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「直覚霊知」30 人間の本質・思惟と生命体(秘学論理) 基本的には、人類は「私」を本人が意識していようといまいと、「私」の文化生活自体と、その支配を目指した精神的努力を目標としてきました。それは科学万能時代の現代人も同様でだというよりは、現代では文化生活は向上しましたが、精神文化は貧弱なものとなっています。しかし人間は自我による魂への働きかけによって、意識様態を拡大することが出来ます。そして自我が意識様態をを支配し結びつけたときには、それは覚醒体若しくは思惟(マナス)と呼ばれる高次の存在に変化します。此の古代インド人の叡智とも言えるマナスは、発展する自我の中で増々顕在化され、隠された諸力に踏み込めるようになります。自我が意識様態を支配することによって、その特定の性質である、快と欲望、喜びと痛みを制御することが可能となるのです。一方、人間の生命の生得の特質である気質や性格は、意識様態と違い、人間の成長過程にあっても変化の度合いが遥かに少なく、子供時代に怒りっぽかった人は、しばしば大人になっても怒りっぽさを保ち続けます。だから人間の基本性格は変わらない、人間の基本性格は、一生を通じて持続しており、ただ事情に応じて違うように思える側面を見せるだけだと主張する方さえ見受けられます。しかし、十分な観察力のある人ならば、人間の性質や気質も、時をかけてではあっても、自我の在り方次第で変化することを知っています。気質や性格は、生得の生命体に属しており、生命の領域にある成長力や消化力や生殖力と同質のものだと言えます。人間が専ら気質や性格の特性である快と苦、喜びと痛みに振り回されている限り、自我が意識様態を支配することは出来ません。ましてや其の働きは生命体そのものの中にまで及んでいますから、気質や性格を変えることは不可能なことになります。
2013年10月31日
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「直覚霊知」29 人間の本質・高次の霊性の獲得(秘学論理) 先ず人間は、直覚霊知で「私」を見、自我の中に隠されている霊性を苦労して発見する。其の働きかけは喜怒哀楽などの信情への執着及び其のことから起きる様々な欲望と感情を離れることから始まります。それ故、低次の欲望や感覚的なものの享受する者には観えざるものであり、また其の霊性に於いても低級なものとなります。その逆に高貴な理性と理想を抱く者には、高次の霊性を獲得することが可能となります。しかし低次の欲望や感覚的なものを享受しているも、低次の欲求から離れて、高次の欲求に向かうときは、霊魂を高貴なものに押し上げることが可能となります。それは人間皆仏性ありの意味合いで言うのです。その低次の霊性とは、所謂、欲望や感覚的なものに固執した生活を日々送る者であり、我執に捕らわれている状態、我執と云っても、実は真の我である「自我」は存在していないとも言えます。外感覚と肉体の欲求に従わされた者には、動物霊同様の生命の終わりしかないでしょう。自我が人間にいつ発生するのかは難しい問題ですが、受胎の瞬間ということはないでしょう。ということは高次の自我は、霊魂的存在であるのなら、大霊海からの何らかの働き掛けがあるのです。丁度、天使ガブリエルがマリアに神の子を身籠ったことを知らせる、フィレンツエ近郊に生まれ、穏やかで優しい人柄と強い信仰心の持ち主であった僧侶フラ・アンジェリコの受胎告知の絵画のように。しかし人間は此の時点では、自我は少なくともないようです。此れも遺伝子レベルでの話なら亦違った考えが出てきましょうが、著者は人間の生涯が全て遺伝子のみに左右されていないと確信しています。人間は倫理観の獲得と成長により真の高次の段階にある自我を形成し、その霊性の眼「直覚霊知」で以って大霊海の霊魂の偉大な存在に目覚めるのです。
2013年10月30日
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「直覚霊知」28 人間の本質・霊性の一滴(秘学論理) 自己の内的な活動を通して「私」を内部の奥底から、自我という、自己の存在部分の神的な部分を観想するためには、仏教云うところの「我執」を捨てなければなりません。何故なら仏説の言う「我執」を、著者は身体への執着、喜怒哀楽などの信情への執着及び其のことから起きる様々な欲望と感情を離れることが、釈尊の説く「無我」と理解するからです。それでなければ釈迦が人々に語りかけることさえ不可能になります。それ故、釈迦は平常心を求めることを重用視して、転生すると云われる霊魂に執着し、それを求めることの概念の間違い、、無常を説いたものと想像します。しかしながら、意識様態が内面に集中し悟性を獲得するときには、「私」を開示する力は、人間の隠された霊性の覆いを取り払って、明らかな姿を持って内奥の神性が現出します。とはいえ、其の垣間見た見た力は、全てを満たしてる世界の絶対存在の絶対意思を大海とすれば、人間全ての其のものは川であり、自己の観る其の力は一滴の水にすぎないと言えます。しかし人間は、先ず此の霊性を自己の中に認識しなければなりません。そうすれば、外なる働きの中にも霊性を発見する可能性が見えてきます。一滴の水のように、直覚霊知したものを、「秘学」は霊魂と名づけます。その直覚霊知したものは全ての現象の隠された部分と結びついています。人間が全ての世界の理を極めようとするなら、直覚霊知で「私」を見たのと同じ仕方で現象世界に向き合わなければなりません。そのことにより、人間は更に高次の段階へと進めるようになるのです。
2013年10月28日
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「直覚霊知」27 人間の本質・私・我・己の特異性(秘学論理) 我々誰もが、理性的人間である限りにおいて、みずからの内に神的なものを見いだすことが出来得る筈である。何故なら人間の最も古い根源的な存在部分は、絶対意識の存在の延長としての様態から造られたものであるから。人間は直覚霊視を通して自己の神的な部分を通して、より高次の存在に近づき得(う)る。意識様態と同様に、自我という、自己の存在部分の神的な部分を通して、自分自身の内的な意識を獲得する。「直覚霊知」が霊魂を分析すれば、感覚・意識・理性から自我がそれを受け止めることから成り立っていることが解かります。同様に人間の身体部分は、肉体・生命の源泉である生命体・覚醒体から成り立っていることが分かります。自意識は「私・我・己」なる言葉よりもっと起源が古いものであり、「私・我・己」なる言葉は、個人特定の固有名詞の代用物の価値しか無いと云えます。固有名詞を知っていれば「私」という言葉を使わなくて済むが、しかし我々は常に自分自身を専ら此の概念から受け取っています。しかし、大切なのは、「私」なるものの本性が、自意識における私というより真の本性はもっと古いということに注目することでしょう。更に「私」なるものは外と内の関係において、動物が体験するものと区別される表現であると言えます。「私」はまさに内的な意識を通して知覚されるものだからです。外なる対象はその像自身が形成されますが、「私」なるものを知覚しょうとするなら、自己の内的な活動を通して「私」を内部の奥底から取り出さなければいけません。
2013年10月28日
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「直覚霊知」26 人間の本質・人間の死の概念(秘学論理) 人類は太古の昔に生命を失う「死の概念」を獲得しました。これは他の動物には、生命を失うことが「仕留め」と定義されるように、人間以外には無い概念であり、人間を人たらしめるものです。人間はその死の発見から死後の世界である「他界」への思想が生まれ、それが形而上哲学や、宗教の誕生に結びつきます。古今東西世界のどの民族あれ、それぞれが、各々独自の宗教概念、中でも死生観を形成していて、現代においても民族の価値観や行動様式に反映していることは、度重なるテロをみても打ち消し難いものがあります。夫々の民族には行動を規定する哲学、宗教、価値観に違いがあり、そのことが争いの根底になっています。様々な民族には、国・民族・組織などある特定集団への帰属意識があり、伝統的なものとしてのアイデンティティとなっています。和人の出雲大社を代表とする最も古い神祇信仰や歴史とともに歩んできた皇室崇拝は、日本人の原初的な宗教であり、それは現代日本人にも同一性を与えています。和人同士であれば観えない霊魂としての自我の同一性を自己と同様だと推測しうるわけです。その究極的な象徴が皇室です。政治・経済とりわけ科学の発展進化は便利さと引き換えに、人間の内面生活を犠牲にしてきました。近年の自殺者の増加は、霊魂の不存在を信じさせる風潮が引き起こしたとも言えます。
2013年10月26日
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「直覚霊知」25 人間の本質・高次の自我(秘学論理) 自我が対象を意識するだけでなく、更には、その意識に対して自我自身から働きがけを継続して行うときは、自我は、もはや、知覚の対象からは離れて、自我自身の所有するものの中で活動します。記憶を通して所有したものを、内面化して所有するのです。その事実を直覚霊知は単純化して、自己の霊魂を心像化します。言語の中には他の言葉と違った特異性を持つものがあります。其れが、他の言葉は対応する存在に常に使うことが出来るのに対して、存在が自分に向かうときにだけに使用できる「私・我・己」です。「我は、己にとってのみ、私である。」、それ故、他者にとっては私は一人の「汝」であり、その他者も私にとっては一個の汝と受け止められます。「私・我・己」なる存在は、外なる存在からは独立している。どの様な外敵事柄も此の存在に通じる道を持たない。このものは、一個の隠された部分であり聖域なのです。但し、同様の霊魂を持った存在だけは、直覚霊知を以ってそこへ参入することが出来ます。人間の内なる神は、霊魂が自らを認識するときに、神的なものに帰依しています。と言っても「私・我・己」なる存在を「神」との同一を述べている訳ではありません。ここに言う「高次の本性を持ち得た自我として存在する霊魂」が「神的存在」の在り方をしていると述べているのです。大海の水一滴を取ってきた人が、其れを海だと主張するように、スピノザが説く、神の延長としての「高次の自我」様態の在り方とを霊魂だというのです。
2013年10月26日
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「直覚霊知」24 人間の本質・忘却(秘学論理) 意識様態のみでは人間には「自我」は生じない。その都度の体験から行動を起こすのみです。其の意識様態の覚醒と睡眠の場合と自我と「忘却」は対応しているように似ています。眠りがその日の皆苦及び心配事を消し去る如く、「忘却」は人生の悪しき経験に覆いをかぶせて、それによって過去ある部分を消し去ります。また、消耗しきった生命力を、新たに漲(みな)ぎらせるためには、睡眠が欠かせないのと同様に、新たな体験と自由に挑戦するには、過去の否定的部分を記憶から消し去らねばならない状況が生じます。それには「忘却」が必要であり、はたまた、其の忘却からこそ新しき何かを学ぼうとする意欲が沸き出します。例えばあなたが漢字の書き順を考察すれば、その一つ一つを覚えていないにもかかわらず書く筆順能力が後に残されています。あなたが筆をとるたびに、書き方全てを心に想い浮かべなければならないとしたら、恐らくは筆が進まず何も書けないことになる筈です。それ故、その記憶にも単純なものから複雑なものまで段階があります。単純な形式としては、対象を知覚し離れた後も、その印象を呼び起こすことです。人間が動物と違うところは、印象を保つことにあるのです。意識様態が知覚として受けたものを、自我がその印象を自分に取り込み、記憶として保ち続けるのです。その意識を永続的なものにするのが「霊魂」と呼ばれる存在です。その自我が対象を意識するだけでなく、更に意識に対して働き掛けるときは、自我の本性は一段高次の霊魂の存在に近づいています。その活動を通して、増々、自我は知覚の対象から離れて、自我其のもののなかで活動し、そして自我が自己そのものの中に働きを強めていくと、ある高貴な存在になります。自我が理性的な直感によって意識さえ要しない状態に入ります。其処にはもはや外感覚世界はありません。
2013年10月25日
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「直覚霊知」23 人間の本質・記憶(秘学論理) 動物は、自然世界から規則正しい刺激、昼夜の交代などをもって外世界の影響を受けています。寒暖や快苦の体験を通して、規則的に繰替えされる状況から自らの意識を持ち得ます。だが、人間生活は、特に欲望や願望は動物の意識を遥かに超えた誘因によって引き起こされます。動物の場合は、その行動の誘因が何処にあるかば、それが体内的なものか対外的なものかは観察すれば容易に解かります。ところが、人間の場合は、欲望や願望の誘因が何処にあるかが判然としない場合が生じます。其のような誘因の源泉が「直覚霊知」してみると、「自我」に帰結することが解かります。それ故、「自我」こそが人間を「万物の霊長」とする、最も高次の本性を持ち得た者としています。意識様態のみでは、快不快や餓えと渇きを感じても、此れこそが持続的なものだという感情は現出しません。そのときには持続そのものでなく、持続を体験するものが必要とされます。自我はその時に初めて目覚めるのです。自我が目覚めるのは、時々変化する体験を通して持続観念を持ち得た時なのです。その持続を可能なら占める存在が「記憶」です。否、動物にも記憶力があるとの反発は当然に出てきましょう。忠犬ハチ公を例に上げるまでもなく、主人に再開した時の犬の態度は、記憶力そのものではないかとの批判です。しかし、それは犬が主人との強い結びつきを感じるとき、主人の存在が快感情を、その都度新たに起こさせるのです。それでも、主人の不在を悲しむ犬の様子は、記憶の存在を示すと主張されるかとは想われますが、それは犬が主人との共同生活で、主人の存在が不可欠になっているだけで、いわば動物が餓えを感じるときと同様の状態なのです。仮に動物に記憶力が備わっているとすれば、その特性である持続から派生する「時間概念」を持っている筈ですが、動物の行動や態度を観察すれば、其のようなものが無いことは容易に見て取れるでしょう。
2013年10月23日
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「直覚霊知」22 人間の本質・理性(秘学論理) 生命体が、もはや存在し保持し得なくなった肉体は自然世界の法則通りに崩壊します。意識態が、もはや存在を許されない生命体は、没意識状態へと沈み込みます。そして更には人間の意識態に対応する存在は、自我が過去を現在に持続として摂り込むのでなければ、過去は体験の其の都度、忘却の彼方に沈み込まねばならない。生物、なかでも人間の肉体の死、生命力の源である生命体の死は、意識態様を持つ者にとっての忘却を齎します。生命体にとっては生命力が固有のものであり、意識態様を持つ者にとっては、意識が固有のものであり、自我にとっては持続と時間及び想起が固有であり、此の自我こそが人間特有に備わった若しくは絶対意志から延長の様態、即ち理性として与えられたものです。当然に、理性無き人間には其のことが理解できず、はたまた、永遠性を持つ神の延長としての自我を、理性を自ら滅ぼして滅却させるのは、永遠の忘却及び苦界さえ招きかねません。とは言え、著者は論理的に考察する以上、宗教上の思考ではなく、此れ以後もあくまでも、認識論の立場で直覚霊知を実践し、考究して行く所存です。
2013年10月23日
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2013年10月22日
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「直覚霊知」21 人間の本質・自我(秘学論理) 直覚霊知が人間の中に認める、人間の本性のなかに認める最も高次のもの、もはや外界に開示されたものと何かを共有しない存在。人間を他の自然存在から区別して「万物の霊長」と言わしめる存在。覚醒時の人間は、現出及び消失を繰り返すものの体験だけではなく、それを持続的な体験としますが、それこそが、他の自然存在から区別して「万物の霊長」と言わしめる存在へ引き上げます。この持続的な体験に焦点をあててみると、他の生物、特に動物との違いが際立ってきます。動物は外界に調和させた仕方で、自然界の寒暖や快苦を通して、繰り返される餓えや乾きの体験から、自らを体験しています。しかし、人間生活は此等の体験だけでは語り尽くせない存在があります。動物の場合は、その行動や感情の誘因が何処にあるかを容易に明示することが出来得ます。ところが一方、人間の場合は欲望や願望の誘因を、外覚世界だけでは見出し得ない場合が生じます。直覚霊知は、その源泉を人間の「自我」に見い出します。それ故に、人間が最も高次の本性を持ち「万物の霊長」と言われることになるのです。意識様態のみであれば、動物と同じく其処に現れるのは、快・不快、餓えと渇きの感情しか見いだし得ません。以上のことから人間は、持続そのものではなく、その持続を通しての時間観念及び「自我」を持ちます。この自我感情が目覚めるのは、自己が感じる外覚世界が時事変化するときの内的な持続、それは時間観念を伴って認識するときなのです。例えば快・不快の自然感情が「自我」を生起するのではなくて、快・不快の誘因が体験として持続しているときです。それ故、時間的過去として其の体験が「自我」を生じさせます。
2013年10月21日
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「直覚霊知」20 人間の本質・覚醒と睡眠(秘学論理) 全て生命を持つものは生命力、言い換えられ得るとしたら生命体である。しかし動物が、ウイルスや植物と違うのは、覚醒と睡眠を繰り返す点にあります。とりわけ人間の創造活動は覚醒時に行われています。しかもその活動は、消耗した力を睡眠から補充しなければ、継続した活動ができません。睡眠中は行動もしないし、通常の思考活動もやめています。人間は眠るときには暗い深みへ沈み込み、睡眠中はすべての、喜怒哀楽は意識の中からは消え去っていきます。しかし、睡眠の没意識状態から目覚めると、どこに居たのかとと思える意識が立ち現れてきます。その意識はその人間の頭にある記憶などではなく、同じ意識なのです。この意識態は睡眠中も極僅かには活動していますが、人間自身はそれを覚醒時のようには認識はしていません。この睡眠の徹底したものに植物があります。植物は常に完全な睡眠状態にいると断言できます。否、植物にも覚醒時の人間や動物と同様に、外界からの刺激を受けたときには、動物と同じような反応を示すことがあるから意識があるとの異論を唱える向きもありましょうが、それは意識について不正確な捉え方をしているからであって、意識そのものを取り違えているのです。例えばモウセンゴケ科ハエトリグサ(Venus Flytrap)属なかでもは昆虫やときには蛙などが葉に止まると、それを閉ざすという行動に出ますが、観察者がその様子を見て、植物には感覚が働いていると語ることもありますが、ある存在が外部の作用によって、単に反応することが意識の特徴ではなく、その反応に対しての内的な体験を持つことが意識なのであって、葉を閉ざすという行動は、実は単に、感応してるだけなのです。もしそうでなければ、人は形状記憶合金が、原型へ戻る動作や鉄の棒が熱せられて延びるときも、意識の働きに帰すことになります。何らかの外部の刺激があったときに内部にその体験を感じた時、その時に初めて意識の存在を語れるのです。
2013年10月21日
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「直覚霊知」19 人間の本質・生命力(秘学論理) 人間精神の内面世界までをも、唯物的に捉え、人間の生命をも化学反応の世界へと引きずり込みかねない状況になった現代、それに異論を唱える学者も無きにしは非ずです。人間存命中の活動が物理・化学反応で済むならば、死後の肉体崩壊も化学反応であり、何ら両者に区別はありません。其れ等を区別するところは、ウイルス、植物、動物を問わず生命が内在することに有ります。逆に言えば、生命のある身体の中には、生命を持たぬ物質の中にはない、特異性が存在するということです。多くの自然学者はそれを生命力と呼称します。其の力を例えれば、丁度、磁力が鉄に対するのと似た仕方で、生命力が物質の素材に、また其の働きに対して作用を及ぼしている間は崩壊を免れていられるとも言えます。人間は進化を経ることに、自然科学を進歩させ、感覚的な観察手段を取り入れて外覚世界を捉えるのを洗練させていきます。一方、人間はその進化の過程で、その都度、人間に本来的に備わっていた、能力を削いできたのです。外覚世界の厳密な観察は、自然科学によって飛躍的に発展を遂げたが、そのためには、ゲーテ言うところの「開示された秘密」である隠された世界へ導く能力を犠牲にして失わしめてきたのです。しかし、民族エゴによる経済成長路線からの環境破壊、人命軽視や宗教観の違いからくるテロが起きている中、此の能力の育成の必要性が再び要請される時代が来ています。「開示された秘密」である隠された世界へ導く能力への育成を「時が来た」と信じ承認されることを望みます。
2013年10月20日
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「直覚霊知」18 人間の本質・唯物的世界(秘学論理) 生命体は生命のない物質と区別されるものですが、そこに霊魂の存在を求め、認めることは誤謬です。唯物論の立場では、生命のある身体でも、そこに見い出せるのは物質存在だけであって、基本的には何ら無生物と変わりがない。単に生物の組織が複雑であるに過ぎないと述べます。生命反応や思考等の精神現象が物質に還元でき、脳科学者は脳生理で精神を語り、精神は化学反応にすぎないとさえ説く学者もいます。他方、唯物論を是認しない自然学者は、当初は、生命、特に人間の身体の中には、物質だけでは捉えられない生命力があると述べます。丁度、磁力が鉄に対して影響するように、生命力が物質の素材やその働きに作用を及ぼすのだと考察していたのですが、現代では其れ等全てを物理科学や化学で説明しようとしています。其のため、物質だけでは捉えられない生命力を主張する科学者は減少傾向にあります。自然科学の進歩は、感覚的な世界について観察手段を飛躍的に洗練させては来ましたが。実はその都度、人間本来の本質的能力、観かたよっては世界に開示されてはいるのだが、通常の外覚的手段によっては見い出しきれない隠された世界を覗く能力を削ぎ、また、失わせてきました。ときには「母親の愛は金で買える」と公言する人物さえ、世間では成功者として尊敬されるといった具合です。自然科学の進歩は、世界について観察手段を飛躍的に洗練させて、我々に情報を提供する一方で、人間の内面世界までをも、唯物的に捉え、人間の生命をも化学反応の世界へと引きずり込みかねない状況になったのが現代の有り様です。
2013年10月19日
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「直覚霊知」17 人間の本質・肉体崩壊に抵抗する存在(秘学論理) 人の生存中は素材である生命を持たない物質界の力に、普通には隠された部分の何が抵抗を遂行しているのか。その対象は外観覚及び内感覚の観察からは逃れており、「直覚霊知」のみがその観察を可能にします。高次の直感へ至る道を学ぶには、初めは単なる知識として取り入れることも重要です。実際のところ、此の分野は単なる知識としても理解することは容易です。そして理解から出発する事こそが良き道なのです。肉体の中で崩壊に抵抗している隠された働きを観察できるのは、「直覚霊知」だけだと言えましょうが、開示された部分しか観察できない通常の判断力でも、人間の素材と力の作用としての形態に現われています。その形態は人間が死に至ると、次第に失われて単なる物質と化しますが、生存中は肉体を崩壊させないように働き掛けている存在、それが霊魂だと言えます。これが生命体を命ならしめています。此の点で釈迦は霊魂があるともないとも断言していませんが、それは仏教では,輪廻を苦しみと考察し、輪廻は自由のない束縛された世界であり,生まれ変わる世界は選択不可であり、それ故の苦からの解放が究極の望みなのです。結局、仏教の目標は,この輪廻の世界を解脱し二度と生まれ変わることのない涅槃、言い換えれば死の平安に到達することでした。ところが、一方で釈迦は全ての生命に「仏性」有りと仏性の存在を認めています。さて此の仏性が「ナニモノ」かと云えば、何かしらの魂的なものを想像させます。釈迦は解答の出ない問題については答えないと、無記(むき)捨置記(しゃちき)の立場をとってはいますが、霊魂があるか若しくは霊魂がないかについても同じです。勿論、それは現代科学でも解明出来ない問題です。ですから人間を道具にした直覚霊知が要請されるのです。
2013年10月18日
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「直覚霊知」16 人間の本質・生と死(秘学論理) 霊魂の認識の觀点から、人間を洞察しようとするなら、先ずは、人間が元来持ち得てるはずの本質としての人間本性に隠されてはいるものの、開示された秘密に心眼を向けなければならない。人の感覚やそれから得られた覚性にとっては、身体である肉体だけが考察の対象とされますが、これは霊魂の認識の世界から言えば、人間が元来持ち得てる筈の本性の一部でしか在り得ません。ここで、その肉体に注目すれば、我々誰もが経験しなければならない誕生と「死」に光を当てる必要に迫られます。そして更には生命のない自然世界である地球構成体にも目を向けなければなりません。人間の肉体を構成する物質体は、地球構成体とともにその素材を共有しているのですが、その区別するところは、人間の本質であるところの人間本性にあります。特に注目すべき点は、人間が死ぬと人間本性の肉体部分は素材を一とする、地球構成体の一部に帰るということです。しかしながら、、死に至らなければ肉体が崩壊することは在り得ません。生命のない物質界と同じ素材で出来ているのに、生きている間は物質を、より高次の存在にならしめる力の源泉が存在するということになります。人間の肉体と素材及びその力は、死が生じた時になって、肉体の形態を解体させますが、それは人間本性に従った結果です。然しながら、気を付けねばならないのは、人間には開示された部分と隠された部分がある事実です。実際、人の生存中は素材である物質界の力に抵抗して人間は肉体の形態を維持し続けています。しかしこの抵抗が止めば、物質界本来の姿が作用し人間の肉体は崩壊し始めます。
2013年10月16日
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「直覚霊知」15 道の認識(秘学論理) 直覚霊知を志すには、先ず、修道する「道」を実践することが、霊魂の認識の真の性質を理解できる正道となる。とはいえ、学ぶ事より「行」こそ先にすべきであろうと思われがちですが、霊魂の世界がみせる諸事実に自己の心の眼(まなこ)を向けることもなく、直覚霊知への参入を志しても、曖昧で混沌とした世界、カオスしか捉えきれません。先ずは、霊魂の認識にについて学ぶ事こそ、暗示的な作用の力によって惑わされることなく、冷静な判断だけを頼りに真理を追求することが出来ると言えます。自分が霊魂の存在に気づかない理由は、今まで自己が経験したことのない、新しさと精妙さを体験する基礎知識に欠けていることが原因だとも言えます。科学者は特定の道具及びその方法を用いて、それをさらに加工することによって自然の真理を探求します。勿論のこと、直覚霊知に参入するにも道具を用いますが、その場合の道具とは人間自身なのです。世界内自然から与えられた人間に与えられた此の遠具を、高次の世界参入に準備する必要があります。初めには「自然世界」から人間の手が加わらない能力を以って、それをより高次の段階の能力に変化させるのです。そのことにより、人間は自分自身を霊魂研究の道具にすることが出来るのです。
2013年10月16日
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「直覚霊知」14 霊魂の領域に没入(秘学論理) 直覚霊知を志す人が、自分を心を向けて、その導きを霊魂の声に従わせていき、それを体験として積み上げていくのは当然であるが、はじめは一種の理想として学び修道する心懸けが必要です。初期には、自分が未だ体験したことのない超覚的な経験内容を情報としてしか受け取れないからです。著者としては、自分が知っていると思う事柄、誕生と死について、霊魂の世界での人間の在り方について述べる。したがって、多くの独断が認識として提示されているように思われるかもしれませんが、直覚霊知で知り得た事柄は、人間の生きた魂の内容となって、その内部で活きています。人が此の霊魂の領域に没入するとき、その事実に至ろうとする衝動に突き動かされます。直覚霊知について思考する時と、外世界の感覚的な諸事象の情報を思考するときとでは、異なる体験が与えられます。感覚的な世界についての情報は、まさに現象を読む即ち解析するのですが、霊魂の世界の事実について、その情報を得ようとするときは、その流れの中に身を置くことになります。その認識の成果を受け取ると同時に、自分自身の内面の道を歩むのです。一般に霊魂の世界への参入が、外覚経験と同じように考えられているので、霊的世界への参入を想わせる体験が、あまりにも思考に依存いるのではないかと批判される向きも無きにしも非ずですが、真に受容する人にとっては、専ら思考内容として受け取ったに過ぎないと思っているにしても、既に、西田幾太郎が説くところの直覚知若しくは霊魂の世界を体験していることを意識して頂きたいのです。
2013年10月15日
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「直覚霊知」13 生命の根本を知る(秘学論理) 直覚霊知が捉える霊魂の認識は、人間の知的好奇心を満足させるだけでなく、生きる上での強さと確かさを与えてくれます。その認識は労働の力と他界することへの自己の精神生活上の平衡化と準備により、人生への信頼を汲み上げてくれる泉となります。一度此の泉を見出した人は、そこへ戻るたびに、必ず慰めと勇気と気力を受け取ることになるでしょう。此のことを不健全だと思い、そのような認識については知ろうともしない人がいます。いわゆる人生を外から、表面的にあらゆる現実が提供するものだけを追求する習慣に慣らされているので、その現実から離れて、瞑想とかそういった類(たぐい)は夢幻的で幻想的なものと見做して、隠された世界の中に救済を求める態度は、その人間の弱さの現れだとしか見ないでしょう。「直覚霊知」を知るための修道或いは瞑想に際して、病的な夢想や現実逃避に陥らないためにも、現実から離れ、夢幻的で幻想的だとの非難を受けることがないように、日頃から理性的な生活を送ることが大切です。「直覚霊知」を知るための修道或いは瞑想は、正しい指導者の教授と方法を行えば、世間離れした人間にも夢想家、所謂、霊視家や霊媒及び霊能者と言われる類(たぐい)の者には成り得ない。逆に、人間の本質や本性の源(みなもと)が霊魂から発していること、生命の根本を知ることによって人間の生命力を強め、霊聖力のたかみへと導きます。
2013年10月14日
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「直覚霊知」12 修養道(秘学論理) 現代科学では可視的事象の世界にあっても認識の限界に突き当たっています。ましてや、不可視の世界となると立ち止まらずを得ません。けれども、別の認識方法をとることが可能だとして、アジアに育った我々は古代インド世界の瞑想を、少なくとも知ってはいます。ゴータマ・シッタルダ(Gotama-Siddhattha)は瞑想によって、人間が感覚だけでは捉えきれない大宇宙に隠された「理」を、霊魂を否定していたとはいえ、自らの心の悟りによって暴き出します。仏教哲学と言われる所以です。釈尊が霊魂を否定するおは「常住」を認めない立場から当然のこと、転生そのものを否定して成仏或いは涅槃を説いたのです。浄土・極楽及び霊魂は、偽経といわれる、より哲学的な大乗を待たなければなりませんでした。釈尊の、その超感覚的な見方を、個人的な見方であり見解に過ぎないと言われる方は、人間に与えられた能力を否定することにもなります。それは学問的に確かな道ではなく、最初は世の不公平を救いたいという我欲から出発して、我執を捨てた処に、固有の道を自ら歩いて、最高の真理を得んがために成したことです。その結果が霊魂の否定だったにしろ、方法論的に「直覚霊知」に近づく修養道としては価値あるものでした。実際、開示された秘密を掴む期待を失くした人間は、時によっては絶望的にならざるを得ない。誕生と死の意味をむやみに恐れるだけで頭に浮かべることさえ避けてしまいます。此れでは人生の意味さえ考究する気力さえ奪われてしまいます。「直覚霊知」は人間の外角的な認識力では掴むことが出来ない、人間の誕生前と死後の霊を、超感覚的に観想することを可能にする方法の一つであると著者は確信します。
2013年10月13日
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「直覚霊知」11 隠されたさ世界(秘学論理) 直覚霊知としての秘学を志す人は、やがて、それ迄持っていた観念や理念と異質な場面に遭遇せざるを得ない状況に立ちます。そして、それ迄の証明についても、自然科学とは異質なものとして捉えることになります。自然科学の場合の証明とは、外から加えられる環境に対してのものとして存在していました。しかし、此の思考法は霊的事実の探求行為にも必要とされますが、この場合は、外から付け加えられる証明は何の意味も持たないでしょう。秘学とは、実は総ての人に霊魂の存在を理解させることにあります。そのための正しい手段を用いれば、誰しも体験出来るはずの過程を明らかにすることに目的があります。直覚霊知は総ての霊魂に光を当てます。それには二つの思考が必要とされるが、不可能性を前提にしたのでは、自分自身の心さえ見えなくなります。霊魂を捉えるには、先ずは、我々が外観角で捉える可視的な世界には、その背後には必ず不可視的な、外感覚的には隠されたさ世界が存在するということ。そして人間の覚醒と睡眠の中間状態としての微睡みを、禅などによって、その能力を高めれば、万人に外感覚的には隠されたさ世界に参入することが可能になることです。対して、そのような隠された世界など存在しない。外感覚的に知覚される世界だけが唯一の世界であって、現代の人間には解明できなくても、世界の方から科学に答えを与えてくれると主張することも、一見には正当にみえます。その一方には、可視的世界には、隠されたさ世界が存在しないという主張は成り立たず、人間の認識力では、世界には超えられない限界がある。その領域は「信仰」の分野であり、科学はそれに取り合わないと決めつけます。さらには、宗教生活に属する人間は、知識の及ばぬ領域の中へ、認識論的な「直覚霊知」などを持ちだして、本来無力な人間が参入するのは不正なことだと感じ取ります。
2013年10月12日
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「直覚霊知」10 霊的事実(秘学論理) 霊的事実は、自然科学の場合とは異なり、霊的事実を観想するための修養を終えた人間の霊魂の活動を通してのみ、知覚されるのであって、その活動なしには人間の知覚の前には決して現れません。よく霊能者が動物霊や背後霊が視得ますと云うのは、当人には見えたとしても、それは御本人の心が魅せる幻想や幻覚の類(たぐい)で、イエスや釈迦が修行中戦ったのは、心が見せる小悪魔だったのです。心身の乱れや生半可な瞑想で、それを霊界の事実と捉えているのです。とはいえ、純真な子供や病人が観る、天使や観音は、一概に幻覚や幻想として済ます訳にはいきません。そのような状態の時は、丁度、覚醒時と睡眠時の状態、微睡みの境地にあり、霊界からの形姿を保った知らせ或いは憐れみからの救いであるかもしれないからです。しかしそれも一時的なもので、大人になったり病状が回復すると起こらなくなります。但し、その方がそれを機にして瞑想の世界に入れば話は別なことも承知おき下さい。
2013年10月11日
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「直覚霊知」9 無我 (秘学論理) 著者が「直覚霊知」を以って外覚的な感覚世界ではなく、非感覚的な人間の内在世界を極めるのに「学」という字を用いたのには理由があります。人間の内在世界の思考である理性の本質である霊魂に関しては、此の大宇宙の理に関しても、自然科学が対象にする外感覚世界を究明する思考方法を持ち込みたいがためです。多くの人達は、宇宙事象の秘されてはいるが「開示された秘密」を、無意識的に瞑想を通した自然現象の導きの糸がなければならないと信じ、そして此の導きの糸が失われるやいなや、空虚さの中を空回りして、霊魂の否定を断定してしまうことになります。それも至極当然のことで、自然に自己が向き合うと云っても、本当のところは自分の自我に没頭する必要があるからです。自我があれば霊魂なぞを見つけること能わずと言うのは宗教家であって、自我があるからこそ、人間が万物の霊長と呼ばれるのです。自我のないところに無我が存在しようがありません。但し、そこにエゴイズム(egoism)が存在してはなりません。その態度は飽くまでも平常心による冷静さを持つことに心懸けねばならず、自我に向き合い、徐々に夢我の境地へ、それから我が有ってこその「無我」の境地に入ります。さすれば、世界自然の方から語りかけてくる音響が心に響くでしょう。それに霊魂を「直覚霊知」を以って共鳴させれば、今まで見えなかった「開示された秘密」の門を開けることきっかけになる筈です。それには先ず人間の自我がどのようにして時代を経て進展してきたのかを、科学的心理学的な立場で考究し、自我の定義を強固にして自我そのものが振れないことが非常に重要な前提となります。
2013年10月10日
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「直覚霊知」8 秘学とは(秘学論理) 秘学論理という言葉を著者は副題として用いています。其れは、これから表す内容に相応しいと考えるからです。しかし、この言葉は現代の世相では、激しい嘲笑或いは憐れみの籠もった微笑と非難、さらには軽蔑さえ呼び起こしかねません。現代科学は、もはや神秘なものなど在り得ないという理由で、秘学という表現は不適正だと主張しかねないでしょう。物理科学が凡そどの様な人にも関わりをもち、備わっている自然の学ではないように、「秘学」の秘も、ある特定の運命の恩寵だけに許された知識ではなく、ゲーテ曰くが如く、此の世界内自然には「開示された秘密」が存在するとするときの、未だ宇宙現象で、外感覚的にだけでは把握され得ないもの、もっと人間の本質に迫る魂的なものを、宗教的にではなく、瞑想と論理で追求することが著者の本意です。そうすれば、誰彼にも開示された秘密の存在を明らかなものとして示すことは出来得ると確信します。なにゆえに大宇宙の存在以前の状態から、コアの爆発を決起として誕生した大宇宙世界の隠された真実を物質面からの追求ではなく、現なる霊の在り方と過去に観る霊の様相を論理的に追求のか。それは、其の存在の隠された真実を確想して現出することにあるからです。人間の受胎以前の真相、誕生から死に至るまでの世界の理法との関わりの在り方、死後の世界の真相は、霊の様相を論理的、学問的な認識の仕方で究め、それを瞑想に利用する攻め方のなかに追求の鍵がある筈です。
2013年10月09日
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「直覚霊知」7 世界の理法(秘学論理) 瞑想状態で世界の理法が観想することが出来るようになると、その内容は音響を伴った表象として再現され、自然の本性が語られます。そこまで高められた霊魂存在である精神を持つ人は、現代人の此の時代の認識とは、まったく異なった我執を離れた意識のあり方を、通常の意味で思考し、世界の理法が見えない人に表現することも必要でしょう。それは直覚霊知出来ない人にも、完全に理解可能なものでなければなりません。中途半端な表現では似非(えせ)宗教家、或いは自称霊能者であるあなたは何かに取り憑かれている占い師とおもわれてしまうでしょう。一方、聴く方の側も誤った自然観に基づく、科学では捉えられない認識の限界さえも認めない姿勢では「直覚霊知」は理解出来得ません。直覚霊知はすべて、自己の内密な体験の中で生じます。もはや、それは、その者の通常の意識さえも、理解力は一般とは凡そ違った高次なものとなっています。その理解力のことを、ただ自分でそう思い込んでいるだけだ、と安易に軽はずみに断定する人は世界内存在の事実をまったく知らないと方と云えます。外感覚的な世界は、概念的にその真偽を判定できるが、瞑想者が獲得した「直覚霊知」は体験した精神問題だからです。しかし、霊知能力がないからといって、とらわれぬ意識を持つ者にとっては、その思考形式を通しての、内容を完全理解することは可能です。芸術家でない人間が、完成した音楽作品や画像に共鳴するのと同様に理解できるはずなのです。
2013年10月08日
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「直覚霊知」6 直覚霊知の語句定義(秘学論理) 遅らばせながら、著者としての私が造語とも云える「直覚霊知」の定義をしていないことに苛立ちを持たれる方もおられると推測して、その基底にあるものを開心します。勿論のこととはいえ、お察しの通り京都銀閣寺を京大に通勤するかたわら、開かれた世界の自然の理法を追求した西田幾太郎の直覚知を母体としております。氏は常に禅寺院で瞑想に耽っておられました。恐らくは、薔薇が花咲かせる音、茎に流れる養分や水の響き、目覚めと眠りの中間とも言える瞑想状態で観想することもあったでしょう。脳を持たない植物、当然に意識もなく世界内の自然に任せて真っ赤な花を開かせる存在には時間を取られたことを察します。おの薔薇がどのように大地に根を張り、葉を次々に拡げ、大輪の花を咲かせるかを心に想い浮かべ、その傍らに自己の存在を表象します。そして自分が薔薇に比して、より完全である本性や能力持っており、人間は意志や感情の赴くままに移動することが出来るが、薔薇は大地に拘束されている。他面、植物を象徴させる薔薇は、純粋に自然の理法に従い、葉を次々と拡げ、太陽光線の恵みによって花を咲かせる。そのように思考する自分を思考するときには、もはや感覚的外覚世界を離れた、純粋な直感力を得ることの出来る叡智である霊魂の存在を見い出します。その叡智である霊魂をもって欲望や衝動及び情熱を純化していけば、今までの感覚世界を離れた物事の本質である本性がみえてきます。山川草木悉有仏性と言うように世界のモノの本性を「直覚して霊知」できるようになるのです。そこには人間の労苦生死を超えた霊界、言い換えれば神界が用意され待ち構えています。
2013年10月06日
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「直覚霊知」5 アリストテレス霊魂論(秘学論理) アリストテレスは最古の心理学書ともいわれている霊魂論、生物と無生物の区別は霊魂の有無にあると主張しています。その霊魂は、栄養的霊魂・感覚霊魂・理性の3つに分けられるとして、生物は生殖し、栄養をとって成長する。もっとも下等な生物である植物も含めて、すべての生物は栄養的霊魂を有している。更に動物は、運動や感覚の能力を獲得している。その基底に存在するのが感覚霊魂であり、加えて人間は思考力の源に理性があり、理性そのものを靈魂視しています。さらに彼は、人間は最も神に近い存在であり、それ自体が永遠の存在である理性を有してるとしていますが、「直覚霊知」を主張する著者は、呼吸をせづ、姿を現す筈もないし、人間が観想するしかない神に霊的なものを観るならば、生命発生にとって重要な太陽及びそれを公転する惑星、なかでも地球と太陽系の衛星中でも5番目に大きい地球の唯一の衛星にも霊的なものを付与できると主張します。通常、人間の霊魂の働きは身体という道具と結び付けられていますが、強化された霊魂は、肉体からも自由となる筈です。しかし、現代人は、此のような主張を自己欺瞞に基づくものとして、たとえ霊の働きがあるにしても、それらは人体の神経構造から成り立っていると考えています。それを人体に依存しない霊魂という主張するのは、浅薄で神懸かりの宗教観と捉えます。物事の本質をみないで、ただ外観だけを見て理解したつもりでいる現代人からすれば、世界理念を瞑想する者は、空想三昧か夢想三昧として誹謗しますが、其れが果たして精神生活上、現代人に相応しいかどうかは疑問でしょう。
2013年10月06日
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2013年10月06日
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「直覚霊知」4 宇宙誕生と生命の謎(秘学論理) 宇宙の始まりは即ち世界創造である。核(Core)の爆発が、繰り返し或いは一回のみで起きたのかは、現代の感覚的な外象科学では見通すことなどは到底不可能でしょう。宇宙内生物である人間の存在様態は、一に人間の肉体様態である物質素材を創り出すビッグバン、次には命あるものに必須の生命様態を産み出す太陽系の太陽とそれを主とした公転する惑星、なかでも水の惑星地球の存在は生命体だけでなく霊的なものを人間に付与しました。それが人間の覚醒意識に根ざす意識様態なのです。現代科学は有機物からの生物発生をまるで蛆がわくように説明していますが、動物の本能に関しては遺伝法則で対処できても、人間の意思に関しては哲学を頼るしか無い現状です。脳科学者の中には化学見地から意思其のものも化学反応だとする学者がおられますが、如何なものでしょう。これは、まるで鉄が熱せられて伸びるのに生命を見ているのと何ら変わりがありません。現代宇宙論では無からが出て、有が無になることを証したと叫んでいますが、無の定義さえ統一しえない外覚的な物理化学では、真の生命の火と人間の本性に隠された使命が闇に閉ざされた儘であるのは致し方ないのしょう。
2013年10月06日
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「旧約聖書」レビ記 第3章・和解の献げ物 3:1もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。 3:2彼はその供え物の頭に手を置き、会見の幕屋の入口で、これをほふらなければならない。そしてアロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。 3:3彼はまたその酬恩祭の犠牲のうちから火祭を主にささげなければならない。すなわち内臓をおおう脂肪と、内臓の上のすべての脂肪、 3:4二つの腎臓とその上の腰のあたりにある脂肪、ならびに腎臓と共にとられる肝臓の上の小葉である。 3:5そしてアロンの子たちは祭壇の上で、火の上のたきぎの上に置いた燔祭の上で、これを焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。 3:6もし彼の供え物が主にささげる酬恩祭の犠牲で、それが羊であるならば、雌雄いずれであっても、全きものをささげなければならない。 3:7もし小羊を供え物としてささげるならば、それを主の前に連れてきて、 3:8その供え物の頭に手を置き、それを会見の幕屋の前で、ほふらなければならない。そしてアロンの子たちはその血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。 3:9彼はその酬恩祭の犠牲のうちから、火祭を主にささげなければならない。すなわちその脂肪、背骨に接して切り取る脂尾の全部、内臓をおおう脂肪と内臓の上のすべての脂肪、 3:10二つの腎臓とその上の腰のあたりにある脂肪、ならびに腎臓と共に取られる肝臓の上の小葉である。 3:11祭司はこれを祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる食物である。 3:12もし彼の供え物が、やぎであるならば、それを主の前に連れてきて、 3:13その頭に手を置き、それを会見の幕屋の前で、ほふらなければならない。そしてアロンの子たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。 3:14彼はまたそのうちから供え物を取り、火祭として主にささげなければならない。すなわち内臓をおおう脂肪と内臓の上のすべての脂肪、 3:15二つの腎臓とその上の腰のあたりにある脂肪、ならびに腎臓と共に取られる肝臓の上の小葉である。 3:16祭司はこれを祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭としてささげる食物であって、香ばしいかおりである。脂肪はみな主に帰すべきものである。 3:17あなたがたは脂肪と血とをいっさい食べてはならない。これはあなたがたが、すべてその住む所で、代々守るべき永久の定めである』」。 より新しい旧約聖書では、第3章第1節が、献げ物を和解の献げ物とするときは、牛であれば、雄であれ雌であれ、無傷の牛を主にささげる。訳されていますが、和解の献げ物とは、神の恵みに感謝する、あるいは神が罪を赦し和解して下さったことに対する応答として捧げられるとの解釈もみられますが、そもそも和解とは、当事者間に存在する争いについて、当事者が互いに譲歩し、争いを止める合意をすることをいうのですから、神と対等でない人間が主と和解することには無理があります。和解契約が成立するためには、当事者間に争いが存在すること及び当事者が互いに譲歩することであり、争いを解決する合意をすることですから、和解は人間関係の問題であり、和解は神の裁断への感謝です。それを奉納者と創造者と仲介する祭司の三者が食事をともにして、完全で調和のある平安なひとときを過ごすということでしょう。雌の家畜でもいい、それ以上に脂肪などの部分しか燃やさないことが特徴。大体のところは燔祭と同様ですが、雌の家畜でもいいこと、それ以上に、脂肪などの部分しか燃やさないことが特徴です。残りがレビ族の祭司と奉納者の食べる分となります。詩篇50:12-13にある通り、たとえ飢えることがあろうともお前に言いはしない。世界とそこに満ちているものはすべてわたしのものだ。わたしが雄牛の肉を食い雄山羊の血を飲むとでも言うのかの言質からも解かるように、アロンの子らである祭司たちへの主のはからいなのだと推し量れますが、イスラエルの12氏族の民にあっての祭司職レビ一族の特殊性は際立っています。
2013年10月05日
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「旧約聖書」レビ記 第2章・契約の塩 2:1人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、 2:2これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。 2:3素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。 2:4あなたが、もし天火で焼いたものを素祭としてささげるならば、それは麦粉に油を混ぜて作った種入れぬ菓子、または油を塗った種入れぬ煎餅でなければならない。 2:5あなたの供え物が、もし、平鍋で焼いた素祭であるならば、それは麦粉に油を混ぜて作った種入れぬものでなければならない。 2:6あなたはそれを細かく砕き、その上に油を注がなければならない。これは素祭である。 2:7あなたの供え物が、もし深鍋で煮た素祭であるならば、麦粉に油を混ぜて作らなければならない。 2:8あなたはこれらの物で作った素祭を、主に携えて行かなければならない。それを祭司に渡すならば、祭司はそれを祭壇に携えて行き、 2:9その素祭のうちから記念の分を取って、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。 2:10素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは、主の火祭のいと聖なる物である。 2:11あなたがたが主にささげる素祭は、すべて種を入れて作ってはならない。パン種も蜜も、すべて主にささげる火祭として焼いてはならないからである。 2:12ただし、初穂の供え物としては、これらを主にささげることができる。しかし香ばしいかおりとして祭壇にささげてはならない。 2:13あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。 2:14もしあなたが初穂の素祭を主にささげるならば、火で穂を焼いたもの、新穀の砕いたものを、あなたの初穂の素祭としてささげなければならない。 2:15あなたはそれに油を加え、その上に乳香を置かなければならない。これは素祭である。 2:16祭司は、その砕いた物およびその油のうちから記念の分を取って、乳香の全部と共に焼かなければならない。これは主にささげる火祭である。 先ずは素祭ですが、此れは神に捧げる穀物です。エバ(命)の子、土を耕す者カインと弟アベルの供え物を思い出させますが、イスラエルにおいては、パンとミルクが常用食であり、肉は貴重な食べ物だったのです。肉を献げる燔祭は奉献者の献身を象徴し、穀物を捧げることは、神の賜物である収穫に対する感謝でした。奉納者は、ここでは上等のと強調して、その小麦粉を献げ物として、それにオリーブオイルを注ぎ、乳香(フランキンセンス)という香料をのせます。乳香は紀元前40世紀にはエジプトの墳墓からも埋葬品として発掘されている樹脂で、その名は空気に触れて固化すると乳白色になることに由来します。かつては同じ重さの金と取引されたこともあるというしろものです。これを受け取った祭司は、オリーブオイルのかかった小麦粉から一つかみと、乳香全部を、祭壇で燃やします。小麦粉のままではなく、パンにするなど調理して奉納することもありました。そのパンですが決して酵母を入れて作ってはならないとされます。酵母は発酵により、パンを膨らませる。それは腐敗であり、よこしまであるから、避けろという訳です。蜜のたぐいのほうは、恐らく、群れをなす昆虫はすべて汚らわしいものだからでしょう。それらの穀物の献げ物には、全て塩を用いて捧げよと命じているのは、塩は腐敗を防ぐ。そのように神の約束は腐敗して守られなくなることはないということからきています。塩漬けにした肉は腐らないというわけですが、だといって穀物野菜を漬物にしたらどやされる程度では済まないでしょう。ここでは、塩が神との契約を代表していると言っています。
2013年10月04日
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「直覚霊知」3(秘学論理)ギリシャ文明に観る直覚霊知 インド古代文明圏からエジプト、ペルシャを経て、それとは全く異相の状況が、南ヨーロッパや西アジアに大輪の花を咲かせます。それがギリシャ・ラテン文明です。一際此の時代の古代ギリシャは他の文明とは異質であり、かってのアトランティスの末裔だとも囁かれます。万物のアルケーは水であるとした哲学の祖タレスは言うに及ばず、哲学の大天才ヘラクレイトスが万物は流転する、万物は一である、一から万物が生まれると述べているのは、彼等が比較的容易に宇宙の或いは世界の理りを直覚霊知によって獲得できたからです。即ち、見霊能力を自然世界から、修業によって直覚霊知を得て、その遺産を受け継いだのかも知れません。此の当時の古代ギリシャ人は、我々現代人の感覚世界と異質な形式で世界を霊的に観相する才能があったのでしょう。其の例としては、ギリシャ芸術の見事な表現です。古代ギリシャは感覚的な世界に完全な形式を以って、霊的なものを、物質的外覚なものにして表現する直覚霊知を獲得していました。そのことは、現代にも残されているギリシャ神殿を観察しさえすれば解かります。すなわち感覚世界の中に、完全といえる形式を以って霊的なものを物質的なものとして表現しています。我々がギリシャ神殿の代表的な存在であるパルテノン神殿(Parthenon)を精神の眼である魂、直覚霊知で捉えれば、その偉大な芸術創造の建造物が、建造者の手で感覚的であり素材的なものが作り替えられて、どの部分も霊的表現を表しているのは誰しも認めぬわけにはいかないでしょう。直覚霊知でその形式に見出すのは、霊眼でしか観られない「神々の家」の表現です。
2013年10月02日
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「閑話休題」禁断の林檎3 ルツッイフェルの誘惑が、結果的に人間に恐怖を植え付けたにせよ、その恐怖の根源にいるのはルツッイフェルとは別存在の霊的存在、人間の恐怖を利用して、甘言をもって人間の自我の崩壊と霊魂の取り入れ己の増幅を図る、云わばゲーテの魔導書のメフィストフェレス的な低次の悪霊です。とはいえ、アダムとエバが今まで盲目的・受動的に帰依してきたのを、今は自分達自身で自由な決断が出来るのは、ルツッイフェルの影響あってこそと言えましょう。恐怖と狂気等は、人間が自由を獲得した随伴現象とも言えます。やがてそれらの感情が子々孫々へと繋がり、外感覚重視の人間を産み、内省型で自己の霊魂を直覚して世界(大宇宙)の音響を魂に響かせるのは、古代インドの七賢人(七佛)のうちの一人である釈尊などには見受けられます。その釈尊は覚醒と睡眠の中間状態に自分を置き、外感覚を停止させて無我の境地から、霊魂の存在を観想していたのではないかと想われます。それ故に生きとし生けるもの全てに霊の存在、例えば人間の食べる植物にさえ霊的な存在を観ています。西洋では此の存在を近世否定されるまではエーテル体と呼称していました。現代科学の飛躍的発展は、人間をますます外覚的世界にのみ眼を向けさせて、内心の霊魂の上位の自我さえ否定しで、化学反応で脳活動を説明できるという学者さえ生み出します。それに伴い一般人も死を無闇に恐怖することになり、逆に攻撃的性格を助長しています。大光霊である神は此のことを予見していて、大天使ルツッイフェルを堕天使としたのかもしれません。カースト制度下の古代インド人は死を恐れるのではなく、転生を恐れていました。釈尊は自分が涅槃に入ることで多くの人々の苦界を救ったのです。
2013年10月02日
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「閑話休題」禁断の林檎2 創造者のエデンの園でルツッイフェルが、エバに巧言、勿論のこと内心への問いかけを以って、禁断の知恵の実の林檎を食べさせます。此れを大光霊の神の目線を離れて、最も狡猾とされる蛇と呼ばれたルツッイフェルの思慮から考慮すると、それまでエデンの園を家畜同様に内面生活が無いままに、永遠の寿命を与えられていたアダムとエバが、本当に至極の幸福がなのかどうかを検討したのでしょう。彼或いは彼女である大天使ルツッイフェルは、人間が霊魂を受け入れ自我を発展させる将来性を鑑みて、泥から創造されたアダムとその肋骨から造られたエバに、限りある肉体生命の換わりに、様々な感情や情緒、とりわけ永久的な霊魂と自我を吹き込みます。それまでの彼等は、大光霊の存在の意図に従って仕事も生活も送ってきたが、何をなすべきかは、すべて予め定められていて、将来どのようになるかも大光霊たる神に予見されていました。だが、ルツッイフェルの行動によって感情や情緒及び外感覚に影響される自我によって、大光霊たる神がヴェールに覆われ隠されてしまいます。その時、未来は予見されるものではなく、不確かなものとなりました。その予測の誤謬が人間に恐怖を植え付ける結果となります。
2013年10月01日
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