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「旧約聖書」創世記第28章・リベカ(Rebecca)最後の別れ 28:1イサクはヤコブを呼んで、これを祝福し、命じて言った、「あなたはカナンの娘を妻にめとってはならない。28:2立ってパダンアラムへ行き、あなたの母の父ベトエルの家に行って、そこであなたの母の兄ラバンの娘を妻にめとりなさい。28:3全能の神が、あなたを祝福し、多くの子を得させ、かつふえさせて、多くの国民とし、28:4またアブラハムの祝福をあなたと子孫とに与えて、神がアブラハムに授けられたあなたの寄留の地を継がせてくださるように」。28:5こうしてイサクはヤコブを送り出した。ヤコブはパダンアラムに向かい、アラムびとベトエルの子で、ヤコブとエサウとの母リベカの兄ラバンのもとへ行った。28:6さてエサウは、イサクがヤコブを祝福して、パダンアラムにつかわし、そこから妻をめとらせようとしたこと、彼を祝福し、命じて「あなたはカナンの娘を妻にめとってはならない」と言ったこと、28:7そしてヤコブが父母の言葉に従って、パダンアラムへ行ったことを知ったとき、28:8彼はカナンの娘が父イサクの心にかなわないのを見た。28:9そこでエサウはイシマエルの所に行き、すでにある妻たちのほかにアブラハムの子イシマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻にめとった。28:10さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、28:11一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。28:12時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。28:13そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。28:14あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。28:15わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。28:16ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。28:17そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。28:18ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、28:19その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。28:20ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、28:21安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。28:22またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。 アブラハムの僕がイサクの嫁を探しに来た時にも、とにかく走って行動したリベカですが、イサクを騙す策略をみると、相変わらず機転の利く行動の人です。リベカは早速イサクに「エサウの嫁のヘト人のことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでヘト人を嫁にしたりしたら」と、イサクから、ヤコブ(Jacob)にラバンのところに行くように言わせます。これにはイサクも賛成。エサウがヤコブを狙っているのを知って、リベカが相談に来たのを機にヤコブを逃がそうとしたのか、とにかくヤコブはラバンのもとに送り出されました。このヤコブの出発が、リベカにとっては愛する息子との最後の別れ、20年後にはヤコブが帰ってきたときには、リベカは亡くなっています。ヤコブも、晩年に「生涯の年月は短く、苦しみ多く」と、多難な人生を生きることになります。一方の長子エサウは、ヤコブが送り出されたのを見て自分の結婚が喜ばれていないことを初めて知り、一族からならよかろうと、イサクの異母兄アラビア人の祖になるイシュマエルの家からあらたに嫁を迎えます。エサウなりの改善策ですが、イシュマエルもヤハウェの契約からはずれたところ、場当たり的な策は、彼の安易さを露呈するばかりです。創造者であろ神との関係で、全てを捉える事が出来ない憐れさが漂います。一方、伯父ラバンのもとへ逃亡の旅を続けるヤコブは、砂漠で野宿することになり、石を枕に眠りにつきました。その夜彼が見た夢は、地から天にまで届く階段が伸びていて、天使たちが上り下りしているのです。それだけではありません。その光景を見るヤコブのすぐそばにヤハウェがあらわれ、「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と言い、アブラハムとイサクとの契約をヤコブにも誓いました。神を信じる者にとって、これ以上力づけられる約束はありません。そしてこの約束はヤコブだけでなくヤコブの子孫をも、その過酷な運命のなかで支えていくことになります。更に、神が与えてくれるものの十分の一を奉納すると誓願を立てています。これがのちに戒律に規定されて、ヤコブの子孫の守るべき律法になります。
2013年02月28日
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「旧約聖書」創世記第27章・リベカとヤコブの謀略 27:1イサクは年老い、目がかすんで見えなくなった時、長子エサウを呼んで言った、「子よ」。彼は答えて言った、「ここにおります」。27:2イサクは言った。「わたしは年老いて、いつ死ぬかも知れない。27:3それであなたの武器、弓矢をもって野に出かけ、わたしのために、しかの肉をとってきて、27:4わたしの好きなおいしい食べ物を作り、持ってきて食べさせよ。わたしは死ぬ前にあなたを祝福しよう」。27:5イサクがその子エサウに語るのをリベカは聞いていた。やがてエサウが、しかの肉を獲ようと野に出かけたとき、リベカはその子ヤコブに言った、「わたしは聞いていましたが、父は兄エサウに、27:7『わたしのために、しかの肉をとってきて、おいしい食べ物を作り、わたしに食べさせよ。わたしは死ぬ前に、主の前であなたを祝福しよう』と言いました。27:8それで、子よ、わたしの言葉にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい。27:9群れの所へ行って、そこからやぎの子の良いのを二頭わたしの所に取ってきなさい。わたしはそれで父のために、父の好きなおいしい食べ物を作りましょう。27:10あなたはそれを持って行って父に食べさせなさい。父は死ぬ前にあなたを祝福するでしょう」。27:11ヤコブは母リベカに言った、「兄エサウは毛深い人ですが、わたしはなめらかです。27:12おそらく父はわたしにさわってみるでしょう。そうすればわたしは父を欺く者と思われ、祝福を受けず、かえってのろいを受けるでしょう」。27:13母は彼に言った、「子よ、あなたがうけるのろいはわたしが受けます。ただ、わたしの言葉に従い、行って取ってきなさい」。27:14そこで彼は行ってやぎの子を取り、母の所に持ってきたので、母は父の好きなおいしい食べ物を作った。27:15リベカは家にあった長子エサウの晴着を取って、弟ヤコブに着せ、27:16また子やぎの皮を手と首のなめらかな所とにつけさせ、27:17彼女が作ったおいしい食べ物とパンとをその子ヤコブの手にわたした。27:18そこでヤコブは父の所へ行って言った、「父よ」。すると父は言った、「わたしはここにいる。子よ、あなたはだれか」。27:19ヤコブは父に言った、「長子エサウです。あなたがわたしに言われたとおりにいたしました。どうぞ起きて、すわってわたしのしかの肉を食べ、あなたみずからわたしを祝福してください」。27:20イサクはその子に言った、「子よ、どうしてあなたはこんなに早く手に入れたのか」。彼は言った、「あなたの神、主がわたしにしあわせを授けられたからです」。27:21イサクはヤコブに言った、「子よ、近寄りなさい。わたしは、さわってみて、あなたが確かにわが子エサウであるかどうかをみよう」。27:22ヤコブが、父イサクに近寄ったので、イサクは彼にさわってみて言った、「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ」。27:23ヤコブの手が兄エサウの手のように毛深かったため、イサクはヤコブを見わけることができなかったので、彼を祝福した。27:24イサクは言った、「あなたは確かにわが子エサウですか」。彼は言った、「そうです」。27:25イサクは言った、「わたしの所へ持ってきなさい。わが子のしかの肉を食べて、わたしみずから、あなたを祝福しよう」。ヤコブがそれを彼の所に持ってきたので、彼は食べた。またぶどう酒を持ってきたので、彼は飲んだ。27:26そして父イサクは彼に言った、「子よ、さあ、近寄ってわたしに口づけしなさい」。27:27彼が近寄って口づけした時、イサクはその着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った、「ああ、わが子のかおりは、主が祝福された野のかおりのようだ。27:28どうか神が、天の露と、地の肥えたところと、多くの穀物と、新しいぶどう酒とをあなたに賜わるように。27:29もろもろの民はあなたに仕え、もろもろの国はあなたに身をかがめる。あなたは兄弟たちの主となり、あなたの母の子らは、あなたに身をかがめるであろう。あなたをのろう者はのろわれ、あなたを祝福する者は祝福される」。27:30イサクがヤコブを祝福し終って、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐ、兄エサウが狩から帰ってきた。27:31彼もまたおいしい食べ物を作って、父の所に持ってきて、言った、「父よ、起きてあなたの子のしかの肉を食べ、あなたみずから、わたしを祝福してください」。27:32父イサクは彼に言った、「あなたは、だれか」。彼は言った、「わたしはあなたの子、長子エサウです」。27:33イサクは激しくふるえて言った、「それでは、あのしかの肉を取って、わたしに持ってきた者はだれか。わたしはあなたが来る前に、みんな食べて彼を祝福した。ゆえに彼が祝福を得るであろう」。27:34エサウは父の言葉を聞いた時、大声をあげ、激しく叫んで、父に言った、「父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」。27:35イサクは言った、「あなたの弟が偽ってやってきて、あなたの祝福を奪ってしまった」。27:36エサウは言った、「よくもヤコブと名づけたものだ。彼は二度までもわたしをおしのけた。さきには、わたしの長子の特権を奪い、こんどはわたしの祝福を奪った」。また言った、「あなたはわたしのために祝福を残しておかれませんでしたか」。27:37イサクは答えてエサウに言った、「わたしは彼をあなたの主人とし、兄弟たちを皆しもべとして彼に与え、また穀物とぶどう酒を彼に授けた。わが子よ、今となっては、あなたのために何ができようか」。27:38エサウは父に言った、「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」。エサウは声をあげて泣いた。27:41こうしてエサウは父がヤコブに与えた祝福のゆえにヤコブを憎んだ。エサウは心の内で言った、「父の喪の日も遠くはないであろう。その時、弟ヤコブを殺そう」。27:42しかしリベカは長子エサウのこの言葉を人づてに聞いたので、人をやり、弟ヤコブを呼んで言った、「兄エサウはあなたを殺そうと考えて、みずから慰めています。27:43子よ、今わたしの言葉に従って、すぐハランにいるわたしの兄ラバンのもとにのがれ、27:44あなたの兄の怒りが解けるまで、しばらく彼の所にいなさい。27:45兄の憤りが解けて、あなたのした事を兄が忘れるようになったならば、わたしは人をやって、あなたをそこから迎えましょう。どうして、わたしは一日のうちにあなたがたふたりを失ってよいでしょうか」。 イサクは愛する長子エサウを後継者にしようとするが、妻リベカはヤコブに祝福が与えられるように策略を図ります。ヤコブは躊躇するがヤコブを偏愛するリベカは、イサクを騙る呪いは自分が受けるとまで言う始末で、騙ることを半ば強制的に行為させます。創世記27:13「母は彼に言った、「子よ、あなたがうける呪いは私が受けます。ただ、私の言葉に従い、行って取ってきなさい」。美貌のリベカがサラ以上の気性の激しさに加えて狡猾さを併せ持っているのに驚かされます。コブは目の見えない父イサクをだまして祝福を騙し取ります。この祝福は族長の地位を継承するものであった。長子の権利と族長の地位、神の祝福・ヤハウェとアブラハムの契約を継承させるものと土地の相続権までを手に入れたのです。騙されたと知ったエソウはヤコブを呪い、殺そうとするのも肯けます。彼は二度までも私を押しのけた(ヤーコブ)。さきには、私の長子の特権を奪い、こんどは私の祝福を奪った。預言者の多くもヤコブのこの行為を肯定してはいません。エレミヤは「人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても、押しのける者(ヤコブ)であり、隣人はことごとく中傷して歩く。」と説いています。怒ったエサウはヤコブを殺そうとし、リベカはヤコブを叔父ラバンの所に避難させる為に送り出した。母リベカが言います「兄エサウはあなたを殺そうと考えて、みずから慰めています。子よ、今私の言葉に従って、すぐハランにいる私の兄ラバンのもとにのがれ、あなたの兄の怒りが解けるまで、しばらく彼の所にいなさい。」この「しばらく」が永遠の別れになる。リベカはヤコブに再開することなく死に、ヤコブは叔父ラバンの下で富を得たとしても過酷な20年を過ごします。リベカもヤコブも自分たちの罪の贖いを時を経てしなければならなかったのも、神の意思だったのでしょう。「罪」と訳されているヘブライ語のひとつは「的を外す」という言葉から来ています。四者四様に的外れなこの家族は、やがて兄が弟の命を狙うなどという事態を招くことになりました。最後のリベカの言葉「一日のうちにお前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう。」とリベカが言っているのは、アダムとエバが二人の息子を一日のうちに失った兄カインが弟アベルを殺し、カインは追放されたことを想起させます。
2013年02月27日
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2013年02月26日
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「旧約聖書」創世記第26章・ゲラルの王アビメレク(Abimelech) 26:1アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。26:2その時、主は彼に現れて言われた、「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい。26:3あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。26:4またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。26:5アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。26:6こうしてイサクはゲラルに住んだ。26:7その所の人々が彼の妻のことを尋ねたとき、「彼女はわたしの妹です」と彼は言った。リベカは美しかったので、その所の人々がリベカのゆえに自分を殺すかもしれないと思って、「わたしの妻です」と言うのを恐れたからである。26:8イサクは長らくそこにいたが、ある日ペリシテびとの王アビメレクは窓から外をながめていて、イサクがその妻リベカと戯れているのを見た。26:9そこでアビメレクはイサクを召して言った、「彼女は確かにあなたの妻です。あなたはどうして『彼女はわたしの妹です』と言われたのですか」。イサクは彼に言った、「わたしは彼女のゆえに殺されるかもしれないと思ったからです」。26:10アビメレクは言った、「あなたはどうしてこんな事をわれわれにされたのですか。民のひとりが軽々しくあなたの妻と寝るような事があれば、その時あなたはわれわれに罪を負わせるでしょう」。26:11それでアビメレクはすべての民に命じて言った、「この人、またはその妻にさわる者は必ず死ななければならない」。26:12イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので、26:13彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、26:14羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ。26:15またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸をふさぎ、土で埋めた。26:16アビメレクはイサクに言った、「あなたはわれわれよりも、はるかに強くなられたから、われわれの所を去ってください」。26:17イサクはそこを去り、ゲラルの谷に天幕を張ってその所に住んだ。26:18そしてイサクは父アブラハムの時に人々の掘った水の井戸を再び掘った。アブラハムの死後、ペリシテびとがふさいだからである。イサクは父がつけた名にしたがってそれらに名をつけた。26:19しかしイサクのしもべたちが谷の中を掘って、そこにわき出る水の井戸を見つけたとき、26:20ゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセクと名づけた。彼らが彼と争ったからである。26:21彼らはまた一つの井戸を掘ったが、これをも争ったので、名をシテナと名づけた。26:22イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。26:23彼はそこからベエルシバに上った。26:24その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。26:25それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。26:26時にアビメレクがその友アホザテと、軍勢の長ピコルと共にゲラルからイサクのもとにきたので、26:27イサクは彼らに言った、「あなたがたはわたしを憎んで、あなたがたの中からわたしを追い出されたのに、どうしてわたしの所にこられたのですか」。26:28彼らは言った、「われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ましたので、いまわれわれの間、すなわちわれわれとあなたとの間に一つの誓いを立てて、あなたと契約を結ぼうと思います。26:29われわれはあなたに害を加えたことはなく、ただ良い事だけをして、安らかに去らせたのですから、あなたはわれわれに悪い事をしてはなりません。まことにあなたは主に祝福されたかたです」。26:30そこでイサクは彼らのためにふるまいを設けた。彼らは飲み食いし、26:31あくる朝、はやく起きて互に誓った。こうしてイサクは彼らを去らせたので、彼らはイサクのもとから穏やかに去った。26:32その日、イサクのしもべたちがきて、自分たちが掘った井戸について彼に告げて言った、「わたしたちは水を見つけました」。26:33イサクはそれをシバと名づけた。これによってその町の名は今日にいたるまでベエルシバといわれている。26:34エサウは四十歳の時、ヘテびとベエリの娘ユデテとヘテびとエロンの娘バスマテとを妻にめとった。26:35彼女たちはイサクとリベカにとって心の痛みとなった。 大きな飢饉があり、父アブラハムのときと同様に、イサクも南のゲラルに避難しました。アビメレク王が支配する、ペリシテ人の土地です。そこからさらに肥沃なエジプトへと避難しようとしたのですが、主はこれを制止します。アブラハムに与えると約束したカナンに留まるなら、イサクとともにいて祝福し、この約束の地をイサクと子孫に与えてアブラハムとの誓いを果たすと言うのです。後には、主の許可によって、イサクの子孫はのちにエジプトに移住することになります。 主なる神ヤハウェは、イサクに三つの約束即ち、子孫を天の星のように増やすこと。あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう、つまり国家となること。全人類は、イサクの子孫によって、神に祝福される契約をあらためて与えます。それはアブラハムに示してきた誓いを、イサクをアブラハムの後継者として、あらためて確認したのです。このためイサクは、カナンを離れるのをやめて、ゲラルに滞在することにしました。ところがイサクはアブラハムのの血がさせるのか、「土地の者がリベカを奪うために自分を殺すかも」と心配して、親の時と同様、ゲラルの王(アブラハムのときと同じ人物なら随分な年齢)アビメレクに対して、妻を妹と偽ります。アビメレクもアブラハムの時で懲りたのか、早々に二人が夫婦だと感ずいて勅を出したので、リベカは貞操の危機には会いませんでした。そのゲラルの地で、その後イサクは、「主の祝福を受けて」経済的に非常に繁栄しますが、おもしろくないのは、地元のペリシテ人たちです。イサクは多くの召使いを持つようになったと記録されていますから、寄留者イサクにペリシテ人が雇われもしたでしょう。不満が高じたペリシテ人は、アブラハムが掘った井戸を埋めてしまいます。アビメレクとしてはイサクの一族を王国内にこのまま寄留させておけば争いは免れ得ません。そこでアビメレクは退去を求めました。イサクはこの要求に従い、イサクはここなら地下水が得やすいと考えたのか、ゲラルの谷に天幕を張りました。ところが、イサクがここで新たに井戸を掘ると、難癖をつけるために見張っていたのか、すぐにゲラルの羊飼いが来て、新しい井戸について地元民として権利を主張します。この新しい井戸は、アブラハムとアビメレクの契約にはなかったものだとでも、言いがかりをつけたのでしょう。イサクが別に井戸を掘ると、それについても再度争いとなりました。さらに一歩退き、やっと一つの井戸を掘り当て、漸くもう争いは起きませんでした。イサクはこの井戸を「広い場所」と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と賛美します。井戸を巡っての争いは、水資源豊かな地帯では滅多に起こらないものですが、荒野では日常茶飯事のことで、守るのも命懸けです。また、エサウは四十歳の時、ヘテびとベエリの娘ユデテとヘテびとエロンの娘バスマテとを妻にめとった。彼女たちはイサクとリベカにとって心の痛みとなったとあるのは、彼女たちは「カナンの娘」だからです。カナンの地は偶像を拝む人々の地でした。その地の娘をめとることは、アブラハム、イサクと続いてきた信仰の流れを薄め、歪めることになります。それ故に、エサウの父母であるイサクとリベカにとって「心の痛み」となったのです。しかも、エサウがカナンの娘をめとったことで、彼の信仰が弱まったと云うのではなく、以前にエサウは空腹の故、長子の権を軽んじているのです。父祖アブラハムから始まった祝福の基となる使命より、即物的な価値観を優先していたたのです。また、此の章に登場するゲラルの王アビメレク(Abimelech)は「わたしの父は王」の意ですが、個人名か、あるいはエジプト人の間で使われたファラオという称号やローマ人の間で使われたカエサルという称号と同様の幾人かのフィリスティア人の王が使った公式の称号の可能性もあります。
2013年02月26日
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一神教の創造神 旧約聖書の「創世記」を説くにあたって、モーセ最初に何故、天地創造神話を持ってきたか。この種の天地創造伝説は、古今東西何処の民族の宗教にも存在します。しかし、原始宗教が哲学的な教理を持つ宗教に成長するには、神の根源の天地(宇宙世界)の発生に触れなければ、宗教哲学としての存在価値があるとは納得させられません。モーセは古代オリエントの多神教世界のなかで一神教の絶対神「ヤハウェ(YHWH)私は在って在るものである」をイスラエルびとに与える必要性を感じ取ります。エジプト脱出を成功させるには、始原世界の唯一つの造物主たる神がイスラエルびとを愛するが故に、自己の民として聖別した民族(選民思想)を植え付けなければ、乳と蜜の流れる地、先住民族の住むカナンの厳しい戦いを乗り切るわけにはいけません。それ故に、神の啓示を得て天地創造神話を作らざるを得なかったのです。モーセを慕ってイスラム教を起こしたムハンマド(マホメット)は、唯一絶対神アッラーの天地創造神話を作りませんでした。ムハンマドはモーセの旧約聖書に便乗し、自分のアッラー神をヤハウェ信仰の父祖であるアブラハムの兄弟という設定にしたため、元祖神をモーセの打ちたてた神として、天地創造神話を避けることが出来たのです。しかしこの天地創造神話は後世、分析が進むにつれ物議をかもします。モーセが唱えたとされるこの天地創造神話は、後代の研究で紀元前3000年頃のメソポタミア地域一帯に伝わる伝説である事が分かってきたのです。メソポタミア文明の前半、シュメールの残した創造神話やギルガメッシュ叙事詩にアダムとエバやノアの箱舟の話が出ており、バベルの塔もこの時代の宗教的遺跡で、今もイラクに30基も現存するジグラドの聖塔に相当するということが明らかになりました。モーセの時代はそれをはるかに下回る紀元前13世紀です。つまるところ、若き日をエジプトの王女のもとで王宮で育ったモーセは、恐らく、王宮の家庭教師や王立図書館に近づけたであろうし、次期ファラオの座をも望みえた人物ですから、エジプト最高の天文・自然科学・地理・史学を身に着けていた筈で、どこかでこのシュメール神話やギルガメッシュ叙事詩を聞き込み、それをヤハウェ神話に引き込んだというわけです。それ故、モーセは自ら禁じた筈の青銅の蛇の魔術を、敢えてイスラエルびとに見せ付け畏怖させます。其の後のイスラエル建国後も、偶像崇拝を律法で禁止しているにも拘らず、青銅の蛇のトーテムは崇拝の対象と成り続けました。
2013年02月25日
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創造神話比較(三)光と闇の対照 創造神話のなかで多くの神話・宗教が天地創造に次いで、光と闇の世界が時間の再生、死と再生の象徴と深い関係があり、世界の諸民族のほとんどの神話が光と闇の起源を扱っています。旧約聖書では神が光と闇とを別けられ、一方を天に比し、闇を「陰府」に 充てていると思える箇所があります。陰府は「よみ」と読み、陰府は地獄ではありません。ヨハネ黙示録にあるとおり、死者が行くところ。 旧約の時代には、神を信じる者も信じない者も陰府に入りました。神話や宗教の多くは、闇と光を、死と生、悪と善の対立と見なしています。東北アジアのコリャク族、ヤクート族などは、光の天界、人界、闇の冥界の三界、上・中・下の世界に分けて理解し、日本でも、高天原、葦原中つ国、黄泉の国と三つに区分しています。ギリシャでは、天人界、海洋、下界と分けます。但し、全ての神話が死者の国が闇と結びつけられているかというわけでもなく、ポリネシアのソサイェティ島では、死者の国は太陽と結びつけられています。いずれにしても、世界の諸民族のほとんどの天地創造神話が光と闇の起源を扱っています。 例えば、ポリネシアの諸神話には、暗闇と虚無から光が生じたとするもの、至高神イオが「暗黒よ、光によって満たされよ」と命じたとしています。ゾロアスター教にあっては、善悪の神々の戦いでは、善霊の助けが現れるまでは全てが闇の中にあると描かれ、光と闇は自然的な何かを意味しているのではなく、善と悪とに結び付けられています。闇と結びつけられている破壊霊はアングラ・マイニュイと呼ばれます。しかし、光も闇も主によって創造されたとされるのは旧約聖書と共通します。ここで「主は悪も創造したのか」という問題が浮上し、一神教か二元論か、という神学上の立場問題に結び付いて来ます。「ヨハネの黙示録」では、闇も夜も神の救済が届かない悪の支配領域としています。
2013年02月24日
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創造神話比較(二) 三大唯一神宗教の信奉する旧約聖書の創世伝は、万物の存在の開始は、仏教が説く因果と相対を離れた存在、根源の「無・有」を共に含有する神の絶対意志から、先ず混沌の世界が創造され、次いで「地」が神の言葉・指令によって次第に形を整え、昼と夜とが分けられ、地表と大気圏が分離されます。更には、陸と海が分離形成され、植物が繁茂し酸素が供給され動物の生態環境が整えられて、厚い雲が取り去られて、天体が地表から観測出来る様になり、そこで動物が造られ、最後に万物の霊長の人間が創造されたとしています。それ故、三大唯一神宗教では「無」からの創造を神に帰し、何ら矛盾は無いとしています。此の対極にある世界の創造神話及び宗教は、神を世界内存在として観想し、其の内に在る人智を超える存在者として創造・維持・破壊の究極的な力あるものとして定義はしますが、悲しいかな、其の想像には既成の宇宙を前提にする為に、神とて永遠の存在者としては維持すべきものも無く、滅びを持った存在として描かれます。釈尊はそれ故、仏教哲学には「有」の存在は相容れない対象として、布教のためか、古代インドで信仰された神を「非常住の者」として一応は妥協したかに認めています。
2013年02月23日
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創造神話比較(一) 創造神話とは、人類・地球・生命および宇宙の生成の起源を説明する物語ですが、科学的調査、形而上学的思索、宗教的信念、といったあらゆる基礎を出発点として始まっており、それぞれの考え方には非常に違いがあります。また、世界には、古今東西幾多の民族が勃興と滅亡を繰り返してきましたが、夫々に神話・伝説・宗教を抱え、取り分け創造神話を持たない民族は皆無と云っても過言ではありません。此処で云う「創造」とは、「創世記」に在っては、一つは以前に無かったもの、所謂「無」からの創造で、創世記第1章では天地創造・生物の創造・人格的生物である人間に「創造する(パーラー)」が使用されています。他方使用される「創造」は、既存の材料を使っての形成「造る(アーサー)」です。世界の創造神話の殆んどが、後者の「造る」意で、天地創造以前に物質世界が有ったとしていますが、その物質世界の生成に論究するものは無く、先立つ物質世界を問いません。三大唯一神宗教の特異点は、旧約聖書のみを信奉するユダヤ教徒は「ヤハウェ(YHWH)私は在って在るものである」と記し、キリスト教では、神の名をみだりに口にしてはならない事になっているので、「父なる神」「God(神)」「YHWH(在るもの)」等々多数の呼び方をし、イスラム教は旧約聖書によらずコーランによって「アッラー」と神の呼称こそ違え、旧約聖書を信奉することには変わりがないので「無からの創造者」としての同じ神を信じており、「創世記」の神の「無」からの創造は肯定しています。
2013年02月22日
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「時間」αでありω(アルファ、オメガ) 神は、人間の思惟・理性、その言葉の表現規定を超えている存在と捉える説もありますが、それでも人は言葉でもって語り、讃え、愛することの許された資質的特権を付与された唯一の存在です。時間若しくは永遠そのものの未だ確定した規定はありませんが、永遠の過去、即今、即永遠の未来、神は今なる永遠の存在です。言い換えれば、絶対の存在者、有と無を二つながら混在兼ね備えた、仏教云うところの因縁と縁起を離れた「絶対有」です。それ故、全ての世界は神を始めとします。仮に、無なる世界が在り得るにしても、それは神の属性であり、人間が慮ることは出来得ません。この宇宙の存在に「人間の思考」上、たとえ何百億年、何千億年の時間の流れが現在に至っていようとも、その期間と共に、またそれを越えても、常に「今なる存在者」として在り続けます。神はイザヤ書、黙示録に於いて「私は初めであり、終わりである。」という聖言を預言者を通して表明したのは、宇宙、人間その他の存在全てを包括、包み込んだものなのです。神の言葉は、死人の言葉にあらず、生きて永遠に働いている、生けるモノの言葉です。現在という高度知識の時代において、人間が宇宙あるいは存在の初めを追求して止まないのも、始めがにかかわることであり、人が自己の精神意識にあって、神の始めに至らんとしていることへの精神事象であり、その人間の事象事態がまた、神の「初めであり、終わりである。」という言葉の規定の内にあります。人間の個々の事象、生命の始まりと終わりもまた、神との係わりにおいてその個々の「初めであり、終わりである。」を現実化していること、そのすべての起源及び独自性が、人間独自に根ざしたものではなく神を始原としている説には一考の価値があります。
2013年02月21日
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「時間」因果律の混乱 世紀が変わり21世紀になって、因果律の存在其のものに、科学からの理論及び証明が発表されて、宗教・哲学に多大な影響を与えています。過去から未来に流れる時間そのものが疑問視され、未来が過去に影響を及ぼすことが指摘されています。云わば、結果が原因を変えると云う事に成ります。古仏教云うところの「因果応報」が成り立たないわけになり、大乗八宗の祖のナーガール・ジュナ(竜樹)が「中論」で強調する、相対するものが「縁起」によって生じることに正当性があることに根拠を与えようとしています。但し、ナーガール・ジュナは因の中に果無し、果の中にも因無し、因と果を離れたものは無しとする論法を、時間性にも導入して、先ず、時間を過去事・現時・未来時と定義して、時間の流動の可否を検討します。過去時・現時・未来時を流動するものと捉えると、其々に作用が必要となり、「過去事は去る作用により既に去って今は存在しないもの・現時は今まさに去ろうとしているものが去る作用によって去りつつあるもの・未来時は未だ来ないがこれから近づいてくる来る作用によって来るもの」と解釈します。此処に矛盾が生じます。過去時は去る作用により既に去って、今は存在しないものだから作用の働き用がなく存在さえ否定します。未来時は、未だ来ないが、これから近づいてくる来る作用によって来るものだから、未だ来ない存在に対してて作用の働き用がなく、此れも存在を否定、では現時の今まさに去りつつあるものの「去る作用」による働きによる動きはと云うと、「今去りつつあるもの」が如何してまた「去る作用」を必要とするのか、二重の去る働き必要とする去りつつあるものなどは成立し得ないと説きます。しかし此の論にも難点があります。今と去りつつあるものを夫夫に区分していることです。例えば、流れ落ちる滝を「流れ落ちつつある」作用と「滝」を区別して、故に滝が無いとは言えるものではありません。それ故、「今去りつつあるもの」という言回しも矛盾点が無いことに成ります。龍樹は時間其のモノが存在せず、人間の観想する観念にすぎないとして、老死や苦楽等々を盡く此の論法で論破して行きます。そうして人間が実相するものが、全て縁起しているので、一方のモノを否定すれば他方も無いこととなります。しかし、此の論法も、人間の理法については筋が通っていますが、物質存在や時間性に持ち込むのには無理があります。此処は未来時も過去時も無い「流動する永遠の瞬間」には因果律が適用しないと捉えます。
2013年02月20日
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第七の日・安息日 創世記第2章第一節から第四節では2:1こうして天と地と、その万象とが完成した。2:2神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。2:3神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。2:4これが天地創造の由来である。 第七の日に、神は創造の業を完成し、その業を離れ安息した。此の日を神は祝福し、聖別したます。天地創造の七つの「日」は全人類が使っている七日間の一週間の由来とされるものの一つです。自然界のサイクルとして、一日、一ヶ月や一年という周期があり、それが共通するのは当然ですが。一週間七日という区切りは自然界に存在する何かの周期的なことに基づいているのではなく、聖書に触れたかどうかとは関係なく、記録が存在する初めから全世界に広まっていることには驚かされます。このように「創世記」は6日間で宇宙と地球、そして地球に住む生命を創造したことになっています。現代の科学で調査推論されている地球の誕生やその後の生命の発展に関して、大変に正確に創世記に記述されているのです。更には、創世記の記述でカンブリア爆発も説明が可能とされる説もあります。結論として創世記の立場に立てば、進化論は間違いで、正しくは神が種類別に生物を創造したのです。神とは宇宙の絶対意識であり、宇宙の意識は我々がその延長と考える限り我々の意識と繋がっています。言い換えれば、カンブリア爆発説に立てば、生命そのものが自らの意思で、それぞれが独自にそれぞれの形に最初から完成して出現したのです。進化は計画して事前に準備して、生命体の意識によって突然に行われます。それを創世記では神の創造とし、神と我々の意識、言い換えれば我々の意識は神の意識の延長と見る限り宇宙の意識であると云えます。、詰まる所、生命体にはそれぞれに進化意識があり、瞬間的に突然進化を成し遂げることを、神の創造に帰しているのです。時としてそれは、いろいろな生物が一斉に同時に行う場合もありえるのです。 また、安息日(あんそくび・あんそくにち)は、ヘブライ語の「シャバット」に由来する語が「土曜日」の名称として使用される言語においては、ユダヤ教の安息日のみを指し、キリスト教において日曜日、イスラム教において金曜日ですが、その日を安息日とは言わないこともあります。現在では曜日名としての「土曜日」を「安息日」としてさす場合はもっぱらユダヤ教における安息日をさす。創世記の7日目の安息日は土曜日です。ユダヤ教では土曜日を安息日として守っています。キリスト教では、日曜日を主日として礼拝の日としています。これは、イエスが金曜日に処刑され、三日目の日曜日に復活したことに由来しています。イスラム教では金曜日を礼拝の日としており、モスクに集まって祈っています。これはイスラム教の開祖である預言者ムハンマドが、聖地メッカに入城したのが金曜日、神とともに働いたムハンマドの勝利を記念し、神を讃えています。旧約・新約・コーランを理解するうえで、律法の安息日は極めて重要な地位を占めています。週休2日制というのは、神の教えに反する行為であり、週に6日は業に励むべきでしょう。 以上、創世記の天地創造物語は人類にとっては極めて重要で、歴史の流れに大きく影響した文書であり、その理解によって聖書全体の捉え方も大きく左右されます。聖書を批判して、創世記を単なる「神話」として片付ければ、旧約聖書そのものが理解出来なくなります。これが天地創造の由来です。
2013年02月19日
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第六の日・我々にかたどり 創世記第1章第二十四節から第三十一節では1:24神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがって出だせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。1:25神は地の獣を種類に従い、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。1:26神はまた言われた、「われわれの容(かたち)に、われわれに模って(かたどって)人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。1:28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。1:29神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。1:30また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。1:31神が造ったすべての物を見られたところ、それは、甚だ(はなはだ)良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。 この時代に創造の頂点となる人類の創造と人間に密接な関わりを持つ動物の創造が記されます。24節に「生き物」と翻訳された 人間存在を表す言葉「ネフェシュ」というヘブライ語は「魂」を持った動物を意味します。但し、人間だけが神にかたどって造られたものなので、人間だけが「霊」を持ち、三位一体の神霊と交わることができるのは人間のみ。しかし、哺乳類と鳥類は「体」しかない動物(例:昆虫、魚など)と違って人間と関係では、密接な関係を持つ動物を示しています。直接に言及された「家畜」は人間に愛着を示し、訓練される動物です。「地の獣」も分かりやすいことばで、飼いならしにくいライオンや熊のような野生動物という意味でしょう。「這うもの」は蛇や昆虫とイメージする人は少なくないが、「ネフェシュ」魂のある動物であるので、この場合、鼠や兎のような足の短い哺乳動物或いは鰐おも含有するかも知れませんが、何れにせよ、人間と密接な関係を持つ動物を示しています。 此処で二つの問題の表現「神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」です。神の一人称として「我々」という言葉が出てきます。キリスト教は一神教の筈、ところが、「我々」という表現は唯一の神には複数性もあることを意味します。確かに聖書では「神は唯一」と繰り返されています。ではなぜ「我々」と書いてあるのかというと、実はよくわかっていません。この初めに矛盾するように見える教えは聖書に示されている「三位一体」で理解する必要があります。 1:26神はまた言われた、われわれの容(かたち)に、われわれに模って(かたどって)人を創造したとなっている点は注目です。神とは宇宙の絶対の意識であり精神及び、宇宙の絶対意思である理法ですから、かたちに似せるというのは矛盾があります。その解釈としては、ことです人間は唯一、自己を認識し神の思惟の延長とする。神を思惟を認識する限りはその延長です。この特性を神のかたちに創造したと記述していると理解します。神とは物質的な存在ではないため、人間の目には見えません。よって具体的な形などは無く、物理的な外見の形ではなく、内面的・精神的な部分を「我々にかたどり、我々に似せて」と述べていると思われます。神とは宇宙の意識であり、宇宙の意識は我々の意識と等しいのです。我々人間の意識は神の意識に極めて近く、宇宙の意識を構成していると考える。また、有力とされる解釈に「神の高貴さを表す一人称単数ではないか」というのがあります。日本語には私、俺、僕、拙者、朕、余などなどありますが、たとえば英語にはアイしかありません。それで、高貴さを表すのに、一人称単数としてウイを使うことがあります。 スピノザによれば、この世界(大宇宙内に捉われない絶対世界を指すものか、宇宙内存在としての自然世界を指すのか)で唯一自己充足的で確実な実体は神のみである。それ以外のすべてのものは、神「有」に依存して存在している。我々人間の精神も、また身体も、そのほかのすべての事象も神に存在の根拠を有している。神は無限の属性をもっていて、その属性の一つ一つの表れが、この世界で我々が個物とかそれについての人間の認識とかいっているものなのだと指摘しています。
2013年02月18日
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第五の日・恐竜の発展系 創世記第1章第二十節から第二十二節では1:20神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。1:21神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。1:22神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。1:23夕となり、また朝となった。第五日である。 この時代に、神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。生物史から見れば、恐竜などの陸上動物が言及されていないことはおかしいと思われるかも知れないが、恐竜の存在が人類に初めて知られたのは150年ほど前のことで、たとえ聖書にそういう言及があったとしても、当時の人間には意味が分からくて混乱するばかりであったろうと想われます。聖書に限らず仏教に在っても、嘘も方便として、どの時代の人間にも十分に理解できるようにとも考えられます。 ここで、動物は種類にしたがって創造されたとされています。カンブリア爆発以降の地球を記述されているようにも思えます。カンブリア爆発とよばれる現象は、古生代カンブリア紀に多数の生物の種が突然に発生している現象です。それ以前の化石はほとんど見つかっておらず、到底それ以前からの生物が進化してカンブリア紀に突然多種多様に発生したという説明は困難です。進化論が正しいのであれば、最初に或る1つの種が現われ、それが少しずつ枝分かれして、多くの時間を種に進化するはずです。しかし、カンブリア爆発は突然にたくさんの種類の生物が出現しているのです。このカンブリア爆発に関しては進化論の提唱者ダーウィン本人さえも説明が困難であると認めています。恐竜から鳥に進化したのではなく、種類にしたがって鳥は鳥として創造されたのです。ダーウィンの進化論と全く別の考え方です。進化論によれば、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類と鳥類に徐々に自然淘汰の原理で進化したことになっています。しかし、創世記では、別々に種類にしたがって創造しているのです。この種類にしたがっての創造は、一度に創造しており、カンブリア爆発の科学的研究の事実に沿っていることには驚かされます。また海の水に満ちよと、最初に海について述べています。生命は海から発展し、そして次に意外にもと言うよりは、恐竜の発展系の鳥が早い時期から存在していたことは頷けます。我々現代人は、毎日、進化した恐竜の子孫に食を頼っているとも云えましょう。
2013年02月17日
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第四の日・mark〈表徴)としての存在 創世記第1章第九節から第十三節では1:14神はまた言われた。「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、1:15天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。1:16神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。1:17神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、1:18昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。1:19夕となり、また朝となった。第四日である。とあります。これは相当のの難問だ。まず、「第一の日」の光と同じく、「あるようになれ」と翻訳されているのは「ハヤー」で、現れるように或いは見えるようにという意味で、そのときまで、存在していなかったものを創造するということではない。しかし、16節に、「神は二つの大きな光る物と星を造り」と書いてあるので、一般的の翻訳である和訳及び英語で読むと、そのときに神が創造したという印象を受ける。ところが此の辺りが、元のヘブライ語は曖昧です。英語と日本語と違ってヘブライ語は、動詞の自制には三つしかない:未完成自制、完成自制と命令形だけだ。ここでは、完成自制で、既に創り終わっていたことを意味する。だが、それはいつだったか示されていない。第四の日の内にという意味とは限らない。ただ、これらの天体は以前に神によって造られたものだったという意味だ。そのタイミングについては、言及されていない。しかし、それは1節にほのめかされている。即ち、「初めに」、地球が形成される前に。2節に書いてあるように、それ以降の記述は地球の表の視点から描写されるので、そのときまで、直接に見えなかったという解釈が成り立つ。また、日・月・星に対するたとえ唯一神教であればこそ、ヘブル人の太陽と月や星々を「しるしのため」として、云わばmark〈表徴)として捉えていることは、合理的とはいえ、太陽を神格化する多くの宗教に比して、際立った特徴です。これは自然科学の立場から検討すれば、光を通す半透明の大気は下等生物には十分だが、複雑な体内時計を持つ高等動物が存在するなら、その体内時計を調整するために、太陽などの天体の位置を時として確認する必要がある。だから、大気が少なくとも部分的に晴れる必要がある。「季節のしるし」となるのはそういう役割を果たすことで、その時まで、半透明であった大気が透明となり、地上から天体が初めて見えるようになったとも解釈できます。
2013年02月16日
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第三の日・海と大地、草と樹 創世記第1章第九節から第十三節では1:9神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。1:10神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。1:11神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。1:12地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。1:13夕となり、また朝となった。第三日である。第三の日の「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」は、その時点で存在していなかった陸地が海から押し上げられるようにさせます。地球の場合、最初に火山が一時的に海から顔を出す浮島や火山島は早いうちにあったでしょうが、長期的に存在する陸地が出来上がるのは何億年後のことだった。しかし、このところでは、最初に植物から発生し、少しずつ酸素濃度が高まり動物の生存環境の御膳立てがされたこと、此処では著者が、先の2日目の水蒸気で地球が包まれていたことを知っていた事実、この植物が動物より先に発生する必要があることを知っている事実は見逃せません。太古の人類が本来であれば知るはずも無く、植物が酸素を放出していることは、1779年にオランダのインゲンホウスが光合成の研究で植物が酸素を放出していることを発見しました。一番の問題点は「種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」ということばだ。「種」と翻訳された「ゼラ」は「木、草、また他の植物の胚芽」という幅広い意味で、すべての植物に当て嵌まります。そして、「実」(ペルイー)は「生物が作る栄養分また胚」という意味で、同じようにすべての植物に当てはまる。また、「果樹」と翻訳された「エツ」は「植物繊維のある植物」で、木に限らず、雑草などをも含有します。これらのものは後に、人間の益になるものである。
2013年02月15日
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第二の日・息する空間 創世記第1章第六節から第八節では1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ。」1:7そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。1:8神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。とあります。地球の面という視点から考えれば、地球を覆っていた海の面と上にある雲の下と分けられて、視界が開かれる意味となる。原始地球の状態を考えれば、水温がまだ高い海の上に、濃い霧がかかっているという状態から、徐々に霧が上がり、安定した水循環が出来上がる。もちろん、創世記の著者は「水循環」を到底理解していたとは思えません。但し、「大空の下」の水(海)と「大空の上」の水(雲)を分けるという表現は科学的な事実と矛盾しない。此処で云う「大空」とは空間を意味し、その前提として、既に陸上の生命に必要な大気の存在が在ったことが伺えますが酸素濃度が低く動物が生きていくのは難しいでしょう。「神は大空を天と呼ばれた」というのは、まさしく地上から空を見上げた状態を表わしています。しかし、問題は、「大空の上」の水(雲)を天と名づけられたおおぞらに高くに置いたのか、此れは、著者をモーセその人とすれば納得出来ます。モーセを育んだ環境、エジプト内陸部では海は遙か遠く、高山にも恵まれず、後には荒れ野の放牧生活が待っていました。それ故、あくまでも雲は高くあり神聖なものとと見えたでしょう。山川草木・高山にも恵まれた住民の雲海や海の霧などは、想像しえなかったのも無理はありません。富士山級の高山を何時も眺めている環境に居れば雲は中空に在り、海の霧が雲を創っていると考え、「水循環」も想像出来得たでしょう。此れが、創世記以降、特に出エジプト記の旧約聖書の神の現出の表現「炎と雲柱」に影響を与えているのは歪めないところです。
2013年02月14日
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天地創造第一日目の締めくくり 創世記第1章第五節は、1:5神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。とあります。前段では、神はその光を昼と名付け、やみを夜と名付けられた。と地球の自転を想わせる文言が記されています。これは区分けされた「惑星」の部分に、「自転運動」が生じたという意味なのでしょう。つまり「惑星(闇)」が自転運動をすることによって、光(昼)と闇(夜)のある「一日」が創られたの云うのですが、厚き雲に覆われた地球からは太陽(光)が見得る筈もなく、只、光のみが照射している状態だったのでしょう。当然に反対側の部分が闇の夜です。従って、「惑星(衛星)」の自転運動は、この時から始まったことになります。要するに日の光のある状態が「昼」で、日の光の無い「夜」は、闇になります。此処では太陽や月、その他の恒星を著者は認識していません。「夕となり、朝となった」は闇があっても、朝が来るから、闇を恐れないとしたヘブル人の時間概念です。其れゆえ、明るさの在る時を「昼」」、明るさの無い時「夜」は、闇になります。また、「第一の日である」一日は、「主なる神が地と天を造られたとき」と翻訳されているが、元のヘブライ語では、「とき」ではなく、「地と天を造られた日に」(ヨーム)と書いてある。つまり、全期間を単数の「日」として述べているので、これも「創造の日」は24時間の日ではない証拠となる。その上、「神の安息日」が現在にも続いていると直接に書いてある聖書の箇所があるので、明らかに長い期間を意味します。天地創造の一日目の締めくくりの言葉「夕となり、また朝となった。第1日である。」は、ユダヤ暦の一日の始まりが「夕」から始まるのを示しています。また、創世記第1章第五節は余談ですが、この1日というのがどれくらいの長さだったのかは意見の分かれるところです。「1日というのは一区切りという意味で、実際には膨大な時代が経過した」と読む人もあり、「1日と書いてあるのだから1日だ」という人や「当時は現代より地球の自転が早かったから、厳密には現代の1日間より短い」という人もあります。いずれにしても創造の第一日目は此処までで終わります。
2013年02月13日
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神は良しとされた 創世記第1章第四節には「神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」とあります。その前段の「神はその光を見て、良しとされた。」は完成したものに対して神の評価、ヘブライ語でキー・トーブ、「良し」である。これは、この世界を形創るプログラムが、物質世界が作られる以前にすでに神の絶対意識にあり、そのプログラムである絶対意思に従って創られて行くということです。この一文が突出して記されているのは、そうした正当な理由なのでしょうが、創世記の著者(確定的ではないものの以後はモーセとします)は、神性である神に、自己に現出した神の表象、即ち、無意識にモーセ自身の人格性を与えています。絶対存在であり、絶対の意思と精神である神に事の良し悪しを判断する必要はなく、全て神から出ることは善悪を含めて完全体であると云う事です。その絶対意思には、この世界の結末までもが書き込まれているのです。天地の始まりから、終わりまでが既にプログラムされているのです。それ故に、この世界は「確定未来形」であり、未来は決まっています。そして、未来が決まっているということは、その中に存在する我々個々人の未来も、また決まっているということです。つまり我々の運命と宿命は、確定未来形であるということになります。後段の「神はその光とやみとを分けられた。」には、相対性、仏教云うところの縁起が齎されます。これを、「水素」と「ヘリウム」を主成分とする輝く太陽と残りの成分で、闇とされる「惑星」が創られたとする説もありますが、「創世記」天地創造では未だ太陽は未だ登場しておりません。
2013年02月12日
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光の創造 創世記第1章第三節「神は「ひかりあれ」と言われた。すると光があった。」に注目すると、万物の創造をつかさどる神、言い換えれば創造と破壊を司る神が、特定の意味・内容を実現させる力の背景にはヨハネによる福音書の冒頭に述べられる「はじめに言葉(ロゴス)があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった」としての最初に神が発した「ひかりあれ」の前提にロゴスの存在が伺えます。「ひかりあれ」と発したこの言葉には、そうした出来事を発生させる「号令」の意味があったことになります。「あれ」と翻訳された「ハヤー」は「現れる」という意味合いを持ち、創造するという意味ではありません。そこから、地球の表面から光を認識できるようになったという解釈が成り立つ。科学的に考えれば、原始地球を覆っていた、光を完全に遮った塵やガスが徐々に薄くなり、大気が半透明となったと解釈すれば、矛盾がなくなりますが、この光は、太陽光ではないのです。太陽が創られるのは、創造の第4日目なのですから。では、この光はというと、神の栄光(Shekinah Glory)なのでしょうか。また、この「ひかりあれ」の解釈を「光の速さで創られて行く三次元世界よ、出現せよ」という意味にとり、意味・内容の実現を、宇宙の「ビッグ・バン」という現象に当て嵌める説も在り得ますが多少の無理があります。
2013年02月11日
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神の霊 創世記第1章第二節の「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」に移ると、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」とあります。「地」は、すなわちこの原初世界の状態を意味し、大地を意味してはおりません。また、「混沌であって」は、原語ではボーフー、トーフーということばが使われていますが、「形なく・むなしく」二つの言葉からなる熟語です。「地は形なく、むなしく」は秩序もなく、存在の意味もないことを意味します。「混沌、闇、深淵」というのは、全てが混在していて、秩序だった法則性が確立されていない状態のことです。言うなれば、三次元の物理法則が成り立たない状態、或いは「異次元空間」三次元的な物質世界が、まだ成立存在しない状態です。従って、この世界が「無から始まった」というのは、まさに正しい考え方であるとも言えるわけです。第1章第二節では、大宇宙の形成から、地球の表面に話は移る。それによると、地球全体が水(岩石が溶けたマグマの海でとても現代の海水とは程遠かったであろう)に覆われて、光がない暗闇の混沌した状態。現代の天文学によると、地球が形成された45億年前に、太陽の光が地面に到達できない、厚い雲に覆われていた「水」(冷えて地表のマグマが固まると、大気中の水蒸気が一斉に雨となり「原始の海」ができる)の世界だった地球型の惑星が形成される時の状態が表象されます。しかし、第二節のもっと大事なポイントは「神の霊が水の面を動いていた」という文言(モンゴン)です。神が人を造り、「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」という文章にしても、その「息」というのは、ヘブライ語では「ルーアハ」といいます。実は、この「ルーアハ」という言葉は、「息」という意味であると同時に、また「霊」・「風」という意味をも併せ持っているのです。「神の霊が水のおもてを覆っていた」という箇所に見られる「神の霊」にも、この「ルーアハ」という言葉が使われています。ビッグバン (Big Bang)以前の原初宇宙の核とも云える絶対存在が、生命を吹き込む霊的存在として登場しています。後のキリスト教に於ける三位一体論、神は唯一でありながら御父・御子・聖霊という、存在においては一つであり、三者が、互いにその区別を保ちながらも、存在と本質において一体であるとします。一つ重要なことは、三位一体論は「一神三様態論」ではない、三位の神は、存在と本質においては全て一体とされるということです。それ故、無から宇宙を誕生させた絶対存在の創造神と生命を吹き込む霊的存在、預言者に現れる存在者も存在と本質において一体だとすることに矛盾は在りません。「水のおもてを覆っていた」の文節にしても、神が地球(海)の表面から海の中に何かの働き掛けをしていたと捉えて、およそ神が空の上の視点から常に行動すると云う誤謬には陥らぬことに注意したい。
2013年02月10日
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天地を創造 初めに、「神は天地を創造された。」「天地」と翻訳されたのはシャマーイム(複数形の天)エレツ(地)というヘブル語が複合合成された単語で、その「天地」という組み合わせはは、宇宙全体を意味するとしています。しかし、未だ可視世界である地球環境に捉われている人間には、その宇宙観も大地を中心に考えられる、つまりは物質的な世界を指し示し、此処は、古今東西の神話に見られるとおり「混沌」と理解した方が、後の記述「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」と矛盾しません。 そして、「創造された」と翻訳された単語はヘブル語「バラ」で、根本的に以前に存在していなかった新しいものを創るという意味あいをもっています。宇宙が全くの「無」(質量・運動の無い世界・エネルギー皆無)のビッグバン以前の原初宇宙の核とも云える存在を考察する事は無理がありますが、時間が存在を許されない核にビッグバンの起爆剤なるものが存在していたことは疑えません。そのものは一種の運動エエルギーでなかったのか、運動が時間の発生以前のビッグバン以前に存在したならば、アリストテレスの時間運動依存説は粉砕されます。それが絶対無に位置を占める「絶対存在」としての「有」である神そのものだとも云えましょう。聖書の他の箇所と合わせたら、聖書が教えているのは、神の天地創造の意志に伴い時間が始まり、それとと共に、神が全くの無から宇宙全体を創造したという意味にとれます。100年以前の科学では、宇宙が永遠から存続するものだという考えが大勢を占めていましたが、現在の「ビッグバン理論」ではこの点においては、「創世記」の記述と合致しています。著者(モーセ)が原文を書いたとして、当時の人たちの知識に、「ビッグバン宇宙論」などというものは存在しませんでした。また「インフレーション宇宙理論」というのも、つい最近になって提出されたものです。さらに、この世界が「無」から始まったという考え方も、極めて新しいものです。ジョージ・ガモフが「ビッグバン宇宙論」を発表したのは、1948年のことでした。わずか五十年ほど前のことです。また「インフレーション宇宙論」が、佐藤勝彦氏とアラン・グースによって発表されたのが1981年のことでした。たった二十年前のことです.その後、アレキサンダー・ビレンキンが「無からの宇宙創生論」を発表し、ホーキングがそれをさらに発展させるという過程をたどりました。ところが数千年も前の旧約聖書の「創世記」の内容が、そうした最先端の宇宙理論を適合させた時にうまく理解できるとしたら、その理由は、何かということです。合理的ではないにしても興味津々たるものがあります。
2013年02月09日
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はじめに神は(二)永遠と神 そもそも、神の永遠は、時間の観念とはかかわりがない。時間というものは非実在的なものであり、過去とか未来とか呼ばれるものは人間の表象の中にしか存在しない。過去あるいは未来としての出来事にかかわることは、理性が関知すべき事柄ではなく、出来事は常に現在としての出来事であり、今から遡った或る観想し得る時間・今の現時・今から来るとする予想し得る或る時間は「(1)仮象でなく真実在であること。(2)人間精神から離れた独立在であること。(3)一としての全体存在であること。(4)矛盾がない完全体であること」が要求される実在性を満たさず、過去時の反省や未来に対する希望とか恐怖は、必然性に対する我々の無知から起こることなのであり、我々は無知のゆえに未来を変えられると思ったり、逆に恐れたりするのだ。生起するものはすべて、必然性に基づいて生起する。そこには偶然はなく、したがって人間が恣意的に介入できる余地はないと云えます。此の必然性は時間の流れに従って継起するのではなく、時間の流れとは無縁であり、時間を超越している。この超越した必然性のあり方を「神」と捉えると、時間を超越している。この超越した必然性のあり方が見えてきます。そこには以前も以後もない。あるのは現在だけである。そしてこの現在のうちに顕現している必然を「永遠」として世界の存在を一瞬のうちに捉えることが出来得るもの、おそらくは宇宙を一瞥で捉えることができる存在が「神」に違いないのです。そもそもビッグバンを引き起こしたコア(核)なるものに、宇宙の理法なるもの、光や時間の存在は在り得ず、「はじめに神は」を「終わりに神は」と云ってもいっこうに構わず、人間の表象する時間性が「始めであり、終わりである」神の存在を表現しています。そこに事物の生成されない世界の幻を「神の言葉」から「人間の言葉」に翻訳する「預言者(予言ではない)」の登場する余地があります。
2013年02月08日
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はじめに神は(一)時制と神 旧約聖書は「第1章1:1はじめに神は/天と地とを創造された。」創世記第1章第一節第一項から、突然に神の世界創造が唄われています。凡そ多くの人がこの天地創造の由来を単純に読んだら、天地の始まり以前に、神の存在があることを理解されるでしょう。創世記の著者(確定的ではないもののモーセ)は、世界を地球及び可視出来得る世界をイメージしていた筈ですから、此処には大宇宙論は馴染めません。それ故、神が内宇宙存在として大宇宙の霊的存在であったとしても矛盾は生まれません。また、「はじめに」という言葉の背景には、既に、時制が侵入していることにも注目する必要があります。このことは、宇宙論的にみれば、空間及び時制無しのビッグバンの核には物体もエネルギーも運動さえも存在出来得ずBUNGEを起こす起爆剤・触媒としての絶対存在及び絶対意志の存在を予定してはおりません。為に「はじめに」という言葉には神が内宇宙存在として大宇宙の霊的存在としては認められるものの、そこには二つの永遠の存在があると考えられます。一つは無限の持続であり、不朽の時間的偏在です。片方は数学的な捉え方、数学的真理を永遠の真理と表現する無時間的な永遠。過去・現在・未来と云った分節がない無時間・超時間性が著わされてはいません。一応、旧約・新約・イスラムの教えは無時間・超時間の永遠、言い換えれば、世界時間の垂直的な姿を「神」に、水平的に流れる時間線、いわば時間的無限を世界に帰して両者を区別していますが、それを数学的真理を基本に絶対的な過去・現在・未来と云った分節を超えた永遠の瞬間と捉えれば、永遠の真理(絶対存在・神)の相貌が浮かび上がってきます。ところが、著者は神を霊的存在としての人格神と捉えているため「神」に、水平的に流れる時間線、いわば時間的無限を与えています。また「神は」は、神を霊的存在としての人格神と捉えています。言い換えれば、世界存在外のロダンの「考える人」的存在、何しろ、人間が神に似せて創造されたのなら、此れを認めないわけにはいかないでしょう。しかし、絶対「有」として神を観想するならば、存在以前ににあって、宇宙の存在そのものと不可分なもの、あらゆる事象の根拠となって、しかもその事象のうちに顕現しているものと捉えるべきでしょう。この神の属性は理念的には必然性をあらわし、存在性格としては永遠性という形をとる。だから我々が神について想念するとき、我々は永遠の相の下に世界を見ることになります。ところで、普通我々は、永遠を時間と関連付けて考える。一つには始めも終わりもない無限の時間といったものがある。それは過去、現在、未来からなる線的な時間の流れを前後に無限に引き延ばしたものといえる。反対にこうした時間の流れを超越した無時間的なものを永遠と考えることもあるが、これも時制が入り込み、時間に関連付けて永遠を定義していることには変わりはない。
2013年02月07日
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「オリエントの神々」序章33・ギルガメシュ余話・第十二の書板 天地が創造されてしばらく経ったある時、ユーフラテス川のほとりに柳の木が生えていた。 これが南風により倒れ、川の氾濫によって流され、これを見つけたイシュタルによって椅子と寝台にする目的で聖なる園に植えられる。ところがその木に蛇やズー、リリトが棲みつき、これを聞いたギルガメシュにより蛇は撃ち殺され、ズーとその子供達は山へと、リリトは砂漠へと逃げていった。ギルガメシュの家来たちによって木は切り倒され、イシュタルはその礼に木の根元から太鼓と撥を作り、ギルガメシュはこれを受け取る。 ところが、詳細は不明だが若い娘たちの叫び声が原因となって太鼓と撥は大地の割れ目から地下に落ちてしまった。そこでエンキドゥが冥界に向かうこととなり、ギルガメシュはあらゆる注意事項をエンキドゥに言い聞かせるが伝わらず、エンキドゥはタブーを破って冥界に囚われてしまう。ギルガメシュはエンリルに助けを求めるが取り合わず、エアに助けを求めると彼は承諾した。最後は冥界にいるエンキドゥが、エア神と太陽神シャマシュの助けによって影(すなわち魂)のみ地上に戻る。その後はエンキドゥにより冥界の様子が語られる。 此の版の話は、「プック」「メック」と呼ばれる木製品を冥界に落としたギルガメシュが嘆いているところから始まる。そこへエンキドゥがやってきて、それらを取り返してこようと提案する。ギルガメシュはいくつかの忠告をして彼を送り出したが、彼はそれを聞かず、冥界に捕らえられてしまう。ギルガメシュはエンリルとシン神に願うが応えてもらえず、エア神に申し出ると、冥界に穴をあけよと教えられる。ギルガメシュがそのとおりにすると、穴からエンキドゥの死霊が立ち上ってくる。ギルガメシュとエンキドゥの霊の間で冥界の情景に関する問答が続き、その途中で急に終わってしまう。この話は、もとシュメール語で記された『ギルガメシュ、エンキドゥ、冥界』という作品の後半部分のほぼ正確なアッカド語訳。しかし、それも途中までしかなされていない。書版本文はこういう文で終わっている。「その霊が供養を受けないものを見たか」「見ました。彼は器からこそぎ落とした物や通りに投げ捨てられたパンのかけらを食べていました」 第十一の書版までで、物語はギルガメシュの不死の生命の探求とその失敗を語ってきたが、死後については語っていない。アッカド語版『ギルガメシュ叙事詩』の物語は第十一の書版で完結するが、第十二の書版には、これに全く連続していないエピソードが記されている。粘土版1-11とは独立する版と云えます。人は死後どうなるのか。この書版は、それに答えを出すため、また死者供養の重要さを伝えるために、物語と関係ないシュメール語の原文文書の本文の一部を訳出してここに加えたものだろうとされています。
2013年02月06日
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「オリエントの神々」序章33・ギルガメシュ叙事詩・第十一の書板(最終章) ウトナピシュティムは船頭のウルシャナビに向かって言った。「ウルシャナビよ、船着き場がお前を嫌がり、渡り場がお前を嫌うように。岸伝いに行く者は、その岸から追放しなさい。お前がここへ連れて来た人間は体中垢だらけだ。その体の立派さが表皮のおかげで台無しだ。ウルシャナビよ、彼を洗い場へ連れて行きなさい。水で彼の垢を雪のように清く洗わせなさい。表皮を投げ捨てて、それが波にさらわれるようにしなさい。彼の体の立派さが現れ出るようにしなさい。彼の頭の鉢巻きを新しいものと替えなさい。彼に立派な衣服を着けさせなさい。彼は自分の町に辿り着き、彼が彼の旅を成し遂げるまで、彼の衣服は色あせず、真新しいままであるように。」ウルシャナビは彼を洗い場へ案内した。彼は水で垢を雪のように清く洗った。彼は表皮を投げ捨て、それが波にさらわれるようにした。彼の体の立派さが現れ出た。彼は頭の鉢巻きを新しくした。彼は立派な衣服を着けた。彼は自分の町に辿り着き、彼が彼の旅を成し遂げるまで、彼の衣服は色あせず、真新しいままだった。ギルガメシュとウルシャナビは舟に乗った。彼らは舟を出し、航海に出ようとしていた。彼の妻は遥かなるウトナピシュティムに言った。「ギルガメシュは大変な苦労をしてここまでやって来た。彼に何も与えないままで、国へ帰すのですか。」するとこれを聞いたギルガメシュは舟のオールを持ち上げて、舟を岸辺へと向けた。ウトナピシュティムはギルガメシュに向かって言った。「ギルガメシュよ、貴方は大変な苦労をしてここまでやって来た。私は何も貴方に与えていないのに、国へ帰すわけにもいくまい。ギルガメシュよ、貴方に隠された事柄を明かそう。そして神々の秘密を貴方話してあげよう。その根が藪のトゲのような草がある。そのトゲは野バラのように貴方の手を刺すだろう。貴方がこの草を入手できたなら、貴方は不死の生命を手に入れることができる。」ギルガメシュはこれを聴くやいなや取水口を開き、重い石を自分の両足に縛り付けた。石が海の底へと引き込むと、そこにその草を発見した。彼は草を取ったが、トゲは彼の手を刺した。彼は重い石を両足から外した。海は彼を岸辺へと押し返した。ギルガメシュは船頭ウルシャナビに向かって言った。「ウルシャナビよ、この草は特別な草だ。人間はこれでもって生命を新しくするのだ。私はこれをウルクへ持ち帰り、老人にそれを食べさせ、試してみよう。その草の名はシーブ・イッサヒル・アメルという。私もそれを食べて若かった頃に戻るとしよう。」二十ベール行ってから、彼らはパンを食べた。三十ベール行ってから、彼らは夜の休息をとった。するとギルガメシュは水が冷たい泉を見つけた。彼は水の中へ降りて行って水浴をした。一匹の蛇が草の香りに惹き寄せられた。水の中から忍び寄り、草を取った。戻って行く時に、抜け殻を残して行った。そこでギルガメシュは座って泣いた。彼の頬を伝って涙が流れた。彼は船頭ウルシャナビの手を取って言った。「ウルシャナビよ。何の為に、私は苦労をしてきたのだろう。何の為に、私の心臓の血は使われたのだろう。私自身は恩恵を受けることができなかった。大地のライオン(蛇のこと)が恩恵を持っていってしまった。もう二十ベールも、流れがあの草を運び去ってしまった。」二十ベール行ってから、彼らはパンを食べた。三十ベール行ってから、彼らは夜の休息をとった。ウルクに着いた時、ギルガメシュは船頭ウルシャナビに向かって言った。「ウルシャナビよ、ウルクの城壁を登り、歩いてみなさい。礎石を調べ、レンガをあらためなさい。そのレンガが火焼きレンガではないかどうか、七人の賢人がその基礎を置いていないかどうかを。ウルクの町の広さは一シャル、果樹園は一シャル、粘土をとる低地が一シャル、それにイシュタル神殿の未耕作地。つまり、ウルクは三シャルと更に未耕作地からなっている。」
2013年02月05日
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「オリエントの神々」序章32・ギルガメシュ叙事詩・第十一の書板(三) 「だが今は、誰が貴方の為に神々を呼び寄せて集合させることができるのですか。貴方の求める生命を、貴方が見つける為に、六日と六晩眠らずに起きていなさい。」ギルガメシュがウトナピシュティムの足もとに座ると、眠りが雲のように彼の上に漂った。ウトナピシュティムは彼の妻に向かって言った。「生命を求めるこの若者をご覧。眠りが雲のように彼の上に漂っている。」彼の妻は遥かなるウトナピシュティムに向かって言った。「その人が目を覚ますように触れてあげなさい。やって来た道を無事に帰って行くように。出発した市の門を目指して彼の国へ帰るように。」ウトナピシュティムは彼の妻に向かって言った。「人間はずるいものだから、彼はお前を騙すだろう。さあ、彼にパンを作ってやり、枕許に置きなさい。そして彼の眠った日数を壁にしるしをつけておきなさい。」彼女は彼にパンを作ってやり、それを枕元に置いた。そして彼の眠った日数を壁にしるしをつけた。彼の最初の日のパンは干からびてしまった。二日目のパンは傷み、三日目のパンは湿り、四日目のパンは皮がカビで白くなった。五日目のパンは灰色になり、六日目のパンは焼きたてだった。七日目のパンがまだ炭火の上にある時、ウトナピシュティムが触れると男は目を覚た。ギルガメシュは遥かなるウトナピシュティムに向かって言った。「眠りが私を襲ったと思ったら、貴方は私に触れて起こしてくれたのですか。」ウトナピシュティムはギルガメシュに向かって言った。「ギルガメシュよ、行ってパンを数えなさい。貴方が眠った日数がお前に分かるだろう。貴方の最初の日のパンは干からびてしまった。二日目のパンは傷み、三日目のパンは湿気り、四日目のパンは皮がカビで白くなった。五日目のパンは灰色になり、六日目のパンは焼きたてだった。七日目のパンがまだ炭火の上にある時、貴方は目を覚たのだ。」ギルガメシュは遥かなるウトナピシュティムに向かって言った。「ああ、ウトナピシュティムよ、私はこの先どうしたらよいでしょう。私はどこへ行ったらよいのでしょう。私の肉体を死神がシッカリと捕まえてしまったのです。私の寝室には死が座っている。そして私がどこに顔を向けても死が待ち構えています。」 ギルガメシュは一人孤独になりました。恐ろしい考えがギルガメシュの魂を衰弱させます。エンキドゥの死によって、ギルガメシュは、人間は死ぬものだということを意識します。ウトナピシュティムは「ギルガメシュよ、おまえが探し求める生命を見いだすために、いまは誰が神々を集わせてくださるだろう。さあ、六日、六晩、眠らずにいてごらん」ウトナピシュティムは、六日とと六晩眠らずに、眠りに陥ることがなければ、不死の意識にいたることが出来ると言い、ギルガメシュはこの試練を受け入れるのです。ところが、ギルガメシュがウトナピシュティムの足下に座している間、眠りが霧のように彼の上を吹きわたった。ウトナピシュティムは、妻に語った。「生命を求めるこの若者をごらん。彼の上には眠りが霧のように吹きわたる」眠りと死の垣根は低く、ギルガメシュは冥界の霧に捕らえられた。最初の日に焼いた乾いたパン、第二日に傷んだパン、第三日の湿ってべたついたパン、第四日の白くなったパン、第五日の灰色のパン、第六日に焼かれたパン、第七日に焼かれるパン、これらのパンを眠らずに起きて食べることによって、六日と七夜かけて獲得されるものが得られたはずでした。ギルガメシュは、言う。「ああ何ということだ。不覚にも眠ってしまったのか。ウトナピシュティムよ。私はどのようにして、どこへ行ったらよいのです。略奪する者たちが、この身体をしかとつかまえてしまったのです。わたしの寝室には死が腰をおろしています。わたしがどこに顔を向けようと、そこにはただ死があるのみです。」ギルガメシュは斑点としみの浮き出た、変わり果てた自分の身体を見出します。
2013年02月04日
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「オリエントの神々」序章31・ギルガメシュ叙事詩・第十一の書板(二)「その時がやって来た。シャマシュは、朝にはクックを、夜には小麦の雨を降らせた。私は嵐の様子を眺めた。嵐は凄まじかった。私は舟の中に入り、入り口を塞いだ。私は舟を外から閉じるのと引き替えにプズル・アムルに自分の宮殿をその中身ごと与えた。夜が明ける時、天の底から黒雲が起きあがりた。アダドはその真ん中で雷鳴をとどろかせた。先導者としてシュルラットとハニシュが国々を行き過ぎた。エルラガルが舟の止め柱を引き抜いた。ニヌルタは進み行き、水路を溢れさせた。アヌンナキは火を掲げて、国土はその輝きによって燃えさかった。アダドに対する怖れは天にまで達した。彼は全ての光を暗黒に戻した。その雄叫びで広い国土は壷のように打ち壊された。終日、暴風が吹き荒れた。激しく吹いて、大洪水が大地を襲いた。まるで戦争のように、人々の上に破滅が走った。彼らはお互いに見ることもできなくなりた。人々は天からさえ見分けられなくなった。神々さえも洪水に驚き慌てた。退いてアヌの天へと昇って行った。神々は犬のように縮こまり、外壁に身を潜めた。イシュタルは出産時のように絶叫した。声よき神々の君イシュタルは嘆き声を上げた。古い日々は、粘土になってしまいました。私が神々の集いで禍々しい事を口にしたからだ。なぜ神々の集いで禍々しい事を口にしたのだろう。私の人間たちを滅ぼす為に、戦争を命じてしまったのだろう。人間たちを生み出したのは、この私なのに。魚の卵のように彼らは海に充ち満ちたのに。アヌンナキの神々は彼女と共に泣きた。神々は悲嘆に濡れ、座って泣いた。彼らの唇はすっかり乾き、調理した食物にさえ触れませんでした。六日と六晩に渡って風と洪水が押し寄せ、暴風が国土を荒らした。七日目がやって来ると、洪水と嵐は戦いに負けた。それは陣痛のような戦いでした。海は静まり、悪風は収まり、洪水は引いた。空模様を見ると、静寂に満ちていた。そして全ての人間は粘土に戻っていた。草原も粘土で出来た平屋根のようになっていた。舟の蓋を開くと、光が私の顔に降り注いだ。私はひざまずき、座って泣きました。涙が私の顔を伝わって流れた。私は海の果てに岸があるのを見つけた。十二ベールの距離に陸地が現れた。ニシル山に船が漂着した。ニシルの山は舟を捕らえて動かしませんでした。一日目も二日目もニシルの山は舟を捕らえて動かしませんでした。三日目も四日目もニシルの山は舟を捕らえて動かしませんでした。五日目も六日目もニシルの山は舟を捕らえて動かしませんでした。七日目がやって来ると、私は鳩を解き放ちました。鳩は飛び去ったが、舞い戻って来た。休み場所が見当たらないので、帰って来たのです。私は燕を解き放った。燕は飛び去ったが、舞い戻って来た。休み場所が見当たらないので、帰って来たのです。私はカラスを解き放った。カラスは飛び去り、水が引いたのを見て、ものを食べ、ぐるぐる回り、尾羽を高く掲げて、帰って来ませんでした。そこで私は四方の風に鳥の全てを解き放し、犠牲を捧げました。私は山の頂に御神酒を注ぎた。七つ、また七つの酒杯を私は置き、その香の皿の上には葦と杉の木とギンバイカを置きた。神々はその芳しい香りを嗅ぎた。神々は蠅のように捧げ物の施主のもとに集まってきた。さてそこに大女神イシュタルがやって来て、アヌが彼女を喜ばせる為に造った立派な金銀細工を取りた。彼女は言いました。この神々を私の首にかかるラピス・ラズリほどにも忘れはしません。この日々を心に留め、決して忘れはしません。神々よ、捧げ物の方へ来てください。エンリルは捧げ物の方へ来ないでください。彼は軽率に洪水を起こしたからです。そして私の人間たちを破滅にさせてしまったからです。そこにエンリルがやって来て、舟を見るとエンリルは腹を立てた。彼はイギギの神々に対しての怒りで、心がいっぱいになりました。なぜ生き物が大洪水から助かったのだ。一人も生かさないつもりだったのに。ニヌルタは英雄エンリルに言いた。エア以外の誰がそんなことを計画できょうか。エアだけが全てを知っていたのだから。エアは口を開いて英雄に言いた。神々の賢者であり、英雄なのに、なぜ軽率に洪水を起こしたのだ。罪ある者には彼の罪を、咎のある者には彼の咎を負わせなさい。それで容赦してあげなさい。彼を抹消してはならない。それで我慢しなさい。彼を殺してしまってはいけない。洪水を起こす代わりに、ライオンを立ち上がらせて人間を減らすようにすればよかったのに。洪水を起こす代わりに、狼を立ち上がらせて人間を減らすようにすればよかったのに。洪水を起こす代わりに、飢饉が起こるように、国土をやせ細らせたらよかったのに。洪水を起こす代わりに、イルラ(エラ・疫病をもたらす神)を立ち上がらせて人間を打てばよかったのに。偉大な神々の秘密を明かにしたのは私ではない。アトラハシスに夢を見せたら、彼は神々の秘密を聞き分けたのだ。さて今、貴方自身が彼をどうするか決定しなさい。そこでエンリルは舟の中へ入って行きた。私の手を取って、私を乗船させた。彼は私の妻を乗船させ、私の傍らにひざまずかせた。祝福する為に私たちの間に入り、私の額に触れて言いた。これまでウトナピシュティムは人間でしかなかった。今からウトナピシュティムとその妻は我ら神々のようになりなさい。ウトナピシュティムは遥か遠い地の河口に住みなさい。こうして神々は私を連れ去り、遥か遠い地の河口に住まわせたのです。」 その時がやってきた。暁が輝き始めたとき、天の基から黒雲が立ち上った。天候を司る神アダド神は雲の中から吼え、嵐の布告使シャラト神とハニシュ神がその先駆けとなった。冥界の神ネルガル別名エルラガルが方舟の留め柱を引き抜き、戦士であり戦いの神ニヌルタ神が堰を切った。地上と冥界の神々アヌンナキは松明を掲げ大地を燃やそうとした。アダドの沈黙により全地が暗くなると、続く雄びで全地は壺のように破壊された。終日暴風が吹き荒れ、、大洪水が大地を覆った。戦争のように、人々の上に破滅が走った。彼らは互いに見分けもつかなかった。神々も大洪水を恐れ、アヌ神の天に昇ってしまった。神々はうずくまった。イシュタルは絶叫し、嘆いた。「いにしえの日が、粘土と化してしまったとは。私が神々の集いで禍事を口にしたからか!どうして禍事を口にしてしまったのか。人間を滅ぼすために戦争を命じてしまったのか。私が生んだ、わが人間たちが、稚魚のように海面を満たしている。」アヌンナキも彼女とともに泣いた。神々は嘆き、食物さえとらなかった。
2013年02月03日
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「オリエントの神々」序章30・ギルガメシュ叙事詩・第十一の書板(一) ギルガメシュは遥かなるウトナピシュティム(utnapishtim)に言った。「ウトナピシュティムよ。貴方の姿を見ても、私が貴方であっても奇しくないほど、全然違いがないではありませんか。どうかお願いです。私に貴方がどのようにして神々の集まりに立って、不死の生命を探し当てたのかを話してください。」ウトナピシュティムはギルガメシュに向かって言った。「ギルガメシュよ、貴方に隠された事柄を明かそう。そして神々の秘密を話してあげよう。シュルッパクの町は、貴方も知っている町だが、ユーフラテス川の岸辺に位置している。それは古い町で、中に神々が住んでいました。彼らは、大いなる神々に洪水を起こさせたのです。そこにいたのは彼らの父であるアヌ。彼らの助言者である英雄エンリル。彼らの玉座を運ぶ者ニヌルタ。彼らの水路監督エンヌギ。エアは彼らの言葉を葦屋に向けて叫びました。葦屋よ、葦屋よ。壁よ、壁よ。葦屋よ、聞け、壁よ、悟れ。シュルッパクの人、ウバラ・トゥトゥの子よ、家を打ち壊し、方舟を造れ。持ち物を棄て、生命を求めよ。生命あるもののあらゆる種を方舟に導き入れよ。お前が造るべきその舟は、その寸法を定められた通りにしなさい。その長さと幅は同じにしなさい。アプスーのようにそれを屋根を覆いかぶせるようにしなさいと。私はこれを知って、我が主エアに向かって言いました。我が主よ、貴方が言われたことを、私は慎んで行います。でも私は町の人々や長老たちになんと答えたらよいでしょうか。エアは口を開いて語り始めました。彼の僕である私に向かって彼は言ったのです。お前は彼らに話すがよい。エンリルが私を嫌っていることを知りました。私はもう、あなた方の町には住めません。エンリルの領地に自分の足を置くこともできない。アプスーへ行き、我が主エアと共に住むのです。彼はあなた方の上に豊かさを雨のように降り注いでくれるでしょう。鳥や魚の隠れ場所などを、国土は豊かな収穫もたらすでしょう。朝にはクックを夜には小麦の雨を貴方方の為に降り注ぐでしょうと。夜が明け始めた時、私の所に国の人々が集まってきました。大工は舟柱を運びました。石工は石を運びました。金持ちたちはアスファルトを運びました。貧乏人たちは必需品を運びました。五日目に私はその骨組みを築きあげました。その表面積は一イクー、その四壁の高さはそれぞれ十ガル。その覆いの板の幅はそれぞれ十ガル。私はそれに形をつけ、その姿を描き出しました。それに六枚の床板をつけ、全体を七階に分け、各階を九部屋に分けました。木栓をその真ん中にはめ込みました。私は舟のオールを調達し、必需品を調えました。私は六シャルの瀝青を、かまどへ注ぎ込みました。三シャルのアスファルトを舟の内部へ注ぎ入れました。また、一万八百人のカゴを運ぶ労働者達が油を持ち込みました。それ以外に、一シャルの油を防水用に費やし、二シャルの油は船乗りたちが貯えておきました。人々の為に、私は何頭も雄牛を屠りました。日ごとに、何頭も雄羊も屠りました。上等な麦酒、油、それに白葡萄酒を。私は川の水ほどもスープを飲ませました。まるで正月のように彼らは祝祭を催しました。太陽が昇る頃、私は塗油の容器を開いて自分の手に注ぎました。第七日目に船は完成しました。その進水はなかなか困難でした。床板を上下に動かさなければならなりませんでした。やっと船体の三分の二が水中に入りました。私はあたりの物を全て舟に積み込みました。私は全ての銀を舟に積み込みました。私は全ての金を舟に積み込みました。私は全ての生き物の種を舟に乗せました。私は全て家族や親族を舟に乗せました。野の獣、野の生き物、全ての職人たちを船に乗せました。シャマシュは私の為に時を定められ、こう言いました。朝にはクック(パンの一種・旧約のマナを指しているのかも)を、夜には小麦の雨を降り注ぐだろう。さあ、舟の中に入って入り口を塞げ。
2013年02月02日
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「オリエントの神々」序章29・ギルガメシュ叙事詩・第十の書板(後半) ウトナピシュティムは遠くからこれを眺め、いろいろと想像して、言葉に出して自問自答した。「何故、舟の石は壊されているのだろう。その船主でない者が乗り、櫂を漕いでいるのだろう。やってくる者は私の従者ではない。」ウトナピシュティムはギルガメシュに言った。「何故、貴方の頬はこけて、疲れた顔をしているのか。何故、貴方の心はズタズタで、やつれた格好をしているのか。何故、悲しみが貴方の胸に押し寄せるのか。貴方は長旅をした人のように疲れた顔をしています。貴方の顔は暑さと寒さで焼け付いています。貴方は獅子の皮を着て野をさまよっています。」ギルガメシュは船頭ウルシャナビに語った。「どうして、私の頬がこけて、疲れた顔をしていないはずがありましょう。私の心がズタズタで、やつれた格好をしていないはずがありましょう。悲しみが私の胸に押し寄せない筈がありましょう。私が長旅をした人のように疲れた顔をしてない筈がありましょう。私の顔が熱さと寒さで焼け付かない筈がありましょう。私が獅子の皮を着て野を彷徨わない筈がありましょう。私の友エンキドゥは狩られた野騾馬、山の騾馬、荒野の豹だ。私たちは力を合わせて、山々を渡り歩きました。都城を奪い、天の牛を討ち取りました。杉の森に住むフンババを滅ぼしました。山の麓でライオンどもを殺しました。私が愛し、労苦を共にした我が友、私が愛し、労苦を共にしたエンキドゥ、彼に死の宿命が襲ったのです。昼も夜も、彼に向かって私は涙を流しました。彼を墓へ運びこませたくなかった。もしや我が友が私の嘆で生き返るのではないかと思いました。七日と七晩の間、彼の鼻の穴から蛆虫がこぼれ落ちるまで。私の友の言葉は私に重くのしかかり、私は遠い道のりを旅しました。エンキドゥの言葉が私に重くのしかかり、私は遠い道のりを旅しました。私はどうして沈黙を保てましょうか。私が愛した友は粘土になってしまった。私が愛したエンキドゥは粘土になってしまったのです。私も彼のように横たわるのでしょうか。私も永遠に起きあがらなくなるのでしょうか。」ギルガメシュはまたウトナピシュティムに言った。「私は行って、人々が語り伝える遥かなるウトナピシュティムに会いたいと思いました。全ての国々を歩き回り、困難な山々を越え、全ての海を渡り、私はずっと安眠することができなかったのです。私は眠れぬまま、自分に不安を抱き、自分の肉体を悲しみで満たしたのです。女主人のもとに辿り着かないうちに、私の衣服はボロボロになりました。私は熊、ハイエナ、ライオン、豹、虎、大鹿、野山羊、野の動物たちを殺し、それらの肉を食べ、それらの破れた毛皮を着ています。悲しみの門はアスファルトと瀝青をもって閉ざしたらよいのに。ところが悲しみは私を弄び、私の心に触れ、私に不幸を放つのです。」ウトナピシュティムはギルガメシュに言った。「ギルガメシュよ。何故、貴方は悲しみを長引かせるのか。貴方は神々と人間との肉をもって造られたのだ。貴方の父と母のように神々は貴方を造ったのだ。ギルガメシュよ。いつ、貴方は愚か者になったのだ。人々は集会に玉座を据え、愚か者にはバターの代わりに泥糟が与えられる。くず麦やクックシュ粉をパンの代わりに食べる。彼は粗末な毛皮を衣服の代わりに着る。ギルガメシュよ。もし、貴方が神々の神殿を世話するならば、神々は貴方から悪者、敵、邪術を遠ざけて下さるだろう。人間は必ず死ぬ運命にある。そして、神々がエンキドゥをその運命に連れ去ったのだ。何故、貴方は眠らずにいたのか。貴方は眠らずに、自分を疲れさせ、貴方自らの体を悲しみで満たしている。そして、貴方は死に急いでいる。人間の名前は葦原の葦のようにへし折られる。美しい若者も、美しい娘も死にへし折られる。誰も死を見ることはできない。誰も死の顔を見ることはない。誰も死の声を聞くことはできない。残酷な死は、ただ人を打ち倒す。何時か、我々は家を建てて、ねぐらを造る。何時か、兄弟たちが遺産を分け合う。何時か、国同士が敵対する。何時か、川が氾濫して洪水が起こる。トンボたちは水面をただよい、その顔は太陽を見上げる。けれども、突然全ては消滅する。眠る者と死ぬ者はよく似ている。人々は死の姿を描くことはできない。私もかつては若者だった。私に対する祝福が告げられた時、偉大な神々アヌンナキ(地上と冥界の神々の集合名詞)は集まり、創造の女神マミートゥム(ネルガルの配偶神で運命を司る)が天命を定め、彼らと友に天命を決めたのだ。彼らが死と生の定めを確立したのだ。ただ、人間自身は死ぬ日のしるしも、生のしるも見ることはできないだ。」 死の川渡りを体験し、漸く不死の命を持つウトナピシュティム(旧約聖書ではノア)に会う。しかし、不死の命の謎を、いくら聞いても教えてくれなくて、神がそうしたと言うだけです。人間にとって、死は与えられた平等な出来事で逃れることができないとギルガメシュを諭します。なお、アヌンナキ「神々の貴公子」と訳され、シュメールの豊饒と冥界を司る神々の総称です。古くは上位の神々を指し、イギギと並び称されることもありましたが、後には、冥界での裁きをも担うようになります。アヌッキとも呼ばれました。創造の女神マミートゥムはマミトゥ「誓い・宣誓(アッカド語)とも呼称され、アッカドの偽証者に罰を与える女神です。後には、冥界に関わりのある女神とされ、配偶神はネルガルまたはエラといわれます。また、古バビロニア語版では、舟師の名はスルスナブ、ウトナピシュティムはウタナピシュティム。櫂の数は300となっています。
2013年02月01日
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