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2017年 8月のみかん農夫のまとめ 今年の8月は、気候の不順が特徴です。7月19日の梅雨明け宣言以降、関東ではそれからずっと梅雨空が続いています。おかげで土用干は、8月23日-26日とずれこみました。 一、12月からの団地の朝市に、この8月も皆勤賞で参加しています。 小田原の早川の農産物を、草刈りに行った帰りに搬送して、都会の消費者に届ける仕事です。これまではこの時期のみかん農夫は、草刈りくらいで、裏方仕事の日々だったんです。 しかし今年は違います。多摩の団地で、昨年12月から朝市を開設するようになったからです。地元多摩の農家や群馬でとれた産直野菜がならびます。その片隅に並べています。 朝市の定例日は、毎月の第一・第三の土曜日ですが、当方はそれ以外にも毎週続けてきました。ミョウガは、花が咲いちゃいますから、毎週採りに来るように指示されちゃうんです。 当方の扱い品ですが、この8月はブルーベリーとミョウガでしたが、これにカボチャが加わりました。スイカの注文を受けたことから、石垣山で畑を耕す方と知り合いになったんです。その方は、体調の支障から農作業が難しくなっていました。その方の農産物も、この8月11日から新たに出荷するようにしています。 だいたい自然の豊かな早川ですが、そこにある小さな農家が採れた産物を商品化するのは、容易なことではありません。道路には、立派な産物をならべた直売店がいくつも並んでいます。それに、この時期農家は草刈りにおわれますから、せっかく作物が採れても販売している暇なんてとてもないんですね。農協に出すためには、それなりに生産物の管理が求められますから。 結局、自然の恵みで豊かな農産物が採れても、それを商品化できずに、せっかくの宝が持ち腐れにしちゃう場合が多いんですね、まったくもったいないことです。 私は早川で、2015年の11月から市民みかん園をかりたんですが。そのつながりというのは、その役割というのは、みかんだけではなかったんですね。 これまではこの時期は草刈りをするためだけで通っていたんですが、今はその帰り道にその収穫物を預かって、多摩の団地に運んで販売することが仕事です。まぁ、流通業の素人の八百屋さんですね。 しかし、もしもこの役割が無ければ、農産物は放置されかねないんです。他方、都会では、新鮮で安い農産物を求めています。この早川の農産物を都会の消費者にとどけることで、朝市を開くことで、農産物が商品に転化することができるなら、ささやかであっても農家振興と都会への農産物の提供、この両面が実現することとなります。これが目下の当面の私などの仕事ですね。 二、もう一つの仕事に、学習があります。 せっかく定年退職によって得れるようになった時間です。この農作業だけでヘトヘトとなり終わっていたら、現在に生きている意義が見えなくなってしまいます。やっていることも、理解することが出来なければ、万人の共通のものになりません。 ものごとは受動的に、自然に見えてくるものではないんですね。ここにもまた実践的な働きかけをすることが必要なんです。 さいわいフェイスブックのおかげで、自分の学習の過去帳がバックアップされてきます。 それにより、自分などの状況を客観的に見ることが出来ますし、関係する社会性の中に見ることが出来ます。過去帳は、さらにそれを一歩を前進させることも出来るんですね。 7月に続いて、この8月に読んだものですが。 1、不破哲三氏の「『資本論』刊行150年に寄せて」(『赤旗』8月1日-14日)の連載がありました。 2、引き続き『蔵原惟人評論集』第10巻の対話編と『文学への思索』(新日本新書)を読んでいます。 3、古典では、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』序論と、『ドイツ・イデォロギー』がバックアップされてきました。 4、その他では、大杉栄『自叙伝』、住井すゑ『わが生涯』、黒島伝治『橇・豚群』、「唯物論研究会」を知るための二つの座談会、武谷三男『自然弁証法、自然科学者の無遠慮な感想』、 渡辺洋三『日本国憲法の精神』、藤沢周平『一茶』における相続、などを読みました。 この中で、ア、2015年6月16日から10月12日にあたっていた『ドイツ・イデォロギー』に見る唯物史観の意識化ですが、この18回の学習を読み返しました。様々な道から主題に接近したもので、これを8月24日のブログにまとめてみました。あらためて基本的なたいせつな問題だと思います。 イ、また、その唯物史観の学習ですが、8月28日に「私なりの『資本論』刊行150年によせて」での『資本論』をふりかえるヒントになりました。「教条ではなくて、行動の指針だ」との点ですが、もちろん引き続き深めることが必要であるにしても、とにかく認識の基本をすえれたことは確かだと思います。マルクスも、これをまとめずに死んだとしたら、自分の一生は何だったんだろうかと。それだけの時代社会の本質をとらえた作品であり、レーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』などに見られるように、この応用が、後の人たちすべてに託されているわけですね。 ウ、そうしてみると、これまで私などの多くの関心は抽象的な事柄のまわりをさかんにうろついていたということになります。遅まきながらその客観性を感じる次第ですが、やはり人生は具体的であり、豊かなものです。戦前・戦後の日本での探究の歴史にまなびつつ、現在の自分自身の課題を具体的に立てることが肝腎になっています。もはや片足を墓場に置いているようなものですが、それでも「青年老いやすく学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」との声がどこからか聞こえてきます。気づいた時が、ここがロドス島なんですね。ようやくにして、私なども、ものごとのスタート台に建てたような、そんな気がしてくるような昨今の次第です。 以上、8月のまとめです。
2017年08月31日
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黒島伝治著『橇・豚群』を読んで黒島伝治(1898(明治31)年-1944(昭和19)年)の作品集ですが、新日本文庫『橇・豚群』(1977年刊)を読みました。以前に、最初の「電報」を紹介しましたが、この本にあつめられている11作品ですが、その全体を読みました。自分の不勉強を棚に上げて言うわけなんですが、果たして、今を生きている人で、どれだけの人が黒島伝治という作家を知っているでしょうか。私に関しては、ついごく最近なんです、その人と作品を知ったのは。香川県の小豆島生まれで、その文学活動は1925年から32年までの、7,8年だったそうです。第二次大戦の終戦前に亡くなった、戦前の「プロレタリア文学運動」の作家です。私などは、蔵原惟人著『文学への思索』(新日本新書1972年刊)の作品紹介が無かったら、そして、新日本文庫で著作集『橇(そり)・豚群』(1977年刊)が出されなかったら、その人の存在も、作品も、まったく知らないままだったと思います。たまたま、それらと、最近出会ったんですね。だいたい私の文学の知識は、学校の教科書にでている範囲から出てませんから、すべては、視野の外だったんですね。だいたい黒島伝治の作品というのは、短編ですから、直ぐに読めるんです。それと、戦前の文学者の人たちが、口に出来なかったことを、率直に書いているんですね。だから、短くて、それでいてひきつける力をもっているんです。たとえば、彼は軍隊に徴兵されてシベリア出兵した、そこでの兵士としての体験を書いているんです。「橇(そり)」(1927年7月)、「渦巻ける烏の群れ」(1927年10月)がそれです。ここにあるような角度から書かれたの作品は、たいへん珍しいですよ。シベリアの戦地に兵士として動員されながらも、そこでの現地住民や相手の兵士に対して、頭からの敵愾心をもっていないんですね。対等な宥和感をもって接しているんです。これって「反戦平和」の思想ですよね。かつては、「国賊」「非国民」とみなされたんじゃないでしょうか。また、農民のもつ思想を、その作品に書き込んでいます。「豚群」(1926年10月)、「浮動する地価」(1930年5月)などです。その生活観、思想ですが、「百姓は、生命よりも土地が大事だというくらい土地を重んじた。死人も、土地を買わなければ、その屍を休める場所がない。―そういう思想をもっていた。だから、棺桶の中へは、いくらかのお金をいれた。死人が、地獄か、極楽化で、その金を出して、自分の休息場を買うのである!」(「浮動する地価」四より)こうした思想が、自然に、あちこちに出て来るんです。こうした信条は、そのままではないにしても、口には出さないにしても、現在でも日本の農家の人たちは、どこでももっていると思いますよ。これなんかは、昨今の労働力の絞り出しと、工業への農家の切り捨て政策に、走り続けている政治家には、分からないでしょうね。かつての軍隊同様に、きれいなバラ色の農業像を掲げながら、実際は農家への犠牲を、ひたすらおしつけている政治家には、けっして分からないところの、歴史的な作品ですね。いずれも、「リアリティー」というんでしょうか、時代のへだたりが無くて、その場に自分がいて、実際に経験しているような、そんな感覚を与えてくれる作品です。かつて、日本国民が、一般的にその時々を歩んできただろう姿をつたえてくれているんですね。しかし、当時は治安維持法があり、特高警察の思想係による取締りが始まっているわけですから、隔離と禁圧の対象になったと思います。一般にこれらの作品が読めるようになったのは、おそらく戦後の社会になってからですよ。その戦後の時は、様々な派手な思潮が大きく吹き荒れたわけですから、こうした作品は、ほとんど一般の人の目にはつかなかったと思うんです。おそらく、これらの作品は批評されることも少なく、限られた人たちにとっての、知る人ぞ知る作品であり、作家だったんじゃないかと思うんです。あながち、私などが知らなかったことも、不自然なことではないと思うんです。全体としての感想です、反戦平和作家としての、農民作家としての、黒島伝治の作品ですが、戦前の作品の状況の中で、それが書かれたこと、その勇気と見識に注目です。今日読んでも、身近な感覚で輝きつづけているという、注目されるべき作品だと思います。しかし、あまり文学作品を読んでいない私などが、とやかく言えることではないのですが、それでも、黒島伝治とその作品は、大事にしたい日本の宝だと感じさせられました。
2017年08月30日
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私なりにマルクス『資本論』刊行150年によせて 多少となり『資本論』に意義を感じる人は、今年は大事な年だと思います。 1867年の『資本論』第一巻刊行150年の節目に当たる年ですから、それぞれの人が、自分なりの紹介をまとめてみることが大事だと思うんです。 何しろ、150年も前、徳川慶喜の大政奉還の年に刊行されたものですから、現代に生きる人が、若い人たちが、『資本論』を読んでみようとの気持ちにするには、それなりの意義と魅力について、刺激を感じてもらう必要があると思うからです。様々な角度から、今日的な魅力を引き出す必要があると思うんです。 私なども、今年は、どの様な方が、どのような角度から、その魅力を発信してくれるか楽しみにしているところです。 そんな一つとして、私などと『資本論』とのかかわりですが。 私が『資本論』の存在を知ったのは、1969年に法政大学に入学するころでした。当時の大学は騒然としていて、在学中に読めたのはその第一巻まででした。まがりなりにも全三巻をおわりまで読めたのは、理解のほどはともかくとして、社会人になってからで、1994年8月から2001年10月にかけてのことでした。 まったく、「少年老いやすく、学成り難し」です。 私などは、この数年、マルクスの唯物論的歴史観について学んできました。 『資本論』の基本思想ともなっている唯物論的歴史観です。それを最初に表明しようとした『ドイツ・イデォロギー』(1846年)において学習してきました。この『山』に様々な角度から挑戦したんですが、この8月24日のブログに、第18回目にして「まとめ」を発信したことで、とりあえずの一つの区切りとしました。 今回の、私なりの『資本論』紹介は、この点からなんです。 『資本論』にとって、唯物史観がどのような役割を果たしているか、この問題です。 唯物史観は『資本論』の基本思想として、いろいろな人によって、必ずといってよいくらい解説してくれています。 私などが紹介したいのは、次の点です。 「われわれの学説は、教条(ドクマ)ではなくて、行動の指針である」(「レーニン全集」第17巻「マルクス主義の歴史的発展の若干の特質について」1910年12月23日より) これはレーニンが、エンゲルスを引用して強調したことばですが、この点を紹介したいんですね。 エンゲルスのこの点にふれた発言ですが、『書簡集』で、気づいたものをざっとあげるだけでも、 1、第36巻 1886年12月28日 フローレンス・ケリーウィシェッキー 1887年1月27日 同人 2、第37巻 1890年6月5日 パウル・エルンスト 3、 同 1890年8月5日 コンラート・シュミット 4、 同 1890年9月21日 ヨーゼフ・ブロッホ 5、 同 1890年10月27日 コンラート・シュミット 6、第38巻 1893年7月14日 フランツ・メーリング 7、 同 1894年1月25日 W・ボルギウス 8、 同 1895年3月11日 ヴェルナー・ゾンバルト (この内、4と7は、『フォイエルバッハ論』(新日本文庫)にも添えられています) エンゲルスは、晩年まで、くり返し、くり返し、各国の人たちに助言している点なんですね。 2つ、中身を紹介しましょう。 1、ウィシェネェツキーへの手紙(1886年12月28日、87年1月27日) 「われわれの理論は教条ではなく、発展の理論であり、まる暗記して機械的に反復するような教条ではありません」この後いろいろ、との意味を説いています。 3、シュミットへの手紙(1890年8月5日) 「われわれの史観は、なによりもまず研究にさいしての手引きなのであって、けっしてヘーゲル主義者流の構成のてこではありません。歴史全体が新たに研究されなければならず、まず様々な社会構成体の存在諸条件が一つひとつ探究されなければならぬのであって、その上でこれらの諸条件に照応する政治的、私法的、美学的、哲学的、宗教的などの見方をこれらの諸条件から導きだすように試みなければなりません。この面では、これまでほんのわずかのことしかなされていません。このことに真剣にとりくんだ人は、ほんのわずかだったからです。この面では、我々には、多大な手助けが必要となりうるのであって、領域はかぎりなく広大で、まじめに仕事をしようとするものは、多くのことをなしとげ、頭角をあらわすことができます。」これはもうはっきりしていると思います。 以上の点を読んで、私などの受けとめですが、読書の仕方についてですが、 人間は様々な関心の世界が広がっていきますが、ただ漠然としたままある本を読んで、その論点をつかむというのは、無駄とは言いませんが、非効率だと思うんです。やはりなんでその本を読むのか、分析的な探究過程の対象としての読み方が必要だと思うんです。ただ漠然と読んでいるだけではダメなんです。 ある着眼点を明確にするようにして、意識的に全体的な関連を明らかにしていく、漠然としたままで対象に引きずり込まれるようであっては、あとにはほとんど残らないということだと思います。同じ読書するにしても、この読み方によって違ってくる。それが私などが最近感じる点です。 レーニンの言う「行動の指針」ということの中には、こうした点が含まれていると思います。彼の著作にみられる論証力というのは、こうした着眼点を明確にした読み方、事実材料をあつめて総括する、その仕方には、これがあると思うんです。 以上、直接『資本論』とは関係ありませんが、私などが思う所の、その基本にある唯物史観の思想(方法)だと思っています。
2017年08月28日
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フォイエルバッハの「ヘーゲル哲学批判」を読む3年前のこと、フォイエルバッハの「ヘーゲル哲学批判」を読んでいました。岩波文庫の『将来の哲学の根本命題』には、フォイエルバッハ(1804年-1872年)の3論文が入っています。1、「ヘーゲル哲学批判」(1839年)2、「哲学改革のための暫定的命題」(1842年)3、「将来の哲学の根本命題」(1843年)の3論文です。フォイエルバッハには、この他に1841年『キリスト教の本質』があるのですが。3年前に、この内の「ヘーゲル哲学批判」について3回のレポートにしていました。2014年8月23日 https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201408230000/ 同 8月27日 https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201408270000/ 同 9月7日 https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201409070000/フォイエルバッハは、ヘーゲルの講義を1824,25年に直接聞いているそうです。この1839年の論文では、正面からヘーゲル哲学を批判するにいたっていますが、どの様に批判しているかが問題です。この論文からだけでは、ヘーゲル哲学批判の全体は見えてこないとは思うのですが。後に続いて書かれた諸論文で、よりその考え方が明確になると思います。そうした中での第一歩ですが、ここにしめされていると思います。最初の第一レポートですが、ヘーゲル(1770年-1831年)が亡くなった後に、「ヘーゲル哲学は、時代の最高の哲学だ」と絶賛するような社会的風潮があったそうです。これに対してフォイエルバッハは、人類の全体が一個人にしめされるなんてことがありうるのか、そうした指摘をしていることを紹介しました。絶対的な完結した存在なんてない、との点です。第二レポートでは、弁証法の問題です。フォイエルバッハは、確かに形の上ではヘーゲル弁証法を批判しているんですが、弁証法をどの様なものとしてとらえていたか。ここが問題です。古代ギリシャ哲学などにみられる対話の方法くらいでしか弁証法をとらえていない。だから、ヘーゲルにおいては、弁証法が概念の弁証法であり、それが自然に照らし返されるといった、大きな思考と存在の体系においてとらえていることに対する理解が出来ておらず、したがって批判が批判になっていないことの問題です。第三レポートは、唯物論の問題です。フォイエルバッハは、ドイツ古典哲学の観念論の森の中にあって、その中にあって唯物論の見地に立っています。シェリングの自然哲学の考え方も影響していると思うのですが、唯物論の見地を明確にしていきます。ところが、中身としてはそうなのですが、「唯物論」という言葉を使わないんですね。それを使うことを避けているんですね。ここにある問題です。といったことを、3つのレポートで紹介したわけですが、確かにフォイエルバッハには、そうした問題があるのですが。しかし、この一つの論文だけから、そうした検討されつつある問題を、結論的なものとして引き出してしまうということは、少々先走り過ぎているように思いもします。いつか、それらを確かめる機会もあるかと思いますが、今は中間的な紹介です。
2017年08月27日
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ミョウガとカボチャで朝市を開く8月26日、朝からツクツクボーシが鳴いてました。ようやく夏らしい暑さですが、秋の気配がしてきています。多摩の団地で、単独で朝市を開きました。昨日、早川から搬送してきた新鮮野菜です。早川の自然は、じつに豊かで、昨日はミョウガがバケツ一杯も採れたんです。今回を過ぎれば、収穫もすこしは落ち着いてくると思うんですが。これまで手つかずの方のミョウガ畑があったんです。せっかくの自然の恵みですから、当方の努力としては、これらを都会の人たちに届けます。今回の販売ですが、ナスについては、9本でしたから、店支度をしている間に売れちゃいました。問題は、ミョウガ20パックとカボチャで、これがたくさんあるんですね。とくにミョウガは、今日中に売り切らなければなりません。常温でも花芽が伸びてきて、花が咲いちゃいますから。そうなると養分が花に移ってやわらかくなり、味が淡白になっちゃいますから。しかし、そうはいっても、そうそう都合よくはいきません。朝9時の商店街ですが、ご覧の通りの様子です。まだ人通りも少なく、全体として閑散としています。ここでの1時間の販売をスタートにして、本日の販売を始めます。それでも、ここで全体の半分、ミョウガ10パックを売ることが出来ました。これからひと休みして、夕方からですが、こんどは、在宅者への出張販売に移ります。今日中に販売をおわらせます。
2017年08月26日
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久しぶりに富士山が見れました8月25日(金)、今日は久しぶりに富士山が見えました。午前5時56分、平塚から見えた富士山です。午前6時10分、小田原から見た富士山です。おかげで梅干づくりは、三日三晩の土用干しを完了させるめどがつきました。午前10時には、すでに農夫は汗びっしょり、ヘトヘトです。もう今日は、お休みです。
2017年08月25日
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『ドイツ・イデオロギー』の学習のまとめ唯物論的歴史観を学ぶために、2年前の2015年に『ドイツイデオロギー』を学習していました。新訳『ドイツ・イデォロギー』(服部文男訳 新日本出版社 1996年刊行)を使いました。歴史社会を唯物論的に見るとは、唯物史観とは、どの様な理論であり、方法なのか。戦争法-日本の進路が問われだした2015年の時でした。この理論を、あらためて理解する必要を感じて、いろいろ挑戦したんですね。最近、ブログとフェイスブックのおかげで、その過去帳が再現されてきます。2015年6月16日から10月12日までの学習でしたが、くり返しがバラバラにならないように、今回、全体の18回を整理してみました。2015年6月16日、第1回 『ドイツ・イデォロギー』(1846年)への再挑戦のはじまりです。 2011年7月7日にも、この本の学習レポートを発信していたんですね。第2回 6月19日 不破哲三著『古典への招待 上』で、この本の解説を下調べしました。第3回 6月21日 『聖家族』(1844年)から『ドイツ・イデォロギー』への大筋の確認です。第4回 7月1日 新訳『ドイツ・イデォロギー』(服部文男訳)は4つの章からなっていました。第5回 7月9日 第1章、初めて唯物史観を提起したものですが、これは清書稿だそうです。第6回 7月23日 第2章、これまでのアドラッキー版と構成がどう違うのか確かめました。 これが最初に書かれた唯物史観の理論だそうです。 第7回 8月10日 第2章、ここにフォイエルバッハに対する批判があり、中身を確かめました。第8回 8月16日 後年の論文で、この時期をふりかえっており、中心点を確認しました。第9回 8月22日 同じく、『共産党宣言』序文で、唯物史観の基本思想を確認しました。第10回 8月24日 第2章で、唯物史観がどのように提起されているか調べました。第11回 9月4日 同じく、第2章で唯物史観がどのように提起されているか調べました。第12回 9月7日 最初に書かれた2章と、清書稿の第1章の唯物史観とを比べてみました。第13回 9月11日 これまでの第1回から第12回までの学習をまとめました。さらに続いて、まとめの部分です。第14回 9月13日 唯物史観は方法であって、型紙ではなくて研究の指針であること。第15回 9月22日 社会論における唯物論とは、イデオロギーの役割について第16回 9月26日 前回(2011年7月7日)の学習をふりかえりました。第17回 9月29日 不破哲三『古典への招待下』第15講「フォイエルバッハ論」を見る。第18回 10月12日 第3章と「フォイエルバッハ論」で、社会史における唯物論の方法と、 ヘーゲルの思想支配の歴史観とを対比する。これで、一区切りしていました。このマルクスの唯物史観ですが、あらためてふりかえると、1、唯物論的歴史観を直感した時点から、理論としてまとめ上げるには一連の課程があること。2、歴史の見方というのは、現在の課題ーそれぞれの国の労働者階級の変革論に係わること。3、その理論は、教条的におぼえるのではなくて、活動や研究の指針なんだということ。4、『資本論』をはじめ、すべてのその後の探究は、この唯物史観が基礎にあり、 この歴史観の論証であり、応用として、『資本論』(1867年刊)が残されたんだということ。5、私たちは、ただ教条をくりかえして安住するのではなく、 この理論を、それぞれの分野に生かせるようになってこそ、 先人がのこしてくれたプレゼントを、受け取り、引き継いでゆく資格者となる。-こうした結論が出てきます。私などの古典学習ですが、この後に、プレハーノフ著『史的一元論』にすすんでいきました。
2017年08月24日
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『宮本顕治著作集』(全10巻)へのいざない当方は、このところ日本の歴史を学びかえすことを課題としていますが、5年前の今ごろは、『宮本顕治著作集』に挑戦しだしていました。このころ、漠然としていた中にも、歴史が課題となっていたのですね。宮本顕治氏(1908(明治41)年-2007(平成19)年7月18日)が、99歳で亡くなった後に、その著作集(全10巻)が、2012年7月からでしたが、刊行されだしたんですね。全十巻なんですが、一度に全10巻を前にしたら、その多さにたじろいだでしょうが、さいわい、月に一巻ずつ順次刊行されてましたから、毎月の一冊ずつのペースで、10カ月間を重ねることで、全巻を読み通すことが出来たんですね。2012年8月22日、第一巻に関するレポートです。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201208220000/大まかですが、第一巻、戦前に刊行された作品集の、その紹介です。客観的な紹介にはなっているかと思いますが、それだけではだめなんですね。これとは別に、宮本顕治氏は、その生前に『文芸評論選集』(全4巻)を出しています。この方でも、戦前編がその第一巻でしたから、時期としては、今回の一巻に重なっています。なかには重複するものもいくつかありますが、両方の一巻で戦前編が当たれます。(第二巻は、治安維持法裁判の公判記録で、これも戦前編ですが)私などは、この間、プロレタリア文学運動史を『蔵原惟人評論集』でたどっているんですが、蔵原評論集の戦前編は、第一巻と第二巻の二冊です。宮本氏の方は、1929年から1933年の作品集です。蔵原氏の方は、1924年から1931年の作品集です。ともに逮捕されるまでの宮本は4年間、蔵原氏は7年間の作品です。プロレタリア文学については、いろいろな方が、いろいろな意見をまとめていますが、この二人の評論集というのは、そうしたことがらの元になっている生の資料です。なかなか珍しいと思うんですよ、生の貴重な歴史資料がまとまって刊行されているわけですから。一番の基本問題は、当時の国家権力は治安維持法によって、共産党を徹底弾圧・追及をしたわけですが、その主張は、「侵略戦争反対、主権を国民の手に」でした。今日からしてみれば、当たり前な民主社会をもとめた、先駆者だったわけです。それが、すさまじい弾圧に抗して、その主張をし続けたということです。まして、これは文学の分野でのこと、文学評論でしたが、それでも追及されたんですね。歴史によって審判は下されて、現行の憲法の体制ができたたわけですから、本来、今日の民主体制は、弾圧した誤りにたいして、歴史的な謝罪を表明してしかるべきなんですね。すべての治安維持法の犠牲者に対して謝罪を表明して、名誉回復をして当然なんですが、それがいっこうにしようとはしていないんですね。これは歴史的宿題ですね。それはともかくとして、この作品集には注目すべき遺産があります。1、プロレタリア文学運動は、日本の近代文学の流れのなかから、民主主義的流れを引き継ぐなかから生まれてきていることです。これを示しています。2、ソビエトや西欧文学など世界文学との交流と影響にあって、日本での文学理論を独自の責任と仕事ととして、すすめようとしていることです。外国の理論の丸のみではなく、独自の状況と理論的な探究があります。3、社会の諸領域のなかでの文学理論、政治との関係、文学評価の基準などを開拓するとともに、反動的な思潮、文学の流れへの批判があります。日本の文学史の流れのなかで、少なくともこうした成果をもっています。もっとも、私などにとっては、まだそれらは大まかな漠然としたことがらですが、この間に、著作集をさぐってきた中で、感じているところなんですが。それだけでなく、出来れば、評論の対象となっている作品を、一作でも読んで、その見解を確かめたいと思っているんですが。要するに、前回から5年前がたちましたが、まだまだ緒についたばかりなんですね。中身としては、それから、さして思うほどには前進していないということなんですね。ひきつづき、これをすすめていくというのが、目下の課題なんですね。
2017年08月23日
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民法を身近にしてくれた『一茶』(藤沢周平) 去年の今ごろでしたが、藤沢周平著『一茶』を読みました。これは、学生時代の同窓会で山形県鶴岡を旅したことがきっかけだったんですが。その時の感想を発信していました。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201608220000/ これを読み返してかんじていることですが。藤沢周平は、自分自身が都会に出て、その故郷を思う気持ちがあって、それで江戸時代の小林一茶の晩年の生涯を身近かに感じたんだろうと思います。それでいろいろ調査して、この作品を書いたんだと思います。 それは、私などにとっても共通な想いとする所なんです。 今回、あらためて感じるのは、ここには、相続の問題、民法について知るための、一つの材料があるとおもうんです。 そうは言っても、私などは法律の世界などはまったくの素人ですから、問題意識の範囲でしかないのですが。 人間というのは、誰しも何らかの形で親の死に直面します。すると、古今東西誰でもそうでしょうが、自身の相続の問題が発生して、否応なくそれに関係することになるわけです。誰でも経験する所となるわけです。そして、民法には相続の問題が重要な柱としてふくまれています。 近代の成文法として旧憲法がつくられた時に、同時に明治29年と31年に旧民法がつくられました。 その当時、1893(明治26)年にどのような民法をつくるか、帝国議会で「民法典論争」があったとのこと。 フランス型の人権と平等を配慮した民法案が準備されていましたが、議論の中で日本の家族制度になじまないとして否定され、つくり変えられた。結局、むかしながらの長子相続をまもる旧民法がつくられたという経過があります。 時はすすんで、第二次大戦の結果、近代民主主義にたった現行の日本国憲法がつくられました。この時に、この性格にふさわしくなるように1947年に民法も改正された。そして、現行民法が出来たんですね。 そこにある変化ですが、ひとつ特徴をあげるとすれば、それまでの長子相続から、新たに均等相続にかえられたんですね。それまでは長男が「家」を家督相続としてすべて引き継いできた形から、家族の構成者に応分の相続権をみとめるように相続の仕方が変わったんですね。 要するに、日本の近代の民法の歴史の流れには、明治の旧民法がつくられた時は、当時の社会を反映したものとなった、これが社会の歴史的な特徴的であり、一つの節目でした。時がすすんで、戦後に現行民法がつくられた時には人間平等の均等相続を基調とする民法に変わった。この変化は、白黒とか、正誤の問題ではなくて、社会の変化、時代の大きな歴史の流れがあったんですね。憲法にしても、民法にしても、ここの歴史的な変化をとらえておくことが大事だし、これが社会の基礎なんですね。 ところが、問題はここからなんです。私などは1950年生れですが、こうした日本の歴史の歩みについて、事柄については、これまでの教育制度の中で、具体的なこととして学んだ記憶が無いんですね。 実際としては、法律とその制度が、敗戦後の1947年に大きくかわっているのに、その社会に暮らしている一般国民にとっては、そうした大事なことが周知徹底していないのではないでしょうか。もちろん、法律に係わる人にとっては常識的な事柄ではあると思うんですが、しかし一般庶民にとっては、それがほとんど知らされてない場合が、このためわかっていない場合が、多々あるということではないのでしょうか。これは大きな問題ですよ。 私などの場合は、たまたまだったんです。偶然に手にした末川博著『民衆のための法律学』(講談社学術文庫 昭和51年刊行)を1993年頃でしたが、これが正面から民法の改正内容を解説してくれていました。これをに見たことで、歴史的な基礎に対する盲人としての自分に悟りを開いた次第だったんです。それはかすかな光でしかありません、ですが問題の本質をついたものだったんです。これは、誰しも通りつつある過程であり、その私の場合の経験だったんです。 こうした、変化が周知されておらず、あちこちで混乱した事態をきたしているわけですが。それが起こる背景ですが、それは個人の不勉強といった問題で済ますことはできないと思うんです。だいたい、それをまもり、徹底すべき政治が、今、地に堕ちているからです。 ひどいものです。一国の総理大臣の憲法観が、やっていることですが、まったく狂っているわけですから。そうした人が国家の最高責任者になっている現在があるわけですから。これじゃぁ、へんな屁理屈をこねて、ちっとも正確な内容と真実を明らかにしたり、徹底しようとしないというのというのが、政治の姿です。責任感覚がない政治家の姿が、日々まかり通っているわけですから。「だから、当たり前だ」なんて言っちゃぁ世の中を異常を合理化になります。全体としては常識は働いているはずです、出ないと社会が成り立ちません。しかし、そうした異常なことが続いているのが、日本の今の率直な状態なんですね。 これじゃあ、やはり、ちまたで玉石混交の混乱や、トラブルが生ずるのも当たり前です。そこには土壌となっている社会のグレーな状態と、未分化な意識状態が、根拠としてあるんですね。ここをかえなければ、モグラたたきなんてすね。 だから、首相のごまかしを許さないことは当然ですが、それだけでなく、もう一度、私たちは、歴史的な日本の大きな流れを、そのなかでの今という社会状況を、学び返してみることが必要なんじゃないでしょうか。正道に立ち返らせるために、憲法の精神を発展させるために。私などは、それを痛切に感じている次第です。 一年前に、縁あって藤沢周平の『一茶』を読んだんですが、これを読んだ時、そうした問題意識と課題を感じてきた次第です。それは、私たちに課せられている宿題なんだと。その流れとして、私などの今があるという次第です。
2017年08月22日
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ようやく土用干の開始です変わりやすい天気の中、8月22日に土用干しを開始しました。これまでも、何度もその機会を探ったのですが、関東の八王子では、晴れた日が続かなかったんですね。予報では「大気が不安定で、午後からは怪しくなる」とのことですが、だいたい天気予報は最悪の事態を想定してます。その言葉を真に受けていたら、何時までたっても土用干しは出来なくなります。確かに変わりやすい天気ですが、これ以上を遅らせたら秋になってしまいます。もうここまで来たら、自分の体感による天気予報を重視しするようにして、雲が濃くなれば、干した梅をとりこむようにして、少しでも陽のあるうちは、土用干しをすることにしました。これまでくんな天気は無かったんですが、三日三晩の土用干しを、いよいよ開始です。
2017年08月22日
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よる年並みで、二往復しました8月21日、草刈り機の修理で、小田原の早川へ行ってきました。草刈り機ですが、アクセルワイヤーが切れちゃって、使えなくなっていました。今年のように梅雨のような天候では、草刈り機がとくに欠かせないのです。ところが、この肝心な時に草刈り機が壊れてしまった。それで、今日は農機具やさんにその草刈り機を見てもらいました。すると、お店の方は「時間をいただければ、午前中に修理することは可能です」と。機械が壊れると、直ぐに買い替えを考える習性が出来ているんですが、これは、実にありがたい話でした。当方は、お店が開く前に、鎌を使って草刈りのひと仕事しました。草に埋もれていたサトイモですが、草刈り作業したことで引き立つようになりました。鎌を使って、周囲の草を取り除いて、土寄せし、刈り草を周りに敷く作業です。6か所やったら、もう汗びっしょりのクタクタにさせられました。この後、午前9時過ぎに、農機具屋さんに草刈り機の修理を依頼しました。正午には、たいしたものです、草刈り機がふたたび使えるように直っていました。それで、お昼過ぎの暑い時間帯でしたが、懸案の草刈り作業を実施したんです。草刈り機のエンジン音が、みかん園に快適に日々い渡たりました。草刈り作業は、抜本的にはかどったんですが、暑い時間帯での作業でもあって、汗びっしょりのクタクタになってしまいました。これで、草刈りの懸案が動き出して、ヤレヤレでした。草刈り機の調子を確かめ、6割方の草刈りを済ませて、午後2時に帰途につきました。ここまでは、いたって順調のように思っていたんですが。締めくくりの所で、たいへんな問題をきたしました。帰路の途中で、相模原のお酒屋さんで、帰ってからの飲み物を買ったんですが。車をスタートしようとしたら、鍵ロックのランプがついて、エンジンがかからないんです。車のキーが近くにないとの印です。車のキーをどうしたのか・・・?それで最後にキーを扱った時を思い出しました。汗びっしょりだったので、作業の後に着替えをしたんですね。そのとき、濡れたズボンのポケットの中のものを椅子の上に置いたんですね。濡れた衣類は積み込んだんですが、ポケットの中にあったものは、置きっぱなしにしちゃった。車は、酒屋さんの駐車場にとまったままで、エンジンはかからない。もう、頭のなかは混乱状態でした。車のキーも携帯電話も、玄関の鍵も、いしょに60キロ彼方に置いてきてしまったんですから。お店の店長が、「お困りのようなので、電話をお使いください」と助け舟を出してくれました。結局、JAFに頼んで、車を八王子の団地まで運んでもらって、スペア―キーを使って車を使えるようにして、もう一度、小田原・早川まで、この忘れ物を取りに行った次第です。もう、作業でクタクタになると、いろいろ問題をきたしています。眼鏡をどこに置いたかも忘れるし、作業で使うひざあては畑でなくしてくるし、そして、今回の着替えしていての、車と部屋のキー、携帯電話の忘れ物です。もう、これは私などもよる年並みが、ひたひたと近づいて来ているようです。クタクタになると、一つ問題が片付いたかと思うと、他ことで問題をきたしてしまう。引き起こしすいろいろな中には、普通はありえないことも起こしているということです。これが、よる年並み、というやつなんでしょうね。
2017年08月21日
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『資本論』刊行150年、その3当方の本棚には、『資本論』がほこりをかぶっています。今年は1867年に『資本論』第一巻が刊行されてから150年だそうです。私などの目にするメディアは、ごく限られていますが、アンテナを張っています。1、今年の1月20日には、雑誌『経済』が、「変革の時代と『資本論』-マルクスのすすめ」特集号を出しました。2、また先日は、不破哲三氏が「赤旗」の8月1日から14日に、14回の連載をしました。今回は、8月20日付「赤旗日曜版」に石川康宏氏(神戸女学院大学教授)が出した、「現代的生命力持つ汎用性」を紹介します。この『資本論』紹介は、「資本主義を深いところからとらえているから、社会の表面に現れる様々な出来事を、長い歴史的視野の中に、理論的にとらえる力をもっている」この点について、貧富の差の問題、環境問題、などなどの問題をあげています。さらその基礎に、どうして、『資本論』が社会を深くとらえることが出来たのか、それが、資本主義社会の歴史的な性格をとらえた点にあることを指摘しています。さらに、その社会発展の中から、未来を準備する労働者階級を発展させること、このことが太く明らかにされていること、この点を指摘しています。私などが、感じている労働者階級の状態についての点ですが、マルクスが『共産党宣言』を書いた当時では、労働者階級の状態というのは、ドイツでも、先を行くイギリスやフランスでも、まして他のヨーロッパ諸国でも、その存在はいたって少数だったと思うんですよ。未来にたいする見通しの側面が、大きかっただろうと思うんです。今日の、現在の日本などとは、大違いだったと思うんです。また、日本の歴史で見れば、『資本論』第一巻が出版された1867年は、徳川慶喜の大政奉還の年ですから、それこそこの150年は急速な日本の変化だったわけです。明治政府は、日清・日露戦争から海外侵略の道をすすみました。第一次大戦の結果は、勝ち負けを分けました。敗戦国ドイツではワイマール共和国が出来ましたが、日本は、大正デモクラシーや反戦平和をおしつぶして、15年戦争にすすんでいきました。戦争への道は敗戦に結果し、たくさんの犠牲の上に、現在の戦後社会が出来ました。ざっとした駆け足でしたが、何を言いたいかというと、今日、私たちは、自分たちの歴史的位置をとらえかえす必要があると思うんです。非合理な政治がまかり通っていることは変りがないんですが、ひどすぎる。労働者や農業者、各階層は、自分のもつ社会的な位置と力を認識しなければならないこと。日本の近代以来もとめた民主主義ですが、戦後の確立70年、今どこに進かの試練にあること。こうした時、私たちは、『資本論』をふくめ、歴史の成果を学んで、今に生かす力をもたなければならないことです。しっかりと、未来を拓く力を造らなければならないということです。この点で、『資本論』刊行150年の年に当たって、ここでもアンテナを張るようにして、『資本論』に、どの様な点に光が当てられるか、注目している次第です。
2017年08月20日
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沖縄県民大会を伝える「赤旗日曜版」です「沖縄 不屈の結束」がタイトルの、8月20日付『赤旗日曜版』です。「翁長知事を支え、辺野古に新基地を造らせない県民大会」が12日に開かれました。四万五千人が参加したそうです。その大会の様子とともに、「沖縄タイムス」「琉球新報」二紙の編集局長へのインタビューが紹介されています。翁長知事のあいさつからです。『日本政府、米国の関係も含め、巨大な権力に立ち向かうのは相当な覚悟が必要です。沖縄県民は戦後一貫して、そういった厳しさの中で声を出し、生き抜いてきました。私は、今後も県民に対するいかなる差別的、犠牲的な扱い、基地負担の押し付けに反対し、オスプレイの配備撤回、辺野古新基地建設反対、普天間飛行場の閉鎖・撤去の実現に不退転の決意で取り組んでいきます。負けてはいけません。今からです。子や孫、先祖の思いを胸に刻み、命の限り頑張りましょう』これは、歴史的な経過がこもった挨拶ですね。さらに、「沖縄タイムス」「琉球新報」二紙の編集局長へのインタビューも掲載されています。これらの中身をつたえることは、私などの力ではできませんが。日米両政府は強権的に新基地建設を押し付けようとしていますが、日本政府は、アメリカ政府に従がい代行役を務めてますが。それに対して、沖縄県民は「新基地はつくらせない」との不屈の意志を重ねて示しています。これは、沖縄県民が直面している問題は、国民の総体に問いかけしている問題ですね。この新基地を押し付けようとする日本政府の意思というのは、国民みんなの意志なのか、と。
2017年08月20日
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「いらっしゃい!」団地の朝市です8月19日、東京・多摩の団地では、定例の朝市が開かれました。毎月、第一と第三の土曜日の午前中に開催されています。地元の多摩の農家、群馬の農家から、そして小田原からと、採れたての新鮮で、かなり安い各種の野菜がならびます。ナス、キュウリ、玉ネギ、インゲン、カボチャ、シイタケ、トマト、ビーマン、ゴーヤ、などなど。今回は、この間の雨がちな天気もあって、葉もの類が無かったんです。トウモロコシも、スイカも、長ネギもありませんでした。計算している時に話しかけちゃだめですよ。素人の商売というのは、直ぐに計算がメチャクチャになっちゃうから。何回も、足し算をやり直すハメになりますから。当方は、昨日小田原・早川で収穫してきた作物を並べました。これは、準備を完了した時の様子です。お客さんがいる時は、カメラを撮るどころじゃなくなります。商品は、ミョウガとカボチャ、そしてスイカです。それに、おまけのみつばとシナモンでした。スイカについては、群馬から来ると思ったので、当方は、早川から味見用の程度にしか用意してなかったんです。ところが、昨今のお天気事情で、その群馬からスイカが来なかったんです。もっと、早川から運んでくればよかったんですが、予約分のみだったので、後の祭りでした。もっとも、早川でもスイカは、この数日のことですが、イノシシがスイカ畑に出没するようになりだしていて、「これまでは、ここの畑までは来なかったのに、せっかく食べごろになったのを、3個も食べられちゃった」と、農家の方が、肩を落としていました。ほとんど自家用ですから、たくさんはつくってないんです。しかし、こんな天候でも、ピシッと割れる絶品を提供してくれるんですよ。ミョウガは、好評で、用意した16個は完売できました。カボチャは、団地の核家族には、丸ごと一個は大きすぎて、カットして分割するようにしたら、売れるようになりました。本日も盛況です、当方の品も順調に売れていました。
2017年08月19日
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今日は難行苦行の草刈りが目的だったんですが8月18日、本日は早川のみかん園と、真鶴のみかん園に行ってきました。明日の朝市用のミョウガの収穫と、みかん園の草刈りが目的だったんですが。八王子を午前3時40分に出発しました。早めに、草刈りを終わらしてしまうつもりだったんです。早川のみかん園には、午前5時半ころ到着しました。今は日の出は午前5時ころですが、これは午前5時30分くらいです。早川のみかん園に着いた時の景色です。日出は過ぎてますから、作業に支障はないのですが、まだうす暗い。今年の8月の天気は、梅雨のような日が続いています。細かく見ると、同じ関東平野でも、八王子と早川・真鶴とでは違います。八王子は、今日もそうですが、このところ曇りと雨の模様がつづいています。梅干づくりの土用干しもまだ出来ていないんです。他方、小田原の方は、少しましで、今日も時々太陽も顔を出す天気でした。さて、朝一番の草刈り作業を、今日こそは終わらせようとしたんですが。予定が狂いました。草刈りを始め出した途端に、草刈り機が動かなくなっちゃったんですね。アクセルが壊れてしまい、使えなくなっちゃったんです。前回、道の分は刈ったんですが、今回はそれを面に広げるつもりでいたんですが。残念、草刈り機が使えなくては、本格的な草刈りはできません。仕方ありません、鎌をつかって、みかんの苗木と里芋の周辺部分の草刈りをしました。手前はサトイモが顔を出しています。鎌による悪戦苦闘しましたが、もうダメです、これが限界でした。今年の夏はこんな天気でから、雑草の繁茂はすごいんです。これでも前に草刈りをしてあるんですよ。それでも、手前の状態と奥の方とを比べれば、この草刈りの必要が分かるかと思います。ちょっとした息抜きもあります。鎌で草刈りをしていると、草の中から虫たちが飛び出てきたんです。虫が飛んで動いたんで分かったんですが、草刈り機だと、こうした細かな存在と動きは確認できないんですが。葉隠れの術です。じっとしていると、草や葉の緑色でわかりません、「雑草」や「バッタ」には、それぞれ名前があるはずですが、草刈りで忙殺される私などには、名前や種類はわかりません。午前6時30分に、早川の市民みかん園の草刈りですが、終了にしました。終えた後に目にした小田原の市街地の景色です。朝日の時とだいぶ違います。これを見ると、まだ伸びた草がいっぱいある、どうするか。樹木に絡みついた草もある、これをいつはぎ取るか、そうしたことが頭をよぎるんですが。とにかく、今回はこれまでとして、草刈りを打ち切りとしました。今回の目的の、ミョウガの収穫の仕事がまだ残っていますから、これだけで、へたばるわけにはいかないんです。さらにそれから、1時間、ミョウガの収穫で汗を流しました。さらに今回は、スイカの注文が寄せられていたこともあり、石垣山の中腹の奥にお住まいの農家、そこで農業を営んでいる方を訪ねました。お話しを聞くと、この数日ですが、イノシシが出て来るようになったとのこと。せっかくのスイカも、あちこち荒らされてしまった、とのこと。畑を見てみると、ところどころに緑の皮だけになったスイカがちらばっていました。イノシシはスイカを綺麗に食べるんですね、赤く色づいた部分はまったく残してませんでした。人よりも、ていねいに、一所懸命に食べているのがわかりました。今回は、確保してくれてあったスイカと、そのほかにカボチャとミョウガを分けていただきました。さぁ、これで早川園は終了です。午前10時30分、この後早川園を後にして、真鶴のみかん園へ移動しました。こちらも、やはり草刈りが目的だったんですが。この間、真鶴園は、二週間の間隔があいていたんですが。ミツバチの方がたいへんなことになっていました。一つは、キイロスズメバチが複数匹で、巣箱に執拗にまとわりついていたこと。これは、ミツバチが自衛措置をとってますから、たいしたことはないのです。もう一つの問題は重大です、ミツバチの巣が、床面にかなりの大きさであったことです。前回見た時は、中ほどのワイヤーが見えてましたから、余裕があると見ていたんですが。中で巣が落果したこともあり得るんですが、中が見えないのでわからないのですが、そういうことはないと思うんです。だとすると、巣づくりが伸びてきて、床にまで達してしまったということです。すべての作業を中止にして、急きょ、巣箱の改造です。これまで四段だった巣箱に一段追加して、五段式巣箱に改造しました。今回、真鶴園に足を運んだことは正解でした。この時期、真鶴道路は夏休みの行楽車で、伊豆方面への道が混むんですね。前回は、お盆で、特に混雑していたんで、回れなかったんですね。今回、多少の混雑はあっても、前回来てなかったので、回るようにしたんですね。もし、くたびれていたのでと、そのまま帰るようだったら、たいへんでした。巣箱の状態に気づかず、そのまま放置していたとしたら、きっとミツバチたちは混乱をきたしていただろうと思います。ヤレヤレ、といったところでした。
2017年08月18日
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黒島伝治著「電報」を紹介します黒島伝治という名の作家をご存じないでしょうね。私も今回初めて知ったしだいですが。1898年(明治31年)に香川県小豆島に生まれて、1944年(昭和19年)に亡くなっています。どうしたわけか、その作品集『橇(そり)・豚群』(新日本文庫 1977年)があったんです。「電報」は、この本の巻頭にある13ページの小さな作品です。1923年3月に、一番最初に書かれた作品とのことです。貧しい農家の家ですが、その子どもを中学校の受験をさせたんですね。そのことに対して、親夫婦にたいして周囲から様々な軋轢が加えられる。子どもは合格していたんですが、その結果が発表される前に、たまらずに親は「電報」を打って、子どもを呼び戻したという話です。小川という村会議員が、村役場に行った父親に対して投げかけた言葉です。「お前に、たってやんなとは云わんが、はたらきど(労働者)が、息子を中学校へやるんは良くないぞ。人間は中学やかいへ行っちゃ生意気になるだけで、働かずに、理屈ばっかしこねて、却って村のために悪い。何んせ、働かずにぶらぶらして理屈をこねる人間が一番いかん。それに、お前、お前はまだこの村で一戸前も持っとらず、一人前の税金も納めとらんのじゃぞ。子供を学校へやって生意気にするよりや、税金を一人前納めるのが肝心じゃ。その方がお国のためじゃ。」1923年に書かれた作品ですから、もちろん今ではこんな話はないと思いますが。しかし、貧しい一農夫が、その子どもを学校に進学させようとしたとき、周囲から様々にに加えられた圧力ですが、当時の日本社会の現実として、現実性をもってよく伝わってきます。黒島伝治の存在は、蔵原惟人著『文学への思索』(新日本新書 1972年刊)のなかにあった、「黒島伝治の反戦文学」という紹介により大体の人となりを知りました。彼の文学活動は、1925年から32年までの、7,8年間だったそうです。この言葉は何としたことでしょう、しかし、当時の貧しい農家のくわえられた悲しい現実を刻みつけています。私は、まだこの短編一つしか読んでませんから、その限りですが。この作品集には、11篇がおさめられていますが、他も読んでみたいと思います。
2017年08月17日
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2年前、マルクス『ドイツ・イデオロギー』に挑戦してました「人間の社会史には法則的発展がある」、本当でしょうか。それまでもそうした意見はあったのですが、その根拠が薄弱でした。マルクスの業績は、歴史の客観的な事実の中から法則を発見したことです。それが唯物論的歴史観(唯物史観)ですが、それがここでのテーマです。この唯物史観の発見を、初めて理論として発表したのが、この『ドイツ・イデォロギー』(1846年)なんです。それを原典にたちかえって解きほごそうというのが、ここでの目標なんですね。当方は、2年前に『ドイツ・イデォロギー』に挑戦していました。唯物史観とはどの様な内容なのか、それがここでどのように発表されたのか探ってました。2015年6月から10月にかけて、全部で18回の学習を紹介していました。何しろ『ドイツ・イデォロギー』というのは、全集で、第3巻の600ページもある本です。通読するだけでも、容易なことではありません。しかし、その中心は、上の右の本ですが、服部文男訳『新訳ドイツ・イデォロギー』(新日本新書 105ページ)にあるとのことで、これに当っていたわけです。これまでにも何回か、この問題で過去帳を紹介してきていますが、今回のは、2015年8月16日に発信した第8回レポートです。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201508160000/この時の学習ですが、『ドイツ・イデオロギー』本体に挑戦するのではなく、それまでも難儀がつづいていたので、すこし迂回することにしました。エンゲルスが、後年になって、この若きの激動の日々をふりかえって、その当時を回想して筋を述べた論文に当ってみた次第です。接近する方法を変えてみたんですね。それが、エンゲルスの『共産主義者同盟の歴史によせて』(1885年10月 全集第21巻)でした。これによると、一、エンゲルスは1842年からのイギリス・マンチェスターでの見聞において、1、経済的事実が重要で近代社会の歴史的力だ。2、経済的諸事実が今日の階級闘争の土台だ。3、大工業が階級闘争を発展させ、それが政党・党派闘争、政治史の土台だ。これを見せつけられた。二、マルクスの方はというと、同じ見解だっただけでなく、『独仏年誌』(1844年)ではそれを次の様に一般化していたこと。1、全体として国家が市民社会を規定するのではなく、市民社会が国家を規定する。2、政治と政治史は経済的諸関係とその発展から説明されるべきだ、と。(見聞による意見と、一般化した理論とでは、同じことでも認識度が違うと)三、やがて、1845年春に、ブリュッセルで二人が再開した時には、マルクスはすでにその原理を展開して唯物論的な歴史理論の大要を完成していた。(理論として大要を完成していた、と)四、そこで二人は、新しく獲得した見方を、種々様々な方面で細目にわたって仕上ることにとりかかった、というんですね。ここでエンゲルスが言っているのは、それだけじゃないんです。五、この発見は歴史科学を変革するものであること。この発見の意味するところを、大きな視野で根本的な意義を強調しているんです。さらにそれだけじゃないんです。六、歴史一般にたいする唯物論的見方ですが、それの今日的な課題ですが、今日のプロレタリアートの階級闘争というのは、階級闘争そのものから解放する特徴に段階であり、形態であるとの特徴を指摘するとともに、共産主義はできるだけ完全な理想社会を空想するのではなく、プロレタリアートのおこなう闘争の性質、諸条件、それから出て来る一般的な目標を認識することとなったのだ、と。要するに歴史一般じゃなくて、近代史のもつ社会変革の課題について述べてたんですね。これだけではないんですが、少なくとも以上の点をふくめて述べていました。ときには、回り道をすることも必要ですね、もちろん手探りですすむことも大事なんですが。これが、今回の回り道をしたことでの成果だったんです。前回は、くたびれていて、後半はよれよれだったんです。一つ、この四にあたる作業が『ドイツ・イデォロギー』だったんですね。これで『ヘーゲル法哲学批判』から『ドイツイデォロギー』にいたる一筋の発展と、その根底にある糸が見えてくるかと思います。二つ、唯物史観の思想というのは、『経済学批判』の「序言」(1859年)に、もっともまとまった思想の叙述がありますが、ここで確認できますが、洞察の段階から「様々な方面で仕上げ」ていく、ひとつの認識の過程でもあったんですね。その根本思想ですが、様々な表現の仕方があるわけですが、基本内容はここにあるんですね。三、この唯物史観の基本思想ですが、いくらそれを抽象的一般的にふりまわしても、「歴史科学を変革」するものにはならないんですね。諸分野での具体的な研究が必要なんですね。どの様にこの唯物史観の方法をつかうか。それぞれの具体的な分野での努力がとわれています。それによって、個々の分野での、その客観的な論証をしめすことが出来てこそ、歴史諸科学の変革が、前進が、なされるということですね。お経のように、ただ繰り返していたんではだめだということですね。これが、この第8回学習から引き出されるべきことです。前回は、後半が尻切れトンボで終わていたので、その宿題で補足しておきました。
2017年08月16日
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不破哲三氏「『資本論』刊行150年に寄せて」を紹介します今年はマルクスの『資本論』が1867年に刊行されてから150年目だそうです。「しんぶん『赤旗』」には、不破哲三氏により8月1日から14日まで連載がありました。この中身は、多くの人にとって、益するものがあるとおもい、紹介せていただきます。その『資本論』は有名ですから、これを知らない人はないでしょうが、実際にその本を手にする人は、そして、読まれるだろう人は少ないかと思います。しかし、この連載を読んだだけでも、その魅力の一端が分かると思います。だいたい、刊行された1867年とは、将軍・徳川慶喜が大政奉還した年です。そんな昔の本が、今もって新鮮な中身を提供してくれているわけですから、面白いですね。150年間もたっていれば、どんな本でも、たくさんの解説書が出たとおもんですが、「もはや、言い尽くした」とされても、おかしくない訳です。それなのに、この連載は『資本論』の今日的な魅力を新たに独特に紹介してくれているんですよ。今日の社会状況だからこそ見えてくる古典の中身、本質の輝きという側面があるんですね。大まかな中身ですが、第一回では、私たちの社会が永遠な自然なものではなくて、歴史的な性格をもつことですが、唯物史観の方法の説明から入るのではなくて、例えば「資本主義」と命名したことが世界にひろがっている、そこに客観的な検証があることを指摘しています。第二回から五回は、「現代に光るマルクスの資本主義批判」と題されています。マルクスの資本主義的生産とその社会に対する分析の問題です。それから150年をへているわけですが、私たちが現在直面している様々な問題が出されています。マルクスの分析ですが、これらの問題についても本質として通じるとらえる方を提供してくれるというんですね。また、現代の私たちが問題を打開する上でもヒントを提供してくれているというんですね。ここに今回の力点の一つがあるわけで、私たちがしっかり検討しなければならない点ですね。第六回から八回は、「資本主義は人類史の過渡的一段階」は、資本主義がつくりだした世界史的な役割、未来社会の現実的土台について、です。世界市場につなぐ問題、個性をのばす問題、民主主義をつくりだす問題、またそれが社会変革にも新たな特徴をもたらす問題など、です。第九回から十二回は「未来社会論」。私などは、以前に紹介したように、第九回のレーニンの革命論に対する認識については見方を異にするんですが。第十三回から十四回(最終)「革命家マルクスの決断」です。以上、最後は、端折りました。ここで提起されている問題は多岐にわたっていますし、そのものを読んでいただくのが一番です。いくばくか伝われば幸いなんですが、この連載は、『資本論』の今日的な意義を、生命力を、不破さんならではの力で明らかにしてくれています。この『資本論』紹介としては、独特に新たな面を明らかにしてくれていて貴重です。きっとたくさんの刺激をしてくれると思います。この古典を今に引き寄せてくれると思います。もっとも、あとは、これを受け取る側の問題で、その努力にかかっているわけですが。最後に私などの感想ですが、日本で最初に『資本論』が刊行されたのは1927年だそうです。改造社から高畠素之(1886-1928年)訳だったとのことです。戦前の社会では、これを公然と議論することは出来なかった。それこそ治安維持法で取り締まられていたわけです。こうして自由に議論ができるようになったのは、1945年の戦後なんですね。この70年のことなんですね。私などが、『資本論』という本があることを知ったのは、1968年なんですね。それを学ぼうと思って1969年4月に法政大学・経済学部にすすんだんですが。その当時、雑誌『経済』1967年5月臨時増刊号で、「『資本論』発刊100年を記念して」が出されていました。それを後生大事に、本棚の片隅でほこりをかぶって、もってはいたんですが。当時の大学は、落ち着いて学べるような状態ではなかったんですね。一応読めたのはずっと後のこと。社会人になって時間をつくれるようになってからでした。今からふりかえれば、その大学入学は49年前のことです。そして、当時は、生きている社会が自然にずーっと続いてきたように思っていたんです。敗戦前の戦争社会というのは、ずーっと遠い昔の世界と感じていたんですが。今にしてみれば、その入学時は、敗戦から20年余しかたっていなかったわけですね。今では、その学ぼうとしたときから、戦後時間の倍以上を過ごしてきちゃったんですね。当時は、49年前は、今以上に敗戦の傷あとがあちこちに残っていたはずですが、呑気な私は、それを感じれなかったんですね。だから自然だったんですね。それは不思議な感じがしてきます。あらためてみれば、戦後の社会的な基本条件は、共通で変わってないんですね。その基本のわくの上で、あれこれの変化があったということです。それで、この不思議な感じを解くためには、67の手習いではありませんが、あらためて、私などは歴史を正確に学びなおさなければならないということです。『資本論』刊行150年ということと、同じことなんですね。歴史観をはっきりさせて、世界と日本の歴史を学びなおすことが必要だということです。
2017年08月15日
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マルクス『ヘーゲル法哲学批判』序論の学習です去年の今ごろは、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』序論(1844年)を学習してました。そのレポートを読みかえしつつ、吟味しているわけですが。8月2日の第一回、8月7日の第二回、今回は第三回目ですが、この去年の学習は、全体で四回の発信がされていました。。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201608140000/マルクスは、ヘーゲルの『法の哲学』、とくにその国家論部分を分析することで、次様な見解を引き出しています。1、ヘーゲルの法哲学には、ドイツの在り方に対する批判が、意識的な形にしめされている。しかしそれは、思惟のなか、思考の中でことでしかすぎない。ドイツ人は、イギリス人やアメリカ人や、フランス人がやったことを、思考の上で考えたに過ぎない。しかし、そこにはドイツの現状がアンシャンレジームの完成、その傷みを意識的にとらえた良心がある。2、この現状の打開というのは、たんに理論の上の批判しただけで解決できるものではない。実践的に事態を変えざるを得ないように提起すること。理論の役割とは、現実の活動に置き換わることは出来ない。3、後進的なドイツは、フランスの近代市民革命で行ったことを、今日その民主主義革命を課題としているが、単純にくりかえすのではなく、より進んだ社会の事態の中で、フランスがその結果としてぶつかっている問題をも、その中から直面するようになる。それは労働者階級が新たに大きな役割を発揮するような、新たな社会変革につながっていく、と。マルクスの到達点には、大体こうした中身をふくんでいると思います。私などは、これらの点については、確かめなければならないことだらけですが。1、今の日本が直面している問題ですが、これとマルクスが直面した課題とは、大きな歴史として似ている面があるし、この点で卑近でもあり参考になるということを感じます。前回も、その点を感じたんですが。2、マルクスにとって、ここに唯物論的歴史観への接近が見てとれると思うんですが、直観的には確信していますが、唯物史観の意識化が必要です。社会の歴史を法則的にとらえるには、もっともっと諸国の歴史を具体的にとらうることが必要だったし、そこにマルクスの課題があったと思うんです。それと、唯物論的歴史観という歴史社会の一般的な見方が問題なわけですが、同時にその転換期には、社会の変革の理論、革命論が問題になるということですね。3、私などは、同時並行で、9年間の時々のテーマを吟味しようとしているわけですが。欲張りなんですね。だいたい、そこで完璧さを求めてあがくというのは、努力はしたとしても、無理があるわけです。それぞれ素人による問題探究の過程であるわけですから、学ぶことが大きくあり、不明な点については、回答を急ぐのではなく、疑問としてしっかりとらえておくことが大事だとおもいます。また、今回、課題として感じている点なんですが、私などは無意識なうちにですが、日本の近代史の中にあって、新カント派の観念論に取り巻かれているきらいがあると思うんです。明治・大正のアカディミズムにはこれを理想としていた時代があったと思うんですね。戦前の唯物論研究会でも、課題の一つはこの批判にあったと思うんです。混乱をきたさないためにも、この成果についても学んでおく必要性を感じている次第です。
2017年08月14日
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ドナルド・キーン氏の「色あせぬ忠告」紹介米コロンビア大学の名誉教授テッド・ドバリーという方が、97歳で先月亡くなったそうです。テッド氏は、1945年8月に東京に海軍語学将校として派遣されたそうで、二人はともに「歴史の重要な岐路を目撃している」との自覚をもって交歓しあったそうです。 (「東京新聞」8月12日付)戦後の体験が、交換された書簡として残されているんだそうです。終戦後の日本で感じたことが紹介されているんですが。アメリカ人の知日派とされる人にも、いろいろな考え方があります。メデアにのる意見は、まゆつばなものもが多く、政治利用を感じさせられますが。中には、さすがにアメリカ人で、民主主義的立場からの論評もあります。このキーン氏の小論は、日ごろ感じることと重なるものがあります。タイトルになっいてる「色あせぬ72年前の忠告」ですが、故・テッド氏の書簡に、こんな一文があるのだそうです。「日本人が上からの命令に頼る性質を清算しなければ、ある一つの独裁政権から別の独裁政権に移行する可能性がある。連合軍からの布告がなければ何もできないようでは、日本国民が政治的自立に向かって歩き出すとは思えない」。これを読みかえしてキーン氏の抱いた感想です。「72年も前の忠告なのだが、日本国民は自立できたのか。5年前に日本人になった私には確信が持てない」と。憲法に明確な規定をもつにもかかわらず、戦争法をおしすすめ、憲法の擁護義務をふりすて、憲法改悪の旗をふるような、首相を許しているようでは、また、都議選の時はダブルスタンダードで、選挙が終われば豊洲移転を押し付けようとす都知事グループを許すようでは、この72年前に書かれた危惧ですが、今に生きている忠告なんですね。もっともっと私たちは、学び議論して、前進しなければならないということです。
2017年08月13日
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石工先祖碑の碑文が分かりました真鶴のみかん園のすぐ近くにある「石工先祖碑」です。お墓の形をしてますが、それもありますが、石工の顕彰碑です。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201508130001/今は住宅地のすぐ脇にありますが、私などの小さい頃は人家などない、けもの道のわきの少し奥まったところにありました。なぜか、大人たちは「ご先祖さん」と敬意をこめてよんでいました。子どものころいたずらで、台によじ登ろうとするんですが、登ろうとしても高くて登れない、巨大な石の塔だったんです。これが何で「ご先祖さん」なのか、わたしにとっては謎だったんですが。最近、町の教育委員会から碑文の読み下し分をおくっていただきました。これで謎が解けました。私などの勝手な憶測ですが、教育制度が整えられるまでは、お寺の坊さんですが、その社会的な位置は大変に高かったと思われます。この碑文も、お坊さんが書いているんですね。それによると、徳川家康は江戸城をつくるのに、黒田長政の力を借りていたんですね。はるばる九州の石工の棟梁たちが、真鶴町岩まで出向して切り出したんですね。この一帯には多くの石切り場があったようですし、今でもありますが、その石材業の歴史を、今に伝えてくれる貴重な石碑です。私などは、たまたま近所だったことで石碑を知っていたわけですが、謎として、その存在を知っていたわけですが。形あるものは、ほとんどが壊されて、消えてなくなっていきます。そうした歴史のなかで、この石碑が、今に残っているということは、これを大事に守り、手入れをしてきた人たちがいたということなんですね。いや、いまでも、草刈りなどをしている人がいるということですね。これは幕末に再建された石碑ですが、そのものが今に伝えられているというのは、貴重なものだし、すごいですね。やはり、真鶴は、漁業と石材業、そしてみかんが骨格だったんですね。
2017年08月13日
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本日はミョウガ屋さんでした 今日の団地朝市は、独自の朝市で、商品はミョウガのみでした。昨日収穫してきたものですが、容器に入れたところ、14パックが出来ました。朝市の様子ですが、これは今日のものではなのですが。今日は、ミョウガのみの商品でしたから、もっとずっと簡素なものでした。この場所では、午前9時から、1時間の販売時間として、あと残った8パックは、出張販売でした。というのは、ミョウガは鮮度が大切ですし、待っていても、買い手のお客さんで、ここまで来てくれる人は限られていますから。今回の早川行きでは、また一つには、石垣山の豊かさを発見しました。これは、農夫さんのお宅を訪ねる途中の様子です。朝市でスイカを頼まれていたため、そのスイカを入手しようと訪ねたのでしたが。てっきり、このお宅かと思いこんでいたんですが、訪ねるべきお宅は、ここよりも、もう少し上側にありました。この地で畑づくりをしてるんですから、ひとの努力というのはすごいですね。先人は苦労して、こうした石垣山の山地を切り拓らき、畑地を作ったんですね。なま半可なことで出来ることではありません、でもやったんですから。この細い山道を登っていった先に、手入れされた豊かな畑があるんです。私などには、まるで桃源郷的な世界でした。現代人は、社会感覚からして、生産は金もうけ本位に変わっちゃってるんですが。 その価値観では、ここでの生活は成り立ちません。ここでは、この土地の自然の恵みを引き出すことを中心にした暮らしなわけです。もちろん、消費社会の中にあるわけですから、必要品は購入しなければなりませんし、生活ごみも山を下った集積場にだすわけですが。 しかし、現代の世知辛い世の中にあって、貴重な愛されるべき、かけがえのない存在ですね。 そういう人は、けっして出しゃばらないで地味な生活をしているんですね。 私などの郷里の姿もそうだったんですよ、今は離れてますから、わからないんですが。記憶に残っている、かつてのなつかしい郷里の人たちがもっていた側面です。今回の商品-ミョウガもそうした中でのものなんですよ。これがミョウガ畑です。畑には、イノシシよけに電気柵が設置されています。ミョウガは、その外側の山斜面がありますが、その際にあります。これが、今回収穫してきたミョウガの畑の一部です。これも石垣山の自然の恵みなんですね。それと、農家の方たちの、丹精込めた手入れがされていることで、こうした作物の収穫できるんです。こうした農業は、儲け本位の考え方からしたら、まったくの視野の外ですね。しかし、農業というのは、自然の恵みなんです。ここには、むかしから大切にされてきた農家の営みがあります。地味な、夫婦の労働に支えられての農作業です。こうした農業世界に光が当てられて、見通しが持てるような政治こそが、本当は、一般的には、求められていると思うのですが。私なども、こうした農業者の生産と流通の姿をも元にして、必ずしも、それは農家一般の姿ではないとは思いますが、しかし、これも一つの窓口として、一般的姿を探っていく。現代の日本の農業論を、農業の未来を探るためにも、学び、探っていきたいと思っています。
2017年08月12日
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小田原のスイカをわけてもらいました8月11日、小田原・早川へ出かけてきました。午前5時に出たのですが、まだ7時前なのに道路の渋滞が始まりだしていました。混雑に巻き込まれないように、予定を変えて、必要最小限に作業を限定すことにしました。スイカの入手と、ミョウガの収穫、草刈り、この3点です。まず、スイカを朝市で頼まれていたですが、小田原・石垣山の農夫の方を訪ねて、分けてもらいました。朝市で、『小田原・早川のスイカを食べてみたい』と注文がありました。当方の市民園のオーナーに頼んだんですが、今年はサルに荒らされて壊滅とのこと。それで、石垣山の農夫の匠の方を紹介していただいたんです。これは別のお宅でした。私はここがお宅だと勘違いして、この庭先で待っていたんです。石垣山の中では、携帯電話の電波が届かない個所があるんですね。さいわいにして、その農夫の方とおち合うことが出来ました。今年は、真夏日か少なく梅雨空が多いんですが、スイカにも影響が出ていました。だけど、さすがに農夫の匠は違います。あちこちにあるスイカを、指先でコンコンとたたいた音で成熟度が分かるんですね。大きなスイカなんですが、「これはまだ少し早い」「こっちの方は、まずまずかな」と。築地市場の仲買人の魚の目利きと同じです。それぞれ分野は違うけれど、匠の品定めの力というのはすごいものですね。さて、当方はもう一つ、ミョウガの収穫がありました。これが、そのミョウガ畑です。この茎の根本に、どこか所々にミョウガが生え出しているんです。地面に這いつくばって、まさぐるようにして収穫してきました。今回はもう一つ仕事がありました、草刈りです。この間の雨がちの天気が続いていますが、これは雑草の繁茂を活発にしていました。脚立と椅子があるんですが、それが伸びた草の中にほとんど埋没してしまっています。今日の体力の三分の一は、どうしてもこの草刈りを実施すべきと思ってきました。その結果です。草刈りは十分ではありませんが、脚立が顔を出しました。すでに、全身ビショビショですから、これ以上は熱中症の危険ラインになります。一タンク分の草刈りしましたから、今回の草刈りはここまでとしました。午後0時50分、今日の作業は終了です。草刈り作業を打ち切って、みかん畑の農道を下る時の景色です。本日の予定は、すべて終了しました。一仕事終えた後の、小雨の降る小田原市街地と相模湾を遠望する景色です。
2017年08月11日
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マルクス『ヘーゲル国法論批判』の学習6年前の今ごろは、マルクスの『ヘーゲル国法論批判』を学習していました。2011年ですから、東日本大震災のあった年です。当方は、帰宅困難者として板橋区役所に泊まる体験をしました。それ以後、早朝に時差出勤するようにしたため、時間が出来るようになったんです。中央公論社の名著シリーズには、ヘーゲルの『法の哲学』そのものが載っていました。マルクス『ヘーゲル法哲学批判』ですが、国民文庫の真下信一訳をつかいました。8月9日の第一回から10月29日まで、80日あまりの間に15回にわたっての挑戦でした。これが最初の8月9日のレポートですが。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201108090000/ここでマルクスは、理念を主体にしたヘーゲルのあべこべを正そうとしています。国家が家族・市民社会を規定するとのヘーゲル歴史観をひっくり返そうとしています。「この節のうちに法哲学、またはヘーゲル哲学一般の全秘密がかくされている」(P11)すなわち唯物論的な歴史観が、その骨格となる要素が、このヘーゲル法哲学批判の中から見えてきているんですね。第2回-9月9日、3-8月19日、4-9月3日、5-9月9日、6-9月13日、7-9月16日、8-9月23日、9-9月29日、10-10月4日、11-10月9日、12-10月13日、13-10月21日、14-10月26日、15-最終10月29日でした。その都度のレポートは、ブログ歴から見ることは出来るわけですが、グダグダしたものです。私などとしても、このブログ歴のおかげで、その学習を吟味することが出来るわけです。だいじなテーマであり、大きな作業でなんですが、当時は四苦八苦だったんですが、読み返したら、どの様なものが出て来るか、楽しみなんですが。6年目にして、もし値するような中身があったなら紹介させていただきます。
2017年08月10日
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梅干づくりは「土用干し」にはいりました台風5号一過の8月9日、梅干づくりは「土用干し」に入りました。今日の八王子は、午前中は台風一過の快晴でした。今年は、梅雨明けしてから、土用の日を過ぎても、晴れ間がなかなか続きません。暦の上では立秋(8月7日)も過ぎたんです。もう、この時しか、今日からの三日間しか、「土用干し」の機会はありません。朝早くから、天日干しを始めました。ところがです。午前中は申し分のない快晴だったんですが、その天気が、午後2時を過ぎた頃から、暗雲が近づいてきました。午後3時ころからは、一時は激し雨が降り出したんです。当方は、診療所の送迎仕事の日でしたから、車は近くまで来たとしても、すべての運を天に任せるしかなかったのですが。なかなかままならない、今年の7,8月の天候です。そうした晴れのち雨の第一日目でしてが。そうであるにしても、ここしかありません。この3日間が、今年の「土用干し」にとって、決定的な日になってます。
2017年08月09日
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梅干づくりは、ようやく「土用干し」にはいります今年の梅干づくりですが、ようやく明日から、「三日三晩の土用干」にはいります。今日は、6月16日から漬けてあった梅を、瓶から出してみました。今年の関東の梅雨明けは7月19日だったんですよ。暦では、土用の丑の日は7月25日でしたが、ちっとも晴れ間がつづかなかったんですね。その後で晴れた日が続くのは、今回が初めてなんです。今回は、台風5号が通過中です。すでに各地に大きな被害を残しているんですが。しかし、それぞれががんばること。そのおかれた時と所、出来ることで、がんばること。それも、全体の立ち直りにとって、大事な一助につうじると思ってます。
2017年08月08日
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宮本百合子『歌声よ、おこれ』、4度目の紹介ですこの評論は、今年の2月21日、3月2日、3月22日と、すでに3回紹介してます。1945年12月に書かれたものですから、日本の敗戦直後の論評です。文庫にして8ページのものですから、これまでの紹介で、優にその分量を越してしまっているんですが。もう、カバーが擦り切れちゃいました。今回、私などは、この論評のどこに注目したか。2つあります。第一は、近代日本のもつ歴史的な弱さについて、指摘しています。わたしたちは、日ごろあまり意識してないのですが、私たちは、注意してないと過去の習性を引きずっている場合があるということです。どの様な点にでているかというと、現代の政治家で、自主的批判的な姿勢の弱い人を、卑屈な人を、見かけることがあるでしょう。もちろん政治家だけにかぎったものではないのですが。この論評で、百合子は、こうしたことの背景にある二重の原因を指摘しています。一つは、日本の江戸、明治以来の文化ですが、明治維新は、ヨーロッパの近代文化がもつ個性の確立ということを、十分に確立させることが出来なかったこと。もちろん、自由民権運動や、夏目漱石などの苦しんだ文化人はいたわけですが。もう一つは、それが、15年戦争にはいると、国家が、国体にそぐわないものを、共産主義をはじめ、社会民主主義から自由主義者、労働運動、文芸家、宗教家、科学者、教員など、治安維持法により、民主主義のあらゆる芽を、徹底的につぶしていったんですね。この敗戦までの10数年の間に、自主的で批判的な態度というものが、根絶やしにされていった。そうした習慣が、精神の傷跡ですが、敗戦の事実はあっても、すぐには癒せずに、きっぱりとはなくせずに、今日まで引きずってきたということですね。それがあちこちに残っているということです。もちろん、1951年に百合子は亡くなっていますから、今日までの戦後史は知らない訳ですが。しかし、そうした本質をこの論評で指摘していたんですね。だからこそ、この戦後初期のこの主題は「歌声よ、おこれ」の呼びかけだったわけですが。いま、私などは感じるんですが、戦後70年が過ぎたわけですが、この指摘から多くの歳月が過ぎたわけですが、それでも、依然として、弱く卑屈なものが、まだまだ残っているんですね。そうした輩が政治の世界を牛耳っているようなことがあるんですね。核兵器廃絶にしても、原発にしても、沖縄基地にしても、弊害が押し付けられています。今こそ、国民が力を合わせて、この歪みを正さなければならないということです。これは、百合子が指摘した私たちへの歴史的な宿題ですね。もう一つ、今回、百合子のこの評論で感じた点ですが。これを、どの様にして乗り越えていていくか、この点についても百合子は述べていました。チョット長くなりますが、紹介します。「作家の多くは、自己と文学との歴史的展開のモーメントをとらえきれなかった。その原因は、個性と文学の発展の源泉として、日本の民主主義文学の伝統が、積年の苦難を通してたえず闡明してきた文学における客観的な社会性の意義を、会得していなかったからである。文学において謙虚にまた強固に自己を大衆のなかのものとして拡大しておかなかったからである。」(P81)「その人生的モーメントをふたたび捉えなおし、抑圧されてきた人民の苦き諸経験の一つとしてしっかり社会の歴史の上につかみ、そのことで生活と文学との一歩前進した再出発をかのうとしなければならない。民主なる文学ということは、私たち一人一人が、社会と自分との歴史のより道理にかなった発展のために献身し、世界歴史の必然的な働きをごまかすことなく映しかえして生きていくその声という以外の意味ではないと思う。」(P82)自分勝手な、独りよがりな意見では、ダメだし、それでは弱いということです。ここには、戦前のプロレタリア文学運動が、様々な苦難の中から獲得した教訓があると思うんですよ。意識の客観的社会性ということですが。先進的な意識は、人々の基盤の中にあるものの一つとして自覚し、それと結びついてこそ、大きな力を発揮しうるということです。これも、そのような言い回しでは百合子は言ってませんが、しかし中身としては、そうしたことだと思います。以上の二点が、4度目ですが、あえて紹介したかった点です。短い評論の原文ですから、そのものを読んでいただくことが一番よいことなんですが。
2017年08月07日
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住井すゑ『わが生涯』を読む『橋のない川』は、1961年に第一部が、1982年には第七部が刊行されました。私は、この大作をまだ読めていないのですが。その著者住井すゑ(1902-1997年)へのインタビュー『わが生涯』(岩波書店1995年)です。インタビューをされている増田れい子さんは、住井さんの娘さんだそうです。全体は五部からなっています。その第一部に出てきますが。住井さんの生涯で一番のショックは、幸徳秋水の大逆事件だそうです。1910(明治43)年、小学校三年生の時だったそうですが、校長先生の朝礼の話にショックを受けたんですね。P15-16「デッチあげだったけど、明治天皇暗殺をはかったということを口実に社会主義者、無政府主義者つまり反明治政府、反権力反戦の人たちを検挙弾圧したわけね。幸徳秋水は6月1日に逮捕され、翌年の1月24日死刑になる。 校長先生が朝の朝礼で話したのは幸徳秋水がつかまった直後で、こういう話だった。『幸徳秋水、名は伝次郎という悪いやつが、おそれ多くも天皇陛下に爆裂弾を投げつけようとした。もし天皇陛下がそのためにおかくれあそばすようなことがあったら、たちまち日本は暗黒になる。この幸徳秋水は、この間の日露戦争(1904-05年)の時も、戦争はしてはならん、人間は殺しあってはならんと言って、てんのうへいかがやれと仰せられている戦争に反対した。戦争に反対した幸徳とその一味は不忠の臣、国賊である』 でも私は、この校長のいうことは間違っている。幸徳というのひとの言うことはいいことだと思ったですよね」このことはこのインタビューの終わりの方に「私の原点」として、かさねて出てきます。P196「なぜ極悪人かというと、国の富を国民に平等に配分しようといったから・・・、私はびっくりしてね。そんなすばらしい人がこの世にいたのかと。だから死刑になったと聞いたときには、もう涙がとまらなかったですね。そのかたきはかならずわたし討ってやると心に誓ったのです」第三部には、長男の召集の時ことが紹介されています。1945年1月1日に騎兵連隊に召集される。P97「私物の靴下を使っていたというんで、罰をくわされたという手紙がきたから、連隊長にすぐ『はきかえの靴下の予備も出せないような軍隊じゃ、戦争は負けだ、戦争を早くやめろ、いつまで戦争をやっているんだ」という手紙を書いたの。この負けいくさをいつまでもやっているということは、国民にとっても迷惑だ。敗戦だという私が国賊だというなら軍事裁判ひらけ、わたしはその席で明らかに敗戦だということを証言する。そして国賊として処刑しろ。その代り、この戦争が負けたときには、天皇はじめ陸海軍将校みんな腹切るという一札と交換条件だ。それを各新聞に発表して、わたしは軍事裁判を受けて死刑になりましょう。そう書いたの。」実際は、この額面通りではないと思いますが、そうした気持ちを手紙にして出したことは、そうしたことがあったことは、あったのかと思います。時と相手と、そして表現には、配慮があったと思うんですよ。現実には、治安維持法というおおきな壁が、取り締まり・弾圧体制があったわけですから、こんなストレートなことは言えなかったと思います。しかし、戦後の時を経て、1995年の時点にたっての回想としては、そうした気持ちとして昇華されていたのでしょう。戦前から歯を食いしばって、苦労させられてきた人でもあります。そうした人が、今日の戦後の社会状況に立ったときに、あらためて当時に言いたかったことの、偽らざる表明ではないかと思います。この精神は、まだ私は読んでませんが、きっと『橋のない川』にも込められていると思いますよ。だから、多くの反響を呼んでいるんじゃないかと想像しています。戦中を通して、埋もれていた声なき声が、言いたくて言えなかった声が、この戦後の大作に表現されているんじゃないかと、私などは推測しています。いずれの時にか、それを確かめてみたいと思っています。
2017年08月06日
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産直野菜の定例朝市がひらかれました8月5日(土)、多摩市の団地では、産直野菜の定例朝市がひらかれました。毎月、第一と第三の土曜日ですが、朝市を開設するようにしています。ここには、農家が丹精込めた新鮮野菜が、たいへん安く並べられています。玉ねぎ、にんじん、ナス、ゴーヤ、ネギ、空心菜、キュウリ、トマト、カボチャ、トウモロコシ、などなど。当方も、昨日、早川で収穫してきた作物ですが、これを、その一角に並べました。今季最後の柑橘としてバレンシアオレンジ。ブルーベリーとミョウガです。それとおまけの「みつば」です。ミョウガの販売はむずかしいんですよ、収穫後、暖かいところに置いておくと、すぐに花芽が伸びて花が咲いてしまう。肝腎の中の養分ですが、咲いた花の方へ行っちゃうんです。「冷蔵庫にいれて、成長をとめるようにしてください」とのコメントを添えています。バレンシアオレンジは、今季最後の収穫の7袋の販売でした。味試し用にカットしていて気がついたんですが、なかに果肉の極端に少ない皮ばかりのものがありました。これは徒長枝についた、しわのある果実に多く出ていたんですが。急きょ、現地で袋をといて詰め替えです、これは取り除くようにしました。バレンシアは、柑橘販売のサイクルとしては、今季最後のものだったんですが、なんとか、今季の様々な柑橘販売を、そのすべてを終了することが出来ました。次の柑橘の提供は、新たな年度の収穫で、9月のスダチから始まります。それまで農夫は、草刈りなどなど、しばし裏方作業にはいります。ブルーベリーは、ひとパック250円でしたが、好評でした。これは、8月いっぱいは、ポチポチと収穫が続くはずです。今回は、試しとして、ジャムにしたものも販売してみたんですよ。6個を作ってあったんですが、全部売り切れちゃいました。今回、ブルーベリーは30パックも用意したので、午前11時には半分くらい残ってましたが、残り10個は引き続き朝市販売に任せて、後の残りの9個をお届け販売するようにしました。もしどうしても残るようなら、冷凍させておいて、後でブルーベリージャムに加工して、次回販売するようにします。ということで、「やれやれ」です。今回の朝市も、当方は午前中の営業なんですが、無事に終了できました。
2017年08月05日
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小雨の中、朝市のための収穫に行ってきました8月4日(金)、明日の朝市のために収穫に行ってきました。このところ、関東は梅雨のような天候が続いています。おかげで、梅干づくりの土用干しが、まだ干す機会を探っています。今日の早川園も、小雨降る陽気でした。今日の目的は、明日の朝市のために、バレンシアオレンジ、ブルーベリー、ミョウガ、そしておまけのみつばの収穫です。この写真の手前側が、ブルーベリーの木です。今日の早川園の天候ですが、小雨のシトシトと降る陽気でした。しかし、この程度なら、問題はありません。これらの三つの収穫にとっては、程度の小雨なら、まったく問題はありません。汗と雨が違うくらいで、ずぶ濡れ状況に違いはありません。なにしろ、雨よりも人の欲望の方がまさってますから、この程度の雨が降っても、べつに支障はないんです。これは、バレンシアオレンジの木です。前回の快晴の時の写真です。バレンシアオレンジというのは、柑橘類の一年の収穫サイクルでは、一番最後の収穫に当たります。早川園には、バレンシアの木が3本あります。今日は、残っていた果実のすべてを収穫しました。この時期のバレンシアの木の手入れとしては、この完全収穫してやることが、木の負担をなくすことになりますから、一番の手入れになると思っています。ついでミョウガの収穫をしました。ミョウガの収穫ですが、今が盛りです。この写真も、以前のもので、快晴の日の様子です。いま、この中の茎の根元で、ミョウガが花を咲かせ始めています。なるべくなら、花の咲く前のミョウガの芽を採りたいんですが、後手なんですが、当方は、咲いた花を目印にして、そのあたりをまさぐることになりまます。今日の早川園ですが、バレンシアオレンジ、ブルーベリー、ミョウガ、この三点を収穫してきました。午前9時45分に早川園での、三点の収穫を終えました。今度は真鶴園行きです。こちらの目的ですが、ミツバチの状況についての観察です。巣箱にはネットがかぶせてありますが、前回、スズメバチが巣箱に近づけないように、巣箱の全体にネットを被せておきました。ネットを被せた当初は、ミツバチたちは、前回は「何をしてくれたんだ」とばかり、巣箱のまわりをブンブンと騒いでいたのですが、今回、見てみたところ全体的に落ち着いていました。ヤレヤレです。さらに今回、確認したことですが。網の中の巣門にも、引き続き守衛がガードしていましたが、それだけでなく、ネットの外側にもミツバチがかたまって、巣箱を守っていました。実際に、このネットの外側ですが、キイロスズメバチが一匹熱殺されて、網に引っ掛かっていました。この小さなミツバチですが、大きなキイロスズメバチを撃退する力をもっているんですね。ヤレヤレといったところでした。今回の機会に、真鶴園のみかんの木の様子を見て回ったんですが。今年の真鶴園の早生みかんですが、どうやら表年の様です。早生みかんは、去年が全体としては、裏年でした。木についている果実が少なくて、ほとんど目立たなかったんですが、今年は、見ての通り目立ちます。ただし、真鶴のみかん園の全体ですが、カミキリムシの加害により、何本もの木そのものが枯らされているんですね。なかには主枝を枯らされてしまった木も、何本もありますから、全体としての、生産力は去年と比べて少ないか、ドッコイドッコイといったところかと思います。みかんの収穫は、これからひと休みです。次の収穫は、9月から始まるスダチからです。それまで、しばらくの間は、早川園のブルーベリーとミョウガです。今年の夏は雨がちな陽気ですから、その一雨ごとに雑草が繁茂してきます。この時期のみかん園の手入れは、草刈り作業で、雑草との根競べが続きます。
2017年08月04日
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連載がはじまった「『資本論』刊行150年に寄せて」『資本論』という本を、ご存知でしょうか?カール・マルクス(ドイツ 1818-1883年)が、1867年に第一巻を刊行したものです。日本では、それは江戸幕府の将軍徳川慶喜が大政奉還をした年で、150年前の刊行です。今、しんぶん『赤旗』では、不破哲三さんが、8月1日から、「『資本論』刊行150年に寄せて」の連載を始めています。驚くべきことではありませんか、今から150年も前に、明治維新の前に書かれた『資本論』です。その経済学の本が、今日の日本社会の現状を知る上で、新鮮な力をもっているというんです。今回の不破哲三さんの連載ですが、150年前のこの本が、これが現代社会を見ていく上で、生きた力を発揮していること、そして、現在のとらえ方に力を発揮している様子を、また力の秘密を、総じて今日的な生命力を、明らかにしようとしているんです。連載の初日、8月1日付に関連して、私などが読んで感じた点ですが。私などは1950年の戦後生まれです。なんとなく、私などの生きている現在の社会が、自然のように感じてしまう。生まれてから、もの心ついたときから、現在の憲法が自然としてある。もっとずーっと昔から今と同じように続いてきたかのように、そのように感じてしまうきらいがあるんですね。これはおかいしと思い、この間、あらためていろいろ学習しなおしていたんです。終戦を前後する日本社会の変化について、近代の日本の歴史について。こうした中で、連載1を読んでみると、冒頭部分のあたりで紹介されていますが、マルクスの以前の古典派経済学者ですが、アダム・スミスやリカードが、同じようにその社会を一般的に、自然なものとしてとらえていたこと問題が指摘されています。私などの感覚と似ているんですね。このマルクスの指摘ですが、一見さりげないようなことですが、じつはこの点に歴史社会のとらえ方の問題として大きな問題がある、と。ここに唯物論的歴史観というものの歴史社会の見方にとって、また経済学の方法にとって、重要な問題があることをとらえているんですね。確かに、戦後の民主主義社会に対して、戦前の治安維持法の社会は民主主義を取り締まる体制だったんですね。大きく異なる社会だったんですね。そして、注意してまわりをみれば、その弾圧の体験や大きな傷跡ですが、これが今日でも随所に残されているんですね。注意してみれば、それが見えてくるんです。戦前も戦後も「同じ」社会のように見てしまうのは、歴史にたいする浅はかさからきているんですね。今現在も、歴史の一つの過程にあるということですが、これは戦後世代にとっては、今の社会条件というものが、先人たちの大変な犠牲や努力の上につくられたものであること。そのことを、よくよく大事に、心に深く銘記せよ、と歴史が教えてくれているんですね。だから、トンチンカンな、むかしを懐かしんで、現行憲法を昔の憲法の形に戻せ、社会にもどせ、なんていうことは、とんでもないことです。不破さんが、この連載1で解いているポイントですが、その一つは「いまの社会を『資本主義社会』と一般に呼ばれていますが、このネーミングですが、これはマルクスが最初に『資本論』研究の中で、この歴史社会を特徴づけた言葉であり、それが今日、世界語として広まったんだよ」、そこには、一般的に当たり前なものとして、使われるようになったんだよ、との点です。この連載を機会にして、あらためて『資本論』を、そのほこりを払って、学びかえす必要があるということですね。私なども、『資本論』の学習ですが、1994年から2001年にかけて、地域に学習サークルをつくって学んでいたんですよ。私などの認識としては、すでにだいぶ昔のことになりましたが。この連載で、不破さんが意図していることですが。古典というのはチョコっとかじって置きっぱなしにしていては、宝の持ち腐れになる。そこにある基本的な考え方、方法というのは、今日でも生きている。今日、私たちが直面することにも、それにより新鮮な側面がみえてくるよ、と。どうやら、一番の問題は、『資本論』にのっかっているほこりを払うようにして、あらためて、この機会に、先人が残した宝ですから、それを自分の今日的な宝として生かすべきだと。このことがアドバイスされているようです。
2017年08月03日
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去年の今頃は、マルクス「ヘーゲル法哲学批判」序論を学んでました唯物論の考え方と観念論の考え方、これは哲学の基本問題です。誰でもそんなことは、日ごろの生活で、意識しているなどということはないのですが。去年の今ごろは、こんなことを学習していました。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201608020000/だいたい、近代の日本のアカディミズムでは、ドイツ古典哲学の、新カント派の影響が大きかったと思います。他方では、1932年には「唯物論研究会」が出来るように、唯物論の考え方も探究されていたわけですが。そして、独特の貴重な成果をつくったと思いますが。「デ・カン・ショ」の、カントからヘーゲルにかけての哲学です。このドイツ古典哲学というのは、圧倒的に観念論の世界観です。ここで問題なのは、そうした観念論哲学の中から、フォイエルバッハの唯物論が出てきたこと。マルクスは、直ちにその違い、唯物論と観念論の考え方の違いを見てとりました。そのマルクスの著作ですが、「ヘーゲル法哲学批判」、「聖家族」、「ドイツ・イデオロギー」など発展していきますが、そこで唯物論の考え方が、より明確に示されるようになっていきます。私などの昨年の今ごろの哲学学習ですが、こうした点を探っていたんですね。その『ドイツ・イデォロギー』の一節ですが、唯物論の考え方を述べています、「(唯物論は) 無前提な見方ではなくて、現実的な物質的諸前提そのものを経験的に観察する」見方である、と。これは、簡単に、サラッと言っていますが、人の意識というのは、それだけであるのではないし、それだけから出発してはならない。それには現実的な物質的な前提があるし、それとの関連で意識をみてゆかなければならない、と言ってます。なかなか、分かったような、分からない話ですが。「そんな、めんどくさいことは、どうでもいい」と思うでしょう。ところが、ここに哲学の根本問題、唯物論と観念論の考え方の違いがあるというんです。くりかえしますが、確かにドイツ観念論のうっそうとした森の中から、初めてフォイエルバッハが、唯物論の考え方を復活させたんですね。マルクスは、その根本的な見方を擁護して、その基本を発展させていくんですね。弁証法的唯物論を、そして唯物論的歴史観を確立していく、その基本は、ここからはじまりだしたんですね。 日本の戦前の社会は、旧憲法と同じく、ドイツの観念論哲学を受入れ、広げていきました。こうした専制国家に対し、民主主義的国家をめざすたたかい、マルクスの活動はここにあったわけですが、それは日本での問題と活動と重なるものがあると思いませんか。さらに根本的には、1776年アメリカ、1789年フランス、1848年ドイツにの、近代民主主義ともかさなってくる問題です。それが、現在の日本が直面している問題の、一つの側面としてあると思っています。そして、この関係を明確に意識的につかむことが、今日の日本社会を前にすすめる上で、大事な問題になっていると思います。歴史というのは簡単には卒業させてくれないんですね。卒業するには、根本的な学習が必要だというわけです。そして、このことは、普通常識が感じるよりも簡単なことではないし、しかし楽しいことだいうことです。私などは、くり返しくりかえし、いろいろな角度から発信していますが、ここに現代日本の基本問題があると思っているわけです。
2017年08月02日
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「唯物論研究会」を知るための座談会日本における科学的社会主義の哲学を理解する上で、戦前の「唯物論研究会」の成果を知ることも一つの大事な課題だとおもいます。唯物論研究会は、1932(昭和7)年10月から、1938(昭和13)年11月29日まで活動しました。戸坂潤を中心に、唯物論を学ぶことを目的に、哲学、自然科学、経済学、文学、歴史学など、様々な分野の人たちによる学術団体でした。会員は120-30人だったそうです。単行本の『唯物論全書』シリーズを66冊残しているそうです。私などは、以前に、今年の4月12日のブログで、2冊の本を紹介しました。『日本マルクス主義哲学の方法と課題』(新日本出版社 1969年刊行)『戦時下の唯物論者たち』(青木書店 1982年刊行)https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201704120000/この2冊には、それぞれ、当時の活動した人たちによる座談会が行われています。『戦時下の唯物論者たち』の座談会ですが、そのテーマは、1、どの様な社会状況の中で「唯物論研究会」がつくられたのか。研究会の性格と運営。2、その活動と、おもな業績の内容について。3、最後は、いっせいに検挙されて、活動が停止させられた状況。こうした点が、紹介されています。そして、この3、の最後には「唯研の歴史的役割-受け継ぐべき教訓」が議論されています。私などは、この部分を、とくに注目しました。唯物論研究会の活動というのは、すでに歴史的な活動になっているわけですが、座談会のこの部分では、それをどの様に見たらよいか、見方を議論しています。「批判の仕方」ということでもありますが。その価値ある成果を引き出すためには、引き継ぐためには・・・。この点が議論されているんですね。私などは、それとは問題は違うんですが、今、〈『資本論』の刊行150周年、そこからどの様な中身を引き出すか〉これが問題になっています。この問いにも通じる点があるものと思います。この「方法と課題シンポジウム」と、座談会ですが、二つとも、当事者たちによりアドバイスがなされています。その中心は、『唯物論研究会』の成果をつかむこと、私たち後世のものが、その中身を知っていくために、このために当事者たちがアドバイスしてくれているわけです。もちろん、私たちは一般に、じかにそれらの66冊の本や諸々の論文を目にしたり、一つ一つを読んだりすることは出来ない訳ですが。しかし、この座談会を読むと、その中でどのような問題が取り上げられていたか、どういうことが議論されていたか。ある程度ですが、その輪郭が見えてくると思います。この残された研究会の成果は、私たちにとって、知的な遺産であり、貴重な成果だと思います。もっとも、これを放置したままにしていては、後世は怠慢だとのそしりを受けても仕方ないとも思いますが。この成果を、どの様につかみ、生かすかは、私たち自身の努力の問題です。
2017年08月01日
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