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【中古】期限)4.仮面ライダー THE MOVIE (完) 【DVD】/高杉俊价 劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー オリジナルサウンドトラック [ (キッズ) ] 南光太郎は、親友の秋月信彦とともに暗黒結社ゴルゴムによって拉致される。そして、ゴルゴムの次期創世王候補として生体改造されしまった。 だが、光太郎は過去の記憶を消される寸前に、ゴルゴム神殿を脱出。そして、仮面ライダーBLACKとしてゴルゴムと闘うこととなる。それは同時にシャドームーンと姿を変えた親友信彦と対立することにもなってしまった。 そして、物語も佳境に入り、第47話、第50話など、BLACKとシャードームーンは大バトルを繰り広げる。 さて、このシャードームーン、メタリックなボディがカッコよく、足首のあたりに羽が生えたようなレッグトリガーといわれるものを装着?している。 そして、シャドームーンが歩を進めるたびに、カシャ、カシャっと不気味な音をたて、レッグトリガーの先端が上下に跳ねるように動く。シャドームーンの個性を際立たせているのだが、人によっては「歩きにくそう」との感想をもらすこともある。 このレッグトリガーだが、BLACKとのバトルにおいては、出現したり消えたりする。 どういうことかというと、シャドームーンとBLACKが対峙するシーンでは、確かにシャドームーンの足首あたりにレッグトリガーが目視できる。しかしながらいったん格闘が始まると、レッグトリガーはなくなってしまう。同時に、シャドームーンの足部の形状も硬いロボットみたいなものからやわらかい材質に変わっているように見受けられる。 シャドームーン は、戦闘モードになるとレッグトリガーが消え失せる。 やはり、「歩きにくそう」と見えるように、レッグトリガーは動きづらく、格闘には不向きなのだろうか。 これは、戦う段になってレッグトリガーを取り外して傍に置いておくとかではなく、平成仮面ライダーのフォーム・チェンジの走りと見てよいだろう。 例えば、第47話「ライダー死す」にはこんなシーンがある。 シャードームーンとBLACKの踵蹴りが打ち合いになる。 シャドームーン がキックを打ち出す構えの時点では、レッグトリガーはない。 しかし、次のカットで踵蹴りが交差した瞬間はレッグトリガーが出現し、BLACKの踵を挟み込んで捻り倒す。そして次に倒れたBLACKをシャドームーンが攻撃するカットでは、レッグトリガーは消えていた。 カットが変わっているので、レッグトリガーが出現したり引っ込んだりする瞬間はわからない。だが、レッグトリガーが武器として必要に応じて出現することがよくわかった。 シャドームーン とBLACKは、映画版仮面ライダーBLACK『恐怖!悪魔峠の怪人館(1988)』でも熱い戦いを展開する。 この映画版では、レッグトリガーがないフォームでシャドームーンが歩行シーンするシーンがある。 このとき、あのカシャ、カシャという音が聞こえてくる。 ということは、カシャ、カシャは、レッグトリガーが動く音ではなかったのか? おまけ 『仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー(2009)』で、シャドームーンは初登場の仮面ライダーWと対戦している。このときは、レッグトリガーを着けたまま闘っていた。そして、Wのメタルシャフトではじき飛ばされてしまった。レッグトリガーを外していればそんなことはなかっただろうに、強豪シャドームーンはW売り出しの引き立て役となってしまった。 ヨーロッパから凱旋帰国した前田日明の初戦の相手を務め敗れたポール・オーンドーフを思い出したぞ。 きっとシャドームーンはデビュー戦だったWを甘く見たのだろう。ブログランキングクリックお願いします
December 2, 2018
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【中古】 仮面ライダー THE MOVIE VOL.4 /石ノ森章太郎(原作) 【中古】afb テレビ番組の仮面ライダーBLACKを見ていて、とても気になることがあった。 仮面ライダーBLACKは、番組の中でほぼ2回変身する。この2回の変身なんだけど、1回目の変身で敵を倒すことはまずない。ときに敵が複数の場合(怪人+幹部)には、1回目の変身で怪人を倒すことはある。だが、2回目の変身では幹部と闘いが控えている。そのような例外的な場合を除き、通常は1体の怪人を2回の変身でやっつけていた。 なぜ、1回の変身で怪人を倒すことができないのか。 この問題を解決するため〝簡易変身〟と〝本格変身〟という仮説を立てた。 そして、この仮説を検証するために「映画版仮面ライダーBLACK」を見てみた。 まず〝簡易変身〟と〝本格変身〟について説明しよう。 テレビ版は、コマーシャルを挟んで前半部分と後半部分に分かれている。 そして、南光太郎は、たいてい前半1回と後半1回、都合2回仮面ライダーBLACKに変身する。 テレビ版全51話のうち、2話ほどは前後半通して1回しか変身しないこともあったが。 〝簡易変身〟とは、前半部分での変身である。 この変身では、南光太郎は変身ポーズをとらない。怪人が襲ってくるなどして人々が危機に瀕している、急いで、あわてて変身しなければならない。だから、「変身!」と声を上げジャンプしている途中でBLACKに変わるなどする。〝ながら変身〟といってもいいだろう。 〝本格変身〟は、後半部分の変身である。こちらは顔の右側あたりで両のこぶしを上下に構え、「ギュギュギュ」と握りしめ、「ヘン〜シン!」という掛け声とともに変身ポーズをとり、そして光太郎の顔からBLACKへの顔へと変身する過程が見せられる。 前半での〝簡易変身〟では、数少ない例外はあるが、原則的に怪人などを撃退することには繋がらない。そして、〝本格変身〟は怪人(敵)を撃破できる。 これらを見る限り、仮面ライダーBLACKが1回目の変身で敵を倒せないのは、間に合わせの〝簡易変身(ながら変身)〟だからだといえるのではないか。〝簡易変身(ながら変身)〟では、ライダーパンチとライダーキックに威力はない。きちんと本来の手続きを踏み、〝本格変身〟することによって、仮面ライダーBLACKは、フルパワーを発揮して必殺技としてのライダーパンチとライダーキックを繰り出し、無敵の存在となるのである、と見た。 この〝本格変身〟を別名〝決着変身〟と呼称する。 では、この変身について、映画版ではどうなっているのだろうか。映画版は、テレビ版ようにのコマーシャルを挟まないから、前半と後半に分けることもないはずだ。 『映画版仮面ライダーBLACK』は2本つくられた。 『仮面ライダーBLACK 鬼ヶ島へ急行せよ(1988)』と『仮面ライダーBLACK 恐怖!悪魔峠の怪人館(1988)』である。 ちなみに、テレビ版は一話の長さが約23分だが、映画版は上映時間が約25分である。ランニンタイムはほぼ同じだ。 まず『鬼ヶ島へ急行せよ』だが、こちらは1回目の変身はなかった。 映画が始まり、冒頭から子供達が姿を消す怪事件が勃発する。実行犯のカメレオン怪人を阻止するために仮面ライダーBLACKがバトルホッパーに乗って急行するので、南光太郎が登場して変身するくだりはないのだ。 おっとり刀で駆けつけた仮面ライダーBLACKはカメレオン怪人と激突するが、剣聖ビルゲニアの乱入により取り逃がす。さらに、剣聖ビルゲニアも闘い半ばで姿をくらましてしまう。 仮面ライダーBLACKは素顔の南光太郎として姿を消した子供達を探す。そして、鬼ヶ島に暗黒結社ゴルゴムの秘密基地があることをつきとめ、そこへ乗り込んでいく。 しかし、待ち受けていた5体のカメレオン怪人(映画だから豪華に怪人増量!)に取り囲まれる。ここで「ヘン〜シン!」 そして、仮面ライダーBLACKは激闘の末に、ライダーパンチとライダーキックを繰り出し5体のカメレオン怪人軍団を倒す。さらに子供達を救出、ゴルゴムの秘密基地を破壊する。ここまで、ずっと仮面ライダーBLACKの姿だ。素顔に戻った南光太郎は、エンディングでヨットハーバーを背景に、ミュージック・ビデオさながらに歌を披露する。 ということで映画『鬼ヶ島へ急行せよ』では、簡易変身のシーンはなかった。しかし、本格変身すれば、5体の怪人をも叩き伏せてしまうのだった。 つぎに『恐怖!悪魔峠の怪人館』だ。こちらは劇中で2回変身する。 ゴルゴムのシャドームーンは、北海道夕張市に世界征服の一大拠点を築きあげようと企てていた。ゴルゴムに利用されていた牧野博士は隙を見て脱走を図る。逃げた牧野博士をツノザメ怪人が襲撃し、そこへ南光太郎が救出に現れる。 ここで1回目の変身。 「ギュギュギュ」とこぶしを握りしめ、「ヘン〜シン!」という掛け声とともに変身ポーズをとる。しかし、光太郎の顔からBLACKへの顔へと変わる変身過程はない。この変身は、テレビ版にはなかったパターンである。 そして、ツノザメ怪人を追い詰めるも、段ボール箱が崩れ落ちる間にツノザメ怪人を見失ってしまう。 これは、第三の変身シーンとして〝不完全変身〟を呼びたい。やはり、完全な本格変身でないと、怪人を倒すことはできないのか。 引き続き2回目の変身。 夕張に到着した南光太郎は、悪魔峠の怪人館にゴルゴムの巣窟があるのをつきとめ、ロードセクターに乗って激走する。 途中、待ち受けたゴルゴムの襲撃を受ける。南光太郎は、疾走するロードセクター上で変身ポーズをとる。だが、これも〝不完全変身〟である。顔が変わる過程がない。 この襲撃シーンは、大爆発が連続する中をロードセクターに乗った南光太郎ないしは仮面ライダーBLACKが駆け抜ける。東映特撮アクションならではの大迫力だ。 しかしながら、その後仮面ライダーBLACKは、映画が終わるまで南光太郎に戻ることはない。そして、ゴルゴム亡霊怪人軍団、シャドームーン、ツノザメ怪人と仮面ライダーBLACKは連続バトルを繰り広げる。悪魔峠の怪人館=ゴルゴム基地は爆破、壊滅し、仮面ライダーBLACKはツノザメ怪人を必殺ライダーキックで撃破する。 ここに至って、本格変身ではない形の不完全変身でも、仮面ライダーBLACKは強敵怪人を倒すことができるとわかった。変身過程を省略しても、変身ポーズがあれば、「フルチャージ」できるわけだ。いや、宿敵シャドームーンについては退却させただけで、完全勝利を得ることはできなかった。これが〝完全本格変身〟だったら、シャドームーンを打ち破ることができたのではないか。 さて、『鬼ヶ島へ急行せよ』では南光太郎のミュージック・ビデオがラストを飾った?が、『恐怖!悪魔峠の怪人館』は仮面ライダーBLACKが素顔の南光太郎に戻ることはなく、仮面ライダーBLACKのままでロードセクターを駆って北海道を走り抜けていく。このちがいはなんなのだ?ブログランキングクリックお願いします
November 25, 2018
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宇宙戦隊キュウレンジャーVSスペース・スクワッド [ 岐洲匠 ] 家族連れのちびっ子たちに混じって『宇宙戦隊キュウレンジャーVSスペース・ スクワッド』の劇場公開を見てきた。 ちびっ子たちのおめあては2月まで放送されていたキュウレンジャーだろうが、当方の興味は、スペース・スクワッドだった。 スペース・スクワッドのメンバーとなる懐かしのヒーローたちの活躍を見たかったのだ。 もちろん、ちびっ子たちに負けないで、戦隊や仮面ライダーの新作映画も必ず見る。 しかし、懐かしのヒーローたちへの思いは、時間をかけて熟成されているからね。 残念ながら、今回はちびっ子たち向けにキュウレンジャーが主体の話だった。 スペース・スクワッドの方はといえば、宇宙刑事ギャバンとシャイダーが事件に絡む。 なぜかシャリバンは登場しなかった。 (宇宙刑事たちはオリジナルメンバーではなくて、みんな2代目だ) もう一人、メタルヒーローの世界忍者戦ジライヤが出てきたものの、あまり見せ場がなくて気の毒だった。 そんな中で、久しぶりに一人の女優さんとの再会が感慨深かった。 その人は、広瀬仁美さん。 『有言実行三姉妹シュシュトリアン(1991)』の山吹花子や『忍者戦隊カクレンジャー(1994〜1995)』のニンジャホワイト=鶴姫を演じた方。 シュシュトリアンでは、ウルトラマンとの共演、共闘を果たしている。 最初にスクリーンに顔を見せたときには、「誰かな?」と思ったが、次第に鶴姫にちがいないと確信し、念のためにエンドクレジットで確認した。年齢を重ね、落ち着いた雰囲気を感じた。あのころは、小学生もしくは中学生だったからね。 さらに、この作品では、『獣拳戦隊ゲキレンジャー(2007〜2008)』のメレ、『特命戦隊ゴーバスターズ(2012〜2013)』のエスケイプなど、過去の特撮ヒーローものに登場した、ちょっとだけ懐かしい悪役が、復活、再登場していた。こちらも嬉しかった。 特撮ヒーローものに出演した役者さんたちの中には、それをきっかけにしてスターになっていった人たちもいる。しかし、今回の広瀬仁美さんは、なかなかそのお姿を見ることができなかった。それゆえに感激もひとしおだった。さらに、一般の映画やドラマではなく、特撮系の作品だったことが、これはもう感涙ものといえるのだ。 特撮ヒーロー贔屓としては、作品もキャラクターも、キャストもスタッフも,、すべてに思い入れをもっている。 そして、スターとして有名にならなくたって、特撮ヒーローに出演した役者さんのことは、いつまでも忘れない。ブログランキングクリックお願いします
July 1, 2018
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ムービー・スター 2017年11月号 【特集】 『マイティ・ソー バトルロイヤル』 【付録】 2018年『SHERLOCK/シャーロック』『ウォーキング・デッド』リバーシブル・カレンダー[本/雑誌] (雑誌) / イン・ロック これまでの『マイティ・ソー』とちがったところ。 まずは「笑い」ねらい、である。 「助けて」というギャグがあった。どんなギャグかは、は映画を見るときのお楽しみ。 そして、ソーとロキ、あるいはソーとブルース・バナー(ハルク)のかけあい漫才みたいなのがところどころ出てきた。 ソーとバナーのかけあいなど、ストーリーの流れが突然ゆるくなる感じで「もういいから早く話を進めろ!」と言いたくなった。ところが、つぎのアクション中心の展開に移ったときには、よりスピーディ(急)に感じたので、かけあい部分が緩急の「緩」の効果があったとわかったのだが。 ブルース・バナーが意を決してハルクに変身し、闘いに向かう勇ましい場面にもギャグが入る。この展開は、そうなることが読めた。 こうした笑いは、ロキじゃなくて予期しなかったことで、公開初日の観客席には笑っていいのかどうなのか、戸惑いがあったようだ。 最初は、客席の一部で笑い声が聞こえてきた。しかし、大部分には「ここは笑う場面ですよ」とのsuggestionが必要だったかのもしれない。「笑い」をねらった場面が度重なって登場すると、観客席もそこを理解したようで、「笑い」の空気が静かに拡大していった。 つぎ。過去2作からは、『マイティ・ソー』の映画では、メカは無縁だと思っていた。なぜならソーは「神」だからである。ソーの武器であるムジョルニアは魔法のハンマーだ。魔法というのは、端的に言って科学的ではない。ソーは、ムジョルニアを武器とするだけではなく、空を飛んだり、時空を超えたりするときにも用いる。 しかし、今回はムジョルニアを破壊されてしまうので、ソーは宇宙船を操縦するのだ。 『サンダーバード』の昔から、ライドメカなどの映像が好きだった。しかし、『マイティ・ソー』は、剣と魔法の世界観だと思っていたから、この映画を見る前は、ライドメカなどは全く期待していなかった。ところが、神様も移動に宇宙船を必要とする場合があるわけだ。 そして、今回の敵は、ソーの姉、つまり初の女性ボスキャラである。 「最強の敵」ということが強調されていて、さすがのソーも翻弄される。 しかしながら、『ダークナイト(2008)』のジョーカーのような狡猾さなどはあまり見られない。つまり、強いことは確かなのだが、ヴィラン(敵キャラ)としての深みがないといったところ。 やっぱり、ヴィランは、観客の憎悪や嫌悪感を煽ってこそ、スーパーヒーローは倒しがいがあるというもの。 その点、以前のロキは憎たらしさが濃かった、だが、ロキ自体の人気が高まってきたとか。ロキを演じるトム・ヒドルストンも『キングコング: 髑髏島の巨神(2017)』でヒーロー役(スーパーヒーローではない)をやったりして、悪役のイメージではなくなっているとか。 だから、ロキは、ヴィランからソーのパートナーに変貌しつつあるのかもしれない。人気ブログランキング
November 5, 2017
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映画秘宝 2016年 07月号 [雑誌]価格:1080円(税込、送料無料) 『デッドプール』はR15+指定の映画である。 15歳以上でなければ見られない。 15歳といえば中学3年生だ。 つまり、小中学生は、この映画を見ることができないのだ。もちろん幼稚園児も。 スーパーヒーローは、正義の味方、人並みはずれた力で人々を救う人である。 だから、子供達のあこがれなのだ。 なのにデッドプールはR15+指定、子供を相手にしていない。 日本でも、『仮面ライダー THE NEXT(2007)』はPG12だ。 また『快傑ライオン丸(1972〜1973)』のリメイク作品『ライオン丸G(2006)』は、テレビの深夜枠の放送だった。 これらも、スーパーヒーローものではあるが、子供は度外視してつくられていた。 あるいは、『ULTRAMAN(2004)』は、大人も楽しめるウルトラマンというコンセプトでつくられた。 スーパーヒーローものを、カンペキにお子様向きにしてしまっては、大人の鑑賞には堪えない場合がある。 たとえばアンパンマンは、幼児を対象としている。これはアニメであって、実写特撮ではないが。 もちろん、アンパンマンが好きな大人のことを否定するつもりはもとよりない。 何が言いたいかというと、アンパンマンの映画については、多くの場合、大人は子供にすきそって、つきあって見ることが多いという話。 それに対してアベンジャーズは、大人が自分の選択で見る映画である。 そして、アベンジャーズなどは、大人も子供も、どちらであっても十分に楽しめる映画だ。 これが『ディスク・ウォーズ:アベンジャーズ(2014〜2015)』だと、子供向になっちゃう。これもアニメだが、小学校の低学年に合わせた内容となっているのだ。 『デッドプール』の映画を見た印象では、デッドプールは、バットマンやスーパーマンのような正義の味方という印象はない。人々や、地球を救うという志はあまりもっていないようだ。 結果的に悪人と闘うことにはなるデッドプールだが、その動機は個人的な復讐なのだ。 ただ、愛する女性を出会ったことで、人間性は深まった面はある。 こうしたデッドプールをスーパーヒーローと呼んでいいものなのか。 確かに、人並みはずれたスーパーパワーをもっている。 しかしながら、スーパーヒーロー=正義の味方というイメージは強い。 それは、ヒーローとは日本語でいう英雄だからだ。 だから、デッドプールはダークヒーローという呼び方がいいんじゃないか。 じゃあ、バットマンをダークナイトまたはダークヒーローと呼ぶのはどうなのか。 バットマンの場合は、根底に正義がある。 だが、あまりに卑劣な悪に対しては、きれいごとを言っていられないところから、ダークナイトまたはダークヒーローとして対応せざるをないのだ。 例えば、ハリー・キャラハンはダーティハリーと呼ばれている。 ハリーは、犯罪を憎む心から、刑事であっても組織や規律からはみだして犯人を追い詰める、そこからダーティとあだ名されるようになった。 ハリー・キャラハンは、ダークヒーローといえるだろう。 そういえば、『ダーティハリー5(1988)』の原題は『The Dead Pool』だ! だが、デッドプールは、悪や犯罪を撲滅するという熱意が最初にあったわけではない。 だから、ダークヒーローと一口にいっても、デッドプールは、バットマンやダーティー・ハリーとは趣きを異にするね。 いずれにしても、当方自身は、スーパー戦隊の映画も、デッドプールのような映画も見られる立場にいるから、それはよかったなぁと思うわけだ。 小中学生諸君の中には、スーパーヒーローものが好きで、『デッドプール』が見たいと思っているのに、当面は見ることができないというのは、もし自分がその立場だったら、とっても悔しいと思うにちがいない。人気ブログランキングへ
June 12, 2016
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ヘラクレス 怪力ロング・バージョン【Blu-ray】 [ ドウェイン・ジョンソン ]価格:1500円(税込、送料無料)ザ・ヘラクレス【Blu-ray】 [ ケラン・ラッツ ]価格:1500円(税込、送料無料)ヘラクレス 帝国の侵略 [ ジョン・ヘニガン ]価格:4665円(税込、送料無料) 子供のころ、カナダ製アニメの『マイティ・ハーキュリー』という番組をよく見てた。 ハーキュリーとはヘラクレスの英語読みである。 ちなみにヘラクレスはギリシャ語読みだ。 今回見たヘラクレスの映画の中で、「マイティ・ハーキュリーズ」という言葉が何回か聞かれた。 してみると「マイティ・ハーキュリー」というのは、単にアニメのタイトルではなく、マイティという言葉がヘラクレスにはつきものの、ヘラクレスのためのニックネームみたいなものだったのかもしれないと思った。例えば、「剣豪」宮本武蔵のように。 最初に取り上げるのは、ドウェイン・ジョンソンが主演を務める『ヘラクレス』だ。 このヘラクレスは、ギリシャ神話に登場するような半神半人ではない、もともと人間で傭兵を生業としているが、半神半人の伝説を宣伝また敵に対する威嚇に活用している。 しかし、このヘラクレスは、「蓄えができたら、質素に暮らすさ」「残りの人生を静かに暮らす」「どこに行ってもやすらぎはない」「この文明社会は性に合わん」などと述べる。「私はただの傭兵です」と英雄ぶることもない。紆余曲折、悲劇的なできごとがあった中で、ヘラクレスは清貧を望む人間となっていた。 こうしたある種悟りの境地に達したヘラクレスと、欲望にまみれたコテュス王、エウリュステウス王との対比がおもしろかった。 法外な野望をもち、地位や富ばかりを求めて人を欺く王たち、彼らは競争社会の中で勝ちにしがみつく我利我利亡者の象徴だ。 「世界は真の英雄を求めている 神の子でなくても英雄になれる 自分を英雄だと信じればいい ヘラクレスは自分を信じた」 ヘラクレスは、心ある人間として生きる道を望んだのだ。 つぎは、レニー・ハーリン監督の『ザ・ヘラクレス』だ。 何かと評判はよろしくないレニー・ハーリン監督だが、当方は嫌いじゃない。 レニー・ハーリン監督の映画だとわかれば、好んで見る。 今回の『ザ・ヘラクレス』も楽しく見た。 こちらのヘラクレスは、半神半人である。 しかし、王である父ティリンスと兄イピクレス(本当の父、兄ではない)から疎まれ、人間として艱難辛苦を経験する。 そして、自身が囚われの身となり、鎖でつながれて、万策尽き果てて仲間を殺されようとするとき、ヘラクレスに神の力が宿る。 絶体絶命のピンチに遭遇し、人間を超えた力で仲間を救うヘラクレスであった。 とはいっても、ここから宿敵である王との一騎打ちにもつれ込む。このとき、ヘレクレスが神の力をもって闘えば、不公平だよね。というわけで、神の力を使えば簡単に勝っちゃうところを、神の力なんてなかったかのように人力で闘うヘラクレスは、いかにもエンターテインメント優先のレニー・ハーリン監督だと思うね。 最後は、あのTHE ASYLUMの『ヘラクレス 帝国の侵略』だ。 ASYLUM社は、手間隙かけず、金かけず、ヒット作、話題作のパクリ、便乗映画を量産する映画会社だ。 『ヘラクレス』と『ザ・ヘラクレス』のどっちをパクっているかといえば、これは『ヘラクレス』のほうだね。 いつも以上のぐだぐだ展開で、見ているのが辛かったが、このブログのためにがんばって見た。 ヘラクレスを食ってしまい、こっちが主役かと思ったのは兵士アリウス。 このアリウス、クライマックスで将軍ニコスに剣を突き刺され、バルコニーから突き落とされて完全に死んだと思っていたら、むっくりと立ち上がりニコスを追う。それでも、まだこのあたりは、ダメージを表現していた。 しかし、ニコスを倒し、恋人である王女セオドラを救い出すころには、もう完全に回復したようで、刺され高所から落下したダメージは露ほども見せなかった。 さらに、ヘラクレスにいたっては、薬を飲まされて錯乱したとはいえ、仲間を殺しまくってしまった。そして、大乱闘劇では、ただ暴れ回っていただけで、目立った活躍もなかった。 なのに、ラストは民衆から「ヘラクレス、ヘラクレス」の大コールを受けていた。 民衆も錯乱していたとしか思えない。 この場面は、大コールは、『ヘラクレス』にもあったなぁ。そして、薬で錯乱する場面もあったし。 ところでアニメの『マイティ・ハーキュリー』は、オープニングでハーキュリーが牛乳を飲む場面(スポンサーが明治)があった。当時のアニメ技術ではとっても不自然な動きになっていて、本編のストーリーは忘れてしまったが、その場面は脳みそに刻み込まれている。それを、若い人が知っていて驚いたことがあった。どうやら、懐かしのテレビ番組特集でときどき紹介されているらしい。人気ブログランキングへご協力のほど、よろしくお願いします。
June 5, 2016
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フィギュア王 No.219 【特集】ホットトイズ 『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』 (ワールド・ムック1113)[本/雑誌] / ワールドフォトプレス価格:1008円(税込、送料別) 夢の対決というものがあります。 たとえば、ゴジラ対ガメラとか。 ジャイアント馬場対アントニオ猪木とか。 さらに、キャプテン・アメリカ対アイアンマン。 『シビル・ウォー』では、なんとキャプテン・アメリカ対アイアンマンの夢の対決が実現したのです。 ゴジラは東宝の看板怪獣です。一方のガメラは大映の看板怪獣。 双方ともに映画の中では最強の怪獣です。 最強がふたついると、見ている側としてはどっちが強いか、とても興味があるところです。 でも、二大怪獣が闘うことは、今までのところありません。 それは、映画会社が異なるという単純な理由もありますが、双方が看板怪獣であるだけに、どっちが強いか白黒つけちゃうわけにはいかないからでしょう。 しかし、場合によっては『座頭市と用心棒(1970)』という夢の対決が実現してしまうことがあります。勝新太郎演じる座頭市は大映のキャラクターで、三船敏郎の用心棒は東宝のそれです。 あるいは、『新座頭市・破れ!唐人剣(1971)』では、日本の時代劇ヒーロー座頭市と香港の時代劇ヒーロー片腕必殺剣の方剛が対決します。この映画では、日本版と香港版とで、決着のつきかたがちがうとか。やはり、ヒーロー対決は気をつかいます。 もし、ゴジラ対ガメラが実現したとして、東宝版はゴジラが勝ち、大映版ではガメラが勝つ、なんてのもおもしろいかもしれません。でも、リアリティがなくなりますね。 ヒーロー同士、どっちが強いかは見てみたい気持ちは十分なんですが、そこにはタブー感があります。それはヒーローは、つまり正義の人だから、どっちかを負け役にしたくないという気持ちです。 ジャイアント馬場とアントニオ猪木の対戦も、プロレスファンのみならず、世間的にも注目を集めていました。実現には至りませんでしたが。 この2人は、かつて、日本プロレスという団体に所属していました。力道山が創設し、1953年から1973年まで活動した団体です。 この団体は、日本人レスラーと外国人レスラーの対戦が基本となっていて、日本人のスター選手同士の対戦はありませんでした。 いってみれば、日本人レスラーは1号から始まる仮面ライダーの軍団で、外国人はショッカーの怪人という構図です。 プロレスでは、善玉側をベビーフェイス、対する悪玉側はヒールといいます。 日本プロレスにおいては、日本人レスラーがベビーフェイスであり、外国人レスラーはヒールでした。 だから、ベビーフェイス同士の試合は原則的に行われません。 プロレスの試合は、基本的に善玉と悪玉のバトルですから、ベビーフェイスの日本人同士の闘いはタブーなのです。 そういう状況下の日本プロレスの歴史の中で、二度ほどテレビ中継を通じて日本人のスターレスラー(ベビーフェイス)同士の対戦を見たことがあります。 一回目は、1960年代の前半に、遠藤幸吉対吉村道明でした。結果は吉村のリングアウト負けでしたが、試合後の吉村は「いやぁ、まいりました」という調子で笑っていました。勝った遠藤も、笑顔で吉村の健闘を讃えていました。 プロレスというのは喧嘩まがいにやりあうもので、善玉の日本人と悪玉の外国人の対決は流血や反則攻撃もあるという殺伐としたものだったので、プロレスの試合で闘った者同士が和気藹々としている様子はとても珍しいものでした。 この場面からは、「たまたま闘って勝負がついたけど、本来はお互いベビーフェイスの仲間同士だもんね」とことさらに強調したがっている様子を感じました。 二回目に見たのは、1970年代の日本プロレス末期に、高千穂明久(後のグレート・カブキ)対グレート小鹿戦です。 この対戦は、日本プロレスが崩壊に向かってひた走る時期でした。馬場、猪木の2大スターが日本プロレスから脱退し、観客動員数は低下の一途をたどっていました。そこで、なんとか客を入れたいとの思いから、それまでのタブーを破って、日本人同士の試合を組んだのです。 この試合が遠藤、吉村戦とちがうのは、小鹿がヒールだったというところです。 当時、日本人レスラーが修行や遠征等で本場アメリカに行くと、ヒールになりました。所変われば品変わる、というわけですね。 日本人レスラーは、日本に帰ってくればベビーフェイスになります。ところが、グレート小鹿は、アメリカでやっていたヒールのままで日本でも試合をしたのです。 だから、遠藤、吉村戦のように、「お互いベビーフェイスの仲間同士だもんね」という雰囲気はありませんでした。 グレート小鹿は反則攻撃で高千穂を苦しめましたが、最後は高千穂が一瞬の逆転技である逆さ押さえこみで勝利をものにしました。さらに、このときのレフェリーのカウントが早かった。 一瞬の返し技、早いカウントというのは、小鹿の負け方をフォローするものです。悪役小鹿の負けは致し方ないところだが、この負けは不運な負け方だった。決して実力で負けたわけではない、との言い訳が読み取れます。 たとえ善玉と悪玉の試合であっても、タブーであった日本人同士の対決においては、負けた方の商品価値やプライドを傷つけることをしなかったのです。 さてさて、『シビルウォー』です。 ことほどさように、ヒーロー(ベビーフェイス)同士の対決は難しい。 しかし、この映画では、なんとスーパーヒーローたちが、キャプテン・アメリカ軍団とアイアンマン軍団に分かれてバトルを繰り広げます。 そこには、意見の食い違いもあれば、悪の奸計にまんまと嵌まって生じた誤解もあって、対立に発展してしまいます。 ヒーローバトルの第1回戦は、空港を舞台としました。 超人たちの並外れた力が激突するので、空港の建物も航空機もつぎつぎと破壊されていきます。 でも、このバトルは、本気のぶつかり合いとは言い難い様相を呈していました。 さすがに善玉ヒーロー同士なので、悪に対するときのように、相手をぶっつぶすまでの気持ちはもてないようでした。 これは、先に書いたプロレスの遠藤対吉村の試合の印象に似ていなくもないと思いました。 そして、シベリアのヒドラ秘密基地で、第2回戦が行われます。 ここでは、キャプテン・アメリカとアイアンマンの壮絶大将決戦となります。 これまで、様々な行き違いがあっても、根底ではお互いに仲間意識なり、リスペクト感なりをもっていましたが、ある事情からアイアンマンが本気でぶち切れます・・・。 小鹿の反則技に業を煮やした高千穂が勝負をつけにいった、とそこにもっていくのはこじつけでしょうか。 あとは見てのお楽しみ。 この映画の中では、一見まじめで堅物そうなキャプテン・アメリカ=スティーブ・ロジャースが反体制側を選び、一見自由奔放、やんちゃぼうずのアイアンマン=トニー・スタークがスーパーヒーローの活動を規制する「ソコヴィア協定」を受け入れます。 考えてみれば、トニーのアイデンティティはスターク・インダストリーと切り離すわけにいきません。それにくらべてスティーブは、長い冷凍睡眠状態から目覚めた存在ですから、現在の社会になんのしがらみもありません。 それにしても、この映画は豪華絢爛。アベンジャーズがらみ以外に、スパイダーマンやアントマンも登場するとは思っていませんでした。映画(全般) ブログランキングへ
May 1, 2016
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バットマンVSスーパーマン/ポスター フレーム(額)なし価格:1,037円(税込、送料別) 3月25日、この日は昼に『仮面ライダー1号(2016)』(※舞台挨拶あり)を見て、夜は『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』を見た。 至福の一日だった。 本郷猛=藤岡弘、は、俳優歴50年、仮面ライダー45周年で、圧倒的な存在感だった。 しかし、映画『仮面ライダー1号』、ライダーとショッカー軍団が、河川敷で闘ったり、ショッピングモールにゴミや発泡スチロール片を散らしてバトルしたりするのはやめてほしいなぁ。 『仮面ライダー(1971〜1973)』など、テレビ番組の等身大変身ヒーローものは、空き地とか宅地造成地などでヒーローと敵方が闘うことが多かった。 その頃と変わっていないという印象をもってしまう。 一方の『バットマン vs スーパーマン』は、摩天楼は崩れ落ちるは、都市は破壊する、まだまだ9.11の影響は強いなぁと思うような、大迫力のスペクタクル場面が続出する。 これがスーパーヒーローの激突だ、スーパーヒーローのと敵ヴィランのバトルだ、と十分に納得、堪能させてくれるヴィジュアルが展開する。 例えば、時代劇のチャンバラなら、草っ原でもいいでしょう。だけど、スーパーヒーローなんだから、パワーが違うはず。そして、テレビ番組ではなく映画なのだから、グレードのちがうものを見せてほしい。 思い返せば勝新太郎の座頭市だって、クライマックスの死闘は、宿場町などのオープンセットをきちんと組んで、臨場感のあるチャンバラシーンを演出していた。 さてさて、今回の『バットマン vs スーパーマン』は、そうした物量的なボリューム感だけではない。 ヒーローもののツボも心得ている。 スーパーヒーローの存在意義は、普通の人間には太刀打ちできないピンチが訪れたときに、人々を救うところにある。 この映画では、バットマンもスーパーマンも、人々を危機危難から救うために死力を尽くすが、とりわけワンダーウーマンがかっこよかった。 クライマックス、バットマンとスーパーマンが誤解と策略から死闘に至る。 スーパーマンが超人であるのに対して、バットマンは常人だ。まともにやりあったら、バットマンはスーパーマンに敵わない。 だから、バットマンは筋トレに励むとともにアーマードスーツを身に着ける。だが、バットマン自身がどんなに強化したとしても、スーパーマンの能力には及ばない。だから、バットマンはある秘策をもって、スーパーマンのパワーをダウンさせるのだ。 そうした激闘の間隙を縫って、新たな強敵であるドゥームズデイが出現。 スーパーマンもバットマンも、自分たちは消耗しているし、相手はとんでもない怪物なので、ドゥームズデイに太刀打ちできない。 この展開では、もうワンダーウーマンが出てくるしかない、とこっちは思っているわけだ。でも、じらすんだなこれが。 そもそも、ワンダーウーマンは、まず謎の女として登場する。敵か味方かわからない。 しかし、バットマン=ブルース・ウエインが調査を進めると、ある写真を発見する。それを見たとき、当方はワンダーウーマンだとわかった。 ワンダーウーマン、1980年頃日曜日の朝にテレビ版の『紅い旋風ワンダーウーマン』を放送していた。このテレビ版の主演は、元ミス・ワールドアメリカ代表のリンダ・カーターで、日本語の吹き替えを由美かおるがやっていた。 毎週日曜日の朝は、洗濯機を回しながら『ワンダーウーマン』を見ていた。 話を戻すと、バットマンもスーパーマンも力尽きていているところでドゥームズデイが大暴れするわけだ。 このピンチをどうするの。もはや、ワンダーウーマンしかないでしょう、と思っているのだが、ワンダーウーマンは、ブルース・ウエインに正体がばれたので、国外に脱出しようとしている。 来るのか来ないのか、ワンダーウーマン。 今回のワンダーウーマンは、ガル・ガドット、ワイルド・スピード・シリーズ(2009〜2015)に出ている。元ミス・イスラエル。 とこれ以上はネタバレになるから書きません。 しかし、ピンチに忽然と現れ、ピンチを救うのがスーパーヒーローです。 この映画は、Blu-rayを購入し、4Kテレビで何度でも見たいね。映画(全般) ブログランキングへいつもご協力ありがとうございます。今週もよろしくお願いします。
March 27, 2016
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グリム・アベンジャーズ [ キャスパー・ヴァン・ディーン ]価格:4,665円(税込、送料込)⑴『グリム・アベンジャーズ』? 「グリム」と聞けば、老若男女、あの「グリム童話」を思い浮かべるでしょう。 そして、「アベンジャーズ」といったら、老若男女すべてとはいかないまでも、多くの人がアメコミ映画のマーベル「アベンジャーズ(2012)」に思いが至ります。 確かに、それらとはまったく関係のない「グリム・アベンジャーズ」の可能性もあります。 しかしながら、この映画の制作会社はAsylumです。やっぱり「グリム童話」関連のドラマ『グリム』や映画『イントゥ・ザ・ウッズ(2014)』などと、マーベル「アベンジャーズ」とに関連づけるのが極めて妥当な線でありましょう。 (注)Asylumは、手間隙かけず、金かけず、ヒット作、話題作のパクリ、便乗映画を量産。 しかも、Asylumは、こっそりパクる、ちゃっかり便乗するというのではなく、公然と会社の特色にしています。 このあたり、Asylumであればこそ、グリム童話とマーベル「アベンジャーズ」という、通常の思考回路では考えつかない合体があるのです。(2)この世界で一番美しい女 魔法の世界では、魔術師ルンペルシュティルツヒェン(名前、長いぞ)と、グリム童話のお姫様だちが闘いの真っ只中にありました。 ルンペル(省略)は、お姫様側の軍団を蹴散らして、白雪姫の城に攻め込みました。 ルンペン、もといルンペルのねらいは、白雪姫が所有する魔法の鏡でした。 魔法の鏡を通り抜けて異世界に乗り込もうというのです。 白雪姫を捕らえたルンペルは、こう呼びかけたのです。 「白雪姫、この世界で一番美しい女」 グリム童話では、継母王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しいのは誰?」と問いかけると、鏡は「白雪姫」と答えます。 しかし、この白雪姫役の女優さんが、世界で一番美しい女といって納得できるかというと、残念ながら当方は苦しいといわざるをえません。 失礼ながら、この女優さんをキャスティングした人たちの美意識を疑っていたときに、ふと気がつきました。 「この世界で」なのです。 「この世界」とは「魔法の世界」を指します。つまり「魔法の世界」という限定的な範囲では、この白雪姫役の女優さんのような容姿が、「一番美しい」わけです。 それなら、納得するのもやぶさかではありません。⑶おかしいだろぉ ルンペルは、白雪姫をともなう形で鏡を通過していってしまいました。 それを追って、シンデレラ、眠れる森の美女、ラプンツェル、赤ずきんも異世界(なんと、現代のロサンゼルス)へ。 このグリム・アベンジャーズのお姫様方は、よく内輪揉めをします。 これは、本家マーベル「アベンジャーズ」を踏襲しているのかな。なにしろ、アイアンマンやキャプテン・アメリカなど、ピンで1本の大作映画の主役を張るスーパーヒーローたちです。個性が強くて、チームワークには向いていません。勢い、お互いが引かない場面が出てきます。 その雰囲気を出そうしたのか、お姫様たちも、よく揉める。その内容がグダグダでありなおかつ?マークです。 例えば、多勢に無勢で、ルンペル軍団にはかなわないから、この先どうするかでお姫様たちは揉めていました。 白雪姫は、ルンペルを倒すのが最優先課題なので、それを達成するまでは、魔法の国へは帰らないと主張します。白雪姫「奴(ルンペル)を殺すまではここから離れない。(もし、魔法の鏡が)一方通行だったら。(魔法の国へ一旦退却しても)戻ってこられなけば努力 がムダになる」 ちょっと待っていただきたい。 すでに、「魔法の国→ロス」というコースを通過しているのです。「ロス→魔法の国」の逆コースを合わせると、とりあえず二方通行になるのでは? だから、「一方通行」であれば、「ロス→魔法の国」、つまり、魔法の国へは帰れないという心配するべきです。この際「魔法の国→ロス」については置いておきましょう。揉めるもとです。 さらに、お姫様たちは、ルンペル軍団の急襲を受けやむなく退避しますが、惜しくもラプンツェルが囚われの身となってしまいました。 間一髪逃げることができたお姫様たちは、隠れ家に身を寄せます。いばら姫「ここは何?」白雪姫「こっちに来て最初の私の家」シンデレラ「ラプンツェルから居場所がバレたら?」白雪姫「ラプンツェルは死んでも言わない」 ちょっと待っていただきたい。 この場所は、先乗りの白雪姫ひとりが知っていた場所です。シンデレラ、眠れる森の美女、赤ずきんは初めて訪れたわけです。 だとしたら、ラプンツェルがこの場所を知っているなんてことはありえないじゃないですか〜。⑷アベンジャーズA.赤ずきんとホークアイ このお姫様たちは、魔法の国で、ルンペルに、彼女たちの夫である王様を殺されたりして散々な目にあっているとのこと。 なので、「自分たちは『アベンジャーズ(復讐者)』なのだ」とシンデレラの説明がありました。 マーベル「アベンジャーズ」は、アメコミ映画のスーパーヒーローが戦隊を組むわけです。 そして、グリム・アベンジャーズは、おとぎ話のお姫様たちが戦隊を組んだのです。本家アベンジャーズからのトレースはそんなとこかな、と思っていたら、それだけではありませんでした。 まず、グリム・アベンジャーズの赤ずきんちゃんは、弓の名手です。なんで、赤ずきんが弓の名手なのか、関係性がよくわかりませんでした。 でも、赤ずきんが、ルンペルに洗脳されて、グリム・アベンジャーズに立ち向かってきたときにわかったのです。 マーベルの映画『アベンジャーズ』で、弓、洗脳ときて、さらに敵側についてアベンジャーズと闘ったのは、ホークアイです。 なんと、赤ずきんは、ホークアイの役柄だったのです。 そして、ずきん(フード)と弓矢のスーパーヒーローといえば、テレビドラマの『アロー』です。 アローは、もともとはマーベル・コミックのライバル誌DCコミックの『グリーンアロー』です。 マーベルのホークアイと、DCコミックのグリーンアローは、キャラがかぶっています。 そんなマニアックな関係性で、赤ずきんが弓矢をもったというのは、うがちすぎでしょうか。B.実体版ハルク 赤ずきんをホークアイに見立てたほかにも、ハルクらしきものが登場します。 なんと、テレビドラマ版の『超人ハルク』で、変身後のハルク(いわば実体版ハルク)を演じていたのがルー・フェリグノ、当時はCGではなく、ボディビル出身の役者さんがハルクを演じていたのです。そのルーがこの映画に出演しています。そして、グリム・アベンジャーズの敵方なのか味方なのか微妙な立ち位置であり、後半はルンペルに金色の鉄人に変身させられます。 こちらもマニアックな演出だと思います。C.「こっちの世界」と「あっちの世界」 さまざまに、映画『アベンジャーズ』との類似点などが見られますが、特にこの点は、もってきたなぁというところがあります。それは、敵が「あっちの世界」から「こっちの世界」へ攻めてくるという設定です。 ルンペルは、魔法の鏡を通して、魔法の国のスロールを呼び寄せます。そして、グリム・アベンジャーズとスロールの激闘が繰り広げられます。 これは、マーベル『アベンジャーズ』で、ロキがワームホールを開き、チタウリ軍団を呼び寄せた展開を思い出させます。 しかし、マーベル『アベンジャーズ』は、チタウリの大軍団とアベンジャーズが、まさに死闘、大激闘を展開しますが、スロールとグリム・アベンジャーズのバトルはしょぼい、情けない。物量的にまったくくらべものならず、バトルも公園で中学生がけんかしているのと変わりありません。 闘いの終末は、『アベンジャーズ』ではワームホールを閉じることで、『グリム・アベンジャーズ』も魔法の鏡を閉じることと似ています。しかし、そこにはクオリティの差があります。見てのお楽しみですが、興味をもって見ようとする人がいるかどうかはわかりませんね。 粗製濫造、盗作まがいといわれるAsylumです。『グリム・アベンジャーズ』が映画としてとしておもしろいかと聞かれれば、それは文句なしにつまらないです。そして、グリム童話とアメコミ映画のアベンジャーズの合体という設定は、まごうことなきミスマッチです。 しかし、それを強引に映画にしてしまう、そのマイナー・パワーを、今回も楽しませていただきました。映画(全般) ブログランキングへご協力よろしくお願いします。
January 24, 2016
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】【【大感謝祭限定 ポイント最大10倍】】『007/スペクター...価格:2,700円(税込、送料込) ダニエル・クレイグの007はリアル・スパイ路線です。 そして、元祖007ショーン・コネリーからピアース・ブロスナンまでのジェームズ・ボンド映画は、ファンタジー・スパイ路線、別の言い方をすれば荒唐無稽なスパイ映画です。 当方は、ファンタジー系が好きです。荒唐無稽でもいいんです。悪の組織が世界的な大陰謀を企て、ジェームズ・ボンドが秘密兵器などの奇想天外なガジェットを駆使してそれを阻止しようと活躍し、最後は007たちのチームが敵基地を襲撃して壊滅させ、世界の平和が戻るというパターンがいい。 ダニエル・クレイグの007は、秘密兵器が登場しない007映画でした。これは肉体アクションで007のすごさや行動力を見せるパターンです。どんなに危険でスリリングなスタントシーンがあったとしても、その主人公がジェームズ・ボンドでなくてはならないということはありません。そこで超人的な力を発揮するのが007の際立った個性ではない、当方は、そう思います。 ところが、前作『007スカイフォール』においては、兵器係のQが再登場し、また初代ボンド・カーであるアストンマーチンも姿を現し、秘密兵器の存在を再確認するシーンがありました。そのことから、今回の『スペクター』への期待は高まりました。いよいよダニエル・クレイグ版007も、本来のファンタジー路線に軌道修正してくれるのではないかと。 まず、オープニングのボンドを狙う銃口のシーンが復活、これには胸が高鳴りました。 そして、ボンド・カー=アストンマーチン、今回は最新デザインのDB10が、秘密兵器搭載でお披露目されました。 初代ボンド・カーのアストンマーチンDB5が、数々の秘密兵器が搭載して『007ゴールドフィンガー(1964)』に登場したときは、度肝を抜かれました。時代的にそのアイデア自体が、とても斬新でした。50年前のボンドカー=アストンマーチンDB5は夢の車だったのです。 今回のDB10については、もう今では、技術的に乗用車に兵器を仕込むことは、そう難しいことでも目新しいことでもありません。また、ごく普通の自家用車だって、カーナビや各種センサー等昔のボンド・カー並の装備がされているわけです。 そういう点では、ボンド・カーは現実としてとらえることができます。もう夢とは言えません。 ですが、いくらシークレット・エージェントといえども、自分の車に火炎放射器などの兵器を乗せて町中を走り回っていることはないはずです。そう考えれば、これはファンタジーですね。 つぎに、このたびの映画では、007の宿敵、悪の組織スペクターが久々に暗躍します。 かつて、ショーン・コネリー時代の007は、スペクターとの闘いに明け暮れていました。 スペクターの恐怖は、幹部会議で容易に知ることができました。作戦に失敗したメンバーや命令に従わなかったメンバーについては、会議室でその者が座っている椅子が、即座に電気椅子となります。あっという間に裏切り者は感電死して、椅子は床下に隠れる。そして、空席となってまた会議室に迫り上がってきます。 新しい映画でも、スペクターの幹部会議がありました。以前のスペクターの会議よりも、いっそう重々しい雰囲気でした。さらに、公開処刑は、電気椅子ではなく、殺し屋が裏切り者を叩きのめす形で行われました。これは、時代に逆行するような形ですが、じつにリアル路線にふさわしいものでした。 というようなことなどなど、『007スペクター』はやはり基本リアル路線でした。 それとはべつに、2点ばかり?と思うところがありました。 まず、ボンドが、スペクターの秘密基地で捕らえられ、拷問されるシーンがあります。 この窮地を、ボンドは身につけたひとつの秘密兵器を駆使して切り抜けます。 しかしですね、なんでスペクターは、あらかじめボンドからそれを取り上げなかったのでしょうか。もちろん秘密兵器ですから、外見上はそんな仕掛けがあるとはわかりません。でも、21世紀の世の中で、シークレット・エージェントが身につけている物には、何か仕込まれていると警戒するのは当然のことと思うのですが。 もうひとつ、同じようなスペクターの不思議な対応について。 ジェームズ・ボンドは、クライマックスで旧MI6の建物に乗り込もうとして、スペクターに捕まってしまいます。 ボンドは拘束されて連れて行かれようとした瞬間、手にした拳銃をスペクターの手下どもに向けて発砲します。この場面も、イージーではないのでしょうか。スペクターには、捕らえた相手を身体検査するという習慣がなかったのでしょうか。 このあとボンドは旧MI6の建物に潜入します。ここでボンドが手にしていた拳銃は、どうもジグ・ザウエル P226のようです。これは、ボンドが、ボンド・ガールのマドレーヌに護身用に渡したものだと思います。 ボンドが旧MI6の建物に乗り込む以前に、マドレーヌから決別宣言があったときに返されたのだっけ。いずれにしても、ボンドが愛用するワルサーPPKではありませんでした。 そして、ボンドは、建物内に拉致されていたマドレーヌを救って、MI6が爆破される寸前にボートで脱出します。 このときのボートが、『007 ワールド・イズ・ノット・イナフ(1999)』に出てきたQボートだったら嬉しかったんだけど、ちょっとちがったようでした。 この時点で、スペクター一味がヘリコプターで逃げようとしています。ボンドは、ボートで追いかけ、ヘリコプターを銃撃する。その手にはワルサーPPKが。 いつのまに226からPPKに変えたのか。きっと、226の銃弾を撃ち尽くして、もう一丁もっていたPPKを取り出したのでしょう。 さてさて、『007スペクター』は、残念ながら当方が好む荒唐無稽、奇想天外系の007ではありませんでした。 映画としてはスリリングな展開でしたが、ショーン・コネリー版やピアース・ブロスナン版のような、これぞ007というには、もの足りなさがありました。 とりわけ、あの「ジェームズ・ボンドのテーマ」が、ラストでしか流れなかったが悲しい。『スカイフォール』だって、アストンマーチンDB5が姿を現したシーンなどで使われ、感涙ものだったのに。 やっぱりボンドの活躍は、「ジェームズ・ボンドのテーマ」にのってこそ高揚感があります。 次回作も、ダニエル・クレイグの続投とリアル路線は継続になるのでしょうか。 多少なりともファンタージー系に傾いているところに期待をもちたいと思います。映画(全般) ブログランキングへご支援よろしくお願いします。
December 20, 2015
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】仮面ライダー×仮面ライダー ゴースト&ドライブ 超MOVIE...価格:3,240円(税込、送料込) 暮れとお盆、そして春休みは、特撮映画。これは子供のころからの習慣である。大晦日に紅白を見なくなって久しいが、特撮映画は必ず見る。 しかし、東映特撮ヒーロー映画は、ストーリーがよくわからないことがあった。それは脚本のせいなのか、テレビの流れを知らずに見るためなのか。 だから、今回は予習をしてから見にいった。 普段なら、映画をゼロから楽しむために、あらすじなどは入れないようにしている。けれど、今回は、ネットであらすじなどを調べてから見た。 実際は、そこまでしなくても、筋書きはわかりやすかったと思う。そして飽きずに見ることができた。 しかしながら、気持ちが入ったかというとそうではない。 それはなぜなのか。 話の中に、一般人がほとんど登場しないのだ。 全編ゴーストとドライブの関係者で話が進む。 どうしてそれで気持ちが入らないのか。 これは以前、このブログの『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー(2009)』で書いたことと同じなんだが。 スーパーヒーローとは、人々を救うものである。 もちろん、この映画でもヒーローは、悪から世界を守って、平和のために闘う。 しかし、実際に救われる人々の存在は見ることができない。 たとえば、『アベンジャーズ』。 ロキがドイツに登場し、人々にひれ伏せと強要する。だが、一人の老人が抵抗を示す。「いつの時代にも、お前みたいなクズがいたもんだ。誰が跪くか」。怒ったロキは、毅然と立ち上がる老人にスピアを向ける。突如そこへ盾が現れ、ロキの攻撃を防ぐ。危機一髪でキャプテン・アメリカが駆けつけたのだ。 こういったシーンで、スーパーヒーローへのエモーションは高まる。 スーパーヒーローがいてよかった、と感じるのだ。 スーパーヒーローが、なにゆえスーパーヒーローなのかといえば、一般人と比較して並外れた力をもっているからだ。 敵対する悪は、圧倒的な力をもって、平凡に暮らす人々に危害をもたらす。 スーパーヒーローは己がもつ能力によって、力をもたない人を悪から守る、救う。そこがスーパーヒーローの存在意義であるといえる。 だから、守られる人々、救われる人々の姿があってこそ、スーパーヒーローの活躍が心に沁みるのだ。 それぞれの仮面ライダーが、新しいフォームでパワーアップして闘っても、それはスーパーヒーロー内での差異であれば、感銘は薄い。 強敵に対峙してスーパーヒーローも危機に陥る。しかし、守るべき人々の存在を目前にして、最後の手段としてパワーアップして闘い、人々を救うことができれば、感情移入度は全然違うと思うぞ。 予算や制作時間など様々な制約があるとは思うが、ぜひ、魂に迫るスーパーヒーロー映画をつくってほしい。映画(全般) ブログランキングへ
December 13, 2015
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】黄金バット [ 千葉真一 ]価格:3,839円(税込、送料込) 「ワハハハハハ・・・」高笑いとともに現れ、高笑いとともに消える、どくろ面のスーパーヒーロー、それが「黄金バット」だ。 「黄金バット」は、昭和初期に紙芝居のスーパーヒーローとして登場し大変人気を博したと、昭和史の一風物として紹介されることがある。 そのアナログヒーローが、昭和も40年代になって、実写映画とアニメ、マンガ雑誌で大々的に復活した。もともとテレビがない時代の国民的ヒーローだったわけだからね、新しいメディアにのせてヒットを目論んだのだろうね。 映画版は、東映作品として1966年(昭和41年)12月21日に公開された。この当時の映画興行は二本立てだった。『黄金バット』の併映は『怪竜大決戦』。冬休みの子供向け(ジュブナイル)ラインナップやね。当方は、封切り当日にこの二本立てを見てます。そんな体験によって、当方の人格が決まっていったところもある。 テレビアニメは、1967年(昭和42年)〜68年(昭和43年)まで全52話が放送された。 マンガ雑誌も、1966年〜68年にかけて連載された。 このメディアミックス展開は、アニメを中心としていた。そういう点では、トップバッターを切った映画版は、メインのテレビアニメを景気づける役目だったのだね。 アニメも見たし、マンガも読んだけれど、なんといっても印象深いのは映画版だ(これは趣味のちがいであるところが大きいのだが)。 まず、配役が凄い。 映画『黄金バット』の主演は、千葉真一なのだぁ。世界のアクションスター、サニー・チバだよ。 じつは千葉さん、若い頃にテレビのモノクロスーパーヒーロー番組(東映作品)『新七色仮面(1960)』で七色仮面/蘭光太郎を演じたキャリアがある。続いて『アラーの使者(1960)』でも変身ヒーロー(鳴海五郎/アラーの使者)をやっている。 なんと映画においても『宇宙快速船(1961)』で立花真一/アイアンシャープに扮している。また、スーパーヒーローではないが、日米合作特撮映画『海底大戦争(1966)』にも主演している。 この頃は、変身後のスーパーヒーローを演じるスーツアクターはいなかった。素顔だけでなく、仮面をつけてのスーパーヒーローも千葉さんご本人が演じていらっしゃるんですよ。元オリンピックを目指す体操選手だっただけあって、スーパーヒーローとしての動きは軽快そのもの。スーツアクターいらずで、バック転とかやっちゃうんだから。 当方にとって千葉真一は、日本を代表する映画スターというより、やっぱり七色仮面であり、アイアンシャープであるわけですよ。だから、映画版『黄金バット』に出ていただいているのも、とてもありがたい。 いってみれば、戦隊・特撮ものからスターになっていった人々の元祖をたどれば千葉真一なわけだ。 なお、千葉真一が黄金バットを演じているのではない。国連秘密機関パールのヤマトネ博士役である。 黄金バットは、変身ヒーローではなく、最初から黄金バット、正体も黄金バットだ。 つぎが山川ワタルだ。山川ワタルは、冒険テレビドラマ『少年ケニア(1961〜62)で主役のワタル少年を演じている。この『少年ケニア』以来久しく顔を見なかった山川ワタルが映画版『黄金バット』でスクリーンに登場したときは「あ!」と驚き、喜んだものだ。その後また見なくなったけど。 さらに、高見エミリー。高見エミリーは、このあと『仮面ライダー(1971〜1973)』にライダーガールズとして出演する。映画版『黄金バット』の時期は、雑誌少女フレンドの表紙を飾っていた。なんと彼女は、リカちゃん人形のモデルなのだ。『黄金バット』に出演しているときは小学校高学年くらいだが、ほんとに生きたリカちゃん人形に見えます。 もう一人、中田博久も出ている。この人は、テレビ番組の『怪人四十面相(1966)』で明智小五郎、『キャプテン・ウルトラ(1967)』で本郷武彦/キャプテン・ウルトラなど主役のヒーローを演じている。かと思えば『仮面ライダーアマゾン』のゼロ大帝、『超電子バイオマン』のメイスンといった悪役でも印象に残っている。 山川、高見、中田は、国連秘密機関パールの隊員役である。 このように、特撮ファンにとっては役者を見ているだけでもなんだか嬉しくなる映画だ。 映画版『黄金バット』のストーリーはこうだ。 宇宙怪人ナゾーが惑星イカルスの軌道を変えて、地球にぶつけようとしている。 イカルスを避けるには、パールが開発した超破壊光線砲で粉砕するしかない。 しかし、超破壊光線砲がナゾーに奪われてしまう。 地球の危機に蘇った黄金バットは、パールとともにナゾーに挑み、イカルスから地球を守るべく大活躍する。 上映時間が73分ということで、展開は早い。 天体望遠鏡を覘いていてイカルスの異変に気づいたアキラ少年(山川ワタル)は、黒衣の男達に拉致される。彼ら日本版MIBは、清水隊員(中田博久)他のパール隊員だったのだ。じつはアキラ少年は、天文学などに詳しいので、パールに隊員として招かれたのだった。 てなわけで、訓練等は軽く免除され、そのとき、その瞬間からアキラ少年はパール隊員として力を発揮するのだった。 当時小学生だった当方は、自分も正義の秘密機関がスカウトしてくれないかなあと思ったものだ。何の取り柄があるって?いつでもどこでも、授業中でも妄想空想にふけることができるのだが、そんな能力は評価されないか。 私服姿のアキラ少年が履いている靴がバッシュ(バスケットシューズ)なんだよ。あの当時、マンガに登場する学園ヒーローとかはみんな例外なくバッシュを履いていた。履き口がくるぶしの上までくる深いやつ。当方も履いていた。あきらかにヒーローになりきっていた。 このパール隊員がもっている光線銃が、シルバーのルガーP08もどき、サイレンサー付きなのだ。これは、たまたま当方ももっていた。多分、おもちゃ屋さんで売っていたものを小道具として使ったのだろう。 余談だが、テレビ番組『高速エスパー(1967〜1968)』のエスパー銃は、ニューナンブというおもちゃのピストルを装飾したもので、こっちも原型をもってた。自慢。 さてさて、件の超破壊光線砲は、特殊なレンズがなければ威力を発揮できない。そのレンズを黄金バットがもっているのだった。 そんなエピソードがあったものだから、当方は理科の授業で以下のようなやりとりをした。 先生が「レンズは、どんなところに使われていますか」と質問した。それに対して友達は「カメラです」「望遠鏡です」「虫眼鏡です」などと答えた。そして答が出尽くしたところで、すかさず手を挙げて「超破壊光線砲です。超破壊光線砲は特殊レンズがなければ使えません」と声高に発言したのだ。教室中に「?」が漂ったが、先生は黒板に超破壊光線砲と書き加えてくれた。 映画会社東映の歴史を見たとき、「冒険(連続)活劇映画」とよばれるジャンルがあった。『新諸国物語 笛吹童子(1954)』などの時代活劇、そして『少年探偵団シリーズ(1956〜1959)』などの現代活劇の探偵ものや空想ものなどが、週替わりで上映されていたのだ。 当方も、『七色仮面』を劇場で見た記憶がある。当時は、テレビの普及台数が少なかったので、本来テレビ番組である『七色仮面』が、再編集版として映画館でも上映されていたのだ。(『七色仮面』はテレビ番組だが映画館で上映できるように、映画用の撮影をしていた) この中の一本に『黄金バット 摩天楼の怪人(1950)』がある。これは見たい。なんと、美空ひばりが出演している。 『黄金バット』『怪竜大決戦』には、そうした東映冒険活劇映画の匂いが残っている。それは、子供向き(ジュブナイル)の映画の楽しさだ。テレビ番組と映画では、やっぱり手触りがちがう。そして、アニメではなく実写であるところが大変よろしい。 また、『黄金バット』は、東映ヒーロー作品の流れも汲んでいる。 東映には、テレビ番組の『七色仮面(1959〜1960)』、『ナショナルキッド(1960〜1961)』から現在の仮面ライダーやスーパー戦隊まで、スーパーヒーローものの歴史と実績がある。その間には梅宮辰夫がヒーローを演じた、劇場版『遊星王子(1959)』もある。スーパーヒーロー部門で東映は、マーベルなどのアメコミを凌駕していると思うぞ。 ちなみに映画『黄金バット』には、ショッカーの戦闘員、怪人、幹部、首領を思わせるキャラクターが出てくるのだ。 そうした東映の冒険活劇とヒーローものの夢を追い求めて、今でも仮面ライダーとスーパー戦隊の映画を見に、劇場に足を運ぶのさ。映画(全般) ブログランキングへブログランキング上位へ、あなたの力を貸してください。
November 8, 2015
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】【輸入盤】Fantastic Four [ ファンタスティック フォー ]価格:2,274円(税込、送料込) 新作『ファンタスティック・フォー』を楽しみにしていた。しかし、ネットで見ると、平均点が1.9〜2.1という低評価だった。どんなにつまらない映画だろうかと覚悟して見たわけだが、そこまでひどくはなかったというのが正直なところ。期待値を低く設定していたから、そこを上回ったということもあるけどね。 今回の『ファンタスティック・フォー』は、リブート版である。 2005年の『ファンタスティック・フォー [超能力ユニット]』と2007年に続編の『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』があった。 この05年版と07年版はオリジナル、そして15年版はアルティメットというように区別されているとのこと。 これは、原作のマーベル・コミックで、世界観をリセットしたためだ。まあ、昭和ライダーと平成ライダーみたいなものと理解すればいいでしょうか。 オリジナルとアルティメットの両方をくらべて見たとき、オリジナルは漫画、アルティメットは劇画、といえるのではないだろうか。 オリジナルの方は、映画の中にコミカルなシーンがあった。たとえば、ミスター・ファンタスティックは、体をゴムのようにのばすことができる。だから、トイレに入っているときにペーパーがなくなると、廊下をはさんで向かいの納戸まで手をのばして取ってくる。旅客機に乗って、自分の通路側の収納棚に荷物を置くスペースがなければ、別の通路の収納棚に手をのばして置いちゃうとか。 しかし、アルティメット版には、そうした場面はない!シリアスなトーンだった。 つぎにちがうなと、思ったのは飛行手段である。 オリジナルは、「銀河の危機」において「ファンタスティッカー」が登場した。ファンタスティック・フォーはこれにのって空を飛ぶ。 アルティメットでは、インビジブル・ウーマンが透明フィールドと呼ばれる球体に自分やメンバーを包み込んで飛行する。 ファンタスティッカーってのがコックピットを覆うキャノピー(風防)もないオープンカー状態だった。それで高速飛行するからなんか怖かったし寒そうだった。 まあ、スーパーマンだって、素顔のまま飛ぶんだから、スーパーヒーローはオープンカー状態で飛んでも大丈夫なのかもしれないが。 そして、オリジナルとアルティメットに共通していたのが、エンドロールでのおまけ映像がなかったこと。 オリジナルの頃はまだその習慣がなかった。でも、最近のマーベル映画は、これがひとつの楽しみ。それがなかったのは期待はずれだった。 最後に、オリジナルで「ヒューマン・トーチ」を演じたクリス・エヴァンスは、後にキャプテン・アメリカを演じることになる。 これは、『バトルフィーバーJ』で曙四郎/バトルケニアを、『電子戦隊デンジマン』では青梅大五郎/デンジブルーを演じた大葉健二が『宇宙刑事ギャバン』で主役をはったのと似ている。映画 ブログランキングへ
October 11, 2015
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】アート・オブ・アントマン(仮) [ ジェス・ハロルド ]価格:4,968円(税込、送料込) スーパーヒーローは、特殊能力をもつ者である。 巨大化する特殊能力をもつスーパーヒーローがいるのなら、縮小化する能力をもつスーパーヒーローがいてもいいじゃないか。そこにスーパーヒーローとしての生きる道をみつけるぜ、というわけでアントマン=蟻男の登場だ。 蟻は、小さいことの代名詞である。 そして、蟻は、小さいながらも力持ち、というイメージもある。自分の体重の400倍の重さを持ち上げることができるそうだ。 だから、アントマンは小さくて、強いのである。 スーパーヒーロー大国日本にも、小さくなる能力をもつ者がいる。 ウルトラセブンはミクロ化して松坂慶子の体内に入り、宇宙細菌ダリーと闘った。 また、光速エスパーは、体を縮小化させて、原子炉に巣食うカビの怪物を退治した。 しかし、彼らはパートタイムの縮小化である。特段の必要があって縮小化の能力を使うが、いつもは巨大化または等身大そのままで活動する。 そこで、アントマンである。 「スーツによって身長わずか1.5cmに変身する“最小”ヒーロー、アントマン」というコピーがあるように、縮小化専門のスーパーヒーローだ。 縮小化アントマンの活躍する舞台は、周囲が巨大化している。 バスタブは巨大な城壁に囲まれたようで、しかも普段は目に見えないようなほこりやら汚れやらが小山のように転がっている。蛇口を開こうものなら大洪水だ。 こんなふうに、日頃見慣れた光景も、縮小化した視点から見れば異世界だ。 何も宇宙に飛び出さなくて、非日常感を味わえる。 このアントマンの縮小化は、ピム粒子なるものにより、体の原子間の距離を変化させることによって起こるのだそうだ。であるからして、もともとの人間が持つパワーはそのまま、なんだそうだ。つまり、小さな体(点)に普通の大人のパワーが集中するので、弾丸のような威力がある、と説明されていた、よね。 ピム粒子は、もともと物質のサイズを理由に変えることができる発明である。人間を縮小するだけではない。だからアントマンは、このピム粒子を武器にして、周囲のものを縮小させたり巨大化させたりできるのだ。 ここで気になってしまったのは、「質量保存の法則」である。 質量保存の法則とは、あるものの体積や形状が変化しても、そのものの質量は変化しないという現実の物理法則である。だから、もし、ヒーローが巨大化しても、体重自体は変化しないというわけだ。そうするとどういうことになるのか、考えてみてくれ。これは「空想科学読本」からの受け売りです。 クライマックスで、アントマンと敵ヴィランのイエロージャケットは、おもちゃがいっぱいの子供部屋でバトルを繰り広げる。 テーブル上のレールを走るきかんしゃトーマスも、縮小化したアントマンたちにとっては本物の鉄道列車と同じ勢いで襲ってくる。 しかしながら、縮小化していない普通の視点からは、トーマスがひっくりかえると、プラスチックのおもちゃがコトンと倒れたにすぎない。 それでもって、アントマンは、あやまってトーマスを巨大化してしまった。そうしたら、トーマスは暴走して家の壁を破壊して外に飛び出し、パトカーをもクラッシュさせてしまったのだよ。 これは、「質量保存の法則」の立場からすればありえないことだろう。 だが、われわれには思い込み(素朴概念)がある。要するに、科学的な正解ではなく、日常的に単純に思い込んでしまっている考え方のことだ。 その思い込み、素朴概念からすると、形状がでかくなれば重さも増し、形状が小さくなれば軽くなる、という方が納得しやすいんだよね。 いわばダイエットの理論かね。 と、そんなことを思って見てたわけだ。けど、映画の方は十分に楽しかった。アントマンは、自在に大きさを変えて、敵を幻惑、翻弄しながらスピーディーに闘った。スーパーヒーローらしい痛快さを味わったぞ。 封切り日、ちょっと客の入りは悪かったけどね。映画 ブログランキングへ
September 21, 2015
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【5/27 20時から6/1 2時まで★全品ポイント10倍★☆期間限定】【VHSです】多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ|中古ビデオ [K]【中古】価格:4800円(税込、送料無料) この片岡千恵蔵のいう人は、大スターだったらしい。 なにしろ、「御大」と呼ばれるほどなので、大スターの中の大スターだったのだろうと思われる。 当方は、片岡千恵蔵の全盛期を知らないのだが、小学校の同級生に千恵ちゃんという女の子がいた。 その子が語るところによると「お父さんが、片岡千恵蔵の大ファンで、私の名前を千恵にしたの」とのこと。 そんな具合だから、ある世代にとっては、スーパースターだったのだね。 今回、シリーズ第一作の『七つの顔』を見たわけだけど、初めて見たのではない。 今はない大井武蔵野館で、七つの顔の男シリーズの何本かを見た。 このときは片岡千恵蔵を見たかったからではない。 古き良き荒唐無稽のミステリ活劇を確認したかったからだ。 「ある時は探偵多羅尾伴内、またある時は片目の運転手、……」 七つの顔の男は、奇術師、占い師、新聞記者などに変装して事件の解決に挑む。 じつに映画らしい現実離れした世界が展開される。 内容は、一応ミステリの体をなしている。 この映画の中には、推理小説にたびたび登場する「二つの部屋のトリック」が使われている。 そういったトリックもさることながら、当方は、やっぱり様々な変装がおもしろい。 変装といえば、江戸川乱歩の怪人二十面相がほぼ専売特許化している。 怪人二十面相は、江戸川乱歩の「少年探偵シリーズ」に登場する怪盗である。大人向けの小説には出てこない。江戸川乱歩としても、子供向けのキャラクターだと考えたのだろう。 しかし、そのような区別をしながらも、同じく江戸川乱歩が生み出した名探偵明智小五郎、こちらもひんぱんに変装する。それは、大人向けの一般推理小説でも、変装する。 ともすれば、バレバレでしょ、あるいは、そんなにうまく化けられないでしょ、などといわれかねないわけだが、そこがつっこみどころであるとともに非現実的な楽しいところでもあるのだ。 そして、七つの顔の男には決め台詞がある。 「ある時は片目の運転手、またある時は……」 もういろいろな映像作品などに引き継がれているセリフだ。 「しかして実体は、藤村大造だ!」 あれ、「しかしてその実体は、正義と真実の使徒、藤村大造だ!」ではなかったのか? どうも、このシリーズ第一作では、まだ「正義と真実の使徒」は使ってないようだ。 さらに、七つの顔の男の正体藤村大造は、もともとは怪盗だったようだ。 その罪滅ぼしとして、難事件を解決して正義のために力を尽くしていると本人が語っている。 ということは源流は、アルセーヌ・ルパンか。 さてさて、話を片岡千恵蔵にもどすとする。 当方は、片岡千恵蔵の映画『赤西蠣太(1936)』を見たことがある。 あれは確か、銀座並木座だったと思う。やはり今はもうない。 この『赤西蠣太』で、片岡千恵蔵は、ショボい赤西蠣太とキリッとした原田甲斐の二役を演じていた。この二つの役の落差をかっこよく演じ分けていた。 そして、『七つの顔』でも、藤村大蔵の正体を現してからがダンディでかっこいい。じじむさい多羅尾伴内との落差がすばらしく大きい。 藤村大蔵は、オープンカーを乗りつけて、それで悪人とカーチェイスを繰り広げる。 そのオープンカーには、なんと放送設備がついている(とセリフで言ってる)。 放送設備って何だ?もしかして、犯人に向けて「待て!」とか沿道の人々に「前の車には悪い奴が乗ってます」とかスピーカーから流すのか、と思ったら、要は無線機だった。 でも、当時は自家用車に無線機が備え付けてあるだけで、007のボンドカー並みの衝撃があったのだろう。 なにせ藤村大造のオープンカーが悪人の車を追撃しても、道にほかの車はいない。街灯もなければ、建物もないところを2台の車は走っていく。 警察でさえ、出動したパトカーは1、2台で、あとはオートバイとサイドカーなのだ。 そのオープンカーをまさにさっそうと乗り回し、藤村大造は犯人を追い詰める。演じる片岡千恵蔵は、ジェームズ・ボンドに負けず劣らす決まってる。 さすがに御大、大スターの中の大スターだ。 若くしてこの映画を見た人は、片岡千恵蔵の大ファンになり、あやかって娘の名前につけようというものだ。 そういえば、同級生は「私が男の子だったら、そのまま千恵蔵だった」とも言っていた。女の子でよかったんじゃないかな。 じつはこの「七つの顔をもつ男」、小林旭で『多羅尾伴内(1978)』としてリメイクされている。 小林旭も大スターだ。見比べようと思ってDVDを借りにいったら、レンタル中だった。はなはだ残念。人気ブログランキングへ
August 23, 2015
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン -オリジナル・...価格:2,646円(税込、送料込)【楽天ブックスならいつでも送料無料】アベンジャーズ MovieNEX【Blu-ray】 [ ロバート・ダウニ...価格:3,412円(税込、送料込) 映画監督鈴木則文は、以下のように述べている。 ーここから 商業映画には、「期待性」と「意外性」の二つの側面があり、シリーズものは、かつて味わった感動や歓びをもう一度体験したいと思う「期待性」に支えられている映画の典型である。 そしてそれが興行の安定を保証している。 同じでいいのだ。しかし— 何かワンポイントでもいいから前作にない〈メダマ〉は必要である。(鈴木則文著『東映ゲリラ戦記』より) ーここまで ちなみに、鈴木則文監督は、ご自分の監督したシリーズものの一本『女番長ブルース 牝蜂の挑戦(1972)』の場合、そのメダマはヒットシリーズ『不良番長』の主演スター梅宮辰夫のゲスト出演だ、とのこと。 シリーズものの期待性といったとき、東宝の『若大将』シリーズなどは、毎回同じシーンがある。 たとえば、もてもての若大将は、複数の女の子からデートの誘いがかかる。マドンナ役の澄子または節子は偶然その場面に遭遇してしまい傷つく。そこで破局か、と思われるが間もなく誤解が解けて仲直りをする。 あるいは、青大将が澄子または節子を誘い出し、襲いかかる。しかし、必ず若大将が駆けつけて澄子または節子を救出する。 などなど、お約束の場面があるわけだが、観客はそれらを期待して映画館に足を運んだ。 そしてメダマとしては、海外ロケがあったり、若大将が挑戦するスポーツが毎回変わったりというところがあった。 さてさて、『エイジ・オブ・ウルトロン』である。 『アベンジャーズ』における「期待性」のお約束としては、スーパーヒーロー達が、もともと単独の最強ヒーローなのだから、なかなか力を合わせようとしない。しかし、敵があまりにも強大なため、最後は「団結」して闘い、強大な敵を打ち破るといったところか。 そして、「意外性」は、今回は、ホークアイの家族が紹介されたり、ハルクのブルース・バナーとブラック・ウィドウ=ナターシャ・ロマノフとの愛があったりした。 まあしかし、『エイジ・オブ・ウルトロン』は、前作を下回っていると、当方は思う。 なんといっても、敵がスケールダウンしている。 前作では、宇宙からチタウリの軍団が攻めてきて、ほんとにスーパーヒーローが結集しなければならないという切羽詰まった状況があった。 だが、今回のウルトロンは、最強の敵という言葉になんだか実感がともなわない。 アベンジャーズは、戦隊ヒーローとはちがうわけだ。 戦隊ヒーローは、最初からチームで闘うヒーローだ。 しかし、アベンジャーズは、もともとは単独で強大な敵と戦うのが基本である。 それが集まって闘うとなると、それはスペシャルなわけで、相手はとんでもなく強大でなければそれに見合わない。 前作のチタウリは、画面からもスーパーヒーローがほとほと手を焼いているのがよくわかった。 さらに、ワームホールを塞がなければ、チタウリ軍団はさらにさらに増えて増強するという危機感もあった。 それにくらべると、今回は、べつにスーパーヒーローが結集しなくても、単独でやっつけてほしい相手だった。 『アイアンマン3』の「テン・リングス」エクストリミスだって十分強敵だったぞ。 ということで、「期待性」に応えるには弱い。 そして「意外性」という点について。スーパーヒーローの私生活紹介や恋愛が、今後お約束になっていくのか。人気ブログランキングへ
July 12, 2015
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【楽天ブックスなら送料無料】アウトロー ブルーレイ+DVDセット【Blu-ray】 [ トム・クルーズ ]価格:3,886円(税込、送料込) 原作の小説の原題は、『One Shot』。映画の原題『Jack Reacher』。 『アウトロー』という題名は、小説にも映画にもない。 原作と映画を比べると、映画の方で主要登場人物である女性たちが減らされてる。 小説の方には、狙撃犯を疑われる男の妹、TVリポーター、女弁護士、カー用品店の店員、そしてジャック・リーチャーと深い関係にある女性准将が登場する。 しかし、映画では、女弁護士とカー用品店の女店員だけ。 あとの女性については、ロザムンド・パイク演じる女弁護士が一手に引き受けてる感じ。 カー用品店の女店員までロザムンド・パイク一人で演じきれなかったのにはそれ相応のわけがある。 そして、もう一つ原作と映画の大きな違いは、小説のジャック・リーチャーは198cm、108kgのプロレスラー並みの巨漢であるが、映画で演じるのはトム・クルーズである。 この体格の違いについて印象的な場面は、犯人側が送り込んできた5人組との対決である。 小説版のヘビー級ジャック・リーチャーは、巨体を利してタックルでリーダーを倒し機先を制し、有利な闘いにもっていく。でかい体で力任せに敵を叩き潰すのではなく、戦略的頭脳的なバトルで楽勝だった。 映画版のミドル級(?)ジャック・リーチャーは、キーシ・ファイティング・メソッドで闘う。原作ゆずりの戦略的頭脳的なバトルとともに。 どっちかといえば、「柔よく剛を制す」スタイルの映画版、トム・クルーズ=ジャック・リーチャーがかっこいいかな。 さて、小説版、映画版の両方に共通しているのは、ジャック・リーチャーが「少欲知足」のヒーローだということ。 職には就かない、家は持たない、車もなく徒歩やヒッチハイク、バスで移動し、携帯電話・免許証・クレジットカードなども持っていない、などなど。 衣類も文字通り着の身着のまま、そのときに着ている安物の服を一着もっているだけ。洗濯するときは渇くまで裸。 007ジェームズ・ボンドのなりきりはお金がかかるけど、ジャック・リーチャーを気取るんだったらリーズナブルだね。人気ブログランキングへ
June 29, 2014
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【新入荷続々】【メール便180円】【宅配便350円】SALE OFF!新品北米版Blu-ray!【キックアス】...価格:1,990円(税5%込、送料別) 前作『キック・アス(2010)』は、キック・アス=デイヴ・リゼウスキのスーパーヒーロー魂が当方のエモーションを強く刺激した。 元来、デイヴ・リゼウスキはへなちょこである。 しかし、街にはびこる悪を見逃すことができず、ネットで購入したスーツを着て「キック・アス」を名乗る。 この「キック・アス」は、リアルである。街の暴力に立ち向かうが、逆にボコボコにされる。気持ちだけでへなちょこがスーパーヒーローになれるわけがない。それが現実。 対する「ビッグ・ダディ」と「ヒット・ガール」はファンタジーである。とにかく強い。並みいる悪党をあっという間に血祭りに上げる。しかも、「ヒット・ガール」は年端も行かぬ少女である。にもかかわらず、戦闘マシンとして徹底的に鍛え上げられている。まさにありえない存在。 リアルの「キック・アス」とファンタジーである「ビッグ・ダディ」「ヒット・ガール」が遭遇する。 「キック・アス」には、「ビッグ・ダディ」「ヒット・ガール」のような悪党と闘うための体力も格闘技術も何もない。あるのは「スーパーヒーロー魂」だけだ。何はなくとも「スーパーヒーロー魂」。無敵の戦闘能力はなくとも、正義の気持ちが悪に向かっていく。満身創痍になりながらも、「スーパーヒーロー魂」が「キック・アス」を突き動かし、やがてファンタジーの存在へと足を踏み入れる。 さらに、「ビッグ・ダディ」と「ヒット・ガール」は、あくまでも影の存在である。誰に頼ることも頼まれることもなく、人知れず悪に挑むばかり。なんら世間に自己をアピールするところがない。 『キック・アス』のそんなところがよかった。 新作『キック・アス2』はどうだったか。 前作との大きな違いは、スーパーヒーロー軍団“ジャスティス・フォーエバー”である。 なりきりヒーローが増殖し、街の自警団化したわけだ。 以前、スーパー戦隊が登場したころ、こんなことを思ったのは当方ばかりではなかった。 「仮面ライダーは1人(ないしは2人)でショッカーと闘っているのに、スーパー戦隊は5人で1体の怪人と闘うって、なんか卑怯じゃないか」 じゃあ、『3大怪獣地球最大の決戦』はどうだ? 宇宙から飛来したキング・ギドラ1体に、地球怪獣ゴジラ、モスラ、ラドンの3体が向かっていく。 これはいい。 なぜならば、キング・ギドラは地球怪獣の倍の大きさなんだ。 そして、宇宙怪獣であるからこれは地球怪獣を基準にした場合、超怪獣といえる。 さらに、最初はモスラ1体が向かっていってまるで歯が立たず、ゴジラとラドンが加勢する、 そういったことから、まるで卑怯には見えない。 スーパー戦隊の出現まで、スーパーヒーローといえばたいてい1人だった。 特殊な能力をもつ者は特別な存在で、そういう者がそうそう大勢いるわけはない。 スーパーヒーローは、孤独な闘いを繰り広げてきたわけだ。 そういうスーパーヒーローの1人きりのバトルは、共感を呼ぶ。 実際のところ、スーパーヒーローと言えども、問題解決の手法は腕力である。 平和的な解決方法ではない。 しかし、たった1人で強大な敵と戦うから、腕力、武力が容認される。 例えば、座頭市。 座頭市は、目が見えないというハンディに、人々はまずシンパシーを感じる。 さらに、敵は大集団で襲ってくるわけだから、多勢に無勢、孤立無援、そいつらをつぎつぎよ叩き切ってぶっ殺しても、観客は声援を送りこそすれ、座頭市のことを残虐非道とは思わないわけだ。 『キック・アス』では、キック・アス、ビッグ・ダディ、ヒット・ガールの闘いは、共感を得る設定だった。 しかし、『キック・アス2』では、コスプレスーパーヒーローもどきの単なる自警団がわんさか束になって殴り込みにいき、集団大乱闘になる。 そこんところで、よってたかって、結局は暴力しか問題解決の方法はないのか、というさめた思いを感じた。 スーパーヒーローの存在価値は、スーパーヒーロー魂である、 スーパーヒーロー魂は、孤独でも、困難であっても、闘い抜くスピリットだ。人気ブログランキングへ
March 9, 2014
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[DVD] 獣電戦隊キョウリュウジャーVSゴーバスターズ 恐竜大決戦!さらば永遠の友よ価格:3,032円(税込、送料別) 『恐竜大決戦』 懐かしの特撮時代劇『快竜大決戦(1966)』を彷彿とさせるタイトルだ! 東映特撮の歴史を感じます。 今回は、スーパー戦隊の中でも、歴代“恐竜”戦隊の揃い踏みという新機軸が打ち出されました。 ちなみに、 『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992) 『爆竜戦隊アバレンジャー』(2003) 『獣電戦隊キョウリュウジャー』(2013) 確かに恐竜も再々登場(キョウリュウジャー)となると「またまた恐竜かぁ!?」と思ったのも正直なところ。 けれども、長年やっていると、こうやって歴代“恐竜”戦隊というくくりのドラマができるのはおもしろい。 劇中、伝説の戦士=ジュウレンジャーの赤戦士であるティラノレンジャー・ゲキが登場したところで、 え!?と思ってしまった。 その顔を見て、当方の脳内データーベースを検索したのですが、一致する画像が出てきません。 しばらくスクリーンを見ているうちに、顔の角度によって、少しずつ面影をつかむことができました。 ゲキを演じたのは望月祐多さん。 『仮面ライダーJ(1994)』でもあるお方。 しかしながら、おふとりになったようです。 ジュウレンジャーについては、もちろんティラノレンジャー・ゲキもいいのですが、 当方としては、プテラレンジャー・メイを見たかった。 メイを演じたのは、千葉麗子さん。 電脳アイドルとして名を馳せ、ヨガのインストラクターとしても活躍した方。 この映画で、プテラレンジャーの声は、千葉麗子さんが演じられた。 つぎの機会は、ぜひお姿を見せていただきたい。 今回、映画の中心は、歴代“恐竜”戦隊となり、ゴーバスターズといえば、これが露払い的な役割でした。 「ここは俺たちが守るから、先に行ってくれ」(だったかな?) キョウリュウジャーを立てて、縁の下の力持ちに徹しようというけなげなお姿でした。 ゴーバスターズは、どうがんばっても歴代“恐竜”戦隊の仲間入りはできません。 しかし、ゴーバスターズも、アバレンジャーとはつながることができるじゃないですか。 「ぼくたちだって、アバレンジャーを継ぐ歴代“3人”戦隊です!」と割って入ればよかったのに。 強引か? というわけで、これからは歴代“くくり”戦隊のお話が次々と出てくるかもしれません。 当方としては、歴代“忍者”戦隊揃い踏みをやってほしいです。 『忍者戦隊カクレンジャー』(1994) かくれんじゃ にんじゃ にんじゃ 『忍風戦隊ハリケンジャー』(2002) 風になれぇ 忍者は二組か。 ええい、『侍戦隊シンケンジャー』(2009)も入れて三戦隊でどうじゃ!人気ブログランキングへ
February 8, 2014
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【送料無料】ローン・レンジャー:ウォンテッド [ V.A. ]価格:2,100円(税込、送料込) 映画は、音楽によってエモーションが高揚する。 テーマ曲ぬきには語れない映画がある。 あの東宝特撮の迫力は、雄大な伊福部昭のマーチがあってこそだ。 海底軍艦が重低音とともに出撃するシーンは、いつ見ても気持ちが奮い立つ。 「ジェームズ・ボンドのテーマ」が鳴らなければ007とはいえない。 『スカイフォール』は新兵器、秘密兵器もボンドガールもない。しかし、懐かしのアストンマーチンが登場し、ボンドとともに疾駆する。そのシーンに「ジェームズ・ボンドのテーマ」がかぶさってきたから、もう感涙ものだ。 「ロッキーのテーマ」も、映画をいっそう引き立てている。 ロッキーの血と汗、不屈のトレーニング、栄光が一曲にすべてイメージされている。燃えるぜ。 だから、シリーズものの映画など、つきものである名曲がどこで高らかに鳴り響くか、期待を込めて見ているわけだ。 ところが、肩すかしをくう場合だってある。 『グリーン・ホーネット』のテーマ曲は、あの『キル・ビル(2003)』でも流れた軽快な曲だ。 子供のころ、テレビの『グリーン・ホーネット』を見てテーマを聞き、胸を躍らせていた。 だから、映画『グリーン・ホーネット(2011)』では、当然グリーン・ホーネットやカトーの活躍とテーマ曲とがツー・プラトンでマイ・ハートを直撃するものと思っていた。 しかし、テーマ曲が鳴ったのは、事件が解決してから、申し訳程度に流れたのだった。とぉっても残念。 そして、『ローン・レンジャー(2013)』。 ローン・レンジャーといえば、そのテーマ曲は「ウィリアム・テル序曲」。 小学校低学年のとき、ローン・レンジャーのテーマ曲の題名が「ウィリアム・テル序曲」だということをなぜか知っていたようだ。 音楽の授業のとき、先生がレコードをかけてくれることになり、「何か聞きたい曲はないか」と子供達にリクエストを募った。 そのときすかさず「ウィリアム・テル序曲」とこたえた。 まさか鉄人28号とかエイトマンとかのアニメのテーマソングを言うこともできず、音楽の授業にふさわしいのは「ウィリアム・テル序曲」だろうと幼いながらに考えたわけだ。正直言って、ローン・レンジャーのテーマ曲が「ウィリアム・テル序曲」であるという確かな自信があるわけではなかったのだが。 しかし、それは正解だったのだ。先生が「すごい曲を知ってるね」とかなんとか言いながらかけてくれたのは、あのテレビの『ローン・レンジャー』で流れる曲だった。そのとき、こちらはオペラの曲と認識していたわけではまったくないのに、先生は何か勘違いをしたのだろう。 そんな思い出がある。 さて、映画『ローン・レンジャー』だ。 映画の始めの方で、「ウィリアム・テル序曲」が流れる。それほどテンションが上がる場面というのではない。 もしかして、「ウィリアム・テル序曲」はこれで終わりか、との危惧が沸いてきた。 そして、映画自体も、なんとなくぐだぐだして、ヒーロー=ローン・レンジャー及び相棒のトントがとりたてて活躍をするわけでもない。 黒マスクをつけたままの顔を出して穴に埋められたりして、ローン・レンジャーはダメダメヒーローの趣さえ醸し出している。 と、思っていたら、クライマックス、愛馬シルヴァーにまたがったローン・レンジャーが颯爽と登場し、そこから「ウィリアム・テル序曲」が流れ始めた。 そうしたらローン・レンジャーもトントも、ありえないド派手ぇなアクションで、軽快、痛快、大活劇。 最後の方に来て、ヒーロー・アクションとテーマ曲とを十分堪能しました。 ハイヨー、シルヴァー!人気ブログランキングへ
October 20, 2013
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【64時間限定】 ポイント最大40倍!もれなく100円クーポン!送料無料!■予約■SALE OFF!新品...価格:5,690円(税込、送料別) スーパーマンは、元祖スーパーヒーローである。 力道山を日本のプロレスラーの始まりとするならば、スーパーマンは世界のスーパーヒーローの始祖なんだ。 タイツ姿で厚い胸をグッとせり出し腰の両側に手を置いたポーズなんか、スーパーマン(ジョージ・リーヴズ)と力道山は似てると思うぞ。 力道山を初めて見たのは白黒テレビだったが、スーパーマンの初体験も白黒テレビの小さな画面だった。 弾よりも速く、力は機関車よりも強く、高いビルディングもひとっ飛び。 「鳥だ」「飛行機だ」「あっスーパーマン」そうですスーパーマンです。 テレビの「スーパーマン(ジョージ・リーヴズ版)」の有名なオープニングだ。 大変心躍るオープニングではあったが、いつも楽しく見ていたかというとそうではない。 力道山は、テレビ中継のたびに外国人プロレスラーと熱戦を繰り広げた。 だが、テレビのスーパーマンは、対戦相手にめぐまれなかったというか、肉弾相打つバトルにお目にかかれなかった。 後年のウルトラマンなどは、怪獣とのバトルがないなんてありえないんだけどね。 白黒スーパーマンは、難事件、怪事件をスーパーマンがスーパーパワーを使って解決するというような話だったという印象。ごくごくたまぁにロボットなんかが出てくることがあって、そのときはとっても嬉しかったなぁ。 そのスーパーマンが、大作映画になって帰ってきた。 クリストファー・リーヴ版『スーパーマン(1978) 』だ。 この映画を含めてシリーズ4本がつくられたが、これらもなんだかなあ。 まず『スーパーマン 』、希代のヴィラン=レックス・ルーガーの放ったミサイルがアメリカ西海岸を直撃、被害を食い止めるべくスーパーマンは八面六臂の大活躍。 だが、やっぱりバトルはない。 スーパーヒーローは、尋常ではない力で人々を救うところに存在意義がある。だから、大災害に立ち向かうのもいいと思う。けど、スーパーヒーローの強さとは、強大な敵と直接対決することによって見応えを生む、と思うわけ。ところが、残念なことに、レックス・ルーサーは体力勝負のヴィランではないからね。 この映画では、スーパーマンの飛行シーンに工夫がされて、浮遊感を味わえたし、今見ると、ダム決壊などはCGとは異なるミニュチュアワークの懐かしさがあるんだけどさ。 つぎ、『スーパーマン2/冒険編(1981)』 この映画は、スーパーマン対ゾッド将軍チームのハンディキャップ・デスマッチが展開される。スーパーパワー同士の、都市を破壊する勢いのバトルには感激した。 しかし、あろうことか最後の決着のつけ方が、スーパーマンの頭脳プレー、トリック・プレーなのだ。バトルじゃなくて、文科系的ひっかけで敵を撃退した。 まあ、アントニオ猪木がかろうじてリングアウトで勝ちを拾ったとしても、ファンは納得しないでしょう。ルールの上で勝つのではなく、実力で勝負を決めたい。卍固めや原爆固めできっちり試合を締めくくってこそ溜飲が下がるというものだ。 観客は頭のいいスーパーマンじゃなくて、強いスーパーマンを見たいんだ。 クリストファー・リーヴ版のシリーズでは、『スーパーマン4/最強の敵(1987)』はよかった印象がある。スーパーマンとニュークリアマンの激突があったから。世間的には無視された映画だったらしいが。 いよいよ今回の『マン・オブ・スティール』だ。 内容的には、クリストファー・ノーランのバットマン(ダークナイト)を引き継ぐリアル路線となっている。主人公クラーク・ケント=カル・エル=スーパーマンは、自己について深く考え込む。 ストーリーとしては、クリストファー・リーヴ版の1と2をつなげたような展開だ。レックス・ルーガーは登場しない。後半はスーパーマン対ゾッド将軍チームのハンディキャップ・スーパーパワー・デスマッチが、ビルディングも何もかもウエハースの如く木っ端微塵にしながら、これでもかこれでもかと続く。 最近は、DCコミックス系のバットマン(スーパーパワーはもたない)の実写映画も都市破壊が派手だが、マーベルコミックスのスーパーヒーロー系は、ハルクもアイアンマンも、そしてアベンジャーズに至って、スーパーパワーの破壊力が脅威の映像を見せる。(東映系の仮面ライダー、戦隊も、超人パワーの描写を多少なりとも見習ってほしい。東映系は、常人の殴り合いとあんまり変わらないからね) 負けじと『マン・オブ・スティール』も徹底的な破壊路線を見せつけた感じ。 ここまでのバトル重視はスーパマン史上初の快挙だ! しかし、確かに大迫力なんだが、そればっかりってのもどうかね、一本調子の食傷気味ってやつさ。緩急をつけてくれたらもっとよかったのに。 むしろ『スーパーマンII/冒険編』の都市破壊バトルの方が、スピードはないし、場面も限られているが、その分希少価値のありがたみを感じるくらい。 今のプロレスは、空中殺法、必殺技のオンパレードで派手派手な試合展開で、見ているときは目を奪われるが、その割には印象に残らない。 昔の地味なプロレスでは、もうちょっと大技、必殺技を見たいなあと思いながら、なかなか出してくれなかったが、その一発は重みがあった。 かつてのアナログ的特撮映像は、手間がかかっただろうし、自由度も低かったと思う。映画がCGに進化(?)してからは、まさにアニメのようなシーンができるようになり、それがアメコミの実写映画化の量産につながっていると思う。それはとても嬉しいことだが、大切なのはテクニックよりもエモーションなんだ。 バトル・シーンにしたって、スーパーヒーローが不屈の闘志で強敵ヴィランを打ち倒すところに感動がある。 スーパーマンは、コンクリートの壁もガラスも鉄骨も突き破って、高層ビルディングだってかすり傷一つ負わないで突き抜ける。しかし、彼が子供の頃から今日まで、髪の毛とか爪とかはどうしてたんだろう。地球上のはさみや爪切りでは用をなさないと思う。それらも一緒にクリプトンから送られてきたのか。人気ブログランキングへ
October 14, 2013
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【送料無料】【輸入盤】Iron Man 3 [ アイアンマン 3 ]価格:1,827円(税込、送料込) 素顔のアイアンマンであるトニー・スタークは、めげないキャラクターだ。 それはスーパーマンのような不撓不屈のスーパーヒーローということではない。 性格的には自己チューで破天荒なのだ。そこを恋人のポッター、親友ハッピー、ローズ大佐にツッこまれる。 そう、トニー・スタークは、浮世離れしたボケをかます。だから、周囲の常識人からツッこまれるのだが、まったくめげずに減らず口をたたく。 そういったトニーの破天荒さが、ときとして問題解決につながったりもするんだが。 ニーチェは、「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」と言っている。人の性格を楽観的と悲観的に分けたりするが、それはその人が状況をどう認識するかによってちがってくる。だから、めげないトニー・スタークを見習うといいかな、と思ったりする。 しかし、トニー・スタークは凡人ではない。天才科学者であり、億万長者でり、さらにスーパーヒーローなのだ。そしてめげない性格ときたら、トニー・スターク=アイアンマンは無敵なのかと思えてくる。ところがそうではない。 1999年、トニー・スタークは、傲慢な性格ゆえに、人から怨みをかってしまう(まあ、相手も悪かったんだけどね)。 そういえば、『アイアンマン』も『アイアンマン2』も、ヴィラン(敵方)はトニーやスターク家に怨みをもっていた。それらは、一方的で傍迷惑な怨みであった。しかし、今回は、トニーの行為が直接の原因になっている。 怨みをもった相手は、強大なパワーを蓄えてトニーを襲ってくる。 親友ハッピーが爆破事件に巻き込まれたことで、トニーは自宅の場所を明かし「いつでもかかってこい」と敵を挑発する。 そうしたら、敵はなんとヘリコプターの編成を組んで襲ってきた。億万長者の象徴であるトニーの超豪邸にミサイルを打ち込み、完全に破壊してしまう。敵をあまく見てたんだな。 這々の体でミサイル攻撃を逃れたトニー・スターク。だが、反撃しようにもアイアンマンのスーツがエネルギー不足で使えなくなってしまった。 さらに、めげないはずのトニー・スタークが、今回はパニック障害に苦しむ。 アベンジャーズとしてのエイリアンとの闘いがあまりにも過酷で、トラウマになってしまったのだ。 そんな状態で、ヴィラン一味を迎え撃つことができるのか。 今回の設定では、トニー・スタークはご難続きである。しかも、それらのご難を、自分のミスから、あるいは通常の精神状態でなかったりすることから招いている。 そこが映画をおもしろくしているのは確かだ。 ヒーローは強いばかりでなく、ピンチに陥ってこそ観客のエモーションを刺激する。 この設定は、『アベンジャーズ』抜きには語れない。 なにしろ『アベンジャーズ』はスーパーヒーロー大集合だ。スーパーヒーローが束になって闘わなければならない相手だから、敵は「とんでもないの6倍か7倍」の超強敵である。アベンジャーズの敵がとんでもなくすごすぎるということにしなければならない。 となると、アイアンマン単体で闘う相手は、あんまり強すぎては困る。そのマイナス分をトニーのミスやパニック障害が補っているわけだ。 もう少し慎重に行動していたら、あるいはパニック障害がなければ、アイアンマンはもっと強いはずだ。今回のアイアンマンは苦戦しているけど、本来の力を発揮すれば、もっと楽に敵を倒せたはずだ、という具合に。 観客の目には、決してスケールダウンには映らない。だが、トニー・スタークの個人的事情が、アイアンマンとアベンジャーズの闘いの軽重を説明している。 とはいえ、スーパーヒーローの存在意義とは、人を助けることである。ただ、強い敵とバトルをするのがスーパーヒーローではない。 映画の中で敵の攻撃により、12人の人間が命の危機に直面する。救出に向かうアイアンマンだが、エドウィン・ジャーヴィス(コンピュータ)の計算では、助けられるのは4名が限度という。超困難な状況でもアイアンマンは、12人全員の命を救うために全力を尽くす。それでこそスーパーヒーローだ。 トニー・スタークって、傲慢で減らず口なんだけど、いい奴なんだよな。人気ブログランキングへ
June 2, 2013
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【送料無料】アベンジャーズ [ ジョス・ホエッド ]価格:680円(税込、送料別)【送料無料】アメコミ映画完全ガイド価格:1,575円(税込、送料別)【送料無料】バトルシップ [ ピーター・デーヴィド ]価格:700円(税込、送料別) 映画のノベライズが好きだ。 子供の頃、物語を読んでいると、果たして自分が文章から想像している情景は正しいのかまちがっているのかという疑問が常にあった。 それだから、アニメ、実写を問わず映像化されたものを見て、確認したい気持ちが強かった。 まるでテストのまるつけみたいだが、映画と原作小説は、自分にとってワンセットのものなのだといえる。 もちろん、小説で思い描いていた主人公のイメージと映像化されたものがちがうということは当然あった。 そして、往々にしていわれるのが、映画化した作品は原作小説を超えることが難しいということ。 そんな中で印象的だったのは石川達三の『青春の蹉跌』だ。この小説は、柛代辰巳監督、萩原健一主演で1974年に映画化された。原作以上との世評を受けて、小説を読み、当時あった名画座へ映画化作品を見に行った。確かに映画の方により力があった。 しかし、原作小説と映画化されたものは、大幅にちがっちゃうことがある。例えば大藪春彦の『野獣死すべし』は、1980年に村川透監督、松田優作主演で映画化されたが、両者は主人公伊達邦彦の名前が同じだけで、内容はまったく異なった。小説の伊達邦彦の活躍を映像で見たかったのに。 基本的に、小説を映像化したたものが見たい。つまり、単純に文章の世界と映像の世界を見比べたいのだから、両者の違いが大きいと混乱する。 その点ノベライズは、映画を小説化したものだから、そんなには違いが出てこない、はず。 例えば、『インナースペース(1987)』は、ほとんどシナリオのままじゃないかというような小説だったと記憶している。 反対に、『スパイダーマン』シリーズ(2002,04,07)のノベライズは、ストーリーを追う以上の厚みを加えてあって、読み応えがあったが、読み終わるのに時間も要した。 ノベライズにもいろいろあるのだ。 そうそう映画のノベライズではないが1981年に『超人ハルク対スパイダーマン』が文庫で出て、楽しく読みました。 さてさて『アベンジャーズ』のノベライズ版です。 この本は、映画『アベンジャーズ』の話になるのが、なんと後半部分なんだ。 では前半は何かというと、『アイアンマン(2008)』『アイアンマン2(2010)』『インクレディブル・ハルク(2008)』『マイティ・ソー(2011)』『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー(2011)』のダイジェスト版が並んでいる。 つまり、アベンジャーズに至る過程が記されているわけだ。 これはあらためて、マーベル・スタジオズ映画のおさらいになったし、各映画のノベライズととらえて、もう一回それぞれの映画をレンタルしてきて楽しむことができた。 おまけに『アメコミ映画完全ガイド』を読むと、『アベンジャーズ』を俯瞰することができまっせ。 あらためて気づいたのだが、『インクレディブル・ハルク』のラストにアイアンマンのトニー・スタークが登場する。トニーは、ロス将軍に「我々はチームを編成中だ」とアベンジャーズを示唆する言葉を投げかける。 『アベンジャーズ』が公開された今となっては、この展開はおかしいよね。『アイアンマン』から『アベンジャーズ』まで、トニーが積極的にアベンジャーズを組織しているようには理解できない。渋々参加したのだから。 しかし、マーベルの世界では、アベンジャーズを集めたS.H.I.E.L.D.はスターク・インダストリーズと関係があったり、なんとトニー・スタークがS.H.I.E.L.D.の長官を務める流れもある。だから、『インクレディブル・ハルク』の段階では、トニー・スターク等の扱いがまだ確定していなかったのかもしれない。 それから、ホークアイは『アベンジャーズ』で初お目見えだと勘違いしていた。じつは『マイティ・ソー』にカメオ出演していたのだ。文章を読んで、そのシーンが蘇った。ブラック・ウィドウほど派手な活躍はなかったが、確かに顔を見せていた。 ノベライズ『アベンジャーズ』を読むことによって、点が線となり網となってマーベル・ユニバースをより堪能できたね。 てなわけで、今は『バトルシップ(2012)』のノベライズを読んでいる。読み終わったらもう一回『バトルシップ』を見て、さらにパチモンの『バトル・オブ・パシフィック(2012)』も見る。人気ブログランキングへ
October 6, 2012
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【送料無料】バットモービル大全 [ マーク・コッタ・バズ ]価格:3,150円(税込、送料別) 山口百恵の歌ではないが、ごめんね前作とまた比べてる、だ。 去年の人の印象が強く残ったままでは、新しい恋にのめりこめない。 残念ながら今年の人は、去年の彼を超えるほどの魅力はない。 『ダークナイト(2008)』は、それほどインパクトの強い映画だった。 『ダークナイト』は、「悪」についての議論を投げかけた。 思わずうなる内容だった。 刺激的で、心のベンチプレスする勢いで受け止めた。 『ライジング』は、『ダークナイト』がなければ、楽しくおつきあいできるお相手だっただろう。 ブルース・ウエイン=バットマンは、究極のピンチに見舞われる。 奸計によって破産させられ大富豪から一気に一文無しへと転落する。 秘密の武器庫は乗っ取られ、全ての武器が敵の手に渡ってしまう。 強敵ベインに叩きのめされて、幽閉されてしまう。 そして、ゴッサムシティには核爆弾の脅威が。 これこそ最悪の状況という中で、バッタマンは人々を救うために雄々しく立ち上がるのだった。 スーパーヒーロー映画の醍醐味を追究した映画だ。 だが、であっても、『ダークナイト』を忘れさせてはくれない。人気ブログランキングへ
September 9, 2012
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新入荷続々♪6000円以上で送料無料♪メール便180円♪宅配便350円♪■予約■SALE OFF!新品北米...価格:6,490円(税込、送料別)【送料無料】【2011ブルーレイキャンペーン対象商品】三大怪獣 地球最大の決戦【Blu-ray】 [ 夏...価格:5,387円(税込、送料別) 2時間半近い映画になったのは、スーパーヒーロー大集合だから。 それぞれの見せ場をつくれば、時間も長くなる。 賑やかだから、時間を感じさせなかった。 しかし、この映画、どこかで見たことがある。 似たような映画を過去に見たぞ。 その映画は『三大怪獣地球最大の決戦(1964)』だ。 『アベンジャーズ』の前半は、各スーパーヒーローがチームを組むまでの顛末である。 宇宙から、とんでもない敵の軍団が襲ってくる。 スーパーヒーローの力をもってしても、一人で対抗することはできない。 なのに、スーパーヒーローは大同団結することができない。 アメコミの世界ではそれぞれが単独で強大な悪と闘っているわけだし、スーパーヒーロー6人のうち4人までもがソロで大作映画の主演をはっているし。 譲り合うことができずに、おのれのパワーを誇示して闘い合う次第だ。 まさに、「両雄並び立たず」状態。 『三大怪獣地球最大の決戦」もご同様。 宇宙怪獣キング・ギドラが地球に襲来した。 地球を守るためには、地球怪獣のゴジラ、モスラ、ラドンが共闘するしかない。 三大怪獣は、かつては単独主演映画で人類を大いなる脅威に陥れた実力をもつ。 小美人を通して人に味方するモスラはさておき、ゴジラ、ラドンは、俺様怪獣だからおいそれとはチームを組むことはできない。 キング・ギドラが暴威を振るっていても、地球怪獣同士で争うしまつだ。 スーパーヒーローも大怪獣も、我が強い。 そこから彼らが一皮むけて成長し、チームを組むまでが前半の流れである。 おんなじだ。 そして後半は・・・。 でも、ちがうと思ったところがある。 『三大怪獣地球最大の決戦』では、敵キング・ギドラの強大さが十分にアピールされていた。 金星を滅ぼしたということ。 人類が手こずったゴジラ、モスラ、ラドンが単独ではとても敵わないこと。 あの巨体を誇るゴジラ、モスラ、ラドンよりも、さらに2倍の大きさであり、空も飛べること。 納得、である。 キング・ギドラ、めちゃくちゃ強いじゃないか。それがとても分かりやすかった。 その点、『アベンジャーズ』はどうだったか。 アベンジャーズ側を描くことにウエイトが置かれていて、敵の存在感をあんまり感じなかったんだよね。 『アベンジャーズ』は、『パイレーツ・オブ・カリビアン(2003〜11』系統の楽しみ方をする映画なんだろな。 人気ブログランキングへ
August 18, 2012
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アメイジング・スパイダーマン The Amazing Spider-man - Face ポスター ¥3800以上お買い上げ...価格:935円(税込、送料別) 今や遅し。 スパイダーマンがスクリーンになかなか登場しない。 この映画は、サム・ライミのシリーズをリセットし、あらためて蜘蛛に噛まれてスーパーパワーを得るところを語っているからね。 でも、クライマックスのリザードとのバトルはスリリングで迫力があった。死力を尽くして闘うスパイダーマン、これぞまさしくスーパーヒーローだ。 前のシリーズは、家族とか彼女とか親友とか、ピーター・パーカーが人間関係のしがらみに悩まされていた。 スーパーヒーローの活躍を楽しむには、しがらみにひっかかってしまって気分がうまく流れないときがあった。 今回は、恋の鞘当てもなく、彼女とは早いうちに相思相愛になるので、スーパーヒーローとしての自意識が損なわれるようなことはない。モテないスーパーヒーローなんてね。 スーパーヒーローとは、尋常ではない強大な敵(スーパーヴィラン)と闘う。 しかし、スーパーヒーローの目的は、スーパーヴィランを打ち倒すことではない。スーパーヒーローの使命は、人々を守ることである。 人々とのかかわりあいなくして、スーパーヒーローの存在価値もない。ファイティング・マシンではないのだから。 リザードの襲撃を受け、子供が車ごと橋から落下しそうになる。 危険を冒しながら、すんでのところで子供を救ったスパイダーマン。 さらに、スパーダーマンは、満身創痍で脚には銃創を負い、力尽きそうにながらも、リザードの奸計を阻止しようとビル街を移動していく。 そのとき、子供を助けてもらった父親が、スパーダーマンのために、ビル建築用クレーンをいくつも操作して、近道を作る。 こうしたスーパーヒーローと人々とのかかわりあいに、深い味わいを感じる。人気ブログランキングへ
June 23, 2012
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【送料無料】電人ザボーガー スタンダードエディション価格:3,730円(税込、送料別) テレビ版の『電人ザボーガー(1974~75)』は、設定もストリー展開も特撮も強引だった。 特撮ヒーローものは、だいたいが無理があるし、十分な予算がないからチープだったりする。 であっても、ヒーローや怪獣などの魅力を楽しみ、見ている側の想像力で画面の貧しさ補ったりする。 もちろん、見ている側とは、特撮ヒーロー贔屓だ。広く一般の人々ではない。 しかし、その特撮ヒーロー贔屓をもってしても、『電人ザボーガー』の強引さは、「たいがいにして」「ついていけないわん」という困惑を誘うものだった。 そんな『電人ザボーガー』だから、復活、映画化されると知ったときは、もっとほかにいい特撮ヒーロー番組があっただろう、と想わずにはいられなかった。 だが、実際に見てみたら、とても味わい深い映画だったよ。ごめんね。 今回分かったのは『電人ザボーガー』は、個性が非常に強い!こと。 設定、展開、特撮の強引さは、『電人ザボーガー』を他のものとはっきりくっきり差別化する強烈な個性なのだ。 だから、一部に熱烈な支持者がいるのでしょう。放映当時にその強引な個性が、幼い脳みそに練り込まれたわけだ。 オリジナルで主役の大門豊を演じたのは山口暁。 『忍者部隊月光(1964~66)』の名月であり、『仮面ライダーV3(1973~74)』の結城丈二/ライダーマンである。 山口暁の大門豊は、力入りまくり。 ザボーガーへ送る指示の言葉も、アクション・シーンも過剰で強引な全力投球。 もちろん大まじめ。 映画では、古原 靖久(江角走輔/ゴーオンレッド)が過剰強引な大門豊を力演する。 オリジナルをリスペクトし、山口暁大門豊をトレースしている。 そのように、大まじめな力み演技を再現してみせるところに笑いが生まれる。 ある種のホラー映画では、恐さとかグロさとかを過剰強引に盛り込んじゃって、見ている側は恐がるよりも笑っちゃいます。 映画『電人ザボーガー』のセンスは、それと似ている。 もちろん、それらの笑いは、意図したものでもある。人気ブログランキングへ
April 8, 2012
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【送料無料】琉神マブヤー THE MOVIE 七つのマブイ大全集価格:2,000円(税込、送料別) スーパーヒーローの使命とは、その特別な能力で、普通の人々を「守る」ことである。 普通の人々では到底手に負えない難事件、怪事件、そして人知を超えた存在の出現、そのときこそがスーパーヒーローの出番だ。 スーパーヒーローは、弱きを助け強きをくじくべき存在である。たとえ相手が自分より強大なパワーをもっていたとしても、人々を「守る」ために戦い抜かなければならない。 そこが見る者のエモーションを刺激する。 スーパーヒーローの存在意義は「守る」ことである。 スーパーヒーローがまもるべきは、普通の人々であり、正義でもある。 人々は、相手が強大であれば、不本意であっても妥協をせざるを得ないことがある。 たとえ理不尽であっても、普通の人々の力ではどうしようもないことがあるのだ。 難事件、怪事件などの犯罪、ある特定の者たちの横暴などは手の施しようがない。 しかし、本来であれば、それらは許されることではない。 そんなときに、逸脱を正し、筋を通して人々を守るために尽力するのがスーパーヒーローだ。 かつて、沖縄は悪の軍団マジムンに何度も襲われた。 そのとき、忽然と現れて人々を沖縄を守るのが琉神マブヤーだ。 今またマジムンが復活し、暗躍を始めた。 しかし、マジムンたちはいう。 「ウチナ(沖縄)を守りたい」 マジムンたちは人間が行った破壊に怒り、自分たちにとって大切な沖縄を人間から奪い返そうとしたのだ。 マブヤーも沖縄(の人々=ウチナーンチュ)を守りたい。 そして、マジムンも沖縄(そのもの)を守りたい。 マジムンの首領ハブデービルはつぶやく。 「おれだってマジムンのヒーローだ」 そう、ハブデービルにも心から守りたいものがあるのだ。 仮面ライダーのショッカーが私利私欲のために世界を征服するのとは異なる。 このバトル、いったいどうなる? ヒントは、琉神マブヤーは「ちむぐくる(相手を思いやる気持ち)と許しの精神をもった、前代未聞の真のヒーローだ」というフレーズにある。人気ブログランキングへ
March 4, 2012
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【送料無料】【I ♥ 映画。キャンペーン対象】マイティ・ソー【MARVELCorner】価格:3,092円(税込、送料別)【送料無料】THOR ソー 生命の木とアスガルドの神々価格:4,536円(税込、送料別) メジャーな方が『マイティ・ソー(Thor)』 マイナーな方が『THOR 命の木とアスガルドの神々(ALMIGHTY THOR)』 例えば高級フレンチ。金を出せばうまいに決まっている。 安価でおいしものとは、つくる側に工夫があり、それを感じると食べる方は感動する。 映画でも、メジャー系が手間ひま才能資本をかければ、面白くてあたり前だのクラッカー。 しかし、条件がよくないところで工夫して面白い映画を撮ったジョン・カーペンターの例もある。 特撮の神様、円谷英二にしてもしかり。 さてさて、まずは『マイティ・ソー』だ。 傲慢なソーは、超能力を奪われただの人間として地球に追放される。 地球で愛を知ったソーは、謙虚さも芽生え、アズガルドに舞い戻る。 人格的に成長したソーは、窮地に陥ったアズガルドを救う。 地球にいるのは上映時間の1/2にあたる。 つまりその間ソーは普通の人であって、スーパーヒーローではない。 しかし、デストロイヤーの襲撃を受け、力を取り戻したソーが撃退する。 普通の人間として耐えた時間があるので、カタルシスを感じさせる。 つぎに、『オールマイティ・ソー』。 ソーと敵のロキ、そして盟友ヤルンサクサとのからみが多い。 画面に映っているのは、この二組の二人ずつ。登場人物がとても少ない。 そして、撮影場所が街角か誰かの部屋。 ソーとヤルンサクサが口論していると、その後ろで単なる通行人の若い母親がベビーカーを押している。 自然な雰囲気といえないこともないが、画面に緊張感がない。 ロキが地球、アメリカの市街地に怪獣達を解き放つ。 ビルを壊して大暴れの怪獣だが、ロキの背後ではハイウエイを車が通過する日常的な様子が見える。 大パニック画面の興奮と落ち着いた風景の脱力感が同居しているわけだ。 マイティ・ソーとオールマイティ・ソーの勝負は、マイティの勝ち! 低予算映画はいかに工夫してあるかを発見するととても嬉しい。 だが、それだけではない。 いかに手抜きをしているかを見るのも面白い。 はっきりいって、マイナー贔屓です。人気ブログランキングへ
January 2, 2012
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スーパーヒーローを追い求めて幾星霜。 我がライフワークとして、どこまでもいくぜ。 とにかくスーパーヒーローであれば何でも見る。 そんな心意気がなければ踏み込むことのできない、果てしなくマイナーな日陰者スーパーヒーロー映画の世界がある。 『ブラックナイト リターンズ(2009)』 『メタルマン(2008)』 これらについては、ただ映像を見続けるだけの行為がとても辛く、しだいに悲しささえ募ってきた。 これらの映画を強制的に見せられたら、拷問にさえ使えるだろう。 しかし、スーパーヒーロー道を追究するため、難行苦行に耐えた。 こういった映画には共通点がある。 1.予算がかかっていない。 ・撮影用のセットを組ま(め)ず、どこかの資材倉庫や営業事務所が敵のアジトになり、誰かの個人住宅を秘密基地として撮っている。出演者が少ない。 2.セリフが説明に終始する。 ・破壊、災害、時空を超えるなどの派手なシーン、込み入った場面は、映像にしないでできるだけセリフですませようとするから。 3.役者が演技をしていない。 ・セリフ棒読み、ぼーっと棒立ち。無表情。 今回の『Mr.アン・インクレディブル スカラベンジャー』も、およそ日の当たることは考えられない映画だ。 アン・インクレディブルとは、もちろん邦題である。コメディとかパロディではないのに、こうネーミングをした時点でもう腰が引けている。よくいえば謙虚だが、内容的にそうならざるをえない。 このDVDのパッケージには、気になるコピーがあった。 「アメリカン・コミックス最後のヒーロー!遂に日本初登場!」 『ブラックナイト リターンズ』や『メタルマン』は、バットマン、アイアンマンの[ぱちもん]だった。 しかし、スカラベンジャーはきちんと正当な原作に基づいたものなのか。よく版権料が払えたものだ。 インターネットでスカラベンジャーの元ネタについて検索してみると、ありましたね、奇特なサイトが。感謝感激! このサイトから、アメコミといっても、DCコミックやマーベル・コミックなどのメジャー系ばかりでないと認識した。 映画版『Mr.アン・インクレディブル スカラベンジャー』については、これまでの修行の成果かずいぶんと耐性がついてきたのが自分でも分かった。投げ出さなかったから。 一番辛かったのは、エンディング・クレジットの直前に、90%静止したコミック画像が意味不明に連続して映し出されたところだ。絵心ないしろうとかマンガ好きの小学生がかいたような絵なんだけど、それを見て往年のコミックを思い出しノスタルジーに浸る人、胸躍らせる人もいると考えたサービスなのだろうか。 日陰者スーパーヒーロー映画は、すべての映像商品の中でも極北に位置している。 勇気のある者は、そこまで足を運んでみるがいい。どんなに時間をもてあましていたって経験したくない、ある意味貴重な世界がある。 なんでこんな映画が存在してしまうのか。思索の底なし沼あるいはブラックホールに陥ると、簡単には脱出できない。 ちなみにスカラベとは虫のふんころがしのこと。
December 31, 2011
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【送料無料】仮面ライダー×仮面ライダーフォーゼ&オーズMOVIE大戦MEGA MAX超百科価格:1,155円(税込、送料別) 仮面ライダーの魅力は「変身!」の掛け声でポーズをとるところだった。光線技などを使わず、パンチやキックが必殺技であるところだった。「等身大、身近さ(がライダーの特徴)」とV3の宮内洋氏も語っています(『ウルトラマンVS仮面ライダー(2011年版)』)。 非常にシンプルなスーパーヒーロー、それが初期の仮面ライダーの持ち味。あの時代、「仮面ライダーごっこ」をするとき、子供たちは何もなくても仮面ライダーになりきることができた。 しかし、今のライダーは違う。変身するときは、ガイアメモリやコアメダル、アストロスイッチなどの様々なアイテムを使用する。さらに、闘う姿もひとつの格好ではなく、何種類ものフォームに切り替える。いくつもの武器ももっている。 これは、おもちゃやゲームを買ってもらうためである。 時代は変わる。仮面ライダーも変わる。 この映画には、昭和ライダーたちがレジェンド・セブンとして登場する。 Xライダーが空中でライドルを使って大車輪をするシーン、かつては画面のつなぎで見せていた、というか見る側が「空中でやってるんだな」と想像力を働かせる映像だった。だが、今回は、あんまり違和感のないCG処理により、見た目に宙に浮かんで大車輪しているXを見せてくれた。 これも時代が変わったからできたこと。 仮面ライダーはどこへ行く。
December 24, 2011
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第二次世界大戦の生ける伝説、キャプテン・アメリカ。【送料無料】【初回限定生産】【11月発売...価格:20,900円(税込、送料込) 「キャプテン・アメリカ」を初めて知ったのは、1960年代後半だった。 1960年代は、じつにエキサイティングだった。 東宝特撮はゴジラ映画など年に2本新作が公開された。 ウルトラQやウルトラマンがテレビに登場した。 大映はガメラと大魔神、松竹ギララ、日活だってガッパがいた。 東映に至っては、『黄金バット(1966)』と『怪竜大決戦(1966)』の2本立てがあったほど。 その頃ぼくは、見た映画のことを頭の中でプレイバックしたり、新作映画に思いを馳せたり、自作の怪獣やヒーローの絵を描いたりしてばかりいた。 授業は頭に入らず、仮病を使ってうちで特撮、ヒーロー系の研究にいそしんだりもしていた。 小学校の高学年だったが、少年雑誌の宣伝広告でアメリカIDEAL社の「キャプテン・アクション」なるものを見た。 「キャプテン・アクション」は、男の子の着せ替え人形といえば分かりやすいかもしれない。 ただ、バービー人形などとちがうのは、各関節が曲げられるようになっていたところだ。なにしろ「キャプテン・アクション」だもんね。(今で言えば「アクションフィギュア」) 女の子は、静的なファッション重視で、どちらかというと見て楽しむ。男の子は動かして楽しむということで、一口に着せ替え人形といってもちょっと趣きが異なるのさ。女の子は着飾った自分を思い描き、男の子は人形にを動かして活躍する自分を想像するのかもしれない。 で、「キャプテン・アクション」がなぜぼくの目に留まったか。 アクション系着せ替え人形の元祖には「G.I.ジョー」がある(最近同名の映画があった)。 これは、のバービーちゃんがファッションモデルとして服を変えるように、米軍兵士G.I.ジョーが歩兵やパイロットなどに姿を変えた。 しかし、「キャプテン・アクション」は、着せ替えのコスチュームが、スーパー・ヒーローのものだったのだ。 つまり、「キャプテン・アクション」は、スーパーマンにもバットマンにも変身できたんだ。 これは、スーパーヒーローマニアとしては放置できない。 当時日本には、スーパーヒーローのフィギアなんてなかった。やっぱりアメリカはちがう。 日本でも、七色仮面、ナショナルキッド、まぼろし探偵などの「仮面アクション」が出たらよかったなあと妄想した。 ぼくは即座に「キャプテン・アクション」購入計画を立てた。誕生日のプレゼントとかお年玉などで、スーパーヒーローを順にコレクションしていこうと思った。 その中に「キャプテン・アメリカ」がいた。 スーパーマン、バットマンはまさにスーパー・ヒーローだった。 しかし、「キャプテン・アメリカ」は知らない。 というか、「キャプテン・アクション」のシリーズには、ファントムとかフラッシュ・ゴードンとか、その時点では未知のヒーローが大半だったけど。 結局、その計画は実行に移されなかった。 エキサイティングな60年代は、ほしいものがいっぱいあった。マルサンの怪獣プラモ、007気分に浸るためのモデルガン、アニメや特撮のソノシート等々。 そう裕福でない家庭では予算不足などの問題も深刻ではあったが、なんといっても地方都市の生活圏のお店には「キャプテン・アクション」なんて置いてなかったのだ。 いずれにしても、その計画の中で「キャプテン・アメリカ」は、順位的に下位であった。知らないということもあるが、あの星条旗をデザインしたコスチュームから、スーパーヒーローとしてのイメージがわきにくかった。 未知のヒーローで、オリジナルのストーリーを知らずとも、その姿形から勝手に妄想をふくらますことはできる。 けど、国旗を纏っていてはねえ。 そんな「キャプテン・アメリカ」について、今回の映画で初めて全体像が分かった。「キャプテン・アクション」以来、少しずつ情報はあったが。 映画としては、飽きないで最後まで見ることができた。 スーパー・ヒーローとして、「キャプテン・アメリカ」はどうなのか。 虚弱体質のスティーブ・ロジャースは、第二次大戦のスーパー・ソルジャー計画で、筋肉隆々に生まれ変わる。 もちろん、強い。プロレスラーの2、3倍は強い。だが、スーパーマンやスパイダーマンのような並外れた超能力をもっているわけではない。 そして、マスクとコスチュームは身につけているが、正体不明という設定ではない。 マスクとコスチュームは、もとはといえばアメリカ軍の宣伝用だ。 そういう点では、現実離れの程度は押さえ気味のスーパーヒーローだろう。 話は一足飛びする。闘いを終結させたキャプテン・アメリカはある事情によって氷漬けになってしまい長い眠りにつく。そして、目覚めたら現代だ。 これは力技だと思った。2012年公開予定の映画『ジ・アベンジャーズ』のためなんだなあ、と思い込んだ。 『ジ・アベンジャーズ』とは、マーベルコミックのスーパーヒーローであるアイアンマン、超人ハルク、マイティ・ソー、そしてキャプテン・アメリカの豪華ドリーム・チームのことだ。 第二次大戦の頃のスーパーヒーローをアベンジャーズに参加させるために、70年ほど眠らせたんだと解釈した。 ところが、調べてみると、オリジナルのコミック版『キャプテン・アメリカ』でも、スティーブ・ロジャースは、氷漬けになっていた。ハハハ。 「キャプテン・アクション」を買うことはできなかったが、のちにぼくはコンバット・ジョーのコスチュームゴジラ(ゴジラ着ぐるみ)を手に入れた。
November 19, 2011
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【送料無料】キック・アス価格:3,192円(税込、送料別) 『キック・アス』は、背筋が連続スパークしたよ。 しょぼくれスーパー・ヒーロー「キック・アス」は、超能力も、並外れた知力、体力も、財力もない。並以下の高校生だ。 しかし、悪を憎み、不正を見過ごすことはできない熱い心をもっている。 町の与太者にぶちのめされて、車に轢かれ、死ぬほどの目に会っても、通販のヒーロー・スーツを着ることをやめない。 力があるからスーパー・ヒーローになるんじゃない。スーパー・ヒーロー魂が燃えるから、通販のヒーロー・マスクをかぶるんだ。 正義に燃えるもののキック・アスは虚弱体質である。悪を恐れぬ突撃の結果、血も涙もないバイオレンス・ガイ達を怒らせる。この対決、キック・アスにはまったく勝ち目はない。 そこに登場したのが、ビッグ・ダディとヒット・ガール。二人は、マニアックにヒーローのトレーニングを積んでいる。だから、掛け値なしに強い。へっぽこヒーローのキック・アスはかろうじて救われたのだ。 ギリギリのピンチ、もうダメだとあきらめかけたとき、そこに現れるスーパー・ヒーロー。『キック・アス』は、そのカタルシスを繰り返し味わえる。 圧巻は、なんちゃってヒーロー「キック・アス」の大活躍だ。 ビッグ・ダディとヒット・ガールは、通販で新兵器を購入する。今やネットで何でも買える。 その新兵器、スクリーンに全貌を映さない。木箱の中から一部分だけが見えて、「ガトリング砲が・・・」といった言葉だけが聞こえてくる。 ガトリング砲といえば、マカロニ・ウエスタンの痛快作『続荒野の用心棒』だ。主人公ジャンゴは、ぬかるみの長い道のりを、なぜか棺桶を引きずってやってきた。ジャンゴは襲い来る大集団を向こうに回し、勝ち目がないと思われたその瞬間、棺桶からガトリング砲を取り出すと派手に撃ちまくり一網打尽にした。 その手なのか。 おりしも、ヒット・ガールが敵のアジトに潜入するとき、マカロニ・ウエスタンの音楽が流れる。 父ビッグ・ダディを卑劣な手段で亡き者にされ、ヒット・ガールは、復讐を胸に単身乗り込んできた。 小学生にもかかわらず無類の強さを発揮して、敵を全滅させるまであと一歩のところだったが、さしものヒット・ガールもついに力尽きて大ピンチに陥る。 そのとき、エルビス・プレスリーの「リパブリック讃歌」をバックに、キック・アスが姿を見せた。新兵器を装備して。 ガトリング砲だけじゃなかった。 魂のヒーロー、キック・アスは、ついに悪を叩き潰す強いスーパー・ヒーローへと変身を遂げたのだった。
October 30, 2011
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【送料無料選択可!】X-MEN:ファーストクラス 明日への架け橋 / 原タイトル:X-MEN FIRST CLASS:...価格:2,310円(税込、送料別) X-MENのシリーズをおもしろいと思ったことはなかった。ぼくにとっては、X-MENは相性が悪いと感じていた。 けれど、番外編、スピンオフの『ウルヴァリン: X-MEN ZERO(2009)』はおもしろかった。 そして、この『ファースト・ジェネレーション』は、なんと、とってもおもしろかった。 X-MENのシリーズは、プロフェッサーXとマグニートーのミュータント・超能力バトルを描いている。 プロフェッサーXは、人類とミュータントの共存共栄を望んでいる。マグニートーは、特殊能力で人類を支配しようと企んでいた。 この関係が、仮面ライダーとショッカーのように、片方が正義でもう一方が悪という具合に、きちんと枠にはまっていれば感情移入がしやすい。 しかしながら、マグニートーとその一派(「BROTHER HOOD」)は、徹底した悪として憎み切ることは難しい。人類と対立する存在だが、マグニートー自身にはユダヤ人として虐げられた悲しい過去がある。またミュータントたちは、特殊で強力な能力をもっているがゆえに、一般人から迫害され、孤立感を味わったりしている。つまり、マグニートーと「BROTHER HOOD」には同情すべきところがあるのだ。 さらに、これまでの映画では、プロフェッサーXとマグニートーが、かつては親友、仲間同士だったことがわかっている(『ファースト・ジェネレーション』は共闘関係の時代の話だ)。 そういった設定から、ぼくは楽しむことができなかった。 だが、今回は本当に悪い奴を敵役(ヴィラン)にすえることで、すっきりした。 ヘルファイア・クラブを率いるセバスチャン・ショウは、対象物のエネルギーを吸収して自分のパワーに変換することができる。ショウは、かつては非情なナチの一員だった。少年時代のマグニートーに超能力を出させるために、彼の目の前で母親を銃殺してしまう。時代は進み、米ソ冷戦の時代には、両国の背後で暗躍して、第三次世界大戦を引き起こそうとする。 こいつは掛け値なしに悪い。だから、世界を救う闘いを挑むプロフェッサーXとマグニートーを無条件で応援することができた。 それから、ミュータントの特殊能力がとてもダイナミックに展開していた。特にクライマックスのミュータント・バトルは迫力があった。普通の人間達は、ミュータントの圧倒的な活躍に目を奪われる。その様子をインサートすることで、バトル・シーンの映像以上の効果を発揮している。 映画を見てから気づいたのだが、監督は『キック・アス』のマシュー・ヴォーンだった。この人は、スーパーヒーローをじつによく分かっている。
June 12, 2011
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【送料90~】グリーンホーネット ムービー/ 6インチ アクションフィギュア: 2種セット価格:5,800円(税込、送料別) 「グリーン・ホーネット」を見たのは、小学校5,6年生だったかな。テレビ番組の『バットマン(1966~68)』に、グリーン・ホーネットとカトーがゲスト出演したのだ。 これは、『天装戦隊ゴセイジャーVSシンケンジャー エピック ON 銀幕(2011)』などのスーパー戦隊VS師リースのようなもの。 アメリカにはまだまだ未知のスーパーヒーローがいるのだと、その奥深さを感じたものだ。しかし、ゲスト出演だからグリーン・ホーネットの実態はよく分からなかった。 近所の友達に、そのときの「グリーン・ホーネット」の話をしたら、なんと漫画版をもっているという。すぐに見せてもらった。当時あった月刊誌「少年」に掲載されていた。 グリーン・ホーネット単独のテレビ番組(1966~1967)も見たと思う。あんまり印象に残っていないのは、夕方などの中途半端な時間にやっていて、しっかり見られなかったからだろう。東京ではゴールデンタイムに放映していたようだが。 いずれにしろ、「グリーン・ホーネット」は、裏「バットマン」という印象がある。 バットマンとロビンの覆面タッグチームに対応するグリーン・ホーネットとカトーの覆面タッグ。 バットマン組はじつにスーパーヒーローらしい明らかに人目を引くコスチュームである。対するグリーン・ホーネット組はマスクはつけているものの、コートと帽子など一般人と変わりない服装だ。 バットマンは、日本でも鳴り物入りで日曜日の6時半から放映されていたのに、グリーン・ホーネットはいつやっているかわからなかった。 そんなわけで、「グリーン・ホーネット」は僕にとって、長い間幻のスーパーヒーローだった。 しかし、予期せぬできごとで、「グリーン・ホーネット」が光があたった。それは、ブルース・リーの登場だった。 『燃えよドラゴン(1973)』一本で世界を席巻したブルース・リー。なんと、そのブルース・リーが、あのグリーン・ホーネットのカトーだったのだ。 ブルース・リーは、『燃えよドラゴン』が大ヒットしたときには、もうこの世の人ではなかった。 一躍スクリーンのヒーローとなったブルース・リーだが、どんなにがんばっても彼の新作はつくることができない。取り急ぎリーの旧作の公開が準備されたが、それらは全部香港映画だ。アメリカから送り出されたのは生前のテレビ番組をつなぎ合わせた映画『ブルース・リーのグリーン・ホーネット(1973)』だった。 このとき、ぼくはようやくヒーロー『グリーン・ホーネット』の活躍を拝むことができたのだ。 ぼくにとって『グリーン・ホーネット』は、スーパーヒーローとブルース・リーという二つの嗜好を満たしてくれる。 だから、『グリーン・ホーネット』の新作映画化をずっと待ち望んでいた。 もちろんブルース・リー本人が出演することはありえない。だが、ブルース・リーの幻影を見ることができるのではないかという期待があった。 「バットマン」の方は、1989年のティム・バートン監督作品から至高の一作『ダークナイト(2008)』まで、充実の6本の映画が制作されている。 それに比べて「グリーン・ホーネット」が映画化されないのは、やはり世間的な認知度の差なのか。 だが、ブルース・リー没後38年、テレビの『グリーン・ホーネット』から数えること44年目にして、大スクリーンに『グリーン・ホーネット』が蘇ったのだ。 この映画、じつに痛快!午前3時まで、熱狂のサッカーアジアカップ決勝戦日本対オーストラリアを見て寝不足だったにもかかわらず、全く睡魔に襲われることもなかった。 グリーン・ホーネットに扮するブリット・リードは小太りのぼんぼんでネクタイ緩めてる。 冴えない男なんだが新聞社の社長の息子で金はある。 金があるから、ヒーローになろうと決意するとなれちゃうわけだ。 でも、カトーという存在が大きい。 カトーはカンフーの使い手だけでなく発明家。実戦でグリーン・ホーネットをカバーするばかりか、ヒーローの新兵器や装備もつくりだす。 ブルース・リーに敬意を払ってか、カトーの設定を変更し、何よりリアルカンフーファイトの場面はなかった。 映画版グリーン・ホーネットとカトーは、じつにアグレッシブ。思いついたことは、臆することなくがんがん実行しちゃう。 ここに来て、バットマンとの違いが明らかに示された。 「バットマン」はメジャー、「グリーン・ホーネット」はマイナー。 「バットマン」はダークヒーローだが、「グリーン・ホーネット」は明るいいてまえヒーロー。 「バットマン」も『バットマン オリジナル・ムービー(1966)』では、能天気ヒーローなんだけどね。 ところで映画を見ていて気づいたことがある。 カトーは、カトーなんだ。つまり、ブリット・リードがグリーン・ホーネットと呼ばれるように名前を使い分けているのではない。 で、仲間内やあるいは映画を見ている観客にはカトーなんだが、映画の中の人々にとってカトーは、グリーン・ホーネットの助手または手下でしかない。つまり、名前はない。 しかし、カトーがいなければグリーン・ホーネットの活躍もない。 それを考えると、「グリーン・ホーネット」とは、個人の名前ではなくチーム名といってもいいのではないか。 バットマンはシングルでもヒーローとして活躍するが、グリーン・ホーネットはタッグチームでないとヒーローとしての役目を果たさないし。 映画『グリーンホーネット』、不満があるとしたら、「グリーン・ホーネットのテーマ」をもう少し聞かせてほしかった。ヒーロー贔屓には、テーマ曲もツボにはまって感涙にむせぶのだから。
February 13, 2011
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【送料無料】仮面ライダー×仮面ライダーオーズ&W(ダブル) feat.(価格:1,155円(税込、送料別) 『牙狼〈GARO〉~RED REQUIEM~(2010)』を見に行くことができなかった。上映終了しちゃった。痛恨の極み。 だから、そんなことがないように、『仮面ライダー×仮面ライダー オーズ&ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE(コア)』は、公開と同時に見に行った。 映画館の2階席は、子供がほとんどいなくて静かな雰囲気だった。 さて、これはけっこう一致する意見ではないかと思うが「仮面ライダースカル」がかっこよかった。探偵事務所とか、人気歌手がホールで歌うとか、悪徳芸能プロの社長とか、昭和30年代のアクション映画の佇まいを感じた。それだけでなく、キリッとした映像と展開を見せていたと思う。 ブルドーザーに押しつぶされそうになり、そこから脱出するくだりなんか、スーパーヒーローのパワーを味わわせてくれた。 まあ、テレビの『W』や『○○○』を見ている人たちには、楽しく見ることができたのだろう。テレビ番組に上乗せしたり、掘り下げたりするものが多々あったようだ。しかし、残念ながらテレビを見てないので、そこらへんはよくわからなかった。知っていれば「オー!」とか「ホー!」とか心が踊っただろうが。 『牙狼』も、テレビ版を見ていなかった。それでも、特撮スーパーヒーローファンとしては、映画には食指が動いた。動いたんだけど、なんとしても見に行こうとまでは思わなかった。でも、このところテレビ版の『牙狼』をDVDで見るようになり、世界観が分かってくると俄然見たくなった。そしたら終わっちゃった。 そんなこんなで、『仮面ライダー×仮面ライダー』、十分楽しめてないのかもしれない。けど、今ひとつ心に響いてこないと思った。仮面ライダーのバトルに終始しているという印象。スーパーヒーローとは、人々を悪の手から救うもの。そこがグッとくると思うんだけどな。アメコミのスパイダーマンやバットマンは、一般の人々の存在が必ずあり、彼らがスーパーヒーローとしての存在感を示している。 そして、『牙狼』も、人々を救うために、ストイックに魔族ホラーと闘う姿に心が動く。
December 19, 2010
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仮面ライダーW&天装戦隊ゴセイジャー映画超百科価格:1,155円(税込、送料別) 『仮面ライダーワールド2010 超バイク大戦』は、じつに見応えがあった。ステージでバイクが疾走し、飛び跳ねるのだ。下腹がクワっと浮いた。絶叫マシンより快感だ。バイクは、スーパーヒーローを引き立てる。 その夜、『仮面ライダーW FOREVAR AtoZ/運命のガイアメモリ』を見た。 これまで平成仮面ライダーの映画は、なかなか馴染まなかった。平成、あるいは21世紀のセンスについていけなかったのかもしれない。 しかし、今回の映画はよかった。ストーリー、設定ともに楽しめた。 何より、仮面ライダーと怪人などのバトルで、周囲の壁やフェンスが破壊されるところがよかった。 以前の仮面ライダーのバトル場面では、投げ飛ばされたりしたライダーもしくは怪人が、壁やフェンスに激突しても、ビクともしなかった。これは不満だった。だって人間同士の格闘ではないのだから。 ライダーや怪人の体の強靱さ、力の強さが人間離れしているところを表現するためには、やはり周囲を破壊しながらバトルをしてくれれば迫力と説得力がある。 どの作品からだったか、こういった破壊場面が登場するようになった。 バトルシーンは、セットではない。どこかのスタジアムなどだ。もちろん、そこのフェンスや柱を本当に破壊してしまうのではない。周囲のデザインに合わせて、破壊用の柱やフェンスを増設して撮影していた。 仮面ライダーなどは、荒唐無稽なお話だ。今回は特に風都という架空の都市を舞台としている。そういった現実離れした設定においては、現実的で、リアルな部分をちゃんと描き込まないと、まったくウソくさい映画になってしまう。 だから、バトルでは、壁やフェンスが壊れるというディテールをきちんとやってくれると嬉しい。 映画などでリアルな部分に違和感を感じると、もうそこから作品の世界に入り込めなくなることがある。例えCGや特撮がしょぼくても、細部に配慮してあれば、努力を認めることができるのだ。 リアルといえば『仮面ライダーワールド2010 超バイク大戦』は、特撮ではないのだが、生のスタントの迫力があった。幅1mにも満たない細い通路が、ステージから上段まで急勾配で立てかけてある。そこをバイクが登るのだ。 フィナーレで、駆け登ったクウガのバイクが上段に辿り着いたところで転倒してしまった。そうしたら子供達から「がんばれ!」と声援が沸き上がった。クウガはバイクを起こして手を振ると、颯爽と消えていった。
August 22, 2010
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ウルヴァリン:X-MEN ZERO <特別編>価格:1,995円(税込、送料別) X-MENの映画シーリーズが公開されるたびに、ぼくは映画館に行った。しかし、3本とも期待に応えてくれるものではなかった。 だからスピンオフ作品である『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』も、似たり寄ったりのできばえだろうと、DVDになってからもずっと放置していた。 今回、スーパーヒーロー贔屓としての、いわば義務感から『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』を見てみた。そうしたら、おもしろいじゃないか。 ウルヴァリンの壮絶な人生、なぜ金属の骨格を得たか、記憶喪失になったかがわかった。 束の間の愛の生活、心のやすらぎがわかった。 異形のスーパーヒーロー、ウルヴァリン。彼のじつにドラマティックな生き様、特殊な能力をもったがゆえに闘わざるを得なかった者の悲しい宿命にエモーションを痛く刺激された。 超能力者が大挙して登場するX-MENのシリーズでは、ウルヴァリンの深い部分まで知ることはできなかった。 例えば、座頭市は、盲目の居合い抜き名人、逆手斬りの使い手でありながら、はぐれ者というところにドラマがある。 眠狂四郎には、円月殺法の強豪剣士というだけではなく、転びバテレンと武士の娘との混血児であるところにドラマがある。 この時代劇ヒーロー二人に加えて、忍びの者霧隠れ才蔵や鞍馬天狗などが寄り集まったら、賑やかな映画にはなるだろう。でも、集団の中で個々の強烈な個性を十分に描くことは難しのじゃないか。例えが古くてすまぬが。 X-MENのような特殊能力をもったスーパーヒーローのチームも確かに楽しい。その場合は、中の一人に焦点をあてて他を完全な脇役にするか、あるいは彼らの友情、団結、葛藤など、チームとしての悲喜交々を描くかしてほしい。そうすれば感情移入がしやすくなると思う。 強い、常人にはない得意技をもっているというだけで、スーパーヒーローが生まれるのではないわけだ。スーパーヒーローには、人を惹きつけるドラマが大切なんだ。 その点を『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』は教えてくれた。 もうひとつ、スーパーヒーローものは、シリーズの旧作がつまらなかったからといって、新作を見過ごしてはならない。スーパーヒーロー贔屓は、あらゆる映画を見るべきだ。
July 4, 2010
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『アイアンマン(2008)』がとっても痛快でおもしろかった。だから、『アイアンマン2』はすごく楽しみだった。スーパーヒーロー・マニアの期待に応えてくれる映画だろうと、信じて疑わなかった。 これは、プロ野球の贔屓チームに寄せる思いに似ている。 あるとき球場に観戦に行ったら、贔屓チームの打者がヒットやホームランをバカスカ打ち、ピッチャーがピシャリと相手打線を封じ込め、じつに気持ちのよい勝ち方をしてくれた。そうすると、つぎに球場に足を運んだときも、当然またあの快感に浸れることができると思ってしまう。 だから『アイアンマン2』は封切り日にすぐ見に行った。 ところが前作に比べて、ストーリー展開がどうももどかしい。 『アイアンマン』では、死の武器商人で発明家のトニー・スタークが正義に目覚め、罪のない人々を救うためにパワードスーツを開発して、テロ組織に立ち向かっていく過程に胸が躍った。じつに頼もしいスーパーヒーローだった。 なのに『2』は、もうひとつスーパーヒーローならではのエモーションへの刺激を感じない。 「こんなはずじゃなかった」 しかし、バトル・シーンになって、俄然盛り上がってきた。 アイアンマンが闘うのは、仇敵ジャスティン・ハマーが送り込んだドローン軍団やウォーマシーン。アイアンマンと敵アーマーとの超高速飛行バトルや肉弾激突が繰り広げられた。 例えば、座頭市の映画では、敵方が大挙して市を襲う。基本的な構図としては、『アイアンマン2』も、座頭市のアクションシーンと同じである。だが、座頭市を取り囲むのは有象無象である。それに対して、ドローンやウォーマシーンはハイテク・アーマーだ。一体一体に巨額の金がかかり、武器や特殊機能を備えている分、見た目の賑やかさが断然ちがう。 この盛り上がりは、プロ野球の試合で言えば、点が取れない、ピッチャーは打たれるという序盤戦を経て、後半戦は贔屓チームの打線に火がつき、勝利への期待感が高まる状況と同じか。 そして、いよいよ本作のメインイベント。ダークサイドのトニー・スタークであるウィップラッシュ(イワン・ヴァンコ)が電撃鞭を携えてリベンジに現れた。 『アイアンマン』では、クライマックスでアイアンマン対アイアンモンガーがド迫力バトルを展開した。当然、今回も、死力を尽くしたバトルを堪能させてくれるだろう……。 と思ったら、意外にあっけない幕切れ。 これは、逆転勝ちのムードに乗った贔屓チームだったが、パンパンと打ち急いでしまって得点できず、結局敗れ去った状況に似ている。 そういえば、ヒット映画の続編はなんとかかんとか、という定説?ジンクス?があったけ。 そうであっても、贔屓チームの次の勝利を期待するように、『インクレディブルハルク2(2008)』を楽しみにしている。性懲りもなく。 『インクレディブルハルク2』、つくられているのか?
June 20, 2010
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【送料無料選択可!】スペース・インベージョン / 洋画価格:4,485円(税込、送料別) Z級映画、とんでも映画、アホ映画、ジャンクムービー。呼び名はいろいろあるけれど、 低予算で、特撮はしょぼく、設定が超ご都合主義などの特徴をもつ楽しい映画のことである。 『スペース・インベージョン』、このタイトルを見たときは、てっきりニコール・キッドマン主演の『インベージョン(2007)』みたいな宇宙人の侵略もの、もしかしたらその二番煎じではないかと思った、この手の映画にはよくあることだ。しかし、予想ははずれた。なんとぼくの好きなスーパーヒーローものではないか。これは嬉しい誤算だ。 登場人物は、スーパーヒーロー、アトム・ナインに変身する科学者ゲインズ、その彼女マーゴ、そして悪役フラッグ。これは主な登場人物という意味ではない。ほぼこの3人で地球壊滅の危機とそれを救う映画ができてしまうのだから素晴らしい。 一般にスーパーヒーローの適役はスーパーヴィランと呼ばれる。フラッグが、スーパーかどうかは知らんが。 科学者ゲインズ博士は、隕石によって運ばれてきた宇宙最古の金属生命体を所有していた。悪の科学者フラッグは、金属生命体を手に入れようと手下を送り込む。 黒い影のような実体の定かではない手下は、研究所を爆破する。重傷を負ったゲインズ博士だが、金属生命体が寄生し一命を取り止める。博士が連れ去られたマーゴを助けたいと思考したら、寄生した金属生命体が変形し、突然コスチュームとジェットパックが出現。「ぼくはアトム・ナインだ」あっさりスーパーヒーローに変身した。 フラッグは、自分を地球の支配者に指名しろと国連に迫るが、どこの馬の骨とも知らない男の申し出は当然無視される。フラッグは報復措置として、究極兵器プラズマ・ビームで月を引き寄せて地球にぶつける作戦に出る。 さあどうするアトム・ナイン。 なんと、アトム・ナインは勇猛果敢に飛び立つと、迫り来る月を一人押し返そうと試みるのだ。 まあ、いかに金属星人が寄生しているとはいえ、それは無理だろう。しかし、アトム・ナインは「ジェットパックのパワーを最大にしろ」と念じる。するとジェットパックが巨大化。月と同じくらいの大きさのジェットエンジンが二つ出現する。そして、めでたく月を押し戻してしまうのだ。 これは、かの東宝特撮映画『妖星ゴラス(1962)』を彷彿とさせる。地球に衝突する軌道を描く妖星ゴラス。この危機を回避するためには、地球にロケットエンジンを取り付けて、地球自体を移動させてしまう。じつに衝撃的だ。凄い映画でしょ。 『妖星ゴラス』に勝るとも劣らない。スーパーヒーロー、アトム・ナインの大活躍(一人で巨大ジェットエンジンを背負って月を押し返してしまう)も、忘れようったって忘れられない、いやでも脳の海馬を刺激する映画だ。 ひとつ言わせてもらえば、子供の頃にマンガで読んだけど、あのジェット推進10万馬力の鉄腕アトムも空気のない宇宙空間では前に進むことはできなかった。ジェットの限りというでしょ。ウルトラマン第16話「科特隊宇宙へ(1966)」では、ジェット・ビートルを大気圏外に飛ばすためにハイドロジェネートロケットエンジンを装着した。 それなのに、アトム・ナインは宇宙空間をジェットで飛行し、あまつさえジェットの力で月まで動かしちゃうんだから、じつに痛快。 きっと監督・主演のクリストファー・ファーレイは、低予算の環境でやれることはすべてやった、との満足感、達成感を抱いているだろう。『スペース・インベージョン』は、そんな明るいスーパーヒーロー映画だ。 次回は、一転メジャー超A級スーパーヒーロー作品『アイアンマン2(2010)』を紹介します。
June 13, 2010
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スーパーヒーローやモンスターの映画は、チェックしないではいられない。 『ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲』にも、当然食指が動いた。映画のスーパーヒーローは、テレビのものとは重みが違う。 しかし、ネットで評価を見たら、目につくものは酷評だらけ。で、見る気がなくなった。DVDになってからでいいや。 その後知人が「『アリス・イン・ワンダーランド(2010)』を見ようと思ったのだけど、ネットで調べたら、評判が悪いからやめた」と語っているのを聞いた。 それはおかしいだろう。他人の評価ではなく、おもしろいかおもしろくないかは、自分の目で確かめなくてはわからないだろう。と批判したくなった。 あれ?じゃあなんで、ぼくは『ゼブラーマン2』を見ないんだ。 そこで考えた。ぼくは『ゼブラーマン2』を見たいのか、見たくないのか。 前作の『ゼブラーマン(2004)』は好きではなかった。スーパーヒーローもののカタルシスがあるようでなかったから。 だから、ネットでの酷評を考え合わせると『2』も推して知るべしかな、期待には応えてくれないかなという気がする。 だけど、仮面のスーパーヒーローものは、やっぱり見たい。できがどうであろうと見たい。これは習性ですね。 さて、それで、見てどうだったか。 スーパーヒーローものの体裁をとっていながら、クライマックスでギャグに走ります。 「夢は必ずかなう」などと常套句が渦巻き、周囲の人々は大まじめのスーパーヒーロー・パターンで映画は進行する。人々の期待を一身に背負い、満を持してゼブラーマンがエイリアンとの最後の闘いに挑む。ゼブラーマンは、死力を尽くして闘うが、その作戦はおバカの一言。 そのアンバランスさが面白かったな。 つぎは『アイアンマン2(2010)』だ。 何はなくともスーパーヒーロー、とモンスター。
June 5, 2010
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ティム・バートン監督の『アリス・イン・ワンダーランド(2010)』を見た。一言で言うと、分かりやすい話だった。これは、ティム・バートンに対する評価としてはどうなんだろう。 で、同監督の『バットマン』を20年ぶりに見直してみた。 公開時、映画を見終わってぼくが友達に呟いた言葉は「スーパーヒーローもので芸術をやらないでほしい」だった。 画面は暗いし、話は暗いし、やっぱスーパーヒーローものは、勧善懲悪、スカッとカタルシスがないといかんでしょう、というのが当時のぼくの意見なのだった。多分、ぼくの中にあったスーパーヒーローとは、かつてのジェームズ・ボンドのように完全無欠、スリリングな展開の中で悪を倒して人々のピンチを救うというひたすらかっこいい存在だった。 あるいは、日常生活ではおバカを装い、いざとなったら仮面とコスチュームを纏って、颯爽と登場する、という二面性があっても、それはそれで能ある鷹は爪を隠すみたいで、その落差に心惹かれるわけだ。代表的な映画は『アラン・ドロンのゾロ(1975)』 スーパーヒーローの内面や人間的な深みなどは関係ない。荒唐無稽であっても、極端な話強ければいいと思っていた。スティーブン・セガールみたいに。 ところが、ティム・バートンのバットマンは、そういうスーパーヒーロー像と異なっていた。ティム・バートンの描くバットマンは、異形なのだ。やめてよ、と思った。やっぱりぼくのヒーロー像の原点は、鞍馬天狗なのかもしれない。 でも、今回『バットマン』を見て、前回見たときの印象とはちがって面白かった。 どうしてそうなったのだろう。 ひとつは、この『バットマン』以前と以後ではスーパーヒーローがかっこいいばかりでなく、思い悩むようになった。『スパイダーマン(2002)』しかり。だから、そういうスーパーヒーローの描き方に慣れてきたのだろう。 そして、僕自身が時間の経過と様々な人生経験により、かつての偏狭なスーパーヒーロー像から、許容範囲が広がったということもあるのではないか。 そのようなことから、今回は、ティム・バートンが描くところの『バットマン』も面白く感じられたのだ、きっと。 もちろん、以前は暗さに幻惑されていたが、じつは『バットマン』もきっちりスーパーヒーローらしかったと再発見したこともある。 『アリス・イン・ワンダーランド』のアリスは、現実の世界と幻想の世界を行き来した。しかし、バットマンは、己に二面性を抱えるものの、住んでいるのは、あるいは活躍するのは、幻想世界のゴッサム・シティだ。 その点、ティム・バートンは、幻想世界の人間の話ばかりでなく、現実へ帰還する者も描くようになったわけだ。 子供の頃、テレビシリーズの『バットマン(1966~68)』を見る直前のことだ。新聞の新番組紹介で『バットマン』のことを知った。しかし、コウモリのことを英語ではバットということを知らなかった。子供だから野球のバットしか知識がなく、スーパーヒーローの武器がバットだからバットマンなのかな?と思った。
May 24, 2010
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これはとっても見たい映画だった。 でも、ひとりで映画館に行くのは抵抗があったから、DVDになるのを待っていた。そうしたら、ほかにも同じ気持ちの人が大勢いたのか、レンタル開始から何日間も、借りられちゃって棚に残っていないじゃないですか。複数のビデオレンタル店を捜したけど、どこも同じ状態。 なんといってもライダー大集合だから、子供から大きい子供まで、みんな見たいよね。 私は、七色仮面の昔から、スーパーヒーローを見るとエモーションが高まるのであった。最近では、スパイダーマン等のハリウッド製スーパーヒーローのクオリティの高さは、十分に期待に応えてくれる。日本でも映画「仮面ライダーTHE NEXT(2007)」は納得のできだったし、テレビでも今は伝説となった「仮面ライダークウガ(2000~2001)」、「仮面ライダー響鬼(2005~2006)」は毎回欠かさずに見たものだ。 とはいっても「オールライダー対大ショッカー」は、劇場公開のときには「侍戦隊シンケンジャー」との二本立てだったので、対象とする客層などを考えると、内容に一抹の不安はあったことは否めない。 お話の方は、前半は最強のライダーを決めるライダートーナメント、ベビーフェイス同士の夢の対決で見せ場をつくり、後半はいよいよライダー軍団と大ショッカーの激突だ。 大ショッカーとの戦いに向かうディケイド、しかし、多勢に無勢、ディケイド苦戦は免れない。そこに歴代ライダーたちが救援に現れた。なんだか唐突ではあるのだけれども、このシチュエーションにはワクワクした。 ライダーたちが勢ぞろいで見得を切る。1号がいる、2号がいる、ブラックRXも・・・・と確認していったとき「Jがいないなぁ」と気づいた。Jのキャラクターから考えて、これは後で、それなりの闘いの場面に出てくるんだろうなと思っていたら、やっぱりそうだった。 そして、この時点では最新のライダーであるWもお披露目があった。「ジョーカー、メタル」のアナウンスは妙に頭に残ってリフレインする。 それなりに楽しかったが、ライダー軍団と大ショッカーの激突が広場の戦争ごっこに見えてしまうのはなぜか。 たとえば「スパイダーマン」は暴走列車を止めて人々を救う。摩天楼で、大群衆が見守中でヴィランと闘う。 つまり、「スパイダーマン」では、架空の存在であるスーパーヒーローが、映画の中とはいえ、現実世界で活躍しているのだ。 それに対して、ライダー軍団と大ショッカーの激突は、誰もいない荒野で闘っている。 剣豪や格闘家の一騎討ちなら、人知れず闘ってもいい。 しかし、スーパーヒーローは、大きく現実離れした存在である。そして、強さを競うのが闘う目的ではなく、人々を救うために闘うのである。 映画は虚構だ。しかし、現実離れが現実離れとして、虚構が虚構と見透かされてしまってはつまらない。あたかもスーパーヒーローが現実に存在すると錯覚するような虚構を見せてほしいと思うのだけれども。 好きなものはいくつになっても好きだから仕方ない(開き直ったりして)。
February 1, 2010
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007フリークとしては、原点回帰といわれるダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドが大いに不満であります。 007といえば、新兵器、美女にモテモテ、敵の大要塞総攻撃が楽しさの黄金基本パターンだと思うのです。それらがなくして、何の007か。その点では、ピアース・ブロスナンのシリーズは、僕の好みにピッタリでした。 「ユア・アイズ・オンリー」のジェームズ・ボンドは、ロジャー・ムーア。ロジャー・ムーア版のシリーズは、概ね黄金基本パターンを踏まえているのですが、僕としては、ユーモア、コミカル路線が気に入りません。娯楽映画として観客へのサービスを考えているのでしょうが、荒唐無稽なことをシリアスに迫るのが僕は好きなのです。 シリアスであることは、映画に説得力をもたせることです。そのためには、しっかりと中味を考えなくてはいけない。ハッハッハと笑って楽しかったね、ですましてしまうと、なんでもありのあいまいな映画になりかねません。 そんなわけでロジャー・ムーア版007はあまり見ないのだけど、ダニエル・クレイグ版よりは007映画らしいだろう、とロードショー以来の「ユア・アイズ・オンリー」との再会となりました。 お話としては、イングランドの秘密情報収集船が敵の攻撃で沈没した。船には、ATAC(ミサイル誘導装置)が積まれていた。ATACが敵の手に渡ると、自国のミサイルが自国を攻撃することになる。そこで007の登場だ。というもの。 ロジャー・ムーア版らしく、コミカルなシーンが登場します。スケート場でアイスホッケー姿の敵に襲われるジェームズ・ボンド。一人一人敵を倒してゴールにたたき込むと、得点板がチーン、チーン、チーンと音を立てて加算されていくのです。 ところが、今回のロジャー・ムーア=ボンドは、なんと美女の誘惑を断ってしまいます。相手は十代と思われるフィギア・スケートの選手。まあ、未成年を相手にしないのは、常識的といえば常識ですが、美女を拒絶すること自体がありえない設定です。 それから、秘密兵器満載のロータス・エスプリが、映画の始めの方でいきなり爆破されます。しかし、途中色を変え、リニューアルしてエスプリは再登場を果たします。けれども、エスプリは顔見せ程度で秘密兵器は一切使われません。シリーズ第10作「私を愛したスパイ(1977)」に初登場したエスプリは、潜水艇になって海中から敵ヘリコプターにミサイルをお見舞いしたのに、今回はそういった活躍はまるでありません。 そして、クライマックスの敵大要塞への総攻撃もなし。 どうなっているんだ? 「ユア・アイズ・オンリー」は、ロジャー・ムーア版においてスパイ・アクションへの原点回帰をめざしたものだったのです。だから、黄金基本パターンがありません。ロジャー・ムーア版は空虚な派手さの乱発だと思っていたのですが、今回見直してみて、違うことに気づいたのでした。その意外性によって楽しく見ることができました。 この映画の一つ前、シリーズ第11作の「ムーンレイカー(1979)」は、007が宇宙に飛び出し光線銃を撃ちまくりました。だから、第12作目の「ユア・アイズ・オンリー」はその前作の反動ですね。 「ムーンレイカー」、僕はおもしろいと思ったのだけれどな、公開当時は。今見ると、どうだろうか。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
May 3, 2009
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人間ドックを受けました。検査結果が出るまでの限られた時間ですが、映画を見ようと思いました。映画館に行ってみると、すぐに始まり、病院に戻る時間までに終わるのは、なんと新春スーパー戦隊祭劇場版「炎神戦隊ゴーオンジャーVSゲキレンジャー」! 当方は特撮とスーパーヒーローが好きですから、見ることにはやぶさかではありません。しかしなあ、やっぱり戦隊ものですからね。仮面ライダーの方がまだよかったけれど。 平日の午前中、初回の上映ですから映画館のロビーにはあまり人がいません。その中に、「ゴーオンジャー」を見に来たらしい幼児が数人走り回っています。だいたい戦隊ものは、小学校の1年生くらいで卒業してしまうものです。 そんな中で、「ゴーオンジャー、大人1枚」とチケットを買うのが、ちょっと抵抗がありましたね。高校生のときに、成人映画を見ようとしたときと同じくらいドキドキしました。もし、「ゴーオンジャーですかぁ?」と聞き返されたらどうしようかとか考えてしまいました。成人映画では「18歳以上ですかぁ?」と聞かれるのが恐かったのですが。 劇場の中に入ってみると、若いお母さんとその子供達、総勢8人ほどのグループが来ていました(ロビーで走っていた子達)。最近子供を躾けられない親が多いと聞きますが、このお母さん達は子供達が騒ぐと「静かに」「人の迷惑にならないように」と周囲にとても気を遣っていました。りっぱなお母さん達でした。 じつは、子供はこのグループだけ。あとは若い男のグループ(オタク?)と若い女性のグループ(腐女子っていうの?)でした。いずれにしても、人間ドックを受けるような年齢層はいません。早く上映が始まって暗くならないかと座席に着いてからも焦っていました。これも高校生のときの成人映画と同じです。 特撮、スーパーヒーロー好きといっても、戦隊ものにはあまり熱心ではありません。長澤奈央や山本梓が出ていた「忍風戦隊ハリケンジャー(2002~2003)」あたりは見ていました。これは、日曜8時からの平成仮面ライダーが見たくて、一緒に7時30分からの戦隊ものも見ていた感じです。しかし、仮面ライダーも「555(2003~2004)」まで。後は見なくなりました。 でありますが、仮面ライダーも戦隊ものも、劇場版は見ています、DVDで。響鬼は、評判を聞いてから、テレビ版を全回DVDで見ました。劇場版「仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE(2006)」と「轟轟戦隊ボウケンジャー THE MOVIE 最強のプレシャス(2006)」の二本立ては、映画館で見ました!これは一緒に行ってくれた人がいたことと、特撮が好きな大人向きに、夜の回があったからです。条件さえ整えば劇場に行くのです、じつは。 今回は劇場版として公開されたスーパー戦隊の共演ですが、これまで、「スーパー戦隊Vシネマ」としてオリジナル・ビデオで制作されていました。なんと第1作の「超力戦隊オーレンジャー オーレ VS カクレンジャー(1996)」は、レーザーディスクをもっているんですね。なんでじゃ? オーレンジャーでブレイクしたのが、オーピンクのさとう珠緒。しかし、もう15年ほど前の話になってしまいました。 タイトルに「VS」と入っていても、二つのスーパー戦隊が闘うのではありません。東映は、劇場版アニメに「マジンガーZ対デビルマン(1973)」「グレートマジンガー対ゲッターロボ(1975)」などのタイトルがありました。東宝の「キングコング対ゴジラ(1962)」「モスラ対ゴジラ(1964)」などの怪獣対決ものを見慣れた目には、「へえ、マジンガーZとデビルマンが闘うのか」と思いましたが、そうではありません。これらの映画で二大ヒーローが対決するのではなく、手を組んで敵と闘います。つまり「VS」は競闘の意味なんですね。 さてさて、「ゴーオンジャーVSゲキレンジャー」です。ストーリー的にはこれまでのスーパー戦隊Vシネマと同じで、二つのスーパー戦隊が出会って、手を取り合って悪の軍団と闘うというものです。小さい子供が見るものなだからでしょうか、バトルやアクションでつないで、飽きない展開でした。 スーパー戦隊ものも、一作一作変化を工夫しています。今回は、ゴーオンジャー達がもっている炎神が、アニメのホログラフ(3D)で浮かび出てゴーオンジャーと会話するところ(映画は3Dではありません)が新しいアイデアのひとつでした。 その反対に、ゴーオンジャーの修行シーンでは、足でピアノを弾く特訓がありました。これは、昔懐かしい東映のテレビドラマ「柔道一直線(1969~1971)」で、若き日の近藤正臣演じる結城真吾がやってのけた技(?)です。東映のお家芸というわけですか。 それにしても、ゴーオンジャーやゲキレンジャーが、クライマックスの変身シーンで名乗りを上げる場面には、この歳になってもジーンと来てしまいます。これは、小さい頃からの刷り込みなのでしょう。一人一人が見得を切って、背後ではそれぞれの色に合わせてドカーンと爆煙があがるのがとてもきれいでした。 ちなみにスーパーヒーローが名乗り、見得を切るのは日本だけ。歌舞伎の影響とか。 ところで、なんで「新春スーパー戦隊祭」なのでしょう。スーパー戦隊の映画が何本か上映されれば祭りという雰囲気ですが、1本きりです。 そのわけは「'08真夏のゴーオンライブ!」と、「侍戦隊シンケンジャー」「仮面ライダーディケイド」の予告編がおまけとしてついているからなのでした。 ゴーオンライブには、ゴーオンジャーと敵役の3人の女性が組んで「G3プリンセス」というユニットで出演していました。敵女幹部ケガレシアを演じたのは及川奈央。戦隊もので悪役を演じるどころか、アイドルっぽく歌まで歌うなんて、ちょっと前まで本人も考えなかったでしょうね(なぜかここで成人=アダルトとつながってしまいました)。 この映画、入場料が1200円。とてもお得でした。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
February 8, 2009
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「ニンジャvsカンフー」のタイトルを見たとき、そそられてしまいました。荒唐無稽な映画を好む者の悲しい習性です。けれど、わずかに残った理性が、借りるのを控えさせました。これまでの経験から、この手の映画には失望や落胆することが予想されたからです。 前回「メタルマン」についてブログを書きました。そのとき、困ったことに、誰も見ないような怪作系の映画にはまりそうな自分を感じていました。そして、結局見ることにしたのです。 このDVDは、ちょっと前まで新作の棚にありました。借りようと思ったときには、そこにはありません。では、準新作のコーナーかな、と探しましたが、やっぱりありません。見つけたのは一般作のコーナーでした。つまり、準新作に置く価値はないということです。 さて、「ニンジャvsカンフー」は、これまた堂々たる怪作でした。何が困ると言って、ストーリーがつながらないんですよ。 女刑事が出てきます。この人、過去に父親を殺されたことが心の傷になっているとかなんとか、人物について語られます。だから、この人がストーリーにからんでくると、当然思うわけなのですが、ずっと画面に出なかったかと思うと、突然思い出したように銃撃戦に参加したりして、全然有機的な関わりはありません。 ストーリーの骨子らしきものとしては、二百年くらい前から、ダーク・モンク率いるブラック・マスク団と正義の集団フィストが、光と影、善と悪の闘いを繰り広げていると、そんなところです。 フィストは、司令塔のサイコを中心に、メンバーはビッグMF、エース、ポイントマンです。この人たち、秘密戦隊として、覆面をして正体を隠しているはずなのに、テレビのインタビュー番組出ちゃったりするんです。 まあ、テレビ局が独占極秘インタビューに成功したのかもしれません。しかし、そのインタビューの中で、自分たちの日常的な職業や武器や闘い方まで明かしちゃうんです。「太極拳を教えています」って、敵が手がかりを掴んだらどうるすの。「ぼくの武器は、投げナイフだ」「ボクはアンクルナイフだ」「両刃の剣だ」って実物を見せたりします。そして、得意技まで披露してしまったら、どこが秘密戦隊なんだ!敵に知られて、対策を立てられたら困るだろうに。そこまで考えないのかね。 フィストの面々は、サイコの司令で事件現場に駆け付けます。 エース「5分で着く!」 サイコ「2分半で行かないと手遅れだ!」 ポイントマン「2分で行く!」 一刻を争うできごとなようで、何が起こったかと思うわけです。 そうしたら、個人事務所に強盗が入って、従業員の財布の中身をもっていっただけなのです。別に重要機密や大金が盗まれたわけでもなく、人も殺されていない。そりゃあ事件にはちがいないですが、それほど大騒ぎするようなこっちゃない。世界的陰謀団ブラック・マスク団の仕業としては、じつにせこい悪事です。幼稚園バスを乗っ取るショッカーと同じくらい情けない。 ブラック・マスク団との高僧の最中で、司令塔のサイコが撃たれます。殺し屋は、フィストの隠れ家に侵入してきたのです。これは、一大事でしょう。どうして隠れ家がわかったのか。どうやって侵入したのか、その説明は全然ありません。そして、フィストが警戒する様子もなければ、「フィストの基地がわかったぞ」とブラック・マスク団が攻撃してくる様子もありません。ただ、撃たれたという事実だけがある。 撃たれたサイコは危篤状態です。ビッグMFは、サイコが死なないようにタイへ延命の秘術を獲得しに出かけます。ところが、修行半ば(サイコが死にそうな割にはずいぶん悠長なことをやっていますが)で、サイコが意識を取り戻します。「サイコがテロ攻撃を予知したすぐ戻ってこい」連絡が飛びます。「わかった、すぐ帰る」いったいビッグMFは何をしにタイに行ったのでしょうか。 いよいよ最終決戦。サイコは、ビッグ・マスク団のヒットマンに銃を突きつけられます。そこへ何故か突然女刑事が現れ、逆にヒットマンに銃を向ける。しかし、そこをまたブラック・マスク団が取り囲む。二重、三重のどんでんがえし、絶体絶命の危機。なんとそれを救ったのはサイコを狙った殺し屋だ。殺し屋は、自分が殺した相手が幼なじみだと分かって改心し、正義のフィストに加勢したのでした。うへぇー。 ビッグMFは、ダーク・モンクとの一騎打ちに挑みます。このバトルが「ニンジャvsカンフー」のタイトルになっているわけです。しかし、さすがにダーク・モンクは強い。危うし、ビッグMF。そこを救ったのは、謎の女拳士、顔は見えない。あっさりとダーク・モンクを倒して去っていく。ちょっと待て。あんた誰なの。そんなに強い人がいるんだったら、何もこれまで二百年も闘いを続けなくてよかったわけじゃないかぁ。 この映画は、その場面だけがおもしろければ(おもしろくないけど)、前後のつながりはどうでもいいという感じですね。 整合性を吹っ飛ばしてしまった、まさに怪作。ずっと記憶に残ります。できればDELETEしてしまいたいのですが。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
January 12, 2009
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メタルマン [ サミュエル・ネイサン・ホフマイア ]価格:3,693円(税込、送料込) レンタルビデオ屋の棚を眺めていて、「『メタルマン』か。昨年公開された映画が、もうDVDになっているのか」と借りた人は、中味を見てびっくり。「なんでこんな映画がヒットしたんだ!?」って、ちがいます。映画館でやっていたのは、「アイアンマン(2008)」。こちらは「メタルマン」。似ていますから、まちがえちゃいますね。 でも、ボクは、まちがえたのではありません。「『メタルマン』ね。「アイアンマン」のパチものか、おもしろそう」と思って借りました。 類似品、パチもの、大好き。「トランスフォーマー(2007)」と「トランスモーファー-人類最終戦争ー-(2007)」などを見つけると、本家のどこを真似していて、どこを違えているのか確かめたくなります。物好きこの上ありません。子供の頃から見たくて見られない映画が「077連続危機(1965)」。「007危機一発(1963)」のパクリですね。「危機一発」は、今では「ロシアより愛を込めて」になっていますので、「連続危機」を「キエフから愛を求めて」なんて改題してDVDを出してくれないかな。 しかし、パチもの好きなボクですが、「メタルマン」は見ているのが辛かった。何度か途中でDVDを止めようかと思いました。がんばって見ましたが、86分間の難行苦行、あるいは人によっては拷問にもなるでしょう。 まず、画面に動きがない。博士と青年(メタルマンに変身する)の対面トーク、悪党のボスと子分達の立ち話などが続きます。ほぼ棒立ち、棒読み。普通だったら、セリフを言ってない人も、表情とか動作とか何かリアクションするでしょう。しかし、おそろしく表現活動がない。無言、無表情の役者がクローズアップされる。だから、見ている側が状況から読み取らなくてはなりません。友達とか近所の人を集めて出演させても、もっといい演技をするのではないか。 例えば、主人公カイルがパワードスーツの低温テストのために冷凍庫に入れられます。 カイル「寒さを感じませんね」(まだ冷凍庫に入ってない!寒いわけがない) 博士「中に入ったら、小さな画面にメッセージが出るはずだ。それで伝え会う」 (小さな画面って、壁に電卓がくっつけてあるだけだよ) カイル「カメラがあるのになぜ?」(どこにカメラがあるんだ?) 博士「そうなんだ。温度に問題がある。正常に機能しなくなる可能性があるから、万一のためだ。」 カイル「そんなに低温?」 博士「心配には及ばん」(不安だらけだよ)こんな調子でああでもないこうでもないと、ゆっくりしたやりとりが続きます。DVDを早送りすると、多少テンポがよくなりましたね。 そして、低温実験中に悪党3人がのそっと研究室に入ってきます。 博士「なぜここがわかった」 悪のボス「時間をかけた。時間も金で買えるんだ。すべては金だ」 博士はそんなこと聞いてません。ボス、質問に正対してください。まあ、ボスは金の亡者だと言いたいのでしょうが。 で、この後博士は悪党のボスともみ合ってひっくり返ります。目を開いたまま横たわっています。ボスも、様子を見て「死んだな」という感じです。 しかし、この時点でメタルマンは、耐寒テストのため、冷凍庫の中にいます。どうなるのかメタルマン。と思うと、博士がむっくり起きあがり、冷凍庫を開けてカイルを助け出します。死んだんじゃないのか、博士!白目をむいていたじゃないか。しっかり確かめろよ、ボス。 さらにボスは手下(スキンヘッドの巨漢)に司令を出します。 悪のボス「カイル(メタルマン)の家にも行って捜索しろ。何か見つかるはずだ」 悪の手下「家に誰かいたら?」 おいおい、「はじめてのおつかい」じゃないんだから、そんなこと聞くなよ。これでも悪党(スキンヘッドの巨漢!)かぁ? 悪党が自分の家に行ったと知り、カイル(メタルマン)は両親のことが心配になり、今にも駆け出そうとします。しかし、 博士「今家に帰るのは危険だ」。 カエルは、家に電話をしますが誰も出ません。 博士「冷静になれ。出かけているんだ」 この時点で、すでにカエルの両親は殺されているのです。 こんな自分の都合本意の解釈をする博士のおかげでメタルマンにされてしまったカエルは、じつにお気の毒。 これらのやりとりはまだ冒頭の部分です。この調子で、映画が続いていくのです。途中で見るのをやめたくもなります。 で、話はすっとばしてクライマックス(と思われる部分)へ。 アイアンマンでは、悪党のボスがアイアンマンと同じくパワードスーツを身につけてアイアンマンと闘います。「メタルマン」の場合は、女性科学者がもうひとつあったメタルマン・マスクを被せられます。そしてボスが「素晴らしい」「お前の力を見せてくれ」と言っているので、メタルウーマンとなって、メタルマンとのバトルになるのかと展開を読むわけです。 しかし、ここで大どんでん返しが怒ります。メタルマンと対峙したボスが「お前の闘う相手を用意した。(メタルウーマンの登場か?)メッカテラー2だ!」 え!?メッカテラー2って何?前触れもなく突然出すなよ。そんなメタルマンに対抗する強力な秘密兵器をもっていたのなら、なんでボスは、わざわざ人を殺したりしてメタルマンの秘密を手に入れようとしたのでしょう。ただの欲張りか。 メッカテラー2がメタルマンに敗れると、いよいよボスがメタルマンのマスクを自分で装着します。ちょっと待て。なんでお前がマスクをもっているんだ?これでマスクは3個目だぞ。2個目までは確かに博士の研究所にあった。このマスクはどこにあったんだぁ? 脳みそ全体が、ずれた地層になっちゃいます。 この映画が商品として流通しているのはなぜでしょう? しかし、お楽しみはこれだけじゃあありません。まだまだこの映画には秘密がたっぷり隠されていますよ。 こういった映画にお目にかかれるので、パチもの好きはやめられません。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
January 11, 2009
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脳天気なスーパーヒーローものが大好きなのですが、この「ダークナイト」のような深い映画もいいですね。スーパーヒーローものだからこそなし得たといえるでしょう。1.衝撃的な悪、ジョーカーについて ジョーカーは究極の悪なのです。彼は、銀行を襲うや、用済みになった手下を次々に殺していきます。飲み干したペットボトルを道端に捨てるように。リサイクル、リユースしろよ。 では、盗んだ金を独り占めしたいかというとそうではありません。山と積まれた札束に火をつけるパフォーマンスを行います。つまり、ジョーカーは金が欲しくて悪事をはたらいているわけではありません。奴は、悪の力を発揮し、人間社会の中で悪の優位性を証明したいだけなのです。 ジョーカーに従う配下たちも、金で動いているのではない。ジョーカーは、配下の魂を救済するかのような言説を労します。配下は、ジョーカーのカリスマ性に惹かれて、命をかけるのです。これは、金銭を通した功利的な関係ではないだけに、じつが始末に悪い。 さすがのバットマンも、ジョーカーには勝てません。ジョーカーはすべてにおいて用意周到、万全の計画を立てて、バットマンの正体に挑みます。あらゆる状況を想定しているらしく、二の手、三の手があり、裏の裏をかく執拗さです。バットマンは、翻弄されるばかり。見ている者は、そこまでやる?と思わされ、とてもありえないと感じます。 一旦は警察の手に落ちるジョーカーです。しかし、彼は、飽くまでも状況を冷静に見つめています。バットマンが、暴力で人質の居場所を吐かせようとしても、嘲笑します。殴られ蹴られ、脅されても、暴力の限界を知っているのです。痛みは感じても、畏れはありません。 ジョーカーは悪の仮説なのです。家族も過去の経歴もありません。スーパーヒーローは、並はずれた能力や正義感、不屈の精神で、悪を制してきました。しかし、そのスーパーヒーローをも凌駕する、人間としての弱味のない悪を設定することで、スーパーヒーローの限界に対して問いかけをおこなったのです。2.両雄並び立たず トゥーフェイスについて 「光の騎士」、正義漢の検事ハービー・デントは、あまりにも正しく強い。まさに、ゴッサムシティのヒーローです。この純粋無垢なヒーローぶりには、裏に何かあるのではないかと、映画を見ていて単純に考えました。じつは、警察内部の腐敗を裏から仕切る悪の黒幕だった、というあたりではないかと。 だって、ヒーローはバットマンなのです。バットマンがかすんでしまうようなヒーローが登場していいわけはありません。 しかし、彼は、どこまでも正義派。ジョーカーが街全体を人質に取る形でバットマンの正体を明かすように迫ると、「オレがバットマンだ」と犠牲的精神を発揮します。しかし、正義派すぎて犯人を殺しそうにもなるところが恐い。 そんな彼が、爆発により顔半分に大やけどを負い、さらに最愛の人レイチェルを失う。純粋培養のハービーには耐えられないできごとでした。ジョーカーの奸計にはまってしまった彼は叫びます「どうしてオレがこんな目に合わなければいけないんだ」。我が身を嘆いて悪に染まり、悪漢トゥーフェイスになるのです。トゥーフェイス、つまり二面性!じつに象徴的。 しかし、ラストで「闇の騎士(ダークナイト)」バットマンが、トゥーフェイスの犯した罪を背負って、「光の騎士」ハービー・デントの名誉を守ります。バットマンのおかげで、ゴッサムシティの市民は、正義の希望を失いませんでしたが、複雑な結末です。 バットマンは、敵ヴィラン(悪党)を倒してめでたしめでたし、という単純なヒーローではありません。 3.巨漢の囚人について ジョーカーの都市破壊から逃れようと、ゴッサムシティから人々を乗せ避難する二隻のフェリー。一方には一般市民が、そして他方には囚人たちが乗せられています。じつはフェリーには、二隻ともジョーカーにより爆弾が仕掛けてありました。さらに、ジョーカーは、相手の船の起爆装置を渡して、先にスイッチを押した方は助かると究極の選択を迫ります。 二隻ともパニック状態になります。一般人のフェリーでは「向こうは犯罪者の集まりではないか」「だからといって、殺していいのか」という葛藤が起こります。 また、囚人のフェリーでは、悪人ばかりなのだから、少ない警官によって起爆装置を守れるかどうかがに注目が集まります。この中で、巨漢黒人の囚人が、起爆装置を奪います。これは、ボタンを押す意図があると見た。そこでボタンを押させないよう攻防なスリリングな攻防があると、単純に予想しました。 しかし、それはいかにもありがちな悪の類型です。この映画の中で、ジョーカーが示している悪と、囚人のただ命が助かりたいだけの悪とは、深さが違います。ところが、囚人は、起爆装置を川に投げ捨てたのです。自分が助かりたいばかりに、もう一隻のフェリーに乗った多くの人命を犠牲にすることはできないということです。やはり囚人であっても、人間なのです。究極の悪であるジョーカーとは違います。このエピソードから、ジョーカーは芯からの悪として、際立った存在感を放ったのです。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
November 8, 2008
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ボクは、スーパーヒーローへの思い入れがとてもとても強いのです。どんなふうにかというと、スーパーヒーローを演じた役者さんとスーパーヒーローを完全に混同しています。 例えば、黒部進さんは、ウルトラマン、ハヤタ隊員以外の何者でもありません。黒部進さんは、テレビ番組の刑事物や時代劇に悪役で出てきます。けれど、とうてい黒部進さんが悪人とは思えません。きっと懐にベータカプセルを隠し持っているはずです。 三つ子の魂百までといいますが、この傾向は小さい頃から変わりません。かなり原初的なところでは、ウルトラマンよりさらに古いスーパーヒーロー、宇津井健演じるスーパージャイアンツという映画がありました。一人なのに、なぜか複数形です。 あるときテレビで江戸時代の相撲取りを描いた映画(「続 雷電(1959)」)が放映されました。そこには、なんと宇津井健が出ているではありませんか。「スーパージャイアンツだ!」と喜び勇んで、食い入るように映画を見ていました。相撲の話ですから、当然、勝つか負けるかの展開になります。その中で幼いボクは、「スーパージャイアンツのおじさんは負けない」と信じて疑いませんでした。実際にそうなりました。「やっぱりね」 新しいところの話題としては、「シービスケット(2003)」に“スパイダーマン”トビー・マグワイアが出演していました。映画のどこかで、タイツを纏ったトビーが、蜘蛛の糸でスイングしながら現れるのではないかとワクワクしながら見ていました。けれど、期待はずれでした。当たり前か。 このたび封切られたスーパーヒーロー映画「アイアンマン」。中味は生身の人間-宇宙人や超人ではない-ですが、パワードアーマーに身を固め (結婚の意味ではない)、無敵の強さを発揮します。パワードアーマーは金とチタンの特殊合金でつくられているため、その中にいれば、どんな攻撃にも絶対安心!例え、成層圏から地上に落下してもダイジョーブ。数々の武器を備え、超音速で飛び回る。 敵ヴィランのアイアン・モンガーとのバトルは大迫力。とりわけ空中戦は、「ガメラ大怪獣空中決戦(1995)」のガメラとギャオスの超音速の戦いを彷彿とさせる飛翔感が味わえます。ガメラでは描かれなかった超高空での“氷結”現象が、空中決戦の決め手となりました。エンディングに流れたブラックサバスの演奏するアイアンマンにも、いたく感激いたしました。この曲は、プロレス最強タッグ・チーム、ロード・ウォリアーズの入場テーマでした。 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
October 19, 2008
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皆様、毎度、ご訪問ありがとうございます。ケータイからのアクセスも、とても嬉しいです。 1970年代の終わり頃のこと。一人暮らしの大学生でした。何気なく見た新聞のテレビ欄に「超人ハルク」の文字を発見。当時「超人ハルク」なんて全く知りませんでした。でも、スーパーヒーロー&特撮関係には、幼い頃より培ったセンサーが確実に反応します。すぐに脳内の必見サインが点滅しました。 知り合いから譲り受けたモノクロテレビは、都会の電波障害によりゴーストが出まくり。けれど、「ハルク」の放送は真夜中。幸いなことに深夜は比較的よく映りました。その夜は「ハルク誕生」のエピソードで、運のいいことに第1回から見ることができたのです。 「超人ハルク」の放送は、土曜の夜(正確には日付が変わって日曜)でした。確か1時から「超人ハルク」で、2時からは「白バイ野郎ジョン&パンチ」とアメリカのテレビ番組続き、両方とも見ちゃっていました。楽しかったけれど、そんな時間に起きてテレビを見ていたのは、週末にデートも何もなかったから。 彼女はいないし、テレビは当時すでに少数派のモノクロというおいしくない生活。でも「ハルク」を欠かさず見ていたことには、充実感を味わっていました。友達に「超人ハルクって知ってる?」と聞いても、誰も知りません。当時は、「みんなの知らない特撮スーパーヒーローものを知っているオレって凄い」などと思っていました。雑誌などに紹介される “掘り出し物作品”を掘り当てた感覚だったのでしょうね。今になれば、誰もが特撮ヒーローものを珍重しているわけではないと分かるのですが、大学生の本人にそこまでの視野がなかった(だから彼女がいなかった)。 科学者ブルース・バナーは、人間の潜在能力を引き出す研究をしていました。自らを実験台として、誤って大量のガンマ線を浴びてしまいます。すると、激怒したときに緑色の大男に変身し、大暴れしてしまうのでした。 緑色の巨人、モノクロ画面ですから、識別できません。 「超人ハルク」の原作は、アメコミ「インクレディブル・ハルク」です。テレビ版のハルクでは、1時間の枠の中で、ブルース・バナーが正常な体に戻りたいと手立てを打ちます。そのたびに事件に巻き込まれ、大ピンチに陥ります。最後はハルクに変身して大混乱を起こし、どさくさに紛れてその場を去る、というのが大筋のところ。 それまで日本の特撮映画やスーパーヒーローものは、派手な怪獣、怪人バトルが見られました。だから、ハルクも、たまには宇宙人やモンスターと闘ってほしかったけれど、それはなし。でも、毎回見ていたのは、ド実写だったか。ド実写とは、CGを使わない映像のこと(勝手に命名しました)。変身したハルクを演じていたのは、ボディビルダー、ルー・フェリグノでした。 ブルース・バナー役のビル・ビクスビーとはもちろん別人なのですが、役者が演じているド実写映像なので、ブルース・バナーとハルクの連続性が感じられました。このあたり、映画版では、人が演じるブルース・バナーとCGで描かれるハルクに、違和感を味わいます。 別の視点では、CGのハルクは、派手なアクションなり、破壊シーンなりが見られます。人が演じているハルクではできないことです。けれど、人が演じるハルクは、リアルな手応えがあります。例えば、「超人ハルク/最後の闘い」では、ハルクが2台のブルドーザーに挟み撃ちにあいます。そのとき、ルー・フェリグノ演じるハルクは、各ブルドーザーのブレードをガッシと両手で掴むと、動きを止めてしまうのです。この凄さは、実感できます。 「超人ハルク」がアメリカで放映されたのは、1977年から1982年まで。ハルク終了の年には、本格的に映画でCGが使われた「TRON」が作られています。 そして、テレビスペシャル「超人ハルク/最後の闘い」で、テレビ版ハルクは死を迎えます。その年1990年は、マイケル・クライトンの小説「ジュラシック・パーク」が発表されました。さらに、1993年、ブルース・バナー役の役者で、なおかつ「超人ハルク/最後の闘い」等を監督したビル・ビクスビーが亡くなります。そして、まるで実写かと見える恐竜がCGによって登場する映画「ジュラシック・パーク」が公開されました。以後は、映画、映像は、CG時代へ。 「超人ハルク/最後の闘い」は、最後のド実写映像だったかもしれません。人気blogランキングに参加中。クリックしてね。ご協力、よろしくお願いします。
August 19, 2008
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