全30件 (30件中 1-30件目)
1
東京新聞の権力監視はうまく機能しているか、「新聞報道のあり方委員会」では次のような議論が交わされた; -本紙はアべノミクスと武器輸出の問題を関連付けて報じ、国の形が変わっていくことを示してきた。こうした権力監視の報道について意見を。 魚住 東京新聞の権力監視のスタンスはずっと評価している。継続的に取材している武器輸出問題の記事は、非常に優れた報道だ。あと十年ほどすると、恐らく日本の産業構造は相当変わっているだろう。今、進んでいるのは経済と軍事の一体化だ。このまま進んでしまうと集団的自衛権の行使以上に日本の未来を決めてしまう。専守防衛の廃棄のような形になるのではないかと懸念する。 元旦に掲載した中古武器輸出の検討の記事をはじめ、国内での武器展示会、国際協力銀行が武器輸出に関して投融資を考えていることなどは、もっと報じられていい重要な問題だ。人数や手間を掛け、紙面も多く割いて東京新聞のこれからの報道の核に据えてほしい。 田中 政府は安全保障と関係なく、経済活性化のために武器を輸出しようとしているが、国連などを中心に今、取り組んでいる武器の撤廃や縮小の流れに逆行することになる。経済のためなら良いという風潮が、将来のためになるのかという視点が必要だ。 武器が転売された後、国家間の関係性が変われば、自分たちに被害が及ぶ可能性もある。例えばイラン・イラク戦争で米国はイラクに兵器を供与したが、イラクはその後、クウェートに侵攻した。武器をまき散らすと、手に負えないようなことも起こる。経済のために武器を売ることの本質的な意味についても解説してもらえると、記事がより分かりやすくなる。 吉田 3月9日夕刊で、絵本作家の松本春野さんが寄稿した「福島に寄り添うということ」という記事が気になった。放射線の問題を徹底的に調べた上で、帰還を決めた福島県の人たちのことを応援してほしいというメッセージだった。しかし、こうした意見は脱原発の思いを持つ人々の一部から権力側だとみなされ、バッシングを受けることもあるという。 実情を知らない外部から「危険だ」と言われ、傷ついているというのが恐らく福島の人たちの実感であり、実相だろう。松本さんの記事もそういう実相を伝えていた。原発報道に関しては権力監視も重要だが、現場の実感や実相を丁寧に扱い、その上で脱原発をしっかり打ち出してほしい。 木村 政権の監視は当然大事だが、日常生活の中の権力も監視してほしい。昨年8月に東京都中野区で劇団員の女性が殺害された事件で、警視庁は近隣住民や関係者ら千人以上から任意でDNAの提出を受けたというが、そんなことをしていいのか。確かにひどい事件で、犯人を捕まえないといけないが、捜査の仕方としてデュー・プロセス(法に基づく適正手続き)の考え方が見られない。 例えば、DNAの任意提出を拒否した人に対し、警察が「あなたが犯人ではないか」と疑ったなら、それだけでデュー・プロセスにはならなくなるだろう。米国なら無罪になるのではないか。日常生括の中の権力を監視することについて、僕らは相当おろそかにしている気がする。 菅沼 武器輸出問題の記事は相手が必死に隠している機密事項というのではなく、それまでだれも取材をしてこなかった分野。新聞記者に問題意識がなかったため、取材していない分野が他にもある。安保法制下になったことをとらえ、問題意識と取材力に磨きをかけたい。 深田 新聞の権力監視は、皆さんから指摘が出ているように要するに国民の知る権利の代行。読者には知る権利があり、それを代行して私たちは取材し伝えているということ。その意識を常に再認識して報じていかないといけない。2016年4月6日 東京新聞朝刊 11ページ「専守防衛 置き去り懸念」から引用 この記事によれば、国連は武器の撤廃や使用範囲の縮小といった事業に取り組んでいるとのことですが、そういう方針や取り組みに対してアメリカ政府やNATOはどういう態度を取っているのかというような点も報道してほしいものです。現在は世界の一部に「核兵器撤廃」の声があり、「核なき世界」などと演説して賞をもらった大統領もいるのに、現実には「核なき世界」はまだまだ絵に描いた餅状態が続いている。この問題はやがて解消されるべきであって、核兵器のみならず全ての武器が撤廃される日を目指して、私たちは声を上げていくべきだと思います。
2016年04月30日
昨日の欄に引用した東京新聞の「新聞報道のあり方委員会」は、「保育、貧困」の問題に続いて「改憲と参院選」について、次のように討論している; -参議院で改憲勢力が3分の2以上の議席を確保した場合、安倍政権が狙う改憲が視野に入る。報道はどうあるべきか。 木村 ニューヨーク・タイムズ紙が米大統領選でヒラリー・クリントン氏を支持すると公表した。参院選では東京新聞も社説で「誰々を支持する」と打ち出せば、インパクトがあって良い。行間を読まなくてはならない中途半端な論評は分かりにくい。 参院選の争点は誰も反対できない消費税増税再延期になるだろうが、憲法問題はしっかり考える必要がある。「日米安保条約を再検討する」と訴えるドナルド・トランプ氏が米大統領に就いた場合、日本の安全保障政策は再考を迫られるだろう。参院選と同時期に、トランプ氏が候補指名を争う共和党大会もある。だから「日本の安全保障をどうするか」「核の傘の中で生きていられるか」と参院選で議論しなくてはならない。安全保障政策に絡めた記事を読みたい。 吉田 安全保障や日米関係の問題を、紙面を通じて若い人たちにどう判断してもらうかは難しい作業になる。今、安保法の廃案に向けて野党が連携しているが、改憲や安全保障を実際にどう考えているかという詳細は伝わってきていない。特に国連との関係。戦後の国連主義はどうなったのか、だれも発言しておらず、議論もない。 それぞれ考え方の違う人も集まった民進党が発足した。彼らがどのように考えているのかを突き詰めた紙面作りをしないと、今回初めて選挙に行く学生たちは困ってしまう。 田中 次の選挙がすごく重要だという認識が足りない。例えば米大統領選では、共和党と民主党のどちらの候補が大統額になるかが、それ以降の連邦最高裁の判断にも影響する。急逝した保守派判事の後任をどちらかが指名することによって、判事の過半数が保守派かリベラル派かが決まるからだ。 日本の改憲も同じように大変な問題なのに米国とは緊迫感が全く違う。改憲が発議されても国民投票で止められるから大丈夫だと思っているところがある。どんな政治家が出てきても歯止めになるのが憲法。しかし、ナチス・ドイツでヒトラーが全権委任法を制定してワイマール憲法を事実上停止状態に至らせたこともあった。もっと改憲問題を報道してほしい。 魚住 安倍晋三首相の改憲の狙いは、祖父の岸信介元首相が描いた日本の独立回復・戦前回帰であり、トランプ氏が主張する「米国が日本を防衛する必要はない」という論理と方向性は一致している。日米両国で同じタイプの指導者が出てきたなというのが私の印象だ。 改憲の問題は、日本の防衛のあり方が専守防衛を貫くのか、先制攻撃型になるかという点に行き着く。日本人は70年前に専守防衛、非戦を選んだのだから絶対変えられないと信じているし、変えてはならないと思う。こうした政治報道は、もっと記者個人の顔が見えて個性が出るものを書いてほしい。 菅沼 選挙では与党は有利な争点を設定するもの。いざ選挙となれば、憲法とは違うことを争点化してくるかもしれない。選挙の後になって「改憲が付いてきた」とならないよう何が問われる選挙なのか、読者に論点を明示したい。 深田 世論調査で改憲を支持する割合が半数を超えるかもしれないが、憲法9条は守るという良識が日本人に働くと信頼している。日本人のコモンセンス(良識)であり、本紙も同じだ。専守防衛という社論は変わらない。2016年4月6日 東京新聞朝刊 10ページ「中途半端な論評避けて」から引用 戦後70年間、日本には米軍が駐留して、日本の経済と軍事はアメリカに従属するという体制が出来上がり、これが安倍政権の目の上のたんこぶになっている。安倍首相は口では「戦後レジームからの脱却」などと勇ましいことを言ってみても、自衛隊は米軍と無関係に行動できないし、首相として靖国を参拝すると米政府からチェックが入る。しかし、ここに来て共和党の大統領候補のトランプ氏が、「アメリカは日本や韓国を防衛する必要はないし、日本も韓国も核武装でもミサイルでも自前で勝手にやればいいのだ」などと得意の暴言を吐いて、我々は呆れるほかないのだが、安倍首相は内心「ようやく自分の考えた通りの政治ができる世の中になり出した」と感じているのではないかと思います。アメリカの市民のみなさんには、是非とも暴言などに惑わされることなく良識派の大統領を選出してほしいし、私たち日本人も、9条を守るという良識を発揮して護憲派を勝利させたいものです。
2016年04月29日
東京新聞の「新聞報道のあり方委員会」の議論の様子が、6日の紙面に紹介されていて、「18歳選挙権」に関連した報道について次のように議論されている; -夏の参院選で選挙権が18歳以上に引き下げられる。本紙は若者に焦点を当てて報じてきた。どう評価するか。 吉田 新年の連載「新貧乏物語」は、大学生の奨学金の問題をしっかり網羅していた。ここ数年感じてはいたが、半数もの学生が奨学金を受け取っている実態が分かった。学生を見ていると、かなり無理をしている。奨学金は結局、ローンと変わらないが、学生はローンへの理解が乏しく、気付けば多額の返済金を抱えている。 奨学金の問題の背景には、学費が安い夜間部を持つ大学の減少も理由に考えられる。社会全体が受け皿になれるよう長期的に問題提起してほしい。 木村 学生がこれだけ奨学金に苦しんでいることは知らなかった。米国では、大統領選の民主党候補指名を争うバーニー・サンダース氏が、公立大学の学費を無償にすると公約し、学生たちの大層な支持を集めている。学費の問題が大統領選を左右しかねない。日本でもそれだけ大きな問題であれば、学生たちが政治的な力を出していい。18歳以上の若者の政治意識を高めるため、新聞はこうした問題にもっと石を投げ、火をつけてほしい。 魚住 私の学生時代より学費は格段に高くなった。国が教育に金を使わなくなったことの裏返しだ。今の学生は社会に出ても残業は多く、寝る時間さえ削らざるをえない労働が続く。グローバル化した経済の中で日本の資本主義を衰退させる要因になっている。この20~30年で日本が間違った社会構造をつくってきたことを意識できるような報道が必要だ。 奨学金、子どもの貧困、待機児童、ブラック企業の問題はすべて一本につながっている。「保育園落ちた日本死ね」のネット投稿が反響を呼んだのは本質を突いていたから。国が人への投資を放棄し、大切に育てる姿勢を失ったように感じる。その中で、ひとり親や貧困状態の子どもを支える「子ども食堂」の現象には注目している。国への要求型ではなく、自らできる範囲で相互に助け合おうという活動。何度か記事になったが、その意味をもっと読者に伝えてほしい。 田中 学費は貧困層だけの問題ではない。最近は離婚調停で学費の扱いでもめるケースが多い。私立学校の学費が高く、中間層でも離婚で学費が払えなくなることがある。かつて一億総中流といわれたが、中間層でも生活はギリギリ。中間層として生きられるようにするための政治とは何なのか、をもっと報じてほしい。 若者はバブル景気の経験もないし、生活が豊かになったという実感もない。だから政治に夢を託すのはなかなか難しい。投票によって世の中が変わるということや、政治活動は自分の利益になる、といった具体的な事例を新聞で挙げることも必要だ。今の政治に期待できないなら自分たちで行動すればなんとかなる、と希望を与えられる記事が読みたい。 菅沼 18歳の選挙権の問題は皆さんから指摘があったように、未来の希望である若者が自分の問題としてとらえられるテーマを積極的に報道していく。子ども食堂の記事はとても反響が大きい。温かい社会を作り上げたいという気持ちが、読者に強くあることを感じる。期待に応えていきたい。 深田 昔は大学が学費を上げようとすれば学生の反対運動が起きたが、それ以降は学生運動がない状況が続いている。メディアも放置してきた。学費の問題について、学生、社会に対し、もっと新聞が問題提起してもよかった。<出席者>吉田 俊実氏 (東京工科大教授)木村 太郎氏 (ジャーナリスト)魚住 昭氏 (ノンフィクションライター)田中 早苗氏 (弁護士)東京新聞編集局長 菅沼 堅吾東京新聞論説主幹 深田 実2016年4月6日 東京新聞朝刊 「保育、貧困 国の変質示す」から引用 いつの間にか大学の授業料が高騰し、せっかく入学できてもアルバイトに忙殺されて勉強する時間を削っているというのは気の毒な話です。国が教育にカネを出さなくなったことも原因であるとすれば、このような事態を招いた原因の一つとして、過去40年間学生運動が無かったことが挙げられると思います。18歳から投票できることになったのを機会に、これからは学生諸君もどんどん政治的発言をしていくべきです。
2016年04月28日
作家の中沢けい氏は、安倍政権を批判して6日の東京新聞に次のように書いている; ヘイトスピーチに反対する活動をしていると、現政権の特異性に気付く。安倍晋三首相も「ヘイトスピーチは極めて残念」と発言するが、ヘイトスピーチを繰り返す排外主義者、歴史修正主義者たちは現政権を支持している。慰安婦に関する旧日本軍の関与を認めた河野談話を見直そうという安倍首相の考えは、彼らの主張とそっくりで驚く。 安倍首相には「今、ここ」という視点が欠落している。日本の歴史の中でもまれに見る繁栄を基礎から支えた憲法を「みっともない憲法」と断じた。戦後がどういう社会だったかという認識がすっぽりと抜けている。平和があって、分厚い中間層が生まれ」安倍さんのような支配層も支えた。自分が生きてきた時代は、そんなにひどい時代だったのだろうか。 今、政治家に急いで取り組んでほしい政策は、原発の事故処理を含むエネルギー政策、少子高齢化社会への対応、財政再建だ。これらはつながっていて、産業の構造転換が必要になってくる。ところが、安倍政権は特定秘密保護法を成立させ、憲法解釈を変えて集団的自衛権を使えるようにし、今度は「憲法を変える」と言っている。焦眉の急という課題ではない。 解釈改憲なんていうずさんなやり方で日本の土台を揺るがすようなことをされたら、私たちは黙っていられない。そうやって怒っているうちに、私たちが本当に取り組んでほしい政策から目をそらされているような気がする。 日本は急速に年老いていく国。介護人材をどう確保するか、国の膨大な借金をどうするのか。重い課題だ。遠い国に若者を出して、他国の戦争に協力なんてできるのか。今、ここにある現実を見てほしい。今、ここにある課題の解決を優先してほしい。 なかざわ・けい 1959年生まれ。作家、法政大教授。ヘイトスピーチに反対する発信を精力的に行う。近著は対談集「アンチヘイト・ダイアローグ」。2016年4月6日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「改憲 今の課題なのか」から引用 安倍政権が今までの自民党政権とは性格を異にしているとは、多くの識者が指摘している点であるが、例えば放送法の解釈についても、民主党政権を含むこれまでの政権は政治的公平性について、その放送局の番組全体を俯瞰してその傾向を評価するという姿勢であったものが、高市大臣の発言では「一つの番組自体が偏向していないことが必要」などと言って、これまでの政権とは一歩踏み込んで報道内容に介入しようとしている点が重大な問題点である。また、この記事によれば、安倍首相は「ヘイトスピーチは残念」と発言したそうであるが、これはあくまでも口先だけの建前にすぎず、本音では「歓迎」であることは、日頃の首相の言動からも容易に推測が可能である。憲法改正というのは、あくまでも安倍首相とその取り巻き勢力の主張であって、国民の間にそのような声が上がっているわけではなく、今、政権が取り組むべき課題は、この記事が指摘しているとおりだと思う。
2016年04月27日
人気作家の桐野夏生氏は、「しんぶん赤旗」のインタビューに応えて、3日の紙面で次のように述べている;(前半省略)◆暗部に切りこむQ 初期の話題作『OUT(アウト)』(1997年)では、非正規雇用の過酷な労働現場を背景にした犯罪を描きました。A 「いまの政治の流れは恐ろしい。秘密保護法ができてしまい、都合の悪いことは隠してしまおうという世の中です。震災前から、日本という国がグローバリズムのなかで変わりつつあるとは思っていたんですけど・・・。非正規雇用が増え、特に女性は大変な状況になりました。震災前からそういう予兆はあったんですが、いまは一気にお金もうけ優先の政府になったと思います」Q 時代の流れを意識しつつ、人間と社会の「暗部」に切り込む作品を発表してきました。A 「それは、私がこの国で女だからですよ。中学校の校長が『女は2人以上子どもを産め』と言う。女性差別はむしろひどくなっている。子どもを産むか産まないかなんて、個人の自由でしょ、放っておいてよ、と思います。女が子どもを産むのは命がけなんですから。男性がこんなことを堂々と亭つなんて、世界の先進国ではありえないですよ。女に教育はいらないってこと? 女は子どもを産んで育ててパートして? でも保育園は? それで、その先は介護? とんでもないですよ。想像力のない男性が政治の権力をもっている現状は、問題だと思います。権力って気持ちいいんでしょうけどね。でも、女性差別は世界に対して恥ずかしい」Q 安倍政権の、不自然なほどの支持率の高さは「信じられない」と。A 「私のまわりには、支持しているという人は誰もいませんけど。何なんでしょう、あの支持率は。女性差別だけでなく、年金にしても格差の問題にしても、本当に不公平な社会だと思います」Q 許せない現状には、「毒」のある小説を。A 「私の書いた『イヤな世界』が現実になるとは思いませんが、ディストピアの萌芽(ほうが)は出ています。アメリカ大統領選の候補者選びで、暴言を繰り返すトランプ氏があれだけ支持されたり。本当はもっと多様性を認めるようにならなければいけないのに、どんどん狭められている。選択肢がたくさんあった方が、人は自由に生きられます。だから私は、小説という虚構を自由にすることでイヤな世界にならないようにしたい。小説のもたらすイマジネーション(想像力)は、万人が違い、多様です。いい小説は人々の多様性を喚起すると思います。そういうものを書いていきたいですね」2016年4月3日 「しんぶん赤旗」日曜版 16ページ「いまの政治は恐ろしい 都合の悪いことは隠す」から引用 この記事を読んで私が興味を引かれた桐野氏の発言は「私のまわりには、支持しているという人は誰もいませんけど」というものです。本当に安倍政権支持者がいないのであれば、世論調査であのような高支持率が出るはずはありません。結局、今の政権にはあまりにも批判すべき点が多すぎて、とても表だって「支持する」とは言えない、しかし、アベノミクスの恩恵を受けているので、周囲に悟られない状況では「支持」の意思表示ができるというカラクリになっているのではないかと思います。ま、「アベノミクスの恩恵」などと言っても、どのような恩恵があるのか、私には全く縁のない話なので分かりませんけど。
2016年04月26日
纐纈厚著「暴走する自衛隊」(ちくま新書)について、3月27日の「しんぶん赤旗」は次のような書評を掲載している; 著者は本書で、「文民統制」について、本質的に全く相反する基本原理を持つ民主主義と軍事を共存させ、軍事を民主主義(政治)に従属させることで軍事が内包する危険性を溶解することだと説明している。その上で、それは単なる「文民による軍事統制」ではなく、「文民がどれだけ民主主義のルールに則る形で軍事統制にあたるかが問題なのである」と強調する。これは、自衛隊を民主的に統制すべき政府自身が民主主義よりも軍事的合理性を優先している今日、極めて重要な指摘だ。 安倍政権の下で、自衛隊に対する文民統制の「現状変更」が一気に進められている。かつての戦争で軍の暴走を止められなかった教訓から生まれた「背広組(防衛官僚)優位」の制度は撤廃され、自衛隊の部隊運用は制服組(自衛官)中心の統合幕僚監部に一元化された。さらに、自衛隊最高レベルの作戦計画策定に当たり、統合幕僚監部が内局に権限の大幅移譲を求めているという。「軍事に関することは軍人に任せて、役人は口出すな」と言わんばかりである。 本書は、急速な「現状変更」の根源に、「日米軍事共同体制」の強化、自衛隊の海外派遣・実戦部隊化があると指摘している。防衛力整備が主だった「専守防衛」の時代とは異なり、いつ何時でも地球規模で米軍と一体となって軍事行動を展開できるよう、米軍と同レベルの軍事的合理性が要求されるようになっているのだ。 日米安保体制下における日米軍事一体化が逆にこの国の民主主義を「統制」しつつある今、民主主義と軍事は本質的に基本原理が相反するからこそ「文民統制」が重要だという原点を私たちは再確認する必要がある。(布施祐仁・ジャーナリスト)こうけつ・あつし=51年生まれ。山口大学教授。政軍関係史。『集団自衛権行使容認の深層』2016年3月27日 「しんぶん赤旗」日曜版 29ページ「『文民統制』の弱漂りに警鐘」から引用 軍隊は暴力装置ですから、これを自由放任にしておくとその凶暴性を発揮して国家を支配することも可能で、発展途上国で政府や議会が正常に機能しない場合には、実際にそのような事態が発生することは、私たちはしばしば見聞してきているとおりです。わが国も戦前は、政府が軍隊をコントロールする権限を持たなかったために、軍部の暴走を止めることができず、無謀な戦争に突入して国を滅ぼす結果となったことは、多くの国民が記憶しているところです。ところが、安倍政権はその悪夢を再現する方向に着々と準備を進めています。憲法解釈を曲げて自衛隊を海外派遣し、これを批判する報道機関には「停波」をもってどう喝し、自衛隊部隊運用の「背広組優位」の制度を撤廃する。このような危険な道を邁進する政権を放置しておくことは、わが国の将来に重大な災禍を招きます。出来るだけ早く安倍政権を倒すことが、国民の犠牲を最小限に止める方策と言えます。
2016年04月25日
メディアが騒ぎ出すような暴言を吐いても大統領候補者選びのレースから脱落することがないという異常なアメリカの大統領後者選びについて、ジャーナリストの木村太郎氏は、3日の東京新聞コラムに大変興味深い記事を書いている; 米大統領選が熱を帯びる中「ポリティカル・コレクトネス」という言葉が米マスコミをにぎわすようになってきた。 直訳すれば「政治的正当性」。もともとは「黒人」を「アフリカ系米国人」と言い換えるように差別用語を否定することだった。それが差別や偏見を是正する活動を指すようになり、今では政治的な建前論という意味でも使われている。■「過激派に勝てない」 ブリュッセルの爆弾テロをめぐり、ヒラリー・クリントン候補がイスラム教徒との協力こそが根本的な解決策だと言うと、共和党のテッド・クルーズ候補がこう反論した。 「過激派イスラム教徒という表現を(宗教的偏見になると)避けて通るクリントン候補やオバマ大統領の『ポリティカル・コレクトネス』は政治を誤らせる。それではイスラム過激派に打ち勝つことはできない」 クルーズ候補はすべてのイスラム教徒を監視すべきだと言い、トランプ候補に至ってばイスラム教徒の米国入国を禁止すべきだとまで主張している。 今回の大統領選では特にこの2人の「ポリティカル・コレクトネス」に対する「本音」の挑戦が目立つ。 「大学が、人種に基づいて入学者を選別するのは間違いだ」(クルーズ候補) 「人種差別の解消」という「建前」のため大学入学に黒人枠を設ける救済制度が導入されたが、白人側からは不当に排除されていると訴訟も起こされている。 「私が大統領になれば、デパートに『メリークリスマス』という看板が掲げられるようになる」(トランプ候補)■日米関係激変も 「信仰の自由」の「建前」から、米国の公共的な施設ではいかなる宗教の行事も禁止されクリスマスを祝うことも自粛されるようになってしまった。 「同性婚を認めた最高裁の判断は、基本的に違法であり有効性はない」(クルーズ候補) LGBT(性同一性障害者など性的少数者)に対する配慮から、同性婚を承認する動きが広がっていることに対し、宗教的な見地や保守的な立場からの拒否反応が根強い。 両候補が共和党主流派から疎まれながらも、当初17人もいた同党の候補者候補の中で生き残り、最後の指名を争っている事実は、今の米国社会に「ポリティカル・コレクトネス」疲れのようなものが広がっている表れのように思える。 「片務的な日米安保は再検討する」というトランプ候補の主張も、単なる選挙用のスローガンではなく「米国は世界の民主主義の守護者」というある種の「ポリティカル・コレクトネス」に対する同候補の本音ではなかろうか。 もしそうだとすると、日本側も米大統領選の行方によっては米国との関係が激変するようなことがあり得ることを覚悟しなければならないだろう。(木村太郎、ジャーナリスト)2016・4・32016年4月3日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「太郎の国際通信-『本音』で押す共和党の2人」から引用 アメリカでは宗教的マイノリティ救済のために、デパートのクリスマス商戦においても「メリークリスマス」の看板の使用は控えられるというのは、人権尊重のアメリカらしい一面であると思います。アメリカの社会がこのような神経の使い方をするのは、当然人々の意識に依存するのであって、これが日本人の社会ともなると、正月は神社にお参りし、人が死んだときはお寺で葬式を上げて、結婚式はキリスト教会という調子で暮らしていると、暮れになって町中に「メリークリスマス」の看板やらメロディーやらが氾濫しても一向に誰も気にしないで過ごしていけるわけです。 また、共和党のクルーズ候補の本音は「大学が、人種に基づいて入学者を選別するのは間違いだ」というものだそうですが、この主張は日本の在特会の物の言い方とよく似ていると思います。両者ともに、行政がマイノリティ救済のために実施している政策を「不当な特権だ」と主張しているわけで、こういうことを主張する人間というのは、おそらく競争社会の敗者で、自分の将来の希望を絶たれた腹いせに自分よりも弱い立場の者を攻撃しているのではないか、と思います。
2016年04月24日
日本に道徳を回復するためには、暴言を繰り返したり世間の批判を浴びるような行動をした議員は公的世界から退くというような身の処し方が必要だと、法政大学教授の山口二郎氏が、3日の東京新聞コラムに書いている; 子供のいたずら、わんぱくはある程度は大目に見てもらえる。しかし、普通の子供は、だんだん大きくなるにつれて、行儀よくすることが他人に不快感を与えず、世の中で生きていくために必要な作法だということを悟るようになる。 最近の政治家の暴言、不行跡は目に余る。これらの政治家の多くは憲法改正に熱心で、戦後教育が日本人の道徳を退廃させたと嘆いている。彼らは、道徳教育の失敗のために私たちのような非常識で不作法な大人が増え、子供のようにわがままな人間が国会議員にまで上り詰めるようになりましたと、日々悪い手本を見せびらかしているのだろうか。日本に道徳を回復したいなら、この種の政治家は、他人のしつけをあげつらう前に、己の非行を恥じ、公的世界から退くのが、身の処し方というものである。 一連の不祥事は週刊誌が追いかけている。大新聞、特に社会部はいったい何をしているのか。政治家の私生活を暴くことまでは期待しないが、少なくとも資金をめぐる疑惑は徹底的に追及してほしい。また、人間の尊厳を無視するような価値観の持ち主に対する批判もメディアの役割である。 犬が人をかんでもニュースにならないが、人が犬をかんだらニュースになると言われる。ならば、最近の政治家はやたらと人にかみつく狂犬程度の存在なのか。(法政大教授)2016年4月3日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本年のコラム-政治家の作法」から引用 戦前の教育を受けた人たちがまだ元気だった60年代や70年代は、戦後教育が道徳を退廃させたという議論がよく聞かれて、そういう主張をする人たちの多くは教育勅語の復活に言及するのが話のオチであったが、戦後70年、日本国憲法が国民の生活に定着して社会の人権意識も一定の水準に達すると、さすがに教育勅語を公の場で語る政治家がいなくなったのは、私たちの社会が進歩している証です。この方向性をさらに発展させていくには、ヘイトスピーチ規制法を制定し、慰安婦問題の真の解決を目指していくべきだと思います。
2016年04月23日
昨日の欄に引用した中村一成氏のインタビュー記事の後半では、在特会ができた背景とヘイトスピーチ規制法の必要性について、次のように述べています; 中村さんは日本人と朝鮮人との間に生まれた。「書くことでこの一部になる」という言葉は、その人となりと切り離せない。 「母親が在日二世です。私はハーフというか、ダブルの三世にあたる。幼いころから、在日とか、ヤクザのような人たちと触れ合うことが多かった。その中で弱い立場への搾取の構造なども見えていた」 新聞記者時代は日常業務をこなすかたわら、マイノリティーの現状などについて独自取材を続けた。差別される人たちへの支援活動にも取り組んだ。 今にして思えば、新聞記者として過ごした1990~2000年代は、在特会に代表されるレイシスト(人種差別主義者)の揺藍(ようらん)・台頭期だった。 91年8月、元慰安婦の金学順(キムハクスン)さんが初めて実名で証言した。日本政府は、93年の「河野洋平官房長官談話」、95年の「村山富市首相談話」で戦争責任を認めた。 一方で保守派の巻き返しも活発化する。戦没者への追悼決議が全国の地方議会で相次ぎ、97年には「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、歴史修正主義に拍車がかかる。02年に北朝鮮が日本人拉致を認めると、政府レベルでも在日差別が公然化した。 06年9月には第一次安倍政権が発足した。そして同年12月に在特会が設立され、京都事件へとつながっていく。中村さんは「保守派による揺り戻し、『北朝鮮』たたき、安倍政権発足の流れの中で誕生したのが在特会だ」とみる。 メディアが京都事件を軽く見る中、在特会の蛮行はエスカレートする。京都事件の主犯が中心となって10年に起きたのが、徳島県教職員組合襲撃事件だ。朝鮮学校へのカンパを「募金詐欺」と曲解し、事務所に乱入した。13年には、在日コリアンタウンの東京・新大久保や大阪・鶴橋でヘイトデモが過激化した。 中村さんがメディアと同様に問題視するのが警察だ。「ヘイトスピーチ問題は警察問題」と断じる。 京都事件では、襲撃犯の器物損壊や威力業務妨害を傍観し、その後のヘイトデモを100人単位の機動隊員で護衛した。「デモをめぐる警察の対応は、警察法にある『公平中正』とは対極。徹底してカウンター(抗議)側を規制し、レイシストの暴力的な差別行為を完遂させている」 レイシストが憎悪する「朝鮮人」「サヨク」は、警察も敵視する。もともと両者の思想的親和性は高いが、ここまで警察とレイシストが一体化するのは、行政組織の規範となるヘイトスピーチ規制法がないからだ。「警察の恣意(しい)性を狭める要素としても、法規制が必要だ」 法規制をめぐる議論でついて回るのが「表現の自由」の問題である。だが、中村さんは「表現の自由とか内容規制とかを言う人は、それで何か言った気になっているだけだ。軽薄に聞こえる」と指弾する。 「同じ社会の成員が、属性に対する罵詈(ばり)雑言を浴びずに済むという当たり前の安全安心を得られないことをどう考えるのか。人間性の否定を我慢するしかないのか。それなのに表現の自由と言われても、私には『国民様』の自由と権利としか映らない」 とはいえ、市民運動弾圧などに乱用されないか。中村さんは「危険な言い方かもしれない」と断った上で「乱用されたらされたところから、新たな闘いを始めるしかないというのが本音だ。現状、あのデモを止めるには逮捕を覚悟するしかない。法規制は必要だ」。 「表現の自由」の問題を声高に持ち出すのは自民党である。自民党こそが、朝鮮学校への補助金カットや高校無償化除外など「上からの朝鮮差別」を推し進めてきた。 「駅前で人権擁護のティッシュを配るような、効力のない法律では意味がない。乱用よりも、ヘイトスピーチ抑止の実効性を本当に担保できる中身になるのかを心配するべきだ」<デスクメモ> 在特会の実態を暴いたのが、安田浩一さんの『ネットと愛国』とすれば、被害とその超克を余すところなく伝えたのが、中村一成さんの『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件』だ。ルポの前段である月刊誌の連載を読んだとき、憤りで手がわなわなと震えた。書き手としての非力さを思い知らされた瞬間でもあった。(圭)2016年4月3日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「警察の恣意性 狭めねば」から引用 自民党という政党は、普段からテレビ局をどう喝したり、気に入らない記事を書く新聞を「潰せ」と言ってみたりで、「言論・表現の自由」の大切さなど歯牙にもかけない言動をしている政党であるが、こと「ヘイトスピーチ規制」に関してだけ、突如「言論の自由」を言い出すというのは、あまりにも露骨な「ご都合主義」につい笑い出したくなってしまう。また、この記事が指摘するもう一つの問題は警察の恣意的態度である。これは今に始まったものではなく、60年代の昔から、あるいはもっと前からか、学生運動のデモには暴力的な対応をする一方で右翼のデモには護衛の役目を果たしてきている。警察のこのような偏った姿勢を是正するためにも、ヘイトスピーチ規制法は必要である。
2016年04月22日
私たちはヘイトスピーチとどう対峙すべきか。ジャーナリストの中村一成氏は、3日の東京新聞インタビューに応えて、次のように述べている; ヘイトスピーチ(差別扇動表現)の法規制をめくる議論がヤマ場を迎えている。旧民主党などは昨年5月に「人種差別撤廃施策推進法案」を参院に提出しているが、ここに来て自民、公明両党も対案の検討を急ピッチで進めている。ヘイトスピーチとどう対峙(たいじ)すべきか。この問題の原点ともいえる京都朝鮮学校襲撃事件などを取材したジャーナリストの中村一成さん(46)に聞いた。(佐藤圭、白名正和) 2009年6月、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が主導するデモが京都市内で繰り広げられた。毎日新聞大阪本社の学芸部で記者をしていた中村さんは一市民として抗議活動に駆けつけた。「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮人」。 ヘイトスピーチを生で聞くのはこの時が初めてだった。 「京都の在特会系デモでは最大の200人が参加したが、250人が沿道から囲んだ。抗議側の総括は『勝った』『凌駕(りょうが)した』だった」 ところが、沿道で若い女性が泣きじゃくっている。たまたま買い物に来た在日コリアンの女子大生だった。「なぜこんなことを言われなければならないのか」と繰り返した。「勝ったなんて言えなかった。『しまった』と思った。ヘイトスピーチ問題に関わるようになったのは、いくつかの『しまった』なんです」 この差別扇動デモから半年後の09年12月4日、最大の「しまった」が起きる。在特会会員らが、京都市の京都朝鮮第一初級学校(現・京都朝鮮初級学校)の前で「スパイ養成機関」「密入国の子孫」などと怒号した。数日後、中村さんは職場で、会員らが動画サイトに投稿した襲撃の様子を見た。「トイレで吐きました。人はここまで下劣になれるものかと」 在特会会員らは翌10年1月14日、3月28日にも差別街宣を強行した。学校側の刑事告訴を経て主犯格4人が逮捕され、全員の執行猶予付き有罪判決が確定。学校側が起こした民事訴訟でも、一審・京都地裁判決(13年10月)、二審・大阪高裁判決(14年7月)とも街宣活動を人種差別と認定し、在特会側に計約1260万円の賠償を命じた。同年12月に最高裁で確定している。 しかし、これほどの事件を発生時に報じたメディアは、毎日新聞も含めてほとんどなかった。「デスクたちは、紙面が汚れるとか、在特会を増長させるとか言い訳をしたが、要するに抗議されるのが煩わしかった。そこで強行に紙面化を主張しなかった私も恥は一生抱えていく」 ようやく京都事件の取材を本格的に始めたのは12年秋、京都地裁で加害者の本人尋問が始まるころである。中村さんはフリーランスに転じていた。 被害者を描くことに注力したが、子どもや保護者らの精神的ダメージは想像を超えていた。「細かい部分は忘れても、その時の感情はどこかに突き刺さっている。それが突然湧き上がってきて、インタビューを中断することもあった」 裁判には最終的に勝ったが、従来、日本の官憲から迫害されてきた在日コリアンにとって司法は、差別にお墨付きを与える場でしかなかった。それでも法廷闘争を選んだ。中村さんは「親が子どもに残せるのは『スジ目』」と強調する。 「我慢するという選択肢は取らなかった。子どもの尊厳を守るためです。この闘いを記録したいと思ったし、書くことでこの一部になりたいと思った」 なかむら・いるそん ジャーナリスト。1969年11月、大阪府寝屋川市生まれ。95年に毎日新聞入社後、高松支局、京都支局、大阪本社社会部や学芸部勤務を経て、2011年からフリー。名前の読み方は「本来の読み方でなく通称名」だが、自らのアイデンティティーを示すために約15年前から使っている。著書に『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件<ヘイトクライム>に抗して』(岩波書店)、『声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々』(インパクト出版会)など。2016年4月3日 東京新聞朝刊 11版 28ページ「ヘイト法規制 中村一成さんに聞く」から引用 この記事によれば、従来の日本の裁判所は在日に対する差別を肯定する判決を何度も出してきているらしい。しかし、いくら民度の低い社会とは言え、これだけ人権意識が高まれば、何時までも時代錯誤の判決ばかりではみっともないと感じたか、この度の京都朝鮮学校襲撃を行った在特会に有罪判決が出たのは、私たちの社会の進歩の証である。また、野党は一年前にヘイトスピーチを規制する法案を提出していたのに対し、与党も参院選を前に、ポーズだけでも格好をつけるべく法案を提出してきた。この機会に、マイノリティの人権といえども尊重される社会へ前進することを期待したい。
2016年04月21日
近頃の若者と彼らを取り巻く環境について、経済学者の浜矩子氏は3日の東京新聞に次のようなエッセイを寄せている; 春である。入学式や入社式もある。若者たちにとって、大きな節目となる季節だ。そこで、青春という言葉が頭に浮かぶ。 不思議な響きを持つ言葉だ。英語には対応語がない。「人生の春」などという言い方がないわけではない。だが、青春という言葉が持つ響きに通じる単語はない。青春という言葉には、実に実に初々しいイメージがある。だからこそ、自分がその真っただ中にあった時には、この言葉を結構うっとうしく感じたりしたものだ。 それはともかく、まさに今、リアルタイムで青春真っただ中を行く若者たちの討論会風景に、映像を通じて接する機会を得た。あるテレビ番組の企画である。18歳選挙権の実施を目前に控えて、その前後の年齢の若者たちは、何をどう考えているのか。それを知るために、多岐にわたるテーマを彼らに議論してもらう。その模様をビデオでみながら、青春期を昔々に通過して来たコメンテーターたちが、あれこれ、思いを巡らせた。 真剣にテーマと向き合う若者たちの姿は、気持ちがよかった。少子高齢化。格差と貧困。破綻する日本財政。安保法制に改憲問題。今日的な問題を、ほぼ全てを網羅した討論メニューを、彼らは果敢にこなしていった。そこにけなげさを感じた。 ただ、けなげさは痛々しさに通じる。その感を否めなかった。彼らは、実に多くのことを知っている。ネットからあふれ出て来る情報の洪水を、彼らは実に効率的に頭の中に流し込み、上手に貯水している。だから、何がテーマになろうと、実にスラスラと解答が出て来る。 その様子をみているうちに、次第に痛々しさが深まってしまった。彼らは、みずからが貯水した水に押し流されている。彼らが使う言葉は、情報の洪水が彼らの内なる貯水池に送り込んでいる言葉だ。自分たちの魂の泉から湧き出て来る言葉ではない。 決して、若者バッシングではない。彼らが悪いわけではない。彼らをとりこにしている時代状況が怖い。 彼らのトークを見て行く中で、とてもぎょっとする場面に遭遇した。討論者の一人がいった。「おばあちゃんが戦争は絶対にいけないという。だから、自分にも戦争がいけないという思いが強い。だから、戦争を回避するための抑止力が必要だといわれれば、確かにそうなんじゃないかと思う」 戦争は絶対にいけない。繰り返しそう言い続けてくれるおばあちゃんの存在は貴重だ。その言葉を素直に自分の中に浸透させているお孫さんも、素博らしい。ところが、何たることか。この若者の絶対反戦の思いが、「抑止力」という言葉に翻弄(ほんろう)されている。 武力を持つことが戦争回避につながる。こんなにもとんでもない発想が、青春を行く人々の知性を汚す。実に恐ろしいことだ。だが、この抑止力病は、存外に若者の問に広がっているらしい。「反戦平和といったって、北朝鮮からミサイルが飛んで来たらどうするの?」。子どもさんから、あるお母様がこんなふうに言われたそうだ。 青春に、この手のエセ現実主義は似合わない。やられたらやり返せなくちゃ。やられないためにも、やり返す用意をしなくちゃ。このとてつもなく危険な屁理屈(へりくつ)から、青春をどう解放するのか。今こそ、われらポスト青春人間たちの力量が問われる。(同志社大教授)2016年4月3日 東京新聞朝刊 4ページ「時代を読む-青春を屁理屈から守れ」から引用 この記事は、大変重要な問題を指摘しています。「戦争は絶対してはいけない」と聞かされた若者が、そのためには『抑止力』が必要だという「論理詐欺」にコロリと騙されているのは問題です。いつでも戦争を始められる状態にしておけば、敵は恐れをなして攻撃を控えるはずというのは、決して平和思想ではあり得ず、わが国憲法が意図するところではありません。この手の論理詐欺から青春を解放する力量を、はたして大人はもっているのかという点について、掘り下げた検討が必要と思います。
2016年04月20日
法政大学にかかってきた一般市民の「シールズに会場を貸すな」という電話について、総長の田中優子氏は8日の「週刊金曜日」コラムで、次のように批判している; 先日、一般の方から大学の広報にかかってきた電話の内容を聞いて驚いた。「シールズに会場を貸すようなことはしないでしょうね?」という電話だという。その理由は、かつて学生運動に被害を受けた。学生の政治運動に加担するようなことはやらないでほしい、ということだという。一本の電話の背後にどれだけ同意見の人がいるのかはわからないが、この方が45年前のまま頭が凝り固まってしまい、その後何も社会について学んでいないことは明らかだ。 シールズの運動は学生運動ではない。市民運動だ。まず、投票しようと呼びかけている。民主主義はどうあるべきかを議論し、立憲主義に基づく民主主義を根付かせることを目的にしている。教育は重要な社会資本なので、大学をなくそうとはしていない。 1960年代の学生運動はその逆で、選挙と民主主義そのものを否定していた。目的は社会の正常化ではなく革命だったので、暴力と粛清が肯定された。大学役員の金銭的不正や処分の誤りがきっかけになった経緯から、大学解体を叫んでいた。 60年代の大学進学率はまだ低く、それでも若者人口の急増や進学率の上昇で教育環境は悪化していた。経済成長する企業との関わりも強くなっていった。そのような変化と安保によるベトナム戦争への日本の加担が、先の見えない社会不安になっていた。しかしそれでも、社会は戦後復興とともに引き続き経済力をつけ、人口は増え続け、憲法改正が議論になることなど想像もできなかった。 今は少子高齢化社会を迎え、先が見えないどころか、どのような社会になるのかが見えている。保育園から高齢者施設まで、ますます深刻に不足することも、社会保障費がふくらんで教育費が低迷することもわかっている。当時よりはるかに日本と世界の危機は深い。しかもそれを短期的に乗り越えようと、軍事力と軍需産業をあてにする方向に向かっている。暴力は学生にではなく世界に蔓延している。戦争は平和からの逃避である、とトーマス・マンが書いているそうだが、3・11以後のあまりに厳しい現実の中で、やっかいな平和から安易な戦争に逃げようとしている大人たちの背中を見て、心底危機を感じているのは、若者たちだ。これをかつての学生運動と混同するのであれば、現代の危機の深さを知らないということだ。2016年4月8日 「週刊金曜日」 1083号 9ページ「風速計-現代の危機を知ろう」から引用 この記事が指摘するように、シールズを敵視して「会場を貸してはならない」などと主張するのは「45年前のまま頭が凝り固まっている」としか考えられません。こういう人たちを含む「大人」が今まで運営してきた社会が、このまま行けば保育園から高齢者施設まで色々大きな問題に直面することを察知した若者たちが、なんとかしようと立ち上がるのは当然のことで、それに対して「会場を貸すな」などと妨害するのは間違った態度というもので、民主主義はどうあるべきかを議論し、この社会を改善しようとする若者を私たちは応援するべきだと思います。ただ、この記事では「60年代の学生運動が暴力と粛清を肯定していた」と表現しているのは、いささかおおざっぱな話であって、そのような考えで重大な事件を引き起こした党派が存在したのは事実であるとは言え、全共闘運動に参加した学生が全員そうだったわけではないという点は断っておく必要があると思いました。
2016年04月19日
中東現代史の専門家として知られる千葉大学教授の栗田禎子氏は、アメリカや西欧の国際諜報機関がISのようなイスラム過激派を育成し操ってきたこと、そろそろ彼らにとってISは用済みになりつつあることなどを、1日の「週刊金曜日」の記事で次のように分析している; IS(「イスラム国」)に関する、イラク共産党やシリア共産党による分析を読むと印象に残るのは、そこではISが欧米やイスラエル等の「国際諜報機関の合作によって作り出された存在」であることは自明の事実とされ、その上で、にもかかわらずこうした存在がイラク・シリア等の一部の地域において現実の力となってしまった経緯・背景を検討する、という形で分析をしていることである。 典型的な「陰謀説」だ、と思われるかもしれない。だが、ISは欧米等の諜報機関によって人為的に作り出され、操作されている存在であって、自分たちの社会とは何の関係もない、というのは、実は中東の人びとの多くによって共有されている感覚である。 客観的事実として、現在の世界において、いわゆる「イスラーム主義」的な国際テロ組織なるものが、実は米国をはじめとする先進諸国の利害に沿う形で活動する存在であることは否定できない。米国等が中東に「対テロ戦争」の名のもとに戦争をしかけ、介入するためには、その前提としての「テロ」が必要だからである。「イスラーム主義」は元来、20世紀の中東で生まれた政治的潮流であるが、冷戦期の1960年代から米国によって中東内部の左翼的運動や体制(エジプトのナセル政権など)に対抗させるため育成・支援されるようになって、米国の別動隊化した。さらに近年になるとその一部は大規模な「国際テロ」を行なうことで、米国等が中東に軍事介入する口実・きっかけを提供する役回りを演じるようになった(「9・11事件」で脚光を浴びた「アル・カーイダ」等)。 このような流れの延長線上にISが出現するのであり、現在パリやブリュッセルでISによって展開されているテロが、客観的にはそれを契機に先進諸国が中東への軍事介入を強化するための布石として機能することを見逃してはならないだろう。ブリュッセルはEU(欧州連合)、NATO(北大西洋条約機構)の本部があるヨーロッパの心臓部であり、そこで起きた今回のテロは、事件を口実に中東への全面介入に着手することをも可能にする象徴性を帯びている。その意味ではわれわれは、「次はどんなテロが起きるか」を気にするよりもむしろ、「NATOは次はどんな動きを見せるか」を注視すべきなのではないか。 同時に、最近のテロの顛末やそれをめぐる欧米諸国の対応からは、そろそろ先進諸国にとってISが「用済み」になっていること、それに伴って両者の間で利害の矛盾や齟齬が生じ始めていること--も感じられる。ISの活動が中東で特に14年以降急速に活性化した背景には、13年夏のシリアへの(「化学兵器使用疑惑」を口実とする)軍事介入に失敗した欧米諸国が、それに代わる介入の口実を必要としたという要因があり、以来、ISの存在は欧米がシリアへの介入を継続するための重要な装置として機能してきた。だが、現在シリアをめぐる情勢は(15年夏以降のロシアの関与の影響もあって)変化しており、当面、欧米が大規模な軍事介入へと一気に進めるような条件は失われている。 結果として今ではISは先進諸国にとってある意味で用済み(「賞味期限切れ」?)となり、見放されつつある、という側面もあると考えられる。そうした国際テロリスト集団が追い詰められ、かつて自分たちを支援した欧米諸国の中心部で牙をむいている姿--パリやブリュッセルで繰り広げられている修羅場の意味は、このように捉えられるのではないか。くりた よしこ・千葉大学教授(中東現代史)。2016年4月1日 「週刊金曜日」1082号 10ページ「欧米に必要だった『テロ集団』」から引用 過去に共産党が政権を担当したケースとしてすぐ思いつくのはソ連と中国で、どちらも我々の価値観からはあまりうまく言っているとは言いがたい状況であり前者は既に消滅しているが、こと社会情勢の分析という能力においては、この記事が示すように、一定の信頼度が期待できる。テロリストが何故、パリやブリュッセルで事件を起こすのか、この記事は説得力がある。
2016年04月18日
関西電力高浜原発3・4号機は去年の4月に一度「再稼働は不可」との仮処分が決定したのであったが、その後、同じ裁判所の別の裁判官がその決定を取り消して、無理矢理再稼働したのであった。ところが、今度は原発の地元ではない滋賀県の大津地裁が、稼働中の高浜原発3・4号機を止めさせる仮処分決定を行った。この画期的な決定に関連して、弁護士の宇都宮健児氏はその意義を、3月25日の「週刊金曜日」に次のように書いている; 東日本大震災・東京電力福島第一原発事故から5年が経つのを前にした3月9日、大津地裁(山本善彦(やまもとよしひこ)裁判長)は、滋賀県の住民が申し立てた仮処分申請事件で、関西電力高浜原発3・4号機(福井県高浜町)の運転を差し止める画期的な仮処分決定を出した。 福島の第一原発事故後、司法が原発の運転差し止めを命じたケースは、関西電力大飯原発3・4号機(福井県おおい町)に関する2014年5月の福井地裁判決と関西電力高浜原発3・4号機に関する2015年4月の福井地裁の仮処分決定(なお、この仮処分決定に対しては関西電力が異議申し立てを行ない、異議審で仮処分決定を取り消す決定が行なわれている)であった。 原発の運転を差し止める福井地裁の判決と仮処分決定の裁判長は、いずれも樋口英明(ひぐちひであき)裁判長であった。しかしながら、今回は樋口英明裁判長とは別の山本善彦裁判長が原発の運転を差し止める仮処分決定を出した。今回の大津地裁の仮処分決定は、今後の原発差し止め訴訟に大きな影響を与えるものと思われる。「発電の効率性をもって、これらの甚大な災禍と引き換えにすべき事情であるとはいい難い」として効率よりも憲法が保障する人格権を重視し、稼働中の原発について運転を差し止める仮処分決定を出したのは、全国で初めてのことである。 また、今回の大津地裁の仮処分決定は、原発立地県ではない隣接する滋賀県の住民が申し立てた仮処分申請事件で、原発事故被害の広域性を考慮して原発の運転の差し止めを認めた仮処分決定であることも画期的なことである。 さらに、今回の大津地裁の仮処分決定が、国家主導の具体的で可視的な避難計画が早急に策定されることが必要であり、この避難計画をも視野に入れた幅広い規制基準が望まれるばかりか、福島第一原発事故という過酷事故を経た現時点においては、そのような基準を策定すべき信義則上の義務が国家にあると判示していることも、重要な指摘である。 今回の大津地裁の仮処分決定は、建屋内の調査を踏まえた福島第一原発事故の原因究明が十分に行なわれないまま、「再稼働ありき」で原発の再稼働を進めてきている政府や電力会社の原発政策に対し、重大な警鐘を鳴らす決定と言える。2016年3月25日 「週刊金曜日」1081号 9ページ「風速計-画期的な大津地裁の仮処分決定」から引用 この度の大津地裁の仮処分決定は、原発反対運動を進める人たちに大いに勇気を与える決定だったとのことで、反原発をサポートする大物弁護士も「原発は、一度動き出してしまえば、もうお手上げで、稼働する前に勝訴判決を勝ち取れなければ諦めるしかない、というのが今までの常識だったが、今や稼働中であっても裁判所が命令すれば止めることが可能と分かったのは画期的だ」と言っていたのが印象的です。今回の決定を出した裁判官は、べつに原発を目の敵にするわけでもなく、現在の原子力規制委員会や関西電力は国民が納得できるような安全性の説明ができていないから、稼働してはならないと命令したのであって、十分に納得できる説明があれば、いつでも再稼働を許可するという立場である点も抑えておく必要があると思います。また、避難計画も、実際に事故が起きたときは、避難者は県境を越えて逃げることになるので、そういう避難計画を自治体に任せたのでは、十分な計画にはならないから、これは国が主導して具体的な避難計画を策定する必要があると指摘している点も重要です。国民の生命と財産を守るのは政府の責任ですから、原発事故の避難計画についても、しっかり対策を講じてほしいと思います。
2016年04月17日
国の交付金で運営されている国立大学は式典で国歌を斉唱するべきだという馳文科相の発言を、法政大学教授の山口二郎氏は、3月27日の東京新聞コラムで次のように批判している; 国立大学の卒業式で国歌斉唱をしないという大学に対して、文部科学相は「恥ずかしい」と批判した。政府から交付金をもらっているのだから恭順の意を示せということである。 恥ずかしいのはどちらだ。金をやっているのだから言うことを聞けというのは、何とも品性に欠ける発想である。大学の交付金は文科相の私財ではない。国民の税金を使わせてもらっていることへの感謝は、もっと実質的な研究、教育の成果によって具体化すればよい。大学とは、独立した研究者がものを考え、知的に自立した人間を育てる場である。 反抗と刷新は表裏一体である。旧弊に反旗を翻すのは、若い世代の役割である。明治時代後半、維新を知る世代はいなくなり、若者は学校制度の中で立身出世のための学問に専念するようになった。 この時、ジャーナリストの三宅雪嶺は「独立心を憎むの官吏が教育を監督し、独立心を憎むの教員が授業を担当していては」、独立心を持つ人間は育たないと慨嘆していた。そして、当時の教育が「有識有能の奴隷精神」を涵養(かんよう)すると批判した。 せっかく18歳選挙権を実現しても、高校生の政治活動を届け出なければならないというお達しを促す県もあると報じられている。現代の教育行政を担当する官吏も、よほど奴隷精神が好きなのだろう。(法政大教授)2016年3月27日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-奴隷精神」から引用 明治維新から何十年も経って、維新を体験していない世代が増えた頃、三宅雪嶺が批判したような教育体制で育った当時の若者は、みな体制順応型で「お上は批判するものではない」というような者ばかりだったようです。しかし、もし昔から日本の若者がそういう考えをもつのが普通だったとすれば、明治維新などは実現不可能だったわけで、そういう観点から、三宅雪嶺は当時の教育体制を批判したものと考えられます。その結果、三宅の批判の甲斐も無く体制順応型の国民が増えたために、その後の軍部の暴走を止めることができず、1945年8月15日の結末を迎えることになってしまったというわけです。したがって、式典でどのような歌をうたうかうたわないか、そんなことはそれぞれの大学の自主性に任せるものであって、文部科学大臣に「歌え」と言われて唯々諾々と歌い出すようになってしまえば、この先ろくなことにはならないということのようです。
2016年04月16日
政治の目的は国民の無事を守ることであって、国を守るとか国内総生産を増やすことを目的にしてはならないと、哲学者の内山節氏が3月27日の東京新聞コラムで説いている; 私の山里の家がある群馬県上野村では、山の落葉広葉樹の木々が赤みを帯びはじめると、村人は春が近づいてきたと感じる。2月半ばから、木は大地から水をくみ上げ、その水のなかに糖分をためて芽吹きの準備に入る。次第に冬芽がふくらみ、赤みをましてくる。イタヤカエデがくみ上げた水をもらい煮詰めたものが、メープルシロップである。 上野村では桜が咲くのは4月20日ごろ。3月中はまだ梅の季節である。 そんな自然の様子をみていると、今年も無事に春を迎えてほしいという気持ちになってくる。自然にとっては、無事であることが最良だ。無事に春を迎え、無事に夏や秋、冬を迎える。それができれば、去年と同じように、10年前とも100年前とも同じように、自然はその生命の世界を守りつづけるだろう。自然は平和を求めている。 それは人間でも同じことだ。無事に仕事をし、無事に暮らすことが、社会の基盤でなければならないのである。 もちろん一人一人は、いろいろな生き方をしてもかまわない。あえて無事な生き方を捨てることも、人間にとってはひとつの選択である。だが、社会全体の役割も、社会を守るための政治の役割もそこにはない。政治は一人一人の行動に対応するのではなく、誰もが無事に生きる社会をつくり、守ることにある。平和を守るといってもよい。 自然の無事がこれからもつづくようにするのと同じように、人間社会の無事を守るのが政治の役割だ。 政治の目的は、国を守ることでも、日本の国内総生産(GDP)を増やすことでもないのである。国の政治では国民の無事を守ること、地方や地域の政治ではそこに暮らす人々の無事を守ること。それが目的でなければならない。国の防衛やGDPの増加は、その結果でしかない。 なぜこのような言い方をするのかといえば、国の防衛や経済発展は、しばしば私たちの生きる世界の無事と一致しないからである。たとえば第二次世界大戦をみても、国を守るための戦争が戦場や空襲による多くの死者を出し、国民の無事を破壊してしまった。さらにいまでは多くの人たちが気づいているように、経済成長だけを目的とした社会は、格差社会やつながりのない、幸せ感の薄い社会をつくりだしてしまった。 国家の防衛や経済成長は目的ではないのである。目的は人々が無事に働き、無事に暮らす社会をつくりつづけることの方にある。そのことを見誤ると、人間が国家や経済の道具として使われるという転倒がおこってしまう。 そしてそれは、私たちを偏狭なナショナリズムと、とげとげしい国家間対立のなかに引きずり込んでいきかねない。実際、偉大な米国の復活とか、強大な中国の建設などというスローガンが叫ばれ、日本もまたその一角に食い込もうとする対立の構図のなかに、いま世界は向かいつつあるかのようである。 自然は無事に生きられる世界の持続を求めている。春にはカエルたちが冬眠から覚め、水辺で卵を産む。それが永遠につづけられるような無事な世界の持続を。 人間社会の原点もそれと変わらないはずだ。みんなが無事に生きていける社会。政治は為政者のゲームではないのである。(哲学者)2016年3月27日 東京新聞朝刊 12版 4ページ「時代を読む-人々の無事を守る政治」から引用 この記事はさすがに哲学者の文章らしく、含蓄のある論考になっていると思います。先の十五年戦争では、国を守るためと称して260万人もの国民を死なせ、2000万人ものアジアの人々を死なせてしまいました。このような過ちを二度と繰り返さないために、日本は軍備を持たず、国際紛争の解決に軍事力を使わないと決めて70年間やってきました。これからも、日本は平和国家でいくべきであって、安倍政権が憲法を無視して作った戦争法は、安倍政権退陣後可及的速やかに廃止するべきです。
2016年04月15日
青森県の核燃料再処理工場は、これまでに何十回も竣工予定を先延ばししてきており、もはや永久に完成はしないとの予測が有力になってきているが、この度、アメリカ政府高官が「再処理事業は経済的に合理性はないから、すべての国がこの事業から撤退することが喜ばしい」とコメントしたと、3月27日の東京新聞が報道している; 【ニューヨーク=北島忠輔】米国で31日に始まる核安全保障サミットを前に、原発の使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、再利用する核燃料サイクル事業に米国が神経をとがらせている。背景にあるのはオバマ大統領が問題視するプルトニウムの大量保有だ。核兵器6千発分相当の48トンを抱える日本は核燃料サイクル事業実現で減らすと強調するが、めどが立たない現状に米国が疑問を呈した形だ。 米上院外交委員会が17日に開いた公聴会。国務省で国際安全保障や核不拡散を担当するカントリーマン次官補は「再処理事業に経済的合理性はなく、核の安全保障と不拡散に懸念をもたらす。すべての国の撤退が喜ばしい」と言い切った。AP通信は「異例の踏み込んだ発言」と報じた。 オバマ氏は「テロリストの手に渡らないよう努力している分離済みプルトニウムのような物質を絶対に増やし続けてはいけない」と述べている。 1977年に再処理事業から撤退した米国は他国の参入を止める一方、日本には1988年に定めた日米原子力協定で例外的に認めた。協定期限は2018年7月。いずれかが再交渉を求めなければ自動更新される。米国には期限前に問題提起する狙いがあった。 背景には事業を請け負う認可法人を設ける日本側の法制定の動きが指摘されている。鈴木達治郎・長崎大教授は「法律は、使用済み核燃料が出たら再処理費用を積み立てると規定。必要以上に持たないとの合意に反すると米側がみなした可能性がある」と話す。 公聴会で民主党のマーキー上院議員は「(事業認可を求める)韓国の後追いを促し、北朝鮮の核保有を防ぐ米国の努力を台無しにする危険がある」と更新交渉の必要性を指摘した。<米国のプルトニウム回収>オバマ大統領は2009年、「核なき世界」を訴えたプラハ演説で、各国が保有する核物質がテロなどに悪用されるのを防ぐため、管理を強化する考えを示した。日本やドイツ、ベルギー、イタリアなどにあるプルトニウムが対象となっている。 日米は14年の核安全保障サミットで、冷戦期に英米仏が日本に提供した研究用プルトニウム331キロの返還に合意。今月22日に英国の輸送船が茨城県東海村を出港した。ところが運搬先のサバンナリバー核施設がある米サウスカロライナ州の知事が「住民の安全と環境保護のために受け入れられない」と反発。5月ごろに到着する輸送船が滞留する恐れが出ている。2016年3月27日 東京新聞朝刊 12版 2ページ「減らぬ日本のプルトニウム」から引用 使用済み核燃料の再処理事業については、アメリカは既に40年前に撤退したもので、その後日本がその事業を始めることを承認したのは、もし日本が独自の技術開発で成功すれば自国もそれに便乗できるという計算があったのかも知れませんが、結局40年待っても、未だにいつから稼働できるのか、まったく見通しが立たないし、仮に数年後に完成が見込めるとしても、その後の稼働に経済的な合理性がないのであれば、やっても無駄ということであるから、これはやはり早めに事業を断念するのが利口というものだと思います。
2016年04月14日
シンガーソングライターのさだまさし氏は、原子力発電について、3月20日の東京新聞コラムに次のように書いている; 東日本大震災から五年。 軽々しく「もしも」などと言うべきではないが、今でも思うことがある。もしもあの時、東京電力福島第一原発の事故がなければ、と。 この国で暮らす人たちは、地震災害も心のどこかで覚悟しているだろうし、大津波だって頭のどこかでは警戒しているはずだ。 実際にそれが起きた時に身を守れるかどうかは別だが、わが身を襲う危険の一つとして想定しているだろう。 しかし、想定外のものがある。それがあの福島第一原発事故だった。 僕は長崎市出身で、原子爆弾が投下されてわずか7年後に爆心地近くで生まれていることもあり、放射能災害は決して「人ごと」ではない。 そして、かつて長崎でそうだったように、最初は強い怒り、悲しみを持って心を保つことができても、やがて心は折れ、諦め、それを「人ごと」と思っている人々の心ない差別を恐れて、「その町の出身であること」を隠すような悲しいことが起きる。 これほど悔しくて切なく、腹立たしいことはない。 原子力発電が行われるようになった40年以上前のこと、僕のラジオ番組で日本のロケット開発の父、糸川英夫先生に原子力発電とはどういうものなのかうかがったことがある。「ざっくりとおおらかに説明します。仮にスイカを想像してください。核分裂というのは、丸い核の球を、つまりスイカを包丁で割るとイメージしてください。割る前の重さより割った後の方が、切られた分、ほんのわずかに軽くなっているはずです。その減った量がエネルギーとして取り出される」 糸川先生はさらに続けた。「ただし、このスイカを割る前のようにきちんと閉じる技術がまだありません。この開いたまんまのスイカ、つまり核廃棄物が放出する放射能は半減期までに数十万年かかる。その処理方法を持たない以上、原子力発電は不完全な技術です」。心に残る言葉だ。 大地震や大津波は抗(あらが)いようのない自然災害だが、原発事故は防ぐことが可能な「人災」だろう。 原子力発電については利害、利得を超えて賛否さまざまなご意見もあるだろうが、こういう事故が二度と起きない、と安心できる材料が僕にはまだみつからないでいる。 糸川先生の言葉を思い出すまでもなく「人が制御できないもの」を、人が動かすべきではないと素朴に思う。 大災害から数年をへて着々と復興する町もあり、まだまだ手つかずの町もある。地震や津波の心の痛手から立ち直ろうとする人もあり、いまだに痛み続ける人もある。 ただ「人災」だけは二度と起こしてほしくないと、震災5年の春に心から願う。(シンガー・ソングライター、小説家)2016年3月20日 東京新聞朝刊 16ページ「つれぐれ-『不完全な技術』への不信」から引用 さすがに人気のシンガーソングライターが書いた文章だけあって、不思議と心に訴えかける説得力のある記事だと思います。地震や津波というような災害については、耐震建築とか高台に引っ越しするというような「安心できる対策」が可能ですが、原発事故については「これで大丈夫」と言える「安心できる材料」がまだ無いというのが実情です。人が制御できないものを人が動かすべきではない、正にその通りです。
2016年04月13日
防衛省は佐賀空港にオスプレイを配備する計画を立てているが、地元の漁業組合が反対を表明したために、計画が暗唱に乗り上げていると、3月20日の東京新聞が報道している; 佐賀空港の自衛隊オスプレイ配備計画が暗礁に乗り上げている。空港に隣接する配備計画地を所有する地元のノリ養殖漁師たちが、防衛貧の現地調査を拒否した。有明海の大規模公共事業に翻弄(ほんろう)され続け、今度は漁場の目と鼻の先にある空港の軍用化。防衛省は2019年度までにオスプレイ17機を配備する計画を進める方針だが、漁師たちは公共事業のたびにばらまかれた金の功罪を知るがゆえ、漁場を守ることにこだわる。(沢田千秋)◆地元漁協国の調査拒否 「佐賀駅から南へ延びるこの道がメーンストリートですよ。全然人がおらんでしょ」。タクシー運転手の川原寛明さん(67)が自嘲気味に笑う。「佐賀には吉野ヶ里遺跡以外、これといった観光はなか。自衛隊が来たら潤うでしょ。空海は街から離れとるし、周りは田んぼと海だけで、街の中は飛ばんて言うとるんだから。反対しとるのは漁師だけじゃなかとね」 佐賀商工会議所など地元の経済四団体は今月14日、自衛隊のオスプレイ配備計画受け入れの要望書を県に提出した。「県民生活や地域経済に好影響を与えると確信している」という。 オスプレイの駐機場計画地は佐賀空港の北西にあり、防衛省は30ヘクタールの土地購入を予定する。1960年代の干拓事業でできた埋め立て地で、佐賀県のノリ養殖業者を束ねる県有明海漁業協同組合の漁師たちが所有する。 現在は視界いっぱいに麦畑が広がる。3月半ば、緑色の畑では、ヒバリがさえずり、白いモンシロチョウが飛んでいた。地権者の一人、ノリ養殖漁師の古賀初次さん(67)は目を細める。「平和そのものでしょ。収穫時期になったら麦畑が黄金色に輝いて、それはきれい。ここが自衛隊の基地になるんかね」 佐賀県は養殖ノリの生産日本一を誇る。干満の差が6メートルにもなる有明海の特性を生かし、年間約20億枚を生産する。全国約80億枚の4分の1を占める。中には、約20センチ四方の1枚が500円の高級品もあり、都会のデパートで贈答品として人気を博す。 古賀さんは半世紀の間、ノリ養殖に携わってきた。「空港から100~200メートルの漁場では、ノリが短くなって質も落ちる『バリカン症』にかかる。空港からの排水が原因じゃなかと? ノリは真水ば嫌うけんね。毎年の漁場の抽選で空港の近くになるとがっかりする」 配備計画が発表されたのは14年7月だった。発表から約1年後の昨夏、古賀さんは「佐賀空港への自衛隊オスプレイ等配備反対地域住民の会」の会長に就任したが、秋からのシーズンはノリ養殖に忙殺された。「冬の間はノリの仕事忙しいばってん、新聞見ると腹の立つことばかりで」 その間に、事態は動いた。当初、自衛隊のオスプレイ配備とともに」沖縄の米軍普天間飛行場に所属するオスプレイ訓練の受け入れの要請もあり、市民が反発していた。それが、昨年10月、中谷元防衛相と山口祥義知事の会談で、米軍の訓練の要請は撤回となった。すると、山口知事は防衛省の求めに応じ、オスプレイ駐機場計画地の現地調査を容認した。 計画では、オスプレイは主に、空港から南へ4キロほどの海上を飛行することになっている。古賀さんは「頭の上をぶんぶん飛ばれたら、作業で使うちっちゃな箱舟は風圧でふわふわになる。墜落でもしたら、漁場は油まみれ、ノリは真っ黒焦げで甚大な被害を受ける。政治家はどうこう言うばってん、ノリのこと何が分かると」と憤る。2016年3月20日 東京新聞朝刊 11版S 28ページ「揺れる 佐賀空港オスプレイ配備計画」から引用 佐賀空港のオスプレイ配備については、佐賀県知事も佐賀県議会も特段に反対意見を持っているわけではなく、知事はむしろ防衛省に協力的であるのだが、地元の漁協だけが「反対」を表明しただけで、防衛省はこの「反対」の意思表明を大変重く受け止めて、計画実施のための現地調査を中止している。ところが、沖縄県の辺野古問題については、県知事も県議会も地元住民も一丸となって「反対」を表明していたにも関わらず、政府はそれを無視して、反対行動に出た住民に機動隊が暴力を振るってまで計画を実行しようとした。その後、裁判所の和解勧告があって、政府は工事を中断しているが、この日本政府の佐賀県と沖縄県に対する対応の差は、明らかなダブルスタンダードであり、政府が沖縄を差別していることを示している。
2016年04月12日
アメリカにはマフィアのような組織犯罪を取り締まる法律があって、これが実際のマフィアだけではなく、有害情報を正しく伝えないで利益を上げたたばこ会社にも適用されたことがあるそうで、これが今度は、地球温暖化はCO2のせいではないと主張する石油関係企業にも適用するべきだという声が出ていると、ジャーナリストの木村太郎氏が、3月20日の東京新聞コラムに書いている;■学者20人連署で書簡 「地球は温暖化してはいない」と言うと罰せられることになるかもしれない。 と言っても米国の話だが、ロレッタ・リンチ米司法長官は9日、上院司法委員会で気候変動を否定するものを処罰することを考えていると次のように証言した。 「我々はこの問題(気候変動を否定すること)について議論を尽くし情報も収集してきました。そこで、米連邦捜査局(FBI)に対しこの問題が訴追の対象となりうるかどうか検討を命じました」 実は、昨年9月、米国で気候変動の危機を訴えている学者20人が、連名でオバマ大統領に書簡を送り次のように訴えていた。 「(石油、石炭などの)化石燃料業界と、その支持者たちは書籍や新聞記事を通じて(気候変動などないと宣伝する)不正行為を行っています。これを今直ちに差し止めないと、米国や世界は地球の気候を安定させる機会を逸し取り返しのつかない悪影響を残すことになります」■RICO法適用求め 学者たちは化石燃料業界の行為は、喫煙の危険を隠していたたばこ業界と同じだとして、たばこ業界を追及した「威力脅迫および腐敗組織に関する連邦法(RICO法)」を化石燃料産業にも適用すべぎだと訴えていた。 RICO法は、もともとマフィアなどの組織犯罪取り締まりを目的に制定されたが、米司法省はこの法律を根拠に大手たばこ各社を訴え、2006年ワシントン連邦地裁はたばこ業界が喫煙の有害性を十分理解できないよう申し合わせて消費者を欺き収益を上げてきたと断じ「低タール」「ライト(軽い)」などという表現も禁ずる判決を下した。 学者たちは、化石燃料業界と気候変動を否定するものたちもマフィアのような犯罪組織だと処罰を求めたわけだが、RICO法では有罪になると最高20年の禁錮刑または25万ドル(約2800万円)の罰金が科せられる。■共和党候補は否定的 これに対して気候変動に疑問を呈してきた人たちの間からは当然反発が起きているし、言論の自由の原則からも反対論を封じ込めるのはおかしいという議論もあり、現実にRICO法が適用されるまでには曲折がありそうだ。 それはともかくとして、この間題が米大統領選の候補者選びの最中に取り上げられたのは、意図的だったかどうかは別にしても興味深い。民主党のクリントン、サンダース両候補は地球温暖化に危機感を表明している一方、共和党の候補はおおむね否定的で特にトランプ候補に至ってはツイッターでこうつぶやいて話題になっている。 「地球温暖化という考えは、中国が米国の製造業の競争力をそぐために発明したものだ」 トランプ大統領が誕生したら、逆に気候変動説が糾弾されることになるのかもしれない。 (木村太郎、ジャーナリスト)2016・3・202016年3月20日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「『温暖化は疑問』は処罰対象?」から引用 この記事もなかなか考えさせられる点が多い。アメリカのたばこの箱には有害性を警告する厳しい表現が使われているのに比べて、日本のたばこはかなりソフトな表現になっているので、さすがアメリカは進んでいるなあと思ったものでしたが、実はアメリカのたばこ会社も裁判で負けるまでは、なるべく有害性には触れないでいこうとしていたとは意外です。大統領候補のトランプ氏がいう「地球温暖化は中国の発明」というのは、まったくのウソで、温暖化二酸化炭素説は欧米の気象学者が言い出したことであって、京都議定書が策定された当時は、中国は発展途上国の立場からCO2削減に協力はできないと主張していたものでした。そういう国際情勢に対する確かな認識も無いような人物が大統領になって、果たして国としてやっていけるのかどうか、アメリカの皆さんにはよく考えてほしいものです。
2016年04月11日
原発事故を起こして何万人もの人々を避難生活に追いやっている加害者の東京電力が、被害者に対する補償に誠意ある態度を見せない裏には、安倍政権の後押しがあると、作家の赤川次郎氏が、3月20日の東京新聞コラムで論評している; 思い出せ。2011年3月12日のあの瞬間を。 福島第一原発の建屋の屋根が吹っ飛び、白煙が上る映像。あれを見たとき、「日本は終わりだ」と思った人は少なくないはずだ。小学生の子を持つ知人夫婦は、急いで子供1人を飛行機に乗せ、沖縄の友人のもとへと送り出した。大人は仕方ないとしても、子供だけは放射能から守りたい。 それはあの日の多くの大人たちの思いだったのではないか。おそらく、東京電力の社員にも自民党の議員にも、そう願った人はいたはずだ。 しかし、5年たった今、日本はどうなっただろう。 最も腹立たしかった記事は原発ADR(裁判外紛争解決手続き)についての「こちら特報部」(3月12日)である。原発事故被害者のためのADRは、手間や費用のかかる訴訟によらず、文部科学省の原子力損害賠償紛争解決センターへ申し立てることで、スムーズな賠償を実現するものだ。東京電力は、ここで示される和解案を「尊重する」と誓っている。 ところが現実には東電は和解案の受け入れをしばしば拒否。怒った被害者は東電を提訴している。この東電の強気の裏に安倍政権があるのは明らかである。 被害者への賠償や生活再建は後回し、原発再稼働と原発の海外輸出に力を入れる政治が東電を後押ししている。さらには、あの大事故で、誰一人責任を問われなかったことが、東電のおごりにつながっている。 3・11から5年、テレビや新聞は地震や津波で家族を失った人々の、今も癒えない悲しみの姿であふれた。しかし、真にジャーナリズムが目を向けるべきは、今も収束しない原発事故の状況であり、放射能汚染の実態の方ではないのか。大津地裁が稼働中の高浜原発に停止命令を出したのは、わずかな希望の光である(3月10日1面)。 同じ3月10日の「こちら特報部」に、東京・中野の女子高生が安保関連法に反対する地元でのデモを行うという記事があって、うれしかった。それというのも、このデモのコースに当たる地下鉄新中野駅は、私が長く住んでいた所だからである。杉山公園、鍋屋横丁といった地名に、懐かしさと、この女子高生を応援したい思いを抱いた。 NHKの「クローズアップ現代」(女性たちの”戦争”)はイスラム国(IS)に奴隷として売り買いされるヤジディ教徒の女性たちの凄絶(せいぜつ)な現状を捉えていた。レイプされ、全身にガソリンをかぶって火をつけ大やけどを負った女性の、正視するのもつらい姿。これが戦争なのだ。 若い女性たちが、戦争を自分のこととして捉えれば、弱者が最も悲惨な立場に追いやられるという点で、戦争も原発事故も違わないことが分かるだろう。(作家)2016年3月20日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-弱者が最も追いやられる」から引用 事故を起こした福島原発は今も地下水が放射性物質を海に流し続けており、海洋汚染は進行中である。原発と海岸の間の土壌を凍らせて巨大な止水壁にする工事はまもなく完了する予定になっているが、このような巨大な凍土壁は未だかつて作った経験もなく、目論み通りの結果が得られるという保証はない。壊れてしまった原発の後始末も遅々として進まず、今の予想では廃炉の工事が完了するのは40年後とのことだから、今年の新入社員が定年退職するころに終わるかどうかといったところである。一度事故になると、このような事態になるのであるから、ドイツやイタリアが決断したように、日本も原発は止めるべきである。
2016年04月10日
民主党と維新の党が合併したことを、自民党は「野合」であると批判したが、元はと言えば、自民党こそ野合の結果できた政党であり、自公連立も野合だと主張する投書が、3月25日の「週刊金曜日」に掲載された; 民主党と維新の党が合流して「民進党」が結党され、日本共産党やその他野党との連携が着々と進んでおり参院選が楽しみになってきた。そんななかで安倍晋三内閣や与党幹部による「理念なき野合」「民共合作」といった批判の声がぞくぞくと聞こえてくる。 しかしそもそも自民党の結党時を見てみると、とても人のことを言えないのではないか。1955年当時は社会党の左右統一など社会主義勢力が台頭してきており、それに対抗するために「反共産・反社会主義」のみを旗印に保守勢力を集めて作られたのが自由民主党である。 結党時には党首さえ決められず、鳩山一郎氏が初代総裁に就任したのは結党から5カ月くらいあとであった。まさに「野合」「寄せ集め」そのものではないか。 そして自民党と公明党の連立についてだが、公明党はもともと「人間性社会主義」という社会主義を掲げて結党された政党である。確かに今では公明党が社会主義を主張することはなくなったが、党として社会主義を放棄することを表明したことはない。 つまり自公連立政権というのは反社会主義が党是である自民党と、社会主義を掲げて結党された公明党が共に政権を運営しているわけであり、これこそ「節操や理念なき野合」そのものである。また自民党には社会党と組んだ過去があることは言うまでもない。 そんな政権を倒すための野党共編を批判されるいわれはまったくない。新たに立ち上がる民進党には「打倒安倍政権」に向けて、市民とも連携を深めた上で邁進(まいしん)していってもらいたい。2016年3月25日 「週刊金曜日」1081号 61ページ「投書-自民党結党の動機や自公連立こそ『野合』だ」から引用 この投書が指摘するように、社会党の左右統一に対向するために保守勢力が野合したのは歴史上の事実であるし、60年代の公明党が「人間性社会主義」を唱えてその学生組織が白だったか青だったかお揃いのヘルメットを着用して全共闘の集会の一隅に席を占めていたのも事実である。したがって、自民党に民進党を「野合」と批判する資格がないという指摘は、まったくその通りである。民進党には是非とも、共産党から右側の諸会派まで含めて連携を広げて安倍政権打倒に邁進してほしい。
2016年04月09日
原発事故から5年たって、政府は放射能汚染で避難生活をしている人々に行っていた支援を打ち切ろうとしている。被災者は、居住環境を元に戻してほしいはずであるが、これ以上いくら費用をかけて除染しても放射能汚染はゼロにはできないので、政府は勝手に「安全基準」を決めて、その「基準」以下の地域には多少の汚染が残っていても我慢して帰還しろ、それを拒否して避難生活を続けるなら、それは個人の勝手だから政府としての支援はしないと、こういう理屈である。このような政府の弱者切り捨てのやり方を、法政大学教授の山口二郎氏は、3月13日の東京新聞コラムで、次のように断罪している; 「3・11」から5年たった。津波で破壊された海辺の町は、かなり再建されている。しかし、原発事故で生活を奪われた人々は一層深い窮地に追いやられている。 安倍政権は原発事故で放射能に汚染された地域でも、かなり放射線量が下がってきたので、避難していた人々に事故以前にいた街に戻るよう促す帰還政策を進めている。避難していた人々への支援も打ち切ろうとしている。これ以上避難するのは「自主」避難だから、面倒は見ないというわけである。 これは、ギリシャ神話に出てくるプロクルステスのベッドという話そのものだ。プロクルステスという追い剥ぎは旅人を自分の家のベッドに寝かせ、ベッドからはみ出す手足を切り取るという残虐な趣味を持っていた。 現代日本における法令や予算が狭いベッドであり、そこにくくりつけられた旅人は原発事故の被災者である。安倍政権はベッドからはみ出す部分を切り捨てようとしているのである。被災者を支援するための政策ではなく、被災地は問題がなくなったという格好をつくるための政策である。 私たちが人間でありたいなら、安倍政権の残虐を許してはならない。東京電力の元幹部は強制起訴され、刑事責任が追及される。安倍政権に対しては、われわれ自身が政治的責任を追及していかなければならない。(法政大教授)2016年3月13日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-人間であること」から引用 原発事故による放射能汚染のために自宅に住めなくなった人たちは、日本全体から見ればごく少数であるため、マスコミも取り上げようとしないが、そういう少数者に対する政府のやり方は、あまりにもひどい仕打ちであり、黙って見過ごすことはできないので、せめてギリシャ神話の例にたとえてでも、政府がやろうとしていることがどういうことなのかを訴えたいという山口教授の意図を、私たちは重く受け止めるべきです。
2016年04月08日
報道関係の企業が加盟する団体が実施した世論調査では、憲法9条を変える必要がないとの意見が過半数であったと、3月13日の東京新聞が報道している; 本社加盟の日本世論調査会が憲法に関する世論調査を実施した結果、9条改憲の「必要はない」が2014年6月の前回調査より3ポイント減ったものの57%で過半数。「必要がある」の38%(前回比3ポイント増)を大きく上回った。夏の参院選で、改憲に賛成の議員が国会発議に必要な3分の2の議席に「達しない方がよい」は47%で、「3分の2以上を凌占めた方がよい」の44%より多かった。 憲法を「改正する必要がある」「どちらかといえば改正する必要がある」の回答を合わせた改憲派は54%(前回56%)。「改正する必要はない」「どちらかといえば改正する必要はない」の反対派は40%(前回38%)となった。 調査は2月27、28両日、面接方式で実施。昨年12月の参院選に関する調査では質問が一部異なるが、改憲勢力による3分の2の議席を望む回答は57%、望まないは33%で今回逆転した。安倍晋三首相は改憲に強い意欲を示しているが、世論は慎重に考えている現状がうかがえる。 改憲派に理由を聞いたところ、61%が「憲法の条文や内容が時代に合わなくなっているから」と回答。「新たな権利や義務などを盛り込む必要があるから」が二番手だった。改憲で議論すべき対象(2つまで回答)を聞くと「憲法9条と自衛隊」が52%で首位。「知る権利・プライバシー保護」が23%で続いた。 反対派の理由は「戦争放棄を掲げ平和が保たれているから」が40%、「改正すれば『軍備拡張』につながる恐れがあるから」が28%。9条改憲の必要があると答えた人に重視すべき点を聞いたところ「現在の自衛隊の存在を明記すべきだ」が42%で最多だった。 ▽調査の方法=層化2段無作為抽出法により、1億人余の有権者の縮図となるように全国250地点から20歳以上の男女3000人を調査対象者に選び、2月27、28の両日、調査員がそれぞれ直接面接して答えてもらった。転居、旅行などで会えなかった人を除き1744人から回答を得た。回収率は58・1%で、回答者の内訳は男性49・3%、女性50・7%。 東日本大震災の被災地のうち、3県について被害の大きかった一部地域を調査対象から除いた。 ▽日本世論調査会=共同通信社と、その加盟社のうちの38社とで構成している世論調査の全国組織。2016年3月13日 東京新聞朝刊 12版 4ページ「9条維持 過半数」から引用 改憲派が主張する「憲法の条文や内容が時代に合わなくなっている」というのは、多分に観念的なもので、実際にどの条文が時代遅れになっているために国民生活にどのような不具合を生じているのか、という点から具体例を挙げることは不可能で、それはつまり、改憲すべき具体的理由は存在しないということである。航空自衛隊のスクランブル発進の件数が、この2,3年急増しているとの情報もあるが、東西冷戦が厳しかった時代の件数を大きく超えるほどのものでもなく、しかも、当時の日本は「防衛費はGNPの1%以内」という不文律を踏襲して、この時代を乗り越えてきたのであったが、中曽根内閣からは1%の枠を撤廃してきており、現在の憲法のままで防衛対策は十分であることが理解できる。その上、現代はアメリカ、ロシア、中国と日本を取り巻く主要大国の間に密接な経済関係が存在しており、この経済関係を損なってでも始めなければならない「戦争」などというものは、もはやあり得ない。そういう意味では、わが国憲法制定当時から世界の情勢は確かに変わりはしたが、その「変わり方」は、日本が憲法9条にますます自信をもってやっていける方向に「変わった」ということであると、私は思います。
2016年04月07日
知日派のジャーナリストとして知られる元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏は、日本のメディアの特徴について、3月13日の東京新聞インタビューで、次のように述べています; 東日本大震災から5年。津波の被害、東京電力福島第一原発事故とその後の混乱に、今も熱い視線を注ぐ人がいる。米紙ニューヨーク・タイムズ前東京支局長のマーティン・ファクラーさん(49)。学生時代を含め日本滞在19年になる知日派のジャーナリストは「事故の現実を闇の中に放置してはいけない。まだ終わっていない」と、日本のメディアに呼び掛ける。(五味洋治)◆ あの事故から五年になりました。 残念なのは、いまだに事故に関して、基本的なことが分かっていないことです。自衛隊、米軍の役割は何だったのか。東電は原発から撤退する計画があったのか。社会全体の関心も低下してしまいました。再稼働に反対、賛成ということではありません。得るべき教訓を得ないといけない。原発事故に関して三匹の猿(見ざる、言わざる、聞かざる)になってはいけないのです。◆ 「吉田調書」(東電福島第一原発の故吉田昌郎元所長に対する政府事故調の聴取記録)をめぐる報道の影響があるのでは。 そう思います。調書を最初に報道した朝日新聞は、一連の報道を取り消しましたが、これは必要なかった。訂正でよかった。吉田所長の証言内容があいまいだったため、朝日新聞は記事のニュアンスを間違ったことは事実ですが、原発の管理がどれだけ悪かったかという、もっと大きい問題があったんです。記事取り消しによって、本当の問題が消えてしまったのです。◆ 日本のジャー」ナリストに物足りなさを感じるということですね。 ジャーナリストの役割は、調査して政府や権力者と違うストーリーを伝えることです。原発事故後、そういう努力が多く見られた時期があります。しかし最近になって全体的に調査報道が減ってきました。政府の言われた通りに書く。そういう報道ばかり増えています。吉田調書のような目に遭わないようにリスクを避けているのではないですか。ジャーナリストの仕事はファクト(事実)を調べて組み立て、意味を加えていく。映画を作ることに似ています。難しくて危険な作業です。一つでも間違えば権力側は責めてくる。しかし萎縮してばいけない。◆ 安倍政権のメディア戦略をどう見ますか。 メディア戦略のレベルが高いですよね。その高さに、正直言って日本のメディアが追いついていない。日本の新聞報道を見ると、権力へのアクセス(接触)が大事です。経済産業省が近く、ある発表をする。これを他より早く書くとスクープとして扱われる。そこを政権側が知っている。安倍首相も自分への単独インタビューを効果的に使っています。私から見ればまったく価値のない記事ですが、そういう心理をうまく利用しています。ただ、数カ月前と比較すれば、メディア側も気がついた気がする。もう少し独立性を発揮しようとしている。◆ 例えば。 NHKクローズアップ現代のキャスターである国谷裕子さん、テレビ朝日、報道ステーションのキャスター、古舘伊知郎さんといった政権に批判的な人が相次いで番組から姿を消します。これに対して、メディア側から批判的な記事が出始めていますよね。◆ 米国でも同じような状況がありました。 イラク戦争をめぐる報道ですね。確かに米国のメディアの失敗でした。日本は3・11(東日本大震災)が国家的危機でした。9・11(米中枢同時テロ)後の米国も同じだった。イラク戦争が起きる前、当時のブッシュ大統領はリーク(機密を意図的に漏らすこと)をうまく使い、ニューヨーク・タイムズも含めてイラクに大量破壊兵器がこんなにあるということを報道させました。イラク戦争が始まるまで、政権への批判的な記事はあまり出なかった。リークを求めるあまり、うまく利用されたのです。 ところが大量破壊兵器などなかった。 みんな政府にだまされたと気がついた。それからブッシュ大統領のやり方に怒って批判を始めた。今もプッシュ政権は、歴代の政権と比較して人気のない政権です。アクセスを重視するジャーナリズムと、調査重視のジャーナリズムの調和は難しいものです。ニューヨーク・タイムズにはピュリツアー賞を受賞したジェームズ・ライゼンという記者がいます。ブッシュ政権が、2005年、米国家安全保障局(NSA)による令状なしの通信傍受を暴く記事を書きました。この報道が行われるまで約1年間、社内で激しい論議があった。報道すれば、政府の監視が弱まって、テロとの戦いの障害になるかもしれない。万が一テロが起きれば、われわれは責任を取れるのかという意見でした。◆ 結果は。 記事になりました。国民には知る権利があるという結論でした。米国では調査報道にもともと長い伝統がありますからね。ただ最近は国家の監視も強化されています。ライゼンさんの場合も、米政府は彼の電子メールや携帯の記録を調べ、その結果イランの核開発に阻する米国の作戦の情報をライゼンさんに漏らしたとして、中央情報局(CIA)の元職員を逮捕しています。日本も特定秘密保護法で、国家が同じような力を持とうとしています。◆ なぜ記者の仕事を選んだのですか。 歴史をリアルタイムで書く。しかも受け身ではなく、自分から見に行く。それを読者に伝える。この大事な使命を、権力に任せたくなかったのです。自分で見て、自分で判断して、自分でストーリーを組み立てたい。それが記者の仕事で、もっともわくわくするところですから。◆ 一番印象的な取材は。 やはり福島原発の取材ですね。調査報道の力を感じました。いわゆる「原子力村」は、都合のいい情報だけを出していた。そんな時私たちは、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)を事故当時、政府が公開しなかったことを記事で指摘しました。私たちの記事で日本国内に波紋が広がりました。情報隠しがあったとして、原子力に対する不信が高まったのです。ファクトの力を感じました。◆ 日本で調査報道は、やりにくいですか。 そんなことはありません。テーマはたくさんあります。制約はあるでしょうが、問題はメディア側のやる気でしょう。日本のメディアは、昔の家電メーカーと同じです。よく似たニュース(製品)を流している。もちろん競争はあるものの、あくまで枠の中の競争。ところが今の家電メーカーは全く違っています。オンリーワンを目指し、特色ある製品を出していますぺそういう革命がメディアにも必要でしょう。◆ ネットが普及する中で新聞の役割は。 ネットにはいろいろな意見が出ていますが、信頼できるものは少ない。こういう時代にこそ、経験のあるプロの力が必要です。他がやらないオンリーワンの報道をすること。これが新聞が生き残る道でしょう。私は、日本のメディアのあり方を批判することもありますが、日本の記者たちに、「もっといい仕事ができるよ」と激励し、協力をしていくつもりです。<インタビューを終えて> インタビューの後、ファクラーさんの新刊が出た。「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」という刺激的なタイトルで、発売後、メディア関係の書籍として売り上げ一位となった。 日本で仕事をする中で見聞きした「記者たちのおかしな取材、不思議な報道、記者クラブメディアの特殊さ」(同書)がテーマだが、「愛する日本への恩返し」でもあるという。 日本を米国のような機密だらけの国にしてはいけない。官製情報ではなく、新しい事実の発掘を-。そんな呼びかけだ。今回のインタビューにも、その熱っぽさがにじんでいた。 マーティン・ファクラー 1966年米国アイオワ州生まれ。台湾と日本で、中国語と日本語を習得。ウォールストリート・ジャーナル、AP通信社などを経て2009~15年までニューヨーク・タイムズ東京支局長を務め、日本と朝鮮半島の取材に当たった。12年、福島第一原子力発電所事故の調査報道で、自身を含む東京支局スタッフが、「日本の当局が隠蔽(いんペい)した一連の深刻な失敗を力強く調査した」としてピユリツァー賞国際報道部門の次点に選ばれた。 現在は日本再建イニシアティブ(東京)主任研究員。早稲田大では招脾(しょうへい)研究員として調査報道を教えている。著書に『崖っぷち国家日本の決断』など。2016年3月13日 東京新聞朝刊 21ページ「あの人に迫る-権力に屈するな 独自色発揮せよ」から引用 この長文の記事は、我々の日常であまり気にかけなかった事柄について、中々含蓄のある指摘が随所にちりばめられていて、読み応えのある記事になっていると思います。日本のメディアは、家電メーカーがやってきたように、だいたい他社と同じような内容で歩調を合わせる傾向があると言ってますが、これはおそらくメディアや家電メーカーに限らず、日本人の行動原理に根ざしているのではないかと思われます。公の場で何か意見を求められたり、なんらかの意思表示が必要なとき、周りの皆さんはどうかなと周囲を見回して、みんなと調和しやすい態度を表明する、したがって本音はある程度抑制されても仕方がないという態度だと思います。しかし、新聞もインターネットと競争する時代になれば、新聞ならではの強みを発揮していかないと勝ち残れないということでしょう。 また、ジャーナリストの職業的使命についても教訓的なエピソードが披露されています。政府が国民の通話を盗聴しているという事実を、うっかり報道してテロリストの行動に有利な結果を招いていいのか、それよりも国民の知る権利のほうが優先するのではないか、報道関係者にはこのような真剣な問題意識が期待されます。
2016年04月06日
福井県に設置された原子力発電所について滋賀県の裁判所が運転停止の決定をしたことに関連して、規制基準の抜本見直しを求める投書が3月24日の東京新聞に掲載された; さる3月9日の大津地裁による高浜原発3・4号機の運転停止決定は、未曽有の福島第一原発事故を念頭におけば、極めて妥当である。原子力規制委員会が定めた規制基準は当初から問題が多かった。私は特に2点を強調したい。 その1は、福島の事故原因を究明せず拙速に設定したこと。当局と東京電力は、津波による全電源喪失に伴う冷却機能の停止が原因だとするが、これには世界的に異論がある。国会事故調は「地震動による破損がなかったとは結論できない」と断じた。また、英国科学専門誌「ネイチャー」478号も紹介した、事故による核分裂生成物質の全地球規模拡散に関するA・ストール氏らの国際調査研究は、津波到達以前に原子炉機器が破損していた可能性を指摘する。原因究明がない時点での基準は科学的姿勢に欠け、説得力がない。 その2は、住民避難計画が基準の対象外になっていること。この住民避難の課題は、「原子力災害対策指針」により「防護準備区域」などが定義づけされたが、避難計画の妥当性審査は規制基準にはなっていない。審査当局や原発事業者の責任回避といえよう。国際原子力機関(IAEA)や米原子力規制委員会(NRC)は、住民避難の課題を原発立地の基準・規則に定める。ショーラム原発(ニューヨーク州)は完成後、住民避難計画が不適という理由で、営業が許可されず廃炉となった。 事故の因果関係を究明反映する科学性を貫き、未来にも安全を保証する責任性を負うのでなければ、原発を審査・運用する資格はない。規制基準は、抜本的に見直すべきである。2016年3月24日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「ミラー-原発規制 抜本見直しを」から引用 この投書が指摘するように、大津地裁の運転停止決定は極めて妥当な判断であったと思います。福島原発の事故原因がはっきりしないのに、そういう事故を未然に防ぐ基準を作ったなどと言っても論理的に説得力を欠き、単に「世界で一番厳しい基準だ」などと根拠もなくお題目を唱えていても、それで事故を防ぐというのは単なる精神論に過ぎません。また、規制基準に「事故の際の避難計画」の項目が含まれないことに対しては、元米原子力規制委員会(NRC)に勤務した経歴をもつ人物が、は朝日新聞のインタビューに「常識的に考えらえられない」と驚いた様子で応えていました。やはり、原発の規制基準については、事故後に作ったものだから当然前回の事故は未然に防ぐ仕組みになっているだろうなどという楽観論は捨て、欧米の専門家の意見も入れて、しっかりした基準に作り直す必要があると思います。
2016年04月05日
一般的に大学では、式典などで君が代を歌うケースは希で、歌わない大学のほうが多いらしいのであるが、今年の2月に岐阜大学の学長が自分の大学では君が代は歌わないと公言したところ、この発言を馳文科相が批判するという出来事があったが、3月19日の東京新聞には、このときの馳文科相の発言を批判する投書が掲載された; 2月下旬、岐阜大学長が卒業式などで国歌「君が代」を斉唱しない方針を示した。それに対して、馳浩文部科学相が、国立大として運営費交付金が投入されていることを理由に「私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」などと発言したが、私は筋が通っていないと感じた。 国費により国立大学の管理運営を行うことは、教育を受けさせる義務を果たす行動の一部である。国歌とは、わが家の辞書には「その国を象徴するものとして制定され、または慣用されて、主に式典用に演奏される」とある。すべての人に感謝の気持ちを表現するためのものではないのだ。馳文科相は、「金を出しているのだから感謝し、国旗掲揚や国歌斉唱をすべきだ」と言っているようなもので嫌な感じがする。教育機関への圧力とも感じられる。2016年3月19日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-馳文科相発言 教育への圧力」から引用 馳文科相の発言の意図は「国民の税金で賄われている大学なのだから、国民に感謝する意味で、卒業式などでは君が代を歌うべきだ」ということのようです。それに対して、投書の主は、そもそも国歌というものは感謝の気持ちを表明する歌ではないし、国を象徴するものとして制定された歌なのだから、国の式典で歌えばいいのであって、大学には大学の自治があるのだから、国歌を歌わせられる理由はないと、こういうことのようです。実に明快な論旨です。 私が思うには、フランスの「ラ・マルセイエーズ」のように、革命の後に生まれた自分たちの国を守ろうという主旨の歌ならまだしも、君が代が「この国を統治する万世一系の天皇」を讃える歌であることを考えれば、これを国民に歌わせたいと考える政治家というのは、国民を国家権力に服従させたいという意図を隠し持っていることは容易に推測できるわけで、そういう要素が「嫌な感じ」をもたらしているのだと思います。
2016年04月04日
君が代に代わるもっとマシな国歌を、と主張する投書が、18日の東京新聞に掲載された; 今や卒業式の季節、そしてすぐに入学式の季節が来る。この季節を前に、2月20日の特報面「式典の春 国歌NO」の記事で、国立大学の多くが式典で「君が代」の斉唱を行っていないということを知った。意外な現実である。 学習指導要領などを通して、文部科学省の強力な影響が及ぶ小中高校においては、式典での君が代斉唱の要請は断れないようだ。一方、大学では自主的判断に任されていて、国立大学においてすら、君が代斉唱はまれであるそうだ。 この事実は、君が代の日本社会における立ち位置をいみじくも示している。まずは、君が代はいまだに先の戦争の記憶を引きずっていると思う。これに加え、私の全く主観的な感想にすぎないが、その歌詞や旋律が大変厳粛で奥ゆかしくはあるが、人々を元気づけるようなものではないからではないか。もっと明るい快活な国歌があってもいいのではないだろうか。2016年3月18日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-明るい国歌を取り入れては」から引用 この投書は、国立大学で君が代が歌われていないのは以外だと言ってますが、国立であろうとなかろうと、大学は学問研究の場であって、国益追求の機関でもないわけですから、式典だからといって君が代を歌わなければならない理由はないと思います。そもそも学問研究は人類一般の福祉向上に資するものであるべきで、「国」に拘っていたのでは、あまり立派な研究にはならないのではないでしょうか。 ただ、私たちの社会における君が代の立ち位置という指摘は、よく考える必要があると思います。歌詞や旋律が厳粛なのは結構ですが、やはり今から試合だというときに聞かされたのでは、少なからず気分がトーンダウンするのではないでしょうか。アメリカやフランスの国歌のような、元気が出る歌がいいいと思います。フランス国歌というと、「敵軍兵士の血を、我々のブドウ畑の肥やしにしてやれ」というような野蛮な表現があると批判する向きもありますが、あれは、フランス革命に恐れをなした近隣の王国からの反革命戦争に対向し、革命を守る闘いに立ち上がった兵士を励ます歌詞だったという歴史的背景に理解が必要と思います。
2016年04月03日
移民大国といわれるフランスで大ヒットしたという映画「最高の花嫁」について、16日の東京新聞コラムは次のように書いている; フランスで2014年に公開され、国民の5人に1人が観(み)たというヒット映画の試写をみた。邦題「最高の花婿」は近く日本で公開されるが、はたして受けるか。 というのも日本人にとってはテーマが少々不慣れなのだ。ネタバレしない範囲で紹介すると、美人四姉妹のいる家庭が舞台。姉妹は次々嫁いでいくが、相手は順にユダヤ教、イスラム教、そして中国人。両親は四女こそ自分たちと同じカトリック信者と結婚してほしいと願うが、四女が選んだのは・・・。 多民族・多宗教が混在する移民大国フランス。異人種間の結婚は全体の2割近くを占めるといわれ世界一だ。映画はかの国でありえないとは言い切れない内容なのである。 そして日本公開。なじみの薄い宗教の儀式や習慣やフランスが抱える植民地支配の負の歴史が映画のベースだけに日本人にとって分かりにくいのは確か。ただ、今ほど人種や宗教の差異を認め合い、「違い」を受け入れる寛容さが問われている時代はない。 万人にお勧めしたいが、とりわけ観てほしい人がいる。メキシコ国境に移民対策の壁を造るとか、イスラム教徒入国拒否など暴言を重ねるT氏。「日本を取り戻す」と拳を振り、時に波風を立ててしまう、あの人も。フランスは女性活躍や少子化対策に成功した国だ。保健所、いや保育所不足や一億総活躍のヒントも得られるかもしれない。(久原穏)2016年3月16日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「私説論説室-あの人も観てほしい」から引用 この記事が示すように、現代は人種や宗教の差異を認め合い「違い」を受け入れる寛容さが問われる時代です。そして、日本と韓国の場合は、仏教と漢字文化という大きな共通項があり、顔つきも似ているし、互いを受け入れ協力して未来を切り開く上で大きなアドバンテージを共有していると思います。それにしても、フランスを始めとして、イギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルといった西欧諸国は、中東、アフリカ、アジア、南米と、ことごとく植民地支配して富を収奪したという負の歴史があり、必要な補償も和解もしてこなかったために今頃テロという形でツケが回ってきているのは不幸なことです。
2016年04月02日
裁判所が「忘れられる権利」を認めたことに異議を唱える大学生の投書が、16日の東京新聞に掲載された; 2月28日の本紙に「忘れられる権利」が裁判所に初認定されていた、との記事が出ていた。一定期間経過後は、インターネットに残り続ける個人情報を削除することによって、過去の犯歴を忘れられる権利があるというのである。 過去の犯罪歴が公開されることで、更生が妨げられるというのは分からないでもない。生活の平穏の維持が困難になることもあるだろう。しかし、それでも私は「忘れられる権利」を認めることには慎重になるべきだと考える。 なぜなら、過去の犯罪歴といった情報は「私的な」情報ではないからである。よほど軽微な犯罪でない限り、それは誰にとってもアクセス可能という意味での公共的な情報である。私たちは過去に起きた犯罪についての情報に自由にアクセスし、議論の対象とする自由が、憲法上、保障されているはずである。裁判所という国家権力の担い手がこれらの情報を削除するよう命じることによって、私たちが公の情報に自由にアクセスすることが妨げられはしないか気がかりである。国家が情報を操作してわれわれ国民を無知の状態に追いやるという点で、秘密保護法と重なっているように思う。 また、決定文を実際に読んだわけではないため断定は避けたいが、「平穏な生活が阻害されるおそれがあり、その不利益は重大」という主張もかなり一面的ではないかと思う。公の情報にアクセスできずに自由な言論空間が縮小してしまうことの方がよほど重大な社会的不利益ではないのか。 私は「忘れられる権利」に反対である。私たちにも過去の犯罪を「忘れない権利」がある。2016年3月16日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「ミラー-『忘れられる権利』慎重に」から引用 私はこの投書の主張は間違っていると思います。不幸にして犯罪を犯してしまった者は、裁判にかけられて相応の刑罰を受けた後に更生し、社会に復帰します。それを、この投書は、一度犯罪を犯した者はたとえ更生した後であっても、本人が死ぬまで「前科者」として差別していこうと主張しているわけで、人権尊重の時代にこのようなことを主張する者がいるというのは大変残念なことです。このたび裁判所が認めた「忘れられる権利」とは、過去の犯罪の記録を一般市民が簡単にアクセスできる状態に放置して、刑期を終えて更生した者の平穏な生活を妨害する事態を改善するという意味であって、警察や裁判所の記録も一切なくすというわけではありませんから、この投書が主張するような「公の情報にアクセスすることが一切禁止される」などというものではありません。古来よりわが国には「罪を憎んで人を憎まず」との諺もあり、一度犯罪を犯した者であっても、本人に更生の意志があるのなら、私たちは社会として暖かく迎えるべきです。
2016年04月01日
全30件 (30件中 1-30件目)
1