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妻の不機嫌そうな表情に気づいたのは、「佐渡島一周」から帰宅した後だった。否、厳密に言えばそれ以前の夫婦喧嘩以降だったかも知れない。ウルトラレースで何日か留守にした後、妻の様子がおかしいことはこれまでもあった。私の方は辛く厳しいレースを終えてホッとしているのだが、妻にしてみれば私が1人だけ楽しんで、自分は放っておかれたような気分になるみたいだ。 昨夏、私は「立山登山マラニック」で怪我をした。帰宅後激痛に苦しんでいたが、妻の様子を見て2週連続でハイキングに出かけた。彼女のストレスを発散させるためには、大自然に触れるのが一番だと知っていたからだ。痛みを隠して12kmの山道を2度歩いたことが、その後腱鞘炎を悪化させる原因となったのは確かだが、あの状況では止むを得なかったと思う。 それに比べ今回は少し油断していた。自分はずっと温泉に行きたいと思っていたのだが、私に遠慮して言い出せなかったと妻は言う。日帰りならまだしも、3泊4日ほどのレースだと、愛犬との朝夕の散歩も彼女が引き受けることになる。仕事を持つ妻にとっては、結構負担に感じているのだろう。 それ以上に嫌なのは、私がマラソンに夢中になって温泉に行けないことなのだとか。もしそうなら女友達とでも行けば良さそうなものだが、彼女はよほどでもない限りそうはしない。世の中には「亭主元気で留守が良い」の名文句もあるのだが、どうも我が家には該当しないみたいだ。 佐渡島から帰って以降、私なりに配慮して近場の野草園にも行ったし、映画や美術館にも一緒に出掛けた。それでも彼女にとっては不満だったみたい。安いバス旅行で良いから月に1度は2人で出かけたい由。それならそうと、旅行会社から送られて来るパンフレットを見て、自分が行きたいところを提案すれば即座に解決するのだが、それすら遠慮だったとはねえ。 妻の言い分を聞き、早速3件のバス旅行を申し込んだ。その「1回目」が明日の旅行。明日は朝早く出かけ、夜遅い帰宅になるため多分日記は書けないことを予めお断りしておく。さらに、妻からの注文が続いた。私の来年のレース参加予定を、予め自分にも教えて欲しいとのこと。 私がカレンダーにレースの予定を書き込み、それを見た妻が事後承認するのがこれまでの我が家の暗黙のルールだった。それが事前にチェックし、あまり長い日程のレースは困ると言い出したのだから参った。これまでだってレース参加は月1回を原則とし、体への負担や必要経費などの点から慎重に選んでいた積もりなのだがねえ。 急遽練りに練って翌年の計画を立て、次の日妻にそれを見せた。まだ不満が残るようだが、月に1度は私と2人でバス旅行に行くと言う条件で何とか許可。その際私も申し入れをした。来月の沖縄行きの経費を一部前借したいこと。来年パソコンを更新する際は、家計からの補助をお願いしたいことの2点だ。「転んでもただじゃ起きない」とはこのことじゃよ。むふふ。 さてマラソン費用を稼ぐため、私は70歳まで後4年半は働く積もりだが、妻自身はせいぜい65歳までと言う。記憶力が落ちて提出書類を書くのが大変と言うのがその理由だ。強いストレスを感じてまで働く理由はさらさらないし、退職後は本当に自分がしたいことをすべきとも思う。老後のあるべき夫婦像とは何だろう。先日亡くなった女優の南田洋子と、認知症になった彼女を5年間に亘って介護した夫の長門裕之の姿から、そんな想いを抱いた私だった。< 今月のラン&ウォーク > 月間走行回数:10回(うちレース1回) 走行距離:198km 月間ウォーク回数:毎日 距離:252km 年間走行距離:2033km 年間累計:3831km これまでの累計:69、253km
2009.10.31
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あれはレースの3日前だから、10月15日(木)の夜だったと思う。2階の自室でパソコンを開いていた時のこと。階下から妻の叫ぶ声が聞こえた。これは一体何事?。慌てて階段を下りると声の源は風呂場の中。ひょっとして「覗き」いやいや、まさかそんな物好きはいないはず。 風呂場の扉を開けると、妻がルーバーを半開きにして言う。物が焦げる臭いがし、煙が入って来ると。なるほど、風呂場の中には異臭が漂っている。さらに妻が言うには、消防車が近所で止まっていると。確かに先ほどからサイレンの音がうるさかった。だが、きっとどこかへ出動中なのだろうと考えていたのだ。 慌てて外へ出ると焦げ臭い臭いがさらに強まった。裏の垣根を越えて道路へ飛び出した途端に、バチバチと何かが焼ける音。そして、慌しい雰囲気も。消防車が数台にパトカーもいる。野次馬が指差す方向を見ると、1軒の家からもうもうと煙が立っていた。「何故早く消さないの」と、半ばパニックになった小母さんもいる。 間もなく窓が破れて大きな火柱が上がり、夜空が真っ赤に染まった。そして満を持しての放水。火は直ぐに消えたが放水はなおも続いた。鎮火後に聞いた話では火災の原因は不明だが、外出中で留守のお宅だったとか。こんな至近距離で火事の現場を見たのは初めてで、とても驚いた。空き地と道路で隔たってはいるが、我が家から数えて3軒目のお宅だったからだ。 驚きと言えば先日の酒井法子の初公判。元女優の薬物犯罪と言うこともあってか、民放各社が同時中継する騒ぎに。まるで芸能番組そのものでうんざりだった。今朝は女優だった南田洋子さんの葬儀(?)の中継もちらっと見たが、女性アナウンサーが自信たっぷりに「夫の津川雅彦さん」云々と5回も言ったのには驚いた。いくら兄弟とは言え、夫の名前を間違うとはねえ。 昨日のプロ野球ドラフト会議も大騒ぎだった。今夏甲子園を沸かした岩手花巻東の菊池投手がどこのチームに行くかが注目の的。結局6球団で抽選となり、西武が交渉権を獲得した。来季は西武のユニフォームを来た菊池がどんな活躍をするか楽しみだ。一方ホンダの長野(ちょうの)が長年の恋を実らせて、巨人入りを果たした。こちらは3年越しの大騒動だった。 海の向こうではワールドシリーズが始まった。ゴジラ松井の勝ち越しホームランでNYヤンキースがフィリーズを下し、これで1勝1敗のタイに持ち込んだ。このところ怪我に泣いた松井だが、最後の大事な一戦で大役を果たしたのは見事。これで地区シリーズにさえ出場できなかった昨年の悔しさを、少しは晴らすことが出来たのではないだろうか。 さて最近驚くべきニュースが飛び込んできた。少なくとも10人の男性が合計で1億円近いお金を騙し取られ、うち何人かが睡眠薬を飲まされた上練炭による二酸化炭素中毒で死亡した結婚詐欺と殺人事件だ。被疑者の女性はまだ34歳の若さで、最高齢の被害者は80歳。出会い系サイトを介しての犯罪と言うのも驚き。謎の多い事件だが、今後の捜査で迅速に事件が解明されると思う。 最後に今朝の散歩時の話。ふと夜空を見上げたら大きな火球が南東方向に横切って行った。灯火が点滅しないから飛行機ではないし、第一高度が違い過ぎる。不規則な動きをしないのでUFOでもない。スピードの点や明るさが一定のため流星でないことも確か。思いついたのが人工衛星。多分間違いないと思う。初めて見た人工衛星は、あっと言う間に見えなくなった。あれは本当に不思議な体験だった。
2009.10.30
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給料日になるのを待ち兼ねてツーリストへ行った。来月に予定している「沖縄本島東海岸単独縦断走」の旅行代金の残金を支払うためだ。2日目の夜に泊まるリゾートホテルの料金が1泊7万円余り。それが私の懐を直撃していた。さらに来年1月、2月に予定しているマラソンのエントリー料金を振り込み、4リットル入りの焼酎を買うと、私の小遣いはほとんど無くなってしまった。 これまで約1ヶ月続いた倹約生活の一端を紹介してみよう。先ずバス通勤を止め、自転車通勤にした。バスで職場に行ったのは台風の日と雨の日の3日間だけ。これで約1万円分は浮いたはず。次にスポーツ新聞は買わず、自転車で通る地元紙の本社で楽天関係の記事を読んだ。これでも千円は浮いたと思う。3つ目は巡回の後に飲むココア飲料。これがとても美味しくて楽しみなのだが、家から持参する麦茶を飲んで我慢。 雑誌「ランナーズ」も買わず、その代わりにSパパが参加した「トランス・ヨーロッパ・フットレース」関係の単行本を読んでいる。もちろんランニングシューズも我慢。誰かが私のと間違えて置いて行った合わないシューズを練習でもレースでも履いている。レースで走れるシューズがその1足しかないからだ。それも先日のレースでさらに底が磨り減った。 走友会の行事である「芋煮会」へも当初は出席予定だったが、財政逼迫の影響で急遽欠席することに。毎年秋に開催する筑波時代の悪友達とのマージャン大会を12月に遅らせたのも、全ては「沖縄行き」の旅費捻出のためだ。かと言って、それで沖縄滞在資金まで確保出来た訳ではない。そのためには我が家の財務大臣に頭を下げ、3万円ほど借用する必要がある。もちろん11月の給料日に返済する約束で。 来年3月のレース代金は12月中に振り込む必要があるし、6月のレース代金を1月中に支払うと、何とかアーリーエントリー扱いになったはず。この他にも忘年会や新年会などの経費を考えれば、新しいシューズが買えるのは当分先になりそうな気配。そして調子が今一のパソコンも、来年の夏ごろには買い換える必要がありそうだ。 こんな風に、厳しい財政状態が今後も続くのは明白。バス通勤をしなければ帰宅ランは不可能だし、もっと寒くなれば自転車通勤をするのも楽ではない。マラソン費用を稼ぐための肉体労働。その報酬で出場するレース。そして完走記を執筆し公開するためのブログ。この3つを同時に成立させるのは、私にとって極めて草臥れる作業だ。 だが逆の観方をすれば、夢があるからこそ幾多の難関を乗り越え、老体に鞭打って頑張れるとも言える。人生「七転八起」。「苦あれば楽あり」。「冬来たりなば春遠からじ」。ケチケチ生活もまた楽し。そんな心境で暮らすとしようか。
2009.10.29
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あのCSからどれだけ経ったのだろう。楽天の試合が終わってからさほど経ってないはずなのに、ずいぶん前のことのように思うのは何故だろう。日本人の心を熱くしたWBCでの優勝。その中心になったのが我がイーグルスの岩隈であり田中マー君だったことは、誰も否定しないだろう。 思えば彼らは例年より1ヶ月も早くトレーニングを開始した。もちろんWBCで存分に力を発揮するためだ。優勝して帰国するなり春のキャンプに合流し、疲れも癒えぬままレギュラーシーズン入り。体に刻み込まれた深い疲労感が、岩隈や田中を何度か襲ったことは間違いない。 それでもパリーグ2位の堂々たる成績でCSに進出し、第1ステージでは3位のソフトバンクを木っ端微塵に粉砕した。だが、球団による監督解雇の影響は第2ステージになって突然現れた。岩隈先発で臨んだ緒戦。9回裏まさかの満塁サヨナラホームランによる逆転負け。天国から地獄へ突き落とされた一戦だった。あれが野球の怖さ、そして短期決戦の怖さだと思う。 野村監督が指導した4年間で個々の選手が強くなり、チームとして戦える球団になったことは間違いない。正直言って良くここまで成長してくれたと言うのが本音だ。CS第2ステージでは、結局田中が先発したゲームでしか勝てなかった。各ゲームとも得点は競っていたものの、その僅かの差が非常に大きかったと思う。それは修羅場を潜った経験の差だ。 首になって悔しがった野村監督だが、最終的には名誉監督への就任を受け入れた。任期は3年と言うからそれなりの報酬も出るのだろう。就任の条件の一つが愛息カツノリのコーチ残留だったと言う。そして彼と佐藤義則ピッチングコーチを除く9人のコーチと2軍監督も、つい最近解雇通告された。 監督の解雇通告がCS直前となったこともあり、彼らへの通告がさらに遅れたわけだ。この時期の通告だと再就職するのはなかなか困難とか。こんなことを見ていると、嫌でも球団の非情さを感じてならない。リーグ2位になりCSに進出した監督やコーチがほとんど解雇されるチームが、一体どこにあるだろうか。 その反面、野村監督の「老害」が深刻だったことも伝わって来た。かの有名な「ボヤキ」はマスコミには受けても、彼の下にいる特に若手の選手達にとっては、マイナスに作用した部分もあったようだ。確かに年齢の差から来る思考のギャップは否めないだろう。そして息子のカツノリは結局楽天を去り、巨人のコーチとなる道を選んだ。 もし楽天に残れば、自分だけ親の七光りで首がつながったと言い触らされることは必定。そんな彼を、野村野球を継承出来る者として巨人が評価したようだ。これはまさに原監督ならではの慧眼と言うべきだろう。そしてカツノリもようやく親離れ出来ると言うわけだ。 さて、来季の楽天はブラウン新監督を迎えてどんな戦い方をするのだろう。これまでの野村采配と大きく異なるのは自明。不安でもあるが楽しみでもある。新たなチームが作られて行く過程を、関心を持って見守りたいと思う。折しも引退を決めた初代の選手会長礒部が、コーチに就任することになった由。明るい話題に、少しだけホッとしている。 今回の「騒動」で、楽天ファンが何を感じたか。そして複雑なファンの心情に球団側がどう応えるのか。歴史の浅い我が東北楽天だが、ますます強いチームに育つためには今後どんな方策を採るべきなのだろうか。球団側には営利の追求だけでなく、ファンの気持ちを大切にした運営を目指して欲しい。明日はドラフト。期待の新人が仙台に来てくれることを心から願っている。 今年一年私達の心を熱くしてくれた我がイーグルスよ、ありがとう。そして去り行く監督、コーチ、選手の皆さん、本当にお疲れ様でした。皆さんには心から感謝しています。そして今後のご活躍を心から願っています。さて、明日はドラフト。期待の新人選手たちが我が東北楽天に入団し、来年はKスタで大活躍するのを楽しみにしよう。
2009.10.28
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< お土産は薄皮饅頭 > スタートを見送ったY田さんは、受付して初めてあれが自分が出るレースだと知った由。慌てて着替えスタートしようとしたら、強制的にE藤さんの車に乗せられ、4km付近の最後尾で下ろされたとか。どんなに自分の足で走りたいと訴えても駄目だったようだ。遅刻したA井さんも同様みたい。 車中でのE藤さんの話によれば、この大会は警察に届けてないため「練習会」扱いなのだとか。なるほど、それで「ランナーに注意。ランニング練習中!!」の看板を立て、順位の表彰もなかった訳だ。さらに「磐梯高原ウルトラ」は、参加選手が増え過ぎて手動でのタイム測定が困難になったことや、外注するには莫大な経費を要することが継続断念の理由とか。あの風光明媚なコースを走れないのが、とても残念だ。 さて、私達はダム湖畔の道をゴールまで真っ直ぐに来たが、Y田さんが走っていた時間帯はダム湖の入り口にスタッフの人が座っていて、向こう岸を走るよう指示していたとのこと。きっと50kmの部は私達が最後のランナーだったのだろう。だが無人ではコースを間違えても不可抗力。と言っても短縮したのは200mもないと思うけど。 話は変わって、Y田さんが前日泊まった町でもマラソン大会の準備をしていた由。レースの名は「ゴーマン杯ふるさと健康マラソン」。そこはゴーマン美智子さんの生まれ故郷だったのだ。大会名は聞いたことがあるが、まさか開催地が栃木県境の山奥だったとは。 すっかり話に夢中になってる目の前をEさんが通りかかった。山中で併走している時は分からなかったがなかなかの美人で、しかも若々しい。食事中の私達を見て微笑みながら立ち去った。ひょっとしたら私の帰りの足を心配してくれたのかな。でも、大丈夫。Y田さんの車で無事帰宅出来ますからね。 そうそう。Eさんとの会話で書き漏らしたことを記しておこう。それは「トランスヨーロッパ」から帰国したSパパが祝賀会で言ったことらしい。彼は何と「75歳になったら再びトランスヨーロッパに挑戦したい」と話した由。75歳と言えば後10年後。これまで距離4000km超級の「トランスヨーロッパ」を2度走破した彼だが、私と同じ年齢でそんな想いを抱いていたとは。さすが強者は違う。 帰路の車中でも話は尽きなかった。私は来月の沖縄行きと倹約中の話。Y田さんは来週走る「湯のまち飯坂マラソン」や「東京マラソン」の話。そして心ばかりのガソリン代を出そうとしても彼は受け取らない。私の切ない倹約話を聞いた後では、とてももらえないとのこと。う~む。決して「作戦」の積りではなかったのだが。 色んなハプニング続きでハラハラした今回のレースだったが、何とか無事に帰れるのが嬉しい。例によって高速道路ではものが二重に見えるけれど、ようやく安心出来た。それに僅かながら財布にも残金が。SAに寄った際にそれでお土産を買った。郡山名物「薄皮饅頭」。実にささやかな土産物だが、妻の喜ぶ顔が見えそうだ。<完>
2009.10.27
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< 思わぬ応援と念願の温泉 > ASで満ち足り、いよいよ下山にかかる。道は直ぐに砂利道になった。ところがバラバラの小石が邪魔。底の厚い登山靴ならいざ知らず、軽くて底の薄いランニングシューズで踏むと、衝撃が強過ぎて足の底が猛烈に痛むのだ。それに急な下り坂でスピードが出やすく、どうしても足への負担が大きい。傷めている私の足ならなおさらだ。ここで無理は出来ない。慎重に下ろう。 前後には全く人影がない。足の痛みに耐えながら、たった1人で走る淋しい山道。だが、それでも来月走る予定の沖縄本島北部(いわゆるヤンバル地方)東海岸の比ではない。夏のような気温、アップダウンの激しさ、集落がほとんどないため、水や食料はすべて自分で背負う必要性、ほとんど車も通らない淋しい道、そして夜行性のハブの危険など。生命の危険を心配しないで良いここのコースなど楽なものだ。 それにしても悪路の下り坂がこんなに続くとは。多分上りは夢中で走ったのだろう。ゴール後のY田さんの話では、ここで転んだランナーが4人ほどいたとか。中でも顔から突っ込んだランナーは、救急車で病院に運ばれたようだ。やっぱりなあ。それを聞いても私は驚かなかった。こんな道で飛ばしたら最悪の場合どんなことが起きるか、イメージ出来そうなものだが。 40km地点の手前で1人のランナーが私を追い抜いて行った。既に舗装道路だったため、私も頑張って何度か抜き返した。正雲寺ASではキュウリ、ミニトマト、バナナなどを食べ、そこからラストスパート。ところが彼も後を追って来た。私達2人と前後して湘南ナンバーの車が1台。30代ほどの女性が時々車から降りては、こちらに向かって応援してくれる。 それが10回近く続いただろうか。時には写真も撮っている。変だなあ。まさか私を応援してくれている訳ではないだろうに。追い着いたランナーに何処から来たか尋ねると、地元郡山市の人だった。練習は土曜日に30kmから40kmを走るだけとのこと。やがてダム湖が見えて来た。案内では50kmの部はダム湖の向こう岸を走るはず。ところが道路には何の矢印もない。 E藤さんの主催するレースには雑な点もあるので、その後コースを変更したのだろう。そう解釈して真っ直ぐ進んだ。地元ランナーも距離はそう違わないとのこと。ダムの堰堤が見えた。辺りは薄暗くなっている。ゴールまで残り1km。10km以上競ったのも何かの縁と思い、2人で一緒にゴールすることを提案。彼も快く承諾し、ホテル前のゴールに仲良く飛び込んだ。 6時間38分43秒。同タイムの完走証を2人でもらいがっちり握手。すると先ほどの女性が近づいて来てランナーと話している。「もしかしてご主人?」。私の問いにうなづく彼女。「どうして湘南ナンバーなの?」と聞いたら、神奈川から福島へ転勤して来たのだと言う。へえ~。じゃあさっきからの応援は私にではなく、ご主人への応援だったのか。それにしては「ライバル」にもわざわざ飲み物をくれたりして、とても優しい心遣いだった。やはり2人一緒のゴールは正解だったようだ。 早速着替えを持参して温泉に行く。ホテルの人に聞いたら6階に展望風呂があるとのこと。やれやれ念願の温泉にやっと入れる。湯船に身を沈めると、さらさらしたお湯。正真正銘の天然温泉だ。これは嬉しい。先にゴールしたY田さんにも会えた。入浴と着替えを終え1階のソファーに座りながらY田さんと食事。これはスタッフからいただいたASの余り物だ。そこで聞いたY田さんの話には2度ビックリだった。<続く>
2009.10.26
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< 高原の不思議な光景 > それでも名前を呼ぶ声は止まない。何気なく振り向くとY田さんが立っていた。おまけに佐渡で一緒だったA井さんの姿も。一瞬何事が起きたのか理解出来なかった。Y田さんの話によれば登山した場所から未明のうちに東山温泉へと向かったのだが、スタート時間を1時間間違えていたとか。そして大勢のランナーがスタートするのを不思議そうに眺めていたそうだ。 一方のA井さんはこの朝会津若松駅でもたつき、始発のバスに乗り遅れた由。そのため会場までの6kmを走って来たそうだ。遅刻した2人は遅れてスタートし、必死に追い駆けてここまで来たのだろう。まさかそんな事情があったとは知らない私は、ずっと1人で悩んでいたのだった。「どうも済みません」。何度も謝るY田さん。 ASで手早くエネルギーを補給した2人はあっと言う間に前へ行った。ここから先には50kmの部の選手しかいない。緩やかなアップダウンはあるものの、道路は舗装されてとても走りやすい。やがて視界が開け、布引高原が一望できる場所まで来た。周囲には夥しい数の風車。3枚羽根の風力発電機が風を受けて回っている風景は、とても信じられないほど壮観。さて、一体どれくらいの数になるのだろう。 ようやく2人に追い着くと、地元のランナーであるA井さんが私達に説明してくれた。ここ布引高原の標高は1080mで、設置された風力発電機は33機。日本でも一番多いとのこと。風車の高さは100mもあるらしい。そうなると羽根の長さは50mほどか。そしてスタート地点の東山温泉が標高350mだったから、ここまで一気に730mも登って来た計算だ。 33機もの風車が回る光景は、全く別世界のものだった。主催者のE藤さんが、フルの選手にも見せたいと話していたのが良く理解出来る。そしてこの珍しい風景を多くのランナーに知ってもらうために、彼はここ布引高原を舞台にしたレースを次々に企画したのだろう。 周回コースを半分以上回った地点にもASがあった。ここでは思いがけないトン汁のサービス。多分作り終えて数時間も経つのだろう。既に冷え切っていたトン汁だが、ありがたくいただく。地元のボランティアに冗談を言うA井さんが69歳で、206kmの佐渡島を完走したことを教えると、一様に驚いていた。65歳の私が153km地点で抜かれたと話すと、さらに驚く彼ら。 お礼を言って再び走り出す。右手の奥に磐梯山が見えるとY田さん。遥か彼方に特徴のある山容が確かに見えた。そしてその手前にはキラキラ光っている猪苗代湖も。さすがは標高1000mを超える高原。なるほど、E藤さんがレースの舞台にしたいわけだ。再び2人は先行して前へ行き、私は必死で後を追い駆けた。 復路29km地点のASで、ようやく彼らに追い着く。ここでもA井さんのことをスタッフの人に話すと大変な反響。それはそうだ。69歳の老人が若い人でさえ困難な距離を楽々と走るのだから。2人は食べ終わると早くも下山に向かった。50kmの部の制限は8時間。後はゴールまで真っ直ぐ下るだけ。私はスタッフの人と話をしながら、ゆっくり食事を摂った。「200kmを走るのにどんな練習をするんですか」。その質問に、「今日の50kmも練習なんですよ」と私。<続く>
2009.10.25
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< 背後からの呼び声 > 「もう直ぐお寺がありますよ」。Eさんが言う。「へえ~っ、こんな山の中にお寺?」。私はとても不思議な気持ちになった。前方では2人のスタッフの方が小旗を振りかざし、左折を促している。コースは一旦山道から外れて、お寺の境内へ向かうようだ。呆気に取られながらお寺の門を潜る。坂を登り切ると数名のスタッフの方が手を振って待っていた。 そこがちょうど10km地点の正雲寺AS。看板によれば境内には美術館もあるみたいだ。スポーツドリンク、コーラ、バナナなどが用意されていたが、私は水を飲み、ミニトマトとキュウリの漬物をいただいた。これは助かった。確かに長い距離を走るためにはエネルギーの補充が欠かせないのだが、体調を整える食べ物の存在もランナーにとっては有難いことだ。 再び山門を下り、山へと向かう。やがて舗装が途切れて砂利道に変わった。これは厳しい。小石がゴロゴロで走り難いし、下手をすると捻挫をしかねない悪路。おまけに未明の雨でぬかるんだ箇所もあった。それでも相変わらずEさんとの会話が弾み、気を紛らわすことが出来た。徐々に傾斜が険しくなり、懸命に彼女を追いかける。 18km地点のASを過ぎた辺りで、トップランナーが駆け下りて来るのが見えた。もちろんフルの部の選手。まだ30代後半か40代前半の屈強な若者で、相当鍛えているランナーみたい。後続のランナーの姿は暫く見えず、文字通りの断トツ状態だった。ようやく2番手の集団が下りて来た。こちらも若いランナーだが、表情に余裕が無い。きっと必死で走っているのだろう。 駆け下って来る選手の中に中年ランナーも混じり出す。ザザーと滑る音。この悪路を猛スピードで下れば、きっと転ぶ人も出て来るだろう。やがてEさんとの距離が次第に開き出し私は1人になった。「サロマ」を9回完走し、「サロマンブルー」に王手をかけている実力ランナーの彼女にとっては、きっとペースが遅過ぎたのだと思う。 苦戦しながら砂利道を登っていると、前方からランナーの集団。「マックスさ~ん、もう直ぐ折り返しですよ~」とEさん。でも直ぐに思い直したのか「マックスさんは50kmでしたね~」。その声を残し、彼女の姿はあっと言う間に視界から消え去った。軽快な彼女の姿を目に焼き付けながら、ひたすら山を登ると前方に人影。そこが21km地点、布引高原の第3ASでフルの部の折り返し地点だった。 目の前に巨大な風力発電機が3機ほど見える。これは凄い風景だと感心しながら、番号のチェックを受ける。ASに用意された稲荷寿司を食べ、スポーツドリンク、梅干、バナナなどを口にする。やれやれ。これほどASが充実してるならリュックを背負って走ることもなかった。ようやく気持ちが落ち着いた時、背後から何度か私の名が聞こえた。「きっと同姓のランナーだろう」。まさか自分の名前が呼ばれたとは少しも認識してなかったのだ。<続く>
2009.10.24
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< 会津魂と自然美 > 私の心配をよそに、コースの風景はどんどん変化して行く。スタートから1km辺りで東山ダムが右手に見え、ダム湖が暫く続いた。木々の中には色づき始めたものも多く、都会よりもずっと早く秋を迎えていることが分かる。川の名は湯川。いかにも温泉場らしい名前だ。 最初の給水所は4kmほどのところだろうか。スタッフの人が2人、小さな柄杓を手にしていた。私はそれを奪うようにして飲んだ。冷たい山の水が喉に沁みる。帰路にも立ち寄ったところ、何と2個の柄杓は雨だれのように岩から滴る湧き水を受け止め、ほんの僅かしか溜まっていなかった。あれではとても選手の給水に間に合わないだろうと思いつつ、なぜか微笑ましくなった。 「これくらい緩い坂なら楽ですね」。そう言って追い抜いて行ったランナーの背中に、「頂上付近はきっと傾斜が厳しいんじゃないの」と応じる。なおも走って行くと、渓谷に小さな滝が見え出した。「凄いなあ」。驚いているランナー。「これは自然そのもののコースだね」。私も驚く。 どれくらい走った頃か、「救急連絡員」のゼッケンをつけた女性ランナーが目の前に見えた。興味を抱いて話し掛けると、スタッフの人にその役目を頼まれた由。東京からレースに参加したが、地元出身なのだとも。そこで私の質問癖がむくむくと頭をもたげた。「会津の女性の気質はどうなんでしょう」。突然の不躾な問いにも関わらず、暫く考えた後で返って来た答えは「我慢強さでしょうか」。 ふ~む。案内してくれた小父さんは会津人の気質を「素朴さ」と答え、今また女性ランナーからは「会津婦人は我慢強い」との返事。なるほどと思う。きっと素朴で我慢強い会津魂が、かの会津戦争でも幕府に対する忠義心と相俟って、最後まで官軍と戦う道を選択させたのだろう。 「ならぬことはなりません」とは誰の言葉ですか。この質問に対しては、「野口英世のお母さんじゃなかったかな」と彼女。会津若松市内の看板に書かれていた言葉を思い出して尋ねてみたのだ。「駄目なことは駄目」。「人の道に外れたことをしてはいけない」。今時そのような道徳的な言葉を市内の中心部に堂々と掲げている都市が他にあるだろうか。誠実で清廉な会津魂は、やはり今でも健在なようだ。 女性ランナーの名前はEさん。現在お住まいの市を聞いて思い当たる人がいた。「ちっちさんを知っていますか」。「ええ、知っていますよ。良くお宅に伺っています。ご主人のさり~♪さんはお料理が得意なんですよ」。ひゃ~。これは驚いた。同じ市なのでもしやと思って尋ねたのだが、かなりの仲良しだったようだ。 続いてSパパ、星峰さん月峰さんご夫妻、髭カクさんなどの名前を出してみたが、どなたも良くご存知とのこと。その後はSパパが走った「トランスヨーロッパ」の話、国内の著名なウルトラマラソンの大会などの話に花が咲いた。偶然話しかけたことがきっかけで仲間の輪が広がったような気がし、心配事もコースの厳しさもすっかり忘れてしまった私だった。<続く>
2009.10.23
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< ハプニング勃発 > 大きなホテルが廃屋になっている。それも2箇所だ。さっき引率してくれた小父さんによれば、地元の資本が苦戦する中で都会の資本が進出して頑張っているのが現状とのこと。そう言えば福島市近郊の飯坂温泉でも倒産したホテルが無残な姿を曝していた。かつて賑わった温泉場も、今は不況の影響で閑古鳥が鳴いているのだろうか。 6時48分会場のホテルに到着。駅前のホテルから歩いて1時間33分ほどかかった計算だ。早速受付を済ませ、参加賞やゼッケンなどを受け取る。結婚式の待合室を選手の更衣室として借りたようで、中は窮屈そのもの。参加賞の黄色いTシャツを広げてみる。背中に「会津魂」の墨痕。それを着ようか迷ったが、いつも通り宮城UMCの半袖Tシャツにした。 名簿によれば50kmの参加者が29名で、フルが44名、ハーフが42名で合計115名となっている。50kmの部に同じ走友会のY田さんと、佐渡島一周で一緒だった福島のA井さんの名前を発見。もらった資料の中で目立ったのが来年5月のゴールデンウイークの企画。福島のいわき市から新潟県の月岡温泉までの224kmを2泊3日で走る由。E藤さんはこれまでもいろんな企画を打ち出しているが、こんな長距離は初めてでなかなか意欲的な内容と感じた。 「50kmの部では食べ物が出ますか」と彼に尋ねると、「ASでお弁当が出ますよ」との返事。それなら持って走らなくても大丈夫だろうと、お握りと大福を食べた。朝食を食べてから既に3時間半が経っている。ガス欠状態で山を登るのは大変。今のうちにエネルギーを補充しておこう。 沖縄のランナーと話す。どうもウチナンチュ(沖縄人)と違うと思って尋ねると出身は広島で、奥様の故郷である宮古島に家を建てた由。昨年走った「宮古島ワイドー」の話をすると、彼も50kmの部に出たとか。こんな遠い大会への参加理由を尋ねると、「磐梯高原ウルトラ」に出たくて連絡したところ、この大会を勧められらのだとか。磐梯山と猪苗代湖を巡るコースは確かに素晴らしい景観で、無くなるのが惜しい大会だった。 このHホテルにも因縁話がある。案内には1泊2食付きで7千円から1万2千円とあり、内金として3千円を払い込んでいた。温泉に入れて2食付きだし、おまけにスタート地点とは楽そのもの。だが申し込んだ後で沖縄行きの資金不足が露呈し、急遽ここをキャンセルして駅前の安いビジネスホテルを申し込んだ。もし1万2千円の部屋になれば、残額9千円の支払いが厳しいと感じたためだ。だが、内金の3千円は返って来なかった。 それにしても仲間のY田さんの到着が遅い。受付でのチェック状況を何度も確認したが、姿がない。不思議なことに福島のA井さんも未到着のようだ。仕方なくランナー用に指定された駐車場まで走ってみる。そこで宮城ナンバーの車を1台ずつチェックしてみたが、Y田さんはいない。前日は会津の田代山に登山し、そこから直接会場に来るはずだったのだが、一体どうしたのだろう。 定刻の8時。50kmの部とフルの部の選手が一斉にスタートした。コースは布引高原まで一気に登る山道。果たしてどんなレースになるのだろう。それよりも何故Y田さんが来なかったのか、その理由ばかり考えていた。そして辿り着いたのが彼はこの日も山登りをし、ここへ来るのは夕方なのではないかとの結論。 だが、ちゃんとメールで返事を出したかどうか。もし出さなかった場合、彼は山から直接車で帰宅する可能性が高い。そうなると会津若松から仙台までのバス時間が心配だ。ゴール地点から会津若松駅まで歩くと、そのバスに乗れるかどうか。これはゴール後に温泉に入るどころではないぞ。メールでちゃんと状況を説明しなかった自分の責任だ。思わぬハプニングに青くなり、マラソン気分もどこかへ吹っ飛んでしまった。<続く>
2009.10.22
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< 会津人気質とは > 博物館を出てホテルへ向かう途中、たまたま鶴ヶ城の堀が目に入った。下を覗くと水はなく空堀状態。それでもその深さと大きさに驚く。上杉景勝が米沢へ去った後、城主は蒲生秀行から加藤嘉明と変わり、寛永20年(1643年)に徳川二代将軍秀忠の子で三代家光の腹違いの弟である保科正之が会津23万石の領主となった。彼が会津松平家の祖であり、爾来親藩として伊達や上杉の外様大名を牽制する役割を担う。 時は移って幕末の嘉永5年(1852年)。松平容保が第9代の藩主となる。容保は文久2年(1862年)に京都守護職を命じられ、後の新撰組と共に勤皇の志士を厳しく取り締まった。戊辰戦争が勃発すると、容保は奥羽越列藩同盟の中心となって鶴ヶ城に篭城して抵抗した。積年の恨みを晴らすべく、官軍の攻撃は激烈を極めたようだ。新撰組総長近藤勇もこの地で戦死。いわゆる会津戦争だ。堀も石垣も、それらの戦いを見て来たのだろう。 追手町の交差点から右折して神明通り、中央通りを経て駅前へ。ホテルは複雑な裏通りにあった。早速チェックインを済ませ、宿泊費4500円を支払う。大浴場は6時から入れる由。念のために近所のコンビニの場所を聞いておいた。安い部屋だが感じは悪くない。荷物を置いてテレビを点けると、偶然にも楽天の勝利インタビューが始まっていた。 あらら。何と、田中の先発で4対1の勝利だった模様。これでCS第2ステージへの進出が決定だ。不惑を超える山崎が3ランホームランを打ったみたいで、まさに勢いを感じる楽天の試合運び。試合を観ることは出来なかったが、実に嬉しい結果だった。放送終了時間まで観た後、暫し睡眠。 夕刻買い物のため外出。2食続けて弁当ではさすがに淋しいと思ったその時、ここ会津が発祥のラーメン店K楽苑を発見。喜び勇んで特製ラーメン、玉子乗せ丼、餃子のセットを注文。倹約中の身だが、800円ちょっとの料金も今夜は特別大目に見よう。帰路コンビニに寄り、缶ビールと翌朝用の弁当などを買う。 ホテルに戻って缶ビールを飲み干し、大浴場へ向かう。無人の風呂は気持ちが良かった。夜9時からNHKの特別番組で東北楽天の特集。内容は確かマー君の成長ぶりなどだった気がする。ベッドに入りながら観たせいか途中で眠ってしまい、いつの間にかスポーツニュースに変わっていた。楽天の勝利の場面を確認して就寝。 夜半何度か目覚め、朝4時15分には起床。タイマーは5時半にセットしていたのだが、やはり興奮していたのだろう。早速身支度を整え、早い朝食に取り掛かる。ところがポットがない。仕方なく水で味噌汁を作った。ヒレカツ弁当は冷蔵庫に入れなくても大丈夫だった。何とか喉に流し込み、デザートにミカンを食べる。最後に血圧降下剤を服用。 部屋の鍵を閉めてフロントへ。だが誰も居らず、鍵をカウンターに置いて出発。外はヒンヤリ。気温は10度ほどか。念のため手袋はしていた。前日に歩いたコースを逆に辿って博物館方面に向かう。空にはまだ星が出ていた。そんな早朝に歩くなんて滅多ににないこと。博物館を過ぎ、県立病院を過ぎると未知の道になった。夜が明けて、山の向こうの空が少し赤い。 宝町の交差点から東山街道へ向かっている時、リュックを背負った人が後を追い駆けて来るのが見えた。「マラソンに出るんですか?」。私が尋ねると「朝の散歩ですよ」との返事。同じ方向に行くようなので、小父さんに色々尋ねた。会津若松の人口は、合併前が11万人で合併後が約13万人。会津人の気質は素朴とのこと。ふ~む。どうやら私が感じていた通りだ。 レースのことを話すと、小父さんが驚いている。50kmコースの折り返し点である布引高原までの登りは勾配がきつい由。東山温泉の入り口を過ぎ、トンネルを抜けると気温がどんどん下がって来た。渓谷なので、市内と比べかなり冷え込むのだろう。結局ホテルが見える場所まで案内してくれた後、小父さんは引き返して行った。彼が行く山を後で地図で調べたら、少し方角が違っていた。それを厭わずに喜んで案内してくれたのは、やはり会津人の素朴さだ。それにしても道路脇にある「ランニング練習中 ~ランナーに注意~ 」の看板は何だろう。<続く>
2009.10.21
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< 会津の歴史を辿って > 福島県立博物館の正面には、稲束を積んだモニュメントがあった。豊穣の秋をイメージしたものだろうか。入館料を払って常設展から観覧。その途端に驚く。普通の県立博物館なら、ほとんどが考古学や日本史の学問的な展示のはず。だがここではそれらの展示の中に、民俗学的な芸術作品が混在していた。一体これは何を意味しているのだろう。 その疑問が直ぐに解けた。1時半から館長の講演会が開かれるとの館内放送。その館長の名前を聞いてピンと来た。赤坂憲雄氏と言えば山形にある東北芸術工科大学の教授で、民俗学の研究者のはず。何故ここの館長になったのだろう。館員に尋ねても、就任の理由は知らないとのこと。 彼は長年の研究成果を「東北学」として世に問う新進気鋭の学者。きっと民俗学の見地から、新たな視点で博物館全体の展示を見直したのだと思う。でも、民俗学のイメージが強い芸術作品を、考古学や郷土史の展示に混合するのはいかがなものか。 古墳時代の展示の中心に会津大塚山古墳があった。全長114mの前方後円墳は4世紀後半のもので、東北地方では宮城県の雷神山古墳、遠見塚古墳に次いで第3位の大きさ。この古墳の特徴は豊かな出土品で、全てが国の重要文化財として指定されている由。葬られた遺体を収める棺は2つ。いずれも割り竹式木棺のようだ。 出土品の中でも環頭太刀の見事さは群を抜いている。そして特筆すべきなのが「三角縁神獣鏡」の出土。これは奈良の椿井古墳を中心にして出土するもので、ここ大塚山古墳出土の鏡と全く同じ鋳型から作られた鏡が、九州、岡山、近畿、関東からも出ている。つまり紀元300年代後半には、近畿の政権と極めて近い関係にあった豪族が、既に東北南部に存在したことを意味する。 日本書紀によれば、開化天皇の同母兄にあたる大彦命(おおびこのみこと)、その子である武ぬな(さんずいに亭)川別命(たけぬなかわわけのみこと:古事記では建沼河別命:阿倍氏の祖と伝えられている)が四道将軍の一人として、諸国を統治するために王から派遣された由。父は北陸道を平定、息子は東海道を平定して合流したのが、ここ会津の地のようだ。それは神話に過ぎないが、一面の真実を伝えていると思うのだ。 ある研究によれば、父は阿賀野川を遡上して会津に到達し、息子は鬼怒川を遡ってこの地に辿り着いたのではないかとの説。いずれにしてもここ会津がかなり古い時代から、日本海側と太平洋側の双方から人々が集まって来た証左とも言えよう。前から抱いていた謎が少しだけ解けたような気がした。 一方企画展の「岡本太郎」関係は、少々期待外れ。展示の中心は彼が撮影した民俗学関係の写真だったからだ。漫画家である岡本一平を父とし、小説家の岡本かの子を母として育った太郎は奔放な芸術家として世界的に有名であるが、パリ大学で民族学(文化人類学)を専攻したことはあまり知られていない。そんな経歴のせいか、彼の足跡は沖縄の離島から東北の村々まで残されている。人々の暮らしや祈りを自分自身の目で確かめ、写真と言う形で後世に伝えたかったのだろうか。 中世以降の会津についても若干記しておこう。まずこの地を治めたのが芦名氏。至徳元年(1384年)に芦名直盛が黒川城を築いた。その芦名氏を天正17年(1589年)に伊達政宗が滅ぼす。だが豊臣秀吉の奥州仕置により、その翌年この地は蒲生氏郷のものになった。その後、豊臣の五大老である上杉景勝が慶長3年(1598年)に120万石の大大名として会津に進出し、新たな城の普請に取りかかった。 それを咎めたのが、秀吉亡き後の徳川家康。彼は豊臣の恩義を守る上杉に難癖をつけ、米沢への転封を命じた。それ以降家禄が一気に4分の1となった上杉家の困窮が続き、やがて九州の飫肥藩から迎えられた名君の誉れ高い上杉鷹山公が、米沢藩を救うことになる。そして幕末の戊辰戦争で会津は、官軍によって木っ端微塵に粉砕される。まさに血で血を洗う歴史の一こまだ。<続く>
2009.10.20
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< 謎を解く旅 > 10月16日金曜日。この日はパリーグCS第1ステージの緒戦。監督の辞任問題ですったもんだの大騒動があった我が東北楽天が、3位の福岡ソフトバンクホークスをKスタに迎えての戦いだった。結果は11対4の圧倒的な差で勝ち、第2ステージ進出に王手をかけた。エース岩隈の完投、主砲山崎のホームランを初めとする先発メンバー全員安打の猛攻は予想外のもの。この夜は遅くまでスポーツニュースを観、高ぶる気持ちで床に就いた。 だが眠ってから1時間後、0時過ぎに愛犬の異様な鳴き声に目が覚めた。犬小屋へ行って愛犬を庭に放す。きっとオシッコが詰まったのだろう。急いで裏庭へ行った愛犬が、暫くしてから戻った。案の定と安心して鎖につなぎ、再び床に就く。だが、結局3度起こされ、最後は真夜中の散歩となった。原因は下痢。それも血便だった。朝の5時にも起こされ、再び散歩へ向かった。異変の原因は、餌の配合率しか思い浮かばない。本来の餌が足らなくなって、他の餌を多目に混ぜていたのだ。 朝食後、妻が友人と会うために外出。その後、私も駅に向かった。会津若松行きのバスは9時50分の発車。ゆったり1人掛けにすれば良いものを、混み合うと考え1番前に相席で座った。品の良い老婆を横にして、私はスポーツ新聞の楽天勝利の記事に夢中。だが、徐々に暑くなる。1番前の席は直射日光が当たるのだが、隣の老婆はスヤスヤとお眠り。我慢して暑さに耐える。これも来月走る沖縄本島縦断のための訓練だ。 会津若松が近づいた時、老婆が「運転手さんが居眠りしてる」と私に耳打ち。座席からの角度でそんな風に見えなくもないが、もしそうだとしたらバスは蛇行し、道路脇のガードレールに激突するだろう。そう話すと、ようやく老婆は静まった。1番前にいる私達の会話は、当然運転手にも聞こえたはず。高速道路から会津若松市内に入り、老婆はそそくさと下車した。 市内の地理は良く分からないが、兎も角終点まで行ってみよう。終点近くなってから運転手さんに県立博物館の場所を尋ねた。だが知らないと言う。ちょうどその時、博物館への矢印が車内から見えた。案外近そうで良かった。リュックを背負ってブラブラ歩き、バス停で東山温泉行きの時刻を確認。そこからは8時台のしか出ていない。マラソンのスタートは8時だから、これではとても間に合わない。 歩いているうちに、お城への標識を発見。時間は12時半過ぎ。まずはお城へ行って昼食にしよう。トイレに寄ってから城内へ入る。天守閣の前にお誂え向きのベンチがあった。これは良い。どっかと腰を下ろし、リュックからお握りを取り出す。これも来月の沖縄行きの旅費を捻出するための倹約策として、この朝自分で作ったもの。塩加減も良かったし、海苔、梅干、昆布の佃煮の味もグー。おかずの卵焼きと漬物も美味しかった。 食べ終えて直ぐ、目前の観光案内所に気づく。近づくと観光用のパンフレットが何種類か置いてあった。正確そうな市内の地図を開くと、明日訪れる東山温泉も書き込まれている。案内所の人に、距離を尋ねるが車でしか行ったことがないと言う。しかもスタート地点のホテルはさらにその奥で、地図からはみ出しているようだ。 地図に書き込まれた距離を目算すると、最低でも6kmはありそう。駅前のホテルから歩くとたっぷり1時間半はかかりそうな気配。だが、大体の方向と距離が分かって少し安心。さて、会津若松城の別名は鶴ヶ城。戊辰戦争の時は官軍の猛攻撃を受けて焼け落ちたはず。それを飯盛山から眺めた白虎隊の少年藩士達が自害して果てたのは有名な史実。 今年はNHKの大河ドラマ「天地人」が人気沸騰。名門上杉氏が本拠地の上越から秀吉の命によりこの会津若松の地に移され、家康の怒りを買ってさらに米沢へと追いやられるストーリーが、人々の同情を呼ぶのだろう。例年より観光客が相当増えている感じだ。だが、見上げる天守閣がコンクリート製のちゃちなもので、いかにも人工物と分かるのが興ざめだった。 地元の方に道を尋ねながら、次に県立博物館へと向かう。場所はお城の近くで、一見して博物館と分かる佇まいだった。玄関に立つと、秋の企画展として「岡本太郎の博物館 ~はじめる視点~」の案内板。これは良い時に来た。かなり期待出来るかもと心が騒ぐ。私が博物館へ来たかった理由は「会津とは何か」を探ることにあった。 太古、人々は長い旅の末にこの盆地に辿り着いた。一方は日本海側から、そしてもう一方は太平洋側から。それらの人々が集まり出会った地が「会津」の名の由来であることを以前から知ってはいたが、それを実感させる展示がこの博物館で見つかるかどうか。「会津」の謎を解く鍵の発見。それが翌日のマラソンに次ぐ私の重要任務だった。<続く>
2009.10.19
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お陰さまで東北楽天がCS第1ステージで2勝し、第2ステージへ進出することになりました。岩隈で第1戦をものにし、田中で第2戦をものにしたのは立派でしたね。球団はともかく、監督、コーチ、選手が一丸になっての勝利にKスタのファンも快哉を叫んだことでしょう。これからも日本一を目指して、頑張って欲しいものです。 お陰さまで私も、「東山温泉もみじマラソン」を無事完走することが出来ました。高低差約680mほどの山道を山頂まで登り、33基の風車(風力発電機)を眺めて砂利道を駆け下りました。美しい紅葉と谷川のせせらぎを楽しみながらの6時間38分43秒。来月の沖縄本島東海岸単独縦断走に向けて、良い練習になりました。応援、大変ありがとうございました。
2009.10.18
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野村監督が、球団側が提示した「名誉監督」の称号と「背番号19」の永久欠番の申し出を蹴ったとか。彼の気性からすればごく当然の結果だと思う。プロ野球に関わってせいぜい5年の経験しかない球団と、50年以上もこの厳しい世界で飯を食って来た男とでは、野球に賭ける意気込みが違うのだ。 現役時代の長島は東京6大学で活躍し、最初からスターとしてプロ野球へ登場した。これに対して京都の地方高校を卒業した野村は、テスト生としてようやくプロへ入れた劣等生。長島が絶えず脚光を浴びる「ひまわり」なら、野村は地味な「月見草」に譬えられる所以だ。 弱小チームを渡り歩いた野村は、相手に勝つためには必死になって頭を使い、克明な記録を残した。これが「データ野球」として後日生きることになる。野村の真骨頂は詳細なデータと豊かな直観力にあると思う。だから自分が試合に使えると思った選手は徹底的に使うし、駄目だと判断した選手は絶対使わない。そんな頑固一徹さは、時として「老害」になることもあった。 レギュラーシーズン終盤になって起きたリンデン外野手の登録抹消事件も、野村監督の性格の激しさから出たとも言えよう。だが監督の起用方針に選手がクレームをつけること自体が許されない行為だと私は思う。それは日本もアメリカも同様だろう。選手が自信を持つことは良いことだが、それは「うぬぼれ」とは全く異なる性質のものだ。 私達楽天ファンは、チームが弱い頃から熱心に応援を続けて来た。一方IT企業出身の楽天球団は経営優先の傾向が特に強く、金儲け主義があからさまに出ることもあった。だから契約違反を犯してまで田尾初代監督の首を切ったし、球団側に不都合なこともズバズバ言った野村監督を、ファンの願いも空しく強行に辞任させたのだと思う。 5年間Kスタのレフトスタンドで応援し続けて来た私には、ここまでチームを育て、強くしたのは野村監督以外にいないと断言出来るし、今回の辞任劇での監督の怒りやファンに対する感謝の気持ちがとても良く理解出来る。実質上野村監督に拾われ、育てられた選手達は、今どんな想いでいるのだろう。 今夜はCSの緒戦。深手を負った楽天が、青年監督率いるソフトバンクに対して、どんな戦いが可能なのか。今夜は野村監督の最後の意地を、とくと見せてもらう積もりだ。監督が怒りに燃えるなら、選手の胸のうちもきっと複雑なはず。怨念だけで試合を制することは困難だと思うが、それを彼らはどうカバーするのか。 球団から届いた来季の「ファンクラブ入会案内」は、直ちに古新聞の中へ捨てた。そして球団メールマガジンの配信も、近々停止してもらう予定だ。監督同様私の怒りも治まってはいない。これは男の意地とプライドの問題。来季チームの成績が極端に下がり、球場を訪れるファンが減るようになってから、球団は今回の判断が間違っていたことにようやく気づくのではないか。あまりにも悲観的なシナリオだが、私にはそんな風に思えて仕方がない。< お断り > 明日17日(土)は朝から「東山温泉もみじマラソン」へ出かけます。レースを終えて帰宅するのは、18日(日)の夜。その間留守にしますのでよろしくお願いします。簡単なレース結果は書けるかも知れませんが、完走記の執筆開始は19日(月)となります。では!!
2009.10.16
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警備員をしている第1現場のビルに、笑顔の素敵なヤングミセスがいる。警備員の爺さんには挨拶などしない人が多い中で、とても爽やかで感じの良い美人だ。その彼女が足を引きずりながら歩くのに気づいたのは今年の春先。そのうち姿が見えなくなったと思ったら、1ヵ月後に義足をして出勤して来た。 タクシーで出社することが多いが、稀にご主人が送って来ることもある。同じ会社の運転手さんに話を聞いたら、膝関節の内膜に出来た腫瘍を切除する手術を受け、痛む膝に直接重力がかからない特殊な義足を履いてるのだとか。「頑張ってますね」とたまに声を掛けるのだが、最近笑顔が少なくなったのが気がかりだ。 その彼女の病気を教えてくれた運転手さんの姿が見えなくなって2週間過ぎた。話によれば、勤務中に救急車で病院に運ばれ、緊急手術を受けたとか。病名は心筋梗塞。かつてはボーリングの選手として国体へも出場したほどのアスリート。だが、第2の職場では社長付きの運転手になって気苦労が絶えなかったようだ。 「今朝は社長が全然話に乗ってくれないんですよ」と、良く愚痴をこぼしていた彼は、医者からタバコを止めるよう勧告されてもいた。1ヶ月ほど病休するようだが、それを聞いた出入りの個人タクシー運転手が曰く。「これはチャンス。もっと仕事が増えないかなあ」。仙台は人口に比べてタクシー台数が日本一多い都市。まんざら冗談でもなさそうな口ぶり。世間とは全く厳しいものだ。 清掃夫を務めている第2現場には、30歳代の女性がいる。休憩時間になると黙って携帯の画面を眺めながら袋菓子をパクパク、1リットル入りのジュースを直接紙パックからゴクゴク。体重は90kgはあるだろうか。あまりにも太り過ぎてしゃがめないため、彼女が出来る仕事の内容はごく限られている。 仲間との会話は出来ても、挨拶は出来ない。彼女は知的障害者としての雇用で、市から補助金が出ているため不都合があっても辞めさせられない由。他人と上手にコミニケーションが取れないため常にいらいらして、人が見てない所では電気掃除機を蹴飛ばして困ると責任者が話す。 最近ここに60代の女性が手伝いに来ている。彼女が以前社内広報誌に書いた文章を読んで驚いた。まさに非の打ち所の無い完璧な文章。やはり私の予想通り、大学卒とのこと。だが、採用後の2年間で4度目の配置換えとはどうしたことだろうと疑問も。最近になって、ようやくその謎が解けた。とにかく話好き。それも仲間に話題を合わせるのではなく、自分の人生観や自慢話が多い。 亡くなった「ご主人」とは不倫同士だったこと。退職金を3千万円以上もらったこと。マンションは2千万円を即金で支払ったこと。ベランダだけで35坪あること等々。彼女が女性職員達に話したことが、全て私にも伝わって来る。話したことが第3者に漏れるなんて、彼女はきっと考えたことがないのだろう。 ベランダだけで35坪のマンションが仙台のどこあるの? もしあったとしても2千万円で買えるの? 35坪って、1戸分の広さだよ!! 彼女の欠点は誰にでも見境なしに自分の話を吹聴することのようだ。管理会社からクレームが来たと言うのも何となく分かりそうな気がする。 私が直接聞いたのは趣味が乗馬であること、祖父が名誉町民だったこと、そして1年間で地球1周分歩いたことなどだ。全国の地理に明るいのは、勤めていた東京の会社でしょっちゅう出張に行ったからだとか。なるほどねえ。でも、1年間で地球を1周するには、1日平均110km近く歩かないと無理。「俺は35年間も走って、まだ地球1周半だよ」と答えたら、彼女は黙ってしまった。 話好きなのは良い。自慢話もたまには許せる。だが、それが単なる「眉唾」だとしたら一体どうなるか。人は話好きと言うより、いつか嘘つきと評価するのではないだろうか。完璧な文章を書く高学歴の女性清掃員。彼女の心に果たしてどんな闇が潜むのか、興味を持って観察中の私だ。
2009.10.15
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先日まで咲いていたムクゲや萩や吾亦紅が枯れ、今はシュウメイギクや金木犀が庭を彩っている。間もなく小菊も咲き出すだろう。仙台はもう秋の真っ盛り。蔵王連峰の頂上付近では紅葉が終わって、既に木の葉が枯れ出しているとか。そして立山には、早くも雪が降ったようだ。 今年は我が家の柿を良く食べた。山形の植木市で苗を買い、庭に植えてから12年目になるところ。植えた場所は土も日当たりもあまり良くない。そんな場所でも今年はたくさんの実をつけた。甘柿は仙台周辺が北限らしい。そのせいか甘みも乏しくさほど美味しくはないのだが、折角実ったので無駄にせずせっせと食べた。 落ちたばかりの実は甘いが、実が軟らか過ぎるのが難点。一方、枝に生っている実は堅くてシャキシャキした食感を楽しめるのだが、甘さが乏しい。実はさほど大きくはないが、来年はもっと大きくなると思うと楽しみだ。我が家の愛犬マックス君も、熟して落ちた実を喜んで食べた。4個ほど食べても下痢をせずに幸いだった。 一方、初夏に気温が上がらなかったためか、イチジクの成長は悪かった。枝から取って食べたのは10個ほど。大部分の実は青いまま枝に残っている。そのうち大きくなったら甘露煮を作ると妻は張り切っているが、まだ当分は無理なようだ。 このところ秋の晴天が続いている。お陰で我が家の家庭菜園の野菜も順調で、春菊や小カブはもう何度か食卓に上った。青虫や黒虫に葉を食い荒らされた大根も何とか切り抜けて大きく育っているし、初めて種を蒔いた白菜も予想外の生育振りだ。間引きした白菜の苗が、移植に成功したみたいで嬉しい。 昨日はようやくタマネギの苗を100本ほど買い、早速移植作業を完了させた。収穫は来年の6月だからまだ半年はかかり、冬を越しての長い付き合いになる。小さな種芋だったヤーコンは今や大きな葉を茂らせ、さらにこれからも茎は伸び、やがて花が咲くはず。今年は霜が降りる頃まで掘るのを辛抱する予定。あの淡白な甘さを味わえるのがとても楽しみだ。 佐渡島の後案内を出した筑波時代の友人達から、ボチボチ返事が着くようになった。昨年優勝した私が幹事となって開催する、年に1度のマージャン大会だ。遠くは岡山や三重から、近くは東京や千葉、茨城から10名近く参加する恒例行事。今年はマラソン参加の都合もあり、12月に忘年会を兼ねての開催になった。 中には残念な通知もあった。来年2月に開催の「第4回東京マラソン」だが、今回も見事に落選。これで4年連続での落選なのでショックは少ないが、何となくファイトが削がれる気分。元気を出して代わりのレースを探すしかない。これも秋の恒例行事になったかもね。
2009.10.14
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9月に走った「佐渡島一周」で、秋田のJunさんが島内に居られる時間は41時間と言っていた。彼が走ったタイムは34時間台だから、これを35時間と看做して残された時間が6時間。彼がレース前に車中でまどろんだ時間は2時間。両津港への往復時間が2時間。レース前の準備と食事で1時間。レースが終わって着替えに30分。そしてフェリー乗り場での手続きに30分。 こう考えると、彼は必然的に35時間以内であのコースを走らざるを得なかった訳だ。それだけではない。秋田から新潟までの運転。そして帰路も同様に新潟経由で秋田まで長距離の運転。その間に眠れたのは新潟から佐渡、佐渡から新潟へ向かうフェリーの船中にいた2時間半の間。そんな辛い思いをしてまで佐渡島一周を走ったのは、偏に亡きR子さんの追悼のためだったのだと思う。 その佐渡で、T田さんが話していた。「K藤さんは強いよ。何しろ体幹がしっかりしてる」と。また「走ってる途中でK藤さんに、片方の肩が下がっていると注意された」とも。そのK藤さん曰く。仮眠所から出る際T田さんからは「夜中に走るなら後を追い駆けて来て」と言われ、必死で走ったそうだ。女性1人で走るには、佐渡の道路は暗過ぎるし、危険も伴う。 だが、T田さんは最初から最後まで2人で走るのではなく、たまたまペースが合えばあるいはペースを合わせても一緒に走りたいと彼女が考えるのなら、併走しても良いと考えたのかも知れない。 佐渡のコースは、たとえリタイヤしたくても基本的には交通手段がない。ASも少なく、走りながら食料を調達する必要がある。だからこそあのコースに挑戦するには、かなりの勇気が必要。2人は安易な妥協をせず、苦難を切磋琢磨で乗り切ったのだ。 先日、所属する走友会で送別会があった。愛知から単身赴任していたY川さんが定年の少し前に郷里へ帰ることになったのだ。仙台に転勤したY川さんはネット検索で我が走友会に入会された由。誰も知り合いのいない土地で、走る仲間に巡り合い、そしてウルトラマラソンの世界に飛び込んだ。 私も転勤族だったから、彼の気持ちは良く分かる。言葉や文化が違う土地で新たな仕事に就くだけでも不安が募るし、まして単身赴任となれば何かと苦労が多いはず。良く5年間もの単身赴任生活に耐え、ウルトラの世界も開拓したと思う。私自身は何も援助は出来なかったが、同じウルトラランナーとして何か感じてもらえれば嬉しい。 送別会の席で、同じ佐渡を走ったO川さんと、「秋田内陸」を初めて完走出来たI藤さんが、共に今年の1月から練習で月間300kmを走っていることを知った。8月の「薬莱山とお足マラニック」の時、2人にはまだ20kmも行かない時にあっさり抜かれた。道理で速かったし強かったわけだ。あの快走の陰には、やはり秘められた努力があったのだ。 O川さんは昨年「秋田」を10回完走し、クリスタルランナーの資格を得ながら、今回秋田へ行かず、佐渡で好記録を出した。私の秋田完走はまだ4回。多分クリスタルランナーの資格を得ることはないと思う。それでも悔やむ気持ちは全く無い。人には人の事情がある。心に秘めた悔しいこと悲しいことが、誰にもあると思うのだ。 この3連休は特に天気が良かった。佐渡の疲れがようやく取れ、11月の「沖縄本島東海岸単独縦断走」成功を目指して、いよいよ練習を開始すべき時期になった。長期間サボっていたため、果たして足が動くか心配だったが、3日間で70kmほど走ることが出来てほっとした。 その最終日の帰路、ばったりE名さんと出会った。秋田内陸では75km地点でリタイヤしたとか。でも彼女の表情はサバサバしていた。まだ足の調子は良くないようだが、それでも秋田に初挑戦出来たことが嬉しかったみたい。今週末、仲間の多くが北上市で行われる24時間走に参加するようだ。その練習中だったM井さんと一緒に走って来たと彼女。皆頑張っているんだねえ。 昨日、あるHPで走友達が大勢バナナのコマーシャルに出た動画を見た。あららら。何時、何処で、こんな映像を撮ったのだろう。いつもとは違った仲間の演技を観て、実に愉快で不思議な気持ちになった。なかなか会えなくても、仲間の消息を知るのは嬉しいし、自分も鍛え直してまだまだ頑張らねばと思えて来る。
2009.10.13
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昨夜の対ソフトバンク戦で、東北楽天のレギュラーシーズンは終了した。77勝66敗1分。勝率5割3分8厘で貯金が11。堂々のパリーグ第2位で、初のCS地元開催を勝ち取った。5年前に他球団から「お払い箱」になった選手などが中心になって出来た新規球団。初年度にはわずか38勝しか出来なかった弱小球団が、まさかここまで強くなるとは。 シーズン前の解説者による予想では、楽天を下位に挙げる人が多かったようだ。だが今年の楽天は開幕ダッシュに成功して、一時は堂々の首位に躍り出るなど、これまでとは違った戦いぶりだった。「夏ばて」して成績が急降下した昨年の夏。だが今夏は選手が逞しさを増し、逆転勝ちする試合が圧倒的に増えた。そして、本拠地Kスタでの勝ちっぷりは、ファンから見てもとても見応えがあった。 これからいよいよCSを勝ち抜いて日本一を目指す段階まで来た時、レギュラーシーズンが終わった昨夜、球団社長が野村監督に来季の契約をしないことを通告したのだと言う。「馬鹿か!」。本来なら球団と監督、選手が日本一を目指して心を一つにして戦う時に、まさに冷や水を頭から被せてしまったのだ。 表向きの理由は監督の高齢問題。若返りを図りたい球団としては、昨年の再契約時に申し入れていたようだ。だがリーグ2位になってこれから日本一を目指す監督の首を切る馬鹿が、どこの世界にいるだろう。野村監督の年俸は1億5千万円とか。さるスポーツ紙によれば、その金が惜しくなったのだろうとの見方が第一。 後継の候補者として挙げられている1人が今季で広島を退団するブラウン監督。スポーツ紙の第2の観点は、外国人監督なら野村監督の後継者になってもプレッシャーを感じずに済むかららしい。ブラウン氏の年俸は4千万円だから、差し引き1億1千万円が浮くことになるし、球団に対してうるさいことも言わないとの見方だ。 果たしてこれが真実かどうかは知らない。だが常に健全な経営体制を目指している楽天球団なら、あり得ない話ではない。そして予想されるファンからの猛抗議に対する策として取られたのが、野村監督を「名誉監督」に祭り上げること。だが、監督がこの案を呑むかどうかはまだ不明。 かつて福岡ソフトバンクの監督を務めていた王氏に対して、孫オーナーは本人が出来る限り監督をお願いしたいと全幅の信頼を寄せ、監督を辞した後は球団の会長として迎え入れた。10年間の功績があったにしても、楽天球団とはえらい違い。私から言わせればTBS株の買取り問題で700億円以上の損失を出した楽天三木谷会長の責任こそ問われてしかるべきなのに。 どぶに捨てたあの700億円があれば、ドーム球場が2個も出来、寒さで震えながら開幕試合をする心配もなかった。楽天の公式応援団も今回の件では相当に怒っているはず。また今後ファンからの抗議の声も高まるだろう。今日、私は早速球団あてに抗議のメールを送った。CSを観に行かないのは無論のこと、来季はファンクラブへ入会せず、Kスタへも積極的には行かない積もり。 74歳の老監督が確かに高齢であることは間違いない。だが弱小球団の選手を一から鍛え上げて、日本一を目指すまでに成長させた手腕は誰もが認めるところだろう。出来るならグラウンドの中で死にたいと言うのが野村監督の口癖。楽天が強くなったお陰で、監督としての生涯勝利数が負け数を2つだけ上回ったのがせめてもの恩返しか。 こんな調子で今後CSを戦い抜くことが出来るのかが気がかりだ。5年前に仙台へやって来た礒部や愛敬らの2軍選手数名に対しても、戦力外通告がなされる由。勝負事には厳しい定めがあり、弱者は去るのが宿命だとしても、やけに無常を感じるのは秋の到来のせいだけではなさそうだ。 野村監督、これまで全国の楽天ファンのためにどうもありがとうございます。長い間本当にお疲れ様でした。残された試合を、最後まで力を抜かずに頑張って戦ってください。そして、いつまでもお元気で過ごしてくださいね。
2009.10.12
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3週間近く、ウルトラマラソンのことを書き続けて来たが、その間には色んなニュースがあった。その中から人物像に焦点を当てて、印象を述べてみたい。 先ず大相撲秋場所(9月場所)だが、1敗の白鵬に対して朝青龍は全勝で千秋楽を迎えた。場所前の状況から見ればとても意外な展開。本割りでは白鵬が完璧な攻めで朝青龍を下した。さすがは双葉山を尊敬する横綱と感心したのだが、優勝決定戦では逆に朝青龍が絶対有利の体勢に持ち込み、ライバルを土俵に転がした。 久しぶりの優勝がよほど嬉しかったのか、朝青龍は思わず土俵上でガッツポーズ。単なる格闘技なら許されるだろうが、礼儀を重んじる大相撲の世界では顰蹙を買う行為。場所後記者の前で謝っていたが、彼の反省心は薄く、また同じようなことを仕出かすのは目に見えている。 テニスプレーヤーの杉山愛選手が引退宣言をした。最後はダブルスの試合で準優勝。長い間良く頑張ったと思う。彼女よりさらに年長のクルム伊達公子が39歳でまだ現役なのは驚き。高校生プロゴルファーの石川遼君が過日の大会で今季4勝目を挙げ、賞金王に一番近い由。その遼君が世界選抜に選ばれ、アメリカ選抜のタイガーウッズ選手と戦っているのはさらに驚きだ。 先日国連総会の場で、アメリカのオバマ大統領が演説をした。このところ国内では支持率が落ちて来つつあるとか。そのせいか、地球温暖化に向けての排出ガス規制への取り組みに関しては具体的な数値も上げず、あいまいな印象に終始したように見受けられた。 これに対して、鳩山総理の演説はかなりインパクトがあった。目標とする数値も明確だったし、削減に向けて取り組む姿勢もはっきりと打ち出せ、世界から好印象をもって迎えられたと思う。外交デビューとしては順調な滑り出しだったように思う。 次に両者が登場したのは、コペンハーゲンでのIOC総会。つまりオリンピック招致の場でのアピールだった。出身地であるシカゴを売り込んだ大統領に対して、鳩山総理は国連で演説した環境問題の点から東京をアピールした。だがシカゴは最初に脱落し、東京は2番目に脱落した。最後に栄冠を勝ち取ったのは、ブラジルのリオデジャネイロだった。 わざわざコペンハーゲンまで走って行った招致大使の寛平ちゃんは、「骨折り損のくたびれもうけ」になってしまった感じ。ソウル、北京とアジアでの開催が続いたため、落選は容易に想像出来たはずのに、150億円以上もの経費を使ってPRに励んだ石原都知事の見識が疑われても仕方がない。 つい先日、ビッグニュースが世界を驚かせた。オバマ大統領のノーベル平和賞受賞決定のニュースだ。大統領就任後まだ8ヶ月。さしたる実績も挙げてないのに受賞したのは、チェコのプラハで行った核兵器廃絶の演説が評価された模様。若い大統領の大胆な発想にはこれまでも驚かされることが多かったのだが、あれほど突っ込んだ内容の演説はなく、世界平和の観点からも歓迎すべきものだと思う。 一方、鳩山内閣の船出は必ずしも順風満帆とは言えない。それほど前政権が残した「負の遺産」が大き過ぎたのだと思う。これまでの政治と行政のあり方を根本的に見直しているのだから、至る所で抵抗に遭うのは致し方ない。それでも本来の「あるべき姿」を求めて、妥協せず突き進んで欲しいと願っている。 そんな折、リオデジャネイロ後のオリンピック開催地候補として、今後広島市と長崎市が共同歩調を取ることを検討中とのニュースが入って来た。都知事自身の3選目出馬をアピールするための立候補劇より、世界平和を願う両市長の純粋な姿勢の方が好感が持てるのは当然のこと。今世界は大きく変わりつつある。これまでの価値観とは全く違った次元の発想が、「沈み行く地球」を救うように感じてならない。
2009.10.11
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「佐渡島一周」終了後、私は直ぐに次の目標に向かって準備を進めた。その筆頭が11月下旬に予定している「沖縄本島東海岸縦断走」。早速ツーリストに赴き、見積もりを依頼。2泊4日の金額は10万円余り。(うち1泊は自分で手配)。2泊のうち那覇市内のビジネスホテルは1泊6千5百円でごく妥当な額。 だが、名護市の東海岸にあるリゾートホテルの料金が何と7万円余と言う話に腰を抜かす。頭金の3万円を支払って帰ったものの、数日後にはひょっとしてネットで申し込めばもっと安くなるのではと考え直し、ホテルのHPを検索。すると4万2千円ほどで泊まれるコースが見つかった。こちらもツインの料金。2人分支払ってもまだ3万円以上安い。 喜び勇んで予約し、ツーリストへはキャンセルの電話を入れた。その際残金を確認。7万円が4万円になった嬉しさに、佐渡以降2週間ぶりに練習を開始した。だが翌日になってネットから申し込んだ方が1万円ほど高いことに気づいた。7万円は私がパートで稼ぐ1ヶ月分の給料に匹敵する金額。たった1晩眠るだけでそれがパーになることで気持ちが動転していたのだ。 ツーリストの方が総額で1万円ほど安い原因は飛行機代。べらぼうな額のリゾートホテルだが、飛行機代は通常の半額以下になっていたのだ。慌ててホテルへキャンセルのメールを入れ、ツーリストには改めてリゾートホテルへの宿泊を依頼した。 それほど経費に拘る理由は単純。10月の給料と11月の給料を足しても、ギリギリだからだ。9月は連休が多かったため10月分の給料は少なく、レース以外にもお金がかかる。こうなると通勤のバス代すら大きい。一旦は10月のレース参加を見合すことを考えたが、沖縄本島縦断を成功させるためにも、やはり走っておくべきと考え直した。 10月のレースは温泉に前泊する予定だった。内金3千円は既に支払っているが残金は最大9千円になる可能性がある。これはやばい。早速主催者に断って前泊をキャンセル。そして当日の朝会場へ向かうY田さんの車に同乗させてもらうことに変更しよう。Y田さんへ虫の良いお願いをメールして安心した私だったが、彼からの返事に驚嘆する破目になった。 何と彼はその後予定が変ってレース前日に仲間と山へ行き、レース当日は山から直接会場へ向かうとのこと。これには参った。慌てて会津若松のビジネスホテルで最も安いコースをネット予約。そして当初の予定通り、高速バスで前日に行くことに再変更した。当日の朝は会場までの5kmを走って行く公算が高い。 混乱の発端になった沖縄のリゾートホテルだが、私がスタートする最北端の辺戸岬から最も近いホテルが75km先にあるそこなのだ。11月の沖縄の気温は27,8度。冬の気候の仙台から見ればまだ夏本番。そして長距離を走ることの出来るシューズは1足だけ。それは6月の「みちのくラン」で私のシューズを間違って履いて行った人が代わりに置いて行った少々窮屈なもの。昨年走った西海岸と異なりアップダウンが激しいことも含め、今回の沖縄本島縦断走はかなり厳しくなりそうだ。 さて、自分の足に合わないシューズで走らざるを得ないのも、通勤ランが出来ないのも全てはお金がないため。今はバス代を倹約して自転車で通勤中。当然帰りも自転車になり、ランニングは夕食前までにせざるを得ない。このため愛犬の散歩もブログを書き始めるのも遅くなり、一層疲労を増加させている。そんな訳で11月末まではケチケチ作戦を含め、当分厳しい戦いが続きそうだ。
2009.10.10
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佐渡島から帰宅後の体調などを簡単に記しておきたい。先ず左足の指の付け根に巨大な肉刺(まめ)が出来ていた。これはピンで刺し、水を抜いた。原因は医療用インソールとの摩擦。土踏まず部分については義肢製作所で削ってもらっていたが、この部分は未調整だった。医療用インソールは歩くことを前提に作られていて、ランニングのことなど想定してはいない。 指の付け根は走る際に強く蹴り出す部分だから、凹凸は不要。200kmを超える距離だとおおよそ20万回も地面を蹴ることで、つま先とインソールが摩擦を繰り返す。もしインソールに凹凸があれば、摩擦の度合いがさらに増す。レースの翌週、私は義肢製作所の社長に巨大な肉刺を見せた。彼もそれで不要な部分を削る必要性を理解してくれた。肉刺の痛みが引いたのは1週間後ほどだったと思う。 股ずれは「デリケートゾーン」全体に及び、痛みと痒みは1週間以上続いた。治療はひたすらオロナイン軟膏を塗布すること。今後の対策として、ロングタイツを履く際は、その下にトライアスロン用のバイクパンツを履くことを考えている。バイクパンツは縫い目がずれており、肌が摺れる率が低いように思える。ただ、見た目は悪いし、100kmも走ったらどうなるかは不明だが。 今回初めて左足が「象の足」状態になった。足首、足の甲が浮腫んで腫れ上がった。これは弱点がある左足に強い衝撃がかかり続けたせいだろう。この浮腫みは4日間ほどで取れた。一方右足は全く正常で問題なし。 体重は1kgほど減少しただけで済んだが、体脂肪率はレース前に比較して8%減った。これは約5kgの体脂肪が燃焼したことを意味する。だが、それも4日間ほどで元に戻った。人体が一旦飢餓状態を経験すると、防御本能が働いて急速に体脂肪を蓄える性質があるのだろう。 レースの数日後、内科で診察を受けた。この時の診断では血圧が若干高く、脈拍に多少乱れがあった由。レース中も血圧降下剤は服用していたが、不眠状態で走り続けた影響が多分にあったのかも知れない。 レースの反省点だが、第1に地図を正しく読解する力が足らなかったように思う。レース中は佐渡島全体の地図1枚とスタート、ゴール付近の地図を1枚だけを持って走った。前者は記録を残すために時々メモを書き込み、後者はゴール時に迷わないための備えだったが、結果的に見れば地図上の情報を正しく読み取れず、3度もゴール付近を彷徨うことになった。 反省の第2は疲労回復剤(アンプル)を保持しなかったこと。もし○ンケル黄帝液などを持参していれば、疲労の度合いがかなり違ったと思う。分かってはいたのだが、今回は予算が許さなかった。 反省の第3は小木港付近での買い物が不十分だったこと。食べたかった稲荷寿司は買えなかったが、代用で「太巻き寿司」を買っておけば、その後のガス欠がかなり防げたはず。小木で道に迷いラーメン屋に入れなかったことも、心身への影響が大きかった。 反省の第4は、持っていたア○ノバイタルの小袋3袋分を使用しなかったこと。無理にでも使えば、もっと良い体調を維持出来た可能性がある。ともあれ、今回は第1回、第2回と逆に廻ったことで、景色はもちろん、途中の買い物、体調などにも影響があったように思う。私にとっては、今回の時計回りの方がとてもきつく感じた。 今回のレースで履いたシューズはすっかり底が磨り減ったために、ホテルで捨てて来た。それだけ足を引き摺って走ったわけだが、体が無意識のうちに着地のショックを和らげていたと私は考えている。それでも肉刺が出来、「象足」になったのだから、やはり200kmは大変な距離なのだろう。 「佐渡」の翌週「秋田内陸」へ挑戦した我が走友だが、T田さんは82km地点、K藤さんは60kmでリタイヤした由。K藤さんは最初から60kmまでと決めておられたようだが、T田さんは途中リタイヤを悔しがっていた。206kmを好成績で走破し、翌週100kmのレースに出ようとするチャレンジ精神だけでも尊敬に値する行為だと私は思う。 秋田のJunさんはレースこそ出場しなかったものの、レースの数日後には40km以上の長距離練習を2度行ったようだ。やはり「川の道」520kmを走破した鉄人は鍛え方が違う。私がようやく練習を開始したのはレースの2週間後。それもたった11km走っただけで、筋肉痛に悩まされたのだから笑える話。 ともあれ、佐渡島から帰宅した翌日には、疲労と戦いながら完走記を執筆し出した。私にとって完走記を書く作業は、レースそのもの。それほどのエネルギーを費やして文章と取り組んでいる積もりだ。今ようやく書き終えてほっとしているのが本音。17回の長い連載と付き合って下さった読者の皆様には、心から御礼申し上げたい。
2009.10.09
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< 打ち上げ そして別れ > O川さんの待つテーブルへ行き、がっちりと握手。私の到着があまりにも遅いので心配だったそうだ。彼は33時間台でのゴールだった由。仙台を発つ時「O川さんは35時間台、そして俺は45時間台でゴールすると思うよ」と感じたまま話したが、結果はほぼその通りになった。 席に着くと早速兵庫県のK茂さんが、缶ビール、ご飯、スープ、ベーコンを運んでくれた。舘ひろしにそっくりの彼だが、疲労骨折の後遺症のため確か140kmほどでリタイヤし、その後はボランティアを買って出た由。途中リタイヤでも納得できる結果だったのか、表情は終始にこやか。その旺盛なサービス精神にはこちらの心まで暖かくなった。 スープにご飯を混ぜて食べ、ベーコンをつまみにビールを飲む。もうご飯は残り少ないようだが、ガス欠の体にはそれでも十分な量。食事後は早々に荷物を受け取り、部屋へ戻った。室内では仲間のT田さんと最年長のA井さんがまだ起きて私を待っていた。早速T田さんと堅い握手。K藤さんと共に39時間台でのゴールだった由。だが、新潟のF川さんと関西の若手ランナーの姿が見えない。 着替えを持って風呂へ行く。さっぱりして部屋へ戻ると、T田さん、A井さんの2人は既に布団の中。自分の布団を見ると、先刻座った場所に血が広がっている。股ずれによるものだ。汚してしまったが仕方がない。傷跡にオロナイン軟膏を塗り、電灯を消して布団に潜り込む。あっという間に深い眠りに落ち、起きたのが8時過ぎ。5時間近く眠れたことでかなり疲労が回復出来た。 朝、関西の若者は途中で道に迷ったと愚痴をこぼす。かなり難儀したようだが、コース説明の際に注意を良く聞いてなかったのが原因だと思う。1階の大広間へ行くとあの不機嫌な女性ランナーがベンチで寝ていた。「何時に着いたの?」と尋ねたら、返事は「1時間前」。それが制限の1時間前、つまり今朝の5時なのか、それともたった今なのかは不明だったが、詳しくは聞かなかった。 三々五々仲間が集まって来る。K藤さんはほとんど疲労の痕跡がなく元気そのもの。F川さんは最後までT居さんと一緒に走り、ゴールした由。T居さんに「1年間、良く頑張ったね」と話すと、彼女は急に涙声になった。ちょうど1年前、ご主人を癌で亡くしたことを聞いていたのだ。F川さんからは昨年の「佐渡島」のレース中に、ご主人が逝去したと彼女から連絡を受けてモチベーションが下がり、リタイヤしたと聞かされていた。 会に先立ち事務局のS木さんから、参加者80名中完走者は60数名で、時間外完走者が3名と発表。ビールで乾杯し、朝食兼用の打ち上げ会が始まる。晴れ晴れした顔の選手。疲れ切った顔の選手。私は刺身などの豪華なおかずが嬉しくて、ご飯も味噌汁も何度かお代わりをした。満腹したところで千葉のボクシ~どんを表敬訪問。来年春の「さくら道」を目指す彼にとっては多少不満な結果だったようだ。 挨拶に来てくれたのが横浜コンビ。私が完走したことが少々意外だったようだ。それくらい2日目の私はヨレヨレだった。それなのに仲間のT田さんとK藤さんは、6日後の「秋田内陸」へも挑戦すると言うのだから凄い。佐渡の厳しさを知るからこそ、2人の果敢な挑戦には頭が下がる。だが亡くなったR子さんの場合は、生前6週連続でウルトラマラソンを走ると言う離れ業を実行していたのだから恐れ入る。 帰路のジェットフォイルで、仙台のT橋さんと再び一緒になった。今回の佐渡島一周は、若い彼にも強いインパクトを与えたようだ。ウルトラレースの前夜にアルコールを口にしたのも初めての経験だったと彼。帰宅後彼から届いたメールには、「これからも出愛(であい)を大切にしたい」とあった。 長い距離を走るウルトラマラソンには色んなドラマが起こる。そして多くの仲間との出会いもある。同じレースに参加し、厳しい戦いを共有することで、一層親しみが増すのだろう。今回のレースが、果たして亡きR子さんの鎮魂になったかどうかは分からない。だが、人間強い気持ちさえあれば、何とかゴールへ辿り着けることだけは証明出来たように思う。 ありがとう仲間達。ありがとう遥かなる佐渡島。そして、ありがとう天国のR子さん。見る見る遠ざかる佐渡の島影を追いながら、私は心の中でそうつぶやいた。<完>
2009.10.08
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< 見つからないゴール > 旧佐和田町は佐渡の西海岸にある町で、北朝鮮による拉致被害者だった曽我ひとみさんとジェンキンスさんの一家が住んでいる町でもある。この町の長さを今回ほど感じたことはない。最後の食事をしてから私はひたすら夜の街を走り続けた。河原田、窪田、沢根。どれも旧佐和田町の町内だ。 今回34時間台で走破した秋田のJunさんが両津のフェリー乗り場へ帰る途中、車中から私のことを探してくれたようだ。多分苦しみながら走っている私に、薬などを渡そうと考えた由。だが、私がこの町に到達したのは、その7時間くらい後。最後の力を振り絞って、ひたすらゴールを目指していたのだった。 相川方面に向かう県道31号線との分岐点に達したのは、3日目の0時を既に10分ほど過ぎていたころだと思う。ここにゴール地点である「ホテル夫婦岩」の看板があり、距離は8.8kmと書かれていた。やれやれ、ようやくここまで辿り着いたかと言うのが本音。だが、ここからゴールまでは、まるで地獄さながらの旅となった。 辺りは真っ暗になり、初めは比較的緩かった傾斜が、疲労と共に物凄い坂道に感じるようになる。月も星もない夜。食べ物はとうに尽き、お茶を飲みながらの前進。悪化する体調を何とか和らげようとアスリートソルトを齧るものの、それでは少しもエネルギーにならない。 198km地点の羽生周辺。ここは第2回の時、真夜中の0時過ぎに女性が歩いていた場所。秋田のJunさんは、あれは確かに幽霊だったと言うが、私は懐中電灯を向けなかったので良く見えなかった。そのことを思い出し、周囲に懐中電灯を向ける。女性はおろか誰もいない。聞こえるのは虫の声だけだ。火力発電所までは何とか走れたが、ついにガス欠となり歩き出す。 200km地点の二見集落の自販機で、カフェオレを買う。これは何とか体が受け付けてくれた。甘さが少しはエネルギーに変わったようだ。だが、延々と続く登り坂を走ることは出来ない。そのうちに電柱や家の明かりが、二重に見えるようになって来た。これは私が疲労の限界に達した証拠。201km過ぎの岬を廻るのも分かったし、202km地点の米郷集落を通過したのも分かった。 だが203km地点の稲鯨集落辺りから、急に距離感が狂って来た。見覚えのある建物が見つかると安心するのだが、ゴール地点がなかなか分からない。ようやく下り坂になり、ゆっくりと走る。滲む明かり。あれが目指すホテルかと思って近づくと単なる灯火。徐々に落胆の度合いが強まり、最後は不安感に襲われるようになった。「マックス~っ!(愛犬の名前)、お母さ~ん!、R子ちゃ~ん!」闇夜に吸い込まれる叫び声。 ひょっとして、ゴールを見過ごしたのではないか。そう考えて再び戻り、やはりそうではないと前進。さらに行くと、もうゴールの先にある相川に達すると考え、2度めの逆走。丘の上に一際明るいネオン。やはりあれがホテルだったと近づくとまるで違う風景。あまりの疲労に、とうとう感覚がおかしくなったようだ。 電灯の下で地図を確認する。ゴールは104km地点の橘集落の先にあるはずだが、それが見つからないのだ。地図の記載に間違いないが、私が確認したのはバス停の名前。地図の集落名は大字なのに対して、バス停の名前は多分小字だったのだろう。神経が正常であれば簡単に気づくことも、異常だと地図がおかしいと感じパニくってしまうのだろう。 もう笑うしかない状態。もう何時までにゴールしようなどと言う考え方はとっくに捨てた。このまま朝まで彷徨うのも笑い話で面白いかも。やけくそになって3度めの逆走中に前方から車。これを逃す手はない。道路の真ん中で懐中電灯を点滅させ、車を停めた。地元の人なら助かる。そう思ったのだが、光の中から現れた顔はスタッフのSパパだった。 私の訴えを冷静に聞いたSパパは、「ナビゲーション」を指差しながらゴールまで後3kmほどあることを私に説明した。ええっ、後3kmも?? まさかあの分岐点からまだ5kmちょっとしか来てないとは。私の距離感は一体どれだけ狂っていたのだろう。良かった良かった。これでゴールを通過してないことは確認できた。 喜び勇んで坂道を下る。ゴールまでの実際の距離は残り1.5kmほどだった。前方にホテルの明かり。そして大勢の人がホテルの前でランナーの到着を待っている。喜び勇んでホテルの敷地へ。スタッフの人が私の名前を呼ぶ。「Aさんゴール」。時間は3日目の真夜中、2時11分35秒。ついに長いレースは終わりを告げた。そんな深夜にも関わらず、私の到着を辛抱強く待っていてくれたのがO川さんだった。<続く>
2009.10.07
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< 復活したランナー しゃがみ込むランナー > 182km地点の西大須辺りまで来た時、前方に揺れる赤色灯が見えた。近づくと女性ランナーが歩いているようだ。思わず「Yちゃん?」と尋ねると、「YちゃんでもI井のYちゃんなら前へ行きましたよ。私はY口のYちゃん」。とおどけた返事。さらに「真野湾が見えないとモチベーションが上がらなくて」とも。私は「真野湾ならもう直ぐ見えると思うよ」と答え、先を急いだ。 「へえ~っ、真野湾がねえ」。胸の中で女性ランナーの言葉を反芻する。やがて下り坂が右に曲がり出す地点に到達すると、眼下に巨大な明かりの連鎖が見え出した。私は後ろの闇に向かって叫んだ。「真野湾が見えたよ~!!」。右手前に真野の町並み。そして佐和田から対岸の台ヶ鼻灯台まで連なる光の輪が闇の中に浮かぶ。ゴールまで残り24km。洋上を越えて対岸まで真っ直ぐに行けるならさぞ楽だろうが、夜の道は湾曲して遥かに遠い。 183km過ぎ。背合バス停の待合室で一休みし、お握りを食べた。ここは第1回と第2回の時、夜通し走ったランナーが一眠りしていたところだ。冷たい夜風を避けるためには格好の場所なのだが、疲れて休もうと中へ入ると何時も先客で満員だった思い出の場所だった。 目の前を2人のランナーが続けて走り去った。そのうちの1人は先ほど抜いたY口さんに間違いない。「頑張って~!!」と声を上げる。つい先ほどまで歩いていたランナーが、湾の夜景を見て勇気を振るい起こし、ロングスパートを掛ける。私はあまりの変貌に驚嘆した。やはり若いランナーはパワーが違う。 再び夜道のランに復帰。だがとても彼女のようなスピードは出ない。恐らく他人から見れば、ほとんど歩くのと変わらない速度だろう。185km地点の豊田周辺で、ようやく平地となる。そこから真野の長い長い町並みが始まる。 187km地点。真野新町周辺で私より遅いスピードで走る青年と出会った。彼が言う。「ゴールまで後10kmです。頑張れば12時までにはゴール出来ますよ」。「12時までにゴール出来るの。それは嬉しいね」。そう返事して私は抜き去った。だが、彼の言葉を真に受けていた訳ではない。地図を確認してはいないが、これまでの経験からそんなに近いはずがないと感じていた。 ここは過去2回、真夜中に必死で歩き通した場所。189km地点の手前で国府川に架かる橋を渡る。橋の上に釣り人の老人1人。「何が釣れるんですか」と尋ねると、答えはセイゴ。体長15cmほどのスズキの幼魚が数匹、魚篭の中に横たわっていた。 橋を渡り切るといよいよ佐和田の街。ここも長い町並みが続くところ。だが疲れたランナーには町並みの明るさが嬉しい。そして夜間の車道はすれ違う車が極端に少ないため、安心して走れるのが助かる。日中のまだ明るいうちにここを通過したランナーは、凸凹の激しい歩道を走らざるを得ず、とても大変だったと後で聞いた。 190km地点の八幡まで来た時、急にガス欠を感じた。道端に腰を掛けて先ず地図を確認。やはり自分が思った通りだった。ここからゴールまでまだ16kmもある。リュックから食べ物を出す。第4ASでもらった小さなお菓子1個。カロリーメイト1本。そして栄養ジェリーが半分。あまり空腹を満たせないが、それが残された食べ物の全てだった。 先ほど抜いた青年がようやく追い着いて来た。私が「ゴールまで後16kmもあるよ」と言うと、「ええっ!」と驚き、自分でも地図を見始めた。そして私の言葉が偽りでなかったことを悟ったのだろう。長い沈黙の後彼は道端にしゃがみ込み、そのまま石のように動かなくなった。 ゴールが近いと信じていた青年にとっては残酷な結果だが、これがウルトラマラソンの怖さ。地図を確かめないで走っていると、先ず正しい現在地が分からなくなる。それに極度の疲労状態で走る夜の道はスピード感がまるで違い、判断を狂わすことが多いのだ。まさか自分までが彼と同じ苦しみをこの数キロ先で味わうことを、この時はまだ予知していなかった。<続く>
2009.10.06
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< ベテランの走り > 眠りから目覚めると、気分がすっきりした。食べた後で胃薬も飲んだためか、吐き気もすっかり治まっている。これは凄い。わずか15分ほどでも睡眠の力は絶大なものがある。心配していた横浜のA津さんのことをSパパに尋ねてみた。何と結局彼は約160km地点のここまで走り、たまたま居合わせたS木氏の車に同乗してゴール地点へ向かった由。そうか、それは良かった。 第4ASのボランティアの方々にお礼を言い、お菓子1個とバナナ1本を補給し、さらにトイレに寄ってから再びレースに復帰した。再スタートは14時50分。ちょうど1時間ここで過ごしたことになる。時間はロスしたが、体が休まったのが何よりの収穫だった。勇んで沢崎の橋を渡り、2つのトンネルを潜ってゴールへと向かう。残り46km。元気な状態なら5時間半ほどで着く距離だが、実際は11時間20分ほどかかった。ここからが残された体力と気力を振り絞っての本当の戦いだった。 163km地点の烏帽子島を眺めながら走っていた時、後ろから1人のランナーが追い抜きざま私に声を掛けた。「ずいぶん足に来ているねえ」。同室のA井さんだった。69歳のベテランランナーが軽やかな足取りで颯爽と走り去って行く。ほんのちょっとだけ追いかけてみたものの、追い着くようなスピードではない。 ゴール後に聞いたら、彼は仮眠所で7時間半ほど布団に潜っていたと言う。何という豪胆さ。いつもと変わらぬ睡眠時間を取れて、疲労もさほど感じてなかったのだろう。だがその陰には、日ごろの厳しい練習と努力があるのだと思う。最年長ランナーの見事なレース展開ぶりに脱帽した私だった。 間もなく江積海岸。ここの浜には黒い俵のような形をした枕状溶岩が転がっている。ハワイのどこかの島では今でもこの枕状溶岩が海中で誕生してるのだとか。165km地点から一旦山道となり、木流集落で再び海岸へ出る。井坪からの山道では過去の2回とも道を迷ったのだが、逆コースの今回は迷わずに済んだ。だが、体から急に力が抜けて歩けなくなる。農道に座り込み、夫婦の農作業を呆然と眺めながら、最後のお握りを食べた。 少しだけ湧いたパワーを武器に、何とか海岸へ下る。そこから4kmほど続く素浜海岸で、左手がすべて砂浜。釣り客が何人かとランニングしている人が1人。間もなく夕暮れが近い。浜辺の先は穴だらけの砂利道になり、所々に水溜りがある。懐中電灯はあるが、日が暮れると厄介だ。それよりも飲み水が残り少ないのが気がかり。 その時、後ろから1人のランナーが私を抜いて行った。還暦は過ぎているようだが、足取りは軽やか。先ほどのA井さんと言い、このランナーと言い、これまでの経験を十分に発揮したベテランの走りを見せてもらった感じだ。 周囲は徐々に薄暗くなり、あれほど暑かった気温もぐっと下がって来た。その点は助かるが、何とか落日前に悪路を通過せねば。でもここ数日の天気で、ひょとしたら水溜りの水もかなり蒸発したのではないかと楽観も。さて、夕日と鈍足ランナーの駆け比べは、鈍足ランナーの方が一瞬早かったようだ。 水溜りは私の推察通り少し小さくなっていて、足を濡らすことは無かった。175km過ぎでようやく国道350号線とぶつかり、角のマリンスポーツショップでお茶とスポーツドリンクを補充し、18時11分に食堂へ入る。何とそこに先ほど私を抜いて行ったランナーがいて、750円のカレーライスを注文していた。私は400円のかけうどんを頼んだ。 うどんが出来るまでの間にスポーツ紙をチェック。楽天は土曜日、日曜日と連勝したようだ。出て来たカレーは大盛り。一方のかけうどんはとても貧弱な内容。それでも日中からの念願だった汁を飲めるのが嬉しい。食後、ヘッドライトと懐中電灯を取り出し、赤色灯を点火。18時40分、先行するベテランランナーを追って、漆黒の国道に飛び出す。だが、彼の姿はあっと言う間に見えなくなった。 ここからが長い長い登り坂。178km地点の田切須は第2回の時に、夜間歩いて到達した場所。そして181km地点の小立は第1回の夜間到達点だった。良く夫婦岩の仮眠所からここまで歩けたものと感心する。周囲はすっかり闇に閉ざされ、私の足音だけしか聞こえない。ゴールまで残り25km、まだ先は長い。<続く>
2009.10.05
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< 彼岸花 > 私の思考回路は一体どうしてしまったのだろう。確かに道路標識には「宿根木」方面へ行ける旨の表示があった。だが、道路はどんどん寂しくなり、いつも通った小木の街とは似ても似つかぬ景色となった。先ほど引き返したランナーがいたが、やはりここはコースではないようだ。だが、間違えた箇所まで再び戻る元気と勇気が、その時の私には既になかった。 遊んでいた子供に尋ねる。「この道は宿根木に行くんだよね」。でも子供からの返事はない。その時、陰に隠れていた地元の人が「大丈夫ですよ」と代わりに答えてくれた。それで安堵はしたものの、あれほど楽しみにしていたラーメン屋に寄る夢は無残にも消えた。食べたかった稲荷寿司。そして飲みたかったラーメンの汁。2つとも果たせなかった小さな希望。 やがて道路は曲がりくねった坂道になり、私の足はもう走る力を失っていた。喘ぎながら登る田舎道。その脇に燃えるような色の花が咲いていた。彼岸花だ。今回はこの秋の花を走りながら探していたのだが、何故かなかなか見つけることが出来なかった。それが迷子になってようやく見つかったのが何とも皮肉。遠回りの無駄骨ではあったが、彼岸花に手を合わせR子さんの冥福を祈ることが出来た。 ようやく坂を登り切り、再び県道45号線に合流。だが、ここには直射日光を避ける樹陰がない。暑い。猛烈に暑い。紫外線対策は施してある半袖シャツだが、それが暑さ対策にはならないようだ。胸元のチャックを最大限に広げて、少しでも風が通るように工夫。蒸し風呂状態には変わりなかったが、それを脱いでランシャツに着替えると言う発想が出て来ない。恐らくこの時には、既に熱中症の症状が出ていたのだと思う。 暫く緩やかなアップダウンが繰り返す。登りは全く走れず、下りだけのろのろとしたスピードで走る。同じように登りで歩くランナーが目の前に現れたが、やがて走り去った彼の姿も視界から消えた。 154km地点の元小木集落から155km地点の宿根木新田までは案外フラットで田んぼが続く。その畦道に白い彼岸花と赤い彼岸花が交互に咲いていた。ここは第2回大会で、R子さんと最初に出会った場所。道端で一緒にお握りを食べ、少し会話を交わした鮮明な記憶が今も残っている。 あの時何故彼女は私のことを「お父さん」と呼んだのだろう。生前は兵庫の尼崎に住んでいたみたいだが、亡くなる寸前には故郷へ帰りたがっていたと言う彼女。R子さんの故郷って一体どこだったのだろう。そしてお父様はおられなかったのだろうか。 厳しい太陽を浴び続けたせいか、はたまた極度の疲労のせいか、私の足は一層鈍った。体の中から次々に沸き起こる吐き気、眩暈、倦怠感、そして眠気。ふらふらになりながらも「千石船展示館」に立ち寄ってかつての北前船の勇姿を眺め、江戸時代の停泊地である宿根木の集落を通過する。 157km地点の潮見橋、158km地点の小木強清水、159km地点の犬神平も、すべて歩いての通過。その途中ファンタグレープを買ったが、最後まで飲むことが出来ず、道路にジュースを捨てた。胃がそれ以上受け付けてくれないのだ。空き缶を手にしながらさらに進むと、ようやく深浦に架かる長者ヶ橋が見え出した。 橋の真下の深浦は火口跡で、濃紺の入り江。佐渡の絶景の1つなのだが、今は何の感慨も起きない。向こう岸の公園で誰かが手を振っている。そこが159.6km地点の第4AS。まずトイレに寄り、それから倒れるようにASへ。到着したのは13時50分。小木港からここまでの約8kmの間に、1時間50分もの時間を要している。 ASにいたのはSパパと3人のボランティアの方。中でも若いお嬢さんが元気で色々話しかけて来るのだが話をする気力がないし、第一水すら飲む気が起きない。それでも何とか冷たい水を飲み、バームクーヘンの小片を口にする。お握りも、笹団子も駄目。そこでリュックからトマトを取り出し、塩をつけて食べた。続いて竹輪2本も。本当はご飯ものの方が腹持ちが良いし、しっかりエネルギーも補給されるのだが。 わずかでも食料を口にし、岬の涼風を受けているうちに、少し安心感が沸いて来た。そうだ、思い切ってここで横になろう。ベンチに寝転ぼうとすると、Sパパがわざわざマットを敷いてくれた。きっと会話も満足に出来ない私を心配したのだと思う。優しい配慮に感謝しつつゴロリ。横になったのは20分ほど。そのうち何分かは記憶がないので、多分その間10分から15分ほど眠れたのだと思う。レース中に眠ったのは今回が初めて。私にとっては深く、心地良い睡眠だった。<続く>
2009.10.04
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< 不思議な話 そして迷子へ > 赤泊港への到着は8時17分だった。ここで着替えを済ませて走り出したものの、目当てにしていたお店がまだ開いていない。第1回、第2回の時は、小さな商店でトマトや牛乳を買った。残念だが仕方がない。さて肝心のレースだが、上だけでもランニングシャツにしたため、かなり涼しく感じるようになった。 139km地点の柳集落まで来た時、前方に横浜コンビが見え出した。やはり彼らも疲れ出したのだろうか。いや、そうではないようだ。走っては休み、また走っては休む繰り返し。私も何とか追いつきそうな感じ。やがて1人だけ走り去り、1人が取り残された。追い着いてみるとA津さんが苦戦している。傷んでいた腰を庇っているうちに、右足に変調を来たしたとのこと。 ここから私とA津さんとの併走が始まる。だが昨夜のような快調なペースではなく、とてもゆっくりとした走りしか出来ない。例えそんな走りでも、走れば少しは前進する。140km地点の新保集落を通過。142km過ぎの杉野浦集落でついにA津さんの足が止まった。彼はここから10km先の小木(おぎ)でリタイヤすると言う。 9時40分。道端に腰を掛け、2人でお握りを食べる。食事を終えた後で、持っていたエアサロンパスを彼に貸した。それで少しでも痛みを和らげることが出来るかも知れない。丹念に足首を冷やすA津さん。そのまま貸しても良かったのだが、彼は遠慮して直ぐに返した。再び立ち上がり、ゆっくりと走り出す。 146km過ぎの大泊まで来た時、彼がスピードを上げた。まるで調子が戻った感じ。私はもう後を追う元気がなかった。レース中の彼の姿を見たのはそれが最後だった。後で聞いた話によれば、当初リタイヤを考えていた小木港ではちょうど良いバスの便が無かったために、結局は159.6km地点の第4ASまで走り、居合わせたS木氏の車でゴール地点に戻った由。 レースの数日後に私のブログに書き込みしてくれたところによれば、まさかヨレヨレ状態だった私があのままゴールまで走れるとは思っても見なかった由。そして自分ももっと頑張れば良かったとも書かれていた。再び1人だけの戦いが始まる。どんなに無様でも、これが今の私の姿。他のランナーに比べても何の意味も無い。胸の喪章に触って完走を祈る。 150kmを過ぎて暫く行くと、左手にパチンコ店が見えて来る。ここは小木の入り口に近い。第2回の時に、R子さんがこのパチンコ店から出て来るところに行き合わせたことがあった。「ここでは何でもただでくれるんですよ。もらって来たらどうですか」。私の顔を見るなり彼女がそう言ったのを思い出す。 不思議な店だなあ。客でもない通りすがりのランナーに、食べ物をただでくれるとは。それとも佐渡島一周レースのことをニュースで知って、特別なサービスをしてくれたんだろうか。それがその時の私の気持ちだった。そうだ。実際はどうなのだろう。彼女の言ったことが果たして本当か確かめてみよう。そう考えて、私はそのパチンコ店へ入ってみた。 中はクーラーが効いて涼しい。だが騒音が五月蝿いし、タバコの煙の臭いも漂って来て、やはりレース中のランナーが立ち入る場所ではない。周囲を見回すと、確かに色んな食べ物や飲み物がたくさん置かれている無人のコーナーがあった。ははあ、R子さんが食べ物をもらったと言うのはここか。それにしても掲示によれば、食べ物や飲み物を取る際は、代わりにパチンコの玉を置いて行くように書かれている。 天真爛漫なR子さんはきっとその掲示文を読み落とし、つい喜んで食べ物をもらって来たのだろう。これであの時彼女に聞いた不思議な話の実態が判った。だが、もう1つ不思議な話がある。今回事務局から手渡された資料には過去のレースの結果が載っていて、第2回は彼女が32時間台で3位でゴールしたように記されている。 ところが私はこのパチンコ店の前で彼女と出会った後、6人を抜いたものの彼女に抜き返された記憶が全く無いのだ。あの第2回大会で私は40時間台で走り、第14位だった。パチンコ店前は当時126km地点くらいのはずだが、そこからゴールまでの80kmの間に、私に8時間近くの差をつける力が彼女にあったとは思えない。世の中には摩訶不思議な話があるものだ。 小木の街中に入る。ここでは今後の長いレースに備えて、どうしても食べ物を買う必要がある。一際目立つ「スーパーたんぽぽ」の看板。ここだ、ここだ。早速店内に入って目ぼしい品物を探す。だが食べたかった「いなりずし」がどこにも無い。あの少し甘しょっぱいタレが染み込んだご飯が、疲れた体にはとても美味しく感じられるのだが。 あまりにもがっかりし、「ご飯もの」を選ぶ気持ちが失せた。ここで買ったのはトマト2個と500ml入りの牛乳と竹輪。結果的にはここ以外で買い物をする機会が無かった。せめて「助六寿司」でも買っておけば楽だったのだが。早速店の前のロータリーで、芝生に腰を下ろして休憩。最初に牛乳を一気飲みし、次にトマト1個と竹輪を2本。やはり「生もの」は美味い。 ついでにここで一休みして行こう。そう考えてリュックを枕にして横になったのだが、どうにも寒過ぎる。ここに着いたのが11時25分。気温は相当に高いはずなのだが、日陰で風があることと、極度の疲労のために体温の調節が上手く行かないのだ。慌ててランニングシャツを脱ぎ、白い半袖シャツに着替える。これは紫外線対策が施されたもの。半袖でも暑さ対策の出来た素材が使われていると言うのが謳い文句。この「秘密兵器」を実際にレースで試すのは今回が初めてだった。 12時ジャストに再スタート。そうだ、食べ損なった「稲荷寿司」の代わりにラーメンを食べよう。第2回の時は、小木の裏通りでお婆さんのラーメン店に寄った。しょっぱいラーメンの汁を飲めるのがとても楽しみ。だが、その思いと体の反応が一致しない。私は道なりに直進したが、ここでは右折して小木の中心部に向かわないといけない場所。1人のランナーが前から引き返して来たが、その姿を見ても私はまだ道は間違ってないとの変な確信をもっていた。<続く>
2009.10.03
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< 夜明け そして苦しみの始まり > 赤玉トンネルに着いたのは確か3時40分ころだったはず。そしてここの歩道に横になったのは20分ほどの間。仮眠所同様に眠れることはなかった。レースのため脳内から活発に興奮性の高いホルモンが分泌され、なかなかランナーを眠らせてくれないのだと思う。でも、じっと目を瞑っていたお陰で、疲労感がかなり薄らいだように思う。 起き上がってチューブ入りの栄養剤を飲み、カロリーメートを1本食べて出発。思い切って軽いジョギングから入ってみた。ほほう、これくらいなら走れないこともない。116km地点の赤玉集落通過。 ここは文字通り赤い色の石が採れるところ。第1回の時、栃木のHさんがわざわざここで赤い石を拾っている。今回私はレース後に両津港のフェリー乗り場で、小さな赤石を記念に買った。1個100円。まるで瑪瑙のように輝いている石が、今私の書架に収まっている。 121.5km地点の東鵜島集落通過が5時5分。ようやく空が明るくなり、照明が不要になった。ここでヘッドライトと赤色灯を消す。今日も天気は良さそうだ。輝く海原の向こうに、新潟の山並みが見える。南は米山から北は弥彦山までが晴れた空にくっきりと映えている。そして広大な越後平野の後ろに聳える一際高い山々も。こんな美しい朝の風景は2度と見られないだろう。 123km地点の岩首集落へ5時20分到着。海岸で朝食を摂る。食べたのはお握り1個。こんな質素な朝食でも、206kmを走るための重要なエネルギー源には違いない。喉を潤して5時40分に再スタート。海風を心地良く受け、ゆっくりとだが思い切って走ってみた。 125km地点から松ヶ崎集落にさしかかる。ここは古代の港があった場所。対岸の寺泊との間に開かれていた航路は都と直結し、さらにここから佐渡国府が置かれていた真野までは官道が開かれ、要所に駅舎があったようだ。現代の松ヶ崎は「屋号」の町として親しまれている。良く見ると一軒ずつに特徴のある屋号を彫り抜いた立派な看板が見えた。 127km地点の多田(おだ)は、第1回大会の時に山道を大きく迂回して到達した集落。見覚えのある町並みを懐かしみながら走っているうちに、誰かが私を呼び止めた。訝しがって顔を見ると、スタッフのSパパ。何と127.6km地点の第3ASの存在をすっかり忘れていたのだ。到着したのは6時28分。公園のベンチに腰を下ろす。 先着のランナーが私に焼きソバを手渡してくれた。へえ~、こんなところで焼きソバに巡り合えるとはねえ。どうもそれが最後の1パックだったようだ。容器を開けてお湯を注ぎ、後は具とソースを絡める。疲れた胃には嬉しい食べ物。だが、後から着いたランナーは気の毒にも黙って見つめるだけ。こんな所にもちょっとした差での運、不運がある。 6時45分、勇躍第3ASを出発。ここから131km地点の筵場(むしろば)集落までは山越えの道。第1回の時は土砂崩れで大きく迂回した所だ。結構厳しい登りが続く。徐々に暑さを感じるようになって来た。それに目が痛む。前日のランで目に浸み込んだ汗が、今頃になって悪さをするのだ。7時5分。リュックからサングラスを取り出して掛ける。これで幾分痛みが和らぐ。 132km地点の白山神社では、今年も秋の祭礼の幟が立っていた。第1回大会ではここに第4ASが置かれ、ビールと美味しいショルダーベーコンをご馳走になったっけ。思い出に耽っているうちに、さらに目が苦しくなって来た。道路の白線が交錯して目に飛び込んで来る。疲労のための錯視。あまりの苦しさに片目を瞑る。それでようやく物が1つに見え、痛みが薄らぐ。ここから片目での長い旅が始まった。 後ろからA津さん、I島さんの横浜コンビに抜かれたのはこの頃だ。2人は快調なスピードで走って行く。慌てて後を追うものの徐々に差が開き、やがて彼らの背中がみるみる小さくなって視界から消えた。8時17分、137km地点の赤泊港に到着。漁港のトイレで洗顔と股ずれのケア。夜間着ていた長袖Tシャツを脱ぎ、ゼッケンをランニングシャツに付け替えた。 これからますます高くなると予想される気温に備えるためだ。そして下は半ズボンにするか迷った。半ズボンに代えれば涼しいし、股ずれ対策にもなる。だが、テーピング用のテープを持って来なかったために膝が心配。これから残り約70kmを最後まで走り切るためには、たとえ股ずれが悪化してもやはりサポート機能があるロングタイツに頼らざるを得ないと判断。 その時、目の前を新潟のYちゃんが通過するのが見えた。多分そのうちにどこかで追いつくだろう。そう思って声を掛けなかったのだが、その後彼女の姿を見ることは無かった。100kmのレースではほとんど完走したことのない彼女が、この200kmを超える「佐渡島一周」では、見事に完走するのがとても不思議に思える。きっと今回の彼女は、やはりR子さんの追悼を願って必死だったに違いない。<続く>
2009.10.02
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< あれはUFO? > 両津港前の道路を直進すると、やがてT字路にぶつかった。そこを右折するまでは良いのだが、水津方面への一周道路は2つ目の角だったか3つ目だったか確信が持てなかった。そこで2つ目の角で標識を探した。右手の方に標識があり、それを見てやはりここで良いことが分かった。そこから左折し、後は直進。何度か見慣れた学校。そして暫く行くと第1回、第2回の大会で宿泊したホテルが左手に見えた。 ここから当時のゴールである「おんでこドーム」まで1kmらしいのだが、疲れた体には少なくても2km以上はあるように感じたものだ。92km地点で市街地の明かりが消え、寂しさが募る。そろそろ仮眠所の温泉があるはずだが、名前が思い出せない。確か住吉温泉もしくは稲吉温泉と言ったはず。間もなく住吉温泉の案内板が見え始めた。最初のホテルへ寄って見たが、どうも大会の看板が見当たらない。不安になってそこに居た人に尋ねると、温泉は他に1軒あるとのこと。 説明会で渡された地図によれば、確か温泉は道路から少し入った場所だったはず。その印象が強かったのだが、実際はほとんど県道45号線沿いだった。ただ少し入り組んでいて、入り口が裏の方にあった。喜び勇んで建物の中に入る。ボランティアの方がゼッケンをチェックしてくれた。 シューズを脱いで奥に入ると、座敷があり、先に着いた選手が食事しているところだった。到着は21時45分。確かK藤さん、Yちゃん、T田さんもまだ居られたはず。Sパパが弁当と味噌汁とビールを運んでくれた。だが、食欲がない。まだ93km過ぎなのにかなり体力を消耗している感じ。 無理やり味噌汁にご飯を入れ、「猫マンマ」にして喉に流し込む。ご飯に乗った豚肉の炒めものは全部食べ切れずに残した。いつもなら食欲旺盛な私には珍しいことだ。ビールも何とか飲み干し、タオルや着替えを持って温泉に行った。体を洗えばさっぱりするし、きっと疲れも取れるはず。そして気になっていた「股ずれ」の手当てもしておきたい。 裸になるとやはり股ずれが酷く、血だらけになって化膿している。慎重に体を洗い、患部にオロナイン軟膏を擦り込む。やはりタイツだけだとどうしても摺れる。今回は敢えてインナーを履かなかったし、前もってディクトンも塗らなかった。どんなにケアしても206kmの長さでは持たないからだ。 ツルツルの温泉は気持ちが良かった。体のためにもやはり入って良かったと思う。大広間に戻ると、K藤さんがスタートするところだった。既に出発したT田さんの後を追うようだ。2人は夜間も寝ずに走るようだ。そんな元気がない私はここで少し横になる積もり。横浜コンビと、F川、T居コンビも到着して弁当を食べている。 翌朝用のお握りをリュックに入れてから、仮眠室へ行く。ちょうど1人のランナーが出かけるところで、入り口に近い布団が空いた。中は真っ暗だがそこへ寝る。横になったのは20分ほど。それでも体が軽くなった感じ。起き上がって出発する旨、係の方に告げシューズを履く。そしてヘッドライトと赤色灯を点灯し、夜道に出た。スタートは22時45分。ちょうど1時間の休憩だった。 後は迷うことのない一本道。96km地点の真木。ここは第1回の時に初めて幻覚を見たところ。当時はちょうど200km地点。もう体力気力の限界点で、2晩寝ないで走ったり歩いたりの疲労から、幻覚、幻聴を味わうことになる。第2回の時は、辛うじて幻覚から逃れる方法を発見したのもこの場所だった。 99km手前の両尾(もろお)を23時58分に通過。99km地点でいよいよ第2日目に突入。0時30分。103km地点大川集落の手前、猿田彦神社の脇で休憩しアンパン半分を食べる。休んだせいで寒くなり、手袋をし、ビニール袋を被って出発。大川集落で後からランナー。彼は懐中電灯を振り回しながら、かなりのスピードで走り去った。 1時ちょうど、姫崎灯台入り口通過。105km地点の水津を1時15分に通過。ここは第1回の時に両津港と間違えた場所。極度の疲労感と夜間のための距離感の狂い、そして地図の確認を怠ったことが、16km近く距離を勘違いした原因。疲労困憊時の16kmは絶望するほど遥かに遠い距離だった。 結構暑くなったためビニール袋を脱ぐ。そして懐中電灯を点けた。ヘッドライトだけでは突然歩道が切れた箇所が分からずに危険なのだ。先刻抜いて行ったランナーが懐中電灯を回しながら照らしていたのは、きっと前方から手前と、交互に照らして道路の状態を確認していたのだろう。夜間はちょっとした段差で転倒する危険が大きい。事実私も2回ほど危うく転倒するところだった。 海上の遥か彼方にボーっと明かりが見えるのは新潟市街。そして夜空には満天の星。後で聞いたらO川さんは「天の川が見えた」と言っていたが、私はどれがそうなのか分からない。ただ海の近くに大きな光が見え、それが時々動いたり静止したりするように見えて不気味だった。ひょっとしてあれはUFO?まさかそんなことはあるまい。きっと眼鏡を外しているためと、疲労のせいで木星がそう見えたのだろう。 108kmの片野尾、111km地点の月布施、114km地点の東強清水、115km地点のあわび(字は虫偏に包む)。どれも名前を聞いたことのある集落。懸命に歩いているうちに疲労感が増して来た。どこか横になるところはないかと必死に探す、寺の境内、公園の芝生、軽トラの荷台、そして民家の軒先。だが海風が寒く、どこも寝るには相応しくないように思えて諦めた。 116km地点手前の赤玉トンネル。ここは新しく出来たトンネルのようだ。中は明るくてきれい。それに歩道の幅が4mほどもあるし、海風が遮断されて暖かい。さすがにコンクリートだけあって横になれば冷たく感じるが、それも案外気持ちが良い。ビニール袋を体に被り、リュックを枕にして横になった。顔にはタオルハンカチ。暫くすると2人組のランナーが笑いながら傍を走り抜けて行った。<続く>
2009.10.01
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