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< 無人のテント > 12時23分。安田(あだ)入り口到着。ここから海岸にある安田集落までは険しい山道を4kmほど往復する必要がある。そこまで行けば何か食料は手に入るだろうが、今はそんな余裕はない。三叉路の傍に「ヤンバルクイナ飼育場」の看板。国の天然記念物であるヤンバルクイナは飛べない鳥で、道に出て来て車に轢かれたり、マングースに襲われて死ぬケースが増えているようだ。きっと飼育場では、怪我をしたヤンバルクイナの保護と増殖を手がけているのだと思う。 暫く行くと合羽を着、長靴を履いた小父さんが道端に立っていた。思わず「何をしてるんですか?」と尋ねると、「マングースの調査」がその答え。猛毒のハブを撲滅するため沖縄に導入したマングースが、予想に反して無防備なヤンバルクイナを餌食にしたため、貴重なクイナの生息数が激減したのだ。やはり人間の考えることにはどこか手抜かりがあるのだろう。 雨の中を再び走り出す。奥を基点とした県道70号線の路傍には、100m毎に奥からの距離が書かれている。それに辺戸岬からの9kmを足すと、これまでに走った距離が分かることに気づいた。間もなく2つ目の石碑。今度は開放してもらった国有地を開拓して農地にした記念碑だった。これは日本復帰後の話のようだ。広い畑に緑の植物が並んで植えられている。酸性土壌に強いパイナップルだ。 坂道を下ると小さな入り江と集落が見えた。13時23分、安波(あは)集落到着。ここが約29km地点。道端に腰を下ろし、稲荷寿司2個と魚肉ソーセージを食べた。安波川に架かる橋の上から下を覗いているお婆さんがいた。何を見てるのか尋ねると、透明な川の水に見とれていたのだとか。 お婆さんに2つ目の質問。それはスタート後からずっと見かけていた花の名。答えは芙蓉だった。そう言われてみれば確かに芙蓉。ただ、園芸種ではなくほとんど野生に近い種類だと思う。ここは大きな集落ですねと言うと、次の高江も大きいとの返事。そこは隣村の最初の集落で、ここから山を越えたずっと先にある。坂から振り返ると安波は100戸ほどの集落だった。 ヤンバルの東海岸は、かつて倭寇の基地だったとの説がある。九州の海賊が遠く中国周辺まで荒らしに出かけたのだろうか。先ほど通った楚州(そす)などの言葉が、沖縄の他の地区と異なるのは、ひょっとしたらそんなことが原因かも知れない。 東村との境界まで約8kmの登り坂。その境界に14時58分到着。長い長い国頭村(くにがみそん)をようやく通過することが出来た。ここまでで37km走った計算。坂を下って行くと、間もなくテントが見えた。その向かいにはツタで覆われた小屋もある。どうやら車中Mさんから聞いていた基地反対派のテントのようだ。中に目つきの鋭い男が1人居て、雨の中を走る怪しいヤマトンチュー(日本人)を睨むかのようだ。 米軍海兵隊普天間基地のヘリコプターをここに一部移転して、「ヘリパッド」を建設する計画のようだが、テントはそれを牽制する狙いがあるのだろう。Mさんの話だと反対派はかなり強硬と聞いたが、雨の土曜日とは言えたった1人の見張りではどうしようもない。 暫く先に、海兵隊演習場への入り口があった。ここがジャングルでのゲリラ戦の訓練場。堅く閉ざされたゲートの中に停まる3台のジープ。だが米兵の姿は見えない。それから5kmほど下ったところにも反対派のテントが張られていたが、ここも無人だった。長い長い坂道を海に向かってどんどん下る。<続く>< 11月のラン&ウォーク >月間ラン回数:9回 うちレース:ジャーニーラン1回 月間走行距離:280km ウォーク回数:毎日 ウォーク距離:197km 月間距離合計:477km 年間走行距離:2313km 年間距離合計:4308km これまでの累計:69、730km
2009.11.30
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< 楚州の小母さんと那覇の小母さん > 糸満のランナーは今日のゴールは奥集落と話していた。1回につき15、6kmとも言っていたけど、今日はどこから走り始めたのだろう。だが間もなく奥さんの待つ場所へゴールする彼と、この先まだ60km以上未知のコースを走る私とでは条件があまりにも違い過ぎる。今は自分のレースに集中することしかない。相変わらず風が吹いて体が冷える。 10時40分。右手に小さな集落が見え出した。伊江(いえ)は家が5軒ほどしかない淋しい集落だった。走っていて何かを蹴飛ばした。コロコロと転がるものを見ると、フクギの実。フクギは屋敷の防風用に植えたのだろう。沖縄の代表的な織物である紅型(びんがた)の黄色い色は、この木の樹皮を使うと聞いたことがある。 11時ちょうど。楚州(そす)集落に到達。ここまでがようやく16.2km。まだそんな距離かとがっかりするが、この悪条件だから仕方がない。手に持ったスポーツドリンクが飲んで無くなったため、新しいのを買おうとお金を入れるが何度も戻ってしまう。仕方なく隣の店に入って事情を話した。「中が空じゃないかな」と小母さん。きっとここで買う人が少ないため、業者も補充に来ないのだと思う。 小母さんの店でシークァーサーのジュースを買った。これは沖縄ではレモンに当たる果物で、とてもビタミンが豊富な飲み物だ。宮城県から来たと小母さんに話すと驚きの表情。彼女も私がヤマト(内地の人)だと言うことは、顔を見て直ぐに分かったはず。軒先で雨宿りをしながら、お握り1個と蒸しパンを食べた。朝食から既に4時間を経過。ここは早めのエネルギー補充が必要だ。 食事を終えてふと見ると、小路の奥に拝所(うがんじゅ)が見えた。近寄ると貧弱な香炉がある。きっと長い間、この集落の繁栄を祈った場所なのだろう。ここ楚州は沖縄でも言葉が他とは違うと言う研究があることを聞いていた。そういえば小母さんの容貌もどこか中国人に似ているように感じた。お礼を言って再び雨の中を走り出す。 坂道を登りながら集落を振り返ると、わずか10軒ほどの戸数。しまった。とても大事な忘れ物をしてしまった。よほど引き返そうと迷ったが、そうすればさらにホテルに着く時間が遅くなる。ここは諦めて前進するしかない。 私が一瞬迷ったのは、この楚州(そす)集落出身の小母さんを1人知っていたからだ。那覇の国際通りから少し入った市場のお菓子屋さんで、昨年偶然話をした時に知り合ったのがその人。たまたま「楚州を知ってますか」と聞かれたので、「知ってるよ」と答えた。そんな小さな集落名を知ってる内地の人はまず居ない。私が3年間沖縄で勤務していたため、たまたま知っていただけだ。 それがまさかこんな小さな集落だったとは。僅か10軒ほどの集落なら、店の小母さんも那覇の小母さんのことは良く知ってるはず。そう思うと、何故那覇の小母さんのことをあの時に思い出さなかったのか、とても悔やまれた。話せばきっと懐かしがるだろう。そしてヤマトのランナーが話す偶然の物語にも、相当驚いたことだろうに。 山道を登ると前方に2基の風力発電機が見えた。強風なのにプロペラがさほど回転していないのは、きっと風向きが違うのだろう。さらに進むと右側に石碑。近づくと「伊部岳演習阻止記念碑」とある。昭和45年に突然米軍がこの周辺で実弾演習を開始すると宣告したのに対して、3つの集落から住民が集まり、体を張って抵抗した結果、米軍は已む無く引き返したとある。住民数など知れたものだから、彼らの必死さが伝わって来る。まだ日本復帰前の話だ。 12時に伊部(いぶ)入り口に到着。被っていたビニール袋を脱ぎ、ピーナツ煎餅を食べる。目前のホテルは倒産したようだ。これは銀のねこさんが教えてくれたジョギングシュミレーターの地図にも載っていた建物。だがこんな過疎地での「体験ファーム」とホテル経営には無理があったのだと思う。スタート後、ここまで約25kmで残りは51km。まだまだ前途は遠い。後で計算した結果、先ほど出会った糸満のランナーの今日のスタート地点が、この場所だったことが分かった。<続く>
2009.11.28
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< 海の上の1本の線 そして思いがけないランナー > 林の奥から突然ウグイスの鳴き声。11月のウグイスはあまり歌が上手ではないようだ。スタートして8km近く、ようやく山荘への入り口が見えた。懐かしく思い起こしながらその横を通過。右手の深い谷底から今度はせせらぎの音。道は下り坂になった。前方に何やら横たわる物体。近づくと死んだ蛇だった。走ってまだ間もないと言うのに、早速ハブにお目にかかるとは。 やはりこの時期にもハブが活動してるのだ。そして、道路上に出没することも分かった。これはよほど注意しないと。一気に高まる緊張。次に小さな黒い物体が道路を横切るのが見えた。これは一体何だろう。形から言えばサンショウウオかイモリかアカハラ。車が通ったら轢き殺されてしまうだろうに。亀は見なかったが、やはりこの辺りは小動物が多いようだ。 9時30分。坂を下り切った左手に集落が見えて来た。戸数は20戸ほどか。何とも清らかな家の佇まい。庭には青い実をつけた数本のパパイヤ。ここ沖縄ではパパイヤはまだ青いうちに実を取り、野菜として食べるのが普通。千切りにし、油で炒めたりサラダとして食べるが、とても淡白な味だ。 海が見える。風に煽られた青い波。その海には1本の見えない線が引かれている。ここ奥集落は国道58号線の沖縄の基点。ご存知の通り、国道は2つ以上の都府県をまたぐものと決められている。沖縄が日本に復帰する際、道路を整備する上で問題になったのがこの法律だった。困った建設大臣は地図を取り出し、海の上に赤鉛筆で線を引いたとか。鹿児島から沖縄までが1本の国道でつながった一瞬だった。開発が遅れていた当時の沖縄を物語るそんなエピソードを思い出した。 海岸部は強風が吹き荒れ、濡れた体が一気に冷える。前方に亀の形をした東屋が見えた。そこで初めての休憩。テーブルにリュックを置き、取り出したビール袋を頭からすっぽり被る。至って簡便だが、これで風による体温の低下を防げる。ウルトラランナーの常識だ。それにしてもトレーナーが捨てられているのは何故?誰かがここまで走ったのだろうか。 再び風雨の中を走り出す。案の定体が温かく感じられるようになった。唇から歌が漏れる。「月の砂漠」だった。遥々と1人淋しく旅をする心境が、きっとその歌を選ばせたのだろう。やがて前方から走って来るランナーの姿が見えた。一瞬「ええっ?」と我が目を疑う。沖縄本島最北部の辺鄙な場所。しかもこの嵐の中を走るランナーが私の他にも居たとは。 そのランナーを止めて話を聞く。彼は糸満市阿波根(あはごん)集落の人。そこはNAHAマラソンの34km地点辺りだ。沖縄本島を何回かに分けて一周しているそうだ。走るのは1回につき15km程度。その都度奥さんに車で送ってもらっており、今日は16回目に当たる由。私が辺戸岬から与那原(よなばる)町までの140数kmを2日間で走り、今日はカヌチャベイホテルまで走ると言うとビックリしている。 本島を一周した沖縄のランナーの話を聞いたことがあるが、完走には確か2週間以上かかったはず。仲間の伴走付きで走った後は自宅に戻り、翌日再びゴ前日ゴールした場所から走り出す方法だと思う。そうでもなければとても完走は無理。私の計画は3年越しだが実際に走るのは6日だけ。ただし、本部(もとぶ)半島と勝連(かつれん)半島の45km分(?)は省いているが。糸満のランナーとはガッチリ握手して別れた。しかしこんな場所でランナーと出会うとは、何と不思議な縁なのだろう。<続く>
2009.11.28
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< 雨と風の中の第1歩 > 猛烈な風雨の中をMさんの車は国道58号線を北上する。良かった。これで最悪のシナリオにならずに済んだ。車内が寒く感じ、先ずクーラーを切ってもらう。体を実際の気温に慣れさせるためだ。Mさんとは1年4ヶ月ぶりの再会。去年の西海岸縦断の際も彼には名護のホテルから辺戸岬まで送ってもらった。自宅からの運転は、往復すると200kmを楽に越えるだろう。そんな苦労をしてまでも、彼は私の希望を叶えるために協力を申し出てくれたのだ。 Mさんとは昨年の縦断走のこと、今回の東海岸縦断の計画、職場のこと、かつての走友の消息など時間を忘れて話した。その中で東海岸の狭い道を観光客がかなりスピードを出して走ること、ヤンバル地方では「偏降り」(かたぶり)と言って、雨が集中して降ることなどを教えてくれた。それらは重要な情報として、しっかり頭に入れた。ヤンバルに国営ダムが多い理由もこれで分かった。 国頭村(くにがみそん)辺戸名(へんとな)辺りで1台の軽トラックが前方をノロノロ走っている。「遅いなあ」焦る気持から思わずつぶやくと、Mさんが「少しスピードを上げますか」と訊ねた。「良いよ無理しないで。事故でも起こしたら大変だから」。宜名真(ぎなま)付近でようやく軽トラックは集落へ入った。トンネルを抜けると間もなく岬。車内で上着とトレパンを脱ぎ、走る準備にかかる。いよいよスタートの時が迫った。緊張感が一気に高まる。 8時13分、岬の突端に到着。強風と横殴りの雨が物凄く、どこにも人影は見えない。「これは嵐ですよ。大丈夫ですか?」とMさん。だが今年3月の「八丈島一周」では、風速30mの暴風雨の中で62km走っている。8時18分、記念撮影の後、緊張の第1歩を踏み出す。本当にありがとうMさん。手を振りながら「宇座浜遺跡」を左折し、国道58号線に向かう。だが風が強く、雨に濡れた体が急速に冷えて来た。 これでは最後まで持たないだろう。咄嗟にそう判断して足を止め、アダンの木の下でランニングシャツから半袖Tシャツに着替えた。8時22分再スタート。半袖シャツも直ぐにびしょ濡れ。風がとても寒い。実際の気温は18度くらいだろうが、体感温度は12度を下回っている感じ。国道に出ると樹木が風を塞ぎ、ようやく強風から逃れることが出来た。 道路脇に「ヤンバルクイナに注意」の看板。そして間もなく「動物に注意」の亀の絵。ヤンバルクイナは飛べない鳥で国指定の天然記念物。亀は確かヤマガメの仲間で背中が丸い亀だったと思う。どちらも貴重な種なのだが、道路に出て来て車に撥ねられる事故があるのだろう。標高248mの絶壁の上に辺戸の御嶽(うたき)が見える。沖縄の神であるアマミキヨとシネリキヨが最初に寄ったのが辺戸岬で、御嶽はそれを祀る神聖な場所なのだ。 それにしても最初から道がきつい。自分ではここから下るとばかり思っていたのに、実際は急な登りの連続だった。20年前、かつての職場の駅伝大会で1度走った道なのだが、すっかり記憶が飛んでいる。あの時は全然走っていなかった車が、今日はビュンビュンと何台も通り過ぎる。これは危険かもと、歩道を走ることにした。ところが落ち葉が積もり、コケが生えて足元が滑って危ない。それに枝から枝へクモの巣ばかり。ここは誰も歩く人がいないのだ。慌てて車道に戻った。 法面(のりめん)の土が赤い。これはまるでブラジルのテラロッサだ。側溝の形も何だか不思議。中に緩やかな階段がついている。15km以上走った後に気がついたのだが、確かヤンバルの奥地では小動物が道を横切ろうとして側溝に落ちて死ぬケースが多いと聞いたことがある。その小動物を助けるため、小さな階段をつけた側溝に改良したのだと思う。 かつての職場の山荘がいくら走っても見えない。「変だなあ。こんなに遠かったっけ~?」。風雨が強い中を5kgのリュックを背負って走る登り坂がこれほどきつかったとは。その時後ろから声が聞こえた。Mさんの車だった。私のことが心配になり、わざわざ遠回りになる東海岸経由で帰ることにしたようだ。 「水は足りますか?」。「ありがとう、大丈夫だよ」。「あんな重たいものありがとうございました」。それはお土産として彼に上げた宮城県産の新米のことだ。「気をつけて走ってくださいね」。「ありがとう、Mさんもね」。Mさんの車はさも心配そうにゆっくりと視界から消えて行った。「こんなの初めてですよ」。そう話していた彼。昨年の西海岸縦断もそうだが、東海岸を2日で走るなんて話はこれまで聞いたことがないそうだ。<続く>
2009.11.27
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< 強風注意報発令中の朝 > 翌朝4時頃に目が覚めた。多分7時間近く眠れたはず。天候が気になってカーテンを開けると、強い雨と風になっていた。やはりそうか。すると昨日の鮮やかな夕日は一体なんだったのだろう。でもそれも想定内。気を取り直して走る準備に取りかかる。両膝へのテーピングと股の付け根にワセリンを擦り込む。 着替え、ビニール袋、懐中電灯、ヘッドライト、家から持参した食料、水が入ったペットボトル2本を入れたリュック。そこに裏側に氏名、血液型、住所、自宅の電話番号、妻の携帯電話番号が、表には「東海岸縦断中」と書かれ、反射材を張った「識別票」を取り付けた。また赤色灯も安全ピンで留めた。ポシェットには地図、筆記用具、小銭、塩、飴、アミノバイタルの小袋。それらの大半は雨で濡れないよう、幾つかのビニール袋にしまった。 一応の準備後、傘を差してコンビニに行く。買ったのはスポーツドリンク、お握り4個、稲荷寿司3個、クリームパン1個。それらもリュックに入れると、5kgくらいの重さになった。仙台から着て来た衣類や洗面具など、ランニングには不要な物をスポーツバッグに詰め込み、フロントに行く。今日中に東海岸にあるリゾートホテルに送るためだ。伝票に必要事項を書いて期日指定をし、代金1300円余りを支払う。 部屋へ戻って天気予報を見てビックリ。何と本島北部には強風注意報発令中とのこと。さらに午前中は強い雨の予報。道理で天気が悪かったわけだ。沖縄へ来る前から覚悟はしていたが、いざ本番となるとさすがに堪える。6時40分。ようやく周囲が明るくなって来た。日本列島の西側にある沖縄の夜明けは遅いのだ。 荷物を持ってレストランに行く。一日中、風と雨の中を走るのだ。せめて朝食ぐらいはしっかり摂っておきたい。だが、そろそろ友人が迎えに来る時間。慌てて大皿に食べたいおかずを取り分ける。生野菜としてゴーヤのサラダやトマトがあって嬉しい。旅先で健康に過ごすためには、動物質の食品だけでは駄目。半分ほど食べた時、駐車場に1台の車が入るのが見えた。きっとMさんに違いない。玄関に急ぐと、やはりそうだった。「今、食事中」と手でサインを送る。彼も了解したようだ。 再び戻って食事を再開。だが、もうゆっくり食べている暇はなかった。彼には7時までにはホテルに来て欲しいと頼んでいた。北端の辺戸(へど)岬を、出来れば8時にスタートしたいためだ。55km先の岬まで1時間はかかる。今、7時10分ほど。もう時間がない。食事を終え荷物を持って玄関に急いだ。だが彼の姿は何処にもない。あれ~っ!Mさんは一体何処へ消えてしまったのだろう。 雨の中を荷物を持ってウロウロ探す。だが何処にも姿が見えない。その様子を観ていたタクシーの運転手さんが、トイレに行ったようだと教えてくれた。1階のトイレを叩くと、中からMさんの声が聞こえた。ああ良かった。これでスタート地点までは行けそうだ。万一の時に備えて、55kmのショートカットコースも考えていたが、それでは念願の東海岸縦断にはならない。少し安堵はしたが、この騒動で胃の調子がおかしくなった。う~む、これは参ったなあ。<続く>
2009.11.26
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< 懐かしいソバの味 > 飛行機は定刻に那覇空港へ着いた。迎えてくれたのはデンファレなど鮮やかな花々。荷物を受け取り空港を出る。この日乗るのは那覇市内へ向かうモノレールではなく、本島北部の都市名護行きの高速バスだ。最初は私1人だった乗客が徐々に増え、最後に分厚いオーバーコートを着た男性が乗り込んで来た。雰囲気から見て、きっと北海道へ出張して来た研究者だろう。 空港付近のいかにも南国らしい風景だが、もう何十回も見ているため何の違和感もない。米軍の軍港跡地はまだ手付かずのままで、旭橋の県立芸能会館はいつの間にか閉鎖されていた。一旦バスセンターに寄った後、首里から沖縄自動車道に入る。西原町幸地(こうち)付近はかつての通勤路。その懐かしい風景はあっと言う間に遠ざかった。オーバーコートの人は琉球大学前で下車。やはり推理は当たったようだ。 高速道路の両側にピンクの花が見えた。トックリワタノキの花だ。ハイビスカスの赤い花も、高い椰子の木も見える。11月末だと言うのに沖縄はまだ夏。着ていた薄手のウインドブレーカーとセーターを脱ぎ、長袖シャツ1枚になったが、車内のクーラーが涼しくて頭痛がして来た。急速な温度変化に体温調整が追い着けないのだ。 石川、金武(きん)、宜野座(ぎのざ)などでは一旦高速から下りて国道付近のバス停に寄った。その都度道路の向こうに太平洋が望めた。そして2日後に走る国道329号線をしっかりと目に焼き付けておく。金武の米軍基地キャンプハンセン付近には「砲弾注意」の標識。県道越しに砲弾の実射訓練をする際の注意なのだが、沖縄が基地の島であることを再認識する場面だ。 やがて道路は左に大きくカーブして沖縄本島を貫く脊梁山地を越え、名護市の許田(きょだ)ICから国道58号線に出た。見える海は東シナ海。そして名護湾の向こうに本部半島の山々が見え出した。空は真っ赤な夕焼け。確か予報だと明日は雨だったはず。その後変わって本当に晴れるなら嬉しいのだが。 世富慶(よふけ)バス停で2050円を払って下車。空港から60km以上乗った割には実に安い料金だ。目の前に懐かしい沖縄ソバ店を見つけ、まだ5時を過ぎたばかりなのに迷わず入った。その店には何度か入ったことがあった。味が良く盛りも良いので有名な店だが、まさかまだ残っていたとは。これは旅の初めから縁起が良いぞ~。 嬉しくなって「ソーキソバ」の大盛りを注文。ソーキとは豚のスペアリブのこと。骨付きの肉が豪快に載ったソバだ。沖縄ソバは一見うどんのように見えるが、つなぎに「かん水」を使ったラーメンの仲間だ。出て来たソバにコーレーグースを掛ける。「高麗薬」と書くが、泡盛に唐辛子を漬け込んだ沖縄独特の香辛料だ。久しぶりの味に満足し、代金770円を支払う。 そこからホテルまでは約1kmほど。5kgの新米が入ったバックはさすがに重たい。チェックインを済ませ、翌朝発送した荷物が当日中に市内の他のホテルへ到着するかを確認。それが不可能なら走ることは無理だ。部屋で荷物の整理をした後入浴。そして魚肉ソーセージをつまみに、地元のオリオンビールを飲む。8時から沖縄の歌手、夏川りみの特集を観、9時過ぎには就寝。最難関のコースを走る日がいよいよ翌日に迫った。<続く>
2009.11.24
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< ちんすこう中作戦とは > 妻の頬に口づけし、愛犬の頭を撫でて家を出た。この朝、畑の白菜を紐で縛った。これできっと立派な白菜が出来るだろう。バスと電車を乗り継ぎ空港へ向かう。いよいよ沖縄本島東海岸単独縦断走の始まりだ。果たして今回はどんな旅になるのか。不安と緊張のジャーニーランになることは間違いない。 仙台空港発ANA463便は予定通り那覇空港に向けて離陸した。見る見る遠ざかる太平洋。この日機窓から見えたのは、雪を戴いた浅間山、河口湖、霞んでぼんやりした諏訪湖、遠州灘、渥美半島、知多半島、伊勢湾、的矢湾、英虞湾、そして熊野灘。それから先は全て雲の中で、次に見えたのは着陸寸前の糸満市だった。 3時間30分以上の機内では「ランナーズ」を全て読み終え、航空会社のPR誌の沖縄に関する特集記事も読んだ。だが、今思い出そうとしてもどんな内容だったか一切覚えていない。きっと私の心を占めていたのは翌日から走り出す東海岸の厳しいコースだけだったのだと思う。 一昨年の暮れのこと、私は翌年のカレンダーを観て突然一つの考えが閃いた。それは沖縄本島を自分の足で一周しようというものだった。何とか実現できないか、暫くそのことだけに心を奪われていた私だった。そして考えた末に出たのが3つの案。「ちんすこう大作戦」は1回で本島一周を果たすこと。「中作戦」は本島を縦断すること。そして「小作戦」は10回目のNAHAマラソン完走を達成することだった。 NAHAマラソンは既に9回完走しているため後1回でクリヤー出来、簡単過ぎて満足度は低い。一番大変そうな「大作戦」はどうか。一周するための距離と日数を試算するととんでもない数字になり、経費、休暇日数、自分の走力など全ての点で実現困難だと分かった。 残るは「中作戦」ただ一つ。しかし、試算の中で「東海岸縦断」はかなり困難だと知った。平坦な西海岸に対してアップダウンが厳しく、特に北部の適切な位置には料金が高いリゾートホテルが1箇所しかないのが最大のネック。やはり最初は比較的簡単な西海岸か。そう決めて実行したのが昨年の7月だった。 時期の7月は妻の要望。気温の低い冬の方が沖縄も走りやすいのだが、その頃だと仙台は寒く、朝夕の愛犬の散歩などが仕事を持つ妻にとっては重荷になると言う理由だった。この計画を沖縄の走友達に打ち明けると猛反対され、沖縄で夏に長距離を走るなんて自殺行為とまで言われた。3年間沖縄で勤務した私も判ってはいたが、他に選択肢はなかったのだ。 日中の路上は40度近く、3日目に2度熱中症の症状が出た。それに比べれば今回は気温が低いだけまだ楽なはず。だが1日の走行距離が長くなるのと、アップダウンの激しさが心配の種だ。さらに北部のヤンバルは極端な過疎地で、食べ物や飲み物を買えそうな集落が少なく、夜間ハブに咬まれたら絶対助からないだろう。 それにしても何故作戦名が「ちんすこう」なのか。ご存知のとおり沖縄名産のお菓子だが、お土産に上げてもあまり喜ばれないことが多い。それに憤慨しての命名だ。地元の名産をエネルギー源にしながら本島を縦断できたら、沖縄を愛する私にとっては二重に嬉しいことに思えたのだ。<続く>
2009.11.24
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ただいま~♪ 沖縄から何とか帰って来ました~!! 初日11月21日(土)雨 76km:14時間22分(夜10時40分ホテル着)厳しい坂道でした。そして雨と風で体が冷えながらのランでした。 第2日目11月22日(日)晴れ 74km:14時間26分(夜11時40分ホテル着)高温、疲労、吐き気に苦しんだランでした。 留守中コメントくださった皆様、また密かに応援してくださった皆様、ありがとうございました。大変な冒険をしてクタクタの状態です。お返事は明日書かせていただきますね。そして完走記も体調と相談しながらボチボチ書かせていただきます。どうぞご期待くださいませ~。 では、お休みなさ~い。
2009.11.23
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沖縄行きを控えて、このところあまり良く眠れない日が続きました。今日も少し早い目覚めになりました。きっと知らず知らずのうちに緊張しているのでしょう。それだけのものが、今回の旅にはあるんですよ。果たしてどんな出会いがあるでしょうか。 昨夜は約2時間かけて書いたブログが、自分の操作ミスで消してしまいました。載っているのは2回目に書いた分です。2度も書いたことですっかり草臥れ、お返事が今朝になりました。と言っても、いつも寝るのが早いため、お返事を書くのはたいてい翌日ですけどね。 応援メッセージを書いてくださった皆様。そしてわざわざメールをくださった走友。本当にありがとうございました。皆さんに心配をおかけしないよう、気をつけて走って来たいと思っています。暖かい雨の沖縄を走るのも、きっと楽しい思い出になることでしょう。 さて、家を出るのは今日の9時過ぎの予定。そして帰宅するのは23日(月)の夜です。完走記を書き始めるのは、きっとその翌日になるでしょうか。では行って来ますね。皆様も御機嫌よう。
2009.11.20
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< 準備完了 > 今朝は寒かった。最低気温は2度との予報どおりの寒さ。第1現場のビルの屋上からは、真っ白い雪を頂いた奥羽山脈が見えた。一方今日の沖縄は晴れで、最高気温が21度の予報。そんな天気ならきっと走り易かったと思う。ところが私が実際に走る予定の日は初日は曇りのち雨、そして第2日目は曇り時々雨。想定内の予報だが、お金、地図、着替えなどを何とか濡らさないよう工夫したい。 昨日は1ヶ月遅れで「ランナーズ」を買った。那覇への機中で読むためだ。そして今日は米と魚肉ソーセージを購入。米は宮城産の銘柄米で、名護市から最北端の辺戸岬へ車で送ってくれる知人へのお礼。美味しい新米は、きっと喜んでもらえるはず。そしてソーセージはランニング中の栄養補給。手軽だし、結構食べ応えがある。 通称ヤンバルの東海岸を通ったことがこれまでに2度ある。最初は職場の走友達と走った沖縄本島縦断駅伝の帰りで車で通った。その時初めてイジュの花を見たが、何だか淋しい道だった。2度目は沖縄を去る直前に原付で。これは那覇の自宅からの往復で、多分260kmは走ったはず。行き交う車も少なく、とても心細かったことを覚えている。今回は雨の中を自分の足で走ることになる。多分3時間以上夜道を走るため、さらに不安が募るだろう。 今日は2つの現場で、明日から休暇で沖縄へ行く旨挨拶をした。先に作った「識別票」には、新たに血液型と妻の携帯電話の番号を書き加えた。妻には沖縄での宿泊先や知人の連絡先、そして職場の連絡先を書いたメモを手渡した。今回の沖縄本島東海岸単独縦断走は今年最後の大冒険。何が起こるか分からないため、それらは万が一のための措置だ。 走るための服装、食料、着替え、筆記用具に洗面用具、薬類、懐中電灯やヘッドランプ、雨具、そして空港内で使用するマスクなど準備も万端。リュックは大小2個持参する予定。荷物は極力少なくした積もりだが、走る時間が結構長くなるため用心してのことだ。 畑からヤーコンを掘り上げること。年賀状の原稿を書くこと。依頼されている「警備員論文」を仕上げること。悪友達とのマージャン大会の準備。来年3月と6月に予定しているレースへのエントリー。それらは全て沖縄から帰った後になる。先ずは何とか目的を達成し、無事帰宅することが先決だ。そんな訳で明日から暫く留守にするのでご了承願いたい。明日以降の簡単なスケジュールは以下の通り。11月20日(金)仙台空港 ~ 那覇空港 → 名護市内へ移動 ホテル1泊。11月21日(土)ホテル → 辺戸岬へ車で移動 そこから約76km走ってホテルへ。11月22日(日)ホテル → 与那原町まで約70km走る予定 那覇市のホテル1泊。11月23日(月)那覇~仙台空港 自宅へ
2009.11.19
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カイロの北東120kmにあるテル・エル・タバ遺跡からバビロニア・ハンムラビ王朝時代の粘土塊が発掘された。ナイル川の三角州上にあるこの遺跡を発掘していたのはオーストリアの研究者達で、見つかったのは当時の高官の印影が押された「封泥」とか。何故遥か離れたバビロニアの遺物がエジプトで出土したかだが、当時ここは「ヒソクス」と呼ばれるアジア系の異民族の拠点で、バビロニアから交易品か贈答品として送られたものと考えられているようだ。 ハンムラビ王の在位は紀元前1792年から1750年と伝えられている。この王によって定められたのが有名な「ハンムラビ法典」で、楔形文字によって書き記された粘土板が現存している。「目には目を。歯には歯を」は聖書に記された往時の法律。ところがその原型が既にハンムラビ法典に存在する由。目に怪我を負わせた者に対しては、代わりに彼の目を損傷し、歯に怪我をさせた場合は、加害者の歯を損傷すると言う定めで、かなり残虐な法律と理解されて来た。 しかしこれは対等な身分同士の場合に適用されるもので、身分が違えば内容は異なるようだ。例えば子が親を殴った場合は、子の手を切断し、奴隷が自由民の頬を殴った場合は、その耳を切断すると定められていた由。かなり厳しい罰則だが、ハンムラビ王朝は数百条もの条文が体系化されていた法治国家だった。これが女王卑弥呼時代の2千年前と言うから驚く。 話は変わって、英国人女性リンゼイさんの死体遺棄容疑で逮捕された市橋容疑者が、逮捕後1週間も食事を摂ってないことが話題になっている。最近医師が栄養剤を打ったようだが、取調べに耐えられる体調は維持している由。何故彼が食べ物を摂らず、黙秘を続けているのだろう。犯した罪は自分自身が認識しているはずなのだが。 整形手術を受けながらの逃亡中に逮捕されたことで、動揺が大きいのだろうか。そして何故沖縄へ逃げようとし、何故玩具のピストル2丁を隠していたのか。その前に外国人女性を殺して死体をベランダに遺棄した理由を知りたい。死体を埋めた浴槽内には、砂に発酵促進剤が混入してあったそうだ。迅速に死体を腐敗させようとしていたのは確かだ。遺族のためにも一刻も早く罪を認め、潔く刑に服して欲しいと願う。 WBCで2連覇した日本代表チームに対する表彰式が昨日あった。選手の栄誉を称えて、原監督から1人ずつ「優勝リング」が手渡されたとか。だが1個100万円もする立派なリングが、ダルビッシュ選手の指には合わなかったと聞いてビックリ。どうして予めサイズを測らないのか不思議だ。折角のご褒美なのに。 この「侍ジャパン」を今後も継続するようだ。次回の開催は2013年。チームを常置することで結束を固める狙いがあるのだろう。そして表彰を受けた巨人の高橋尚成投手が、FA宣言してメジャーに挑戦するようだ。これも長年の活躍に対するご褒美とも言える。34歳の彼が一大決心したのは、かつての同僚上原投手の活躍だった由。 大関魁皇が昨日の土俵で白星を挙げ、幕内通算800勝を達成した。彼より上位の記録は千代の富士の807勝(1位)、北の湖の804勝(2位)なので、これを抜くのは時間の問題だ。だが、この件に関して彼は喜んだ素振りを見せない。幕内在位98場所の史上最多記録も持っている彼だが、現役で相撲を取り続ける限りご褒美は不要。それがプロだと考えているのだろう。
2009.11.18
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第1現場のビルでは、トイレのパネルヒーターを点け始めた。今日は最高気温が10度にも満たないと言う。第2現場ではビルの前にあるケヤキの落葉が凄く、同僚が掃除に苦労している。天気予報は午後から雨とのことで、今日も自転車で出かけた。ところが掃除をしている最中に、ボツリポツリと降り始めた。 これには参った。一旦はバスで帰ろうと思ったのだが明日のことを考え、置き傘を片手にそのまま自転車で帰った。帰宅してみたら、ジャンバーの片袖がビッショリ。ガレージでは晩秋の氷雨で寒そうな愛犬。早速彼にもカーペットを出してやった。 昨日、第2現場のビルに突然所長が訪れた。先日2回に亘って係長と話をした雇用契約の件だった。所長は初っ端から「特別措置」を提示。だが私はそれを制し、幾つかの疑問点を正した。所長の話は明快だった。市内中央部を管轄している事業所にとって、不景気による受注額の減少の影響がとても大きく、パート職員の時給を見直さざるを得ないとのこと。そのことに対する私なりの改善策も提案したが、所長は私の真意も理解したようだ。 まだ30代の係長の場合は、前もって決めた結論に向かってまっしぐら。相手の意見を聞く態度ではないし、私の時給が決まった経緯を知らない上に、誠意も足りない。それでいくら信用せよと言われても簡単には頷けない。要するに社会人としての度量が小さいのだ。女子のパート職員なら恐れて言うことを聞くだろうが、社会経験を積んだ男にちゃちな論理は通用しない。 これに対して所長は年長だけのことはある。社内での責任の重さも経験の深さも係長の比ではない。良く相手を観察しており、職権をかざして威張るようなことはせず、話も論理的で説得力がある。それに今回の件では会社に非があることを十分認識している。だからこそこちらも協力する気になるのだ。結局私は特別扱いを断り、時給カットを認めた。 そんな訳で、今日は新たな雇用契約書に署名捺印して提出した。年末調整関係の書類も出したので、残ったのは「警備員論文」だけだ。これも原稿は書いていて、後は清書するだけ。時間があれば沖縄行きの前に書いても良いし、帰って来てから書いても十分間に合う。あまりすっきりはしないが、これで一応問題は無くなった。 さて、昨日の夕方のこと。散歩から帰って愛犬を犬小屋に入れようとしたら、彼は頑として動かない。私が怒って犬小屋へ追い込んだら、今度は物凄い唸り声で威嚇する。ここで怯んだら舐められると思って犬小屋に手を突っ込んだ途端、ガブリと咬まれた。前にも同じような状況で彼が威嚇した時に、頭を殴ったことがある。きっと彼はそれを覚えていて、今回は「防衛策」に出たのだろう。 幸い怪我は大したことなかった。その手を見せたら、妻は怖がっていた。妻も彼に威嚇された際に強く叱ったことがある由。愛犬が犬小屋へ入りたがらない理由は簡単。外にいた方が自由だからだ。だが人間は天気予報で翌朝の最低気温を知り、彼の身を案じて犬小屋へ入れようとする。 今朝犬小屋から出した際、彼に咬まれた手を見せて叱った。彼は申し訳なさそうに下を向き、あの凶暴な様相はどこにもなかった。これからもっと寒くなれば、こんな騒動が再び起きるかも知れない。「飼い犬に手を咬まれる」。良く聞く例え話だが、実際に体験した人は少ないだろう。私は昨日、そんな貴重な体験をしたばかりだ。
2009.11.17
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< もう一つの温度差 > 今週は最低気温が2度になる日があると知り、昨日は大急ぎで植木鉢を室内に取り込んだ。ゴムの木、ハイビスカス、シンビジウム、カポック、ノボタン、シャコバサボテンなど15鉢ほどだ。これで安心して沖縄へ行けそうだ。ところで仙台では何らかの暖房が必要な季節だが、沖縄のホテル、デパート、病院などではまだ冷房を入れているはず。 今日確認した現地の天気は、走る予定の2日間共曇り時々雨で、気温は最高が26度、最低が22度ほどだった。雨は大歓迎。今の時期仙台なら濡れれば寒いが、沖縄だと却って走りやすいと感じるはず。それくらい温度差は大きい。 さて、本土と沖縄の温度差と言えば、基地問題に対する認識もそうだ。沖縄では米軍基地問題に関して、決して良い感情を持っていない。出来るなら国外や県外へ移転して欲しいと考える人が大部分だろう。その一方で、基地に依存する地主や日本人労働者が居ることも事実。地主にとって土地の借料は貴重な収入源だし、「思いやり予算」による基地労働者の給料も決して低くはないようだ。 沖縄における米軍基地の比重は大変なもので、嘉手納町では基地が町の面積の約3分の2以上を占めるし、宜野湾市の半分は普天間基地だ。これを県内の他町村へ移設するのさえ大問題。普天間基地ヘリコプター部隊の受け入れでは、名護市民の意見が真っ二つに割れたほどだ。 民主党政権に変わってから、この問題が大揺れに揺れている。鳩山総理は国外もしくは県外移設説、岡田外相は嘉手納への統合説、そして北沢防衛相はヘリコプター基地の名護移転容認説。この事態に怒った仲井眞知事が急遽米国へ赴き、基地問題の早期是正を直接訴えたことはまだ記憶に新しいところだ。 昨年西海岸を縦断した際は、走りながらキャンプキンザー(浦添市)、普天間基地、キャンプ瑞慶覧(宜野湾市)、キャンプ桑江(北谷町)、嘉手納飛行場(嘉手納町)、キャンプトリイ(読谷村)、恩納通信基地(恩納村)を間近に観た。このうちキャンプキンザーと嘉手納基地内をマラソンで走ったことがあるが、実に広大で良く整備されているのに驚いたものだ。 今回の東海岸縦断でも海兵隊訓練所(東村)、キャンプシュワブ(名護市)、キャンプハンセン(金武町)、嘉手納基地の一部(沖縄市)を観ながら走ることになる。海兵隊訓練所はジャングルでのゲリラ戦の訓練を、キャンプハンセンでは県道越しに砲弾の射撃訓練を行っている模様。そしてキャンプシュワブは、普天間基地ヘリコプター部隊の移転予定地だ。 移転容認の代わりに、北部振興策として既に莫大な国家予算が注ぎ込まれている。国立大学院大学や国立高専の新設もその一環だ。私が沖縄で勤務した頃はちょうどペルシャ湾岸戦争の時で、普天間基地から飛び立った戦闘機が連日職場の上空で「タッチアンドゴー」を訓練していた。離陸と着陸を寸時に繰り返す実戦的なもの。沖縄の米軍基地は、まさに戦場へ向かう最前線なのだ。 誰だって戦争なんかしたくはないし、出来れば平和に暮らしたいはず。本当ならば基地も置きたくはない。しかし国土を防衛するために軍備は不可欠で、どこかに基地を設けざるを得ない。永世中立国のスイスでさえ最小限度の軍隊はあると聞いた。第二次世界大戦では日本で唯一地上戦の犠牲となった沖縄。そして今も、日本の安全を守るため犠牲となり続けている沖縄。果たして沖縄の基地問題に関して、今後どんな解決策が可能なのだろう。 ひょろ長い沖縄本島を南下しながら、私は今回も色んなことを観、色んなことを感じるだろう。あの島の暑さ。樹木や風や風景。そこに住む人々の暮らしと生き様など。そして最北端の辺戸岬やヤンバルの森を見るのは、多分今回が最後になると思う。私に残されたウルトラランナーとしての賞味期限がさほど長くはないからだ。その沖縄行きまで後4日。心して走って来ようと思う。
2009.11.16
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< 様々な準備 その2 > 今月に入ってから毎日、沖縄本島の天気予報を確認している。南部の那覇と北部の名護に、特段の差はなさそうだ。暫く前の最高気温が27度だったのに、最近は25度まで下がった。実際に走る第2日目の21日(土)は曇りで、最高が25度、最低が21度の予報。同日の仙台は最高11度で最低が4度だから、上が14度、下が17度の温度差になる。 実はこの温度差が厄介なのだ。仙台は既に冬の入り口に差し掛かっているのに対して、沖縄では夏から秋へ緩やかに向かっている頃。これに体がどう反応するかが問題。この気温だと上はランシャツ、下もランパンかハーフタイツでないと暑過ぎて走れないだろう。ロングタイツが穿けないため、膝へのテーピングも欠かせない。 帽子、サングラスは必需品。小さなタオルハンカチも持ちたい。少しでも発汗作用を助けるため、先日思い切って髪を短く切った。日焼け止めクリームも塗ることになりそうだ。天気予報は現地に着いてからもギリギリまで注目したい。昨年走った7月よりかなり気温は下がるものの、東北人の私には多分「夏」と感じるはず。 食料にも一工夫が要りそうだ。ランニング中の食べ物として、こちらからは塩トマトの甘納豆、味噌汁の素、魚肉ソーセージ、ミカン、一口羊羹、小さなアンパン、塩などを持参する。塩トマトの甘納豆は塩分、糖分、ビタミンCが同時に摂れる優れもの。昨年は自家製梅干を持参したが食べ難かったため、今回はインスタントの味噌汁の素を試す予定。お握りの塩味が物足らないため、味噌で補う作戦だ。 魚肉ソーセージは手軽な栄養補充として必要と判断。それに高温でも腐らないから好都合だ。羊羹とアンパンは素早いエネルギー補充に役立つだろう。ミカンはビタミンCの補充と体調維持のため。これに加えて現地のコンビニでは、予め弁当、お握りなどを買う予定。昨年の7月の例では梅干入りのお握りは33度の高温に12時間以上耐え、夕方でもまだ食べられた。 飲み物は水、スポーツドリンク、お茶など、最低でもペットボトル3本は常時持つようにしたい。そしてこれとは別に、出来れば頭から被るための水を確保したいと考えている。これは体温の上昇を抑えるためにも必要なのだ。ただし、どこで水を入手できるかが問題だが。それらは第2日目(ランニングの第1日目)だけの心配で、郡部から街中へ移動する第3日目(ランニング第2日目)は、多分コースの途中でコンビニも何箇所かは見つかると思う。 極力身軽に走るためには、不要な荷物を宅急便で次に泊まるホテルへ送る必要がある。幸いにして沖縄本島内なら1日あれば、その日のうちに到着する。このためホテルの住所や電話番号などをメモし、念のために沖縄の知人や走友の電話番号も控えた。妻との連絡用にコピーを置いて行く予定だ。 新潟の銀のねこさんが書き込みしてくれた「ジョギングシュミレーター」を早速試してみた。これは特定の場所をスタート地点とし、ゴールまでの正確な距離を算出してくれるシステムだ。地図の縮尺から割り出した私の試算と比べて、ランニング初日が1.3km短く、第2日目が1km長かった。つまり全体で僅か300mしか違わず、私の試算がほぼ正確だったことが判った。それが第1の収穫だ。 「ジョギングシュミレーター」を操作したお陰で、場所が良くわからなかったリゾートホテルの正確な位置が確認出来たのが第2の収穫。そして20年以上前の地図にはなかったバイパスが、新たに2箇所で造られていたことも判明。旧道と比べてさほど距離的な相違はないため、もし間違っても不安感を抱かずに済みそうだ。 ウルトラマラソンの場合には、どんなに準備をしていてもハプニングが生じる。その時に慌てず対応出来る心の余裕を持つことが大事だ。今回の旅で果たしてどんなことが起きるのか。それを楽しみにしながら、さらに準備したいと思う。
2009.11.15
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< 様々な準備 その1 > 沖縄本島を一周するためには、どうしても東海岸の縦断が欠かせない。これは最初から分かっていたことだ。だが、どうやってそれを実現するか。それだけをこの1年間考え続けて来た。最大のネックが第2日目のコース。辺戸岬をスタート地点とすることに変わりはないが、果たしてゴールをどこにするかが問題だった。だが、何度考えても「適当」な距離にあるホテルは1箇所で、他に選択肢はない。 早速ツーリストに出向いて見積もりをしてもらい、リゾートホテルの料金の高さに狼狽した。一度は直接ネット予約をしたが、総額になるとやはりツーリストが提示した料金の方が安く、改めて依頼することに。頭金を払い、残額も支払って、数日前にようやくホテルの宿泊券と飛行機のチケットが届いた。それが一時見当たらず、不要のパンフレットと一緒に古新聞に紛れ込み、資源ごみとして出したかと肝を冷やした。大切に別置していたのをすっかり忘れていたのだ。 次に、第2日目のスタート地点までの移動手段の確保が、宿と飛行機の手配と同じくらい重要な問題だった。名護市から国頭村の役場がある辺戸名までは民間のバスが何本か出ている。だがその先、辺戸名から辺戸岬までの間は、国頭村の公用バスが通っているが1日にたったの1本だけ。これでは予定通り走ることは絶対に無理。 昨年西海岸を縦断した際には、元の職場のMさんに名護市から辺戸岬まで車で送ってもらっている。そこから名護市まで逆走したのだが、今回の東海岸縦断でも彼に協力してもらうしかない。早速メールを入れ、約束を取り付けた。もし彼が駄目な場合は個人タクシーと交渉して送ってもらうことになるが、約55kmの距離で多分2万円は必要だろう。 数日前にもMさん宛てに再確認のメールを送ったが、当日はちゃんとスケジュールを空けてあるとの返事が届いて一安心。それでも彼が来れなくなった場合の代替案も用意した。名護市から西海岸を北上して大宜味村の塩屋集落まで走り、そこから山越えで東村へ抜けた後、東海岸をホテルまで南下する約50、5kmのコースだ。冒険の度合いと走行距離はかなり縮小されるが、山越えのため途中には集落も自販機もなく、結構スリルは感じると思う。 その他の準備で最も大事なのはコースの確認だ。私は様々なレベルの沖縄の地図を5種類ほど持っている。観光地図、道路地図、町村ごとの行政地図などだが、観光地図以外は私が沖縄に居た当時のものでデータが古い。北部は過疎地帯のため、道路も集落も当時とほとんど変わらないはず。だが、泊まる予定のホテルの正確な位置が不明のまま。ゴルフ場も持つほど広いようなので、1~2kmの誤差は想定内だ。 それらの地図を見ながら各集落間の距離を算出したり(北部の東海岸には県道しかないため、持っている地図に距離が書き込まれていないのだ)、道路の高度や食べ物、飲み物が買えそうな集落を想定し、より安全に走るための工夫を思い描いている。車の伴走があればそんな心配は不要なのだが、単独でリュックを背負いながらのランだと、何がしかのリスクが付きまとうのは仕方がないこと。不安と戦いながら前進するしかない。<続く>
2009.11.14
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< 沖縄本島東海岸の縦断コースとは > 今回は東海岸を単独縦断する予定でいる。初日は仙台から飛行機で那覇へ。そこから急行バスで北部の名護市に移動し、ビジネスホテルに1泊。翌朝友人の車に便乗し、最北端の辺戸岬に移動。これは西海岸を通ることになると思う。距離は約55kmで所要時間は約1時間ほどか。出来れば8時過ぎにはスタートしたいと思っているが、それでも気温は23度ほどになっているだろう。 第2日目は77.5km先にあるリゾートホテルに泊まる予定。1泊7万円余りの豪華なホテルで、自分には勿体無いのだが、これがスタート地点から最も近いホテルなのだから仕方がない。その次のホテルまでだと多分110kmくらいになるだろうか。気温、コース、リュックを背負うことなどを考えれば、そこまで行くのはとても無理な話だ。 ほぼ平坦で真っ直ぐな道の西海岸に対して、ホテルまでの東海岸は標高100mから250mほどの山道が延々と続く。地形の関係で、たまに海岸まで下りて再び山に登る繰り返し。従って道路はクネクネとし、西海岸に比べてかなり距離が長くなる。ここは通称ヤンバルと呼ばれ、琉球王朝時代は船でしか行けなかった辺鄙な場所だ。今でも集落が少なく、多分自販機で飲み物は買えても食料を買うことは困難なはず。 だから泊まる予定のホテルまでは、最低でも13時間はかかると覚悟している。つまり9時は過ぎるだろう。ホテルのレストランは夜10時に閉まるみたいだが、沖縄風のバーが深夜1時まで開いているようで、何かは食べられると思う。夕方6時過ぎにはヘッドランプ、懐中電灯、赤色灯を点灯する予定。 この県道は街中に比べて狭いようだが、通行する車両が少ないため、スピードを上げる車が多いと聞いた。そこで反射材を張った「識別表」を作ってみた。表には「東海岸縦断中」とマジックで大書し、裏側には念のため私の氏名、住所、電話番号が記してある。これをリュックにピンで留める予定。沖縄では交通事故や犯罪が多発し、夜道ではハブの危険もあるためだ。 第3日目はホテルでゆっくり朝食を摂り、8時過ぎにスタートするつもり。前日の長距離ランによる疲労具合を確かめながら、この日は行けるところまで行く作戦。この夜は那覇市内のビジネスホテルに1泊する予定なので、極力那覇の近くまで走り、歩くつもりだ。ブログの見出しに今回の距離を「120km程度」と書いたのはこのような事情からだ。道はほぼ平坦となり、疲れた体にはとても助かる。自然豊かな農村から、街並みの続く都会へと辿る景色の良い道だ。 北中城村の渡口まで到達すると55.5km(累計133km)になり、西原町の小那覇までだと67.5km(累計145km)、そして与那原町与那原までだと70km(累計147,5km)となり、来年への持ち越し分がそれだけ少なくなる。3年目の来年は「NAHAマラソン」と合わせて走る計画で、いよいよ念願の「沖縄本島一周ラン」が実現することになる。<続く>
2009.11.13
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< なぜあの南の島を走りたいのか > 初めて沖縄へ赴任したのは私が45歳の時。今から20年前の春だった。それから3年間、私は沖縄本島で過ごした。家族全員で最初の2年間を過ごし、長女の大学進学に合わせて妻と次男が本土へ帰った後、当時高校3年だった長男とさらに1年を過ごしたあの島。職場では先輩課長から苛められ、上司の部長には赴任早々部長室に呼ばれ連日叱責された日々を今でも思い出す。 本土とは何もかも異なるあの南の島では、気候や植生を始め見るもの聞くものが珍しかった。住んでる人も本土の日本人とは異なる感性を持った人達で、東北人の私はその感性に近かったのか、不思議と心が癒された。そして20年ぶりに詩が書け、小さな詩集を2冊発行したのもあの島だった。 あの島に赴任した内地の人、つまりウチナー口(琉球語)で言えば「ナイチャー」が沖縄の人やものに対する観方は両極端で、暖かく理解を示す人がいる一方、蔑みの目で差別する人が多かったのも事実だ。多くのナイチャーは2年で内地に栄転するのが普通。最低気温が28度、最高32度の日が4ヶ月以上続くあの島の気候が、内地人にとってはあまりにも厳し過ぎるのだ。 もちろん東北人の私にとって高温が辛くないはずがないし、強烈な光は眩し過ぎてとても目が開けられないほどだった。だが、職場には島内でも有名な詩人がいたし、他の部局には大勢のランニング仲間がいた。ウチナンチュ(沖縄の人)の友人を得たことで、旅人の私がどれだけ慰められたことだろう。 歴史、文化、文学、地理、風俗、言語、宗教など、沖縄に関する様々な本を読んだことも、沖縄に対する理解を一層深めてくれた。それらは今考えても素晴らしい体験だった。「職員走ろう会」のメンバーとは島内各地のレースに出向き、職場内での24時間走や島内縦断走などにも参加した。 また、休日のつど原付にまたがって、島内の城(グスク)、御嶽(ウタキ)、拝所(ウガンジュ)などの聖地を隈なく巡った。これはウチナンチュの精神性を知る驚くべき体験で、日本の原始神道の根源を見る思いだった。あの島には既に日本が失った神秘的なものが今でもたくさん残っているのだが、ほとんどのナイチャーはそれを知らずに去って行く。 かつての仲間である「職員走ろう会」のメンバーが「沖縄本島一周駅伝」を企画・実行したと聞いたのは、私が内地に戻ってから何年後のことだったろう。大好きなあの島を、出来れば仲間達と一緒に走りたかった。だが、その願いを叶えるのが無理なことは私自身が知っていた。沖縄に赴任したのが平成元年。あれから既に20年経ち、歳を取って走れない走友も増えたからだ。 「よ~し、それなら自分1人であの島を一周しよう」。そう考えたのが一昨年の暮れ。そして最初に実行したのが昨年の7月。最南端の摩文仁平和祈念公園をスタートし、国道58号線を北上して最北端の辺戸岬までの140km。これはほぼフラットな西海岸を走るもの。危険性は少ないものの、日中33度にも上る気温が難敵だった。 この計画を知らせた際、沖縄の友人達には「夏に走るのは自殺行為だから止めなさい」と、本気で忠告された。実際に走ってみると路上の気温は40度にも達し、日中はとても走れる状態ではなかった。コースの大部分は歩いたが、それでも熱中症の症状が2回ほど出た。灼熱の140kmの旅はさすがに過酷だった。だが、今回の「東海岸単独縦断走」は、より過酷な要素を秘めている。<続く>
2009.11.12
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ニューヨークヤンキースの松井選手がFA権行使の申請手続きを行った。松井本人としては、外野手としてのプレーに拘りがあるようだ。一方球団側の希望はDH。こうなると交渉は決裂しそうだが、地元紙の予想によればそれでも松井はヤンキースに帰って来るとか。FA資格を得る目ぼしい外野手が来年多いと言うのがその理由。つまり来シーズン松井を必要とする球団は少ないだろうとの見方だ。 日ハムのダルビッシュが骨折していたとのニュースにも驚いた。右手人差し指の疲労骨折で全治3週間の診断とか。痛みがあったことを隠してダルビッシュは日本シリーズの第2戦で投げ、見事勝利したのだが、きっとあの時の無理が骨折につながったのだろう。幸いにして怪我の程度は軽く、暫く患部を固定しておけば回復する由。 同じく日ハムの小谷野内野手が、長年パニック障害で苦しんでいたことを、つい最近知った。まだ2軍に所属していた時は打席に立つ緊張で嘔吐するほど重症だったとか。それをコーチの指導で一つ一つ克服し1軍に昇格。打撃にも目覚めて見事サードの正位置を掴み、大活躍するまでになった由。その努力が報われ、今回ゴールデングラブ賞を受賞したのは立派の一語だ。 美容整形手術を受けながら逃げ回っていた市橋容疑者がとうとう逮捕された。英国人女性の死体遺棄が直接の容疑だが、マスコミがイギリスの自宅まで押しかけ取材し、騒動になっているのを憂えている。注目の懸賞金1千万円だが、名古屋の美容整形外科、大阪の建築会社、同じく大阪のフェリー会社での折半か。今後は殺人の容疑も含め、早急に自白することを願っている。 俳優の森繁久弥が96歳で亡くなった。死因は老衰。ずいぶんな長生きだった。私が記憶に残るのはラジオ番組での朗読。あまりの上手さに舌を巻いたものだ。それもそのはず、彼はNHKのアナウンサー出身だった由。名曲「知床旅情」は彼の作詞作曲によるもの。私が大好きな歌の一つだ。存在感のある名優の死を悼む。合掌。 最後に考古学上のビッグニュース。このたび奈良県の纏向(まきむく)遺跡から3世紀前半の大型建物跡が出土した。ひょっとしたら女王卑弥呼が住んだ宮殿だったのではないかとの考えもあるとか。南北19m余、東西12m余の大型建物は出雲大社に近い形体のようだ。付近には卑弥呼の墓と伝えられる箸墓古墳も存在しており、邪馬台国論争が活発化する契機になるかも知れない。考古学ファンとして一度は訪れてみたい地だ。
2009.11.11
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「アースマラソン」中の寛平ちゃんが走り出してから今日で329日目。目下ハンガリーを通過中のようだ。昨日は首都ブダペストの様子を動画で観た。「ハンガリー」の「ハン」は「チンギスハン=ジンギスカン」のハンと一緒。本来の民族であるフン族はヨーロッパ深く進攻したモンゴルの末裔で、ハンガリーでは名前も東洋と同様に姓、名の順番のようだ。 それは兎も角、寛平ちゃんがフランスの港に上陸してから、ベルギー、オランダ、ドイツと横断し、デンマークで開催されたIOC総会では、「東京オリンピック招致大使」としての役割を果たした。再びドイツへ下り、チェコ、スロバキア、ハンガリーと東方へ向かっている。これから冬を迎えるのに、果たしてどこに向かうのかが私の心配点だった。 まさかロシアへは行かないだろうと思っていたのだが、南下してセルビアに向かうと聞いて、少しだけ安心。多分バルカン半島からトルコ、イラン、パキスタンのコースを辿るのだろうが、イスラム圏の紛争多発地帯を通るのもそれはそれで心配だ。そしてその先はインド亜大陸を通るのか、はたまた中央アジアのシルクロードを辿るのか、興味は尽きない。 羽倉信彦編「トランス・ヨーロッパ・フットレース つわものたちの夢の足跡」観覧舎 2004年刊 をようやく読み終えた。これは2003年に開催されたリスボン~モスクワ間5053kmに参加した日本人選手へのインタビューに基づく記録である。全行程参加者が10名、部分参加者が3名いたようだが、5053kmの全てを走破したのは5人だけだった由。 コースはポルトガルのリスボンをスタートし、スペイン、フランス、ベルギー、ドイツ、ポーランド、ベラルーシ、そしてゴールがロシアである。宿泊したのは専ら体育館。参加者が多かったドイツ人始めヨーロッパの選手達がレース感覚だったのに対し、日本人ランナーは旅を楽しむ感覚の人が多かったとか。それだけ向こうではウルトラマラソンが一般化しているのだろう。 だから走りながら小便をする男子ランナーや、道端に座ってトイレを済ます女子ランナーに、日本人ランナーは度肝を抜かれたようだ。トライアスロンのレースではバイク(自転車)に乗りながら小便をするのが普通のようなので、海外では特段驚くようなことでもないのだろう。遅いランナーの場合は、ASが既に片付けられていたり、ゴールしても食事が無くなっていることもあったようだ。そんな時にも日本人グループは助け合ってレースを続けた由。 スタートした日に転倒し、負傷しながら2000kmも走った貝原さん。レース中の下血で一旦帰国入院したものの、再びヨーロッパに向かった原さん。常に助け合いながらゴールした関根・坂本ペア。64日間最後まで絶対に走り続けると強い覚悟で臨んだ菅原さん。日本人最高齢(64歳)で常に沈着冷静な走りを見せた金井さんなど、それぞれの個性が羽倉さんともみちゃんのインタビューで上手に引き出されている。ただし、日本人トップの成績でゴールした武石さんが取材を断ったみたいで、掲載されてないのが残念だ。 さて、この本は9月に走った「佐渡島一周」の打ち上げの際、菅原さん本人から紹介があり、買うことにしたもの(ただし、まだ料金は振り込んでいないが)。レース自体の説明や関連データは乏しいが、出場した日本人選手の本音が分かるのが収穫だ。 そしてこのうちの5人が、今年開催された同レースのイタリア~ノルウェー間4488kmへも挑戦しているのだから凄いとしか言いようがない。まさに別世界の話で、凡人にとっては刺激にはなっても、とても真似が出来るものではない。ウルトラマラソンの世界は広遠で、そのレベルも実に多様と言えようか。
2009.11.10
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昨日の日曜日、妻が出かけた後、パソコンを居間に移した。会社から頼まれた警備員論文の原稿を書く積もりだったが、その気になれない。金曜日、係長から時間単価の切り下げを告知された「モヤモヤ」がまだ晴れないためだ。諸手当の見直しから始まるならまだしも、単価の切り下げはパート職員にとっては本俸の引き下げで、いわば最終手段のはず。 庭に出て植木鉢の花に水遣り。ついで白菜の根元にも。白菜の株が大きくなったため、野菜作りに詳しいお向かいさんに、先日結束の時期を尋ねた。結球が内部から始まってかなり大きくなり、葉が開き出してから縛るのだとか。1個だけ葉が開いたのは結球が進んだためではなく、寒さで萎れたせいらしい。そんな白菜は食べるしかないとも。 私から見たら立派な白菜なのだが、仕方なく切ってサラダにして食べた。お向かいさんはさらに「肥料が足らない」とも。そこで化成肥料を株の近くに撒いたのだが、「水をかけないと栄養にはならない」と。なるほど、雨が降るのを待っていては駄目なのだ。白菜は大量の肥料を要するとは聞いていたが、これまで一度も結球しなかった理由がようやく分かった。 次に裏庭のイチジクを全て摘果。今年の初夏は比較的低温だったため、イチジクの成長が芳しくなかった。それがその後の好天で例年にないほど豊作になり、珍しく今の時期まで実が成長し続けた。30個近く取れたイチジクは、今年4回目のワイン煮になるはず。 その後は「年末調整」の書類を書く気にもならず、珍しく午前中にブログを仕上げた。昼食は畑から抜いた春菊と焼き豚入りのラーメン。午後は先ずテレビの囲碁を観戦し、その後J2のベガルタ仙台の試合を観る。今日2位のベガルタが勝って、3位と4位が引き分け以下なら、ベガルタのJ1昇格が決まる。結果は4対0の圧勝で、しかも昇格を争っていた3位、4位が勝てなかったため、7年ぶりの昇格が決定した。 一方日本シリーズは、土曜日の第6戦で決着が付いた。2対0で巨人が日ハムに勝ち、4勝2敗で巨人が栄光をつかんだ。こちらも7年ぶりの王者復活。試合後に原監督が「日本一を奪還しました!」と叫んでいたのが印象的だった。日ハムが負けたのは残念だったが、エースクラスや4番打者をFAで獲り、自前選手の育成にも成功して選手層の厚い巨人の優勝は妥当だったのだろう。これで今年の楽しみがほとんどなくなった感じ。 夕方から愛犬と山に向かう。出来れば走りたいと思っていたのだが果たせず、少し長めの散歩で妥協することに。このコースは何か月ぶりだろう。紅葉や黄葉が美しい坂道をグングン登る愛犬。今日も秋の色に溢れた自然と接することが出来て満足。帰宅後、米を研ぎ、鮭と鶏肉を解凍しておく。 妻が疲れて帰宅したのは暗くなってから。今日は油絵の同好会で、北上川河口付近の葦原を描いて来た由。景色は私が教えた通りだったが、「新北上大橋」は渡らなかったとか。そうすると妻達が行ったのは右岸の旧河北町だろうか。私は7月にあの橋を渡って志津川を経由し、気仙沼まで走った。持ち帰ったキャンバスには、広々とした葦原と悠々と流れる大河。そこにも秋の色が溢れていた。
2009.11.09
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前方に長靴を履いた人が2人。きっと地元の人だろうと思い、錦が丘方面に抜ける近道があるか聞いてみた。だが、そんな道はないとの返事。残念だが入り口まで戻るしか方法がないようだ。それにしても入り口に「通り抜け不能」の案内を出してくれていれば、無駄な寄り道をすることもなかったのにと、恨みがましく思った。 あれはきっと殺人事件関係の捜査だろう。何日か前の報道で、まだ死体の一部が発見されてないと言っていたはず。それも太白区内の山中に埋めたとのことだったので、多分こちら方面だろうと推測はしていたのだが、まさかその現場に出くわすとは。地元のオジサンも、昨日までは通れたと話していたので、ひょっとして急展開があったのかも。 再び錦が丘の入り口まで戻った。往復で合計6kmほどのロスか。改めて県道の坂道を登る。新築の家が多い新興団地はきれいに整備されている。その途中から秋保温泉方面に右折。仙台市天文台向かいのコンビニでスポーツドリンクと一口羊羹を購入。11時20分現在の気温表示が20度。1時間ちょっとで5度も上昇していた。冷たいスポーツドリンクがとても美味しく感じる。 峠の頂上部まで来ると急に展望が開けた。奥羽山脈が見渡せる位置にペット専用の霊園。きっと植えられた樹木が墓標の代わりなのだろう。サイカチ沼へのもう一方の入り口には「工事中」の看板が2個立てられ、車に1人の男が乗っていた。近づく私に男が車から降り、「そちらに行きますか。でも工事中で通れませんよ」と宣告。長靴は履いているもののヘルメットも被っておらず、とても工事関係者には見えない。 「警察でしょ?捜査中のため途中で戻され、遠回りして来たんです」。「本当に警察と言ってましたか」の問いに、「殺人事件で死体の一部がまだ見つかってないと報道されてましたよね」と私。途端に若い刑事は口をつぐんだ。「42kmの練習が今日は何キロになるか」と言うと、「気をつけて行ってください」と、最後はにこやかな表情で見送ってくれた。 そこからは下り坂。3kmほど坂道を駆け下りると、前方に秋保温泉のホテル街が見え出す。時間は12時過ぎ。朝食から既に6時間経過している。コンビニでお握り2個とお茶を買い、土手に座って昼食にした。筋子やタラコの塩味が嬉しい。湯元バス停から温泉街へと入り、観光案内所でトイレ休憩。 あのままサイカチ沼を通れた場合はここまでが30km。300円の共同温泉に入りバスで帰る方法もあるのだが、今日は最後まで走る予定のためタオルも着替えも持ってない。途中磊々峡(らいらいきょう)にも寄らず、ひたすら走り続けた。頭や首筋から流れる汗。気温も22度には上がったはず。長袖、ロングタイツの服装が沖縄の暑さ対策練習にはちょうど良かったかも知れない。 至る所で紅葉が見られた今日のコース。「捜査現場」に出くわし、思いがけず50km近い練習が出来た。家に着いたのが2時10分ごろ。走り出してからほぼ8時間もかかってしまった。驚いている妻に今日あった出来事を話す。妻は仕事を終えてから、最近出来たばかりのショッピングモールへ行って来たとか。それは良かった。今日は夫婦それぞれが、自分がしたいことを実現出来たわけだ。 夕方から妻は1時間ほどランニングへ行った。このところ3週間ほど体調不良のために走ることが出来なかった彼女だが、ゆっくりとでも再び走り出すことが出来て良かった。翌日の日曜日、妻は早朝から仲間と絵を描きに行く予定。明日も天気は良さそうだ。痛む左足にエア○ロンパスを吹き付けた私だった。今夜はきっと良く眠れるだろう。
2009.11.08
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明日は長い距離を走ろう。前夜のうちからそう決めていた。コースは沼と温泉を通る42km。そんな長いLSD(マラソンの用語で、長い距離をゆっくり時間をかけて走る練習。決して怪しい薬物ではありません。(笑))は久しぶりのこと。予報によれば天気は良さそうだし、妻の仕事が終わる午前中に走り切れればなお好都合。 土曜日の今朝もいつも通りに起きて愛犬の散歩を終え、1人で朝食を済ます。布団と洗濯物を2階に運び、「走りに行くよ」と妻に声をかけて7時20分に家を出た。服装は長袖Tシャツとロングタイツで、手袋と帽子も着用。腰のポシェットにはミカン1個、キャラメル2個、塩トマトの甘納豆2個、羊羹1切、ビスケットが6枚。そして手には水が入ったペットボトル。 西多賀陸橋付近には庭にミカンが2個生っている家。昨年は鈴生りの豊作だったのだが、今年はどうしたのだろう。次第に暑くなり汗が流れ始めたため、早々に手袋を脱ぐ。土曜日の朝から走っている人が3人。そのいずれもが私よりも速いランナーだった。土樋から米ヶ袋を通り、御霊屋橋、評定河原橋、大橋を渡って川内へ。澱橋から下を覗くと川底に白い物体。命尽きた鮭がここまで遡上して来たのだ。 角五郎丁前の土手では大学陸上部の競歩選手が練習中。ここはタータン仕様の舗装が1kmほど続き、ランニングには持って来いの場所だ。八幡町から葛岡を経て折立へ。ここでも橋から川を覗いたが鮭の姿は見えなかった。JR陸前落合駅前から左折し、仙台西道路へ。10時過ぎで気温表示が15度。沖縄では最低が20度以上で最高気温は27度ほどだから、わずか15度で音を上げていたらとても体が持たないだろう。 愛子(あやし)の郊外から錦が丘方面へは行かず、サイカチ沼経由で秋保温泉に向かうことにした。山道を登るにつれて、道の左右には美しい紅葉が。やはりこのコースを選んで正解だった。月山池には多数の釣り客。ヘラブナ釣り愛好者の車が道端に多数駐車。さらに登るとサイカチ沼。紅葉がハラハラと落ちて来る風情が何とも言えない。だが、高揚した気分が一瞬にして消し飛んだ。 何と道路が閉鎖され、目の前に2人の男が立ち塞がっている。聞けば道路工事中とのこと。道路はどんな様子か、脇を通ることは出来ないか。何度聞いても通行禁止の一点張り。今日は42kmの練習でもしここを通れないと困ると執拗に食い下がると、男性は仕方なくポケットから黒い物を取り出して私に示した。警察手帳だった。これは秘密事項なのだがこの先で捜査中なのだとか。それなら別ルートの分岐点まで車で送って欲しいと言っても駄目。 これでは埒が明かないと諦め、入り口の錦が丘橋まで引き返すことに。さて、42kmの練習の予定だったのが、今日はどれだけ走ることになるのだろう。幸いここまでゆっくり走って来たため、まだ体力には余裕があった。がっかりして山道を下りながら、ミカン、羊羹、ビスケット数枚を食べた。ここらでエネルギーを補充しないと持たないかも知れない。ハイキング客には、通り抜け出来ないと教えながらの逆走になった。<続く>
2009.11.07
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パリーグのCS第2ステージ第4戦では、負けていた楽天が途中から岩隈を中継ぎに出した。第1戦ではまさかの逆転サヨナラ劇。第2戦は接線だったものの再び日ハムに苦杯を舐め、第3戦では田中の好投もあって何とか1勝した楽天だったが、第4戦も日ハムが2点リードしていた。 本来なら中継ぎで投げるようなコンディションでなかった岩隈が何故あの場で出て来たのか不思議だったが、あれは岩隈本人が監督に直訴しての出場だったようだ。だが何とかピンチを凌ごうとした願いも空しく、3ランホームランを打たれ惨めな敗戦となった。岩隈はベンチで泣いていたようだ。それを日ハムの選手達は観ていたのだろう。試合後の歓喜の中でも「岩隈さんが泣く姿を見て、自分たちはパリーグの代表として日本シリーズで負ける訳には行かないと感じた」と日ハムの選手が話したそうだ。 夢だった日本シリーズへの進出が適わなかった楽天は、目下Kスタで秋季練習の真っ最中だ。新監督は前広島カープのブラウン氏に決まり、コーチなどの陣容も発表された。そして今季投手陣の中心となった、田中、永井、小山のアリゾナキャンプ行きが決定した。酷使した体の疲れを取り、さらに今後のために必要な体力づくりをして来るのが目的とか。だが、岩隈が同行しない理由は知らない。一番疲れている投手は彼のはずなのに。 野村監督の辞任問題に関して、私の身の周りでも小さな変化があった。第1現場の「引継ぎ簿」には、勤務上の引継ぎ事項と共に楽天を応援するメッセージを書き添えていたのだが、遅番の同僚が野村監督の言動に対して厳しい批判を書き出したために、楽天のことをこのノートに書くのを止めることにした。時間的に直接顔を合わさない2人が共通の話題を持てるよう、かつての上司の提案で始まった「楽しみ」だが、険悪な雰囲気が漂うのではもう無理。 第2現場に手伝いに来るSさんも大の野球好き。補欠ではあったが、高校時代は硬式野球部だったとか。野村監督の信奉者だった彼だが球団の辞職勧告に腹を立て、今後楽天は応援しないと決めた由。リーグ2位で首を切られるのが納得出来ないと言うのがその理由。来季は菊池投手が入団する西武を応援するとか。彼ほど極端ではないにしても、私も来季はどんな形で応援すべきか正直迷っている。 さて、海の向こうではニューヨークヤンキースのゴジラ松井が大仕事をやった。何と日本人初のワールドシリーズMVPに抜擢されたのだから驚く。今季は膝の故障などからDHでの出場が多かった。左手首の骨折から始まり、両膝の手術など、ここ数年間は故障に悩んでいた松井だった。良くその試練に耐え、栄光を勝ち取ったと感心している。 松井が通った石川県根上中学校時代の校長先生だったN先生とは石川勤務時代に偶然知り合ったのだが、Nさんは中学時代の彼のことを良く覚えていて、松井はその頃から真面目で努力家だったと話してくれた。その性格は今も変わらないようだ。どんなにピンチに陥っても、彼の表情にはほとんど変化がなく、いつも飄々としている。私が一番好きなのがそこだ。 ワールドシリーズでMVPを取った松井だが、このままヤンキースに残るかは不明。今季で契約が切れるため、他の球団に移籍する可能性もあるようだ。理由は守備機会の有無。DHだと守備に就かないため、体のキレが悪くなると言うのが松井の立場。だからスタメンで外野を守れるチームから誘いがあれば、長年親しんだニューヨークを離れる選択もあるのだとか。 さて日本シリーズだが、昨夜の9回は痺れた。日ハムが4番高橋のホームランで2対1とした時はこれで勝ったと思ったのに、その裏に何と亀井、阿部の2本のホームランでサヨナラ勝ちと言う衝撃的なゲームになった。これで巨人の3勝2敗。チャンピオンに王手を掛けた訳だが、このまま日ハムが黙って引き下がるとも思えない。 きっと札幌の本拠地に戻った日ハムは熱心なファンの応援を受け、必死の戦いを繰り広げるだろう。岩隈があの日涙を流したさっぽろドーム。今季パリーグの覇者としての意地を、その球場で見せてくれると思う。日本一が決まるまで残された試合は最大で2つ。リーグチャンピオン同士の息詰まるような戦いを期待している。
2009.11.06
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第1現場の路地を隔てた向こう側に解体中のビルがある。地上部分は後わずかしか残されておらず、とあるコーナーがむき出しになっている。それは私が2年半勤務した機密文書を裁断するシュレッダー室の残骸だ。あれはきつい作業だった。あれほどの重労働はもう2度と経験出来ないだろう。そして今月末から建築が始まる新しいビルへも、多分私が勤務することはないはずだ。 さて、その第1現場のベンチに、10月初めからホームレスが寝るようになった。私の出勤前にはたいてい退散しているのだが、タバコの吸殻やダンボールが残されていることも多い。ある時眠っている男を見つけ、今後はここに寝ないよう勧告した。先日の寒波襲来の時はさすがに姿がなかったが、今朝も眠っていたため厳重に注意した。 ダンボールの囲いすらないベンチで毛布も掛けず、ズボンに手を突っ込んだ状態で寝ているホームレスに対し、直ぐに退散するよう警告するのは自分でも気の毒だとは思う。だが警備員の私にとって、契約先の建物の安全を図り、その財産を良好に保全するのは当然の任務なのだ。 社長付きのH運転手が久しぶりに顔を出した。10月初旬の勤務中に心筋梗塞を起こして手術を受けた彼の顔色はまだ青かった。話によれば、当日は階段を登る時に息苦しさを感じ、社長を迎えに行く途中肩や背中が固まって血液が循環しないような感じになった由。急遽引き返して救急車を呼んでもらって即入院。処置が速かったため、大事に至らずに済んだようだ。 第2現場では清掃夫としてもっぱらビル内の拭き掃除を担当しているのだが、時間が余ると路上の吸殻や落ち葉を掃いたり、裏の小公園を掃除することがある。この公園もビルの所有なのだ。天気が良いとサラリーマンが休憩したり、近所の保育所の幼児が遊びに来る。それは良いのだが、困るのがゴミの不始末だ。 吸殻はどこにでもポイ捨て。植木の茂みの中には食べた後のビニール袋などが散乱して、とても汚い。市民にも少しはマナーを守って欲しいものだ。そして寒波襲来と共に、街路樹の落葉が激しくなった。1時間の勤務時間では中途半端になるので、落ち葉掃きも良く考えてするしかない。今週からは作業服を長袖に替えた。 この現場につい最近若い女性が配属された。まだ20代のようだが、とても口数が少ない人。どうも会話が苦手だと思ったら、テレビゲームが趣味なのだとか。女性の責任者に皆でもっと話しかけるよう勧めたら、彼女の表情にも少し変化が現れた。やはり若い女性は生き生きしてないとね。 一方「自慢オバサン」は、いよいよ本領を発揮し出したみたい。皆の話によれば、2千万円で買ったと言っていたマンションがその後4千万円、6千万円と膨らみ、先日はとうとう1億円で買ったことになったとか。こうなるともう立派な「嘘つき病」と言うしかないだろう。嘘も可愛いうちは笑って許せるが、あまりにも大法螺が過ぎると、誰にも相手にされなくなる。問題は彼女が何時それに気づくかだ。
2009.11.05
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昨日の寒波襲来には驚いた。11月初めと言うのに、仙台では最低気温が4度を切ったとか。北海道や東北の北部では雪が降ったみたいだし、全国各地で寒さに震えたようだ。我が家も何日か前にコタツを出し、布団も冬用に変え、そして久しぶりにヒーターを点けた。 我が家の愛犬は人間の歳だと還暦。元来は寒さに強い犬種なのだが、一昨日の夜は玄関に入れた。そして犬小屋には彼専用のカーペットも。季節が進んで太陽の位置が低くなったせいか、日中は貴重な陽だまりで居眠りすることが増えた、我が家の愛犬マックス君。 昨日は文化の日で仕事はお休み。走友会の芋煮会の日だったが、沖縄行きを控えて資金難のために已む無く欠席させてもらった。温泉施設を会場にしての芋煮会は、今回が初めての試みだったようだ。午前中に練習会もあったみたいだが、仲間達はきっと寒かったことだろう。 先日自転車通勤の際、ランニング中のM仙人に遭遇した。相変わらず元気そうな彼だが、元の職場から声が掛かって今年は土曜日も仕事をし、遠征費が溜まったと喜んでいた。そして来年復活する「さくら道」への出場が決まった由。間もなく70歳になる彼が、270kmという超長距離のレースに挑戦しようとする意気込みが凄い。それから見たら、私なんかまだ「はなたれ小僧」だ。 そんな出来事もあって、昨日はロングタイツと長袖Tシャツ姿で練習へ。走ったのは走友会の旧練習コース。走り出すとそれほど寒さは感じないのだが、直ぐにトイレに行きたくなって困った。山の上から下りて信号を待っていると後ろに人の気配。振り向くとロングタイツを履いた速そうなランナー。 名取川の堤防をゆっくり走っている時、後ろから猛ダッシュで追い抜いて行ったランナーが、私の前で急にスピードを落とした。そのまま抜き去って行けるのに、どうしたのかと思いつつも私はそのままのペースを維持。彼も同じペースで直ぐ前を走る。私と話をしたかったのか、それとも私が「仕掛ける」のを待っていたのか。それにしても彼の新しいシューズが、ちょっぴりうらやましかった。 太白大橋の上から名取川を眺めているうちに、そのランナーは前へ行った。私が目を凝らして川の中を見ていたのは、鮭が遡上し出したとのニュースをテレビで聞いたためだ。確かに鮭は居た。それも40匹ほどの大群だ。浅瀬で産卵を始める「つがい」や、さらに上流に向かおうと懸命に泳ぐ鮭。今年もまたそんな季節がやって来た。 その夜、妻はイチジクのワイン煮を作った。これでこの秋3度目だ。砂糖とワインの煮詰まった甘い匂いが2階まで漂って来る。イチジクの実が寒さで成長が止まるのも時間の問題だ。自転車通勤でもジャンパーや手袋が欠かせなくなった。それでも冷たい風が刺激になって涙が出るし、洟水にもなる。今朝の巡回時、ビルの屋上からは真っ白い雪を戴いた奥羽山脈の山々が見えた。今年の初雪だ。手が荒れてハンドクリームが欠かせない季節が、今年もそこまで近づいた。
2009.11.04
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どれくらい前だったか、エコジャーニークラブから郵便が届いた。中に入っていたのは「佐渡島一周」の完走証や記録集や写真など。私は終わったレースにさほど感傷は感じない方で、せっかくもらったメダルなども捨ててしまうほど拘りはないのだが、今日は記録集を手にとってじっくりと見た。 ゴールタイムだけでなく、途中のASや仮眠所への到達時間がすべて記された記録表。どこのASまでは結構速かったのに、どこからは急にスピードが落ちたとか、自分も含め仲間や併走した何人かのランナーの状況が分かり、当時の記憶が鮮明に蘇える。苦しくもあり楽しくもあった「佐渡島一周」。それが記録集から再現されたのが、とても意外だった。 先日「東山温泉紅葉ランニング」で再会した時に、福島のA井さんが「佐渡の仮眠所で眠った7時間30分がタイムから差し引かれてなかった」と、本気で話していた。「もし記録から差し引かれないのが分かっていたら、あんなに寝るんじゃなかった」とも。A井さんのような超ベテランランナーですら、そんな誤解をしていたのが笑える。 7月のバス旅行で酒田へ行った時、豪商・本間家の出自が佐渡島だったことを初めて知った。「佐渡島一周」のコース傍には何箇所か墓地があり、「本間家」の墓標がかなり目に付いた。江戸時代、佐渡島は北前船が寄港した土地柄。本間氏の分家が日本海有数の港である酒田に進出した経緯が、何となく納得出来た。 エコジャーニークラブの封筒には、来年3月の「八丈島一周」の案内も入っていた。今年出た第1回の完走記に、「八丈島の流刑者の定員は1800人云々」と書いたが、その後の新聞記事で1800人は定員ではなく、流刑者の累計だと知った。あの時はきっと、O川さんの話をうろ覚えに聞いていたのだろう。 今でこそ島民1万人の島だが、産業や交通手段が限られていた時代に1800人もの犯罪者に食料を与えることが到底無理なことは、良く考えれば分かることだった。今年のレースは風速30mほどの暴風が吹き荒れる大変な状況で開催されたが、来年は穏やかな天候で景色を楽しむ余裕が生まれることを望みたい。と言っても、来年の3月は八丈島より少し近い「伊豆大島」を走る予定なのだが。 さて、レース後やレース中に出ていた「ものが二重に見える現象」だが、さる方の掲示板を見てヒントが得られた。「眼球を支える筋肉の老化に伴う疲労」がその結論。長時間の厳しいレースで眼球が激しく揺すられた際、筋肉が支え切れずに錯視をもたらすとの仮説だ。暫くして元に戻るのもこれで説明出来ると思うのだが、医学的な根拠となり得るかは分からない。 9月の初めに受けた健康診断の結果が少し前に届いた。血圧が若干高めだが、これは通院して血圧降下剤を服用しているため問題なし。「洞性徐脈」の所見も、永年の運動で心臓が鍛えられたために心拍数が少ないと言うランナー特有の症状だから、心配無用。昨年異常値が出た血糖値は、今回計測方法が変わっため問題がなかった。これで安心して「沖縄本島東海岸単独縦断走」に臨めるのが嬉しい。
2009.11.03
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山形道のとあるSAからバスは一般道へ出た。ETCを装備していると所によってはこんな芸当も出来るようだ。バスは街並みを外れ、どんどん山奥へ入って行く。これから古寺渓谷と言う所に向かうのだが、旅行会社のパンフレットには町名が書いてなかった。山形の地理が頭に入っている訳でもないので、どんな位置関係なのかも分からない。それでも朝日連峰近辺とは想像がついた。 添乗員の話によれば、予定していた遊歩道の一方が崖崩れで通れないとのこと。急遽別な入り口から歩くため、手配した3台のタクシーでピストン輸送する由。妻と先頭のタクシーに乗る。確かに坂道が急勾配過ぎて、老人が歩くには困難そう。運転手さんの話で、ここが大江町だと言うことが分かった。遊歩道入り口で降り、早速往復8km余りの渓谷に向かう。 名称は古寺渓谷神通峡で、東北の黒部渓谷と呼ばれている由。「おいおい、本当かよ。黒部と言えば1000mもある深い谷だよ。ここはせいぜい200mほどじゃないか」。そうは思ったものの、案外景色は良い。紅葉の赤が足らないけど、黄色や茶色に染まった木々が美しい。そして驚いたのが所々で見られる大小様々な滝。10箇所以上で間近に滝を見た。 これは参った。スケールは黒部ほどではないにしても、手付かずの自然が目の前に広がっている。深い谷を流れる水の透明さ。月布川と言ってこれは最上川の支流の一つ。沢に架かる朱塗りの橋を渡る。橋は結局11もあった。ただ中間地点の不動明王像が石造ではなく、岩にはめ込まれたタイル画みたいだったのには笑えた。 足元はあまり良くない。至る所で山から水が湧き出て、道路がぬかるんでいるためだ。そこに落ち葉が積もっているから、用心しながら歩く必要がある。何時降っても良いように傘は用意していた。山形は午後から100%の降雨率だったからだ。だが時々パラついたものの、一過性の天気雨で終わった。風が枯葉を舞い上げる場面にも遭遇した。 終点の砂防堰堤は拍子抜けするほどの規模。そして中間地点から上流では既に紅葉が終わり、丸裸になった木々も多かった。引き返す途中のベンチに座って昼食。旅行会社が用意してくれた弁当は助六寿司とサンドイッチの詰め合わせで、そこそこの内容。食後にお菓子やミカンを食べた。 珍しかったのが「塩トマトの甘納豆」。福島市の会社が製造したものだが、ミニトマトが崩れもせずに「甘納豆」もどきになっている。塩味、酸味、甘さが混じったコクのある不思議な味で、これがなかなか美味しかった。 昼食後、再び遊歩道を歩いて戻る。流れの速い岩場と緩やかな瀬、そそり立つ岩山や彩られた木々に混じる緑の樹木。昼食も含めて2時間半ほどの散策では、十分に自然の良さを堪能できたと思う。妻も久しぶりに自然の風景に接して満足したみたい。 ただ、慎重に足元を選んで歩いた積もりがズボンの「跳ね」が凄く、靴も泥で汚れていたのが愛嬌か。帰宅後、山形出身のお向かいさんにこの渓谷の話をしたところ、初めて聞く名前とかで全く知らなかった。無名なのは、それだけ自然が残っている証拠とも言えようか。 次に寄った大江町内の温泉も良かった。塩類、カルシューム、硫黄などが混じった高濃度の泉質は、神経痛や婦人病などに効くとか。新たに温泉を掘ったために今は名前が変わっているが、元々の「舟唄温泉」は専門家が全国2位に選んだほどの名湯だったようだ。町営のため料金は300円。また、地場産品の販売もあって嬉しい。 最後に天童市の観光果樹園へ。30分間の食べ放題で、私は「不二」、「黄林」、「紅玉」、「パインアップル」の4種を、直接枝から取って食べた。それぞれ甘さや酸味、食感が違うが、とても瑞々しくて美味。お土産に巨大な「黄林」が1こずつ付いた他に、たくさんの果物を買って帰った。山形県は全市町村に天然の温泉があり、たくさんの果物が採れ、漬物が美味しい素晴らしい所で、是非一度訪ねられることをお勧めしたい。
2009.11.02
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山形方面にバス旅行していました。詳細は明日にでも書きますね。 心配していた雨ですが、帰宅するまで何とか持ってくれました。
2009.11.01
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