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2017年3月、みかん農夫のまとめ 従来はみかん作業のまとめでしたが、今回はその枠を少し越えます。 3月というのは立春の月、桜の蕾もふくらんで、草木がいっせいに萌え出ずる月です。 一、みかん農夫は、雑草との根競べが始まりだしています。みかんの手入れとは、とどのつまりは、この草取り・草刈りが基本作業なんです。農家のこの苦労は、あまり知られてはいないのですが。 二、画期的なことですが、ここへきて各種のみかんが提供できるようになりました。 みかんの提供は、これまで私などは、11月12月の温州みかんですべて終了していたんです。 ここにきて、早川のみかん園が提供してくれる知人のおかげで、様子が変わりました。 年を越しても様々な柑橘を楽しめるようになっています。 今年になって出荷したものを見ると、 1月-青島、伊予柑、ネーブル、ダイダイ、デコポン、 2月-ダイダイ、金柑、レモン、レモン。 3月-清見、レモン、金柑、湘南ゴールド、文旦、三宝柑 何とも豊かな早川の自然の恵みではありませんか。まだまだ、5月・6月までつづきますよ。 三、さらに、新たに朝市が開設されて、販売も出来るようになりました。 多摩市の団地ですが、昨年・2016年12月から、月2回の野菜の朝市が開かれるようになっています。地元の農家の作物を販売するようになったんですが、横に並べさせてもらっています。 このおかげで、これまでは、わびしく草刈りに出かけるだけだったんですが、この朝市に合わせて、時々のいろいろな柑橘類を、販売するという仕事が出来るようになりました。自分たちが作った作物を「販売」できるということは、農家にとって何よりなんです。作物を作くる手間が大変ですから、販売はJAなどに任せているんですが、JAが相手にしてくれない農家はどうするのか。困っちゃうんですね。 この悩みが解決されつつあるわけです。早川・真鶴のみかん農家と、東京の団地とを結んで、 フレッシュで、安心・安全の柑橘類を都会に届けること。 私などは、これまでの会社仕事を完全退職してから、この3月でまる1年になります。どうやらこれが、これが新たに見えてきた目下の社会的な仕事じゃないか、というわけです。 四、もう一つ、みかん園での二ホンミツバチを飼うというのが、かねてからの目標ですが。 これまで、4年間の3回失敗して、今はみかん園には5つ6つの廃墟の巣箱が並んでいます。 もう、なかばあきらめかけていたんですが。 この3月14日から山梨県の養蜂家の方のアドバイスを得られるようになりました。 もう一度、少し視点を変えて、この目標に挑戦してみること。 これまでの巣枠式から、新たに重箱式巣箱にかえて、二ホンミツバチに即した飼い方を探ること。 いま全国的に問題になっているアカリンダニに対しても対策もとるようにして、もう一度「みかん園での養蜂」に挑戦してみようということで、準備を開始しています。 五、農夫のこの3月の学習ですが 私などは、自分自身に、日本の戦後史に空白感を感じていたんですが、 宮本百合子の『歌声よ、おこれ』を読むと、それは個人の怠惰の問題だけでなく、日本の特殊な歴史的な事情もはたらいていることがわかりました。 戦中の10数年間にわたって、治安維持法により戦争翼賛する意見以外は、あらゆる文化が取り締まりの対象になってきたんですね。これは徹底した野蛮なもので、民主主義の芽を破壊した10数年間だったんですね。わたしなどは、その直接経験はないんですが、その記録は、注意してみればあちこちにありますし、今でもいやおうなく私たちはその後遺症を体験させられているんですね。 戦後の社会は、その後遺症が色濃くある中で、戦後の新たなビックバンのなかにおかれた。国民は新たな民主的憲法制度はかちとったんですが、芯から十分に自覚して得たわけではなくて、とにかく実現したんですね。もちろんそれは貴重な成果です。しかし弱点もあります。 中には戦争肯定し推進してきた面々ですが、本質的にそれまでを反省していないんですね。大勢上、余儀なくれた民主主義に身を合わせるようにして、実際にはいいかげんなもの。本音は過去を懐かしみながら、これまで大事にしようとしてきたことをジワジワと空洞化させようとしている。その系統的な力が今もって働いている。私たちが置かれている矛盾というのも、そして戦後の基本問題というのもここに原因があったわけです。昨今の国政の状態ですが、その矛盾が抜き差しならない形で、分かりやすく様々なところでふきだしています。上に立つものが、子どもたちにも示しがつかない事態です。今というのは、それを根本的に解決することが、それが問われだしている時ではないでしょうか。このことが、日本の戦後史の本質問題だったんですね。宮本百合子ですが、戦後5年しか生きれかったんですが、その文芸評論には、はっきりとこの問題が指摘されています。素晴らしい見識です。 わたしなどは、戦後生まれですが。あらためてこの過程を学びなおして、しっかり「空白感」をうめるようにして、今こそ、歴史を前にすすめれる資格をつくらなければならないということです。 私など、最近感じるんですが、そこには、学び方においても基本姿勢が問われていると思います。 勝手な独断によって人類が生み出した価値あるものを、いとも簡単に否定しようというのは、安倍氏だけではないんですね。どこの世界においても問われうる問題なんですね。これは現代の日本の基本問題です。そして、その轍を踏まないためにも、人びとの成果をしっかり評価し、引き継げるようになること。私などは思うんですが、唯物弁証法というのは平たく言えば事物に即して判断することですが、これが簡単そうでいて、必ずしもそうではない。この方法を意識的につかむことが必要だし、大切になっていると、とくに感じている次第です。
2017年03月31日
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赤ジソの種をまいてきました家庭菜園は、多くの都会人の静かな人気なんですが。八百屋さんで見る作物と、自分で育てた作物とでは、天地の差が出来てしまいます。みかん以外にも、いろいろ野菜に挑戦した当方ですが、今季は、ラッキョウ、サトイモに次いで、本日、3月30日に、第三の栽培として赤ジソを種まきしてきました。赤ジソは、6月の梅干しづくりに欠かせないものです。赤ジソ、「このくらいならできるだろう」と、種をまきさえすれば、作物は育つしできるだろうと想定していたんですが。それが、そんなに簡単ではないんです。1、雑草に埋もれてしまって、赤ジソがわずかしか発芽しない。2、雑草を除草したはずなのに、わずかな発芽で葉を使用するほどには育たない。ようするに、簡単だろうとの想定は、コテンパンに打ち砕かれたわけです。5-6年挑戦しているんですが、ある程度の赤ジソを収穫できたのは、1回だけなんです。これまでは、八百屋さんで、農家のお世話になってきました。しゃくなことなんですが、仕方ありません。そうしないと、手に入りませんから。梅干しの材料に事欠きますから、仕方なし。さて、「今回こそ」との、新らしい試みなんですが、1、真鶴の菜園に加えて、早川でもミニ菜園をつくってみました。 競合しないように、事前にしっかり草取りして、畑づくりをしました。2、事前に、1週間くらい前に、石灰と配合肥料をほどこして、 畑の土づくりを準備しておきました。3、種まきのタイミングを、3月30日を適時と判断して、種まきするようにしました。4、それと、種を直播きするだけでなく、 それとは別に、ミニポットで発芽を準備するようにしました。さて、どうなるか。一般の農家人たちにとっては、当たり前のように育てている赤ジソですが、にわか農夫には、どこが違うのか、栽培技術と経験の差を埋めれてません。これまでのところ、結果は具体的なんです。はっきりと越えれてない壁があるんですね。さて、今年の赤ジソ栽培ですが、はたしてどうなるでしょうか。
2017年03月30日
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宮本百合子「新日本文学の端緒」を読む『歌声よ、おこれ』を読んで、戦後評論を読まなければ…とは思いつつも、しかし全集第13巻は580ページもある。ついつい後回しになりがちでしたが。この宮本百合子の戦後評論の第一声「新日本文学の端緒」は、1945年10月に書かれたもの。たった15行の700字足らず、写真にしても一枚に収まるものなんですが。いやいや、さすがですね。強い決意が伝わってきます。戦時中、旧文学が崩壊していった過程に、文学者自身の問題として自覚が弱い。何故崩壊したのか、日本文化の後進性とその由来を極めつくして、それを足場として前進していくとの、明察と勇気のなかにこそ、新たな端緒が期待される、と。一、エンゲルスはこんなことを言っています。「この時期は1848年革命を準備した時期であったのであり、それ以来、我が国でおこってきたすべての出来事は、1848年のつづきにすぎず、この革命の遺言執行にすぎないのである。」(『フォイエルバッハ論』の書き出しです)同じ関係が戦後日本でも言えます。ここで宮本百合子が直面した課題というのは、戦後の日本国民が直面してきたことの本質なんですね。日本国民はまだ、この基本問題を卒業できていないんですね。だからこそ、現在のような現象に直面するわけです。70年を経ても、それが端的に伝わってくるんですから、本質をとらえるということは大事なことです。それに百合子の希望と決意のほどが伝わってきます。それらは、今を生活し活動する人を励ましてくれるんですよ。二、今、共謀罪が問題になってます。侵略戦争を反省してない政治勢力は、様々な旧体制の復活を探っています。時間がたてば、戦争の問題は避けてうやむやに出来る、またぞろ復活できると思っているんですね。あの手この手で、民主主義を否定するんですね、こうした連中と付和雷同組は。私が感じていた「空白」は、文学の世界だけではないんですね。やはり戦中の10数年間は、哲学でも、宗教でも、諸科学の全般が取り締まられたわけで、その経験を日本は持っている。多少とも知るほどに、各分野に「空白」が刻まれていたことがわかります。たとえば以前に目を通した本ですが、『宗教弾圧を語る』(岩波新書 1978年10月20日刊行)『証言・唯物論研究会事件と天皇制』(新泉社 1989年6月25日刊行)治安維持法の具体的に現実的姿を再確認すべきです。為政者がこんな時だからこそ、再度これらも読み返すようにしたいとおもいます。どうして、戦争の惨禍を体験した国民が現行憲法を国民合意として暮らしてきたのに、そうした中で、はぐれカラスの時代錯誤がこうして出て来るのか。戦後の民主的改革の成果を守れるのか、だまされて捨てさせられるのか。国民は、今、それが真剣に問われているということですね。歴史に学ぶということですが。それは、悪しき「訓詁学」的な詮索ではなくて、今が問われているんですね。現代の課題が、歴史に光を与えて、その今日的な側面を照らし出してくれるんですね。宮本百合子が、この戦後最初に書いた文芸評論で述べた決意と希望ですが、そうしたことの示唆をふくんでいると思います。私たちは、戦後生まれで、その後の世代ですが、しっかりと戦後の歴史に学んで、前にすすめれる力をもちたいものですね。
2017年03月29日
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義母のお見舞い群馬県へ、3月26日-27日に行ってきました。義母のお見舞いだったんですが。泊ったのは、湯宿温泉の金田屋さんです。陽気が、かなり寒かったんです。この時期には珍しいそうなんですが、三国山は雪が降ったとのこと。バスを待っていた人ですが、「今年の春は、いつまでも寒い」と。当地に住んでいるからといって、寒さに強いわけじゃなく、寒がりの人もいるんだ、と話していました。話は違うんですが、私は、昨日、26日(日)、朝の9時前に八王子を出てきたんですが、このため午前9時から始まる日曜討論を、移動中ですから携帯ラジオで聞こうとしたんですが、討論会は放送しなかったんです。高校野球の中継を放送していた。私の認識だと、テレビの討論会については、ラジオでも同時放送をしていたんですが。それが、いつからそうなったのか、ラジオでは放送しなくなっていました。記憶では、こうした場合、以前は高校野球を第二放送で放送するようにして、政党討論会については、第一放送で放送していたんですが。いまは、ラジオでは政党討論会は放送しなくなっている。いったい、いつからNHKはこうなったんでしょうか。
2017年03月27日
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『経済』誌「変革の時代と『資本論』」を通読して 「変革の時代と『資本論』」(『経済』誌 特別号 2017年1月刊)を通読しました。本の帯によると「『資本論』刊行150年」の特集号です。この時期に刊行されたのは、新入学や新学期を迎える学生たちを対象としているんでしょうね。 編集部の「あとがき」によると、「広く市民に読んでほしいものを厳選し、まとめた」とのことでもあります。8名の著者が2008年から2016年に書いた11本の論文をまとめたものだそうです。 読み込むのはこれからで、まだざっと通読した段階ですが。 有名なマルクス『資本論』ですが、これに挑戦するにはやはり案内が必要ですよね。 この大部な『資本論』を、実際にどれだけの人が踏破することが出来るでしょうか。それには、やはり様々な角度から問題を刺激してくれる案内書が必要ですよね。 そこには、『資本論』の今日的な意義もあるでしょうし、新たに経済学史の上で前進させた点がどこにあるのか、全体の基礎になっている唯物史観の問題もあります。また第一巻や全体像の構成問題もあります。誰しも『資本論』を挑戦しようと思い立つのは簡単なんですが、実際に読み通すことは大変な努力がもとめられます。こころざしを励まして、実際に終わりまでたどり着くには、やはりこうした刺激的な材料が必要なんですね。 私などの手元には、色ちゃけた本があります。1967年5月『経済』臨時増刊号なんですが、 「『資本論』発刊100年を記念して」です。 これは、1969年4月に私が法政大学に入学したころに手に入れたものなんですが。当時のさまざまな分野の著名な専門家や研究者たち30人が、やはり『資本論』の魅力を説いてくれています。 2017年版と1967年版、50年前も今も主題は共通です。おのずから中身をペラペラめくって、比べてみたんですが。 かての熱意もすごかったんですね。日本での研究史や、文学者など各界からの随想なども含めて、じつに多彩な思い入れがこもる案内書になっています。 今回の案内書ですが、『資本論』の今日的な側面を解いてくれていて、読みやすい解説になっています。初めて『資本論』を学習しようとする人たちに、よく配慮して書かれています。それが時代社会と意識の変化ということですね。 しかし、一番の問題は、このプレゼントに対して、これをどれだけ多くの人たちが、いかすかということですね。これを自分自身の探究に生かすことが出来るか、活字離れが言われる近年のことですから、容易ではないとおもいます。はたしてどれだけの反響をわき起こせれるか、これもその一助のつもりなんですが。 私などの場合ですが。当時、1970年代前半の法政大学の荒廃した中では、やっと『資本論』第一巻を読めただけでした。その後、社会人になってから、学習サークルをつくって読んだんですが。その時の簡単な報告集が残っています。1994年6月から2001年10月までかかって、ようやく第52章までたどりついた次第です。最初の思いたちから数えたら、30年以上がかかってしまったわけです。 これでは、テンポからしても、今の時代の流れにはそぐわないんですね。 私などは、引き続き、あらためて理解をふかめることが課題であり、この理論をどのように生かせるかが問題なんですが。あらためて、この本を、そうした刺激とさせていただきます。 それぞれの人には、もっともっとスマートな学習のやり方があると思います。しかし王道はありませんから、これをどうやってクリアーしていくか、そして生かしていくか、ですね。
2017年03月26日
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真相究明と蓋かけとのぶつかり合いこれは東京都議会の百条委員会の証人喚問についてですが。3月23日の国の参議院と衆議院予算委員会の証人喚問を聞いていて感じました。証人喚問というのは、問題を究明しようとする力と、蓋かけしようとする力との、この二つの力のぶつかりあいなんですね。実際の長時間にわたる証人喚問を、生活者は聞けるわけではありません。あとから様々なコメンテータの意見を聞くことで、分かるかというと、そうではない。その局の報道姿勢、コメンテーターの姿勢が、これがまた様々なんですね。だから、よくよく注意してキャッチしてないと、世論誘導に流されちゃいます。東京都の問題はローカルですから、全国紙の扱い方は限られています。幸いにして、東京には新聞「東京民報」があるんですね。おかげで、この証人喚問についても、その問題点を知ることが出来ます。だいたい、この証人喚問でも、自民党都議は石原氏の豊洲移転の決断を「大英断だった」などと、喚問でも称賛している始末ですから。根本的に、東京都知事として豊洲移転を決定したことへの責任の問題です。石原氏は、「自分が都知事に就任した時には豊洲移転は既定路線だった」すでに決まっていたとか、「東京ガスとの交渉は、すべて担当者に任せていた」などと、責任回避をしています。証人喚問では、曽根都議が、当時の部下だった市場長が石原知事に説明し了承をえたとの証言を指摘し、その証拠資料をしめした。これに対して、石原氏は、「ですから、・・私は記憶にございません。記憶にないものは無いんですから。」曽根都議は、「事実を確認しているのであって、これほどの重要問題を都知事だった石原証人が覚えていないということ自体、私はとうてい信じられません」と。個々の私人の経験では、いろいろと記憶が薄れることもあると思うんですが、東京都知事がですよ、その重要な政策決定について、「記憶にない」なんてことで、責任のすべてをすり抜けれるとしたら、これは公的にも私的にも、人間としてとんでもないことです。そして、メディアのコメンテーターの垂れ流しを聞いていると、肝腎のこうした問題点を、きちっと問題として正す論調がぼやけているんですね。やはり、事実をしっかりとつかんで、問題点をはっきりさせることが大事だと思います。国会の3月23日の籠池証言ですが、この方は、証言者は、真相を発言しようとしているのに、質問者の方が、「そうじゃないだろう」とか、打消しと不信を掻き立てようとしていました。これは、これで国政の基本な大問題になっていますが、どの様に正すか。東京都政も国政も、都民と国民の主権者の対応が問われています。これは、戦後政治の基本的な体質が問われていることであり、戦後の国民の民主主義が問われています。ここで国民の良識が発揮されなければ、不正と不正義が居直って動き出す、すでにそのきざしがあちこちに見えますが、公然と闊歩しだすということです。忙しい中でも、政治を監視することもその一つですが、今まさに、国民の民主主義的良識と力の発揮が問われているということです。
2017年03月25日
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新しいミツバチの巣箱ができました「みかん園で二ホンミツバチを飼う」-この数年の、私の懸案なんですが。すでに、四年間、三度の失敗をしています。前回は、冬も越してまる一年を飼ったんですが、やはり壊滅してしまいました。今回、気持ちを建て直して、四度目の挑戦をしようと思っています。それで、新たな重箱式の巣箱をつくりました。右側の巣箱は、養蜂家の方がモデルとして貸してくれた巣箱です。中央のが、第一号巣箱で、これが適当かどうか、まもなく審査してもらいます。左側のは、自分自身の原型として、いつでも作れるように手元に置いておくもの。二ホンミツバチの養蜂ですが、これまでは、私などは他人事だったんですが、アカリンダニという障害が、全国的に蔓延しているとの問題がおこっているようなんです。私などは、その脅威をまともに、直面しているこことして、見てこなかったんですが。これまで、直接に目に見えるスムシやスズメバチが問題だと見ていたんですが、それもさることながら、ミツバチ自体の対抗力にも問題があったそうなんです。二ホンミツバチ自体を弱らせる目にみえない障害が問題になってたというんです。そんなことはちっとも知らず、まったく考えも及んでいなかった。今回、養蜂家の方から、そうしたアドバイスをいただきました。そうしてみると、これまでのミツバチの状態に症状の重なる点があるんですね。もちろん、問題はアカリンダニだけではなく、いろいろなことがあると思いますが、とにかく今度は、そのアカリンダニ対策をしっかりして、もう一度、再挑戦してみようと思っています。
2017年03月24日
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早川での最初の草刈り今日、3月23日は、国会で証人喚問が行われていましたが、断片的なラジオを聞きながら、手は動かすということで、早川園での、今季最初の草刈り作業を行ってきました。今回が最初の草刈り作業です。何しろ、春分の日を過ぎると、雨が降るごとに繁茂してくるんです。しばらくぶりに使うエンジン式の草刈り機です、うまくエンジンがかかるかどうか、心配しましたが、ご覧のとおりです。これは草刈り前の様子ですが。ここでひと刈しておかないと、大きくなった草は、刈るのが大変になるんですね。この草刈りをしていたら、アヒルのような特異な鳴き声が聞こえてきました。30メートルくらい先の、隣の畑からなんですが、分るでしょうか、キジです。耳に赤いトサカがついてますから、オスのキジです。「キジも鳴かずば、撃たれまい」と言いますが、大きな特徴的な鳴き声をあげます。きっと、メスに自分の存在をアピールしているんでしょう。キジは、滑走はしますが、空高くは飛べないんですよ。自然に守られていないと、生息することができないんです。それだけ、この石垣山は自然が豊かだということです。一方、真鶴園の方は、今日は、ミツバチの巣箱の、2箱目の部材のせん断をしたんですが。こちらは、市街地の中ですから、キジはいません。その代り、キジバトがやって来ました。こちらがノコギリの騒音をたてているすぐ隣に、二メートルくらいの距離ですから、なかなか勇気あるキジバトです。なにか、しきりと地面を、あちこちついばんでいました。もしかして、前回撒いた配合肥料をついばんでいるのかもしれませんが。そうだとしても、しかたありません。レーキですき込んでおきましたから、全部は取られないでしょう。梅の枝ですが、木によってアンバラがありますが、この枝は、みごとに幼果がついています。ある時期に、付き過ぎた梅の実は自然に落下しちゃうんですが、このまま全部の実が大きくなるわけではありませんが、しかし、この瞬間は、たいへん見事な枝ぶりです。早川も真鶴も、芽吹きの季節にむかって、それぞれ、豊かな自然が動きはじめています。
2017年03月23日
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戦後政治を問う、『歌声よ、おこれ』を読んで 私は、今年の2月から宮本百合子の『歌声よ、おこれ』(新日本文庫)を読んできました。 どうして、この本を取りあげたのか? それは定かではないのですが。 おそらく、2015年9月17日の戦争法強行と、その延長線上の事態が展開されているからでしょう。この一連の続いている事態が、この本を引き寄せてくれたんだと思います。 この文庫は、戦中の評論3作と、戦後の評論7作の、計10篇の文芸評論からなっています。 宮本百合子は、1899(明治32)年に生まれて、1951(昭和26)年1月21日死去(51歳)ですから、戦後はたった5年間くらいの命でしかなかったんです。 ここに紹介された戦後の評論7篇を読んでいて、一番感じたことですが。現在の日本が直面している問題ですが、政権の長が、平和憲法の下にあっても、自衛隊を海外の戦場に出そうとして、国民世論を強引にねじ伏せにかかっている事態があり、その延長線の政治がすすめられています。この宮本百合子の評論を1篇でも読むと、そこには日本の戦後政治の基本的問題があるということです。百合子は、その戦後の5年間の命の中で、この問題を掘り下げて国民の課題をあきらかにしつつ、警鐘乱打していたということですね。命を縮めてまでも。 戦後70年がたっているというのに、それでもあえて「百合子の提起したことを問う」というのは、どうしてか。これは確かに過去のことですが、しかしそこに光をあてているのは現在につうじている問題だということなんですね。その客観性が時間とともに無くなっていれば、あえて問うこともないのですが、その基本が歴史的に多少の形は変えてはいても、同じ仕業をし続けてきているということなんです。 だから、百合子の評論に現実感を感じるんですね。国民は70年がたっても、問題を卒業できていない。だからいまでも、今でこそ、生きた意義を持ち続けていると思うんです。 だいたい、かつては「二度と戦争はしない」との国民的合意ですが、まがりなりにもそれは守られてきていました。それが今はどうでしょう、ペラペラしゃべっても、肝心なことにはこたえず、やっていることは明確です。だから今は、かつてよりももっとたちが悪くなっていて、もっと卑劣なごまかしをさまざまに押し付けようとしているということです。 今の政治は小選挙区制による虚構の多数派です。これにより、つぎつぎとくりだしている自転車操業の反動政治です。これに対して、その一つ一つに対して打ち返すことは大事だし、かかせませんが、同時にその根本的な本質をたたかなければ、モグラたたきのようになってしまい、いつまでたってもらちが明かないということになります。 私が思うに、その問題の基本をとらえて、一つ一つを戦うことが大切かと思います。その政治の本質をとらえる上で、この宮本百合子の『歌声よ、おこれ』の評論は力を発揮してくれると思いますよ。そこには、日本国民が近代に課題としている問題や、また歴史的につくりだしている業績など、いろいろなアドバイスをもっていると思います。 私は、この際、もっと徹底したいと思っています。 宮本百合子全集の第13巻は、文芸評論四(1945年-1951年)ですが、ここにはこの文庫の7篇の評論はすべて入っています。この第13巻には、全集として全部で76篇が集められています。 今に続く反動政治を、百合子がどのようにとらえていたか、せっかくの機会ですから、この全体を読んでみようと思っています。この成果を生かさないというのは、もったいないと感じています。
2017年03月22日
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みかんの木には恵みの雨今日、3月21日は関東も一日、中雨の天気です。人は、この天気を敬遠しているかと思いますが、みかんの木は、喜んでいるかと思います。この雨が降り出す前に、ひと仕事してきました。真鶴園の方ですが、一つは湘南ゴールドを収穫してきました。湘南ゴールドは、小木が2本ありますが、木の負担を軽減するため、そのすべてを収穫してきました。この収穫は、雨が降ってしまえば、乾くまでは出来なくなりますから。もう一つは、宮川早生の小木の移植です。移植した木が定着するには、水やりが必要ですが、この雨が、自然の水撒きになります。さらに、早川園ですが、こちらも、湘南ゴールドの収穫を終えました。収穫したあとには、草取りと施肥をしています。収穫をすべて終わった湘南ゴールドの木で、草取りと、施肥をしておきました。こちらは、水に関しては、ほとんど自然任せですから、今回のこの雨ですが、みかんの木々にとっては、きっと恵みの雨になっていると思います。これは、3月19日(日)の午後の作業でしたが、この日は、良い天気でした。作業終了後の景色です。帰りは午後3時位になりましたが、この日は、連休の中日、早川辺りは、伊豆方面へも箱根方面へも、車車の大渋滞でした。ということで、雨の降りだす前に、予定していた作業は終了できました。
2017年03月21日
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梅の幼果と畑づくり3月19日に真鶴のみかん園では、梅の幼果を見つけました。明日の春分の日を前にして、陽気も日中は暖かくなって、雑草の繁茂がはじまりだして、地面の方ばかりを注意していたんですが、気がついて、まわりを見回してみると、梅の枝のあちこちに幼果がついていました。こうなると欠かせないのが、赤ジソの種まきです。6月の梅干づくりにあわせて、赤ジソを栽培したいところ。だれが考えたのか、梅干づくりには赤ジソが欠かせません。その時期になると、農家の庭先や畑の角には、立派なシソを見かけます。シソ栽培は簡単そうですが、そうでもないんですよ。当方も毎年種は撒くんですが、これまでうまく生育したのは1回だけです。さりげないことにも、やはり長年の経験と技がちがうんですね。やむなく、市販される赤ジソに屈服しているんですが。さて今回はどうか。今回も挑戦です。真鶴のみかん園に赤ジソ用にミニ畑を準備しました。また、初めてですが、早川のみかん園にもミニ畑を用意しました。これは早川のミニ畑です。種まきをする前の下準備なんですが、予定地から雑草の根を取り去って、石灰と肥料を撒いておきました。見てのとおり、早川の方は、雑草の繁茂が始まりだしています。地面の全面を、完全に雑草の根が厚く覆っています。いくら草刈りしても、根は健在ですから、ひと雨ふるごとに、グングン繁茂してくるのは当然なんですね。早川での試みは初めてなんですが、はたして、赤ジソは雑草との競争の中で、うまく生育してくれるでしょうか。ということで、梅干づくりの為の赤ジソを育てるために、両方のみかん園にミニ畑を準備しました。3月末には、赤ジソの種まきをするつもりです。
2017年03月20日
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3月19日は、重箱式巣箱の材料づくりでした当方はこれまで、みかん園で二ホンミツバチを飼おうとしてきましたが、過去4年、3回挑戦したんですが、3回ともすべて失敗してしまいました。3月14日に山梨へドライブしたんですが、それは、山梨で二ホンミツバチを養蜂されている方を訪ねて、その養蜂の経験を聞かしていただきに出かけたものでした。これまで当方は、スズメバチとスムシが蜜蜂の消滅の原因とみていたのですが、その方からアカリンダニが原因で、ミツバチ自体の活力低下があることを知りました。小さくて目には見えないアカリンダニですが、各地で問題になっているとのことでした。私などは、この問題を正面からお聞きし、直視するのは初めてのことなんですが。それで、その方がつかっておられる巣箱をお借りしてきました。これがその巣箱です。これまで私が使っていた巣箱とは違って、これは重箱式の巣箱です。問題と対処策を突き合わせるには、まずは、この前提が必要なんですね。さっそく仕事の合間に、この巣箱の構成を調べてみたんですが、これは、入手しやすい板材から出来ていました。3種類の板から、10個の部材で出来ていました。昨日、ホームセンターで原板を入手しておいたんですが、今回のみかん園での仕事ですが、いろいろな仕事がありましたが、この原板のせん断が中心でした。はたして、この巣箱のようにしっかりしたものが出来るか、これから製作にかかるんですが、とにかく、この工作が養蜂仕事の前提になります。蜜蜂が分蜂しだす前に、それとみかんの花の咲きだすまでに、したがって、この3月中に、新たな巣箱が完成するかどうかが問題です。これまで、過去3回の失敗経験からして、遠隔地で養蜂することは、発生する諸問題に対処するのが容易ではないんですが、少なくとも、これまで目先を変えて、抜けていた問題に対処するようにして、もう一回だけ、みかん園での二ホンミツバチの養蜂に挑戦してみようと思っています。
2017年03月19日
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多摩市永山で新鮮朝市が開かれました3月18日(土)、東京・多摩市永山の団地で、新鮮朝市が開かれました。これは、近隣の生産農家3-4軒が協力してくれていて、昨年の12月から、月に2回の朝市として開かれています。毎回、朝どりした野菜ですが、ジャガイモ、大根、ネギ、キャベツ、ゴボウ、小松菜、ホウレンソウなど、様々な野菜が並べられています。回を重ねるとともに定着してきて、品物が、新鮮で安く、おいしいと、好評です。当方も、小田原から柑橘類を運んできて、並べています。今回も、湘南ゴールド、清見、三宝柑、文旦、レモンなどを並べました。湘南ゴールドについては、これは、近年西湘農協が地域の特産品として力を入れています。東京多摩市では、3月3日に6袋が初デビューしたんですが、今回も朝市用にと、事前に11袋を用意し、当日も10袋用意しましたが、「これはおいしい」、なかには「果皮だけでも焼酎をひきたてる」との人もいて、この時期の柑橘として、なかなか好評です。用意しておいた湘南ゴールドのすべてが、ほどなく完売してしまいました。
2017年03月18日
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真鶴で地魚を賞味しました3月17日、知人を真鶴と早川のみかん園を案内してきました。早川では、みかん園とともに、石垣山の豊臣秀吉の一夜城と、源頼朝の石橋山の古戦場を見学しました。真鶴では、真鶴のみかん園とともに、食事処の「まるなか」で、地魚を賞味しました。これは、そのお刺身の盛り合わせですが。1.カサゴ、2.イサキ、3.メバル、4.ウマズラ、5.ホウボウ、6.アジ、7.ブリ、と全体で7品。これで二人前です。いずれも鮮度抜群の相模湾の地魚です。その新鮮な味を賞味しました。食事処は、真鶴の「まるなか」でした。そのホームページです。http://www.ryokan-marunaka.co.jp/今回は、昼食後に、早川のみかん園にもどって、清見と、湘南ゴールドを収穫してきました。網のかけてなった清見ですが、この間に、鳥たちがだいぶ突っきだしていました。
2017年03月17日
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職場を退職してから1年、温故知新(PCが安定しないので、テストです)2016年3月末に職場を完全退職してから、まもなく1年がたとうとしています。 このブログのテーマでもありますが、この一年間をふりかえってみました。 大きく生活は、3本くらいの柱になっています。 一つの柱は、みかん農夫の仕事です。 これは2001年から真鶴のみかん園を休日農夫として手入れしてきましたが、それに加えて、2015年11月からは早川の市民園も貸していただいています。さらに、2016年12月11日から多摩の団地で朝市が、月に2回開かれるようになりました。みかんをつくり、都会の消費者に提供していきます。 もう一つの柱は、今の日本政治にたいする監視です。憲法と戦争法、原発と沖縄、農業とTPP、そしてメディア。日々材料に事欠かないのですが、それぞれ暮らしと命に直結していますし、未来と道義が問われています。 もう一つ柱は、これは自分自身の課題ですが、学習です。これまで時どきに学習してきたわけですが、あらためて、その今日的な意義を明らかにして、現在の自分自身の社会歴史における位置をつかみたいと思っています。 学習は、時々に一点を探っていますが、しかしそれは社会的で立体的です。これはこれで、1.古典、2.政治社会、3.歴史、4.文芸など、柱建てがでてきます。最近、フェイスブックを使っていたら、過去の1年、2年前の同日の学習をふりかえらせてくれます。これを見ると、自分自身の認識史というか、人の認識というものは一点にとどまらずに、つねにラセン的にすすんでいることが実感されます。 自己のうちだけではもったいないので、なるべく紹介するようにしています。 この過去帳ですが、今回は、2013年3月15日の『宮本顕治著作集』の第四巻です。現在、宮本百合子の文庫版『歌声よ、おこれ』(新日本文庫)で、日本の戦後の歴史課題を探っていますか、かさなるものがあります。現代問われている問題の、大元が、ここにあります。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201303150000/
2017年03月16日
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山梨県へのドライブ二ホンミツバチを養蜂されている方を訪ねて、山梨県にドライブしてきました。うまく行くでしょうか、ブログの不調のため、テストです。
2017年03月15日
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ふたたび、宮本百合子「作家の経験」を読む 宮本百合子「作家の経験」は、1946年11月11日に書かれたもの。文庫本『歌声よ、おこれ』(新日本文庫)の中にある評論です。19ページで41段落と短いものです。 一、この「作家の経験」とは、何なのか? それは戦前のプロレタリア文学運動の経験の総括だと思います。 私は、前回・2月24日のブログで、この作品を紹介しました。 ここで、プロレタリア文学同盟が、治安維持法によって弾圧されて、解体させられた末期が描かれているのを紹介しました。 1931年の満州事変以降、敗戦まで、日本の民主文学運動の状態ですが、 第3段落「惨憺たる日本の現実は、十何年かの昔、日本文学の発展途上に提起されていたいくつもの重要な課題について、その後今日まで、一度もまともにとりあげ話しあう折を与えずにきた。」「日本のプロレタリア文学運動が凶暴な嵐に吹きちらされた1932年以来、当時、未熟なら未熟なりの誠実さで論じられていた諸課題が、討議されているさいちゅうであったその姿のままで、ちりぢりばらばらに、今日文学のあちこちに存在している。」 1946年時点では、文学者たちは10数年間の弾圧の古傷を様々にかかえていたんですね。 プロレタリア文学運動の歴史総括も、大事な課題だったことがうかがえます。 私などは、1950年生れですが、「戦中・戦後の空白感」を感じていました。これを読むと、たんに怠けていただけではなく、一面では歴史的根拠もあることが分かってきました。 二、当時の直面した課題についてですが これは、敗戦から1年後、戦後の民主的改革の最中に書かれたことですが。 第20段落「半封建的なものとのたたかいが、日本においてどんなに重大であり、複雑であるかということは、今度の憲法一つ見てもわかる。民法が改正されただけで生活感情の相剋はなくなると思うものは無い。」「後進の日本は、民法のブルジョア民法としての改訂さえ、やっと1946年に行う状態である。その結果、私たちの日常生活のあらゆる面と感情とが、古きものへのたたかいと同じ刹那に、帝国主義末期の現象である様々な矛盾と衝突し、そこからの出口を、より進んだ民主主義-社会主義的民主主義を見わたさずにはいられなくなっている。」 第21段落「一つの文学においても基本的な課題にしても、人間らしき歴史性は、私たちに、独特な日本の解き方を求めている。」 この民主的改革の中身が、全国に広がるには、さらに多くの時間と軋轢が必要だった。 これは私などの体験ですが、関東の片隅ですが、2000年に相続問題が発生したんです。今にしてふりかえれば、それは家督相続と均等相続の問題がぶつかったんですね。 私たちの今も、その歴史の中にあるということです。 三、ここでは、新たな歴史的課題として、民主主義的共同を提起しています。 プロレタリア文学の核心は、日本の近代の半封建的社会の中で、民主主義を確立しようとした希求にあった。戦後の社会条件は、それに確固とした基礎をあたえていることを、洞察しています。これは、1946年11月11日に書かれたんですよ。 第39段落「プロレタリア文学の新しい民主主義文学との生けるつながりが明らかになるにつれて、新しい民主主義がすでにその前脚をかけている社会主義への道が明らかになった。 私たちの今日の創作方法として、社会主義的リアリズムを取りあげるには、なにか過程がいる。」「新しい民主主義の背景部分、半封建的なものとのたたかいの部分に照応する活かされかたが当然いると思う。現実を発展の過程において理解し、描き、かぎりない発展の可能をもつ民主主義の前途に期待する意味で、私たちは進歩的なリアリズムの創作方法に、十分の多様性と多産な成果とを求めるのである。」 この見通しは素晴らしいと思いませんか。今日的なものと感じませんか。 これは、今日の民主主義的共同をつくり、かためる上でも、大切な思想になっていると思います。日本の近代史からの歴史的な総括として引き出されている宝なんですね。 四、結論です。 私などは、もっと早くこの評論に意義に気がつくべきだったんですが。 1、1971年1月20日の「宮本百合子没後20周年記念の夕べ」で、不破哲三講演「宮本百合子の社会評論」を聞いた時が、一つの刺激だったはずなんですが。 2、1977年9月20日に文庫本『歌声よ、おこれ』が刊行された時も、受けとめるべき時だったんですが。 3、1986年9月20日に『宮本百合子と12年』(不破著)が刊行された時も、一つの機会だったはずなんですが。 結局、実際には2011年の原発事故と、2015年の戦争法強行に刺激されて、あらためて読み返して分かる始末ですから、かなりの蛍光灯だったということです。 でも、まぁ、この作品を見逃したまま埃をかぶったままにしているよりかは、ましだということですね。 まだお読みでない方には、是非ご一読お勧めします。
2017年03月13日
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第3回マルクス『経済学・哲学手稿』の 「ヘーゲル哲学批判」から前回(第2回)は、この論文の初めの部分にあるフォイエルバッハに対する批評を紹介しました。フォイエルバッハが唯物論に基礎をおいたことも偉大な業績として評価しています。このフォイエルバッハについての論評が、この論文全体の序論の位置になっています。とくにここで問題とするのは、フォイエルバッハがヘーゲル弁証法をどのようにとらえていたかということです。マルクスは指摘しています。フォイエルバッハは、否定の否定を、ただ哲学のなかでの矛盾とだけとらえた。哲学と宗教との関係で、その範囲内でとらえているだけだ。ところがヘーゲルにとっては、否定の否定は、いっさいの存在の実証行為としてとらえている。もっと広く、かつ根本的にとらえている。それは歴史の運動の表現でもあり、人間の産出行為でもあるととらえている、と。マルクスは、ヘーゲル弁証法をヘーゲルそのものにおいて吟味してみる必要があるとしているわけです。マルクスは、この序論部分の中で、この論文のテーマについて、3点をあげています。 (P210 以下、国民文庫でページを紹介します)1、否定の否定の、この抽象的形式を明らかにする。2、ヘーゲルのこの運動が、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』と同じく人間疎外の過程が、対照的になっている(ひっくり返っている)、この関係をあきらかにする。3、ヘーゲルにあってはこの運動は批判的になっていない、弁証法のほんとうの批判的なすがたをあきらかにする。この第3回目の学習では、この論文がどのような筋書きになっているかを紹介します。 一、ヘーゲル体系を一べつして ヘーゲルの二重の誤りと、その成果が純粋思想としての弁証法にあること ここで、マルクスの基本的な論点が提起されています。(P211-216)二、ヘーゲルの一面性と限界について、ヘーゲルの『精神現象学』の「絶対知」から、その8点の主張について。マルクスは特に(2)と(6)について、徹底して吟味している。(P217-231)三、ヘーゲル弁証法の肯定的な諸契機について紹介しています さらに、論理学から自然哲学への移行についての問題です(P231-241終)この論文「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」は、 序論に続いて、以上の3つの章から組み立てられていると思います。これから順次なかみに入っていきますが、この難解なヘーゲルの『精神現象学』と、それに対するマルクスの批判を、はたしてどこまで理解することができるか。それは次回からです。(これは、2012年3月12日のブログです。5年前ですが、こんな学習をしていたんですね。思うんですが、おそらくエンゲルスは、マルクスが1883年に亡くなって、その後に残された遺稿の中から『経済学・哲学手稿』を見つけたんですよ。二人が開拓した世界観への探究が、そこに残されていたんですね。この1840年代に探究した中身を、もっと分かりやすく伝えたいと思って、『ルードリッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終焉』(1886年)を書いた。この基本的方法は、その後170年たちましたが、やはり大きなプレゼントですね。その生きた意義を、現代に明らかにするというのは、大事な課題ですね。あらためて読み直してみて、そう感じます。)
2017年03月12日
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ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』(その20)「五「実践理性」道徳 (b)道徳的正」から抜粋2『人間の頭脳活動の本質』の散策へのお付合い、ありがとうございました。ここが一つの圧巻です。これでこの本の追跡も終わりとします。この第五章は「実践理性、道徳」、すなわち人間の社会論を扱っています。今回はP114‐21節からですが。ディーツゲンはここで、歴史家のマコーレーの『英国史』から一節を引用します。それに対して批評しながら見解を述べていきます。22節 ディーツゲンはマコーレーの歴史意識が主観的な意識に『捉われていて』いるため、歴史意識の客観性まで高めることが出来ていないと指摘し、検討していきます。〔意識というのは無前提なものではなく、現実的存在が意識を規定している問題です〕P115-24 その中で、「いかなる断言的命令も、現実の実践的な正(正しさ)を基礎づけることは出来ず、逆に現実に感覚的に正しくあることの中に倫理学の基礎づけを見出す。」と指摘しています。さらに、こうしたことから次の様な見方を導き出します。「実践が科学の前提である限りにおいてのみ、正に関する科学が実践の導きの糸の役割をする」と。それは「科学というのは、その前提にある実践によりはじめて教えられたことより以上のことを実践に教えることは出来ないから。理性は人間の行為をあらかじめ定めることは出来ない。そのわけは、理性は現実を経験するだけであって、『予料』(哲学用語で、経験的認識の中にある先天的な認識部分のこと)することは出来ない」。「理性の可能性は、後天的判断に限られている」と。P116-25 一般的な正というものは〔頭で考えだした正は〕、当てにならない正であり、思弁的なその人の願望である。これに対して、科学的な一般的な正は、所与の感覚的前提を必要としており、それを基礎として一般者の決定(一般的考えを導き出すこと)が行われる」ものだ、と。P116-26 以上からディーツゲンは、「道徳は思弁的な哲学的考察によるものではなくて、帰納的に科学的に研究されなければならない、と。絶対的な一般的な正ではなく、相対的な一般的正のみを知ろうということ。さらに、あらかじめ定められた前提の下における正のみを、常に理性の探究課題としなければならない」と。そして「そのときには、倫理的世界秩序への信仰は、人間による自由(な実践的選択)の意識に解消してしまう」と述べています。文脈から飛びますが、ディーツゲンは、P117-28 『宗教や道徳、(哲学)が不遜になる』場合を考察しています。「これらが自分の限界以上に拡がり、一定のときに、ある状況の下で神聖であり、正しくあるものを、無比のもの・絶対のもの・永遠のものとして、すべてのより広い状態にまで及ぼそうとしたがり、こころおごって自分の素性(制約・限界)を忘れるからである。この高慢ちきな干渉を撃退し、余計な飾りを取り外すことが進歩の仕事である。これこそが、許された限界より先へ人間を導き、人間の世界を拡張し、差し押さえられていた自由を人間の抑圧された関心のために取り返してやるものである。」と。 この発展は、神や権威への批判は別の同じようなものに置き換えるためではない。この発展は聖者を国外に追放するものではなく、一般者という横領していた土地から、その特殊な境内へ追い返すだけであり、この発展は子供を取り上げてから、その後で浴槽の水を棄てさることだ、と。P120-30 個人の自由な意識がはじめて、他人の規則にかまわずに前進させ、まぼろしの理想への願望から我々を解放し、我々を我々の時代と個性との明確な実践的関心へ連れ戻す。歴史の理解は、過去の宗教・慣習・制度及び観念を、その否定的な・こっけいな・古くさい側面からだけでなく、肯定的な・理性的な・必然的な側面からも明らかにする。現在の理解は、現存の事物の秩序を不十分なものとして示すだけでなく、それ以前の前提の、理性的・必然的な結論であることを明らかにする。 (以上で、『人間の頭脳活動の本質』の学習は終了です。次は『哲学の実果』です)これは2015年3月11日のブログですが。このディーツゲンの思想をあらためて読み返してみたんですが。 「意識は無前提なものではなく、現実により規定されている。意識は現実を考案するなどということは出来ない。」 「神聖なものも、やがて制約や限界が明らかになる。しかしそれは、この発展は聖者を国外に追放するものではなく、一般者という横領していた土地から、その特殊な境内へ追い返すだけであり、この発展は子供を取り上げてから、その後で浴槽の水を棄てさることだ。」 その表現には分かりにくいものがたくさんあるんですが、その中にすばらしい思想があります。それらが『フォイエルバッハ論』や『唯物論と経験批判論』などよりも、ずっと前に書かれているわけですから。『共産党宣言』くらいしか手に入るものがなかった時に、まったくの独学でえた結果なんですから、素晴らしい。人間の精神活動というのはやはり客観性があるんですね。この著作は、唯物弁証法の材料を提供してくれていると思います。以上、あらためて、ディーツゲンのこの部分を読んでの結論でした。
2017年03月11日
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『宮本顕治公判記録』(1978年刊 新日本文庫)を読んで以前にはところどころをかじっただけで、そのままほこりをかぶったままになっていた本でしたが、最近どうしたわけか、あらためて全体を読みとおすところとなりました。 最近の世相が読み返しを求めているんでしょうか、それとも年まわりのせいか、一体どうしたことでしょうか。この本は、1940年と1944年にあった治安維持法の裁判の速記録です。 宮本氏は、1933年(昭和8年)治安維持法で検挙され、12年間の獄中生活を強いられた。 先に『宮本顕治 獄中からの手紙』(新日本出版社 2002年刊)を紹介しましたが、その12年間のメダルの裏側で行われた裁判についての記録です。この裁判が軸にあったからこそ、それらの手紙に示された獄中生活や努力があったということです。 こうした裁判の記録には、古代ギリシャの『ソクラテスの弁明』(プラトン著)や、『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(高山一彦編・訳 白水社 1984年刊)があります。それらもまた共通の問題を含んでいると思います。この2作は、古代ギリシャや中世フランスなど、かなり歴史をさかのぼる出来ごとですが、それらに比べたら、この裁判はつい昨日のこと、同時代ともいってよい出来ごとです。これを読んでいると、2作と共通に緊迫感が伝わってきます。命がけの弁論です。 宮本氏の弁論は、その活動の大義や真実について、道理をもって順々と説いた弁論で、迫真の力を持って伝わってきます。しかし結局のところ、その結果は、1944年(昭和19年)12月、治安維持法等の有罪とされ、無期懲役と判決されました。あまたの罪びとは、それで歴史の闇に消えていったと思います。ところが歴史は、天網恢恢疎にして漏らさず、でした。 日本の敗戦によって、逆に戦前の日本の社会の在り方そのものが問われるところとなった。逆に治安維持法などの法制度が、民主的制度とは相いれないものとして廃止されるところとなりました。なんと劇的な歴史の展開となったことでしょう。 裁判では負けて罪に問われていたけれど、敗戦の結果は、そうしたことを罪とする法や政治制度のありかたが間違っていた、と。もしも、事態が少しでも遅れたとしたら、こうした記録はすべて闇に消え去ったことでしょう。 大事なことは、そうした上に、現在があるということです。 戦後の民主的変革の内実をしっかりしたものにしていくことは、引き続く課題です。 前進は、安穏として自動的に進むものではありません。それが、その後もそして、今も問われ続けているわけです。 日曜農夫にとっても、ただ自然だけを相手に、世事に疎く生きているだけでは、こうした記録を読むにつけ、「それだけでは不十分なんだぞ」と諭されています。(これは2012年3月10日に発信したブログですが、日本の政権党は、歴史にたいする反省がないんですね。国民権利など否定して、監視と取り締まれる態勢を作りたくてしょうがないんですね。この日本近代の野蛮な歴史を繰り返させないために、この歴史事実の記録を紹介します)
2017年03月10日
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連投で施肥を完了、リサーチ3月10日も連投で、早川園の施肥に行ってきました。6時58分の小田原からの富士山です。何度もこの場所から撮っていますが、その都度様子が違います。今朝は山頂に雲がかかってました。さて、今日は早川園の施肥です。すでに草取りと中耕は澄んでいますから、負担は軽いはずなんですが。作業がこの間続いてきましたから、身体の方がきかなくなってきています。これが最後の木だったんですが、これにて、早川園の草取りと施肥はすべて完了です。これが作業を終えての、市民みかん園の全景です。この間の苦労の結果で、樹冠の下がきれいになってます。この作業が、みかんの木にとっては一番の手入れになっていると、私は思っています。さて、これは昨日のことですが、早川の道沿いには、みかん農家の直売所があります。そこで、今時のみかんについて、リサーチさせてもらいました。味見もさせてくれますし、柑橘の紹介はもちろん、みかんを栽培している上で苦労していることなども聞かせていただけます。当方にとっては、値付けの参考にもさせていただいています。さすがです、病害虫対策で薬剤散布をしていますから、柑橘がきれいです。湘南ゴールドですが、甘くてジューシーで、美味しいんですよ。この時期の柑橘として農協が力を入れていて、生産農家が増えています。この地域の特産品になりつつあるんですね。私なども、ほんの2,3本ですが、栽培しています。周りの様子も見ながら、味の出来具合も見ながら、ここへ来て、すこしずつですが、収穫を始めだしています。
2017年03月10日
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みかんの苗木の植付けと、小木を移植しました農協より、今日苗木の引き渡しの連絡がありました。こうなると、相手の都合がありますから、四の五の言わずに遠出です。まだ、朝は寒い。途中の、厚木市中津川の橋げた温度は、マイナス1度でした。小田原の富士山は、日の出と重なって、朝焼けの富士山でした。午前6時3分くらいの小田原からの富士山です。本日の主題は、みかんの苗木の受取りと、その植え付けですが。その前に、ひと仕事あります。真鶴園では、みかんの小木を移植する仕事があります。左側の切株は、カミキリムシにより枯らされた木です。みかんの木の植え替えが大作業になるのは、この切り株をみればわかるとおもいます。嵐にたえるみかんの木は、地下に根がやちまたに張っていますから、このカブを抜くとなると、根の数だけ掘って切らねばなりませんから、大変なんです。本日、真鶴園では、2本の枯らされた木の後に、小木の植え替えをしました。この植え替えが、うまく根付いてくれればよいのですが。その後で、農協に行って、予約してあった苗木6本を受け取りました。宮川早生の苗木を2本、青島を2本、大津を2本です。これらは、みな早川園に植え付けすることにしました。正午から午後3時までかかりました。まずは、宮川早生の苗木の植え付けです。穴の下には、牛糞たい肥と、ヨウリンが少し施されています。基幹の茎は接ぎ木の首を出すようにして、根は縦に植えると植え替えが大変になりますから、横に広げるようにします。次は、青島の2本です。それをアップした様子です。だいたい、ある程度実がつくまでには、この苗木の植え付けから、8年くらいはかかります。それまで、当方の寿命が続いているかどうか、わからないのですが。みかん農家は、どこも8年くらい先をみこして、今の汗を流しているんですね。腹立たしいのは、最近の政治です。口先では、農家をいかにも応援するようなことを言っているでしょう、ところが、さかんに追求しているのは、農産物の自由化です。いわく、付加価値をつけるようにして、外国に農産物を輸出するなんて。それに対応できるのはごく一部で、圧倒的なみかん農家は切り捨てです。だいいちジュースだって99パーセントが輸入ですから、規格外は捨てているわけです。こんな場当たり的で農家切り捨ての農政に、いつから変わってしまったのか。こんな無責任な政治というのは、少しでも続けばそれだけ災いしかないんですね。せめて、現在の営農を守るようにして、まともな農政へ、どうしたら本当に転換できるのか。いつまでも他力本願してられません。農家だって人の営みですから、寿命がありますから。せめて、この景色をみて、英気を養うわけですが。農家の問題は、国民の暮らしの問題なんですね。それは、沖縄県民や、原発の帰宅困難者の人たちと、障害物は共通なんです。今、苗木を植えることは、これから8年先までの見通しを、開かなければならないということなんですね。
2017年03月09日
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宮本百合子「現代の主題」をお勧めします「現代の主題」は、1946年8月26日に、敗戦の1年後に書かれたものですが。 それが書かれてから70年を経た今日ですが、読み返してみると今日、私たちがぶつかっている問題を指摘していて、ちっとも古くないことに驚かされます。問題の本質をとらえるということは、そうした生きた力をもっているということなんですね。 すでに私は、この評論「現代の主題」を2回(2月23日、2月26日)取り上げました。同じことを繰り返しているわけではなくて、その度に、すこしは、認識がすすんでいるかと思って、三度目となったわけですが。 一、現在のもつ歴史性について最初に注目した問題は、日本社会が半封建的特徴を引きずっているという指摘でした。この論評だけでなく、「歌声よ、おこれ」などでも指摘して、どんどんその認識を深めているんですよ。夏目漱石のとらえ方ひとつにしてもそうです。 「日本の権力の半封建の野蛮さが、人間性をどれほど歪め終わらせたかという現実を、細かに眺めるとき、こころは燃え立つばかりである。なぜなら、人間性をそのように畸型なせむしにした権力は、よしんば急に崩壊したとしても、けっしてそれと同じ急テンポで、人間に加えられた抑圧の痕跡、その奇形は癒されないものとしてのこされているからである。」これは、最初の回でも紹介したものですが。 この歪みは、とくに戦中の14年間の民主主義運動と思想に対する治安維持法の弾圧によるもの、そのため精神が委縮させれた問題ですが。政権党の流れは、それを認識できず繰り返そうとしているんですが。百合子は「日本のいく久しい封建社会の歴史にもたらされて、日本の知性は、(西欧の様に)強靭な知的探求力とその理づめな権威力をもつよりも、いつも感性的である」と、大きな日本の歴史のながれからも見ていますし、それが具体的には夏目漱石においても「私の個人主義」などに現れていることを指摘しています。 私などが問題の本質をとらえていると感じるのは、この歪みが戦後70年を経た今でも「癖」として引きずっていて、現代社会と現代人のかかえている問題となっているからです。 「戦争法」「沖縄」「原発」「TPP」「共謀法」「国有地払い下げ」「築地市場」…この自転車操業的に次からつぎへと浮上してくる問題ですが、現代のそれらの問題ですが、それらの共通の根底には、「現代の主題」で考察されている問題が横たわっていること、現代人はそれと正面から向き合わないかぎり、自由にしているつもりでいても、じつは歴史によって拘束されているんだということを示していると思います。 二、肝心なのは、どうやってこの歪みから脱却するかですがそうであればこそ、この歪みが癖となっている私たち自身ですが、ここで宮本百合子は「自身をしっかりと歴史に立たせるために今日するべきことはなんであるか」-それが正面から提起している主題であり、課題なんですね。 現代人はこの病から解放されていません。その限りで現代人は、ここで百合子が検討している社会と人間診断も生かしつつ、自分たち自身の現代版の自己検討が求められているということです。 この評論からです-「半封建の野蛮がもたらしたしこりの害毒は、精神に良心的であるゆえの萎縮をもたらしたばかりではない。事情が変化して、人間らしい自由を建設しようとする本性が伸長されなければならない今になっても、強いられて出来た内部抵抗の癖は、そこまで心情を脱却させないで、これを、民主主義への懐疑、政治的・文化的良心への疑惑、人間性発展の確信への狐疑として理屈ありげに発言させている点にある。」 「他力本願的な心理のびまん」「頭でわかってはいても感覚的についていけない」「歴史の発展的な面に従いきれない、ひとつのひねくれ」など。これらが複合していると。 こうした社会と人間についての現実を分析している点に、百合子の出発点があるわけですが、やはり癖というのは、ず~とそうした状況をつづけてくると、70年も続けてくると病気になっているんですね。 百合子が指摘しているのは、敗戦後のたった一年にしての社会状況の分析なんですよ。この後、5年の残された命のなかでこの分析と打開するための努力に、どの様に心血を注いだかは、これはこれで大事な課題なんですが。 すくなくとも、私たちは、よきにつけ悪しきにつけて、頭をぶつけたりすってんコロリをしたりしながら、今日まで歩いてきたわけです。自分たちに独特の病気があることも自覚しないで。私などの「戦後史の空白」認識も、その一つの現れだったわけです。 三、この評論を読んでの結論ですが、これだけは確かです。 あれこれ出現してくる逆流の一つ一つの問題をたたくこと、これは今を守るためにはどうしても必要なんです。だけど、同時に、歴史の本質問題をとらえて当たらないと、モグラたたきのように、自転車操業のようになります。根っこをとらえて、そこのところを変えないと、いくらでも次から次なる亡霊は新たな問題をつくりだしてくるんです。 そして、「現代の主題」ですが、これは現代までもつづいている問題の社会性、客観性をとらえていますから、そこが変わらない限り古くはならないんです。我々の努力というのは、一つ一つをそれに加えていくということなんです。 最近、とみに感じるんですが、「自分は独創的だ」なんて思いこむのは、えてして基本的に歴史にまなんでない、勝手な思い上がりのようなことが多いんですね。私は、ロシアのプレハーノフの『史的一元論』を読んだんですが。彼は、もっと謙虚に基本から学ぶべきだったんですね。哲学的基礎をここの知識としてではなく、生きた方法として学ぶべきだったんです。(レーニンの言い方によれば、マルクス主義の全体系は、おのおのの命題を、a.歴史的にのみ、b.他の諸命題と関連させてのみ、c.歴史の具体的経験と結びつけてのみ、考察するようにすべきだったんです。)知識からくる意見に固執してしまった。実際には何が問題だったのか、具体的で現実的な条件について、よく考慮すべきだったんです。そうしていれば、「ロシア・マルクス主義の父」とも称されたほどの博学の人でもありましたから、みんなの努力の総和に、彼の持ち味をひとつつけ加える存在でもありえたと思うんです。それなのに、大御所としてふんぞり返っちゃった。自己流の解釈に固執しちゃった。初期の積極的に貢献があったにもかかわらず、結局、誤りの道に行っちゃった。博学の知識は引き出しにたくさん持っていたんですが、具体的な状況に基本的な方法をつらぬけなかったんですね。それを繰り返しちゃったんですね。大きな岐路になってしまったんですね。 おっと、横道にそれすぎました。現代の本質を、私たちが考えていく上で、宮本百合子の「現代の主題」も欠かさないよう、文庫の『歌声よ、おこれ』を、一冊に加えるように、おすすめします。
2017年03月08日
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再び箱根・大平台の林泉寺を訪ねました(2013年) 3月6日、再び林泉寺と、内山愚童師のお墓を訪ねました。この日の箱根は、綺麗な青い空がひろがり、 陽気も暖かく、確かな春の到来を感じさせてくれました。今回の大平台行きも、湯治行きが目的ですが、あらためて林泉寺を訪ねた目的の一つは、 『仏種を植ゆる人-内山愚童の生涯と思想-』 (曹洞宗ブックレット 宗教と人権8 2006年1月刊) この冊子を分けてもらうためでした。 (その内容は、全体を読んでから、後日紹介したいと思いますが)内山愚童師について、残されている資料は限られていると思いますが、この冊子が出されているのを知ったので、これでおおよそだけでも、その人となりを知っておきたかったためです。もう一つは、「内山愚童師の顕彰によせて」の碑文をについて、やはり前回来たときに写したのですが、それが正確かどうかを確かめることでした。 林泉寺にある内山愚童師のお墓ですが、その隣には、「顕彰碑」と「顕彰によせて」の二つの石碑があります。お墓の本体は、手前のものでしょう。 何文字は刻まれていません。それでしか、残せなかったのでしょう。 暗黙の墓がずーっと守られてきたわけです。 2005年(平成17年)4月25日に、曹洞宗総務総長が出席されて、住職などにより顕彰除幕と追悼法要がおこなわれたとのことです。前回(3月3日)は、その「顕彰碑」については紹介しましたので、 今回は「顕彰によせて」を紹介します。これは、曹洞宗総務総長が挨拶された基調でもあります。 曹洞宗僧侶として、愚童師は95年をへて名誉が回復されました。『 内山愚童師の顕彰によせて 其土地で死ぬ積で無ければ 其地の人を救ふことは出来ぬと思ひます 内山愚童師が友人・石川三四郎に語った仏教者としての叫びの声です。 こう語った仏教者は、ここ箱根の大平台とそこに住む人びとをこよなく愛し、民衆の苦しみや喜びを自らの苦楽として仏の道を真っすぐに歩んでました。その途上、三十六歳の若さで刑死したのです。本人の遺言によって、その亡きがらはこの林泉寺の墓地に埋葬されています。愚童師のこころは今も、ここに生きているのです。 一九一一(明治四十四)年一月二十四日、箱根林泉寺住職内山愚童師は、「大逆罪」により幸徳秋水らとともに処刑されました。これが世にいう「大逆事件」です。この事件は、当時の政府が社会主義運動を一網打尽に壊滅させることを最大の目的とした、極めて冤罪性の強い暗黒裁判でした。愚童師の場合は、当時の不条理な国家権力への非難が昂じた発言にすぎなかったのです。 曹洞宗も国家権力へ追随するかたちで、死刑執行の前年一九一〇(明治四十三)年六月二十一日付で「宗内擯斥」処分とし、愚童師の僧籍を剥奪しました。 当時、世界の強国は軍事力をもって領土拡大に奔走していた時代であり、日本も例外ではありませんでした。国家は民衆の声や運動を封じ込めるために「大逆罪」を実体化し、その後の日本の体制のあり方と進路を決定づけました。これによって民衆は愚童師のいう「独立自活・相互扶助」の主体性を持つことを禁止され、人権や自由が抑圧され、世論が時の政治権力に都合の良いように操作されて、軍国主義の破局へと突き進んでいきました。 宗門も時の国家体制に追随し、信仰の自由と平和を希求する良心をも放棄し、仏教者の誓願に背き、教学を歪曲してまで、積極的に戦時体制に協力しました。 宗門は、真の仏教者であった愚童師に対して、あまりに不誠実であり冷酷でありました。人間としての尊厳と僧侶としての名誉を踏みにじったまま、八十有余年の歳月を埋もれさせてしまったのです。 一九九三(平成五)年四月十三日、ようやくにして「宗内擯斥」処分を取り消し、宗門僧侶としての名誉の回復を宣言いたしました。 私たちは今日、愚童師の先見性に改めて刮目しなければなりません。 「戦争は総て罪悪也」 「人類の終局目的は独立自活・相互扶助にある」 「女子は男子の付属物ではない」と、あらゆる戦争を拒み、独立自由と、異なる立場の人々との共存を理想として掲げ、女性の人権尊重までも主張しています。 ここに、愚童師の仏教者としての遺徳をたたえ、宗門の罪過を心より懺謝するものです。 最後まで僧侶としての誇りを失わず、理想世界を冀い、泰然として死に臨んだ愚童師に対し、その確固たる信念を永く顕彰し、宗門として「人権の確立・平和の維持・環境の保護」を啓発推進していくことを改めてここに誓願いたします。 二〇〇五(平成十七)年一月二十四日 』 (実際の碑文は縦書きですが)2013年3月7日のブログです。私は4年前に内山愚童を知りました。その冊子をいただきました。明治の自由民権の弾圧は、さらに大逆事件から治安維持法へと、戦争推進の国内体制をつくろうとして、戦争に批判的な人たちはもちろん、1931年満州事変からの昭和の14年間は、民主主義をすべて取り締まりました。その結果が、戦争による敗戦、国民の大惨事です。その反省が、現在の憲法の民主主義社会です。宗門は歴史を反省してますが、政治の方は亡霊によるごまかしがつづいています。
2017年03月07日
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第2回 マルクス『経済学・哲学手稿』、 その「へーゲル哲学批判」から このマルクスの論文が書かれたのは1844年、26歳の頃のものです。この論文はヘーゲル哲学の批判が主題ですが、その冒頭部分にはフォイエルバッハについてふれています。 今回の紹介は、その部分についてですが。ここを読んでいると、エンゲルスの『ルードリッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終焉』(『フォイエルバッハ論』)が浮かんできます。 同じテーマだからです。もっとも角度は違いますが。エンゲルスはこれを書くときに、マルクスの遺稿集の中にあったこの草稿に目を通していたんでしょうか? わかりません。しかし、おそらく見ていたと思います。このマルクスの手稿は、ヘーゲル哲学を扱っている本論の、冒頭にあるフォイエルバッハについて批評ですが、それはいたって短いものですが。 『経済学・哲学手稿』(国民文庫 藤野渉訳)では、P205からP210の5ページ分です。マルクスの、フォイエルバッハの位置と業績についてですが、 「フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法にたいして一つの真面目な、批判的な態度をとったところの、そしてこの領域で真実の諸発見をしたところの唯一の人で」ある、の指摘から始まります。そのマルクスのフォイエルバッハについての寸評をひろいだしてみます。1、フォイエルバッハが『哲学の改革のための暫定的テーゼ』(1842年)、の中で、また詳しくは『将来の哲学の根本命題』(1843年)で、ヘーゲルの弁証法および哲学を萌し的に転覆してしまった。(P207)2、フォイエルバッハの偉大な3つの事業について 一、哲学というのは、思想に持ち込まれた宗教であり、人間的本質の疎外のもう一つの在り方だと。 二、唯物論と現代的な科学の基礎をおいたこと、人間と人間の社会関係を根本原理にするから。 三、ヘーゲルの否定の否定に対して、自己の見解を対置しているから。(『フォイエルバッハ論』でエンゲルスは、フォイエルバッハの業績を、年月を重ねた実際のうえにたって客観的に評価しているものです。ところが、ここでのマルクスはちがいます。その当の時点で社会に与えた影響を、そうした方向が本当に実を結ぶかどうか、かなり可変的な可能性により、同時代者としてその方向に重要さを感じとっているものとしての評価だとおもいます。)3、最後に、フォイエルバッハのヘーゲル弁証法についての理解と説明が紹介されています。P208から。フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法をとらえようとしてはいるのですが、はたしてとらえれたものかどうか、そこが問題のところです。(マルクスのフォイエルバッハに対するこの評価が妥当なものかどうかは、紹介されている『暫定的テーゼ』や『根本命題』を吟味してみる必要があると思いますが、それは重要ではあっても、次の課題とすることにして。今は、この『手稿』の該当部分について、それ自体を終わりまで読み進むことが、基本的でもあり難しくもある課題ですから、これをすすめるようにしたいとおもいます。あまり手を広げすぎるとあぶはち取らずとなりかねませんから。)今回は、ここまでです。この先は、ヘーゲル哲学、弁証法についてですか、それは次回です。(これは、2012年3月6日のブログです、5年前のものです。フェイスブックが、1年、2年前の同日について紹介してくれていますが、 私としては、5年前までを視野に、同日の学習に当たってみたいと思います。フォイエルバッハとマルクスは共通の唯物論的立場です。晩年のエンゲルスは、あらためて唯物弁証法への過程であったことを明らかにしてます。ここでは、当時のマルクスが、かかんに唯物弁証法を探っているのがわかると思います)
2017年03月06日
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真鶴のみかん園で元肥を施肥3月5日、今日は啓蟄、真鶴のみかん園へ出かけてきました。今回の目的は、元肥を施肥することと清見の収穫です。午前6時18分の小田原サービスエリアからです。このところ、日中の気温がだいぶ暖かくなってきました。真鶴のみかん園へ元肥の施肥に行ったのは、この陽気の暖かさのためと、明日の昼ころ雨が降るためなんですね。天然の水撒きがあるからなんですが。用意してあった肥料は一袋、ちょっと少ないのですが。まぁ、後日、追加の施肥することも出来ますから。この間に草取りをした置いた樹冠下に、ドーナッツ状に施肥していきます。施肥したあとは、レーキでかるくすき込んでいきます。ちょうど相撲の土俵づくりをする様なものですが。樹冠の下をドーナッツ状に施肥していきます。この木一本だけなら、作業はいたって楽勝なんですが、成木で14本、それに小木が続きますから、たいへんなんです。もっとも、専業的なみかん農家にしたら、こんなのは仕事のうちには入らないのですが。当方にとっては、もうヘトヘトになるんです。中耕の下作業をしてありますから、あまり苦労することはないのですが。(それでも、この間に一連のず~っと続けてきた生活作業の流れの中ですから、その後で、帰ってから、活字なんか追いかけようとすると、すぐに集中力はなくなります。もう、まったくヘトヘトなんですね)さて、本日は、もう一仕事、清見の収穫をしました。柑橘の栽培案内書をみたら、今が清見の収穫期だったんです。早川園より数日前に、清見の出荷が始まりだしたのは、まさに正解だったんですね。清見は、宮が早生とネーブルを交配させたものですが、3月上旬が収穫期です。収穫した後で、直ぐに出荷するのではなく、少し追熟させた方が良いということも、昨日体験したところなんですが。真鶴園では、鳥に加害されますから、防鳥用をかけてありました。そのネットを開いて、熟していそうな果実から収穫しました。成熟期を示すように地面に落下した果実があったんですが、その落下した果実は、完全に果皮ばかりになっていて、鳥が、ヒヨドリだと思いますが、食べたんですね、果実部分はすっかりなくなっていました。清見が成熟しつつあることのお墨付きを与えてくれています。しかし、一度に全部の果実を採る必要はありません。果実の成熟も一律ではなく、それぞれの果実の個性的な過程ですから。それに、ほとんど自家消費用ですから、一度にとっては、消費過程にあいません。まぁ、3月中に来るたびに、少しずつ採れば、それが一番よしです。今回は、試しに熟しだしてそうな、全体の四分の一くらいの18個を収穫しました。さて、採りたての味の方はどうでしょうか。さて、一番の本題の施肥ですが、これで、真鶴園の最低限の施肥は、終了です。午前6時47分に到着して、午前8時40分には帰途につきました。お昼頃からは、真鶴道路は伊豆方面の帰り車でたいへん混雑しますから、ローマ人にならって「われ来て、われ働き、われ帰る」です。この次は、早川園です。同じ作業を、今週の内に実施する予定です。
2017年03月05日
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早川みかんも好評です3月4日(土)朝、東京多摩市の団地で、恒例の朝市が開かれました。昨年の12月から始まった朝市ですが。地元の農家の方がつくった、新鮮で安い野菜が並べられています。当方も、この朝市に出そうとして、早川からいろいろな柑橘類を運んでおきました。レモン、清見、湘南ゴールド、文旦、金柑などですが。冬場で、野菜類が少ないなかで、今日は、みかんの朝市のような状況になりました。レモンと金柑の方は、すでにお馴染みなんですが、清見と湘南ゴールド、文旦については、今季初めての出品でしたから、買い手がつくのか、心配もあって、味見用にと、カットしたものを用意したんですが。結果は、取り越し苦労でした。午前中のうちに、湘南ゴールドは用意した6袋は、すべて売切れ、清見は残りが2袋と、ほとんど売切れ、文旦は18個を並べたんですが、10個が販売されました。最初にしては、大きな成果です。清見と湘南ゴールドは、これから本格的シーズンに入っていきますが、今回の商いで、都会人の味覚にも、しっかり合格しています。今回は一部失敗で、採りたてのものも交じってしまったんですね。だいぶ酸っぱいものも試食させてしてしまったんです。後から私自身が試食してみて、わかったんですが、さいわいにして、全体的に寛大な反応でした。やはり収穫したあとには、ある程度追熟させるようにして、本来の味を、甘くてジューシーな独特のおいしさを、どんどん提供するようにしたいと思っています。
2017年03月04日
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早川園の草取りを終了しました本日は、早川のみかん園での草取りに集中しました。昨日は雨の天気でしたが、本日は快晴です。午前7時30分、小田原サービスエリアから見た富士山です。今日の目的は二つ、早川園の草取りと、明日の朝市用の柑橘類の搬送です。このごろは、朝方は冷えますが、日中はかなり暖かくなってきています。みかんの木の樹冠下の草取りを、本日で終わらせます。これは、草取り前の早川のみかん園です。春の暖かさで、雑草の繁茂が始まりだしています。眺めている分には、一面の緑の草はきれいなんですが、みかん園としては、そんなこと言ってられません。隣の畑ですが、ネットの木より上側の畑ですが、畑に草をはやしていません。除草剤をまいているかと思いますが、完全に雑草の生えるのを抑えています。当方は、除草剤については、一切使っていません。その代り、みかんの木の樹冠下を、鎌を使って、這いつくばっての草取り作業です。まだ朝方の気温は、1度とか4度ですから、冷え込んでいます。もう少しですが、暖かくなると、ドーナッツ状に元肥を撒くことを予定しています。草取りは、その下作業でもあるんです。やはり草取りをしていると、鳥たちがやって来ます。これだけ広々としていると、鳥は近くまでは来ませんが、鳴き声や、木から木へ飛び交う様子からすると、あたり全体が鳥たちの天国になっています。こうして木の影を見ると、少し枝が混み過ぎています。もう少し、影にすき間があって、陽が差すくらいがよいのですが。お隣の畑では、朝早くから「バチ、バチ」と剪定作業の音がしていました。どこも、同じようなことをしているわけです。当方は、まずは土壌改良からで、この草取りからです。分かりますか、左側のお隣の畑ですが、そちらはほとんど草を生させてないでしょう。お隣の姿勢が分かります、隣接する部分まで草取りしてくれています。こちらの雑草の種が飛んでくるのをきらっているんですね、中間帯をつくるようにして、そこまでしっかり草取りしてくれています。当方は、草取り作業は、いっさい除草剤はつかってません。安心・安全のみかんづくりで、それがポリシーなんです。せいぜい樹冠の下だけなんです。自然栽培です。それ以外の面は、草刈り機をつかって、草刈りするようにしています。早川園は、なにしろ雑草の繁茂する力が活発なので、おかげで、何回も何回も草刈りをすることになるんです。とにかく、本日の樹冠下の草取りについては、午前7時45分から午前10時までの集中作業でしたが、これですべて終了です。みかん園の次の作業は、剪定と元肥の施肥になりますが、とにかく、これで一段落です。草取りを終了した後の景色です。素晴らしい景色でしょう。正面が小田原の市街地ですが、中央に小田原城も見えています。もう肩はガチガチなんですが、これでヤレヤレです。今日の早川園からの柑橘の搬送ですが、この時期は、この間の金柑、レモンに加えて、新たに、清見と湘南ゴールド、文旦が収穫されていました。これを本日搬送して、明日、多摩の団地の朝市で販売する予定にしています。草刈りだけで終わらないのが、素晴らしいでしょう。さっさと帰って、明日の準備です。今回、初お目見えの、清見と湘南ゴールドについては、明日は、どんどん試食してもらうようにして、多少酸っぱいんですが、とってもジューシーなんですよ。その独特の美味しい味を、どんどん知ってもらうつもりです。さぁ、どんな顔がみれるか、その反応が楽しみです。
2017年03月03日
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「歌声よ、おこれ」-全体10篇を読んで 宮本百合子著『歌声よ、おこれ』の全体10篇を読んで、あらためて、この呼びかけについての感想です。「戦後史の空白」を感じていた私ですが、しつこくも「歌声よ、おこれ」にこだわってます、今回で一区切りですが。 1950年11月に生まれの当方ですが、最近とみに、1951年1月に死去した宮本百合子の仕事についてこだわっています。これは同時代のうちですね。 それが、今現在の状況、その課題につながっていることを、感じているんです。「現在の問題とは、戦後日本がかかえている問題であり、宮本百合子が提起しているのは、今を生きる私たちの問題であり、宿題だ」ということです。 一、まず、社会の変化についての認識のギャップの問題です。 私など戦後生まれの者にとっては、「日本の戦後というのは、1945年8月15日をもって転換した」と、日本史や歴史年表で習ってきたんです。それが常識的なことと思っていたんですが。 しかし、それは違ってました。 1945年10月4日の山崎巌内務大臣の新聞での発言報道ですが、「特高警察は現在なお活動を続けており、・・政府体制の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」などと述べている事態でしたから。 治安維持法で10数年間も監獄にとらえられていた共産党員はじめ、軍国主義に異議をとなえた民主主義者ですが、彼らが釈放されたのは、1945年10月4日のGHQの指令以降だったんですね。 今回の宮本百合子の「歌声よ、おこれ」が執筆されたのは、1945年12月とのことでした。 つまり、それを書いていた頃というのは、実質的に民主主義者が解放されてから、わずか2カ月後のことだった。山崎内相はじめ戦時体制は、その勢力は、いまだもって現実的な暴力、脅威の存在だったわけです。 二、私などが一番感じている点ですが、今回の主題ですが、宮本百合子の提起している問題は、今の問題だということです。 「歌声よ、おこれ」は1945年12月の執筆ですから、今から70年前の社会評論です。 人によれば、善意な意見として『もはや古典的著作』との評価もあります。 その意味は、古い作品だけれど、万人にとって価値がある意味で、「古典」的著作だと。 しかし、私などが読んで、これは今現在の問題を指摘していることがらだと感じています。 1、現在も引き継いでいる日本社会の特性の問題です。「日本の社会と文化とが、半ば封建的で、ただの一度も権力に対する批判力としての自主性、自身を建設する力としての自主性をもたなかった伝統にわずらわされ」た。国民が戦争の遂行に従わされたとの問題です。 「明治維新は、日本においては人権を確立するだけの力がなかった」。それが、その後の半封建的な遺制が強くあって、近代的な自我や個人の発展が抑えられ歪められてきたことが指摘されています。最先端にあった夏目漱石や志賀直哉でも限界があったことが指摘されています。 この遅れた歴史性は、今日の戦後日本の平和・民主の発展においても、それを妨げている問題としてあること、この歴史的関連を百合子は考察しています。 敗戦の同時代の社会状況についての分析です。「旧体制の残る力は、これを最後の機会として、民衆の目隠しが落ちきらぬうち、せいぜい一部しか見えてないうちに、何とかして自分の足場を他にうつし、片目だけあいた人間の大群衆を、処置に便宜な荒野の方へ導こうと、意識して社会的判断の混乱をくわだてている」と。 2、戦前からこの問題と戦ってきたんですね。1931年の満州事変以来、敗戦までの14年間が、どの様な時代社会であったか。封建的な歴史的条件はあったことと、どうして軍国の暴力にのみ込まれていったのか。 この関連を百合子は探っています。 さらに、戦時中の作家、文学作品についても、軍国主義の渦に抵抗する「かくされた」意識の芽があったことを指摘しています。 それでも、実際には、戦争態勢に巻き込まれていった。 どうしてそうなったのか。この問題を百合子は検討しています。 「その原因は、個性と文学の発展の可能の源泉として、日本の民主主義文学の積年の苦難の蓄積を通して闡明(せんめい)にしてきた文学における客観的な社会性の意義を会得していなかった」 「多くの作家は、これまでの歴史性による社会感覚の欠如から、今日における自分の発展と創造力更新のモーメントをのがしている」と指摘しています。この問題は、単に過去の問題として済ませるわけにはいかない、私たち自身が問われている問題です。ここには、戦前の民主主義文学、すなわちプロレタリア文学の歴史的成果に学ぼうとの課題の提起が含まれていると思います。 3、最後ですが、百合子は、人々に呼びかけています。これからの日本の前進にあたって、作家や人々に課題を提起しています。 「作家たちは、生きている意義として、今日、真率な情熱で、自分がかつてとり逃がした覚えがあるならば、その人生的モーメントをふたたび捉えなおし、抑圧されてきた人民の苦しき諸経験の一つとしてしっかり社会の歴史の上につかみ、そのことで生活と文学との一歩前進した再出発を可能としなければならない」 この「歌声よ、おこれ」は、1945年12月に執筆されたものですが、戦後70年の今日でも、それぞれの人のあゆみを検討する基準にもなる提起かと思います。 三、この「歌声よ、おこれ」ですが、これは痛切な体験を経た国民の声です。 現代において、いかなる逆流をもはねかす、理性の国民的な力をもっていると思います。70年前のことだといっても、今も同じ歴史的課題のうちにあるわけですから、宮本百合子の提起していることは、今日の私たち自身の課題だということですね。
2017年03月02日
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宮本百合子「討論に即しての感想」について宮本百合子著『歌声よ、おこれ』(新日本文庫)を読んでの感想も、これで最後です。一番の感想は、現在の問題とは、戦後日本がかかえている問題であり、宮本百合子が提起している事柄は、今を生きる私たちに、今の問題として、いわば宿題として託されていることです。 今回は、『歌声よ、おこれ』の中の「討論に即しての感想-新日本文学会第四回大会最終日に-」です。一、宮本百合子の戦中・戦後の10編の評論を集めた文庫版『歌声よ、おこれ』(新日本文庫)ですが、この評論は、その7番目にあります。新日本文学会の第四回大会最終日におこなわれた発言だそうで、「新日本文学」1949年2月号に掲載されたとのこと。 宮本百合子は1951年1月21日(51歳)に死去しましたから、これは亡くなる直前の発言なんですね。 二、私がこの文庫本を読もうとした動機は、戦後文学の「空白の認識」を、これらの文芸評論を手引きにして、いくらかでも埋めていこうと思っているからなんですが。 そもそも、この文庫版『歌声よ、おこれ』の刊行は、1977年の刊行なんですね。私などは、1970年の学生時代にあって、宮本百合子の『貧しき人々の群れ』は読んでいたと思いますが、「歌声よ、おこれ」については、まったく知らなかったんです。それが、1971年1月20日の百合子没後20年の不破講演「宮本百合子の社会評論」を聞く機会があって、それで初めてこの評論の存在を耳にしたんです。実際の著作は、文庫の刊行が1977年7月ですから、しばらくたってから入手したわけですが、その時にこの10篇は通読はしたはずなんですが、当時は記憶に残るようには理解できなかったんですね。とにかく、全体として「戦後文学の空白感」がつづく状態だったんですね。 三、今回、『歌声よ、おこれ』全体を読み直してみて、分かりました。 確かに戦中・戦後の文学についての認識は、空白だったんです。 一つは、私などの文学の認識は、学校の教科書などで紹介されている作品くらいしか知識が無かったものですから。戦中・戦後のものは少ない。とくに戦後文学というのは、自らが求めない限り、誰も与えられない。したがって認識として「空白」だったということでした。 もう一つは、戦後文学というのは、ビッグバンの状況があったことと、議論の最中にあって定まっていなかったことがあるとおもうんです。いまでも、全体は太平洋をさまよう一艘の筏のような感じなんですが。今回、見直してみて、「歌声よ、おこれ」(1945年12月)から、「討論に即して感想」までは、たった3年ないし4年なんですが、戦後の大きな社会変化がすすんでいたんですね。それは、複雑と波乱な状態に、まさにむかいつつあったんですね。私などは、1950年生れですから、まして関東の片田舎では、それらの当時の状態について、直接は知らなかったのは当たり前のことですね。その後に何ほどの努力もなかったわけで、当然ですね。 四、さらに、今回、読み直して感じたことですが。 この「討論に即しての感想」は、すでに体調不良にある百合子でしたが、どうしても言わなければならない思いをもって発言していることであり、大会での最終日の発言なんですね。大会での議論に即しての発言ですから、直面して出されていた問題に関連しての発言であり、問題点を説得的に解明をしようとしている、いわば限定された発言なんですね。 そこには、全般的な状況認識の問題があります。平和と民主の民主主義文学の評価の基準や、批評の仕方の問題があります。それは民主的な共同の流れをつくっていく問題でもあり、現在に通じる問題だと思います。これらは、これから私などは探らなければならない問題なんですが。 くりかえしますが、大会で出された問題にそっての発言であり、出されたテーマに絞って、理解を促すべく、丁寧に配慮された発言になっていると思います。私などからしたら、当時の問題点や議論を知る上で材料として貴重なんですが、この当時の大きな社会的な流れの中で、一つ一つの問題点を検討してみる必要を感じています。 五、さらにもう一つ、今回、見つけた講演があります。 同じ時期におこなわれた講演「平和運動と文学者」なんです。これは、1948年12月25日に新日本文学会主催の講演会です。宮本百合子全集の13巻にあります。この方は、大会での発言とは違って、百合子の話を聞くための、主賓としての講演ですから、思っていることの起承転結をまとまった形でのべています。この当時、どのような中で、何が問題で、何を言いたかったかが、よりはっきりと見えてきます。 しかし、この「平和運動と文学者」は、1979年に刊行された全集第13巻でしか見れないんですね。ですから、一般にはなかなか見れないとおもいます。読んだ人は限られていると思います。 しかし、重要な講演です。ここでも宮本百合子は、やはり体の不調を押してまでも語らなければならなかったことを、しっかりと全面的に語ったんですね。何を言いたかったか、より見えてきます。宮本百合子が亡くなって、すでに60年余の歳月が過ぎていますが。この講演で警告しているんですね。 「日本にファシズムは生きています。同時に日本のファシズムを寄生的に生かす世界のファシズムが存在しています。日本のファシズムは便乗してお墨付きで生きているのです」と。かなり長文の講演です。そのものを読んでいただくしか、安易な紹介は出来ないのですが。この中で、民主主義の共同の課題、そして民主主義文学の課題を、そして努力すべき方向を提起しています。 これは、当時においては、知る人ぞ知る、といった限られた人たちにしか、伝わらなかった主張だったと思います。その後、さらに混乱が続いたわけですから、1979年にこの全集が出るまでは、目にすることは出来なかったかもしれません。さいわい、今では、ちょっと努力しさえすれば、読むことは出来るわけですが。 私などの直観ですが、ここで百合子が提起している内容ですが、それは今、私たちの直面している課題そのものだと感じています。ということで、宮本百合子の文芸評論10篇を案内にして、戦後文学を探究しようとしているわけですが、それは大海の一滴ですが、それでもなんとか、とば口まで来れたようです。ふり返ってみると、まったくの「認識の空白」ということではなくて、そうした独特の社会状況の下での、錯綜した独特の社会意識であること。これは、自ら求め努力しなければ、誰からも与えてはくれないものだということ、そして、その社会観をもつことは、今を生きる上で、大事なことなんだと感じています。
2017年03月01日
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