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今日は大晦日。早いもので、2009年もとうとう今日1日だけになった。今朝の仙台は晴れ。穏やかな天気だと安心したのだが、その後雪、雨と変化し、再び青い空と太陽が顔を覗かせた。今、ヒヨドリがウメモドキの赤い実をついばんでいる。夕方からは荒れ模様となり、雪が降るそうだ。まさにこの1年を見るような、変化の多い天候だ。 「変化」の典型的な出来事と言えば、アメリカで初めての黒人大統領が誕生したことだろう。彼の演説に良く用いられた「チェンジ」や「イエス ウイ キャン」は、全世界に広まった。そしてほとんど実績もないのに、ノーベル平和賞を受賞したことも驚きだったが、その授賞式で戦争の必要性に関して自説を展開したことは、さらに驚きだった。 同じノーベル平和賞を受賞したかつての総理大臣佐藤栄作氏の自宅から、米軍の核持ち込みに関する秘密文書が発見されたと言うニュースが、つい先日報道された。「非核三原則」を標榜しノーベル平和賞を受賞したその人が、核の持ち込みについてアメリカと密約を交わしていたのだ。 日本の国内でも今年は政変があった。これまで60年以上も政権を担当して来た自民党が衆議院選挙で大敗し、代わって政権に就いたのが民主党。そして4代に亘る政治の名門である鳩山家の御曹司が、総理大臣に就任した。あれから100日が過ぎ、熱狂的な支持率がかなり低下しているとのこと。 自民党の代議士である弟同様、13億円もの巨額を母親からもらっていたことが判明。それを全く知らなかったという鷹揚さにも驚く。沖縄の基地問題でも自らは決して明確な態度を示さなかった。だが事件に関する報道が、週刊誌とさほど変わらない内容であることにも落胆させられた。新聞やテレビまでも総ワイドショウ化し、人気取りをしているだけでは困るのだ。 驚いたと言えばプロゴルフのタイガー・ウッズ。世界で最も強いゴルファーで、紳士的な態度に好感が持てたのだが、一つの自動車事故をきっかけに複数の愛人とのゴシップが全世界に広がった。好感度ナンバー1でマスコミの寵児タイガー・ウッズの清潔なイメージはたちまち崩れ、彼が出ていたコマーシャル関係会社の株価下落による被害は、1兆円にも達するそうだ。 芸能人の薬物汚染も大きな話題になった今年。これまで抱いていたイメージは大きく傷つけられ、泥にまみれた。皮肉にも多方面に「チェンジ」が出現した1年だった。そして世界的な不景気の風はまだ治まる気配を見せない。年末に観た映画「2012」。世界の情勢は今後もあのような混乱を続けるのだろうか。 この年末、私は妻に依頼されて大掃除に励んだ。台所の排水管の掃除。家中の窓ガラスの拭き掃除。お風呂の拭き掃除。自室及び書斎の掃除機がけと拭き掃除。正月用品の買い物の手伝いもしたし、暇を見て果樹の剪定もした。そして今日は、最後に松飾を飾り、床の間に小さな餅を供えた。 五穀の豊穣をもたらした年神様に感謝し、身辺を清めて新しい年を迎えようとする大晦日。わずか数時間で何も変化する訳ではないのだろうが、やはり新年を迎えることで心まで清められるのが何とも不思議だ。来る年が平和で安らかな年になることを祈りたい。そして、この1年元気で暮らせたことに心から感謝したいと思う。どうぞ皆様も、良い年をお迎えくださいね~。< 今月のラン&ウォーク >ラン回数:14回 走行距離:136km ウォーク回数:毎日 ウォーク距離:168km 月間計:304km 年間走行距離:2449km 年間累計:4612km これまでの総距離:70,034km
2009.12.31
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昨日のサッカー「天皇杯」準決勝戦では、我がベガルタ仙台がガンバ大阪に1-2で破れた。残念だがこれが実力差だろう。それでも今年はJ2で優勝し、7年ぶりにJ1に復帰出来たのは凄いことだと思う。一度もグランドで応援したことはないが、仙台における数少ないプロチームなので、関心は持ち続けたいと思っている。 もう一つのプロチームである東北楽天だが、契約更改は全て終了したようだ。ただ一つ気がかりなのが戦力補強。今のところ抑えの外国人投手を1人確保しただけ。これで来季が大丈夫なのか。主砲山崎の2年契約にも驚いたが、やはり大砲は何人か欲しいところだ。 東北楽天と言えば、野村前監督の解任に憤激してファンクラブを退会した私だが、何と暮れも押し詰まった28日(月)に銀行の口座から来季の会費が自動引き去りされていた。退会する旨の通知も出したし、メールの配信拒否も2度行ったのだが、この球団は一体どうなっているのだろう。昨日気づいたため球団に電話したら、既に年末年始の休暇に入って無人だった。新年早々のクレームも気が重いが、仕方がないか。 昨日は3月の予定レースである「伊豆大島ウルトラマラソン」(100km)のエントリーを済ませ、ついでにホテルの申し込みもネットで済ませた。残りは東京の竹芝から大島間のジェットフェリーの予約が残っているだけ。こちらは乗船の2ヶ月前から受付のようなので、ちゃんと覚えておこう。 昨日は新しいシューズも買った。1足は4割引、もう1足も2割引で買え、凄く喜んでいる。それまで履いていたのは5、6年ほど前に買ったもので、底が硬いため強い衝撃を足に与えていた。おまけに内側の布が破れてヒールカップが飛び出し、靴下に穴が開くほどだった。今日は新しいシューズで久しぶりに23kmのLSDへ行った。山に登り名取川の堤防を駆けた。途中の土手では工事をしているようだが、年末で中止していたために通り抜けられた。 2時間半ほど走って帰宅すると、走友のT田さんからの手紙が届いていた。封筒を開けると出て来たのは9月に走った「佐渡島一周」の7枚の写真だった。「多分佐渡島を走るのは今年が最後」と、先日ブログへ書いたのを見てくれていたのだろうか。ありがとうねT田さん!!
2009.12.30
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< ランニング編の4 ><10月>ラン:198km ウォーク:252km 計450km 18日(日)「東山温泉もみじランニング」参加のため、会津若松駅前のホテルから6km歩いて東山温泉へ。50kmの部は9時スタートだったが走友のY田氏が現れず心配。後に時間を間違え、遅れてスタートしたことが判明。参加者は60名程度のこじんまりした大会で、湯川に沿って標高1080mの布引高原まで山道を登るコースだった。 布引高原には33機の風力発電機が立ち並び、その光景は圧巻だった。山頂からは会津のシンボルである磐梯山と猪苗代湖も見え、しばし心を慰めてくれた。石ころがゴロゴロの山道の下りはスピードが出てとても危険。中には転んで怪我をしたランナーもいたようだ。ダム湖の紅葉を愛でながら6時間38分43秒でゴールし、東山温泉のお湯にも満足出来た。<11月>ラン:280km ウォーク:197km 計477km 20日(金)那覇空港から名護市に移動しホテルに1泊。21日(土)沖縄の知人M原氏の車で沖縄本島最北端の辺戸岬まで移動。8時半ごろ沖縄本島東海岸の単独縦断走をスタートする。当日は強風警報が発令され激しい雨も。体感温度は5、6度の感じ。直ぐにずぶ濡れとなり着替えて再スタート。10km過ぎからはビニール袋を被って体温の低下を防ぐ。 本島北部のヤンバル東海岸はアップダウンが厳しいコースで、ほとんどが過疎地。このため食料や飲み物などを入れたリュックを背負う必要がある。また夜行性でとても危険なハブが出没する恐れがあるため、夜間はヘッドライト、懐中電灯、赤色灯が欠かせない。初日は辺戸岬からカヌチャベイホテルまでの76kmを14時間22分で走破。ホテルへの到着は夜の10時40分だった。 22日(日)。1泊7万円余のホテルで眠れたのは僅か2時間ほど。前日は風雨に苦しんだが、第2日目は一転して太陽が出て、高温と疲労に悩まされた。ヤンバルの山道からは解放されたものの、二見の坂道に苦しみ、キャンプシュワブ基地の広さに驚き、宜野座村では道に迷い、金武町のキャンプハンセンでは黒人兵、白人兵に出会い、コンビニで缶ビールを飲んだ。 月が上った沖縄市からはスピードを上げ、ひたすらゴールの与那原町を目指して走り続けた。沖縄市内の坂に苦しみながら何とか北中城村で海岸線に到達。ここからはサトウキビ畑に沿って夜道を走る。与那原到着は23時01分。74kmの道のりを14時間26分でゴールし、150kmの東海岸単独縦断走を達成した。そこから那覇市内のホテルへタクシーで移動し、11時40分ホテル着。疲労のため缶ビールが飲み干せなかった。 昨年走った西海岸単独縦断は、摩文仁平和祈念公園から辺戸岬までの140km。今回の東海岸縦断は辺戸岬から与那原までの150km。本島一周として残った距離は与那原から摩文仁までの34km程度だが、来年はNAHAマラソンと組み合わせて走る予定。それが実現すれば、ようやく3年越しでの本島一周達成となる。<12月>ラン:95km ウォーク:161km 計256km(29日現在) 9月の「佐渡島一周」と11月の「沖縄本島東海岸縦断」でそれぞれシューズを履き潰し、たった1足残った古くて底の硬いシューズでは長い距離を走るのが困難だったため、無理をせずに足を休ませていた。本日ようやく新しいシューズ2足を購入出来た。長い間良く我慢し、良く頑張ったと思う。 こうして見ると、今年は案外充実したランニングライフが送れたのではないか。レースでは一度のリタイヤも無く、自分で計画したマラニックもすべて順調にこなすことが出来たからだ。健康で過ごせたことに感謝するとともに、この調子で来年もランニングを楽しみたいと思っている。<完>
2009.12.29
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< ランニング編の3 ><8月>ラン:185km ウォーク:178km 計363km 1日(土)宮城UMCの合同練習会である「薬莱山とお足」は、各走友会がそれぞれの場所からスタートし、ゴール地点の薬莱山薬師の湯まで走るのがルール。わが南仙台走友会は仙台市体育館前を午前3時にスタート。途中までは仲間と走り、後はそれぞれのペースでゴールへ向かう。給水、給食は各チーム独自で行い、コンビニや自販機も利用する。 今年も先行したものの大勢の仲間に途中で抜かれ、10時50分に現地に到着。今回は気温が低かったため案外走り易く、体調はさほど悪くはなかった。ゴール後直ちに温泉に入り、その後は全員による懇親会を開催。愉快な一日となった。 29日(土)富山で開催された「立山登山マラニック」ウォークの部に前日から参加。レース当日は猛烈な雨となり、大会本部がコース中の八郎坂が数日前から崖崩れのため危険と判断し、マラニックの部は地鉄立山駅がゴールとなった。ウォークの部は立山駅スタート称名AS折り返しとなる往復12kmに急遽切り替え。何とも物足らない幕切れとなった。 このため室堂到着後ちっちさん、TANさん、亀仙人さん、ナースさん&お友達、私の6人で海抜3003mの雄山山頂に登山を試みる。天候不良のため景色はほとんど見えなかったが、2回目の私以外は初めて山頂に立つことが出来た。下山後、雷鳥荘までの徒歩が結構きつい。翌朝は天気が回復して雄大な景色を堪能し、地獄谷も初めて散歩した。多分「立山」は今回が最後の参加になると思う。<9月>ラン:264km ウォーク:191km 計455km 20日(日)~22日(火)にかけて「佐渡島一周エコジャーニーラン」に参加。佐渡島一周への参加は3回目だが、今回が初めての逆廻り(時計廻り)コースだった。2年前と比べて、体力、気力が衰え、練習量も不足していた上に、第1回から参加した仲間のR子さんが38歳の若さで亡くなったこともあり、私にとっては厳しい試練の206kmだった。 初日はR子さんの祭壇に選手全員で焼香をしてからスタート。絶景の「大野亀」「二つ亀」を快調に飛ばし、両津の仮眠所まで何とか元気に辿り着いたものの、夜間ウォークは眠気、翌朝からは疲労や暑さとの戦いになった。第4ASの深浦展望台(約160km地点)では熱中症、睡眠不足のためダウンして1時間休憩し、うち15分ほど睡眠し回復。 だが、ラスト8kmからは疲労の極限に達し、物が二重に見えるなどの異変が生じた。またゴール手前1.5km周辺では、3度往復を繰り返しながら必死でゴールを探すなど、距離の感覚がすっかり狂っていた。3日目の未明2時過ぎに44時間11分35秒で到着し、何とかR子さんの追悼が果たせたと思っている。まさに体力、気力、走力の限界との戦いだったが、多分今回が最後の参加になると思う。
2009.12.28
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< ランニング編の2 ><4月>ラン:180km ウォーク:185km 計365km 19日(日)M仙人の車に同乗させてもらい、Hさんと一緒に「かすみがうらマラソン」(フル)に向かう。会場で前泊組と合流する予定が、会えなかった仲間もいた。私は3回目の出場だが前回に比べて参加者数がやたらと多い。どうも「東京マラソン」の影響らしい。 まだ気温の低い仙台に比べてここでは20度Cを越えることが多く、今回も高温に悩まされた。ランナーの数が多くてペースがつかめないこともあったが、4時間53分47秒(ネット4時間46分41秒)の記録にはガッカリさせられた。それだけ走力が落ちた証拠だろう。<5月>ラン:199km ウォーク:215km 計414km 17日(日)仙台鉄人会主催の10時間走に出場。10時間走の部のスタートは6時なのだが、地下鉄の始発で行っても間に合わず、15分ほど遅れてのスタートとなる。会場は仙台市台原の森林公園内。1周3kmの周回コースは最大標高差が50mの坂があり、フラットの箇所が少ない厳しいコースだ。 ただ、雰囲気がアットホームで気楽に走れ、給水、給食も手厚く、エントリー料金が2000円と安いのもありがたい。また当日エントリーが可能なので、ぶらりと訪れても大丈夫。私は今回25周し、75kmの自己新記録を達成した。気温が低く、走り易かったことも影響したと思う。<6月>ラン:237km ウォーク:175km 計412km 14日(日)大勢の仲間と「いわて銀河」(100km)に参加。前日Y田さんの車に同乗して北上市へ。会場の陸上競技場内に宿泊した仲間と別れ、私は駅前のビジネスホテルへ。今年から制限時間が1時間延長されて14時間になったので楽に走れた。前夜祭と87km付近でインタビューを受ける。 途中73km地点の銀河高原では、Y田さんと2人銀河高原ビールを痛飲。気温が高かったこともあり、とても美味しいビールだった。レースは前年大会本部へ意見を言った通り、ASの内容が大幅に改善され、とても走り易いと感じた。そのお陰で13時間29分31秒で完走。前年は関門に捕まったが、今年は早速制限時間延長の恩恵に預かることが出来た。<7月>ラン:158km ウォーク:172km 計330km 19日(日)20日(祝)を利用して石巻から気仙沼までの90kmを単独マラニック。初日は早朝に自宅を出発して電車で石巻市まで行き、そこから先ず日和山公園に寄る。旧北上川、北上川に沿って旧河北町、旧北上町(いずれも現在は石巻市に合併)を走り、南三陸町(旧志津川町)の袖が浜にある民宿で1泊。途中は雨に降られ、最後はガス欠に苦しむものの、民宿で出たご馳走には驚いた。 2日目は国道45号線に沿って海岸線を北上。途中熱中症気味になりながら、何とかゴールの気仙沼市に辿り着く。2日間の合計距離数は90km。帰りの電車では疲労のため物が二重に見えたり、目の前が真っ白になったりした。マラニックの楽しさと厳しさを満喫した2日間だった。
2009.12.27
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< ランニング編1 > 私が65歳を過ぎても肉体労働をしていることは昨日書いた。ハローワークで見つけたビル管理会社での仕事は、今年で7年目。この報酬が私の小遣いとなり、様々な趣味の資金源となっている。その最大の使途がランニング。私が挑戦しているウルトラマラソン(フルマラソン以上の超長距離を走るマラソン)は結構費用がかかるスポーツで、エントリー料も高いし、宿泊費や交通費もかかる。私にとって仕事をし、ウルトラマラソンを走り、その完走記を書くことは、それで1セットの行動なのだ。 さて、今年の年頭に際して掲げたモットーは「ウルトラマラソンのリタイヤを楽しむ」だった。昨年は思わぬ怪我に苦しみ、一時は走ることすら叶わなかった。長い間偏平足のままランニングを続けたため、両足に発生した「種子骨」が痛みの原因となるのだが、加齢による筋肉の衰えも影響していると思う。 その経験から、今年はリタイヤを恐れることなく自分なりにウルトラマラソンを楽しめれば良いとの心境になった。ただ、ウルトラマラソンは経費がかかるだけでなく、開催地が比較的遠いために職場を休む必要もあるし、妻の負担も増える場合が多い。また走る距離が長いだけに普段からの体調管理や練習も欠かせない。そのような条件が全てクリヤー出来て初めてスタートラインに立てるのだ。 結果だけ見れば、今年参加したレースや自分で計画したジャーニーランは全て完走することが出来た。走るスピードは一層落ちたが、ゆっくりであれば何とか長い距離を楽しんで走れると再認識出来たことが今年の収穫だったように思う。 ついでながら、走るだけでなく日頃の肉体労働や畑仕事、愛犬との朝夕の散歩、バス停までの歩き、自転車での買い物や東北楽天の観戦など、日頃から体を動かし続けていることが、肉体の衰えを少しでも食い止めるのに役立っているようにも思う。ともあれ、今年のランニングについて振り返ってみたい。<1月>走行距離:189km ウォーク:149km 計338km 3日(土)所属走友会の有志で行っている「塩竃神社初詣ラン」(往復50km)に合流すべく自宅を出たが、合流出来ず約40kmの単独走となった。海岸は風が冷たくて大変だった。 11日(日)自転車で「東北ブロック新春マラソン」(フル)に向かう。8年ほど前に参加した時はあまりの寒さに半分で止めたほど風が強い場所。おまけに1周4kmの周回なので飽きてしまう。走友会メンバーやウルトラ仲間、秋田のJunさんも参加。4時間35分26秒で完走。夜はJunさんの歓迎を兼ねたささやかな新年会を3名で開催。<2月>走行距離:147km ウォーク:123km 計270km 参加レースなし。長い距離の練習は、走友会のコースを2回だけ。<3月>走行距離:276km ウォーク:158km 計434km 14日(土)「八丈島一周」(62km) 前日羽田から八丈島へ向かう便が強風のため八丈島へ着陸出来ない場合もあるとの放送に驚いた。レース当日は低気圧の通過で暴風警報が出される中でのスタートとなった。風速30mもの強風と、痛いほど打ちつける大雨。八丈小富士などでは吹き飛ばされそうになるほどの恐怖を感じた。 宮城UMCからの参加は私を入れて8名。その全員が悪条件をものともせずに完走した。タイムは8時間22分10秒。レース後の温泉、打ち上げパーティーは最高でした。島の名物「くさや」を初試食。あのような気象条件の中でのレースは2度と経験出来ないはず。約2週間後に有志6名で反省会実施。
2009.12.26
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< 仕事と健康編 > 今朝目覚めてビックリ。いつも4時35分ごろにセットしている目覚まし時計が鳴らず、既に6時近かったからです。バス停に向かって家を出るのが6時17分ごろですから、とても朝食を摂る時間はありません。布団を上げる暇も無いためそのままにし、カーテンだけ開けて階下へ。 愛犬との散歩だけは済ませておく必要があります。速攻で散歩を済ませ、餌と水をやり、素早く着替えてトイレへ。既にいつものバスは行った後。こうなると通勤手段は自転車になります。必死の思いでペダルを漕ぎ、途中のコンビニでお握りとお茶を買い現場へ急行。警備服に着替えてから、これまた速攻での朝食となりました。 昨夜は9時頃に就寝したので、9時間も眠った計算になります。大変良く眠れたクリスマスイブでしたね。実は22日(火)の夜も9時間30分眠りました。これは翌日が天皇誕生日だったため、何事もなく済んだ訳です。何故これだけ眠ったかですが、やはり1年間の疲れが年末になってドッと出たのでしょうね。 肉体労働をしながらウルトラマラソンを続け、そしてほぼ毎日ブログを書く。仕事で拘束されるのは4時間ほどですが、通勤時間を入れれば5時間以上になるし、仕事をしている妻を援助するために、家事も一部こなしています。朝夕の愛犬の散歩も私の役目だし、友人のHPやブログを訪れるのにも2時間はかかります。これでも結構忙しい毎日なんですよね。 さて警備員をしている第1現場のビルでは、管理会社の責任者が交代しました。これまでの方と違って気さくだし、話が通じやすくてとても助かっています。また、労務災害関係の論文が県警備業協会の3位に入賞したり、応募した管理会社の安全標語でも入賞して表彰を受けました。 社内では「改善提案書」の提出を求められ、私なりの提案をしました。それに沿って管理会社の責任者が危険箇所などを徹底的に改善してくれ、今は毎日の作業をとても安全に行うことが出来るようになりました。その実績を対象にして、来年度表彰を受ける予定です。また、求められて今年度の警備員論文と安全標語も提出しましたが、いずれも社内選考を通過し、県協会へ送付する予定と聞いています。 清掃担当の第2現場は、ビルの取り壊しにより3月末で3年間の勤務を終了しました。次の現場が決まるまでの3ヶ月間は、毎日早退しながら報酬をもらいました。これは非常に体が楽で、ラッキーでした。後で分かったのですが、責任者が骨折して休暇を取っていたようです。6月の末から現在のビルに移動し、新しい現場での仕事が始まりました。 こちらはたった1時間だけですが、モップでの拭き掃除が主な仕事です。屋内の廊下はさほど力は要りませんが、屋外の石畳や階段は抵抗があるため非常に疲れます。首、肩、肘、腕などに大きな力が加わり痛みや肩こりの原因になるのです。愛犬がグイグイ引っ張ること、長時間パソコンを操作することも、それを助長しているのでしょう。 そんな勤務内容ですが、今年実施した社内の健康診断では悪い箇所がほとんどなく、一安心でした。わが社では健康な場合、最長70歳まで勤務出来る可能性があるようですが、もし体が持てば私もその限界に挑戦したいと思っています。また、きついと感じた場合は警備員としての2時間30分の勤務だけにしようと思っています。 70歳まで残り4年3ヶ月。厳しい肉体労働を続けるためには、健康であることが前提になります。このままウルトラマラソンにも挑戦し、ブログも出来るだけ継続すること。そして東北楽天の応援、園芸や家庭菜園、歴史研究、博物館と美術展巡り、バス旅行。来年以降も忙しい毎日になりそうです。
2009.12.25
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< ブログ編 > このブログを開設してから2年7ヶ月。今年もずいぶん色んなことを書きました。システム側が示す日記の記入率は98.2%。1年の日数にこれを掛けると、365日のうち358日は日記を書いた計算になります。逆に書かなかったのは7日間だけ。結構な日数ですね。 私は1回平均3500文字は書いています。そしてこれを書くための所要時間は最低でも1時間30分ほど。そうなると文字総数は125万3千文字に達し、時間数は537時間にも上ります。毎日のようにブログを書くには、それだけ膨大なエネルギーが必要なのです。 今年書いた内容で一番多いのはウルトラマラソンを含むランニング関係でしょうか。19回の連載プラス4回の予備編で23回書いた「沖縄本島東海岸単独縦断走」や、17回プラス2回の連載になった「佐渡島一周」などが、長くかかった例です。ランニングは私の一番の趣味ですからそうなるのでしょうか。 次に生活雑記。これは日常の生活で心に浮かんだことや感想を書きました。最新のニュースに関してもかなり書いたし、園芸や家庭菜園の話、仕事の話も結構話題にしました。他には健康の話や愛犬の話。中には自分が作った詩や俳句を載せた日もありました。 大した話は書いてない私のブログですが、ブログ仲間やランニング仲間が書き込みをしてくれるのはとても嬉しいことです。今年は楽天の活躍を通じて知り合った仲間が増えました。さて、コメントへの返事は必ず書くようにしていますが、自動的かつ一方的に同じ文章を大勢の人に送っている場合などは私の書いた内容と何ら関係が無いため、削除させてもらっています。 先日、所属する走友会の忘年会の際、ある方が私のブログが一番面白いと話してくれました。多分お世辞でしょうが、それはブログを開設している者にとっては最大の褒め言葉であり、最大の喜びでもあります。さらに私がパソコンに疎く、最近調子が良くないと書いたことを心配し、わざわざ様子を見に来て下さった方もおられました。そのお陰で今日はパソコンの動きがとても速いです。 ほぼ毎日ブログを更新していると、話題に事欠くことが生じます。そんな時が最大のピンチ。それでも果敢に挑戦するのは、ブログの更新を日課にすることが呆け防止につながると信じているからでもあります。ここに来て下さる方には私のボケ防止に付き合って戴いている訳で、申し訳なく思っています。 さて、今夜はクリスマスイブ。皆さんはどんなイブをお過ごしでしょうか。目下妻と2人暮らしの我が家では妻が鶏肉を焼き、私は愛犬と散歩がてらチーズケーキを買いに行きました。そして長男からはこの日に合わせたお歳暮が届きました。そんな静かでささやかなイブですが、健康であることに心から感謝しています。 こんな調子ですが、来年も出来る限りブログを更新する積もりです。これからもどうぞよろしくお願いしますね。そして今夜は メリークリスマス。皆様にとって素晴らしいイブになりますようお祈りします。
2009.12.24
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< 東北楽天編 > 今年Kスタ(クリネックス・スタジアム宮城)で観戦した東北楽天のゲームは以下の通りです。(通算10勝5敗1分)3月24日(水)対西武戦 先発ラズナー ☆3-1 (オープン戦)4月7日(火)対ソフトバンク戦 先発田中 ☆2-14月10日(金)対西武戦 先発岩隈 ★?4月22日(水)対ロッテ戦 先発田中 ☆2-05月13日(水)対日ハム戦 先発田中 ☆7-35月23日(土)対巨人戦 先発岩隈 ★0-5 (交流戦)6月2日(火)対阪神戦 先発ラズナー ☆3-2 (交流戦)6月10日(水)対中日戦 先発ラズナー ★? (交流戦)7月17日(金)対オリックス戦 先発田中 引き分け4-48月7日(金)対日ハム戦 先発田中 ☆3-18月14日(金)対ロッテ戦 先発田中 ☆4-38月21日(金)対オリックス 先発田中 ☆5-39月3日(木)対西武戦 先発田中 ★0-49月5日(土)対日ハム戦 先発青山 ★3-1010月1日(木)対ソフトバンク戦 勝ち投手川岸 ☆5-4(リーグ2位にUP)10月3日(土)対西武戦 先発青山 ☆14-5 (CS進出決定) 今年の東北楽天は初めてのリーグ2位でAクラス入りを果たし、これまた初めてCSへ進出しました。第1ステージではソフトバンクに2連勝して第2ステージへ進出したものの、日ハムに1勝4敗で破れ、日本シリーズへは進むことが出来ませんでした。 それでも岩隈、田中がWBCで活躍して、原ジャパン優勝の原動力になり、リーグ公式戦では鉄平がリーディングヒッターとなり、ベスト9にも選ばれました。投手陣は岩隈、田中、永井が10勝以上を挙げ、41歳の山崎が40歳以上の打撃部門の記録を幾つか塗り替えました。 残念だったのがCSの最中に発表された野村監督の解任。あのタイミングの悪さに私は激怒し、来年はファンクラブへの入会を止めました。リーグ公式戦終了後、コーチ陣のほとんどが解任され、主力選手でもリック、セギノール、礒部などが戦力外通告を受けました。やはり創設期から支えて来た選手やコーチが去るのは淋しい限りです。 来季の選手補強はまだ少ないようですが、ブラウン新監督を迎えた新生イーグルスがどんな活躍をしてくれるのか楽しみに見守りたいと思っています。頑張れ楽天イーグルス!!ファンクラブへは入らないけど、来季もなるべくKスタで応援したいと思っています。
2009.12.23
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< 小旅行編 >1月:定義山と秋保温泉(バス旅行) 仙台近郊の定義山に初詣し、その帰りに秋保温泉に入浴する日帰りの旅でした。定義山では名物の油揚げ(分厚いのをこんがりと焼いて醤油をつけて食べると美味い♪)をいただきました。また秋保温泉のお湯は、入ると肌がツルツルして来ますよ。2月:やまぼうし温泉(1泊) この温泉は仙台近郊の泉ケ岳中腹にあります。お湯が絶品で料理も美味しい宿。温泉は深夜0時から男女の湯が交換するため、両方楽しめます。露天風呂に入りながら、降る雪を眺めるのも一興。近場なので往復する時間がかからず便利です。4月:平泉観桜と俳句づくりの旅(電車の旅) 今年は桜の開花が早まり、旅行会社の花見の日程では桜が散ってると判断し、自分達で電車に乗って平泉に行きました。途中で突然俳句を作る気が起き、結局35句ほどの作品が生まれました。行ったのは中尊寺、義経堂、柳之御所跡、毛越寺など。どこも桜が満開で、やはり早めに出かけて正解でしたよ。5月:徳仙丈山での山ツツジ鑑賞(バス旅行) 別途申し込んだツアーが不成立になったため、旅行会社の勧めで行ったもの。場所は県北で気仙沼市と本吉町の境にある標高800mほどの徳仙丈山。しかし、桜同様に山ツツジの開花も早く、ほとんどの樹は咲き終えていました。天気も悪かったため今一でしたが、自然に触れたのと、気仙沼で海産物を買えたのが良かったことでしょうか。7月:月山散策と酒田市山居倉庫見学(バス旅行) 月山へ行くのは初めてでした。大きなバスが細い山道を登って行ったのにはビックリ。あまり時間がないため月山の頂上までは行けず、途中の神社から引き返して来たのが残念。鳥海山付近で滝を観た後、酒田市へ。明治時代に作られた有名な山居倉庫を見学しました。13棟ほどの大きな倉庫が連なる景観は見事ですね。ここは「おしん」の撮影現場でもあったようです。最上川を使った水運の凄さを感じました。7月:サクランボ狩り(バス旅行) 所属する走友会の恒例行事の一つですが、私は初めての参加でした。先ず、最上川の土手を走った後、紅花温泉で入浴。さっぱりしたところで、東根市にあるK野さんの果樹園でサクランボの食べ放題とサクランボ狩り。実際に樹に生っているサクランボを採るのは初めての経験で興奮しました。焼肉、炊き込みご飯、芋煮など、心の篭ったご馳走に、美味しいお酒。そして最後はサクランボの種飛ばし競争で盛り上がりました。11月:神通峡ハイキングとリンゴ狩り(バス旅行) 山形県大江町にある神通峡は、最上川の支流である月布川に沿った4kmほどの峡谷です。紅葉の時期は少し過ぎていましたが、遊歩道を進むと大小様々な滝に遭遇します。有名な峡谷ではないために手付かずの自然が残っていて、却って良かったとの印象を持ちました。町内の温泉で体を温めた後、果樹園へ。ここでは30分以内でリンゴの食べ放題。私は4種類の大きいリンゴをいただき大満足でした。 以上の旅は全て妻が同伴しています。また、春には動物園や野草園へ、秋にも野草園へハイキングに出かけました。
2009.12.22
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< 美術展と博物館巡り >1月:ジミー大西個展(仙台市M百貨店) 芸能人ジミー大西が突然絵に目覚め、画家になって久しいが、彼の絵を観るのは初めてだった。彼の目を通してデフォルメされた個々の物体は、原色を多用した独特の色遣いで、全く異なる生命を宿す。不思議な空間と生命体。ジミー大西の世界は、とても自由で明るいものだった。5月:河北美術展(仙台市F百貨店) 東北画壇の登竜門とも言える美術展で、長い歴史を有する。選ばれた作品数は300点を越えるようで、先ずその数量に圧倒される。ジャンルは日本画、洋画、彫刻。出展者は新人からベテランまでと多様で、審査員や顧問など重鎮の作品も観られる。東北6県の知事賞、仙台市長賞などに選考された作品は、受賞理由を推理してみるのも楽しい。5月:レオナール・フジタ展(仙台市メディアテーク) フランスに帰化した日本人画家藤田嗣治の作品展。乳白色で弱々しい線で描かれた女性像が有名だが、その画風に辿り着くまでの過程が圧巻。長い間倉庫に眠っていた作品を修復して展示された大作は初めて観た。またカソリックに改宗した晩年は、小さな寺院そのものを彼の作品で埋め尽くした。仏教徒藤田が、熱烈なキリスト教徒フジタとして生まれ変わった様子が良く理解出来る。5月:みやぎの昔々展(多賀城市東北歴史博物館) 宮城県内の各遺跡から発掘された様々な遺物の展示。奈良時代の牡鹿柵(おしかのき)跡と推定される赤井遺跡出土の土器は、近畿地方で作られた当時の高級品で、遠く都からこの地へ派遣された役人の存在を意味している。5月:芹沢けい介コレクション・日本の絵画(仙台市東北福祉大学)*けい=金に圭 わが国の染色研究の第一人者で民芸家でもあった芹沢が収集した膨大なコレクションのうち、日本の絵画に関する展示。内容は大和絵、奈良絵、大津絵、版画、仏画など多岐に亘っている。静岡の芹沢美術館から借用した作品も多く、コレクターとしての芹沢の質の高さを感じた。5月:朝鮮王朝の絵画と日本(仙台市博物館) 朝鮮王国(李氏朝鮮)の画家がわが国の画家にもたらした影響を考察する作品展。中でも江戸時代に渡来した「朝鮮通信使」に随伴した朝鮮の画家から、当時のわが国の画家が倣った技法を実際の絵で比較していたのが面白い。ただし、古ぼけて不鮮明な絵は興ざめだった。7月:古代カルタゴとローマ展(仙台市博物館) 古代のフェニキア(現在のレバノン周辺)から分れて興ったカルタゴ王国(現在のチュニジア=アフリカ北部の地中海沿岸周辺)関係の出土品が中心で、同国は古代ローマに攻め滅ぼされた後も、ローマ帝国のカルタゴ州として生き続けた。大理石の見事な彫刻や、武具など精密な金属加工品には圧倒される。象に乗ってアルプスを越えてローマに攻め入ったハンニバル将軍の話は有名。7月:菅野廉バリスケッチ展(仙台市亀井美術館) 河北美術展のかつての常連であり、「蔵王写生会」を主宰した菅野画伯の生誕120周年を記念した美術展の一つ。第二次世界大戦中に従軍したインドネシアなどでスケッチした作品が中心。東南アジアののんびりとした風俗が良く現れており、とても戦時下にあったとは思えない雰囲気の作品が多かった。10月:トリノ・エジプト展(仙台市宮城県美術館) イタリア国立トリノ博物館が所蔵する古代エジプトの考古学展。同館には、当初一個人が寄贈したエジプト関係資料しかなかったが、それでは系統的な展示が出来ないとの理由から直接現地に赴いて発掘調査をし、それを持ち帰ったのが今回の展示物。もちろん現在ではエジプト国外への持ち出しは禁止されており、第二次世界大戦以前の話だ。ミイラ、木棺、石像、装身具など、きらびやかではないが完成度の高い美術品が多く、予想外の収穫があった。 以上のほか、妻が所属する2つの美術グループの美術展へは、妻の作品を搬入、搬出しながら作品を鑑賞することが出来た。
2009.12.21
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昨日の土曜日から年賀状を書き始めた。ただし、夕方から走友会の忘年会があるため、ブログを早めに仕上げてからの作業だ。文章は印刷済みのため、ある程度まとめて宛名を書いた後に、簡単なコメントを書き添えている。 現役を引退してから、年賀状を出す枚数は200枚ほど減った。かつての職場など「義理」で出してた分を徐々に減らしたのだが、未だに「切れない」人も居る。人間とは厄介な存在だと思う所以だが、気が変わったらもう少し減らすかも知れない。 250枚ほどの宛名を書くのは結構辛いが、コメントの方はさほど面倒だとも感じていないのが不思議。年賀状の宛名書きはウルトラマラソンのレースに似ているように思う。頑張って前進しているうちに、いつの間にかゴールが近づいているからである。 昨日はちょうど半分だけ仕上げてポストに投函してから、自転車で忘年会に出かけた。朝は凍っていた道路が、日中の気温上昇で解けていたのが助かった。走友会行事への参加は、8月にあった「サクランボ狩り」以来の出来事。秋の芋煮会は沖縄行きの経費不足のため、出席を断念したからだ。 それに定例の練習へも今年は1度も出られなかった。寒い時期は愛犬との散歩の時間と重なり、その他の時期は自分の体調や、妻に頼まれた用事などで駄目。それでも自分では気持だけはつながっていると考えていたのだ。だが、久しぶりの参加で、新しく加わったメンバーを見て、やはり状況の変化を感じさせられた。 用事や雪のために参加出来なかった走友もいれば、怪我が癒えて久しぶりに顔を出した走友も居た。やはり趣味を同じくする仲間は、あまり気遣いしなくて済むのが良い。新会員が早速県下駅伝で活躍したことや、夫妻で急遽入会した方が居られたのも嬉しかった。来年の参加予定レースを話す仲間、仕事が厳しくて休暇が取り難い仲間など、事情は様々のようだ。好調な仲間はそのまま好調さを持続して欲しいし、不調な仲間には諦めずにしばらく辛抱して欲しいと願っている。 さて私の場合、普段は焼酎の水割り1杯でも酔うのだが、飲み会ではこの5、6倍は飲めるみたいだ。美味しい料理に、普段は飲まない量のアルコール。そして仲間との楽しい会話。その中にはランナーとして刺激を受ける話も多い。 A長老の即興の歌も、女性会員の振りつけ付き合唱「もうすぐ春ですねえ♪」も楽しめた。久しぶりに聞く「森進一」も相変わらずの絶品。最後に「三本締め」をして解散し自転車で帰宅したが、酔いが廻ってブログへの返事を書くのは無理だった。風呂に入り、11時頃に就寝したはず。 今日は高校駅伝を「聞き」ながら、再び年賀状書きをする。地元の仙台育英だが、かつての強さはなくなったのが残念。学校の方針が変わったのか。それとも外国人留学生の起用に関して、ルール改正になったことが影響しているのか。いずれにせよ「少子化」が私立高校の経営に大きな影を落としているのは間違いないだろう。 夕方全ての年賀状を書き終えて投函。そのまま愛犬の散歩を兼ねて、近所のスーパーへ買い物へ。昨日、今日と全然走ってないため、わずか2kmの散歩でも貴重な運動だ。お正月の注連飾りやハムなどを購入して帰宅。今夜は妻が所属する美術クラブの忘年会で不在。このブログを仕上げたら、早速夕飯の支度に取り掛かる予定。 年賀状書きと忘年会。歳末恒例の2大行事が終わって一安心。だが今後は妻の指示に従って、大掃除を手伝うことになる。先日は下水の掃除と換気扇の取り外しをしたが、明日からは照明器具の掃除や窓ガラスの掃除を命じられるはず。ようやく一息つけるのは、大晦日になるだろうか。
2009.12.20
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< 映画編 > 我が家から3.5kmほど離れたショッピングモールの一角に、集中型の映画館がある。複数(10ホール?)のシアターが同時に話題の映画を上映するのだから壮観の一語。買い物がてら、食事のついでに気楽に映画が観られるのはとてもありがたい。さほど映画好きでなかった私達夫婦だが、身近に出来たこの映画館のお陰で、話題の映画を楽しむ喜びを知った。 さらに良いのは、60歳を過ぎるとシルバー料金の1000円で映画を観られること。これがとってもお手ごろ。おまけにポイントが溜まると、6回に1回は「ただ」になる計算。プラス、甘いコーンのサービス付きなのも嬉しい。夫婦で3回映画を観ると、1人は「ただ」で観られるシステムを利用して、今年も何回か通わせてもらいました。1月「禅」:これは曹洞宗の開祖である道元禅師の一生を描いた作品。人生の空しさを知った青年期に中国に渡って仏教の修行を重ね、帰国後は度重なる迫害に耐えて曹洞宗を開く。迷いと悟りの連続の人生。その真摯な修行には観る者の心まで清らかに変えさせてくれた。3月「七つの贈り物」(洋画):人は亡くなる前に何を思うのか。そして何を遺せるのか。その貴重な「もの」を誰に提供できるのか。予想外の内容だったが、人間の死とは何か、そして愛とは何かを考えさせる映画だった。4月「レッドクリフ パート2」(洋画):歴史書「三国志」の赤壁の戦いを映画化したもの。金城武などの日本人俳優も出演していて親しめた。史実を迫力ある映像で再現した映画には、ただただ圧倒されるばかり。パート1を観なかったことがいささか後悔された。5月「重力ピエロ」:仙台出身の小説家である伊坂幸太郎の同名の小説を映画化した作品。彼独特のシナリオには、観ていてハラハラさせられた。仙台市内の風景が映画の中でも何回か出て来ることも楽しみ。結末にはさらに予想外の展開があった。5月「60歳のラブレター」:還暦を過ぎた3組の夫婦の物語。人生の後半で、さらなるドラマに遭遇する男女像。破綻に直面した夫婦は、果たしてどんな道を選ぶのか。北海道富良野の大地に広がるラベンダー畑の美しい光景が忘れられない。年老いてからの夫婦の絆の重要性に気づかされる作品。6月「剱岳 点の記」:新田次郎の同名の小説を映画化した作品。明治期に正確な日本地図を作るために唯一残された剱岳周辺の測量を敢行する帝国陸軍測量部の実話。実際に冬季の剱岳に登山しながら撮影しただけに、その厳しい風景には終始圧倒される。今年も立山に登った私には良い記念になった。10月「カムイ外伝」:白土三平の同名の漫画を、話題の崔監督が映画化した作品。果たして漫画をアニメではなく普通の映像で再現できるのか、疑問に思いながら観たが、なかなかの出来栄えで楽しめた。ただ、出て来る場面が沖縄の亜熱帯性気候の風景なのに、そこで暮らす村人の言葉が四国の言葉だったのには笑えた。11月「沈まぬ太陽」:山崎豊子原作の小説を映画化した作品。登場する「国民航空」の見本はJAL。苛烈な労働争議、御巣鷹山への墜落、社内の権力闘争と不透明な経営の実態。実際の話が土台になっているだけに、感じる迫力は相当なもの。出演者の顔ぶれが物凄く、一見に値する作品。また、JALの経営破綻の背景が良く理解出来る。12月「2012」(洋画):まだ上映中だけに詳しい内容は控えたい。ストーリーの基盤となった一つである「マヤ暦」は、何故か2012年で終わっている。またこの年には、全ての惑星が直立並列するため予想外の力が働いて、地球が滅亡するとの説も。さて、人類最大の危機を、各国の首脳はどう乗り切るのか。壮大なテーマと精密なCGには、誰しもが圧倒されること請け合いだ。
2009.12.19
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< 園芸編 >4月:植木鉢の花の植え替え。月末には畑の掘り起こし。5月:野菜の苗トマト、ミニトマト、ゴーヤ、パプリカ、キュウリを購入し定植。仮の支柱を施す。春菊、小カブを播種。6月:野菜の苗に本格的な支柱を施す。植木鉢の花の植え替え。タマネギを収穫し、その後にトウモロコシを蒔く。ヤーコンとサトイモを定植。小カブ、春菊収穫。7月:トマト、キュウリなど収穫。8月:植木鉢の花の植え替え。ゴーヤ収穫。畑を耕し、白菜、大根、春菊、小カブの播種。9月:鶏糞購入。白菜に追肥。トマト、キュウリ、ゴーヤなどの夏野菜を全て片付ける。10月:春菊、小カブ収穫。甘柿、イチジク収穫。11月:大根、ヤーコン、サトイモ収穫。ハイビスカスなど15鉢ほどを室内に移動。12月:最低気温が零下になったため大根を抜き、地中に埋める。泥ネギ定植。 小カブ、春菊の春野菜は順調に生育した。前年の秋に苗を植えたタマネギは、100個近く収穫出来た。トマト、ミニトマト、キュウリなどの夏野菜も全て順調。遅れて播種したトウモロコシはまあまあの実入りか。 甘柿はまだ樹が小さいのだが今年は40個ほど実をつけ、そのうち8割は食べることが出来た。イチジクも冬季にかなり枝を刈り込んだせいかたくさんの実をつけ、ワイン煮を4回作ったほど。若干はそのまま食べた。 大根は連作障害が出た感じがする。畝の場所を変えたり、もっと深めに土を掘る必要がありそうだ。東の畑に蒔いたのは時期が遅過ぎて成長が遅れた。白菜は2度目の試みだったが、初めて「それらしい形」になった。これまでの失敗の原因は肥料の量が不足していたことのようだ。 ヤーコンの種芋は小さいのが2個だったのが、大きいのも含めて25個ほど収穫出来、大成功だった。アシタバは3年目だったようで、2つの株が共に花を咲かせ、実をつけた。今後枯れるだろうが、落ちた実から発芽すると思う。 植木鉢の花は資金不足のために、あまり植え替えをせず手抜き状態の1年だった。目下、ヴィオラと葉牡丹の4鉢のみを玄関先に置いている。地植え用として買ったのが、クリスマスローズとヒメシャガ。その他こぼれ種から増えたものや、妻が仕事先からもらって来た花も何種類か植えた。花壇も球根の植え替えをしたので、来年の春が楽しみだ。 今年1年間の園芸関係の支出(私が支払った分のみ)は15,108円。いつもより少な目の金額かも知れない。寒くなる前に、ハイビスカスなどの鉢物を室内に移動したが、今咲いてるのはシャコバサボテンとシクラメン程度。シンビジュウムが2鉢とも花芽をつけているのが嬉しい。 庭はすっかり冬景色になった。その中でウメモドキ、ナンテン、ヤブコウジ、オモトが赤い実をつけている。外で咲いているのは山茶花だけ。椿が咲くのは来年になるだろう。庭の植木、畑の白菜やタマネギも、今は雪の下でじっと寒さに耐えている。
2009.12.18
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窓ガラスが結露することが多くなりました。それだけ家の内と外の温度差が大きくなったのでしょう。そして、今朝はその結露が凍っていました。最低気温はマイナス2度以下だったようです。暖冬と言われていた今年の冬ですが、いよいよ本格的な寒さがやって来たようです。 今朝の散歩では「スバル」を探しました。kopandaさんのブログによれば、オリオン座の3つ星の距離を、そのまま10倍右手に移動した場所にあるとか。ところが北斗七星ははっきりと見えたのに、肝心のオリオン座が見つかりません。星は少しずつ移動しているため、時間帯によっては見え難いのかも知れませんね。 寒さが厳しくて、愛犬との朝の散歩も辛い季節になりました。帰宅するまでには指先が凍えています。でも先日買ってもらったウォーキングシューズのお陰で、足元は軽い上に暖かくなりました。これまで履いていたのは古くなり、雨の時などは靴下が濡れていましたからね。 散歩から帰宅すると、お風呂の残り湯で顔を洗います。そうすると、かじかんだ手がようやく温まるのです。出勤時はセーターの上に薄いウインドブレーカーを着ます。風は防げますが、さほど暖かくありません。帰宅ランをする時は、ジャンバーのようなのは厚過ぎてリュックに入らないのですよ。 第1現場での朝一番の仕事は巡回。今朝は屋上の一部が凍っていました。これからは滑って転ばないよう、要注意です。さらに玄関で1時間立哨していると、体が冷え切ってしまいます。防寒着を着用し、手袋をはめてはいますが、暖房が無く風が吹き込むところなので、必死で寒さと戦っています。これを終えて、暖かいココア飲料を飲むのが冬の楽しみです。 第2現場で外を掃き掃除をする時は、ジャンバーに軍手をします。これは短時間なので案外楽。仕事が終わるとさっさと着替えて帰宅ランです。走れば結構暑くなりますから、結構薄着ですよ。今日は母校の博物館前で、たまたま掲示が目に入りました。何と今日まで無料で観覧出来る由。 博物館の完成は知ってましたが、いつ開館したのかは知りませんでした。早速中に入って見学。主に文学部歴史学科の収集品のようで、中には多賀城から出土した有名な「人面壷」や、松島の雄島の海底に沈んでいた板碑などがあって感激。でも保有点数が少なそうで、展示替えはあまり期待出来ない感じです。 再び走って帰る途中、自転車から手を振る女性。「へえ~っ、俺も意外にもてるなあ♪」と思って近づくと、研修に向かう妻でした。昼食後は愛犬を放しての畑仕事。大根を抜いて土の中に埋める作業です。約30本ほど埋め、小さいのは洗って台所へ。そして最後の春菊も摘みました。大根も春菊も、気温が下がると凍ってしまい、それを何度か繰り返しているうちに駄目になるのです。 鉢植えのベコニアも凍っていました。それを根元から切り、上から落ち葉をかけてみました。それで冬を乗り切れるかどうかは分かりません。昨年は家に入れて冬を過ごしたのですが、あまりにも鉢が大き過ぎると妻が言うため、泣く泣く外へ出したのです。さて、夕方からは雪の予報。明日も寒い一日になりそうですね。 さて、今夜は鍋のようです。摘んだ最後の春菊もきっと役に立つことでしょう。小さい大根も葉と一緒に刻んで、即席の漬物になったようです。明日もまた寒さが厳しい一日になりそうです。愛犬が少し年老いて来たため、まだ比較的暖かいうちに夕方の散歩を済ませ、そのまま玄関に入れています。走友会の練習に行けない理由もそれが大きいかな。 私も最近になって自転車通勤を止め、バスで通っています。冬の自転車通勤は寒い上に、道路が凍って危険。バスだと勤務後は走って帰れますからね。さて、明後日は所属する走友会の忘年会。久しぶりに仲間と会えますよ~。そして、この週末には年賀状を書き上げる予定です。今年も後2週間。明日からブログでは、今年1年を振り返る特集になりそうです。
2009.12.17
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寒い一日だった。10時ごろはまだ0度台。その後少しお日様が出て気温が上がったが、それでも4度か5度くらいだと思う。妻に頼まれて午後3時ごろに洗濯物を取り込んだが、ほとんど乾いていない状態だった。明日から最低気温が零下になる日が続く。そろそろ畑の大根を引き抜いて、土に埋める時かも知れない。寒さが続くと凍ってしまい、やがて腐ってしまうからだ。 さて、ニューヨークヤンキースのゴジラ松井が、ロサンゼルスエンゼルスに移籍するようだ。もちろん球団の厳密な健康診断に合格した上での話だが。それにしてもワールドシリーズで優勝し、MVPに選ばれた選手を放出するなんてメジャーならではで、とても信じられない。 ヤンキースはゴジラ松井をDH要員としてしか見ておらず、それも必ずしもDH要員の第1位と考えていた訳ではないようだ。選手全体の年俸を引き下げようとする意図があったことも、松井の優先順位を下げた要因みたいだ。ニューヨークの各紙は松井の退団を惜しむ記事を掲載したようだが、FA宣言後の論評が冷ややかだったことに驚いたものだ。 ともあれ松井が勇気ある決断を下したことは間違いない。守備に就かないDHとしてではなく、本来の外野手として必要とされる球団を選んだ。移籍後の年俸はこれまでの約半分の5億7500万円で、しかも1年契約と言う内容の厳しさにも驚かされる。そこまでして松井は守備機会に拘った。 35歳で膝に古傷を抱える松井にとっては、寒いニューヨークより暖かいロサンゼルスの方が良いのは間違いない。今回の移籍について、松井本人はまだ一言も発言していないみたいだ。まるで野武士のような松井だが、新天地で大いに活躍することを祈っている。 そして同じアメリカンリーグの西地区に所属するイチローのシアトルマリナーズとの対戦も楽しみだ。きっと日本人の関心が、ヤンキースから離れることになるのは必然。その影響の大きさにヤンキースが気づいても後の祭りと言うものだ。 話は変わって、鳩山内閣が普天間基地の移転問題についての結論を出すのを先送りすることにしたようだ。軍用ヘリコプターが付近の大学に墜落したことから生じた移転問題。日米政府が出した結論は辺野古岬にあるキャンプシュワブへの移転と、一部海上を埋め立てた滑走路の新設だった。だがその案がまとまってから13年間も放置されている間に、政権が交代した。 民主党のマニフェストの他にも閣僚から色んな意見が出され、さらに与党となった社民党や国民新党からも強い圧力がかかったこの問題。アメリカのオバマ政権からは、これまでに合意した原案に基づいて早期実施を求められている。国外や県外への移転は沖縄県民の強い希望でもあるが、そう簡単に解決する問題とも思えない。 来年春に実施される名護市長選の結果を待つとの意見が鳩山総理の口から漏れたこともあった。国土防衛と言う国家の最重要事項が、一地方都市の選挙結果に左右されるのはおかしいと私も思う。たとえ政権が交代しても、国と国が約束したことを実行しないのは信義に反するとも。 だが、総理はそうは考えないようだ。あくまでも白紙の状態で移転問題を考えようとしているように見える。果たしてそれで解決出来るかは分からない。また、いつまでに結論が出されるのかも不明だ。ただ、移転のための経費は来年度予算の中に組み込んであるとのこと。これでは何が何だか分からない。まるで「玉虫色」のようで、すっきりしない。 橋下大阪府知事の先日の発言にも驚いた。関西空港はじめ大阪湾岸にある3つの空港の機能を見直しし、場合によっては沖縄の基地の移転先として検討することも吝かではないとの内容。米軍基地を県内から少しでもなくしたいという沖縄県民の気持は分かっても、それを実際に自分のところで引き受けると表明する県は、まず無いのが普通。 橋下知事の勇気ある発言だが、もしそれを実行しようとすれば強烈な反対運動に発展するのは必定。鳩山総理の理想とする「友愛」が、果たして理念倒れとなるのか、それとも大逆転で全く新しい展望が開けるのか。一見決断を先送りにしたかに見える総理の決断が、今後どうなるのか関心を持って見守りたいと思う。
2009.12.16
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NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」を観ている。今年の連続ドラマ「天地人」が早めに終わり、その時間帯に放送されているのが「坂の上の雲」だ。これは3年間にまたがって放送されると聞いた。原作は司馬遼太郎の同名の小説。文庫本だと8冊にもなる大作のようだ。 時代は明治期。舞台は四国の松山と東京。このドラマの主人公となる人物は、秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟と正岡子規。彼らの故郷が松山なのだ。そして真之、子規らと大学予備門(旧制一高の前身、現東大教養学部)で共に学んだのが後の夏目漱石。話は彼ら4人を中心に展開して行く。司馬遼太郎は、この小説を書くにあたり、絶対真実でないことは書かないことを決意したようだ。不明な部分はあえて書かなかったのだとか。 一番年長の秋山好古は愛知県の師範学校を卒業して教師となるが、やがて陸軍兵学校に入学しフランスに留学、最後は陸軍大将となり「日本騎兵の父」と呼ばれる。除隊後は郷里の松山へ帰り、自ら願い出て中学の校長となる。71歳で糖尿病と脱疽のために死去。 真之は予備門から海軍兵学校へ進んで主席で卒業し、後にアメリカへ留学。当時最強であったロシアのバルチック艦隊をウラジオストックで破ったのが彼で、後に海軍中将となる。盲腸の悪化による腹膜炎のために49歳で死去。 子規は大学予備門から帝国大学文学部哲学科へ進み、後に文学科に転じた。学生時代から短歌や俳句に親しみ、喀血してからは俳句に打ち込むため新聞社に入社。わが国に野球を紹介した人物としても知られているが、俳句中興の祖としてその名を知らない人はいないだろう。肺結核と脊椎カリエスのため34歳で死去。 漱石は東京の人。松山出身の3人が士族の家柄だったのに対し、彼の家は町方名主。帝大文学部英文学科を卒業後、愛媛県尋常中学の教師として松山に赴任。これを素材にした小説が「坊ちゃん」である。後、五高(現熊本大学)教授に転じ、イギリス留学後東京帝大講師となり、小説に専念するため朝日新聞社に入社し、有名な小説を次々に発表した。胃潰瘍のため51歳で死去。 彼らが活躍したのは明治だが、いずれも江戸時代の誕生。武士や名主の子として生まれ、一流の学問を身に着けた彼らは、その後それぞれの分野でさきがけ的な存在として活躍する。このドラマを観ていると、明治政府の中心となった人物が、元武士としての誇りを抱きつつ、お国言葉(方言)から抜け出せないままだったことが分かる。 冒頭のタイトルに出て来るのが松山城。これはとても美しい城だ。私は足掛け8年ほど松山で過ごしたことがある。小学校5年の冬から高校1年の春までと、48歳から51歳までの2回だ。卒業した中学校は松山城の二の丸にあり、昼休みにはしょっちゅう城の石垣を登って遊んでいたし、一度は学校からの帰路、お堀に落ちたこともあった。だからあの城はとても懐かしい。 ドラマに出て来る人物が話すお国言葉の中で、今は使われないものもある。例えば「ありがとう」の意味の「だんだん」は、てっきり島根県の方言だとばかり思っていたのだが、明治期には松山でも使っていたことが分かった。 また語尾に強調のためにつける「なもし」は、私が子供の頃には良く使われていたのに、30年以上経って赴任した際はもう使用されず、使って笑われてしまったこともある。そんなことから言葉もその時代を反映し、流行り廃りがあることを知らされた。 この長編ドラマが今後どう展開して行くのか全く分からない。幕末の動乱を乗り切り、一躍先進諸国の仲間入りを果たすためにわが国が急速に体制を整え、近代化を推し進める明治期。その中心となった当時のエリート達が一体何を考え、どう行動したのか興味は尽きない。方や軍人となって国を支え、方や文学の道を志した青年。 「降る雪や 明治は遠くなりにけり」。明治時代が終わってから、まだ97年しか経ってないのに、遥か昔のように感じるのは何故だろう。そして古い時代の言葉や、遠い地方の言葉も、次第に忘れられてしまうのだろうか。
2009.12.15
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NHKの連続ドラマ「ウェルかめ」を時々観ている。だが、果たしてタイトルがこれで合っているのか、自信がないほどの不熱心な観方しかしていない。内容は青春のドタバタ喜劇とでも言えようか。ヒロインは徳島県南部の海岸の出身。実家の遍路宿は母親が悪戦苦闘しながら営んでいて、小さなサーフショップの主である父親は、未だにサーファーとしての夢を捨て切れないでいる。 徳島の小さな出版社に勤務し、一流の編集者になるため頑張っているヒロインを巡って、仕事や恋愛がからみながらストーリーが展開して行く。だが私が惹かれるのはドラマの内容ではなく、舞台となっている徳島の言葉そのものだ。 私は40歳から45歳までを、家族と共に徳島県の鳴門市で過ごした。新しい組織を立ち上げるため、急遽茨城県から赴任した。もう20年以上も昔の話だ。たった一人で新しい仕事に挑んだあの時の苦労が、ドラマの中で頻繁に出てくる「阿波弁」を聞く度に思い出されてならない。 職場ではほとんど徳島県人だったから、やはり阿波弁が飛び交っていた。東北にはない独特のイントネーション。彼ら自身の話では、徳島県人の気質は3つに分類されると言う。県南地方は海岸性気候の影響かとても温和。そして吉野川の上流は「そら」と呼ばれ、もの静かな性格の人が多いとか。それに比べ大阪に近い東部の鳴門や徳島は気質が荒く、商売上手とのことだった。 そう言われてみると、そのような性格は確かに当てはまっていた。イントネーションだけでなく、彼らが話す言葉の裏には果たしてどんな本音が潜んでいるのか。そんなことを気にしながらの日々だった。子供達の世界はもっと単純で、話す言葉が自分達とは違うと言う理由で、結構苛められたりもしたようだ。 何年か前、さだまさし原作の映画「眉山」(びざん)を観た。主役は松嶋奈々子だった。あの映画でも徳島や鳴門の言葉が飛び交い、眉山を初めとする徳島の懐かしい風景がふんだんに登場した。徳島の夏の風物詩である阿波踊りの場面では、生来の不器用のため練習してもなかなか上手に踊れなかったことを、苦々しく思い出したりもした。 その鳴門勤務時代の先輩が今年亡くなったことを、最近になって知った。息子さんの名前で喪中はがきが届いたからだ。昨年彼から届いた年賀状には、目が見えなくて返事が書けないため、来年から年賀状を出さないで欲しいと書かれていた。私は誰かに読んでもらえば良いと考えて今年も出す積もりでいたのだが、ひょっとしたら糖尿病でも悪化していたのだろうか。 享年67歳で1学年先輩だった彼。まだ亡くなるような年齢ではないと思うのだが、管理職として転勤した晩年は、きっと他人には語れないような苦労続きだったのだろう。鳴門時代も毎晩酒を飲み、酔いが醒めるまで麻雀に熱中した。あの時の仲間達は、元気で過ごしているのだろうか。安否の手がかりとなる年賀状を出す季節が、今年もまたやって来た。
2009.12.14
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昨日から近郊の温泉に行っていました。筑波時代の悪友たちとの、年に1度のマージャン大会があったのです。前回優勝したために私が幹事となって開かれた今回は、夕食前に持参した「濁り酒」をたらふく飲んだために、夕食で何を食べたのかも全く覚えておらず、昨夜は1度も温泉に入らずに戦っておりました。 でも、昨夜はあまり「つき」が無かったですね。まあまあ頑張っていたのに、最後の半荘で大負けしてしまいました。それでも思ったより安上がりの大会だったし、無事幹事の役目を果たせたことで安心しています。4時に戦いが終了して2時間ほど眠り、朝の6時半になって初めて温泉に入りました。 一番の先輩は70歳を越え、千葉から車を運転して来たためか疲れが出て、一度もマージャンをせずに飲み続け、結局ぞのまま朝まで寝ていました。それにみな歳を取りましたね。一番の後輩が間もなく58歳になるとのことですから、それも当然でしょう。中には一緒に仕事をしてない後輩もいるし、マージャンが出来なくても参加する人など居て様々です。 9月は「佐渡島一周」、11月は「沖縄本島縦断走」のために小遣いが乏しく、私の都合で12月まで開催を延ばしたために参加出来なくなった後輩がいたのは残念です。今回優勝したのは東京の人なので、来年の会場は東京での大会になり、集まりやすいため後2名参加者が増えるでしょう。 今朝帰宅してから、三重の後輩が土産にくれた「赤福」を妻が淹れてくれたお茶と一緒にいただきました。その後HCで葉牡丹とヴィオラを買い、植木鉢の植え替え作業をしました。麻雀の「負け」がさほどでもなかったため、これで長い間続いた倹約もようやく解禁です。 午後からは妻と新しいショッピングモールで買い物へ。私はパジャマ、ウォーキングシューズ、ズボンなどを買ってもらいましたが、妻はさらに3人の子供に送るクリスマスカード、孫の靴下、シクラメンを買い、私は職場で食べるお菓子を買いました。久しぶりに外食もしたし、比較的たくさんの買い物も出来て、何だかとても豊かな気分になりました。 帰宅すると、今朝温泉旅館の前で後輩が撮ってくれた写真がメールに添付されて来ました。全く速いものです。若い人達の技術力には驚かされます。メールが届いたと言うことは、彼も東京の自宅に無事着いたことを意味しています。そして義兄がお歳暮を届けがてら、育てた白菜や大根を持って来てくれたようです。我が家の白菜と異なり、ほとんど農家のものと遜色ない出来栄えです。 夕方の散歩後は、愛犬を玄関に入れました。来週は厳しい寒波が襲来するみたいで、仙台でもようやく本格的な冬の季節を迎えます。先週の半ばからは帰宅ランも再開しました。寒い日も走って鍛えておけば、新型インフルエンザにも罹らないで済むのでは、なんて考えています。皆様も、風邪など引かないようご注意くださいね。
2009.12.13
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昨日、沖縄本島東海岸単独縦断走の完走記を書き終えた。長い長い旅が、これでようやく終わった気がする。1枚の写真もない文章。完走記と言うよりは沖縄を訪れた紀行文と言った方が適切かも知れない。折角苦労して書いた文章だが、保存は考えていない。時が経てば読んだ人は忘れる。それで結構。これは私の心の中に思い出として残れば良い話。 それにしても、淋しいヤンバルを走る今回の旅では、ほとんど書くことがないのでは、と走る前から考えていた。それが結構話題があり、18回もの長い連載になったことに驚いている。やはり自分の足で走り、自分の目で確かめることはとても重要だと思った。マスコミに大きく取り上げられている基地移転反対の現場も、実際はあんなに閑散としていたなんて。 帰宅後、風速と体感温度の関係の話を聞いた。1mの風が吹くと、体感温度は1度下がるのだとか。辺戸岬からスタートした時、風速20m以上の強風が吹いていたから体感温度は0度ほどになってしまう。実際雨で濡れた上の強風だったため、本当に体が冷えた。慌てて半袖に着替え、さらに12kmほど走った後は、ビニール袋を被って寒さを避けたのだった。 走り旅の途中に泊まった東海岸のリゾートホテルだが、私のブログに1度だけ広告を出したのが愉快だった。決して私は褒めた積もりではなかったのだけど。そのカヌチャベイ(ベイは湾の英語)に、ホテルのレストランでは「神着」の漢字を充てていた。これが元々そうだったとすれば大変面白い発見だと思う。 沖縄の神であるアマミキヨとシネリキヨは、先ず辺戸岬に立ち寄った後、沖縄本島の東海岸沿いに南に下り、最後は南部の知念半島に上陸したとの伝説があり、神が着く「神着」はまさにピッタリの表現だからだ。アマミキヨのアマは海人(あま)族のアマでもある。東海岸の隔絶された小集落では、沖縄の他の地方と言葉が若干異なることや、東海岸には日本本土と共通する姓が多いことなどを考え合わせると、日本と沖縄との関係の深さを感じる。 帰宅後にMさんから届いたメールには、宮城県産の新米はさすがに違うと奥様が言っておられたことや、来年沖縄本島南部を走る際は是非協力したいとも書かれていた。それは私にとっても嬉しい言葉だった。ただ、150kmを走ることはウルトラランナーには普通の出来事なのだが、そのような経験のない沖縄の人達には大変な偉業に見えるのかも知れない。 「沖縄本島一周」で私に残されたのは、南部の30kmほどだけになった。NAHAマラソンのコースになっている一部を差し引くと、わずか27kmくらいのものだ。淋しかった北部の道に比べ、南部の道は光に溢れている。そしてコース上には、城(ぐすく)や御嶽(うたき)などの聖地が多いのが特徴。そんな道を来年は心行くまで走ってみたいと思う。 18回もの長い連載にお付き合いいただいた読者の方々には、心から御礼を申し上げたい。そして、観光ではなく、歴史と文化と沖縄のおかれた現状を知るために、一度沖縄を訪れることをお勧めしたい。実は沖縄は日本によって300年間も富を搾取された歴史があるのだが、そのことを知ってる人は数少ない。書き終えた今、私の心はすっかり抜け殻になったが、沖縄への熱い想いはまだまだ尽きない。
2009.12.12
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< サヨナラ南の島よ > 再び歩いて市場(まちぐぁー)へ行く。まだ早いけど、昼食を摂るのが目的。小母さんの菓子店とは別の通りをかなり奥の方まで進むと、楽器屋さんがあった。並んでいたのは三線(さんしん)。ご存知の通り、沖縄民謡には欠かせない重要な楽器だ。珍しく工工四(くんくんしー:三線用の楽譜)の看板まである。 楽器に見とれていると、「これがカンカラ三線で、こっちがパラシュートの布で作った落下傘三線だよ」と、店の小父さん。カンカラ三線とは空き缶を胴にして作った三線で、落下傘三線は米軍のパラシュート生地に薬を塗って固めて胴に張ったもので、両方とも第2次世界大戦後に作られた手製。だが現在店にあるのは素材も新しく、わざわざ観光用に作ったものだ。 朝貢していた中国からもたらされ、貿易で得た南方の大蛇の皮を胴に張った三線は、沖縄の生活には欠かせないもの。戦後の物資乏しい中で、何とか材料になりそうなものを探し、やっとの思いで作った大切な楽器で歌を歌い、踊りを踊ったのだ。沖縄の魂とも言えるその三線が、今では立派な模造品が出回る豊かな時代になった。 狭い通路に黄色い花が咲いている。多分ユウナの花だろうと思って中年の婦人に確かめたが、花の名は知らないと言う。「へえ~」と驚く。沖縄に咲く花の名前を知らない婦人もいるんだねえ。そこから引き返して、いつもの花笠食堂へ行く。椅子に座ると早速小母さんが注文を取りに来る。そこで一言「ナーベラー」。これが主菜。ご飯は赤飯にし、お汁はナカミ汁、副菜はモズクにした。 小母さんが厨房に向かって叫ぶ。「ヘチマ1丁!」。出て来たのはポークと一緒に味噌で炒めた若いヘチマ。これがトロリと軟らかくていかにも滋養になりそうな感じ。「ナカミ」は豚の腸の脂分を丁寧に落としたもので、鉄分が多そう。赤飯もモズクも体に良さそうなものばかり。11時をちょっと過ぎたばかりだったが、何とか食べ終えることが出来た。 ホテルに戻って重いバッグを首からかけ、背中にはリュックを背負った変な格好で、最寄のモノレールの駅まで歩く。1杯の泡盛も飲まず、贅沢な沖縄料理を口にすることもなく、最後の最後まで倹約に終始した今回の旅だった。空港内の売店で暇つぶしに本を買う。本当は沖縄の歴史か文化関係の本が欲しいのだが高くて手が出ず、結局選んだのは定価500円の「沖縄のマラソンガイド」。 機中、隣席の山形の小父さん曰く。沖縄の航空自衛隊に転勤した甥が勤務の関係で休暇が取れないため、結婚式をこの地で挙げた由。親戚を呼ぶための交通費と宿泊費だけで160万円以上かかったとか。お嫁さんは北海道の人のようだ。これもまた「へえ~!」の類。旅は驚きの連続だった。3時間半もの空の旅で腹が空き、楚州の小母さんがくれたサーターアンダーギーとチンスコウを食べ、サンピン茶を飲んで凌いだ。 忘れられない沖縄の風景。そして忘れられない沖縄の味。へとへとに疲れたが、深く心に残る沖縄本島東海岸の単独縦断だった。那覇空港を飛び立って直ぐに雲の中へ突入し、沖縄本島の姿を確かめることはもう出来なかった。機中から見えたのはハート型の渡良瀬遊水地と、着陸寸前の阿武隈山脈、そして夕暮れの太平洋だった。サヨナラ大好きな南の島。来年もまた、私はあの島を走る積もりだ。<完>
2009.12.11
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< 小母さんとの再会 > 翌朝6時半に目が覚めた。ちょうど6時間ほど眠れた計算。久しぶりに髭を剃ってさっぱりする。7時前に新聞を読みに行き、そのまま朝食へ。前日のリゾートホテルではお膳だったが、ここは気取らないバイキング方式のため野菜をふんだんに摂れるのが嬉しい。食後にマンゴージュースを牛乳で割ったものを2杯いただく。 窓から外を眺めていると、国際通りを裸足で歩くホームレスがいた。どうも病気のようで、左手が萎えた感じ。暖かい沖縄では凍死の恐れはないと思うが、どうやって食べ物を入手しているのだろう。その後ろから男女のランナー。こんな時間帯に国際通りを走るのは、内地からの観光客に違いない。あまりの好対照に、暫し呆然とする。 8時過ぎ、スタート地点の辺戸岬まで車で送ってくれたMさんへ先ず電話し、無事与那原にゴールしたことを報告。今回の成功はすべてMさんのお陰だ。Mさんも完走を喜び、良くあの淋しい道を1人で走ったものと感心している。次が自宅。最初妻は電話が遠いため次男と間違え、「おれおれ詐欺」と疑っていたようだ。声がとても似ている由。無事にゴールしたことを告げると、安心した声に変わった。 最後に沖縄の走友Hさんへ電話。だが奥様が出て、本人はジョギング中との返事。無事150kmを走り切ったことを告げると、「凄いですねえ」と驚きの声。そして、町内会の仕事があるため、私の援助が出来なかったことを詫びていたとも。私は最初から車での伴走を考えたことはなく、1人で走り通すつもりだった。来年はNAHAマラソンに来ることを、伝えてもらう。 さて、これで連絡は終わった。後はお土産を買うだけ。荷物をまとめてフロントに預け、散歩がてらぶらりと出かける。適当に国際通りの裏道を行くと松尾公園に出た。ここは元々墓地だったはず。中心街の直ぐ裏にも、かつてはさんご礁の岩山に墓が並んでいた。それを移設して公園化したのだと思う。 そこからいつもの市場(まちぐぁー)に向かい、楚州(そす)の小母さんが働くお菓子屋さんに顔を出す。だが残念ながら小母さんは不在。仕方なく若い女性から、自宅、近所、2つの現場に上げるお土産を買った。特製のチンスコウとクンペンは中国渡来のもの。大きな大福には餡子がたっぷり。これらは仏事用を兼ねたもの。「楚州の小母さんによろしくね!」と言って帰ろうとした時、別の女性が振り向いて言った。「楚州の小母さんよ」。 いつの間にか用事から帰っていたようだ。顔を見ると確かに見覚えがある。「辺戸岬から走って、楚州にも寄ったんだよ。あのお店の小母さんは親戚?」と聞いた。彼女はビックリして私の顔をしげしげと眺めた。「ああ、覚えている」。去年この店でお土産を買った時、何かのきっかけで小母さんは「楚州を知ってる?」と私に尋ね、私はただ「知ってるよ」と答えただけのこと。 そんな些細なことが鮮明に記憶に残っていた。だが、肝心の楚州の店で小母さんの話をするのを忘れて来た。「たった10軒だからね」。小母さんはつぶやくように言った。「それに年に1回しか帰らないし」。何年か前に小学校が廃校となり、その記念碑しか残ってなかった。小さなお店と粗末な拝所(うかんじゅ)だけの淋しい集落を思い出す。 「来年また来るからね」と言うと、忙しく働いていた小母さんが、チンスコウとサーターアンダーギー(沖縄風ドーナッツ)をおまけしてくれた。たった10軒しかない集落を出て以来、小母さんの身に果たしてどんなことが起きたのだろう。思えばとても不思議な縁かも知れない。 帰り道、果物店で地元で採れたかんきつ類を買ったものの、その名前が思い出せない。帰宅後食べてみると、シークァーサーと何かの掛け合わせのような味だった。一旦ホテルへ戻り、買ったばかりのお土産を預ける。<続く>
2009.12.10
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< 疲労困憊でのゴール > ゴール後の準備のために、先ず那覇行きのバスの時刻表を調べた。だが、いくら沖縄が夜型社会とは言え、最終バスはもうとっくに出た後。。すると先ほど見かけた路線の違うバスは、きっと運行を終えた回送用だったのだろう。次にゴールに最も近そうなコンビニを探す。店内に入ってトイレを済ませ、次にタオルを水で浸す。これで準備はOKだ。 与那原町与那原の三叉路が前方に見え出した。そこが今回のゴール地点。交差点を渡って素早く時計を見て23時01分であることを確認。次にタクシーを停めて、運転手さんに那覇の国際通りまでどれくらいの料金になるか確かめる。最も気になっていた答えは「2千円以下」。直ちに乗ることを告げ、リュックからトレパンを出してタクシーの座席に座る。 2日間に亘る戦いはようやく終わった。第2日目の距離は、ホテル内の1km、迷子になった分の1km、そしてうるま市のバイパス分の1kmを加えて74km。それを14時間26分かかって到達した計算。初日と合わせた距離の総計は150km。長い長い旅だった。 運転手さんに昨年は西海岸を縦断し、今回は東海岸を辺戸岬から与那原まで走ったことを告げると信じられない口ぶり。走っていたランナーが急に走るのを止めて、車を停めたことにも驚いた由。それはそうだと思う。 タオルで体中の汗を拭き、半袖Tシャツに着替える。さすがにパンツを脱ぐ訳にも行かず、せめて汗が座席を汚さないようトレパンを敷いたのだ。運転手さんに走りながらヤンバルの話をすると、やはり最近ではヤンバルまで行く観光客が多いそうだ。そして普天間基地のヤンバルへの移転反対の現場を見たことを話すと、内地人の私にも配慮したのか、沖縄にも色んな立場の人がいると話した。 ある人は基地内にある土地の借料として年間2千万円を政府から支給されるため、仕事もせずに高級車を乗り回しているとか。沖縄の極端な現状に改めて驚く。夜の10時にも関わらず、タクシーが何故淋しい道で客待ちしているのか、先刻感じた疑問をぶつけると、村人は夜でも用件で移動することが多く、会社からの無線を待っているのだとか。まさに夜型社会の沖縄を象徴する話だった。 国際通りへは、別ルートで行った方が近いとは思ったが、口にはしなかった。運転手さんが選んだ道は信号が少なく、きっとホテルへ早く着くと判断したのだろう。ある道を通った時、思わず「懐かしい」とつぶやくと、「沖縄詳しいんですね」。「この近くに3年間住んでたんですよ」。沖縄のタクシー料金が本土よりかなり安いことは知っていたが、そのことが今は本当に有難い。 23時40分。ホテル前に到着。お釣りはもらわず運転手さんに寄付し、御礼を言って降車した。突然夜中に現れた客の服装を見て驚くフロントの係員に、到着が遅れたことを先ず詫びる。チェックインの手続きをしながら、今回辺戸岬から東海岸を150km縦断したことを話すと、信じられないような表情。多分そんな話はこれまで聞いたことがないのだろう。 部屋へ入って浴槽にお湯を張り、宅急便で届いたバッグから着替えを出す。お湯が一杯になるまでの間にビールのロング缶を買いに行く。この夜もシャンプーも石鹸も使わずに、タオルで体をゴシゴシ洗うだけ。浴後、地図に最少の情報だけ記入し、缶ビールを開けて飲む。緊張が急速に解けたせいか、どっと疲労が出始めた。折角買ったビールだが、頑張っても半分しか飲めない。もう全てが限界に達していたのだろう。0時30分、ベッドに轟沈。<続く>
2009.12.09
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< ついにゴールの町へ > 最初に昨日書いた文章の訂正をしておきたい。44km地点を18時43分にスタートした際、残りの距離を20kmと書いたが、30kmの間違いだった。だからこそ私はスローペースを焦っていた。その理由の第1は、泊まる予定のホテルへ、到着が遅くなるとの連絡をしていないこと。何せ私は携帯電話と言う武器を持っていないのだ。 第2は、もし与那原へのゴールが夜中の0時を過ぎた時に、そこからホテルのある那覇まで、約9km分のタクシー代がどれくらい掛かるかが心配だったからだ。この朝、宅急便を送ったリゾートホテルでは、特別料金と称するべらぼうな金額を支払い、残額が極めて乏しくなっていた。 侘しい話だが、前日に走り始めてから自販機では安い缶入りの飲料を買い、それをペットボトルに移し替えると言う作業を繰り返していた。そうすると1本について40円から50円が節約出来る。10本だと450円、20本で900円。もしタクシーが深夜料金で5000円も支払えば、翌日お土産を買うのは極めて困難。出来ればお土産代と昼食代くらいは何とか残して置きたいのが本音だった。 コザ高校前辺りから、道は下り坂になった。もう地図を見る余裕はない。道路標識を見て、与那原までの距離が残り何kmかだけに注意していた。かなり坂道が緩くなったその時、左手に見覚えのある風景が見えた。それは沖縄総合運動公園の裏門だった。「おきなわマラソン」に参加する際、1度だけこの裏門から入ったことがある。まだ安心は出来ないが、これでかなり勇気づけられたのは確か。 間もなく6つ目の北中城村(きたなかぐすくそん)。20時30分。渡口(とぐち)の交差点に到達。ここが61km地点で残り13km。海岸部へ右折するとばかり思っていたのが、国道は真っ直ぐのまま。心配になってドライブスルーで順番待ちの若者に与那原方面への道を確認。やはり真っ直ぐで良いとの返事。間もなくサトウキビ畑が現れ、海岸部へ出たことが分かった。道路は海岸線に沿うよう、徐々に曲がっていたのだ。ここからゴールまでは一本道で、もう迷うことはない。 20分ほど走って7つ目の中城村(なかぐすくそん)へ。21時15分。泊集落の明るい自販機前で休憩。前回の休憩から3時間を経過し、飲み物だけで走り続けたため疲労を感じていた。ここで買ったサンピン茶(ジャスミンティー)をあっと言う間に飲み干し、直ぐにもう1本購入。最後のお握り、クリームパン、ミカンを食べ、黒飴を舐めながら21時31分にスタートする。 この辺りはサトウキビ畑が多いが、畑と道路にはかなりの段差があるため、ハブの心配はない。ヘッドランプと赤色灯を消し、懐中電灯だけで走ることにした。世界遺産の中城城(なかぐすくじょう)への分岐点を通過。この美しい城跡や重要文化財の中村家住宅へは、多分5度以上訪れたはず。それにしてもこんな淋しい誰も居ない道に、タクシーが何台も停まっているのが不思議だ。 夢中に走っていた時、前方の暗がりに立っているお爺さんを発見。もう夜の10時近いのに、夕涼みでもないだろう。それに気を取られ、何かにつまづいた。「ああビックリした!」と叫んだら、お爺さんが自分のことと勘違いをしたようだ。暗闇からランナーが飛び出したことの方が、逆に驚きだったかも知れない。 小さな坂を2つ登ると8つ目の西原町。坂の上にそそり立つ病院の懐かしい姿。ここは元の職場がある町。と言ってもここから4km行った標高150mほどの山の上なのだが。暫くして繁華街に入ると、急に照明が明るくなった。与那原まで3kmの表示。10時半を過ぎたのにバスが走っている。与那原から那覇行きのバスはまだあるのだろうか。 ほどなく9つ目の与那原町(よなばるちょう)へ。ここがゴールのある町。もう完走は間違いない。嬉しさが胸にこみ上げて来る。とうとうここまで来ることが出来た。だが最後まで油断は禁物。その時、パラパラと雨が降り出した。朝の天気予報では、午後から大雨と言っていたのに実際は晴天続きだった。最後の最後に申し訳程度の雨か。さて、そろそろ最後の準備に取り掛かるか。<続く>
2009.12.08
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< 2日目の日没 > 新しい市の名前「うるま」は、沖縄の言葉で「うるわしい土地」を意味したはず。これは「琉球」と並ぶ沖縄の異称であり、その名を冠したタバコも売っている。4つの市や町が合併する際、将来への希望を託してこの由緒ある名を選んだのだろう。左手前方に火力発電所の高い煙突が見えて来た。 てっきりそちらへ進むのだとばかり思っていたのだが、旧石川市役所付近から国道329号線は右側へ大きくカーブ。広い道が徐々に高度を上げ、やがて大きな橋となった。だが見下ろしても川が流れている様子はなく、緑の畑が広がるばかり。前方の小高い山にはぽっかりとトンネルが開いている。 橋の歩道に珍しいデザインのタイル。何と牛オラセー(闘牛)の勝負の型が6パターンほど埋め込まれ、「腹どり」など技の名称も記されている。この周辺には闘牛場が幾つかあり、私も見学したことがあった。しかし、こんな道は通った記憶がない。トンネル内は片側2車線の広い道で、歩道もとても走り易かった。 トンネルを抜けると下り用のトンネルも見えた。帰宅後10日以上経ってから、ここが新しく出来たバイパスだったことがようやく判明した。事前にジョギングシュミレーターで距離を調べた道とは別で、ここでも1km以上長く走った計算だ。 前方から3人のランナー。もう夕暮れで気温が下がったため、12月6日開催のNAHAマラソンに向けて練習しているのだろう。空には美しい月も。道路標識がより確認し易い道路の左側へ移動。18時20分、旧具志川市栄野比(えのび)のコンビニでお握り、カップヌードル、クリームパンを食べ、18時43分ヘッドランプ、懐中電灯、赤色灯を点灯して出発。 ここが44km辺り。ゴールまでまだ30km残っており、このままのペースでは夜中の0時を過ぎる可能性があると判断。スピードを上げることにした。間もなく5つ目の沖縄市に入る。この辺は「おきなわマラソン」で2度走っているため、馴染みのある地名が多いのが嬉しい。だが、それに反して苦しいのは、アップダウンがきついためだ。ちょうど沖縄本島中部の一番高い「背骨」の上を走るため、歩道が地形の影響をもろに受けて凸凹でとても走り難い。 知花(ちばな)を過ぎ、沖縄市の繁華街であるコザ十字路も通過。ここでようやく55kmほど。だがそこから海岸まで真っ直ぐ下るとばかり思っていたのに、再び登り坂となる。そして私にとっては未知の道だった。沖縄へ旅立つ前に届いたMさんからのメールには、「国道329号線は沖縄中部で最も厳しいコースで、何故もっと海よりの道を選ばなかったのか」とあった。 だが、私は一本道の方が分かり易いと判断し、このコースを選んだ。やはりMさんの進言に従った方が賢明だったか。いや、疲労困憊の状態で道に迷ったらもっと悲惨。今はただ我慢するしかない。それに2日目の夜はハブの危険性が皆無。ひたすらゴールの与那原(よなばる)を目指そう。 きっとヘッドランプと赤色灯を点け、懐中電灯を手にしたランナーが必死の形相で走るのを、街の人達は奇異に感じたことだろう。さらに、走り去るその背中に「東海岸縦断中」とあるのを見て、もっと驚いたはずだ。<続く>
2009.12.07
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< キャンプハンセンと黒人兵 > どんどん坂を下って行くと名護市を抜けて、ようやく宜野座村に出た。潟原(かたばる)の海岸が濁っている。前日の大雨で赤土が流れ出したようだ。昭和47年(1972年)に沖縄が日本へ返還されて以降、急速な開発のために海が赤土で汚染され、珊瑚の死滅が大問題になった。本土の工法をそのまま沖縄でも使用したためだ。その後、改善されたようだが私が沖縄で勤務した20年前でも、まだその問題は解決してなかった。あの当時に比べればここの汚染はごく小規模だ。 この村は徳島勤務時代の上司の故郷。彼から沖縄の話を何度か聞いたが、まさかその後私が沖縄に勤務するとは不思議な縁だ。そんなことを思い出しながら走っているうち、惣慶(そうけい)付近の道路標識で迷った。真っ直ぐ進むと「うるま市」の表示。待てよ。私はうるま市へは行かないはず。そう考えて右の方へ曲がった。広い道路だからこれで間違いないだろう。少し様子がおかしいとは感じたが引き返すのも面倒になり、そのまま走った。 芝生を張った大きな野球場が見えた。「ここでプロ野球のキャンプをしてる?」と高校生に尋ねる。彼は丁寧に野球帽を脱いで「阪神のキャンプ地です」と教えてくれた。ほほう、やっぱりねえ。私が沖縄に居た時代は、日ハム、中日、広島、横浜、阪急(当時)などが沖縄でキャンプをしており、わざわざ見学に行ったこともある。球場に沿ってどんどん行くと、やがて高速道路への道にぶつかった。 やはり私の判断ミス。あのまま真っ直ぐ進むべきだったようだ。一昨日高速バスから見た停留所から曲がり、再び国道329号線に復帰。1km以上は遠回りしたようだ。漢那(かんな)ビーチに出ると金武湾の彼方に平安座(へんざ)島、宮城島、伊計(いけい)島の3つの島と石油備蓄基地が見えた。それらの島は「海中道路」で勝連半島と結ばれているのだが、初めて沖縄の大きな地図を見た時は驚いた。何しろ海の上に道路があるのだから。 13時35分、漢那の地産センターに寄り、ソーキソバを注文。冷たくて甘い紅茶が美味しい。タオルハンカチを濡らして顔や足などを拭く。足には白い塩がビッシリと浮き出していた。食後でポシェットから塩を出して舐める。薄味の沖縄ソバでは塩分の補給にならないためだ。14時ちょうどにスタート。 城原集落を過ぎてようやく3つ目の金武町に入る。ここからはずうっと家並みが続き、セミの鳴き声は全く聞かれなくなった。約30km地点の役場前を14時33分に通過。まだ今日走る予定の半分も来てない。キャンプハンセン周辺では、若い女性をナンパしている黒人兵がいる一方で、葉巻を咥えながら、道路に捨てたタバコの吸殻を掃除している黒人兵もいた。ボランティア活動だろうか。 その時道路の向こう側に、リュックを背負いながら走るランナーの姿。多分白人兵だと思う。今日は日曜。きっと趣味のランニングを楽しんでいるのだろう。だが、それにしてはスピードが速く、あっと言う間に姿が見えなくなった。15時15分。金武インター周辺の浜辺で休憩し、ピーナッツ煎餅、塩トマトの甘納豆、一口羊羹を食べ、味噌を舐めた。10分間休憩し再スタート。 約40km地点の屋嘉(やか)集落付近で、先ほどの白人ランナーが引き返して来た。私がまだ走り続けているのを見て、右手を振っている。私もそれに応えて手を上げた。16時25分。コンビニでお握り、さつま揚げ、缶ビールを買い、外で飲食していると、今度は白人の夫妻が右手の親指を上に向け、何事か私に話した。 きっと「頑張ってるね」とでも言いたかったのだろう。雰囲気から見て軍属ではなく、きっと教養のある一般人だろう。ビールと日焼けで赤い顔の私も「サンキュー」と手を振る。16時37分スタート。間もなく4つ目の「うるま市」に入る。ここは石川市、具志川市、与那城町、勝連町が合併して出来た新しい市だ。<続く>
2009.12.06
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< 2人のおばーとキャンプシュワブ > 少し走っただけなのに、もう汗をかき始めた。雲の陰から太陽が顔をのぞかせ、気温も上がったのだろう。昨日の天候とは大違い。だが、また直ぐに曇って、雨がパラつく。やはりヤンバルでは天気が安定しないようだ。三原集落を過ぎると海岸に出た。逆光になって川なのか海なのか良く分からない不思議な渚。後で地図を確認したら汀良(てぃーら)川と言う名の河口だった。 しばらく行くと小さな集落に出た。道端で2人の女性が何かを売っている。近づいてみると、ヒラヤチ(沖縄風のお好み焼き)やムーチー(餅)などだ。「ここで売れるの?」と尋ねると、休日は特に売れるとの返事。しかもそれらの品はどこかで仕入れたのではなく、全て手作りとのこと。 話してくれたのは少し若いおばー(お婆さん)。年取ったおばーはうちなーぐち(琉球方言)しか話せないのか、終始無言のまま。正式にはウニムーチー(鬼餅)と言う月桃の葉で包んだ餅を懐かしく眺めていると若い方のおばーが飴を2個くれた。私が宮城県から来て、辺戸岬から東海岸を走ってると話したら、大変だねえと同情したようだ。「ありがとうね~」と手を振りながら、再びゆっくり走り出す。 目の前に大浦湾が広がる。ここには天然記念物のジュゴンが棲んでいる。人魚のモデルとされる大人しい海獣で、大浦湾は世界でも数少ない生息地なのだそうだ。だが、辺野古(へのこ)岬のキャンプシュワブ(米軍海兵隊の基地)沖を埋め立ててV字型の2本の滑走路を作り、普天間からヘリコプター部隊などを移設することになれば、ジュゴンが生きて行くのは困難。湾岸の至る所に、「美しい大浦湾を守ろう!」「普天間基地移転反対!」の看板があった。 その湾を跨いで、新しい橋が建築中だった。これも北部振興策の一つだろう。橋の向こうには新たなトンネルも掘られているようだ。大浦集落の浜辺には、「エリ」を作るなとの警告文。「エリ」とは河口部に作る石組みで、海から遡上する魚を誘導する装置。上流に向かうほど徐々に狭くなり、引き潮で逃げられなくなった魚を捕獲する仕掛けだ。裏の林ではセミの大合唱。その賑やかな声に、やはりここは南国であることを痛感する。 湾を一回りした所が二見集落。民謡「二見情話」の舞台で、沖縄勤務当時は良くカラオケで歌ったものだ。「二見の美しい娘は心も清らかで、会いに行きたいのだが途中の坂がとてもきついために、なかなか行くことが出来ない」。難しい沖縄の方言だが、確かそんな意味だったと思う。その歌に謡われた坂が間もなく現れた。これが本当にきつい坂だった。 綴れ織りの坂をウンウン唸りながら登る。坂道は初日だけで済んだとばかり思っていたのに、出鼻を挫かれた感じ。大浦湾を跨ぐ新しい橋とトンネルを何故作ろうとしたかが、ようやく分かった。海抜0mから一気に200mほど登る。坂道を登り切った所が「二見入口」で、初日に泊まった名護市西海岸の許田(きょだ)を基点とする国道329号線との合流地点になっていた。 許田からの道もかなりの登り坂なのに驚く。昔の旅人にとっては大変な難所だったろう。左手の丘にある「観光闘牛場」の看板が珍しい。ここからが緩やかな下り坂。どれだけ走った頃か、突然道路の左側に鉄条網に囲まれた基地が見え出した。広い広い基地が遥か彼方の海岸部まで続いている。「キャンプシュワブ第2ゲート」は堅く閉ざされていた。きっと移転反対運動への備えだと思う。 10時50分、同キャンプ第1ゲート前到着。ホテルからスタートしてから既に2時間半近く経過しているのに、ここはまだ12km地点。疲れもあるだろうが、坂道が思いの外厳しかった。この調子だと、今日のゴールまでにはかなりの時間が掛かりそうな予感。道端に腰を下ろし、エネルギー補給のために「蒸しパン」を食べた。 ヨロヨロと立ち上がり、再び走り出す。気温は24度ほどまで上がって来た感じ。だがランパン、ランシャツの着用と、微風のためにさほど暑さは感じない。暫く下ると道路の両側に大きな建物。そして建物同士を連絡する巨大な通路も。これは一体何物?と近づいて見ると、「国立名護高専」の看板。なるほど、これが北部振興策の一環として建てられた高専だったか。巨大な基地の直ぐ傍に教育施設があるのが、いかにも沖縄らしい。 11時。久志のコンビニでお握りを買い、店の外で座って食べた。そこへ1人のバイク青年が近づいて来た。昨日の朝に辺戸岬から走って来たことを話すと、何時間要したかと尋ねる。昨日は14時間20分以上掛かったと話すと、さほど驚く様子でもない。多分宮古島で行われる「アイアンマン」にでも出ているトライアスリートなのだろう。昨日あの風雨の中でペダルを漕いでいたのは1人だけだったが、この日は彼も含めて5人の自転車族を見掛けた。<続く>
2009.12.05
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< リゾートホテルの一夜 その2 > 眠っていても、きっと緊張が良く解けなかったのだろう。夜半2時半には目が覚め、それ以降全く眠れなくなった。それでも布団の中で2時間過ごす。少しでも体を休めるためだ。4時半に起床し、走る準備に取り掛かる。 先ず昨夜の洗濯物を確認。だが、ビショビショで全く乾いていない。前日はハーフタイツを裏返して穿いた。じっと見ればみっともない格好だが、気にしなければ良いだけの話。それが結果的に大成功で股ずれが起きなかったため、第2日目も再び穿こうと考えていたのだが、断念してランニングパンツにした。 次に玄関に脱いだシューズの裏を確認。左足の方が半分近く磨り減っている。普通ならとても履けるような状態ではないが、この1足しかないため今日もこれを履かざるを得ない。通常底の黒くて堅い部分が磨り減ると危険とメーカーは言うが、こんな状態でも走ろうと思ったら走れることが分かった。きっと、左の内側に入っている分厚い医療用インソールが、靴底の磨り減った分をカバーしているのだろうけど。 次に、那覇のホテルに宅急便で送るものとリュックに入れて走るものを仕分け。天気予報によれば、午後から那覇では大雨とのこと。傘やビニール袋を使う可能性があるため、邪魔になってもリュックに入れざるを得ない。手持ちの食べ物は少なくなったが、今日はコンビニで買い物が出来ると思うので、さほど心配していない。部屋にあった「無料」のミネラルウォーター2本もリュックの底にしまう。手に提げると、昨日とほとんど変わらない重さになった。これもまた仕方がないこと。 7時前に歩いてフロント棟へ向かう。地下のレストランで和食の朝食を摂るためだ。だが、胃の中がムカムカで、吐き気が治まらない。きっと過度の疲労と寝不足のせいだ。レストランの入り口で係りの女性が挨拶。多分本土の人だと思って、「何処から来たの」と聞くと「分かりますか?東京からです」との返事。「俺も沖縄で3年勤めたからね」。直感で沖縄の人か内地の人かは分かるのだ。 お膳を運んでくれた女性にも同じ質問。この人は福島県郡山市の出身とのこと。言葉のイントネーションに親しみを感じてさらに聞くと、ご主人と沖縄に来てから3年目とのこと。芝生の先には青い海。そして通称クジラ島の奥に見える辺野古岬には、白い堂々とした建物群。「あれがキャンプシュワブかな?あそこに普天間基地の飛行機が移転して来たら大変だね」と言うと、「そうなんですよ」と郡山の女性。 食事は内地の朝食とほとんど変わらない。きっと内地からの観光客が多いため、沖縄でも内地と同じものを食べられることをアピールしているのだろう。何とか吐き気を抑えながら食事を済ませる。部屋に戻り、荷物を持って再びフロント棟へ。この途中でコンビニに寄り、強壮剤を購入。ランニング中に強い疲労を感じたら飲むためだ。フロントにキーを返却し、昨夜飲んだ缶ビールの清算。 次に宅急便の依頼。今日中に那覇のホテルに荷物が着くか尋ねると、「無理」の返事。荷物は11時に集めに来るが、名護の営業所で仕分けをするため、一日で那覇へは届けられない由。これには気が動転した。荷物が着かないと今日のランニング続行は不可能で、このままバスに乗って帰るしかない。これで念願だった東海岸縦断計画も終わりか。諦めかけた時に、ペリカン便の青年が言った。「少し待ってください。特別の方法があります」。彼は携帯電話を持って建物の外へ出た。 暫くして戻った青年曰く。「大丈夫でした。でも料金が高いと思います」。幾らくらいか尋ねると再び青年は外へ行った。どうも他の業者に依頼しているようだ。「特別料金で5千円です」。それは通常の3倍以上の料金だ。思わず「ええっ!」と声を上げた。それを見て気の毒になったのか、「自分で連絡されますか?」とクロネコの電話を教えてくれた。「俺は携帯電話を持ってないから良いよ。それにこれも何かの縁だし」。 そうは言ったものの、財布の中はすっかり心細くなった。今日のランニングでも何が起こるか分からない。気を引き締めて行こう。8時35分、ランパン、ランシャツ姿になった私はペリカンの青年に手を振って走り出した。椰子の並木を見ながらホテルの入り口まで走っている後ろから、プライベートビーチで遊ぶゴム製の長いボートを積んだ牽引車が、手を振りながら抜いて行った。さようなら、たった一晩だけのリゾートホテル。 国道へ出て、走りながら頭の中で計算してみる。支払った7万600円の中身だが、先ず宿泊料が6万8千円と計算。4人用の部屋だったから1人1万7千円なら妥当か。それに朝食が2千円で、ミネラルウォーターが昨夜フロントでもらった分を含めて3本。1本200円だとして、3本で600円。これでピッタリ。仕方が無かったとは言え、やはり自分にはこんな高いホテルは似合わなかったようだ。<続く>
2009.12.04
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< リゾートホテルの一夜 その1 > ホテルの入り口から約1km。検問所からだと約700m走って、22時40分にフロント棟へ到着。長い旅はようやく終わった。よれよれのランナーが近づいて来たため、フロントのスタッフが全員びっくりしている。今朝北端の辺戸岬から走って来たことを告げると、「えっ?」と言う不思議な沈黙が周囲に広がった。慌てて女性スタッフがタオルとミネラルウォーターを差し出す。タオルで顔を拭い、冷たい水を2口3口。チェックインの書類に翌朝8時出発予定と記入すると、さらに驚きが広がった。滞在時間がわずか9時間余りの客なんて、滅多にいないはず。 傷の手当てをしたいので鋏を借りたいと言うと、規則で貸し出せないとのこと。仕方なく配達されていたスポーツバッグを開け、湿布薬とテープを取り出して鋏で切った。客の怪我の具合を心配するよりも、鋏のことを心配してるようではホテルマンとしては失格。ボーイさんが荷物を積んだカートを押し、送迎用の車に乗せてくれた。私が今夜泊まる棟はさらに600mほど先のようだ。 途中、まだ開いている食事棟やコンビニのある建物を、ボーイさんから教えてもらう。このリゾートホテルが建築されて今年で12年目。本土資本ではなく、沖縄の企業がオーナーとのこと。宿泊客の大半は本土からで、結構賑わっている由。へえ~と驚く。こんな辺鄙な場所にあるホテルへ、本土の客がわんさか押しかける時代になったのだ。 ノースウイング2232号室。それが私の部屋。そこまでボーイさんが荷物を運んでくれた。中へ入ると20畳ほどの広さ。簡単な利用方法を私に教え、ボーイさんはフロント棟に戻って行った。天井の扇風機を止め、先ずは浴槽にお湯を張る。その間に荷物を全て床に広げ、濡れた傘やビニール袋を広げて乾かした。 カーテンを引き、改めて室内を見渡すと、ダブルベッドが2台。つまり4人用の部屋だが泊まるのは私だけだから、1人で4人分の料金を支払ったわけだ。それにしても7万600円支払うほどの豪華さではない。壁に沖縄伊是名島出身の名嘉睦稔(なか・ぼくねん)の版画が1枚。棟方志功の版画と滝平こうじの切り絵を混ぜたような素朴な香りのする作品だった。 風呂へ入って頭や体をタオルでゴシゴシ。疲れて面倒なのでシャンプーや石鹸は使わなかった。寝間着に着替え、今日身に着けたハーフパンツ、半袖Tシャツ、タオルハンカチ、帽子を浴槽で洗い、その場に干す。それから椅子に座って怪我の手入れ。膝、両足に湿布薬を張り、テープで止めた。左膝は赤く腫れ上がり、触ると痛い。疲れた両足の湿布が心地良い。 それから再び着替えて、外へ食べに行く元気はない。仕方なく冷蔵庫から缶ビールを取り出し、明日の分の魚肉ソーセージをつまみに飲む。小さい缶はたちまち開いた。続いて2本目。今日は初めての道を76kmも良く走れたもんだ。22時40分から8時18分を引くと、14時間22分。それが今日1日走った時間。76kmのうちで平坦だったのは、海岸部の6kmほどか。 あれだけの厳しいコースを1歩も歩かなかったのは、我ながら立派だったと思う。だが、疲れ果てて、もう地図に書き忘れたメモを書き込む元気がない。明日の第2日目もなかなか厳しい戦いになるはず。緊張と疲労の限界に達した私は、ようやくベッドの中に潜り込んだ。深夜の0時30分だった。<続く>
2009.12.03
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< 初日最大のピンチを脱して > 天気予報で午後から止むと言っていた雨が止んだのは夕方頃。それでも時々はぱらついた。あれほど強かった風も、夕方には静まった。寒さを感じなくなり、ビニール袋は不要になった。ただ、道路上の物体を見る都度、今度こそハブかもと肝を冷やした。淋しさを感じないで済んだのは、夜になっても通行する車が結構あったからだ。 6kmほど走り、闇夜にピカピカ光る慶佐次(げさし)の通信塔に19時45分に到着。ここが61.4km地点。以前は「米国海兵隊慶佐次ローランド通信基地」だったはずなのに、現在では海上保安庁に所属が変わったようだ。慶佐次川に架かる橋の上に釣り人。「何が釣れるんですか」と聞くと、答は「初めてなので何が釣れるか分からない」。チヌ(黒鯛)くらいは釣れそうな雰囲気だが。 20時15分。63.7km地点の有銘(あるめ)集落到着。ここはオオシッタイを通って西海岸の源河(げんか)まで行く県道14号線の分岐点。給油所の明るい照明が目に入り、喜び勇んで近づいた途端、思いっきり転んだ。手に持った懐中電灯とペットボトルが吹っ飛び、ヘッドライトの灯が消えた。一瞬、何事が起きたのか分からなかった。 慌てて懐中電灯を照らし、周囲を確認してみる。暗くて良く分からなかったが、転んだ場所には低い位置にチェーンが張ってあった。ヘッドライトのボタンを押すと、再び明かりが灯った。良かった。壊れてはいない。ペットボトルも変形したが、中の飲料は大丈夫。左膝が痛むため懐中電灯で照らすと、赤く腫れ上がり血が流れている。これは一大事。大丈夫だろうか。 何とか気力を奮って明るい方向へ向かうと、「これ以上近寄らないでください。これ以上近寄らないでください」。と女性の声で警告音の連続。ビックリして元の位置まで後退。きっとセンサーが働いて不審者を撃退する装置が作動したのだろう。うひゃ~。危うく私は犯罪者になるところだった。気を取り直して、県道との分岐点にある照明の許に移動。 膝に痛みはあるが、骨折はしていない模様。赤く腫れ上がったのは強い打撲のせいだと思う。軽く走ると、何とか走れそう。大事に至らないで本当に良かった。21時10分、68.2km地点の天仁屋(てにや)到着。ここで最後のお握りとミカンを食べた。21時53分、71.6km地点の嘉陽(かよう)集落前を通過。ホテルまで残り5kmを切った。 間もなく夜の10時。気は焦るが左右とも足が痛み、スピードが全く上がらない。車もほとんど通らなくなり、周囲は真っ暗。この淋しい道やハブの恐怖との戦いが辛くなる。22時10分、73.5km地点の安部(あぶ)集落前を通過。いよいよ残り3kmを切った。だが、ここからがやけに長く感じた。 行けども行けども淋しい原野。本当に残りの距離が間違っていないのだろうか。極度の疲労に加えて、不安と恐怖が入り混じる。ちょうど「佐渡島一周」の最後のシーンに良く似ている。やがて明るいツリーが見え出した。きっとあそこがホテルのはず。だが、近づいてみると外灯に照らされた普通の樹木。やがて丘の向こうに、一瞬輝く椰子の木が見えた。今度こそ間違いないはず。最後の力を振り絞って走る。 やっぱりそうだった。ゴルフ場のある巨大なリゾートホテルが、今ようやくその威容を現す。ここが76km地点で、カヌチャベイリゾートホテルへの入り口。煌々と光る椰子の並木が奥の方まで延々と続いている。警備員の人に呼び止められる。これからホテルへ泊まると言うと、一瞬怪訝そうな表情になった。それも無理からぬ話。フロント棟まではここからまだ700mもある由。涙が出そうになるほど遠かった道だが、今日のランニングが間もなく終わる。<続く>
2009.12.02
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< 夜道の黒い物体は何者? > 右足の甲が痛む。まるで疲労骨折のような痛み。きっと長い下り坂で、足への負担が大きかったのだろう。こんな状態でホテルまでたどり着けるのだろうか。不安が広がるが、兎も角前進しないと今夜眠る場所が無い。村境から7km下った辺りで集落が見えた。どうやら高江(たかえ)のようだ。16時05分到着。ここが43.4km地点。 共同売店横のベンチで休憩。だが風が強くて直ぐに体が冷え出した。慌てて頭からビニール袋を被る。ようやく一息ついた。工事関係の人が見るともなしに私を見ている。たった1人でこんなところを走るとは変なヤマトだ。言葉は発しなくても、彼らの目がそう言っている。構わずにエネルギー補給。食べたのはお握り1個、魚肉ソーセージ半分、一口羊羹。 そして小袋に入ったインスタントの味噌汁の素を舐め、水を飲む。これは初めての試みだった。しょっぱいけれど、塩を舐めるよりはずっとマシ。味が良く、塩分補給と栄養にもなるから一石二鳥だ。店に食品を配達に来たトラックの運転手さんに「ゴルフの宮里藍ちゃんは東村の出身だけど、家はどこですか?」と尋ねる。村役場のある平良集落との答。その藍ちゃんが卒業した東北高校がある仙台から来たと言うと、驚いていた小父さん。16時22分ここを出発。 緩い下り坂が続く。高江集落の中心部はもう少し海寄りにあるのだろうか。4kmほど下ると、福地ダムの先端に出た。ダムの最上流部に、海岸への排水溝がある珍しい構造。ダム本体は10km以上下流にあるのだが、先端部が海岸に近いと言う不思議な地形。水が堪り過ぎた場合は、サイフォンの原理を利用して海に放流するようだ。 さらに3kmほど下ると、宮城地区の魚泊集落。道路際にコンクリート製の見慣れない穴がある。小父さんがその中に餌を撒いた。近づいて覗くと、イノシシの成獣が1匹。この付近にはイノシシが多いため狩猟しているが、これはウリボウ(イノシシの赤ちゃん)の時から育てているそうだ。ブイブイ鳴きながら私の匂いを嗅ぎに来た。 「あれが鷹の声だよ」と小父さん。「サシバですか?」と私。サシバはタカの一種で渡り鳥。確か昔、宮古島では捕らえて食料にしたようだがと言うと、この辺では食べなかったそうだ。もちろん今では捕獲が禁止されている。夕方が迫って暗くなったため、「鳥目」のサシバはもうこれ以上飛べず、今夜はここで泊まるしかないみたいだ。 私が宮城から来たと言うと、最近この周辺にも内地の人が家を建てたとのこと。「ここは住み易いからね」。人の良さそうな小父さんはニコニコ笑ってそう話した。これからカヌチャベイホテルまで走ると言うと、驚いて途中の集落名を数え始めた。主な集落がまだ8つほどある。ホテルまでの距離は25kmほどか。小父さんに別れを告げ、再び走り出す。「イノシシの肉あります」。暫く行くとそんな看板を見つけた。あのイノシシもいずれは肉として売られる運命なのだろうか。 17時50分。53.6km地点の宮城集落到達。自販機でスポーツドリンクを買い、リュックからヘッドランプ、懐中電灯を取り出して点灯。赤色灯も点ける。いよいよ最初の夜道ランの開始だ。果たしてどんな危険が待ち受けているのか。急に緊張感が増して来る。 18時40分。平良(たいら)集落の少し手前で休憩し、お握り、ソーセージの残り、ピーナッツ煎餅を食べ、「袋入り味噌」を舐める。18時50分にスタート。間もなく平良集落に到達し、念のためお店でクリームパンを買った。だが気が焦って、藍ちゃんの実家がどこか聞くのを忘れた。ここが56.8km地点。ホテルまで残り20kmを切った。そしてここから国道331号線に変わり、道路脇にあった奥集落からの距離表示が消えた。 次の目標は闇夜にピカピカ光っている慶佐次(げさし)の通信塔。あそこが61.4km地点だ。夜道を走り出して仰天。道路に何か黒いものが渦巻いている。あれはハブか?と一瞬血が凍る。恐る恐る近づくと、道路のヒビを補修したアスファルトだった。夜道はハブが怖い。そんな恐怖心が、きっと黒い物体をハブと見誤ったのだろう。<続く>
2009.12.01
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