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「時間の実在・非実在」を実験3蒸気機関車D51 龍樹は、現在今まさに去りつつある「去る作用」による働きによる動きはと云うと、「今去りつつあるもの」が「去る」と云うのを、「今去りつつあるもの」が如何にしてまた「去る作用」を必要とするのか、二重の去る働き必要とする去りつつあるものなどは成立し得ないと矛盾を説いていますが、それ程「今去りつつあるもの」が「去る」と言うことは非常識で成り立たないものでしょうか。此処で有名な蒸気機関車D51を例にとり観察を試みます。過去時のD51は去る作用により既に去って今は存在しないものだから過去のその場を去りようがない。未来時のD51は未だ来ないがこれから近づいて行く作用によって来るものだから未だ来ないものがその場に存在しようがない。では「今去りつつあるD51」が「去る」と云えば、二重の去る働き重の去る働きを必要とする去りつつあるものなどは成立し得ないと言えないのかと云えば、観察者が「去りつつあるD51」を現在見ているのだから、その見ている「去りつつあるD51」がまさに「今去りつつある」のを目撃しているのは事実ですし、何らの不都合も無い筈です。実は今回観察している者は走行しているD51なる蒸気機関車を想像して、「去りつつあるD51」の去りつつあるものに過去の動きの状態を当て嵌め、「去りつつあるD51」が「去る」には未来の予測を感じて「現在」のD51の動きに過去・現在・未来の幅を与えています。幅のある現在とは、「今そのものの現在」とは呼べはしません。「過去・現在・未来」を考察するのに「現在」だけで足りるとしているのでは、観察方法に誤謬が伴います。先ずもって中論の「時の考察」の現在は、等質的な持続であり静止することは無い持続であるとして考察している点、それ故に「去りつつある現在」と呼称されますが、蒸気機関車D51は静止可能であり、D51は静止可能な為故に「去りつつある」+「目前の蒸気機関車D51」+「去る」ことを可能にしているのです。「現在」は静止も儘ならず、去りゆくことも儘ならないと云う訳です。
2013年03月31日
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「時間の実在・非実在」を実験2エアウォーカー 先の「エアウォーカー」による「時間の実在・非実在」の実験には、ひとつの了解事項若しくは隠蔽及び矛盾がありそうです。成程、被験者は現在を去りつつはあっても、寸止めを喰らった様に「現在」を過去へと去らせ、未来を「現在」にすることは、マシーンの土台が「現在」に固定されているために現在時とされた「現在」から動きようがありませんが、実験の実行者である観察者には、被験者の運動量と脈拍発・汗などの変化が見て取れる筈です。そこに被験者とされる人間に時間が表象されるだけのモノであろうと無かろうと、走り始めから実験終了までの運動とその変化を観察者からは見えています。この被験者を現在に生きる人間だとすれば、「観察者」を現在を俯瞰出来得る存在、永遠の現在・永遠の瞬間・永遠の今である絶対存在と捉えることも可能には成り得ます。彼の存在或いは絶対創造者である絶対存在の有は、人間の時間の流れ等の影響は存在せずに、歴史の過程を運動・変化として全てが見通すことが出来るのも当然なことでしょう。
2013年03月30日
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「時間の実在・非実在」を実験1 現在が過去や未来と決定的に離れているものならば、現在は去りつつはあっても過去時に移動することは有り得ない。去りゆく先の過去がもはや存在しないのだから、どうにも去りようがない。此れを実験で確かめれば、その概要が見えてきそうです。今も根強い人気を誇る「エアウォーカー」を窓など一切無い白い吸音マットで囲まれた部屋にそれぞれの部屋を設け、五人のマラソン経験など一切ない十代から六十代の方に、カウント及び距離計を目隠しで覆い、夫々に十キロメートルだと思う距離を歩かせて、時間と距離を訊ねれば、その返答の差異には驚かされる筈です。まして、本体のエアウォーカーはその場から移動などはしていません。其の固定された場を現在と看做すならば、現在は去るどころか固定された儘で動きはなく、只、そこには変化は無く運動だけがある。其の歩いた距離と時間を訊ねれば恐らくは、自己の経験上の空間の距離及び時間を基底にした答えが返るはずです。此のことは人間が時間を捉えているのは、絶対的な時の経過ではなく表象に過ぎないことを表していることの証明と成り得ましょう。此処に「時間と自由」のベルグソンの出番があります。
2013年03月29日
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「時間」を紐解く(27)仏教哲学-時間観(四)ナーガールジュナの2 龍樹が、一際現在が去ることを否定するが、過去や未来には時間の流れ、既に・未だの時間の動きは無いにしても、現在こそが移動して行く時間の流れの最中にあるのではないか。ところが龍樹は現在が去らない理由に、既に去ったものと未だ去らないものとを離れた「現在去りつつあるもの」は去らないと強調します。我々が普通に「現在が去る」と想う時には、未来が現在に来りて、現在の時も今は過去となると捉えています。人間の表象が現在へと到来する未来と現在が去りゆく過去を空間に投射して考えがちです。即ち未来と現在および過去を空間に隣接して捉えています。しかし、現在が去りゆく先の過去も、新たに現在に到来する未来も、実には既に無い若しくは未だ無い時である。無いものが如何にして現在に隣接出来得ようか。それらは人間の仮象のなかで結び合ってるに過ぎない、言い換えると、仮象を離れれば相互に絶縁しています。丁度、現在の我と母親の胎に未だ宿らない自分や将来自分が嫁にする胎の子供の様に。
2013年03月28日
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「時間」を紐解く(26)仏教哲学-時間観(三)ナーガールジュナの1 龍樹は「已去無有去,未去亦無去,離已去未去,去時亦無去。」観去来品第二章に始まる「中論」の有名な「去る事と来ることとの考察」で、ゼノンの「時間」の経過という流れ「動き」が人間の仮象に過ぎない飛ぶ矢のパラドックスと同様の考察を偈によって説いています。龍樹は「時の動き」「過ぎ行く時」について、先ず第一に、既に過去は「今」には既に存在しないのであるから去らない、次に未だ去らない未来は未だに現出せずに存在しないので去らない。更に、既に去った過去と未だ去らない未来とを離れた今去りつつあるものも、「過去が存在せず」「未来も存在しない」のに何処に去る事が出来得るのか去りようがない、ただ時の流れを離れた寸止めされた「今」のみが「現在」するとしています。既に過ぎ去ってしまった時である過去と、未だ過ぎ去っていない未来の時については過ぎ去る・過ぎ行くという作用(動き)は生じない。動きが、過ぎ去った時や、始まってもいない時に、仮に動きが生じるとすれば、それは過去でも未来でもなく「現在去りつつあるもの」となってしまう。既に及び未だ「無い時」は動きようがなく、時間特有の「動き」「流れ」は生じようがない。しかし、現在こそが移動して過ぎ行く動きの中に在るのではないか。ところが龍樹は現在が去ることも否定してしまいます。
2013年03月27日
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「時間」を紐解く(25)仏教哲学-時間観(二)シッダッタの2 釈迦は、布教ゆえかヒンドゥー教の輪廻転生を拒否無く引き受けた事から、一応は「円環時間観」なのでしょうが、「反復するもの」「回帰していくもの」「終わりが又、始めに繋がっていく」というヒンドゥー教の「円環時間観」を、釈迦は「終わりは又、始まりに繋がっていく」ことを明確に否定しています。釈迦の説いた輪廻転生はヒンドゥー教のそれとは違い、現在及びその延長である未来と云う同一の時間軸(因果)の上には輪廻転生は起こらないと明確に断言します。そもそも、生まれ変わりと云う輪廻転生は、釈迦の説く世界観の中では起こり得ないし、在り得ません。「自分」と云う認識の主体が、瞬間瞬間に過去となる今の一瞬を記憶の糸で繋ぎ止めて物事を認識しているのです。過去と言っても、何処を探しても過去なるモノはなく、未来と言っても観念のみで、そんなものは未だありません。人間が今の瞬間を決して認識することは容易ではありません。認知せられたものは、もはや、その瞬間ではないからです。人は意識の流れの中でしか物事を認識することはできず、時間の区分である過去・現在・未来なるものも、概念(言葉)のみあって、そのような分かたれた時間が存在しているのではないのです。現在は過去と未来に依存し、未来は現在と過去に依存し、過去は現在と未来に依存して成立する概念です。実に認識の主体「人間精神(我)にとっては今の瞬間しか無く、今の瞬間すら今の瞬間に於いて認識することは釈迦の覚りである「直覚知」を除いて出来ないのです。
2013年03月26日
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「時間」を紐解く(24)仏教哲学-時間観(一)シッダッタの1 古代キリスト教の神学者であり哲学者であるアウグスティヌスは、「告白」の中で「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」と記している。私は「時間」が何ものであるか端的に説明する事は出来ないが、「時間」が存在する事自体は全く疑っていない。但し、別章では時間の流れは神の側では、実在しないが、人間の心においてだけ、主観的に存在する。見掛けではない真実の姿、心の動きに依存しない独立した「それ自体であるもの」には、時間の流れは存在しないと、「時間の非実在」を説いております。続けてアウグスティヌスは、予てから表明している様に私は、最新の科学を自らの不勉強で知悉していない事は総て釈迦の教えで代用する事をモットーにしているのだが、残念ながら釈迦は時間について多くを語っていないのだ。其の名の挙がった釈迦は紀元前463年? - 紀元前383年?頃に、仏教の始祖であるゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha、Gautama Siddhartha)漢訳では瞿曇悉達多(クドン・シッダッタ)のことですが、そもそも、釈迦は、今日の仏教解釈で多く登場する「前世」や「来世」には殆ど言及していない。前世は在るのか、果たして来世はあるのかとの弟子の質問に対して釈迦は「知る能わず(知って如何するのか、知っても如何とも仕方がないので)知る必要が無い」と答えている。釈迦は、過去・現在・未来と云う人間流の時間への認識を、人のカルマ(因業)が見せる一種の幻と説いた。釈迦が悟ったとされる全宇宙の真理の中では、過去・現在・未来の「時間」には「現在」しか無い筈である。
2013年03月25日
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「時間」を紐解く(23)神学系哲学-時間観(九)スピノザの4 スピノザの云う「永遠の相のもとに観る」とは、今、私がここに現在していることが必然なら、1万年前乃至一万年後に同所・異所に関わらず生誕するも死するも、小宇宙の崩壊いや銀河系の爆発があるのも全てが必然として一瞥で捉えることができるに違いない。全宇宙のすべてが現在することを観ることであるのでしょう。この認識に達した人間はすでに時間と空間を超越している。永遠の相のもとに認識することとは、一瞬で永遠を理解すること。つまり我が心が一瞬で永遠を生きるのです。一方でスピノザは「自己の精神の永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶が死後も存続すると信じるのは誤りである」と言っています。つまり「私である自我」が死後も存続することが精神の永遠性を意味しているのではない。永遠を認識することこそが時間と空間を超越し、永遠を生きることに他ならないと述べています。
2013年03月24日
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「時間」を紐解く(22)神学系哲学-時間観(八)スピノザの3 アウグスティヌスに於いては「現在」がいわば二重の意味をもたされて、特別な役割を担っています。過去と未来に対比される様態としての「現在」と、過去・現在・未来すべての心(霊魂)の働きの場として「現在」と。そして時間の中で出来事が生起するのではなく、出来事の生起が人間によって時間として理解される。だから厳密な意味で存在しているのは出来事が生起しているその現在だけなのであり、我々が過去と呼ぶのは過ぎ去った現在を、また未来と呼ぶのは想定上の現在を意味しているに過ぎない。このアウグスティヌスの時間論に対して、スピノザは、世界の存在を一瞬のうちに捉えようとするところが異なっています。超越した絶対存在としての必然性は無時間的なものなのであるから、それには以前もなければ以後もなく、およそ時間的な契機といったものの入り込む隙がない。おそらく神は宇宙を、一瞥で捉えることができるに違いない。スピノザにとって実在と本質の根本的相違は、実在は時間的に存在するが、本質は時間の外にあるということであった。時間的に存在するものだけが死という宿命をせおっているのだから、無時間的である本質の領域は永遠でなければならない。それにもかかわらず、本質の領域は個物の領域をも成す。永遠性とは持続や時間によっては説明されえない。永遠は持続ではなく、したがって時間とは関係ないものである。つまり永遠性は時間を超越する。人が永遠の相のもとに世界を観るということは、時間を超越して世界を観るということになる。一言で言い表すならば、我が国の哲人西田幾太郎の言う「直覚知」によって世界の統一力と自身の理性または霊魂の瞬間的な融合「大統一力」といったところか。
2013年03月23日
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「時間」を紐解く(21)神学系哲学-時間観(七)スピノザの2 スピノザは時間というものを非実在的なものと考えており、「現在」でない過去あるいは未来としての出来事に人間がかかわることは、人間の表象の中にしか存在しないとして、スピノザは未来に対する希望とか恐怖とかいった感情を軽蔑する。それは必然性に対する我々の無知から起こることなのであり、我々は無知のゆえに未来を変えられると思ったり、逆に恐れたりするのだ。生起するものはすべて、必然性に基づいて生起する。そこには偶然はなく、したがって人間が恣意的に介入できる余地はない。この必然性は時間の流れに従って継起するのではなく、神の存在の中であらかじめ決定されているものだ。それは時間の流れとは無縁であり、時間を超越している。この超越した必然性のあり方を表す言葉が、スピノザのいう永遠なのである。「永遠性によって、私は、永遠な事物の定義だけから、必然的に出てくると考えられるかぎりの存在そのものを理解する。なぜといって、かかる存在は、事物の本質と同じく、永遠の真理と考えられるから、まさにそれゆえに、たとえば、持続に始めや終わりがないと考えても、持続または時間によって説明されえないものだからである。」(エチカ第一部定義八)。事物の本質が時間を超越しているように、必然性も時間を超越している。そこには以前も以後もない。あるのは現在だけである。そしてこの現在のうちに顕現している必然を、スピノザは永遠と称します。
2013年03月22日
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「時間」を紐解く(20)神学系哲学-時間観(六)スピノザの1 彼の祖先たちは久しい間スペインやポルトガルにおいて寄留者として宗教的迫害によりキリスト教に強制的に帰依させられ、その後、自由の地ネーデルランド(オランダ)への移民でユダヤ教に戻った所謂マラーネであった。スピノザの神はキリスト教が教えるような人格神ではなく、宇宙の存在そのものと不可分なもの、あらゆる事象の根拠となって、しかもその事象のうちに顕現しているものであった。この神は理念的には必然性をあらわし、存在性格としては永遠性という形をとる。だから我々が神について想念するとき、我々は永遠の相の下に世界を見ることになる。ところで永遠に関して、普通一般には我々は、永遠を時間と関連付けて考える。一つには始めも終わりもない無限の時間といったものであり、それは過去、現在、未来からなる線的な時間の流れを前後に無限に引き延ばしたものといえる。反対にこうした時間の流れを超越した無時間的なものも永遠と考えることもあるが、これも時間に関連付けて永遠を定義していることには変わりはない。ところがスピノザが考える永遠は、こうした時間の観念とは関わりを持たない。そもそもスピノザは時間というものを非実在的なものと考えており、「現在」でない過去あるいは未来としての出来事に人間がかかわることは、理性が関知すべき事柄ではないと考えて、出来事は常に現在としての出来事であり、過去とか未来とか呼ばれるものは人間の表象の中にしか存在しないとしています。
2013年03月21日
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「時間」を紐解く(19)神学系哲学-時間観(五)アウグスティヌスの5 過去のものの現在は、過去へと向かう現在の心の動きであり、現在のものの現在とは、現在まさに直面している心の「働」きであり、未来のものの現在は、未来へと向かう現在の心の動きとすれば、これ等の時間の働きは心の内にしか存在しない。その意味では、全てが現在の中にある。過去も未来も、想起や予期という在り方で現在の体験として在在し得るのみであると云う事です。しかしまた、「現在」は知覚という心の働きと結びつくことによって、想起や予期とは区別されます。眼前に個物を見ていることは、「現在のものの現在」に属するし、過去の時に経験した事物を想い出すことは、「過去のものの現在」に属するし、将来を描いて期待することは「未来のものの現在」に属する。アウグスティヌスに於いては「現在」がいわば二重の意味をもたされて、特別な役割を担っています。過去と未来に対比される様態としての「現在」と、過去・現在・未来すべての心(霊魂)の働きの場として「現在」として。
2013年03月20日
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「時間」を紐解く(18)神学系哲学-時間観(四)アウグスティヌスの4 神の「永遠」こそが、時間の基体としての真の実在の姿であるとしても、我々の心(霊魂)には未来や過去がある意味存在します。我々の心(霊魂)においては存在しない過去は想起のかたちをもって、未だ存在しない未来には予期という姿で持って、「現在」において共に現在化して存在します。アウグスティヌスは、その著作「告白」で、未来も過去も存在せず、また三つの時間、過去・現在・未来が存在すると云う事も正しくない。それよりは寧ろ、過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するという方が恐らくは正しいであろう。実際、此れ等のものは心のうちに云わば三つのものとして存在し、心以外にはそれらのものを認めない。即ち過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直覚であり、未来のものの現在は期待であると述べています。言い換えると、過去のものの現在は、過去へと向かう現在の心の動きであり、現在のものの現在とは、現在まさに直面している心の働きであり、未来のものの現在は、未来へと向かう現在の心の動きともいえます。
2013年03月19日
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「時間」を紐解く(17)神学系哲学-時間観(三)アウグスティヌスの3 アウグスティヌスは、その著作「告白」のなかで、もしもどんな部分にも、最も微小な瞬間の部分にさえも別たれることの出来ない時間が考えられ得るなら、その様な時間こそが「現在」と呼称出来るのであろうが、しかし其れは大急ぎで未来から過去に飛び移るのであるから、束の間も伸びている事が出来ない。もし少しでも伸びているのなら、それは過去と未来とに分かたれであろうと述べています。一時間・一分・一秒・京分の一秒であれ時間的な幅を持ち過去と現在と未来からなる。こうして「現在」は瞬間の方へ切り詰められていき、結局持続的な幅を持たないピリオドとしての時間の限界「瞬間」が訪れる。此処に解決したはずのゼノンの時間のパラドックスが、再度、頭を擡げてきます。時間は過去と現在と未来からなる。「現在」は時間的な幅を一切持たないとするので、そこでは時間は経過し得ない。それでは過去はというと、過去はもう過ぎ去った世界で時間は存在し得ない。更に未来はというと、未だ到来しないものに時間が経過のしようがない。未来も過去も時間の経過中であるとするならば、それは未来でも過去でもなく「現在」を未来の現在と過去の現在に投射してるに過ぎない。時間は、過去と現在と未来から成り立っている筈なのに、時間の経過は存在し得ない。時間が経過することも無い「現在」とは、我々の感じる常識とはかけ離れて、神の永遠を指し示しています。未来や過去と対比されない「現在」こそが真に実体を持った「永遠の現在」だというのでしょう。
2013年03月18日
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「時間」を紐解く(16)神学系哲学-時間観(二)アウグスティヌスの2 時間の仮象の向こう側には無時間的に一挙に成立している完全なる全体、時間の流れは存在しない神の永遠と人間の時間とは、全くかけ離れた存在なのでしょうか。我々はふつう、永遠とは非常に長い連続の時間で、何百何千億年と果てしなく続いていくものだと想像してしまう傾向にあります。だがアウグスティヌスは永遠をそういう形では理解していない。永遠とは、果てることのない時間の自覚ではなく、それ自体まったく時間を持たない自覚だからです。「永遠の瞬間」「永遠の今」「永遠の現在」とは、過去も未来も以前も以後も、昨日も明日も誕生さえも死も知らない、時の無い瞬間である。しかし、そこにはただ一つ、「現在」という時間に接点があります。統一意識の中で生きるとは、時のない瞬間の中に自己を投影して直覚するということです。この「現在」という不思議な在り方が神とその被造物である人間を繋ぐ蝶番として働きます。シュレーディンガー(波動関数の創始者。ノーベル物理学賞受賞。)が、「現在こそが、終わりのない唯一のものである」 と言うのは、そのためである。現在の瞬間が外形的には途方もない連続のうちに行進していくとしても、現在そのものは我々が 「時間」 と解釈すべく教えられてきたものによって破壊されることも汚されることもない。この現在の瞬間には、過去もなければ未来もない。時がないのだ。そして時のないものは永遠であると述べています。ここに表現されている「時がない」とは抽象的な単なる無時間を指しているわけではありません。非時間的なありかたをいっているのです。
2013年03月17日
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「時間」を紐解く(15)神学系哲学-時間観(一)アウグスティヌスの1 アリストテレスの時間観では、時間の存在は、心の働きに依存せず、独立に存在する観点から「時間の非実在」を述べますが、それと同様のことを神学系哲学のアウグスティヌスが、その著作「告白」で「時間の非実在」を主張しています。「時間の非実在」の観点から、心の働きに依存しないそれ自体として時間の経過を仮象させる基体の実在を運動とは捉えずに、「神の永遠」こそが時間の基体として実在し、時間の仮象の向こう側には無時間的に一挙に成立している完全なる全体、神の永遠が、ありとあらゆる物事を含有する全体として実在すると主張します。時間の流れは神の側では、実在しないが、人間の心においてだけ、主観的に存在する。見掛けではない真実の姿、心の動きに依存しない独立した「それ自体であるもの」には、時間の流れは存在しないと、「時間の非実在」を唄います。時間は過ぎ去ってきえていくものであり、留まることが出来得ない。全体が一挙に存在する根本創造主だけが実在している唯一にして絶対、至高の存在である神の実在の在り方とは対極にあります。しかも、時間の経過という在り方自体が、永遠なる神の創造の被造物に過ぎないと云います。つまりは、完全なる全体としての実在という意味において、時間の流れにあっては、全体が一挙に存在するすることは有り得ないので時間は実在しないと主張します。
2013年03月16日
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「時間」を紐解く(14)自然哲学-時間観(五)アリストテレスの4 時間とは前と後ろの分節化された運動の数とアリストテレスは云う。時間は、あくまで動き・変化である運動を基体にした分節化された数、連続的な運動の動き・変化を人間が「霊魂」による数える働きによって、持続的な幅を与えられて存在化されている仮象に過ぎない。「霊魂が存在しない限り、時間は存在しない。」そもそも数える主体がいないところに時間は存在しない。ただ、霊魂によるカウントなしには時間の基体である動き・変化である運動のみが、人間の心の働きから独立して在る。もし霊魂が存在しないとしたら、数えられる何ものが存在するのであろうか。数も亦存在は不可能となる。時間の基体である動き・変化である運動のみが時間無しに存在が可能であると述べています。アリストテレスは人の心を離れた「現在」を時間的な幅は無く持続性を認めていません。また基体としての動き・変化としての運動は、分節化され数として時間に仮象されるにしても、心の働きに依存しないそれ自体として実在するとも云います。
2013年03月15日
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「時間」を紐解く(13)自然哲学-時間観(四)アリストテレスの3 アリストテレスは、その著作の中で、時間の存在は、人間の霊魂(心)に依存するものであり、心の働きから独立して存在する「実在」ではなく、随って、時間の存在はそれ自体であるものではないと述べています。しかし、それ自体である「実在」を運動としての動きであり変化として捉え、時間としての仮象を心により分節化はされなくとも基体としての運動としての動きであり変化は存在すると説きます。時間とは、前と後ろの関しての運動の数であり、動き・変化としての運動そのものではなく、あくまで、運動の数である。数とは、連続的な運動、即ち動き・変化に与えられる分けられる区切りであるとします。それは「今」によって与えられ、前後の「今」が区別されることによって、動き・変化である運動に反復の導入が可能になり、数として数える事が出来る。よって、時間とは前と後ろの分節化された運動の数であると述べています。
2013年03月14日
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「時間」を紐解く(12)自然哲学-時間観(三)アリストテレスの2 アリストテレスによれば、過去と未来を分かつ限界、幅を持たない「今」が時間の限界である「瞬間」であって、凡そ人間の心が表象する「今」は、過去である部分と未来である部分、幅を以って考えます。しかし、本来的な「今」とは、時間それ自体の部分ではなく、時間は今の集合体ではなく、「今」は無数にあり続けるか、「今」が単一対で在り続けるのどちらかです。それは時間線上の未来と過去を分かつ幅を持たない時点であり、それ自体の「今」が消え去って、次々と現出するには矛盾が伴います。或る「今」が存在するとは、現に消滅しないで居ることをいうのですから。時間の限界としての瞬間である「今は」、どんなに接近しても、更にそのあいだには、「今」である限界としての瞬間が存在し、点と点とはが繋がることは有り得ません。複数の相異なる「今」があるとした場合は、次々に消え去っては現出することは有り得ないし、複数の相異なる「今」が同時に存在するのも考え難い。同時に一遍に存在するならば、同時性・一挙性に於けるただ一つの「今」、絶対存在者の時間を俯瞰する瞬間の「今」神の永遠を考えなければならないでしょう。また、同一不変の「今」を単一とすると、其の中ではすべての出来事が一遍に存在することになり、絶対存在者である神の「瞬間」が現れ、出来事どうしの時間的順序関係は消え去ってしまいます。これでは「今」という瞬間が、複数あるにしても単一であるにしても、絶対存在者である神を考慮する以外に選択肢が無くなってしまいます。この様な事態に陥るのは、新たな出来事の方が、未来から迎え来て、過去へと逃れ去る軌跡としての原点は唯一無二であり、通過していく位置の方が複数あることを区別していないことから生じてます。
2013年03月13日
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「時間」を紐解く(11)自然哲学-時間観(二)アリストテレスの1 ゼノンと同じ古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスは、ゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」が主張する「瞬間」を時間は瞬間の集まりから成り立っていないと批判しています。持続的な幅を持たない瞬間を幾ら集めても時間は生まれない。「瞬間は時間の構成要素では無い」全体の部分ではないと、球中のマークした一点を幾ら集めても球にはならないと云う事でしょう。持続的な幅を持たない、時間の構成要素では無い瞬間に在っては、なにものも「動く」どころか「静止」すら不可能、運動が可能なところでのみ静止も可能として、瞬間に於いては矢は只「ある」としか言えない、線上の一点の如くに。
2013年03月12日
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「時間」を紐解く(10)自然哲学-時間観(一)ゼノン パルメニデスが開いたといわれるエレア派という学派に属し、パルメニデスの学説を有名なパラドックスを用いて補強しようとしたのがパルメニデスの養子で前五世紀古代ギリシアの哲学の天才と言われるゼノンです。アリストテレスはゼノンをその独特の論法ゆえに「弁証法の祖」と位置づけています。ゼノンといえばパラドックス即ち、証明されるはずのない矛盾命題が、妥当な推論によって、あるいは少なくとも一見妥当な推論で有名です。ゼノンが提供したパラドックスは「二分割」「アキレウスと亀」「飛ぶ矢」「運動場」の四つで、夫々に「運動」を否定して、「不動」を真とします。其の中の「飛ぶ矢」のパラドックスは「時間」の解釈への重要な鍵となります。それは、飛んでいる矢も、各瞬間に或る一点にひとつの場所を占める場合、静止している。それらはどの瞬間に付いても同じことが言えるので、故に、矢は飛んでいるあいだのどの瞬間に於いても静止している。その飛んでいるあいだの時間は、その矢のあいだの瞬間から成り立っている。故に矢は飛んでいるあいだじゅう静止しており止まっていることになります。此の飛ぶ矢のパラドックスによれば、「運動」は見かけの姿に過ぎず「静止の総和」こそが実在するとします。例えば、パラパラ漫画を早く捲ってみると、一コマ一コマの漫画に「動き」生じている様に感じられますが、その「動き」は真実在とは言えません。「静止」を幾ら加算しても「動き」に転化することは在り得ないと云う事です。此のことは「変化」しているように想えても、真実そこには「変化」が存在しないとしています。「時間」の経過も変化と捉えて、時間の流れというような「変化」「動き」は、単なる仮象に過ぎず、「無変化」「静止」こそが時間の非実在を示すとしています。
2013年03月11日
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「時間」を紐解く(9)宗教-時間観(四)ユダヤ教・キリスト教 ユダヤ教に在っては時間線が直線的でなく円環的な時間観も見られて、その影響がキリスト教にも散見はするが、キリスト教にはそれを超えた神の子の受肉としてのイエス・キリストのこの世への到来、その死と復活という、歴史のただなかへの一度限りなされたとされる神の啓示、これは反復されません。イエス・キリストの復活は一回的で決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてキリスト教の救済史観が成り立っています。キリスト教には反復不可能の一回的な神の啓示としての時間観があります。キリスト教では、神の創造もただ一度で完了した過去の業にすぎないものではなく、それと同時に伝統的に「不断の創造」として現在時に於いても不断の時間の創造が事実とされ、終末についても神の時間としての現在性があると指摘されています。キリストの出来事が歴史の中心とすれば、それを通して創造や堕罪、終末や再臨が理解される時、これらのことは不可逆的な直線的時間の上に配置され、また現在の事実として主体的に反復されると説きます。神学上に立つ哲学者アウグスティヌス は時間を内面化して考え、時間は人間の心と無関係に外部で流れているようなものではない。過去、現在、未来と時間3つに分けて考えるのが世の常だが、過去とは「既に無いもの」であり、未来とは「未だ無いもの」である。ならば在ると言えるのは現在だけなのだろうか。過去や未来が在るとすれば、それは「過去についての現在」と「未来についての現在」が在るのである。過去についての現在とは「記憶」であり、未来についての現在とは「期待」、そして現在についての現在は「直観」だとアウグスティヌスは述べています。 時間とは、このような人間に特有の心の働きとします。「神は世界創造以前には何をしていたのか」と問う人がいるが、アウグスティヌスによれば、こうした問いは無意味である。なぜなら、時間そのものが神によって造られたものだから、創造以前には時間は無かったのであり、神こそが時間の根源であり、その神は永遠で、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にあるのである。言い換えれば、現在・過去・未来は神に在っては全てが現象し、俯瞰し得ると云う事とに成ります。
2013年03月10日
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「時間」を紐解く(8)宗教-時間観(三)ギリシャ神話 ギリシア語では、「時」を表す言葉に カイロスと クロノスの2つがある。カイロスはギリシア語で「機会」を意味する「刻む」という意味の動詞に由来し 、「時刻」を神格化した男性神である。元は「刻む」という意味の動詞に由来しているという。キオスの悲劇作家イオーンによれば、ゼウスの末子とされ、両足には翼が付いていて、前髪は長いが後頭部が禿げた美少年として表されて「チャンスの神は前髪しかない」から転じて「好機はすぐに捉えなければ後から捉えることは出来ない」という諺がありますが、それはこの神に由来します。一方のクロノスは「時間」を指しており、クロノスは、「時」を神格化したシュロスのペレキューデースによって創作された神で、カオスから生じた原初神とされています。また、夫々が「クロノス時間」として、過去から未来へと一定速度で一定方向に流れる連続した時間を表現し、「カイロス時間」として一瞬や人間の主観的な時間を表現るすこともあります。「クロノス時間」が世界内時間として実在し、「カイロス時間」が時間を人間の人間の主観的なものとして捉えていることは、「万物は流転する(Panta rhei)」をヘラクレイトスの言葉としてとして残した自然哲学の祖、哲学の大天才ゼノンを産み出す御国柄ですから、ギリシア神話が当時のギリシア哲学の時間観を反映し表象するのも然るべきでしょう。時間観想を離れるが、現代の先進諸国ではクロノス的な時間意識でつい生きてしまうが、幸せに生きるためにはカイロス的な意識が人生にとって大切、分刻み或いは秒刻みのスケジュールに追われるあまり、一瞬一瞬自分の目の前に現れる出来事を味わうことを忘れていると、気づいた時には実感のともなわない虚しい時間ばかりが過ぎていたということになりかねないから「今」を味わうことができないと本当の時間は見えません。
2013年03月09日
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「時間」を紐解く(7)宗教-時間観(二)仏教 仏教の時間観念は基本的に現在(今)にある。それは前世も来世も説かなかった釈尊の現世指向に起因します。輪廻転生説を容れるとしても、それは円環時間観の存在を示すことにはならない。輪廻転生が、同一の時間軸の上に起こるものとされていないからである。 物事はすべて移ろい行くものであり、常住存在などない「諸行無常」というのが仏教の根本的な時間認識です。釈尊の教えを体系的な思想としてまとめアビダルマではこれを「すべての存在は極分化された一瞬にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)という思想として展開します。従って、計測される時間とは単に人間の意識の内にあるとします。大乗八祖の龍樹に代表される「中論」において古代大哲学者の否定の否定論法で「空」観から時間の流動の否定します。過去事は去る作用により既に去って今は存在しないものだから去りようがない・現時の今まさに去りつつあるものの「去る作用」による働きによる動きはと云うと、「今去りつつあるもの」が如何にしてまた「去る作用」を必要とするのか、二重の去る働き必要とする去りつつあるものなどは成立し得ない・未来時は未だ来ないがこれから近づいてくる来る作用によって来るものだから未だ来ないものが存在しようがないと。では何故に現在去りつつあるものは去る事が出来ないのかというと、過去時も未来時を離れた現在には運動のしようがなく、それ故運動無きところでは静止も流れる事できないと説きます。詳細は後述しますが、龍樹は現在意識を軸に時間其の「モノ(存在)」が非実在であり、人間の観想する想念にすぎないとして、老死や苦楽等々を盡く此の論法で論破して行きます。そうして人間が実相するものが、全て縁起していて、その諸法実相・縁起こそ「空」であると説き、執著・我執を離れた涅槃を示します。「縁起」を時間の流動の否定の根本にして考察しています。
2013年03月08日
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「時間」を紐解く(6)宗教-時間観(一)バラモン・ヒンドゥー教 バラモン教(婆羅門教、ブラフマン教、Brahmanism)は、古代インドの民族宗教を指します。バラモン教は、インド・イラン語派の民族がインドに侵入しトラヴィダ人を支配し現地の宗教を吸収しより多神教として体裁が整えられ現在のヒンドゥー教へつながります。ヴェーダなどの聖典を持つが、古代インドの聖典であるヴェーダ群を起源とする系統の神教とされています。また、バラモン教は、必ずしもヒンドゥー教と等しいわけではなく、バラモン教に於いては、中心となる神は叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナや、雷を操る雷霆神インドラ、アーリア人の拝火信仰を起源とする神アグニなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかった宇宙の創造を司る神ブラフマー、宇宙の維持を司る神ヴィシュヌや宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神シヴァが重要な神とされています。ヒンドゥー教が輪廻転生の思想を基本にしているということは「時間」を観想するにはとても大事なことですが、始源の時間存在を問うていません。ヒンズー教の宇宙では時間が無限に続くというわけで、ヒンドゥー教には時間が完全に終わってしまうという意味での本来的な終末論は存在しないし、時間を輪廻として認めていることになります。バラモン教そしてヒンドゥー教では全てのものは輪廻しており、人は、通俗的な時間を中断する力をもった祭儀を周期的に営むことで、聖なる時間へ立ち帰り、神々と同一化する。これを真実在への渇望にもとづく理法と捉えます。神々による世界創造を在らしめる時間こそが、あらゆる時間の原型とされました。聖なる時間は、世界が創造された根源的時間を象徴します。宇宙の原初において聖なるものが顕現した根源的時間を周期的に再現することが宗教暦の基盤であるといえます。祝祭はたんなる記念日ではなく、時間は円環的な構造をもち、無限に反復する時間である。こうした円環的時間への信仰は、時間の周期的な全面的再生への願望を生み出している。世界と人は周期的に創造・存続・終末的破滅・創造を繰り返す実体として捉え、宇宙の創造から破滅にいたる一周期を終えると、さらに他の周期を始め、完全に再生するとして、永遠に対する希求を求めています。詰まる所、世界創造は時間を前提にした「始めに在りき」存在として捉えており、絶対存在が「時間」と説いています。
2013年03月07日
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「時間」を紐解く(5)時間の一般認識 一般には空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり、いっさいの出来事がそこで生起する「流れ」ように考えられています。 人は日常的にこの意味での時間を、過去から未来へと流れているとする時間観、言い換えると、過去から未来へと時間が流れているとします。時間とは、動く「今」である「現在」が、過去の方から未来の方へと移動して行くと捉える表象です。その反対に未来から過去へ流れているとする「流れ」としてとらえている場合は、未来時で在る、或る「出来事」が「不動の現在時」に段々と近づいて来て「不動の現在時」に移行、そして「出来事」が過去へと逃げ去っていくと捉える表象です。前者では「今」である「現在」が動くとと表象され、後者では「出来事」の方が動くとされています。何れの考えも普段意識している「時間」を人間は長さとして捉えていることが分かります。ここでは、人間と時間の関わりが密接に結び付いていることで、人間を離れた「時間」の真の姿「実体」は見えてきません。
2013年03月06日
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「時間」を紐解く(4)時間論を語る 我々人間は「時間」というものをどのように認識しているのでしょうか。それは、「変化」によってです。「静止した現在」もない世界では、時間という概念は意味を持ちません。我々は時間というものを直接的に知るのではなく、変化を知ることによって間接的に時間を知るわけです。 古代人にとっては、太陽や月の満ち欠けの変化が時間そのものでした。 変化というものが未来と過去の間にあることを象徴してくれる「現在」を見つめる。すると時間というのは未来から流れてきて過去へと流れてゆく流れと感じられることになります。 時間は、できごとや変化を人間が認識するための基礎的な概念です。それ故に芸術、哲学、自然科学、心理学などの重要な課題となります。時間はそれぞれの分野で、夫々異なった理解のしかたを示します。 今日的な意味での時間 「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり、いっさいの出来事がそこで生起する「流れ」ように考えられています。 一般に人は日常的にこの意味での時間を、過去から未来へと流れている、とする時間観と、未来から過去へ流れている、とする「流れ」としてとらえていることが多い。また、人間は普段意識している「時間」を長さとして捉え、心理的な影響を受けることが指摘されまています。周期から心理的・生理的に影響を受けることも多くの実験で明らかです。仮に時間の長さが現在の設定よりもいくらか長く設定されていたなら、人はゆったりとリラックスさせるものになっただろうと指摘されることもあります。現代生活の人工的で短かすぎる時間により過剰なストレスに苦しめられている人が、自然の中で暮らし、自然の時間で生きる生活をストレスから解放され治癒される傾向があるともいわれ、「時間」を考えることは人間にとって大事と成ります。これから「時間論」を語る上で様々な時間観を見ていくのも「時間」の真の姿を観るには有益でしょう。
2013年03月05日
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「時間」を紐解く(3)霊魂・心 「時間論」で扱うのは、信仰ではなく学術から霊魂・心を定義します。「時間論」では触れなければいけないアリストテレスが、時間の実在を問う時に「霊魂」という表現に「心」を同義としているからです。一般には「霊魂」とは、体とは別に実体として存在すると考えられているものであったり、人間の生命や精神の源とされ非肉体的・人格的な存在とされるもののことと捉えられています。また、霊魂という表現が「霊」と「魂」という言葉の組み合わせであり、両方を合わせて指し、個人の肉体および精神活動をつかさどる人格的な実在で、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味しているのですが、この意味通りでは「時間論」は取り扱えません。「時間論」で扱うのは、人間の理性を含んだ「心」を「霊魂」と定義します。宗教的には霊魂と精神は肉体に宿り、肉体が滅びると精神と霊魂は分かれると考えられており、霊魂と精神は肉体という泉を泳ぐ二匹の魚に擬せらていますが、「時間論」では触れなければいけないアリストテレスが、時間の実在を問う時に「霊魂」という表現に「心」を同義としていますから、宗教的霊魂観は一切とは言わないまでも、「心」を「霊魂」と同様なものとしています。 アリストテレスの霊魂観は、霊魂とは、生命の根源であり、人間も他の動物も生きていることの根源的な力は霊魂にあるということ。では、肉体と霊魂はどういう関係にあるのかという問題になるわけですが、ちょっと難解な言葉を使うと、霊魂とは肉体の「現実態」であり、肉体の現実態(はたらき)を掌(つかさ)どるもの、その因が霊魂であると、アリストテレスはいっています。なかでもアリストテレスは知性を発揮するということが魂の根本にある最高のはたらきであると強調しています。その場合の知性がヌース、日本語に訳すと「直知」或いは西田幾太郎の云う「直覚知」、つまり直観的知覚(知性)というものなんです。アリストテレスは、直観的知性が人間の魂の根幹にある力なのだと述べています。つまりは、モノを得たいという欲求もたしかにひとつの魂の力なのですが、モノを得るために、あるいはモノを得る前にモノを知りたいという力がつくる欲求的能力も、人間の場合は知的能力と結びついています。さらにアリストテレス哲学の根幹には、「幸福」とはその人が持っている力量の発揮という有名な規定がありますが、この力量の中に直知の力が入り込んでいます。見ること・知ることが人間の霊魂というものの第一の機能であるといっていいでしょう。それが知性的能力にあたります。アリストテレスにおいて、霊魂の能力にはこのふたつ、知性的能力と欲求的能力があるということを念頭に置いておく必要があります。
2013年03月04日
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「時間」を紐解く(2)「実存」と「実在」 「時間論」で時間の実体の存否を語るには、「実存」と「実在」という似たような言葉を明確に定義する必要に迫られます。人間の場合に特に比類のない重みをもつ現実存在を言いあらわすのには、エクシステンチアという従来の存在論の用語「人間的現実存在」の意味においてである。そして、これを我々の言葉に移すのに、「現実存在」をつづめて「実存」という。だから実存と本質が対立概念として語られるのは当然なことである。たんに漢字の字づらからその意味をおしはかると、実存は、現象に対する本体、仮象に対する実在のようなものと思い誤られるおそれがある。また、「現実存在」という語を約める(つづめる)にも、「現在」といえば、時間の現在と混同されるし、「実在」といえは、レアリテと区別がつかなくなるし、そうかといって、「現存」ということばには、「物故」に対して「いまなお存命中の」という意味があるのでまぎらわしい。そこで「実存」という訳語が選ばれたまでである。一般に使われるようになったのは、戦後、サルトルらの実存主義が伝えられてからのちであり、歴史的には日が浅いため、実存」なる語がまだ国語としては熟していないのも肯けます。 では実在という言葉はどうか、「実在」とは意識とは別に存在しているもの、常にあてはまる性質/固有の性質をもつと定義出来ます。実在とは、実際に存在することをいい、哲学では、人間の意識の外に独立して存在するもののことを意味します。たとえばロックは、物事が客観的にもつ空間的な広がりなどは、色彩や形のような主観的なものとは異なるとします。これが実在です。またカントは、人間の認識できるものとは別に存在する「物自体」という観念を提起していますが、これも実在だといえます。なお、実在論という場合は観念論に対置される用語となります。観念論が世界は頭の中で作り上げるものであるととらえるのに対し、実在論は、世界は私たちが頭の中でどう考えるかということとは別に、存在しているととらえる立場を意味しています。つまり、世界は人間がどうとらえるかとは無関係に存在するということです。自然との関係、他者との関係、関係性における存在論における「実存」「実在」の不鮮明は日本的な思想展開いわゆる民俗学的な歴史身体にあるように思います。さらに西洋流の思考法にもあるよう原因があります。それ故、「時間論」で時間の実体の存否を語るには、「実在」いう言葉を使用します。最後に「実体」とは多様に変化してゆくものの根底にある持続的、自己同一的なもの。アリストテレスでは具体的個物、デカルトではそれ自身によって存在し、その存在のために他のなにものも必要としないものを指しています。
2013年03月03日
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【今ならレビュー記載で発汗サウナスーツプレゼント!】スイスイ歩いて楽しくシェイプ!バラン...価格:9,800円(税込、送料込)機能的には問題なく使用できます。毎日がんばれば、体力もつくし、痩せれるでしょう。問題点は、重たいので頻繁な移動は難しいでしょう。(できれば同じ場所での使用が理想)使用当初は、鉄粉が飛び汚れることも。摩擦により、鉄の部分と、樹脂の部分がすれて粉がでる。拭けば汚れが付くので掃除機で吸い取るとよいでしょう。動かすたびに、キー・キーと音がでる。(気になりだしたらうるさいです。但し、潤滑油スプレーCRC-550等で解消できます。さすがにエアウォカーの様に高速ランニングは出来ませんが、ウォーキングマシンとしては優れています。
2013年03月02日
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「時間」を紐解く(1)時・時間・時刻 「時・時間・時刻」の其々の概念が一般的には曖昧に使用されており、定義が必用かと思われます。先ず「時」ですが万物・宇宙・生物に与えられた変えられない法則として認識されてはいますが、果たして其の通りなのか、英語で云うtime(過去・現在・未来と続く)と同様の意味なのかには疑問符が付きます。次の「時刻」は時間の中の1点を指し、時刻を幾ら数えようと幅を持たせることは出来ず、静止や運動に関わらず変化しようのないマークです。最後の「時間」は 、物事の変化を計るための概念、物差しとして用いられ、その実体は無く人間の仮象に過ぎないとも云われています。しかし、此処では「時の流れ」を「時間」として定義します。学術的には「時間」という言葉は、或る時刻と別のある時刻の間(時 - 間)およびその長さ。時刻即ち時の流れの中の一点のことを含み、哲学的概念では空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり、一切の出来事がそこで生起する枠のように考えられているものとされます。「時」はあまりにもにも漠然とした使われ方をしており、「過去から未来に絶えず移り流れる」とか「過去・現在・未来と連続して流れ移ってゆく」などと表現され、「時間論」の定義に使用するには難点があります。「時間」は人工的に作られたものではあるが、発想はかなり古くからありましたが、歴史的に見ればかなり新しいものです。此処に「時間」を「時」の概念を含有させます。また「時刻」を特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)と捉え「瞬間」の意味を持たせることもありますが、形も大きさも無い点は、線分上に幾ら数を集めても線には成らないし、円球の中心点は幾ら膨張しても中心点が伴に大きくなると云う事も無いので、時間論上は「時刻」を特定の一瞬とせず、静止や運動に関わらず変化しようのないマークとします。また、自然から離れてしまった機械的時刻を意識してしまうために使用は控えます。「時間」は、出来事や変化を認識するための基礎的な概念として芸術、哲学、自然科学、心理学などの重要なテーマとなって、それぞれの分野で異なった理解の仕方があるため、夫々の分野での定義も見ていかなければなりません。
2013年03月02日
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「旧約聖書」創世記第29章・レアよりもラケル 29:1ヤコブはその旅を続けて東の民の地へ行った。29:2見ると野に一つの井戸があって、そのかたわらに羊の三つの群れが伏していた。人々はその井戸から群れに水を飲ませるのであったが、井戸の口には大きな石があった。29:3群れが皆そこに集まると、人々は井戸の口から石をころがして羊に水を飲ませ、その石をまた井戸の口の元のところに返しておくのである。29:4ヤコブは人々に言った、「兄弟たちよ、あなたがたはどこからこられたのですか」。彼らは言った、「わたしたちはハランからです」。29:5ヤコブは彼らに言った、「あなたがたはナホルの子ラバンを知っていますか」。彼らは言った、「知っています」。29:6ヤコブはまた彼らに言った、「彼は無事ですか」。彼らは言った、「無事です。御覧なさい。彼の娘ラケルはいま羊と一緒にここへきます」。29:7ヤコブは言った、「日はまだ高いし、家畜を集める時でもない。あなたがたは羊に水を飲ませてから、また行って飼いなさい」。29:8彼らは言った、「わたしたちはそれはできないのです。群れがみな集まった上で、井戸の口から石をころがし、それから羊に水を飲ませるのです」。29:9ヤコブがなお彼らと語っている時に、ラケルは父の羊と一緒にきた。彼女は羊を飼っていたからである。29:10ヤコブは母の兄ラバンの娘ラケルと母の兄ラバンの羊とを見た。そしてヤコブは進み寄って井戸の口から石をころがし、母の兄ラバンの羊に水を飲ませた。29:11ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。29:12ヤコブはラケルに、自分がラケルの父のおいであり、リベカの子であることを告げたので、彼女は走って行って父に話した。29:13ラバンは妹の子ヤコブがきたという知らせを聞くとすぐ、走って行ってヤコブを迎え、これを抱いて口づけし、家に連れてきた。そこでヤコブはすべての事をラバンに話した。29:14ラバンは彼に言った、「あなたはほんとうにわたしの骨肉です」。ヤコブは一か月の間彼と共にいた。29:15時にラバンはヤコブに言った、「あなたはわたしのおいだからといって、ただでわたしのために働くこともないでしょう。どんな報酬を望みますか、わたしに言ってください」。29:16さてラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレアといい、妹の名はラケルといった。29:17レアは目が弱かったが、ラケルは美しくて愛らしかった。29:18ヤコブはラケルを愛したので、「わたしは、あなたの妹娘ラケルのために七年あなたに仕えましょう」と言った。29:19ラバンは言った、「彼女を他人にやるよりもあなたにやる方がよい。わたしと一緒にいなさい」。29:20こうして、ヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた。29:21ヤコブはラバンに言った、「期日が満ちたから、わたしの妻を与えて、妻の所にはいらせてください」。29:22そこでラバンはその所の人々をみな集めて、ふるまいを設けた。29:23夕暮となったとき、娘レアをヤコブのもとに連れてきたので、ヤコブは彼女の所にはいった。29:24ラバンはまた自分のつかえめジルパを娘レアにつかえめとして与えた。29:25朝になって、見ると、それはレアであったので、ヤコブはラバンに言った、「あなたはどうしてこんな事をわたしにされたのですか。わたしはラケルのために働いたのではありませんか。どうしてあなたはわたしを欺いたのですか」。29:26ラバンは言った、「妹を姉より先にとつがせる事はわれわれの国ではしません。29:27まずこの娘のために一週間を過ごしなさい。そうすればあの娘もあなたにあげよう。あなたは、そのため更に七年わたしに仕えなければならない」。29:28ヤコブはそのとおりにして、その一週間が終ったので、ラバンは娘ラケルをも妻として彼に与えた。29:29ラバンはまた自分のつかえめビルハを娘ラケルにつかえめとして与えた。29:30ヤコブはまたラケルの所にはいった。彼はレアよりもラケルを愛して、更に七年ラバンに仕えた。29:31主はレアがきらわれるのを見て、その胎を開かれたが、ラケルは、みごもらなかった。29:32レアは、みごもって子を産み、名をルベンと名づけて、言った、「主がわたしの悩みを顧みられたから、今は夫もわたしを愛するだろう」。29:33彼女はまた、みごもって子を産み、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、名をシメオンと名づけた。29:34彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは彼に三人の子を産んだから、こんどこそは夫もわたしに親しむだろう」と言って、名をレビと名づけた。29:35彼女はまた、みごもって子を産み、「わたしは今、主をほめたたえる」と言って名をユダと名づけた。そこで彼女の、子を産むことはやんだ。
2013年03月01日
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