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こころにさざ波が立っている どうやら微弱な不整脈が起きているようだ でも短い詩ならなんとか書けると思う それにあの国の苦しみに比べたら 私の苦しみなど無いにひとしい 正気を失った男が仕掛けた戦争が始まって もう二か月が過ぎた 世界の誰しもがあっさり敗れると思った あの小さくて貧しい国が 長く悲惨な戦いに耐え いまだに戦い続ける闘志を失っていない その勇気はどこから来るんだろうね ウクライナ ひたすら祖国を思うその強さはどこから来るんだろうね ウクライナ 愛の深さと人々の連帯心はどこから来るんだろうね ウクライナ 建国の歴史の中で味わって来た数々の苦難 それでも決して諦めなかった汝の名は ウクライナ そのウクライナが建国以来の最大の危機にさらされている そのウクライナをこの男が背負っている たった一人で 男は元喜劇俳優にして脚本家にして演出家 しかも政治には全くのド素人 その男が極めて狡猾で狂暴な大国を相手に 二か月間戦い続けて来た 何と無鉄砲な男なのだろう 何と不器用な男なのだろう だがこの男の闘志は本物 この男の正義感は本物 この男の愛国心は本物 この男の創造力は一流 この男の発信力は一流 この男の統率力は一流 この男は何度も暗殺されかかった だが不思議なことに戦争を仕掛けた国にも彼を助けた人がいたのだ 不正を憎み独裁と権力と謀略を憎む人がいたのだ そして一人の男のせいで 世界の人々が隣国の独裁者の真の姿を知ってしまった この戦争が独裁者の妄想から始まったことを知ってしまった だが自分が裸の王様であることに気づかないのは独裁者だけ 英雄の名はウォディミル・ゼレンスキー いみじくも隣国の独裁者のファーストネーム ウラジミールとは恐らく一緒なのだろう それはロシア語とウクライナ語が親戚であることの証 だが狂った独裁者にとっては隣国の何もかもが気に入らない 言語も宗教も国民性も自国から遠ざかり ヨーロッパに近づくことも 欧米から様々な援助を受けることや さらに自国内にも自分の方針に反対する人がいることも 苛立つ独裁者は反対者を暗殺するだけでなく 部下や自国の兵士の命すら虫けらのように殺す きっと殺すのが大好きな人間なのだろう 野の花よお前は美しい 青い空を背にしたお前は まるでウクライナ国旗みたいだ だから野の花よ お前もウクライナの平和と安寧を 祈ってはくれまいか 心ならずも祖国を離れた 650万人を超える避難民に代わって わたしは恐れるあの美しいウクライナの山野 美しい大河と平原 破壊された学校や病院や教会や集合住宅や工場 そして傷ついたウクライナの人々の心が 復活する時がいつ訪れるのかと その前にこの長い戦争がいつ終わるのかと 一日も早く ウクライナに平和と安寧を ウクライナに栄光を 世界とウクライナに静謐な日が戻ることを願って この貧しく拙い詩を奉げます
2022.04.25
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詩 わたしたちはいま ~ウクライナの平和を祈って~ わたしは見てしまった 罪のないたくさんの人々が 次々と倒れ死んでゆくのを わたしは聞いてしまった 隣国が攻撃するミサイルの音を 泣き叫ぶお年寄りやこどもたちの声を わたしは知ってしまった 狂った独裁者の恐ろしさを 国民を守るために立ち上がった男たちの雄々しさを ミサイルは打ち砕く 集合住宅や病院や学校やたくさんの人が避難した劇場 そしてなによりも国を愛する人々のこころを 歴史を欺き真実を捻じ曲げる男よ いまお前の目は何を見 お前の耳はいったい何を聞いているのか 地下シェルターの暗闇で 光もなく水もなく食べ物もないまま 身を横たえる力尽きた人々 美しい祖国から命懸けで逃げ出した女や子供たち 国を護るために銃を持って祖国に残った男たち 元は親戚同士だったという民族が戦う愚かしさ 国家や民族や言語や文化 人類の歴史は戦いの歴史 二度の世界大戦を経た後も人はこうして血を流す 罪もなく原爆を落とされたヒロシマとナガサキ 抵抗することもかなわずに敵の艦砲射撃を浴びつづけたオキナワ いま日本は何ができるのか そしていま日本人は何をなしうるのか いまわたしは死を目前にして拙い詩を書き拙いブログを書く そして自らに問いかける お前はそれしか出来ないのか そしてそれが今生かされているお前の務めかと いつか人は問われることだろう 2022年2月24日にヨーロッパの片隅で始まった 無慈悲な戦争とその意義とを 人は問われることだろう民主主義と全体主義の概念を いつの日にか改めて 黙って花は咲いている 黙って地球は回っている そして神は愚かな人間の行為を見ている 広い 宇宙の彼方から 今日も明日もそしてその先も ああ外では冷たい霙が降り始めた いま3月 人はいったい何をなしうるのか 地球はいったい何をなしうるのか 一人の独裁者をすら罰することも出来ないままに
2022.03.21
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~わが日常の詩~ まるで戻り梅雨のやうな天気 全国のあちこちで水害が発生してゐるやうだ そんなある日の朝 雨が降ってないので 俺は久しぶりに走らうと思ったのだが駄目だった 腰が酷く傷んでゐた 去年2か月かけてやった断捨離のせいか それとも今年の草取りのせいか ともかく俺はもうランナーではなくなったみたひだ その代わりに俺は畑の野菜を収穫した ゴーヤが3本トマトとミニトマトが1個 洗面所の鏡を見て驚いた そこに青い顔した俺がゐたからだ これはきっと「苦瓜病」に違ひない 最近俺はゴーヤばかりを食ってゐた ゴーヤの佃煮 ゴーヤの炒め物 ゴーヤのサラダ そしてゴーヤの煮物 俺は自分が作った野菜を無駄にはしない 良く出来た野菜は近所の人に配り 俺は出来損ないの野菜も残さず食ふ 苦くて青いゴーヤの別名は苦瓜 ゴーヤを食ひ過ぎたそのせいで俺は顏まで青くなり きっと「苦瓜病」になったのかと 新型コロナと「苦瓜病」はどっちが怖いか ビーグル犬のモモが吠へてゐる まるで悲しくて鳴くやうに まるで淋しくて鳴くやうに おいモモよ 悲しいのはお前だけじゃないぞ 淋しいのはお前だけじゃないぞ 正確には比べられないだらうが ひょっとしたら俺の方がもっと悲しくて もっと淋しいかも知れない なあモモよ 広くて大きな家に一人住まひの俺 夜中に何度もトイレに起き テレビを点けてその音を聞きながら布団に横たはる俺 俺はきっと頻尿なんだらう 俺はきっと睡眠障害なんだらう そして高血圧に高血糖に不整脈に緑内障 ちょっと前には耳鳴りや眩暈もあった 自転車で転んで硬膜下血腫になって手術もしたし 不整脈の手術は3回やった そんな俺でもまだ生きてゐる いやひょっとして何者かに生かされてゐるのやも知らん 不思議な話だが俺はいささか怖いのだよ ある日バッタリ仆れても辺りには誰もゐない 誰も子供たちに知らせるひとがゐないんだよなあ 人が死ぬのは最初から決まったことで仕方ないが 自分で自分の葬式は出来ないのだよ 自分なりに葬式の内容は決めてゐるが それを子供たちに伝へることが出来ないのだよ さてどうすべきか 年取った俺はそんなことを想ふ日々だ 最近の俺は特に 雨の中で赤いハイビスカスの花が咲いてゐるのが 和室の窓から見へた お~い俺の3人の子供たちよ お前たちは元気で暮らしてゐるのだらうか 特に東京の2人の息子たちは 新型コロナに感染してはゐまひか 何か困ってゐることはなからうか と、東北に暮らす老ひた親の俺は考へる でもどうすることも出来ないでゐる 悲しい淋しい父親の俺だよ ひょっとしてと考へた俺は柚子の枝先を見上げた そしてたらばほらね 今年もちゃんと実が生ってゐたよ まだ青くて固い柚子の実が 柚子の白い花はいかにも清楚だ そして良い匂ひがして俺は大好きだ 桃栗三年柿八年柚子の大馬鹿十八年 そんな柚子の実を観ることもなく かつて俺の妻だった女は俺の許を去った 彼女がしっかり溜め込んだわが家の金をほとんど持って お~い かつて俺の妻だった女よ お前は元気で暮らしてゐるのだらうか 五十代半ばから少しずつ現れた認知症は その後もっと進んだのだらうか 台所のテーブルに立つ3本の「中濃ソース」 そのうちの2本は最近俺が買った ソースが切れかかったため1本買ったが それを忘れてまた1本買った それで念のために残っていた古いソースの 消費期限を確かめた そしたら驚くことに2014年の10月だった それを俺の妻だった女が買ったのは それよりもっと前だったことになる その古いソースを俺は4年かけて使った だが保存料も入ってないのに何ともなかった そして俺が買ったのと少し様子が違ふ 右側のソースの消費期限も確かめて見た 念のために そしたらそれは2016年の5月 やはり彼女が買ったもの それを俺が気づかなっただけの話 滅多に使ふことのない中濃ソース 使ふのは「鰺フライ」を買った時だけ レンジで「チン」した鰺フライに 中濃ソースをかけて食ふと旨いんだよなあ だからこれからもせっせと鰺フライを買はうと思ふ 自分では作れない油を使ふ揚げ物だから 広い広い二階建ての一軒家に残る装飾品は かつての思ひ出の品 アイヌ風の彫刻は大阪勤務の時に 銀婚式の記念で二人で行った北海道で買った 重い重い彫刻だ 一対のシーサーは沖縄勤務の最終年に 俺が思ひ出の品として買った 沖縄勤務の三年目は俺と長男だけが沖縄に残った 長男がちょうど高校三年生だったからだ 残りの家族は四国に行った 大学生になった長女が棲む街へ 沖縄の猛暑に辟易した妻が 高校受験を控へる次男も連れて 沖縄に残った俺は必死に仕事をし 一日二回の食事を作り 何とか長男を飢へさせないやうに頑張った そのストレスで俺は糖尿病予備軍になった 食ふことが二人の生命を繋ぐことだったから 甘い豆の缶詰を一度に半分ほど食った 長男と一緒の「単身」生活は苦しかった だが俺は走ることと詩を書くこととで救はれた そして花台は屋久杉の根っこ 鹿児島で会議があった際に指宿で買った 天然記念物の屋久杉は伐採禁止だが 地下の「根っこ」は入札で買へるとのこと どれもみな思ひ出の記念品 そしてかつて一つの「家庭」があった証拠 どれもみな重たい物を買ったのは俺だ 今もまだ重たい「家庭の残骸」 かつて妻だった女がこの家を出てはや四年と四ケ月 俺は一度の外食もせず日に三度 自分の食事を自分で作ってゐる その間に俺は歳を取り そして走れなくもなった かつては100kmや200kmのレースも 完走出来た男が今や走りたくても走れない 悲しいし 悔しいし 淋しい日々 それでも自分で何とか暮らせてゐる日々 そしてブログを日課と出来る日々 記憶力はすっかり衰へたが 一日三食しっかり食べ 新聞を読みネットとテレビとでニュースを確認し 自分なりに考へる日々でもある それだけでも有難いことじゃないか それだけでも嬉しいことじゃないか なあ自分よ なあ俺よ 広い家の居間で一人飲む珈琲 インスタントの超安物だけど俺にはこれで十分 ミルクも安物の低脂肪乳だけど俺はこれで満足 外ではまだ雨が降ってゐる それを観ながら俺は詩を書いてゐる わが街仙台はもう薄暗くそして寒い 今日からお盆だがこの先ずっと雨ばかりの予報 コロナ禍もあって厳しい日々だ だが俺にとっては独り暮らしになったあの日からずっと 実に厳しい耐乏の日々だった だが俺よ 年老ひた自分よ 嘆くのはよさう この先に明るい希望の灯はないが それでも真っ直ぐ進まうではないか なあ俺よ 歳老ひた自分よ せめて気持ちだけでも若々しく これからも生きて行かうじゃないか これまで同様に愚直で一筋に それが一番俺には似合ってゐると思ふ なあ青い顔した苦瓜病の俺よ 鏡の中のそこのお前よ
2021.08.14
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詩 季節は足早に 裏のお宅の庭に白い花が咲いてるのを 何日か前に気づいた 百合の花にしては少し様子が変 デジカメの望遠で撮ったら夾竹桃だった キョウチクトウの花を見たのは久しぶり お向かいのKさんがわが家の畑を作垣根越しに覗き込んで 防虫剤をやろうかと言った その言葉に甘えて果粒状の防虫剤を撒いてもらった キャベツ 大根 ブロッコリー 聖護院大根 キャベツには早くも穴 良く見たら大きな青虫がいた 和室の窓から庭を眺めていたら青い花 まさしくシコンノボタンの花だ 紫紺野牡丹が咲いたのはこの夏三度目のこと きっとそれだけ気候の変動が大きかったのだろう 長雨 猛暑 乾燥 秋の長雨と猛暑の復活 私の体も辛かった 昨年の夏も辛かったが今年も同じくらい辛かった 去年は眩暈と耳鳴り 耳鼻科に行ったら脳の血流が悪くなってるとドクター 処方された薬を半年ほど飲んだらすっかり良くなった 今年はきっと運動不足だろう コロナ自粛の鬱鬱した日々 新聞を読みパソコンに向かってブログを書き 週に一度自転車に乗って買い物に行くのが 唯一の運動の機会だった 他人と話す唯一の機会だった それで家の中をグルグル歩き回ることにした 階段を上り下りしたりもした だが話す機会はなく 歩き回りながら歌を歌うことにした そんな今年の夏だった ある日植木鉢のハイビスカスが咲いてるのに気づいた 去年は一度も咲かなかったこの花が 今年は二度も花を咲かせてくれた がんと闘っているブログ友がいる。 その父上も母上もがん そして夫君もがん ご自身も先ごろ乳がんの摘出術を受けたばかり 夫君の認知症の母上を住まいの施設に入れて見舞い 潰瘍性大腸炎の息子さんも含めて一家で病気と闘っている そんな彼女のブログを俺は読み 励ましのエールを送る独り暮らしの俺だ 秋の四連休の初日俺は墓参りに行った 自転車と地下鉄を乗り継いで市営墓地へと 途中いつも行くスーパーで花を買った 黄色と白の菊の花を二束 花は少し開き加減で安かった 次回のために線香もそこで買った 地下鉄の駅で降りた後市営墓地まで歩いた 暑い暑い秋の陽 俺は途中の公園でトイレに寄り 長袖シャツを脱いでリュックに入れた そしてまた歩き出した 兄と私と弟がお金を出し合って建てた自然石の墓 そこに最初に入ったのは父 そして次に母と姉 最後にと言っても今年の七月 兄もそこに入った でも俺は入らないつもり 死なないのではなく俺には墓も戒名も不要 それに遠くで暮らす子供たちに面倒をかけたくないから 俺の遺骨は細かく砕いでどこかの海に流してもらいたい 沖縄 松山 東京湾 仙台湾 今のところ候補地は四つ 墓参りの帰り道 黄花コスモスを見た そこは以前畑だった場所 ここ二〇年もの間に仙台の風景もすっかり変わったよ そして妻が家を出て俺の暮らしも変わった 調子が今一と感じながらも俺は生きている そして曲がりなりにも料理を作って 三食きちんと食べてお通じもあり 風呂に入り洗濯をし たまには思い出して掃除をし ほとんど薬も飲み忘れることなく 緑内障の目薬も寝る前に差し 時々不眠に悩まされて目覚め 夜中に何度かトイレに起き それでも粗相をすることもなく この蒸し暑くて苦しかった夏を乗り切り ようやく少しだけ涼しくなった秋を迎えた 先だって郵便物を出しに行くついでに空を見上げた 最近では滅多に見上げることのない夜空 満月の両側に明るい星があった あれはきっと金星と木星のはず どちらが金星か木星かは知らないが 「惑星直列」が今年は起きているらしいと聞いた だがあれがそうかは分からない でも良いのだ 分からなくとも良いのだ なぜなら俺はこうして今生きている 生きて夜中に郵便物を投函しに出かけた それだけで十分じゃないか そしてブログに詩を書き それに相応しい写真も載せた それで十分じゃないか 俺の生きた証として 庭のバラが何本か枯れた 死んでしまったのか それともまた息を吹き返すのか その一方でシュウメイギクの勢いが凄い 秋の青空を目指して首を伸ばし 白とピンクの花を咲かせている あれは大阪住まいの宿舎から妻が持ち帰ったもの 仙台に家を建てた最初の年に移植したもの 猫の聲せし坂道や秋彼岸 市営墓地からの帰り道、裏の坂道を下っているとどこからか猫の声が聞こえた。そこで詠んだのが上の句。時は秋。まだ生きてこの世に在る者も、既に彼岸に渡った者も、一度は何かの縁で生活を共にしたのだ。生きて在ることに感謝。生かされて在ることに感謝。かくして秋は深まり、天はますます高い。<この項完>
2020.09.22
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<夏の詩> 生きる すり減って薄っぺらになった石鹸 洗面台の扉を開けて探したが一個もない ああ 使い切ったんだなあ全部 あわてて生協へ買いに行った 三個一包みのを二セット 色が違うのを なぜって 今度はまだ それくらいは生きられるような気がしたのさ 寒かった七月は冬用の布団を被っていた とても体が冷えて仕方なかったからなあ それが一転して猛暑になった八月は 生きていることだけでも大変だった 気圧の変化 血圧の変動 それに幾つかの持病 買い物に行くのも必死だったあのころ 新しい鋸を買った 梅の枝があまりにも伸び過ぎていたからね これまでのは板を挽くための鋸 ギーコギーコと音がする錆びたやつだった 命の保証もない俺が鋸を買ったのは 庭をきれいにしたいと言う願いから 俺にもまだそんな気持ちが残っていたんだなあ トマトの苗を始末し ミニトマトの苗を始末し 今日はゴーヤの苗を引っこ抜き ネットを畳んだ 今年買ったゴーヤの苗は三本 うち一本はまだ若いうちに勢いを失って枯れた 残った二本の苗になったゴーヤは約四十本 そのほとんどが俺の胃に納まった チャンプルー 佃煮 ピクルス ジュース そしてサラダになり ラーメンにも入れて食った IH調理器のグリルを掃除した あまりにも汚れて臭いがしていたからねえ アルミホイルを取り換え 受け皿の脂をふき取り 新しいホイルで受け皿を覆った ついでにシンクの掃除 ぬめりのヌラヌラが消えて嬉しい俺は 主夫 トイレットペーパーの在庫を確認 続いてティッシュペーパーの在庫も確認 おお まだ大丈夫 前妻が家を出てからまだ一度も買っていないそれら 調味料も米も 無くなる直前に買えば良いさ それも一番安い店の一番安い銘柄で十分だ テッポウユリが咲き ギボシが咲き ヤブランが咲き 今年落ちずに残った柿の実は二個 それでも去年の二倍 昨年は初めての実を結んだ若い柿の木 そんなことでも無性に嬉しい俺は 倒れかけたテッポウユリに支柱をした ああ ぼんやりと霞む俺の目よ ああ 耳鳴りが混じる俺の耳よ 時おり眩暈に苦しみ 必死に記憶を呼び起こす俺だよ 生きている価値があるのか こんな俺が 生きている意義があるのか こんな俺にも 何とでも言うが良いさ あまり良く見えない目の あまり良く聞こえない耳の俺を 笑うなら笑えば良いさ だが俺は俺なりに世の中を見 俺の詩を書き 俺のブログを綴る 命ある限り 生きて在る限り ああ 九月の庭は少しだけ涼しくなったよ
2019.09.07
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<詩 貧しく小さなもの> 再生 ~夏の夜の夢~ おれが利根川にかかる橋を走って渡ると あの人が車を停めて待っていてくれた 車の色は何色 そして その人の頚はモジリアニが描く少女よりも細く 腰はゴーギャンが描く南島の女よりもたくましいか おれは博物館へと入る 彩の国の古墳群の傍にある静かな建物 そこに太古ヤマトの大王から贈られたものがある 大王の名が金色の文字で刻まれた鉄の剣 それからおれは古墳の地下にある資料室を見 「くぼうの城」の円墳へ登る 白い日傘を差したあの人も一緒に 息を弾ませて とある日 皇居の周りを走る二人 おれはゆっくりと そしてあの人はかなりのスピードで 走り終えシャワーを浴びた二人は歩く 熱く焼けた大都会の径を あの人が好きな鎌倉 おれが好きな京都や奈良 いや もしも二人で歩けるのならどこでも良いさ たとえ日本でも日本でなくても 奄美はあの人が好きな島 そこでは歌者の歌を聴こう 哀愁を帯びこぶしがきいた島唄を 赤い実のなるソテツの森陰で おれが愛する島は沖縄 そこでは古いグスクを幾つか巡り エメラルドグリーンのサンゴ礁を見つめよう ああ 東シナ海が夕日に染まるよ それからどこへ行こうか 韓国 中国 台湾 東アジアの国々 ベトナム タイ カンボジア 東南アジアの国々 インド バングラディシュ スリランカ 南アジアの国々 だが一体どれくらいあるのだろう 残された時間は 星のない夜に目覚めたおれ だがまだ歌が響く おれの耳の奥底で 遠い海鳴りのように 「悲しまないで うなだれないで」 「振り向かないで こわがらないで」 「とどまらないで あきらめないで」 透明なセリのリフレイン ああ おののくおれよ おれのこころよ 決してあの人のそばから離れず いつか再生するその時を待とう そして その願いが叶うようひたすらに祈ろう 「わたしたちはみんな どこから来たのだろう」 「ひとは命の船に乗り どこへと行くのだろう」 <映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』主題歌REBORNのPVから 門脇麦> 詩のうち「 」内の部分をこの歌詞からお借りしました。切ない歌です。 この詩を夢の人に捧げる
2019.06.12
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~「限られた空」と小さな詩~ ねえ知ってる 空って広いんだよ 宇宙までつながっているんだよ ああ知ってるさ それに先だってはブラックホールの撮影に成功したんだ ねえ君 そのうち人類はロケットに乗って宇宙に飛び立つかもね ああ すでに国際宇宙ステーションでは宇宙飛行士たちが生活してるさ そうなんだ 人間って結構すごい技術を持ってるんだねえ ああ だがそれが宇宙戦争につながる危険性はある そういえば「はやぶさ2」が小惑星にクレーターを作ったんだって ああ少量の火薬を打ち込んでな そして未知の岩石を収集するんだ すごいねえ 空の彼方に宇宙が遥かに広がって でも ごく身近にも限られた丸い空がある 一体どこにそんな丸い空があるの ハハハいくらでもあるさ 道の曲がり角にね ああ疲れた ああボクもね それに丸いのばかりとは限らないねえ ああいびつな楕円形のもあるさ でも でもなに でも空って広いね やっぱり ああ広い そして日本の空ってとっても美しいね だから空を大事にしないとなあ
2019.05.16
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~詩・あれから~ あれから 台風が太平洋の彼方に逸れ ふたたび灼熱の太陽と 青い空が戻った 真っ暗な空を低く飛び虫を捕らえていた親ツバメ それを電線に停まってじっと見ていた三匹の子ツバメたちも 今朝はどこかへと姿を消した 騒がしかった八月の初め ヒロシマ ナガサキ 原爆 そして平和と 南の島の知事はすい臓がんで死んだ 女たちの武器は情念 そして女たちの平和は涙を流すこと 男たちの武器は論理 だがそれで解決しない場合は血を流す あれから七十三年が経った 日本のすべてが焼け野が原になったあの日 そして低く抑揚のある声が 細長い列島中にラジオから流れたあの日 焼け跡 バラック 復員 配給制度 パンパン オンリー 進駐軍 MP 闇市 鉄屑拾い 飢え 雨漏り 浮浪児 ノミ シラミ DDT 戦車の上からアメリカ兵が投げるガムやコーヒーを 奪うように拾い集めたあかだらけの少年たち 冬は霜焼けやあかぎれで膨れ上がった 栄養失調の彼らの手足 夫が出征中にレイプされて頭が狂った女もいたそうな 何年か後に夫が戦地から帰ったら 別な男と一緒になっていた女もいたそうな そして 闇物資による暮しを頑なに拒んで 死んでしまった正義の裁判官もいたそうな 原爆や空襲や結核で 物も言えずに死んで行った大勢の人々に代わって 飢えた戦後っ子やたくさんの「合いの子*」が生まれた *混血児 畑のネギをかっぱらい まな板で刻んで食べたあの日 ゴマ塩だけのご飯でふらつき 川で倒れたあの日 誕生日くらいは卵が食べたいと 駄々をこねたあの日 醤油や油を量り売りで買った貧しかったあの日 雨が降っても傘がなく 濡れたままで学校へ行ったあの日 親が夜逃げをして 給食費が払えなかったあの日 悲しく悔しくそして苦しくて たくさんの涙を流したあの日 忘れたくても 今でも忘れられない過ぎ去った遠い遠いあの日 そんな思い出も 今ではすっかり過去のものになった そう 俺の名は終戦記念日 今年で七十三歳 昭和二十年八月十五日こそ まさしく俺の誕生日 それなのに昭和のみならず もう平成すら無くなるんだってなあ そして二年後の今ごろは 二度目の東京オリンピックなんだってなあ 道理で俺も歳を取るわけだ そう話して 彼はふ~っと深いため息をついた 空が真っ青に染まった八月の ちょうど真ん中の今日十五日
2018.08.15
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~まるで抒情詩のような叙事詩についての一考察~ ああ それでね 男は言う 何が「それでね」かは分からない だが風も黙るほど静かな夜だったのは確かだ ああ それでね ピリカメノコは言う ウトロのチャシに今宵も月が上った 誰かが低い声でイヨマンテを歌う ああ それでね イナグは言う 西(イリ)のグスクに陽が沈んだ 明日は東(アガリ)のグスクからてぃだ(太陽)が昇るはず 約束通り 男が詠うのは万葉 ピリカメノコはユーカラを謡い イナグはおもろさうしの一節をつぶやく そしてやがてどれもが 空の果てへと消えた チャシは砦 グスクは城 砦も城もみな同じ柵(き)と呼ばれた この倭の国で ある時までは オホーツク海を臨むウトロのチャシ 東シナ海を臨む浦添のグスクとよーどれ(風葬墓) そして玄界灘に臨む名護屋の城は 確かに朝鮮半島を睨んでいた しっかりと目を見開き メノコは娘 イナグは女 ユーカラは神謡 そしておもろさうしは歌謡 文字を持たないアイヌ うちなーにももともと文字はなかった 倭も同様にあったのは魂だけ だがどの民族にも歌があった 確かなことに アイヌは「人間」の意味 うちなーは沖縄と訳され 倭はやがて日本になった そして民族も国も一つに合わさった 永遠の祷りを込めて ハマナスが咲き乱れる知床 芭蕉とハイビスカスが茂るヤンバル(山原) そして豊葦原の瑞穂の国には 青空に映える見事な桜 おーいおーい 誰かが呼んでいる メノコはムックリを奏でるのを止め イナグは三線の手を休め 男は黙って振り向く 遠い遠い彼方の遠い遠い祖先を 男の祖先は海を荒らし回る倭寇 メノコの祖先は吠え狂う熊を従え イナグの祖先はハブを殺して生きて来た 今は忘れられた悠久の昔話たち 月が上った 今日も 真っ赤なてぃーだが昇る 明日の朝の空に そして夜になると 素知らぬ貌をしたたくさんの星が瞬くだろう きっと ここ北国では 諦め果てたように今日もまた雪が降り続く しんしんと そしてしんしんと ああ ああ ああ おーい おーい おーい
2018.01.25
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<詩> 蚊とドライカレー 一匹の蚊がガラス戸と網戸の間でもがいている おおい蚊よ そんなに苦しいのかお前は だが俺はお前に刺されなくて良かった なにせ俺はとても痒がりなんでねえ 寝る前にコーヒーを飲んだら夜中にトイレに5回も起きた やっぱりコーヒーのせいだろうなあ それとも年取ったせい? 「出ないよりは出た方が良い」 ブロ友の誰かが以前そんなことを言っていた 東北楽天が昨夜も辛うじて勝った 球団がわが街に来てから14年目 ずいぶん長い間勝てない日が続いた それが今年はリーグ優勝を争っているもんなあ キュウリがまだ何本か獲れている ひところは獲れ過ぎて近所に配り歩いていたんだが 今ではすっかり勢いが衰え 下の方から葉が黄色くなって来た ノボタンが間もなく咲きそうだ 柚子の実が何個か枝に残り 少しずつ大きく育っている 妻が去った庭の草を この夏俺は蚊に刺されながら何度か抜いた 太平洋を道草食いながら旅してる台風5号よ お前の迷走で日本列島の天気がすっきりしないのを きっとお前は知らないのだろうね そして 俺の心が少々陰鬱になってることも ドライカレーを作った 相変わらず俺の料理は有り合わせの材料で作る それが意外に旨いんだよ そうして今日も俺は生きている 出来れば元気なまま もう少し生き続けられると良いのだが 注)今日は朝から町内会の草刈りがあり、その後は会議などのため外出します。 いただいたコメントへの返事やブロ友さんへの訪問は、遅くなる予定です。
2017.08.06
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仙台にもようやく春が訪れた。長かったこの冬、厳しい暮らしの中で私を慰めてくれた一つが冬の花だった。今日載せるのは、既にブログに登場したものばかり。それでもたった一度だけで捨てるのは勿体ないと残していたのだ。感謝の気持ちを込めて、今日は再び登場してもらおうと思っている。ただし、ちょっと変わった詩を添えてだが。 現役時代俺はずっと苦しんでいた 転勤して故郷を去った後の仕事の厳しさ それは誰にも言えないこと 自分の力の乏しさは知っていたが それでも前進するしか他に道はなかった かつて俺の妻だった者よゴメンな 三人の子供たちよゴメンな 二人の孫たちよゴメンな 夫として父親として そして祖父として 十分に心を通わすことができなくて 夫婦は元々他人だから別れることもあるだろうが そんなことは子供や孫たちには関係ないもんね 両親や爺ちゃん婆ちゃんが別れたら もう二度と一緒には会えなくなるし 笑ったり泣いたりすることも出来なくなるもんね だからゴメン 許してねみんな 悔しいなあ 悲しいなあ なぜって実は俺の両親も離婚したんだよ だから俺は子供の時から淋しかった それが二代続けての離婚だもんなあ でも俺はこれからも前を向いて歩いて行くよ だから子供たちよ 孫たちよ 決して俺のことは心配しないで良い 後はお母さん お婆ちゃんをよろしく頼むね じゃあさようなら そしていつかまたお前たちとも会えると良いね
2017.04.03
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昨年11月末のこと、私は街へ行った。ある女子大の創立130周年記念展を観るためだった。催し物の一つにこの詩画展があることを知り、是非とも観たいと思ったのだ。展示そのものはさほど感銘を受けなかった。作品の数が限られていたからだ。それに会場内は撮影禁止。それでどのようにこの詩画展を紹介すべきか今まで迷っていたのが真相だ。 これが画家であり詩人でもある星野富弘だ。優しい言葉の詩が添えられた花の絵などで有名なので、一度くらい名前は聞いたことがあるだろう。だが彼は普通の画家、普通の詩人ではない。重い障害を持った、ほぼベットに寝た切りの障害者なのだ。だから絵筆を口にくわえて絵を描き、詩を書く。なぜそんなことになったかを私が書くよりも、彼の略歴を紹介しよう。 私は彼が障碍者となった理由は知らなかった。この日この会場を訪れて初めて知ったのだ。きっと長い苦しみの末に、ようやく絵や詩と遭遇したのだろう。 星野の生まれ故郷である群馬県みどり市に、彼の美術館がある。草木湖畔の閑静な場所は、彼の作品を収容するにふさわしい施設だ。 館内風景<パンフレットから借用> 販売コーナーの写真を急いで撮ったため不鮮明だが、作品を知るために役立つと思う。 彼の人となりを知るために買ったのがこの本。作品の紹介よりも、事故の発生前から入院、絵や詩を「獲得」するまでの9年間の詳細な記録だ。初版は2000年に学研より刊行。定価1400円。以下にこの本に掲載されている作品の幾つかを紹介したい。 これだけの絵を筆を口でくわえて描くのだから、その苦労はいかばかりだろう。だが、絵だけでは彼の作品の本当の良さは分からないと思うのだ。そこでネットから借用したのが、以下の作品。<順不同> 入院中の星野は一人の女性と出会って結婚する。だが、その後二人は別々の道を辿ることになる。離婚後の作品が上右のものと直ぐ下のもの。星野は己の苦しみや哀しみまでをも昇華し、作品へと変えた。そう知ると、なぜか切ないものが胸に過る。 ベッドに臥す星野 星野はやがて敬虔なクリスチャンとなる。魂が浄められた彼の作品は、さらに光を放つ。 先に、「この展示を観てあまり感銘を受けなかった」と書いたがそれは最初の印象。実際に作品を観て、それがどんな「過程」で生まれたのかを知れば知るほど、単なる軽い絵と詩ではなくなる。そして著書を読むことによって、彼の人間として、障害者として、芸術家として、家族の一員として、宗教者としての心の成長に触れることが出来た。 「愛、深い淵より」は、3分の1ほどを読んで放置していた。だが今回ブログに掲載したことで、残りも読めそうな気分になった。それだけでも、自分にとって大きな意義があったのではないか。
2017.03.02
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冬の樹一本 冬の樹一本淋しいな 木の葉落として淋しいな 北風強く吹く日など 枝が寒いと泣いている 冬の樹一本淋しいな 一人ぽっちは淋しいな それでも時々空見上げ 春が来るのを待っている 冬の樹一本淋しいな 友達いないの淋しいな 子供が来ないの淋しいな 緑の葉っぱが恋しいな 冬の樹一本淋しいな それでも黙って耐えて来た 父さん母さん兄さんも 北の大地で耐えて来た お~いお~いと呼んでみる 春はまだかと呼んでみる その声聞いてお日様が 雲の中から顔出した
2017.02.18
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子供達よ元気かい 父はまあまあ元気でいる 仙台はこの冬何回か雪が降った。 まあ東北生まれの私にはちっとも珍しくはないけどね 仙台はあまり雪は降らない方だけど それでもずっと南の転勤先で生まれたお前たちにとって 仙台の冬はやはり厳しく感じるかも知れないね 思えばお前たちと色んな街に住んだね 仙台から転勤して、千葉、三鷹、東京 そしてお前たちは筑波、鳴門、沖縄 ここまではずっと一緒に暮らしたよね 松山ではお姉ちゃんは一人暮らしを始めた そこから私とお母さんは転勤で大阪へ行き お兄ちゃんは筑波で働き始め 高校生の弟だけが一人松山に残ったんだよね 家族がバラバラになって暮らした時 お母さんはいつも大変だと言っていたよ 実はお父さん自身もずいぶん大変だったのさ 仕事上の苦しみで死のうと思ったこともあったんだ どの職場でもお父さんは頑張った積りだけど あるところでは上司にどやされ あるところでは部下に裏切られた 仙台にこの家を建てて20年 その間にお前たちが一緒に住んだのは お姉ちゃんですらわずか1年 息子2人はせいぜい2か月くらいだったよね 失業中だった暗いあの時期の 息子たちよ 東京暮らしは辛いだろうね 不安定な雇用形態のお前たちは いつ首にならないとも限らない でも歯を食いしばってじっと耐えてくれ そして決して逃げようなどとは思うんじゃない お姉ちゃんはご主人の単身赴任で責任重大だね 孫のMちゃんは今年高校2年 そしてRちゃんは中学2年 きっとそれぞれ受験に向けて頑張っていることだろう きっと誰もが不安と戦っているんだろうな 実はこの父 爺ちゃんもそうだ 最近は歳を取って病気がち 眼も耳も足も心臓も少し弱って来たんだよね どうか風邪など引かないように そして出来るだけ健康に過ごしてほしい 父はそして爺ちゃんは電話もしないけど 心からそう願っているんだよ まだまだ厳しい冬だけど春はまた直ぐに来る 今は厳しい人生でもそのうち明るい日も来るさ だからどこにいても頑張って暮らしてね 父は そして爺ちゃんは 自ら買い物をし 自ら料理を作り 部屋を掃除し 洗濯物を干す でもたまにはゆっくり走ったりもしてるんだ そのうちまたみんなで会えると良いね それまでみんな元気で暮らしてね 今日の仙台の空は少し春めいて明るいよ そっちの空はどうだろうね 仙台の父 そして爺ちゃんより みんなへ
2017.02.15
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冬の夜は暗い 特に雪の日はなおさらのこと でもね 朝の来ない日はないんだよ 冬眠をする狐が二匹 いえいえこれはお稲荷さん 世の中には実に色んな人がいてね こんな風に泣いてる者もいれば ワハハと口を開けて笑うヤツもいる つまり様々だってこと こんな立派なマンションに住んでる人って 果たしてみんな幸せなんだろうか まあそう願っている訳じゃないんだけど 中にはきっとそうじゃない人もいると思うよ 沈黙する整列 きれいに刈られた植木が冬空に突っ立つ 具象は抽象へと化し やがて静寂は固定してゆく 誰にも気づかれないようにそっとそっと ベンチをひっくり返したのは誰です? 無機質な形態の反転 冬は多くの生命を奪い 川は哀しみを押し流す 静かに静かに海へ海へと 俺の夢は壊れた それもあまりにも無残にだ ああ それでは夢は死んだのか? 本当に消えて無くなったのか? 風が鋭い口笛を吹く あれはひょっとして鎮魂歌なのだろうか 樹は天に救いを求める 上へ上へと そして魂が浄められるようにと 暮しの中で撮影した何気ない写真を面白がり、こんなシュールな詩と組み合わせて見ました。まあ暇人の遊びですけど。最後まで付き合ってくれてありがとうね~!!
2017.02.14
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季節は冬へと へえ~っと思う あれだけ暖かかった秋だったのに 昨日の仙台の最高気温は4度 今朝の最低は0度 足が冷たくて目が覚めた そして一昨日の夕方には初雪が降ったそうだ まったく俺は気づかなかったけど そうだよね 季節って目には見えないけど いつも少しずつ動いてるんだよね あの暑かった夏 そしてずっと暖かかった今年の秋も もう過去のことなんだよね 真っ赤に色づいていたツタやカエデ 黄金色に輝いていたイチョウやカツラの葉が 今はもうほとんど残っていない きっと北風がさらって行ったんだよね そして間もなく冬が来るんだよね 思えば俺もずいぶん歳を取ったもんだ 先日なんか異常に腹が苦しくなって 一体これは何の病気かと考えた きっとこれからも何度かそんなことを繰り返し 少しずつ弱って行くんだろうね俺も でも俺は案外厳しい冬が好き 北国に生まれたせいもあるけど 寒さや貧乏には結構強いんだよね俺って おや また北風の音が聞こえる あれは冬がよこした手紙だねきっと 今朝はメールで訃報が届いた 嗚呼
2016.11.25
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* 「自己憐憫」。そんな言葉を教えてくれた人よ。俺は心理学者じゃないんだよなあ。 * 悲しみに満たされた時から、新しい一歩が始まる。 * 「馬鹿だなあお前は」。「それだけは言われたくないよ」。これは俺の心の中の一問一答。 * すべてが失われた。でもすべてが盗まれたわけではない。 * 花が咲いた。俺の悲しみを映すように。 * 風が吹く。雨も降る。そうして時々は嵐にもなる。それが人生。 * しみじみと生命を振り返る。この貧しい生命を。* 忘れたいこともある。忘れたくないこともある。そうしてみんな黙って死んでゆく。* 生きている限り俺は進む。哀しみと詩を友として。 * 星がひとつ。月もひとつ。そうして太陽もひとつ。* 犬が吠えた。俺の心も泣いているんだろうか。* こんな下手な字が俺の字。上手く書く必要はない。* 「馬鹿野郎~っ!!」。空に向かって大声で叫ぶ。だが、返事はない。 * お~い、空よ。お前はどうしてそんなに遠いのだろう。* もっとも哀しい存在が、もっとも近くにいるという事実。* 雲が流れて行った。俺は一体いつまで彷徨っているのだろう。 * 汗を流そう。涙も流そう。でも時々は笑ってみたい。* 雨が降ると野菜が喜ぶ。そしてお日様が出ると、もっと喜ぶ。* 一生懸命愛した。そういう日もあったな。 * だよね。そうだよね。でも決して納得していない俺。* 俺は今日も生きている。生きている限りは修行の日だ。* 笑いたくない日こそ、心の底から思いっきり笑おう。* 馬鹿だなあ俺って。野菜の方がよっぽど成長してる。 * 「そうだね」。うなづきつつ、首を振っていたあの日。* 「あのね」。「ん、な~に?」。そんな会話がしたかった俺。* こんな歳になると、思い出すのは若くして死んだ後輩たちの貌。 * 今日も写真を撮った。俺の生命を映すように。 * 道よ。この泥んこ道は一体どこまで続くんだろう。 * 急に昔の歌が歌いたくなった。まあ、そんな日もあるさ。 * 何の意味もない言葉。世の中は結構そんな言葉で溢れている。* 大声で泣いていたのは風? それとも俺?* 冗談じゃないよまったく。俺だって俺なりに真剣に生きているさ。 * 「止まない雨は降らない」。誰かがそんなことを言ったそうだ。俺もそう思う。* シンプルに生きたい。ただそれだけのこと。* 風を待て。潮を待て。ひょっとして明日こそチャンスがあるかも知れないぞ!! * 3人の子供と1人の妻。出会いからもう50年が経った。 * 「お父さんの詩はインチキだ」と言われた、忘れられないあの日。 * 光があった。闇もあった。そうして本当の愛も確実にあったのだが。 * 走ったなあ。走り続けて38年。もう地球を2周半も走った。* 俺は走る。まだ俺の命がある限り。* 走ろうか。そろそろ走ろうか。心を癒すそのためにも。 * 俺は詩を書く。たった一行だけの簡単な詩。 * わずか1時間で1か月分の詩を書いた気がする。それともそれは幻? * 旅に出よう。そうして新しい俺を発見しようと思う。切実に。
2016.06.20
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花に寄せてまだ小さかったオオテマリが純白の大きな花房になりその花も変色して落下した垣根のモッコウバラが疎らに咲いていたのは初めのうちだけで満開となって芳香を放ち今は醜悪な姿を曝している若かった日々は一体どこへ消え去ったのだろうあの時確かにあったはずの愛は一体どこへ行ったのだろうあれから五十年の歳月が流れたが人は歳を取るごとに何かを得その代わりに何かを喪失うのだろう五月風がそよぎ雲が光る太陽はまだ天空に在りやがては月も昇るだろう過ぎ去った日々のように何食わぬ貌をしてホオズキの白い花日ごとに膨らむ葉陰の青梅クレマチスは勢いを増し子鴨はずいぶん遠くまで泳げるようになった五月空は俺の頭上に高く道は俺の前に遠いそして心の奥底では不安という生き物が密かに息づいている亡くなる知人が増えたブログを休んだりコメント欄を閉じた友もいる夜逃げして音信不通のクラスメイトいつも電話をかけて来て同じ話を繰り返す認知症の先輩も咲いた花はいつか散り出会いはいつか別れを迎える定め記憶は忘却へと変貌し希望は失望によって谷底へと突き落とされる1512km先のゴールを目指してたった一人黙々と走り続ける後輩4カ月ぶりにブログを更新した友愛する家族を失った友は哀しみに耐えながらも新しい生活をスタートさせた目には見えない季節だが少しずつ変化して止まることを知らない前途に何があるのか分からない俺だがそれでも俺はこの弱り始めた二本の脚で前へと進む老化と死という未知の世界へ手探りのままたった一人で < 本日のO川さん情報 > 「本州縦断レース」(青森~下関間1512km余)に単独で挑戦中のO川さんですが、昨日の第17日目は京都府舞鶴市大江町から兵庫県の養父(やぶ)市までの43kmを9時間で走破し、無事ゴールしました。これで走った距離の累計は1034.2km(私の計算上)となり、残りは500kmを切りました。 昨日はスタートからゴール地点まで、ずっと歩道があることに驚いたそうです。午前10時には気温が29度に達し、暑さに苦しんだようですが、まだまだ元気なようで何よりです。18日目の今日は兵庫県養父市から同県新温泉町(津村温泉)までの予定。いよいよ明日は山陰地方の鳥取県に入りますね。今日も健康と安全に注意して慎重に走ってほしいですね。O川さんガンバ~!!
2016.05.22
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新たな歩みへ 先日俺はある告知を受けた 突然の そして想定外のものだったが 案外俺もそれを長い間待ち望んでいたのかも知れない そうか そうだったのか その日以来ほとんど眠れなくなった俺だが 自分が今後進むべき道だけはしっかりと見えていた これからの道程がきっと厳しいものになることは確かだが 俺にはやるべきことがあり 守るべきものがある 男として 父として 一個の人間として そしてそれが 俺の人生の最後の大勝負になるはずだ 俺は今日72歳の誕生日を迎えた 気持ちだけはまだ若いつもりでいるが体は正直で 元気だった頃のようにもう自由には動いてくれない だが泣き言は言うまい 自己憐憫は何も生まないと俺に教えてくれた友がいる あれを心からのエールと考えよう 俺は俺でなければ出来ない俺の使命を果たす きっと俺のことだから いつものようにもたもたするだろうが それでも俺は精一杯の作り笑顔をしながら頑張るつもりだ かつてウルトラマラソンのランナーだった俺は 100km、200km先のゴールを目指し いつも汗だくになって走っていた たとえ途中の関門に捕まりそうになっても 気持ちはいつもゴールへと向かっていた もう決して若くはない俺 今日がめでたい年男の誕生日だと言うのに 誰も気づかず祝ってもくれないけれど こうしてこの青い星に生まれたことに 俺は心から感謝したい気持ちだ 振り返れば長い人生だったが これからもまだ道が続くのを信じて ありがとう 天の神よ ありがとう 遥かなる地平よ ありがとう いつも励ましてくれる友よ 君の優しい言葉に 一体俺は何度泣いたことだろう 今日72歳になったばかりの俺は また新たな気持ちで次の目標に向かい 一歩歩き出そうとしている 前へ さらに前へと
2016.03.24
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新しい年に向かって ~風との対話~ 考えてみれば今年も良く生きたもんだ そうでしたね確かに 救急車で運ばれたのが4月 発作で苦しんだのが酷暑の8月 そして年の暮れには 3度目の不整脈手術を受けた 今年はたくさんの方が亡くなりました ああそうだったな 54歳の俳優今井さんの死には驚いたよ それに身近な人も何人か死んだ 妻の兄 職場の先輩 そして仲人をした彼の父上も それだけではない この地球上から たくさんの命が奪われた パリのテロ シリアの内戦 ウクライナ上空で撃墜された マレーシア航空機の乗客の命など 来年も生きられますかね いやそれは誰にも分からないよ 第一 神様に聞いても教えてくれないしね それでも人は生きようとするさ 俺達の先祖が何千回も月を仰ぎ 何万回も星を数えて来たようにね 今年は柚子の枝をバッサリ伐った 根っこが腐って病気になった柿の樹は 可哀想だが伐り倒した それでも新しく植えた無花果の樹は すくすく育ってたくさんの実をつけた この地球はどうなりますかね ああ 温暖化が叫ばれてパリで会議もあったが 「スターウォーズ」などと浮かれている前に 俺達の地球や この命を大事にしないとね 今は冬 空に風花が舞い 畑の白菜が凍える季節 悠久の時の流れは果てしないが それでも人は新しい朝を迎え 新しい年に向かって歩み続ける 今日は大晦日。今年もとうとう最後の一日になってしまいましたね。読者の皆様には、この一年私のブログを訪問してくださり、本当にありがとうございました。またブログ友の皆様には、大変お世話になりました。心から御礼申し上げます。どうぞ皆様にとって来るべき年が、佳い年になりますよう心から祈念し、御礼に代えさせていただきます。来年もどうぞよろしくお願いしますね~
2015.12.31
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九月に入って二日目 ようやく空が晴れ その空に太陽が戻った 久しぶりに散歩に行った俺は 風のそよぎに小さな秋を感じた 昨年走れた距離は 今はまったくの幻 冬に出来たことが春には辛くなり 夏の俺は 何度か死を覚悟した 春 救急車を呼んだ四月末 血圧は220を超えて手が痺れた 夏 仙台七夕の初日には不整脈が再発し それでもお盆が過ぎるまでは 何とか我慢していた俺だった なにせ俺はかつて200kmもの ウルトラマラソンを走り 我慢には慣れている 天候の変化や体調の変化にも耐えて 山の向こう 峠の向こうのゴールを目指したものだ その俺が 今は少し動いただけでも動悸がし 息が切れる それでも効き目の強い薬のお陰で 120もあった脈拍が100近くまで落ち 久しぶりに今日は散歩が出来たというわけだ 今年の春 病気で死んだブログ友 もう一カ月も更新していないブログ友 息子さんが病気になって悩んでいるブログ友 夏風邪をこじらせて肺炎になったブログ友 痛風の激痛で夜も眠れぬブログ友 静かに去って行ったブログ友 俺も幾つかのブログを訪れなくなった 今は秋 苦しみながらも夏を生き 風に小さな祈りを奉げる季節 そうして今朝の俺は ブログに拙い詩を書いた
2015.09.03
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雑草 麦 ツタ トチ カエデ モクレン ヤマグワ ハナズオウ イチジク ブドウ ブルーベリー 沈黙の詩 死は常に生の隣にあり 生は死のすぐ傍にある 生はいつかその命が燃え尽き やがて永遠の沈黙に入る だが本当にそうなのだろうか 死は再び産声を上げて 黄泉の国から復活する 生きとし生くるものよ 命ある萬物よ おまえたちは決して口こそ利かないが それでも己の全身を使って 無言の詩を放っている
2015.05.29
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自分らしく生きる 一日に一つ なにか有意義なことをやれたらいいね 玄関掃き 風呂掃除 新聞紙など資源ゴミのまとめ方 散歩や買い物や読書 写真を撮るのだっていい ブログなんて最高 だってそれは人生の凝縮だもの 考えてみれば この歳まで生きて来たことでさえ なんだかすごいことのようにも思える もうよろよろとしか走れなくなった俺だが いくつかの病気にも耐え こうして案外元気に暮らしているのだから 以前 整骨院の先生の奥さんが言っていた 「世の中にはオシッコが出なくて困っている人もいるんだよ」と 「超音波治療を受けた後はオシッコが出過ぎて困る」 あれは思わず俺がつぶやいた時のことだった そうかオシッコやウンチがちゃんと出るってことは とても大事なことなんだと 俺はその時初めて思い知らされた 一日に一つ なにか意味のあることができたらうれしい 一人の人間として そして生かされていることの証として 今日の詩はそんな風にして生まれた 2015.2.11
2015.02.12
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H氏の御霊に 窓をたたくのは誰ですか 風も出てきました 外は寒いですか センダードの空の上 あなたの星がひときわ光り そして静かに消えました つい今し方 あなたの訃報を聞いたばかりです いつもは陽気な富雄君の声が 電話の向こうでくぐもっていました そうでしたか やっぱりそうだったのですか あなたが喉の手術をしたと聴いたときから わたしはこの日がくることを 秘かに怖れていました 父の死も見ました 姉の死も見ました 祖父や祖母や伯父や伯母や 義母の死にも遭いました そしていま 血がつながっているわけではない あなたの死と向かいあっています 夕方 ひとしきり言い争った長男は 布団をかぶって寝てしまいました つい先程まで風の音を怖がっていた妻も 傍らで静かな寝息を立てています これからどこへ行きますか 西方浄土は遠いですか 風が窓をたたきます そこで泣いているのは誰ですか 1992.5.8 未刊詩集『日常』から H氏の訃報を聞いたのは沖縄から転勤した年の春、四国の松山でだった。電話で知らせてくれた富雄君は会計課の職員で、野球部の後輩だった。いつもは明るい彼の声が、とても沈んでいた。私はH氏の奥様に弔電を打ち、お悔やみを富雄君に立て替えてもらった。 H氏の自宅を訪ね、霊前に線香を手向けたのは、私が長い転勤暮らしを終えて故郷の仙台に帰ってから。この詩もワープロから打ち出して、氏の霊前に捧げた。氏が亡くなってから11年後のことだった。奥様はご健在だったが、脚が悪いため坂を登るのが辛いと話されていた。 詩の中の「センダード」は、宮沢賢治の小説『銀河鉄道の夜』に出て来る地名で仙台のこと。因みに盛岡は「モリオール」だったと思う。多感な青年時代にH氏と出会えたことは、一生の宝だと思っている。この詩は沖縄で書いたものではないが、氏を偲び掲載させていただいた。合掌
2014.03.27
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H氏へ あなたが喉の手術をしたと 故郷から電話がありました まだ話すことのできないあなたは 字を書くことで心を伝え 別れ際に一人泣いていたということでした 思えばわたしが故郷を離れ つまりわたしがあなたと別れてから もう二十年も経ったのですね 慈愛に満ちたお母様はまだお元気なのでしょうか 張り切っていた奥様は その後婦長を辞められたと伺いました 皇太子にあやかって名付けられた浩美さんは もうお嫁に行かれたのですか そして いかにも腕白そうだった哲史君は 今では立派な青年になったことでしょう まだ悩み深い青年であったころ 私はあなたと出会い いろんなことを学びました 早くから父を失った私には あなたの生き方が手本になったように思います あまり細かいことは言わなかったけれど 私にはあなたの態度で あなたの言いたいことがよくわかりました 図書館員としてはまるきり駆け出しの私だったけど 無我夢中で何とか良い図書館を創ろうとしていたあの頃を 今でも誇りに思っています その後私は様々な土地を巡ることになり あなたは変わらぬ信念に従って 心のこもった仕事を重ね 図書館員としての永い勤めを全うされたと聞きました そして あなたは 私の最初の職場でもあった大学病院のベッドに 今 臥せっているのですね 思えば何だか不思議な気持ちです 電話であなたのことを伺っても 私はさほど驚かなかった気がします あなたが入院していたことを 既に知っていたばかりでなく これくらいのことで あなたの生き方が変わるなんて 私には思いつかなかったからです いったい手術がなんですか それであなたの声がもう聞けない訳ではないでしょう もし間違って声を奪われたとしても あなたの生命そのものを奪われた訳ではないでしょう もし天国の神様がちょっと早めに迎えに来たとしても これまであなたが一生懸命生きてきた栄光の日々を 誰も奪うことはできないでしょう 早く元気になってください どんなにヨレヨレでもいいじゃないですか そしてまたお会いして 「やあ お互いに歳を取ったね」となんか言いながら しっかりと手を握り合えることを 心の底から願っている私です 1991.9.7 第二詩集『透明な手紙』から H氏は私の2番目の職場の上司だった方。新しい大学図書館を創るため、私は昭和40年の4月にその職場に転勤した。まだ新しいキャンパスは建設されておらず、それまでの大学の古い木造校舎を借りてのスタートだった。それは私が良く走っている公園の下にあったのだが、今は全て撤去されている。父を早くに失った私にとって、氏は父親のような存在だったと思う。 この職場には6年3カ月もの間お世話になった。この間私は夜間大学で学び、卒業と同時に結婚した。まさに青春そのものを氏と共に過ごしたのだった。氏はこよなくお酒とコーヒーと煙草を愛した。きっとその結果、喉頭がんに罹ったのだと思う。私はこの職場から6年3カ月後に東京へ転勤した。それが長い転勤生活の始まりとなった。氏の入院を聞いたのは、遠い沖縄の地。そして、氏の訃報を聞いたのは、次の転勤先である四国の松山であった。 慈愛に満ちた氏の笑顔とあの声を、私は忘れることはない。私が大学図書館員として生きることになったのも、全ては氏の指導によるもの。東京勤務時代に氏をはじめ元の職場の仲間と一緒に、東北の片田舎を旅したことが、氏を見た最後になった。私は数日前に古稀を迎え、氏の亨年である68歳を少しだけ超えたのである。Hさん、どうぞ安らかに眠ってくださいね。本当にお世話になりました。合掌。
2014.03.26
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詩を書く 真夜中にふと目が覚めて 詩を書くなどということは 二十歳以来のことなのだ そのころ 父は既に死に 貧乏と不安とが唯一の友だった 家はこれも貧しい叔父の家 部屋は天井のない粗壁で 冬には隙間から雪が入り込み 朝になったら頭に雪が積っているそんな部屋 アルバイトの帰り道 バスの終点から歩くのだが 一人消え二人消えして 最後まで歩くのはいつも俺 冬の夜は誰もいない雪の道を 月明かりを頼りに歩くのだ すべての音は雪に吸い込まれ 静まり返った空に響くものといったら 悲しげな犬の遠吠えだけ 遠くに瞬く家々の光がやけに懐かしかった 小川の土手のネコヤナギ 夏には鬱蒼と ゴボウの葉が繁る畑 道端の肥溜(こえだめ) 冬はそういったものを 銀色に覆いつくす透明な季節 家に着いた俺は 寒さとひもじさとで寝つかれず 手を擦り擦り詩を書くほかはなかった あれからかなりの月日が流れ くたびれた俺は今 ワープロで詩を書いている 1991.9.8 第二詩集『透明な手紙』から 沖縄勤務の3年目。妻と次男は長女が進学した大学のある四国の町に引っ越し、私と当時高校3年の長男が沖縄に残った。サラリーマンは辛い立場。初めて管理職になった私は仕事に加えて、育ち盛りの長男を飢えさせないよう、必死で食事を作る毎日だった。その苦しみの中で、思い出すのは若かりし頃の日々。きっとその精神的に追い込まれた状況が、再び私の詩心を目覚めさせたのだと思う。 私は昨日70歳の誕生日を迎えた。古稀の今でも、なお心配の種は尽きない。きっとそのせいだと思うのだが、こうして真夜中に目覚めて、ブログを更新している。貧乏の中で真夜中に手を擦りながら詩を書いていた高校時代。そして妻や長女や次男と別れて暮らした淋しさから、真夜中にワープロで詩を書いていた沖縄勤務の3年目。70歳を過ぎた今も、真夜中にパソコンに向かってブログを更新する自分がいる。思えば何だかとても不思議な気がする。<続く>
2014.03.25
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海 海を見に行く 光は波をルリ色に変え 波は小舟を静かに揺すり 小舟は悲しく岸壁に繋がれる 海に注ぐ川 白い砂浜 波とたわむれる子供達 捨てられた麦わら帽子 遠くを眺める老夫の眼差し 潮風と煙の匂い 眩しく煌めくそれらのものが 記憶を呼び起こすひととき あれはいつか見た風景 あれもいつか嗅いだ匂い 幼い日に繋いだ母の手の微かな感触 もう取り戻すことのできないわたしの時間 九月半ばというのに まだ暑い浜辺では 押し寄せる波が 無心に珊瑚の残骸を洗っている 1991.9.12 第二詩集『透明な手紙』から 沖縄の思い出のサンゴ(左)と貝殻 沖縄での私の移動手段は排気量50ccの原付。この身軽な乗り物に乗って、私は島中を駆け巡った。訪れた先は、城(ぐすく)、御嶽(うたき)、拝所(うがんじゅ)、神社、風葬墓、観光地などなど。時には「海中道路」の突端にある伊計島や、フェリーに乗って浜比嘉島や伊是名島まで遠征したこともある。この詩に出て来る海岸は、沖縄本島中部にある嘉手納町の水釜海岸だったと思う。この時もどこかへ向かう途中で、ふらりと立ち寄ったのだ。 沖縄勤務の3年目、妻、長女、次男が内地へ帰り、私は長男と2人暮らしだった。その淋しさを埋めるように、私は原付に乗って小さな冒険の旅を続けていたのだ。誰も居らず、小舟が何艘かあるだけの浜辺。その何気ない風景から、この詩は生まれた。沖縄ならどこででも見られる海岸だが、私にはなぜかとても懐かしい風景のように感じられたのだ。<続く>
2014.03.20
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透明な手紙 ときに人は手紙を書き 手紙を受け取る 手紙はそれを書いた人と 受け取った人にしか 本当の意味はわからない 人はなぜ手紙を書くのだろう 愛し 別れ 励まし 裏切る あたりに散らばる無数のことばの中から 自分だけのことばを捜して 宛先のない手紙 ついに出すことのなかった手紙の数々 もし遠く過ぎ去った若き日の自分に 1回だけ手紙を書くことができるなら 人はいったいどんなことを書くだろうか あるいは まだ見ぬ未来の自分に 手紙を書くことが許されるなら 人は何を尋ねようとするだろうか きっとその手紙は 透き通った空の色を 映しているように思えるのだが 1992.1.26 第二詩集『透明な手紙』から 沖縄勤務の3年目。ガジュマルが茂る宿舎に残ったのは、高校3年の長男と私だけになった。長女は四国の大学に進学し、次男の進路を心配した妻と中学2年の次男も長女が住む街へ引っ越した。成長期にある長男と2人暮らしになった私は、毎日メニューを書き、食事を作った。あの時は苦しかった。自分の仕事をしながら、子供の面倒を見る辛さ。長男がズボンを破いても私は繕うことが出来なかった。一方勉強が不得意な長男は、この後大学受験に失敗する。 その苦しみの中で生まれたこの詩には、沖縄のことは何も出て来ない。私は小学生の頃から詩を書いていたが、二十歳の頃を最後に、全く詩が書けなくなった。それが沖縄に転勤して25年ぶりに詩が書けたのだ。この詩の特徴は、現実感が乏しいことだろう。それも魅力と考えた私は、第二詩集のタイトルをこの詩から採った。今回から第二詩集『透明な手紙』の中から、主な作品を紹介したい。<続く>
2014.03.19
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聖空間 隆起珊瑚礁の島では あらゆる所に神が棲むという 小高い嶺の一つ一つに 太古から口を開けている 洞窟の暗がりに 気根の絡み合った ガジュマルの根元に そして 聖なる信号(シグナル)は 切り立った石灰岩の頂から 果てのない宇宙(おおぞら)に向けて 鍾乳洞の奥底から 黄泉(よみ)の国に向けて 亜熱帯樹林の梢から 神仙境(ニライカナイ)に向けて 青白い光を放ちながら 次々に発信される モリは 盛り上がったところ ヤマは 樹々の生い茂ったところ 形を借りたために 今では 言葉が意味を喪失ったように 視えるものが あまりにも多すぎたために 人は 目に視えぬものの存在を忘失れてしまった 城(ぐすく)よ 御嶽(うたき)よ 朽ちかけた無数の拝所(うがんじゅ)よ 人々の生と死を 厭(あ)きもせずに受容し続けてきた聖空間よ 家々の配列に約束があった頃 神は 確かに背後にいて 人々の暮らしを護ってきたのだが 訪れる人もない今では 井泉(かー)のほとりで イモリやサワガニやアフリカマイマイが 聖空間を守っている 1991.5.29 第一詩集『南島風景』から 第一琉球王朝の王府があった浦添城の裏山に登った時、1人の老婆が遥か彼方の東シナ海に向かって祈っていた。その姿はまさに荘厳そのものだった。この付近には、第一琉球王朝の風葬墓である「浦添ようどれ」がある。また沖縄本島最北端の辺戸岬の断崖にある阿須森御嶽(あすもりうたき)に登った時、頂上には「ここは宇宙の神々と交信する神聖な場所です。汚さないでください」と書かれた標識があった。そこはアマミキヨとシネリキヨの夫婦神が、沖縄に最初に立ち寄った聖地と伝えられている。 沖縄で暮らし始めた時、新聞配達所から1冊の本をもらった。「沖縄万能地図」がそれだ。この地図は当時の市町村毎のとても詳しい地図が載っており、その地図には城(ぐすく)、御嶽(うたき)などの場所が記されていた。城は日本の城と共通するものもあるが、中には祈りの場であり、墓である場合もある。そしてたまに風葬墓を秘めていることもある。それらはあまり人が近づかず、猛毒のハブが好んで生息する場所でもある。 私はハブを避けるため長靴を履き、杖で草を払いながら、それらの聖地を原付に乗って訪ねた。城や御嶽、拝所は40か所は下らないだろう。そこは観光客が決して行かない場所だ。沖縄には原始神道の姿が、今でも色濃く残っている。また使われている言葉の中には、日本の古語が変化したものも多い。つまり沖縄には、日本が失ってしまった原型が残されているのだ。この詩はそのことを詠ったもの。少しは沖縄の真髄と神秘とを感じてもらえただろうか。 上の写真は石垣島川平集落の外れにある宮鳥御嶽。外来の人間は無断で立ち入ることを禁じられているが、私は祈りの後で入らせていただいた。下の写真は斎場御嶽(せーふぁうたき)で、沖縄本島知念半島の東端にあり、巨岩の三角形の隙間の先には、昨日の詩に出て来た久高島を遥拝する「通し御嶽」がある。ここは第二琉球王朝最高位にある祝女(のろ)、聞得大君(きこえおおきみ)が王に代わって祭礼を行った、沖縄最大の聖地で「世界文化遺産」に指定されている。<不定期に続く>
2014.03.10
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久高島・1990・夏 紺碧のうねりの向こうに 横たわる小島 後生(ぐそー)は崖(ばんだ)の中空に穿たれた風葬の地 夏草は蔽い尽くし(岩々を) 太陽は燃え上がる(さらに白く) 打ちつける潮の飛沫に守られて 無数の骨神は重なりあいながら 幾千年 幾百年もの間 永い眠りについていた この島は神の島 昔 アマミキヨとシネリキヨが 波涛の彼方から流れ着き ウチナンチュの祖先になったという それ以来 この島では 男達は海人(うみんちゅ)となって大海原に漕ぎ出し 遠くシャムにまで 琉球王の名を轟かせたという また 女達は祝女(のろ)となり 航海の無事と王国の繁栄とを祈りながら この島を守って来たという この島は呪いの島 小石や草木や貝殻さえ 持ち出すと 今でも祟(たた)りがあるという あたかも 神の使い であるかのように わたしの後をついてくる 白い子猫 女達を 小石を 草木を そして貝殻を 呪縛で封じ込めていたのは あまりにも貧し過ぎたから なのだろうか 祝女(のろ)達は既に年老いて路端に蹲(うづくま)り 十二年ぶりの神行事イザイホーも 今年は危ういという 白昼夢のような 伝説の島 今も わたしの三半規管に 海鳴りが眩めいている 1990.7.17 第一詩集『南島風景』より 久高島は沖縄本島知念半島の沖合3.5kmの太平洋上に浮かぶ小島。ここに沖縄人の祖先であるアマミキヨとシネリキヨの夫婦神が漂着し、知念半島へ渡ったとする伝説が残されている。琉球王朝時代、この島の男達は中国大陸や東南アジアとの貿易船に乗り込み、留守を預かる女達は不貞を働かないよう神行事に勤しんでいた。一木一草、貝殻の果てまで島から持ち出しを禁じる掟は、資源の乏しい島の暮らしを守るためであった。 1990年の夏、私は職場の仲間とこの島に渡り、一夜をキャンプで過ごした。白い子猫の話は本当で、あたかも私達を港に案内するように付きまとった。下のシャコガイはこの時久高の海中で獲ったもの。この島の畑は共有のもので、古来順番に耕す場所を交代して来たそうだ。原始共産制が残る珍しい島。祝女(のろ)の高齢化に伴い、この島のたくさんの神行事は、現在は行われていないと思う。 ふぼう御嶽は男子禁制の聖地。また風葬墓を島外の人間が見ることは出来ない。パリ大学で民族学を学んだ画家の岡本太郎は、1人の島民に無理に頼んで風葬墓の写真を撮った。それが出版され世に知られて、彼に風葬墓を案内した島民は追及され、狂死したと言われている。沖縄在勤当時私も何度か風葬墓を訪ね、白骨を目にした。また沖縄には、原始神道の姿が未だに色濃く残されている。<続く>
2014.03.09
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走ることについて 俺の足は 走り始めてから11年になった 俺の足は 色んな道を知っている 凍った道 霜柱の道 真っ暗な道 強い北風の道 潮の香が染みついた道 埃っぽい道 カンカン照りの道 汚くて凹凸の道 牛舎や汚水の臭いのする道 喘ぎながら登った坂道 砂糖キビの穂が風にたなびく道 コンクリートの道 アスファルトの道 砂利の道 土の道 芝生の道 砂だらけの道 怖い道 優しかった道 泣きながら走った道 嬉しくて飛びはねた道 北の道 南の道 海沿いの道 誰も通らない山の中の道 迷った道 信じた道 短い道 長く苦しい道 1人で走った道 仲間と一緒に走った道 駆け抜けた道 うずくまった道 道 路 径 幾つかの土地の 幾つもの道を 俺の足は走ってきた 偏平足の足 骨折した足 もう 30回も肉離れをおこした足 「筑波学園マラソン」では 股関節のつけ根から 動かなくなってしまった足 「NAHAマラソン」では 繰り返す痙攣で苦しんだ足 時には軽快な それでいて 時には鉛のように重たくなる俺の足 だが 親からもらった 貧弱なこの足が まぎれもない俺の足だ 俺は走る 俺の足で走る 俺の人生を走る 幾つかの土地の 幾つもの風景の中で 俺の生命を走る 走るという個人的な行為 だが 極めて厳粛な儀式によって 俺自身であることを確認する 俺は 1990.12.15 第一詩集『南島風景』から 35歳の元旦、筑波時代に始まった私のランニング史は、その後徳島県鳴門市、そして沖縄へ転勤後も続きました。沖縄では職場の「職員走ろう会」が主催する「24時間駅伝」に出たことで、走る仲間と出会いました。彼らとの練習、そして灼熱の地でのレースが、その後のランニング人生に大きな影響を及ぼすことになったのです。<不定期に続く>
2014.03.05
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四季・祈り ポインセチアが鮮血を浴びて立ちつくしている うつむき加減に匂っている緋寒桜は まるで穏やかなウチナンチュ サトウキビの白い穂は 風にそよぎながら糖度を高め 刈り取りの時を待っている アスファルトの道路を駆けぬけるランナーの額にも うっすらと汗が光っている 冬 東シナ海の重たい雲間から降り注ぐ光も ほんとうに明るくなってきた 雨が銀色に島を包むと 大地は待ち兼ねていたかのように 生気を取り戻す とある日 一族は墓前に集い 先祖の加護と 安らかな暮らしとを祈る 春 木陰はあんなにも涼しいのに 日向は まるで刺されたような痛み 強い陽差しの中で 御嶽(うたき)も静まりかえっている ここでは 少しでも昼寝をしておかないと 体が言うことを聞いてくれない 眩しい星砂の浜辺 珊瑚礁のすぐ向こう側には 青い裂け目が戦慄している 夏 一晩中 悲鳴を上げていた樹々よ 暗闇の彼方へ拉致された無数の木の葉よ 嵐の翌朝には 真っ二つに折れた南洋杉や 窓ガラスにへばりつく潮風の残骸に 驚かされるのだ 台風は 海から立ち上がる水蒸気を巨大なエネルギーに変えて 痩せこけた島々を 繰り返し 繰り返し 襲ってくる やがて 新北風(みいにし)に身震いする日が来ると 秋 美しい島よ 何も無いからこそ 一層豊かな 孤島苦(しまちゃび)の島たちよ この小さな島嶼にも これまで数え切れない時間が巡り 季節は音も立てずに移り変わる いまは 秋 天に 短くて貧しい祈りを捧げる季節 1990.10.22 第一詩集『南島風景』から 沖縄の染色:紅型(びんがた)
2014.03.04
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夜 星のない夜は ひとり異郷の酒を飲む 泡盛よ 幾度わたしは涙を流し 幾度おまえは押し黙ったことか 泡盛よ はるばると波にゆられてやってきた 異国の米を母として 何百年もこの島で生きつづけてきた 黒麹菌を父として おまえは生まれ 大甕を揺篭にして おまえは育った 泡盛よ おまえは知らないか この島から北へ二千km 秋には樹々が色づき 冬には雪が降り積もる 冷涼な大地 遥かに遠いわたしの故郷を 父や母は既になく たった一人残った兄も 病に倒れていることを 泡盛よ おまえは知らないか 故郷を離れて二十年 さまざまな土地を巡り さまざまな人と出会ってきた わたしの旅がいつまで続くのかを ヤモリは今夜も闇に鳴き 風にブーゲンビレアの小枝は揺れる 眠れない夜は ひとり異郷に酒を飲む 1991.6.13 第一詩集『南島風景』から ダチビン 沖縄への赴任後すぐに私はウチナンチュの気持ちが分かった。長い抑圧の歴史を持つ人々の心には、鬱屈した想いがあったのだ。私が赴任した年は本土復帰後14年目だったが、ウチナンチュは内地から来た男がどんな人間か、じっと観察していたのだろう。私が沖縄の心情をすぐに理解出来たのは、やはり長い差別や抑圧の歴史を持つ東北人だったため。 私の悩みの対象は関西から来た上司と同僚だった。彼らは仕事は抜群に出来たが、沖縄の歴史や文化を理解せず、むしろ馬鹿にしていた。そして連日のように私は苛められていた。同僚は1年後に転勤し、上司も2年後に転勤する。そこは私の4番目の職場だった。彼に叱責された後輩が、やがて自ら命を断つのだが、私はこの時沖縄の歴史や文化を学び、詩を書き、ウチナンチュと泡盛を飲むことで、何とか心のバランスを保っていたのだ。神様は死の代わりに「詩」をくれた。私は今でもそう信じている。<不定期に続く> ダチビンは琉球王朝時代から伝わる「水筒」。これに水を入れ、腰にぶら下げて労働の合間に水を飲んだ。現代のダチビンは芸術作品だが、本来は実用品で絵柄もない粗末な造りだったと思う。腰に着け易いよう、内側が湾曲している。
2014.02.22
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六月のバス 六月のバスは 汗ばんだ風の匂いで溢れている 六月のバスは 素早く席を見つける 外国人教師の薄くなった金髪頭 や 座りたいくせに立っている 通学児童のランドセル や 毎日 乗客の姿をスケッチしている 事務職員の画帖 や ヒップラインもあらわな 女子学生のタイトスカート を 乗せながら 郊外の大学に向かって走って行く それでも 六月のバスは 窓ガラスに触れそうなモクマオウの葉蔭から もう 夏が近づいていることを予感している そして 六月のバスは サトウキビ畑の中を 突然 中城湾に墜ちて行く 1989.6.16 第一詩集『南島風景』から 私の職場は郊外にあり、通勤にはバスを使っていた。この詩はその通勤風景を描いたもの。6月の沖縄はむせかえるような暑さで湿度も相当に高く、ここが亜熱帯の島であることを思わざるを得ない。バスから見える風景も内地から来た者にとってはすべて珍しく、異国情緒豊かなもの。 南北に細長い沖縄本島の真ん中を、まるで背骨のような脊梁高地が貫き、道路は曲がりくねり登り下りを繰り返す。だからこれがバスに乗って感じる正直な印象なのだ。オーバーかも知れないが、最後のジェットコースターのような急激な下り坂は、まるで中城湾に墜落するような気分になったものだ。<続く>
2014.02.21
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ひんぷんガジュマル (名護市:天然記念物) 老司書 図書館の昼休み 老司書が椅子にもたれて居眠りしている 詩人の仕事は「言葉」を探すことだけど 老司書の仕事は「真実」を探すことだ 色んな人から 色んなことを尋ねられ あんな本 こんな本 時にはほこりをかぶった書庫の中から 「真実」を探し出してくる そして 尋ねた人が喜ぶと 老司書は そこで初めて頷くのだ こんな仕事を もう何十年やってきたのだろう 聞けば来年は定年ということだが 眼の光だけは 少しも衰えていない 1989.4.18 第一詩集『南島風景』から カラカラとぐい飲み 老司書Mさんは若い頃英語の教師をしていたようだ。その時の教え子の1人が私の徳島勤務時代の上司だった。不思議な縁で、そんなMさんが私の部下になったのだ。第二次世界大戦の嵐を潜り抜け、厳しい戦後を生き抜いて来た彼の人生は、恐らく波乱に満ちたものであったに違いない。 彼は泡盛をこよなく愛した人でもあった。お世話になったMさんを偲び、泡盛を注ぐ「カラカラ」を詩に添えた。眼光鋭いMさんは、まだ生きておられるだろうか。<続く>
2014.02.20
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石嶺風景 シーサーが雨にぬれている 古びた小さな家 その隣のわずかばかりの畑で 老婆が一人鍬をふるっている 過ぎた大戦では この辺りは大変な激戦地だったと言う 老婆にも苦い思い出がたくさんあるのだろう 曲がった背中が そんなことを物語っている 雨が止んで おさげ髪の少女が どこからともなく現れ 老婆の仕事を手伝い出した そして モンシロチョウが キャベツの大きな葉の上で ひらひらと舞い始めた 1989.4.18 第一詩集 『南島風景』から 那覇市首里石嶺は私が沖縄に勤務した当時、家族と過ごしたアパートがあったところです。その近くに小さな畑がありました。そこにはバナナやパパイヤ、グァバの樹があり、ハイビスカスなど南国の花々が咲いていました。この詩はそれらの風景を見て生まれた作品です。<不定期に続く>
2014.02.17
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旅へ ハイビスカスの花蔭から覗いた少年の眸が いきなり わたしのこころに飛び込んできた その時 眉根の奥底に 一瞬の翳りを見た と思ったのだが 案外君は うりずん南風の中で 鈍色に光る波涛のざわめきを 確かめようとしていただけかも知れない 怖れ 恥じらい 後ずさり 回帰の旅の初めに出会った沖縄の魂は 華やぐ彩とはうらはらに 傷つき易い琉球玻璃 この緑したたる南の島で 何時の日か喪失った父母を 故郷を そして わたしの元素記号を 果たして 探し当てることができるだろうか ユタとイタコ うりずんとオリジン 濃い酒と血のぬくもり そんな舌先三寸の修辞学では サンマがグルクンを モミの樹がガジュマルを苛むような気もするが そのうちモミにも気根が生え 支柱根にもなるだろう 少年よ やがて大人になった時 さあたああんだーぎいの ほのかな甘さとともに 昔 清明祭のころ 北からの旅人を一人 見かけたことを 思い出してはくれないか 1989.4.8. 第一詩集 『南島風景』 沖縄に赴任してわずか8日目で、私はなんと25年ぶりに詩を書けたのです。それだけ強烈な印象を抱いたのでしょう。それに幾つかの衝撃も重なって生まれたのがこの詩です。ともかくこれが沖縄で最初の記念すべき作品でした。<続く> ソチオリンピック男子ジャンプラージヒルで、葛西選手が見事銀メダルを獲得しました。41歳での栄冠に、心からの拍手を送ります。
2014.02.16
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平成元年(1989年)4月私は沖縄へ転勤し、そこで家族と共に3年間を過ごしました。観るもの聞くものが全て珍しく、幾つかのことが重なって私は25年ぶりに詩を書くことが出来たのです。あの時書いた詩に写真などを添えたらどんな感じになるか。最近ふとそんなことを思いつきました。若き日の想いを振り返るのも新鮮です。そんなわけで新しいシリーズを始めます。暫くの間お付き合いいただけたら幸いです。ひとりのたびびとのことば たびびとにとっては あらゆるものが 一つの「風景」に過ぎないという でも もしそうだとしても たびびとにだって 「風景」の中に隠れている ひとびとの歓びや哀しみを 感じとることはできるだろう いま わたしのこころの海には よろこびの潮が静かに満ちてきている あのとき神様が 「死」の代わりに 「詩」を手渡してくれたことに そして わたしたち家族が過ごした 南の島の風景のいくつかを ほんとうにまずしいことばで 書きとめることができたことに 1991 夏 第一詩集 『南島風景』 あとがきから < 続く > 2013.5 竹富島 ソチオリンピック男子フィギュアスケートで羽生結弦選手が日本人初の金メダルを取りました。羽生選手、おめでとうございま~す。
2014.02.15
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ここがわたしの目的地 公園の周囲を 一人トボトボ走るのだ お~いモミジ君 元気かい? まだ風に飛ばされずに 頑張ってるねえ 間もなく冬 お前達とはお別れだが わたしはまだ走り続けるよ 多分この冬も 何度かここへ来て走るはずだ そして白い息を 弾ませるはずだ さて、私は今夜の夜行バスで大阪へ向かいます。17日(日)の「神戸マラソン」(フル)へ出るためです。帰りも再び大阪から夜行バスに乗ります。帰宅は18日(月)の朝です。それまで留守にしますが、どうぞよろしくお願いしますね。神戸では、今年最後のレースを心から楽しむ積りです。皆様もどうぞお元気で。では、行って来ま~す。
2013.11.15
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風の中を走る途中の小さな公園 ここもすっかり 晩秋の風景だ ケヤキは幹や枝を露わにし始め サクラは鮮やかに変身し 中にはこんな虫食いの葉も 子供達がザリガニを釣って遊んだ池は静まり 今はサルスベリの葉が風に揺れるだけ おお ボロボロの哀れなトチの葉よ 真っ赤なツタも残りわずかになった <続く>
2013.11.14
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「よしず」を2枚片づける扇風機にはビニール袋をかぶせたこの夏 猛暑から私たちを守ってくれてありがとう涼しい風をありがとう長いゴムホースを蛇口から外しグルグル巻いて物置へしまったこの夏 乾き切った畑に潤いを与え庭の熱気を鎮めてくれてありがとう「お父さんキュウリが1本50円だって」と妻が言う今朝はキュウリが3本採れた「へえ、それじゃ150円儲かった」と俺そして秋ナスも何本か採れそうだ残暑に耐えて未だに恵みをもたらす野菜たちよお前たちも最後まで頑張ってくれてありがとう昨日は激しいにわか雨となり今日は一変して青空だ朝から布団を干し洗濯ものを干せる喜びおかげで布団も洗濯ものもお日さまの匂い雨と晴れどちらも本当にありがとうとうとう走れなくなった俺の足地球を2周もしたから壊れたのかそれとも壊れるくらい走ったから地球を2周もできたのかともかくたくさんの思い出をありがとうこんな足でもまだ歩けるししっかり大地を踏みしめることができるでもねえそう言いながらも俺はまだ走るのを諦めてはいない本気で俺のことを心配してくれたブロ友よ心配して損したと思ったかい?こいつは本当の大馬鹿だと思ったかい?みんなみんな心配してくれてありがとうねそしてこんな俺だけど これからもよろしくね狭い我が家の庭にワレモコウとシュウメイギクとタカサゴユリが咲いた妻はそれを切って花瓶に活ける一方は玄関にそしてもう一方は床の間にほほうこんな貧弱な花だけどほんのり秋の気配を感じるよどうやら季節は少しずつ動いているんだねえ *吾亦紅飾りし妻に似たるかな 白磁の壺に秋風過る* *ワレモコウ *よぎる
2013.08.29
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雨の日雨の日には久石譲の曲をメドレで聴くそう たまには心の栄養にねいいねえ 新聞を読む邪魔にならなくてなあに 新聞なんて全部読まなくて良いんだよ元々俺の勉強になることはあんまり書いてない雨の日にはコーヒーを飲みながらチョコレートを食べるそれに20粒ほどのピーナツもねなあに それでも大丈夫結構俺は体を動かしているから太らないなんていい気になってたら500gも太ってた雨の日には何もかもがびしょ濡れだトマトもナスもキュウリもゴーヤもそして そろそろ咲き終えるシャラの花もなあに 心配することはないみんなこの雨をずっと待っていたのさ雨の日には出かけるのさえ億劫だが今日は35kmのマラニック「みちのくラン」の日全国の仲間と松島やあの大震災の被災地を走るんだなあに シューズが汚れ 雨に濡れても俺は平気ランニングなんてそんなもの 人生なんてそんなものでも俺は そんなランニングや人生が大好き頼んだぞ 俺の足よ ≪ 我が家のシャラ ≫ では行って来ま~す。帰宅は夜になります。ひょっとしたら皆様のところへはお邪魔出来ないかも知れませんが、どうぞご容赦を。
2013.06.22
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いや~。侍ジャパン負けちゃいましたねえ。やはり今回の実力では3連覇は無理だったかもね。でもベスト4でも立派ですよ。人生常に勝つとは限りません。時には負けるのも勉強になるんです。まあそこのあなた。そうガッカリせず、ブラックユーモアはいかがです?≪狭心症≫ 歳を取ったせいか、最近心まで狭くなってね。≪不眠症≫ 不眠の原因を徹夜で考えた。≪神経過敏≫ あれ~っ、神経が花びんになってるぞ~?≪ひん尿≫ 女房貧乳、俺ひん尿。しかもワイルドだぜ~っ!!≪肩こり≫ う~む。国の借金を背負い過ぎたせいかなあ?≪条件反射≫ あいつ、美女が通ると直ぐによだれを垂らすんだよなあ。≪乱視≫ おおっ、お金が2倍に見えるぞ~っ!!≪肥満症≫ 女房ぼう満感。俺肥満漢。≪生活習慣病≫ 日頃の癖で、つい病気まで拾って来ちゃってね。≪高血圧症≫ その分知能は低めに抑えました。≪健忘症≫ あれ~っ、1億円当たった宝くじ、どこへしまったっけ~?≪食欲不振≫ あっちの「慾」の方はまだまだ健在なんだけどねえ。ムフフ・・。≪結膜炎≫ もしかして俺、太陽の見過ぎ?≪痙攣≫ ダメだ~。こんな状態じゃ家に帰えれん。≪アルコール依存≫ 「そこの酔っ払い、警察を呼ぶぞ~」って、俺が警官だった。ウイ~ッ。≪消化不良≫ う~ん。僕の語学力でこの原書を読むのは無理か~。≪視野狭窄≫ 最近母ちゃん以外の女性が見えなくなってねえ。≪夜尿症≫ 目下シッコウユウヨ中。 ≪お断り≫ これはユーモアであり、特定の疾病に対する差別や偏見ではありません。どうぞご理解くださいませ~。
2013.03.19
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≪ 走ることについて ≫俺の足は走り始めてから十一年になった俺の足は色んな道を知っている凍った道霜柱の道真っ暗な道強い北風の道潮の香が染みついた道埃っぽい道カンカン照りの道汚くて凸凹の道牛舎や汚水の臭いがする道喘ぎながら登った坂道砂糖きびの穂が風にたなびく道コンクリートの道アスファルトの道砂利の道土の道芝生の道砂だらけの道怖い道優しかった道泣きながら走った道嬉しくて跳びはねた道北の道南の道海沿いの道誰も通らない山の中の道迷った道信じた道短い道長く苦しい道一人で走った道仲間と一緒に走った道駆けぬけた道うずくまった道道 路 径幾つかの土地の幾つもの道を俺の足は走って来た偏平足の足骨折した足もう二十回も肉離れをおこした足「筑波学園マラソン」では股関節の付け根から 動かなくなった足「NAHAマラソン」では繰り返す痙攣で苦しんだ足時には軽快なそれでいて時には鉛のように重くなる俺の足だが親からもらった 貧弱なこの足がまぎれもない俺の足だ俺は走る俺の足で走る俺の人生を走る幾つかの土地の幾つもの風景の中で俺の生命を走る走るという個人的な行為だが 極めて厳粛な儀式によって俺自身であることを確認する俺は 1990(平成2)年12月15日 在沖縄 第一詩集『南島風景』より 長い間の閲覧、どうもありがとうございました。また私の地球2周走破達成に関して暖かいメッセージをお寄せいただき、ありがとうございました。まだまだランニングに関する話は尽きませんが、本シリーズは一応これで終了します。
2012.10.27
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≪ 仙台市科学館 ≫ 地下鉄旭ケ丘駅で降り、台原森林公園の中を歩いて裏口から玄関まで長い階段を登る。この日はめまいがしていた。それを堪えながらの歩行。森林公園は何度も来ているが、科学館は初めて。いや、大昔東二番丁と青葉通りの交差点の地下にあった頃、一度だけ訪れたことがあるが、そんな時代の頃を覚えている人は少ないだろう。 広い館内には大勢の子供達がいて、ノートなどを手に持って歩き回っている。小学校と中学校の生徒で、それも複数。やはり授業の一環のようだ。科学館の印象はまるで「筑波科学万博」のパビリオン。子供達の興味を引くような展示が多いが、あれで落ち着いて勉強できるかどうかは疑問。私は古生物が一番面白かった。 巨大なシンシュウゾウやアケボノゾウ。マンモスにセンダイゾウやシオガマゾウ。ナウマンゾウの大きな臼歯もある。どれくらい昔かは知らないけど、日本列島にもかつてはゾウが居た。瀬戸内海の海底からナウマンゾウの臼歯が網にかかったり、長野県の野尻湖底からたくさんの動物化石が発掘されていたことは知っていた。 それにしてもシンシュウゾウの大きいこと。体高は5mほどもありそうだ。あんな大きな象が闊歩していた時代の風景はどんなだったのだろう。ウタヅギョリュウの化石もあった。これは南三陸町歌津の海岸にあった魚竜館の展示品だが、あの津波で被害に遭い、目下東北大学理学部の管理下に置かれている。石巻市から気仙沼市まで90kmを走った途中、魚竜館に立ち寄ったことを思い出す。≪ 仙台文学館 ≫ 公園の坂道を登り下りして文学館に向かった。県道側から行ったことはあるが、森林公園の中から向かうのは初めて。昨年までこの公園は良く走った。「仙台鉄人会10時間走レース」は、100kmレースの練習台だったためだ。アップダウンの激しい坂道を25周も出来たのが、今では1周しても心臓が壊れてしまうに違いない。その日もランナーの姿を見かけた。 仙台文学館の常設展示は仙台に因む文学者の作品や人物の紹介コーナーが中心。明治以降では島崎藤村や高山樗牛、魯迅、土井晩翠など。現代では伊坂幸太郎、伊集院静、佐伯一麦、俵万智など。井上ひさしはここの館長だっただけに展示品が多い。私が唯一読んだのが「新遠野物語」。「吉里吉里人」はまだ書架に横たわったままだ。 特別展は「北斎漫画」。北斎生誕250年記念の特別企画で、版木から今回特別に刷り下ろした版画ばかり134点。そして版木が51点。北斎漫画は全15編で、その中に3900余りの動植物、生活用品、妖怪など北斎の関心の対象となった森羅万象の事物が掲載されている。富嶽三十六景や美人画、役者絵などで有名な北斎だが、彼の興味は旺盛だ。 最後に私が好きな石川善助(明治37~昭和7年)の詩をコピーしてもらった。彼は仙台出身の詩人で、31歳で不遇のまま亡くなった。仙台市内愛宕神社の頂上の石碑にこの詩が刻まれている。 化石を拾ふ 光りの澱む切り通しのなかに 童子が化石を探してゐた 黄赭の地層のあちらこちらに 白いうづくまる貝を掘り 遠い古生代の景色を夢み 母の母なる匂ひを嗅いでゐた ・・もう日は翳るよ 空に鴉は散らばるよ だのになほも探してゐる 探してゐる 外界*のこころを *読みは「さきのよ」 生の始めを 母を母を
2012.06.04
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柿の若葉が芽吹いて来たその柔らかな葉を美しいと思う剪定が厳し過ぎたとの心配をよそに再び芽吹いた柿の若葉柚子の若葉も芽吹いて来た今年の冬は極寒でほとんど葉が落ちた柚子妻は再び芽吹くかを心配していたが私は復活を信じていた甘柿も柚子もこの地が北限とか彼らはその厳しさと戦いつつ昨年はたくさんの実をつけ私と妻を楽しませてくれた私はつい先日仕事を辞めた火曜日と金曜日は4時10分それ以外の平日は4時30分にセットする目覚まし時計を仕事のために使うことはもうないだろう50年も働き続けた体は草臥れ果て33年も走り続けた足は壊れてしまったそれでも少し休めばまた元気を取り戻すと思う豊後梅は小さな青い実を幾つか見せモッコウバラは垣根で薫っているゴーヤは蔓の先端を失ったが多分そのうち脇芽が延びるはずこの星で幾つかの命が生まれやがて幾つかの命が天に還る人はそれを運命と呼ぶのだろうが私は私に与えられた「時間」を楽しむ雨が上がり空はあくまでも青く心地良い風が吹く5月私は復活に向かって歩み出す
2012.05.20
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師走の淋しい庭陰にヒマラヤユキノシタの花が咲いた一体どうしたのだろう季節は既に冬だと言うのにシンビジウムが今年も花芽をつけた新しい株に一つそして古い株には三つもだがクンシランに花芽がつかないのは何故大震災が襲った三月津波は家々を飲み込み港は炎に包まれ 多くの「いのち」が奪われたあの日あれから俺の足は壊れ俺の視界は歪み俺の心臓は狂ったリズムのままでも妻は少しずつ落ち着きを取り戻した誰も帰って来ない子供達長女の部屋は温室代わり長男の部屋では私が眠り次男の部屋は妻のアトリエだ温室代わりの洋間は南向きこの一年俺達夫婦の目を楽しませてくれた植木鉢が今 薄い冬の日差しを浴びている例年になく見事な花を咲かせた野ボタンは茎の先端を切られて春を待ち艶やかだったハイビスカスは息を潜めて冬に耐えているあれだけの惨劇があったこの年我が家の柿は十五年目にして大豊作そして柚子は初めて三十近い実を結んだ俺も負けてはいられない例え足が壊れ 視界が歪みそして心臓が不規則な鼓動を打とうともこの足でこの目でこの心臓で俺はこれからも走り続けるこれまでもずっとそうだったように北風に葉を吹き飛ばされた樹木隙間風が吹き込む仮設住宅の被災者たちそして冷たい床がベッドのホームレスそれらに比べたら俺の傷みなど小さなもの冬はいかにも厳しいがそして生きることはさらに苦しいがそれでも負けてはいられないここに「こころ」がある限りここに「いのち」がある限り
2011.12.15
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《 変動 》今度の震災以来上がったものは血圧と血糖値そして下がったものはテンションかな(笑)《 届いたもの 》震災見舞いとして全国から届いたものは米35kg見舞金3口で合計7万円食料品各種カセットボンベ(これは内緒)手紙とはがき4通電話延べ10回以上メール6回ブログへの励ましの言葉は数えきれないほどどれもみな嬉しくてとってもとっても助かりましたとってもとっても救われましただから友達ってありがたい不思議な絆に感謝です最後に俺が言えるのは「皆さん本当にありがとう♪」「そしてこれからもよろしくね~♪」《 弱さ 》俺は自分の弱さを知っているだから何とかこうして生きられたのかも知れないね格好悪くたって良い泥だらけでも傷だらけでも構わないだけどもやっぱり灯りが欲しい明日へ一歩近づくためにもね
2011.04.05
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《 笑顔と言葉 》「戦場カメラマン」ってすごいねきっとたくさんの修羅場を観たはずなのにあんな素晴らしい笑顔ができるなんてそしてあんなに穏やかに話ができるなんて《 ウルトラマラソン 》200kmのレースを2晩寝ないで走ると草臥れるよ人によっては幻覚や幻聴が出るからねでもレースには必ずゴールがあるし自分が嫌になったらいつでも止められるところが地震の被災者にはゴールがないコースも見えなければ食べものもないつまりウルトラマラソンの苦しみなんてのは被災者に比べたらお遊びみたいなものってこと《 苦しい時にこそ 》極限状態に陥ったとき果たして人はどんな行動を取るかそれが今回の地震ではっきり分かった最も苦しい時にこそ人間の本質が現れるんだねまあいつでも神様は観てるんだけどさあの高い空の上から 《 お断り 》 今は自分の体力の回復に専念したいと思っています。申し訳ありませんが、皆さまのところへお邪魔するのは、もうしばらく時間をいただけると嬉しいです。また、いただいたコメントにも返事を書けない場合がありますが、その際は同様にご容赦くださいませ。
2011.04.01
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日本列島が激しく揺さぶられたあの日大地は裂け巨大な津波が逃げ惑う人々を襲った一体いくつの命が奪われいくつの体が傷つきそしていつまでも消えぬ恐怖をいくつの心に刻んだのだろうことさらに厳しかったこの冬人々は凍えながら春を待っていたその微かな希望さえも奪ったあの日崩れる本棚波打つ電線地中から噴き出す水の勢いそして潰れたビルやアパートそれらの凄まじい光景を俺は決して忘れないだろう67歳の誕生日とともに俺が走ったあの海辺の道は死体や家々の残骸で溢れ俺が走ったあの町は跡形もなく地上から消えた家ごと流されたという親戚の老女はどれだけ苦しんだことだろうそして優しかった民宿の若女将は果たして助かったのだろうかあの日以来堅く心を閉ざしていた妻が今日はテーブルに花を飾ったヒマラヤユキノシタのピンクの花その小さな花が妻の心の灯となればどれだけ俺は嬉しいことか眠れない夜を重ねふらついた足取りの俺だがいつの間にか庭の一隅では沈丁花の蕾がふくらみクリスマスローズがひっそりと咲き出したどんなに遅くても春は必ず訪れる今は凍えそうな笑顔だがいつの日か心から笑える日がやって来ると俺はそう信じている妻に笑顔さえ戻れば俺は多少足が痛くても安心して走り前へ前へ明日へ未来へと進むことが出来るまだ生かされている俺達には前に進むことしか道はない傷ついたたくさんの心を一つにして明日へ未来へともう泣くのは止めよう涙に濡れたその瞳を開き今日を見つめ明日を見つめ遥かなる未来を見つめよう喪失われた多くの命のためにもそしてこれから生まれる新しい命のためにも◎我が走友へのお願い♪ どなたかこの詩をプリントアウトしていただけないでしょうか。 メカに弱い爺はプリンターを持っていないので。(笑) その時は、このメモ部分は消してね~。
2011.03.28
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