちの政治的センスも素晴らしいわけです♪ビナードさんは、ベン・シャーンと組んで第五福竜丸事件を告発するなど詩人とは思えないほどの行動力を発揮しています。rakuten日本語ぽこりぽこり日本語ぽこりぽこりbyドングリ【日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)】日本放送協会編、日本放送出版協会、2011年刊<「BOOK」データベース>より高揚を創出した戦争報道の知られざる側面、開戦を決断したリーダーたちの驚くべき実態。新資料が明かす「なぜ」への回答とは。新たな角度から太平洋戦争までの道のりに光をあてた「メディアと民衆」と「指導者」を収載。井上寿一、ジョン・ダワー、佐藤卓己、半藤一利ほかによる最新の「読み解き」も収載。【目次】第3章 メディアと民衆ー“世論”と“国益”のための報道(“熱狂”はこうして作られた/世論とメディアによる戦意高揚/横並び報道と被害者意識/ラジオが導いた戦争への道のり)/第4章 指導者ー“非決定”が導いた戦争(開戦・リーダーたちの迷走/“非決定”という恐るべき「制度」/アメリカの誤算/1941年、開戦までのアメリカ)/日米開戦史を再考する/対談 太平洋戦争開戦前の「日本と日本人」(半藤一利・松平定知)<読む前の大使寸評>「世論とメディアによる戦意高揚」というテーマの著書をNHKの出版社から出しているわけだが・・・皮肉というか、出るべくして出たのかも。rakuten日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)【松岡正剛の書棚】松岡正剛著、中央公論新社、2010年刊<内容紹介>よりあの「千夜千冊」が本屋になった。書店初のセレクトショップ、松丸本舗を解説。【目次】本殿第1章 遠くからとどく声本殿第2章 猫と量子が見ている本殿第3章 脳と心の編集学校本殿第4章 神の戦争・仏法の鬼本殿第5章 日本イデオロギーの森本殿第6章 茶碗とピアノと山水屏風本殿第7章 男と女の資本主義本集01 season 01 日本が変わる本集02 season 02 男本・女本・間本〔ほか〕<読む前の大使寸評>この本では、正剛さんの推薦する本が、本自体の画像や本棚に入れた画像で載っているので、思いのほか親しみやすくなっています。ただし、本の内容についてはその本を読んでみるしかないのだが。bookservice松岡正剛の書棚松岡正剛の書棚byドングリ【ベン・シャーンを追いかけて】永田浩三著、大月書店、2014年刊<「BOOK」データベース>より 1898年に生まれ、1969年に亡くなったベン・シャーン。激動の二〇世紀を疾走したこの画家は、絵画だけでなく、壁画、写真、レコードジャケット、ポスター、舞台芸術で大きな業績を残し、さまざまな社会問題も描いた。『W・P・A・サンデー』『幼かりし日の自画像』『解放』『寓意』『ラッキードラゴン』『美しきものすべて』…。これらの作品に、わたしたちは物語を呼び起こされ、そして自分の人生を重ね合わせる。ベン・シャーンの絵は、なぜわたしたちをひきつけてやまないのか。その答えを探しに、ゆかりの地を訪ね歩いた。【目次】第1章 故郷リトアニア、そしてアウシュビッツ第2章 ヨーロッパで見つけたもの第3章 アメリカのアート・ジャーナリスト第4章 世の不公正にあらがう第5章 ベン・シャーンとヒロシマ第6章 抵抗の画家と韓国を結ぶもの第7章 ベン・シャーンを愛する国、日本<大使寸評>大使としては、ベン・シャーンの個性的な線描に惹かれているのだが・・・ベン・シャーンが、ことのほか日本と韓国で愛されていることに驚いた次第です。<図書館予約:(8/17予約、8/22受取)>rakutenベン・シャーンを追いかけてベン・シャーンを追いかけてbyドングリ【寺山修司劇場『ノック』】九条今日子, 寺山偏陸著、日東書院本社、2013年刊<「BOOK」データベース>より名台詞と貴重な写真で綴る演劇実験室・天井棧敷の軌跡。【目次】青森県のせむし男/大山デブコの犯罪/毛皮のマリー/時代はサーカスの象にのって/人力飛行機ソロモン/邪宗門/阿片戦争/盲人書簡上海篇/市街劇ノック/疫病流行記/阿呆船/奴婢訓/観客席<読む前の大使寸評>天井棧敷の出し物の魅力もさることながら、横尾忠則や宇野亜喜良のポスターがええでぇ♪・・・大使の場合はポスターに惹かれて、この本を借りたわけです。rakuten寺山修司劇場『ノック』寺山修司劇場『ノック』byドングリ【天気待ち】野上照代著、文藝春秋、2001年刊<「BOOK」データベース>より本書は、1991年7月から97年10月までの6年に亘り“キネマ倶楽部”というビデオ販売機構の会報に連載された「天気待ち」というエッセイが中心になっている。『羅生門』以来黒沢組にかかわる著者の、巨匠の逸話満載。<読む前の大使寸評>黒澤さんに影のように付き添ってきた著者が、黒澤さんと、その映画作りを語っています。・・・・黒澤エピソード満載の本やないけ♪rakuten天気待ち天気待ちbyドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き111
2015.08.27
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図書館に予約していた『ベン・シャーンを追いかけて』という本をゲットしたのです。大使としては、ベン・シャーンの個性的な線描に惹かれているのだが・・・ベン・シャーンが、ことのほか日本と韓国で愛されていることに驚いた次第です。【ベン・シャーンを追いかけて】永田浩三著、大月書店、2014年刊<「BOOK」データベース>より 1898年に生まれ、1969年に亡くなったベン・シャーン。激動の二〇世紀を疾走したこの画家は、絵画だけでなく、壁画、写真、レコードジャケット、ポスター、舞台芸術で大きな業績を残し、さまざまな社会問題も描いた。『W・P・A・サンデー』『幼かりし日の自画像』『解放』『寓意』『ラッキードラゴン』『美しきものすべて』…。これらの作品に、わたしたちは物語を呼び起こされ、そして自分の人生を重ね合わせる。ベン・シャーンの絵は、なぜわたしたちをひきつけてやまないのか。その答えを探しに、ゆかりの地を訪ね歩いた。【目次】第1章 故郷リトアニア、そしてアウシュビッツ第2章 ヨーロッパで見つけたもの第3章 アメリカのアート・ジャーナリスト第4章 世の不公正にあらがう第5章 ベン・シャーンとヒロシマ第6章 抵抗の画家と韓国を結ぶもの第7章 ベン・シャーンを愛する国、日本<大使寸評>大使としては、ベン・シャーンの個性的な線描に惹かれているのだが・・・ベン・シャーンが、ことのほか日本と韓国で愛されていることに驚いた次第です。<図書館予約:(8/17予約、8/22受取)>rakutenベン・シャーンを追いかけてベン・シャーンの生い立ちや第五福竜丸とのつながりが、「はじめに」に述べられています。<はじめに>p14~16 線というものに、特別の関心を抱くようになったのは、いつのころからだろう。線は輪郭。線は境界。線はものを結ぶこともあれば、隔てることもある。 20代の後半、日本画の天才と言われた菱田春草にひかれたことがあった。かれは、岡倉天心というプロデューサーのもと、横山大観らとともに明治期の画壇に革命をもたらす。それまでの線を廃し、「朦朧体」と言われる面の塗り分けによって世界を新たにつかえようとした。春草は、ものの境界に線などないとさえ思いつめることがあった。 そして、ベン・シャーン。かれの線は、ひきつれ、かすれ、ゆがんでいる。ほかのだれも使わなかったような個性的な線で描いたものは、苦悩や不正義、悲しみだった。が、絵画から受ける印象はむしろ、まっすぐなものだ。すくすく、健康と言い換えてもいい。 ベン・シャーンが描いた『サルトルのマルクス主義』(1965年)と題する本の表紙には、ベン・シャーンがあみだした線が典型的に引かれている。このひとは、いったいどのような経験を経て、世にも不思議な線を引くようになったか。 ベン・シャーンは、1898年9月12日、ロシア帝国内のコヴノ、現在のリトアニア第二の都市カウナスに生まれた。両親はともにユダヤ人。父は才覚のある木彫職人、母は陶芸の職人だった。手仕事を生業とする両親のもとで、シャーンもまた、手でものをつくりだす人生を歩んだ。 シャーン一家は8歳のときアメリカ合衆国に渡った。亡くなったのは1969年。70歳だった。シャーンは、20世紀を生き、その激動を絵や写真というメディアに遺した。 日本においてベン・シャーンという画家は、特別な位置を占めている。多くの画家やイラストレーター、作家、評論家、平和運動家が、かれに影響を受けた。亡くなってから、半世紀近くたっても、それは変わらない。最大の契機となっているのは、シャーンが1950年代後半から60年代前半にかけて精力的に描いた「ラッキードラゴン」シリーズである。ラッキードラゴン、つまり第五福竜丸が太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、アメリカの水爆実験に遭遇し、「死の灰」を浴びた事件のことを、画家人生の中心課題として描いたのは、ベン・シャーン以外にいない。 わたしが最初にベン・シャーンに興味を抱いたのも、まさに第五福竜丸事件がきっかけだった。著者はNHKのディレクター、プロデューサーを歴任し、「クローズアップ現代」の生みの親みたいな人なので・・・この本の示す社会性に納得した次第でおます♪線描画の達人たちよりベン・シャーンと日本との関わりを見てみましょう。<ベン・シャーンが希望だった>p254~256 ベン・シャーンを追いかける旅の最後は、やはり日本になる。わたしの足で歩き、出会い、そこから浮かび上がってくるシャーンの魅力と、喚起したものを見つけだしたい。 美術評論家の桑原住雄さんは、アメリカの現代美術で、ベン・シャーンほど日本人に広く理解されてる画家はいないと言うが、まさにその通りだと思う。シャーンの息子、ジョナサンさんの書棚を見せてもらったら、父が残した本が並んでいた。シャーンが手にした『マルテの手記』は、ドイツ語版なのか、それともアンドレ・ジッドが翻訳したフランス語版なのかを確かめたかった。残念ながら『マルテの手記』はどこかに行って、見当たらないとのことだった。そこで気づいたことは、シャーンの死後、世界各地で展覧会が開かれたが、その大半は日本で開かれたものだということだ。図録を見ればすぐわかる。わたしが見たことがある、日本語のものがどかんと場所を占めていた。 画家の富山妙子さん。1921年生まれの93歳。世田谷のアトリエ、火種工房を訪ねた。ぜんそくの発作におそわれながらも、自作をいまきちんと整理することに執念を燃やしている。富山さんは、金芝河の詩をテーマにした絵や、日本軍「慰安婦」被害女性をテーマにした連作、最近では光州民衆抗争を闘った洪成潭さんとのコラボレーションなど、日本人の戦争責任と民主化をテーマにしてきた。「慰安婦」問題については、もっとも早く声をあげたひとりだと思う。日本では稀有な、社会に発言する画家である。画家は時代の傍観者でよいのか、なんのために、だれのために描くのか、そのことを問いつづけてきた。 富山さんとの話は、まず安部普三総理への違和感から始まった。「『慰安婦』問題にしても原発問題にしても、秘密保護法にしても、およそ文化にたずさわるひとで、安部さんに賛成する方はいないでしょう。いまの日本は1930年代とよく似ています。とくにナチスドイツと同盟を結んだときの日本の雰囲気と似ている。わたしはその時代を知っているからわかります」と言った。(中略) 富山さんは1950年代、鉱山・炭鉱をテーマにした作品を発表したあと、中南米などを歩いた。富山さんは移民画家としてのベン・シャーンに着目する。《フランスに集まっている画家たちは、富裕な家庭の子弟であったり、あるいは奨学資金を得たり、よきパトロンに出会ったりし、恵まれた者たちである。 それにくらべて、アメリカの画家たちの経歴は、皿洗い、掃除人、運搬人、ホテルのボーイなどさまざまな下積みの労働を経ながら、美術学校に通い学んだ者たちだ。 アメリカの画家たちが描く「ソシアル・シーン」の背景には、旧大陸から棄民としてはき出された悲劇、人種差別のはげしいアメリカで下積みの労働をして生きるとき受けた体験が、大きな原動力となっている。黒人でなくても、大都会の片隅で孤独に生きる移民の深い生活のため息、ブルースにも似た悲哀をベン・シャーンや国吉の絵はただよわせている(富山妙子『解放の美学』1979年)》
2015.08.26
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図書館で『日本語ぽこりぽこり』という本を手にしたが・・・パラパラめくって読むと、ビナードさんのこなれた日本語に驚いたわけです。【日本語ぽこりぽこり】アーサー・ビナード著、小学館、2005年刊<「BOOK」データベース>よりイビキへの感謝、クシャミに対する不満、そしてメロンたちが直面している苦境!みずみずしい感性と、軽妙な語り口と、適度の毒で今の時代を楽しくひっくり返すエッセイ集。【目次】1 海を挟んでつれション/2 メロンの立場/3 夜行バスに浮かぶ/4 鼾感謝祭/5 ターキーに注意/6 おまけのミシシッピ<大使寸評>ビナードさんのこなれた日本語に驚くが・・・・ビナードさんや親類たちの政治的センスも素晴らしいわけです♪ビナードさんは、ベン・シャーンと組んで第五福竜丸事件を告発するなど詩人とは思えないほどの行動力を発揮しています。rakuten日本語ぽこりぽこり当代随一とも思われるビナードさんの日本文はどんなか・・・見てみましょう。<メロンの立場>p48~50 戦争が話題にのぼり、どっちが悪いか、宥和政策はいけないのか、国益を守るためにどこまでやるべきかなど、議論が複雑になってくると、ぼくは義理の父親の言葉を思い出す。軍隊の経験があった義父は、いつか“戦争責任早解り法”とでも言うべき話をしてくれた。「地図を広げ、どこで、だれがやっているか、それさえ見ればだいたい、戦争責任の所在は明らかだ」 テレビのニュースをつけると、アナウンサーが神妙な顔をして、例えばファルージャで拡大中の「掃討作戦」の経過を話す。うっかりその報道を、事実として頭にインプットした場合、問題が霞むだけだ。まず一歩ひいて、イラクの地図を広げ、そもそもここで米軍が戦争をやっているのは何故なんだ?と問わなければならない。 ぼくの母方の祖父は、とても気短な人だった。こっちが何か議論しようとすると十中八九、途中から怒鳴りつけられるハメになった。でも世の中を見る目は鋭く、むかし第二次世界大戦の話をしていたとき、ぼくが「デモクラシーvsファシズムの戦い」と歴史教科書の受け売りみたいなことをいったら、即座に笑われてしまった。祖父いわく「そんなものはショーウィンドーの飾りにすぎない。戦争っていうのは、金儲けのためにやるに決まっている。思想なんかあとからくっつくんだ」 22歳のとき、ぼくはインドのマドラス市で4ヶ月ほど、タミル語の勉強に没頭した。プライベートレッスンで教わった先生は、インドの語学の偉い研究者で、大学をリタイアして時間的余裕ができ、ボランティア精神に基いてビギナーのぼくを拾ってくれた。ぼくより英語が堪能なその先生は博学この上なく、レッスンは毎回おもしろく寄り道しながら進んだ。ある日、大英帝国とインド独立の戦いに話が及び、先生はこんな諺を教えてくれた。「包丁がメロンの上に落ちても、メロンが包丁の上に落ちても、切られるのはメロンだ」 そのときの「メロン」は、インドの一般市民を指していたが、今のイラク市民も、そっくり同じ立場だ。 第33代米国大統領のハリー・トルーマンは、政策的には評価できるところがほとんどないけれど、それでも痛快な明言を数多く残している。例えば「この世で新しいのは、お前らが知らない歴史だけだ」。要するに今、世界各地で行われていることはみんな過去の二番煎じにすぎないが、過去を見抜いていない連中が、新しい動きだと思い込む、というわけだ。 最近、アメリカ国内ではようやく、イラクの「」が徐々に認められ、自分たちが性懲りもなく歴史を繰り返していることに、人々が目覚め始めているようだ。二千トンほどの劣化ウラン弾をばらまいて一般市民を一万人以上殺害しても、反省の色は見えなかったが、アメリカ側の兵士が犠牲になり出すとやっと気がつく―そのあたりの鈍感さも、過去の繰り返しといえなくもないが、ベトナムのときは、米兵が五万数千人死んで初めて、世論が反戦のほうへ向かったが、ベトナム側の死者はすでに三百万人に達していた。 「地図を広げ、どこで、だれがやっているか」。毎日のニュースの補足として、世界地図が手元にないと困る時代だ。特に中東の地図は、壁にも貼っておくといいのかもしれない。 ブッシュ政権の要人たちは中東の地図としょっちゅうにらめっこしているが、彼らには「戦争責任の所在」など、見えてはこないのだろう。「どうしてオレたちの石油がイラク人の砂の下にあるんだろう・・・」、思考はそのくらいか。ところで、ビナードさんが英訳した宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が良かったので再掲します。【Rain Won't 雨ニモマケズ】宮沢賢治、アーサー・ビナード、山村浩二著、今人舎、2013年刊<「BOOK」データベース>よりアニメーション作家・山村浩二の絵と詩人・アーサー・ビナードの新訳が出会う、本当の宮沢賢治の里山。ビナード,アーサー(Binard,Arthur)1967年、ミシガン州生まれ。高校時代に文学を志して詩を書き出し、ニューヨーク州のコルゲート大学に進んで英米文学を学ぶ。卒業と同時に来日、日本語でも詩作を始める。2001年、第一詩集『釣り上げては』(思潮社)が中原中也賞に選ばれる。2007年に『ここが家だーベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)で日本絵本賞、2013年に『さがしています』(童心社)で講談社出版文化賞絵本賞を受賞山村浩二1964年、名古屋市生まれ。子どものころから盛んに絵を描き、13歳で最初のアニメーションを制作。東京造形大学卒業後、自主制作をつづけながら独自の手法を見出し、2002年に発表した『頭山』がアヌシー国際アニメーション映画祭のグランプリに選ばれ、米国アカデミー賞にもノミネートされる。フランツ・カフカ原作の『カフカ田舎医者』で2007年オタワ国際アニメーション映画祭のグランプリを受賞。現在、東京藝術大学大学院教授<大使寸評>アーサー・ビナードさん英訳の「Rain Won't 雨ニモマケズ」とのこと。海外の読者に賢治のメッセージが伝わるとええな♪ということでおます。rakutenRain Won't 雨ニモマケズRain Won't 雨ニモマケズbyドングリ
2015.08.25
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図書館で「寺山修司劇場『ノック』」という本を手にしたが・・・全てのページがビジュアルになっていて、大人の絵本と言えなくもないのです。天井棧敷の出し物の魅力もさることながら、横尾忠則や宇野亜喜良のポスターがええでぇ♪・・・大使の場合はポスターに惹かれて、この本を借りたわけです。【寺山修司劇場『ノック』】九条今日子, 寺山偏陸著、日東書院本社、2013年刊<「BOOK」データベース>より名台詞と貴重な写真で綴る演劇実験室・天井棧敷の軌跡。【目次】青森県のせむし男/大山デブコの犯罪/毛皮のマリー/時代はサーカスの象にのって/人力飛行機ソロモン/邪宗門/阿片戦争/盲人書簡上海篇/市街劇ノック/疫病流行記/阿呆船/奴婢訓/観客席<読む前の大使寸評>天井棧敷の出し物の魅力もさることながら、横尾忠則や宇野亜喜良のポスターがええでぇ♪・・・大使の場合はポスターに惹かれて、この本を借りたわけです。rakuten寺山修司劇場『ノック』初演1969年の『時代はサーカスの象に乗って』の一節です。<時代はサーカスの象に乗って>p59~61身を捨てるに値すべきか祖国よ。歌うな、教えよ、日本のアメリカ、過ぎゆく一切はまぼろし屠殺場の星条旗の アメリカの日本よおれは歴史なんかきらいだ思い出が好きだ国なんかきらいだ 人が好きだミッキー・マントルは好きだルロイ・ジョーンズは好きだポパイは好きだアンディ・ウォーホールは好きだキム・ノヴァクは好きだだがアメリカはきらいだ!これも時代なのだ 寒い地下鉄で吹いた口笛を思い出すか、ボクサーのボブ・ホスターよ戦争に向かってマッチの一箱の破壊解放された動物園の方から時代はやってくる。時代はゆっくりとやってくる、時代はおくびょう者の象にまたがってゆっくりとやってくる、そうだ、時代は象にまたがって世界で一番遠い場所、皆殺しの川におもむくだろう、せめてその象にサーカスの芸当をおしえてやろう。ほろんでゆく時代はサーカスの象にまたがって、せめてきかせてくれ。悪夢ではないジンタのひびきを、いいか、時代よ、サーカスの象にその芸当を教えよ今すぐに今すぐに!天井桟敷のポスターをネットで探してみました。劇団『天井桟敷』とそのポスターの素晴らしき世界より劇作家、映画監督、詩人、小説家、そしてメディアの寵児として知られる寺山修司(1935-83)は、多方面に才能を発揮した芸術家であり、60年代から70年代にかけて日本のアングラ劇場シーンを牽引した代表的な人物だ。ポスターハリスは渋谷道玄坂にある小さなギャラリーで、名前のハリスが動詞の『貼る』からきていることを見てもわかるように、劇団のポスターや広告などの制作を手掛けている。この会社は寺山の死によって天井桟敷に入団する夢を挫かれた社長が興したものだが、当時は商業的な劇場の増加によって、アングラ時代には劇団に連なる個人デザイナーが制作していたポスター類が、外部の広告代理店に委ねられるようになりつつあった。結果的には、ポスターデザインの会社を始めるには絶好のタイミングだったと言える。寺山は真に特異な存在だった。西洋の芸術家から強い影響を受けていた彼は、常に保守的な同業者の一歩先を歩み、舞台や映画では巧みな遊び心でもってタブーやグロテスクなどの要素を取り混ぜ、衝撃的な映像をふんだんに盛り込んだ。天井桟敷はしばしば「演劇実験室」を標榜していたことで知られているが、その主宰の寺山自身は、スキャンダルと異色の舞台で化学反応を起こす魔法使いか科学者のような存在だったと言えよう。(中略)寺山と同世代のクリエーターの多くが今でも現役で活動しているのに対して、寺山は1983年に47歳の若さで亡くなった。演劇がその場かぎりの刹那的な芸術である以上、寺山の作品の多くは実質的には失われたと言っても過言ではない。しかし映画や詩句、小説といった彼の並み外れた才能が、寺山の世界をこれからも生かし続けてくれる。そんな寺山修司の世界を垣間見る手始めに、天井桟敷のポスターはいかがだろうか。
2015.08.25
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図書館で『天気待ち』という本を手にしたが・・・黒澤さんに影のように付き添ってきた著者が、黒澤さんと、その映画作りを語っています。黒澤エピソード満載の本やないけ♪・・・ということで借りたのです。【天気待ち】野上照代著、文藝春秋、2001年刊<「BOOK」データベース>より本書は、1991年7月から97年10月までの6年に亘り“キネマ倶楽部”というビデオ販売機構の会報に連載された「天気待ち」というエッセイが中心になっている。『羅生門』以来黒沢組にかかわる著者の、巨匠の逸話満載。<読む前の大使寸評>黒澤さんに影のように付き添ってきた著者が、黒澤さんと、その映画作りを語っています。・・・・黒澤エピソード満載の本やないけ♪rakuten天気待ち著者インタビュー「黒澤映画の秘密」の一部を紹介します。黒澤天皇と言われた由縁がわかるし、この本のキモみたいなところでしょうね。<編集でみせる集中力>p312~316Q:野上さんにとって、黒澤映画のユニークなところ、また黒澤さんの映画監督として余人をもって代えがたい才能というのは、何であるとお考えでしょうか。野上:それはまず、監督としての異常なほどの“集中力”。成瀬さんの話に繋がるけど、特に編集の時の集中力はすごい。話しかけても何も聞こえない。記録のわたしの立場からいえば、撮影よりも何よりも編集作業ほど大変なものはない。なにしろ撮った材料が多いから。Q:編集作業に立ち会うのは何人ですか。野上:作品によって違うけど、わたしと編集技師とその助手さんの三人くらい。『乱』から後はイタリア人の助監督ヴィットリオ・ダレ・オーレ君も付いてたけど。Q:編集は監督が一人でされるわけですか。野上:そう。とにかく編集は部屋が凍りつくぐらいの緊張です。いつ何が起こるかわからない。編集というのは本当にわからないんですよ、密室だから。密室殺人みたいなものでね。本当にあそこにいないとわからない。ただ、とにかく監督としては一番至福のときですよ。周りの人はみんな透明人間みたいなもので、監督の手となり足となるだけです。Q:例えば、凝ることで有名な市川崑監督の編集とはかなり様子が違うんですか。野上:全然違うと思う。だって崑さんは編集機のそばに座って指示するけど、実際に切ったり繋いだりってのは長田千鶴子さんがやってるでしょ。黒澤さんの場合は自分がフィルムを手に持たなきゃできないんだから。Q:それは日本映画の中でも稀なんですか。野上:もう今やね。Q:1本の映画をあげるために、その編集作業というのは大体何日ぐらいかかるのですか。野上:撮影が終わってラッシュを見ると、その日の夜にやるんですよ。なにしろ、編集が好きだし、やっぱり気にかかるからでしょうね。ロケ現場にも編集機を持っていって編集することもあります。長期ロケの時などはね。 結局、全部自分でやらないとだめなんですよ。そういうつくり方じゃないとああいう映画はできないということよね。全部自分でやらないと気がすすまない。。だから、撮影が終わるころには、大体つながっているのよ。 それで、その後、また初めからやるわけだけど、本当に速いし、うまいですよ、やっぱり。それと、とにかく集中力ね、黒澤さんは。もう本当に何か読んでいるときなんか、何を言ったってわからない。悪口を言ったってわからない(笑)。Q:何時間もぶっとうしで編集をされるわけですね。野上:ものすごい集中力だもの。Q:徹夜なんていうのはあたりまえですか。野上:徹夜は基本的にまったくしない方針。だから、ラッシュを見てその日時間があればやるけれど、速いから大体夕方2,3時間かな。それに、例えばロケが中止になると、「じゃあ、今日編集しよう」ということになる。Q:ほんとうに編集がお好きなんですね。野上:そうね。具体的にいうと、材料として画と台詞と音楽の三種類があるでしょ。台詞と音楽はシネテープ。キャメラが三台あれば、それが同時進行しているから画のフィルムも三本あるんですよ。音は基本的に一本だけど。それにまた、キープもあるわけですよ。つまり、あれもいい、これもいいと同じカットのOKが何本もあることね。ワン・テークはそこそこ10分以内だけれど、やっぱり長いでしょ。だから、全部のフィルムの量にするとすごいものになりますからね。その中のうちのほんの一部を使うんだから・・・。 テープのエマルジョン・ナンバーがないから、編集の助手はもう大変なのよ。画のフィルムのふちに1フィートごとに入ってるエマルジョン・ナンバーを全部、音のテープに書き写すわけよ。じゃないと、どこかで切られたら、その音がどこのものか分からなくなるから。 それに、テープにまた台詞を全部書きこむわけ。音は目に見えないから。それだけの準備をして、材料をそろえて、そこから監督の独壇場になる・・・・パーと見て、ここからあっち、あっちからこっちと切って繋いで、また見て、やり直して・・・・。それで、「はい、次」なんて言うから、どんどんフィルムを渡さなきゃいけないわけね。 集中してて、しかも速いからたいへん。次はあのカットに行くだろうなというのを予想しておいて渡すんだけど、どこをどうやっているのかもよく見えないわけよ。あそこで切るからあっちへいくのかなと思って、渡すでしょ。もし違っていたらバーンなんて突き返されるし。 まあ、何ていうのかね・・・・手術かな、医者と看護婦みたいに。「メス!」「カンシ!」・・・・ああいう感じですかね。ただそばに立ってて、フィルムを渡したり、フィルムがひっかからないようにほどいたりしているだけだから、なんてことないように思うかもしれないけど、なかなか大変なんですよ。監督が何かの拍子にどこかに足をひっかけたりするでしょ。「痛い!」なんてことになると、あの雰囲気の中では生きた心地がしないですよ、本当に。Q:聞いているだけで鬼気迫るものがありますね。野上:とにかく黒澤さんの場合は、それが最終的な一番大事な演出だから。黒澤さんの演出というのは、いつもおっしゃっていまっすが、「まず編集の材料を撮る」ということなんです。わたしは、これを『羅生門』のころからずっと毎回聞かされている。「材料を撮るために撮影している」って。 要するに、撮影のときは画を作って、録音のことはあとまわし。それで悪いところがあれば、音は音で何とかする。それで、監督にとっては最終的にたった一人で一番本当の演出をするのが編集作業なんですよ。 全部の材料をすべて手にして、最近になると音楽のテープまで持って、とにかく一から百までの全部ができるのが編集だから。われわれはとにかくそばにいて、コトリとでも音を出さない。邪魔をしないかぎりはいいわけよ。でも、邪魔をしてはじめて存在がわかるんだけどね(笑)。『羅生門』のモノクロ映像の美しさについても触れています。<太陽を撮る>p78~81 いまさら感心するのも妙な話だが、黒澤さんは実にキャメラのことをよく知っている。キャメラマンと相談しながらにしても、どのカットもぜんぶ自分でファインダーをのぞいて構図を決めるし、レンズのサイズまで選択するほど、それは詳しい。だからキャメラに収まる画面の範囲なども明確に頭に入っているようである。 たとえば雪の日の撮影の時などスタッフは、うっかり足跡でもつけたら大変とヒヤヒヤしながら作業をするのだが、黒澤さんは平気で、ずかずかキャメラの前に出て行く。周囲が「ああっ、あんなでっかい足跡を・・・」という顔をすると「大丈夫だよ、こんなところは入ってねえよ」と自信たっぷりである。よくわかるものだなあ、と私などはそれだけで参ってしまう。 だから普通のキャメラなどもさぞ好きだろうと思われがちで、外国などへ行くと超一流のキャメラをおみやげにもらったりするのだが、実はこっちの方にはまったく興味がない。一度もシャッターを押したことがないという珍しい人である。 黒澤さんが、『七人の侍』以後、複数のキャメラを使うようになったことは知られているが、それまでは1台のキャメラだったから『羅生門』も当然、1台だった。 宮川一夫さんは、いったんキャメラが据わったら最後、ファインダーをのぞきっぱなしの人である。そのわきに体を寄せて黒澤さんが座り込み、二人でファインダーの取り合いのかっこうで、いつもどっちかがのぞいていた。撮影助手の平さん(本田平三)が「わしら、のぞく時あらへん」と、ぼやいていたほどである。 黒澤さんが今でも助監督たちを怒鳴ることのひとつは「キャメラをのぞけ!」である。「キャメラをのぞいてみろ。そんなところに通行人おいたってキャメラからは見えないだろ。無駄なことするな!」とくる。 助監督さんだってキャメラをのぞきに来ないわけではない。しかし黒澤さんのように構図を正確に頭に入れるのはなかなかできないことなのだ。 前置きが長くなったが、『羅生門』の美しさは、あの構図のシンプルさと光と影の絶妙の感覚だと思う。 盗賊の三船敏郎が大木の下で眠っている時、通りかかった馬上の女を見る。「あの風さえ吹かなければ」という一陣の風が女を見送る盗賊の胸の葉影を揺らす。あの不吉な美しさ。(中略) 黒澤さんは、太陽が好きである。自著『蝦蟇の油』にも『羅生門』の太陽について書いている。「この作品の大きな課題の一つは、森の中の光と影が作品全体の基調になるから、その光と影をつくる太陽そのものをどのように捕まえるかという問題があった。私は、その問題を、太陽をまともに撮る事で解決しようと思った。」―そのころは、まだキャメラマンも太陽をじかに撮るのは恐れていた。太陽光線がフィルムを焼くとさえ考えられていたそうだ。しかし宮川さんは大胆にもキャメラを太陽へ向けて振り上げ、梢越しに輝く太陽をとらえた。 盗賊が女を抱いて無理矢理、接吻するあの場面は色々なアングルから撮った。二人をイントレ台(組み立て式の台。D・W・グリフィス監督『イントレランス』で使われたことからできた名称)の上に載せ、梢ごしの太陽をバックに仰角のカットも撮った。著者は記録係(スクリプター)として、黒澤監督と関わったのだが、記録係の作業が語られています。<記録>p108~111(文字数制限により省略、全文はここ)
2015.08.24
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図書館で『松岡正剛の書棚』という本を手にしたのです。大使は松岡正剛の威張りくさった顔が好きになれないのだが(笑)・・・本に関する薀蓄には畏れ入るし、編集工学というコンセプトを立ち上げたことは、すごいと思うわけです。この本では、正剛さんの推薦する本が、本自体の画像や本棚に入れた画像で載っているので、思いのほか親しみやすくなっています。ただし、本の内容についてはその本を読んでみるしかないのだが。【松岡正剛の書棚】松岡正剛著、中央公論新社、2010年刊<内容紹介>よりあの「千夜千冊」が本屋になった。書店初のセレクトショップ、松丸本舗を解説。【目次】本殿第1章 遠くからとどく声本殿第2章 猫と量子が見ている本殿第3章 脳と心の編集学校本殿第4章 神の戦争・仏法の鬼本殿第5章 日本イデオロギーの森本殿第6章 茶碗とピアノと山水屏風本殿第7章 男と女の資本主義本集01 season 01 日本が変わる本集02 season 02 男本・女本・間本〔ほか〕<読む前の大使寸評>この本では、正剛さんの推薦する本が、本自体の画像や本棚に入れた画像で載っているので、思いのほか親しみやすくなっています。ただし、本の内容についてはその本を読んでみるしかないのだが。bookservice松岡正剛の書棚松岡正剛はiPad派のようで、電子書籍に対する忌避感も持っていないようです。そのあたりについて次の対談を見てみましょう。<対談:松岡正剛×東浩紀>p101~104東:「読む」ことに関してもう少し付け加えると、ブログやツイッターを見ていると、多くの人は検索ワードの周辺しか読まなくなっています。それが良いことか悪いことかはさておき、そういう情報の摂取の仕方に電子書籍はひきずられると思う。 となると、電子書籍は、段落単位とまではいかなくても、4000字前後を一つの思考ユニットにして、ポンポンと並ぶような文章が標準とされるかもしれません。松岡:なるほど、仏教のメディアの歴史を考えてみると、最初は非常に短いワード系のマントラがあって、その後、『維摩経』や『法華経』に代表されるストーリー系のスートラに行く。そしてフレーズ系のタントラという束の状態に戻るんですね。 単語、フレーズ、長い文章は、それぞれいつも入れ替えが続いている。情報のリテラルな単位というのは一定の大きさで落ち着いてしまうものではないでしょうね。東:確かにそうですね。電子書籍は紙という物質的制約から解き放たれたことで、すごく長くなる可能性もあるし、逆にすごく短くなる可能性もある。ただ、どの長さになった時にコミュニケーションがうまくいくのかはそう簡単には予想できません。 例えば、ツイッターは一度の投稿字数を140字に制限しただけで多くの人々の欲望を駆り立て、新しいコミュニケーションの形を生み出しました。でもなぜ140字か。 アメリカの携帯のショートメッセージ・サービス(SMS)は160字に制限されていた。IDなどを付け加えることを考えると、140字まで短くすれば携帯のショートメールに入る。それで決まったんですね。つまり、140字になったのは非常に恣意的な結果です。 さらに面白いのが、ではなぜアメリカのSMSは160字に制限されていたのか。ここから先はいささかデリダ的なテーマになります。これは噂話で僕は裏を取っていないのですが、ある電話会社が絵はがきを大量に調べたところ、人は1枚に160字前後しか文字を書かないことが統計的にあきらかになった、だから160字にした。この話が正しければ、ツイッターのつぶやきの起源は絵はがきということになります。松岡:ライプニッツは、バロック哲学者の中でもっとも多くの手紙を出した人です。あまりに多いため整理がつかなくて、ドイツ語全集で、その巻だけ刊行が遅れているほどです。 そのライプニッツが書いた手紙が平均200ワード。もちろん字数とワード数は違うけれども、18世紀以降の私たちの思考の単位は、その辺りのまま変わらなかったということですかね。東:僕たちは今、非常にライプニッツ的な世界を生きているのかもしれませんね。PCやiPadという「論理機械」もあるし、モナド的にみんな閉じていてしかも開いている。そして連絡は140字の絵はがきだけという世界。<「分類」の仕方が変わり「社会的な脳」が現われる>東:本の分類でもそうですが、普通は「分類」というとツリー型のディレクトリ形式が想定されます。ディレクトリ形式の特徴は、大分類の数が小分類の数よりも少ないということです。ところが、ネット上の分類は、分類対象よりも分類項目の数のほうを多くすることができる。今、例に挙げられた「タグ」という言葉はネット上では非常によく使われます。 例えば、今僕と松岡さんを並べた映像を撮影したとして、その映像には「物書き」とか「ジャケットを着ている」とかさまざまな「タグ」を付けることができます。ネット上では、この「タグ」を無限に作れて、しかも自分で作った「タグ」に合わせて、自由に情報を引き出すことができる。「分類」についての考え方が、電子メディアの誕生以前と以後では大きく違うんです。 このことは、松岡さんのおっしゃる通り、人の思考の仕方を変える可能性があります。フーコーは、『言葉と物』の冒頭で、「シナのある百科事典」を紹介しながら、分類も規定も恣意的なものだと指摘しますね。松岡:ボルヘスからの引用として、「皇帝に属するもの、香の匂いを放つもの、飼いならされたもの」といった分類がありうると言ってるね。東:それは西洋近代の分類法からすると、まさに「異質な分類」でした。近代では、階層構造を作らないと「知」は制御できなかった。しかし、今はテクノロジーが進化したことで、「異質な分類」をそのまま扱える。 この松丸本舗には大量の本があります。これは松岡さんの頭の中のコンテクストを外在化したように並べられている。しかしこれからは、それをだれにでもでき、さらにダイナミックに変え続けられる時代がくる。「社会的な脳」などという議論もあります。松岡:それぞれが権力を保持しながら国境を越えてネットワークをつなあいでいくというネグリの提唱した「マルチチュード」のようなものが、ブログやツイッター上ですでに起こっているわけかな。東:そうですね。そして、そのような状況は人間の脳に優しいものだと思うんです。人間の脳がもともと行っていた世界の整理を、ツリー状のディレクトリ構造はうまく再現できていなかった。それができるようになりつつある。ところで、編集工学研究所では「電子図書街」のプロトタイプ開発がはじまったそうである。(2010年時点の話なので、今では電子図書街は完成しているかも)ネットでそのあたりについて探してみました。2012/11/15知の巨人・松岡正剛氏構想の図書街は東京ドーム6個分の広さより 今回もいうなれば「書店の編集」だ。棚の並びや人の流れなど、一店丸ごとの編集作業の一部始終が、本書には惜しみなく開示されている。例えば1階入り口からエスカレーターを乗り継いで行く動線一つとっても、実に周到に計算されている。そして松岡氏は一見物理的な動線を引くかに見せて、訪れた人の“思考の動線”まで、絶妙にコントロールしていたりするのだ。「元々は本書にも載せた、僕がかねてから構想を練ってきた〈図書街〉が原型にある。本の棚が各々連関しながら四通八達する、新アレクサンドリア〈知の神殿〉にも似た巨大都市です。ただしこれを実現するには東京ドーム6杯分は土地が要る(笑い)。今回のスペースは65坪でしたから、その超ミニチュア版です」 とはいえ、4万~5万冊は棚に入るという広大な本の世界。…電子図書街この記事も松岡正剛の世界2に収めておきます。
2015.08.23
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図書館で『世界から猫が消えたなら』という本を手にしたが・・・今でも本屋の店頭に並ぶ、息の長いベストセラーではないか♪大使は猫好きでもあるし、ベストセラーという本に興味もあるし、コレコレということで借りたわけです。【世界から猫が消えたなら】川村元気著、小学館、2014年刊<「BOOK」データベース>より郵便配達員として働く三十歳の僕。ちょっと映画オタク。猫とふたり暮らし。そんな僕がある日突然、脳腫瘍で余命わずかであることを宣告される。絶望的な気分で家に帰ってくると、自分とまったく同じ姿をした男が待っていた。その男は自分が悪魔だと言い、「この世界から何かを消す。その代わりにあなたは一日だけ命を得る」という奇妙な取引を持ちかけてきた。僕は生きるために、消すことを決めた。電話、映画、時計…僕の命と引き換えに、世界からモノが消えていく。僕と猫と陽気な悪魔の七日間が始まった。2013年本屋大賞ノミネートの感動作が、待望の文庫化!<大使寸評>著者の経歴を見ると、映画プロデューサーとして『電車男』『悪人』など製作したそうだが、本書が初の著作だそうです。それが大ヒットしたのだが、天才肌の新人なのかも♪この本はエッセイ集とも小説ともとれる編集になっていて・・・読みやすくて気がきいているのです。なお、借りたのは2012年刊のハードカバーです。rakuten世界から猫が消えたなら医者の診断は、脳腫瘍、ステージ4、余命は1週間後すらあやしいとのこと。そして、冒頭あたりから、アロハシャツを着た、ため口の悪魔が登場してきます。<月曜日>p23~25 「リンゴの実?」 「ええ、彼らが住んでいたエデンの園ではね、何食べても何やっても良くて、しかも不老不死だったわけですよ。でもそのふたりが唯一やっちゃいけないことがあったんです。それが“善悪の知識の木”になっているリンゴの実を食べることだったんです」 「なるほど」 「でもねアタシがけしかけたらね、おふたりさん食べちゃったんすよー」 「ひどい。さすが悪魔」 「まあまあ。そんで、アダムさんとイブさんは楽園を追放されて、人間は不老不死ではなくなり、争いと奪い合いの途方もない歴史がはじまったというわけなんです」 「悪魔だなあー」 「いやいやそれほどでも。そんで神さん、途中で自分の息子さん・・・イエスさんを地球に送り込んだりしたんだけど、それもなかなか人間の反省を促しきれずにですね。あげくの果てにイエスさんを殺してしまうという・・・」 「そこらへんは知っています」 「そんで、そのあとも人間はどんどん勝手にいろんなものを作っていったわけですよ。いるかいらないか分からないものをそれこそ際限なくね」 「なるほど」 「だからアタシ提案したんすよ、神さんに。アタシ地球に降りて、何がいるか、何がいらないか、人間に決めさせてもいいですかと。それでね、神さんと約束したんすよ。人間が何かを消したら、その代わりにそいつの寿命を1日延ばしてやるって。その権利をもらったんです。でね、いろいろ探しているわけですよ。取引する相手をね。いままでもいろいろな人と取引をしてきました。本当にいろいろな人がいました。ちなみにあなたは108番目です!」 「108番目?」 「そう!意外と少ないでしょう。世界でたったの108人。あなたはとんでもなくラッキーボーイなわけです!世界から何かひとつを消すだけで、1日寿命が伸びるわけですからね。いいでしょ?」 あまりに唐突な提案に頭が混乱した。バカバカしすぎる。まるで通販番組のキャンペーンのような提案だ。こんな軽いノリで命が簡単にもらえるはずがない。だが、信じるか信じないかは別として、とにかく乗らない賭けではない。どうせ死ぬのだ。怖いものも、失うものもない。主人公とアロハ(悪魔)のやり取りがあって・・・いちばん最初に電話(特に携帯電話!)が消えることになります。ネタバレになるけど【目次】に消える事物が載っています。・・・怖い。・火曜日:電話・水曜日:映画・木曜日:時計・金曜日:猫・土曜日:僕
2015.08.22
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先日、『のろのろ歩け』という中篇小説集を読んで良かったのだが・・・中島京子が「河合速雄物語賞・学芸賞」の物語賞を受賞したと、新聞に載っていました。・・・河合速雄物語賞とは西加奈子も受賞した渋い賞である♪なかなかいけてるやないけ。でこの際、中島京子関連を集めてみます。・現実の中に非論理性・のろのろ歩け・小さいおうち<現実の中に非論理性>中島京子さんが小説「かたづの!」で第3回河合隼雄物語賞を受賞したそうです。・・・なかなか、渋い賞ではないか♪2015/7/16現実の中に非論理性―物語賞・中島京子さんより心理学者で元文化庁長官の故・河合隼雄さんの業績を記念した第3回河合隼雄物語賞・学芸賞(河合隼雄財団主催)の授賞式が7月に京都市内であった。 人の心を支えるような物語を作り出した文芸作品に与えられる物語賞に選ばれたのは、作家の中島京子さん(51)の小説「かたづの!」(集英社)。江戸初期の南部藩に実在した女性領主の苦難の人生を、彼女が少女期に接した羚羊(かもしか)の一本角の視点から描いた物語だ。 中島さんは「物語というものが事実に見える何かより、ときに深く真実を照らしてくれると信じさせてくれたのが河合先生。受賞はうれしい」とあいさつした。 選考委員の作家、小川洋子さんは「理屈に合わない、時に馬鹿げた視点で物事を見ることで、現実の中の非論理的なものが見えてくる。角の言葉を聞く耳を持ち、事をややこしくするのは男の論理と思っている女性のキュートな魅力が小説を支えている」と評した。しかし、ま~、アラファイブという年齢が、エアーポケットというか、渋いというか、なんともビミョーである。【のろのろ歩け】中島京子著、文芸春秋、2012年刊<「BOOK」データベース>より『北京の春の白い服』-1999年、中国初のファッション誌創刊に向けて派遣され北京で奔走する夏美。『時間の向こうの一週間』-2012年の上海、赴任したばかりで多忙な夫の代わりに家探しを引き受けた亜矢子。『天燈幸福』-「台湾に三人おじさんがいるのよ」という亡き母の言葉を手がかりに旅に出た美雨。時間も、距離も越えて、新しい扉をひらく彼女たちの物語。<読む前の大使寸評>中島京子の小説ならいけてるのではないか…映画の『小さいおうち』も良かったし。rakutenのろのろ歩けのろのろ歩けbyドングリ【小さいおうち】山田洋次監督、2013年制作、2015年3月1日テレビで鑑賞<movie.walker解説>より第143回直木賞に輝いた中島京子の同名ベストセラー小説を、名匠・山田洋次監督が映画化したミステリアスなドラマ。とある一家で起きた恋愛事件の行方を見守った1人の女中。60年後、彼女がつづったノートを手にした青年によってその出来事が紐解かれていくさまが描かれる。女中を黒木華、一家の若奥様を松たか子が演じる。<大使寸評>雇い主に対するたったひとつの背信を抱えて、その女中は生涯を終えたのです。彼女の生き方を定めたのは、女中という雇用環境と戦争という時代背景があったわけで・・・結婚するには、社会的環境が整っていなかったと言うべきか?movie.walker小さいおうち小さいおうちbyドングリ
2015.08.22
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日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・武器ビジネス マネーと戦争の「最前線」(上・下)・下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 ***************************************************************武器ビジネス マネーと戦争の「最前線」(上・下)より<秘密主義の闇、かき分ける執念:吉岡桂子(本社編集委員) > 執念に満ちた力作である。 原題は『THE SHADOW WORLD(影の世界)』。戦争や紛争に影のようにつきまとう武器の取引は、安全保障の名のもとで国家権力に覆い隠されるだけでなく、武装勢力やテロ組織など非公式な集団の暗闇にあって見えにくい。「金と腐敗と欺瞞と死のパラレルワールド」では、合法と非合法の境目があいまいで、あやしげなディーラーも暗躍する。 この本は、その闇をかき分けて、誰がどのように携わり、利益を得て、その果てに起きている現実を説き起こすことに挑んだノンフィクションだ。南アフリカの国会議員だった著者は、同国軍の武器購入をめぐる収賄事件の調査を上層部から止められたことに抗議し、2001年に辞職する。その後、10年以上かけて集めた数十万ページの記録や公文書をもとに執筆した。 舞台の中央にいるのは、英米だ。 世界的な軍需大手、英BAEシステムズが大口顧客であるサウジアラビアの契約を得ようと、王族に賄賂をおくった疑惑をめぐる記述はドラマを見るようだ。80年代のサッチャー政権下での戦闘機の取引にかかわる贈収賄事件は、司法やメディアの手で表面化したものの、ブレア政権の06年、捜査は打ち切られた。その後の展開を含めて、この世界の真実に迫ることの困難さを思い知る。 さらに、第2次世界大戦を経て生まれた米国の「軍・産業・議会」複合体が、「回転ドア」と呼ばれる天下りシステムで巨大な力を拡大しながら、世界の紛争に油を注いで稼ぐ姿が丹念に描かれる。 著者は、武器取引につきまとう秘密主義は、腐敗や国家安全保障上の不適切な選択をも「おおい隠す」と指摘する。読み終えて、「武器輸出三原則」を昨春に撤廃した日本を思った。このぬかるみにひきずりこもうとする力は、どこから来たのだろうか。 ◇アンドルー・ファインスタイン著、原書房、2015年刊<「BOOK」データベース>より「もっとも危険なベストセラー」日本上陸!戦場を駆ける伝説の武器商人から「特別な」物流システム、そして政財界を動かす武器マネーの流れまで。【目次】第1部 二番目に古い職業(手数料の罪/ナチ・コネクション)/第2部 手に入ればすばらしい仕事(サウジ・コネクション/人道を守るため/究極の取引、それとも究極の犯罪?/ダイヤモンドと武器/バンダルに取り組む/そして、誰も裁かれない?)/第3部 平常どおり営業(なにもかもばらばらにー“BAE”の力で/壁以降ー“BAE”式資本主義/究極のいいのがれ)<読む前の大使寸評>サウジ・コネクションか・・・金持ちサウジアラビアが、“世界の迷惑”になった感があるな~。吉岡桂子委員の推す本であれば、いい本だと思います。ちょっと無責任な寸評かもしれないが、それだけ吉岡委員を信頼しているわけです。<図書館予約:とりあえずカートに入れておこう>rakuten武器ビジネス マネーと戦争の「最前線」(上・下)下流老人 一億総老後崩壊の衝撃より<「若者VS.老人」の構図ではなく:荻上チキ(「シノドス」編集長・評論家) > インパクトのあるタイトルだ。下流老人とは「生活保護基準相当で暮らす高齢者およびその恐れがある高齢者」とのこと。 昨今なにかと「若者VS.老人」といった構図を見かけるが、本書を手に取ると、その図式の大体が雑だと分かる。裕福な老人も多数いる一方で、貧困な老人も多い。単身世帯の場合、男性は4割近くが、女性は5割以上が相対的貧困となっている。 医療、介護のニーズは、若者にとっても明日は我が身。備えていたつもりでも、自身や家族の病気によって貯蓄を切り崩し、貧困状態に陥るパターンも頻繁に発生している。 著者は、貧困対策を行うNPO活動の経験から、具体的なケースと統計データを駆使し、高齢者の置かれている貧困実態を活写する。貧困老人を「飼い殺し」にする貧困ビジネスの実態などにも触れながら、ナショナルミニマムの再構築を訴えているが、他方で個人として必要な「備え」も列挙している点などは、現場経験を持つ著者ならでは。 ◇藤田孝典著、朝日新聞出版、2015年刊<「BOOK」データベース>よりまもなく、日本の高齢者の9割が下流化する。本書でいう下流老人とは、「生活保護基準相当で暮らす高齢者、およびその恐れがある高齢者」である。そして今、日本に「下流老人」が大量に生まれている。この存在が、日本に与えるインパクトは計り知れない。【目次】第1章 下流老人とは何か/第2章 下流老人の現実/第3章 誰もがなり得る下流老人ー「普通」から「下流」への典型パターン/第4章 「努力論」「自己責任論」があなたを殺す日/第5章 制度疲労と無策が生む下流老人ー個人に依存する政府/第6章 自分でできる自己防衛策ーどうすれば安らかな老後を迎えられるのか/第7章 一億総老後崩壊を防ぐために<読む前の大使寸評>下流老人とは俺のことか?・・・とにかく、インパクトのあるタイトルである。図書館で借りるか、買って読むか?ちょっと悩ましいのだ。<図書館予約:未>rakuten下流老人 一億総老後崩壊の衝撃**************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本朝日デジタルの書評から74
2015.08.21
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久々にくだんの2本立て館に繰り出したが・・・・今回の出し物は「ANNIE アニー」と「グッド・ライ」であり、館主の設けたテーマは「家族以上の絆」となっています。毎度のことながら、館主のセンスには感心しているのですが・・・・今回のテーマは大使に言わせたら「アメリカの光と影」になるんですけどね。【ANNIE アニー】ウィル・グラック監督、2014年、米制作<Movie Walker映画解説>よりトニー賞受賞など日本でもおなじみのミュージカルを、ウィル・スミスとジェイ・Zがプロデュースを担当し映画化。失踪した両親を探しながら前向きに生きる少女がニューヨーク市長を目指す男や周囲の人々に勇気と希望を与えていく。アニーを演じるのは史上最年少でアカデミー賞候補になった『ハッシュパピー バスタブ島の少女』のクヮヴェンジャネ・ウォレス。<大使寸評>里親の家で暮らす少女たちを描くミュージカルであるが、貧しい集団を描いたミュージカルといえば『ウェストサイド・ストーリー』を彷彿とするのです(ちょっと違うか)数人の里子を養って暮らせるとしたら、これは一種の貧困ビジネスであるが・・・日本で成り立つだろうか?おっと、冗談はさておいて・・・里親を演じる女優のキャラクターがメッチャ面白いのである♪ニューヨーク市長選挙、里親制度などを通じて、アメリカ社会をコミカルにそしてシニカルに描いているが・・・ハリウッドの暴力映画に見切りをつけた大使も、このミュージカルならええでぇ♪と思った次第です。Movie WalkerANNIE アニー【グッド・ライ】フィリップ・ファラルドー監督、2014年、米制作<Movie Walker映画解説>より両親と住む場所を失い、難民となった3600人ものスーダンの若者たちを全米各地に移住させた、80年代の実話を基にした人間ドラマ。言語も文化も異なるスーダンの人々と彼らを就職させようと奮闘するアメリカ人との絆を描く。監督は『ぼくたちのムッシュ・ラザール』でアカデミー外国語映画賞候補になったフィリップ・ファラルドー。<大使寸評>アメリカの難民受け入れ制度がよく分かる映画になっています。アメリカに移住したスーダン難民にとって、スーダンとアメリカでは生活の落差が大きすぎるので適応するのが大変のようですね。一方で、日本は難民受け入れに最も渋い国の一つなんだが・・・・条件をを緩くすると、独仏のように国内に紛争を取り込むこ恐れがあるわけです。とにかく、その扱いは難問である。Movie Walkerグッド・ライ2本ともアメリカ映画というのがちょっと気にくわないが、暴力的でない組み合わせならいけてるんじゃないかという、やや消極的なチョイスであったが・・・・反米の大使が見ても、まあまあの映画でした。(とにかく、館主のチョイスに外れはないのです)パルシネマ上映スケジュール
2015.08.20
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「辺境」でしょうか♪<市立図書館>・わたしのブックストア・あやしい日本語学校・アンナの工場観光・売国奴<大学図書館>・少数民族の染織文化図鑑・木版画テクニック図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【わたしのブックストア】北條一浩著、アスペクト、2012年刊<「BOOK」データベース>より店主が3人もいる京の町家書店。青山の一等地で、120年続く本屋の新たな試み。亀が8匹、顕微鏡もある本屋って!?呑みながら読める、極上の古本酒場。新感覚ブックストアガイド。【目次】ありふれた石の中に宝石が混じっているー古書コンコ堂(東京・阿佐ケ谷)/自由と平熱と本とお茶ーbook cafe 火星の庭(宮城・仙台市青葉区)/南口を出たら、すぐ幸福ー幸福書房(東京・代々木上原)/名もなき手から誰かの手にー古書玉椿(東京・聖蹟桜ヶ丘)/インタビュー ピース・又吉直樹さん「人でも学校でもない。本屋で自分の地図ができました。」/デッサンはアクションーdessin(東京・中目黒)/きょうも町家で、日替わり店番ー町家古本はんのき(京都・堀川寺之内)/地域の人も外の人も。みんなが好きな町の本屋ー往来堂書店(東京・千駄木)/通りの音がスッと消えて、木の床がギッと鳴るー古書音羽館(東京・西荻窪)/book cafe〔ほか〕<読む前の大使寸評>3年前発刊の本であるが、又吉直樹さんのインタビューが載っています。当時から異色な本好き芸人だったようです。この本に、飲み屋兼の古本屋が載っていたが・・・ビックリしたでぇ♪rakutenわたしのブックストアわたしのブックストアbyドングリ【あやしい日本語学校】吉武保子著、ビジネス社、1995年刊<「BOOK」データベース>よりボランティアの主婦が見たニッポンの中のアジア。憧れの国にやってきた留学生たちの夢の行方は。日本語教師になったお母さんの国際貢献奮戦記。<読む前の大使寸評>日本語学校というものが、犯罪予備軍のように怪しいのだろう・・・・いずれにしても言語学的にも興味深いのです。rakutenあやしい日本語学校あやしい日本語学校byドングリ【アンナの工場観光】(画像は1999年刊文庫本)荻野アンナ著、共同通信社、1995年刊<「BOOK」データベース>よりアンナ様ご一行、爆笑のアヤしい工場ルポ道中。【目次】一万円鳴く、大蔵省印刷局/古都マネキン夢巡行/魔女の大釜を訪ねて/改造車に金の竜/雷様のおせんべい/山形シャンパンは、和魂洋酒/「わー、プロ」のワープロ/セ・シ・サンプル/愛とバイオの松阪豚/夢を乗せて飛ぶ魔法瓶/セーラー服にフグにカキ/海の向こうのゴミ砂漠<読む前の大使寸評>歩くダジャレのようなアンナの工場ルポがええでぇ♪世の中すべてが面白く見える偏向メガネでもかけているのでしょうか。rakutenアンナの工場観光アンナの工場観光byドングリ【売国奴】黄文雄×呉善花×石平著、ビジネス社、2007年刊<「BOOK」データベース>より内からではなく外から見た日本は、古代からすでにさまざまな見聞や研究で語られ、また論じられてきている。しかし戦後の日本については外からの誤解や曲解も多く、ことに「反日」論はむしろ言論界の主流のひとつといえないこともない。では日本とは、日本人とは、いったいどう見られているか。より多くの視点から探るために、黄文雄氏と呉善花氏、石平氏と三人での鼎談という形で語る。論題としては天下国家から民族、歴史、文化、そしてなぜ「反日」なのか、についても取り上げる。<読む前の大使寸評>このお三方とも、故国では売国奴と罵られるが・・・日本ではヒットメーカーとして肩で風を切っています。三方とも本音炸裂で、わりと爽やかでおます。rakuten売国奴売国奴byドングリ【少数民族の染織文化図鑑】カトリーヌ・ルグラン著、柊風舎、2012年刊<「BOOK」データベース>より伝統的な織物に魅了された著者が、各地を訪ね、衣服や装飾品の多様性や、人々の生活に密着した染織技術を記録。模様や色、形に込められた意味や民間伝承も紹介。衣服や装飾品はもとより、染色工房の親方や針仕事にいそしむ女性たちなど、少数民族ならではの生き生きとした表情をとらえた約700枚のカラー写真を掲載。イラスト画で民族衣装の細部を解説。巻末に用語解説、索引を付記。【目次】ベトナム、ラオス、タイ いろいろな民族、いろいろなスタイル/丹精こめたプリーツと息をのむ藍のブルー/ステッチのことば/重要な細部/オリッサ、ラジャスターン、グジャラート インドの多彩な色/インドのプリント布/星、ストライプ、ミラー/メキシコとグアテマラ マヤ系のモザイク/アイデンティティの糸/どの人もみな優美〔ほか〕<読む前の大使寸評>重たい大型本であるが、豊富なカラー画像と14,040円(税込)という価格に圧倒されるのです。rakuten少数民族の染織文化図鑑少数民族の染織文化図鑑byドングリ【木版画テクニック】林和一著、日貿出版社 、2006年刊<「BOOK」データベース>より木版画の材料、道具、技法を見渡すと、日本の風土や自然が育んだ、日本人の思考様式の一端が見えてくるようです。本書では伝統的な板目木版画の技法を踏まえ、材料、道具、制作過程の説明などをしていきます。【目次】第1章 木版画の魅力(木版画の基礎知識/works・木版画のいろいろ)/第2章 彫りの道具と材料(版木/彫刻刀 ほか)/第3章 摺りの道具と材料(版画紙/版画紙の扱い方 ほか)/第4章 制作の実際(制作の前に/実技1・ミミズク ほか)<読む前の大使寸評>暇な大使は、水彩画または木版画にチャレンジしようと目論んでおるわけです。rakuten木版画テクニック*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き110
2015.08.19
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『イスラム国』の著者ロレッタ・ナポリオーニさんがインタビューで「一種の偽装国家、実態以上の存在に」と説いているので、紹介します。図書館で借りた『イスラム国』が良かったので、過去に遡って、この記事を読んでみたのです。(ロレッタ・ナポリオーニさんへのインタビューを3/18デジタル朝日から転記しました)日本人人質2人が犠牲になるなど、残酷な行為によって私たちの目を引くようになった過激派組織「イスラム国」(IS)。だが、その破壊的な側面にだけ目を奪われていると彼らの本質を見失うと指摘する論者が欧州にいる。日本は、そして国際社会は、どうISと向き合うべきなのか。考えを聞いた。Q:あなたは、国家建設をめざす組織である点こそがISの最大の特徴だと指摘していますね。A:これまでのテロ組織とISとの最大の違いは、地元住民との合意を積極的に形成しようとしている点にあります。客観的に見ても、彼らは地理的に大きな領域を『国家』として経営し、収入を得ています。 例えば『首都』と定めたラッカ(実際にはシリア領内)では、長年の紛争で破壊された水や電気といった社会基盤を整備しています。交易市場を整え、ヤミ市場で不当な利益を得る者が出ないように価格を監視しました。児童へのポリオワクチン接種も実施しました。ある種の近代性を持って、統治にあたっているのです。 だからといって、彼らに国家として正統性があるわけではありません。でも彼らと戦おうというのなら、正確な定義が必要です。一種の『擬装国家』である面は見逃せません。武装組織が『国』を作ろうとした先例として、かつて私が調査した中では、パレスチナ解放機構(PLO)がありますが、ISは今、より大きな地域を支配しています。Q:ISはイスラム法に基づく法廷も設立しました。A:紛争下で法と秩序が消え、正義を求め、不満を申し立てる場がなくなってしまったからです。イスラム法の厳格な適用は多くの人に確かに残酷と映ります。例えば殺人で有罪となった者の磔(はりつけ)。ただ、実際にイスラム法に規定された刑罰です。 ■ ■Q:そもそも何がISを生んだと考えていますか。歴史的にみて、欧州列強による植民地支配に責めを負わせる声もあります。A:中東の地図が西欧列強によって書き換えられたことは、この地域では誰もが指摘することです。西洋の利益で引かれた国境線は、中東の人々の利益は反映されませんでした。 だからこそISは、植民地支配に根ざした国境の破壊を目標に掲げたのです。もちろん、国境線を流血によって引き直すのは正しくありません。でも『アラブの春』が結局失敗に終わり、政治的分断が起こった中東では、民主的手段による変革が事実上成功しなかった現実があります。その落胆が中東の民衆のIS建国への期待につながりました。 ISにとっては2010年、イラクで存亡の危機に直面した際、紛争が起きたシリアへ向かったことが転機となりました。私は、シリアでISに代理戦争を戦わせようとアラブ諸国、特にサウジアラビアが陰で資金を出したとみています。そうした国にとって、今やISはフランケンシュタインとなりました。Q:ISによって日本人の人質も犠牲になりました。事件を巡る日本政府の対応をどう見ますか。A:文明社会のルールに従って行動し、なおかつ身代金を支払いたくないというのであれば、人質が殺されるのを防ぐ方法が必要でした。身代金を支払わないという決定は、世界中のあらゆる国がそれに従うのなら効果があります。しかし現実には、例えばイタリア政府は支払っていると報じられています。そうした政府が表立って認めることは決してありませんが、人命には値段が付けられないから最後に支払うケースが出てくるのです。 ISは純粋な経済的必要性というより、対IS有志連合の弱点をつく目的から身代金を要求しています。身代金を支払った国の人質は解放され、そうしなかった日本の人質は犠牲になる状況を作ることで、有志連合の弱さ、不公正さを見せつけようとしています。 そもそも、日本人がISに拘束されたことが分かっていたのに、安倍晋三首相がなぜIS対策として2億ドル拠出を表明したのか。私には理解できません。率直にいって、大きな政治的過失だったと思います。Q:安倍氏が表明したのは人道支援で、それを問題視するのは筋違いではありませんか。A:真に人道的なことをしたいのなら、シリア難民受け入れを表明するとか、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に支援をするとか、ほかの道があります。民主的な選挙で選ばれた政府に代わってできたエジプト軍事政権の前で、資金拠出を表明する必要はありませんでした。 安倍首相はISの政治的な能力や知識を過小評価していたのではないですか。ISにとって、日本人人質事件は自分たちの力を世界中へさらに売り込む手段でした。日本国内でもISへの感情的な反応が生み出され、彼らにとっては驚くほど都合の良いPRになったのです。Q:格好のタイミングで、日本もISに利用された、と。A:身代金要求は挑発であり、挑発を受けた段階で、日本政府にできることは何もありませんでした。最初は『72時間以内に2億ドル』という要求でしたが、そんな大金をそんな短時間に支払うことはそもそも不可能でした。パイロットが犠牲になったヨルダンは紛争への一層の関与を余儀なくされ、今やエジプトもそうです。ISは、中東全体に戦闘の混乱が広がることを望んでいるのです。混乱に乗じて自分たちの権力基盤を確立できるからです。 ■ ■Q:事件を受けて、日本は今後どう進むべきだと考えますか。A:最善の道は局外にとどまることです。2人の人質を殺されたことは悲劇ですが、私なら報復はしません。ISを巡る状況を作ったのは、日本ではなく、私たち欧州と、その同盟国で、イラクに侵攻した米国なのです。欧米が始末をつけなければならない問題です。 ISへの対抗姿勢を明確にした人道支援表明の背景に、安倍氏の憲法改正への意欲があったという理解が国際社会に広まっています。首相は日本国民の代表としてそこにいるのであって、独裁者ではない。国民の総意に基づかずに、どんな形の関与も表明するべきではなかったのです。これまでなら、政治責任が問われたのではないですか。Q:欧州でも、イスラム国への恐怖は最近、格段に高まりました。A:ISのローマ侵攻を心配する報道までありますね。私たちは欧州でISができることを過大評価し、中東での脅威を過小評価しています。実際にすべきこととは正反対です。 私たちがISが残酷な組織だと強く感じるのは、初めてソーシャルメディアを通じてそれを見せられているからでもあります。フェイスブックやユーチューブは、ごく最近の現象で、ISはそれらをフルに活用する最初の過激派組織になりました。 残酷な映像を見せられれば見せられるほど、彼らを絶対的で大きな存在と感じてしまいます。映像が彼らの持つ力を実態以上に増大させる。彼らはそういうメディアの性質をよく理解しています。だからこそ私たちはISの幻想を解体する作業を始めなければならないのです。 実際の脅威は中東にあることを見つめ直す必要がある。空爆を実施していますが、一般市民が犠牲になります。子供が1人死ぬごとにIS加入志願者が10人増えるでしょう。 ■ ■Q:国際社会全体が考えねばならないことも、その点ですか。A:出発点は、空爆をはじめとする軍事介入は無効だという認識だと思います。欧州を守るため、中東での『新たな植民地支配』を試みようとしても、それは地上軍部隊を現地に派遣し、今後30年は駐留を続けることを意味します。現実には欧米の世論は決して受け入れません。 中東のことは中東の人々にまかせることです。彼ら自身に政治変革の方向決定や地図の書き直しを委ね、そして中東の政治的再編を認めようとするべきです。例えばエジプトで再び政変などが起きた場合、2年前、軍事政権を支持したような動きを二度としてはなりません。 ISに対して、19世紀のような古典的な秘密外交が必要でしょう。外部に知られることのないように、IS支配地域で支持に回った部族勢力などとひそかに関係を築き、ISがどう動こうとしているか着実に把握するのです。ISは極めて狡知で、メディアの扱いもたけている。そのように動いて初めて、封じ込めに近づくことができるでしょう。 *Loretta Napoleoni:ジャーナリスト、対テロ・資金洗浄問題コンサルタント 1955年ローマ生まれ。米英で経済学、国際関係論を学び、テロ組織を研究した著作を発表。近著「イスラム国 テロリストが国家をつくる時」(文芸春秋)。<取材を終えて> ISに対して、日本は局外にとどまるのが最良の選択、とナポリオーニ氏は断言する。その根底にあるのは長年対テロ専門家として、過激派組織を主に資金調達という下部構造の面からみてきた客観的視点だ。実際にはすでに関与は不可避とも思えるが、軍事介入への加担に前のめりに傾斜するのも、後ろ向きに弱腰になるのも、いずれも感情にとらわれた対応であり、上策ではないだろう。固定概念やイメージにとらわれず、ISを冷静に見つめ直す出発点として、耳を傾けるに値する。(ヨーロッパ総局長・梅原季哉)国際ジャーナリストでもあるナポリオーニさんから見ると、日本人人質事件で示した安部さんや日本政府の不手際が一目瞭然だったようです。あまつさえ、独裁者と非難されては・・・安部さんも形無しでんな。IS 本質を見極めるロレッタ・ナポリオーニ2015.3.18ナポリオーニさんの『イスラム国』という本を先頃読んだのだが、なかなのジャーナリストだと思うのです。【イスラム国】ロレッタ ・ナポリオーニ著、文藝春秋、2015年刊<「BOOK」データベース>より対テロファイナンス専門のエコノミストが放つまったく新しい角度からの「イスラム国」―。多頭型代理戦争の間隙をつき、領土をとり、いち早く経済的自立を達成した「イスラム国」は、テロリストがつくる史上初めての国家となるのか?<読む前の大使寸評>「イスラム国」の自爆トラック作戦に、クルド人部隊も苦戦しているようです。今後のシリア戦線の行方は、展望が開けるのか?<図書館予約:(2/25予約、7/29受取)>amazonイスラム国イスラム国byドングリこの記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2015.08.18
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図書館で『アンナの工場観光』という本を手にしたが・・・・歩くダジャレのような荻野アンナの工場ルポがええでぇ♪世の中すべてが面白く見える偏向メガネでもかけているのでしょうか。【アンナの工場観光】(画像は1999年刊文庫本)荻野アンナ著、共同通信社、1995年刊<「BOOK」データベース>よりアンナ様ご一行、爆笑のアヤしい工場ルポ道中。【目次】一万円鳴く、大蔵省印刷局/古都マネキン夢巡行/魔女の大釜を訪ねて/改造車に金の竜/雷様のおせんべい/山形シャンパンは、和魂洋酒/「わー、プロ」のワープロ/セ・シ・サンプル/愛とバイオの松阪豚/夢を乗せて飛ぶ魔法瓶/セーラー服にフグにカキ/海の向こうのゴミ砂漠<読む前の大使寸評>歩くダジャレのようなアンナの工場ルポがええでぇ♪世の中すべてが面白く見える偏向メガネでもかけているのでしょうか。rakutenアンナの工場観光どの工場も共同通信の小山氏が厳選しているので、面白いのだが・・・そのなかで食品サンプル工場を見てみましょう。p223~226<サンプル・イズ・ベスト> 日本に旅行したことのあるフランス人が、目を輝かせて東京の話を始めた。最初に口をついて出た固有名詞は、何だと思いますか。上野?浅草?明治神宮? 彼女はひとこと、こう叫んだのである。 カッパバシ! トレビアン!! 「ロウ細工のいろんな食品がずらりと並んでいて、壮観だった」そうな。観光のついでに、合羽橋の問屋さんで食品サンプルを土産に買っていく外国人は、結構多いらしい。 その心境、わからないでもない。日本はラジカセにウォークマンだけではない。食品サンプル技術でも、世界一を誇る。他にそんなもの作る国がほとんどない、という孤独な世界一ではある。 「そんなもの」とはあんまりな、と食品サンプル業界はおっしゃるかもしれない。しかし私の「そんなもの」には共犯者的な好意と共感がめいっぱいこめられているのである。 なくても全然困らないけど、あると楽しい。心が潤う。文学も食品サンプルも、その意味では同じ範疇に属すると、いえなくもない。現実をきわめてリアルに摸倣すればするほど、そこはかとない幻想味が漂い、食欲をそそるのに、煮ても焼いても食べられない。ある種の小説やノンフィクションに、通じるものがある。 魅力的なニセモノは、それなりに市民権を得たようである。ここ数年は、ミニチュアのすしやパフェや目玉焼きが、イヤリングやキーホルダーに化けて、ファンシーショップに並ぶようになった。そそられる。けれども、手が伸びない。ミニチュアよりは本物のほうが、といっても本物自体ニセモノなわけだが、やはり迫力において勝っているからだ。 サンプルは欲しいが、カッパバシは遠い。半分あきらめていたところに、今度の取材である。渡りに船と、業界の老舗「イワサキ・ビーアイ」の、池上工場に参上した。<島津の末裔> 食品サンプルは、なぜ他の国になくて日本にあるのか。他の国に岩崎さんがいなかったからである。三代目の岩崎毅専務に、サンプル誕生にまつわる社内の「伝説」をうかがった。 時は昭和の初め。先々代が街歩きの途中で、ふと歩みを止めた。店先に、奇妙なものが置かれてある。食品の模型である。おそらくは木製だっただろう、と言われている。 江戸時代から、木製の人体模型を作る技術は存在していた。これを見て島津製作所が作った模型が、問題のモノであったらしい。しかしレストランに模型を並べる習慣のなかった当時、何のために作られたのだろうか。謎は残るが、とにかく目にした先々代は叫んだ。 「よし、これでいこう!」 聞いていた小山さんが「おおっ」と声を上げた。以前に訪問したマネキンの七彩は、島津の流れをくむ。つまりマネキンと食品サンプルは、そうと知らずに別々に世を渡っていた異母兄弟、ということになる。 「マネキンの後で食品サンプルの取材、というのは、出来すぎた偶然ですね」 「取材の円環が閉じられてきましたね。われわれの意図を越えて奥が深い。この企画は成功ですよ」 勝手な解釈に自己陶酔のわれわれを尻目に、伝説は続く。 偶然の出会いから、食品模型を一生の仕事と決めた先々代であるが、製作の技術や素材に関して、悩む日々を送っていた。 停電の夜のことである。部屋の暗闇に灯したロウソクのロウが、時間の経過とともに、たらーり、たらーりと垂れて、畳に溜まった。 明くる日の朝、白濁したロウの固まりが畳にへばりついているのに気づいた先々代は、これを一気にひっぺがした。と、あらあら不思議。はがしたロウの裏側は、鮮やかに畳の目をひろっているではないか。先々代二度目の「これでいこう!」で、食品サンプルの材料はロウと決まった。ちなみに、食品サンプルの現状をメーカーさんのHPで見てみましょう。日本サンプルHPより 食品サンプルは、日持ちのしない食べ物を日持ちする素材を使って、リアルに再現する食べ物のニセモノです。 以前は、食品サンプルの素材に着色しやすいロウ(パラフィン)を使用していましたが、退色や変形の問題が多く、現在ではプラスチックや、シリコン、ウレタン系素材等、あらゆる耐久素材を使用し製作されています。 次はロケット工場です。比較的ダジャレが少なくて、真面目なレポートになっています。<宇宙の遠足をめざして>p293~297 直径5メートルの油圧隔壁は、工場の床から天井まで届く。カメラの絞りが異常増殖した感じ。見ていて大きさの感覚が麻痺してきた。それでもH2の部品が目の前に並ぶと、とたんに蟻になった自分を感じた。 映画でいうならフェリーニの世界。巨大なハリボテに埋め尽くされた幻想空間である。 ギリシャ神殿の円柱を黄土色に塗り込めたようなものが2本、横並びで寝そべっている。間には、スカートを広げたかたちの金属の円錐がはさまっている。 円柱が液体タンクで、円錐がエンジン。エンジン→タンク→エンジン→タンク、と並べてある。順番通りにカバーでつなげていけば、二段ロケット一丁上がり、となる。 ちなみにH2の全長は、約50メートル。部品の端から端まで駆けると、50メートル走になる。直径4メートルと、厚さもハンパではない。円柱に架設した作業台は、二階建てになっている。 木造モルタル二階建て、という表現が脳裏に浮かんだ。たしかに二階建て。タンクの表面の、ざらついた黄土色はモルタルのイメージだ。もちろん木造ではない。アルミの地肌に、断熱材が吹きつけてある。 黄土色のざらざらは、沸点がマイナス253度の液体水素のための断熱材だった。 「魔法瓶が空飛んでるようなものですよ」 そんな、身も蓋もない。「衛星の運び屋」の後は、「魔法瓶」ときた。アポロ世代がロケットに抱く夢を、現場は見事に粉砕してくれる。 ところで、このタンクは完成品なのだろうか。完成品だという。ざらざらの上に、何か塗ったりかぶせたりしないのだろうか。しないそうだ。 納得できない。ロケットといえば白くてツルツルの、背筋の伸びた鶴のようなものではなかったか。 「白いのはジョイントのカバーです。後はこのまま剥き出しですよ」 「これが、このままで宇宙に行くんですってよ」 「と、いうことは・・・」 千絵ちゃんと、顔を見合わせる。次の瞬間には、二人揃ってロケットの腹をぺたぺたと触りまくっていた。これで、間違いなくわれわれの指紋が宇宙に届く。 なんて奴らだ、という顔で眺めていた小山さんも、最後に遠慮がちに、ちょんと指の先を押しつけた。やはり宇宙進出の誘惑には勝てなかったらしい。(中略) 見学の後の外気はすがすがしい。冬枯れの芝生で伸びをしているところに、つつ、と寄ってきたのは、エンジニアの三宅薫さんだ。背広にアタッシュケースのいでたちは、作業着姿の工場勢にあって、ひとり際立っていた。にもかかわらず、いちばん寡黙な人でもあった。解説の要所要所で、専門知識が必要になった時だけ、重い口を開いていた。 「いかがでしたか、ロケットは」 この人の「いかが」には、それこそいかが答えたらよいのだろう。理系向きに選びかけた言葉を飲み込んで、思ったままをぶつけてみた。 「きれいですね」 「そうですか」 会心の微笑みが、三宅さんの顔にさざ波のように広がっていった。 この時、私の脳裏にあったのは坂口安吾の「日本文化私観」である。安吾は法隆寺や平等院などの文化遺産を、歴史を踏まえた上で納得しなければならないような美しさであると説く。その一方で、美を意識せずに、機能本位に作られたものの中に、意外な美を露呈しているものがある、として、小菅の刑務所やドライアイスの工場を例に挙げている。 たしかに現実のロケットは、アニメで見るそれとはまるで異なっていた。優美というよりは無骨。谷崎先生や川端先生はとても褒めてくれそうにない。おまけに想像を絶する図体のデカさは、ちまちました日常の中では、ほとんど意味をなさないように見える。きっと無限の宇宙空間に昇った時、初めて真の姿が立ち現われるのだろう。
2015.08.17
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<少数民族の染織文化図鑑>図書館で『少数民族の染織文化図鑑』という本を手にしたが・・・おお 藍染めが載ってるやないけ♪ 藍染は大使のツボでもあるのです。重たい大型本であるが、豊富なカラー画像と14,040円(税込)という価格に圧倒されるのです(笑)。【少数民族の染織文化図鑑】カトリーヌ・ルグラン著、柊風舎、2012年刊<「BOOK」データベース>より伝統的な織物に魅了された著者が、各地を訪ね、衣服や装飾品の多様性や、人々の生活に密着した染織技術を記録。模様や色、形に込められた意味や民間伝承も紹介。衣服や装飾品はもとより、染色工房の親方や針仕事にいそしむ女性たちなど、少数民族ならではの生き生きとした表情をとらえた約700枚のカラー写真を掲載。イラスト画で民族衣装の細部を解説。巻末に用語解説、索引を付記。【目次】ベトナム、ラオス、タイ いろいろな民族、いろいろなスタイル/丹精こめたプリーツと息をのむ藍のブルー/ステッチのことば/重要な細部/オリッサ、ラジャスターン、グジャラート インドの多彩な色/インドのプリント布/星、ストライプ、ミラー/メキシコとグアテマラ マヤ系のモザイク/アイデンティティの糸/どの人もみな優美〔ほか〕<読む前の大使寸評>重たい大型本であるが、豊富なカラー画像と14,040円(税込)という価格に圧倒されるのです(笑)。rakuten少数民族の染織文化図鑑藍染が生活に密着した地域(ラオス、北ベトナムと中国の国境あたり)を見てみましょう。p18~21<一体化する青> 藍染の材料となる不思議な植物は数種類あり、アフリカをとおってグアテマラから日本までグリーンベルトのように世界をとり囲んでいる。この緑の植物がいったん発酵すると、無限の青を生むことになる。 東南アジアでは、国境を越えて、藍はさまざまな民族に用いられ、服装の基調色として一体性をもたらしている。ラオスのランテン(Lanten)と北ベトナムの黒モン(Black Hmong)は、どちらも少数集団であり、民族出自も言語も衣装も互いに異なっているが、藍色の青でつながっている。ここでは藍植物からその生活サイクルを紹介していきたい。<ルアンナムター峡谷のランテン女性と藍植物の収穫> 藍植物の酸っぱい匂いが、バーンナムディーに垂れこめている。かごを背負って村から出ていったり、帰ってきたり、ここは、女性たちがつねに往来し、帰りは持ち帰った植物の重荷で腰をかがめて通る拠点である。 彼女たちの歩みについていくと、いくつかの小川を渡り、サトウキビ農園をジグザグに進み、足が泥に埋まりそうな田んぼのあぜ道と悪戦苦闘し、丘の斜面を登って藍植物の栽培地へたどりつく。女性たちはそこで青いシルエットとなって、丈高く茂った緑のあいだに立ち、ナイフを手に藍の葉茎を根もとから刈りとってかごの中をいっぱいにしていく。 蒸し暑いモンスーンの季節が収穫のピークにあたる。川のそばで、女性たちがかごを降ろし中身をひっくり返すと、周囲の空気は急ににぎやかになる。緑葉のたくさんついた茎を半分に折っては桶の中に入れる一方で、すでに浸かっていた古い葉茎を河岸に投げ棄てる。 女性たちはせわしなく働き、子どもたちも手伝っているが、ときどきはしゃぎすぎて藍桶から青い水しぶきをあげている。桶の中にはさらに粉末の石灰を加える。これによって溶液の酸素含有量が増し、発酵プロセスが促進される。 その後ようやく藍染の工程に入り、古く色あせた服、木綿糸のかせ、生成りの布などを、熟成した藍桶の中に浸していく。これは2回以上、藍染の青がほぼ黒くなるまでくりかえされる。その後、染めたての布を大きな船の帆のように竹竿に吊るして乾かす。何枚も吊るされると、村がすっぽり隠れてしまうほどである。 インディゴ(藍)の中国名はランディエンであり、ランテン民族の名前に由来すると言われるとおり、ランテンの女性たちは、織りと染めの仕事を休みなく循環し、自分たちの衣類をまかなうだけでなく、余った分は、ほかの少数民族に売ったり、別の品物と交換したりする。<サパの黒モンの女性たち> サパは高地トンキンのフランス人植民者によるかつての別荘地で、ファンシパン山の間に位置し、ハノイからは380km離れ、中国雲南省の山々と国境を接している。 ここは、黒モンすなわちモンデン民族の多い土地で、女性たちはまるで藍桶に浸かったかのように全身黒ずくめである。服は濃い藍色で、銀のジュエリーがよりかがやいてみえる。彼女たちの両手は藍染の作業で青く染まり、ふくらはぎにもレギンスの藍色が染みついている。 衣類は、特有のやや酸っぱい匂いと、家の中で焚く火でいぶされた木の匂いが混じっている。山に雨が降りだし、道はぬかるみ、靴底に鉛のように重たい泥がつく。 彼女たちは、この気まぐれな雨にたいしてビニールシートで身体を包み、ナイロンの小さな傘にビニールのサンダル(または裸足)という姿で、平然とした表情である。こうした山岳地方の人々は、孤立した地域でヘンプ(大麻)、コットン、ラミー(芋麻)を栽培し、織物をこしらえてきた。 黒モンは、植え付け、収穫、機織り、染め付け、縫って服にするまで、今なお自分たちですべてを行う数少ない民族のひとつで、サパ近辺のほかの少数民族は、現代では布を買うか物々交換に頼っている。 黒モンのどこの家も、ヘンプとインディゴを育てる小さな土地を持ち、娘たちはみな母親から必要な技を習って自分の結婚式で着るズボンを織る。『西遊旅行HP』で黒モン族を見てみましょう。魅力的な旅ではあるが、先立つモノが・・・アジアの民族を知るより【黒モン族】藍染めで濃紺に染めた衣装が特徴です。サパ周辺に多く暮らし、珍しく男性でも民族衣装を着用した姿を見ることができます。 何度も染めて濃紺に仕上げた衣装は虫除けの効果があり、藍染めの上からロウを塗り重ね、光沢を出したものもあります。もうひとつ、おまけだ♪サパの黒モン族より 表布の大麻は藍に染まりやすいから深い色に、裏の木綿は染まりにくいので水色、表裏の配色は心憎いばかりだ。女の衣装はキュロットスカートに脚伴、頭に筒状の帽子を頂く。男も女も子供も、民族の服をこんなに大事に着ているのは、アジアにあっても稀有なことだろう。 かつて中国に暮らしていたモン族は、いくたびも戦渦に巻き込まれ、この地へ移り住むようになった。他民族に迎合せず、独自の文化を守り貫いてきた誇り高き人々。彼らにとって衣装は他民族と分かつしるしであり、民族の矜持そのものだから。
2015.08.16
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図書館で『わたしのブックストア』という本を手にしたが・・・・3年前発刊の本であるが、又吉直樹さんのインタビューが載っています。当時から異色の本好き芸人だったようです。東京には飲み屋兼の古本屋があるんだって・・・・やっぱり都会はすごいでぇ♪【わたしのブックストア】北條一浩著、アスペクト、2012年刊<「BOOK」データベース>より店主が3人もいる京の町家書店。青山の一等地で、120年続く本屋の新たな試み。亀が8匹、顕微鏡もある本屋って!?呑みながら読める、極上の古本酒場。新感覚ブックストアガイド。【目次】ありふれた石の中に宝石が混じっているー古書コンコ堂(東京・阿佐ケ谷)/自由と平熱と本とお茶ーbook cafe 火星の庭(宮城・仙台市青葉区)/南口を出たら、すぐ幸福ー幸福書房(東京・代々木上原)/名もなき手から誰かの手にー古書玉椿(東京・聖蹟桜ヶ丘)/インタビュー ピース・又吉直樹さん「人でも学校でもない。本屋で自分の地図ができました。」/デッサンはアクションーdessin(東京・中目黒)/きょうも町家で、日替わり店番ー町家古本はんのき(京都・堀川寺之内)/地域の人も外の人も。みんなが好きな町の本屋ー往来堂書店(東京・千駄木)/通りの音がスッと消えて、木の床がギッと鳴るー古書音羽館(東京・西荻窪)/book cafe〔ほか〕<読む前の大使寸評>3年前発刊の本であるが、又吉直樹さんのインタビューが載っています。当時から異色な本好き芸人だったようです。東京には飲み屋兼の古本屋があるんだって・・・・やっぱり都会はすごいでぇ♪rakutenわたしのブックストア飲み屋兼の古本屋があるんだって・・・やっぱり都会の古本屋は、すごい♪<コクテイル書房>よりp117~118 書、酒、茶。灯りの向こうに憩いあり ブックカフェはずいぶんポピュラーになったけれど、お酒や料理を楽しみながら、本棚をとくと眺められる店はめったにない 東京・高円寺の北中通り商店街。あたりが暗くなってくると、あちこちの飲み屋さんの看板に灯がともり、昼と夜の交代する時間がやってくる。歩いていると、いくつもの木箱に本を並べて、通りに出している店がある。ん?古本屋さんかな?でも店の構えは飲み屋のようだし、そもそもここの本は買えるのかな? そこは古本屋だし、飲み屋だし、本も買える。というのが答だ。 大正時代の建物をリノベーションしたというお店は、格子戸、カウンター、椅子、小上がり、本棚とすべて木が使われ、ここに入ってくると日常のあわただしさがきれいに流れ去ってしまう。料理のお品書きは原稿用紙に毎日、狩野さんが手書きをしていて、その中には吉田健一、武田百合子など、食や料理について魅惑的な書き物を遺した人々にヒントを得た「文士料理」がある。古本屋業界の動向について、小山力也さんと岡崎武志さんの対談を見てみましょう。<古本屋は、いつだってあたらしい>よりp90~91ブログ「古本屋ツアー・イン・ジャパン」を主宰する小山力也さんと岡崎武志さんに、最近の古本屋の動向を語っていただきました。Q:きょうは主に、ここ最近の古本屋さんをめぐる動向についてお話いただければと思っています岡崎:まず少し長いスパンで言うと、この15年でずいぶんいろいろなことが変わりました。ネット古書店が増え、ブックオフをはじめとする新古書店、それと反比例して町の、特に地方の駅前の古本屋がどんどんつぶれていく。それから、女性の古書店主が増えてきたこと。 ブックカフェや、雑貨と組み合わせるなど複合型のお店が出てきたのも顕著な傾向。Q:小山さんがそもそも古本屋まわりをはじめたのは?小山:もともとはあるバンドについて全国をまわる仕事をしていて、地方で何をしたら楽しいかと考えて、古本屋に行き始めたら面白かったんです。 しかし、そうやって外に出る機会が多くなると、ぼくはフリーでグラフィックデザイナーをしているので、その仕事が減ってくるんですね。これはやばい、どうやって食っていくかと考えた時に、「集めた古本を売ればいいんじゃないか」と。 しかしそれを始める前にもっと全国の古本屋をまわってそれをブログに書けばトピックになりかなと思って、2008年から書き始めたんですが、そっちが面白くなっちゃって、本末が転倒したまま現在に至ります(笑)。岡崎:正体が知られてない頃は、全国をまわるコンビニの指導員じゃないかとか、富山の薬売りでは?とか、いろいろ憶測があったよね。小山:ぼくがブログを始めた頃は、すでに「ネット書店が出てきて値段が均一化して、もう古本の世界に掘り出し物なんかない」という言説が流布していました。でも、あちこち行ってるほうの実感としては・・・岡崎:まだまだ?小山:はい。細かく行くと、「なんでこの店こんなに安いんだろう」という店がまだありました。 あと、あたらしい店がみんな内装も凝っていてきれいになりましたね。徐々に変わってきたというより、ある時期から、昔の古本屋がバツン、と切れちゃった感触があります。岡崎:僕には自説があって、古本屋さんは、それぞれの世代のいちばん元気なメディアの担い手に似るんですよ。例えば70代、80代の古本屋さんは、雰囲気が新劇の脇役俳優。小沢昭一とか東野英次郎とか。 その次の世代は、フォーク歌手。で、今はというとお笑いなんだよね。コントをやったり、雛壇にいる人の顔をしている。Q:具体的にいくつかの顔が浮かんでます(笑)岡崎:で、15年をさらにまたこの10年に絞ると、とにかく古本が安くなっていること。 あと、電子書籍と言われるようになった反作用か、本屋、古本屋、書店員、図書館司書などを舞台やテーマにした映画や小説がすごく増えています。このあいだカウントしてみたら、この10年で50くらいあるよ。 ある種の異議申し立てなのかな。あとは本を読まなくなると、読んでる人に神秘感とかリスペクトがあるのかもしれない。信愛書店店主の原田さんが、厳しい現実と提言を語っています。<信愛書店>よりp114~115 「本屋が育てる出版社」という言葉もあった。 これは? 「だいぶ前に私が仕掛けたもので、町の本屋に人文書を置いてみようというプロジェクトです。15坪程度の町の本屋さんだと、普通は人文書なんてほとんど置いていません。それを、中野・杉並支部の小さな書店と、人文書のいくつかの出版社がタッグを組み、1出版社棚1段と決めて一定期間、置いてみる。そして、複数の本屋でローテーションを組んで回していく。 私は、それぞれの地域に一定数の読者がいるはずだと思っていましたし、近所の本屋に置いていないから買わないだけではないか、という推測もありました」 原田さんの読みは見事に当った。「そういう本は、信愛さんだから売れるんだよ」。そう言っていた書店主たちも、意外な売れ行きに感心したという。この試みは現在では東京都全域に広がり、16社を2年1クールで回している。 原田さんは時代を変えていくような企画力のある出版社を見つけるのも早かった。取次を通さずに本を流通させ、話題の本を次々に送り出しているミシマ社などは、創業直後からずっと支援をしている。 面白いエピソードが『ぴあ』だ。 「『ぴあ』は当初、取次が相手にしてくれなくて、1軒ずつ回って営業していました。『ユニークな雑誌が出てきたな』と感じ、すぐに扱いを決めました。ほんと、驚くほど売れましたね。やがて全国区の人気雑誌になってしまい、どこでも買えるようになったらガクンと落ちましたが。小さな本屋なんてそんなもんです(笑)。」 原田さんは出版界の問題点について、ストレートに発言する。日本ではあまりに本屋のマージンが低すぎるため、将来、目利きになるような優秀な人材を育てる余裕がまったくないこと。 なにより、本の作り手たちが読者をないがしろにしてしまっていること。信愛書店の取材は、ビリビリ耳が痛い経験でもあった。
2015.08.16
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<あやしい日本語学校>図書館で『あやしい日本語学校』という本を手にしたが・・・・とにかく、就学生の国柄、境遇が多彩なことや、日本語の教授法が日本人にとって興味深いわけです。【あやしい日本語学校】吉武保子著、ビジネス社、1995年刊<「BOOK」データベース>よりボランティアの主婦が見たニッポンの中のアジア。憧れの国にやってきた留学生たちの夢の行方は。日本語教師になったお母さんの国際貢献奮戦記。<読む前の大使寸評>とにかく、就学生の国柄、境遇が多彩なことや、日本語の教授法が日本人にとって興味深いわけです。日本語学校の学生が犯罪予備軍のように怪しいのだろうか?・・・・じつは日本語学校そのものが、かなり胡散臭いのだが、それはさておいて日本語学校が興味深いのです。rakutenあやしい日本語学校日本語教師が意識する日本語が、興味深いのです。<日本語を日本語で教える>よりp46~48 まあ、最近の英会話学校も教室内は日本語禁止という学校も多いからおわかりだと思うが、現実には、ほとんどの日本語学校が、原則として日本語だけで教えている。 というのは、さまざまな国の学生がいる日本語学校で、教師の方が、それぞれの学生に対応した言葉では教えられないし、各国別クラスなんていう余裕も学校側にはない。 それに、学生にとっても日本語だけの授業の方が上達の近道のようである。どうしても母語に頼り、母語で考えてしまうから、日本語で思考しようとする姿勢が育ちにくく、上達が遅いと指摘されている。 また、英語と併用してはと言われるかもしれないが、第二外国語の英語が使いものにならない場合が日本人にも多いのはよく御存知だろう。外国の学生も英語の苦手な人は多い。 文化大革命の影響を受けた中国の学生などは、『英語よりロシア語を習えと言われて育った』と言っていた記憶がある。 さて、そうして日本語だけの授業を始めてみると、これが日本語を日本語で教えて十分通じるのである。ひらがなカードの「あ」を見せて、「あ」と言えば、学生はかならず「あ」と言う。「い」という学生はいない。 「これは机です」 と教えるときも、 「これは・・・です」 の「・・・」を指で示すことによって、文型と意味が結びつく。その後、次々と名詞を変化させて教えていくことになる。 それで、 「本をたたく」と 「机をたたく」 を間違える学生はいない。 だが、日本語教師が学生の母語の必要性を感じるのは、『学生が母語に引きずられた間違いをしているな』と感じるときである。やはり微妙な表現となると日本語で説明は難しい。そういうときは、韓国語や中国語がわかったらなあと思う。思うばかりで私は勉強していないが、そこは勉強熱心な日本語学校の教師たち。他の外国語を学習している人は当然たくさんいる。 しかし、落とし穴もある。 私は、ひとつの言語を他の言語に置き換えることの難しさを、日本語の研修中に教えられた。言語は長い歴史の中で培われたものである。使われ方も、文脈やさまざまな状況によって変化する。ひとつの語彙をとってみても、膨大な事例がある。それだけで、学問の一大テーマである。夏目漱石はこのように使っている。川端康成はこのように表現している。新聞ではこうだ。若い人たちの間にはこんな言葉も生まれているなど…。 学者でもない日本語教師が、言葉を意識的に整理することは出来ないが、少なくともこうした言葉の難しさは知っておくべきだ。 たとえば日本語の「ちょっと」と「少し」という言葉。 この言葉を教えようとするときにどうするだろうか。まず、基本的には同じような意味の言葉として教えるだろう。 「もうちょっと近くに寄ってください」 「もう少し近くに寄ってください」 とは言えても、 「ちょっと近くまで来たものですから」 「少し近くまで来たものですから」 となると使えない。単純に言葉を置き換えると、こうした間違いが絶えず起こるのである。と言っていろんな事例を授業中に全部網羅するわけにはいかず、実際言葉を使う段になると、学生はかならずといっていいほど間違える。お次はビザ更新にからむ話です。とにかく難民問題、違法就労にもからむわけで・・・・いよいよ怪しくなってきます。(日本語学校が、出稼ぎ労働の隠れ蓑になっているという疑惑もあるようです)<出席簿をめぐる攻防>よりp71~75 学生と教師がいちばん緊張する場面は、授業で最も基本的な助詞の「は」と「が」の使い方を教えているときでもないし、「ぱ」や「ば」の発音をしっかり覚えてもらおうと、多少強引に教えるときでもない。 最も緊張関係が高まるのは、出席簿をめぐってなのである。 学生は入学した後も、6ヶ月に一度、大手町にある入国管理局にビザの更新に行かなければならない。そこで書類を提出し、面接をする。問題がなければビザは更新される。しかし、なにか不都合があれば3ヶ月のビザしかもらえず、決定的な問題ありとなれば、帰国準備のための1週間をもらって即帰国ということになる。 書類は定期試験の成績証明書や教師の所見、身元保証人照明など過不足なく揃っていなくてはならないが、そこで最も重要視されるのが、ズバリ、出席率なのである。 出席日数という数字が、重大な力を発揮する。 そして、年々出席率の基準は上がっているらしい。以前なら80%の出席率でOKだった審査基準が、85%になり、近ごろは正当な理由がないかぎり、90%以上の出席率がないと6ヶ月ビザは下りない。だから学生たちの出席率をめぐる過敏な反応も、無理からぬところだ。 なぜ、こうも入管のチェックが厳しいのかといえば、もちろん日本語学校が、出稼ぎ労働の隠れ蓑になっているという根強い疑惑があるからだ。 ところで、3ヶ月ビザでもくり返し更新すればいいのではないかと思う人もいるだろうが、そこはお役所、しっかり道は塞がれている。3ヶ月ビザが2回続くと、以前なら大学入学の許可が下りない傾向にあった。そして現在では、即帰国である。となると2回目はなにがなんでも、6ヶ月ビザを取得しなければ、安心していられないと誰もが思うだろう。 いったい出席率90%とはどんな数字だろうか。 それは1ヵ月に3回休めるかどうかという数字である。だから、アルバイトの関係で遅刻や早退の多い学生、体調を崩して欠席がちな学生は、頻繁に出席簿をのぞきにくることになる。 さて、それほど学生を不安にしている出席率であるが、しかしこの90%という数字だって推測の域を出ない。出席率を含め、入管側からのビザ更新の基準の説明は一切ない。学校側としても学生に書類を持たせ、入管から下りるビザを見るまでは、合格ラインが判断できないのだ。 「どうも、出席率の基準が引き上げられたらしい」 「保証人の年収は、扶養家族4人で800万円では少ないようだ」 「この結果を見ると、入管職員の心象もあるんじゃないか?」 と学校関係者は噂する。 というのも、ほとんど同じ記載の書類を持たせて、A職員が担当した学生は6ヶ月ビザを取得したのに、B職員が担当した学生には3ヶ月のビザしか下りなかったということが、一度ならず何度もあったからだ。 笑えない冗談のような話も多々ある。 面接で「あたりめ」という言葉を知っていたため、担当職員に水商売の仕事に就いていると判断され、3ヶ月ビザしか下りなかったとか・・・。 日本語学校関係者の間では、そんな話がまことしやかに語られる。入国管理事務所は、学生にとっても学校関係者にとっても、不透明で気まぐれな場所に思えてしまうのだ。 書類の内容や面接で総合的に判断されてはいるのだろうが、なにせ藪の中である。となると、まずは数字である。 どうしても出席率に話が戻る。 学生も教師も話題は出席簿が中心となって、学校ではそれをめぐる小さな事件が起こることになる。 たとえば、休み時間。教師が教卓に出席簿を置いたまま、授業の捕捉や個人の質問に答えるために黒板に向かっているとする。とさっそく、すぐ後ろで出席簿の改ざんが始まる。また、静まりかえった授業中でさえ、教師が後ろの席の学生のノートを見ていたりすると、そのスキに、前の席の学生は何ヶ月分かの改ざんをやってしまう。のんびりした教師は、しばらくはそれに気づかない。改ざんがわかるのは月末の出席集計のとき、といったことになる。 それで、こちらも対策を考えた。 「出席簿は肌身離さず持つことにしよう」 「職員室で記入するようにしよう」 と、防衛策が話し合われる。 だが、これで一安心と思いきや、学生は一枚上手だ。切羽詰ってくると職員室に入り込んで改ざんする。そのうえ、自分の出欠だけでなく、同じ境遇にいる友達のものまで直していく学生まで出てくる始末である。ことここに至って、出席簿を鍵の掛かる棚で管理することになった。 出席簿は人の運命を左右しかねない。学生にとっては滞在期間を決定付ける大きな関門の一つであり、学校側にとっては学校運営に関わる。帰国者をなるべく出したくはないが、出席簿を甘くすることは学校の信用問題である。変な噂が流れたのでは、学校の認可取消し処分にまで発展するかもしれない。また日本国にとっては、不法滞在者や不法就労者を防ぐためのひとつの砦でもある。就学生たちのアルバイト事情が、身につまされます。<アルバイトは必要十分条件>よりp111~114 円高、物価高の日本での生活は苦しい。就学生の多くはアルバイトで、学費や生活費を稼がなければやっていけないのが現実だ。 日本で学ぶ就学生や留学生のアルバイトは、週20時間を越えない範囲で認められている(土日は別)。彼らのアルバイトは事前許可制になっており、入管で「」をもらい、それをアルバイト先に提出して働く。これで、雇う方も雇われる方も、「不法」という言葉にびくつくことはない。しかし、現実には、違法とわかっていても範囲を越えて働いている学生はかなりいる。 以前のことだが、こんなことがあった。 一人の新入生が、入学手続をしに学校へやって来た。 「あなたの名前は?」 「・・・・・」 「いつ、来たの?」 「・・・・・」 なにも答えられない。付き添ってきた友人が通訳に入ってくれたが、彼の日本語もかなりわかりにくく、どうにも要領を得ない。仕方なく、外国語が話せる事務の人を呼び出し、手続きを済ませたが、これだけならめずらしいケースではない。来日したばかりなのだから日本語が話せないのは当然だ。しかし、この学生には驚いた。 新入生の場合は、ふつう来日して三日後ぐらいまでに学校へ顔を出すのだが、彼はこの時点で、すでに2週間以上が経っていた。 (文字数制限により省略、全文はここ)不透明な入管の基準があったりするが・・・・民間外交の最前線でがんばっているのが、日本語学校の教師たちなのかも知れませんね♪これこそ、クールジャパンなんだけど、お役所が邪魔ばっかりしているようです。
2015.08.15
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図書館で『売国奴』という本を手にしたのです。このところ、中韓の歴史認識にさらされて、気分がすぐれない大使であるが、お三方の歴史認識を拝聴して、元気をとりもどそうではないか♪・・・ということで借りた次第です。【売国奴】黄文雄×呉善花×石平著、ビジネス社、2007年刊<「BOOK」データベース>より内からではなく外から見た日本は、古代からすでにさまざまな見聞や研究で語られ、また論じられてきている。しかし戦後の日本については外からの誤解や曲解も多く、ことに「反日」論はむしろ言論界の主流のひとつといえないこともない。では日本とは、日本人とは、いったいどう見られているか。より多くの視点から探るために、黄文雄氏と呉善花氏、石平氏と三人での鼎談という形で語る。論題としては天下国家から民族、歴史、文化、そしてなぜ「反日」なのか、についても取り上げる。<読む前の大使寸評>このお三方とも、故国では売国奴と罵られるが・・・日本ではヒットメーカーとして肩で風を切っています。お三方とも本音炸裂で、わりと爽やかでおます。rakuten売国奴このところ、中韓の歴史認識にさらされて、気分がすぐれない大使であるが・・・お三方の歴史認識を拝聴して、元気をとりもどしたいのです。<中韓が日本につきつける「歴史問題」の真の目的は?>よりp129~132黄:中国や韓国は歴史認識の問題を、主として政治目的からつきつけているわけですが、それによって日本人のほうも、知らず知らずの内に、本来は国内問題である教育問題としての歴史問題を、外交問題として考えるようになっているんですね。 ようするに、こういう教育をしていては中国や韓国に悪いじゃないかと、そう考えて日本の教育を変えていこうとするおかしな日本人が多いんですが、そんな動きって、他の国だったら起きようのないものですね。石:まさしく、そんなおかしな国は世界中、日本のほかにはないですよ(笑)。自分たちの歴史認識が外国から間違っているとかいわれて、それで考え直そうとか、改めようとか、謝ろうとか、そういう国民は日本人以外にはどこにもいません。呉:韓国の一方的な歴史史観は、客観的にいえばけっして一方的じゃないんです。なぜなら、日本人のなかにたくさんの同調者がいるわけです。韓国女性を拉致して従軍慰安婦にしたとか、日本統治は徹底した暴力的な支配だったとか、いくら嘘をいっても、日本人のなかから「その通りだ、日本はとんでもないことをしたんだ」という声が、これまた大きく叫ばれますから、韓国人にはとても心丈夫なんです。 韓国の反日は、日本国内の反日に戦後ずっと強く支えられてきていますから、韓国だけでの問題ではないんですね。石:中国にもかなりそれと同じ事情があります。日本の左翼といったらいいんでしょうか、中国共産党の反日に同調する人たちは、中国の間違った歴史教育の共犯者ですよ。黄:それでは、日中韓三国の間の歴史問題は、いったいどうすれば解決できるんでしょうか。私は多元的な歴史観を認めるべきだと思っています。日本人も一部ではそう考えていっますが、他の一部の日本人は韓国と中国の考えに立って、我々はもっと彼らの主張に耳を傾けなければならないといっています。 日本人にいいたいことは、自分自身独自の歴史観をはっきりもって、相手に対して主張したいことはきちんと主張すべきだということです。これを続けていけば解決できるのではないかと考えますが、どうでしょうか。石:私は日中間の歴史問題を解決するためには、お互いに外交の場に歴史をもち出さないことだと思います。歴史を外交問題にすること自体が間違っているんです。それぞれの国には、それぞれの国の歴史の見方があることを認めて、気に入らなくても外交的に文句をいったりしないこと、それしかありません。 しかも、中国の主張している歴史は、いい加減な自己主張以外の何ものでもない。それでも、国内でどんな歴史を主張したっていいですよ。それは自由ですからね。しかしそれを日本に対してまで押しつけることが、大きな間違いだということがわかっていない。わかっていないんですよ。わかった上でやっているんじゃないんです。 中国は小泉政権時代に、靖国問題で5年間けんかをしかけましたね。その結果、中国に何かいいことがあったかというと、何もないわけです。それどころか、日本国民の対中感情は最悪の水準になってしまった。 靖国問題は日本の国内問題であり、日本人の心の問題であって、中国人からとやかくいえる問題ではありません。それなのに、靖国参拝をしたからといって、総理大臣との会談を拒否するというのは、周辺諸国の内政問題にまで関与しようとする中華主義にほかなりません。しかも日本国内にも、やはりこれは外交問題なんだと、だから自粛しなくてはいけないと、そういう中華主義の同調者が少なくないんですね。お次は伝統文化についてです。いまの韓国人は『論語』を読めないとでもいう話になりますが。<伝統文化の再生へ>よりp136~139黄:中国の伝統文化は歴史的に幾たびも断絶を繰り返してきましたから、現代の中国人は伝統文化とのつながりを持っていません。文化の破壊は過去に何度も行われてきて、文化大革命のときにも大規模な破壊が行われました。それが最近では、いくらかの反省が起きてきていると思いますが。石:伝統文化を大事にしようという動きが少しは出るようになったのは、つい最近のことです。精神がここまで荒廃してしまうと、みんな生きていくのがしんどくなるんですね。すべてが信じられない、誰もが信じられないという社会で生きていくのは、とてもつらいことです。そういう社会環境のなかで、みんな無理して生きてきたんですが、ここのところにきて、痛切に何か信じられるものが欲しいと思いはじめているんです。 たとえば私は今日、羽田まで飛行機できましたが、決められた時間に飛行機が飛ぶということを信じています。電車に乗れば電車が時間通りに目的の駅に着くことを信じています。ホテルのなかは清潔で、行き届いたサービスをしてくれます。日本では当たり前のこと、しかし中国ではこういうことすら誰も信じられなくなっています。 今の中国は心の道徳が崩壊し、最低のところまで落ちているんです。社会崩壊の寸前ですよ。そういうところまでやってきて、やっぱりその反動がくるんでしょう。たとえば『論語』を読みましょうとか、最近ではそういう動きがでてきています。黄:古典的な漢文を重視しましょうといった主張も聞いたことがあります。一方、韓国では漢字が消えてしまって、ほとんどハングル専用になっています。そうすると、過去の漢文で書かれた文化や思想はどうなるんですか。全部消えてしまうのか、それともハングルで孔子の『論語』を読むとかいうことで残るんですか。呉:韓国の古典がどう残るかということは、ちょっとややこしくなるんですが、まずハングルについて少しお話ししときましょう。 ハングルがつくられたのは1443年、李氏朝鮮王朝の第4代王・世宗のときです。ハングルというのは「大きい文字」という意味ですが、これは日本統治時代につくられた呼び名で、もともとは「訓民正音」(民に訓える正しい音)というのが正式の名称です。つまり、最初から「偉大なる国字」としてつくられたのではなくて、漢字を知らない民衆でも使える文字としてつくられたわけです。 ところが、漢字を重んじる高級官僚知識人たちは、これは真字ではない諺文(俗字)だといって排斥したんですね。真字とうのはもちろん漢字のことです。それで、せっかくつくったのに以後四百数十年の間ほとんど使われることがないまま過ぎてしまいました。 日本の「漢字かな混じり文」とそっくりの「漢字ハングル混じり文」は、一部で用いられたことはありましたが、本格的には福沢諭吉の発案で、日本で鋳造したハングル活字を用いた李朝の「官報」の役割をも果たしていた新聞「漢城周報」(1886年)が最初です。そして、日本の手で学校制度が布かれてから、「漢字ハングル混じり文」がようやく一般の人々の間にまで広く普及したんです。 それで戦後は一転して、北朝鮮は早くからハングル専用となり、韓国は60年代まで続いた「漢字ハングル混じり文」を止めて70年からハングル専用になりました。わずかな数の基本漢字は学校で学びますが、実際に使う場がほとんどないのですぐに忘れてしまいます。 ですから、50代前半以下の世代では、70年代以前に発行された「漢字ハングル混じり文」で書かれた書物も新聞も読めなくなっています。博士論文を書く学生が、「漢字ハングル混じり文」のために70年代以前に書かれた文献を、しかも指導教官の論文すら読めないと、ある韓国の学者が嘆いていました。
2015.08.14
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「中華」でしょうか♪<市立図書館>・のろのろ歩け・三蔵法師が行くシルクロード・中国の破壊力と日本人の覚悟・55歳からのハローライフ<大学図書館>・中国55の少数民族を訪ねて・魔王図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【のろのろ歩け】中島京子著、文芸春秋、2012年刊<「BOOK」データベース>より『北京の春の白い服』-1999年、中国初のファッション誌創刊に向けて派遣され北京で奔走する夏美。『時間の向こうの一週間』-2012年の上海、赴任したばかりで多忙な夫の代わりに家探しを引き受けた亜矢子。『天燈幸福』-「台湾に三人おじさんがいるのよ」という亡き母の言葉を手がかりに旅に出た美雨。時間も、距離も越えて、新しい扉をひらく彼女たちの物語。<読む前の大使寸評>中島京子の小説ならいけてるのではないか…映画の『小さいおうち』も良かったし。rakutenのろのろ歩け中島京子の『のろのろ歩け』byドングリ【三蔵法師が行くシルクロード】菅谷文則著、新日本出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より「西遊記」の舞台をめぐるユニークな歴史発掘紀行。【目次】序 日本とシルクロード/1 玄奘三蔵(三蔵法師)とシルクロード/2 シルクロード探訪(東ローマの金貨/アフガニスタン/中央アジア/キルギス/シリア、イラク、イラン、ロシア/中原と匈奴/インド/ソグド移民/海の道)/3 シルクロード研究の今後<読む前の大使寸評>国名をドングリスタンとした大使は、この本が説くような西域に憧れるわけでおます。ちょっと、ジャンルは異なるが諸星大二郎が描いた西遊記の世界もええなぁ。rakuten三蔵法師が行くシルクロード三蔵法師が行くシルクロードbyドングリ【中国の破壊力と日本人の覚悟】富坂聰著、朝日新聞出版、2013年刊<「BOOK」データベース>より尖閣衝突、反日デモで見せた無法ぶりが怖い。軍事力が怖い。残虐性が怖い。環境汚染が怖い。要するに何を考えているかわからないのが怖い。でも、厄介なことに、中国は必ずやってくる。日本人のための「中国恐怖症」克服講座。中国がもたらす“災禍”はさらに増大。正しく対処する武器としての知識。【目次】第1章 中国軍はどれだけ怖いか(火器管制レーダー照射問題の発端/解放軍を把握できていない外交部 ほか)/第2章 “殺到”が破壊力を生み出す(緊迫した日中関係/漁船衝突事件の本当の被害者 ほか)/第3章 中国はなぜかくも「残酷」なのか(中国から見れば日本は残虐/中国の「極刑史」 ほか)/第4章 環境汚染と危険食品「負の連鎖」(PM2.5にまつわる中国環境事情/PM2.5に対する政府の反応 ほか)/第5章 「何をするか分からない国」の核心(たくましいが危険な中国人/負の側面から見た中国の怖さ ほか)<読む前の大使寸評>とにかく、中国の脅威にどう対処するか?…この難問に、日本人の覚悟が試されているわけですね。rakuten中国の破壊力と日本人の覚悟中国の破壊力と日本人の覚悟byドングリ【55歳からのハローライフ】村上龍著、幻冬舎、2014年刊<「BOOK」データベース>より晴れて夫と離婚したものの、経済的困難から結婚相談所で男たちに出会う中米志津子。早期退職に応じてキャンピングカーで妻と旅する計画を拒絶される富裕太郎…。みんな溜め息をつきながら生きている。ささやかだけれども、もう一度人生をやり直したい人々の背中に寄り添う「再出発」の物語。感動を巻き起こしたベストセラーの文庫化!【目次】結婚相談所/空を飛ぶ夢をもう一度/キャンピングカー/ペットロス/トラベルヘルパー<読む前の大使寸評>NHKのオムニバスドラマ『55歳からのハローライフ』で数編観たことがあるのです♪その原作を読むのも一興ではないかと、借りたわけです。借りたのは2012年刊のハードカバー、データは2014年刊の文庫本です。rakuten55歳からのハローライフ55歳からのハローライフbyドングリ【中国55の少数民族を訪ねて】市川捷護, 市橋雄二著、白水社、1998年刊<「BOOK」データベース>よりこんなにすてきな人たちがいる!世界初。辺境10数万キロを踏破して出会った、歌と踊りと祈りのある暮らし、全記録。【目次】第1章 雲南をめざす/第2章 怒江上流の峡谷を行く/第3章 大凉山からチベットのふもとへ/第4章 ミャンマー国境の山岳地帯へ/第5章 西北イスラムの大地/第6章 モンゴルと狩猟民の末裔たち/第7章 ミャンマー国境から海南島へ/第8章 貴州の山を分け入る/第9章 シルクロードの民/第10章 山の民と海の民/第11章 チベット、そしてインド国境地帯へ<読む前の大使寸評>この本の出版時期には、まだウイグル人への弾圧が起きる前であり・・・・歌と踊りと祈りのある暮らしが見られたようですね。rakuten中国55の少数民族を訪ねて中国55の少数民族を訪ねてbyドングリ【魔王】伊坂幸太郎著、講談社、2005年刊<「BOOK」データベース>より政治家の映るテレビ画面の前で目を充血させ、必死に念を送る兄。山の中で一日中、呼吸だけを感じながら鳥の出現を待つ弟。人々の心をわし掴みにする若き政治家が、日本に選択を迫る時、長い考察の果てに、兄は答えを導き出し、弟の直観と呼応する。ひたひたと忍び寄る不穏と、青空を見上げる清々しさが共存する、圧倒的エンターテインメント。<読む前の大使寸評>記録的な猛暑の今夏であるが、暑気払いに伊坂幸太郎の小説など…ええやんけ♪とにかく、自分の言いたいことを他人に言わせる腹話術という着想が面白いのです。rakuten魔王伊坂幸太郎の『魔王』byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き109
2015.08.13
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図書館で『55歳からのハローライフ』という本を手にしたが・・・・NHKのオムニバスドラマ『55歳からのハローライフ』で数編観たことがあるのです♪その原作を読むのも一興ではないかと、借りたわけです。【55歳からのハローライフ】村上龍著、幻冬舎、2014年刊<「BOOK」データベース>より晴れて夫と離婚したものの、経済的困難から結婚相談所で男たちに出会う中米志津子。早期退職に応じてキャンピングカーで妻と旅する計画を拒絶される富裕太郎…。みんな溜め息をつきながら生きている。ささやかだけれども、もう一度人生をやり直したい人々の背中に寄り添う「再出発」の物語。感動を巻き起こしたベストセラーの文庫化!【目次】結婚相談所/空を飛ぶ夢をもう一度/キャンピングカー/ペットロス/トラベルヘルパー<読む前の大使寸評>NHKのオムニバスドラマ『55歳からのハローライフ』で数編観たことがあるのです♪その原作を読むのも一興ではないかと、借りたわけです。借りたのは2012年刊のハードカバー、データは2014年刊の文庫本です。rakuten55歳からのハローライフ定年退職後も夫唱婦随であったなら楽しいだろうが・・・大使はそんなヤワな夢など持っていないのだ(笑)。その戒めにもなるドラマをのぞいてみましょう。<キャンピングカー>よりp154~156 早期退職には、もう一つ、大きな理由があった。ある計画があって、そのためには早期退職優遇制度による特別加算金が魅力だったのだ。早期退職そのものについては妻も賛成してくれた。家のローンも完済しているし、退職金と預貯金、それに数年後には支給がはじまる年金で、経済的に不安はないはずだった。息子は製薬会社に勤めているし、娘もすでに銀行で働いている。高校教師だった富裕の父親も、栄養士だった母親もも、ともに元気で杉並のマンションで暮らしていて介護などの必要はない。 富裕の計画とは、中型のキャンピングカーで、妻と日本全国を旅することだった。夢といってもよかった。アメリカの映画などを観ると、退職したあと、キャンピングカーを走らせ、大自然の中を旅する夫婦がよく登場する。単なる観光旅行ではない。思うままに好きなところを訪ね、美しい山や海や湖を眺めながら時を過ごすのだ。 計画は、妻には内緒にしていた。びっくりさせようと思ったのだ。国産の良質な中古のキャンピングカーはだいたい1千万前後で、偶然にも早期退職の特別加算金とほとんど同額だった。かなり車高があるが、富裕家の車庫には屋根がなく、乗用車2台分のスペースがあり改築の必用はない。 インターネットで、全国のキャンプ地を調べるのは楽しかった。アウトドアブームを反映して、どの地方にもオートキャンプが可能なキャンプ地があり、近くに温泉があるところも多かった。妻はもともと温泉好きだったし、喜ぶに違いなかった。絵が趣味で、何度も団体展で入賞し、友人が経営する喫茶店などを借りて個展を開くほどの腕前だった。 子どもたちが働きはじめてからは、近所の文化センターで水彩画と油絵を教えている。北海道ニセコや九州阿蘇の雄大な風景を前にして、スケッチしている妻と、その様子を微笑みながら見守りコーヒーを沸かす自分の姿を、富裕は何度となく思い描いた。 退職して1ヵ月近く経ち、身辺の整理がだいたい終わった。とっておきのワインを開け、肉を焼いて、簡単なパーティを自宅で開いた。「ご苦労様でした」「お疲れさま」と家族に感謝され、乾杯して、そのあとで、はじめて計画を明かした。 「今まで秘密にしていたんだけど、キャンピングカーでお母さんと全国を回ろうと思ってるんだよ」 へえ、オヤジもやるじゃないの、と息子は感心したが、娘は複雑な表情になった。妻は、びっくりした顔をして、戸惑っているように見えた。 「びっくりしたか、実は車は手配済みなんだ、中古だけどな、前のオーナーが、昔はかなり売れてたアウトドア好きのお笑い芸人で、内装に天然の木をふんだんに使ってあってすごく感じがいいんだよ」 富裕は笑顔でそういうことを言って、息子はうなずいて聞いていたが、妻と娘は、ただ黙って顔を見合わせるだけだった。変だなと思ったが、何となくいやな予感がして、それ以上キャンピングカーのことを話すのを止めた。 妻に秘密にしておいて、キャンピングカーを手配済みだって!?・・・それはまずかったのではないか。少なくとも押しの弱い大使は、そんな危険なことはしません。 以前NHKの「55歳からのハローライフ」というオムニバスドラマを見たのだが・・・第5話「空を飛ぶ夢をもう一度」は、最も過酷な設定であり、かなり重苦しいテーマでした。でも、イッセー尾形の笑顔で終わるラストに、小さな希望が見えた気がするのです。ネットでイッセー尾形のインタビューを見つけたので、紹介します。[イッセー尾形:数字に換算されない生き方を教わる」より 最終話となる第5話「空を飛ぶ夢をもう一度」ではイッセー尾形さんが、勤務先の出版社がつぶれ、「ホームレスになるかもしれない」という恐怖や不安を抱え、水道工事の誘導員として生計を立てている60歳の主人公を演じている。イッセー尾形さんに役どころやドラマの見どころについて聞いた。◇自分が考えている人生ではない生き方を発見する 今回演じた主人公・因藤茂雄について、イッセーさんは「ホームレスになったらどうしようと思い込み、負のスパイラルに落ち込んでいくパターンはよく分かる」と共感したといい、「一度そのモードに入ってしまい抜けられない中でもがき、自分としては前に進んでいるつもりがどんどん引きずられ、自分を大切にしなくなる」と表現する。そして、「自分では大切にしているつもりが自分の幸せからどんどん遠のいていくことに気が付かないという因藤の回路はよく分かります。そういう回路で一人芝居のネタも作ってきた気がします」と自身と重ね合わせ、「因藤自体が“等身大”ですから(役どころに)すぐ入っていけました」と振り返る。 印象に残ったシーンとして因藤と福田が山谷にある旅館を訪れる場面を挙げる。「メークさんが頑張って70人のホームレスを作って、そこに(2人が)冥界のように降りていく。もやみたいなのがかかっていて、戦意喪失したような人たちの中から福田を連れ出すシーンが強烈でした」と明かす。「あれよあれよという間に福田と付き合っているとそこへ行く。そこで彼を救い出そうとして、実は自分も救い出そうというシーン。非常に大事な場面で印象深い」と重要度を解説する。友人を助けることが、実は自分を助けることにもなっていたというお話が良かった♪
2015.08.13
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図書館で『のろのろ歩け』という本を手にしたが・・・・おお『小さいおうち』の中島京子ではないか♪中島京子の小説ならいけてるのではないか…映画の『小さいおうち』も良かったし。【のろのろ歩け】中島京子著、文芸春秋、2012年刊<「BOOK」データベース>より『北京の春の白い服』-1999年、中国初のファッション誌創刊に向けて派遣され北京で奔走する夏美。『時間の向こうの一週間』-2012年の上海、赴任したばかりで多忙な夫の代わりに家探しを引き受けた亜矢子。『天燈幸福』-「台湾に三人おじさんがいるのよ」という亡き母の言葉を手がかりに旅に出た美雨。時間も、距離も越えて、新しい扉をひらく彼女たちの物語。<読む前の大使寸評>中島京子の小説ならいけてるのではないか…映画の『小さいおうち』も良かったし。rakutenのろのろ歩けこの本は、中華ビジネスを題材にした短篇小説集となっているが・・・・小説からは、著者の中国語スキルや鋭いフィールドワークが垣間見えるわけです。3編のうちの1編を見てみましょう。<時間の向こうの1週間>よりp98~101 亜矢子は結局午前中いっぱい部屋でごろごろしていた。昼食も出かける気にならず、日本から持参したカップラーメンですませてしまった。 そして、その人は1時ぴったりにロビーにやってきたが、ただ一つ、夫の話と違ったのは、「彼女」ではなく「彼」だったことだ。 「佐橋亜矢子さんですか」 背の高い彼はとても流暢な日本語を話した。 「僕は、今日、いろんなところへご案内する、ウーと言います。ウー・イーミンです」 「ウーさん」 「イーミン、と呼んでください、よかったら」 「イーミンさん」 「ただのイーミンでいいですよ」 「案内してくださるのは、女性の方だって聞いていました」 「すみません。彼女は今日、どうしても来られない用事ができてしまって、急に頼まれました。僕が女だったら、よかったんですが」 イーミンは少しおどけた表情をしてみせた。長袖と半袖の色の違うTシャツを重ね着し、ジーンズにワークブーツの彼は若そうに見えて、30は過ぎているだろうと思われた。髪型は、襟足から耳の下あたりまで刈り上げ、前髪の左右の長さに差をつけた、ツーブロックのアシンメトリーで、片耳にピアスをつけ、ヘアアクセサリーのようにサングラスを頭に載せている。斜め掛けした薄いショルダーバックを背中からくるりと手前に持ってきて、中から地図を取り出し、意味があるのかないのか、ぽんと一つ叩いてからバックにしまった。 「行きますか」 イーミンは表に停めた車の助手席のドアを開けた。中国製の中古車のようだった。後部座席には乱雑に上着やCDケースが散らばっていたから、イーミンの自家用車なのだろうと亜矢子は思った。 車は高速道路に入り、南浦大橋を渡って黄浦江を越えた。目の前にけん玉を巨大にしたような上海のテレビ塔、東方明珠塔がそびえ、それをスカイスクレーパーが取り囲む河岸の景色が目に飛び込む。 「日本人は漢字がわかるから、名前を見ると面白がるんですよ。あのでっかいのが『金茂大シ』。金が茂るビルって書きます。あっちが通称・上海ヒルズで、『上海環球金融中心』。建てたのは森ビルですけどね。球がまわる金融の中心って字を書くんです。なんだかパチンコで当てたみたいなイメージでしょう?中心はそのまんま、『センター』の訳語ですね。〇〇センターって、日本語でも言うでしょう。ともかくここは、読んで字のごとく、上海の金融センターです」 読んで字のごとく。中国人にしては、渋い日本語を使うわね。 亜矢子は超高層ビル群に目を向ける。 やがて車は一般道に降り、浦東の新興地区にある日本人向けマンションの車寄せに停まった。助手席のドアを開けて一歩外に出るといきなり日本語の会話が飛び込んできて、ベビーカーを押す数人の母親が立ち話をしているのが見えた。 エントランスの向こうにはブルーの帽子をかぶった幼稚園児たちが、それぞれ「くまさん」だの「うさいさん」だののグループに分かれて整然と中庭に入って行くのが見えた。ロビーの大きな液晶画面の中では、有名な落語家が生活情報をレクチャーしていたし、ロビー脇のコンビニはローソンだった。館内の掲示物すべてが日本語で、要するにその建物は、ぽっこりと移植された日本なのだった。 「佐橋様、お待ちしておりました」 スーツの日本人が鍵を持って出てきた。イーミンとスーツは二言、三言、中国語で何かを言い交わした。過去の日記から、以前観た小さいおうち』を見てみましょう。【小さいおうち】山田洋次監督、2013年制作、2015年3月1日テレビで鑑賞<movie.walker解説>より第143回直木賞に輝いた中島京子の同名ベストセラー小説を、名匠・山田洋次監督が映画化したミステリアスなドラマ。とある一家で起きた恋愛事件の行方を見守った1人の女中。60年後、彼女がつづったノートを手にした青年によってその出来事が紐解かれていくさまが描かれる。女中を黒木華、一家の若奥様を松たか子が演じる。<大使寸評>雇い主に対するたったひとつの背信を抱えて、その女中は生涯を終えたのです。彼女の生き方を定めたのは、女中という雇用環境と戦争という時代背景があったわけで・・・結婚するには、社会的環境が整っていなかったと言うべきか?movie.walker小さいおうち昨今では、できちゃった婚が流行っているほど、経済的状況は芳しくないが・・・女中というシステムをうまく活用した戦前は、ある意味で、評価できるのではないか?♪おっと映画評としては、これでは支離滅裂な結論ではないか(笑)時局に反するような雇い主に対する、ただ一度の背信であったが…その裏に嫉妬心があったことが、哀しいですね。
2015.08.12
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図書館で『魔王』という本を手にしたが・・・・自分の言いたいことを、他人に言わせる腹話術という着想が面白いのです。【魔王】伊坂幸太郎著、講談社、2005年刊<「BOOK」データベース>より政治家の映るテレビ画面の前で目を充血させ、必死に念を送る兄。山の中で一日中、呼吸だけを感じながら鳥の出現を待つ弟。人々の心をわし掴みにする若き政治家が、日本に選択を迫る時、長い考察の果てに、兄は答えを導き出し、弟の直観と呼応する。ひたひたと忍び寄る不穏と、青空を見上げる清々しさが共存する、圧倒的エンターテインメント。<読む前の大使寸評>記録的な猛暑の今夏であるが、暑気払いに伊坂幸太郎の小説など…ええやんけ♪とにかく、自分の言いたいことを他人に言わせる腹話術という着想が面白いのです。rakuten魔王伊坂さんの政治感覚を見てみましょう。鳩山さんと小泉さんとおぼしき政治家が登場します。p84~53 何だこの政治かも結局のところ従来の政治家と変わらないのだな、しょせん出自はブルジョアで口先だけなのだな、自分の財産を手放すつもりも、他人の財産を手放させるつもりもないのだ、と気づき、どうしてそれを見抜けなかったのだろうか、と自らの不明を恥じるようになった。 ただ、それでも国民は、「他の政治家と比べればよほどマシ」という恐るべき理屈で、彼を支持し、その結果、与党は、「支持されているうちはやりたい放題」の調子で、十年を無駄にした。その結果、今は、もう誰が政治をやろうと世の中は変わらない、と虚無感にも似た気持ちが蔓延している。 「もう曖昧なまま、誤魔化されるのは飽き飽きしちゃった」 「曖昧なまま誤魔化す?」俺は、彼女に訊ねた。 「だって、政治家なんて、自分たちの都合のいいことは勝手に決めちゃって、都合が悪いと、『国民への説明が足りないから、様子を見ましょう』とか言っちゃうわけでしょ。十年前にも思ったけどさ、何で、自衛隊の派遣は説明なしでやるくせに、議員年金の廃止は、議論不足ってなっちゃうわけ?でさ、結局、多数決で決まるんだし、訳分かんないよ」 「民主主義は多数決だから」俺は、小学生でも口にしないような陳腐なことを言う。 「だからー」女が口を尖らせる。「もう、いっそのこと多数決じゃなくてもいいんじゃないの?わたしなんかさ、そう思っちゃうよ。誰か、びしっと決めてくれたら、ついてくからさ」 それを、と俺は言いそうになった。それを実現しようとしているのが、まさに犬養ではないか、と。ムッソリーニとよく似た経歴を持つ男が、若武者の潔さとエネルギーを発散させ、「5年で駄目なら首をはねろ」と若者を煽っている。この男であれば、「自由の国」や「人口13億人の国」にも、毅然とした態度で立ち向かってくれるのではないか、と期待をさせる。 「前の首相とか今の首相に比べたら、犬養は全然マシに思えるけどね。そう思わない?」女は煙草の灰をはじいた。読み進めると・・・アメリカで、日本人サッカー選手が刺殺された事件をきっかけに、日本でも反米のヘイトクライムが出てくるのです。ラストは犬養に仕掛ける腹話術のシーンです。p157~164 俺は人だかりの一番後ろに辿り着き、前方に見えるワゴンと、姿を見せた犬養に目をやった後で、頭がいい、と唸った。 青いワゴンや、犬養の立つ台は、特別派手な装飾がなされているわけではなかった。けれど、どこか落ち着いた貫禄のようなものを備えていた。従来の政治家が選挙演説で使うような車とは、明らかに雰囲気が違う。古臭さがなく、けれど浮ついた印象もない。「ご通行中の皆さん!」と訴える、見慣れた政治家の演説とは明らかに異なっている。おそらく、こういったイベントを企画するにも、犬養の周りには、専門のセンスを発揮する協力者たちがいるに違いない。よく考えられている。ムードとイメージ、世の中を動かすのは、それだ。 息を整えてから、人だかりを押し分け、中に行こうと思うが、呼吸はまるで楽にならない。ぜいぜいと鳴る息が、収まらなかった。 「犬養首切れよ!」と若者が声を上げた。揶揄するかのような口調ながら、どこか、親近感の滲んだ声に聞こえた。「犬養、アメリカをどうにかしてくれって」 マイクがあって、犬飼がその前に立った。「あ」とマイクの音量や状態を確かめるために、犬養が声を発した。 すると、そこにいる人々がいっせいに口を閉じた。示し合わせたかのように、しんと周囲が静まり返った。俺は左右に首を伸ばし、群がっている人たちの横顔を確認する。(中略) 膝立ちになり、前を向く。周囲の野次馬が邪魔で、犬養が見えなかった。どけよ、と俺は罵りたかった。腹話術をやるんだ。俺にはそれしかできないじゃないか。 島の顔が、俺の脳裏には浮かんでいる。学生時代の長髪の島が、その後で今現在の、立派な社会人となった、あの友人が見えた。台詞が聞こえる。「巨乳大好きー!」 あれだ。犬養にそう言わせてやろう、と俺は思い付いていた。「女子高生、最高ー!」それでもいい。大人から貫禄を失わせるには、ぴったりの台詞ではないだろうか、と俺は思う。やってみるべきだ、と念じ、首を伸ばした。犬飼が見えない。待ってろ、今、おまえに喋らしてやるからな。米中に毅然としたこの犬養というキャラクターであるが・・・小泉さんと安部さんのいいとこ取りしたような人物であり、もしこのような政治家が現われたら怖いような気がするのです。近未来の予知イメージとしては、村上龍の作品が鮮明であるが・・・・伊坂さんのイメージも、なかなかのものではないでしょうか♪*****************************************************************************この本は2部構成となっていて、後半の『呼吸』は『魔王』の続編となっています。『呼吸』では、冒頭で兄の死が(ネタバレのように)表明されたので・・・結果、一人称が詩織っちに替わります。そして、テーマは政治色がさらに強まるのです。(憲法改定の国民投票が描かれるって・・・政治そのものですから)だけど、予知能力に目覚めた潤也が、競馬の単勝で6レースを連続で当てて148万円儲けたあと、その148万を第9レースに賭けて、見事に外れる・・・伊坂さんの小説は、やはりエンターテインメントなんでしょうか(笑)。
2015.08.11
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図書館で『中国55の少数民族を訪ねて』という本を手にしたのです。歌と踊りを探査する日中合作プロジェクトということで・・・・写真も多くて興味深い本です。【中国55の少数民族を訪ねて】市川捷護, 市橋雄二著、白水社、1998年刊<「BOOK」データベース>よりこんなにすてきな人たちがいる!世界初。辺境10数万キロを踏破して出会った、歌と踊りと祈りのある暮らし、全記録。【目次】第1章 雲南をめざす/第2章 怒江上流の峡谷を行く/第3章 大凉山からチベットのふもとへ/第4章 ミャンマー国境の山岳地帯へ/第5章 西北イスラムの大地/第6章 モンゴルと狩猟民の末裔たち/第7章 ミャンマー国境から海南島へ/第8章 貴州の山を分け入る/第9章 シルクロードの民/第10章 山の民と海の民/第11章 チベット、そしてインド国境地帯へ<読む前の大使寸評>この本が出版された1998年頃は、まだウイグル人への弾圧などが起きる前であり・・・・歌と踊りと祈りのある暮らしが見られたようですね。rakuten中国55の少数民族を訪ねて日中合作プロジェクトとは如何なるものか・・・見てみましょう。<日中合同スタッフ>p23~25 ここで、スタッフ編成について述べておこう。まず、今回の日中合作プロジェクトの交渉過程では、中国側は当初から日中双方が対等の立場で協力し合うという方針を繰り返し主張していた。日本側は制作費負担と映像制作技術を担当するのだが、中国側の「対等の論理」はこうだ。すなわち、中国としては国の無形文化財(民間芸能)を提供するので、これで経済的には対等だというのだ。 文化財も国家の経済資源だというわけである。中国4千年の知恵というべきか、共産党国家の当然の主張というべきか、いずれにしても中国人ならではの発想だ。撮影したテープは日本に持ち帰って編集するが、中国側との共同審査を経て完成するという流れで仕事を進めることになった。 スタッフについても日中双方から原則として同数参加することになった。監督、撮影、照明、録音の各セクションについては日本側がメインを担当し、会社ができたばかりで、スタッフの養成もこれからという中国側がサブでつくという形にし、現地コーディネイションとスチル写真は中国側に担当してもらう。そして、責任者はプロデューサーとして双方から二名ずつ出し、体制としては、「対等」な形ができあがった。しかし、実際に撮影を始めてみると、プロ集団の日本側スタッフと、これから映像制作の基本を学ぼうという中国側スタッフとでは、現場で対等な動きがとれない。 たとえば撮影が終わるとスタッフが毎日集まり、その日の撮影テープのプレビューを行った。さらに日本側技術スタッフは、遅くまでテープの内容記録の整理や機材チェックなどを欠かさず行うのだが、最初はこういう仕事の進めかたというかテンポに中国側スタッフはいささか戸惑った様子だった。 日中合作というのは聞こえはいいが、実際には両者の仕事のやりかたや考えかたの相違からくるお互いのストレスという点で、決して容易ではない。そこへもってきて、撮影内容(今回の場合は民間芸能)に対する理解の仕方が最初からずれている。日本側の要求を通そうとすると、ほとんど口喧嘩になることもあった。 間に入る日本側のコーディネイターは、中国人でありながら、日本人の考えや要求を代弁するのでたいへんだ。ついには「お前は日本人の犬か」と罵られ、殴り合いの寸前までいったこともあった。だんだん分かってくるのだが、一般的に中国人の日本人に対する感情は複雑である。経済的な繁栄という点では憧れに似た感情を抱きつつも、しょせん日本人は長い歴史からすれば弟分であり、侵略や虐殺を行った恐ろしい相手なのだ。話し合いがこじれるとこういった感情的な部分が作用するためにややこしくなる。 そうはいっても、人間同士。寝食を共にするうちに、ある種の一体感が生まれつつあることは間違いなかった。日本側スタッフは中国語を覚えようとし、それは相手も同じで、「食事です」とか、「おつかれさま」などお互いそれぞれの言葉で伝えようと努力するのだった。55の少数民族はどれをとっても興味深いのだが、そのうちからいくつかを見てみましょう。まず、朝鮮族から。<陽気な「アリラン」>p178~180 今回のロケで最後に訪ねたのは桂木斯市樺川県星火朝鮮族自治郷。朝鮮民族の芸能はすでに広く知られ、吉林省の延辺朝鮮族自治州などの集中居住区では朝鮮文化が色濃く残されていることも分かっている。 今回はあえて小さな居住地を探してそこにどのような文化が伝承されているか、という点に着目してこの地を訪ねることにしたのだった。ここは桂木斯市の中心部から車で40分という近さにあり、延辺や牡丹江などから移り住んだ朝鮮族の居住地として1948年に新たに開拓されたという話だった。小学校では漢語ではなく朝鮮語で授業が行われるなど民族教育の行き届いた所で、伝統文化の保持に意識的に努めている様子がうかがえた。 中国に住む朝鮮族は東北三省、すなわち黒龍江、吉林、遼寧の各省を中心に約192万人(1990年)がいる。古くは17世紀頃から半島部からの移民が見られたらしいが、19世紀末の大飢饉、日本の朝鮮半島支配時代を経てその数は増え、そして日本軍による満州国維持のための強制移住によって飛躍的に増大した。日本の敗戦後、約50万人の朝鮮族が故国に引き上げたが、約百万人が中国領内にとどまり、その子孫と合わせて今日の朝鮮族を形成している。 1949年には延辺大学を創設し、朝鮮語によるラジオ、テレビ局を開設、新聞や雑誌を発行するなど、民族教育にはかねてから熱心な民族で、今日も高い教育水準を誇っている。一方で、歴史的に漢文化の影響が濃く、東北地方では漢民族との雑居が続いたこともあって、漢化の著しい民族であるとも言われている。中国人としてのアイデンティティと朝鮮族としてのそれとの衝突は、日本における在日二世、三世の人たちに見られる問題と共通するものがあるようだ。 私たちが撮影できたのは、大きく分けると二つに分けることができる。一つは「チャンゴの踊り」や「セタリョン」、叙事歌「沈情伝」、豊年祭の芸能「農楽」、朝鮮の琴「カヤグム」の弾き語り、日本でもおなじみの「トラジ」や「アリラン」などいわゆる朝鮮の伝統的な芸能、もう一つは1940年代に流行った朝鮮の歌謡曲である。歌謡曲については、撮影時には詳しく分からなかったが、帰ってから『韓国歌謡史1895~1945』(晶文社、1978年)などの著書のある名古屋に在住の朴チャンホさんにお聞きして、ずいぶんいろいろなことが分かった。撮影したのは「淋しき旅人」、「荷物船の愛」、「野バラの花」という歌だった。 いずれも日本による植民地支配下の朝鮮半島で、1940年~42年くらいの間に大ヒットした歌ということだ。これらの歌を歌ってくれたお二人はいずれも60歳前後のお年で、ナツメロの感覚で歌ったのだろう。(中略) このほか、「アリラン」の大合唱などを郷の老人ホームで撮影したのだが、多くの老人が片言の日本語を覚えていて「ヨロコビデスカ」「ヨロコビデスカ」と話しかけられた。「楽しいですか」という意味で質問されているのだろう。日本人としては複雑な気持ちになるが、老人たちはそんなことを気にする風でもなく明るく私たちを迎えてくれた。オロチョン族のシャーマンが興味深いのです。<定住化政策の村>p169~171 6月15日、富裕県から再び北に向かい陸路を13時間、黒河に到着した。ここは黒龍江のほとりに位置する町で、対岸はロシア領である。かつて日本が侵略した時代に旧日本軍人が暮らした町のひとつでもある。現在では、ロシアとの国境貿易の拠点として賑わいを見せている。川岸はコンクリートで階段状に固められ、売店が並び、庶民の憩いの場となっていた。双眼鏡で対岸を眺めると、金髪の女性が犬を連れて散歩しているのが見えた。 (文字数制限により省略、全文はここ)現在では、外国メディアのウイグル族取材は許可されることはないので、この本が出版された1998年頃のウイグル族を見てみましょう。<たくましい楽師たち>p243~245 6月21日、ウイグル族の撮影のためにヤルカンドに向けて出発した。右手に雪を頂くパミールの峰を遠望しながら、一本道をひた走る。町が開けたところはポプラ並木が続くが、荒涼とした土色の大地を何度か通り抜け、約4時間で到着。ウイグル族は主に平地に定住して農業を中心に営む人口約720万人(1990年)の大きな民族集団である。 そのなかでも伝統的文化を色濃く残し、かつてウイグル古典音楽の中心地として栄えたヤルカンド周辺を撮影地とすることにしたのだった。民族事務委員会主任と文化局副主任との打合せの結果、近隣の三つの村で撮影することになった。 最初に訪れたのは、ヤルカンドからほど近いチャルバグ郷アイキュス村。戸数二百余、人口約900人の農村である。このあたり一帯はいわゆるオアシス田園地帯で、水路の張り巡らされた小麦畑が広がっている。私たちが到着すると村の男たちが楽器を携えて集まり、強い日差しを避けてぶどう棚の下にじゅうたんを敷いて、宴会が始まった。 女たちや子供たちも集まった。楽器を担当する男たちはいずれも農夫たちで、皆日焼けしてたくましい。楽器は「スナイ」、「ナグラ」、「ダプ」、「ナイ」、「ギジャク」、「ラワープ」、「ドタール」、「タンブール」と実に豊富で、いったん楽器を手にとり演奏を始めるや否や、楽士に早変わりして見事なアンサンブルを聞かせてくれた。(中略) この村ではちょうどあんずの収穫期で、果樹園には黄色く色づいた実が鈴なりだった。乾燥させたあんずしか知らない私たちは、もぎたての熟れたあんずがこんなにも美味しいものかと感激した。 「あんずを食べたあとに水を飲まないように。お腹をこわしますよ」 村の人から注意された。お腹を冷やす効果があるらしい。昼には羊肉の串焼きがその場で焼いてふるまわれた。脂のしたたる柔らかな肉で、これまた美味であった。
2015.08.10
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歴史家・加藤陽子さんがインタビューで「国体を守るため周縁部を戦場に、膨らんだ残虐な死」と説いているので、紹介します。(加藤陽子さんへのインタビューを8/05デジタル朝日から転記しました) 「あの戦争」とは何だったのか。戦後の70年は日本人にとって、そう自らに問い続ける時代でもあった。そして、70年たった今も、戦争の原因や責任をめぐり、様々な論議が交わされている。私たちはこれから先も、あの戦争の意味を考え続けていくことになるのだろうか。歴史家として戦争を見つめてきた加藤陽子さんに聞いた。Q:あの戦争とは何だったのかを考えるとき、加藤さんが注目するポイントはどこですか。A:戦後50年にあたって出された村山談話(1995年)を読み返すとき、私が最も興味深く感じるのは主語の問題です。談話は『わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ……』と述べています。『国が』国民を存亡の危機に陥れたと語らなければならない戦争とは一体、何でしょう。 問題の核心は“残虐な死”が多発したことだと思います。国家の中心部を守るために(敵前方である)周縁部で戦う――そんな軍の防衛思想を国民に強いた戦争であったことが背景にありました。Q:帝国日本の周縁部で、何が起きたのでしょうか。A:戦場にされた周縁部には、満州(中国東北部)やビルマ(ミャンマー)、千島列島、フィリピン、太平洋の中部や西部の島々など、実に様々な地域が含まれます。それらの地では戦争終盤、指導部によって放棄された戦線で兵士の大半が餓死を強いられたり、現地に住んでいた日本国民が自国軍に置き去りにされて死傷したりする事態が相次ぎました。 戦没者310万人のうち実に240万人が『海外』で死亡した。それが先の大戦の実像でした。日本は、個々の兵士の死に場所や死に方を遺族に伝えることさえできなかった国なのです。Q:中心部とは何でしょう。A:日本は『神の国』であり、帝国の中心に『本土』がありました。戦争終盤には『皇土』とも呼ばれます。軍部は『代々の天皇が国を治めてきた』という歴史上の理念の擁護者を自認しており、本土そのものの防備を完璧にするより外縁部で守ろうとしました。Q:沖縄はその皇土の中に含まれていたでしょうか。A:いなかったでしょう。沖縄もまた周縁部だったのです。 ■ ■Q:当時の日本軍内部には、米国には国力でかなわないという冷静な計算もあったと聞きます。なぜ、勝算のない対米戦争を回避できなかったのでしょう。A:石油問題など様々な要素がありますが、最終的には日本は、中国問題が要因となって対米開戦に踏み切ったのだと思います。米国が重視したのは、中国市場を含めた東アジアの自由貿易体制を日本が承認するかどうか、でした。日本はイエスと答えられなかった。 日本は満州事変(31年)で中国内部に満州国を樹立しました。米国から見ればそれは、日本が中国での権益を独占しようとする行動に見えた。最終的に米政府は41年、日本に中国からの撤兵などを求めるに至ります。日本が対米開戦を回避するためには、妥協が必要な状況でした。しかし日本にとって満州は『譲れない条件』になってしまっていたのです。 背景には、満州は日清戦争(1894~95年)と日露戦争(1904~05年)で血を流して獲得したものだという考えがありました。英霊の死を無駄にするなという主張が力をふるったのです。加えて、中国に対する過小評価もありました。西欧化した日本が中国のためにロシアから満州を奪還した、とする自己中心的な見方です。 満州は日本のものであるとの歴史観が『この国のかたち』になったのでしょう。独占をあきらめて自由な貿易に道を開く妥協への道は閉ざされました。Q:敗戦の約1年前、44年の7月には、自ら「絶対国防圏」と定めたサイパン島が米軍の手に落ちました。なぜ、敗戦が確定的になったあとも早期に戦争を終えられなかったのでしょう。A:指導層が『どこかで敵に一撃を加えることによって講和の条件を少しでも有利にしよう』と考えたからです。一撃講和論です。 今から見れば、当時の日本軍には『有効な一撃』を放てる態勢はありませんでした。唯一の『勝てる方式』と自認していた『精鋭による短期決戦での勝利』の可能性がすでに消え、戦争は、勝てないと分かっていた『長期の持久戦』へ移行していたからです。Q:なぜ、合理的な見極めが出来なかったのでしょうか。A:合理性を貫徹できる軍隊を持つ国があるとすれば、それは戦史を正確に編纂できる国、戦争を美談にしない国です。日本は残念ながら、日露戦争がぎりぎりの辛勝だった事実を隠した国でした。Q:最終局面で、日本の指導部は何を守ろうとしたのでしょう。A:徹底抗戦を呼号した軍部にとって、守るべき『本土』とは『国体』を意味していました。万世一系の天皇が君臨し統治権を総攬すること、つまり天皇制です。Q:先の戦争で日本は、侵略をしたのでしょうか。A:満州事変は、日本軍の謀略に基づく侵略でしょう。37年からの日中戦争は発端こそ偶発的な要因でしたが、戦闘が本格化して以降は相手国の土地への侵略だと思います。対米英戦での真珠湾への奇襲も侵略にあたるでしょう。 日本人は侵略を認めていないという批判があります。しかし2005年の世論調査(読売新聞)によれば、日本と中国の戦争を日本の侵略だったとする人は68%でした。無回答やその他が22%で、侵略ではなかったという積極的な否定論は10%に過ぎません。 ■ ■Q:戦争責任をめぐる議論もまだ続いています。A:朝日新聞が今年春に行った世論調査では、日本がなぜ戦争をしたのか『自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思うか』という問いに、『まだ不十分だ』と答えた人が65%もいました。『まだ分からない、もっと追及するべきだ』が国民の意思でしょう。Q:分かりにくさが付きまとう理由は何でしょうか。A:戦争があまりに巨大で悲惨だったからだと思います。日本が41年12月に米ハワイなどで対米英戦を始めたとき、国民の間には『中国大陸で戦争をしていると思っていたのに、なぜ?』という疑問があったでしょう。 気づくと、日本軍はビルマでも太平洋西部のトラック島でも千島列島でも戦っていた。『こんなに広い領域に軍を展開させ、こんなに多くの国を敵とする戦争を、私たちはいつ始めたのか』。当惑するしかないような不可視感があったと思います。Q:日本の戦争を否定的にとらえる歴史観は米国によって占領期間中に押しつけられたものだ。そんな「戦後」批判があります。A:占領期の国民がどう考えていたかについては、最近、印象的な史料に出会いました。降伏直後の45年秋に幣原喜重郎内閣が、大東亜戦争調査会というものを設置しています。戦争の原因と実相を日本人の手で調査し、記録に残すことを目的にした機関でした。 幣原首相はその記録を『後世国民を反省せしめ納得せしむる』ものにしたい、と発言していました。戦勝国にせよ敗戦国にせよ戦争は引き合うものではないのが現実であり、その参考になる記録にする、とも。 また、戦前に鉄鋼増産の立案に携わった水津利輔は46年5月に調査会で、『来るべき平和的、文化的世界に対して日本は一つの贈り物がある』と語っていました。贈り物とは、自ら『失敗原因の報告』をすることである。水津はそう発言しています。 連合国側の意向で、後に調査会の試みは中止させられました。ただ私は彼らの発言を読み、身についた言葉だと感じました。日本国民が戦後に到達していた一地点を示すものだと思います。Q:戦後の日本は、戦前とは違う憲法を持つ国になりました。新しい憲法は「日本人と戦争の関係」を変えたでしょうか。A:変えたと思います。たとえば、戦争中に『残虐な死』が大量に生み出されたのは、『すべての個人の生』を国家に捧げるよう国民に要請する時代だったからです。 他方、戦後の憲法は『基本的人権の尊重』を明確に定めている。国民はもはや国家に利用されるだけの存在ではなく、国家に対してそれぞれの『個』の存在が確保される形に変わっています。国民である以上、戦争の苦悩は受忍すべきだ――そんな考えは現憲法の認めるものではありません。 *加藤陽子:60年生まれ。東大教授。「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」「満州事変から日中戦争へ」「徴兵制と近代日本」など戦争に関する著書で知られる。<取材を終えて> 満州事変は侵略だったのか――。多くの歴史家にとっては自明のこんな問いを正面から立てなければならない政治状況に、今の日本はある。安倍晋三首相が近く発表する戦後70年談話のためだ。 「(日本の)植民地支配と侵略」についての「反省」と「お詫び」。新たな談話からこれらの文言が削除されれば、国際社会への負のメッセージになりかねない。 加藤陽子さんの言葉からは、歴史研究者としての責務を果たそうとする意志が伝わってきた。(編集委員・塩倉裕)もうすぐ、安部さんが、謝罪抜きの、力強い「戦後70年談話」を出すことになるが・・・ニッポンの内外が注目しています。2015/8/09首相談話「積極平和主義」反映=北岡氏より 安倍晋三首相が今月発表する戦後70年談話に関する有識者会議で座長代理を務める北岡伸一国際大学長は3日夜、BSフジの番組で、「日本が世界の平和にもっと協力していこうという姿勢を『積極的平和主義』という言葉で出した。(首相は)そういうことを入れようとしているのではないか」と述べ、安倍政権が掲げる「積極的平和主義」の姿勢が盛り込まれるとの見方を示した。 「あの戦争」とは加藤陽子2015.8.05 この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2015.08.09
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図書館で『三蔵法師が行くシルクロード』という本を手にしたが・・・・国名をドングリスタンとした大使は、この本が説くような西域に憧れるわけでおます。ちょっと、ジャンルは異なるが諸星大二郎が描いた西遊記の世界もええなぁ。【三蔵法師が行くシルクロード】菅谷文則著、新日本出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より「西遊記」の舞台をめぐるユニークな歴史発掘紀行。【目次】序 日本とシルクロード/1 玄奘三蔵(三蔵法師)とシルクロード/2 シルクロード探訪(東ローマの金貨/アフガニスタン/中央アジア/キルギス/シリア、イラク、イラン、ロシア/中原と匈奴/インド/ソグド移民/海の道)/3 シルクロード研究の今後<読む前の大使寸評>国名をドングリスタンとした大使は、この本が説くような西域に憧れるわけでおます。ちょっと、ジャンルは異なるが諸星大二郎が描いた西遊記の世界もええなぁ。rakuten三蔵法師が行くシルクロード西域記の日本への来着を見てみましょう。<死後も旅する玄奘三蔵>p18~20 1942(昭和17)年12月に日本軍が南京で玄奘の頂骨の納められた石棺を掘り出した。翌年2月23日に時の親日政権である汪兆銘・南京政府に引き渡され、その一部が2年後に日本側に分骨された。そしてさいたま市の慈恩寺に、玄奘の舎利塔として十三重石塔が建立され、丁重に祀られた。 玄奘が長安に帰着後に、太宗李世民の命により、インド・西域に関する書物を執筆し、646年7月13日に完成したものが、『大唐西域記12巻』である。玄奘が詳しく足跡を残した111国、伝聞した28国などに関する最新の状況を提供したものである。ちなみに『西遊記』はこれらを基に書かれた。 『大唐西域記12巻』が日本に伝来したのは、日本に戒律を伝えた鑑真(688~763年)が、754年に来着した時に持参した『玄奘法師西域記1本12巻』が最初であった。 玄奘の求法の経過と、その仏典の翻訳などの事蹟を記述した『大唐大慈恩寺三蔵法師伝10巻』があり、奈良の法隆寺、興福寺には古い写本が伝えられている。法隆寺には、法師などの足跡を知るための地図さえ残されている。 シルクロード地図、なかでも中央アジアの東部は、玄奘の足跡が色濃く残された地域である。私たち考古学徒は、そのルートを出土品や遺構からさぐり、玄奘がたどった以外のルートをもさがすことを目的に、中国から中央アジアを研究調査している。そのシルクロードから日本に伝えられたさまざまな文物をひもときながら、絹の道がもたらした文化を考えてみたい。玄奘さんの功績の一端を見てみましょう。<シャカの教えを広めた人々>p28~30 入竺、つまりインドの仏蹟に向かう僧の目的は、玄奘までの多くの僧は、経典の将来であったようである。もちろん、天竺や西域の経典は漢文ではなく梵語(サンスクリット)や、その他の多くの言語で書かれていたので、いわゆる語学の修得も大きい目的であった。 中国の仏教に関するテキスト、つまり経典は、先に記したクラマンジュー・鳩摩羅什などが翻訳した35部300余巻の旧訳経典に、玄奘が翻訳した74部1335巻の新訳がある。その違いの一例を記しておくと、観世音菩薩が旧訳で、観自在菩薩が新訳である。このためよく知られている般若心経の冒頭の経文は、『南無観自在菩薩・・・』である。ただし、観世音菩薩、略して観音は世に広く知られていたので、それが習慣的に用いられ、現在に至っている。(中略) 玄奘が伊吾(現在の新疆ウイグル自治区ハミ市)に至った日に、伊吾の仏寺に泊めてもらった。すると寺には漢人の僧が三人もいて、そのうちの老僧は、唐僧が来寺したことを知って、僧衣に帯も結ばず、裸足で飛び出してきて、玄奘に抱きついて、この年になって、再び漢人に会えるとは夢にも思わなかったといい、号泣した。 この伊吾は、のちに唐領となるが、この時は、高昌国と関係が深い胡国の国であった。 玄奘が伊吾に到着したのは628年と推定されている。唐朝の成立は、618年であるので、この老僧は隋か、あるいはその前の北周に中国から西に向かった僧であった。隋と唐は異境への旅を厳禁していたが、北周はかなりゆるやかであった。著者の菅谷さんが、白馬寺を訪ねています。<明帝の感夢と仏教伝説>p158~159 中国大陸の北部では儒の思想が孔子により誕生し、のちの宗教として儒教となる。一方、中部から南部では神仙説などが各地に種々のかたちで生まれ、のち道教となっていく。 現在の日本や韓国の仏教は、ともに漢文に翻訳された経典を用いているが、本来は北インドからネパールにおいて説法していたシャカの教えである。仏教がパミール高原を越え、あるいはヒマラヤ山脈やヒンズークシ山脈を越えて中国に、いつ、どのように入ってきたかは定説がない。 仏教の中国初伝について正史の記述は『後漢書』である。ただし、後漢書の編述は南北朝の宋(420~479年)の歴史家ハンヨウであるので、それ以前のさまざまな伝承が混在している。『後漢書』の記述は、後漢・明帝の感夢求法説といわれている。この記述と白馬寺伝説が結びつく。 「明帝が夢の中で神人が身体から光を放ち宮殿の前に飛来してくるのを見た。帝は大いに喜び、翌日群臣に、この神は何であるかと問うた」と『後漢書』にある。続いて明帝は使者を大月氏国に遣わして『42章経』を写させたという。そして宮外に寺を建て、洛陽城の城門の上に仏像を安置した。こうして国豊かに民はやすらかとなり、夷人も中国(後漢)を慕ったとある。最後は、儒の教えの帝徳を美化する場合の常套表現である。 白馬寺は、この時に建てられたという。白馬寺伝説では、42章経と仏の画像を白馬に載せて帰ったという。そこで寺を建て白馬寺といった。 仏教の確実な中国での始まりは、文献研究を中心とした研究法、磨崖に彫られた彫像の研究、石窟の壁画や題記からの研究、経典の漢文への翻訳史からの研究など、多方面で論じられているが、最終結論には至っていない。 実は、仏教を始めたブッダは、歴史上に存在したガウタマ・シッダールタの称号である。漢訳では釈迦牟尼と表現され、シャカといいならわされている。シャカは著述を残しておらず、弟子や信者の質問に答え、大衆のために説法をした。その亡くなったすぐあとから、その説法がまとめられ、現在の経典に受け継がれていく。 私が初めて白馬寺を訪れたのは1980年2月の寒い日で、ロウ海鉄道の白馬寺駅で下車して、寒々とした道をたどった。現在では参詣者のための食堂や土産店が軒を並べ、寺内にも香煙がたえることがない。 白馬寺の大門の左右には、赤く塗られた焼成レンガのセン積みのハの字に開く高い壁がある。よく見ると、すべて後漢の画像碑である。70年代の文化大革命期に古代書が破壊されて大量に出た墓セン(レンガ)の再利用であった。西遊妖猿伝西域編公式サイトより
2015.08.09
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば「戦争」でしょうか♪<市立図書館>・日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)・チンギス・ハンの世界・日本を、信じる・イスラム国<大学図書館>・映像+(2007年2月号):シド・ミード大特集・映像+(2011年12月号):映画のつくりかた図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)】日本放送協会編、日本放送出版協会、2011年刊<「BOOK」データベース>より新たに見つかった膨大な証言・資料から浮かび上がる太平洋戦争へと至った「本当の」道のりとは。大きな反響を呼んだ「外交」と「陸軍」を収載。第一線の研究者による解説も充実。【目次】第1章 外交ー世界を読み違えた日本(“外交敗戦”孤立への道/一九三〇年代日本を支配した空気/外交に活かせなかった陸軍暗号情報 ほか)/第2章 陸軍ー戦略なき人事が国を滅ぼす(巨大組織“陸軍”暴走のメカニズム/陸軍を狂わせた人事システム/日本が陥った負の組織論 ほか)/陸軍暴走の連鎖/なぜ、日中戦争をとめられなかったのか<読む前の大使寸評>責任をとらないとは今でも官僚のサガであるが、当時の状況を見てみましょう。rakuten日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)byドングリ【チンギス・ハンの世界】堺屋太一著、講談社、2006年刊<「BOOK」データベース>より草原に生きた男はなぜ、世界帝国を築けたのか?現地撮影の鮮やかな映像、理解しやすい解説、歴史を読み解く鋭い視点がぎっしり。<読む前の大使寸評>カラー写真の多いビジュアル本に仕上がっています。漢族が嫌いな大使であるが、モンゴルとなれば話は別になるのです。rakutenチンギス・ハンの世界チンギス・ハンの世界byドングリ【日本を、信じる】瀬戸内寂聴×ドナルド・キーン著、中央公論新社、2012年刊<「BOOK」データベース>よりともに90歳を迎える二人が、大震災で感じた日本人の底力、生きる意味、自らの「老い」と「死」について縦横に語り合う。読めば元気の出る対談集。 <読む前の大使寸評> 不謹慎かもしれないが・・・・お二人とも、頭脳に老いが見られず、長生き対談となっていることでしょうか?冗談はさておき、震災後に日本に移り、日本国籍に変えたキーンさんが、ええでぇ♪rakuten日本を、信じる【イスラム国】ロレッタ ナポリオーニ著、文藝春秋、2015年刊<「BOOK」データベース>より対テロファイナンス専門のエコノミストが放つまったく新しい角度からの「イスラム国」―。多頭型代理戦争の間隙をつき、領土をとり、いち早く経済的自立を達成した「イスラム国」は、テロリストがつくる史上初めての国家となるのか?<読む前の大使寸評>「イスラム国」の自爆トラック作戦に、クルド人部隊も苦戦しているようです。今後のシリア戦線の行方は、展望が開けるのか?それにしても、ネットを駆使する多頭型代理戦争とは・・・・アラビアのロレンス時代には考えられない様変わりである。<図書館予約:(2/25予約、7/29受取)>amazonイスラム国イスラム国byドングリ【映像+(2007年2月号):シド・ミード大特集】雑誌、グラフィック社、2007年刊<「BOOK」データベース>より(雑誌につきデータなし)<読む前の大使寸評>シド・ミードといえば、『ブレードランナー』の美術監督であるが・・・シド・ミード大特集ということで、借りたのです。だけど、この本を借りるのは2度目であることが、過去の日記映画美術といえば、シド・ミードを読んで判明しました(汗)amazon映像+(2007年2月号):シド・ミード大特集映像+(2007年2月号):シド・ミード大特集byドングリ【映像+(2011年12月号):映画のつくりかた】雑誌、グラフィック社、2011年刊<出版社からのコメント>より2011年現在の映画制作現場がよく分かる保存版。 <読む前の大使寸評>映画のエンドロールにキャストや色んなスタッフが出てくるが・・・・これらのスタッフは、いったいどういうことをしているか?といつも思っていたわけです。この雑誌で、映画のつくりかたを見てみましょう。Amazon映像+(2011年12月号):映画のつくりかた映像+(2011年12月号):映画のつくりかたbyドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き108
2015.08.08
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図書館で『チンギス・ハンの世界』という本を手にしたが・・・・カラー写真の多いビジュアル本に仕上がっています。漢族が嫌いな大使であるが、モンゴル族となれば話は別になるのです。【チンギス・ハンの世界】堺屋太一著、講談社、2006年刊<「BOOK」データベース>より草原に生きた男はなぜ、世界帝国を築けたのか?現地撮影の鮮やかな映像、理解しやすい解説、歴史を読み解く鋭い視点がぎっしり。<読む前の大使寸評>カラー写真の多いビジュアル本に仕上がっています。漢族が嫌いな大使であるが、モンゴルとなれば話は別になるのです。rakutenチンギス・ハンの世界モンゴル軍の特徴を見てみましょう。<チンギス・ハンはなぜ強かったのか>p50~53 「チンギス・ハンはなぜ強かったのか」 これは誰もが持つ疑問だろう。だが、歴史家は、これにも的確な解答を与えていない。よく言われるのは、兵士の忍耐力とモンゴル馬の適性だ。モンゴル兵はよく辛苦に耐え、長時間の騎行ができ、乏しい食料でも戦えた。モンゴル馬は長距離走行力があり、寒気にも飢えにも丈夫だ。しかも前後の足を揃えて動かす走法ができるので馬上の人物は安定し騎射に有利だった、等々である。 確かにこれらは、モンゴル軍の利点ではあったが、チンギス・ハンの時代になって急に始まったことではない。モンゴル軍が強かった一因ではあっても、チンギス・ハンとその子や孫が特に強かった理由とは言えない。モンゴル軍がチンギス・ハンの時期に限って強かった理由はより大きなところ、つまり思想とシステムにある。 ここで重要なのは、第一に目的の単純化だ。チンギス・ハンは、「地の上に境界なく、人の間に差別ない」世界国家の創設を目指した。ここでの軍事行動の目的は唯一勝利、勝つためには見栄も体裁もなく、攻め、逃げ、散り、集まった。伝統にも信仰にも捉われずに戦術や装備を変えた。モンゴル軍は騎馬散兵戦を得意とする一方、中国や西域では城攻めでも強みを発揮できた。投石機などの大型攻撃兵器を大量に利用したのもモンゴル軍が最初である。 第二に、チンギス・ハンは主君に対する忠誠を重視した。たとえ敵将でも主君を捕らえて突き出すような裏切り者は決して許さなかった。逆に、自分に対する敵対行為でも、正直に申告した者は褒め讃えた。タイチウトとの戦いの折、「チンギス自身の首筋を射たのは自分だ」と名乗り出たジェベを讃えて重用したのは、その一例である。 また、敗戦は必ずしも罰すとは限らなかった。ホラズムの王子ジェラール・アッディーンの逆襲に敗れたシギ・クトクを優しく慰め、次には自ら出馬してアッディーン王子を圧倒したが、なお王子の勇敢さを褒め讃えた。このため、敗北を喫した将兵が罰を恐れて離反したり、嘘の申告をすることもなかった。 第三には、絶対王政的な組織である。チンギス・ハンがモンゴルの部氏族体制を95の「千戸」に再編制、モンゴル社会全体を直接支配できる戦争マシーンにつくり替えたことは前述した。 日本では似たようなことを織田信長が行っている。村落単位の農民兵中心だった軍隊を、機能別の集団に変えることで、鉄砲の集中使用や巨大城郭の建設などが可能になった。チンギス・ハンが、あらゆる気象や地形で、さまざまな敵を相手に勝てたのも、必要機能に応じて変化できる組織だったからである。 チンギス・ハンの強さの第四は、命令必行・約束厳守の徹底だ。これはまた、モンゴル草原の軍事事情にも関係がある。モンゴル軍は各兵士が多数の馬・羊を伴ったことは前述した。日本ではこれを「だからチンギス・ハン軍は食糧補給に苦労しなかった。遠征中は羊の肉を食い馬の血を吸えば済んだ」と解釈する者もいるが、現実はそう簡単ではない。人間の何十倍もの家畜を養うためには草の生えた草原しか進めない。 たとえば、チンギス・ハンの大西征では、四つの軍団に分かれた十万人余りが出撃した。そうなると、第一軍団の通過したルートは草が食いつくされているから、第二軍団は別のルートを行かねばならない。しかもそれは川かオアシスのルートを行く。このため、西征モンゴル軍は最大南北幅千キロメートルにも広がったと推定される。しかもこれらの軍団は、ほぼ同時に敵前に出なければならない。到着に遅速の差があれば、各個撃破されるからである。なるほど、モンゴル軍には思想とシステムがあったのか♪その点、秦の軍隊にも思想はあったのかも知れないが・・・性悪説にもとづく漢族はどうしても好きになれない大使である。
2015.08.08
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政治学者・五百旗頭真さんがインタビューで「力と利益と価値、米外交の3原則を複眼的に見据えよ」と説いているので、紹介します。(五百旗頭真さんへのインタビューを8/06デジタル朝日から転記しました)戦後日本では二つの米国像がぶつかり合う。民主主義や大衆文化に象徴されるあこがれとしての米国と、強引なパワーとしてふるまい畏怖(いふ)される米国だ。この巨大な存在にどう向き合うべきか。原資料に基づいて日米関係の歩みを研究してきた政治学者に聞いた。Q:戦後70年は敗戦、占領、安保と米国と向き合う70年でした。A:開国を迫られたペリーの黒船以来、日本にとっての運命的な関わりは、米国が多いですね。日露戦争の講和はセオドア・ルーズベルト米大統領のあっせんでした。そして、連合国による占領も、マッカーサー最高司令官のもと、米国主導でした。 占領とは、占領された側にとっては苦々しいもので、『よい占領』というものはありません。しかし、日本占領は『もっとも少なく悪い占領』でした。米国は真珠湾攻撃の後すぐに、日本の事情に通じた専門家を集め、3年かけて対日占領政策をつくりました。 天皇制と官僚機構を残して、間接統治を行った。ニュートラルな技術集団として、官僚機構を使ったのです。既存の軍や警察、バース党などの機構を全部排除して大失敗した最近のイラク占領とは対照的です。そもそも、日本の場合は、明治の自由民権運動や大正デモクラシーなど、自前の民主主義経験もあった。戦後日本は日米の共同作品だと思います。Q:日本人の対米観には、あこがれと反発が共存しています。A:米兵が演習場に入った農婦を射殺したジラード事件や、沖縄での少女暴行事件のようなとんでもない事件が起こると、日本側の怒りが爆発する。在日米軍がいることで対外的な安全性は増すけれども、国内に問題が残る。しかし、大きな枠でみると、米国との関係は、知的交流や草の根交流など市民社会同士の絆は太く、相互理解の進んだ関係を築けています。 日本が独立を回復したのは朝鮮戦争の最中で、沖縄返還もベトナム戦争の時期でした。米国の軍はともに決定に反対でした。ところが、米国の政治指導者は、軍事的便宜を乗り越え、日米の長期的友好を優先する判断をしました。米国は、日本政府が本気で望むことに対しては、案外ていねいな対応をしています。 ■ ■Q:一方、日米は対等でないとの批判もありますが。A:世界一の超大国と対等な国などありません。軍事的な面でみれば、ずいぶん長い間、米国と日本は大人と赤ちゃんのようなものでした。戦後日本は、安全保障を米国に頼り、経済発展に専念してきた。『同盟』という言葉が、外交文書で使われるようになったのは、1970年代末の大平正芳内閣のとき。 米国がベトナム戦争で傷ついて国力がどん底になり、他方、日本がGNP1%の枠内で着実に防衛力を整備し、無視しがたいレベルに達した。さらに冷戦終結後、北朝鮮危機や中国の台頭をにらんで、橋本・クリントン時代に日米安保を再定義し、東アジアの安定のための公共財として位置づけられたのです。こうして日米関係は、米国のアジア政策の中軸となりました。 ただし、課題が依然としてあります。米外交に、日本は非常に幻惑されやすいのです。Q:幻惑されやすいとは。A:米外交は一つの原理で動いているわけではありません。私の恩師である故高坂正尭(まさたか)・京大教授は、国家を『力の体系』『利益の体系』『価値の体系』であると考えました。米国は、この三つを強烈に持っています。 第1次世界大戦に参戦したウィルソン大統領は、『民主主義のための戦争』と説きました。米外交は、はばからず価値を前面に立てる。また『ドル外交』という言葉があるように、経済的利益もよどみなく追求します。経済は相互利益をもたらすものであり、平和の基礎だと考えている。忘れてはいけないのは、力の側面です。米国はアジアにおいて一つの国が排他的に支配することを嫌う。戦前のロシアや日本、現在は中国が問題ですね。三つのレベルで米外交を複眼的に見ることが必要です。Q:オバマ外交には、あまり「力の体系」を感じませんが。A:力の面では、オバマは甘い政権でしょう。カーター政権(77~81年)がベトナム戦争の傷に苦しんだように、オバマはアフガニスタンとイラクの戦争を終えその傷を癒やす役割を担っています。しかし、米外交は振り子の原理で動く。次の政権は、力の行使に敏感な政権になるでしょう。 南シナ海における中国の現状変更を認めないと、オバマ政権は遅ればせながら立場を明確にしました。単に言葉だけではないかと思いがちですが、次の政権が自由に行動する根拠を与えているのです。戦前、日本が満州を侵略したとき、スチムソン国務長官は不承認政策をとった。日本の軍部は、高をくくったが、結局その後、中国をめぐって日米は戦争に突入した。米外交の原則を軽く見るのは危うい。Q:日米関係と中国との関係は今後どうなるでしょうか。A:日本からみると、日米同盟は巨大な存在です。しかし、米国にとっては、あくまでも多くの国際関係のひとつ、ワン・オブ・ゼムなんです。 歴史的に見ると、中国がアジアの大国でした。米国にとって、アジアの中心大国に復帰する中国の絶対値はプラス・マイナスを含めて大きくならざるを得ないでしょう。しかし、だからといって、日米関係を軽視するほど米外交は幼稚ではありません。だからこそ、日米同盟はとりわけ重要だとの判断が基調です。 ■ ■Q:米国は、日本の指導者をどう見ているのでしょうか。A:戦後ワシントンであつく歓迎された首相は、ことごとくアジアとの関係をうまくこなした人です。岸信介は57年の訪米前に東南アジアを回り、やっかいだった戦争の賠償問題に道筋をつけました。佐藤栄作も、訪米前にアジア・太平洋諸国を巡った。中曽根康弘は、就任直後に韓国を電撃訪問した。 同盟の価値は、日本がアジアでよき世話役を務めているからこそ高まります。周辺国といがみ合ってばかりいると、米国が仲裁のコストを払わねばならない。いま日韓関係が悪いことが日米同盟にマイナスなのは、明らかです。 日本外交にとって、米国とアジアは二者択一ではありません。日米同盟は大変な資産であり、ますます大事にすべきですが、アジアをぞんざいに扱ってはいけない。20世紀の日本は、米中両国と戦争をして国を滅ぼしました。そこから学ばねばなりません。 かつて私も参加した小渕恵三首相の諮問機関『21世紀日本の構想』懇談会は、東アジアにおける協力関係を一段と強化すべきだとして『隣交』を提案した。日米同盟+アジアの『隣交』です。中国とは少なくともけんかをしない、利益を共有できる関係を保つことです。Q:日中間は、歴史問題が大きな障害となっています。A:和解には相手があることですが、まずは、日本側がほんとうにすまなかったという思いを率直に表明することです。私たちにとって戦争は大昔かもしれませんが、侵略された側にとっては身近な過去なのです。そして、中国側が、戦後日本の平和的発展を評価し、『父祖の代は苦しんだが、いまのあなたたちの世代の責任ではないので、寛容な気持ちが持てる』という言葉を返せれば、戦後日本の平和的発展を評価すれば、ともに前に進めるのです。Q:それは可能でしょうか。A:第1次安倍政権から福田康夫政権にかけて、中国の指導者が、戦後日本の平和的発展を評価し、日本の開発援助に感謝を表明した時期がありました。その後またいがみ合いに戻ってしまいましたが、あの信頼関係を再構築せねばなりません。Q:我々自身も、戦後日本に自信を持たねばなりませんね。A:戦後日本は『力の体系』一辺倒の国家を反省し、『利益の体系』一辺倒で経済大国になったように見えます。しかし、大切に育んだ価値もあります。青年海外協力隊は今年で50年になりますが、日本の開発援助は、欧米とはひと味違って、途上国の底辺まで入り、現地の人と同じ目線で国造りに努力してきた。 人に優しい日本の価値外交です。価値外交とは、民主主義や人権などの理念を振りかざすだけではありません。こういう生き方が、国際世論調査における日本の高い評価を支えています。その資産は今後も大切にしたいものです。 *五百旗頭真:43年生まれ。熊本県立大理事長。神戸大教授、防衛大学校長を歴任。著書に「米国の日本占領政策」「占領期 首相たちの新日本」など。<取材を終えて> 小泉首相による自衛隊のイラク派遣、戦争をめぐる政府見解を否定した田母神俊雄・航空幕僚長の発言など、節目節目で五百旗頭さんは批判的見解を明らかにしてきた。ときにはバッシングも浴びたが、筋を通した。背景にあるのは、冷徹なリアリズムと、歴史から謙虚に学ぼうとする健全なナショナリズムである。保守主義が本来持っているはずの美質が、そこにある。(編集委員・三浦俊章)米国との間合い百旗頭真2015.8.06 この記事も朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2015.08.07
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図書館で『日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)』という本を手にしたのです。毎年、この時期になると、メディアが戦争特集を組み、本屋にも戦争関連の本が並んでいます。責任をとらないとは今でも官僚のサガであるが・・・・当時の状況を見てみましょう。【日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)】日本放送協会編、日本放送出版協会、2011年刊<「BOOK」データベース>より新たに見つかった膨大な証言・資料から浮かび上がる太平洋戦争へと至った「本当の」道のりとは。大きな反響を呼んだ「外交」と「陸軍」を収載。第一線の研究者による解説も充実。【目次】第1章 外交ー世界を読み違えた日本(“外交敗戦”孤立への道/一九三〇年代日本を支配した空気/外交に活かせなかった陸軍暗号情報 ほか)/第2章 陸軍ー戦略なき人事が国を滅ぼす(巨大組織“陸軍”暴走のメカニズム/陸軍を狂わせた人事システム/日本が陥った負の組織論 ほか)/陸軍暴走の連鎖/なぜ、日中戦争をとめられなかったのか<読む前の大使寸評>責任をとらないとは今でも官僚のサガであるが、当時の状況を見てみましょう。rakuten日本人はなぜ戦争へと向かったのか(上)責任をとらないとは今でも官僚のサガであるが、当時の状況を見てみましょう。<責任をとらない組織:戸部良一>p226~228 荒木陸相の時代に、真崎参謀次長が満州事変の収拾ということで、1932年8月に、関東軍の幹部である板垣征四郎(高級参謀)や石原莞爾(作戦参謀)を異動させます。それは関東軍の独断専行再発を防止するための措置だったのでしょうが、更迭とは呼べない曖昧なものでした。 今日では、満州事変は関東軍が謀略によって引き起こした、でっち上げの事件だということが明らかになっていますが、当時はそのようにはみなされていません。「関東軍の軍事行動は満州で起きた排日行動に対する正当な自衛措置で、国際法違反ではない」というのが政府の立場で、「関東軍が行動しているときに、たまたま満州で自発的な民族自決運動が起こり、日本はそれを間接的に支持しているだけだ」というのが建前でした。 であれば、それを先導した人物を処罰することはできません。都合が悪いので現職から外すにしても、何らかな色をつけて形式的に栄転させ、当座から退いてもらう。軍中央の公的立場を否定することになりかねないので、懲罰人事とわかるような行動はとれないのです。しかもその頃には、国民の支持も議会の支持も、もはや事変を起こした側に向かっている。 荒木や真崎からすれば、関東軍が中央の統制に反して行動したことはわかっていますから、何らかのかたちで統制を加えなければならない。だから、跳ね上がった分子には退いてもらい、自分たちがコントロールしやすい人をかわりに据えるための人事を行ったのだと思います。 張作霖爆殺事件がそうですが、満州事変にも組織ぐるみの動きという側面がありますね。個人が発案したかもしれないし、個人が先導したかもしれないが、結果的に組織が動いているのだから、本来は組織全体の責任を問わなければならないはずです。それを一部の人間への制裁で済まそうとすれば、懲罰とはとれないような中途半端なものにならざるを得ない。当時の政治状況では懲罰というかたちはとれない。もし個人を罰すれば、その罪状が問われます。関東軍を動かしたことによる懲罰だとすれば、「それは関東軍全体の責任だ」ということになる。その関東軍を放っておいたのは陸軍ですから、陸軍の責任を問う覚悟があれば懲罰にできますが、それがなければできないということになるでしょう。 本来ならば、トカゲのしっぽ切りのように、末端の実行者を取り去ればいいという問題ではなかったはずです。もっと早くに組織全体が責任をとれば、その後に陸軍は別の道を歩むことができたかもしれません。そのためには、「組織全体がおかしい」と考えなくてはならなかったでしょう。末端や一部分が悪いだけだ、という発想ではだめなんです。しかし、陸軍は常にそうした発想で動いてしまった。 河本大作の張作霖爆殺事件、そして石原・板垣の満州事変は、みな出先の突出行動です。河本は行政処分を受けましたが、罪に問われたわけではない。石原や板垣は「功績」を挙げたとして賞賛される。結果的に日本の国のためになる。陸軍のためになる、自分の立身出世にもなるという「結果オーライ」の発想が非常に強くなっていったのではないでしょうか。それがその後の「暴走の連鎖」を生んだのだと思います。 もともと軍人は結果を重視しがちですから、手続きより結果が大事だと考えます。戦うときは、勝つという結果を最重視しなければなりませんから。そこから、動機と結果さえよければ、手続きと責任は問われないという考え方をしがちだったのだと思います。<リーダー不在が誘発した負のサイクル:戸部良一>p232~234 全体的にいえることは、軍もそうですが日本国家全体についても、傑出した優れた能力を持つリーダーが現われなかったということと、同じことですが、戦略性がなかったということでしょうね。本来は政府あるいは大本営が、政治的・外交的な効果をねらって作戦を割り出していかなければならないのですが、それが逆になり、軍事的な考慮が政治や外交を引っ張る、引き摺る、制約するということになってしまいました。 では、戦略性を持てるのは誰かというと、リーダーしかいない。リーダーがいないから、戦略性が持てない。この負のサイクルが、いろいろなところで回っています。(中略) 強力なリーダーが出たからといって、スターリンやヒトラー、ムッソリーニの例もありますから、必ずしもプラスのハッピーな結果をもたらすとは限りませんが、反省はしやすい。責任の所在もそうですが、そのとき国家が何を考えていたかということがわかりますから。1930年代の日本の悲劇は、国家の核心がどこにあって、何を考えていたかがわからないことにあるのではないでしょうか。 周りの国から日本を見たときに、国家の意思決定がどこで、どのように行われたのかがよくわからない。日本の国家としての動き方を解釈するときに、常にその突出した部分、ある意味で悪いほうの部分だけをつなぎ合わせていくと、一つのストーリーができあがります。 張作霖を爆殺した河本の行動、柳条湖事件を引き起こし満州事変を拡大した石原や板垣の工作、満州事変以後に出先軍が展開した華北分離工作や内蒙工作、そういうものすべてが本国の指示に基づく行動だと考えてみてください。日本は確固とした侵略計画を持っていたという一つのストーリーができてしまいます。1930年代の日本は、そう誤解されてしまうような(あえて誤解だといいますが)不可解な動き方をしていた、ということになるのでしょう。陸軍暴走のメカニズムを見てみましょう。<派遣軍削減を模索>p128~134 こうして引き起こされた日中戦争が、なぜアメリカとの戦争に発展していったのか。その鍵を握る人物の遺族を取材することができた。その人物とは、一夕会のメンバーで、太平洋戦争開戦時、陸軍省軍務局長に就いていた武藤章中将である。彼はそのポストにあったことから、A級戦犯として処刑されている。これまで、武藤は一貫して戦争に積極的な強硬派と見られてきた。 しかし、戦後、巣鴨拘置所から家族に宛てられた手紙には、意外な事実が綴られていた。「軍務局長着任以来、支那事変を急速に解決することを主眼として、他列国とは絶対に事を構えてはならぬと考えて、一切のことをやってきた」 支那事変の急速な解決―。軍務局長となった武藤が、組織の肥大化に悩まされていた事実が浮かび上がってきた。 日中戦争の開戦以来、大陸に派遣された兵士の数は、20万人から百万人に急増していた。この拡大にともない、現地には11の新たな軍を組織。20を越える司令官や参謀長クラスのポストが新設され、寺内寿一や杉山元、板垣征四郎といった大臣経験のある大物軍人の格好の異動先となる。軍を支える予算もうなぎのぼりに増えていき、一般会計に加えて臨時軍事費が上乗せされて、国家予算の約半分を陸軍が獲得するまでになっていった。 しかし、それは危うさと裏腹の「繁栄」だった。長引く戦争に、国内では配給制度が強化されていた。日常的な物不足に加え、干ばつによる米の高騰で、国民のあいだには急速に厭戦気分が広がり始める。さらに、ヨーロッパでは同盟国ドイツと連合国のあいだで戦争が勃発。その影響が、いつアジアへ波及してきてもおかしくはなかった。 そんな状況のなか、日中戦争によって増え続ける戦費が問題視されるようになる。さらに、この戦いを侵略戦争だとするアメリカによる中国からの撤退要求が、その大きさを増してきた。軍務局は危機感から、ついに派遣軍の縮小を検討し始める。その交渉の矢面に立たされたのが、陸軍省入省後、予算畑を歩いてきたエリートの西浦進中佐だった。西浦たちは、早速、現地軍をとりまとめる参謀本部に提案する。 西浦の肉声テープは語る。「支那派遣軍の兵力を減らしてもらわないと困る。とても支那派遣軍の方も大きな予算を持ち、大きな兵力を持ち、それから関東軍も充実なんてことは、国力上からいっても財政上もできなければ、人員資源の点からいってもできない。それを第一年には十万から十五万減らす。第二年にはどれだけ減らすといって、覚書きを作って、この覚書きがあったら、これだけの軍備充実をしましょうと。私は下心はなにもいわずに、どんどん人を詰めだしたんです」 それは参謀本部が切望する「軍備の近代化」と引き替えに、段階的な現地軍の縮小を呑ませる作戦だった。(中略) 撤退を進めようとしていた陸軍中央は、なぜ現地軍に強く出ることができなかったのか。その謎を解く鍵となる出来事が、この2年前、日本軍が果てしない深みに足を踏み入れるきっかけとなった「徐州作戦」である。 首都・南京の陥落後も停戦の目処が見えなくなっていた当時、泥沼化を恐れた参謀本部作戦課は、戦線の不拡大を提唱、御前会議でもそれが了承される。しかし、この方針に対し、強硬な現地軍は、むしろ積極策に打って出ることこそ戦争の早期解決につながると反発を強める。
2015.08.06
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図書館で『映像+(2011年12月号):映画のつくりかた』という雑誌を手にしたのです。映画のエンドロールにキャストや色んなスタッフ出てくるが・・・・これらのスタッフは、いったいどういうことをしているか?といつも思っていたわけです。この雑誌で、映画のつくりかたを見てみましょう。【映像+(2011年12月号):映画のつくりかた】雑誌、グラフィック社、2011年刊<出版社からのコメント>より2011年現在の映画制作現場がよく分かる保存版。 <読む前の大使寸評>映画のエンドロールにキャストや色んなスタッフ出てくるが・・・・これらのスタッフは、いったいどういうことをしているか?といつも思っていたわけです。この雑誌で、映画のつくりかたを見てみましょう。Amazon映像+(2011年12月号):映画のつくりかた『荒川アンダーザブリッジ』の企画プロデューサーへのインタビューを見てみましょう。<石田雄治プロデューサーへのインタビュー>p48 今回の「荒川アンダーザブリッジ」では企画を立案して作品の基礎(監督選定、脚本開発、キャスティング)を作り、ビジネスの根幹になる人たちを集めたところまで僕が担当しました。あとは幹事会社にお任せし、残りの委員会組成や宣伝や二次利用まわりに関しては、あまりタッチしていません。 映画の原作は、敢えてベストセラーを避けて探します。メジャーな作品はだいたいTV局やメジャー配給会社と必ず競合するので(笑)。あとマンガの実写化は、どうしても原作のビジュアルに引きずられるからハードルが高いと思って今まで手を出しませんでした。でも今回のこの作品はそこを超越しているような気がして…実写化すること自体がイベント的で面白いかなと(笑)。 企画当初からコミックは売れていたから、アニメ化はされるなとは思っていたんですけど、まさか実写化は誰もしないだろうと。 実際問い合わせたら、アニメ化の企画だけ来てますと。そこでまず実写化の原作オプション契約を交わし、原作を優先的に実写化する権利を取得しました。僕の場合は大体、この段階で監督・脚本家をある程度決めて、プロットを作ります。 オプション契約取得のための企画書には、実写化に賭ける想いやイメージは当然ながら、映画なら公開規模、TVドラマなら放送形態、あと委員会構成や製作費、スケジュール、想定キャスト、そして監督・脚本家といった具体的なことまで書きます。何と言ってもまず原作の権利を取得しないと始まりませんからね。ここは重要です。 この企画だったら原作を渡してみようと出版社なり原作者に思ってもらうため、大嘘は書けないですけど、自分ができうる範囲の製作内容を伝えます。あと監督が誰なのかというのは、かなり重要だったりします。 今回の飯塚監督はほぼ新人に近かったので、彼がいかにこの作品の監督に向いているのかということを十二分に説明したうえで、映画だけではなく、彼の才能とこの作品の特性を活かしたショートドラマもやりますというところまで書きました。(中略) 一番大変だけど逆に一番面白いのは、このあとの企画開発ですね。原作権を取得した後、監督と共に脚本家(今回は監督が兼任)と脚本作りをするのですが、映画にとっての設計図ですから、ここが全ての肝。試行錯誤しながら、皆が納得いくまで何度も作り直します。この設計図が素晴らしければ、良いキャストが集まり、企画が正式に成立するわけです。 この過程はいつも胃が痛くなる時期ですが、成立した時の充実感は、僕にとって映画が完成した時より、いや映画がヒットした時より、あるかもしれません。企画ができた後、製作委員会の設立、キャスティング、スタッフィング、衣装、撮影、VFX等いろんな作業があるようですが・・・美術監督のところを見てみましょう。<相馬直樹。美術監督へのインタビュー>p61 演出部の原さんに声をかけていただき、プロデューサーと会ってマンガを読んで、世界観を見つつ、台本を読んだんです。おお、何か、いいなあなんて思いながら…。不思議なシュールな世界観じゃないですか、台本を読みながらプッと笑ってみたり、面白そうだと思いましたね。 いろいろマンガ原作の映画をやってきましたが、「20世紀少年」と「BECK」は監督の意向がそのマンガの世界観を忠実に再現することだったから、それはそれで面白いんですが。実は…マンガ通りのセットっていっても、マンガって都合のいいように描いてるんですよ。そこを、どうやってマンガどうりの印象に見せるか、ある種やりがいにはなるんです。(中略) 美術監督として一番大事なことは周りをやる気にさせることができるかということですね。助手、大道具、装飾、塗装、左官、造園を、いかに一つの方向に向かわせるか。それがないとキツイ現場はもたないんですよ。一歩間違うと、けっこう負のほうにいく現場もあるんです。
2015.08.06
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ジョン・ダワーさんがインタビューで「国民が守り育てた反軍事の精神、それこそが独自性」と説いているので、紹介します。安部さんの70年談話にダワーさんを引用すれば、格調高くなるのだが・・・それはないか(笑)。(ジョン・ダワーさんへのインタビューを8/04デジタル朝日から転記しました) あの戦争が終わって70年、日本は立つべき場所を見失いかけているようにみえる。私たちは何を誇りにし、どのように過去を受け止めるべきなのか。国を愛するとは、どういうことなのか。名著「敗北を抱きしめて」で、敗戦直後の日本人の姿を活写した米国の歴史家の声に、耳をすませてみる。Q:戦後70年を振り返り、日本が成したこと、評価できることは何だと考えますか。A:以前、外務省の高官から『日本はソフトパワーを重視する』と聞かされたことがあります。日本車、和食、漫画やアニメ、ポップカルチャー。世界が賛美するものは確かに多い。しかし、例えばハローキティが外交上の力になるかといえば、違うでしょう。世界中が知っている日本の本当のソフトパワーは、現憲法下で反軍事的な政策を守り続けてきたことです。 1946年に日本国憲法の草案を作ったのは米国です。しかし、現在まで憲法が変えられなかったのは、日本人が反軍事の理念を尊重してきたからであり、決して米国の意向ではなかった。これは称賛に値するソフトパワーです。変えたいというのなら変えられたのだから、米国に押しつけられたと考えるのは間違っている。憲法は、日本をどんな国とも違う国にしました。Q:その理念は、なぜ、どこから生じたのでしょうか。A:日本のソフトパワー、反軍事の精神は、政府の主導ではなく、国民の側から生まれ育ったものです。敗戦直後は極めて苦しい時代でしたが、多くの理想主義と根源的な問いがありました。平和と民主主義という言葉は、疲れ果て、困窮した多くの日本人にとって、とても大きな意味を持った。これは、戦争に勝った米国が持ち得なかった経験です。 幅広い民衆による平和と民主主義への共感は、高度成長を経ても続きました。敗戦直後に加えて、もう一つの重要な時期は、60年代の市民運動の盛り上がりでしょう。反公害運動やベトナム反戦、沖縄返還など、この時期、日本国民は民主主義を自らの手につかみとり、声を上げなければならないと考えました。女性たちも発言を始め、戦後の歴史で大切な役割を果たしていきます。Q:政治は何をしたでしょう。A:私の最初の著書は吉田茂首相についてのものですが、彼の存在は大きかった。朝鮮戦争の頃、国務長官になるジョン・ダレスは、憲法改正を要求してきました。吉田首相は、こう言い返した。女性たちが必ず反対するから、改憲は不可能だ。女性に投票権を与えたのはあなた方ですよ、と。 その決断はたいへん賢明だったと思います。もし改憲に踏み込めば、米国はきっと日本に朝鮮半島への派兵を求めるだろうと彼は思った。終戦のわずか5年後に、日本人が海外に出て行って戦うようなことがあれば、国の破滅につながると考えたのです。 その決断の後、今にいたるまで憲法は変えられていません。結果、朝鮮半島やベトナムに部隊を送らずに済んだ。もし9条がなければ、イラクやアフガニスタンでも実戦に参加していたでしょう。米国の戦争に巻き込まれ、日本が海外派兵するような事態を憲法が防ぎました。 ■ ■Q:現政権が進める安保法制で、何が変わると思いますか。A:日本のソフトパワーが試練にさらされています。集団的自衛権の行使に踏み込み、日本を『普通の国』にするというのが保守政治家らの考えですが、普通とは何を指すのか、私には分かりません。国際的な平和維持に貢献するといいつつ、念頭にあるのは米軍とのさらなる協力でしょう。米国は軍事政策が圧倒的な影響力を持っている特殊な国であり、核兵器も持っている。そんな国の軍隊と密接につながるのが、果たして普通なのでしょうか。Q:戦後の日本外交は、米国との関係を軸にしてきました。A:日本の外交防衛政策を知りたければ、東京でなくワシントンを見ろとよく言われます。環太平洋経済連携協定(TPP)への参加しかり、アジアインフラ投資銀行(AIIB)加盟についての判断しかり。核戦略を含め、米国の政策を何でも支持するのが日本政府です。その意味で、戦後日本の姿は、いわば『従属的独立』だと考えます。独立はしているものの、決して米国と対等ではない。 過去を振り返れば、安倍晋三首相がよく引き合いに出す、祖父の岸信介首相が思い浮かびます。岸首相は確かに有能な政治家ではありましたが、従属的な日米関係を固定化する土台を作った人だと私は考えています。 同様に、孫の安倍首相が進める安全保障政策や憲法改正によって、日本が対米自立を高めることはないと私は思います。逆に、ますます日本は米国に従属するようになる。その意味で、安倍首相をナショナリストと呼ぶことには矛盾を感じます。Q:現在のアジア情勢を見れば、米軍とのさらなる協力が不可欠だという意見もあります。A:尖閣諸島や南シナ海をめぐる中国の振る舞いに緊張が高まっている今、アジアにおける安全保障政策は確かに難題です。民主党の鳩山政権は『東アジア共同体』構想を唱えましたが、それに見合う力量はなく、米国によって完全につぶされました。 だからといって、米軍と一体化するのが最善とは思えません。冷戦後の米国は、世界のどんな地域でも米軍が優位に立ち続けるべきだと考えています。中国近海を含んだすべての沿岸海域を米国が管理するという考えです。これを米国は防衛と呼び、中国は挑発と見なす。米中のパワーゲームに日本が取り込まれています。ここから抜け出すのは難しいですが、日本のソフトパワーによって解決策を見いだすべきです。 ■ ■Q:対外的な強硬姿勢を支持する人も増えています。A:ナショナリズムの隆盛は世界的な文脈で考えるべきで、日本だけの問題ではありません。今、世界のいたるところで排外主義的な思想がはびこり、右派政治の出現とつながっています。グローバル化による格差が緊張と不安定を生み、混乱と不安が広がる。 そんな時、他国、他宗教、他集団と比べて、自分が属する国や集まりこそが優れており、絶対に正しいのだという考えは、心の平穏をもたらします。そしてソーシャルメディアが一部の声をさらに増殖して広める。これは、20年前にはなかった現象です」 北朝鮮や中国は脅威のように映りますが、本当に恐ろしいのはナショナリズムの連鎖です。国内の動きが他国を刺激し、さらに緊張を高める。日本にはぜひ、この熱を冷まして欲しいのです。Q:では、日本のソフトパワーで何ができるでしょうか。A:福島で原発事故が起き、さらに憲法がひねり潰されそうになっている今、過去のように国民から大きな声が上がるかどうかが問題でしょう。今の政策に国民は疑問を感じています。安倍首相は自らの信念を貫くために法治主義をゆがめ、解釈によって憲法違反に踏み込もうとしている。そこで、多くの国民が『ちょっと待って』と言い始めたように見えます。 繰り返しますが、戦後日本で私が最も称賛したいのは、下から湧き上がった動きです。国民は70年の長きにわたって、平和と民主主義の理念を守り続けてきた。このことこそ、日本人は誇るべきでしょう。一部の人たちは戦前や戦時の日本の誇りを重視し、歴史認識を変えようとしていますが、それは間違っている。 本当に偉大な国は、自分たちの過去も批判しなければなりません。日本も、そして米国も、戦争中に多くの恥ずべき行為をしており、それは自ら批判しなければならない。郷土を愛することを英語でパトリオティズムと言います。 狭量で不寛容なナショナリズムとは異なり、これは正当な思いです。すべての国は称賛され、尊敬されるべきものを持っている。そして自国を愛するからこそ、人々は過去を反省し、変革を起こそうとするのです。 *John Dower:38年生まれ。マサチューセッツ工科大学名誉教授。著作に「吉田茂とその時代」、ピュリツァー賞受賞の「敗北を抱きしめて」など。<取材を終えて> とても大切なものなのに、思いのほか、本人は気づいていない。外から言われて、かけがえのなさを知る。よくあることだ。敗戦後に日本が手にしたものこそ世界に誇りうる、という指摘にはっとした。そうか、自分たちの手元を見つめればいいんだ。 戦後の日本人は立場を問わず、自らの国を愛することに不器用になっていたのだろう。反発したり、逆に突っ走ったり、どこかの国に依存したり。愛国という言葉に素直になれない。70年前、形容しがたいほど惨めで痛ましい敗戦を経験し、国家への信頼を一度、完全に失ったのだから、それも当然なのだが。 戦後70年の夏は、この宿題に向き合う好機かもしれない。国家という抽象的なものではなく、戦後を生き抜いた一人ひとりの道程にこそ、よって立つ足場がある。 (ニューヨーク支局長・真鍋弘樹)日本の誇るべき力ジョン・ダワー2015.8.04 この記事も朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2015.08.05
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大学図書館で観たDVD映画のその後です。このところ、鑑賞ペースが落ちているが・・・劇場で観る映画の迫力には敵わないと思うからでしょうか。・花よりもなほ(2015.7.08観賞)・サマーウォーズ(2015.8.03観賞)なお、この2本ともブログ友推薦によるものです。****************************************************************************【花よりもなほ】是枝裕和監督、2006年制作、2015.7.08観賞<Movie Walker作品情報>より「誰も知らない」の是枝裕和監督が岡田准一主演で描く人情味あふれる時代劇。仇討ちで江戸にやってきた若い侍が、人々とのふれあいを通して、人生の意味を見つめなおす姿を描く。<大使寸評>コメディータッチ、そして時代劇のこの作品は是枝監督にとっては(今、思えば)異色のジャンルとなっていますね。・・・豊富な役者を使って、儲かる映画にチャレンジしたんだろうか?住居や衣装がきたないと、ブログ友から事前に警告されてはいたが・・・いや、聞きしに勝るきたなさであった(笑)このきたないセットを作った美術スタッフのなみなみならぬ頑張りに座布団1枚やで♪きたない長屋に、宮沢りえが演じる未亡人・おさえが登場するが、文字通り「掃き溜めにツル」という感じでおま♪武芸の素養がイマイチの若者が、親族の援助と期待を背負って仇討ちに望むわけだが・・・・悲劇的な状況であっても、仇討ちの芝居で誤魔かそうとする積極性がいいわけです(笑)赤穂浪士の仇討ちと併行して若者の仇討ち劇が進行するのだが、若者と父親の描き方に是枝監督らしさが見えるような気がするのです。movie.walker花よりもなほ【サマーウォーズ】細田守監督、2009年制作、2015.8.03観賞<Movie Walkerストーリー>より現実と同様の仮想都市OZが作られ、世界の隅々まで行きわたるようになった現代。東京・久遠寺高校2年生、物理部所属の小磯健二は、天才的な数学力を持ちながらも数学学生チャンピオンの座を取りそこない、自信をなくしかけていた。夏休みには友人と共にOZの保守点検のアルバイトをする予定だったが、ふとしたきっかけから憧れの先輩、篠原夏希に誘われて長野県の高原・上田市を訪ねることになった。そこは室町時代から続く戦国一家・陣内家で、夏希の曾祖母・栄(富司純子)の90歳の誕生日を祝うため、各地から医者や漁師、消防士、水道局員、電気店経営、警官や自衛隊の将校、小学生や赤ん坊まで、多彩な親戚が集まってくる。そこで健二は突然、夏希からフィアンセを装うよう頼まれる。<大使寸評>アニメ作りは、世界に「希望を持ってます」と表明するようなものと細田監督は語っていました。…なかなか含蓄のあるスタンスではないですか♪いま、細田監督の新作『バケモノの子』が公開されているが、このアニメを観る前に旧作『サマーウォーズ』を観ておきたいと思ったわけです。観たあと、とにかく・・・宮崎さん、高畑さんのジブリアニメを継ぐ監督ではないかと思ったわけです。(褒めすぎたかな)movie.walkerサマーウォーズ****************************************************************************大学図書館でDVD観賞(その14)
2015.08.04
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図書館で借出し予約していた『イスラム国』という本を手にしたが・・・・「イスラム国」の自爆トラック作戦に、クルド人部隊も苦戦しているようです。今後のシリア戦線の行方は、展望が開けるのか?【イスラム国】ロレッタ ナポリオーニ著、文藝春秋、2015年刊<「BOOK」データベース>より対テロファイナンス専門のエコノミストが放つまったく新しい角度からの「イスラム国」―。多頭型代理戦争の間隙をつき、領土をとり、いち早く経済的自立を達成した「イスラム国」は、テロリストがつくる史上初めての国家となるのか?<読む前の大使寸評>「イスラム国」の自爆トラック作戦に、クルド人部隊も苦戦しているようです。今後のシリア戦線の行方は、展望が開けるのか?それにしても、ネットを駆使する多頭型代理戦争とは・・・・アラビアのロレンス時代には考えられない様変わりである。<図書館予約:(2/25予約、7/29受取)>amazonイスラム国<はじめに>からイスラム国の特徴を見てみましょう。p26~27 <世界の多極化を熟知しその間隙をつく> この組織が、冷戦期も含めて先行するどの武装集団とも決定的にちがう点は、その近代性と現実主義にある。この二点はまた、少なくとも彼らの立場からしてこれまでのところ大成功を収めてきた理由でもある。「イスラム国」の指導者は、グローバル化し多極化した世界において現代の大国が直面する限界を、驚くほど明確に理解している。たとえば、リビアやイラクで行われたような国際的な協調介入がシリアでは不可能であることを、他の組織に先駆けて鋭く嗅ぎ付けていた。そこで「イスラム国」の指導者は、ほとんど誰にも気づかれないうちに、シリア内戦を自分たちの有利になるように巧みに利用した。 シリア内戦は、武装集団に多数の国や組織が金を出す、おなじみの代理戦争の現代版と言える騒乱である。シリアの体制転覆を狙うクウェート、カタール、サウジアラビアは、多数の武装組織に気前よく資金援助を行っており、「イスラム国」もそうした組織の一つにすぎなかった。ところが「イスラム国」はスポンサーのために戦うことをあっさり放棄し、その資金を使って、シリア東部の油田地帯など収入源となりうる戦略的な地域に本拠地を築いたのである。 これまで中東の武装組織の中で、金持ちの産油国から資金提供を受けた挙句に自ら新しい地域支配者を名乗るにいたった集団は、一つもなかった。 <多くのスンニ派の人々にとっては頼もしい政治運動と映っている> タリバンの荒々しい主張とは対照的に、また敵に対する残虐行為とは裏腹に、「イスラム国」がムスリムに向けて発する政治的なイメージは、ある意味で力強く魅力的だ。カリフ性に回帰しよう、これこそがイスラムの新しい黄金時代だ、という呼びかけである。中東が混乱に陥っているまさにこの時期にこのメッセージが発されたことに、大きな意味がある。 シリアとイラクは戦渦に巻き込まれ、リビアは内戦再燃の危機にあり、エジプトは事実上軍が支配する不穏な状況で、イスラエルはまたしてもガザ地区で戦闘中だ。こうした状況でのカリフ性国家の再興と新カリフの登場を、多くのスンニ派の人々は、新たな武装集団の出現とは受けとめていない。数十年におよぶ戦争と破壊の末にとうとう頼もしい政治主体が誕生したのだと感じている。 この「イスラムの不死鳥」が具体的な行動に出たのは、断食と祈りのための聖なる期間である2014年ラマダンの第一日目だった。この事実から、「イスラム国」」は、ムスリムが国民の多数を占める57のイスラム諸国すべての正統性に疑義を呈したと理解すべきだろう。イスラム国の戦士の報酬やモチベーションを見てみましょう。 <シリアにおける最初の偽装国家の建設>p78~80「イスラム国」は、テロをビジネスにして経済的自立を図る過程で、偽装国家がカリフ性国家の再興という野望の実現にとって、じつに具合のいいモデルであることに気づいたようだ。偽装国家は、一つの都市圏程度に小さくてもいいし、通常の国家と変わらないほど大きくてもいい。それに、政治的統合を果たす必要はないので、建設も管理も容易だ。 偽装国家の建設に理想的な環境は、戦争で荒廃し、あらゆるインフラが破壊され、中央の政治権力が届かないような孤立した地域である。そのような地域では、偽装国家の支配者は政治権力を独占できる。あとは、民主的に住民のコンセンサスを得ればよい。こうしたわけで、偽装国家の建設では政治より経済が優先される。そして偽装国家には、安上がりだという利点もある。経済は基本的に戦争経済とテロ・ビジネスに限られているからだ。軍事費以外の支出は必要最低限に切り詰められ、住民には最低限の必需品さえあてがっておけばよい。 過去の偽装国家モデルでは、戦争が唯一の収入源だった。「戦争は人生そのものだ」―アフガニスタンのショマリ平原から来たという反タリバン組織「北部同盟」の戦士は語っている。たしかに、戦闘員が手にする報酬は一般市民よりはるかに高い。対照的に、カリフ性国家の経済は征服戦争にのみ依存しているわけではないし、傭兵のような雇用形態のジハード戦士たちにしても、高い報酬だけが目当てではない。それどころか、戦士の忠誠心を高める必要があるにもかかわらず、「イスラム国」の報酬はシリアやイラクの労働者階級よりも低いのである。 最近機密指定が解除されたアメリカ国防総省の資料によると、記録をとり始めてから現在までの全期間にわたって、「イスラム国の歩兵の平均給与は月41ドルで、イラクの肉体労働者の給与よりはるかに低い。たとえばイラクのレンガ職人は月平均150ドル稼ぐ。対テロ専門家が以前から指摘してきたように、イスラム国のような組織のメンバーは、イデオロギー的な動機が強いため、志願兵の流出を防ぐために金銭的インセンティブを用意してもあまり効果は期待できまい」 「イスラム国」の兵士の士気を高めるのが報酬ではないとしたら、何なのか。それは、近代的なカリフ性国家、理想のイスラム国家の建設という高邁な目標である。イスラム国ではプロフェッショナルなスキルが駆使されているが・・・有志連合がこれに対抗するには、第三の道を模索するしかないようです。p166~170 <欧米の軍事介入の行方> 本書の執筆中、「イスラム国」が中東で火の手を上げる一方で、民主主義を求める若者が「雨傘革命」で香港を麻痺させた。二つの出来事に共通性はあるのだろうか。また、国家を名乗り中東の地図を血で塗り替えようとする残忍なテロ組織と、民主化を要求した「アラブの春」の間には何らかの関連性が存在するのだろうか。 この10年間の民主化運動の多発とカリフ性国家の出現は、いずれも多極化した今日の世界秩序の産物だと言える。世界の多極化は、冷戦が終わったときに始まった。「アラブの春」と「イスラム国」は、現代におけるヤヌス(双面神)なのだ。つまり、中東の腐敗した指導者という同じ問題に対する二つの答である。では、前者が失敗に終わったのに、後者がいまのところ成功しているのはなぜだろう。 本書で見てきたように、「イスラム国」はけっして新種のテロ組織ではないが、きわめて今日的な存在ではある。このことが、成功の原動力になっているのだろうか―その可能性はある。欧米とイスラムの同盟国は新しい国際政治環境の出現を認めたがらないが、「イスラム国」はそれにうまく適応し、さらに徹底的に活用した。 世界が多極体制に移行し、中国を始めとする新興勢力がアメリカのパワーに対抗できるようになると、従来の外交政策は通用しなくなる。中国とロシアが拒否権を行使する現状では、欧米が国連決議を得てシリアに軍事介入するといったことは、考えにくい。仮に、表向きは国際機関のお墨付きを得た大規模な有志連合をオバマ大統領が編成できたところで、「イスラム国」への軍事介入はイラク周辺に限定され、しかも地元の正規軍や民兵組織を援護するという形にとどまるだろう。 言い換えれば有志連合は、「イスラム国」と地上戦を交える意志を持つ集団であれば、何によらず支持するということである。それは、すでに広い範囲で戦われている代理戦争をひたすら拡大するだけだ。このアプローチは、他の集団による「イスラム国」の摸倣・追随を促しかねない。同じような集団が次々にスポンサーから資金援助を受けて独自の国家を名乗り、中東を一段と混乱に陥れる危険性は十分にあるのだ。 <第三の道はあるか?> クルド人民兵組織ペシュメルガとクルド労働者党(PKK)は、いまだにアメリカが「」に指定している組織である。しかしアメリカとヨーロッパは、彼らに武器を提供する決定を下した。この決定によって、クルド人が人口の20%を占めるトルコにおける独立派クルド人の戦いの構図は、はやくも書き換えられた。トルコのいくつかの都市では、クルド人とトルコ人の激しい武力衝突がすでに起きている。ヨーロッパ各地ではクルド人の独立を支援するデモが繰り広げられており、欧州議会を一時的に占拠する事態も発生した。 一方、軍事介入の問題は引き続き有志連合軍を困惑させている。空爆だけでは「イスラム国」の進撃を止められないことは、次第にあきらかになってえきた。となれば、イラクに再び地上軍を投入するかどうかが早急に議題に上がるだろう。結果がどうなるにせよ、外国の軍事介入が中東の不安定化の解決にならないことはあっきりしている。これまでにも解決できなかったし、これからもできまい。したがって、これ以上の犠牲や破壊を食い止めるためには、より現実的なアプローチが必要になる。その際には、この地域に新しいパワーが存在することをまず認識し、代理戦争は結局ブーメランのように我が身に跳ね返って来るだけであることを理解しなければならない。この新しいパワーに対抗するには、戦争以外の手段を模索すべきである。 多極体制の出現は、ゲームの新しいルールを知り尽くした人間に、これまでにない機会を提供した。「イスラム国」がシリアにおける代理戦争をいかに巧みに活用したかは、すでに本書で述べたとおりである。彼らはまた、強力なプロパガンダを通じて、オバマ率いる有志連合の非現実的な矛盾を鋭く突いてみせた。(中略) 「アラブの春」の失敗。「イスラム国」の成功。これ以外に、第三の道はありうるのだろうか。答はイエスだ。第三の道には、教育、知識、そして変化の速い政治環境に対する深い理解を必用とする。だがスマアートフォンを駆使する若い戦士も、グレーのスーツに身を包んだ政治家も、まだこのことに気づいていない。
2015.08.03
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図書館で『映像+(2007年2月号):シド・ミード大特集』という雑誌を手にしたが・・・・シド・ミードといえば、『ブレードランナー』の美術監督であり、モロに大使のツボでんがな♪だけど、この雑誌を借りるのは2度目であることが、過去の日記から判ったのです(汗)【映像+(2007年2月号):シド・ミード大特集】雑誌、グラフィック社、2007年刊<「BOOK」データベース>より(雑誌につきデータなし)<読む前の大使寸評>シド・ミードといえば、『ブレードランナー』の美術監督であるが・・・シド・ミード大特集ということで、この本を借りたのです。だけど、この雑誌を借りるのは2度目であることが、過去の日記映画美術といえば、シド・ミードを読んで判明しました(汗)amazon映像+(2007年2月号):シド・ミード大特集シド・ミードへのインタビューを見てみましょう。<シド・ミード、インタビュー>p12~18兵役時代、沖縄基地に配属されたのが、日本の初体験。それ以降、ずっと日本やアジア的デザインにどこか惹かれていたという。あの世界観を描いた人物とは?そのキャリアから仕事について、尋ねてみた。 Q:映画の美術デザインをはじめたきっかけは?SYD:最初の映画の仕事は1978年、45歳のときだね。劇場版「スター・トレック」だ。「スター・トレック」なんて聞いたこともなかったんだが、アポジー(当時トップクラスのVFX工房)のジョン・ダイクストラとボブ・シェパードが、デザイン画集を見て私の名前を知っていたらしく、「スター・トレック」のデザインをしないかと声をかけてきた。私はさまざまな企業でデザインをしていて、すでに仕事は安定していた。だから、金銭的なことは抜きにして、まったく違う映画という世界に挑戦してみよう、と思ったんだ。 それまでは、ハインラインが好きでSF小説は読んでいたけど、SF映画は子供の頃に観た「フラッシュ・ゴードン」くらいで、ほとんど見ていなかった。「スター・トレック」でデザインしたのは、クライマックスに出てくるヴィジャー。20キロメートルくらいの6つのパーツからできた機械生命体だ。 当時住んでいたのはオランダ。フィリップス社の仕事をしていたからね。私のスケッチを、パラマウントの社員が何度もオランダまでジェット機で取りに来たんだ!とてもよい待遇だろ(笑)。映画の世界ではスタート時からエグゼクティブ待遇だった。別の言い方をすればスポイラー状態、甘やかされていたんでね(笑)。 Q:インダストリアル・デザイナーから映画のデザイナーへ違和感なく入れましたか?SYD:どちらも、私にとっては同じだね。顧客が何を求めていあるのかを理解した上での明確なヴィジョン。これがあれば、どんな仕事でも大丈夫だよ。インダストリアル・デザインは、人々の生活をデザインするものだ。映画の仕事も、物語の中の人々がいる空間をデザインするものだからね。(中略) Q:何度も来日していますが、日本での仕事を通じてご自身が影響を受けたことはありますか。SYD:日本には、軍にいた53年頃に沖縄に駐屯したのが最初だね。その後、東京だけでなく、横浜、奈良、京都、長崎など日本のいろんなところに行った。長崎オランダ村に行った時は、本当のオランダみたいな広大なチュ-リップ畑があって感激したよ。デザインの仕事だと、「スター・トレック」や「ブレードランナー」を終えた83年頃に、原宿で私の作品を展示し、講演をした。会場では「シドさん!シドさん!」とみんながコールしてくれ、驚いたね。日本ではあのときから私の名前が知られたと思う。 私にとって東京のイメージは、丹下健三なんだ。彼がデザインした建築物は、とても的確でクリーン。完成されているから大好きだよ。
2015.08.02
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昨日、暇な大使が三宮駅近辺をブラついていたら、兵庫県古書組合主催の古本市に遭遇したのです。・・・で、手元不如意の大使がゲットしたのがこの2点です。双方とも300円なりのお手ごろ価格でおました♪1983年のアサヒグラフの決め手は、なんといっても杉浦日向子のカラー漫画でおま。一方、作りのしっかりした豆本は弘前市の出版社が1978年に出版したものです。奥付けに、限定250部のうち第20番本との記述がありました(20の数字は手書き)だいたい、古本の値段なんて希少価値が第一であって、本の内容とか文化なんて二の次なんである。買う大使のほうも、希少価値なんてどうでもいいわけで、本の内容さえ良ければいいわけで・・・これって双方にとって、案外とWin-Winの関係ではないだろうか♪豆本は「緑の笛豆本」ということなので、ネットで捜すと、以下ヒットしましたが・・・オークションの対象にもならないということで、残念ながら『南部小絵馬』にはたどりつくことはできなかったのです。この『南部小絵馬』に載っている小絵馬はすべて青森県の、旧南部領七戸町にある見町観音堂および小田子不動堂に奉納されていたものだそうです。…民俗学的資料としても、ええやんけ♪第136回常設展示 豆本-ちひさきものの世界より<緑の笛豆本>大判の版画集『緑の笛』を20冊刊行した後、1965年8月より豆本となりました。弘前の蘭(らん)繁之氏が版元です。当館では、1975年刊の第79集より所蔵しています。現在でも刊行中であり、内容的には多岐にわたりますが、石川啄木や太宰治など文学に関する書物が多いのが特徴です。◆24) 『宮沢賢治と南部』(緑の笛豆本第310集) 9.4×7.4cm宮城一男著 緑の笛豆本の会 1994年【Y99-E249】 ◆25) 『太宰との接点』(緑の笛豆本第321集) 9.4×7.5cm木立民五郎著 緑の笛豆本の会 1995年【Y99-E282】 ◆26) 『啄木と岩手日報』(緑の笛豆本第354集) 9.5×7.5cm駒井耀介著 緑の笛豆本の会 1998年【Y99-G85】 ・・・とまあ、古本市は楽しいでぇ♪
2015.08.01
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日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠・中国環境汚染の政治経済学 ***************************************************************世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠より<格差見つめる冷静さと温かさ:諸富徹(京都大学教授・経済学) > 本書は、ノーベル経済学賞を受賞した米国の碩学による現代資本主義への深い憂慮の書である。大きな話題となったピケティ『21世紀の資本』が1980年以降の格差拡大を証明したことに、スティグリッツは深く同意する。もっとも、ピケティが強調するように、格差拡大傾向は確かに資本主義の本性だが、70年代までは経済的規制と高度な累進税制、そして平等な社会が、高度経済成長と両立しえた。 しかし、レーガン政権の成立した80年代以降、規制緩和、金融自由化、そして累進税制の「フラット化」により、資本主義は大きく変質した。起きたのは、不平等の顕著な拡大と経済の金融化だ。その果てに、バブルの生成と崩壊を繰り返し、格差を常に拡大させる社会が生まれた。所得から消費に回す比率が小さい富裕層に富が集中した結果、GDPの最大項目である民間消費は落ち込み、資本主義は著しく不安定化した。 資本主義の再生に重要なのは、「機能する政府」だ。富裕層に課税し、弱者に対するセーフティーネットを強化し、教育と技術とインフラへの投資を増額しなければならない。それが、未来を引き寄せる鍵だ。 本書では彼の「原点」が語られる。とりわけ「キング師がわたしの研究に与えた影響」と題する格調高く美しい一文は、我々に感銘を与える。人種差別、貧困、社会的不公正への怒り、問題意識を育んだ彼の生い立ち、人種統合を目指した学生時代、社会問題解決のために物理学から経済学に転じたこと……。 彼は何よりも、大統領経済諮問委員会の長、世界銀行チーフエコノミストなどへの奉職を通じて、社会的公平性のために闘ってきた。スティグリッツこそ、近代経済学の祖であるマーシャルが理想とした「冷静な頭脳と温かい心」の絶妙な結合の見本であり、我々は、現代における最良の経済学者の姿をここに見出す。 ◇ジョセフ・E・スティグリッツ著、徳間書店、2015年刊<「BOOK」データベース>より格差は、冷徹な資本主義の結果ではない。1%の最上層が、自分たちの都合のいいように市場のルールを歪め、莫大な利益を手にし、その経済力で政治と政策に介入した結果なのだ。だが格差の拡大は、経済や社会の不安定と混乱をもたらし、やがてはすべての人々を危機へと導くー。この負の連鎖を止めるために、我々はいったい何をすべきなのか?ノーベル賞経済学者スティグリッツが、すべての人によって繁栄が共有されるための道筋をしめす!【目次】Prelude 亀裂の予兆/第1部 アメリカの“偽りの資本主義”/第2部 成長の黄金期をふり返る(個人的回想)/第3部 巨大格差社会の深い闇/第4部 アメリカを最悪の不平等国にしたもの/第5部 信頼の失われた社会/第6部 繁栄を共有するための経済政策/第7部 世界は変えられる/第8部 成長のための構造変革/余波 すべての人に成功の基盤を<読む前の大使寸評>アメリカの経済学者は原則として信用しないのであるが、スティグリッツさんはマシではないかと思うわけです。<図書館予約:未>rakuten世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠中国環境汚染の政治経済学より<歓迎される汚染企業、構造探る:諸富徹(京都大学教授・経済学)> 中国の環境問題は依然として深刻だ。中国由来のPM2.5(微小粒子状物質)が日本にも飛来、話題となったのは記憶に新しい。中国では、女性記者がPM2.5問題を告発したドキュメンタリーがネット公開され、人々に大きな衝撃を与えた。企業は汚染を垂れ流し、成長優先の中で環境保護部はそれを取り締まろうとしない。結局、被害が集中するのは、弱い立場の市民だ。 本書が読者を引き込むのは、こうした問題の根っこにある政治経済構造を掴み出そうとしているからだ。いま、北京・天津両市に隣接する河北省が中国最大の汚染源になっているという。2008年の北京オリンピックに向けて中国政府が強制的に閉鎖させた汚染企業がこぞって移転したからに他ならない。 とりわけ鋼産業が集中、莫大な量の石炭が基準を守らずに燃やされ、汚染物質がまき散らされている。河北省が汚染企業を受け入れる背景には、この地域の貧困がある。そうしてでも、彼らは所得と雇用を増やしたいのだ。おのずと環境規制は緩められる。 しかも、経済成長に乗り遅れた省はどこも、汚染企業の誘致に熱心だ。彼らの間で環境規制の切り下げ競争が始まり、事態はますます悪化する。著者はこれを、「底辺への競争」と呼ぶ。汚染企業の製品の販売先は、実は日本を含めた先進国企業であり、中国の汚染がグローバルな産業連関の中で起きている問題であることも明らかにされる。 では、どうすればよいのか。著者は、環境NGOの存在が決定的に重要だと指摘する。彼らは、汚染企業とサプライチェーンでつながる先進国企業の責任を提起することで、国際的連携の中で問題解決を図ろうとし、成果も上げつつある。 中国環境問題の解決が、単なる技術問題ではなく、その政治経済構造の変革に直結する課題であることを明らかにした好著だといえよう。 ◇知足章宏著、 昭和堂、2015年刊<「BOOK」データベース>より中国で深刻さを増す環境汚染の実態とは?大気汚染、産業公害、廃棄物問題、気候変動問題。どう発生したのか、なぜ対策が実行されながら解決に至らないのか。現地でのフィールドワークをもとに解明する。【目次】序章 現代中国における環境汚染への視座ー本書の狙いと目的/第1章 「最悪の大気汚染地域」をめぐる政治経済学ー貧困・開発・北京オリンピック/第2章 「癌村」とペットフードの繋がりー産業公害の背景にある「グローバル経済」/第3章 廃棄物・資源・汚染の狭間で揺れる政策ーE-Wasteリサイクル拠点としての中国/第4章 気候変動問題への責任は果たせるかー進む体制構築と制度の「見切り発車」への懸念/第5章 4兆元景気刺激策と中国版グリーン・ニューディールの実態ー環境保全と乱開発の混沌/第6章 補助金と指令の環境政策ー太陽熱温水器の爆発的普及と低炭素都市政策/終章 グローバル・イシューとしての中国環境汚染<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:未>rakuten中国環境汚染の政治経済学**************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本朝日デジタルの書評から73
2015.08.01
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