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いささか唐突な話になるが、私のハンドルネームであるCAPTAINは「キャプテン翼」に因むものであり(参考)、私自身が部活動などでその役に就いていたという訳ではない。なお、まともに部活動に所属していた経験も、中学時代のテニス部のみだったりする。でもって、当時のキャプテンはというと、結婚し陸前高田市に転居したとのこと。実は、その話を今日、初めて耳にした。そして、あの震災直後から今なお行方不明だということも…私に教えてくれたのは、中学時代の同級生で唯一連絡が取れる人物。彼とキャプテンとは、近所に住む幼馴染でもあった。彼らの実家は仙台港のすぐ南、海に近い地域にありここも津波で壊滅的な被害を被ったのだが、まさか陸前高田で… 嘘だろう? 青天の霹靂としか言いようがない。キャプテンと最後に会ったのは、確か1993年。テニス部の同窓会が行われた時のことだったか。別れ際に「また遊ぼうね」と言われたのをよく覚えている。それが、こんな形で消息を知ることになるこになるなんて…いや、行方不明だから、厳密に言えば消息はわからない訳だ。ひょっとしたら、どこかで元気にやっているのかもしれない。そう願いたい。願いたいが… いろんなことが頭を駆け巡る。見知った人間が行方不明という現実がこんなにも苦しいものだと、初めて知った。長らく会っていなかった私ですらそうなのだから、ご家族や同僚、親しい友人の心痛はいかばかりだろうか?前の日記で「たった一冊だけしかない本をゲットできたのが、何より気持ちいい。きっといいことがある。とりあえず、そう信じよう。」などとと書いてしまったが、直後に受けたこの連絡。大喜びで「ケロケロエース」を読み耽る上の子とは対照的に、虚脱状態に陥る今夕の私なのであった。早く出てこいよ。今、どこにいるんだい?
2011.04.19
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今日は休日。外は雨だから一日中自宅に籠っていようかとも思ったのだが、子供達は学校、妻も所用がありクルマで外出という状況。一人留守番しているのも気が滅入りそうなので、電車で福島の街へと出た。午前9時半に、福島駅に到着。相変わらず、淋しい駅前だ。震災があろうがなかろうが変わらない。これで本当に30万人近い人口を有する都市の玄関口なのかと思うぐらいだ。しかし、未曾有の大災害に見舞われた今、福島市中心部に賑わいを取り戻すための施策は、二の次三の次にならざるを得ないだろう。悔しいが、仕方がない。全国チェーンの飲食店やコンビニだけが開店している駅前アーケードをしばし散策し、午前10時に迫った市内唯一のデパート・中合の開店を待つ。ほどなくしてシャッターが開く。開店待ちの客はわずかであった。客より店員の方が多い状況だ。これもまた、震災があろうがなかろうが変わらない。先月31日の日記で北東北地盤の百貨店・中三が倒産した話を描いたが、中合もその二の舞にならないかどうか心配になるほどだ。なお、私はただ漠然と、中合に入った訳ではなく、それなりの目的があって来訪したつもりであった。子供達にちょっとしたお土産が買えればと思ったのである。震災がなければ3月25日に発売していたはずの「ケロケロエース」5月号を上の子に、先日下校途中にハローキティのハンカチを失くしてしまった下の子には代わりのハンカチを買ってあげるつもりであった。ハンカチは店内にあるサンリオショップで売っているのだろうが、「ケロケロエース」は、売っているかどうか正直自信はなかった。一応上の子には、「5月号は買えないと思うから我慢してね」と言い聞かせている。上の子も心得たもので、「うん、わかった」と了承してくれていた。サンリオショップでハンカチを買った後、同じく店内にある岩瀬書店に立ち寄る。コミック誌自体の売場面積が狭く多分売っていないだろうなという心境にさせられたのだが、意外なことに一冊だけ販売していた。ラッキー! これで上の子も喜ぶぞ!! たった一冊だけしかない本をゲットできたのが、何より気持ちいい。きっといいことがある。とりあえず、そう信じよう。そんな感じで機嫌良く福島駅へと戻る。切符を買い跨線橋を登ると、トレンチコートを着た集団がいるのに驚く。実は彼ら、郡山以南から仙台へと向かうビジネスマンたち。現時点で東北新幹線が福島駅までしか運行再開していないため福島駅と仙台駅との間を臨時快速が結んでおり、彼らはその乗り換え客という訳だ。それにしても、ビジネスマンで埋め尽くされた福島駅というのも、あまりお目にかかれない風景だ。新幹線が仙台まで復旧するのは今月25日の予定だから、あと数日は見ることができる。天候、あるいは臨時快速の到着時刻が予定より多少遅れたせいもあるのだが、彼らは皆一様に暗い表情で、しかも暇を持て余している風でもあった。考えてみれば、福島駅の在来線ホームや跨線橋には、売店が一つも存在しない。90年代にはJR、福島交通・阿武隈急行双方ともホーム上に売店があったはずなのだが、いつの間にやら消え失せた。キオスクが一つでもあれば、多少はマシだったかもしれないが。
2011.04.19
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一昨日の未明には新潟県と長野県との県境で震度5弱を観測したが、今日の夜明け前には秋田県内陸南部に位置する大仙市刈和野で震度5弱を観測したそうだ。この地域もまた、3月以降細かな地震活動が活発なだけに、今後の趨勢が少々心配だ。秋田県の地震というと1983年に沖合で発生し津波により多数の犠牲者を出した秋田県内陸地震が思い浮かぶのだが、調べてみると、内陸部でも1896年の陸羽地震、1914年の秋田仙北地震(別名・強首(こわくび)地震)と、大規模な地震が発生した過去がある。油断はできないと思う。と、ここまでは深刻な話を書いていたのだが、刈和野と言えば、柳葉敏郎が住んでいるということで知られている(町内にはこんな施設もある)町である。彼は今朝、かの町で地震に遭遇したのだろうか? また、3月11日の地震以降太平洋岸の交通網が不完全な状況において、東京との往復に支障をきたしていないだろうかと、余計なお節介とは知りつつも、気になってしまう。秋田県と首都圏とを結ぶ旅客の流れとしては飛行機、新幹線、高速道路の3パターンがある訳だが、新幹線は盛岡と福島との間で未だ不通のまま。柳葉に限らず、ビジネスなどで不都合を感じている秋田県関係者は少なくないと思うのだ。いや、秋田県ばかりではなく、青森県、岩手県と北東北全体が同様の事態に陥っていることだろう。新幹線自体は今月末までに全通の目処がついたと報じられているが、気になるのは今後。ゴールデンウィークや夏休み期間中の観光需要に、どれほどの悪影響があるのか、ちょっと予測がつかない。箱根や日光など外国人の需要が高い観光地が原発事故の影響で閑古鳥が鳴いているというが、それは極端な話「内需」で満たすことができる。ところが北東北に関しては、行き帰りの途上で東日本大震災の震源地や福島第一原発に近い地域を通過することになるため、その内需に不安があると言わざるを得ないのだ。被災地の方々にそういう視点を求めるのは非常に酷な話だと思うが、北東北のためにも、一刻も早い震災からの復旧、復興や、原発事故の収束を、願わずにはいられない。
2011.04.19
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最低でも正月明けまでは原発の恐怖に怯えなければならなくなった我が福島県であるが、ものすごく楽観的に考えてみると、広島市や長崎市に落とされた原爆に比べれば、被害は著しく軽微なものである。そして原爆投下からさほど年数を経ずして両都市が見事に復興を遂げたことを考えると、原発所在地の双葉郡だって、首相が口を滑らせた(?)ように10年も20年も住めなくなるような事態には多分ならないだろう。実際に避難されている方からは66年前の出来事と比べるなとお叱りを受けそうだが、もう少し前向きに発想を転換してみるのも精神衛生上必要かなと考える。福島県在住、ないしは出身の方が書かれるブログなどをいろいろと斜め読みしてみると、総じて文体が暗すぎる。そう言えば、戊辰戦争における若松城下での激戦に際し「この日の地獄の展開は、一瞬にして十万人の生命を奪った広島、長崎の原爆の惨劇に及ばなかったであろうか。」 などと寝言のような一文を記した会津の郷土史家もいたっけ。福島県人は総じてネガティブ志向の持ち主なのかなと思ってしまう。ネガティブついでに言えば、福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーを務め放射線に対してどちらかと言えば楽観論的な意見を展開している長崎大学大学院教授の山下俊一氏に対する県民の風当たりも、ここのところ強まっているようだ。昨日伊達市内で開催された山下氏の講演会を妻が聞きに行ったのだが、会場には「危険だと言われた方がよっぽど安心する」といった雰囲気の受講者が一定数いたらしい。ネガティブに加えてドMなのかい? と、一応突っ込んでおく。そんなに心配するのだったら、そのエネルギーのいくばくかを、放射線への懸念が去った後の双葉郡をどのように復興していくかにも振り向けて欲しいとも思うのだが… 繰り返しになるが、広島だって長崎だって、見事に復興した。爆心地は今も市域の中心だ。双葉郡にだって復興ができない訳がない。しかし、何を軸に復興するかとなると、かなり悩んでしまう。世界有数の漁場が広がる三陸だとやはり水産業をテコにして多くの資本が集まるような受け皿をまず再建していかねばならないと思うのだが(参考)、双葉郡の場合は、下手すると主力産業が原発そのものであり、商店街にも「原子力 明るい未来の エネルギー」「原子力 正しい理解で 豊かな暮らし」と大書されたゲートが掲げられている状況。そう言えば、こんな銘菓もあったそうで、この状況から価値観を180度転換するとなると、双葉郡は将来一体何をウリにしていけば良いのだろうと頭を抱えてしまう次第。でも、双葉郡の将来にもっと多くの人が関心を寄せてくれるならばきっと妙案が見つかるはずだし、せめてその機会を増やせないだろうかと思う。究極的な案としては、10~20年の時限を定めて県庁の一部機能を双葉郡に移転させてしまうのはどうだろう。知事はもちろんのこと、県内各地から選ばれた県議会議員、あるいは県職員や彼らと接する各種業界の方々が双葉郡の空気に直接触れていくことによって、地に足のついた復興プランが練り上がるのではなかろうか。考えてみれば、広島も長崎も県庁所在地だからこそ早期の復興をなし得た面があると思うし、思い切ってやってみてはいかがだろう。原発事故に引き続き復興もまた国任せとあらば、県民の心が間違いなく県から離れていくだろう。せめて復興だけは、県がイニシアチブをとる形で、進んで行って欲しい。
2011.04.18
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ここ数日の好天続きで、桜の花もすっかり花開いた。通勤経路の東北本線沿線に展開する一目千本桜も見頃を迎え、早朝から中高年の見物客が散策したりカメラを構えたりしている。まるで震災などなかったかのように。しかし、晴れ渡る青空のもと花見を楽しむ人々を見ていると、無性に淋しい気分になる。この風景、放射線が飛び交う福島県内では見られない、あるいは見られたとしても推奨されないものだからだ。私の趣味は長距離散歩だ。それ専用の文章を綴った別館を設けるほど熱中していたと言っていい。しかし、これもまた、現時点では推奨されるべきものではない。いや、政府や県の放射線アドバイザーに言わせれば決行しても全然問題はないのだろうが、中通り北部の大半の学校で子供達が外での運動を控えている状況だ。親が道楽でそんなことをやっていたのでは、全く示しがつかない。当分の間、封印する他ないと考える。今日、東京電力は、福島第一原発事故の収束について、放射性物質の放出が管理され放射線量が大幅に抑えられる状態にするまで、6ヶ月から9ヶ月程度を目標とするとの行程表を発表した。この通りに事態が進展したとしても、来年の正月辺りまで不要不急の外出がままならない状態が続くという訳か。そして再度のトラブルがあった場合、下手すると来春も屋外での花見がお預けということにもなりかねない。羨ましいよな… 病気でもないのに、その辺の人がプライベートで出歩くのを横目にしてそんな風に感じる日が来るとは思わなかった。子供が元気いっぱい外で遊びたいのと同様に、大人だって戸外で発散したい時はある。私にとってはその手段が散歩だった訳で、たかが道楽とはいえ、機会が奪われてしまったのが非常に悔しい。
2011.04.17
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今日の午前11時過ぎに、茨城県で震度5強を観測する強い地震があった。震源は茨城県沖かと思いきや、なんと栃木県南部。専門家の話だと3月11日の地震との関連性は薄いらしいが、どうにもこうにも、東日本一帯が地震の巣になっているような感覚に陥っている。だからYahoo!天気予報の地震情報なんて頻繁に見るようになってしまった。数時間おきに確認するとほぼ確実に最新情報が更新されているのだから恐れ入る。ちなみに、このサイトでは過去1,000件分の地震情報が保存されているのだが、3月11日の地震は既に1,000件以上前の地震となってデータが消滅しているのだから恐れ入る。で、この1,000件の地震情報を斜め読みしていると、東日本の太平洋沖以外にも小規模な地震が頻発している地域がいくつかあることがわかる。3月12日に大規模な地震が発生した長野県北部(あるいは新潟県中越)はその代表例であろうが、他にも、秋田県内陸南部や根室半島南東沖など、掲載の常連となっている地域がいくつか存在する。福島県会津地方でもまた、喜多方市熱塩加納町で小規模な地震が断続的に発生しているようだ。これらの地域で大規模な地震が発生しないことを祈りたい。防げるものなら防ぎたいが、こればかりは如何ともしようがないのが、非常にもどかしい。追記ところで、今日の福島県内は、北西からの強風が非常に強かったですね。木々や電線が揺れる様を見ていると、強風なんだか地震なんだかわからないぐらいでした。
2011.04.16
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私は、仙台への通勤者である。だから、福島第一原発の事故に関しては、仙台市やその近辺に住む同僚からの容赦ない視線に晒されることもある。「原発、大丈夫?」と普通に心配する声が最も多いが、中には「仙台に引っ越したらどうだ?」と言ってくれる人や、「おいおい、福島から仙台に通勤して大丈夫なのか?」と(冗談半分に)放射能汚染された福島県内から外に出ていいのかと問う人もいる。反応は、十人十色。実に多彩である。反応に接していて思ったのは、宮城県民の多くは、原発関連の情報に関して、全国平均並みか、下手するとそれ以下しか有していないということである。自県もまた大地震と大津波に見舞われたからそちらのインパクトの方がどうしても大きくなってしまうのは仕方ない部分があるのだが、隣県なのだから、もう少し、原発事故に対しても関心を寄せて欲しいものである。福島第一原発で再度の爆発があり、その際南東からの強い風が吹いていたならば、宮城県内にも大量の放射性物質が到達する可能性がある。原発事故によって関東地方の広い範囲で葉物野菜が出荷停止に追い込まれた事態は、決して対岸の火事ではないと強く主張したい。そう言えば、複数の従業員からは、こんな質問も頂戴した。「○○さんの家は、原発から何キロぐらい離れてるの?」「大体70キロぐらいかな?」だから安心なんだよと諭すように答えてはいる。同じ福島県内でも結構離れているのだが、宮城県民に限らず福島県外に住んでいる人の大半はこういった細かい距離感覚が理解できない。大体、福島県全体が風評被害に喘いでいる原因の一つには、当の原発が「福島第一原発」と県名を採った名前だという点が挙げられるのではなかろうか。郡名を採って「双葉第一原発」、あるいは町名を採って「大熊双葉原発」と名付けられていたならば、福島県全体を蝕む風評被害は多少軽減されていたかもしれないと、邪推してしまう。なお、純粋に福島第一原発を中心とした同心円的な距離で言えば、宮城県内でも角田市や山元町が私の居住する桑折町とほぼ等距離なのだ(いずれも役所役場との距離で計測)。だから、何度も言うけれど、原発事故は決して宮城県民、特に南部の住民にとっても、対岸の火事ではないのだ。もっと関心を持って欲しい。もっと危機感を持って欲しい。が、トップである宮城県知事の頭の中は既に復興一辺倒。原発被害への懸念はもちろんのこと、今なお被害に苦しんでいる隣県を思いやるコメントすら発してくれないのが非常に悔しい。県という組織、そしてこれに付随しともすれば県政翼賛的な報道を垂れ流ししかねない地元マスコミの存在が、ひょっとしたら震災からの復興を阻害する要因になりはしないかと、懸念する次第である。
2011.04.15
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ここ数日、福島県内の学校施設における放射線測定値が地元紙上に公表されているが、気のせいか、同一地域内の他の施設で測定した値よりも高めのように感じる。放射性物質が校庭の土壌に沈着しているのだろうか。子供達を登校させるのに対し、若干の怖さを感じる。そう言えば、原子力安全・保安院では、小中学校への登校の可否について、年間10ミリシーベルトを目安にしたいと話しているそうだ。これは、計画的避難区域の設定基準である年間20ミリシーベルトの半分。やはり、放射性物質は子供に影響があるということなのだろう。しかし、この基準を厳格に当てはめるとなると、恐らく福島県の東半分の地域の小中学校で登校不可能という事態になってしまうと思われる。これはちょっと酷過ぎる、何とかならないものだろうか。そこで、県外への自主避難を改めて検討する家庭も、ひょっとしたらあるかもしれない。が、リンク先のおばかんのさんのブログで紹介された記事によると、南相馬市から船橋市に避難した子供が船橋市の子供から「放射能怖い」などと偏見をもたれたケースがあったという。このような事態を懸念する声はかねてより福島県の内外から指摘されていただけに、この一件はひょっとしたら氷山の一角なのかもしれない。だから、「避難するなら福島県内だ」と思う人もいるかもしれないが、それもどうだろう。「同じ県内なら安心だ」とは安易に考えない方がいいかもしれない。避難先として主として検討されるのは県西部の会津地方になるかと思われるが、福島第一原発の事故によってこの地域にもたらされたものは、基幹産業である農業や観光への深刻な風評被害。浜通りで起きた事故でとばっちりを受けた挙句に原発周辺の地域の人まで受け入れなければならないとなると、いくら同じ県でも限界はあるだろう。「同じ県だから…」云々という避難者の認識は、受け入れる立場からすると「…だから我々を受け入れて当然だ」という、いささか脅迫じみたメッセージに受け取られる可能性がなくはないと思う。だから、避難先としては県外も視野に入れておきたいのだが、船橋市での事例を耳にすると、単独で自主的に、というのはやはり躊躇してしまう。となれば、第二次大戦中の学童疎開のように、各小学校ごとに子供達を集団疎開させるしかないのかもしれない。クラスメイトはもちろんのこと、担任の先生も一緒。だから先生方にはかなりの負担を強いることになるかもしれないが、未来を担う子供達を放射線やPTSDから守るためには、そのぐらいのことは検討しても良いのではなかろうか。
2011.04.14
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今日も、始発電車で出勤。仙台駅からのバスがまた混んでいるのではないかと心配だったが、昨日ほどではないようだ。道路もさほど渋滞しておらず、勤務先の始業時刻にも悠々間に合った。また、昨日のように満員の車内で緊急地震速報が鳴らないかとても不安だったのだが、こちらも何事もなし。ひとまず安心するものの、鳴らなかったら鳴らなかったでまた心配。地震が発生しなかった分地下でエネルギーが溜まった揚句M8クラスの大地震となって一気に放出されないだろうかと考えてしまうのだ。ひょっとしたら東日本の広い範囲に住む人にとっての共有認識になりつつあるのではないかと思うのだが、3月11日以降、我々は「地震が発生して当たり前」の生活に突入している。嫌だな。こんな認識。妻の話によると、自宅の近くに「予言者」がいるそうだ。「前回の地震から○○日後の××日に大きな余震がある」とか言って、見事的中させたらしい。勤務先にも「今日は余震がない」「明後日は余震がある」と予想を立てる従業員がいたかもしれない。恐らくそんな人が、東日本のそこかしこにいるに違いない。その中には、昨年のワールドカップで大活躍した予言タコのパウル君のように、「驚異の的中率」とか言われつつ周囲の注目を浴びる人もいるのだろう。非常に不謹慎な話かと思うが、こんな具合に地震を「楽しむ」姿勢がなければ、もはややっていられない。やっていられないと言えば、これも妻の話だが、自宅近くのスーパーでは、最近アルコール類が品切れ模様になっているとのこと。酒でも飲まければやっていられないということか。いずれに転ぶにせよ、震災を境に、多くの人々が、人生を狂わせてしまった。ここでふと、こいつの人生は今どうなっているのか? と気になる人物の顔が思い浮かぶ。大学時代の同級生のことだ。北茨城市出身の彼は、大学卒業後いわき市役所に入庁し、主に福祉畑の業務に従事していた。仕事ぶりは、多分真面目だったと思う。ただ、学生時分から、精神的にやや不安定な部分を抱えていた。そのせいかどうかはわからないが、一昨年に体調を崩し、休職してしまう。その休職期間中、医師の許可を得て一人出掛けた九州旅行の道中で、彼は犯罪を犯してしまう。罪名については武士の情けで書かないが、実刑判決が言い渡され、現在服役中の身となっている。つまらない罪を犯していなければ、彼は今頃、故郷の北茨城市や勤務先のいわき市のために、身を粉にして働いていたはずなのである。北茨城市では今日発生した余震でまたも震度5弱を記録。一昨日は5強、昨日は6弱。三日連続で5弱以上の揺れというのは異常という表現を通り超している。また、あまり報じられていないが放射線量も会津若松市より高い数値を示しており、一部の農産品も出荷停止を言い渡された。地震、津波、原発、風評被害と、福島県と同様の多重苦に見舞われているのが現状なのだ。塀の中では情報がどの程度伝わるものなのか私には経験がないからわからないが、普通の人なら、話を耳にしたら飛んで帰りたいと思うだろう。そして、犯した罪を心から悔いているであろう。果たして、今の彼の心中は、いかばかりだろうか…
2011.04.13
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昨夕にいわき市で震度6弱を記録した余震の影響で今朝の福島県内におけるJR線は大半が運休という状況であったが、幸い福島以北は通常通り運行されていた。桑折駅発午前6時29分の始発電車に乗って、5日ぶりの出勤。仙台駅には定刻7時39分に到着した。仙台駅もまた、7日深夜に発生した余震の影響で福島方面への東北本線以外は未だ運休中。まるで盲腸線の終点のような扱いだ。そんな中、私が通勤で利用する区間だけが動いている。不気味なぐらい順調な立ち上がりと言える。ところが仙台駅から先が曲者で、勤務先へと向かうバスがステップにまで客がひしめく大混雑の上に、道路もまたうんともすんとも動かない大渋滞。なんと、仙台駅前から若林区卸町までのわずか4キロほどの区間を通り抜けるのに1時間を要した。結局、午前9時の始業には間に合わず… 4月に入ってから5度目の出勤だが、うち2度が遅刻。この高確率ぶりは「遠距離通勤だから仕方ない」と言い訳できない恥ずかしさを伴う。そんな満員のバスの中で、突如として誰かの携帯から緊急地震速報が鳴り響く。身動き取れない状況で勘弁してくれよと境遇を呪ったが、特段揺れを感じない。ひょっとしたら福島で揺れているかもと慌てて妻にメールすると、さほど間をおかず「千葉で震度5弱の地震があったよ」との返信。ひとまずホッとするが、千葉の方にとっては災難に違いない。今朝はこの他にも長野県北部でも震度5弱を記録する強い揺れがあったそうだ。昨日に引き続き「揺れる日」である。勤務先で仕事…と言っても、7日の余震の影響で生産活動はなかなか軌道に乗らず今日もまた商品収納用のバットをひたすら洗浄するという地味な作業を数人で行う。でも、仕事があるだけまだマシだ。実は私の勤務先でもパートやアルバイトのリストラがあり、今日の昼休みに、そのうち何人かが挨拶に来ていた。解雇を宣告されたパートさん達の大半が「この状況じゃ仕方ない」と比較的サバサバした表情なのに対して、残された社員は彼女たちの境遇を慮ってか人目もはばからずに涙するというシーンが、あちこちで見られた。こういう形での別れは、本当に淋しいし、悔しい。彼女たちの分も頑張らなければと思いながらも思うように仕事ができない我が立場に多少の苛立ちを感じながら洗浄を続けていると、一緒に作業していた社員の携帯から、「キュー キュー キュー」と緊急地震速報が心臓に悪そうな音を発している。今度は警報が鳴り終わらないうちに揺れが訪れた。震度3から4ぐらいであろうか。それほど強くはなかったが、長く続いた。「震源はどこだろう?」「福島か?」社員同士でそんな話をしている。なんと、昨日に引き続き、いわき市で震度6弱を記録したとのこと。自宅が気になって、妻に連絡をとる。「地震大丈夫か?」「うん、大丈夫だよ」地震発生当時は下の子の下校に随行しており、外を歩いていたこともあってか特段大きな揺れは感じなかったそうだ。それにしても、心配なのは、震源に近い福島第一原発の状況である。奇しくも今日、原子力安全・保安院が同原発の事故の深刻度を最悪の国際評価尺度であるレベル7に引き上げると発表したばかり。弱り目に祟り目? いや、そんな形容が可愛らしく思えるぐらい、いわき市をはじめとした浜通りの状況は、悲惨を極めている。2日続けて震度6弱なんて、普通あり得るか!? これ以上、浜通りをぶち壊さないで欲しい。頼む。
2011.04.12
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今日の昼前に行われた枝野官房長官の記者会見において、東京電力福島第一原発事故の避難指示地域拡大についてこれまでのように距離でなく地形、風向き、放射線量などを考慮して地域ごとに指示を出す方針が明らかにされたとのことだ。原発から30キロ圏外にあり国から特段の指示を受けていなかった飯舘村の全域と川俣町の一部(山木屋地区か?)には、期間を設けて計画的に避難するよう要請があったという。放射線量を考慮というのは、累積放射線量のことらしい。なんでも、このままの放射線量で推移すると、国が避難の目安としている年間20ミリシーベルトを超えるとの話。飯舘村や川俣町で放射線量が高くなった要因には、福島第一原発で水素爆発があった当時、原発方面から風が吹きこんでおり、しかも雨が降っていたため、他地域よりも多い量の放射性物質が降り注いだからだという話を、以前耳にしたことがある。となると、たまたま風が吹き雨が降っていたから避難という、全くのとばっちりの結果だ。何と言ったらいいのか言葉が見つからない。つまり、当日の風向きや天候が少しでも変わっていれば、飯舘村や川俣町のような状況は、原発からの距離に関わらず、どこででもあり得た訳だ。例えば福島市や郡山市でこのような事態が起こってしまったらと思うと、末恐ろしい。県内の行政、経済の機能は、完全にマヒしてしまうではないか。そこでちょっと気になって、県の資料を使いながら、県内主要都市の中でも放射線量の測定値が高い福島市における累積放射線量を独自に集計してみた。放射線量が急激に上昇した3月15日からのデータで調べてみると、昨日の段階で3.3ミリシーベルトを超えるぐらいのようだ。ここしばらくは1時間当たり2マイクロシーベルト前後をうろついているから仮にこの状況が丸一年続いたとしても年間20ミリシーベルトにはギリギリ到達しないようだが、福島第一原発において再度の水素爆発があり放射性物質が大量飛散したとなると、話は違ってくる。何十万という市民が一斉に避難しなければならない事態となったらと思うと、恐怖感に襲われる。今一所懸命に頑張っている作業員の方々には、是非ともこれ以上の放射性物質の流出を食い止めるべく、更なる奮起をお願いしたい。【参考1】福島市における3月15日以降の累積放射線量(単位=ミリシーベルト。筆者集計による)3月15日 0.156 3月16日 0.5863月17日 0.901 3月18日 1.1753月19日 1.416 3月20日 1.6303月21日 1.810 3月22日 1.9673月23日 2.101 3月24日 2.2203月25日 2.325 3月26日 2.4173月27日 2.506 3月28日 2.5863月29日 2.662 3月30日 2.7343月31日 2.798 4月1日 2.8604月2日 2.923 4月3日 2.9834月4日 3.037 4月5日 3.0904月6日 3.141 4月7日 3.1914月8日 3.239 4月9日 3.2874月10日 3.334【資料2】福島市で今後1年間2マイクロシーベルト/時の放射線量を継続して記録した場合における3月15日以降の累積放射線量(単位=ミリシーベルト。筆者集計による)2011年4月30日 4.294 2011年5月31日 5.7822011年6月30日 7.222 2011年7月31日 8.7102011年8月31日 10.198 2011年9月30日 11.6382011年10月31日 13.126 2011年11月30日 14.5662011年12月31日 16.054 2012年1月31日 17.5422012年2月29日 18.934 2012年3月15日 19.654
2011.04.11
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東日本大震災から、1ヶ月が経過した。私はというと、4月1日から一旦職場復帰したものの、4月7日深夜に発生した余震で、風金経路が再びダメージを受けたため、今日は自宅待機。とりあえず、明日から運転を再開するそうだ。比較的早期の復旧に対し、胸をなで下ろす。前にも書いたが、3月11日の本震より、4月7日の余震の方が、ショックが大きかった。本震の影響から東京電力福島第一原発の事故が発生し、反原発を唱える動きが大きくなっていたにも関わらず、私はこの動きには同意できない部分があった。原発「推進」ではないが「現状維持」のスタンスである。理由は二つ。まず一つは、3月11日の地震では、福島第一原発より震源地にはるかに近い東北電力女川原発が、大きな被害を受けていなかったことである。この原発、なんと地域住民の避難所としても活用されていたとのこと。となれば、福島第一原発の事故は、「政府の原子力政策の失敗」ではなく「福島第一原発単体に対する管理体制の杜撰さ」が問われるべきだと考えた。福島第一原発は今から40年前の1971年から稼働を開始し、当初想定されていた耐用年数(16年)を大幅に上回る年数を経ている。そのこと自体が問題だと思ったのだ。従って、当ブログでも、政府や東京電力、そして福島県の対応を批判的に書き綴ってきた。前者については他の多くの方が批判されているので、当ブログでは福島県批判の度合いを強めることとなった。県知事や県を基盤とするマスコミは揃いも揃って国や東京電力を批判する傾向が強いのだが、福島県に責任がなかったとは、絶対言わせない。例えばこの施設など、今回の事故においては何一つ役に立っていないし、施設を管轄している部署のサイトも、2月28日で更新が止まっている有様だ。一体何をしているのだ? 「福島県が国や東京電力から呆れられている」構図は、少なからずあるのではないか?もう一つは、我が国の電力供給量のうち、原子力発電の占める割合が30%近くに及ぶという現実である。これが一斉に廃炉という方向になったらどうなるか。東京電力管内の計画停電の事例でもわかるのだが、経済活動の停滞が容易に想定される。結果、失業者が街にあふれ、国中大暴動になる危険性だって大いにあるだろう。だから、原発反対を唱える人たちは、従前の電力供給量を賄えるだけの代替案を提示するのが筋だと思う。妙案があれば従うが、今のところ、そういったものは見当たらない。ところが、4月7日の余震では、あろうことか女川原発や震源から北に遠く離れた青森県の東北電力東通原発においても、外部電源が遮断され、非常用電源が故障するという事態が発生してしまった。幸い原子炉の冷却は継続できたものの、一歩間違えば福島第一原発の二の舞だったのだ。この一件で、さすがに目が覚めた。付近でM7級以上の地震が短期間で連続して発生した場合、原発は耐えられない。そしてその可能性は、特に東日本太平洋沖においては、決して低くはない。我が国の原発は、段階的にすべて廃止するしかないと思う。ただ、原発に代わる発電手段をどうするかとなると、私などに妙案が浮かぶはずもなく、ここで立往生。我が国の原発を全廃するとなると、特に原子力発電による電力供給比率が高い関西(48%)、中国(38%)、九州(41%)の各地方など、どうやったら代替手段を得られるのか想像もつかない。地震国であると同時に火山国でもある我が国はその特性を活用するのならば地熱発電の新規開拓がもっと進められていいと思うのだが、関西や中国には活火山そのものが殆ど存在しないから、九分九厘需要を満たすことはできないだろう。あと、風力発電も有効な手段へと昇華させ得る可能性を有するが、原発廃止分の電力供給量をどこまでカヴァーすることができるのかは未知数だ。また、地熱、風力両発電とも、海辺や水辺に設置場所を求めざるを得なかった原発とは異なり、安定的な電力供給のためには山岳地帯に発電所を設置する必要性に迫られるので、景観や生態系への影響も気になるところだ。疲弊した我が国をキャンバスとしてどんな未来を描き得るのか… 昨日の日記でも書いたが、今は、子供達の教育に、力を注ぐべき時だとも感じる。
2011.04.11
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妻の実家から、自宅に電話が入った。7日あるいは昨晩の余震の影響か、あるいは昨日一日中シトシトと降っていた雨の影響かは分からないが、今朝起きてみたら敷地内の石垣が崩れているのが見つかったという。落石した結果、自宅や周囲の住宅には被害が及ばなかったものの、自宅へのクルマの進入経路が塞がれてしまったとのこと。東日本大震災は、本震の大きさもさることながら余震の規模や回数も桁外れに多いのが特徴。相次ぐ余震によって被害が増大したり、あるいは新たな被害があったりといったケースも、少なくないと思う。余震はいったいいつ収まるのだろう?夕飯は、その妻の実家で御馳走になった。石垣の崩れ具合は我々素人の手では修復不可能であり、改めて、今回の震災や余震のすさまじさを肌で感じる。そんな不安な気持ちを和らげてくれたのは、上の子の「言いまつがい」であった。BGMでSMAPの「夜空ノムコウ」が流れるACのCMを観ていた時のこと、「これ、『あれから 僕たちは 何かを信じて これだから』って歌ってるんだよね」と、素朴な質問。いえいえ違います。「これだから」じゃなくて「これたかな」だよと妻と私とで教えたのだが、よくよく考えてみると、「これだから」だと意味深な内容にならないか? 「何か」の部分を政府や東京電力や原発や福島県庁に置き換えてみると… 無批判に「何か」を信じた結果が「これ」だとしたら、何という皮肉なんだろう!!その後も、皆でテレビを観る。「真相報道バンキシャ!」だったか、業務再開へ向けて奮闘する陸前高田市の老舗醤油醸造業者の映像が流れた。その時、誰かが一言。「あっちの方は復興に向けて進めるからいいよな。こっちはまだ遠くへ避難しなければならない人がいっぱいいるのに…」それはそうなのだが、地震や津波での死者数は、「こっち」よりも「あっち」の方が明らかに甚大なのだ。住民が被った被害は「あっち」も「こっち」も悲惨極まりないものなのだが、特に今月に入ってからの県内世論に触れると、復興に向けた前進が始まっている「あっち」よりも現在進行形で被害が続いている「こっち」の方がより悲惨だという論調が、だいぶ目立つようになってきた。だからこそ、こちらの日記で批判的に書いた「I love you & I need you ふくしま」が多くの県民に受け入れられる素地があるのだろう。「他県のことなんか目を配る余裕なんかない!」そうかもしれない。しかし、被災地に優劣などない。あるのはあくまで「質」の違い。同じ被災者だからこそ、他県の被災者への温かいまなざしもまた、忘れてはならないと思う。
2011.04.10
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午前中に、地元の子供会の会合があるので、行ってきた。話の内容は昨年度の決算と本年度の予算についてだったのだが、話題の中心はやはり、今年の子供会や学校の行事はどうなってしまうのか? について。子供達が所属する学校や子供会では、今年の前半だけでも、これだけの行事があるのだ。5月中旬 小学校運動会6月上旬 小学校学年保護者対抗球技大会(ソフトボールとバレーボール)6月 小学6年生宿泊学習7月下旬 子供会行事これらのすべてが、例年とは違う対応を余儀なくされることになりそうだ。そもそも桑折町の小中学校では、放射線の影響を考慮して屋外での体育の授業や部活動を自粛している。だから当然運動会などもできないし、球技大会もまた、ソフトボールは恐らく不可能。宿泊学習については候補先の一つである相馬海浜自然の家が津波で甚大な被害を被った上に、その他の県内宿泊施設もまた放射線の影響から屋外での活動を自粛せざるを得なくなる可能性が高い。子供会行事は例年だと日帰りでの小旅行や屋外でのバーベキュー大会を開くのだが、これもまた大幅な内容変更が検討されてしかるべきであろう。また、表中には記さなかったが、中学生の部活動もまた、運動部については各種大会が開催されるのかどうかすら微妙な情勢ではないかと思う。6月や7月になれば、ひょっとしたら情勢が幾分好転しているのかもしれない。が、その保証はどこにもないし、各々の施設に予約を入れておく必要があることを考えると、結局、今現在の情勢で判断を下さざるを得ない。恐らく、どの学校、子供会とも、頭を悩ませているのではなかろうか。悩む分にはまだいい。一番の被害者は、子供達自身である。そんな感じで妻と話していたら、妻が「これからの福島県の子供達はスポーツ面での活躍が期待できないだろうから、今のうちからきちんと勉強して、頭の良い子が沢山育つといいんだけど…」というようなことを言っていた。確かにその通りだと思う。今回の震災後に福島県で「災い転じて福となす」ことができるのだとするのならば、ひょっとしたらここに賭けるしかないのかもしれない。しかも「東大現役合格」といった類の単に受験勉強が得意な人材ではなく、自然科学、人文科学、社会科学の各分野において世のため人のために貢献できるだけの見識を有した研究者や実践者の育成が必要ではなかろうか。二度と県民、そして国民が酷い目に遭わないためにも、是非そうして欲しいと願う。我々保護者の世代にはもう立ち直れないぐらいのダメージを浴びている人も少なくないが、それを次の世代に連鎖させないための方策の必要性を痛感する次第だ。
2011.04.10
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先月末あたりから福島県内のテレビ局においてしきりに流れている曲に、猪苗代湖ズの「I love you & I need you ふくしま」がある。TOKYO FMのサイトを通じて楽曲の配信も行われており、福島県外にお住まいでも既にお聞きになった方が多いかと思う。この曲を聴いて、あるいは全国すべての都道府県出身者がこの曲を歌う映像を観て涙した方も少なくないだろう。特に福島県在住ないしは出身となれば、尚更のことと多くの人は考えるのではなかろうか。ところが私は、この曲を耳にしても、率直に言ってこれといった感慨が湧いてこなかった。映像を観ると、いかに多くの方々が福島県を応援していることは理解できるし感謝もしたいのだが、心を揺り動かされることがないのだ。我ながら、冷たい人間だな… と思う。しかしその現実を認め難く、いろいろと言い分を探してるもう一人の自分もいる。気になることの一つに、この曲の歌詞が挙げられる。冒頭からふくしまに ふくしまに ふくしまに置いてきたんだ 僕は 本当の自分をと歌っているのだが、そもそも私は東京生まれの仙台育ちで30歳を過ぎてから福島県に移住してきた人間だから、「本当の自分」は福島ではなく東京や仙台に置いて来たんじゃなかろうかと邪推してしまう。しかし、仮に東京や仙台の賛歌が流れたとしても、果たして落涙に至るだろうか? シチュエーションをいろいろ考えてみたが、ちょっと想像しがたい。やはり、私の心が動かないのは、自身の冷たさに起因するのだろうか?が、それを認めたくないものだから、またいろいろと愚考する。そもそもこの曲は、昨年9月に裏磐梯にて開催された風とロック芋煮会というイベントにおいて、即興で発表されたものである。このイベントの主催者が、TOKYO FMの一番組である「風とロック」(ちなみにこの番組のパーソナリティが、郡山市出身で猪苗代湖ズのリーダー的存在でもある箭内(やない)道彦)と、地元新聞社の福島民報社であることが、個人的には気になった。なあんだ。巷間言われているように故郷へ恩返しするために箭内らが立ち上がってこの曲が配信されたのではなく、黒幕に福島民報がいるんじゃないか。そして福島民報は、ほぼ100%、福島県庁と繋がっている!!このことが分かった時点で、変な話だが、「私は冷たい人間で結構!」との、妙な開き直りがあった。つまりはこうだ。「I love you & I need you ふくしま」は、恐らく、県庁サイドからの要請があって、配信が行われた曲なんだろうと思う。でなければ、どうして複数の県に跨る被災地全体の中で福島県に限定したセクト主義的な応援ソングが配信されるのか、また配信の収益全額が福島県に寄付されるのか、説明がつかない。県でもちゃっかり、この曲の宣伝に努めているし。まあ、それはそれで構わないのだが、一番の問題は、この曲の配信に伴い県民の郷土愛が高まることによって、今回の震災、特に福島第一原発の事故における「福島県の責任」を問う声がうやむやになってしまわないかとの懸念があることだ。西田敏行ではないが「美しい福島を汚したのは誰だ! 誰が福島をこんなにしたんだ!」という怒りの感情は、私も当然持っている。が、汚した側の一員に、原発を誘致した「地方公共団体としての福島県」がいることを、私たちは決して忘れてはならない。感情に左右された揚句、批判すべき敵を見失ってはならない。そして、真に福島県が復興するために、なすべき総括を怠ってはならない。…ここまで読み返すと、自己正当化のために激しく妄想を展開しているなあ(苦笑) ただ、私は冷たい人間であります。それは十分認めます。ハイ。
2011.04.09
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今朝から雨が降っている。あの中にも放射性物質が含まれているのだろうか… と不安に思いながら、雲が垂れこめる空を見上げる。新聞もまた空に歩調を合わせるかのごとく、個人的にショックを感じる記事が二つ書いてあった。まず一つは、私の住む桑折町を含む8市町村(福島市、桑折町、川俣町、本宮市、大玉村、田村市、三春町、鮫川村)において、体育や部活動など学校における屋外活動の自粛を決定したこと。うちの子供達もまた、体育の授業場所が体育館内に限定されるし、上の子が所属している町のソフトスポ少の活動もまた、非常に限定されたものにならざるを得なくなる訳だ。保護者としては非常に悔しい話である。子供達にとっても、恐らく同様であろう。ただ、その一方で、東京都内に住んでいた私の幼少時代(1970年代後半)のことを思い出してもいた。かなりうろ覚えなのだが、当時確か「光化学スモッグ警報(あるいは注意報だったか)が発令された時、屋外での体育やプールの授業を中止する」取り決めがあったと記憶している。実際に中止された経験も、一、二度あったかもしれない。光化学スモッグが社会問題になったのは1970年代前半のことだったから、年代がもう少し上、1960年前後に生まれた方だと、その記憶はより鮮明なものだと思う。その記憶を、福島県の小中学生や先生方にむけてアドバイスしてくれると嬉しい。当時の経験談はひょっとしたら、未知の世界を手探りで進んでいく我々にとって何らかの指針になる可能性があるかもしれないから。もう一つは、一昨日せっかく復旧したのに余震で再び不通となってしまった東北本線の再復旧予定が、今月中旬とされてしまったことである。中旬と言われても11日から20日までの広い範囲に及ぶ訳で、具体的な期日が明らかにされない点が、不安を増幅させる。こればかりは、一刻も早い再復旧の実現と再度の余震が発生しないことを祈るしかない。JR東日本のサイトを見ると、余震の影響で、復旧したのに再び運休に追い込まれたり、あるいは復旧間近だったのに復旧予定日が先延ばしされた区間は、少なくないようだ。新学期がスタートしているだけに、私と同じ不安を抱いている通勤通学者は、相当数いるのではないかと推察する。
2011.04.09
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先の記事にも書いたように午前中いっぱいブルーな気分で過ごした私だが、いつまでも落ち込んではいられない。また、前を向かねば… 自身に言い聞かせる。昼食後、午後1時半に下校する下の子を迎えに通学路まで出る。今日は1、2年生だけ昼食(今日は給食ではなく弁当持参)先行して下校し、上の子を含む3年生以上は午後の授業を終えて午後3時過ぎに別途下校するというスケジュール。一応集団で下校するのだが、低学年だけの下校はやはり心配だ。通学路まで出てみると、新入生も一緒の下校ということもあり、下の子の担任の先生が同行していた。挨拶を交わすと、その先生「○○ちゃんのお父さんが歩いて来たよ」と子供達に紹介。「歩いて」が妙に強調されている。先生にとって、私は「歩く人」としてインプットされているのだろう。だから私も、「いや~、昨晩の地震は大きかったけど、自宅で被災したから仙台の職場から歩いて帰らずに済んだのが不幸中の幸いでしたよ」などとコメントし、あくまで「歩く人」として先生に接する。これはネタではなく、心からの本音。70キロ近い距離を一日がかりでもう一度歩けと言われても、特に今日の精神状態ではできるかどうか覚束ない。午後4時前には上の子も帰宅。とりあえず、今日は家族全員無事自宅に揃った。その安心からコタツでウトウトしていたら、子供達にパソコンを占領されてしまう。暇潰しが必要となってしまった夕暮れ前のひととき。ここでふと、今の時期どうしても読んでおきたい漫画があることに気がついた。日頃から愛読している「ゴルゴ13」において1984年に発表された「二万五千年の荒野」という作品なのだが、その内容が、福島第一原発事故の現状と酷似しているのだ。はてさてどこに置いたっけと家中探してみたものの、なかなか見つからない。なお、詳しい内容はこちらを参照されたいのだが、秀逸なのは、水蒸気が立ちこめ視界がきかないなか例によってピンポイント射撃を決めるゴルゴ13よりも、物語のラストで展開される原発のパーマー制御部長の記者会見のシーン。原子力発電が危険なことだと認識しつつも、近い将来における石炭や石油の枯渇が必至の情勢の中、今更木炭やローソクの生活に戻るわけにもいかず… ラストで「我々はどうしたらいいんでしょう」と記者に問いかけるパーマーのセリフは、まさに現在の我々に対しても、ダイレクト過ぎるぐらいダイレクトに響くフレーズだと痛感する次第だ。
2011.04.08
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昨晩の地震の直後から関連ニュースを観まくった後、再び床に就いたのは、午前2時過ぎのことであった。3時間後、目覚ましが鳴り、起床。眠くて眠くてしょうがないが、最新情報は仕入れておかねばなるまい。特に交通情報。早速ネットにあたってみると、案の定、今日のJRは宮城県内全線で終日運休となるそうだ。高速道路もまた、多くの区間で通行止の状態。一応仙台までは受けるようだが速度制限がかかっており、高速バスが運行されていたとしても、大幅な遅延は必至である。一方、勤務先周辺のライフラインはどうか。東北電力のサイトにあたってみたところ、宮城県内で90万を超える世帯が停電とのこと。これでは、勤務先まで辿り着けたとしても、稼働していない可能性が高いから、行っても意味がなさそうだ。ここまでの情報を整理すると、今日の出社は、諦めざるを得ない。せっかく昨日から電車の運行が再開したというのに、花見は無理としても車窓から一目千本桜を堪能したかったというのに。ところで、東北電力のサイトを詳しく見ると、昨晩の地震による停電の範囲は、震源に近かった宮城県よりもむしろ岩手、秋田、青森の北東北三県で全戸停電と、深刻な状況になっているのがわかる。早速、秋田県南部で建設業を営む旧友にメール。やはり停電中であり、地震発生直後からインフラ被害の調査であちこち飛び回っているとの返答があった。未明から大変だ。一刻も早い復旧を祈る。一方、のどか過ぎる目覚めを迎えたのが、我が家の子供達。あれほど激しく揺れたのに、地震のあったことが全然記憶にないという。「そんなのあったの?」とか言われてしまった。ある意味豪胆だ。表現を変えれば無神経とも言えそうだが、「怖いよう~」と心細く泣き叫ぶよりは幾分マシだと思う。子供達を送り出した後、出社できない旨勤務先に電話。恐らく今日は出社しても散乱した機材類の片付けだけで終わるだろう(から無理して出社しなくてもいい)との話であった。明日以降の勤務体制については追って連絡するとのこと。せっかく皆で復興に向けて頑張ってきたのに、また振り出しに戻ってしまった感がある。さながら「賽の河原の石積み」のごとく。そして私は、3月中の自宅待機期間と同様に、昨晩の地震を報じる番組をハシゴしながら、テレビに向かってブツクサと文句を垂れる生活に戻ってしまった。いや、文句を言う元気も、多少減退気味になっているようだ。率直に言って、3月11日の地震の時よりもショックだ。「復興しても意味がない」との天の声を聞いてしまったような心境だ。
2011.04.08
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今日は福島と仙台とを結ぶ東北本線が運転を再開したという「ちょっと嬉しいニュース」を書こうかと思っていたのだが、家族全員寝静まっていた午後11時32分頃に宮城県内で震度6強の大きな地震を観測したので、執筆内容を変更せざるを得なくなった。桑折町内でも、震度5強と、強い揺れを記録した。寝ていた子供達を起こして安全な場所に避難させようとするが、寝入っていた彼らは事態を把握していなかったようだ。それが彼らにとって幸いだったかどうかは、今のところわからない。その後子供達は再び夢の世界へと入ってしまったが、私たち夫婦はもう寝られない。ニュースを報じるテレビ画面に釘づけの状態である。幸い、桑折町では、地震直後に停電となることはなかった。それにしても、3月11日の震災からもうすぐ1ヶ月。インフラも順調に復旧していたというのに、またこの揺れ… せっかく皆で一所懸命に「復興双六」をやっていたのに振り出しに戻されてしまったような心境だ。明日私は無事に出勤できるのだろうか? また子供達も怯えずに登校できるかどうか? とても心配だ。津波で大きな被害を受け防波堤も破損した状況にある東北地方沿岸部で、再び深刻な状況になっていないかも気になる。宮城県内では津波警報が出ているし、複数の県に跨る広い範囲で停電などのインフラ障害が発生したとの情報もある。仮に高速バスなどを利用して出勤できたとしても、電気が通っていないかもしれない状況下で果たして仕事になるのかどうか?そして、福島第一原発の状況は… ただでさえ過酷な状況の中懸命の作業を続けている作業員の方々が、放射性物質を含んだ水をかぶったりしていないだろうか? また、大きく損傷した原発建屋の倒壊など、更なる悪化を招いてはいないだろうか? 先ほどから始まった東京電力の会見ではしきりに安全が強調されていたようだが、暗闇の中本当にきちんと確認できたのだろうか? 非常に気になるところだ。それにしても、いつまでこんな事態が続くのだろう? もう沢山だ! 3月10日まで過ごしてきた平穏な生活を、一日でも早く返して欲しい。でも、誰にその思いをぶつけたらいい!? 「この地球奴!」と地団駄でも踏むか。傍目から見るとコントのような仕草になるかもしれないけれど。
2011.04.07
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私の住む桑折町では、3月11日の震災という暴力的な形をもって、2010年度の小中学校生活にピリオドが打たれてしまった。卒業式も終了式も、執り行われなかった。だからこそ、小中学生は学校の再開を、たいへん心待ちにしていたことかと思う。今日は始業式。うちの子供達も、足取り軽く登校していった。今日行われたのは始業式と入学式、あとは軽めの学級会程度で午前中には帰宅してきたのだが、子供達の話では、こんな出来事があったとのこと。(1)桑折町にも福島第一原発周辺など県内他地域から避難してきた子供達がおり、上の子のクラスにも転入生が一人入ったそうだ。ちなみに、町全体では、小学生13人、中学生5人の転入生があったとのこと(町広報号外の情報による)。(2)担任の先生は、上の子、下の子を含めて各学年とも前年度から持ち上がる形になった。そして、昨年度に6年生を受け持っていた先生が、1年生の担任になったこと。(3)どうでもいい話だが、上の子のクラスの学級会において、なんと、私が仙台から桑折まで歩いた話が紹介されたそうだ。それぞれの項目について、軽く感想を。まず(1)についてであるが、やはり、地域全体で避難してきた子供達を支えていきたいと思う。変な話だが、子供達が「桑折町に来て良かった」と思えるような環境づくりができればいいなと思う。私自身が小学校の転校を繰り返してきた結果内向的な人間になってしまった悪例のような存在だからこそ、その気持ちは折に触れて我が家の子供達に伝えていきたい。(2)については、子供達も保護者も、非常に安心したかと思う。校長先生や教育委員会の英断に感謝したい。ひょっとしたら、担任の先生方もまた、安心したのではないかと推察する。見慣れたいつもの仲間での再出発。であるからこそ、先の話の続きになるが、転入生が早く仲間の輪になじめるようにして欲しいとも思う。(3)については… 驚いた(苦笑) この話、実は妻の実家がある集落でもかなり広まっており、3日には屋根の修繕作業を手伝っている最中に近所の方から「いや~ あんだ仙台から14時間かけて歩ってちたんだって?」とか声を掛けられるし、当ブログを経由せずとも口コミで200~300人ぐらいの方が耳にしたのではなかろうか。町内での「変人度」が確実にアップしたな。こりゃ…とにもかくにも、新年度がスタートした。福島第一原発をめぐる情勢は未だ深刻な状況にあり、我が町でも特に農業に対する不安要素が大きく残るのだが、そんな空気を子供達に伝染させる訳にはいかない。例え空元気であっても、子供達の前ではつとめて明るく(というか、そもそも家庭でも地域でも、私は「ボケ役担当」のキャラなのだが・笑)振舞いたいと思う。追記学級会で先生が話した効果(?)が早速あったようで、妻がスーパーへ買い物に行った際、偶然会った上の子のクラスメイトから「○○君のお父さんって、仙台から桑折まで歩いたんでしょ?」と訊かれたとのこと。妻はその場で爆笑してしまったそうです。
2011.04.06
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今日も高速バスで通勤。明日は公休日、明後日からは東北本線が待望の復旧となるため、高速バスでの通勤は今日が最後となる。今日も仙台西道路が多少混雑しており冷や冷やさせたが、遅刻という最悪の事態にはならなかった。清掃活動に従事後、昼休みに休憩室で新聞を読む。宮城県のローカルニュースで、今回の震災で冷凍保存されていた魚介類の腐敗が進んでしまったため、海洋汚染防止法の例外規定に従い外洋に投棄する方針を県が固めた旨の記事があった。切ない話である。しかもこの話、ひょっとしたら今回限りでは済まなくなる恐れがある。先月末だったか、東北電力が発表したところによると、今回の震災で仙台、新仙台、原町と三つの火力発電所が甚大な被害を受け復旧の見通しが立たないため電力需要が逼迫する夏場に供給が追い付かず、被災地ですらも計画停電の対象となる可能性があるという。というか、ほぼ決定事項だとみて良いだろうと思う。首都圏における計画停電を「福島県に原発を押しつけてきた報いだ」と最初は軽く見ていたのだが、企業の生産活動への影響が顕在化していく実態を目の当たりにし、大変なことになったなと今では認識を異にするに至っている。ましてや夏場。東京電力でも計画停電は必至の様相であり、気の早すぎる在京マスコミを通じて家庭やオフィスにおける冷房対策が今から進められているのだが、より肝心なのは、特に食品産業における冷蔵、冷凍対策ではないかと思うのだ。4月2日のブログでも記したように、被災地、特に岩手、宮城の両県は全国でも屈指の水産県であるし、東北電力の管轄県全部が農業を産業基盤としてもいる。特に夏場においては安全、安心な食品を貯蔵、供給するために安定的な冷蔵、冷凍が不可欠なのだが、それが機能不全に陥ったらと考えると、大きな不安を感じる。まあ、仮に計画停電が実施されたとしても、2、3時間程度の停電であれば、冷蔵庫や冷凍庫の扉を締め切っていれば、大して鮮度は落ちないのかもしれない。が、「他地域産よりも鮮度が落ちる食品」との風評被害に晒される可能性はあるかと思う。復興への悪影響もあるのではないかと、危惧を抱く次第だ。厚生労働省や計画停電を実施する東北、東京の両電力会社は、その辺の対策にも力を注いで欲しいと考える。夏場における計画停電の実施が不可避ならば、せめて中部地方以西の食品倉庫のスペースを確保するとかそこへと運搬する専用の保冷車を手配するとかできないものだろうか。そうでなければ、産地が浮かばれない。
2011.04.05
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今日は3日ぶりの出勤日。高速バスの混み具合は相変わらずで、今日は補助席に乗車。景色が見れないので、道中ではずっと寝ていた。目が覚めると、仙台宮城インターチェンジの直前で、時計の針は8時12分を指していた。この分なら8時40分前後には仙台駅に着けるなと思いきや、仙台市中心部へと通じる仙台西道路がまさかの大渋滞。ギューギュー詰めで全く動かない状況であり、わずか5、6キロ先の仙台駅に着くまでに約1時間を要した。始業時刻の10時までに勤務先方面へと向かうバスは既になく、この時点で遅刻確定… 早く電車が復旧してくれないかなと思う。結局、勤務先についたのは、10時半ごろのことであった。清掃用の作業着に着替えて現場に向かう途中で、日頃よりお世話になっている静岡県の方とばったり出くわす。新幹線も空港も復旧していないのにどうやっていらしたのですかと訊ねると、今回はクルマで来仙したとのこと。来社に際しては勤務先の方がお願いしている経緯もあるだけに、非常に有難く思う。昼休みに、その方としばし雑談。テーマは、東京電力の「株価」について。福島第一原発の事故以来、この会社の株価は、当然のことながら急落傾向にある。事故直前では1株2,000円を超えていたのに、今では400円台まで下がってしまった(注・このブログを執筆している4月6日の段階で300円前後にまで下落)。実はこの方の知人に東京電力の株主がいて、頭を抱えているとの話。ついでに言うと、その知人の方は日本航空の株も所有して酷い目にあったばかりだったとのこと。私としてはお気の毒さまと声をかける他はない。ところで、その方がおっしゃるところによると、東京電力の株は株価が乱高下することも少ないうえに1株当りの配当金が高めに設定されているので、個人株主も相当数いるのではないか…とのこと。確かにデータを見ると、事故前2年あまりの株価は概ね1株2,000円から2,500円の枠内で推移しているし、1株当りの配当金はここ10年以上にわたって年間60円から70円をキープしていた。東京電力の単元株式は100株だから、20万円ちょっとの投資で少なくとも年間6,000円(源泉税徴収後で5,400円)の利益が得られた訳だ。そこらの定期預金よりも断然安定的な投資先だったのである。ところが、今の状況だと上場廃止も避けられない模様。株券も当然紙くずになり、天を仰ぐ個人投資家が続出するのは必至だ。ネットでの取引が常態化したことに伴い株式投資が富裕層以外にも手を出しやすいツールとなっていることを考えると、財産の多くを失ってしまった個人投資家も少なくないと推察される。原発事故の被害者は、ここにもいる。報じてくれるメディアは、今のところどこにもないけれど。
2011.04.04
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今日は終日、妻の実家にいた。ネットいじりも封印である。で、何をしていたのかというと、震災で被害を受けた屋根瓦の補修作業。とりあえず業者に依頼して応急措置を施してもらったのだが、屋根の被害個所にブルーシートをかぶせただけ。仕事が建て込んでいる上に瓦不足もあって、これ以上の措置は難しいのだそうだ。更に言えば、ブルーシートすらも不足しているらしい。そのブルーシート、さしあたっては土のうや壊れた瓦などを用いて押さえつけているのだが、強風の日など、ずれたりはがれたりして役に立たなくなってしまうことがままあったりする。だから各家に住む人が定期的に屋根に登り、メンテナンスをしなければならない事態になっている。私の住む桑折町では、旧家が多いこともあり瓦屋根の比率が高い。その大半が、ブルーシートで屋根を一部を覆っている状況が、今も続いている。東北地方においては瓦屋根の比率は積雪量に反比例して高くなる傾向があり、従って瓦屋根は非豪雪地帯のステータスシンボル的存在でもあったのだが、震災に弱いことが露呈されてしまうと、豪雪地帯の会津地方や山形県などと同様に、屋根のトタン化が一気に進む可能性があるかもしれない。作業が終わると、もう午後5時近くになっていた。そのまま妻の実家で、夕食、そしてテレビ視聴と、まったり過ごす。午後7時からは、子供達の希望で「世界1のSHOW TIME ギャラを決めるのはアナタ!」を観る。その中で、一組のパフォーマーの映像が、個人的に少し気になった。それは、福岡を拠点にサザンオールスターズのコピーバンドとして活躍しているKAWAMURA BAND。彼らの歌う曲目のうち「TSUNAMI」が大幅にカットされていたのだ。曲名のクレジットもなく、歌う場面が放映されたのはAメロのみ…確かに、時節柄流すべき曲目ではないだろう。タイトルそのものもまずいものだし、サビで「津波のような侘しさに」という歌詞が出てくるのも大きなマイナス。そもそも、作詞した桑田圭祐の頭の中で「東日本大震災の映像」と「侘しさ」とがリンクする概念だとするならば、彼の感性は異常という言葉では済まされないぐらい常軌を逸していることになってしまう。恐らくそんなことはないだろうし、桑田の感性を信じたい。だからこそ、彼が今回の震災についてどのような感想を抱いたのかを知りたいのだが、今のところ、特にコメントを発した様子はないようだ。口を開けば「TSUNAMI」について(恐らくネガティブに)取り上げられてしまうだろうし、曲名や歌詞に対する言い訳がましい釈明、そして周囲へのあらぬ誤解を招くのならば、ダンマリを決め込んだ方がいいとの判断なのだろう。その代わりと言っては何だが、所属事務所のアミューズが、被災地への義援金やマスクの寄付を行っているという。とりあえずは、それを桑田の「回答」と解釈したい。追記執筆後に耳にしたところによると、やはり、瓦屋根からトタン屋根への改装を望む家が多いとのことです。板金業者は震災後休みなく働いているとかで、さぞ大変なことと思います。ところが、トタンそのものも不足している状況にあり、改装工事も思うように捗らないという現実があるようです。いち早い復旧が待たれるところですが…
2011.04.03
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今日と明日は、公休日である。と言っても、過ごし方は一昨日までと変わりないのだが、自宅待機と公休とでは心理的な感覚は大いに異なる。少なくとも私には働ける職場がある。その安心感は、やはり相当なものである。しかし、今回の震災で津波の大きな被害を受けた地域では、それどころではない状況が続いている。勤務先の取引先に気仙沼市の水産加工業者があるのだが、社屋が津波で流出したため会社そのものを清算する意向とのことらしい。この企業は県外に親会社があり経営基盤はそれなりにしっかりしていたはずだが、親会社から見捨てられてしまったのだろうか。被災地の復興には被災地外、特に全国規模の営業網を有する大企業からの資本投入が不可欠なだけに、非常に残念な話だ。職場を失った社員の心痛はいかばかりであろうか。そんな事情も知ると心の中までは完全オフという訳にはいかないのだが、できるだけ平静に休日を過ごそうかと思い、自宅でまったりと過ごすよう努める。ブログの方は、昨日分を書き上げる。予想以上に量が多くなってしまった。400字詰め原稿用紙で14~15枚ぐらいにはなっただろうか。震災発生以降当ブログの文章量は激増傾向にあるが、そうでもしないとストレスが溜まってとんでもないことになりそうな不安がある。ただし、自宅に1台しかないパソコンを、私が独り占めする訳にもいかない。私がブログを執筆した後は、妻もまた、パソコンでいろいろとサイト検索を行っていた。特に興味を持っていたのは、震災当日にヘリコプターから撮影されニュースでも報じられた津波の映像。家やクルマが次々と呑み込まれていく姿に、かなり驚いていた。考えてみれば、震災当日は停電だったから、妻は迫りくる津波のリアルな映像を見ていない。携帯のワンセグを使えば見られたが、電源が確保できない中で無駄遣いはできないと、使用を控えていたそうだ。この景色を目の当たりにし、「津波からの復興と言ったって、どうすればいいんだ」と頭を抱える人も少なくはないだろう。だから、大胆な復興案が提示されたりもする。建築&住宅ジャーナリストの細野徹氏が提唱した「グスコーブドリ構想」は、その代表的なものであろう。その骨子は、主に三陸沿岸の街において、(1) 山を削って、高さが数十メートル程度の丘をつくる(新丘A)。(2) 削った土砂で、標高0メートルから10メートル地帯をかさ上げする(新丘B)。(3) 新しい街は、主に、新丘Aに建設。新丘Bは公園と緑地にする。(4) 海岸部には、港として必要な最低限の機能だけを残す。というものである。一見、もっともらしい主張のように見えるのだが、私は、この構想を支持しない。三陸の主幹産業である水産業への配慮が、著しく欠けているからだ。三陸の街は(製鉄業で栄えた釜石市のような例外はあるが)その多くが、黒潮と親潮とが出会う近海の漁場を舞台に生業を営んできた。それのみではなく、リアス式海岸の平時ならば静かな入り江というロケーションを活用した養殖漁業も盛んだし、気仙沼市や女川町のように遠洋漁業の基地となっている街もある。岩手、宮城両県は、全国でも屈指の水産県なのである(参考)。となれば、港として必要な施設だけでも相当なスペースを要するし、結局のところ、この構想は絵空事にしか思えないのだ。他にも、新丘Bの液状化現象の対策や河川や鉄道の付け替えの問題、また気仙沼市のNPO法人・「森は海の恋人」のように植林に励む水産業者もいることを考えると、まともに取り合う必要のない構想だと感じる。冒頭にも述べたが、被災地の復興には大企業からの資本投入が不可欠だし、それがしやすい環境を整備することが、何より大切だと思う。被災者を心配して下さるのは有難いが、「水産業の復興=三陸の復興」という視座が、まずあって欲しいと痛感する。もちろん、「津波に強い街づくり」は、被災地にとって非常に重要な課題である。以前にも津波の被害に晒されてきた三陸の街では長大な防波堤の建設などが進められた経緯があり、今回の震災でこれらがやすやすと破られたことを細野氏はグスコーブドリ構想の論拠に挙げているが、被災地にもまた、これらの構築物による安心感からくる過信がなかったろうかと感じる。例えば、高層建築物が少なく、幹線道路ですらも狭隘かつ直線区間が少ない現状は、大いに見直されて良い部分があるはずだ。私はいかんせん素人なので、妙案などそう簡単には浮かばない。土木技術の粋を結集し、被災地が真に復興するために、力を貸して欲しいと切に願う。会社を失い、途方に暮れている人々のためにも…
2011.04.02
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朝5時に目が覚めた。今日から出社だ。寝坊などしていられない。朝食をかっ込み、妻から弁当を受け取ると、福島市中心部にある勤務先まで出勤する義父のクルマに便乗し、福島駅まで送迎してもらう。本来ならば桑折駅から東北本線で仙台へと向かうのだが、同路線は本宮~仙台間で未だ不通となっているため、やむを得ない措置である。7時前に駅前広場のバス乗り場に着くと、既に200人以上はいるとおぼしき長蛇の列。列は二手に分かれており、右手が郡山行、左手が仙台行のバス乗り場へと連なっているのだが、驚いたことに仙台行の方が郡山行の5倍は長かった。私も含めて福島市周辺から仙台方面へと通勤、通学する人は少なくないと承知していたが、正直これほどまでの差があるとは思っていなかった。こんなことを書くと、福島県内各地から「やっぱり仙台市福島区だ」などと揶揄の声が飛んできそうだが、ちょっと待って欲しい。通勤者としてひとつ言い訳するならば、同じ仙台へと向かう流れでも「通勤」と「通学、買い物、レジャー」とは、一線を画してもらいたいのだ。前者は「仙台近辺で行われる経済活動の対価として給与を得、福島県や同県内の市町村において納税や消費活動を行っている人々」なのに対し、後者は「仙台近辺で消費活動を行っている人々」。キャッシュフロー的に言うならば、前者は「仙台で得た金を福島に落とす」側であり、後者は「福島でも落とせる金を仙台で落とす」側。立場は真逆なのである。加えて言えば、福島と仙台との交通手段が発達したおかげで、我々は仙台に流出ことなく福島県内に住んでいられるのだ。だから揶揄する人たちには、逆に感謝してもらいたいくらいだよ…と強要するのは、さすがに言い過ぎか。でも、福島第一原発の事故の影響で福島県経済が疲弊必至になる中で、我々仙台への通勤者が福島県経済を支えたいとの思いはある。閑話休題。通勤者(春休みだから通学者は皆無に近いだろう)を満載したバスは、福島駅をひっきりなしに発車している。だから列は長くても流れは比較的スムーズで、10分少々待てば乗ることが可能であった。私の乗ったバスもまた補助席まで乗客で埋まる盛況ぶり。60人以上は乗っているだろうか。荷物も含めれば乗客一人あたり平均70キロ前後はあるだろうから、単純計算して4トン超。バスの走りっぷりも、心なしか喘ぐような雰囲気がある。平時の高速バスならば福島市内で何ヶ所かのバス停に停まってから東北自動車道に乗り入れるのだが、今はすべてのバス停を通過する。福島駅を出た段階で満員なのだから、これは仕方がない。福島飯坂インターチェンジから東北自動車道へ。宮城県境までは登り勾配になるから、バスの喘ぎぶりも激しくなる。まさか途中で停まったりしないよな… そんな不安も抱かせるほどだ。県境を通過し宮城県内を通り抜けて、仙台宮城インターチェンジに到着。ここから広瀬通のバスターミナルまでは仙台西道路を経由して5キロ程度しかないのだが、その仙台西道路自体が非常に混雑しており、仙台駅に至るまでにはかなりの時間がかかった。正確な時間は測っていないが、東北自動車道を通っっていた時間と仙台宮城インターチェンジからバスターミナルまでの時間はほぼ同じぐらいではなかったかと思う。バスターミナルに着いたのは、8時半を少し過ぎた頃のことであった。バスから降りた乗客は、蜘蛛の子を散らすように仙台の街へと消えて行った。私もまた、バスに乗り換えて、若林区内の勤務先まで向かう。おっと、その前に、仙台駅でしておかなければならないことがあった。震災により電車が不通になった期間分の、定期券の払い戻しである。私の定期券は3月25日が有効期限だったので、その分を返金してもらおうと思ったのだ。窓口には10人前後の客が並んでいたが、比較的スムーズに処理が行われており、私もまた実にあっさりと、払い戻ししてもらえた。1万いくらかの現金が、懐へと入る。勤務先に着いたのは、9時40分過ぎのことであった。「元気にしてた~?」従業員と久々の再会。特に仲良くなかった従業員とも、いろいろと会話を交わしてしまう。みんなストレスが溜まっていて、この機会に放出したいのかなとも思う。私もまた、名取市内に住む従業員に「津波大丈夫だった?」と声をかけてみる。「あのねぇ、名取だからって、全部が津波に襲われた訳ではないんだからね!」とあっけらかんとした返事。各人とも情報収集は報道によるものしかなかったから、「どこどこと言えば○○」というステレオタイプな被害状況が染みついているはずだ。だから「福島と言えば原発」という視線に晒されることを半ば覚悟していたのだが、心配する声はあっても一部報道でみられたように福島だからと忌避されるような仕儀は、一度としてなかった。そのことは、素直に嬉しかった。「原発が爆発したら仙台だっておしまいだし」そう言ってくれた人もいた。恐らく、一部報道にあるような事態は、極めて限定的なことなのだろう。我々日本人は基本的に困っている人に対して手を差し伸べずにはいられない人種。そう思いたい。そんな仙台の人々の目下の悩みは、都市ガスが未だ復旧していないこと。電気も水道も回復したものの震災以降風呂に入っていないという人が、結構多いようだ。プロパンガス使用の我が家は風呂の利用が可能な旨を話すと、逆に羨ましがられた。出社した社員が一同に集められて、社長の訓示。状況は大変苦しいが一致団結して頑張ろうと野話があった。また、その中で、沿岸部に居住している従業員で家屋が津波で流され、家族が亡くなった人がいることも伝えられた。震災の悲惨さに接し、襟を正す次第。そんな従業員のために、義援金や支援物資を募ろうとの話もあった。できる限りで、協力していきたいと思う。こんな雰囲気でスタートした、勤務初日の業務は、終日掃除。勤務先はメーカーであり生産設備は一部で稼働しているもののまだ大多数では再開するに至っていない。本格的な再稼働を前に気持ちよく働けるように社屋内を磨きあげようとのこと。だから雑巾持参だったんだと納得。ちなみに、清掃期間は明日、明後日の休日を挟んで8日まで続き、その間の勤務時間は10時から17時までとのこと。10時出勤なのは、私にとっては有難い。その間に、東北本線が復旧すれば嬉しいのだが…1時間の休憩を挟んで都合6時間弱、清掃作業に従事する。工場の壁面をひたすら拭き掃除。手が届く範囲で高い個所も低い個所も満遍なく拭いたからスクワットしているのと同じような状態であり、作業終了時には両脚がパンパンになった。震災翌日に仙台から桑折まで歩いた時以上の疲労感が残った。帰途はバスで仙台駅まで。発着する列車は、JRでは東北本線の仙台~岩切間と仙石線のあおば通~小鶴新田間、あと地下鉄の台原~富沢間のみであるが、その割には構内を歩く客は多いような気がした。駅ビルもまた営業していた。ただし11時から18時までの短縮営業であり、特に食料品を扱うテナントでは商品の1、2割程度しか品物が並べられていなかった。震災の傷跡は未だ深いものがあると感じる。広瀬通のバスターミナルまで歩く。仙台駅北側にある(必需品を販売している訳ではない)パルコが開店していたのには驚かされたが、個人経営の飲食店を別にすれば、まだまだ休業中の店が多いようだ。意外に全国チェーンの飲食店が弱い。震災直後の無残な様相を晒しながら長期休業を余儀なくされている店舗が複数あった。17時55分発のバスに乗り、福島へと向かう。仕事帰りの時間帯だからか、この便も補助席まで満員であった。日がとっぷりと暮れ、暗闇の中を南下する。菅生や国見の休憩施設の灯りだけが、妙に眩しく感じた。19時過ぎに福島駅東口に到着。ここから桑折方面へは路線バスで帰ることになる。次の便は19時40分発の藤田行。1時間に1本程度の便数は確保されているようだ。地方のバスにしてはそんなに悪くないダイヤである。待ち時間の間、福島駅の駅舎内をぶらついてみる。この駅を発着するJRの路線は山形新幹線・奥羽本線のみ復旧しており、電光掲示板もその部分だけが稼働している。淋しい風景だ。駅構内で、暇つぶしにパンフレットを読んでみた。地元のものではなく、「旬巡り わくわく体感 水俣・芦北」というもの。どうしてはるばる南方の熊本県のパンフレットがこんな所にあるのか一瞬悩んだが、そう言えば3月12日に九州新幹線が全線開業したんだっけと思い出す。震災の影響もあり、すっかり忘れていた。九州新幹線は、水俣市内にある新水俣駅にも停車する。水俣と言えば私のようなかの地とは無縁の人間にとっては「水俣病」ぐらいしか連想できない。そのことは水俣の方々も強く認識されているだろうし、そこからの脱却、復活にむけて、日々努力されていると思う。パンフレットからは、太刀魚など不知火海の海の幸や、あしきた牛、デコポンといった農産物、湯の児(ゆのこ)、鶴の湯の温泉などがふんだんに紹介され「水俣・芦北は豊かな地域なんだぞ」と強く主張しているように感じられた。水俣病が公式に確認されてから、既に半世紀以上が経過している。が、市民の努力に水を差すようで申し訳ないのだが、「水俣=水俣病」のイメージは、未だ払拭し切れているとは言えないようにも思う。しかも世界的規模で。そう考えると、背筋に寒気が走る。今回の大震災でついてしまった「福島県=原発事故」のイメージ。恐らく、我々の子孫の代まで十字架を背負わせることになるのだろう。彼らに罪は全くないというのに…
2011.04.01
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今日で、長かった自宅待機期間も、終了となる。普通の休みと割り切ってゆっくり過ごそうかと思っていたのだが、今日もまた、嫌なニュースが舞い込んできた。「青森市の百貨店・中三(なかさん)が、民事再生手続きを申し立て」11日の震災で売上が減少したのと、14日に盛岡店の地下で爆発事故を起こしたのが打撃になったという。ちなみに、爆発事故の原因が震災と関係があるのかどうかは、よくわかっていないとのこと。爆発事故を起こした盛岡店には、2、3度訪れたことがある。市内交通のターミナルである盛岡バスセンターの前、肴町のアーケード街の入口に立地する、盛岡市中心街東部の中核店舗であった。余談だが、盛岡市の中心街は北上川と中津川とによって三分され、西部は盛岡駅にその駅ビルのフェザン、中部は大通のアーケード街に川徳と、それぞれ中核となる施設が所在するのが特徴。また東部と西部との境には岩手公園(盛岡城跡)などの散策スポットもあるので市街地の回遊性の高さに関しては東北、北関東、新潟の諸都市を通じても1、2を争うものがあると思っていたのだが、その一角が崩れてしまった訳だ。中三は盛岡店の他にも、青森市の本店と弘前店の2店舗があるが、いずれも中心街に所在するそれぞれの市を代表する大型店だけに、市経済への大打撃は必至ではなかろうか。今後、被災地周辺で、中三のような状況が連鎖しないとも限らない。先ほど少し触れた盛岡市の川徳、仙台市他東北地方の4都市に店舗を構えるさくら野百貨店、同じく仙台市の藤崎、山形市と米沢市に店舗がある大沼、福島市に本拠を置きそれぞれ店舗名は違うが函館、八戸、山形、酒田の各都市に店舗を有する中合、郡山市のうすい、水戸市の京成百貨店(現時点で営業している唯一の京成百貨店)など、果たして大丈夫だろうか? 百貨店は基本的に「必需品」ではなく「嗜好品」を取り扱っているだけに、特に地方に根差した百貨店の趨勢が、非常に心配になる。また、今回の震災は、観光業にも、甚大な影響があるとの話を聞く。被災地はもちろんのこと、特に福島第一原発の事故の影響で外国人が日本への旅行を敬遠する結果も招いていることから、箱根や日光など、外国人観光客の比率が高い観光スポットも総じて閑古鳥が鳴いている状況だという。今は非常時だけに致し方がない話ではあるのだが、必需品を生産、消費しない産業もある程度保護しておかないと、将来の地域経済自体も円滑に回らなくなるのではなかろうか、と危惧を感じる次第である。
2011.03.31
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布団の中でモゾモゾやっていると、朝刊を読んでいた妻から、「伊達から仙台までの高速バスが走るって!」という報告を受けた。今日から1日5往復走るという。明後日から福島⇔仙台の高速バスで通勤するつもりだったのだが、時刻表次第によっては、こちらのバスの方が都合が良くなるかもしれない。…と一瞬喜んだが、一口に「伊達」と言っても、伊達市内のどこから発着するのだろうか? 伊達駅なのか、それとも保原にある伊達市役所なのか、ハッキリしてもらわなければ困る。桑折町民からすると、前者ならばかなり便利になるが、後者だとしたら福島駅まで出向くよりも不便だ。桑折と保原とを結ぶ阿武隈川の大正橋や昭和大橋は、未だ通行止の状況にある。そのことが気になってしょうがなく、午後から自宅へ。今日は子供達が髪を切りに行くとのことで、家族全員で自宅へと向かった。理髪店への引率を妻に任せて、一人パソコンでバスの情報を確認する。すると、「伊達」の正体は、伊達市役所の近くにある保原バスセンターであることがわかる。ここを出た後梁川町内にも立ち寄ってから、仙台を目指すという。梁川から仙台までは国道349号線が最短経路だが、大型車もすれ違えないような隘路だから恐らく国見インターチェンジから東北自動車道に乗り入れるルートなのだろう。であるならば、国見町内にも停留所を設けてくれれば私も利用できたかもしれないのだが、そこまでの配慮がなかったことにちょっと落胆。ついでに言えば、片道運賃は1,200円であり、福島⇔仙台便(1,000円)よりも割高だ。大胆にもショートボブにしてきた下の子の髪型に驚きながら、テレビを点けてニュースを観る。ちょうど、東京電力の会長が、記者会見をやっていた。社長が緊急入院したため会長が福島第一原発事故関連の陣頭指揮をとるとのことだが、会見内容を伺う限り覇気めいたものは感じられず、こんなヨボヨボの爺さんに舵取りを任せてよいのだろうかとの疑問が残る。妻の実家に戻った直後、勤務先からメールが入る。4月1日の午前10時に出社して欲しいとのこと。しかも、雑巾を持参して欲しいという。社会復帰後初っ端の仕事は、ひょっとして大掃除? なにしろ3週間ぶりの出社だ。今から緊張が走る。「被曝スクリーニング検査の証明書を持参して来い」などと言われたらどうしよう…夕方。今日もブラウン管からは、池上彰が解説する声が聞こえていた。彼が官房長官だったならば大多数の国民が納得するのではないかと思えるぐらいのわかりやすい解説ぶりであったが、毎日のように彼の話を聞いているとメッキも多少剥がれ加減になるような気がする。我が国における原子力発電やプルサーマルの必要性については理解できたのだが、今現在避難を余儀なくされ、農産物その他の風評被害にも悩んでいる福島県民に対する指針は一切示されなかったし、「東京電力以東と中部電力以西との周波数の違い」(要は、計画停電対策として電力会社間の融通が思うようにできないということ)には言及しても「東北電力が管轄しているはずの福島県にどうして東京電力の原発があるのか」という根源的な問いが発せられる機会もなかった。要は、池上の解説能力を芸として披露する「見世物」なのである。と、池上批判にすら走ってしまうほど私の心も荒みがちなのであるが、地震、津波、そして原発事故のトリプルパンチで最も悲惨な思いをしている浜通りの方々など、心境はいかばかりだろうか。中通りからですらも「頑張って!」などと軽々しく声をかけること自体が失礼じゃないかと思ってしまうぐらいだ。私には懇意にしている浜通りの方はいないのだが、妻には何人かいる。心配はしているがかける言葉が見つからないとのことで、未だ電話もメールもできずにいるそうだ。東京発のニュースで首都圏のどうでもいいニュースを毎日見せつけられて憤慨する私たちであるが、浜通りから見たら中通りも首都圏も五十歩百歩。浜通りの方々の心に伝わるメッセージを持っていないことが、非常にもどかしい。
2011.03.30
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今日もまた、嫌なニュースで起こされた。福島第一原発の敷地内から、原子炉から放出されたとおぼしきプルトニウムが発見されたというもの。しかし、量は微量であり、プルトニウム自体も大変重い元素であるからヨウ素やセシウムほどは飛散していないだろうということで、とりあえずは安心。いくつかのメディアではこのニュースを針小棒大に取り上げていたが、変に慣れてしまったのか、私は大して気にならない。もう駄目なら駄目でいいやと、良い意味なのか悪い意味なのかわからないが開き直っている部分がある。針小棒大といえば、昨日の日記で紹介した「首相が原発の視察を強行したことが初動対応の遅れに繋がったのではないか?」という疑念は、今日になってようやく、いくつかのニュースで取り上げられていた。ただし、扱いはかなり小さく、国会で首相が否定してハイ終わり、という感じである。地元紙ではこの問題を社説でも取り上げて首相や政府の責任を追及する構えを見せているが、全国ニュースの趨勢と比べると温度差がありすぎる。とは言うものの、地元紙のヒステリックな追及ぶりにも、首をかしげざるを得ない部分が多々ある。そもそもこんな大事故を起こすような施設を誘致したのは県であり、双葉、大熊の両町であるのに、これらの自治体への責任追及を全く行っていないのだ。20日の日記にも書いたが、福島第一原発の建設に対しては県、両町とも非常に協力的な態度を見せていたし、稼働後も東京電力からの交付金でそれなりに潤っていた経緯を有していた訳だから、率直に言って同じ穴のムジナだ。ところが、これらの自治体は福島県民を中心とした被災者に対して謝罪の姿勢を全く見せないばかりか、政府が悪い、東京電力が悪い… と被害者面を通しているのが、個人的には許せない。東京電力だって新聞の一面を使って謝罪広告を載せたことがあった訳で、各自治体ともそれを見習うべきだと思うし、地元マスコミもまた、特に県の姿勢をもっと批判的に取り上げるべきだと考える。県が原発を誘致してきたからこそ、大多数の県民が悲惨な目に遭っている… その視点が第一にあって欲しい。そう言えば、今日は、県知事と双葉郡の町長とが郡山市内で一堂に会し意見交換を行っていたとのこと。各町長とも県には言いたいことが山ほどあるのだなと、編集されたテレビ画面からでも強く伺えた。県は、いち早く彼らの声に応える責務があると思う。グズグズしているから、ほら、遠路はるばる埼玉県に避難してしまった双葉町をはじめ、福島県を見捨てて避難する人の多いこと…その県外避難先では多くの避難者を受け入れている自治体に新潟県があるが、その新潟県の教育委員会が、耳を疑うようなことを言っていた。避難してきた子供達を県内の学校で受け入れるということなのだが、その内訳が「南相馬市小高区は新潟市、同原町区は長岡市、同鹿島区は上越市、いわき市は新発田市、双葉郡は柏崎市・刈羽村とする」というものなのである。従前のコミュニティをできるだけ活かそうと新潟県側が配慮してくれたように一瞬見えるのだが、多くの避難民にとってはせっかく落ち着いた避難所からの再移動を余儀なくされる話だし、それより何より、原発事故で一番酷い被害を負った双葉郡の子供達を、どうして原発立地地域である柏崎市や刈羽村の学校に通わせようとするのだろう? これは、双葉郡をあまりにもバカにした話ではないだろうか?
2011.03.29
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今日も余震で目が覚めた。石巻で震度5弱。桑折でも震度3はあったろうか。結構長い揺れだった。本当に、いつになったら収まるのだろう?いつになったら… といえば、福島第一原発。地元紙を読むと、地震当日の夜に原子力安全・保安院が炉心溶融(メルトダウン)を予測していながら、翌朝に首相が現地視察を行うなどの諸事情により原子炉内の圧力低下措置など事後措置に遅れが生じたとのニュースが報じられていた。もし本当だとすればとんでもない話だが、各テレビ局のニュースでは完全に黙殺された格好。これでは地元紙の報道すら真実かどうかすらわからない。我々一般市民と同様にマスコミも混乱していたのでは、埒が明かないと思う。そう言えば、今日はセンバツで東北高校が出場するんだったっけ。テレビをNHK教育に合わせてみるが、案の定大敗模様の試合展開。準備不足は明らかだったから、これは致し方ない。そんなほのぼのとした話題がある一方で、福島県内の被害の状況は深刻さを極めている。ニュースを観ていると、ここ数日、震災関連死と呼んで差し支えない奇妙な「死」が相次いでいる。棚倉町のガソリンスタンドでは給油待ちで並んでいた高齢男性が暖をとっていた練炭から排出された一酸化炭素中毒で死亡したし、須賀川市では農業を営む男性が県産野菜の摂取制限を悲観して首つり自殺したという。そして新潟県内においても、富岡町から避難してきた認知症の女性が避難施設から外出し道に迷った末屋外で凍死したとの報道があった。そんな福島県の状況を知ってか知らずか、全国ネットの報道番組では「東京で桜が開花しました」などと能天気なことを言っている。こちらは桜どころではないというのに…例年ならば福島市の花見山などそろそろ大混雑が始まる時期であるが、当然のことながら、今春の観光イベントはすべて中止。被災地においては、生活を落ち着かせることが何より最優先されるのだから、他地域の方々も、その点配慮してくれると嬉しい。いや、なにもレジャーに行くなと言っている訳ではなく、特にマスコミの方々に要求したいのだが、レジャーを楽しんでいる様子を、被災地に向けて発信して欲しくないのである。そのぐらいの報道統制は、朝飯前なのではなかろうか。
2011.03.28
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朝7時前に子供達を起こした。「バトルスピリッツ」を観たいと子供達が所望していたからだ。昨晩は「デカワンコ」の最終回を観ており続く「嵐にしやがれ」を断腸の思いで(?)観ずに就寝したという子供達。完全にテレビ漬けで、この点は普通の休日と大して変りがない。私もまた子供達に付き合って現実逃避をしていたのだが、日曜日の朝といえば、基本的には各局で「この1週間のまとめ」的な報道番組が放送される時間帯。おどろおどろしい映像が展開しコメンテイターがああでもないこうでもないと議論している姿を目にし、少し気が滅入る。特に福島県では、福島第一原発の事故がなかなか収束の気配を見せてくれないから、尚更だ。今朝は2号機のタービン建屋下の水たまりから高濃度の放射性物質が検出されたとの報道。まったく、次から次へと難題が出てくること…一方、良いニュースもなくはない。先週末に県内のJR路線では初めて磐越西線が運行を再開し、石油を積んだ貨物列車が横浜から新潟経由で郡山まだ運行されたとのこと。これで、ガソリンや灯油の不足もある程度は解消するかと思う。しかし、その一方で、どうして東北本線よりも先に磐越西線が復旧を遂げたのだろうとも多少疑問に感じる。輸送効率上は明らかに東北本線>磐越西線のはず。白河近辺で甚大な被害でもあったのだろうか? その辺が気にかかる。そもそも磐越西線はここ数年間定期の貨物列車が運行されていなかった路線だし、郡山・会津若松と猪苗代との間には200メートル以上の高低差があるため、最近までスイッチバックが残っていた中山宿駅付近や勾配緩和のための急カーブが連続する磐梯町駅付近など、輸送上のボトルネックが存在するのだ。いつまでもこの路線に頼っていられないし、やはり、大動脈である東北本線の復旧を、いち早く進めて欲しいと思う。物流絡みの良いニュースといえば、今日の午後、妻の実家に、西日本から昨日発送した荷物が直接届くという出来事があった。配達してくれたのはヤマト運輸だが、西日本からの配達時間は、確か平時においても「翌日の午後2時以降」だったはず。これと違わぬ迅速ぶりを発揮してくれたことに、心から拍手を送りたい。JRも見習ってファイト! と思う。余談ですが、12日のブログを、ようやく書き上げることができました。こちらからお入りください。
2011.03.27
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指摘するのは非常に心苦しいが、それでも言っておきたいことがある。福島第一原発の周縁部に位置する、南相馬市、いわき市、飯舘村の各首長についてだ。各首長とも区域の一部ないしは大部分が原発から30キロ圏内に位置することもあり、マスメディアを通じ、国や東京電力に対して怒り心頭的なコメントを残す傾向があるが、それは間違った行動であると思うのだ。非常に辛い現状は伝わるのだが、リーダーならリーダーらしく、もっと毅然とした態度がとれないのだろうか。あなた方のヒステリックな態度が住民を余計不安がらせていると、敢えて苦言を呈しておきたい。考えてみると、南相馬、いわき両市とも広域合併によってできた都市であり、旧各自治体がコミュニティとして残されている点、また、両市長とも、直近の市長選挙で市を二分する激戦が展開されいずれも現職市長を破り初当選を果たした点が、共通している。つまり、コミュニティとしても、市長自身の支持基盤も、盤石とは言えない地域な訳で、そんな中で強力なリーダーシップなど、求める方が酷というものだろう。飯舘村については南相馬市、いわき市よりも放射線量が高い上に農産品や水道、土壌さえも汚染されているという現実を思うと原発所在地と同様の手厚い保護が必要とされると思う。が、村長は「東京の水道水は逐一報道されるのに我々の村の水道水については事後フォローがない」などとマスコミに文句を言うばかり。それ以前に、なすべきことはあるだろう。住民の安全を守るためには、いち早い全村避難が必要とされるように思うのだが。その点、原発所在地の双葉、大熊両町を含む双葉郡各町村の首長は、これらの市村よりも悲惨な状況にありながら、住民を守るため日々奮闘していると思う。震災から半月が過ぎ、リーダーの差が如実に表れてきた感がある。個人的な雑感はこれぐらいにして、私もまた、「社会復帰」への準備を進めなければならない時期にきている。午前中に、勤務先へ電話。勤務先「電車がまだ運休中だけど、会社に来れるんですか?」私「高速バスを使えば、出社することは可能です」勤務先「じゃ、4月1日にとりあえず出社して。以降のことはその時に話し合って決めましょう」とりあえずは、そのようになった。その後のことは、なるようにしかならない。運を天に任せた格好だ。昼食後、自宅に出勤。25日と12日のブログの一部を執筆。12日のブログはまだ終わらない。明日には脱稿できるだろうか。妻の実家に戻ると、義妹と姪が来ていた。義弟は勤務先が業務再開したとのことで、来ていなかった。私だけが、社会復帰できずに取り残されている。従姉妹との久々の再会を果たした子供達は大はしゃぎ。ドンドンドン! と屋内で暴れまくる。その度に家が揺れる。余震かと勘違いしてしまうほどであり「静かにして!」とその都度注意するが、収まる気配がない。子供達だって、理不尽な形で学校が春休みに入ってしまい友達には会えずじまいだし、放射線が心配だから外にも出られないしで、ストレスが溜まっている。そのことは親として痛いほどわかるが、「ここまでならOK」という許容範囲というか、線引きは必要だ。首長にいちゃもんをつけるばかりではなく、親のリーダーシップも問われる局面とも言える。震災以降、2、3日に1部のペースで、町広報の臨時版が、町内の各家庭に届けられている。本日分を手にとって読むと、町内でも仮設住宅の建設が行われるとのこと。現在建設が進んでいるのは72戸で、最終的には300戸が設置されるという。入居する方の大半は原発立地地域やその周辺の方だと思うが、中には子供やその親もいるだろう。我が家族も入居する方々をできる範囲で支えていきたいと思う。
2011.03.26
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今日は、勤務先の給与支給日であった。11日の震災当日以降出社どころが桑折町からすらも一歩も出ていない私であるが、給与については連絡をもらっており、さしあたっては所定の基本給と手当は支給されるとのこと。非常時なだけに、戴けるのは非常に有難い。口座からの引き出しは私が銀行まで出向く予定であったが、午前中に妻に急用が入ったため、お願いすることにした。その間、私は恒例となった自宅への出勤もせず、子供達の世話番に従事。家事も少しだけやる。同じく始終在宅の義祖母と仕事の取り合いになってしまう。傍から見ると、「私がやります」「いいえ、私が…」とコントのやり取りのような滑稽な風景だったに違いない。ただし、下の子の髪をまとめるのだけは、私も義祖母もできなかった。こればかりは、妻の帰宅後にお願いする他はない。起きがけのままのボサボサ頭になっている下の子を見ては、申し訳ないと心の中で頭を下げる。新聞を見ると、県内の放射線量は主成分たる放射性ヨウ素の半減期と軌を一にするような形で減少の一途を辿っているようだ。ただし、郡山市だけ激増している。何故かと思いながらテレビを観ていたら、測定場所を郡山合同庁舎の3階から1階に変更したとのこと。他地域では地表近くで計測しているので郡山でも歩調を合わせたのだそうだ。となると、3階で計測されたデータは意味がない代物ということか? 不安を感じた郡山市民は少なくないと思う。昼食後、自宅に出勤。途中で桑折駅に寄る。給与を戴いたのが契機となった訳ではないが、勤務先へどのように通うかということを、そろそろ考えなくてはならない時期にきている。自宅待機期間は3月いっぱいである。駅舎内には、誰もいなかった。列車がいつ運行するのかの見込みも立っていない。被災地域における東北本線の運転状況は、今月末に郡山~本宮間、来月上旬に岩沼~仙台間が再開見込となっているが、それ以外の区間についてはどうなのだろう? 今は春休みだが来月上旬にもなると学校の新学期がスタートし、平時ですら朝のラッシュ時には混乱が見られる。それまでには回復して欲しいと思う。駅の周辺では、作業員が忙しそうに働いていた。どうかお願いしますと、ここでも心の中で頭を下げる次第。しかし、現実問題としては、当分の間、仙台への通勤手段は高速バスということになるかと思う。幸い今日から福島と仙台とを結ぶバスが増便になったとのことでなので、自宅にてパソコンを開くや否や時刻表をネットで確認。福島駅東口を発つ始発バスが6時50分発であることを確認し、これなら何とか通えそうだと胸をなで下ろす。話が前後するが、桑折駅から自宅へと向かう途中で、駅前の酒屋に立ち寄り、「河北新報」を買ってきた。仙台近辺の状況もそろそろ仕入れておかねばなるまい。妻の実家に戻った後で、じっくりと目を通す。福島にいると地震や津波よりも福島第一原発の事故の方がどうしても大きく取り上げられがちなのだが、東北地方を俯瞰している(ただし、宮城県中心だが)河北新報の紙面を読むと、既に主たる関心が震災そのものよりも復興対策へとシフトしているのがわかる。いい加減被害に遭ってから2週間も経てば、普通はそういう動きになるはずなのだ。ところが、未だ事態収束の気配を見せない福島第一原発を抱える福島県は、この点で大きく後れをとってしまった。同じ被災地でも宮城、岩手の両県とは全く異なる様相を呈していることに対し怒りを禁じえないが、それを誰にぶつければよいのかがわからないジレンマ…
2011.03.25
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8時少し前に起床。朝食後に出勤。ブログの執筆は昨日の分と12日分の続き。12日のブログは仙台から岩沼まで。脱稿にはまだまだ時間がかかりそうだ。執筆中、時折テレビをつけることがある。NHKをつけると、あれ、高校野球? そう言えば、昨日からセンバツだったんだっけ。すっかり忘れていた。妻の実家から自宅への行き帰りの途中で、東北自動車道を跨ぐ。今日から一般車両の通行が可能になり復旧のスピードも一段とアップしそうな期待感を抱かせるが、その一方で、構想区道路のSA、PAのガソリンスタンドはガソリンを満タンに入れてくれるとの情報がネットを中心に流れており、ガソリン目当ての利用者が殺到する恐れもあるという。陸橋から覗いた限りではそのような不届き者の姿はなかったようだが、皆よく考えて行動して欲しいと切に願う。不要不急の外出で思い出したが、ここ数日、花粉の飛散状況が酷いような気がする。非常に目がかゆいし、鼻水も止まらない。今日は晴天だが、むやみに外を出歩かない方がいいようだ。一連の震災、原発などの情報があふれている一方で花粉情報がわからない状況下にあるので、この点は個々人の責任で対策をしっかり取らねばならないと思う。妻の実家に戻り、昼食後NTV系の「情報ライブ ミヤネ屋」を観る。関西発だけに「阪神・淡路大震災を経験した我々は、被災地に対して何ができるのか」という姿勢が徹底しており、全国ネットの民放の報道番組では最も信頼がおける番組だと思う。今日の特集は、茨城県北部の被害状況。東北地方に比べて被害がより小さかったことが災いしている他茨城県を地盤とするマスコミ網が極端に貧弱なこともあってかこれまで取り上げられることの少なかった茨城県の様子であるが、北に隣接するいわき市とも手を携えながら復興に励む姿が報じられていた。こういう部分にまで取材網を伸ばしてくれる「ミヤネ屋」のスタッフに、拍手を送りたい。そんな訳で、今日の夕方はNTV系をずっと観ていたのだが、5時前から放映された東京発の「news every」の内容は、褒められたものではなかった。冒頭から延々と首都圏の水道事情… 確かに重要な問題ではあるが極論すれば乳児に限った話であり、特段針小棒大に騒ぎ立てる必要はないと思うのだが。しかもその後で、福島第一原発で作業員3人が被ばくしたとのニュースをちょこっとだけ流したものだから、頭にきてチャンネルを変えた。ここ数日つくづく思うが、東京のマスコミは報道の重要度の尺度を履き違えているような気がしてならない。危険が自分たちの所にまで及ぶのかどうか、あまりにもそのことばかり心配している報道が横行しているので、こんな都市に我が国の牽引車を任せていいのだろうかと一国民として心配になるほどだ。原発が使用不能で首都圏の計画停電も長引くとの話だし、この大震災を機会に、本格的な地方分権、東京一極集中の是正を検討しても良いのではと考える次第。チャンネルを変えるか変えないかの時間帯だったかと思うが、今日初めて、強い揺れを感じた。昨日いわき市で震度5弱を観測した時の揺れよりも強かったのでチャンネルをNHKに変え情報を確認してみると、震源は岩手県沖で、石巻で震度5弱を観測したとのこと。今度は北か… そう思いつつ画面に見入っていたら、奇妙なことに気がついた。先にも述べたように、今回の地震の震源は福島県外である。が、我が家ではいわき市内を震源とする地震よりも強い揺れを体感したという現実… これは、地震に限らず、同じ福島県に住んでいながら県民が感じている痛みに対して鈍感であり、むしろ北の宮城県民に近しい感覚を持っている、ということにも繋がっているのではなかろうか。私は福島県庁の郡山移転に賛成する者であるが、今回の地震を契機に、よりその思いを強くした。県の端っこに県庁所在地があっては、県全体を俯瞰することも県民全体の痛みを理解することも難しいのではなかろうか。職員の感覚を養うためにも、県の中央部に県庁を移転させるべきだと考える。地震情報からの流れで、NHKのニュースも観る。トップニュースは先ほどの地震情報であり、次に福島第一原発の被ばく事故、更にその次に首都圏の水や計画停電というラインナップであった。さすがはNHKだと感心した次第。高校野球を放映するのはどうかと思うけれど。
2011.03.24
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朝っぱらから、地震が2回。いずれもいわき市内で震度5弱を観測した。一体いつまで、こんなことが続くのか。安眠を邪魔された下の子が、ブツクサと文句を呟いていた。朝食後、自宅に出勤。22日分と12日分のブログを執筆するも、12日は丸一日かけて仙台から桑折まで歩いた話になるので、数時間では書ききれない。さわりだけ書いて残りは明日以降に回すことにする。ところで、私が出勤している間、上の子は、こんなことを言っていたそうだ。「こんな大変な時にブログなんか書いても、読む人なんているの?」真っ当過ぎる意見である。この話を耳にして、少し恥ずかしく思った。当ブログは幸いにして1日1,000hit超のアクセスがあり連日いろいろな方からコメントを頂戴している。有難いことである。被災県在住者の一人としては今後も恒常的に情報を発信し続けたいと考えているが、ネットをしない人から見れば私の行為は単なるネットジャンキーにしか映らない。被災してもなおタバコを止められない喫煙者を非難する資格など、私にはない。正午前に一旦妻の自宅に戻って昼食を摂った後、家族4人で子供達の通う小学校へ行く。小学校は徒歩でも移動できなくはない距離にあるが、持ち帰る荷物が多いので、クルマで出掛けることにした。貴重なガソリンだが、そのぐらいの距離を走るだけの残量はある。学校に到着。先生はみな出勤しており、元気そうで安心した次第。応対したのは下の子の担任の先生。私の姿を見るなり、「お父さん、仙台から桑折まで歩いたんですって!? すごいですねぇ!」と驚いた表情。そのことを先生に直接伝えた覚えはなかったのだが、どうやら噂が噂を呼んでいるようで、職員室中の話題になっていたらしい。ものすごく恥ずかしい。その先生、上の子に対しても「○○君のお父さんはすごいねぇ!」と言っていた。上の子もまた恥ずかしさ半分、困惑半分の表情。震災以降ブログを書いているかテレビの前でグータラしてるかのいずれかしか目にしていないから、すごいと言われても実感など湧く訳もないだろう。震災以来教室に置きっぱなしとなっていたランドセルや体育着などの荷物、終了式に渡される予定だった通知表などをまとめ、学校を後にする。教室では何人かの同級生と再会し、子供達の気分も多少は紛れていたようだ。またその間、妻は下の子の担任の先生から、いろいろと話を伺っていたとのこと。浜通りがあのような状況のため4月の教員異動は白紙になったこと、ただし担任は各学年持ち上がりになるとは限らないことなどを、ここで初めて知る。ちなみに、その先生は、初任地が南相馬市内の小学校だったということもあり、教え子の安否を相当気にしていたそうだ。小学校の教員もまた県職員であり数年おきに県内各地を転任するサイクルを経ているから、今現在中通りや会津で教鞭をとっていても浜通りへの赴任経験がある人は少なくないだろう。それぞれに痛みを抱えながら休校期間中も日々業務に励んでいるのかと思うと、複雑な心境になる。帰途、スーパーに立ち寄る。思ったほど混雑はしておらず、しかも野菜や果物が結構並んでいる。さすがに県内産の野菜は見当たらないが、よくぞこれだけ揃えたものだと思う。その一方で、魚や畜産品は品薄気味。レトルト食品、カップラーメン、お菓子類はほぼ完売の状態であった。その野菜の状況であるが、今日、東京の金町浄水場から乳児が摂取した場合の基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたとの報道がなされたのをきっかけに、マスコミでの扱いが急激に大きくなったように思う。なんでも東京中心のマスコミ…いい加減うんざりしている。津波で壊滅的な被害を受けた三陸の様子すらも、テレビ画面からフェードアウトしつつあるように感じられる。個人的な心配事としては、申し訳ないけれど東京の水よりも地元の水であり農産品や土壌なのだが、その辺をきちんと報じてくれるメディアが殆ど存在しないのが腹立たしい。特に気になるのは、果樹。中通り北部は全国でも有数の桃の産地だが、屋内に退避することもできず雨ざらしになっている桃の木に対する影響はいかばかりであろうか? 県や産地の市町村は、いち早く調査を行って欲しい。私がグータラしつつもそんな心配をしていたのをよそに、妻の実家に帰った子供達は、早速漢字練習帳を取り出して自主勉強。私もまた、その様子を脇で見ながら臨時教師を務めることとなった。日がなゲームばかりしていた子供達も、久しぶりに「誰かの役に立つ立場」を経験した私も、ある程度のストレス解消にはなったかと思う。そんな感じでまったりしていたところ、再びいわきで震度5強の地震との報。1日で3回も震度5強とはちょっと異常だ。現地の様子はどうなのだろう? 折からの原発被害、風評被害なども含め、かなり心配だ。
2011.03.23
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3連休が終わった。福島市周辺においても今日から多くの事業所が本格的な事業再開となったケースが多いかと思う。会社勤めをしている義父、義母もまた、朝早くに出勤していった。しかし、私は今月いっぱい自宅待機中の身。自分だけが暇人になったような気がして少々憂鬱な朝を迎えることとなった。そんなストレスを少しでも緩和しようと、朝食後、自宅に「出勤」。途中で、上の子のクラスメートのお母さんと会う。自転車に乗っており、これからスーパーへ買い物に行く途中だという。時計を見ると開店まではまだ1時間近くあるが、そこまで早めに動かないと買いたいものも手に入らないということなのだろう。自転車姿…つまりはガソリン不足でクルマを運転できない事情といい、モノ不足は深刻だ。流通経路の確保と並行して非被災地では各業界とも製品の増産体制に入っているとは思うのだが、首都圏では例の計画停電が影響して、効率的にモノづくりができない状況らしい。そう言えば、連休明けの今日から、計画停電が再開するとの話も耳にした。「そう言えば、○○君は元気にしてますか?」と訊ねてみる。すると、「毎日ゲームばかりしていて…」とのこと。学校が休みなので暇を持て余しているようであった。うちだって似たようなものだ。私が出勤できずに悶々としているのと同様に、子供達も学校に行けないことでストレスを溜め込んでいるに違いない。数日前、どこかの学校の登校シーンがテレビ画面に偶然映し出された時、上の子は少し淋しそうな顔をしていたっけ。下の子もまた、どういう訳か「君が代」を大声で歌いながら、「あ~あ、せっかく『君が代』習ったのに、卒業式が中止になったら、意味ないじゃん」とか文句を言っていたように思う。せめて勉強が教えられれば…と思う。明日以降になれば学校に置きっぱなしだった荷物を取りに行くことができるので、手許に戻った教科書などを使ってある程度の即席授業を行うことができるかもしれない。私の暇も有効に使わなければ、と思う。自宅では、昨日の分と13日の分のブログを書き上げる。執筆直後に、迷惑トラックバックがついた。震災直後はなりを潜めていた代物であるが、彼奴等もまた、活動再開ということなのだろうか。苦笑を禁じ得ない。正午前に帰宅後、再びテレビ桟敷。東京電力の社長が福島県知事の許に謝罪に伺いたいとの連絡が入ったが知事がこれを拒否したなどというニュースが流れていた。そう言えば、今日の朝刊には、紙面一つを独占して東京電力の謝罪広告が掲載されていたっけ。気持ちはわからなくもないが、福島第一原発の事故は現在進行中の事態であるのだから、今は対策に全力に取り組んでもらい、とりあえずの収束を迎えてから謝罪した方が良いのではないかと思う。知事が拒否したのも当然だと思う。しかし同時に、なぜ福島県知事に謝罪するのかな? と疑問にも思う。謝罪対象はあくまで「福島県民を中心とした原発事故の被災者」であるべきだ。その意味では、行政組織としての福島県もまた原発を誘致した立場な訳だから東京電力と同罪であり、原発所在地の大熊町や双葉町もまた、役場機能そのものが町外や県外に移らざるを得なくなり十分過ぎるほどの罰を受けているとは言え、自町民を中心とした被災者に対して謝罪の意志があってしかるべきだと思う(両町に対しては謝罪そのものまでは要求しないけれど)。ところが、知事をはじめ福島県側の立場は、あくまで自分は被害者一辺倒で通しているように感じられる。新聞、テレビなど県を地盤としたマスコミもまた、今回の事故に対する「県の責任」を一切追及しない。これは一種の情報操作ではないだろうか?地震から既に10日以上が経っているが、余震はまだ収まる気配がない。今日は千葉県で震度4の余震。数日前は茨城県で余震が多く見られたが、震源域が徐々に南下しているのだろうか。千葉県内でも、太平洋に面した旭市では津波で死者が出たし、被害が拡大しないかどうか心配だ。また、夕方に放映された「スーパーJチャンネル」を観て初めて知ったのだが、市域の4分の3が埋立地で構成されている浦安市では、地盤の液状化現象が酷く、建物が大きく傾くなどの被害が広い範囲で出ているらしい。水道や都市ガスといったインフラも、未だ復旧していないそうだ。お膝元にもこういった被災地があることを、首都圏の方々には強く認識してもらいたいと思う。そんなことを考えていたら、6時過ぎには福島県内でも強い余震が観測された。揺れを感じた子供達が一目散にコタツへと潜っていく姿が、強く印象に残った。今回の大震災は、彼らにいかほどの心理的ダメージを与えたのだろう? そう思うと、切なくなる。
2011.03.22
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昨日までと比べ少し遅めの8時過ぎに起床。朝食後、自宅に出勤。昨日の分と14日の分のブログを執筆する。つまり6日も離れた日のブログを同時に書いていた訳で、執筆用に書き留めてあった下書きの紙を眺めていると、自分の感心事がかなり変化しているのがわかる。14日の段階では身の回りの生活情報が多いのだが、ここ2、3日は福島第一原発絡みのことばかりが頭に浮かぶ状態。とにかくこの問題をやっつけてしまわないと、福島県内の復興は先へと進まない。午後から雨が降るという予報だったので、正午前に帰宅。マスコミにあれだけ散々脅されては、雨に当たる訳にもいくまい。果たして昼食後、シトシトと地面を濡らす細かい雨が降ってきた。テレビを見ていても気が滅入るだけなので、昨日に引き続き、亡き義祖父が遺してくれた辞典を読んで勉強兼時間つぶし。昨日紹介した『福島大百科事典』の他にも『福島県民百科』(福島民友新聞社 1980年)もあるので、読み応えはありすぎるぐらいにある。時節柄、原発絡みの項目に目が行きがちではあったが、項目の合間に挿入されているカラーグラビアページの方にもまた、関心を奪われた。県内各地の自然、名勝、祭り… 福島第一原発も含めて鮮やかに掲載されている。これらの風景を再び見ることができるのはいつのことであろうか? あの頃の福島県は良かったなぁ…と懐かしむ。いや、懐かしむという表現は適当ではなかったか。1980年当時の私は首都圏に住む小学3年生。福島県を含む東北地方は言葉の通じない僻地だと半ば真剣に信じていた訳だから。ただ、東北新幹線の開業を間近に控え、人口も増加基調。今後ある程度の発展が期待されていた当時の福島県に身を置いていたらと、夢想する次第であった。その間原発はというと、3号機と2号機から相次いで煙が発生したとのこと。何だか不謹慎極まりない話だが、1988年暮れの昭和天皇の病状報告のような様相を呈してきた。吐血や下血の代わりに煙や放射性物質、輸血の代わりに放水や電源復旧をあてがえば、殆ど同じではないか。そんなことを考えていたら、1988年だっていわゆる「自粛ムード」はあったけれど景気自体は良かったよなと、再びノスタルジーに耽ってしまう悪循環。もっと前向きにならなければと思いつつも、自らを奮い立たせるものがないのが現状だ。最後に、一つだけ文句を言っておこう。夕方に放映された「FNNスーパーニュース」のことだ。原発の放水活動に尽力した東京消防庁の隊員をスタジオに招いたまでは良かったが、彼のいるすぐ脇で「原発から再び煙が…」とのニュースを読み上げる安藤優子。これ、命を賭して任務を遂行した隊員に対して、「あんたのやったことは無駄足だ」と言っているのと同義ではないかと思うのだが。ニュース自体は必要性の高いものであったが、せめて隊員が退席した後で報じるなどの配慮が欲しかった。続いて読み上げられたニュースも愚劣極まりないものばかり。せっかくの3連休なのに東京スカイツリーや浅草を訪れる観光客が少ないとかキッザニア東京が再開したとか首都圏で買い占めが横行して品不足に陥っているとか挙句の果てには焼津まで買い出しに行く人も…だと!? そんな話題、被災地に向けて流すなよ! バカタレ!! これらのニュースを一緒に見ていた小学1年の下の子も「もう、東京の金持ちは!」と怒り心頭であった。もう、フジサンケイグループの報道は一切信用しないことにしよう。それがいくら「正論」であろうとも。ついでに言えば、フジテレビの横行を許した地方系列局もだらしがない。特に福島県における系列局の福島テレビは県が大株主になっている訳だから、いくらでも圧力を掛けられると思うのだが。
2011.03.21
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今日は朝6時過ぎに起床。しばらく布団でもぞもぞやってから、8時前に自宅まで「出勤」。3日分のブログを書き上げる。その間、リンク先のサイトをいろいろと巡回してみたが、皆様おっしゃりたいことがいろいろとあるようだ。同感する部分が多いので、私も同調してコメントを書く。10時頃、買い物のついでということで、義母と妻子が訪れる。混雑が予想されるため、子供達は自宅で留守番。部屋に散らばっている漫画本や玩具で時間を潰していた。しばらくして、義母と妻が帰宅。近所のスーパーは品不足のため休業とのことで、町内のJAで買い物してきたとのこと。福島県産の農産物は今後放射線被害による風評被害が心配されるが、それは流通に限った話で自家消費に関してはその限りではないと思う。地元の農業は我々地元の消費者自身の手で少しでも支えていかなければと思う。11時前に自宅を引き上げる。帰途、コンビニに寄るも、案の定品薄。12日に訪れた柴田町のコンビニと同様に、食べ物はガムや飴の類のみ、飲み物も大半がアルコール。ただし、震災前から店に置いてあったアイスが「一度溶けてしまったものですが半額で」ということで販売されていた。妻の実家に帰った後開封して食べてみたが、原形をとどめていなかった。テレビで積極的に報じられていたのは、今日も、福島第一原発への放水作業。宮城県や岩手県では既に仮設住宅の建設が進められるなど復興へ向けて前進しているのに、福島県では現在進行形で災害が続いているのが悔しい。放水作業に尽力した東京消防庁の隊員が、記者会見を開いている。一定の成果を伴った彼らの勇敢な行動には心から拍手を送りたいが、素直に喜べない自分がいることに気づく。放水の結果放射性物質の流出が沈静化すれば、それで幕引きではないだろう。行方不明者の捜索しかり避難を余儀なくされた住民の支援しかり、福島県の枠を超えた周辺各県の農業支援策しかり… むしろ大きな問題は、これからやってくるような気がしてならない。そんな悶々とした思いを抱えながらテレビを観ていたところ、妻が、『福島大百科事典』(福島民報社 1980年)というずいぶんと分厚い本を持ってきた。9年前に物故した義祖父が購入したものだという。この事典に、福島第一原発について興味深いことが載っているから読んでみて、とのこと。早速、目を通してみる。気になったのは、この発電所が建設された経緯の部分。以下抜粋してみよう。「本発電所の計画は古く、東京電力は1955年(昭和30)に福島県での原発建設計画を発表、県は原発立地調査に基づいて1960年(昭和35)に大熊・双葉両地区を原発の適地と確認した。一方、地元両町議会も相次いで原発誘致決議をし、県・町あげて積極的な誘致に動き出した。1964年(昭和39)12月に福島原子力発電所建設調査所を開設(翌年12月建設事務所となる)。国の設置許可を経て一号機の建設に入った。本発電所の建設は反対運動らしいものもなく県や地元の熱心な協力もあってスムーズに進展した。」(強調は引用者)なんと、建設に対して反対運動らしいものはなかったのか! ついでに言うと、富岡町と楢葉町とに跨る福島第二原発については住民の反対運動があったため建設に遅れが生じ、このことは私は知らなかったのだが、浪江町と南相馬市小高区とに跨る地域に東北電力が原発の建設計画を立てたものの住民の反対が強く頓挫していると、『福島大百科事典』では伝えている。福島第一原発の計画が進められた1950~60年代にかけては、過疎化が社会問題となり始めた頃。双葉郡の南に位置する常磐炭鉱も斜陽化を迎えていた折、原発建設(=原子力の平和利用)は、地元住民にとって夢のような話として歓迎されたのではないか、と妻は語っていた。当時の双葉郡にとって原発以外に振興策の選択肢があったのかどうかは、私にはわからない。ただし、当時の会津、特に只見川流域が水力発電所(=ダム)の建設ラッシュで活況を呈していたことを考えると、同様の夢を見たくなった心境はわからなくもないし、先人を責める気持ちには到底なれない。では、誰に怒りをぶつければ良いのだろうか? 再び悶々と考え込む私なのであった。
2011.03.20
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7時半に起床。早速新聞を読む。テレビ欄を見ると、これまで震災特番ばかりだったのが通常の番組もポツポツと放映予定なのが目につく。昨日震災から一週間を迎えたのを契機にテレビ局は禊が済んだと考えているのだろうか。被災者としてはもっと情報が欲しいのだが、そうではない地域のことも考えると、この編成が限界ということなのだろう。非震災地のことはよく知らないが、震災地の民放では、実はCMが殆ど流れない。流れたとしても公共広告機構のみ。「♪魔法の言葉で楽しい仲間が」のコマソン。もう聞き飽きた。今日から毎日、自宅へ「出勤」しようかと思う。仕事をしていない期間が続くと身体的、精神的バランスが崩れるように感じたからだ。パソコンを開け、久々に本格的なブログ執筆。少しでも情報を発信していくことで誰かの役に立てれば…なんてことは全く考えておらず、ただのストレス解消なのであるが。連日報じられている福島第一原発のニュースに関連して、88歳の義祖母が、自宅の畑で栽培している野菜を食べてもいいのかどうかと、昨日からしきりに心配している。原発関係の相談電話が県庁内に設けられているとのことなので何度か掛けてみるが、なかなか繋がらない。福島県の基幹産業は農業であり、土壌や家畜、農産物にどれだけ放射性物質が残留しているのか、不安に感じる人は少なくないと思う。支援物資が届く届かない以前に「その食べ物を口に入れていいのかどうか」という不安が、先に立つ。正午前に妻の実家に戻ってテレビに見入ると、福島第一原発のお膝元にある双葉町の住民および役場機能が、これまで集団避難していた川俣町から撤退して、さいたまスーパーアリーナへと長躯移転するとのニュース。これに対し、「じゃあ、川俣町の住民はどうするんだい?」と妻がぶんむくれていた。確かに、双葉町の行動は「川俣では危険だ」と主張しているも同然であり、川俣町民も県外に避難しなければ間尺に合わない話だと思う。こんな話ばかり延々流れるから、確かに精神状態は悪くなる。だからドラマもバラエティ番組も、流れること自体は悪くない。2時半から「デカワンコ」の総集編などを観ながら、まったりと過ごす。ところがその間、非常に重要なニュースが流れていたのに、民放局は殆ど報じてくれなかった。「川俣町産の原乳と茨城県北部産のホウレンソウから厚生労働省の暫定基準値を超える放射性物質を検出」義祖母の懸念が、まさに最悪の形で表れてしまったではないか! 福島県産のみならず茨城県産の農産物からも放射性物質が検出されたということは原発による被害は既に福島県の枠を超えて東日本一帯に広まっている残酷な現実を示しているはずだ。ところが、各メディアは、NHKですらもさほど大きく報じることはなく、むしろ原発そのものへの放水や電源確保に一定の成果を収めたことを前面に出している。それもまた確かに重要なニュースであるが、福島県を中心とした周辺各県で当分の間農業ができなくなる恐れが生じていることの方が、明らかに深刻な事態だろう。カロリーベースでの食料自給率は、東日本の方が西日本よりも総じて高い訳だし…義祖母はこのニュースを知り、かなり気を落としていた。天気予報を見ると、明日の午後から雨が降るそうだ。井伏鱒二の「黒い雨」を想起させ、不安が募る次第。
2011.03.19
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今日で震災から1週間となる。起床後、多少の気だるさを感じる。長期化する待機生活で、ストレスが溜まっているのだろうか?福島第一原発の所在する双葉郡や南相馬市近辺にとどまらず、福島市周辺でも、遠方に逃げようかという動きが見られるようだ。でも、逃げる気力が湧いてこないし、それ以前の問題としてガソリンが欠乏している。どうしようもない。アメリカでは、原発から80キロ以内にいる在日米人に避難命令を出したらしい。日本と基準が違う。これでは風評被害を広めてしまうだけではないか? 足並みは揃えてもらいたいものだ。そんな状況だから屋内でじっとしていようかと思っていたのだが、我慢できずに午後から結局外に出てしまった。政府が言うところの「不要不急の外出」だが、屋内にばかりいたのでは気が滅入りそうだ。町内のスーパーに、震災後初めて立ち寄ってみる。商品は陳列棚の3分の1程度にしか置かれていない。野菜や果物はそれなりに充実していたが、魚とパンが壊滅的な状況だ。お客さんの半数近くが高齢者だろうか。我が町の高齢化率は30%弱だと認識していたが、改めて、高齢化社会の現状を実感した次第。帰宅途中、お寺の前を通る。今日からお彼岸ということで、いくつかの墓には花が供えられている。地震で倒壊した墓石や灯篭があるというのに、日本人は信心深いものだ。無宗教と呼ばれる日本人であるが、精神的な拠り所はきちんとした筋が通っている民族なのであろう。帰宅後、子供の担任の先生から連絡が入る。23日に予定していた卒業式、終了式はいずれも中止となり、そのまま春休みに入るとのこと。ただし、学校に荷物が置きっぱなしになっているので、23日以降に保護者同伴ないしは保護者のみで学校に来て欲しいそうである。この話を子供達にしたら少し淋しそうな表情を見せていたが、さほど間をおかずに「仕方ないか」と達観してしまった。彼らの日常生活も、諦めることが当たり前になりつつあるようだ。その反動からか、夜7時から放映された「ドラえもん」は、食い入るように眺めていた。大人としては目を皿のようにして震災情報を知りたい訳だが、アニメも精神衛生上重要なアイテムだと思う。
2011.03.18
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東北関東大震災から、今日で1週間が経過しました。仕事の方は再開の目処が立たず、ただただテレビ画面に向かってクダをまく日々が続いています。こんなことで良いのだろうか? と自問自答する日々。半ばヤケクソになっている自分がいます。家族揃って元気に過ごしていることをとりあえずは喜ぶべきなのでしょうが…特に私の地元の福島県では浜通りにある東京電力福島第一原発が大変なことになっているので、災害が今以上に広がる可能性があります。あの原発は首都圏に電力を供給するために建っているのであって、どうしてお台場や浦安じゃなく福島県にあるのだろうと、怒りを超えた感情が湧いてきます。私は、原子力発電に対しては必ずしも絶対反対を主張するものではありませんが、電力供給も「地産地消」であるべきではないでしょうか。
2011.03.18
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昨晩のうちに雪が結構降ったようだ。山間にある妻の実家の周囲は5~10センチの積雪。今日は晴れるようだが気温は上がらないとの予報。最高気温は5度を下回るようだ。子供達を外出させると風邪をひいてしまう恐れがあるので、今日は家族全員屋内でじっとしていることにしよう。新聞が2日ぶりに届いた。トップ記事は今日も福島第一原発関連。東京電力と国を非難する論調が延々と続いているが、原発を誘致した福島県の責任については一言も触れていない。それはおかしい。我々読者から見れば、全員同罪だと思う。紙面には昨日から公表されている県内各地の拠点都市における放射線量の時系列データが掲示されていたが、どういう訳か、原発により近い南相馬市やいわき市、郡山市よりも、福島市の数値が一ケタ高いのが目を引く。放射性物質は県境を超えて山形県や宮城県にも流れているのではないのか。高い数値が測定されたならば、福島県は両県に対しても誠意ある態度を見せるべきだと思うのだが…そんな事情を知ってか知らずか、子供達は元気に遊んでいる。ただし、若干の赤ちゃん返りが進んでいるのか、特に下の子のテンションが高いようだ。上の子がキレて怒り出す一幕も見られた。テレビ画面の方はというと、自衛隊による福島第一原発への放水作業の様子が繰り返し流されていた。どう考えても、あれはテレビ向けのパフォーマンスに過ぎない。明らかに、まともにかかっていないではないか。作業員の健康状態も勘案すると、福島第一原発は破棄、そして周辺住民には危険な範囲を明らかにした上で、一斉避難を促すしかないのではないか。放水などという対症療法ではなく、将来を見据えた対応を望みたい。風評被害もあって福島県内にはなかなか届きにくい状況がある救援物資だが、どういう訳か、大企業の動きが早い。周囲の人々の状況を伺うと、東京などに本社がある全国規模の企業からの救援物資が、比較的順調に届いているように感じる。改めて、日本は企業立国なのかなと思う。首都圏なので生活物資が品薄だとの報道もあったが、買い占めているのはきっと彼らなのだろう。そうなると、大企業の有無が、今後の各地の復興への格差となってくる可能性があるってことか。支店経済都市の仙台は比較的早く復興するのだろうが、その他の地域は? 平時ですらインフラ整備が立ち遅れている三陸地方や、原発を除けば大企業の立地などまるで覚束ない双葉郡など、復興の足並みが遅れる事態が起こってはならないと思うのだが。夕方、会社からメールが入る。全従業員が無事だったとの嬉しい知らせもあったが、22日までとなっていた自宅待機期間が31日まで延長になったそうだ。あと半月間、テレビを見ながらクダを巻く生活が続くって訳か…嗚呼!!
2011.03.17
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震災の報道を観ていて、なんだか偏ってるな…と思う。どの局の報道を観ても、三陸海岸の街に壊滅的な被害をもたらした津波と福島第一原発の事故の話題ばかりなのだ。確かの今回の震災ではこれらの地域の被害が特に甚大だった訳だし、今朝4号機が爆発したとの方が入った原発についてはもっと詳しく報じて欲しいところなのだが、他の地域だって大変なことになっているのに殆ど報じられないのは気になるところ。昨晩震度6強を記録した富士宮市の様子も、全くレポートなし。 その一方で、首都圏の計画停電に関しては、過剰に報じられ過ぎているように思う。一昨日の日記にも書いたが、あれこそ関東ローカルで放映すればいいことだろうに…と一人憤っていたら、午後1時前に茨城県沖で震度5強の余震があったとのニュースが流れてきた。この一帯を震源とする大規模な余震は、これで2度目ではなかったろうか?話は前後するが、昨晩降った雨の影響で、畳が相当やられてしまった。午前中は報道に目と耳を傾ける一方で、義父や義母と共に畳剥がしの作業もしながら過ごす。午後から業者がやってきて応急処置を施してもらう。同様の家屋が沢山ある中多忙だろうにわざわざ来てくれて、非常に有難く思う。夕方、漫然とテレビを観ていると、桑折町内の小学校は16日まで休校とのテロップが流れる。あれ?確か昨日近所を走っていた広報車のアナウンスでは22日まで休校だと言っていたような気がするが… 気になったので、学校に直接電話してみる。教務の先生が対応して下さり、やはり広報車の言う通り22日まで休校で、23日に卒業式と終了式を行うとの話であった。とりあえず話はそれで済んだのだが、我々家族が自宅にいなかったことから、学校の側も、子供達のことを心配していたとのこと。地震のあった時点ではまだ授業中だったので全児童が無事であったことは承知しているけれど、その後遠方に避難した児童もいたので現時点での安否確認には若干手間取っているようだ。心配してくれているのは家族や親戚だけではない。昨日久々にネットをいじくった際にも実感したのだが、我々は、まさに支え合いが連鎖する環境に身を置いているのだ。
2011.03.16
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午前7時過ぎに起床。いきなり、福島第一原発の2号機で爆発があったとのニュースが流れる。しかも、事態はより深刻であり、原発周辺の放射線量を計測したところ、単位がマイクロシーベルトではなくミリシーベルト!? この事態を受け、避難のレベルがまた上がる。従前より行われていた同原発周辺20キロ以内からの避難に加え、20~30キロの区域でも「屋内退避」の扱いとなってしまった。屋内にいてくれと言われても、できる訳がないだろうというのが実感だ。じっとしていて救援物資もろくすっぽ受け取れないのであれば、遠方に逃げた方が良いに決まってる。しかも、屋内退避の地域の読み上げ方が変だ。いわき市や飯舘村など区域の一部しか屋内退避対象地域にかかっていないのに、市町村名だけ読み上げたら、当該市町村の全域が対象地域だと誤解されかねないではないか。午後2時過ぎに、秋田県に住む友人から電話がかかってきた。そちらの状況はどうだと訊ねると、地震の被害は大したことはないが生活物資、特にガソリンの欠乏が著しく、仕事にならない状況とのこと。東北地方の物流上の背骨となっている東北自動車道が、現在救援物資の運搬専用路になっている影響もあるのだろう。彼らもまた被災者、被害者だ。しかし、彼は私のことを案じてくれ「秋田に移住するか?」などと、優しい声を掛けてくれる。非常に有難いことである。私達家族もそうした方がいいかと思いかけるが、長距離移動に耐えうるガソリンがないし、気力も萎えかけているのが現状だ。夕方から雨が降るとのことで、地震で多少破損した屋根裏を、義父と共にメンテナンス。ブルースートやシーツなどを敷き詰めるが効果はなかったようで、雨が降り始めると同時に酷い雨漏りとなってしまった。地震、津波に伴う原発爆発という二次災害同様に、我が家の二次災害の状況も深刻だ。家中に置いたバケツに雨水が溜まっていく様子を嘆きながらテレビを観ていたら、夜10時半過ぎに静岡県東部で強い揺れとのニュース。あの辺りにも仕事上でお付き合いのある方が住んでいる。被害の状況が心配だ。
2011.03.15
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夜明けとともに目が覚める。コタツの中でしばらくモゾモゾやってから、7時前に這い出した。玄関を開けると、ポストに新聞が入っていて、驚く。刷ってたんだ! 配ってたんだ!! 新聞社の方々の心意気に勇気づけられる。が、記事の内容はその真逆と言って差し支えないもの。トップには、大熊町の福島第一原発1号機で爆発があったとの大見出し。これは地震や津波といった天災ではなく、人災ではないか… 県民の強い怒りが伝わる紙面であった。その一方で、いわゆる「県紙」の枠から出ることができない体質も露呈しており、宮城県、岩手県、茨城県といった地域の被害状況は、全くと言っていいほど伝えられていなかった。下着の替えなど、最低限の身支度をして、自宅を出、坂道を15分ほど登った先にある妻の実家へと向かう。一昨日の情報だと、電気は復旧していないが水については湧水を利用しているので今のところ不便はないという。妻の実家の玄関先。「ごめん下さい」と声をかけると、義父が出てきて「おう」とそっけない返事。妻子はまだ寝ていたが、そのやりとりを聞きつけて一斉に起きだしてきた。仙台で被災したはずの私が目の前にいるので、皆一様に驚いた表情。妻などは、半月ぐらい私と会えないと思っていたらしく、半泣きになっていた。逆に子供達は「『どこでもドア』があればお父さんもすぐ来れるのにね」と昨日話していたとのことで、本当に本人がやってきたので大興奮であった。皆私の散歩趣味についてはよく承知していたが、まさか歩いて帰宅するとは思ってなかったようである。そんなこんなで大盛り上がりの再会となった訳だが、電気は今もって不通のまま。ただし福島市では復旧したとの情報が入っており、明るい見通しを持ってはいた。とりあえずお昼までゆっくり休み、午後から家族全員で一時帰宅。クルマのガソリンが少なく無駄遣いできないので、今朝私が歩いた道を徒歩で戻る形になった。途中、子供達のクラスメートやその親御さんと何度か顔を合わせる機会があったので、いろいろと情報交換。皆元気そうでひとまずほっとするが、学校の休業期間など人によって違った情報が伝わっており、錯綜ぶりも見受けられる。改めて町並みを見ると、塀や墓石が結構倒れているのが目につく。また、屋根も被害を受けたところが多く、雨漏り対策で屋根全体をブルーシートで覆う家もあった。家族全員が揃ったこともあり、夕食は、上の子の1日遅れのささやかな誕生会。日のあるうちに料理を作り、皆で分け合って食べた。食材は、妻の実家と我が家にストックしてあったものを持ち寄ったことにより、数日分は何とか確保されている。昨日、一昨日と寒い夜を過ごしたが、その寒さは食材にとっては好都合であり、結構な量が冷蔵庫から調達できた。もし夏に地震があったら…と思うとゾッとする。停電時の日没後は、どうしても行動が限定されてしまう。トランジスタラジオで情報収集といきたいところであるが、電池も無駄にできないのでそれもままならない。携帯も充電できず使えないままとなると、もう布団に入るしか術がない。8時過ぎには、まだまだ遊び足りない子供達を促すように、布団まで連行せざるを得なかった。3日ぶりに、家族全員、一つの部屋にて就寝。
2011.03.13
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この日の日記は、別館に書くことにします。非常に長大な量なので、いくつかのパートに分かれています。それぞれのパートについては、以下のリンク先からお入りください。(1)出発直前(2)仙台から岩沼まで(3)岩沼から白石まで(4)白石から貝田まで(5)貝田から桑折(自宅)まで
2011.03.12
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午後2時46分に発生した大規模地震について。仙台市若林区内の勤務先にて被災しました。仙台での震度は6強。今までに体験したことがない大きな揺れでした。怪我はありませんでした。勤務先周辺は昔田んぼだったこともあり、周囲の地盤では液状化現象による土砂流出がありました。福島に住む家族とは比較的早めに連絡が取れました。とりあえず無事とのことで、一安心。津波の被害も予想されたため、とりあえず海から離れた場所へ移動したかったので、同僚のクルマに乗せてもらい、仙台駅方面へ。地震発生直後に起こった停電のため大半の信号がストップしており、道路は大渋滞でした。仙台駅に着いたものの、公共交通機関がすべてストップしているとのこと。とりあえず、駅員の指示に従い、仙台駅近くにある五橋中学校に避難し、一夜を過ごしました。体育館は既に満杯で、理科室へと案内されました。理科室内には100名前後が入っていたかと思います。窮屈で身動きが取れず、毛布類の支給がなかったため非常に寒い思いをしながら過ごしました。全く眠れないということはなかったのですが、時折余震があったため、その都度目を覚ましてしまう状態でした。なお、五橋中学校に身を寄せた人たちは、地域住民よりも私のように仕事や出張、買い物やレジャー目的で仙台まで出てきた際に被災したため、まさに着のみ着のままという人の割合が非常に高いようでした。仙台駅周辺のホテルに宿泊していた人たちも、流入していた模様です。情報が全く入ってこなかったので、携帯のワンセグで情報収集。各地の地震や津波の状況を知り、唖然…
2011.03.11
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