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「時間」を紐解く(50)形而上哲学-時間観(二)ブロード2 ブロードの見解では、現在は過去時の存在の蓄積の総量であり、これまでに起こった出来事の合計量であるとします。それ故、新たな過去の存在の蓄積こそが、新たに「先端としての現在」を出現させるのだから、蓄積したものと蓄積しつつあるもののみが実在性を持ち、「先端としての現在」の更なる先である未来は、未来である限り、無というよりは未だない「虚無」であろう。未来は現在の存在に対応する事実も其れに反する事実も、そのいずれの事実も存在して居ないのだから、真偽を問うどころか何ものも存在しない。しかし、過去や現在には事実が存在するので、真であるか偽であるか、全ての事象が、ある属性を持つか持たないかのどちらかである排中律が成り立っています。また時間としての同一属性の連続性があります。未来は、未だにどんな事実も存在してないのだから未来言明には排中律が成り立ちません。
2013年04月30日
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「時間」を紐解く(50)形而上哲学-時間観(一)ブロード1 チャーリー・ダンバー・ブロード(1887-1971)は、三位一体神学系カレッジ(ケンブリッジ)と、ほぼ彼の人生との関わりを持った英国の哲学者です。彼の初期に関係していたのは科学と数学でした。これらに成功していることにもかかわらず、彼は、決して一流の科学者でないとの思いに至って、哲学の方を向きます。その分野は非常に広範囲です。スペース、時間と原因の性質にとって、彼は哲学の鋭敏さを心身問題、認識の性質、記憶、自己反省と、意識不明のものに捧げます。更には広範囲に、可能性と誘導の原理、倫理、哲学の歴史と宗教の原理について書きました。過去の偉大な哲学者から離れて、彼に影響を与えた哲学者は、ケンブリッジ、ラッセルとムーアと時間の非実在を説いたJ. M. E.マクタガートとW. E.ジョンソンです。生涯結婚はせずに同性愛を貫いています。そのブロードが「マクタガード哲学の研究」という著書でマクタガートの形而上哲学の解釈と批判を語ります。そのブロードが「科学的思考」に記した時間についての見解は「存在と本性」にて取り上げられています。マクタガート自身は、過去・現在・未来の三世の「時間」を悉く非実在と断定しているのに対して、ブロードは、過去と現在の実在性は否定出来ないとして認め、未来だけは全く未だに来ない世界であり、全くの「無」だと主張します。それ故、過去と現在とは大きな隔たりというよりは断絶を主張しています。
2013年04月29日
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「時間」を紐解く(49)仏教哲学-時間観(二十)華厳経2 華厳経の十世隔法異成門を紐解けば、過去を振り返ってその出来事をみれば、今振り返っている現在の出来事に、切り離しがたく繋がっている。過去を遠く眺めて想い出せば、出来事である因が、次々に結果であり、またまた因と成っている。即ち、過去の因の中に振り返っている現在の結果は種子として潜在化している。つまりは、過去が現在と未来の出来事の原因となって結果を出している。過去が現在と未来を自からの内に含んで潜在化させている。もしも、過去・未来・現在の三世に、それぞれに於いて過去、未来、および現在が無ければ時間は孤立してしまって崩壊する。更には、同様に、過去と未来を一つにして現在と対比させても同じ結論に導かれる。当然に、過去と現在をグループ化して未来と対比させても同様である。此処に過去・未来・現在の三世は溶解して、ただ一つの包括的な一つの総括的時間存在が出現する。「時間」は「ことば」持つ人間の鋳型であり、他の生物には人間が見る様な時相は存在しない。ゴキブリがホウ酸団子を食べることを時間的に過去を振り返って記憶するとは思えない。但し、本能として学習することは有り得ると思うが。カントによれば、時間および空間は人間の直観の先験的形式であり、外的現象に適用される空間は、外的印象を並列的に受け取る外的直観の先験的形式であり、これに対し一切の現象に適用される時間は、内的状態を継時的に受け取る人間の内的直観の先験的形式であるとしていますから。
2013年04月28日
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「時間」を紐解く(49)仏教哲学-時間観(二十)華厳経1 龍樹と同じ大乗仏教に立ちながら、時間に関して真っ向反対の立場にあるのが、インドで伝えられてきた様々な経典が、3世紀頃の中央アジア(西域)でまとめられた華厳経の十世隔法異成門です。龍樹が「時間」を流れるどころか静止さえ儘ならない本質さえ持たない実在非ざるモノで、歴史さえ変化・変遷の単なる標しであり、人間の表象における仮想として現れるとするのに対して、華厳経の十世隔法異成門では、過去・未来・現在の三世にはそれぞれに於いて過去、未来、および現在があり、現在がたとえ時間の中では特異なものとして在るとしても、過去にはその現在が現在で有ったのであり、その現在にも過去及び未来が有る。当然に過去にも、その時点の現在は過去であった時点を持ち、未来の時点を持つ。未来はというと過去・現在を因として成立するのであるから、その時点の現在は過去であった時点を持ち、未来の時点を持つ。過去・未来・現在の三世にそれぞれ過去、未来、および現在が働きとしての変化を齎すのであるから其々の時世は九世となる。しかも、この九世が互いに即応し、入り混じり合うことから、それによってただ一つの包括的な一つの総括的時間存在が出現する。それ故、これらの総括的表現と個別的表現とを合わせて十世となるとします。此のことは、同時に顕現して縁起を成り立たせるから、即応し入りあうことができる。即ち、「流動する現在、時間線で観れば、各時間線を移動して行く運動および変化と捉えている様に見受けられます。此処に時間を縁起としては捉えない龍樹と、過去・未来・現在の三世を縁起を成り立つとする華厳経の時間観の際立つ違いがあります。但し、竜樹は得意の三者問破でその矛盾を暴いて見せます。
2013年04月27日
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「時間」を紐解く(48)仏教哲学-時間観(十九)ナーガールジュナの17 龍樹の云う「今去りつつあるものが去る」を得意の背理法で否定していますが、「今」を現在に、「去りつつあるを」現在に、「ものが去る」を現在に置き換えれば、「現在・現在・現在が去りつつある」となり、竜樹の論法は「現在」を三度も使用しています。「現在」が三つも有るはずもないのにセンテンスを区切ることは許さず、帰謬法を得意として、過度に縁起と帰謬法に拘りがみられます。つまりは因果の有為を否定するがための論法とも取れます。宇宙は膨張するにせよ収縮するにせよ、内部には変化を齎している筈です。正覚者である釈迦を敬礼する常住を認めない竜樹の立場からすれば、知るにせよ知らないにせよ、神でさえ絶対的なものではなく、従がって、宇宙のエントロピーとしての崩壊や再生は当然であり、空間や時間も其れを免れ得ません。ところが、縁起として成り立つところの根源である「空」は、言い換えると「仏」は根底で「有無」を超えた次元に在りとしています。しかし、その「空」さえも執着として投げ捨てることを求めることは、我々が覚りを得る以外にはありえない困難なことでしょう。
2013年04月26日
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「時間」を紐解く(47)仏教哲学-時間観(十八)ナーガールジュナの16 龍樹は、現在今まさに去りつつある「去る作用」による働きによる動きはと云うと、「今去りつつあるものが+去る」と云うのを、「今去りつつあるもの」が如何にしてまた「去る作用」を必要とするのかと、二重の去る作用の矛盾をついていますが、それ程「今去りつつあるもの」が「去る」と言うことは非常識で成り立たないものでしょうか。ここで「もの」を現在に置き換えてみましょう。「今去りつつある(現在)が+去る」となりますが、此の言回しには少々難があります。竜樹は現在を去るものと決めつけていますが、「来りて+現在あるものが+去る」とすれば、何の矛盾も見出せません。但し、竜樹の時間観からすれば、過去時も未来時も無い、時間軸上で動きようのない寸止めの現在を瞬間としても捉えてはいません。つまりは、過去時・現在時・未来時を全否定している訳です。それは等質的な「時間」に縁起する相対の対象が見いだせないと考えているようですが、等質的なものは此の世界には、もう一つ「空間」があります。空間と時間が縁起するのであれば、たとえ時間が人間の仮象であろうとなかろうと理法としては成り立ちます。それとも竜樹は自己が占めている位置さえ否定しようとしているのでしょうか。
2013年04月25日
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2013年04月24日
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「時間」を紐解く(46)神学系哲学-時間観(十三)スピノザの7 「現在」だけは我々人間との関係を変えることなく、瞬間の現在である今、この我々の居る時点が、常に「現在」としての原点として在り続けます。此のいつも変わらない永遠であること、即ち、恒常性が概念領域として浮かんできます。過去は既に過ぎ去って、既存在であって現在には存在を失っており、未来は未存在であって未だやって来ることが無い未知の世界である。「現在」こそが、我が心に、ありありと真の存在として有る。過去や未来とは異なり、本物性が現在には備わっている。此の現在の概念が本物性を納得させる力を持たせています。此の「特異点としての現在」こそが存在の領域の中に在りながら、時間の影響を受けない真の姿「永遠」、所謂「神」や「絶対創造者」の「永遠の現在」を現わしています。
2013年04月24日
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「時間」を紐解く(45)神学系哲学-時間観(十二)スピノザの6 スピノザを始め、哲学として時間的な存在領域を云う「永遠の現在及び今と瞬間」と云う表現は頻繁に出てきますが、それは、時間的な存在の領域である表象としての、人間の仮象を通しての無時間的な存在の領域を真影として見ようとする表現です。まず、「永遠の現在」とはビッグバン以来宇宙が何百億年もの間存在し続け、現在の状態がいつまでも続くという、それは、現在の状態が終わることなくいつまでも続いていく意味ではありません。時間的な継続が永遠に続くという永続ではあっても「永遠の現在」ではありません。更には、世界の真理や法則、所謂、無時間的な理法としての在り方とも異なります。世界の真理や法則は世界存在としては有るものの、時間的な実在として有るのではなく、ただ、世界の在り方、即ち、成立して在る理法だからです。「永遠の現在」という表現は時間的に存在するものから、無時間的に存在するものへの接点として「現在」を繋がらせる、哲学としては苦肉の表現です。過去は次第に遠ざかり、未来は迫り来て、人間と世界の関係を絶えず変化させています。だが、「現在」だけは我々人間との関係を変えることなく、今、瞬間の現在いる時点は常に「現在」として在ります。即ち、現在こそが原点として在り続けます。
2013年04月23日
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「時間」を紐解く(44)物理科学-時間観(2)アインシュタイン1 哲学者の時間論がまわりくどく感じるのは、時間については相当頭を絞って言葉を選ばないとその本質を理解させることが出来ないからと云えます。できないからだ。あえて、独断に満ち満ちた発言をするのは、過去・現在・未来という時間の流れ、それは実は、意識の持続というきわめて個人的な契機、言い換えれば自己の表象に過ぎないが、意識とつながることによって、仮想的な時間概念を獲得するというのが多くの哲学者の時間論でしょう。。しかし、こうした仮想的な時間概念が意識と連動して存在するということについては、ベルクソンが「時間と自由」で指摘しています。て、こうした仮想的な時間概念は物理科学の発展とあいまってさらにその力を得ますが、それとともに、人々は時間に関する正しい認識から大きく外れていってしまうことにもなります。但し、物理学は別である。そこには、空間を測る定規と同じような時間の定規がある。しかしそこには、時間は存在しない。その時間と空間を同じ位相にありとし、それらは互いに影響を及ぼすことについて理論を提示したのがアインシュタイン(Einstein)である。影響を及ぼすことができるということは、同じ位相にあるからで、空間と独立な時間などはありえないとします。科学はもはや自然哲学を脱したという科学者も多いが、最先端の物理学は、常に哲学的問題に向き合っている。振動であり粒子である存在とは、観察されたことのない宇宙の始まりに対する哲学的考察。これこそ自然哲学である。さらに、生命というものは未だに捉える事が出来ていません。それは、科学的な実証主義によって明らかにされることにはなるものでしょうが、いまは見通しがつかないのが現状です。
2013年04月22日
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「時間」を紐解く(43)神学系哲学-時間観(十一)スピノザの5 スピノザの形而上学にあっては、デカルト同様、原因と結果との間に論理的必然性の関係を打ち立てようとする態度が見いだされ、継続の諸関係を人間の思考に与え、人間内属の持続活動を廃止して、外見上の因果性を根本的同一性に取り替えようとする意図が見受けられます。スピノザは、諸現象の系列が、我々人間にとっては時間の中での形式、言い替えれば持続及び継起という形態をとるにしても、絶対存在にあっては神の単一性を現わしているに過ぎないと述べます。また、スピノザに於いては「現在」が二度登場し、一方では、現象間の外見上の因果性の関係は絶対者に於いては同一性の関係「神の絶対存在としての現在」に帰着し、他方では、事物の無限の持続は、永遠と云う唯一の瞬間「神の瞬間、永遠の今」の内に丸ごと収容されると想定しています。
2013年04月21日
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「悪女列伝」呂后 「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる漢の高祖劉邦の皇后である呂雉(りょち、紀元前180年没)は、漢王朝を興した劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれ、死後は高后(高皇后)と謚名されます。呂后は劉邦が沛県泗水の亭長だった頃に嫁ぎ、一男一女をもうけ、懸命に子供たちを育てた。楚漢戦争が激化すると、夫劉邦は負け続け、呂后が項羽の人質にされたり、子捨て事件が起こったりと、不甲斐ない夫の姿を見続け、劉邦が項羽を滅ぼして皇帝となると、呂后は皇后に立てられるのもつかの間、劉邦は大勢の妾に現を抜かし、ついには呂后の子を廃して、寵妾の子を皇太子に立てようとまでした事で、堪忍袋の緒が切れてしまったのか、劉邦が崩?して劉盈(恵帝)が即位するとは、劉邦の功臣たちを次々と粛清し、後継を巡る争いの有力なライバルであった斉王劉肥・趙王劉如意を殺害。呂后は皇太后としてその後見となり、加えて、自らの地位をより強固なものにするため、張耳の息子張敖と魯元公主の娘(恵帝の姪に当たる)を恵帝の皇后(張皇后)に立てます。だが、高祖の後継を巡る争いは根深く尾を引いており、恵帝即位後も間もない頃に、呂后は恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王劉肥、趙王劉如意の殺害を企てています。斉王暗殺は恵帝によって失敗するものの、趙王とその生母戚夫人(せきふじん)を奴隷に落とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳と声をつぶし、その後、生きたまま便所に置いて人?(人豚)と呼ばせたと史書にはあります。当時の酷刑・拷問の技術は高く、徹底的な止血がされる為、人は死なない。なお、古代中国の厠は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中には豚を飼育して上から落ちてくる糞尿の始末をさせていた。厠内で豚を飼育することが通例であったことから、戚氏をこの豚のように扱ったと思われます。ところが一方、実は呂后が治めていた治世中、民の安寧の為、呂后が外征や宮殿の造営などを減らし、恩赦を施したり、凶作の土地の税を軽減するなどしたため、民は平和に生活していました。このあたりは、単なる毒婦であった夏の妹喜(ばっき)や殷の妲己(だっき)とは一線を画します。
2013年04月20日
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「時間」を紐解く(42)自然哲学-時間観(七)デカルト1 デカルトは、因果性の関係が必然的であるのは曲線が漸近線に限りなく近づくようにそれが同一性の関係に無限に近づくと云う意味においてであるとし、此の同一性の原理こそが、我々の自我の同一性の持続を意識させる根本原理だと述べていると考えられます。其の原理とは、思考されるものは、その思考の瞬間に思考される、未来を現在と切り離した状態にあって、只管(ひたすら)に現在と現在が結び合うところにある。因果性の原理とは未来を現在に結び付ける限りに有って、決して必然的原理であるとの形式を纏わない。何故なら、現実の時間の継起的な瞬間は相互に連帯しているわけではなく、同一の先行条件が常に同一の帰結へ導くとは限らない。デカルトは、物理的世界の法則性、また同じ諸結果の継続性を、絶えず更新される神の摂理の恩寵に帰し、持続とは記憶であり、現在は過去を自分のなかに保存し、そのイメージを蓄積する。云わば、持続が現在の瞬間の中に全面的に収容される宇宙・世界を構築しています。必然的結合という意味に解された因果性の原理は持続の観念にのみ有り、世界の方には時間は実在しない瞬間的な自然学を主張します。
2013年04月19日
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「時間」を紐解く(42)仏教哲学-時間観(十七)ナーガールジュナの15 ナーガールジュナは、こと理法に関しては、なんでもかんでも縁起として説いているので、ナーガールジュナの思想は「始めに縁起ありき」であるとする識者もいます。しかし、ナーガールジュナはどこにも、まず縁起があって、それから、すべてが現出するとは、どこでも説いていません。「始め」とか「最初」という概念そのものが、縁起を否定するものとしています。「初めがある」という主張は、原因や条件なしに事象があることを意味するからです。此れは初期仏教の頃から一貫して、「始め」の概念は因果関係・縁起を否定するものとして認められることはありませんでした。世界とか存在に関する「始め」とか「最初」という言葉ははなはだ非仏教的で時間観念を持ち込んだ概念と言えます。仏陀に「死後の世界はあるか」とか「世界は永遠であるか」とかなど問えば、「わたしが説かないことは説かないことと了解せよ」と人間の経験的知識の領域を越えるものとして、それらについては語ることは避けました。言い換えれば「世界の始め」とか「無限の世界」という、形而上学的存在に関しては語らずというのが仏教の真髄なのでしょう。したがって、すべては縁起してあるというナーガールジュナの主張も、「初めから」という意味ではなく、「見渡す限り」或いは「世界」に在ってはという意味における主張と解すべきであり、縁起自体を考究することも執着として切り捨てています。
2013年04月18日
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「時間」を紐解く(41)仏教哲学-時間観(十六)ナーガールジュナの14 「時の考察」の章のなかで、「過去」が「現在・未来」に依存しているという論証のすぐ後、ナーガールジュナが特別に空間についても説いています。「過去が現在・未来に依存しているという論証の例によって、順次に、残りの二つの時期(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。」この「上・下・中」が空間に相当すると考えられます。したがって、時間が「過去・現在・未来」という事象の先後関係として理解されるように、空間も「上・下・中」あるいは「左・右」などの物の位置関係として理解すべきだと説いているのでしょう。ナーガールジュナが「上・下・中」を皆同様に解すべきだという空間論は、「上・下」「右・左」は独立した別々の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。それらは依存関係(縁起)を示している。「上下・左右」の位置関係そのものも、事物に依存して縁起しているから、事物がなければ空間もない。その空間が依存しているところの事物さえも、それ自体では成立しているのではなく他に依存している。即ち空間はさまざまな「モノ」の縁起によって成立している。結論として、時間とは「先後関係」のことであり、空間とは「位置関係」のことであって、時間や空間は事物の背景として実在するものではなく、事物の間にある先後関係や位置関係そのものにすぎないというのが、ナーガールジュナの時間論・空間論です。したがって、「時の流れ」というようなものをナーガールジュナは認めていません。
2013年04月17日
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「時間」を紐解く(40)仏教哲学-時間観(十五)ナーガールジュナの13 ナーガールジュナの時間論は、インドでは時間を流れとしてではなく、過去・現在・未来の「三つの時」として理解されていた事実が、彼の縁起説(無自性)にとって非常に都合のよいものとなります。仮に「時」が自性(有)していることを認めれば、ものの自性は常住していることになりますから、過去・現在・未来はそれぞれまったく区分別の事象を指しているのか、それとも同一の事象を指しているのかという問題になります。もし、それぞれが同じものを指しているとすると、過去も現在も未来の三区分が溶解して、その区別がなくなってしまいます。他方、それぞれがまったく独立した事象であるとすると、明らかに認められる過去と現在と未来の関係が全く離れ、断絶されて解き難い矛盾を抱えます。また時間が縁起に縁ってあるのであるならば、相対する「モノ」が無いのにどうして時間が縁起するのか。しかるに、相対する「モノ」は存在しない。ナーガールジュナの結論は「時間は自性としては存在していない」つまりはそれ自体では実在しないことになります。「モノ」から離れては時間は存在しないというのがナーガールジュナの語る時間です。
2013年04月16日
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「時間」を紐解く(39)仏教哲学-時間観(十四)ナーガールジュナの12 現在が過去に影響を受けるためには、現在と過去とが重なり会うある接点が必要になる。一般には動いているものは瞬間には止まっている若しくは止まっているように見えると考えられる。実際、高速度撮影の写真の飛んでいる鳥は空中で止まっているように見えます。しかし、この写真は飛ぶ鳥の瞬間の映像を捕らえたわけではなく、わずかであるが、シャッターが開いてから閉じるまでの時間移動した鳥の重ね撮りを撮影しているにすぎません。静止画像のように見えるのは移動の距離がわずかなので重ね撮りのように見えない訳です。実際、飛ぶ鳥の瞬間をとらえるためには、シャッターは開くと同時に閉じていなくてはならない。シャッターが開くと同時に閉じるということは矛盾していて不可能です。したがって、瞬間というものは定めることができない。運動している物体の瞬間の映像を捕らえることは過去から現在への移動の接点、瞬間ではあるが、その瞬間は必然的に矛盾を抱えています。このように動きや時間の経過を考えるときに、時間には解き難い矛盾が存在している。これは、時間に限った問題ではなく、実数についてもいえる。実数には次の数というものがない。どこまで近づいても、その間に数を挟むことができるので、アキレスと亀のパラドックスのようなものが発生してしまう。これについて数学的にではなく哲学的に解決したのがベルグソンです。
2013年04月15日
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「時間」を紐解く(38)仏教哲学-時間観(十三)ナーガールジュナの11 龍樹が第19章「時間の考察」で5時住不可得 時去亦叵得 時若不可得 云何説時相 6因物故有時 離物何有時 物尚無所有 何況當有時と答えるその反対の問いの偈、「問うて曰く、歳月日及び須臾(ほんの少しの間)等の差別有るが如きの故に、時有りと知る」のに対しての前述の偈の読み下し文は、時は住するも不可得なり、時は去るも亦得叵(がた)し、時が若し不可得ならば、云何んが時相を説かん。物に因るが故に時有らば、物を離るれば何ぞ時有らん、物すら所有無し、何ぞ況や当に時有るべき。即ち、時が若し住じせざれば、応に得可からず。此れを紐解くと過去は認識した時点では、最早無くなって存在しないし、未来は、未だ存在しないので、認識することは出来ない。過去と未来も共に「無い」非存在の時である。其の様に三つの時に区分された部分としての現在など、「無い」非存在の過去時と「無い」非存在の未来時との境界線としての現在の有り様がない。即ち、過去・現在・未来の時間の区分さえ出来得ず、時の去ることばかりでなく、過去・現在・未来の時間の区分は実在ではなく虚妄だと断言します。
2013年04月14日
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2013年04月13日
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「時間」を紐解く(37)仏教哲学-時間観(十二)ナーガールジュナの10 龍樹が第19章の「時間の考察」「4以如是義故 則知余二時 上中下一異 是等法皆無」のなかで上・中・下など、龍樹が上・中・下等と多数性などを解すべきであるとしているのは時間と極めて関係が深いとみられる空間を意識している。そこでは空間の一部を占める空間を上・中・下の区間とし、此の偈が上・中・下の空間に関しても適用できるものかを検討してみたい。上と中が下に存在していれば下は中と上に影響することができる。ところが、上と中は下ではないのでそれが下に存在するというのは矛盾する。一方、上と中が下に存在していなければ、下は存在していないものに影響することはできないので、上と中に影響することができず、上と中は存在しないことになる。上と中が下に存在しても存在しなくても矛盾が起きるというジレンマが見られる。此処では空間を上方の空間・中間の空間・下方の空間を区間として区別などは人間の表象であり空間には区間としての区別などは無いと説いていると取れます。事実、実際には空間の捉え方は大宇宙から見れば上中下の意味は無く、渡り鳥や渡りの蝶(Danaus plexippus)には空間の捉え方が人間の観想とは違っているのでしょうが、その真意ははかりかねます。偈の通りに受け止めれば、空間さえ人間の仮象だと説いているのでしょうか。
2013年04月13日
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「時間」を紐解く(36)仏教哲学-時間観(十一)ナーガールジュナの9 龍樹が中論のなかで実際に行った説一切有部への時間実在論に対する反論第19章の「時間の考察」では、もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時のうちに存するであろう。もしもまた現在と未来とがそこ(過去)のうちに存しないならば、現在と未来とはどうしてそれ(過去)に依存して存するであろうか。さらに過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはありえない。それ故に現在の時と未来の時とは存在しない。これによって順次に、残りの二つの時間(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。1現在と未来が過去に存在していれば過去は現在と未来に影響することができる。ところが、現在と未来は過去ではないのでそれが過去に存在するというのは矛盾する。一方、現在と未来が過去に存在していなければ、過去は存在していないものに影響することはできないので、現在と未来に影響することができず、現在と未来の時は存在しないことになる。現在と未来が過去に存在しても存在しなくても矛盾が起きるというジレンマが見られる。2過去と未来が現在に存在していれば現在は過去と未来に影響することができる。ところが、過去と未来は現在ではないのでそれが現在に存在するというのは矛盾する。一方、過去と未来が現在に存在していなければ、現在は存在していないものに影響することはできないので、過去と未来に影響することができず、過去と未来の時は存在しないことになる。過去と未来が現在に存在しても存在しなくても矛盾が起きるというジレンマが見られる。3過去と現在が未来に存在していれば未来は過去と現在に影響することができる。ところが、過去と現在は未来ではないのでそれが未来に存在するというのは矛盾する。一方、現在と過去が未来に存在していなければ、未来は存在していないものに影響することはできないので、過去と現在に影響することができず、現在と過去の時は存在しないことになる。現在と過去が未来に存在しても存在しなくても矛盾が起きるというジレンマが見られる。4以如是義故 則知余二時 上中下一異 是等法皆無の読み下し、これによって順次に、残りの二つの時間(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきであるとして、時間の三区分が溶解してしまうことを説きます。また、時間に関しての三つの時間区分を入れ替えてみると、未来に関する限りは多少こじ付けがましくも聞こえるが、現代科学は未来が現在に影響を与えることも有りとして是認しているので、見方を変えてみれば達見と云えるかもしれない。
2013年04月12日
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「時間」を紐解く(35)仏教哲学-時間観(十)ナーガールジュナの8 龍樹と同じ大乗仏教に立ちながら、時間に関して真っ向反対の立場にあるのが華厳経の十世隔法異成門です。龍樹が「時間」を流れるどころか静止さえ儘ならない、本質さえ持たない実在非ざるモノで、変化こそが仮想として人間の表象に現るとする、歴史さえ変化・変遷の標しと捉えているのに対して、華厳経の十世隔法異成門では、三世にそれぞれ過去、未来、および現在があるとして、現在がたとえ特異なものとしても、過去にはその現在が現在であり、その現在にも過去及び未来がある。過去・未来・現在の三世にそれぞれ過去、未来、および現在がとしての変化あるから、九世となる。しかも、この九世が互いに即応し、入りあうから、それによって一つの総括的表現ができる。そこでこれらの総括的表現と個別的表現とを合わせて十世となるとします。同時に顕現して縁起を成り立たせるから、即応し入りあうことができる。即ち、「時間」を幾つか(何本か或いは無数の)の流動する現在、時間線で観れば、義経の八艘飛びの如く各時間線を移動して行く運動および変化と捉えている様に見受けられます。此処に時間を縁起として捉えない龍樹と、過去・未来・現在の三世を縁起を成り立たせる華厳経の時間観の際立つ違いがあり、時間の実在を問ううえでは重要な鍵と成ります。
2013年04月11日
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「時間」を紐解く(34)仏教哲学-時間観(九)ナーガールジュナの7 龍樹が第19章「時間の考察」で論敵に想定しているのは、仏教における「時間論者」で間違いなさそうです。華厳経の十世隔法異成門。「十世とは、過去・未来・現在の三世にそれぞれ過去、未来、および現在があるから、九世となる。しかも、この九世が互いに即応し、入りあうから、それによって一つの総括的表現ができる。そこでこれらの総括的表現と個別的表現とを合わせて十世となるのである。この十世が個別性を具えながら、同時に顕現して縁起を成り立たせるから、即応し入りあうことができる。」などは龍樹にとっては噴飯ものでしょう。「薪に火と灰有り、火に薪と灰有り、灰に薪と火有り」と同様に不可得のことでしょうから。中論の説く哲学の骨子は「三時問破」を真髄としています。それ故、「1若因過去時 有末来現在 未来及現在 応在過去時」に対する反対の偈「問うて曰く、応に時有るべし、因持を似っての故に成ず。過去時有るに因りて、則ち未来と現在有り、現在時に因りて、過去と未来時有り。未来時に因りて、過去と現在時有り、上中下と一異等の法も亦た相い因持するが故に有り。」に答えて曰く、「1若因過去時 有末来現在 未来及現在 応在過去時」と説きます。即ち、「若し過去時に因りて 末来と現在時と有らば 未来と及び現在時とは 応に過去時に在るべし」と論駁しています。
2013年04月10日
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時間」を紐解く(33)仏教哲学-時間観(八)ナーガールジュナの6 「中論」は、縁起を説くために、相対の方法言い換えれば唯名論的な仕方で、三時問破していきます。即ち「有」に対しては「無」、「常住」に対しては「非常」等ですが、これ等は「法有」の立場を否定するための便法だとも云えましょう。しかし、縁起を主張するならば、「空間」に対しても、「時間」に対しても相対するものがなければいけないでしょう。考察するに「空間」に対しては「固物」それも「FE」程度の原子では電子が空間を巡っていますから、空間には相対していません。此処は素粒子その中でも重力子やブラックホールしか思いつかない状態です。龍樹が素粒子及びブラックホールを知っていたとも思えないので「空間」に対しての「固物」は、空間の一部を占める「モノ」と考えるべきなのでしょう。では「時間」に対しても相対するものとは「無時間」「超時間」「瞬間」「永遠」のどれかと想われますが、そもそも「時間」をゼノンの矢のパラドックスと同様の結論を出している龍樹には、相対するものなど在り得るはずが無いと主張しているようにも取れます。龍樹は、「時間」は存在せずに、ただ単に「変化」としか観ていないのではないかとも取れます。 以降は、第19章「時間の考察」のピンガラ(青目)釈クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳を記す。
2013年04月09日
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「時間」を紐解く(32)仏教哲学-時間観(七)ナーガールジュナの5 第19章「時間の考察」の読み下し文を見てみよう。1もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時のうちに存するであろう。2もしもまた現在と未来とがそこ(過去)のうちに存しないならば、現在と未来とはどうしてそれ(過去)に依 存して存するであろうか。3さらに過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはありえない。それ故に現在の時と未来の 時とは存在しない。4これによって順次に、残りの二つの時間(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきであ る。5未だ住しない時間は認識されえない。すでに住して、しかも認識される時間は存在しない。そうして未だ認識 されない時間が、どうして知られるのであろうか。6もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか 。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。(『龍樹』 中村元著 p.365) 一般に人は不可視・見えざるモノは信じない傾向があります。釈尊の否定した、絶対存在・「有」としての常住不変の神は勿論のこと、果てなき無限の宇宙空間などは代表的なものでしょう。しかしこと時間に関しては信じている方の多いのが事実です。そのことは人は時間を空間に表象して考えがちなことからくる性向と言えます。其の不可視である筈の空間にしても聞けば必ず立体的な球或いは楕円球を想定した答えが返ってくるはずです。理由を問えば宇宙内物質が全て球若しくは円運動から想像できるとの答えでしょう。しかし銀河系にしろ平面的な円運動の存在であって、立体的な球とは呼べない存在です。まして暗黒物質(dark matter)ともなれば見えるどころか、存在を疑問視する方さえおられます。但し其の見えざるモノに対して、人は考究せざるを得ないのも人間の性でしょう。
2013年04月08日
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「時間」を紐解く(31)仏教哲学-時間観(六)ナーガールジュナの4 龍樹は、中論観時品第十九章「時の考察」の偈頌(げじゅ)で、背理法を用いて時間を暴いて見せます。以下は鳩摩羅什の漢訳「中論」が中観の教学の代表的論書とされているのでそれを中心に見ていきます。龍樹は多くの論書を残しているが、その中のかなりが龍樹の著ではないとの学説が種々に提出されている。それらの真偽は証明出来ないが、いずれにしても「中論」の著者を龍樹であるとすることには異論は無い。「中論」のテキストはピンガラ(青目)の注釈と共にクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が漢訳したものが古くから中国、日本の仏教界において読まれてきました。ピンガラに関してはその生涯等は全く不明であり、クマーラジーヴァ(Kumarajiva)はモンゴロイドではない青い瞳の西域人であることからクマーラジーヴァが名を変えて自らの釈を記したのではないかと推測する学者も多いが、現在の印度人に於いてもボリウッド(Bollywood)のヴィーナス、アイシュワリヤー・ラーイ (Aishwarya Rai )は、青緑色の瞳の印度人であり、印度人である可能性もある。1若因過去時 有末来現在 未来及現在 応在過去時2若過去時中 無未来現在 未来現在時 云何因過去3不因過去時 則無未来時 亦無現在時 是故無二時4以如是義故 則知余二時 上中下一異 是等法皆無5時住不可得 時去亦叵得 時若不可得 云何説時相6因物故有時 離物何有時 物尚無所有 何況當有時
2013年04月07日
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「時間」を紐解く(30)仏教哲学-時間観(五)ナーガールジュナの3 此処で再度大龍である菩薩、龍樹(龍・樹は英雄名)ナーガールジュナの中論の観時品第十九「時の考察」を詳細に解いていきますが、彼は釈迦の教えではまだ理を尽くしていないと考え、中論を著わします。その論法は他者の説法を否定して、疑問を投げかけ否定に否定を持って答え自説を主張する、所謂帰謬論法を特徴としています。ときには此れが虚無主義者と指定されることも儘ありますが、論争によりその中道を表す姿勢は「虚無」とは一線を画している筈です。彼が攻撃する「実有」とは時間的・空間的規定を受けている自然存在であるダルマ「かた」に「法有」ありとする上座部に対し、その時間・空間さえも人間の仮象で相対的なものであり、他に依存せず独立して在るものではないと説きます。此の帰謬論法は時には反論に否定の疑問で答え、自らの根拠を現わさない巧妙な、俗に「煙に巻く」論法として使用されることもあり、ソクラテスの問答法と同様に理屈っぽいと歓迎されない事屡あること請け合いです。
2013年04月06日
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「時間」を紐解く(29)神学系哲学-時間観(十)スピノザの5 我々は普通には、永遠とは非常に長いスタンスで、時間を何十億、何百億年と果てしなく続いていくものだと想像します。だが神学系哲学者スピノザは、永遠をそういう態では理解していません。永遠とは、果てることのない時間を想う人間の自覚ではなく、それ自体まったく時間を持たない絶対の自覚だからである。永遠の瞬間とは、過去も未来も以前も以後も、昨日も明日も誕生も忘却をも知らない、時の無い瞬間である。統一意識の中で生きるとは、時のない絶対意識の瞬間の中で、また時のない瞬間として生きることである。実は時という汚れほど聖なる光をかげらせるものはないからである。つまり、永遠とは、無限に続く遠い未来のことではなく、無時間だということです。無時間とはこの大宇宙を絶対世界と相対世界から成り立つと捉え、絶対世界を、実相の世界で非物質な世界とします。対して相対世界を、仮相世界であり、現象界としての物理的大宇宙を指しています。そして、絶対世界には、たった一つの実在しかありません。即ちそれが、大宇宙の絶対創造主ということになるのですが、この大宇宙には、唯一にして絶対、至高の存在である、その絶対存在だけが実在しているという事なのです。絶対世界とは、非物質な世界なので、そこに実在するのは、あえて表現するなら、絶対の意識・精神・意思と呼ばれるような類のものだということになります。言い換えれば大宇宙には、大宇宙意識しか実在していないということになります。その大宇宙意識を映し出す鏡の世界が、現象界である、この物理的大宇宙なのです。大宇宙意識がまず絶対世界に実在し、それを鏡に映し出し体験する場として、相対世界であるところの、この物理的大宇宙が創造されているということになります。絶対世界と相対世界は、表裏一体、切っても切れない密接不可分の関係として、同時に存在しています。相対世界である物理的大宇宙にあるものは全て、絶対世界にある大宇宙意識が表現されたものなので、この物理的大宇宙にある全ては神の顕れであると言うことができます。
2013年04月05日
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「時間」を紐解く(28)自然科学-時間観(一)ニュートン アイザック・ニュートンは、自然哲学にユークリッド幾何学を大幅に導入した体系を構築したことで知られています。それを「自然哲学の数学的諸原理」(1687年刊)で著わしました。その当時の幾何学は一般にはユークリッド幾何学だけで、ニュートンが用いた幾何学もそれに倣い、空間は均一で平坦なユークリッド空間だと仮定されている様にとれます。。ニュートンは「自然哲学の数学的諸原理」に於いて、時間は過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもので、空間と共に、現象が起きる固定された等質なものと規定して、この等質世界を「絶対空間」及び「絶対時間」と呼称しています。ニュートン力学においては時間は全宇宙で同一とされています。そのニュートン学説の中でも際立つのが「光の粒子性」、「絶対空間」と「絶対時間」です。今では「光の二重性」として粒子性も波動性も持つことが知られていますが、「光は小さな物質」とか「直進する」というニュートン学説から、長らく「光は波動」であるという考え方が退けられていました。他方「絶対空間」と「絶対時間」ですが、これはどんなところでも空間や時間は何処にあっても等質だと言います。後にアインシュタインのに相対論によって、空間や時間は相対的なものだということになりますが、これはあくまでも相対論的な場合であって、日常的には「絶対空間」や「絶対時間」を考えても否定的になることも無いでしょう。そうでなければニュートン力学を全面否定しなくてはなりません。
2013年04月04日
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「時間の実在・非実在」を実験6メトロノーム 時間が仮に人間の表象に過ぎないとしたならば、我々人間は時間の把握をいつごろ獲得しているのでしょう。胎から出た赤子が母親の心臓音を録音して聴かせれば、泣いていた赤子が泣き止むと云うので、赤子はすでに音の繰り返しを時間として表象しているのでしょうか、とても音の繰り返しを統覚しているとは思えません。では保育園児に「Newton's Cradle」 (ニュートンのゆりかご)を見せて、一方の鉄球をぶつけて見せても、最初の内は反対の鉄球の動きに気を取られて繰り返しを感ぜずじまいと成りかねません。そこで音楽室によくあるメトロノームを小学生低学年児に30分余りその動きを見せ、音を聞かせれば、静止した後もその動きが表象され、リズムが鳴り止まないでしょう。そこには恐らく等質的な時間観念が存在します。交響曲のあの「ダダダダーン」の「運命」を大人に聴かせれば、初耳の人でも何かしらの統覚を感じ、経験者は終曲までの時間さえ捉えている事でしょう。このことは時間が実体としては存在せずに人の仮象に過ぎない表われかもしれません。演奏者なら「ダ」の一音だけで全体の曲と時間を把握している事さえ考えられます。それでは交響曲「運命」の交響楽団の音声を一斉に只一音にして響かせれば、最早そこには音楽としての響きや時間は読み取れません。此れを読み取ることの出来るのは、時間を俯瞰するか、永遠の瞬間に存在する絶対者のみに可能です。そのことは真に時間が実在しても、その時間存在内には無いものの存在を示しています。
2013年04月03日
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「時間の実在・非実在」を実験5蒸気機関車D51 「動きのあるところには去る働きがある、その動きは現在去りつつあるものにあって、既に去ったものにも未だ去らないものにも無いが故に、現在去りつつあるもののうちに在るはずである」と龍樹に反して、世界には「あること」即ち球は立体である・三角形の内角は180度であること等、理法としての「有」は存在するとの立場からの反対が上座部に起こるのはある意味当然でしょう。過去時は去る作用により既に去って今は存在しないものだから去りようがない。未来時は未だ来ないがこれから近づいてくる来る作用によって来るものだから未だ来ないものが存在しようがない。現時の今まさに去りつつある「去る作用」による働きによる動きはと云うと、「今去りつつあるもの」が如何にしてまた「去る作用」を必要とするのか、「去りつつある/現在が/去る」と分解する事など出来なくて「去りつつある現在が/去る」として、主体とその作用・働きを、夫々独立の実体と看做してしまうことの誤謬を指摘します。では何故に現在去りつつあるものは去る事が出来ないのかというと、過去時と未来時を離れた現在には運動のしようがなく、それ故、運動無きところでは静止も流れる事できないと説きます。これを「現在に見立てた」観察対象であるD51で考察すると、既に去ったも線路上にも未だ去らない線路上にも蒸気機関車D51は無いので去らない、しかし「現在に見立てた」観察対象である給水と石炭を補給したD51は、今まさに動かんとして、鉄輪をスリップさせて去りつつあって、ようやく動き出して去ること、「去りつつある」+「目前の蒸気機関車D51」+「去る」ことが可能で、観察者には誤謬はありません。しかし竜樹は「現在」を等質的なものとして、静止することも動くことも出来ないと考えるので「去りつつある」+「現在」+「去る」ことが不可能であり、二重の去る働き必要とする去りつつあるものなどは成立し得ないと矛盾を説いています。即ち我々が「現在」捉えるときには既に「去りつつある」を表象しているのです。
2013年04月02日
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「時間の実在・非実在」を実験4蒸気機関車D51 普通一般には、自己の存在する現在が去りつつあると思っているが、現在去りつつあるものを追及していけば、現在去りつつあるものは過去時と未来時を離れてはありえないものであり、過去と未来の何れかに含められてしまいます。過去にも未来からも離れた「現在」は、最早時間線上を離れた存在で、流動しようにも過去から未来の流れがないのでは、寸止めを喰らい「ゼノンの矢のパラッドクス」が再現され静止しているしかありません。既に過ぎ去ってしまった時である過去と、未だ過ぎ去っていない未来の時については過ぎ去る・過ぎ行くという動きは生じないことは誰でも常識的には理解できるが、「現在」の「去りつつあるもの」が「去ら/ない」と云うことは言えない筈ではないかとの疑問が当然に起こり得ます。「動きのあるところには去る働きがある、その動きは現在去りつつあるものにあって、既に去ったものにも未だ去らないものにも無いが故に、現在去りつつあるもののうちに在るはずである」と考えるのも自然でしょう。蒸気機関車D51の観察を例にとると、既に過ぎ去ってしまった時である過去の場所には、もはやD51は無く、未来に行き着く先の場所にもD51の姿は見当たらないでしょう。しかし、現在に給水及び燃料の石炭補給しているD51は眼前に見てとれます。此処に観察対象を選定した不備が見られます。「現在に見立てた」観察対象は静止することの出来るモノだと云うことです。問題となっている現在は、静止すること能わず、去り行くことも能わずの「現在」を想定しているからです。勿論のこと、龍樹は、それに対する答えを準備しております。
2013年04月01日
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