全31件 (31件中 1-31件目)
1
昨日は夏の高校野球県予選の決勝戦がKスタであった。対戦したのは東北高校と仙台育英と言う名門同士。仙台育英はエースで4番の選手が怪我でフル出場出来ず、結局4対1で東北高校が優勝して甲子園への出場が決まった。4年連続甲子園出場を逃した仙台育英に対し、東北高校は昨年の春先、野球部内で選手同士の暴力沙汰があり、部活が停止されていた。その苦難を乗り切っての優勝はさぞ感激したことだろう。試合後、若い監督が声を上げて泣いていたとか。 梅雨の最中であるだけに天候が心配されたが、さすがは人工芝のKスタだけあって、ほとんど試合には支障がなかったようだ。その天候だが、今年は梅雨が長引いているのではないだろうか。その原因はペルー沖のエルニーニョ現象にあるのだとか。それに加えてここ数年、梅雨前線が「東西型」から「南北型」に変わって来ているのだとか。全国に先駆けて関東地方が梅雨明け宣言したのも、その影響らしい。 東北ではこのところ長雨と低温の日が続いている。今は稲の開花時期なのだが、低温が続くと冷害が心配される由。さらに長雨の影響で病気になる野菜が多く、このため高騰が続いているのだとか。妻が言うにはインゲンは10本入りのパックが150円。我が家のモロッコインゲンはそろそろ終るが、病気にもならず収穫量が多くて助かった。 また、キュウリは1本50円の由。これも我が家の最盛期は過ぎたが、それでも毎日数本は採れている。種を蒔いたため、苗より成長が遅かったのが幸いしたのかも知れない。長雨で原因で病気になり易いトマトやミニトマトも病気にならなかった。日照不足で多少甘みに欠けるが、結構収穫があり食卓を賑わしている。 シシトウ、カラーピーマンも若干採れるし、ゴーヤはチャンプルーやサラダになった。生命力が旺盛なゴーヤはこれからが本番で、恐らくは9月まで収穫出来るはず。その他、オオバやアシタバなども適宜採れて重宝している。我が家のささやかな家庭菜園が案外役に立っているのが嬉しい。妻もそれらを大事に使って料理している。ミョウガは暑くなるこれからが最盛期だ。 さて、今月は天候不順に加えて体調があまり優れず、ランニングの距離は案外伸びなかった。第2現場での仕事が3ヶ月ぶりに再開したことでの疲労感も強かったためだ。明日は宮城UMC恒例の合同練習会「薬莱山とお足マラニック」がある。我が走友会は仙台市体育館から早朝3時スタートの予定。距離は約55kmになる。心配だった天気予報は曇りに変わり、最高気温は23度ほど。きっと走り易いはず。 明日のモットーは「ちんたら55km」。無理をせずゆっくり完走を目指し、ゴール後は「薬莱薬師の湯」で元気回復に努めたい。遅くとも2時に起床する必要があるので、今夜はなるべく早めに床に就こうと思っている。< 7月のラン&ウォーク >走行回数:11回 走行距離158km ウォーク回数:毎日 ウォーク距離:172km 月間距離総計:330km 年間走行距離1、386km 年間距離総計:2、563km これまでの累計:67、985km
2009.07.31
コメント(6)
5日前のその日は梅雨の晴れ間。仕事から帰った妻を伴って街へ出かける。9日遅れで妻の誕生を祝うためだった。最初に行ったのがとある美術館。妻が所属する美術グループの創設者であるK先生のスケッチ展が開かれていた。海軍報道班員としてインドネシアやフィリピンに派遣された第二次世界大戦時のもので彼の地の南国風景や土地の人々が生き生きと描かれ、中には戦後描かれたゴーギャン風の油絵も混じっていた。 そのほか、館のコレクションであるドラクロアやレオナール・フジタの油絵、色鮮やかな世界の蝶やこけし作家今晃氏のユニークな作品などが展示されていて、とても楽しめた。この美術館を作ったのはさる企業の社長。その名前には確か見覚えがあった。初めてお会いしたのは50年ほど前で、私がまだ高校生の頃だったはず。 次に行ったのがショッピングモールの地下にあるレストラン街。最初に入った高級寿司店で「グルメカード」が使えるか確認したら駄目だと言う。実は前日に、ここのレストラン街で使える4軒の店の名を確認していたのだが。がっかりして次にイタリア料理店に向かう。券は使えたが、今度は妻がイタリア料理は駄目とのたまう。ふ~む。 3軒目がトンカツ屋。こんな脂っこいものが?と訝るのだが、子供の頃からトンカツ屋に通っていた妻はOKらしい。妻はイベリコ豚のカツ、私はそれにエビフライもプラスした。使ったグルメカードは「安全標語」入賞の副賞。元々只だし、妻にも喜んでもらえて良かったと思う。お釣りもちゃんと来、残った千円分は後日牛丼のY野屋で使った。 デパートに寄って用事を片付けた後、歩いて博物館へ。ここでは特別展「古代カルタゴとローマ展」を観覧。カルタゴはフェニキア(現在のレバノン)人がアフリカのチュニジア付近に建国した古代国家。やがて地中海の覇権を争ってローマ帝国と戦うことになるのだが、アフリカ北部からスペイン周辺までを領土として栄えた国だ。 様々な色の大理石を砕いて描いたモザイク画が特に有名だが、金や貴金属、宝石からなる装身具、貨幣、ローマと戦った際の武具、大理石の彫刻や石棺など、その豊かな感性には驚かされるものがあった。カルタゴの将軍ハンニバルが、遥々スペインから象に乗ってアルプスを越え、ローマに攻め入った歴史を思い出した一瞬だった。 ローマに敗れた後も、カルタゴはローマ帝国に所属するアフリカの一州として残った。カルタゴ及び古代ローマ帝国時代の遺跡は、世界遺産として登録されている。結局この日は、美術館、レストラン街、デパート、博物館を巡り、そこから自宅まで合わせて10kmほど歩いた。目の保養になり、腹も満足し、良い運動と歴史の勉強にもなった。そして夕食は片栗粉を入れた具沢山の素麺汁、仙台の昔からの食べ物「お葛かけ」だった。
2009.07.30
コメント(10)
石巻から気仙沼まで走ったマラニックの完走記を書いているうちに10日近く経った。この間の気になる出来事を記しておきたい。先ずは大相撲だが、名古屋場所の優勝は白鵬だった。これは当然の結果。いわゆる心技体が磐石だからだ。彼は往年の名横綱、双葉山を尊敬し、その生き方に深い関心を寄せている由。 そう言われてみると納得出来る面が多い。彼の場合、相撲を取り終えた後の姿勢がとても立派なのだ。これと相反するのが朝青龍。自分が勝った後では「駄目押し」をするし、負けて土俵に転がった後も、相手の足を掴んで転ばそうとしていた取り組みがあった。それらは決してしてはならないこと。既に相手が力を抜いている時に、相撲道に反する行為をすれば相手が怪我をしかねない。そんな面から見ると、やはり朝青龍は横綱失格と言われても仕方がない。 話題の日馬富士は残念ながら連続優勝がならず惨敗だった。緊張による堅さもあったが、まだ経験が乏しく体も出来ていない。大型力士が多い相撲界では、さらに強靭な肉体とより一層の敏捷さが要求されるように思う。その点については彼も自覚しているようだ。入門当時の白鵬が体重わずか70kg程度だったことを思うと、日馬富士にだって出来ないことはないはず。 女子プロゴルフの宮里藍がアメリカ女子プロツアーで初優勝した。場所はフランスの「エビアンマスターズ」だが、これも正式のツアーなのだとか。確かスェーデンの選手とプレーオフを戦っての優勝だったはず。アメリカでのツアーに挑戦して4年目。最近不調が続いたが、彼女はその間もじっと我慢し自分の技術を修正していたようだ。その辛抱がようやく実ったことが嬉しい。 アースマラソンの寛平ちゃんだが、過日大西洋の上で還暦を迎えたようだ。そしてその大西洋も半分は乗り切った由。冬の太平洋と比べれば、今の次期の大西洋はずいぶん楽なのだろうか。ヨットでの洋上生活も2度目の寛平ちゃん、すっかり余裕が出て新しいギャグを考案中とか。 昨夜の東北楽天は盛岡で西武と戦った。オールスター明けの緒戦の先発は岩隈。これまで6勝5敗と低迷していた彼だが、オールスターで休んでいる間に野村監督に投球フォームについて助言され、持ち前のスピードが戻ったのだとか。これでもう一人のエース田中が復調すれば万々歳なのだが。そんな中で40歳を過ぎた山崎が良く頑張っている。昨夜も2本のホームランを放つなどの大活躍で、嬉しい誤算。後は中村ノリの奮起を待ちたい。 さて、大した内容ではないが、実は私も戦っていたことがある。一つは体重。あのマラニック中、志津川の民宿でいただいたご馳走が祟って、体重が1.5kmほど増加していたのだが、昨夜辺りからようやく元の体重に戻った。肉体労働に従事し、たまには走っている私がこうだから、運動をしないで食べてばかりいたらどうなるか怖い。 戦っていたことの2つ目は疲労。昼の暑さが夜まで続き、寝苦しい今の時期。疲れているのに加えて睡眠時間が不足しては、元気が出ないのも道理。連日勤務しながら眠気を堪えるのに必死な私だ。あまり夏ばてしないよう、睡眠と休養、それに栄養にも注意して、何とか暑い夏を乗り切りたいものだ。 10月の予定レース「東山温泉もみじマラソン」50kmの部に、先日エントリーした。今回が第1回で、福島県会津若松の近郊東山温泉からスタートし、布引高原を折り返すトレイルマラソンだ。私は前日会津若松の博物館を訪ね、東山温泉に一泊する予定。また8月末の「立山登山マラニック」へのバスチケットも購入済み。これでまだ手配していないのは、11月の「沖縄本島東海岸単独縦断」だけになった。こちらはまず資金を貯めるのが先決なのだが。
2009.07.29
コメント(2)
< 線をつなぐ > 何気なく駅構内の看板を見た時、その画像が重なって見えることに気づいた。これはおかしい。片目を瞑って見ると真っ直ぐ見えるのに、両目では平行な看板と斜めの看板がクロスするのだ。この現象に気づいたのは2年ほど前だったろうか。マラソンを終えて高速道路で帰ると、道路の白線が交錯して目に飛び込んで来てとても苦しい。片目では見え方が正常なのだが、何時までも片目のままでは疲れてしまう。 これは推論だが、原因は脳の疲労だと思う。長距離走によって脳内のエネルギーが不足し、視神経に悪さを働いたのではないか。気にせず今度は500mlの缶ビールを開ける。つまみはイカの燻製。そしてスポーツ紙に目を通す。近くの字はちゃんと読めて安心。だが次なる異変が私を襲った。 突然目の前が白い光に包まれ、風景がぼんやりとしか見えなくなる。この自称「ホワイトアウト現象」と初めて遭遇したのが2年前の「おきなわマラソン」完走直後。特段極端な体力消耗があった訳ではなかったが、突然目の前が真っ白になったことに驚いた。幸いにしてこの時はものの数分で奇怪な現象は治まったのだが、その後レース終了後に、時たま同様の現象が起きていた。 ものがクロスして二重に見えたり、目の前が真っ白になってものが見え難くなったりするのは、疲労が関係しているのは間違いない。いずれもレース終了後にしか起きないからだ。どんな原理かは分からないが、注意することに越したことはない。ビールのせいか、はたまた疲労のせいか、私はいつの間にか眠りに就いていた。 目が覚めたのはトンネルの中。結構長いトンネルで、昨夜泊まった志津川はもう通り過ぎていた。出来れば前日苦しんだ場所を電車の中から眺めたかったのだが残念だった。次に電車が停まったのは柳津駅。となると、やはり先ほどのは横山トンネルか。やがて電車は濁流が河原まで溢れた大河を渡った。北上川だ。前日岩手県を襲った梅雨の大雨で、大量の水が上流域から押し寄せたのだろう。 56kmを約10時間かかって走った雨の初日。そして34kmの灼熱の道を7時間20分かかって走った今日2日目。合計90km、17時間20分の走り旅を何とか予定通り終えることが出来た。心配した左足だが、ゆっくりだったためか痛みが出ずに済んだ。そして東北の古代から近世までの歴史を再認識出来たことは、私にとって実に有意義だった。 そもそも今回の旅は、「佐渡島一周」の練習のために、3年前自宅から石巻までの60kmを走ったことと関係している。「磐梯高原100km」が開催されなくなったため7月は自分にとって適当なレースが無く、それならマラニックで石巻から先を走ろうと考えついたのだ。かつて家から山形の山寺までの52kmを走ったことがあり、これで地図上では、山形県の山寺から宮城県北部の気仙沼までが一本の線でつながったことになる。 こうなると来年の7月はどこを走るかが楽しみだ。候補としては 1)気仙沼から一関まで。これは46kmの山越えになりそう。 2)気仙沼から唐桑半島を経て、陸前高田か大船渡までの三陸海岸を走るコース。これはさらに海岸美を堪能出来そうだ。 3)石巻から一関へ出るコース。これは「奥の細道」で芭蕉が辿った道で、その一部は今回も走った。 そのほか、岩手県の釜石から遠野を経て北上市へ抜ける山道も面白そう。ここは柳田国男の「遠野物語」の舞台でもある。仙台から福島までも走ってみたいし、盛岡~仙台間もいずれは挑戦したい。そうなると相当「線」がつながることになる。今後の夢として大事に取っておくことにしよう。 また、今回足を傷めずに済んだことで、9月の「佐渡島一周」206kmが楽しみになって来た。制限は48時間。果たして今の私にそんな体力があるか分からないが、弱い足を労わりながら何とか完走を目指したい。ともあれ南三陸の海は素晴らしかったし、北上川の偉大さを再認識した今回の旅だった。無事帰宅出来たことを心から感謝し、拙い完走記の結びとしたい。<完>
2009.07.28
コメント(8)
< 真昼の疾走と異変の始まり > 道の駅を出て間もなくすると、国道45号線は東から北へと向きを変える。そして本吉町に別れを告げ、いよいよゴール地点の気仙沼市内へと入る。気仙沼の入り口が階上(はしかみ)。ここは徳仙丈山へ山ツツジを観に行ったバス旅行の時に通ったため、風景にも若干見覚えがある。だが今は色鮮やかなノウゼンカズラや猫の髭に似たクレオメなど、夏の花々が庭先を飾っていた。 JR最知駅周辺で何気なく時計を見たら時刻は2時過ぎ。そこで気仙沼駅から出る快速電車の発車時間が確か3時台だったことに気づいた。これはいけない。ひょっとしたら乗れなくなる可能性もありそうだ。仙台までの長距離バスが4時台にあるが、運良く快速電車に乗れたらビールが飲めそうだ。果たして残りの距離はどれくらいあるのだろう。 今はリュックを下ろして地図と電車の時間を書いたメモを取り出す暇はない。それより何より、駅に出来るだけ早く到着することが先決だ。そう思うと、故障中の左足のことを忘れてスピードを上げた。おおっ、走れる走れる。いざとなれば、人間は隠れた力を発揮するものだ。この時はまさに必死。見知らぬ土地をどれくらいの時間的な余裕があるかも分からずに夢中で走るだけ。 宝沢入口から右折して国道346号線へ入る。この道路は唐桑方面へ向かい、45号線経由で気仙沼駅に行くより1kmほどは短いはず。きっと市内の繁華街を抜けるのだろうと思っていたのだが、どこまでも郊外の風景が続くのには参った。どうも思い込みがあったようだ。そして駅までの距離を、間違って1.5kmほど短く地図に書き込んでいたことに、この時はまだ気づいていない。 分岐点のコンビニに入り、駅までどれくらいかかるか店員に尋ねる。「車で15分」。それが彼女の答えだった。ええっ!?車で15分の距離を爺さんの弱った足ではどれくらいかかるのだろう。道は登り坂になった。途中賑やかな街中を通ったが、それも一瞬。橋を渡り(どうもあれが大川だったようだ)、さらに坂を登る。道は曲がりくねり一層寂しい風景に。 おいおい、これで本当に気仙沼駅に出るの~?心配になった私は老人に確認して見た。やはりこの道で良いようだ。工事現場を通りかかった時、傍に居た小父さんが私に話しかけて来た。だが焦っている私は適当に返事をして走り去る。坂を登り切ったところでJR気仙沼駅方面への標識を発見。そこから左折し、広い道へ出る。駅まで残り800mほどか。そこもずいぶん閑散とした道で、とても寂しい駅前だった。そこを右に曲がるとゴールの気仙沼駅。先ずは腕時計を見る。時間は3時5分過ぎ。意外に早く着いた。次に駅舎に飛び込んで仙台行き快速電車の発車時間を確認。嬉しいことには何と3時50分発。十分セーフだったことに拍子抜けする。直ちに身障者用トイレを借用し中で着替え。濡れタオルで体を拭き、ランパン、ランシャツ、帽子、靴下などを全て水洗いする。それらの作業を終えて鏡を見ると、真っ赤な顔をした私が写っていた。 窓口で切符を購入し売店へ。買ったのはビール2本とつまみ、スポーツ紙。お金はあったが、家への土産物を買う心の余裕が全くなかった。急いで缶ビールを開け、一気に喉に流し込む。ぷは~。これは冷たくて美味い。これで何とか一息ついた。改札の前に暫く並び、到着した電車に乗って座席に座った途端、私の体に異変が起きた。<続く>
2009.07.27
コメント(8)
< 吐き気と暑さに苦しみながら > 海から上った荘厳な太陽が、今南三陸の空を照らしている。どうやら今日は暑さに苦しみそうだ。散歩から戻って新聞を読もうとしたら、まだ届いていないそうだ。我が家だと5時前には配達されているのだが、田舎は新聞が届くのが遅いようだ。6時半になってようやく女将さんが部屋まで新聞を持って来てくれた。高校野球の県予選では、悲しいかな母校がコールド負けを喫していた。 7時になるのを待ちかねて食堂へ急ぐ。さすがに昨夜のような豪華さはないものの、魚と野菜をふんだんに使った良心的な内容の朝食だった。ご飯をお代わりしてマラニックに備える。宿泊費の支払いを済ませてから走る準備。晴れて気温が上がる今日は、引き続きランシャツ、ランパンで走ることにした。帽子は宮城UMCのオレンジ色のもの。 宿のお嫁さんが領収書と一緒に、黙って茶色の小瓶を差し出した。それは強壮剤だった。「昨日は顔色が悪かったけど、今朝はもう大丈夫なようですね」。石巻から走って来た老ランナーの体調を気遣ってくれるお嫁さんの気持ちが嬉しい。「ええ、今日は昨日より20kmも短いですから」。そう答えながら玄関先で軽くストレッチ。どうやら足に痛みはなさそうだ。 手を振って別れを告げ、海岸から山へ入る。直接国道45号線へは向かわず、県道22号線を進むことにしたのだ。多分浜辺の美しいコースだろうと思っていたが実際は厳しい山道で、途中の谷では杉を伐り出していた。清水浜(しずはま)でようやく国道と合流。その手前で葉がユリ、花がナデシコに良く似たピンクの花を発見。旧歌津町に入ると、今度は土手に山百合の花だ。 登り坂を越えると管の浜までの緩い下り坂。目の前に伊里前漁港が見えて来る。ここに「歌津魚竜標本館」の案内板発見。名前は知っているがまだ観たことがない。国道から80mほど入るだけなので是非見学して行こう。その時車から「どこまで走るんですか」の声。「石巻から気仙沼まで走っている途中です」。と答えると、「頑張ってください!」との声。それに励まされて右折。 「水産振興センター」の隣にある物産館。標本館はその2階部分のようだ。だが体調がおかしい。寝不足が祟ったのか吐き気がする。冷たいお茶を買って2口ほど飲んだら、ようやく気分が治まった。2階に上って標本館内を観覧。「歌津魚竜」は世界でも最古の魚竜だと分かった。東北では昨夜泊まった志津川の「シヅガワリュウ」や福島の「フタバスズキリュウ」などの魚竜が、また北陸ではその後発生する恐竜の化石が出ている由。 残念ながら「ウタヅギョリュウ」の化石はレプリカだったが、その代わりイタリアで発見された巨大な魚竜の化石2体を見学出来た。国道へ戻り、そこから再び北上を開始。右手奥には泊崎半島が突き出ているようだが、山陰で全く見えない。JR陸前港駅を過ぎ、蔵内まで来てようやく紺碧の太平洋が見えた。 10時45分、二十一浜前を通過。夏休みに入ったのか大勢の子供達が海水浴をしている。気温表示は早くも28度C。これでは疲れるはずだ。11時26分、卯名沢のコンビニで早めの昼食。食べたのはお握りとカップヌードル。腹持ちするし、塩分の補給にもなるからだ。前日はコンビニがほとんどなく、それがガス欠の原因になった。11月末に走る予定の「沖縄本島東海岸単独縦断」。北部の山原では全く人家がないところが40kmほど続くはずだが、果たしてどんな作戦が取れるだろうか。 英気を養って11時50分スタート。日陰からカンカン照りの日向に飛び出すと肩や首が暑い。帽子の中に入れた濡れタオルが、少しは暑さ対策になるはず。登米沢から真っ直ぐ進めば本吉町役場に行き当たるはずだが、記憶がないのは道なりに右折したのだろう。小金沢駅通過。田ノ沢周辺で「大森府中館」の案内板発見。左手の山中には、奈良時代の古い城が3箇所あったとか。気仙沼地方の蝦夷に対峙するための、国府多賀城の前進基地だったのだろう。 13時ジャスト「道の駅大谷海岸駅」に到着。少し熱中症の症状が出始めて気分が悪い。ここはJRの駅舎を兼ねており、目の前は海水浴場になっている。日本で最も海水浴場に近い駅と書いてある。駅舎の涼しい席に座りながらアイス最中を食べ、濃い桃のジュースを無理やり飲んだ。これで少しは熱中症対策になったはず。13時17分、再び熱射の国道に飛び出す。<続く>
2009.07.26
コメント(6)
< ご馳走とお茶の話 > 風呂は家庭用のもので、一人か二人しか入れない大きさ。幸い誰もおらずゆったりと入ることが出来た。体を洗いながら傷んでいる箇所をチェック。まず左右の股がランパンで擦れている。右の脇腹と左の背中はリュックで擦れたもの。そして左足人差し指の爪が死んだようだ。だが、いずれも明日走るのに差し支えは無さそうだ。部屋に戻って傷口にワセリンを塗る。 脱いだランパンとランシャツ、帽子を水洗い。そのままだと臭気が凄いからだ。そのうちランシャツだけは乾きそうなので部屋に干した。さて、「夕食は6時半から自室で」と宿のお嫁さんが話していたのに、7時になってもご飯が届かない。ひょっとしたら自分で取りに行くのかと思って台所へ行くと、「子供達のご飯に手間取って」と申し訳無さそうなお嫁さん。 ようやく届いた夕食に驚く。載せた料理が重すぎて、運ぶ途中のお膳がグラグラしているのだ。そのメニューとは 1)岩ガキの蒸し物 2)刺身盛り合わせ(マグロ、タコ、エビ、ホタテ、銀ザケ、ホッキ貝) 3)ウニ 4)ホヤ(蒸し物) 5)ホヤ(酢の物) 6)イワシ佃煮 7)ノリ(佃煮) 8)カレイのから揚げ 9)ウニ炊き込みご飯 10)海草の味噌汁 11)梅シロップ煮 12)梅酒 13)マッコリ(韓国の酒) どうです、凄いでしょ? ビールを頼んだら、「お通し」にウニが付いて来たのには驚いた。料金は1泊2食付で6800円。志津川の民宿はほとんどが豪華な海鮮料理が夕食に出ると思って良い。疲労のためガス欠になって吐き気がした私だが、今は食べきれないほどの料理をゆっくり食べる。だがコップ1杯分のビールはとうとう飲むことが出来なかった。やはり本調子ではなかったのだろう。 食後も私の体はまだおかしかった。喉が渇いて仕方が無いのだ。ポットのお湯を急須に注いでお茶を飲む。途中お茶の葉を替え、結局ポットのお湯全てを飲んでしまった。それだけ脱水状態になっていた訳だ。10時過ぎには床に就いたが、夜半1時過ぎにトイレに起きる。それから2回ほどトイレに起き、3時過ぎにはすっかり目が覚めてしまった。お茶で水分補給をしたのは良いのだが、お茶に含まれる成分のせいで眠れなくなったのかも知れない。 4時半、着替えて散歩に行く。玄関でシューズの裏を確かめると物凄い減り方だ。医療用インソールが無いため、私は極力足に負担をかけないよう「すり足走法」を心がけていた。だからシューズの底が減ったことは私が足を傷めないための代償で、むしろ歓迎すべきことなのだ。「アースマラソン」中の寛平ちゃんのシューズの底が250kmほどで磨り減るのも同じ理由。長い距離を走るランナーは足を守るために、知らず知らず「すり足走法」を取るのだと思う。 先ず海岸沿いに歩いて荒島へ向かう。島へはコンクリートの道が出来ている。山頂まで登ると荒島神社があった。チリ地震津波で破壊された、塩竃神社、山神など幾つかの小さな祠を合祀したようだ。島は「魚付き保安林」に指定され、保護されている由。この小さな島影でも魚が寄って来るためには大事なのだろう。 再び海岸へ下りると男達が船から身を乗り出し、「箱眼鏡」を見ながら何かを捕っている。地元の方に聞いたらウニ漁らしい。なるほど、こんな近くでウニが捕れるのか。私が昨夜食べた2個のウニもここで捕れたのだろう。民宿に戻りながら山を見ると杉の大木がある。どうも神社のようだ。好奇心がムクムクと湧き出し、そこまで登ってみることにした。 神社は荒崎神社というようだ。遠くから見えたのは「太郎杉」で樹齢800年ほどの老杉。元は「次郎杉」と一緒だったようだが、そちらは残念ながら何年か前に倒れてしまったようだ。案内によれば、この境内にはもっと多くの大杉があったのだが、仙台城を築く時、広瀬川に架ける大橋の材料として15本が伐られ、遥々仙台まで運ばれた由。そう言えば大橋の傍の川の中に、橋脚が流されないための穴が穿たれている。きっとあれが往時の名残だろう。思いがけず歴史の勉強をして、宿に戻った私だった。<続く>
2009.07.25
コメント(12)
< ヘロヘロのゴール > 少し食べたお菓子がエネルギーになったのか、意外にそこからの走りは快調だった。ほぼ下り坂が続いたせいもあっただろう。間もなく志津川湾が見えて来た。紺碧の海に島が2つ。あれが目指す荒島か。いやいやそうではない。今日のゴールは遥か対岸。そこに小さな島が見える。きっとあれが荒島のはず。残りは後15kmくらいだろうか。 本当は西に向かっているはずなのに、私の感覚では北に向かっているように感じてならない。だが薄い太陽は前方にある。だからそちらが西の方向に間違いない。その太陽が北東に見えると言うことは、道路が南西の方角に向かっていることを意味するはずだ。後で地図を見たら、距離は短いが確かに南西に向かう地点があった。岬の道はそれだけ曲がりくねっているのだ。対岸に白い建物が見え出す。あれはホテルKだが、その隣の橋は何だろう。 水戸辺集落で標識発見。一体何だろうと近づいて読んでいると男の人が名刺をくれた。肩書きが「行山流水戸辺鹿子踊保存会会長」ほか5つ。本職は養殖漁業の由。標識は地元に伝わる踊りに関するものだった。念仏踊りが起源で、約300年の伝統がある由。どこまで行くのか聞かれたので、宿の名前を言うとちゃんと知っていた。御礼を言って再び走り出す。 とうとう志津川湾の最奥部まで来た。道は暫し北行、ようやく太陽が左手になった。だが私の感覚では何故か東に向かっているのだ。ペットボトルのお茶が残り少なくなった。少し行けば自販機が見つかるだろうと楽観。だがその自販機がない。とうとう登り坂で最後の一滴を飲み干した。ようやくホテルKに辿り着き、駐車場の一角にある自販機で飲み物を買った。きっとこの辺りからガス欠と渇水状態が始まり、判断力が鈍っていたのだと思う。 先刻対岸から見えた橋はJR気仙沼線の鉄橋だった。背後に山が迫る箇所では、道路も線路もごく近いところを通っているのだ。ようやく南三陸町の中心地である旧志津川町に入った。右手に「袖浜」の標識。おおっ、そこが今夜泊まる民宿がある浜辺だ。残りの距離は2kmほど。町立図書館と松原公園を通過。自分の頭ではもう直ぐ到着のはず。ところがなかなか袖浜に着かない。思い余って爺ちゃんに尋ねた。この道で間違いないがまだ先との返事。 橋を渡って魚市場を過ぎさらに進む。頑張って200mほど走ったところで急にエネルギーが切れた。17時5分、疲労で全く走れない状態。おまけに吐き気がして来る。思えば走り出してから食べたのがお握り2個と少々のお菓子。それにチューブ入りの栄養剤とチョコレートアイスだけ。後は飲み物だったがそれも最後の方はエネルギーにならないお茶しか飲まなかった。 海岸に放置された魚網から腐った海草の臭いが漂い、吐き気を助長する。今は苦しみに耐えながら歩くしかない。その時、袖浜まで2kmの標示発見。ええっ?と頭の中が大混乱。どこで距離の計算を間違えたのだろう。大森集落通過。大森崎を周ると荒島が目の前に迫った。広い砂浜の海岸は海水浴場のようだ。幾つかの民宿の案内はあるが、私の泊まる民宿の看板はどこにも見えない。 その時軽トラックが私の横を通過して行った。袖浜集落の入り口と思しき場所で、地元の小父さんに民宿の場所を聞く。さっき追い抜いて行った軽トラが民宿のものとか。最後の坂道を登ってようやく到着。宿の女性が氷が入ったコップを差し出した。よほど苦しげな表情をしていたのだろう。軽トラから私の姿を見ていた民宿の小父さんが、ひょっとしたらウチのお客さんじゃないかと女性に話していたそうだ。2杯の冷水を立て続けに飲んだ。水がこんなに美味いものだったとは。 やれやれ。最後はヘロヘロだったが、初日の56kmを約10時間かかって何とかゴール出来た。一番心配していたのが左足。医療用のインソール無しで良くそれだけの距離を走れたものだ。ともかく部屋に上がってチェックインを済ませ、先ず風呂に行くことにする。宿の女性はお嬢さんではなく、とても感じの良いお嫁さんだった。<続く>
2009.07.24
コメント(4)
< 神割崎で最後の食料を平らげる > 11時15分スタート。道は土手から集落へ下りる。ここは古くからの街道だったのだろう。再び北上川の堤防へ。前方に大きな橋が見えて来た。そこまでの距離は3kmほどか。大河に架かる橋は新北上大橋しかないはず。だが形がどこか水道橋のように見える。近づくと石巻から女川、雄勝を経由し、海岸沿いに通る国道398号線の標識。やはり新北上大橋に間違いない。 道路を渡り、橋の右手にある歩道に向かう。歩道のところどころに大きな水溜り。それを避けながら走る。それにしても北上川は大河だ。河口の追波湾は見えず広い川幅に圧倒される。橋の下を流れる濁った水。岩手県の山奥から流れ出た一滴の水が、間もなく大海に注がれようとしている。川は250mほどだが、さらに河原が続くため橋の長さは350mはあるだろうか。 橋を渡ると「北上」の標示。岩手県の北上市なら方角が違うはず。後で知ったのだが、ここは旧北上町。北上川の河口であることから名づけたのだろうが、私には馴染みの無い地名だった。数年前に石巻市と合併したため、さらに印象が薄くなったようだ。橋を渡って右折し海岸を目指す。途中土手から降りて、自販機でお茶を買う。旅人が珍しいのか、盛んに犬が吠える。 暫くして再度土手を下り、小さな店でカルピスウォーターとチューブ式のアイスを購入。そしてチョコレート味のアイスを食べながら歩く。間もなく海岸になるはず。小川の河口に閘門がある。きっと津波を防ぐためのものだ。確か南三陸では、昭和35年頃にチリ地震津波で大被害があったはず。 飯野川高校十三浜校の手前に廃屋。どうも旧北上町役場の庁舎のようだ。広域合併も良いが、合併された町は税金が高くなり、かつ住民が不便になるのではないか。松林の向こうから波の音が聞こえて来た。ようやく川がなくなり海になったようだ。暫く行くと最初のトンネルがあった。「白浜トンネル」の由。いよいよアップダウンが始まる。岬に向かう道はどうしても曲がりくねった坂道になる。前半、海岸沿いの国道398号線を避けた理由がそれだった。 白浜を過ぎた辺りに「広東船漂着地」の看板発見。その昔中国の船が台風に遭い、遥か遠い日本の寒村に漂着したのだろうか。小室集落の次に大室が現れ、小指(こざし)集落の次には大指(おおざし)が現れた。だから地名は面白い。この付近で戦国時代の古城の標識を2度見かける。小室では初めて南三陸の海が見えた。青い太平洋に幾つかの小島が浮かんでいるのが、不思議な光景のように思えた。 14時40分、神割崎到着。ここは南三陸町だとばかり思っていたのだが、まだ石巻市のようでガッカリ。それでも心を鎮め岬の先端まで走る。黒い岩にぶつかる波の音。どうやら岩には柱状の節理が走っているようだ。こじんまりとした風景だったのが意外だった。再び道路に戻って走り出すと、付近にも案内図。実はそこが南三陸町との境界で、神割崎はまだ続いていたのだ。 松林を抜けて海岸に行く。天候は悪いのに大勢の若者が集まっている。中にはミリタリールックの青年が30人ほど。どうも気持ちが悪い連中だ。どうやらここのオートキャンプ場に来たようだ。早々に退散し、少し離れた駐車場で休憩。お菓子とチューブ入りの栄養剤を補給。これで手持ちの食べ物は全て食べ切った。14時56分再スタート。岬に別れ、ここからは西へと向かう。<続く>
2009.07.23
コメント(4)
< 遠い道 > JR石巻線を過ぎてなおも直進すると、道はやがて旧北上川に出た。ここに架かるのが開北橋。橋の袂に芭蕉とその弟子曾良の絵があった。標識に目を通す。ここには長年渡し舟が通っていた由。当然「奥の細道」で訪れた芭蕉一行は渡し舟のお世話になったのだろう。そしてここから一関へ向かったのだと思う。 最初の木の橋が架かったのが昭和期。そして平成になってようやくコンクリート製の橋に生まれ変わった。下を流れる川が本来の北上川。だが流域面積が広いため、雨が降るとたちまち氾濫する暴れ川だった。このため明治になって川の付け替え工事を行い、本流を追波湾へ放水したようだ。水と戦い、川と戦って来た人々の長い苦難の歴史を思う。 橋を渡って暫く行くと左手に野球場が見えて来た。あれが県営石巻球場か。朝日新聞社の社旗が飾られ、高校野球の歌が聞こえる。八幡神社の傍に石の標識。表側には「南桃生郡」そして裏側に「北桃生郡」。桃生郡が南北に分かれていた時代があったことを初めて知った。石が比較的新しいので、明治以降のほんの一時期だと思う。 旧河北町大森集落の外れで案内板発見。裏手の小山が朝寄った石巻市日和山の城主葛西氏と争って敗れた豪族山内首藤氏の居城とのこと。風になびく早苗を見ながら走る。9時45分三叉路に到達。念のため地図で確認。左へ行くと国道45号線に出、北上川に架かる飯野川橋を渡って一関へ向かう。私は予定通り右手の道を行くことにした。雨が一段と激しくなって来た。リュックの中の衣類、地図、薬類、食料、ポシェットなどは濡れないよう、全てビニール袋に入れてある。左手に北上川の高い土手を見ながら小さな集落を通り過ぎる。新寺に板碑あり。北上川(追波川)の水難で亡くなった人を供養する室町時代のものだった。 赤柴集落から堤防へ上がる。県道30号線は広い舗装路で、車がビュンビュン行き交う。北上川はさすがに広い川幅だ。水が流れている部分だけでも200mはあるだろう。それに結構大きな漁船が何隻も係留されている。どうやらシジミを採る船のようだ。河口までの距離表示は7kmほどだが、釣り人が釣ってる魚はハゼ。やはりここまで海水が上がって来るのだ。 程なく雨が止み、初めて日が差した。11時、横川周辺の土手で休憩。リュックを下ろして唖然。何とファスナーが開いたままだった。案の定地図が1枚濡れて駄目になっていた。だが予備の地図は何とか使用可能。朝自宅付近のコンビニで買ったお握りを2個とも食べる。そして若干のお菓子も。 それにしてもこんなに道が遠いとは思わなかった。走り出してから3時間15分経っているのに、走った距離はまだ20kmほどの計算。地図の距離表示が間違ってないのだろうか。でも、女川、雄勝経由だったらさらに15km以上も遠くなる。やはりこの道を選んで正解と思うしかない。<続く>
2009.07.22
コメント(4)
< 雨の日和山 > 前夜、妻はご機嫌で帰宅した。甥の結婚式で飲んだワインが効いていたのだろう。マラニックの当日の朝もまだ少し酔っているのか、歌が聞こえている。昨夜、「愛犬との散歩はまかせて」と言っていた妻の言葉を信じて、そのまま朝食を摂った。そして自転車で出発。微かに雨が降っている。これも想定内のこと。途中コンビニでお握りやスポーツドリンクなどを買う。実はこれが結果的に私を救うことになった。 長町駅6時19分初の電車で仙台へ。そして仙台発6時32分の石巻行き快速電車に乗り換える。松島海岸、東名浜などで曇り空の下に海が見えた。7時41分石巻駅到着。車内で読んだスポーツ紙。楽天が勝った余韻がまだ残っている。石巻駅は閑散としたもの。まずトイレを済ませ、駅舎内で上着とトレパンを脱ぐ。そして駅の外で軽くストレッチ体操。 何人かの高校生が私の方を見ていたが全く気にせず、雨の中を気合を込めて走り出す。気温が高くなるはずなので、上はへそ出しのランシャツ、下はランパンの軽装にした。そして帽子はグレーのメッシュで、背中には小型の青いリュック。駅前を左折すると繁華街。石ノ森章太郎の漫画がそこらじゅうにある。どうやら漫画ロードのようだ。 先ず向かったのは日和山公園。地図では駅の南方1km辺りにあるはずなのだが、分かり辛い。そこで女子高生に方角を聞いた。真っ直ぐ行けば公園の案内があるはずとのこと。やがて公園への標識が見つかり、山道へと登って行った。だが登り切ったところで迷子に。そこから先には何の案内もない。細い道を真っ直ぐ行くか広い道を右折するか迷って、ドライバーに尋ねると山の方向に左折するのだとか。 「不親切な案内だわい」と文句を言いながら走って行くと、確かにそれらしい雰囲気の神社に出た。案内図によれば芭蕉の像や新田次郎の石碑などがあるようだ。だが私が見つけたのは川村孫兵衛の石像。彼は伊達政宗の命により、北上川を改修して石巻をたくさんの船が出入り出来る港町に作り変えた人だ。眼下にはその石巻の港が見える。芭蕉と弟子の曾良が訪れた時、山の上からは煙が立つたくさんの人家が見えたようだ。 「石巻さ~よ~その名も高い 日和山とえ~」有名な民謡、大漁謡い込みの一節にも、当時の石巻の繁栄振りが偲ばれる。三十五反の帆を張った船が米を満載し、仙台を経由して江戸まで上ったのだ。そしてこの山はかつて石巻を支配していた葛西氏の居城だった由。政宗に敗れて滅んだ葛西氏だが、頼朝が奥州藤原氏を滅亡させた後、この地の鎮護を任され交通の要所である石巻に300年ほど陣取っていたようだ。 城跡に残る神社は香取神社。奈良時代に朝廷の命令で関東から移民して来た人々が、郷里の神を勧請したのだと思う。現在石巻市内を流れるのは旧北上川だが、太平洋とかつての北上川は往古から人々や豊かな物資や文化を運ぶ役目を担っていたに違いない。やはりマラニックのスタート前にここを訪れて良かった。そう確信した私だった。 さっきとは違ったコースで山を下る。標高60m余りの日和山だが、海の直ぐ傍にあるため、実際よりかなり高めに感じる。名前の通り、船出の日和を判断するには絶好のポイントだったのだろう。当て推量で走っていたが心配になり、老人に「開北橋」までの道を尋ねた。だがどうもおかしい。改めて地図を取り出して調べると、行過ぎていたようだ。少しだけ戻って県道石巻河北線を北上。いよいよここからが本来の旅の始まりだ。<続く>
2009.07.21
コメント(6)
<石巻~気仙沼単独マラニック第2日目>7時45分南三陸町志津川の民宿を出発~15時05分JR気仙沼駅到着 34km最後は電車の発車時間に間に合わせようとして、必死でした。何とか無事に帰宅しました。応援ありがとうございました。完走記は明日から書き始めます。
2009.07.20
コメント(4)
<石巻~気仙沼単独マラニック第1日目>朝7時45分JR石巻駅スタート~17時45分南三陸町志津川民宿着 距離56km途中、コンビニがほとんど無く、最後の2kmは疲労、ガス欠、吐き気で歩きました。かなり危険な状態でしたが、何とか宿に着くことができました。
2009.07.19
コメント(0)
静かに雨が降っている梅雨の土曜日妻は午後から甥の結婚式に出かける彼と同い年の我が家の次男そして彼より4歳年上の長男も未だに独身何時になったら彼らは自分の家庭を築くのだろう昨夜 俺はKスタで5時間以上も過ごした12回の裏まで戦ったもののとうとう勝てなかった東北楽天先発の田中にはまだ往時の勢いが戻っていない気だるさだけが残った試合だったが若い田中のことだ そのうち勝つ日が来るだろう小雨の畑で野菜を穫るモロッコインゲン 柔らかいお前をここ数日ずいぶん食べたね気づかなくて大きく育ったキュウリお前は酢の物にちょうど良いトマトにミニトマトはまだ多くは穫れないもののお前達は俺と妻の健康に役立ってくれる畑の雑草を抜こうとして気づいたヒヨドリに食べられたとばかり思っていたトウモロコシが何と小さな芽を出しているではないか発芽が不ぞろいのためこの夏お前を食べることは難しそうだがそれでも俺は生命を育むこの作業が好きださて 俺は明日の朝早く旅に出る旅と言ってもとある港町から走り出しとある港町へたどり着くマラニックつまり90kmほどの道のりを自分の足で走るだけなんだがね途中の港町にも一泊する予定さコピーした地図には距離を書き込んだし必要な薬もちゃんと持ったよ後はそれらを小さなリュックに詰めるだけごく身軽な一人旅だよ当分結婚しそうにない我が家の息子達親としては少々淋しいけれど それもまあ仕方ないかもなまずは健康が一番そう思いながら俺は走ることにするよもう直ぐ梅雨は明けそうだねそしたら暑い暑い夏がやって来るね俺は相変わらず肉体労働を続け畑で野菜を作り太陽の下を走り続ける暑い暑い夏だけどね
2009.07.18
コメント(14)
ともかく暑い。仙台ではこのところ連日30度を超える日が続いている。8月だって30度を超えるのは数日なのに、この気温は何なのだろう。もういい加減に梅雨明け宣言しても良いだろうなどと思うのだが、梅雨明けしたらもっと暑くなるだけだ。昨日の夕方は、たまらずホースで庭に水を撒いた。 ともかく疲れる。この暑さの中、肉体労働をしているのだから、疲れが出てもおかしくはない。おまけに暑いと睡眠不足で、さらに疲れる。さすがに昨夜は早めに床に就いた。ところが何だか五月蝿い。私が寝たのを見た妻が、夜中だと言うのに東京の次男と電話で長話を始めたようだ。その大声で目が覚めてしまったわけだ。 朝方は愛犬の吼える声で目が覚めた。何のことはない。新聞を配達に来ただけなのだが、彼は自分のテリトリーを侵されたと思い、猛抗議をしたようだ。妻と言い愛犬と言い、大黒柱の大切な睡眠時間を一体何と心得ているのだろう。頼むからもっと静かに寝かせてくれよなあ。 ふらつく体で何とか出勤はしたものの、実は街中でも騒音が凄い。ビルの前で大音声でがなり立てる街宣車がいる。そう、わが町では目下市長選の真っ最中なのだ。候補者は6人。中にはわが町に住所がない候補者や、近々行われる予定の衆議院選の宣伝と思われるような候補者もいる。 6人の候補者中、女性が2人。2人はつい最近まで副市長を勤めた人なのだが、一方は市長の政治姿勢に疑問を持って辞任した人。この市長がとんだ食わせ物で、公私混同が甚だしかった。もう一方はその市長にも良い点はあったと擁護する立場の人。「女の戦い」を含め、今後どんな審判が下るか注目しよう。 先日来マスコミを賑わしている2人の知事。1人は宮崎の「そのまんま」知事で、もう1人は大阪の「とおる」知事。知事会の主張を全面的に取り入れたマニュフェストを作れとか、自分を首相候補にせよとか、全国知事会が統一して支持政党を発表すべきとか、ずいぶん過激な主張をされていた2人。これは某政党にとってはかなり厳しい要求だと多くの人は感じたと思う。 その某政党。どうも選挙の日程が決まった後も党内でのゴタゴタが続いている。全ては総裁である方に人徳がないのが原因だろう。発言はぶれるし、言葉に精彩がない。特権である解散権も本当にあったのか、それとも無かったのか疑問だ。国民の目からみれば、もう末期症状としか言いようのない「無政府状態」の姿を晒し、結局2人の知事の意見も「そのまんま」「とおる」ことはなかった。 一方都議会選で勝利した某政党だが、党代表が連続して政治資金不正疑惑に揺れた。衆議院選で勝利すれば総理大臣になる立場の人が、疑惑を持たれながら要職に就くのはどんなものか。また政権交代を叫ぶあまり、新手のばら撒き行政に走ることだけは止めて欲しい。我々国民も劇場型の政治や人気にばかり目を奪われず、しっかりと政策に目を向けるべきだろう。 今日はこれからKスタへ楽天の応援に行く予定。夏ばて、寝不足の身には少々辛い作業だが、レフトスタンドで大声を張り上げれば、きっと疲れも吹っ飛ぶはず。今夜の先発はマー君。誰です、「一番五月蝿いのはお前の声だ」なんて言うのは
2009.07.17
コメント(4)
どうも体調がおかしい。サクランボ狩り以降、オシッコの色がピンクなのだ。何の病気かと心配してある本を読んだ。「ピンク色のオシッコ元に戻すには、恵方を向いてキュウリを丸かじりすれば良い」と書かれている。そこで早速実行。なるほどオシッコは透明になったが、今度は猛烈な下痢に悩まされている。どうやらキュウリの本数を間違えて、食べ過ぎたのが原因だった。 どうも体調がおかしい。サクランボ狩り以降、体脂肪が急上昇している。多分バーベキューで食べつけない肉を大量に食べたのが原因。特に「トントロ」が悪さをしたようだ。そこで区役所へ届けを出しに行った。提出書類の名は「脂肪届」。この春、我が町では条例が改正され、体脂肪が30%を超えると1週間以内にこの書類を提出する義務が発生した。我が町でおデブちゃんを一人も見かけないのには、こんな秘話が隠されていたのだ。 どうもパソコンの調子がおかしい。先日北朝鮮がサイバー攻撃を仕掛けたとの報道が相次いだ。アメリカではペンタゴンなどの政府機関がその対象となり、韓国でも政府機関が狙われた。将軍様が脳出血とすい臓がんで余命幾許もないと伝えられるあの国では、もう常識が通用しなくなっているのかも。私のパソコンが調子が悪いのも、きっと将軍様の呪いだろう。う~む。 隣国北朝鮮の相次ぐテポドン騒動やサイバーテロに悩む韓国。元々同一民族だけに、国民感情には複雑なものがあるようだ。かと言って手荒な攻撃も出来ない。そこでこのたび平和的な解決手段が考案された。それが何と、全員丸裸となり北に向かって抗議するのだとか。実行された場所は全羅南道。賢明な諸君ならもうお分かりだろう。ずばりその読みは「全裸なんど~!!」 先日のメジャー・オールスター戦でオバマ大統領からサイン入りのボールをもらって狂喜したイチロー。お返しに大統領へサイン入りのボールを上げようとしたら大統領がこう言ったとか。「ノーサンキュー、イチロー。あいにく僕は漢字が読めなくてね」。すっかり恐縮した彼は、とうとう1安打だけで終わったそうだ。 どうも胃の具合がおかしい。この暑さでビールを大量に飲んだせいだ。で、飲んだのがキリンとサントリーのちゃんぽん。この両社近く合併する話が進んでいるとか。だがもめているのが新会社の名前。キリンでは「キリンサン」を提唱し、逆にサントリーでは「サンキリン」を提唱中。で、勝った方が自社のビールで「ビールかけ」をすると聞いたのだが。 どうも体調が優れない。サクランボ狩りの最後に「種飛ばし大会」をしたのだが、その種が腹の中で発芽したようだ。来年の今頃は頭から木が生えて来、5年後には見事なサクランボが私の頭上で実をつけるだろう。その時にはどうやってウルトラマラソンを走るか。それが心配になって良く眠れない私だ。う~む。
2009.07.16
コメント(8)
昨日の帰宅ラン。雨を心配しながら青葉城への坂道を登っていると、1人のランナーが道の向こう側を走っていた。私を抜いたのは良いが、程なくしてスピードが落ちた。坂道を飛ばして長続きするのはよほどのランナー。「シシャモ筋」が鍛えられてるし、服装も整ってる。だが自分は自分のペースを守るだけだ。そう考えた時、ランナーの足が急に止まった。 やはりねえ。この坂をあんなスピードでは続くはずがない。私は道の向こうに渡って天守台の方へ向かった。「今日は!」。突然背後からそのランナーが挨拶。思わず顔を見ると見覚えがある。確か神戸に住む通称「舘ひろし」さんだ。彼とは2年前の「佐渡島一周」や3月の「八丈島一周」で一緒だった。 「どうしたの、こんなとこで?」。私は尋ねた。「仕事です。今日は午後からフライトで。仙台へも良く来るんです。そして仕事の合間に山を走ってます」。なるほど、それで謎は解けた。八丈島では荒れ狂う暴風をノットで計算していたため船乗りだとばかり思っていたのだが、どうやら乗り物が違っていたようだ。 「どうも「萩往還」か「水都おおさか」で疲労骨折したようで、ようやく2、3日前から走り始めたんです」。道理で私を抜き切れなかった訳だ。「次の長いレースはどこです?」。彼の質問に「佐渡島一周だよ」と答える。「じゃあ、またお会い出来ますね」。彼は手を振りながらT大工学部の方に向かい、私は真っ直ぐ家に向かった。ウルトラマラソンの世界は狭い。いつ誰に遭うか分からないのも嬉しいことだ。 先日のサクランボ狩りの際、私は妻の前で今後のレースなどの予定を話した。いつもは黙ってレースの予定をカレンダーに書き込み、妻はそれで私の予定レースを知るのが通常だった。あれ以降妻が何も言わないのは、特に反対はないと言うことだろう。またあの行事を通じて、ご夫婦揃って外国のレースに出たことや、70歳に手が届くM仙人が、600km近いレースに挑戦することを妻は知った。 それらの情報や楽しそうな雰囲気で、レースに対するランナーの「想い」がきっと妻にも伝わったと思うのだ。あの日の会費は私が負担したのだが、それ以上の「収穫」があったと感じている。きっと自分自身が最近走り出したことでも、ランニングの良さを再認識したのではないだろうか。友人に電話でサクランボ狩りのことを教えたら、大いに羨ましがられたと話す妻。 さて、寛平ちゃんの「アースマラソン」が再開した。今度の舞台は大西洋。現地時間で昨日の午前11時、寛平ちゃんらを乗せたヨット「エオラス号」は、ニューヨークのノースコーブを出航し、フランスのルアーブル港へ向かった由。久しぶりの海で早速船酔いした寛平ちゃんだが、流していたルアーにスズキが食いついたと公式ブログに。 「東京オリンピック招致大使」としてライバル都市のシカゴまでメッセージを届けた寛平ちゃん。そのために予定が狂い、上陸地をポルトガルからフランスへ変更したとか。大西洋を無事横断した後は、ヨーロッパ大陸やアジア大陸の広大な大地を走り続けることになる。多くのスポンサーが付き、サポート隊の援助を得ながらのランとは言え、過酷な旅であることは間違いない。彼は自分の体を通じて、世界中の人達に何を伝えようとしているのだろう。 秋田の走友Junさんが書く「川の道」の完走記が間もなくゴールの場面を迎えそうだ。4月の末から5月の初めにかけて行われたレースで、彼は心身に深い「痛手」を負った。「今回のレースで、自分は人間力を試された」と彼は書いている。厳しいレースを最後まで走り通したJunさん。傷ついた代償として、彼は計り知れないものを得たのではないか。私はそう確信している。 ランナーが抱く様々な想い。それが正しく伝わることもあるだろうが、伝わらないままに終わるものもあるだろう。それでもランナーは走る。自分の想いは自分が一番良く知っていると信じて。 7月の予定だった「石巻~気仙沼単独走」が後数日後に迫った。残念ながら「みちのくラン」で行方不明になった医療用インソール入りのシューズは、まだ出て来ていない。手作りインソールで走ったのは8kmまで。それ以上の距離になると多分痛みが出るはず。今日はニューバージョンを作ってみた。果たして90kmの道のりが走れるかどうかは不明だが、今はそれに願いを託そうと思う。
2009.07.15
コメント(12)
標高1462mの葉山を仰ぎながらのランは楽しかった。その葉山の頂上まで登る「葉山登山マラソン」が先週の日曜日にあり、M仙人、O川さん、K野さん達が出場したようだ。雨の翌日でコースは泥んこ道だった由。M仙人はその前週には大東岳などに登ってトレーニングしていたのだとか。さすが「トランス・エゾ」に出場するだけある。もう直ぐ古希を迎える長老が、フェリーが着く苫小牧からの分を含め、600km以上の距離へ挑戦する姿勢には頭が下がる。 スタートしてから54分後、私達は「ひなの湯」に到着した。早速着替えなどを持って温泉に向かう。ここは以前バス旅行の際に入ったことがある。出来てから10年ほどの新しい建物だ。料金は250円。山形県内では料金200円の温泉もあるのだとか。体を洗って湯船に入る。オレンジ色のお湯から微かな香りが漂う。きっと紅花の香料を入れているのだと思う。 山形名産の紅花は香料や染料の原料となるが、消毒作用もあるようだ。女性がその昔、身に着けた「腰巻」が赤いのは、婦人病を予防するため紅花で染めたからと聞いた。熱めのお湯に入った後はサウナと水風呂で締める。バスに揺られ、9kmほど走り、温泉に入ると、もう腹がペコペコ。冷たいお茶で喉を潤す。休憩コーナーに行くと、満足そうな顔をした妻がいた。 K野農園までバスで戻る。最初にK野さんから注意。我々のために残したサクランボの木は3本。種類はいずれもナポレオン。最高級品種の「佐藤錦」は既に6月末で収穫を終えた由。残った3本も収穫の時期を1週間以上過ぎたもので、熟し過ぎた実は食べないで下に落として欲しいこと。枝をつけたままだと長持ちすること。乾杯が始まる30分間で一先ず収穫して欲しいことなどだ。 妻も私もサクランボの木の下に急いだ。直ぐ手が届く枝の先に実っているサクランボ。確かに熟したものが多い。捨てるのが勿体無いと感じて食べてみる。おおっ、直接取って口に入れるなんて初めてのこと。こうして大きなタッパーの中にサクランボの実を入れる作業に夢中になった私達だった。 脚立を借りて上の方の枝から実を取る人。背伸びしながら下の枝の実を取る人。太陽をたくさん浴びた上の方の実は大きくて甘いようだ。妻は腰には「びく」を下げ、ビール瓶を入れる容器の上に立って奮戦していた。私は極力枝をつけたものを取った積もりだが、その分痛んだ実が多かったかも知れない。瞬く間に30分間が過ぎて、K野さんが呼びに来た。サクランボに満ち溢れた5個の大型容器をリュックに入れると、ずっしりと重たい。 サクランボの木の下で大宴会が始まった。先ずは元会長のS木OBの発声で乾杯。米沢牛がたくさん入った醤油味の「芋煮」が次々に運ばれて来る。さすがは牛。仙台の豚肉で味噌味の芋煮とはまるで「こく」が違う。その後から焼きたてのバーべキューも。家では絶対食べないような高級な部位の肉。ビールも美味いし、差し入れの日本酒も美味い。S田夫妻のオーストラリア土産のワインも開けられて、一層和やかな宴会となった。 K野さんが脂の塊のようなものを皿に載せる。これは何?と聞いたら、答えは「トントロ」。どうやら彼らがいつも焼肉屋で食べているものらしい。最後には仙台名物「牛タン」まで出て来た。そしてK野さんの家族の方が作ってくれた「マイタケご飯」も。これは良い香りがしてとても美味しく、私は2杯お代わりをした。 飲みながらの自己紹介も楽しかった。S木OBは何と踊りが得意のようだ。私は妻が最近走り出したことを話した。一体どれだけのアルコールを口にしたのだろう。ビール350ml2本、日本酒コップ2杯、そしてワインを2口は飲んだはず。先ほど大量に食べたサクランボがアルコールと混じって発酵し、どうやら腹の中でチェリー酒になったようだ。 酔った後のゲームが種飛ばし大会。これはサクランボを食べて残った種を口に含み、思いっ切り飛ばすゲーム。「東根さくらんぼマラソン」でも余興として行っているようだ。2mも飛ばない子供達や女性に対して、何度か経験のある男性はさすがに遠くまで飛ばせる。結局前回優勝者を抑えて、O川さんが堂々の優勝だった。 こうして楽しかった年中行事、「サクランボ狩り」は無事終了した。毎年快く協力してくださるK野さんのお兄さん夫妻、そしてお母さんまでが笑顔で見送ってくれた。わずか1時間足らずの「収穫作業」だったが、サクランボ農家の苦労は十分に理解出来たと思う。その夜、妻は大量のサクランボをご近所に配ったようだ。
2009.07.14
コメント(6)
私が所属する南仙台走友会の年間行事の一つにサクランボ狩りがある。「磐梯高原ウルトラ」に出場する私は、これまで参加することが出来なかった。例年7月の第1土曜日がレースで、サクランボ狩りは翌日。2日連続で「遊ぶ」のは妻に気兼ねだったからだ。それが今年は事情が変わった。「磐梯高原ウルトラ」は今年から中止になり、しかもサクランボ狩りは7月の第2日曜日に変更されたのだ。 わが走友会のK野事務局長は山形の東根市出身で、実家がサクランボ農家。長年走友会行事のために、サクランボの木をわざわざ何本か残してくれていると聞いた。もちろん取り放題だし食べ放題。おまけに米沢牛のバーベキューもやると聞いた。 今年は何とか参加してみたい。家族同伴も許されるとのことだったので、妻も連れて行くことにした。木の枝一面に実る真っ赤なサクランボはさぞ見事なことだろう。想像するだけで楽しくなった。それにサクランボ狩りに先立って10kmほど走り、温泉にも入るのだとか。山形県はどの市町村にも必ず天然の温泉が湧くことで有名だが、温泉好きの妻に話すと大喜びだった。 集合時間までに仙台市体育館に行くと、既にバスは到着していた。これは走友会の長老の一人であるK山さんが、かつての仕事仲間からチャーターしてくれたもの。そのK山さんやお世話役のAさんがバスの傍にいた。三々五々仲間が集まる。顔見知りの人、初めて見る会の先輩、会員の親戚の子供達など総勢21名。これでも例年に比べるとかなり少ないそうだ。何人かの仲間が「みちのくラン」で行方不明になった私のシューズを心配し、尋ねてくれた。そして毎日読んでる私のブログの感想も。さっぱり練習に行けない私だが、毎日書いているブログが、何とか仲間との絆をつないでくれているようで有難い。山形に向かう途中、市内の何箇所かで仲間を拾う。 F田会長、そしてサクランボ狩りの主役であるK野事務局長が乗り込むと、車内が一層賑やかになった。早速K野さんがマイクを持ち、サクランボ狩りのスケジュールや東根市に関する丁寧な紹介が始まった。そしてその後、参加者から一人挨拶があり、車内に和やかな空気が漲った。 飛び入り参加のS田さん夫妻は、先週ゴールドコーストマラソンを走って来たばかりとのこと。ご主人はSさんの会社の同僚で、奥様はK野さんら駅伝組が交流している走友会「Date エンジェルス」のメンバーとのこと。一番後ろに陣取った3人の子供達は、E名さんの甥ごさん、姪ごさんのお子さんらしく、まあ車内の賑やかなこと。 関山トンネルを越えて間もなく、東根市のK野農園に到着。F田会長、K野ご夫妻、Aさんが荷物と一緒にここで下車。私達が走って温泉に入っている間に、山形牛をふんだんに使った贅沢な「芋煮」とバーベキュー、マイタケご飯などの用意をしてくれるようだ。済みませんね、皆さ~ん。 バスは河北町の「紅花温泉 ひなの湯」に到着。荷物を車内に残し、ランニンググループは早速走るスタイルに。そして走らない人は、そのまま温泉へ。まだ9時前なのに駐車場にはもう20台以上の車が停まっていた。日曜日の朝から朝風呂とは、何と優雅な生活だ。コースは畑の傍からやがて最上川の堤防へ出た。 M仙人、S木さん、O川さん、S田夫妻と私の6人が先頭グループ。走るのは1時間だけで、30分走った所から戻って来るのがルールとか。9月にある「秋田内陸」でウルトラデビューするS田夫妻に、私達からはそれぞれウルトラマラソンの極意を話し、夫妻からは「ゴールドコーストマラソン」の楽しい話を聞いた。 堤防の上は風が心地良い。悠然と流れる最上川を眼下にして走るなんて初めてのこと。こんな風にしてランナー同士の交流が広がって行く。3人のちびっ子達も、「E名婆ちゃん」の厳しい指導で最後まで頑張って走ったようだ。<続く>
2009.07.13
コメント(4)
昨日(7月12日、日曜日)は朝から出かけ夕方酔っ払って帰宅したのですが、何と何回やり直しても、パソコンがネットにつながりませんでした。それで止む無く日記はお休みさせていただきました。どうもスミマセ~ン。 で、今日は2階の自室から1階の居間にパソコンを移動して電源を入れたら、あらら、今度はちゃんと接続出来ました。でも留守中にコメントしてくださった方に返事を書こうとしたら、今度は楽天のシステムエラーで書けず、???の状態が暫く続きました。 まさにど素人の悲しさですね。モデムが故障したのか、パソコン本体が古くて不調になのかさえ分からないのですから。でも今日(7月13日、月曜日)は多分日記を書けるはず。それはそれで、結構草臥れる作業ではありますがね。
2009.07.12
コメント(0)
花が咲いた。形から見ればニッコウキスゲの仲間だろうと思うのだが、色は赤で黄色の縁取りがある。きっと園芸種なのだろう。これは妻がお向かいさんからもらったもの。赤い花と言えば、ハイビスカスも咲いた。昨年は全くつぼみをつけなかったのは何故だろう。鉢植えなのだがあまりにも背が伸びたため、よほど半分ほどに切ろうかと思っていた。つぼみがもう一つあるので楽しみだ。 クチナシも咲き出した。これは昨年アゲハの幼虫13匹に葉を食い尽くされたもの。きっと今後3年間は花をつけることは無いだろうと諦めていたのに、植物の回復力は早いものだ。今日は延び過ぎた梅の枝や、咲き終わったキンシバイの枝も剪定した。梅雨時の今は、植木の成長する勢いが凄く、あっと言う間に茂ってしまうのだ。 植物の生命力と言えば我が家には良い例がある。植えた覚えの無いハナズオウが5年もかかって成長し、昨年から白い花を咲かせたのだ。これはきっと鳥が種を運んだのだと思う。そして今年は1本だけヒマワリが咲いている。これも種を蒔いた覚えはなく、勝手に生えて来たもの。世の中には時として不思議なことが起きる。 こぼれ種から芽生えた朝顔を大型の植木鉢に植え替え、支柱を施した。それが今、可愛らしい花を咲かせている。小さいけれど紫色の絞りのある花だ。種は妻が知人からもらって来たもののようだ。間違って抜いたとばかり思っていたフユシラズが予想外の所から芽生え、黄色い花を咲かせているのも驚き。セキチク、ヴィオラなどもこぼれた種から増えて、花を咲かせてくれる。 一方野菜の生命力にも凄いものがある。台所の生ごみから作った堆肥を畑に撒いているが、ジャガイモなどは残った皮からも発芽するし、カボチャの種からは何十も芽が出て、抜くのが大変なくらいだ。山芋の生命力も相当なもの。根が少しでも残ったり、落ちたムカゴから蔓が延びて、植木にまとわりつく。 生ごみから芽生えたカボチャは2本ほど苗を残しているが、生った実を食べることはない。元々の実は煮るとホクホクだったのに、庭で出来るのはベチャっと軟らかいものばかりだからだ。トマトも毎年のように落ちた種から苗になる。今年も5本ほどヒョロヒョロしたのを残したが、果たして大きい実が生るかは疑問。 梅の枝を伐っている時に、取り残した実が4個残っているのに気づいた。もう熟して黄色くなった梅の実。それを果物代わりに食べてみた。一緒に食べたソルダムほど甘さはないが、胃腸の掃除にはなるだろう。そのうち熟れたミニトマトが庭にこぼれ、それを愛犬が拾って食べる季節が今年も近づいた。
2009.07.11
コメント(8)
昨夜の楽天だが、千葉ロッテを相手にようやく連敗を免れた。この日負ければ球団記録と並ぶ9連敗になるところだったが、先発の川井が5回まで無失点の好投を見せ、6回からの攻撃で山崎の2ランホームランなどで8点を奪った。一方投手陣も6回途中から福盛が中継ぎで、8回から井坂が抑えでそれぞれ好投。白星は729日ぶりに福盛につき、74歳を迎えた野村監督には最高齢勝利監督の栄誉が与えられた。 この8連敗中、どれだけ楽天ファンは落胆し続けただろう。結構頑張った先発投手もいたのだが、中継ぎ、抑えがほとんど機能していなかった。やはり今季も駄目かとあきらめかけて居た時に福盛が帰って来た。後は岩隈が故障から戻り、田中が調子を取り戻せばそこそこの戦いは出来、ファンも少しは安眠が出来ると思うのだ。そのマー君に艶聞発覚。神の子マー君もやはり普通の男の子だったようだ。 昨日の早朝、「アースマラソン」中の寛平ちゃんがアメリカ大陸横断に成功した。大阪を出発してから205日目。ロスから走り出してからだと121日目で4830kmの道のりを走ったことになる。これまでの総距離は18,207km。ニューヨーク到着後、メディカルチェックを受けたようだ。 引き続き大西洋を横断するエオラス号に乗るのは寛平ちゃん、比企さん、馬場さん(?)の3人。既にヨットには食料、燃料、水などが積み込まれている由。出発まで残されたわずかな期間だが、それまでの間にゆっくり眠って欲しいものだ。海に出れば、また戦いの日夜が続くのだろう。 「トランスヨーロッパ」から帰国した勇者達も、日常生活に馴染んで来たようだ。K枝さんのブログによれば、彼はキロ4分のスピードで走れるまでに回復した由。一方旅がらすさんはゆっくりと走り、家庭菜園からの野菜収穫などを楽しんでいるみたいだ。考えてみれば、彼らはアメリカ横断した寛平ちゃんとほぼ同じ距離を、約半分の日数で完走した計算になる。疲労し切った内臓も今では何とか元に戻ったようで安心している。 話は変わるが、私も妻も最近はグッスリと眠っている。妻の方は夕食後に3kmほど走ることが心地良い疲れとなり、安眠出来るのだと思う。私の疲れの原因は仕事。約3ヶ月間勤務を免れていた第2現場での清掃作業が、今週から始まったためだ。新しい現場では玄関の自動扉や大きなガラス窓、エレベーターの内部、地下室の廊下などの清掃作業を担当することになった。 警備員としての勤務を終え、そのまま帰宅していた3ヶ月間は結構自由に使える時間があったのだが、今はブログの更新がやっと。なかなかブログ仲間のところにお邪魔できないのが現状だ。就寝後はバタンキューだし、日中も眠気が取れなくて困った。今日辺りからようやくペースが掴め、体が慣れて来た感じだ。 降り続いた雨と高温とで、畑の野菜が良く育っている。今収穫出来るのはキュウリとインゲンくらいだが、とても食べ切れずに近所に配っている。今日は久しぶりの青空。これから愛犬との散歩を済ませ、夕方の勤務に就く。同僚が研修のため、早番と遅番の両方を兼務するためだ。暑い暑い金曜日の夜。今夜の先発は目下話題の田中マー君。試合を気にしながらも、仕事はきちんとしないとね。
2009.07.10
コメント(6)
先々週のこと。私は妻に頼まれ、あるビルへ行った。翌日から始まる美術展へ、妻の絵を搬入するためだった。妻は自分の仕事があり、指定された時間に会場へ行くことが出来ないのだ。恐る恐る準備室へ入って行くと、一人の老人が椅子に座っていた。その方が妻達に絵を指導しているM先生。90歳近いようだが、なかなか元気そう。先生は河北美術展への招待画家だがとても気が短く、最近も脱会した人がいると聞いた。 このグループは日曜日に近所の市民センターで絵を習っていて、モチーフは静物が中心。妻は入会後10年近くなるだろうか。お年寄りの会員が多く、準備のために集まって来たのもほとんどが高齢の方だった。先生の指示を受けながらパネルを組み立て、フックを装着し、絵を固定してタイトルを張るお年寄り達。どうやら作業には慣れてない様子で動作が遅く、素人の私でも結構役に立った。作品数は全部で50点にも満たないのだが、美術展当日になってもまだ準備作業を続けていた。 昨日は別な会場へ妻の絵を引き取りに行った。いわゆる搬出作業だ。こちらは郊外へスケッチに行き、もっぱら風景画を描いているグループ。メンバーは河北美術展に入選する実力者ぞろいで、堂々たる作品が多い。今回は初代会長だったK先生の生誕120周年と第40回記念を兼ねた美術展で、NHKや地方紙で取り上げられたこともあり、約2200人の入場者があった由。 妻の絵は3点で、いずれも10号以下の小品だ。家で見慣れているため、離れていても直ぐに分かった。撤収の前に事務局長から作業の進め方についての説明。こちらは何度も経験を積んでるだけに作業が早く、30分ほどで150点もの作品が撤収された。妻の絵を3点とも全て持ち帰るのだと思っていたのだが、うち1点にオレンジの札。 どうやらK先生の故郷であるO村の「ふるさと美術館」で、引き続き開催される記念美術展に行く30点の中に選ばれたようだ。さて、しっかり縛った2点の絵を苦労しながらバス停まで運び、バスを降りてからも1kmほどの道のりを喘ぎながら運んだ。額縁に入った絵はずっしりとして重たい。帰宅後、1点はO村行きになったことを告げると、妻は大喜び。その作品が1番好きだったようだ。 今回作業を手伝った際に、他の美術展も幾つか観た。その中で上手だと感じた絵はやはりどこかが違う。題材の選び方、デッサン力、自分なりの色遣い、長時間をかけての描き込みなどだ。とても老後の手慰みとは思えない芸術作品の数々。彼らの情熱は一体どこから来るのだろう。仕事を辞めたら妻が絵を描く時間がもっと増えるのだろうか。ふと、そんなことを考えた私だった。
2009.07.09
コメント(6)
< 栄華の跡と映画のロケ地 > 酒田市の山居倉庫へ向かう途中、バスの中から旧本間家の住宅が見えた。付近には本間美術館もあるようだ。本間家はかつて「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に」と歌われた江戸時代の豪商で、酒田周辺に3000町歩の田畑を有していたと言われている。藩主酒井氏から300石取りの士分として扱われていたが、住まいは旗本2000石格の屋敷だったようだ。 本間家が栄えた理由は西回り船での貿易。つまり最上川を下って酒田港に集まった米や紅花、青麻などを大坂や京都に運んで莫大な財をなしたのだ。本家は佐渡にあり、酒田の本間家はその分家の由。近隣の藩への財政的な影響も大きかったようだ。 間もなく山居倉庫へ到着。瓦葺の古めかしい倉庫がずらっと並んでいる。その数12棟。かつては15棟あったようだ。直ぐ傍を川が流れている。私はてっきり最上川の河口だと思っていたのだが、目の前の川は新井田川で倉庫があるのは最上川との境にある中洲。堅い木を打ち込んで基盤とし、石垣を築いて船着場を作ったようだ。 この倉庫が建てられたのは明治26(1893)年。今から116年も前のことだ。建てたのは藩主の子孫の酒井氏とのこと。てっきり本間家が関係してるとばかり思っていたのだが、意外な結果だった。集積した米の品質が変わらないよう屋根を二重にして通気性を保ち、冬季の風除けと西日対策を兼ねて海側にはケヤキの大木を植えてある。 その見事なケヤキ並木と倉庫群は、あの有名なドラマ「おしん」の撮影現場にもなったとか。この倉庫はまだ現役で、現在は地元のJAが米などの保存用に使用しているようだ。元々の港である宮野浦は最上川の河口にあったが、上流から大量の砂が堆積してここに移された由。それでも江戸時代の港の様子を十分に窺い知ることが出来た。 酒田から積み出された米は天下の台所だった大坂を潤し、頬紅や高貴な染料の原料だった紅花はさらに淀川を登って京に運ばれたのだ。当時の最上川は文字通り交通と運搬の要として機能し、中流の戸沢には密輸がないよう、舟番所を置いていたようだ。妻も私もこの趣深い倉庫に十分満足することが出来た。 バスは酒田から鶴岡へ向かった。その車中から鶴ヶ岡城跡の鶴岡公園や、藩校だった致道館が見えた。この鶴岡藩は、藤沢周平の小説に登場する「海坂藩」のモデルでもある。また最近では、アカデミー賞を受賞した「おくりびと」のロケ地にもなった。途中「庄内おばこの里」で天ぷらを買った。ツアーの夕食に蕎麦が出る。多分ザル蕎麦だろうと読んでのことだ。やはりこれが正解。私と妻だけが「天ぷら蕎麦」で旅を締めくくったのだった。<完>
2009.07.08
コメント(6)
< 歴史の旅は続く > 散策として許された時間が、後25分ほど残されていた。このまま駐車場へ引き返すのは勿体無いと思い直し、参篭所で神職の方に、登山道路をさらに登って反対側の木道を25分で駐車場まで帰れるか尋ねた。だが30分はかかるし足元が滑るためこのまま戻った方が良いとの返事。残念だが諦めて下山することにした。 どうやら私は地図の観方を間違えていたようだ。慌てて見直すと確かにかなり遠回りで、方角も全く違っていた。てっきり月山頂上は西の方にあると思っていたのだが、帰宅後道路地図で確認したら8合目からほぼ真南の方角に月山は位置し、スキー場はさらにその南側にあった。 湯殿山神社から月山神社への山道も確認できた。今は登山道であるその道も、かつては山岳宗教の修行の道だったのだろう。そういえば映画「剱岳 点の記」で、測量隊が「初登頂」した際に、昔の修験者が残した錫杖を発見するシーンがあった。加賀の白山もそうだが名峰の誉れ高い山はほとんどが山岳信仰の対象で、太古からその頂上を極め一歩でも神に近づこうとしたのではないだろうか。 駐車場まで降りると、宮城県石巻市の登山グループが月山に登る準備をしていた。こうして初めての月山行は終わりを告げた。下山するバスの中で予め添乗員さんが配ってくれていた弁当を食べた。作ったのは一流の弁当屋さんだが、内容は極めて貧相。まあ料金が料金なので仕方がない。ローカロリーでヘルシーな弁当もたまには良いと思い直す。 麓まで下りると、そこが羽黒山だった。頂上には出羽三山神社が鎮まっているようだ。月山は1984m、そして湯殿山は1500mの高山。老人が登って参拝するのは困難だし、まして冬季はとても無理だ。きっとそのためにそこから遥拝出来るようにしたのだと思う。 バスは秋田山形県境に聳える鳥海山の南麓目指して北上する。鳥海山は2286mの独立峰。日本海のごく近くに聳える美しい火山で、山頂には大物忌神社が鎮座する由。古代の人は火山の噴火をとても恐れた。噴火を蝦夷の蜂起の徴(しるし)だと都人は信じていたからだ。だから山頂、中腹、そして麓にそれぞれ神社を置いて、噴火を抑えようとしたのだろう。その峰が、今はすっかり雲に覆われている。 バスは何の変哲も無い駐車場に止り、私達は小川に沿って山道を歩いた。ものの10分ほどで小さな村社に着く。高さ62m、幅6mの玉簾(たますだれ)の滝がその先に見えた。滝つぼの直ぐ傍まで行ってみる。頼りない水量の優しげな滝。冷たいしぶきが心地良い。マイナスイオンが発生しているのだろうか。滝つぼ周辺に小さな虹がかかっていた。 滝の傍には旧庄内藩の女流歌人が詠んだ歌碑があった。江戸時代、女性が旅する範囲はとても限られていたのだろう。そして古代の人々は、滝の音を神のお告げと信じていたのだと思う。有名な熊野那智大社の本来の御神体は那智滝そのもののようだし、シーボルトが長崎で寄留したのが「鳴滝塾」だった。 初めての月山へも少しだけだが登ることが出来た。そして「おまけ」の滝も見た。最後に寄るのが酒田市にある山居倉庫。写真で見たことがあるし、「鳥海山登山マラソン」へ向かう車中から、一度だけちらっと倉庫を見かけたが、果たしてどんなところなのだろう。その途中で、意外なものをたまたま見つけた。「城輪柵跡」の案内標識だ。そこから4km西にその遺跡があるようだ。 城輪柵(きのわのさく)は古代の城跡。陸奥国から分国した出羽国の、当時大和朝廷として最前線の城がここにあったのだ。直ぐ傍には一時出羽国府が置かれていたとも言う。やがて秋田まで勢力が伸びると、この城も国府も存在の必要性を失ってしまう。古代の日本海側の歴史をほんの少しだけ垣間見た気がした。<続く>
2009.07.07
コメント(8)
< 月山道路と月山 > 待ち合わせ場所でバスを待つ。塩竃方面からスタートした2号車は少し遅れて着いた。前日の印象があまり良くなかった添乗員さんは、初めて見る人だった。今日は同じ会社のバスが全部で5台出ている由。やはり安値が魅力だったのだろう。東北道から山形道へ入る間も私は新聞を読み続けていた。そのせいで何時山形市内へ入ったのかも気づかなかった。 平成9年から4年間、私は仙台の自宅から山形へ通勤しており、沿線の風景には慣れ親しんでいたのだが、車窓に目をやった時には既に寒河江市周辺。かつてはそこが終点で、その先はまだ工事中だった。結構険しい山道を削って作られた高速道。眼下にダム湖の湖面が光る。 山形県中央部の村山地方から日本海側の庄内地方へ抜けるには、2つのルートがある。1つは最上川沿いに進む平野部の道。そして月山の脇をすり抜ける国道112号線。前者はほぼ平坦だが距離が長く、冬は地吹雪が凄い。後者は通称月山道路と呼ばれ、厳しい山岳地帯を抜ける近道だ。山形の厳しい道路事情を考えると、やはり高速道路の開発は必要だと感じる。車が必需品の土地柄なのだ。 その高速道も工事が未完成のため、途中から月山道路へ出た。やがて湯殿山への分岐点が見えた。そこから月山へ向かうとばかり思っていたのだが、どうもそうではないようだ。名前は「月山道路」でも、月山への近道ではなかったことを今回初めて知った。 月山と聞いて思い出すのは何だろう。先ず夏でも白い雪を戴く高山で、夏スキーの名所であること。頂上に出羽三山の一つである月山神社があること。昔から聖なる山として修験道の修行地だったこと。付近のお寺にはミイラとなった即身仏があること。森敦の小説「月山」がかつて芥川賞を取ったことぐらいだろうか。 バスは再び高速道に入り、直近のICから一般道へと降りた。もうここは未知の道。旧櫛引町を過ぎて右折し、一旦東に向いてから林道のような細い道を登り出した。どうもそれが「月山高原ライン」と呼ばれる道路のようだが、すれ違うのさえ非常に困難な山道。そこを路線バスが走っているなんてとても信じられない。 運転手さんが1回では曲がり切れないヘヤピンカーブが続き、時々自家用車が道を譲ってくれる。やがて5合目付近まで来た時にバスが止まった。運転手さんが何かを話している。どうも8合目の駐車場から観光バスが2台下りてくるようだ。途中ですれ違えないために、ここで暫く待機する由。下界では晴れていた空が、急にガスがかかって暗くなる。やはり山の天気は違う。 弁当は8合目で散策した後で配ると添乗員さん。それでは腹が空くため、家から持って来たお握りを食べることにした。苦労の末に着いた8合目駐車場は結構広く、急に視界が開けた感じだ。添乗員さんがくれた地図は、上の方向が月山頂上だ。散策の時間はかっきり40分。行っても月山中の宮までで、必ずそこから引き返すようにとの厳命。トイレにも寄らず、急いで木道へと向かった。 咲いてる花は少ないと聞いていたのに、何とニッコウキスゲの黄色い花々が目の前に。そしてサラサドウダンに良く似たウラジロヨウラクの可憐な花も。ピンクの花はハクサンチドリか。小さな池塘(ちとう)の水は澄み、空の雲を映していた。ここが弥陀が原。ワタスゲが稲のようにも見えるため御田原と書いて「みたがはら」とも言うようだ。 良く整備された木道を登って行くとやがて登山道へ出、間もなく小さな社が見えて来た。これが月山神社の中の宮だった。駐車場を出発してわずか12分後。あっけない幕切れだった。私も妻も結構健脚な方。一番乗りでここまで来てしまった。神社では参拝客が神職の御祓いを受けている。どうやら亡くなった家族の供養のようだ。月山神社の主たるご祭神は月読命(つくよみのみこと)。これは黄泉の国(あの世)を支配する神だ。つまり月山は死者を悼む霊山だったのだ。<続く>
2009.07.06
コメント(4)
< バスツアーの条件は > 車の無い我が家では、良くバスツアーに行く。と言っても、かなり価格が安いお得なものばかり。まあ月に1回くらいは女房に付き合って、ちょっとした旅行に行くのも良いものだ。ツアーを選ぶポイントはいろいろある。例えば食事や食べ物の内容、温泉に入れるかどうか、目ぼしい観光スポットは何か、そして散策時間が組まれているかどうかなど。 食べ物中心だとグルメツアーや果物狩りなどがある。東北は温泉が多く、いろんな温泉に入れるツアーが組まれる。最大の関心事はまだ行ったことのない観光地を訪ねることだろうか。そして散歩出来るようなプランがあればなお嬉しい。 あれは確か5年ほど前だと思うのだが、月山のお花畑ハイキングツアーを募集していたことがあった。喜んで申し込んだのだが結果は不成立。確か5時間ほど自由時間があったはず。今にして思えば8合目から頂上まで登山可能なコースだったのかも知れない。バスツアーの主たる客は年配者。お金はほどほどに持っていて、時間は十分ある。だが足元が少々覚束ないのが難点か。 そんな要素を秘めたバス旅行が成立するかどうかは、偏に旅行会社の企画力による。今回のツアーは月山散策と滝と有名な酒田の山居倉庫を見るというコースで、4千円に1円届かない料金。それで昼は弁当、夜は山形名物の蕎麦が出るという超安値ですぞ~。何とか1度は月山に行きたいと思い、かなり早めに申し込んだのだがその後何の音沙汰も無い。やはり今回も不成立かと諦めたころ、振込み用紙が届いた。 そして旅行の前日、担当する添乗員から集合場所などの連絡。その対応が少々気になった。どうも自分のペースで一方的に話す人のようだ。梅雨時でもあり天気が心配。太平洋側の平野部にある仙台と、奥羽山脈を越えた山形の天気は異なることが多い。まして1400m近い月山の8合目では、天候によっては寒さを感じるかも。初めて行く山なので、果たしてどんな服装で臨めば良いか皆目見当がつかなかったのだ。 このため添乗員さんの話を良く聞いて判断しようとしていたのに、旅に慣れっこの彼女にはそんな気配がほとんど感じられなかった。それでも幾つか分かったことがある。月山での自由時間はわずか40分であること。8合目で降りて歩くのは木道。足元はさほど悪くはない。旅行会社から送られて来た案内には、全くそんなことは書かれていない。やはり確かめて良かった。念のため、ビニール袋を加工して足元が濡れない工夫をしてみた。折り畳み傘は必携。そしてビニール製の簡便な合羽も持とう。それで何とか行けるはず。 旅行当日の朝は生憎の雨。いつも通り愛犬と朝の散歩を済ます。朝食後、妻は少し早めに家を出た。最寄の集合場所まで私と一緒に歩くと遅れることを心配したようだ。幸い雨は上がった。せっかく用意した「足濡れ防止用袋」のお世話にもならずに済みそうだ。いつもと違って愛犬が大人しく見送ってくれた。急いで妻の後を追う。<続く>
2009.07.05
コメント(10)
今日は妻と共にバス旅行へ行って来ます。行き先は山形の月山など。8合目(1300m台)の木道を歩いたり、酒田の古い倉庫群を観たりと、結構盛りだくさんの見所があるコースなんですよ。昼は弁当が出るし、夜は山形名物の蕎麦が出るとか。それでも料金はとっても安いんです。 唯一の心配は天気かな。今も雨が降っています。山形は仙台よりもましなようだけど、何せ山の上に行きますからどうなりますか。そして帰りも結構遅くなります。そんなわけで、今日は簡単な日記になってしまいました。きっと皆様のところへお邪魔することも無理なように思います。バス旅行の細部については明日にでも紹介しましょう。では、皆様も良い休日を。行って来ま~す。
2009.07.04
コメント(12)
久しぶりに明るい空が戻った。今日の仙台は梅雨の中休み。だが疲れを感じたため、勤務後はバスで帰宅した。昨日から7月。今年も半分が終わった。6月末の株主総会で人事案が通ったのか、勤務するビルでも役員の顔ぶれが少し変わった。そしてその役員を送り迎えするハイヤーも増え、新しい運転手さんが来るようになった。 3月まで第2現場として勤務した隣のビルでは、目下取り壊し作業が進んでいる。外壁には防音幕が張り巡らされ、ビル全体に鉄骨の足場。ビルの中では地下駐車場やボイラー室の機械類を取り外しているようだ。4月以降次の第2現場が決まらずに、私は10時になると帰宅していたが、最近はそれでも疲労感を覚えたほどだ。 昨日は第1現場の管理会社が主催する「安全大会」に出席した。その中で私が応募した「安全標語」入賞の表彰式があったためだ。形式的な挨拶と表彰。そして講師による安全に関する講話と職場における安全確保をテーマにしたビデオを鑑賞して解散。とても退屈な時間ではあったが、これもまた一つの仕事には違いない。 この会には上司である所長が臨席していた。そこで第2現場のことを尋ねてみた。もう3ヶ月以上仕事をしないで毎日1時間分の手当てをもらっていることに気がねしていたためだ。直近の雇用契約更新時には、勤務時間を短縮されることも覚悟していた。さすがに所長もそろそろ限界と思ったのか、来週から仕事する予定のビル名を上げた。そんな訳で、次の月曜日には上司と一緒に新しい現場のビルへ挨拶に行くことになった。 表彰式を終えて帰宅するバスの座席で、先刻頂戴した優秀賞副賞の包装紙を破った。現金と聞いていたため、それなりの期待もあった。だが、中身は何と「グルメカード」。あらら。全然聞いていたことと話が違う。それも5千円分とはねえ。気を取り直して仙台で該当する店を調べる。ところが唯一使えそうなのは中華料理店1箇所だけだった。う~む。かくして現金1万円ゲットは無残にも夢と消えた。 話は変わるが、私がいない時に係長から同僚へ電話があったそうだ。「優秀事業所として表彰するので、改善提案書を出してほしい」と。話の趣旨では、この春労働災害に関して私が書いた論文が県内3位に入賞したり、今回契約先から安全標語で表彰されたことが関係してるようだ。それなら何故直接私に言わないのだろう。それに「表彰するから何か提案しろ」とは、本末転倒ではないか。 この第1現場は、前任の主任が苦労の末契約した新規開拓物件で、特に改善提案すべき不都合な箇所はない。たとえ無理矢理「改善提案」を作って採択されても、その報償はわずか千円。同僚には「話の趣旨が分からない」と伝え、暫く放っておくことにした。私達警備員が働いているのは、表彰されるためではない。決められたことを日々着実に実施し、それが評価されるなら嬉しいのだが。 今回いただいた「グルメカード」は妻の誕生日に使わせてもらい、夕食を食べに行こうと思う。たまたま提出した標語が思いがけず入選した今回の「事件」。6つの標語を提出し、既に千円分の図書カードをもらっている。それだけで十分と感じていたのだから、ここは素直に喜びたい。 参考までに入賞した標語を紹介しておこう。自分としては他の標語の方がもっと優れていると思うのだが、感覚は人それぞれ。どこがどう良かったのかは自分では分からない。○ 何気ない 場所も油断で事故のもと ビルの内外 目を光らせて
2009.07.03
コメント(10)
つい最近「右肩上」と言うしこ名の力士が誕生したとか。読み方は「みぎかたあがり」。きっとしこ名のように勝ち星をたくさん稼ぐことだろう。力士の名は兎も角として、日本の人名や地名には結構難解なものがある。現職の頃の商売道具の一つに「難読姓氏」と言う本があった。文字通り珍名をどう読むかの手がかりになるものだ。 その一例が属。これは「さっか」と読む。「さっか」さんが作家とは限らない。元々は古代の職名。つまり守(かみ)、介(すけ)などの下に置かれた属(さかん)の音が変化したものだ。古代の名前に「部」がつく、いわゆる部民(べのたみ・ぶみん)がいた。忍者ハットリ君の服部も元の読み方は「はとりべ」。天皇の着る服を作る係りだった。我が家の姓である阿部は元々饗部(あえべ)から来ている。これは天皇の料理番。 大化の改新で殊勲を立てた中臣鎌足は、天皇から藤原の姓を賜った。都が置かれた藤原京に因む姓を戴いたこの名門貴族は、他の有力氏族を追い払って栄える。だがあまりに一族が増え過ぎたため、区別する必要まで出て来た。そこで武蔵国の藤原氏を「武藤」と呼ぶことにした。この例に従えば安房国は安藤氏で、以下伊藤(伊豆国)、遠藤(遠江国)、尾藤(尾張国)、近藤(近江国)、紀藤(紀伊国)、加藤(加賀国)となる。 鎌倉の頼朝から陸奥国留守職を命じられたのが伊沢氏。だがその後、職名をとって留守氏を名乗る。留守氏は伊達氏に敗れやがて伊達の一門となる。実は留守氏も伊達氏も藤原氏の末裔。陸奥国一ノ宮である塩竃神社には、両氏が藤原姓で奉納した書状が残されている。 伊達の元々の読みは「いだち」。それが「いだて」と変わり、江戸時代に入ってから「だて」に落ち着く。ローマ教皇に送った手紙の署名も「Idate Masamune」となっているそうだ。 沖縄の姓について補足しておきたい。、中国の柵封体制下にあった琉球は、王も中国に通じる一字の尚(しょう)を名乗り、進貢船に乗り込む臣下にも中国風の別名があった。第一琉球王朝の末期、幼い王の後見人となったのが金丸(かねまる)と言う宰相。だが彼は幼い王に代わって自らが王位に就いた。いわゆるクーデターだ。名乗った王名が尚円。丸は円に通じるからか。 昨日も書いたが、第一琉球王朝の墓は旧玉城村の仲井眞にある。この仲井眞は中山王の中山に通じると書いたが、ひょっとしたら前王が王位を去る際に与えられたのが仲井眞姓だったのかも知れない。なお沖縄には源氏との戦に敗れた平家が逃れて来たと言う「南走平氏」伝説が伝わっている。姓としては平良(たいらまれに平)、源河(げんか)があるが、平家や源氏に因む姓かどうかは不明だ。 琉球王朝時代の貴族の姓は治めていた間切(まじり=現在の市町村)の名を用いるのが普通。だから任地が変われば姓も変わる。変わらないのが名乗り頭(なのりがしら)で、貴族の場合は名の先頭に「朝」がつく。これは源氏や平家などの武士が「○○の朝臣(あそん)某」と名乗った「朝」と同じ意味と言われている。そして侍(さむれー)の場合は特定の漢字が名乗り頭で、一門は共通に用いる。だから沖縄の死亡広告を見れば、親戚関係が一目瞭然で分かる。 最後に沖縄の姓や地名の問題。さて次の名をどう読むか。答えは下にあります。さて、いくつ読めるかな。1)勢理客 2)瑞慶覧 3)渡慶次 4)大工廻 5)仲村渠 6)越来 7)平安山8)伊集 9)保栄茂(地名) 10)座津武(地名)1)じっちゃく 2)ずけらん 3)とけし 4)だくじゃく 5)なかんだかり 6)ごえく 7)へんざん 8)いじゅ 9)びん 10)ざっつん 実に不思議でしょ?
2009.07.02
コメント(8)
昨夜東北楽天は日ハムと対戦し、1-3で敗れた。これで貯金は0。エース岩隈の不調が長引いていることもあって、これからも苦戦が予想される。さて、私はプロ野球の話をしようと言う訳ではない。プロ入りしてから初めて勝ち星を挙げた日ハムの糸数投手の名前が今日の話題だ。 彼の名前を聞き、直ぐに沖縄出身の人だと分かった。かつて沖縄に3年間勤務した私は、名前を聞いただけでおおよその見当がつく。それだけ沖縄の姓には特徴がある。金城、具志堅、渡嘉敷、知念などの姓を一度は聞いたことがあると思う。沖縄の姓は大抵同じ地名があることも特徴。 糸数は旧玉城村(現南城市)の小さな字名だが、彼は宜野湾市の中部商業高校卒業のようだ。その糸数には糸数城と言う小さな城がある。崩れた石垣しか残っていない寂しい所だ。また近辺には自然石のアーチを持つ玉城(たまぐすく)と言う神秘的な古城があり、原始神道の信仰の対象になっている。 また仲井眞グスクと呼ばれる第1琉球王朝のお墓も近い。城、つまり沖縄の「ぐすく」には、城郭だけでなく聖地やお墓と言う役割もあった。内地でもお墓のことを奥津城(おくつき)と丁寧に呼ぶことがある。「土で出来た防御施設」が漢字の「城」の本来の意味だと思うので、日本も沖縄も共通の語源を持っていたのではないだろうか。 沖縄県知事の姓は仲井眞(なかいま)。おそらく本来は中山(なかやま)姓だったと思われる。かつて戦国時代の沖縄本島は、北山、中山、南山の3つの王国に分かれていた。それを統一したのが中山王(ちゅうざんおう)。つまり王の名と同じ字では恐れ多いため、音が似ている仲井眞に変えたのだと思う。そのような例は日本でも数多く存在する。 また江戸時代初期の慶長年間、琉球王国は島津藩に侵攻されその支配下となった。島津は内地人と現地人を区別するため、似ている姓の場合は琉球姓の漢字を強引に変えさせた。その一例が、中曽根→仲宗根、田中→田仲、中西→仲西、松村→松茂良だ。 内地に帰ってからも、沖縄らしい姓の人に出会うと気になった。宮里さん、大里さん、嘉数(かかず)さん、大城さん、米須さんらがそれらの方。先日はブログで「とうまジィ~ジ」さんのお名前を見つけ、ひょっとして沖縄の當間さんかと思ったのだが、実際はお孫さんの名前で大変失礼してしまった。因みに逮捕された芸能人の羽賀研二の本名が確か當間姓だ。 さて、転勤で全国を歩くと、その土地独特の姓があることを知る。愛媛県では忽那(くつな)、二神(ふたがみ)姓。茨城県では沼尻や川又姓。我が宮城県にも例の耐震偽装で有名になった姉歯(あねは)と言う珍しい姓もある。愛媛で桑折(こおり)姓の看板を発見した時は驚いた。多分宇和島伊達藩の藩士の子孫の方だと思う。伊達氏の本貫である福島県伊達郡の地名が由来の姓だからだ。 話は変わって平成の大合併後、これまでの地名がかなり消えた。新しく名づけられた市は合成された名が多く、昔の地名を推測する手がかりにもならずに困っている。さて横綱審議会委員である内館牧子さんは、金沢で復活した歴史的な町名は主計町(かぞえまち)など2箇所だけで、我が郷里仙台にはまだまだ由緒ある町名が残されていると新聞に書かれていた。 そう言われてみると確かに荒町、材木町、木町、穀丁、二百人町などがある一方、既に消え去った石切町、鍛冶町、鉄砲町などのかつての町名には、えも言われぬ風情が漂っていた。人名にしろ地名にしろ、名前は昔からの謂れを知る重要な手がかりになる。今になって見れば、つくづく勿体無いことをしたと思うのだがどうだろうか。
2009.07.01
コメント(4)
全31件 (31件中 1-31件目)
1