全27件 (27件中 1-27件目)
1
< 最初の異変と夕暮れ > ようやく坂を登り切った。左手に曲がれば57.9km地点の第2ASへ行く。その曲がり角が第1回の時に、私とR子さんが間違ったところ。右折して海岸へ降りるべきところを、直進してしまったのだ。あの時間違ったお陰で私はR子さんとしばし一緒の時を過ごすことが出来たのだった。 第2ASのある食堂へ向かうと、K藤さんとYちゃんが休憩を終えて再びコースへ飛び出すところだった。2人が差し伸べてくれた手とハイタッチ。こちらはヨレヨレなのに、2人とも元気そのもの。15時7分第2AS到達。スタート後既に9時間以上過ぎている。ここまでは思いのほか厳しい道のりだった。 ここで食べたのは、お握り、バナナ、そして新潟の名産である笹団子。Junさんのブログではうどんを食べたとあったが、どうもそれは第1ASで余ったもののようだ。兎もあれ、速いランナーと遅いランナーとでは、ASに残っている食べ物の種類が違っているのは確かだ。 先刻走った自然歩道の岩だらけの道で痛めたのか、左足が痛む。実はここまで元々シューズに入っていたインソールで走っていた。だがもう限界。やはりこの辺りから医療用のインソールにお世話になるしかない。左足を医療用のものに、そして右足には厚さを合わせるために普通のインソールを2枚入れた。これで足の調子が治まるかどうか。 15時20分再スタート。ここでの休憩は13分間で済んだ。59km地点手前から再び海岸へ降りる。ここは2度通っているため、馴染みが深い。矢崎海岸には弥生時代の人が住んだ岩窟がある。だが関心の無い人はほとんど見過ごしてしまうだろう。でも何故弥生人なのか。どこを見ても水田になりそうな地形は見当たらないのだが。 鷲崎集落を過ぎたころ、急に体調が悪化した。道路の白線が二重に見え出し、同時に吐き気と悪寒が襲う。灯台の手前で酷いガス欠になっていた。ASで急いで食べ物を補給したが間に合わなかったのだろう。今からこんな調子では、前途は真っ暗だ。リュックを下ろし、初めて胃薬を服用する。これは胃酸の働きを抑えるもの。長い距離を走るウルトラレースでは必携の薬だ。 暫く歩いているうちに何とか体調が戻って来た。その間に横浜コンビが抜いて行った。慌てて2人の後を追う。良い調子の2人。彼らに着いて行ければペースが掴めそうだ。65km地点の北小浦を16時35分に通過。69km手前の虫崎の通過は17時10分。徐々に周囲が暗くなる。 長さ1795mの「内海府トンネル」に初めて入る。大佐渡の北側を外海府海岸と呼び、大佐渡の南岸を内海府海岸と呼んでいるが、このトンネルが完成したのはつい最近のこと。明るくて広いトンネルはとても走り易かった。海に突き出た黒姫大橋が懐かしい。橋の下ではザブンザブンと音を立てている波。 73km過ぎの歌見海岸で新潟のF川さんとT居さんのコンビが小休止して食事を摂っていた。それを横目に通り過ぎる。18時5分。74km過ぎの浦川集落で横浜コンビが休憩。私も一緒に小休止し、残っていたお握りを食べた。ここでリュックからヘッドライトを取り出し、帽子の上から装着して点灯。リュックの赤色灯も点灯し、暗い道を3人で走り出す。 エネルギーを補給したせいか、かなり調子が戻った。快調なスピードで両津を目指す3人組。19時20分。81km地点の玉崎集落で小休止。ここでは一口羊羹を食べた。83km地点の白瀬を通過。85km地点の椿集落を過ぎれば両津は近いと思っていたのだが、考えてみればここを走ったのは朝のうちで、スタート直後のまだ元気の良い時間帯だった。 だが、夜の道は案外スピードが出てないものだ。それにもう13時間以上走って、結構疲れも溜まっている。89km地点でようやく旧両津市内へ入った。延々と明るい繁華街が続く。こんなに市街地が長かっただろうか。やはり夜間の感覚はまったく違うようだ。遅れ出した横浜コンビを後に、アーケード街をひた走る。 90km地点手前の曲がり角で、地図を広げたランナーが1人立ち止まっている。ここは間違いやすい場所と聞いていた。私はそこから左折して両津港方面に曲がり、第1回、第2回のスタート地点である「おんでこドーム」の横を通った。その方がきっと分かり易いと思ったのだ。結果的にこれが大成功。ランナーは疲労の度合いと判断力とが比例することを、経験上良く知っている。<続く>< 9月のラン&ウォーク >参加レース:1回 ラン回数:9回 走行距離:264km ウォーク回数:ほぼ毎日 ウォーク距離:191km 月間合計:455km 年間合計:3381km うち走行距離:1835km これまでの累計:68,803km
2009.09.30
コメント(6)
< 賽の河原はあの世の入り口? > 走り出して暫くすると、後ろから2人のランナーが追いついて来た。A津さんとI島さんのコンビ。共に横浜にお住まいとのこと。年長のA津さんは3度目の参加で、I島さんは初参加のようだ。スタート直後に歩くような足取りだったのが年長のA津さん。練習で腰を傷めたとか。だから出だしは慎重だったわけだ。 ここは高台が5kmほど続き、抜群の眺望が展開するところ。海に向かって黄色く色づいた田んぼが広がっている。「ここがR子さんが好きだったところなんだよ」と2人に教える。「私はこんな風景を見ると、思わずそっちの方に行っちゃうんですよ」と話していたR子さん。そして、「またどこかでお会いしましょうね」と風のように去って行った彼女。 あれは第1回の時だった。「またどこかでお会いしましょうね」と言われても、どこで会えるの?それが私の実感だった。だがウルトラレースの場合は距離が長いために何度かコース上で再会することが多く、きっと「また会ったらその時はよろしく!」と彼女は言いたかったのだろう。今ならそう思えるのだが、初参加の私は不安の方が強かったのだと思う。 49km過ぎ。とうとう下り坂になる。「第1回と第2回の時は、この家で脱穀をしていたね」とA津さんに話しかけると、「刈り入れが早かったんですね」との返事。「第2回の時、この坂は雨で川のようになってたね」。「そうでした。あの時は急に降って来たんでしたよね」。彼も覚えていた。「下り切ると3つの小さなトンネルがあるよ」。もう返事はなく、私は一気に前に出た。 いつしか強い風は治まっていた。北鵜島の荒々しい海岸には、やはり私の記憶通り、小さなトンネルが3つ連続して出て来た。1つのトンネルで私は雨を避けながら、地図に書き込みをした。それで鮮明な記憶として残っていたのだろう。前方にようやく本物の「大野亀」の絶景が見え出した。 海に突き出した火山岩の塊。そして麓には緑の芝生。その異様な光景は一度見たら忘れることはないだろう。それはまるでガラパゴス島に生息するゾウガメの背中のように丸くゴツゴツしている。53km地点。ここでトイレを済ませ、展望台のレストランで野菜ジュースと豆乳を飲む。いずれも体に優しい飲み物だ。間もなく横浜コンビが追い着くが、私は一足先に出発した。 分岐点で一周道路と別れ、二つ亀自然歩道方面に向かう。途中の「願」集落。ここはどの家にも表札が見当たらない。「表札が無いのは皆同じ姓だからだ」と誰かが言っていたのを思い出す。本当にそうなのかを確かめるため、たまたま通りかかった住民の方に尋ねてみた。答えは「山口が2軒いるけど、後はバラバラ」だって。ふ~ん。どうやら噂はガセネタだったようだ。 集落を過ぎると海岸に出、道路が凸凹の石の道になる。ここで不機嫌なっ女性ランナーを抜き去る。前方からは観光客の列。きっと「賽の河原」を見学して来たのだろう。500mほど行くと、右手におどろおどろしい風景が飛び込んで来る。先ずは岩窟の中の観音堂。そして何百体ものお地蔵さんと赤い風車。ここがあの世を再現した「賽の河原」だ。たまに映画のロケ地になることで有名なのだとか。どちらでも手を合わせてR子さんの冥福を祈った。 さらに進むと前方に「二つ亀島」。これも2匹のゾウガメが寄り添ったように見える佐渡の名所だ。ここが55km地点。足場の悪い海岸の道がさらに続く。私はここを1度しか通っていない。それも逆周りだったため記憶がない箇所もあって、分岐点では迷ってしまった。ようやく弾崎の灯台が見え出す。だが最後の上り坂でガス欠になった。もうすぐ第2ASなので我慢をしていたのが悪かったのだろう。フラフラしながら必死で坂を登る。<続く>
2009.09.29
コメント(4)
< 不機嫌なランナー > ようやく海沿いの旧道を抜け、南方部の集落へ出る。ここが約23km地点。そこから見覚えのある幾つかの集落を横目に北上する。海辺の岩に囲まれた墓地、ゴーヤの生る畑、道端に干された小豆。26.6km付近の北川内は、確か第1回の時、道端に立っていたお婆さんが飴をくれた集落だ。 29.5km地点の高千公民館が第1AS。私はトイレに寄ってからASへ行った。時間は10時ちょうど。まずナンバーのチェックを受けて中へ入ると、入り口の畳にK藤さんが腰を掛けてうどんを食べていた。「どこで抜いたっけ?」と彼女。「姫津の港へ入った?」と私。彼女はちゃんと港へも寄ったとか。だとすると彼女が到着したのは、おそらく私がトイレに寄ってる最中だったのだろう。 T田さんとYちゃんがちょうど食事中だった。うどんやお握りなどを食べながら、「多分もう追いつけないと思う」とT田さんへ話す。その言葉を聞いて、彼は力強く握手し再スタートして行った。10時17分。私も腰を上げ、Sパパにお礼を言って走り出す。汁は少ないものの、走った後の体にはうどんが最高のご馳走だった。 34km過ぎにある石名集落の清水寺前で湧き水を飲む。土地の人が私が飲み易いように、わざわざ下水のふたを取ってくれた。昔、山の上には小さなお堂があった由。湧き水はそこから流れて来るそうだ。お礼を言って大銀杏の茂る境内に別れを告げる。風が強いのは日本列島から離れたはずの台風の影響だろうか。 遥か前方に「大野亀」に似た岩山が見えて来た。まさかそんなはずはないと思って近づくと、そこは関岬の荒々しい岩肌である「禿の高」。これまでと逆方向に走ったため、初めて見る風景だった。脇の暗く狭いトンネルを走る。40km地点の関集落通過。42km地点の岩屋口集落でアイスバーを買って食べる。 一息ついてスタート。押出岬からはつづれ折りの登りが続く。名前は跳坂とか。ここは第1回開催前に崖崩れがあって、暫く工事をしていた場所だ。修復工事が終了したのは、レースの直前だった。白糸の滝を見ながら登って行くと、遥か上から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。それに「ア~メマ~!!」と絶叫で応えた。 この滝の脇を、釣竿を抱えた人が降りて来たことがあった。何でこんなところを?といぶかる私に、この山奥には釣り場があると教えてくれた。それにしてもこんな断崖を魚が遡上するものだろうか。あれは何とも不思議な話だった。ようやく山の上に達したが、もう誰の姿も見えない。さっき私を呼んだのは果たして誰だったのだろう。 45km過ぎの「海府大橋」を渡り終えた辺りで休憩。アンパンを半分と野菜ジュースを飲む。それから橋まで戻って景色を眺めた。橋は100mほどの高さがあり、海上からしか見えない「大ザレの滝」と言うのがあるらしい。私が休んでいる前を不機嫌な顔をした女性ランナーが通り過ぎて行った。こんなに素敵な景色が目の前にあると言うのに、何でそんなに不機嫌なのか不思議で仕方がない。<続く>
2009.09.28
コメント(6)
< 神様の馬鹿~っ!! > 初めは団子状態だったランナーの群れが、次第にばらけ出す。アップダウンを繰り返すうちに先頭グループは遥かに前へ行った。2番手が秋田のJunさん。その後ろ姿がカーブの向こうに消えた。彼の姿を島内で見たのはそれが最後、合わせても5分間もなかった再会だった。歩くような速度のランナーが気にかかる。後で一緒に走ることになる横浜のA津さんだった。 3km地点で春日崎を過ぎる。過去の2回はいずれも夜で、景色は見えない。それが今日は漁港や岸辺に打ち寄せる波が見えた。何だか不思議な気持ち。約5km地点が相川。ここにはコース上唯一24時間開いているコンビニがある。朝食を摂ったばかりで実感がないのだが、やはり何か食料を確保しておこう。 店内はランナーで混雑している。私は素早くアンパン1個と野菜ジュースを手にしてレジの片方に並んだ。ところが1人のランナーが私に「フェアじゃない」と言う。どちらにも並ばずに、空いた方に進むのがフェアなのだとか。「良いじゃないかそんなこと」。私はそのまま並んだ。事実彼の方が早く順番が来た。これから48時間近く走るのに、わずか数秒くらいの違いでフェアもへちまもないだろう。どのレジに並べば早いかなんてのは運のうちと思うのだがねえ。 6km過ぎには前後に誰も見えなくなった。左手の海を見ているうちに、何故か急に寂しさがこみ上げて来た。思わず我を忘れて叫ぶ。「R子の馬鹿~っ、何で死んだんだ~っ!!神様の馬鹿~っ、何でR子を死なせたんだ~っ!!」。だが誰も答えはしない。相変わらず朝風が吹きつけ、波が岸に打ち寄せるだけだった。 新潟のYちゃんの姿を発見したのは7km過ぎ辺りだったろうか。近寄って彼女の右手を握る。「R子ちゃん死んじゃったね」。私が言うと「私もビックリしました」と彼女。皆第1回の佐渡を走った仲間だ。案内の標識も、ASで配給される食糧も不備だったあのレースを共に走ったことで、心が強く結ばれたように思う。その大切な仲間の1人が、もう会いたくても会えない世界へ行ってしまったのだ。 Yちゃんと別れ、再び一人旅になる。海辺の集落の小さな畑に植えられた野菜や花々。そして道端のお墓には色鮮やかな供花。そうか。今は秋のお彼岸。昔からこうして島の人々は先祖の墓と日々の暮らしを守って来たのだろう。揺れるコスモスや干されている唐辛子に、少しずつ心が癒されて行く。 12km地点の手前から姫津港方面へ。言ってみればここは盲腸のような場所。極力佐渡の様々な風景に触れさせようとする主催者の考えで、時々「迷路」が現れるのだ。小さなアーチ橋が見えた。沖の岩礁から港へと押し寄せる高波。港を一周して県道に戻ると、真っ直ぐ通過して行く3人のランナー。追い着いて訳を聞くと、港への標識を見落とした由。まあ206kmの道程にはこんなこともある。 21km地点。南方辺トンネルには入らず、海岸へ向かえとの矢印。今では人も車も通らない厳しい旧道だ。ここを通るのは初めてのこと。草は茫々だし、道路は荒れている。岬に近づくにつれてアップダウンが厳しくなる。先ほどまで元気だったパキスタン人のBさんが、ついに歩き出した。彼はどうも登りが苦手らしい。彼の姿を見たのはそれが最後だった。<続く>
2009.09.27
コメント(8)
< 黒いリボンとピンクのリボン > 同室のランナーは宮城UMC仲間のT田さん、新潟のF川さん、福島のA井さん、そして名前を知らない関西の方。一番の年長者はA井さんで69歳。福島県内で手広くウルトラレースを開催しているE藤さんの仲間だ。その歳で206kmもの佐渡へ参加するだけあって、相当に走りこんでるようだ。関西のランナーが一番若く、体型からして一番速そうな感じを受けた。 大広間で説明会が始まる。先ずはSパパから挨拶と亡くなったR子さんの紹介があった。次いで縮尺2万5千分の1の地図25枚に基づき、コースの注意点が丁寧に説明。迷子になりそうな場所、4箇所のエードステーション(AS)と仮眠所の位置、レースの途中で買い物が出来そうな集落などだ。皆真剣に地図に書き込む。 最後にSパパの携帯電話の番号が知らされる。コースを間違ったり、リタイヤする時は連絡する必要があるからだ。と言っても、自分でスタート地点まで帰るのはとても困難な技。つまり島をグルリと一周しているバスはない。無論運行している箇所はあるが、それもせいぜい夕方まで。でも携帯を持っていない私は、結局自分の足で206kmを走らざるを得ないのだ。 説明会に引き続き懇親会に突入。皆大いに飲み、大いに食べた。そして1人30秒の持ち時間で挨拶が始まった。それでも出場者は80人だから、終わるまで相当の時間がかかった。40数名の参加だった第1回に比べれば雲泥の差がある。沖縄から参加したランナーの顔を覚え、後で挨拶に行った。名古屋出身の方だとか。7年ぶりに再会したボクシ~どんにも挨拶に行く。 懇親会が終わる頃、F川さんが舞台へ上がって何やら話し始めた。彼は亡くなったR子さんが好きだったピンク色のリボンを大量に用意していたのだ。希望者は明日のスタート時に、そのリボンを着けて欲しいとのこと。ピンクのリボンを着けた大勢のランナーが、R子さんを追悼しながら島を一周する。なんて素敵なアイデアだろう。そして心優しい配慮なのだろう。私は初めてF川さんの人柄を見直した。 その夜、室内にはF川さんの大きないびきが響き渡った。彼が外出から帰って来たのが10時過ぎ。島にいる知り合いと飲んで来たとか。仕事柄島内には知人が多いようだ。そのいびきが気になって、眠った時間は5時間半ほどだったと思う。それでも全く眠れないよりはマシ。ウルトラレースなんてそんなものだ。 9月20日(日)のレース当日、5時前には朝食を摂った。小ぶりのイカの煮付けなど、おかずはまあまあの内容。これから島をグルリと廻るためには、エネルギーになるものを摂る必要がある。ご飯を2杯、味噌汁も2杯お代わりする。そして宿に残す荷物は1箇所に集められた。まるまる1日不在になる間、他の客を泊めるためだ。 身支度を整えて外へ出る。いよいよスタートの時間が近い。胸に黒い喪章を着けた秋田のJunさんが外に居た。昨夜の真夜中2時に着いて、車内で眠ったとか。神経が興奮して眠った時間は2時間ほどと知ったのは後日のこと。遥々秋田から車を運転し、ほとんど眠らずに206kmを走るJunさんの体力には驚かされる。前夜はバレーボールの試合直後に車で出発したとか。互いの健闘を誓ってがっちり握手。 亡きR子さんを偲ぶ小さな祭壇がスタート地点に準備された。一人ずつその前に進み、お線香を上げる。周囲に線香の香りが漂う。煙の向こうには特徴のある「夫婦岩」。全員のお参りが済んだところで、記念写真の撮影。そしていよいよスタートだ。6時ちょうどランナーが一斉に走り出す。その胸に翻るピンクのリボンと黒いリボン。風が涼しい朝だった。<続く>
2009.09.26
コメント(14)
< 小さな祭壇 > ジェットフォイルはさすがに速い。1時間ほど早く出航したフェリーを途中で抜き、佐渡へとまっしぐら。青々とした佐渡の山々や岬が見え出す。とても懐かしい風景だ。1時間の旅はあっという間に終わり、私達は両津港に降り立った。だがいくら探しても迎えのバスは見えない。結局2台のバスがホテルへ向かったのは、途中で抜いたフェリーと私達の1時間後に着いたジェットフォイルが到着してからだった。 その間に続々と走友が集まって来た。先ず宮城UMC仲間のT田さんとは思いっきりハグ。新潟のF川さん、T居さん、U松さん、Yちゃん。長野のT野さん、福島のA井さん、東京のSさん、そして千葉のぼくし~さんの姿も発見。特にぼくし~さんとは私が「飛翔千葉」で60kmを走った時以来の再会だった。懐かしい顔ぶれに心が和む。第1回参加のF川さん達新潟グループと挨拶。「川の道」を走破したT野さんは、ずっとその話を続けている。 バスは国道350号線を経由して相川方面に向かう。ここはコースではなく初めて通る道。国中平野に実る稲穂。そして大佐渡に聳える山々。その山頂に特殊なレーダーが見えた。あれは北朝鮮などから発せられる電波をキャッチするためのものとか。佐和田の外れからようやく「佐渡島一周」のコースへ出た。 逆コースへ向かうのは今回が初めて。これまでの2回は、夜間歩いた場所だ。暗く淋しい道も車中からだと楽に見える。火力発電所周辺からアップダウンが激しくなる。まさか数十時間後に相当苦しむことを、予感するはずもない。スタート地点であり、ゴール地点でもある「夫婦岩」のホテルに到着。ここは第2回まで第1仮眠所(約90km)だったところだ。 受付を済ませてから主催者のS木さんにお願いした。「今夜の懇親会でアルコールが入る前に、1分ほど黙祷が出来ないだろうか」と。彼は私を階下へと案内した。そこには今年の「トランスヨーロッパ」4850kmを走破したSパパが忙しく働いていた。S木さんはSパパへ私の意見を伝えた後、あるものを示した。 それはR子さんの祭壇だった。遺影、線香、線香立て、そして生花。私はそれで納得した。スタッフである彼らにとっても、3年連続で「佐渡島一周」へ参加したR子さんの突然の死は大変な驚きだったはず。どうしたら彼女の冥福を祈りつつ、かつ彼女のことを知らない参加者に違和感を生じさせずに済むか。結論がこの祭壇だったのだろう。写真の中のR子さんは、いつものように微笑を浮かべていた。 S木氏は言う。この写真は昨年9月13日のスタート時に撮ったもの。そして彼女が亡くなったのがちょうどその1年後とのこと。とても運命的なことのように思えて仕方がない。色んなランナーの話で、彼女がハンドル名を「ちびた」と名乗っていたこと。関西地区では「ひまちゃん」と言う愛称で呼ばれていたこと。毎日24kmの通勤ランをしていたことも知った。どれもこれも私には初めてのことばかりだ。 名古屋の走友が見舞いに行った帰りの新幹線で、逝去のメールを受けたこと。そして彼女を知る大勢の仲間が、色んなウルトラレースでR子さんの追悼ランを考えていることなども。Sパパに「トランスヨーロッパ」完走のお祝いを言って私はようやく部屋へ戻った。<続く>
2009.09.25
コメント(8)
< 3人の女性ランナー > 9月19日土曜日の朝。駅の東口にある新潟行きのバス停へ行くと、待合室に宮城UMC仲間のO川さんとK藤さんが既に到着していた。まずK藤さんに「立山登山マラニック」の際の借金を返済。彼女はすっかりそのことを忘れていたようだ。「Aさんの帰宅ランって何km?」と問う彼女に「7kmだよ」と平然と答える。そして逆に質問。「去年の佐渡は何時間で走ったの?」。 答えは42時間台だった。私が2年前に走った時の40時間台に比べても遜色ない。道理でT田さんが送ってくれた写真に彼女の姿がたくさん映っていたわけだ。今なら多分実力は逆転しているだろう。そのT田さんは前日のうちに新潟へ向かった。新潟から佐渡への出航時間が連休に絡んで変更されたためだ。我々3人は初めてジェットフォイルに乗ることにした。 O川さんに言う。「きっとO川さんは35時間台で、そして俺は45時間台でゴールすると思うよ」。その根拠は彼が今回の「佐渡島一周」へ向けて、かなりの長距離練習をこなしているのを知っていたからだ。9月も既に200km以上走ったようだ。それに比べて7kmの帰宅ランが中心の私は、今月はわずか40km程度を走ったに過ぎない。 仲間とたわいもない話をしているうちに、私の胸の中にあった鬱屈した思いは、いつの間にか霧散していた。バスの車中から見えた磐梯山。そして県境の長いトンネルを抜けると、目の前に黄色く色づいた越後平野が展開する。さらに特徴のあるサッカー場が見え出すと間もなく終点の新潟だ。 万代のバスターミナルで乗り換え、佐渡行きのフェリー乗り場へ。そして到着後に昼食。私は麺類だけだったが、O川さんとK藤さんの2人は麺類とカレーのセットを注文。さすが力のあるランナーは食事内容から違うと感心。でも私の目はベビーカーを押した女性の姿を捉えていた。ひょっとしてあれはA子さんかも。 彼女は第1回の「佐渡」を走った仲間。だがその後妊娠と出産のため、暫くウルトラマラソンを休んでいた。まだお子さんが小さいため今回も出場は出来ないのだが、出航の時間だけは連絡していた。実に2年ぶりの再会だ。彼女が「銀のねこ」と名乗ってブログを開設してると知ったのはレース後のこと。それ以来お互いのブログを行き来している。 急いで探すと、やはり彼女だった。長男の悠理ちゃんも一緒で、2年ぶりの再会を喜ぶ。ご主人に7割ほど似てると言う悠理ちゃんは人見知りをしない凄い子だ。最近彼女が遭遇した事故の話を聞くと、携帯に保存していた写真を見せてくれた。車が1回転する大事故だったのに、3人とも全くの無傷だった由。とても強運の一家のようだ。 T田さんとも会ってずいぶん色んなことを話したと彼女。亡くなったR子さんの話をすると、彼女も大層驚いたようだ。T田さんはR子さんの小さな写真を持って走ると言っていたそうだ。第1回の佐渡島には若い女性が3人参加した。亡くなったR子さん。そして今回見送りに来てくれたA子さんと、新潟のYちゃんだ。 この中でレース中にランスカで走り、人目を引いたのがA子さんだった。R子さんは年齢の割りにウルトラの経験が豊富なことで注目を浴びた。地味な存在だったのが一番若いYちゃん。ウルトラ暦もほとんどない。ところが神様は、ウルトラマラソンの申し子とも言えるR子さんを天国に迎えたのだ。 出航時間が迫り、私達はジェットフェリー乗り場へと向かった。なるべく早くウルトラマラソンに復帰したいと話していたA子さんだが、私達が走るレースのスタート時間に合わせて、彼女も約1時間ほど追悼ランをしたことを知ったのは後日のことだった。かつての仲間達は、皆同じ想いだったようだ。 ジェットフォイルの座席で、偶然仙台のランナーに会った。名前はT橋さん。こちらは気づかなかったのだが、新潟までのバスも一緒だった由。体格が良い屈強な若者がウルトラマラソンを志すとはまた頼もしい。彼が最初のレースとして選んだのがウルトラマラソンだったとか。へえ~っと驚く。やはり世の中には不思議な人物がいるものだ。<続く>
2009.09.24
コメント(6)
< 突然の訃報と鎮魂の旅へ > 今、私の体はボロボロに傷ついている。やはり佐渡島一周206kmを巡る旅は、そう簡単なものではなかった。2年前の頃より一層進んだ老化、初めての逆周りコースに加えて、レース中の疲労、寝不足、錯視、擦り傷、肉刺(まめ)、吐き気、空腹との戦いはかなり壮絶なものだった。 それでもあの悪路を何とかゴールまで辿り着けたのは、胸につけた黒いリボンのお陰だった。レース中そのリボンに触れながら、何度完走を祈ったことか。あれは私一人が走ったのではない。今は亡きR子さんが、きっと私を前へ前へと導いてくれたからに違いない。変かも知れないが、私は堅くそう信じている。 「佐渡島一周エコジャーニーラン」は、私にとっては3度目の参加になる。初挑戦の62歳の時は不安が募ったものの、まだ挑戦しようとする気持ちが強かった。そして翌年の第2回目はコースを知っていたこともあり、比較的楽に走ることが出来たように思う。 だが、昨年「立山登山マラニック」で傷めた左足は加齢による障害がその基因であるだけに、事後のウルトラマラソンに不安を抱かせることになった。だから「佐渡島一周」への挑戦は今回が最後だと決めていた。ちょうど大型連休で休暇を取る必要も無いのも好都合だった。一人現場のため、休暇を申し出るのが大変なのだ。 さて、途中で走れなくなったらショートカットしてゴール地点へ向かえば良い。そんな自分勝手な考え方すら持っていたのが本当のところ。仕事でも強い疲労感が残るようになっていた。ウルトラマラソンの費用を稼ぐ「内職」が、逆にウルトラマラソンが走れないほど疲労させるとは皮肉な話だが、いつか必ず限界に来るのは確かなこと。 7kmほどゆっくり走る帰宅ランは、足の痛みがそれ以上増幅せず、強い疲労感を残さない練習としてちょうど良いと思われた。新しく作った医療用のインソールがなかなか足に馴染んでくれないことも、練習不足の良い言い訳になったと思う。 そんな状態で果たして200kmを超える道程を走り切れるものだろうか。不安の一方、これまでの経験で何とかなるだろうとの気楽な考えもあった。そんな時に飛び込んで来たのが、「佐渡島一周」の第1回と第2回で一緒だったR子さんの、突然の訃報だった。 まだ39歳と言う若さでの逝去。本人はどれだけ無念だったろうか。あれほど佐渡島のコースを愛したR子さんの鎮魂のために、何とかゴールまで辿り着きたい。私の考えはそんな風に変わって行った。悲しみを抱えての206kmの道のり。そうだ、胸には黒い喪章を着けよう。そうすればR子さんと一緒に走ったことになりはしないか。 「佐渡島一周」で2度一緒に走った秋田のJunさんも私の考えに賛同し、黒いリボンを着けて走ることを申し出てくれた。佐渡の後、520kmもの「川の道」を2度制覇した若い彼との実力差は相当なもの。だが他のランナーと比較しても意味はない。どんなにボロボロの姿でも、それが私の現実なのだから。これで覚悟は決まった。<続く>
2009.09.23
コメント(10)
本日20時前に、佐渡島から無事帰宅しました。練習不足で臨んだ今回の佐渡島一周でしたが、やはり甘くはありませんでした。今回ほど「絶対完走するんだ」と言う強い思いが足らなかったレースは、これまでになかったと思います。 でも「佐渡島一周」をこよなく愛した亡きR子さんの鎮魂のために集まった全国の仲間達と一緒に、レースを通じてR子さんを見送ることが出来た心境です。 宮城UMCの仲間は、それぞれが自己新記録を達成してのゴールでした。私は44時間11分あまりで、今回初めての逆周りコースを走り切ることが出来ました。擦り傷、肉刺(まめ)に苦しみ、左の足首は今大きく腫れ上がっています。睡眠不足と疲労のため、吐き気やものが二重に見える苦痛との戦いの206kmでした。 最後はガス欠になり、ゴール地点が分からなくなり2度3度とコース上をさまよっていました。それでも何とかゴールできたのは、R子さんと一緒に走るという思いが胸にあったからでしょう。その意味で、今回の完走はR子さんのお陰だと思っています。 完走記は明日以降書きたいと思っています。留守中にメッセージをくださった皆様へのご返事も、申し訳ありませんが明日書かせていただきます。心から応援してくださった方々へ、無事帰宅の報告で御礼に代えさせていただきます。本当にありがとうございました。
2009.09.22
コメント(4)
過日鳩山内閣が誕生した。アンケート調査による支持率も、歴代2位か3位ほどの高さと言う。だが新政権の課題は多く、当分の間心身の休まる暇はないだろう。相変わらずY新聞の新政権に対する評価は厳しい。発足後間もない内閣に対して、あまりにも冷淡な論評しかしないのは何故だろう。 アメリカとの新しい関係構築を含む外交問題、経済対策の建て直し、財政の見直し、少子化対策、高齢者医療問題や年金問題への対策、郵政の見直し、憲法と防衛政策の整合性等々、民主党が選挙時に訴えたマニュフェストに基づく政策実施には、まず隘路の解決が必要だ。 官僚に頼らない政治。前例にこだわらない政策。徹底した無駄の排除。どれもこれも一夕一朝には解決できない問題ばかりだが、焦らず前向きに取り組んで欲しい。これまでの自民公明路線を見直すのだから時間がかかり、かつ抵抗が多いのは当たり前。改革の意思を示すだけでも政権が交代しただけの価値はある。今後大いに汗を流して欲しい。 16日。我が家の愛犬マックスが11歳の誕生日を迎えた。ラブラドルレトリバー種のオス。いわゆる黒ラブだ。人間の年齢に直せば還暦に相当する由。あご髭のほか、足などにもちらほら白髪が見えるようになった。1年に4つ歳を取る黒ラブの場合、マックスが私の歳に追い着くのは再来年の6月。共に67歳となり、その後は急速に彼が私を追い抜いて行く。まだまだ元気な彼だが、これからも共に健康で老いて行きたいと思っている。 さて、明日の朝、私は佐渡へ向かう。「佐渡島一周」を走るためだ。地図やお金を持って走るため、新しいポシェットも買ったし、栄養剤や胃酸を抑える胃薬も買った。幸い週末の台風の影響もさほどのものではなく、結構好天気が続くようだ。きっと汗かきの私は暑さとの戦いになるだろう。今回はR子さんの追悼レースであることを意識し、極めて地味な服装を選んだ。 佐渡島を一周しながら、果たして私の胸にどのような想いが去来するのか見当がつかない。笑みがこぼれるか、はたまた悲しみが襲うのか。それはその時の感情に任せようと思う。全国の大勢の仲間が彼女の死を知り、追悼ランを企画していると聞いた。今回の佐渡島でも彼女を追悼しながら走る仲間が多そうだ。嬉しくもあり、頼もしくもある。出来れば彼女と一緒に笑いながら走りたかったのだが。 ともあれ明日19日(土)に出発し、22日(水)の夜に帰宅する予定。長い間留守にしますが、どうぞよろしくお願いします。最後に、昨夜から今日にかけてメッセージを寄せてくださった皆さんに衷心から御礼申し上げます。では、皆さん御機嫌よう!!<スケジュール>9月19日(土)仙台~新潟:長距離バス 新潟~佐渡島:ジェットフォイル 夕刻からレース説明会および懇親会9月20日(日)朝6時レーススタート 仮眠所まで100kmほど走り、夜間は歩く予定9月21日(月)朝食後、再びゆっくりと走り出し、1日走行予定。9月22日(火)朝6時がゴールの制限タイム。果たしてこの何時間前にゴール出来るか。 9時から朝食兼反省会。ジェットフォイル、長距離バスにて夜帰宅。
2009.09.18
コメント(10)
昨夜、ふと喪章を作ろうと思い立った。黒い布地を探したら、警備用のズボンの裾を詰めた残り布があった。まだ一度も身に着けていないし、これにしようと決める。小さな鋏で切ったら、どうも形が整わない。次にカッターナイフと定規を使ってみたが、布が撚れて駄目。何とか形を作り、最後に三角の切り込みを入れた。 黒いリボンを「佐渡島一周」のゼッケンに留めて見る。これで佐渡島を廻る予定。走り、歩きながら亡くなったR子さんの面影を偲び、冥福を祈るのだ。いかにも不細工な喪章だが、手作りなのできっと彼女も許してくれると思う。 喪章を作り終えてから、ちっちさんの掲示板を訪れた。何度も彼女と一緒に長い距離のレースを走っているちっちさんなら、きっと何かをご存知だろうと思ってのことだ。思いがけない事態に疲れ果て、10時頃には床に就いた。だが、R子さんのことが気になったのか夜中に何度か目が覚め、今朝はいつもより30分以上も早く起床した。 外へ出ると風が吹いて寒い。最低気温は12度と言っていたが、風があるためか体感温度は10度以下に感じる。東の空には月。欠けた部分も仄かに明るい。そしてその傍に一際明るい星が一つ。あれは木星だろうか。南の空にも明星。きっとR子ちゃんもどこかの星になったのだろう。そう思って夜空を見上げた。 愛犬との散歩から帰宅後、パソコンを開く。早速ちっちさんのHPを訪れると、私の質問への丁寧な回答があった。R子ちゃんの死因は卵巣がんだったそうだ。今年の「裏エゾ」は仕事の関係で、途中から帰ったとか。本人は仕事を辞めて田舎へ帰りたかったそうだが、どうしても会社を辞められなかったようだとも書かれていた。そうか。まるで観音様のようにいつも微笑んでいた彼女にも、結構辛い出来事があったのだ。 前夜のうちにいただいていたメールへの返事を書く。1人は秋田のJunさんで、もう1人は大崎市のT田さん。2人とも佐渡でR子ちゃんと走った仲間で、やはり彼女の死を知って驚かれた様子だった。Junさんへは、質問に答える形での返事をしたためる。 T田さんは、私のブログを読んだK彦氏からの連絡でR子ちゃんの訃報を知った由。ご丁寧にも昨年の「佐渡島一周」時の写真が添付されていた。R子ちゃん、Junさん、T田さん達がにっこり微笑んでいる写真が何枚か。まさかこの1年後に、彼女が亡くなるとは思いもかけなかったろう。同い年のJunさんはかなりのショックを受けたようだ。 やはり心に余裕がなかったのか、今朝はいつもと違うランニングシューズを履いて出勤した。仕方なく、今日はそのシューズで帰宅ランを決行。昼食後パソコンを開くと、大勢の方がブログへ書き込みをしてくださっていた。新潟の銀のねこさんもその1人。彼女も「佐渡島一周」でR子さんと一緒に走った仲間だが、年齢も近い同性の死に、かなりのショックを受けたみたい。 T田さんからはメールで二伸が届いていた。「佐渡島」仲間が、R子さんの逝去についての情報を苦労して入手された由。情報によると、7月の時点で彼女は余命3ヶ月と宣告されていたようだ。銀のねこさんではないが、爾後死を迎える日まで、R子さんはどう過ごしていたのだろうか。 あまり心の昂ぶりが感じられなかった今回の佐渡だったが、R子ちゃんの訃報を知った今、彼女の冥福を祈りながら島を旅するのが生かされている私達の務めのように思えて来た。みすぼらしい手作りのリボンを胸に、彼女の思いが詰まったコースを精一杯走り、かつ歩いて来ようと思う。暖かいメッセージをお寄せくださった皆様に、この場を借りて御礼申し上げます。合掌。
2009.09.17
コメント(14)
沖縄で24歳の女性が新型インフルエンザで死亡したようだ。持病や基礎疾患がない患者が新型インフルエンザに感染し、重症化して死亡した初めてのケースなのだとか。わが国でもいよいよここまで来たかと心配になる。この方はカプセル薬の服用が困難だったことからタミフルでの治療が出来ず、ウイルス性肺炎の治療中にくも膜下出血を引き起こしたのが死因とか。 昨日の夕刻にある方のブログを観たら、女性のウルトラランナーが亡くなったと書かれていた。年齢39歳で、ピンクの上着を着、毎週のように各地のウルトラレースに参加していたこと。そしてイニシャルがSと言えば私は1人の人しか思い浮かばなかった。まさか彼女ではないだろうなあ。何かの間違いでなければ良いが。今日はそう思いながら過ごしたのだった。 だが、念のために今日になって再びブログを確認したら、一昨日の欄に何と彼女の写真が小さく掲載されていた。それはまさしくR子さんのもの。私の心配は現実のものになってしまった。ブログによれば今年の6月ころから不調だったようだ。私が最初に彼女と出遭ったのが第1回の「佐渡島一周」。2人とも20km過ぎのところでコースを間違えたのだが、彼女は明るく笑いながら視界から遠ざかって行った。 2度目の出会いも「佐渡」の第2回。140km過ぎで遭遇し、しばらくの間併走した。道端に座って一緒にお握りを食べたりして、長閑に過ごした一時だった。彼女はその時私を「お父さん」と呼び、私は彼女を「R子ちゃん」と呼んだ。実際に私の長女と変わらない年齢の彼女。温和な笑顔で、良く毎週のように各地のウルトラレースを「はしご」出来るなあといつも感心していたものだ。 3度目の出会いは昨年の「宮古島ワイドー」だった。私は池間大橋を渡り終えて50km地点を過ぎていた。だが彼女はまだ橋を渡る手前で、10km以上の差がついていた。いつも元気なR子ちゃんが何故10kmも遅れるのか不思議。それにその前年の暮れの「神宮24時間走」では、彼女は90kmちょっとで止めたのが記録で分かった。 その日は雨が降ってとても寒かったようだが、それにしても24時間走で100kmも走らないなんて、相当不調だったのだろうとは思っていたのだ。100kmを超えるウルトラレースは、体にかなりの負担を掛ける。もしレース直後に健康診断を受けたら、即入院の結果が出ることは自分の経験からも断言出来るくらいだ。 若い女性がそんな過酷なウルトラレースを走り続けていたら、そのうちに単なる疲労か、それとも過労による免疫力低下なのかの判断がつかなくなるだろう。加えて病気に冒されれば、若いだけに進行は早い。だから何か異常を感じたら直ちに医療機関を訪れる必要があると思うのだ。 ピンクの上下で、いつも微笑みながら走っていたR子ちゃん。その死を知った今、今回の「佐渡島一周」は彼女の霊前に奉げる鎮魂レースとして走り、かつ歩きたいと思う。それにしても39歳とは若過ぎる死。そう言えば誰かが言っていた「彼女はウルトラマラソンと結婚したんだよ」の言葉を思い出す。R子ちゃん、今はゆっくり休んでくださいね。そしてそのうち爺もそちらへ行きますから、その時はまた一緒に走りましょうね。心から貴女の死を悼んで合掌します。<お断り> 今日は鳩山政権誕生の話や、愛犬マックスの誕生日の話を書く予定でしたが、突然のR子さんの訃報に接し、急遽内容を変更しました。
2009.09.16
コメント(12)
やりました~、シアトルマリナーズのイチロー選手。9年連続200安打はメジャーの新記録だそうです。達成したのは敵地アーリントンのレンジャーズとの試合。この試合何と雨で4時間以上待って試合が始まったと言うし、新記録はダブルヘッダーの第2試合で出たと言うから驚きです。 この記録は108年以上も前に出た8年連続を更新すると言うのも凄いこと。当時はファールボールはストライクと数えない打者有利のルール。今とはプレッシャーが違います。メジャーは年間の試合数も多いし、移動距離も長いので疲れ方が違います。それにアメリカ国内には確か3つの時差があるため、選手の体への負担が大きいはずです。 それらの障害を乗り越えて、つい先だっては大リーグ通算2000本安打を達成しています。また5年前に作った年間262本のヒットも確かメジャーの新記録だったはずです。テレビで観たら、今回の大記録達成の瞬間もイチローは極めてクールな表情でファーストの塁上にいましたね。でもレンジャーズファンからの惜しみない拍手は、彼にとってもきっと嬉しかったことでしょう。 さほど図体が大きい訳でもない彼が、勇躍メジャーに乗り込んだのが9年前。最初はブーイングの嵐で迎えられたみたいです。それでも信念を変えなかった彼。200本安打を4年連続で達成した時、夫人は「9」という数字をアレンジしたペンダントをイチローにプレゼントしたそうです。彼が好きだった数字と言うだけでなく、その時からメジャー新記録となる9年連続200本安打達成の夢を夫婦で描いていたのですね。 今年はWBCでの不振などが原因で胃潰瘍をわずらうなど散々な出だしでした。でも終わってみればWBCでは最後の最後に大きな仕事をしたし、胃潰瘍による欠場から復帰したメジャーの公式戦でも、ほとんど欠場した不利さを感じさせない安定感がありました。新記録達成まで残り数本となってから、足踏みしたのはほんの数試合でしたね。この辺にもイチローのハートの強さが感じられます。 試合後のインタビューで彼が話していました。これでようやく重圧から開放されると。これまでは記録を保持していた選手との戦いだったけど、これからは自由に打つことが出来るとも。鉄人イチローにして、そこまでプレッシャーを感じていた証だと思うのです。 それにしても不思議なのは、シアトルマリナーズが優勝するために選手を手厚く補強しないことです。イチローも個人成績達成だけで満足しているわけでもないのでしょうが。実は私は格好良いイチローよりも泥臭いゴジラ松井の方が好きです。膝を痛め、ボロボロになりながらもニューヨークヤンキースで4番を任せられるバッター。あの飄々とした態度が私は大好きなんですよ。 さて、私個人の記録と言えば、平成8年全都道府県探訪達成(最後の県が和歌山で、記念に「和歌山城ー高野山往復110kmマラソンに出場)。平成14年、ランニングの累計で地球一周(約4万8km)達成。平成16年全都道府県走破(最後の県は奈良県で約50kmの単独マラニックでした)達成くらいでしょうか。1回の最長距離は62歳の時に走った「佐渡島一周」が途中道路工事で211kmでした。その佐渡への参加も多分今回が最後になると思っています。
2009.09.15
コメント(4)
金曜日の研修で、かなりの数の同僚達がマスクをしていた。情報によれば、我が社の社員で新型インフルエンザに罹った人はまだいない。でも我が社の契約先には病院もあり、現場のビルで新型インフルエンザの患者が出れば要警戒。このためマスク着用を指令された現場が出たのだろう。 あの研修が終わってからどうも頭が痛い。そこで昨夜体温を測ってみた。結果は35.8度。「それしかないの?」。こう反応したのは妻。どうやら風邪ではないようだ。でも念のために痛み止めを飲んで寝た。先日歯医者でもらった頓服が、こんな時に役立ったようだ。 どこか知らない土地で、バスを待つ私。バスは来たのだが肝心の息子2人の姿がどこにもない。慌てて探しているうちに目が覚めた。どうやら夢だったようだ。それも30年ほど昔のもの。それにしても妻と長女が夢の中てのシーンに出てこなかったのは何故?まだ結婚してない息子2人への心配が、こんな形で現れたのだろうか。 今朝の起床は4時半。頭痛はすっかり治まっていた。まだ暗い中愛犬との散歩に向かう。空には三日月がかかり、東の空には一際明るい星一つ。あれは金星?それとも木星?いずれにしても夜明けが遅くなったことは確か。その空も帰宅するころには徐々に白み、やがて美しい朝明けに変わった。川岸には満開のコスモス。もうすっかり秋の風情が漂う。 今日は仕事の合間に「工作」。3枚のコピーをつなげて1枚の地図を作った。縮尺10万分の1の佐渡島全体の地図だ。さほどずれることもなく出来た大きな地図は、1cmが1kmに相当する。この地図は、今週末に出かける「佐渡島一周エコジャーニーラン」への備え。スタート地点であり、ゴール地点でもある西海岸の夫婦岩付近には大きな赤丸を付した。 大会の受付時には縮尺2万5千分の1の地図を20数枚手渡される。確かに詳しいけれど、持って走るには多過ぎるのだ。佐渡島への出場は今回で3度目なので、大まかな地理は記憶している。だが、逆時計廻りだった第1回、第2回と異なり、昨年からコースが時計回りに変更。だからこれまでの記憶が果たして役立つかは分からない。 1枚の地図で島全体を確認できることはとても有効。それに私は走後長編の完走記を書く予定なので、コースのどこでどんなことが起きたか書き留めておく必要がある。40時間以上走り、歩くため、メモしないと後で分からなくなるし、2晩寝ないと疲労のために幻覚や幻聴も生じる。記憶違いを避けるためにも地図への書き込みは欠かせない作業なのだ。 今日は勤務後、久しぶりの帰宅ランで山越え。家まで残り1.5kmほどのところで、突然私を呼ぶ声がした。同じ走友会のT脇さんだった。私は彼女が先日の走友会の合宿で、山形蔵王まで山越えで走ったことを知っていた。前に彼女と会ったのはやはり私の練習時。その時彼女は乗っていた軽トラから声を掛けてくれたのだ。彼女の次のレースは「秋田内陸」の50kmの部とのこと。お互いの健闘を祈りながら別れを告げた。 夕方パソコンを開いて、寛平ちゃんのアースマラソンを確認。何と4つ目の国であるドイツへ入国したものの、再びオランダへ戻ったみたいだ。先日もベルギーとオランダの国境付近で同様の出来事があったが、国境線が複雑に入り組んでいるのだろうか。確かルートはネット上で最短のものを選んでいると聞いたが、それにしても不思議。こんな時には詳しい地図が手元にあれば助かるのだが。
2009.09.14
コメント(6)
昨夜床に就いたのは8時半ごろ。そして起きたのが今朝の5時半。ざっと9時間ほど眠ったわけだが、よほど疲れていたのだろう。昨日の土曜日、仙台では気温が上がらず、私は長袖の上に薄手のセーターを着、足元を「どてら」で覆ってパソコンに向かっていた。観ていたのはソフトバンク対楽天の試合。終了寸前に放送が終わったためにかなり焦った。 楽天が勝利して球団初のマジックナンバーが点灯したことは昨日書いたとおりだ。4時間ほど個人応援歌を歌い、手拍子を叩いて楽天の選手を応援していたものだから、それが疲労の原因だと思う。あまりの嬉しさのため何人かのブログ仲間を訪ね、勝利を喜び合ったことも関係しているだろう。今朝の愛犬との散歩で向かった先は近所のコンビニ。もちろんスポーツ新聞を買い、我が楽天の記事を確認するためだ。 日曜日の今日は資源回収ゴミをステーションまで届け、朝食後はしばらくテレビを観続けていた。政治番組で政局の最新情報を知るためだ。その局がコマーシャルを放送中は、他局のバラエティー番組に変える。そちらでも政局を扱っている。 我が家で取っているY新聞は極めて保守的。スポーツ欄で結構楽天のことを扱うことと文字が大き目で読みやすいのが助かる。だが、最近の政治に関する記事は、極めて民主党に厳しい内容。まだ発足していない新政権に対してこれほど冷ややかだと、読んでいても面白くない。そのうち他紙と替えようかと思うが、どうやら我が家の財務大臣が半年先までの購読を約束したばかりのようだ。 午前中油絵の教室へ行っていた妻が帰宅し、午後から街へ行こうという。本当は1時からプロ野球の中継を観ようと思っていたのだが、久しぶりに妻に付き合うことにした。昨日から街中で「ストリートジャズ・フェスティバル」をやっているのだ。今年で19回目になる仙台の名物行事。たまたま街へ行った時に出遭ったことはあるが、わざわざ観に行くのは初めてのことだ。 バスから降りて暫く行くと、早速楽器の音が2重に聞こえて来た。地下道を通って地上へ出るとすぐ目の前で演奏している。昼食を摂ったビル内でもピアノとベースによるしっとりとした演奏。クラシックの曲を独自にアレンジした感じ。そのまま道を真っ直ぐ進むと信号の先でも別のグループ。そしてその斜向かいからも演奏の音。 市役所前の広場、県庁前の公園には物凄い人だかり。そして屋台からはもうもうと煙が立つ。へえ~。ジャズフェスティバルってこんなに賑やかだっただ~♪と再認識。なんでも街中での演奏箇所は50近くで、土日の2日間で721のグループが参加するのだとか。そしてジャンルもロック、フォーク、ソウル、アコースティック、ポップス、ブルース、ヒュージョン、ジャズコンポ、ボサノバ、クラシック、打楽器、ワールド等々様々。つまりジャズフェスティバルから始まった祭りが、今はあらゆる音楽の祭典になったのだ。 元々の会場だった定禅寺通りに向かう。ここから始まったジャズ祭が、今や仙台の中心街全体に広がっている。会場を一つずつ訪れながら最後は西公園へ。ここでも5箇所で演奏を楽しんだ。アフリカのパーカッションを楽しんでいた横を見覚えのある顔が横切った。相手も気づいて挨拶を交わす。さくらんぼ狩りで一緒だったS田夫妻だった。そこから再び中心街を横切ってバス停へ。すっかり芸術づいた初秋の一日だった。 実は楽天の試合が気になって、街を歩きながら時々ラジオを聴いていた。途中放送が競馬に切り替わり、結果を知ったのは帰宅してから。残念ながら今日は1対2でサヨナラ負け。日ハムも西武も勝ったようだ。多分これで折角点灯した楽天のマジックナンバーはあえ無く消えたと思う。まあこんなこともあるさ。長く厳しい道がこれからも続くと思う。気を取り直してブログの執筆に向かった私だった。
2009.09.13
コメント(6)
9月3日(木)私はKスタへ行った。座席はレフトの自由席。料金はたったの千円だ。我が楽天の先発は田中。対する西武は帆足。クライマックスシリーズを争う3位と4位の激突だった。注目は調子を取り戻し、自己新記録の12勝を上げた田中と、楽天には滅法強いサウスポーの投げ合いだ。だが、田中は西武の打線に捕まって4点を失い、一方の帆足は「お得意さん」を相手に最後まで悠々と投げ切った。0対4の完封負け。原因は私がいつものカツ丼ではなく、助六寿司を食べたことか。 9月5日(土)私は再びKスタへ行った。座席は内野指定席のB。料金は外野に比べれば高いが、この日は会社のレクレーションでただ。楽天の先発青山は落ち着いて投げていたものの途中で日ハムの打者に捕まり、結果は3対10のボロ負けだった。これで4連敗。全て左投手をぶつけられての敗戦だった。 その後、楽天は奇跡的とも思える5連勝。特に昨夜のソフトバンク戦は、9回表1対3のビハインドから鉄平のグランドスラムなどで一挙6点を挙げ、7対4で神がかり的な勝利。これで田中に13勝目が転がり込んだ。 このところの楽天の好調の原因は何だろう。まずは13勝5敗の田中、12勝5敗の岩隈、10勝6敗の永井と、10勝以上の投手が3人もいることか。さらに新人、藤原などの活躍も大きい。一方の打撃部門では首位打者の鉄平、7位の草野、17位の直人に加え、主砲山崎が良く頑張っている。特に山崎は41歳でのホームラン記録を塗り替え、今日も2本の2ランホームランを打っている。 さて、今セリーグ、パリーグ共に3位争いが面白い。特にセリーグは、ヤクルト、阪神、広島が僅差で後を追い、場合によっては借金のあるチームが3位でCSへ進出する可能性が高い。一方のパリーグはわが楽天と西武の戦いが熾烈だ。1週間ほど前から楽天が勝ち、西武が敗れれば楽天にCS進出のマジックナンバーが点灯する状況が続いているのだが、楽天が勝てば西武も勝ち続けて点灯を阻止している。 今日は日ハムがデーゲームで負けた。調子が良かった西武もついに連勝が止まった。これで楽天が勝てば待望のマジック点灯。そして8回表まで6対0で大量リードして楽勝かと思いきや、その裏ソフトバンクは打者12人を送る猛攻で5点を取り返した。昨日に続いて今日も激闘の試合だが、最後は小山が何とか抑えたようだ。ついに待望のマジックナンバー19が点灯だ。 実は楽天の快進撃には裏話がある。ブログ仲間には何人かの楽天ファンがおられるが、埼玉のしぃさんもその1人。彼女の実家でつい最近ゴマを収穫したと聞いて、ある呪文をお願いした。「開けゴマ!開け楽天の勝利の扉!!」と言うのが彼女が送ってくれた呪文。これが届いてからまだ負けてない。 さらに昨夜は、田中マー君の熱烈なファンである福岡のジジさんが、わざわざご主人とヤフードームへ応援に行かれた。彼女のブログのほとんどはマー君賛歌で埋め尽くされている。彼女の強い想いが、きっと9回表の大逆転劇につながったのだろう。私が楽天ファンであることを知ってから、富山のテラさんや大阪の松風さんも時々応援してくれる。これだけの応援と呪文があれば、きっとCS進出は叶うだろう。いや2位も狙える?それとも、もしかして優勝?う~む。あまり欲張らない方が良いかな?
2009.09.12
コメント(8)
今日は我が社の研修の日。半年に1回ある警備員の現任教育を受けて来た。先月移転した研修センターは中心街のビルの20階にあった。さすがに眺望は良く、遥か太平洋に浮かぶ船まで見えた。そしてビルの建築ラッシュが続いているのが一目瞭然。だが、ビルの空き室が多いのはわが市が一番なのだとか。 研修に先立ち某氏から事務連絡。彼は私がこの会社に入った際の上司。当時の肩書きは主任だった。何でも不祥事を起こし降格されたとか。これが風評通り酷い人物だった。平気で嘘をつき、気に入らない人を脅して辞めさせ、お気に入りには超過勤務を水増しし、女性問題もあった。ゴマをすらない私はずいぶん嫌味を言われたものだ。 そんな彼がある時10日ほど無断欠勤した。事情調査に訪れた上司に私達は日頃の実態を訴えた。やがて彼はのこのこ出勤して来たが、彼がついた嘘を確認するために本社へ出向いた。応対した管理職に洗いざらい話したところ、やはり私に示したことは嘘だと判明。私が彼に猛抗議したことは言うまでもない。 結局その現場は入札に負けて仲間は分散したが、彼はやがて再び昇任した。ふん、その程度の会社か。私は腹の中でそう思った。あれほど非人間性を訴えたのに、会社にとっては彼が持つ10以上の資格が重宝だったのだ。今では社員を研修する立場の彼に、私はあれ以来一切挨拶しない。息子と同じ歳の若者から平気で嘘を言われ続けたら、信用するなんてとても無理な話。 X氏の研修は、気をつけ、敬礼などの基本動作の確認から始まった。それから消防法、警備業法、遺失物法の改正点など関係法令の説明を一通り。人柄も良く法令にも明るい部長は、教育者として最適。「柔らか頭」の持ち主で、譬え話も実に巧み。某氏とは好対照の人格者だ。 X氏曰く。先日銀行の現金輸送車を乗り逃げした運転手と取り残された助手は、いずれも警備員としての資格が無かった由。あの警備会社は警察から警備業を取り消されるだろうとも。私達警備員が半年に1度厳しい研修を受けるのは、このような犯罪を防ぐためでもある。 Y氏が担当したのは、消防訓練と事故発生時の措置について。多分40代だと思う彼と初めて出会ったのがまだ主任の頃。我が社の清掃担当にしては珍しく頭が切れ、対話をする態度が違っていた。これは出来る人物だと密かに思っていたが、あっと言う間に係長になり、課長クラスに昇任した。研修の初っ端に顔を出した某とは完全に立場が逆転。今日はかなり疲れていた感じを受けたが、きっと中間管理職としての気苦労が絶えないのだと思う。 現在の直属の上司であるZ氏は、護身術の実技を担当した。高校時代は陸上競技部に所属する傍ら、トライアスロンもしていたとか。そのせいか、私のマラソンについて理解を示してくれるのが有難い。かつてのアスリートも30代後半となり、今やすっかりメタボ体型。目下隣県で新しい現場の立ち上げを担当していると聞いた。 その彼に私は幾つか「貸し」がある。仕事上で「借り」を作るのは頭が上がらないばかりか、甘く見られる元だ。現場では一切泣き言は言わず黙々と仕事をこなし、いざと言う時に初めて正論をぶつける。だから信用もされるし、意見も聞いてもらえる。最近他の現場で同僚の警備員が強盗に遭ったためか、今日の護身術の稽古は皆真剣だった。 最後はAEDによる心肺蘇生法の実技。最近AEDを備える現場が増え出したそうで、これも人命に関わるだけに誰もが真剣だった。まあ、事故の現場に立ち会うようなことがない方が良いのだが、不幸にして臨場したら自分も覚悟を決めて実行したいと思う。担当の女性の左薬指に真新しい指輪発見。おおっ、彼女もとうとう結婚したのか。真剣な実技の合間にも、周囲を監察するくらいの余裕はあるのだよ。ムフフ。
2009.09.11
コメント(8)
朝夕めっきり涼しくなった。風はもう爽やかな秋の風。我が家の畑では、先日蒔いた大根、春菊、白菜の可愛い芽が出ている。昨夜寝たのが遅かった分、今日は眠くて仕方がなかった。帰宅してパソコンを開くと、アースマラソン中の寛平ちゃんが順調に走っていることが分かった。ヨーロッパ3カ国目のオランダに入ったものの、ゴールした場所は再びベルギーだったとか。どうやら国境が複雑に入り組んでいる場所だったようだ。 ブログを開くと2人の書き込みがあった。1人は富山のテラさんで、昨夜あった楽天の試合結果についてのもの。そしてもう1人は古いネットの走友である千葉のぼくし~どん。彼が初めて「佐渡島一周」へ出ることを知ったのは、1ヶ月ほど前のことだったと思う。彼と一緒のレースに出るなんてのは、多分10年ぶりくらいのことだろう。 今日彼のHPを訪ねたら、久しぶりに復活する「さくら道」270kmへ申し込んだ由。「さくら道」復活のニュースを知ったのは星峰さんの掲示板で、1週間ほど前のこと。彼女も早速申し込んだようだ。名古屋から岐阜県、富山県を経て、石川県の金沢へ達するこの大会は海宝さんの主催。 中止されてからもこのレースの復活を願い、4月、5月の連休を利用して「1人さくら道」と称する1人旅を密かに行っていたランナーが何人もいたことを知っている。我が走友会のKさん、滋賀のO平さん、そして久しぶりに書き込みをしてくれたぼくし~どんもその1人。制限48時間で3つの県境を越える厳しいレースは、ウルトラランナーの憧れの的だった。 ぼくし~どんは言う。出たいけれど果たして選ばれるかどうかは分からないと。それは誰も同じ気持ちだろう。ぼくし~どんが「佐渡島一周」へ申し込んだのも、きっといつかは「さくら道」へ挑戦するための練習台としてだと思う。太平洋から日本海まで桜の木を植え続けた亡き佐藤さんも、きっと天国でレースの復活を喜んでいるに違いない。 270kmもの壮大な夢を描く術も無い私は、ぼちぼちと佐渡島行きの準備中。今週の火曜日、義肢製作所に調整をお願いしたインソールが今日の午後届いた。まだ実際に走ってはいないが、少しは走り易くなったことを信じたい。今日は勤務後に床屋へ寄った。少しでも頭がさっぱりすれば、発汗が楽になり走り易いだろう。 夜間ランでの装着を義務付けられている赤色灯の電池を換えた。前回佐渡島で使ったのは2年前のこと。既に電池が切れて点かなくなっていたからだ。再びピカピカ光り出した赤い灯火。これで一安心だ。今日は念のため懐中電灯の電池も交換した。そして反射材も忘れないよう携行したい。 2年前に比べて足の故障や衰えが著しく、206kmもの距離に対する不安があるのが正直なところ。それを補う気力の衰えも感じる。だが、それなりにレースを楽しむことは可能。速いランナーや、元気だった頃の自分と比較しても無駄だし、現在の力で自分なりにレースを楽しめれば十分だ。 暫く前から佐渡の天気予報を毎日確認するのが日課になった。このところ上天気が続く佐渡。だが10日後の天候がどうなるかはまだ不明。台風以外ならレースが中止されることはない。いやいや、風速30mの暴風下でも開催された「八丈島一周」の主催者なら、少々の風雨でレースを中止することはないだろう。そしてこの歳では、例の国に拉致される心配もない。 雨にも負けず、風にも負けず、夜道の淋しさにも耐えて何とか佐渡島をぐるりと一周したいものだ。赤色灯よ頼んだよ。懐中電灯君よろしくね。医療用インソール。お前が頑張ってくれれば俺も走れる。軽くなった頭で、爽やかな佐渡の風を思い切り感じたいものだ。佐渡島一周まで残り後10日。
2009.09.10
コメント(4)
昨日整形外科へ行った時のこと、受付に診察券を出し、インソールの調整のために義肢製作所の方と待ち合わせをしているとスタッフの人に告げた。この病院は評判が良いせいか、いつも患者で込み合っている。空いてる座席がテレビの前にしかなかったため、止むを得ずそこに座った。だが何時まで経っても処置室から呼ばれない。 持っていたスポーツ新聞も読み終え、待合室に置いてあった雑誌「山と渓谷」にも一通り目を通した。辛抱し切れず受け付けに行き、まだ名前が呼ばれないがどうなっているか様子を聞いた。それから間もなく処置室から私の名を呼ぶ声がした。あれほど混んでいた待合室の患者も残りわずか。ここへ来てかれこれ2時間近く経っていた。 ベテランの看護婦が気勢を先するように言った。「見えないようなのでお家の方へ電話したんですよ」。私は即座に言った。「だって診察券を出して待っていたんですよ」。私が新聞や雑誌を読むのに夢中になっていた訳ではない。テレビの音もさほど高かった訳ではない。だが看護婦さんの呼ぶ声が、今日はやけに小さいなと感じたのは確か。 年寄りは段々耳が遠くなる。だからテレビを点け、混雑する待合室で患者を呼ぶ際は大きな声じゃないと聞こえない。もしちゃんと聞こえるように呼んでくれたら、多分30分以内で用件が片付いたと思うのだ。私の怒りを察したのか、義肢製作所の社長が言った。「調整が終わったら自宅の方に送りますよ」。これで再度病院に行くことは免れたが、失った時間が勿体無かった。昨夜の日記が遅かったのにはそんな訳があった。 今日は午後から歯医者へ行った。先週抜いた歯根の傷口を消毒し、歯石を取ってもらった。新しい義歯を入れるのは1ヶ月半後とのこと。そのままHCへ行って愛犬の餌を買い帰宅。妻が仕事から帰っていたため、財布を置いて夕方の散歩へ行った。ところが帰宅したら、何と家の鍵がすべて掛かっている。妻は再び仕事へ出かけたようだ。 同じようなことが前にもあり、その時は梯子を伝って2階のベランダから家に入った。だが今日は2階の窓はどこも開いていない。仕方なく畑の苗や植木鉢の花に水遣りをした。だが、最近夕方は涼しくなり、何箇所か蚊にも食われた。思い余ってお向かいの家を訪ねた。厚かましくも妻が帰宅するまで待たせていただく算段だ。 ご主人はとても気さくな方で、我が家とはお土産や野菜の交換をする間柄。今日も快く居間へ迎え、コーヒーやお菓子をご馳走になった。そして2人でおしゃべり。話題は最近の政権交代劇。ご主人の政治好きと考え方は前から知っている。かつ私とは話が合う方だ。今回の失敗は私の不注意が原因だが、それも政治談議が出来たことで無意味ではなかった。こんな待ちぼうけならたまには良いか。以上が今夜の日記が遅れた理由だ。 さて話は変わって、今夜の楽天は対オリックス戦。つい先ほどまで4対0でリードしていたが、今はどうなのだろう。そして4位の西武も勝っていたはず。もし今夜楽天が勝ち、西武が敗れると楽天にCS進出のマジックナンバー22が点灯する。何日か前にもそんな話があったが、結局点灯はしなかった。楽天ファンにとっては実に気がもめる「待ちぼうけ」なのだ。さて、今夜の結果はどうなる?そして待望のAクラス入りは何時実現するのだろう。まさか、明日の日記も遅れるなんてことはないだろうねえ。
2009.09.09
コメント(4)
1週間かかって「立山登山マラニック」の参加記を何とか書き上げた。今回は初めてウォークの部へ参加したことに加え、大雨のためレースが途中で中止されたことで、さしたるドラマもなかったし、厳しいレースに臨むとの気持ちの高まりも少なかった。同学年のT本さんが話していたが私も同じで、加齢と共にレースに対する気力が年々希薄になって来つつある。 さて、「アースマラソン」の寛平ちゃんだが、フランスへ上陸しヨーロッパ大陸を走り始めた直後に足を傷めて心配していた。それが日本から来てくれた専門家のお陰で足の治療が出来、再び走り出すことが出来たようだ。確か昨日辺りからヨーロッパでは2つ目の国のベルギーに入国し、今日辺りは多分オランダを通過中だと思う。 彼の故障の原因は上陸して急に足に負担をかけたこと。その遠因にはコペンハーゲンで開かれるIOCの会議に何とか間に合わせようと、無理をしたためではないか。ご存知の通り寛平ちゃんは、石原都知事から東京オリンピック実現のため、「招致大使」としての役割を仰せつかっている。そんな役目を引き受けなければもっと自由に走れたのにと思うのだが、優しい人柄の彼は断り切れなかったのだろう。 つい最近、掲示板を見て2つの壮大なランを知った。1つ目は私が所属する南仙台走友会の仲間の話。山男であるY田さんが蔵王連峰を走るプランを立て、数人の仲間達と実行した由。遠刈田温泉をスタートし、林道や登山道48kmをおおよそ12時間で走破したようだ。最大高低差は1500m近くだったと思う。毎年行っている蔵王エコーライン練習会より、さらにハードなものだったろう。仲間の挑戦を讃え、その快挙を喜びたい。 2つ目は仙台明走会のFさんの列島横断の話。仙台港をスタートし、宮城県の白石市から山形県の高畠町を経て、新潟県北部の新発田市まで210kmを45時間で走破したと言うもの。途中の七ヶ宿町では、偶然出遭った走友が、夜道は危険だからと言って反射材をくれた由。新発田市では息子さんやお孫さんが待っていたようだが、日中の暑さや夜間の眠気に負けず、不眠のまま走り切った気力と体力には恐れ入る。年齢は私より若いが還暦は過ぎているはず。 地球を自分の足とヨットとで一周しようとしている寛平ちゃん。蔵王連峰と言う自然豊かな舞台で山岳ランを試みた我が仲間達。そして仙台から新潟までの単独横断を敢行したFさん。それらは全て健全な心身がなければとても実現は不可能。中でも旺盛な挑戦心、気力が無ければ無理な話だ。 後2週間足らずで私は「佐渡島一周」へ向かう。距離206km、制限48時間の厳しいレースに耐える力が今の私に備わっているかは不明。挑戦するからには元気な姿でスタートラインに立ち、何とかゴールを目指したい。練習はあまり出来ておらず、足の調子も万全ではないのが少々心配だ。 だが、いまさらそんな愚痴を言っても始まらない。今日は先日新調した医療用インソールを調整してもらうため、整形外科まで出向き義肢製作所に底部を1mmほど削るよう依頼した。今回の「佐渡島」では果たしてどんなドラマが待っているのだろう。昨日ゼッケンナンバーも届いた。これから気力を高め、強い気持ちで佐渡に臨みたいと思っている。
2009.09.08
コメント(10)
< さらば立山 > 部屋へ居たのはテラさんと富山県のランニング仲間で、総勢8名くらいがビールを飲んでいた。テラさん以外はほどんどが30代と思われる若さ。だがベテランのテラさんが偉ぶる様子は微塵も無い。翌朝テラさんがくれた名刺には、さる大企業の執行役員で研究所長兼務との肩書き。こんな偉い人が昨夜は若い人達と楽しそうに語らっていたのだ。 温泉に浸かって眠ったのは10時前だろうか。夜半3時過ぎにトイレに行き、それから1時間後に目覚めた時、きちんと畳まれた布団が隣にあった。昨夜話した通り、地元の登山家は剱岳方面へと出発したのだろう。私は静かに床を抜け、朝風呂へ向かった。閑散とした湯船には2、3人の姿しかない。展望風呂の扉を開け、まだ薄暗い地獄谷を覗く。 6時前、1人で食堂へ向かう。バイキング方式のメニューは標高2500mの山小屋とは思えない内容。心づくしの料理をゆっくり戴く。7時前、宿を出て地獄谷一周を試みる。大勢の人が既に朝の山々を仰いでいた。まず雷鳥沢のテント村方面に約200mほど下り、雷鳥沢ヒュッテの脇から周回コースに出る。強い硫黄臭と立ち上る水蒸気。所々で温泉が湧き、周回道路の上にも小さな温泉を見つけた。その温いお湯に手を浸してみる。 前方から若い男の人が近づいて来た。「おはようございます」。挨拶を返しながら良く見ると「自然保護センター」の腕章。環境庁の監視員のようだ。やがて道は急な登りになる。3人の老人がベンチから「元気ですねえ」と一声。どうやらコースを一周しようとして、あまりの傾斜に諦めた感じだ。後で資料を確認したらここは約2時間かかるコースだとか。それを1時間ちょっとで雷鳥荘へ戻った。 部屋へ入ると誰も残っていない。慌ててリュックを背負い、室堂ターミナルへ向かう。その途中、玉殿湧水に寄り、冷たい水をペットボトルに詰める。立山ではお土産を買わなかった。計算違いで懐が淋しくなっていたのと、ここの土産品は見栄えは良いのだが、中身が今一だからだ。バスの中でK藤さんから「佐渡島一周」で会う際に返すことで3千円を借金。9時、下山するバスがスタート。スタッフ手作りの「さよなら横断幕」に手を振って立山に別れを告げた。 隣席のランナーは長野のA宮さん。9月は「佐渡島一周」へ初参加する由。問われるままにコースの特徴やレースの概要などを教える。また今回途中でレースが打ち切られた「立山」のコースや、ペース配分などについてもお話出来た。10時50分富山駅到着。新潟行きの指定席を確保してから、煎餅やかまぼこなど富山の名産を土産に買った。 車中ビールを飲みながら「立山」を回想する。今回の参加で、東京のT本さんが奇しくも私と同学年で同じような仕事をしていたことを知った。20代から全国の名だたる山を踏破したと言う彼女が、立山の厳しい一面を教えてくれた。直ぐ下の人が位置を教えてくれないと、足を踏み出せないほど急な下りがあるのだとか。そんな山のベテランが最後につぶやいた。「もう山に登る気力がなくなったわ」。 来年、私が「立山」に出ることはないだろう。3年連続で出場し、そのうち2度雄山の頂上に立てたことで十分だ。仙台から遠い上にお金もかなりかかる。来年の8月は、福島の「安達太良登山マラソン」か、埼玉の「奥武蔵」に出るつもり。東北の美しい山々を走友と走るのも、暑くかつ厳しい奥武蔵への再挑戦もまた楽しい。次に立山へ挑戦するのは70歳の時と自分では決めている。遥かなる立山。5年後あの雄大な景色にもう一度会えるだろうか。<完>
2009.09.07
コメント(6)
< 雷鳥荘にて > 室堂ターミナルビルへ戻り、リュックを背負う。これから今夜泊まる雷鳥荘まで歩くのだ。初めて来た時は驚いた。何しろ海岸から65km走って雄山山頂まで登り、そこから室堂まで下ってアップダウンの厳しいこの道を歩いた。歩くのはわずか30分だが、疲れた体には荷物も重たく感じられ、足元がフラついたものだ。 「これはウメバチソウで、こっちは猛毒のトリカブト。人間も殺せるんだよ」と、ナースさんの友達のK井さん。ちっちさんは花が咲き終えたチングルマを不思議そうに見ていた。黄色に黄葉したのがイワイチョウ。イチョウの葉に似てるためのようだ。後日チングルマは「稚児車」から変化したようだとちっちさんが教えてくれた。 みくりが池の方へ降りて行き、その周囲を巡る。ここのハイマツの下で初めて雷鳥を見かけたのは、5年前に妻と旅行に来た時だった。今日はエメラルドグリーンの池の水が、深い紺色に変わっている。「みくり」とは立山の神々への奉げ物をこの水で洗ったための命名らしい。つまり「御厨」が本来の意味。 曇っているためはっきりとは見えないのだが、それでも雄大な山崎カールが眼前に展開する。雄山(3003m)、大汝山(3015m)、富士の折立(2999m)に囲まれたスケールの大きい氷河地形だ。そしてそれらの左側には、真砂岳(2861m)、別山(2880m)、剱御前(2777m)の立山連峰が連なる。 血の池からリンドウ池を周って雷鳥荘へ最後の登り。地獄谷から吹き上げる硫黄の臭いが漂って来る。3度目の雷鳥荘。剱御前の陰から、わずかに名峰剱岳(2999m)の特徴ある山容が望めた。宿の玄関でゼッケンナンバーを告げ、部屋割りなどが書かれた資料を受け取る。部屋へ入ると、そこに居たのは2人の女性。宮城UMCのK藤さんとKさん。Kさんはマラニックの部に出場したのだ。 「困ったね」と2人。狭い上に男女4人の相部屋では、布団をどう敷くのかも問題だ。後の一人は富山出身で宮城県へ転勤で来た青年のようだ。先ずはリュックを開け、Kさんに雄山神社のお札を渡す。意外そうだったKさんだが喜んでもらえて何より。ウルトラマラソン談義に夢中になり、大浴場へ出向いたのはそれから1時間以上経ってからだった。 熱いのが沸かし湯。これは万年雪を解かしたもの。そして地獄谷を臨む展望風呂は、少し温いものの天然掛け流しの温泉だ。ゆっくり湯船につかり、今日一日の疲れを落とす。30kmの距離が半分になったが、雄山山頂へ登れただけましか。そう思い直して部屋へ戻ると、A青年が帰っていた。彼に宮城UMCの活動などを皆で話す。そして、私と彼は結局別の部屋で寝ることになった。 新しい部屋には、既に4人の男性がいた。狭い部屋に布団が4つ敷かれ、3人が中で眠っている。新入りの2人は改めて自分の布団を敷くと、もう足の踏み場もない。まあ一晩眠るだけなので、これも仕方がないか。男女相部屋になったのは、多分この山荘が山小屋としての色彩が強いためかも知れない。 6時からの夕食では、雲峰さん以下7名が同じテーブルになり懇親を深めた。山登りをした疲れか、ビールでもかなり酔う。豪華ではないがバランスが良く、体に優しい食事が嬉しい。食後部屋に戻り、隣の男性と話をした。地元の方で、このレースには久しぶりの出場とのこと。生粋の山男らしく、リュックの重さはテントも含めて約12kg。明日は早朝から剱岳方面に登るとのこと。 8時からの懇親会にも出席。人数の関係で全員が座れず、立っている人も大勢いた。つまみはまあまあだが、ビールなどの飲み物が少ない。アルコールに弱い私には、それでも十分な量だった。だが話し声が賑やかで、司会進行の声が全く届かない。解散後もう一度温泉に入ろうとして向かう途中、扉が開いた部屋から賑やかな話し声が聞こえて来た。そのうちの1人に見覚えがあった。<続く>
2009.09.06
コメント(4)
< 山頂のお神酒 > 長野の走るナースさんとそのお友達、千葉の亀仙人さん達も雄山への登山を決行するみたいで、一足先に屋上へ登って行った。このターミナルの最上階から室堂広場へ出るためだ。私達も後を追う。建物の外へ出ると、一気に寒さが襲う。多分外気温は12、3度ほどしかないはず。念のためTANさんに軍手を持って来たか尋ねる。慌てて取りに帰る間、トイレを済ませた。 TANさんが戻って来たが、途中で手袋を落としたようだ。よほど慌てていたのだろう。幸い後ろを歩いていた人が、届けてくれた。玉殿の湧き水をペットボトルに詰め、いよいよ登山開始。先ずは一の越山荘に向かう。石畳道を行くと、やがて雪渓が現れた。今年の残雪はさほど多くないようだ。徐々に傾斜が増し、息を整えながらゆっくりと前進する。初めてここを登る2人には、どんな風に景色が見えたのだろうか。やがて前方に一の越山荘が見えて来た。いよいよここからが標高3003mの雄山までの直登になる。割と手前に見える岩山を見てちっちさんが「あそこが頂上?」と尋ねた。「違うよ。頂上まであの5倍くらいはある」と私。屹立する岩壁の遥か先に頂上があるのだが、生憎のガスで見ることが出来ない。もっとも例え晴れていても、ここから頂上までは見えない。それほどの急角度なのだ。 崩れ易いルートを避けながら、一歩ずつ山頂を目指す。この緊張感は久しぶりだ。前には大勢の登山客。中には軽装の観光客も混じっている。暫く登って行くと、何と小学校低学年の子供と4歳児が懸命に岩場を登る姿を発見。子供は身軽なので案外スイスイと登るのだが、急角度で下る帰りが危険なのだ。 1時間近く登ると、頂上直下の岩場まで来た。「もう直ぐ頂上が見えるよ」。私の声に、ようやくTANさん、ちっちさんも安心したようだ。ナースさんのグループにもようやく追い着いた。雄山神社の社務所でお賽銭と引き換えに頂上登拝記念の御札と神鈴を頂く。私は2人分のお札を頂いた。浜黒崎から走るマラニックの部に宮城UMCから唯一人出場しているKさんが、「多分室堂で終わるので頂上でお札を買って来て」とK藤さんに話していたと聞いたからだ。 神社の手前で御祓いの順番を待つ。山頂はとても狭くてせいぜい15人ほどしか登れないし、そこまでがまた急な道。滑り落ちたら助からないほどの絶壁なのだ。ようやく順番が来て神社への山道を攀じ登る。この頂上が3003m。そして敷き詰められた小石には、下界から持って登った信者の名前が書かれている。その話をすると、2人は大層驚いていた。 神職が登頂者の前に現れ、畏まって神社にまつわる話を始めた。そして厳かな祝詞の声が高度3千mの山頂に朗々と響き渡る。御祓いが終わると登頂者一人一人に神職からお神酒が振舞われる。そこで「飲めない人は私が代わって飲みます」と私。どっと笑いが広がる。このお神酒は地元の地酒。きっと原酒そのものだと思う。必死になってここまで登って来た者だけが味わえる、極上のお神酒なのだ。皆、その深い味わいに感激。 帰りは慎重に下る。目の位置が高いだけに一層角度が急に見えるからだ。でも私は平気。混雑しているルートを外し、安定した岩を素早く見つけて軽々と飛ぶ。岩の隙間にはリンドウに似た高山植物も。下りの途中でも幼い子供の姿があった。もう雨の心配も低温の恐れもない。どんどん下って2人を待っていた。一の越まで往復2時間半くらいかかったろうか。室堂までの石畳道をおしゃべりしながら下った。時々立ち止まって高山植物を眺めるちっちさん。ようやく2人にも安堵の表情。こうして3人は無事雄山山頂から帰還出来た。<続く>
2009.09.05
コメント(4)
< ゴール後の決意 > 称名ASへの道が次第に厳しく感じるようになる。それもそのはず、6kmのうちに約400m登る計算なのだ。ここを走り切れるランナーは相当鍛えている人に違いない。立山有料道路への分岐点を過ぎると、さらに傾斜がきつくなる。左手の崖から激しく流れ出る雨水。一昨年はあまりの暑さに山からの湧き水を飲んだっけ。 トンネルを2つ抜けるとようやく称名ASが近づく。トップの2人はかなり前に折り返し、走り去った。宮城UMC仲間のK藤さんが、梨を手に折り返して来た。かつてトライアスロンをしていた彼女は山登りも得意で、大雪山系へも登った由。ASでスタッフの人が私のナンバーを読み上げる。テントの中に20人以上のスタッフ。彼らもレースが短縮されたため、これ以上先には行けないのだ。 「称名の滝へは絶対に行かないでください」。スタッフの人が大声を上げる。そこまで行かせると八郎坂を登ろうとする人が出ることを恐れているのだろう。たった6kmを歩いただけなのでさほど空腹ではないが、アンパン、バナナ、梨を食べた。海岸の浜黒崎から走って来ると、ここは42km地点。疲れた体には出される素麺が美味しく感じるところなのだが。 折り返しの途中でトイレに寄り、再び歩き出す。後ろから高松のTANさんが追い着いて来た。スタート地点ではどうしても走りたいと話していた彼は、小走り状態だ。私もつられて走った。下り坂だから自然に足が前に出るのだ。水溜りを避けながら鼻歌混じりで走る私。長袖と半袖の重ね着の上に合羽を着ているから中は汗でビショビショだが、気温が低いためさほど苦にならない。 スタート地点の立山駅周辺に来た時、坂道を下って来るランナーの姿が見えた。マラニックの部の選手達だ。中には何故ここでゴールするのか分からない人もいるみたい。ウォークの部の選手も立山駅へのゴールへと誘導される。大勢の人が見守る中、わずか12kmのレースは終わった。スタッフの方がゴールシーンの写真を撮ってくれた。 預けていた荷物を受け取りバスに乗り込もうとしたが、全身びしょ濡れのため室堂へ着くまでに冷えるのを心配し、ここで着替えることにした。スタッフの人に尋ねると、無料の休憩所を教えてくれた。なるほど大勢の男性ランナーが着替えの最中だ。その中で一人悠然とビールを飲んでいる人を発見。何と地元のテラさんだった。 少し前にあった「おんたけトレイルマラソン」で転倒し、鎖骨を骨折しながら完走した彼。何とかこの「立山」へ間に合わそうと、相当の努力をされたようだ。それが急な大雨のためにレースの途中で止めざるを得なくなったのだから、落胆するのも無理はない。笑顔で挨拶しながら、私はあることを決意していた。バスで室堂へ着いた後、様子を見て何としても雄山まで登るのだ。1番目のバスは既に室堂へ行った。私が乗ったのは2番目のバス。だがスタッフの話によれば、宿舎の雷鳥荘へ入れるのは12時過ぎからとのこと。それまですることがない。雄山登山の絶好のチャンス。だが、この天候で大会本部が登山を許可するかどうかが問題だ。 バスは立山有料道路を曲がりながら登って行く。ガスで視界が悪く、車窓からの眺めも冴えない。だが時々ガスが晴れて、周囲の景色が見える瞬間がある。道路沿いに美女平、弘法、弥陀ヶ原を通過するのが分かった。そして懐かしい山々が見え出す。室堂バスターミナルに着いたのは10時半過ぎ。ロッカーに荷物を預けたらどうかと誰かが言う。 先ずはターミナルビルの2階にある無料休憩所へ向かった。着替えをしたため体の冷えは感じない。小さなリュックにセーターや合羽を入れた。それに立山駅でもらったパンやお握りもある。後は飲み水を確保すれば良いだけ。そこへやって来たのがちっちさん。私を見つけて一言。「スタッフの人に断ったら山に登れるらしいよ」。ええっ、本当?これは嬉しい誤算だ。 しかしどのスタッフに断れば良いのだろう。しかしちっちさんはすっかり登山する気になっている。道を知らない彼女のためにも先導役を買って出る。「雷鳥荘には5時までに入れば良いんだって」。これがちっちさんが確かめた第2弾。それならもう山に登るのは公認だ。そこへ高松のTANさん登場。彼も去年は室堂でリタイヤしたため、雄山山頂へ登っていない。また来年だってどうなるかは分からない。 「これから雄山に登りますよ」。単刀直入にTANさんに告げる。「ええっ?」。TANさんは何が起きたのか理解出来ないようだ。まさか大会が途中で中止になったのに、山登りをするとは思いもよらなかったのだろう。初めての雄山。そしてこれからどうなるかも分からない天候。きっとそれらのことが彼を逡巡させたのだと思う。実のところ私自身も心配なのだ。もしこれからの登山で雨に濡れれば、もう余分な着替えはない。ここは一か八の勝負。人生、時にはこんな無謀な賭けも必要だ。 だが私には一つの確信があった。少し前にテレビの番組で、富山の小学生が先生方に引率されながら雨の雄山に登る場面を観ていた。富山では古来男子は立山に登らないと一人前とは看做されなかった由。その伝統が今も息づいている。小学生が合羽を来て登れるのだから、大の大人が登れないわけはない。それに運良く雨は止んでいる。登るなら今がチャンス。<続く>
2009.09.04
コメント(2)
< 予想外の事態とブログ仲間 > 雨の中をウォークの部がスタートする立山駅へ向かう。駅舎には既に何人かのスタッフと選手が集まっていた。早速室堂行きの荷物を預け、後は走り出すだけの身軽な格好になる。背中には小さなリュック。ここにはセーター、折りたたみ傘、軍手などが入っている。そして腰のポシェットには、クッキー、塩、アスリートソルト、アミノバイタルの小袋、100円玉数枚。100円玉は暑くなった時、途中でアイスやスポーツドリンクを買うためのものだ。 だがスタート時間が過ぎても何故か何の説明もない。仕方なく人を探す。長野の走るナースさんだ。千葉の亀仙人さんのブログを通じて彼女のブログを知ったのは、かれこれ1年半ほど前のこと。それ以来、時々書き込みをさせていただいた。文章が上手で行動的な彼女は、全国各地のウルトラマラソンに出ている。彼女が立山への出場を希望していたこと、そして出場が決定してからは幾つかの山に登って準備していたことも、全て彼女のブログで知っていた。 小柄な女性の2人連れ。きっとあれがナースさんとお友達の方だろう。そう思って背中のゼッケンを覗くと、見覚えのある名前。それはずいぶん前に載った完走証の中の名前と一緒だった。「ナースさん?仙台のマックス爺です」。と名乗ると、とても驚く彼女。きっとどうして本人と分かったのか不思議だったのだろう。そしてお友達に私のことを紹介してくれた。K井さんは山のベテランとのこと。彼女にとってはきっと良い先達になることだろう。 予定時間を大幅に過ぎたころ、ようやくスタッフの人が選手を召集した。そして松原委員長から大会の変更について話があった。4時スタートのマラニックの部については、ここ立山駅をゴールとする。また、ウォークの部は称名AS往復の16kmとする。(後で資料を確認したら、正確には往復12kmだった)。理由はこれから登る八郎坂が、大雨で崩れやすくなっているためだそうだ。安全を確保するロープの基盤が、最近数箇所で崩れているとか。 3km進むうちに500m登る八郎坂は、大きな岩がゴロゴロしている難所。滑りやすい上に、急な崖の連続で私は昨年ここで7回ほど転んだ。後で聞いた話だが、前日も登山者が5mほど滑落して怪我をしたそうだ。この大雨では、八郎坂は小川と化していると委員長が話す。昨年も頂上付近では悪天候で遭難騒ぎがあった。そして北海道トムラウシ岳での大量遭難死と立山連峰の剱岳での滑落死が続き、富士登山競走も雨でゴールが5合目に変更されている。 テレビの天気予報によれば、立山での雨は9時くらいに止むとのことだったが、コースの八郎坂で滑落が心配されるのであれば止むを得ない。山の天候はとても変わり易く、生命の危険や怪我の発生が危惧される中でレースを強行することは、大会本部としても出来なかったのだろう。ゴール後は選手全員バスで室堂へ向かうとのこと。全く思いがけないレースの変更だった。 6時10分。ウォークの部がスタートする。すっかり気が抜けた私は、折りたたみ傘を手に、テクテク歩き出す。ところが暫くすると小走りに走り出す人が出て来た。ウォークの部は決して走ってはいけないのがルール。だが、それを知らないか、それとも無視しているのか。予定が変わって頂上に向かうことが出来なくなったのだから、ここはまあ大目に見るか。 称名川の砂防ダムを越えて轟々と流れる水。きっと上流でもかなりの雨が降ったのだろう。川の中の大岩と深い峡谷の上部に覗く立山有料道路のトンネル。いつもなら必死で走っているこの場所を、今日はゆっくり楽しみながら歩いている不思議さ。いつの間にか歌を口ずさんでいたようだ。 それを聞いてか、誰かが笑いながら追い抜いて行った。長野の走るナースさんとお友達のK井さんだ。小柄な2人の女性は疲れた様子もなく、急な坂道を淡々と登って行く。その軽快な後姿を私はあっけに取られて見つめるだけだった。優しく柔らかな文章からは予想もつかない鍛えられたアスリートの姿が次第に遠ざかって行く。<続く>今日はこれから田中マー君を応援しにKスタへ行ってきます。従って皆様のところへはご訪問することが困難だと思われます。悪しからずご容赦くださいませ~。
2009.09.03
コメント(0)
< 雨の音 > 声の主は高松のTさんだった。東京の雲峰師匠も同じ部屋らしい。どうやら師匠が早く飲みたがっているのを私が着くまで待とうと制し、駅まで迎えに来てくれたようだ。駅から徒歩2分の宿は確かに便利だが、建物はかなり古めいていた。宿泊の手続きをし料金を支払うと、女将が500円玉を1個くれた。風呂が壊れているので近所の宿泊施設へ行けとのこと。 部屋に荷物を置きに行く。雲峰師匠が浴衣姿で寛いでいた。師匠とお会いするのは6月の「エンジョグinみちのく」以来。しっかり握手をし、食堂へ向かう。そこには宮城UMCの仲間のK藤女史、「佐渡」や「八丈島」でお世話になった東京のT本さんがいた。そしてその友達のY口さん。きっと彼女が女性の最高齢だと思う。皆ウォークの部の参加メンバーだ。 料理はさほど豪華ではないが、家庭的でとても良心的な内容だった。早速ビールで乾杯し、前夜祭が始まる。師匠は取って置きの日本酒を出す。昨年まで斡旋していた宿のあまりの横柄さに、T本さんが大会本部に苦情を言ったところ、急遽この宿に変更されのだとか。それで最初の案内と違った宿名が記されて居た訳だ。 食堂には遠くから来た観光バスの運転手さんもいた。昔からの馴染みで、ここの家庭的な雰囲気が好きなのだとか。飲んで食べてしゃべって満足し部屋へ戻ると、TANさんが1枚の写真を私にくれた。それは昨年走ったマラニックの部のスタート時のもので、横断幕を背に真っ暗な浜辺でVサインをする私が写っていた。 TANさんにお礼を言い、ほろ酔い気分で近所の全国市町村職員共済宿泊施設へ向かう。なかなか立派な建物だ。お風呂も広くてきれい。今晩私達が泊まる宿とは月とスッポンほどの違い。風呂に入ってさらにビックリ。何と全身が油でまみれたように、ツルツル、ヌルヌル状態なのだ。極上の温泉をしばし楽しむ。宿に戻ると、雲峰師匠が「蚊がいるよ」と一言。これは困った。汗っかきでしかも酔っ払っている私はとても蚊に食われ易いのだ。「今夜は眠れないかも」と覚悟したのだが、多少食われたものの、ぐっすり眠ることが出来た。3時半頃トイレに起きる。廊下の窓越しに乾いた道路が見えた。おお、雨は降ってないぞ。そう思いつつ再び夢の中へ。 次に目が覚めたのは4時半。TANさんが何やら声を上げている。外では猛烈な雨の音。やはり雨か。覚悟を決めてレースの準備を始める。下はロングタイツ。上は長袖Tシャツと半袖Tシャツの重ね着。これに帽子を被り、ビニール製の合羽を着る予定だ。5時前から朝食。この日も快調で、ご飯は2杯たっぷりといただき、味噌汁もお代わりをする。ここまではまだ何の問題もなかったのだが。<続く>
2009.09.02
コメント(0)
< 立山の宿へ > 8月28日金曜日。この日私は仕事を休んで富山県の立山へ向かった。第12回「立山登山マラニック」のウォークの部に参加するためだ。仙台7時半発新潟行きのバスの車内から会津の田圃を見る。稲が少しずつ黄色に実り、秋の到来が近いことを知る。右手に磐梯山が見え、小さな川を渡った。あれは高瀬川。昨年まで開催された「磐梯高原ウルトラマラソン」では、あの川岸に沿って走ったこともあったっけ。 県境の長いトンネルを抜けると新潟県。ここでも穏やかな田園風景を臨むことが出来た。11時30分過ぎに新潟駅前到着。ただちにJR新潟駅で富山行きの切符を買う。「北陸往復切符」とか言う割安なもの。ところが往復で6千円台だと思っていたのが12、500円。どうやら片道の料金を往復と勘違いしていたようだ。自分では余裕を持ってお金を用意した積りが、最初から目算が違ってしまった。う~む。 昼食は駅舎の安い食堂で天ぷらうどんの大盛り。その大盛り分は「ただ」なのだとか。それでも足らず、お握り2個を買って列車に乗り込む。初めは北東に向かっていた特急が、やがて反転して南西へ向かう。新潟の田圃も良く実っていて、平和な田園風景が延々と続く。柿崎、直江津付近では「越後くびきのウルトラマラソン」のコースと泊まったホテルなどが見えた。 姫川が流れる糸魚川を過ぎると間もなく幾つかのトンネル、そして富山県へと入る。天気はさほど悪くない。これでも明日は雨になるのだろうか。富山の手前で常願寺川を渡る。この川に沿って立山まで登るのがマラニックの部。私も昨年、一昨年と2年連続で暗く、凸凹の土手を夢中になって走ったものだ。 4時過ぎ富山駅到着。8時間以上の大移動だった。最初に富山地方鉄道で立山駅行きの切符を購入。次にホテル2階にある大会受付に行った。今年からはウォークの部への参加なので、特段緊張もない。スタッフの方からゼッケンナンバーや参加賞などを受け取り、最後に今夜の宿を確認。本部から送られて来た宿名が当初案内されたものと違っていたからだ。夕食も出ることが分かって一安心。 富山地方鉄道(地鉄)の立山行きの電車はわずか2両編成。それにしてもこの地鉄は良く頑張っている感じ。きっと黒部や立山と言う有名な観光地があるため経営状態も良いのだろう。途中岩クラ(山に弁の字)で時間調整。どうやらここまでが市街地のようだ。地元のランナーであるテラさんの書き込みによれば、この岩クラ駅が映画「剱岳 点の記」では富山駅の代役だったとか。映画の中の小さな駅舎を思い出す。 少しずつ夕暮れて行く山間を軽やかに登って行く電車。どこかに懐かしさを感じる風景だ。高度を増すと車内から見える風景が全く変わって来る。深い谷と清冽な流れ。そしてマラニックのコースの一部が見え出す。懐かしい山。懐かしい川。そして峡谷に架かる橋。地鉄立山駅への到着は6時6分。駅から指定された宿に向かっていると、誰かが手を振りながら私の名を呼び、近づいて来た。<続く>
2009.09.01
コメント(6)
全27件 (27件中 1-27件目)
1