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紫式部は、この大量の言葉を連ねた大長編物語の中に、こうした一見唐突に思える、前後の脈絡説明抜きの文章を、時々謎かけのように書くことがあって、「 … 、そこはかとなく涙の落つるを、おし拭ひかくして、 … 」の前は、濡れそぼった六条院の風景、後は夕霧の咳払いだけが描かれているのです。情景とか行動だけを記して、「あとは各自で想像せよ」と、言う。普通のテンポで読んでいると、何事もなく通過してしまいそうですが、ふと「待てよ」と思ったりすると、鈍感な私など、むしろ後からだんだん気になってくる。 大野晋さんは彼女の文体を「書いてある中味は、とても微妙で繊細なのに、その書きかたは、ゴツゴツと素っ気ない感じ」というようなことを言われていますが、それは例えば、こういうような所のことをおっしゃっているのでしょうか? まあそれはさておき、「そこはかとなく涙の落つる」理由は前後の脈絡からいって、その理由に戸惑ってしまうので、何度も言いますが、彼女はそこは読み手の想像力に委ねる、あるいは好きに読みなさい、と放っておく。これって、近代の散文の用法から言えば、ずいぶん読み手の想像力に依存した描き方じゃないの、という気がしないでもない(むしろ現代小説のほうに、似たような用法があるかもしれませんね)。しかしこれまでながながと、この物語に親しんで来た読者たちは、もうすでに充分彼女の常に二重性、あるいは複層的な表現に慣れているので、ああまたか、ということになるのでしょうか? 彼女に限らず、都の大宮人通しの交わす会話や手紙では、これは普通の用法であったわけで、なにしろコトを気鮮やかに言い表すのは×で、万事ほのかにどっちとも取れるような表現で、お互いが傷つかないような話しかたをしないと、「もののあわれ」を解しない田舎人の烙印を押されるのですから、彼女の文章もまた何もかも一義的にハッキリしたもの言いはしないのです。それは同時に、そうしたどっちとも取れる表現の中から、真意を汲み取れなければ、まともな都人とは見なされなかった、ということも示しているわけで、ひょっとすると今でも京都のある界隈には、多少その気風は残っているかもしれません。 それにしても、ある言葉をポンと発して、それをどう理解しどう返答するか、をじっと待っている、というのはある意味、とても狡猾な振るまい、と言えなくもないので、田舎育ちの私など(というより、ほとんどの現代社会人)は、「それで本音は何やねん!」とたいていシビレを切らしてしまうのです。 私はこの物語を読んでいて、ここ最近どうも紙に書き連ねられた、この大量の言葉の中には、本当のことなど何も書いてなくて、本当のこととは、結局「書いてある言葉と、それを読む人とのあいだの関係性」によって、そのつど発生し、そのつど更新されていくものではないか、という気がしてしょうがないのです。で、その部分において、源氏物語の言語は、今どきの書き言葉に比べ、概念としては、よほど話し言葉の表現に近かったのではないか? しかしここで間違えてはいけないと思うのが、それだから「源氏物語」は音読された、と解してはいけない、ということです。言葉の用法が話し言葉に近いからといって、物語の享受が音読で行なわれた、と短絡させるのは間違いで、むしろ「竹取物語」や「今昔物語」以来の平仮名による漢文読み下し的表現と、万葉集以来の和語の表現が、自意識に目覚めた女房たちによって、新しい地平を見出したということが出来ると思うのです。私たちはすでに明治以来の近代日本語の散文表現に慣れていて、そちらの通念からこれら物語を読めば、どうしても話し言葉=音読と解してしまうのですが、もちろん平安時代に近代散文の概念は無かったのでした。 しかしそれは彼女にとっては、むしろ次第に自分独自の技として、意識的に使っていった用法とも思われ、ついには、たんに文章上の用法に留まらず物語全体の構造にまで、こうした手法は及んでいったのです。― つづく ―
2010.02.28
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このブログを始めたきっかけというのが、4年前のトリノで荒川静香さんが、金メダルを取ったときの印象がとても強烈で、何度もビデオを観ているうちに、内心に沸き起こってくる感動の質を、何かに書き記しておきたい、あるいはその詳細を今のうちに書いておかないと、永久に忘れてしまうかもしれない、というのが発端だったのでした。 考えてみれば、この4年というのは早いような遅いような、今現在しゃべり続けている「源氏1000年」シリーズは、いつ果てることもない超低空飛行で、何だかものすごく前から始めたような気もするのですが、これはまだ1年とちょっとなのですね。 ブログを初めてから、荒川さんとそれを取り巻くファンやマスコミの動向も、しばらく注意深く見ていたのですが、彼女が凛とした表情でプロ転向の記者会見をおこなって以来、私の内部でのフィギュアスケートへの関心は、一区切りして次第に薄れて行きました。一時あれほど詳細にジャンプやスピンやスパイラルの中味を知ろうとし、新採点方式の特色についてもさまざま調べたりしたのですが、結局のところこうした事柄を知るということは、コアなフィギュアファンであれば当然のことであっても、私のような一般的なレベルのファンというのは、時間が経てばどうしようもなく関心というのは薄れていくものです。 白状しますと、その後一度だけ浅田真央さん他のスケートについて、ブログにUPしたことがあるのですが(女性なるもの14./2007年03月25日)、自分が薄々面白味を持ってしゃべっていないことが、書いていて分かってくるので、途中で話題を変えてしまった記憶があります。これは何も彼女たちをくさしたり貶めているわけじゃくて、むしろ面白味を感じていない自分が、事知り顔に突っ込んだフィギュアの話をするのは、相手に対して失礼でしょう。 というわけで、たぶんフィギュアの話は二度としないだろう、するまい、とも思っていたのですが、今回はやはりこのブログを始めるきっかけを与えてくれた、という意味でも敬意と感謝を表して、簡単に触れておきたいと思います。多少金メダルが取れなかったのが、残念という気分は正直残しつつ … 。 それにしてもキム・ヨナ選手の力は突出していて、おそらく当分誰も太刀打ちできない、それほどのレベルの高さでしたね。これはじつはトリノのときの荒川さんを思い出すので、下馬評では彼女は大技を決めればメダル争いに食い込んで来るだろう、と言われていたのが、FP前日の練習を見た海外メディアでは、彼女のいわゆる「鬼の形相」の練習振りを見て、ひょっとして来るんじゃないか?というような話が、ひそかに出ていたようです。それぐらい周囲を圧倒するオーラを発して、(たしか肩を脱臼しても)練習していたので、結果金だからではなく、4年に一度の世界一になるということは、かように近づき難い異次元のムードを漂わせるものでしょう。 私はそうした別次元の強さのムードを、我が身に引き付けなければ、4年に一度の女神は舞い降りてこない、と思うのです。今回のキム・ヨナ選手には、明らかにそれがありました。スポーツ解説者は点数の詳細をあげつらい、一般の評論家諸氏は例によって、日本のスポーツ協会その他への退屈な批判を、繰り返していますが、真央選手も含めて日本人は、そのあたりは虚心坦懐に認めたほうが好い。氷上の女神をどうやって、手繰り寄せたのか、ということを、です。 で、荒川さんの話に戻りますが、トリノでFPの勝負を決めるのは、おそらく3回転の2回連続を跳べるかどうかだろう、ということだったのですが、フタを開けてみれば、他のメダル候補が失敗したりして、急きょ3回転2回転に切り換えた、という経緯がありました。 私はFP当日の荒川さんの、「氷上の女神が憑依」したような、異次元の美しさに圧倒されて、ブログではそっちばかり強調しすぎて、今でも赤面してしまいますが、アスリートの勝負とすれば、これはごく冷静な判断だったのです。あとであれこれ荒川さんの過去のスケートを調べていたところが、彼女が技術的にもっとも充実していたのは、ひょっとするとトリノのたしか2年前、ドルトムントの世界選手権の時で、今見ても冒頭の3回転3回転2回転の連続ジャンプから始まって、何度最高レベルのジャンプをことごとく決めている。当時はまだ古い相対評価の採点方式の時代で、第一滑走の荒川さんはおおいに不利だった(初めにあまり高得点をつけると、あとの選手の採点がしにくくなるので、点数が抑え気味になる)のですが、それでも優勝しましたね。 というわけで、もともと彼女はどちらかと言えば、ジャンパーとしての評価が高かったのです。今見てもトリノの荒川さんがウソのように一皮も二皮もむけて、まったくリファインされた「トゥーランドット」を見せてくれたことは、前に何度も強調してきたので、繰り返しませんが、変身するとか、別次元のオーラを獲得する、とはそういうことでしょう。 方法やアプローチはさまざまで、要は4年に一回の勝負で世界一を獲る、というためには、とことん我が身を別次元まで変身させる、周囲から見れば「女神が憑依した」ような、一種近づき難いオーラを発するまで、自己を磨き上げないと、ついに女神は舞い降りてこない。それをどうやって引き寄せるかは、それこそ千差万別で、これこそ専門家や本人たちが判断するしかない。マスコミやコアなファンなどは、さっそくコーチが悪いだの、協会のサポートがなってないなど、いろいろ賑やかですが、要はそれらはすべて結果論で、私は今回の浅田さん始め日本の女子フィギュアのアスリートは良くやったと思う。 良くやったと言うのは、今現在の彼女たちのパフォーマンスとしては、オリンピックの本番で個別的に最高難度の技をこなし得た、という意味において、です。これさえ成し得ずに途中でコケるアスリートが、今回もこれまでも日本にも国外にもどれだけいたことか。 ただし、それと何が何でも金メダルを獲る、というのは、まったく別次元の力というか、一種人智を超えた変身力が必要で、荒川さんはそれを彼女以外ではあり得ない方法で、引き寄せたのです。だから荒川さんがトリノの直前にコーチを換えたからと言って、なぜ浅田さんは換えなかった、といった議論はナンセンスなので、すべては本人及び周りの選択と判断の結果、それに対して結果から、あの時「ああしたら」「こうしたら」と、外野からモノを言うのは、まったく不毛な議論という気がして仕方がない。 はてさて、ことほどさように一度めぐり来たった金メダルのチャンスというのは、「さあ四年後!」なんてお気楽な掛け声では、絶対に巡って来ません。スケート協会も本人たちも、そのあたりをとことん詰めて行って、原因や責任や対策を明らかにし、本当にやる気なら、今すぐにでも準備に入らねばならない。でないなら責任だけはハッキリさせなければならない、勝負とはそんなものでしょう。 それにしても、フィギュアの世界、ついこの前まで日本も含めてアジアには縁遠いスポーツだったのに、今や韓国だの日本だのアジアを抜きにしては語れない。誰かが第一歩を踏み出す、ということが、その後のスポーツの世界勢力図をすっかり変えてしまう、というのを目の当りにすると、改めて荒川さんの第一歩というのが、いかに比較を絶した偉業であったか、ということを思い知らされますね。
2010.02.27
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このあたり、平安時代の若い貴族たちが抱く普遍的な希望を、夕霧もまた共有していたので、紫の上というのは、それほどに当時の最大公約数的な美女の基準を、一見しただけで分かるほど、満たしていたものと思われます。 翌朝になって風は少し止むのですが、今度はにわか雨が降りしきって来る。律儀な夕霧はそれでも六条院への参上を止めません。家司でしょうか、「六条院では、離れの家屋が倒れたようです」などと、道々報告を聞きながら、まず人少なであろう花散里のもとへ行こうと考えるのですが、― 道の程、横さま雨、いと、冷やかに降りいづ。空の気色もすごきに、あやしく、あくがれたる心地して、「何事ぞや。又、わが心に、思ひくははれるよ」と、思ひいづれば、いとにげなき事なりけり。「あな、もの狂ほし」と、とざまかうざまに思ひつゝ、ひんがしの御方に、まづ、まうで給へれば、おぢ困じておはしけるに、とかくきこえ慰めて、「人召して、所々つくろはすべき」よしなど、いひおきて、みなみの御殿にまゐり給へれば、まだ、御格子もまゐらず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 道の途中、横なぐりの雨が、たいそう、冷たく(御車に)降り込んで来る。空模様もすさまじい中、(それでも夕霧の心は)ヘンに、フワフワ宙に舞っている感じで、「(私としたことが)どうしたんだ。またぞろ、私の想い心に、(新たな)恋心が加わったのかしらん」と、と思いたどれば、まったく(夕霧には)ふさわしからぬ事柄ではあった。「あ~あ、まいったな」と、あれこれ考えつつ、東の御方(花散里)に、まず、お出でになると、(御方は昨夜の嵐に)怯えてすくんでおられるので、何かとお慰めし申し、「家司を呼んで、あちこち修繕させる」由など、(部下に)言い置いて、(そのまま)南の御殿(紫の上の御殿)にお出でになると、(こちらは)まだ、御格子もお上げになっていない。 実務をテキパキこなしながらも、我が心ここにあらず、後見の花散里には、もう少しねんごろであってもいいような気がしますが、今の夕霧は、何をさておき南の御殿が気になる。― 日の、わづかにさし出でたるに、憂へ顔なる庭の露、きらきらとして、空は、いとすごく霧り渡れるに、そこはかとなく涙の落つるを、おし拭ひかくして、うちしはぶき給へれば、 「中将の、声づくるにぞあなる。夜は、まだ深からんは」とて、起き給ふなり。何事にかあらむ、きこえ給ふ声はせで、おとゞ、うち笑ひ給ひて、 「いにしへだに、しらせたてまつらずなりにし、暁の別れよ。今、ならひ給はむに、心苦しからん」とて、とばかり語らひ聞え給ふけはひども、いとをかし。をんなの御答へは聞えねど、ほのぼの、かやうにきこえ戯れ給ふ、言の葉のおもむきに、「ゆるびなき御仲らひかな」と、きゝ居給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 日が、わずかに射してきて、(嵐で)憂わしげな庭の露が、キラキラと(輝き)、(しかし)空は、(まだ)たいそう深く霧が立ち込めていて、(夕霧は)何とはなし涙がこぼれるのを、そっと拭って隠し、咳払いをなさると、 「中将が、呼んでいるのか。夜は、まだ深いだろうに」と、(源氏の殿は)お起きになった。何であろうか、(紫の上の)おっしゃる声はしないのだが、殿は、お笑いになったのか、 「(若かった)昔さえ、(ついぞ、あなたには)味合わせることのなかった、暁の別れだよ。今になって、(こんな朝の別れを)経験なさるのは、お辛いことで」と、しばらく話を交わしておられる雰囲気などは、たいそう面白い。女君のお答え(する声)は聞えないが、かすかでも、このような冗談を交わしていらっしゃる、会話の睦まじさに、「(なるほど)水も洩らさぬ御仲でいらっしゃる」と、(夕霧は)聞き入っておられた。 夜通しの嵐の明けがた、日が少し差し込んできた六条院の庭を眺める夕霧の目に、心ならずも流れる涙とは、一体何だったのか?― つづく ―
2010.02.26
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「乙女」の帖以来、久方ぶりに登場する祖母大宮、さすがに老け込んで、おおいに時の流れを感じさせる場面ですが、― 宮、「いと嬉しう、たのもし」と、待ち受け給ひて、 「こゝらの齢に、まだ、かく騒がしき野分にこそ、あはざりつれ」と、たゞ、わなゝきにわなゝき給ふ。大きなる木の枝などの折るゝ音も、いと、うたてあり。 「御殿の瓦さへ残るまじく、吹きちらすに、かくてものし給へる事」と、かつはのたまふ。そこら、所せかりし御いきほひの、しづまりて、この君を頼もし人に思したる、常なき世なり。いまも、おほかたのおぼえの薄らぎ給ふことはなけれど、内の大殿の御けはひは、なかなか、すこし疎くぞありける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 祖母大宮は、「まあ(何と)嬉しい、頼もしいこと」と、待ち受けていらっしゃって、 「こんな齢になっても、今だ(かつて)、このようなきつい野分には、あったことがありません」と、ひたすら、ブルブル震えていらっしゃる。大きな木の枝などが(強風で)へし折れる音も、まことに、うっとうしい。 「御殿の瓦さえ(すっかり)残りなく、吹き飛ばされそうな時に、(よくもまあ)このようにお越し下さったこと」と、(それでも)取りあえずは(ご挨拶を)なさる。(かつての左大臣家、北の方として)周囲を、払うような御威勢は、(すっかり)なくなって、(今や)この(夕霧の)君(だけ)を頼り人にしていらっしゃる、(というのは、まことに)常なき世ではある。今でも、世間一般の御声望が薄れたというわけではないけれど、(息子の)内大臣殿の(この母上への)態度は、多少、疎略であるようであった。 雲井の雁の一件以来、内大臣は表向き大宮を敬いながらも、内実はほとんど寄り付かない、まことに実の親子というのは、いったんややこしくなると、なかなか修復するのが難しい。 私は「乙女」の帖以来、この祖母大宮のファンで、ことさらにこのくだりをあげたのですが、それにしてもこれを読んでいると、「玉鬘十帖」といわずb系物語全体がやはりこれ以降に書かれたのだろう、あるいは「乙女」の帖はb系とa系をつなぐ結節点として、「玉鬘十帖」とセットで書かれたのだろう、と思わざるを得ません。ここの大宮のあわれさは、「乙女」の帖での息子内大臣とのすったもんだがあって、鮮やかに浮かび上がってくるので、それがなければ、これはたんなる孝行息子と老母の哀れな対面という、月並みな場面になってしまうのです、 このあたりは ― 「乙女」の前に ―、で何度も触れたので繰り返しません。 しかし今回は夕霧の関心もまた、大宮には申し訳ないですが、別のところに行っているわけで、― 中将、夜もすがら荒き風の音にも、すゞろにものあはれなり。心にかけて恋しと思ふ人の御事は、さしおかれて、ありつる御面影の忘られぬを、「こは、いかにおぼゆる心ぞ。あるまじき思ひもこそ添へ。いと、恐ろしきこと」と、身づから思ひ紛らはし、異事に思ひ移れど、なほ、ふとおぼえつゝ、「来し方・行く末、ありがたくものし給ひけるかな。かゝる御なからひに、いかで、ひむがしの御方、さるものの数にて、たち並び給へらむ。たとしへなかりけりや。あな、いとほし」と、おぼゆ。おとゞの御心ばへを、「ありがたし」と、思ひ知り給ふ。人がらの、いと、まめやかなれば、にげなさをおもひよらねど、「さやうならん人をこそ、同じくは、見て、明かし暮らさめ。限りあらむ命の程も、今少しは、かならず、延びなんかし」と、思ひ続けらる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 中将は、夜通し吹き荒れる風の音がしているのに、(心はなぜか)すずろで物思い気味である。(以前から)心にかけて恋しいと思っている人(雲井の雁)とのことは、さておいて、(今日垣間に)お見受けした(紫の上の)面影が(どうしようもなく)忘れられないのを、「これは、どうした(我が)心映えなんだろう。あってはならぬ想い懸けも沸いて出て来るのかしらん。(だったら)ホントに、コワイな」と、(何とか)自分の気分を紛らわし、他のことに気を逸らそうとするが、(それでも)やっぱり、心ならずも(頭に)チラつくので、「今までもこれから先も、(こんな美しい人は)ありえないというようなお姿をされていたな。こんなお仲間(の中)に、どうして、東の御方(花散里)など、しかるべきお扱いで、立ち並ぶことができるもんか。たとえの話にもならんよ。あ~あ、(花散里が)おかわいそうだ」と、思われる。(それにしても)父源氏の大臣の(公平なる)ご寛容さも(また)、「あり得ないよ」と、(改めて)納得された。(この夕霧は)根が、たいそう、マジメなので、(身分)不相応な考えは起こさないが、(それでも)「このような(美しい)人とこそ、どうせなら、結婚して、(日頃)明かし暮らせたら(好いのにな)。限りのある命の長さも、多少は、きっと、伸びるかも」と、思い続けもする。― つづく ―
2010.02.25
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父子とも野分の近づくあわただしい折りでも、周囲に対する気配りを欠かさない。紫の上を隙見したのではないか、見ていたのがバレたのではないか、という疑いをお互いに抱きながらも、なかなか見事な対面の場ですね。 それにしても、この夕霧の自宅というのは結局どこだったのだろう、と考えてしまいます。十二歳のとき、雲井の雁とのすったもんだで、彼女が大宮邸から内大臣邸に引き取られてのち、彼は大学寮の試験準備のため、二条院の花散里のもとに寄宿したらしいのですが、ここのくだりを読んでいると、結局また大宮邸にも出向いているらしい。雲井の雁のいない大宮邸なんか、と思って、しばらく寄り付かなかった夕霧ですが、何がしか慮るところあって、また通うようになっているらしいのです。 続くくだりを読みますと、― みちすがら、いりもみする風なれど。うるはしく物し給ふ君にて、三条の宮と、六条院とにまゐりて、御覧ぜられ給はぬ日なし。内裏の御物忌などに、えさらず籠もり給ふべき日よりほかは、いそがしきおほやけごと・節会などの、暇いるべく、事繁きにあはせても、まづ、この院にまゐり、宮よりぞ、いで給ひければ、まして、今日、かゝる空の気色により、風のさきに、あくがれ歩き給ふも、あはれに見ゆ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (三条の大宮邸への)道すがら、激しく吹きすさぶ風ではあったが(無事お着きになった)。(夕霧は)几帳面に物事をなさる君なので、三条の宮と、六条院とに(きちんと)参上されて、ご挨拶なさらない日はない。内裏の物忌みなど、止むを得ず宿直(とのい)なさる日を除けば、忙しい政務や節会などの、時間も取り、手間のかかる折りであっても、まず、この六条院に上がり、(次いで三条邸に行かれて)、大宮(のもと)から、(御所に)通ってらっしゃって、まして、今日は、このような空模様なので、風に先立つようにして、(三条と六条を)行きつ戻りつなさるのは、(たいそう)健気に見える。 ここを読んでいると、どうも今の概念でいう自宅というのが、通い婚の時代、男には希薄だったのではないか、という気がしてくるのです。 光源氏は確か十一歳のとき、左大臣家の葵の上と、元服時の添い臥しの妻として、いわば政略結婚するのですが、相性が悪くて左大臣家にはほとんどいない。彼は元服まで桐壺帝のお側去らずで育てられた、とありますから、もし彼が左大臣家に婿入りしたのなら、彼には帰るべき家がないことになってしまいます。というわけで、彼は便宜的に桐壺帝の旧邸である二条院を本拠にしたようなのですが、この夕霧に関しては、さしあたってそういう家はなさそうで、結局光源氏の二条院をそのままねぐらにした、ということでしょうか。 とすれば、夕霧は二条院からまず六条院に行き、そのあと三条の大宮邸に行ってから、御所に出仕していたということで、移動に御車を使っていたとしても、都じゅうを毎日ウロウロしていたことになりますね。二条院には例の末摘花とか尼になった空蝉が住んでいて、源氏の目が届かないぶん、ちょっと危ない感じがしないでもないのですが、この二人は美女じゃないのでかまわん、ということでしょうか。そう言えば六条院でも花散里に会うのは許されているのです。 こんなあらでもの詮索をしているというのは、招婿婚が主流であった当時、夫が毎夜訪ねて来るのが、女への愛の証しであり、さらに結婚の証しでもあったことを考えると、「夜離れ」なのが女の不安の源泉であったと同時に、逆に独身男というのがどこにも本籍のない、これまたはなはだ不安定な境遇で、都をうろついていたのではないかなどと、またまた勝手な想像をしてしまうのですが。 まあしかし、よけいな詮索は差し置いて、次にすすみましょう。― つづく ―
2010.02.24
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繰り返しになりますが、この年夕霧十五歳、「乙女」の帖十二歳から雲井の雁と結婚する「藤裏葉」の帖十八歳まで、この物語では飛び飛びにしか登場しませんが、それがほぼ父光源氏の描かれなかった空白期間に合致しているのは、偶然ではないような気がするのです。 どうやら野分は本格的に近づいているようです。― 人々、まゐりて、「いと、いかめしう吹きぬべき風に侍り」「丑寅の方より吹き侍れば、この御前は、のどけきなり」「馬場の殿、南の釣殿などは、あやふげになん」とて、とかく、事おこなひのゝしる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 家司たちが、参上して、「相当、きつく吹いてきそうな風でございます」「東北の方から吹いてまいりますから、ここの御前は、大丈夫です」「(東北にある)馬場の御殿、南の釣殿などが、心配で(ございます)」と(言いながら)、何やかや、対策で騒いでいる。 東北から風が吹いているということは、これが台風であれば、今後東から南にかけて風向きが変ってくると、目が都の西を通ることになり最悪のコースですね。このあたり、嵐の前の家司たちの緊張ぶりがよく伝わってきます。 やって来た夕霧に対し、源氏の殿は、― 「中将は、いづこより物しつるぞ」 「三条の宮に侍りつるを、「風いたく吹きぬべし」と、人々の申しつれば、おぼつかなさに、参り侍りつる。かしこには、まして心細く、風の音をも、今は、かへりて若き子のやうに、おぢ給ふめれば、心苦しさに、まかで侍りなん」と、申し給へば、 「げに、はや、まうで給ひね。老いもていきて、又若うなること、世にあるまじき事なれど、げに、さのみこそあれ」など、あはれがり聞え給ひて、 「かく、さわがしげに侍めるを、「この朝臣さぶらへば」と、思ひ給へゆづりてなん」と、御消息きこえ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「中将は、どちらから参ったのだ」 「三条の宮(祖母大宮の御殿)におりましたが、『風がひどく吹きそうだ』と、人々が申しておりましたので、気がかりになって、(こちらに)参上致しました。あちら(の祖母大宮)は、(こちらに)増して心細く、風の音を聞くにも、今では、かえって子供のように、恐ろしがっておられ、おいたわしいので、(ここは)失礼致し(三条に戻り)たいと(思います)」と、申上げられると、 「なるほど、早く、戻ってあげるように(せよ)。老いが進んで、再び子供に返るなどというのは、世にあってはならないことなのだが、まことに、(こればかりは)仕方がないことよ(のう)」などと、気の毒にお感じになって、 「このように、(風が)騒がしくなりそうですが、『この朝臣(夕霧)がお仕え致しますので(大丈夫)』と、思い致し(夕霧を)代わりに(差し向けますので)」と(したためた)、お手紙を託された。― つづく ―
2010.02.23
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それでも若い夕霧の目線は、当然女ざかりの紫の上に集中するので、― をんなも、ねびとゝのひ、あかぬことなき御様どもなるを見るに、身にしむばかりおぼゆれど、この渡殿の格子も吹き放ちて、たてるところの、あらはになれば、恐ろしうて、立ち退きぬ。いま参れるやうに、うち声づくりて、簀の子の方に、歩みいで給へれば、「さればよ。あらはなりつらむ」とて、「かの妻戸の開きたりけるよ」と、いまぞ、見とがめ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 女君も、(すっかり)成熟なさって、(これ以上)申し分のない御様子であるのを見ていると、(例えようもなく)身に染む心地がするが、この渡殿の格子も(風で)吹き放たれて、(自分が)佇んでいる所が、露わになってしまったので、恐ろしくなって、(いったん)立ち退かれた。(そうして、まるで)今初めて参ったように、声音を作って、簀の子の方に歩かれて行くと、(はたして、殿が)「そらみろ。丸見えに(なっておるではないか)」と、「あの妻戸が開いてるよ」と、今しも、見咎められた。 このあたり、父息子の関係というのは、なかなか微妙で、親を見つめる息子の眼というのが、ある時から明らかに男同士の目線に変る。それは同時に、母をも客体化して見つめることになるので、まして若い義母となれば、今どきでも多少ややこしい感情が生まれるかもしれません。 しかし私は、ここの夕霧の抱く感情と目線には、そうした一般的な父子義母のよくある関係とは別に、もう少し彼個人に特有なものを感じてしまうのです。一言でいえば、一世源氏(一代限り)という父を見ている、知的にリファインされた普通の(藤原)貴族の自分、という関係性がそこに入り込んでいるので、父の振るまいに関して、もう一歩複雑な感情も入り混じっていたのではないか? 彼が聡明な堅物、あるいは当時としては珍しい律義者であったというのは、紫式部が何度も強調しているところですが、ではそれが、もともと持って生まれた彼の特質であったのかどうか、ということになると、私は疑いを抱かざるを得ないのです。それは言わば、装われた堅物、律義者であって、決して性根から来ているものではない。ではなぜ彼は、そのように自分を装わなければならなかったのか? それを彼自身が述懐することはないのですが、こののち父を見つめる彼の目線が、何やらそのあたりを語っているようにも思えます。で、それは同時に描かれることのなかった、光源氏自身の空白の五年間、十二歳~十七歳がいかなるものであったのか、むしろネガの写真のようにあぶり出されてくるのではないか、という気がしないでもない。夕霧の身の処しかたは、ことごとく父と正反対の振るまいかたによって、成り立っていると思うのですが。 まあしかし、夕霧はこの物語の主人公ではないので、紫式部も今のような推測のよすがを、そんなに気鮮やかに書いているわけではありません。でもそのあたり、もう少し野分の中で起こる状況を見て行くことにしましょう。― つづく ―
2010.02.22
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ここの紫の上のお姿の描写というのは、あくまで夕霧の目を通して語られるので、かろうじて客観的な空々しい描写を免れているようにも見えます。― 御簾の吹き上げらるゝを、人々、おさへて、いかにしたるにかあらん、うち笑ひたまへる、いと、いみじく見ゆる。花どもを、心ぐるしがりて、え見捨てて入り給はず。御まへなる人々も、さまざまに、もの清げなる姿どもは、見わたさるれど、目移るべくもあらず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 御簾が(強風で)吹き上げられるのを、女房たちが、押さえるが、何かあったのであろうか、(紫の上が)微笑なさっている(お姿は)、たとえようもなく、お美しく見える。(上は、手入れなさった前栽の)花などが、心配なのであろう、(そのまま)見捨てては(とても内へ)お入りにはなれないのである。御前に仕える女房たちも、それぞれに、小奇麗な姿であるように、見渡せるが、(もちろん、上のお姿から)眼が離せるわけもない。 紫の上が、女盛りの匂いをあたりに振りまいて、さらには何かにふと微笑なさっている。この初めてお顔をハッキリと瞥見(べっけん、ちらっと見ること)したとき湧き上がった、十五歳の夕霧のときめきというのは、たぶん美女のグラビアがちまたに氾濫した今どきの男=オスどもには、想像できないレベルなのです。 であるがゆえに、聡明な夕霧はただちに、― おとゞの、いとけ遠く、はるかにもてなし給へるは、かく、みる人、たゞには、え思ふまじき御有様を、「いたり深き御心にて、『もし、かかることもや』と、おぼすなりけり」と、思ふに、けはひおそろしうて、立ち去るにぞ、西の御方より、内の御障子ひきあけて、わたり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 父大臣が、(私を義母である紫の上からは)たいそう遠ざけて、よそよそしく取り扱っていらっしゃるのは、(なるほど)このようにも、見る男(の好き心)が、ただでは、よう済まされない気持になるような(美しい)お姿なのを、「行き届いたお心配りで、『もしや、そのようなことも(あっては)』と、ご心配なさってのことなのだろう」と、思い当たって、(急に)空恐ろしくなって、(そこから)立ち去ろうとすると、(ちょうど)西の(明石の姫君の)殿から、内の御障子を開けて、(源氏の殿が)入って来られた。 光源氏の、紫の上と我が息子夕霧に対する厳重な隔てには、一般的な義母息子の関係以上の厳重さがあって、それはもちろん光源氏自身の掟破りの轍を息子にはさせまい、という心のやましさがあるのですが、息子はそうした真実は知らない。しかしこの息子は、聡明であるがゆえに、何となく違和感を感じていないわけではない。これは「乙女」の帖で、この息子にことさらに学問を強制したこととも合わせ、彼にはずうっとわだかまりとして残っているのです。 子供というのは、そうした違和感というのを、理屈でなく雰囲気で、敏感に感じ取るものです。― 「いと、うたて、あわたゞしき風なめり。御格子下ろしてよ。男どもあるらんを。あらはにもこそあれ」と、きこえ給ふを、また寄りて見れば、物きこえて、おとゞも、ほゝ笑みて、みたてまつり給ふ。おやとも思えず、わかく清げに、なまめきて、いみじき、御かたちの盛りなり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「何とも、うっとうしく、騒ぎ立てる風だことよ。御格子を下ろしなされ。男たちが居るかもしれないよ。(これでは)丸見えではないか」と、(殿が)おっしゃるのを、(夕霧は)もう一度(妻戸に)寄って隙見すると、何かおっしゃって、父大臣も、微笑みながら、(上を)ご覧になる。(我が)親とも思えないほど、若くて清らかで、艶めかしく、この上ないほど、男姿の盛りでいらっしゃる。 これは夕霧が、父を一人の男として見つめたわけで、それは同時に、男=オスである自分のライバルであることを感じた瞬間でもあるのです。― つづく ―
2010.02.20
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で、夕霧の目に映じた紫の上というのは、― 御屏風も、風のいたく吹きければ、おしたゝみ寄せたるに、見通しあらはなる、廂(ひさし)の御座(おまし)にゐ給へる人、ものに紛るべくもあらず、気高く、清らに、さと匂ふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜(かばざくら)の咲きみだれたるを、見る心地す。あぢきなく、見たてまつるわが顔にも、うつりくるやうに、愛敬は匂ひちりて、またなく珍しき、人の御さまなり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 御屏風も、風がひどく吹くので、押し畳んで寄せてあるので、(内殿まで)見通せて露わになっている、廂(ひさし)の御座においでになる人は、(何の)物に紛れることがあろうか、(紫の上その人であって、そのお姿は)気高く、美しく、さっと匂い立つような感じがして、(まるで)春の明けがたの霞の間から、見事な樺桜の咲き乱れているのを、見ているような心地がする。(夕霧は、隙見なので)物足りなく、拝見している(が)その顔にも、(香りが)移って来るほどに、愛敬が匂い立って、まことに滅多とない、(紫の上の)お姿である。 爾来、美女の美しさを文字で表現するのは、なかなか大変で、十九世紀の西欧近代文学などでは、ややもするとこれぞリアリズムとばかり、えんえんと美女の顔の細部を、眉から鼻、口、耳、はては顎や額のカーブやうなじの生え際まで、それこそ有りたけの記述力を用いて描こうとするのですが、読まされるほうとしては、お顔の描写だけで何十行も費やされたのでは、はじめの方などとっくに忘れてしまう。 言葉による物の表現というのは、それを読むという行為まで考えると、なかなか難しいのです。R・ロランでしたか、中学生のころ仕方なしにムリして読んだ「ジャン・クリストフ」(今はもう誰も読まないでしょうね)、美女の姿形の記述だけで数ページもあったような記憶があります。まるで字数を際限なく費やすことが、美女の証明であるかのように。 R・ロランという人、主人公のクリストフはベートーヴェンをモデルにした作曲家なので、彼の作曲した夢のような大傑作も、これまた言葉ですべて書き表そうとする、それでも結局その記述だけでは飽き足らなかったのでしょうか、おしまいには楽譜まで添付してあって、彼の天性を想像せよ、と言う。たいして批判力もなかった中学生ですら、何ぼなんでもこれはちょっと、と音を上げたことを思い出します。 言葉というのは面白いので、話の中に「世界一の美女!」(別に「飛び切り振るいつきたくなるような美女!」でも好いのですが)という表現が出てきたとき、受け取る側はただちに、各々好き勝手な「世界一の美女!」を頭に思い描いているので、理屈をこねれば1000人の受け取り手がいたとすれば、1000とおりの「世界一の美女!」が出現するわけです。これは実をいうと、顔かたちの細部をいくら切り刻んで描こうと同じことなので、言葉で表現する限り、一つとして同じ顔貌がすべての受け取り手に現れることはない。 むしろ我々が、そこに美女(だけじゃなく人間)の実在感を感じるときというのは、いっぱんに振るまい、つまり話す言葉とか、仕草とか行動などでありありと感じることが出来るので、言葉とはもともと機能的には、すぐれて言の葉(コトの端っこ)、すなわちモノではなくコトを表現するのに向いているのかもしれません。― つづく ―
2010.02.18
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さて、「野分」の帖では、秋が進んで都に台風がやって来てくるのですが、本筋の話が何となく滞った感じの本編、人事が動かないのなら自然で動かしてみようということでしょうか。都じゅうを一昼夜野分が吹き荒れる。そのさなかの六条院と光源氏、そしてそこに住まう各姫君たちの様子を、順に描いて行こうという趣向です。 ここで面白いのは、六条院その他の様子が、息子の夕霧の視点に立って描かれていることで、光源氏や各姫君の印象を第三者的な目線で書いて行こう、ということでしょうか。これまでの一人称、ないし二人称的な私的な感覚でなく、多少社会的な目線を入れようとしたかのごとくですが、何にせよ夕霧が光源氏にくっついて、カメラマンよろしく順番に姫君の御殿を訪れるというわけで、筋としてはいたって他愛ない感じがしないでもない。 とはいえ、そこにはあたりまえですが、夕霧の目に映った印象が描かれているわけで、彼自身の感情が当然入ってくる。生マジメ人間として振るまっている彼ですが、あんがいこの若者の心中もまた、男=オス通有の気持を有しているわけで、紫式部は例によって、表に現れた装われた表情でなく、源氏以外の男=オスの内部も見てみようとするかのようです。このとき夕霧十五歳とまだまだ若い。対するに紫の上二十八歳、秋好中宮二十七歳、玉鬘二十二歳と、各姫君とも女盛りの匂いが漂って来るようですね。 三条の大宮邸から、吹き荒れる風の中、夕霧がまず訪れたのは、当然父光源氏の居るであろう南の御殿でした。― 南のおとゞにも、前栽つくろはせ給ひける折にしも、かく、吹き出でて、もとあらの小萩、はしたなく待ちえたる風のけしきなり。折れかへり、露もとまるまじく、吹き散らすを、すこし端ちかくて、見給ふ。おとゞは、ひめ君の御方におはしますほどに、中将の君、まゐり給ひて、東の渡殿の小障子の上より、妻戸のあきたる隙を、何心もなく、見入れ給へるに、女房の、あまた見ゆれば、たちとまりて、音もせで見る。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 南の御殿でも、(ちょうど)前栽の手入れをなさっていらっしゃった折なのに、こうして(野分が)、吹き出して、まばらに植わっている小萩には、(相当)辛く耐えねばならない風の吹き荒れようである。(枝が)折れ返り、(葉に)露の止まる暇もないほど、(強風が)吹き散らすのを、(紫の上は)少し端近くに(お寄りになって)、ご覧になっていた。源氏の殿が、姫君(明石の姫君)の御殿にいらっしゃる時に、中将の君(夕霧)は、(本殿に)参上なさって、東の渡殿の小障子の上から、妻戸の(少し)開いた隙間を、何とはなしに、覗いてごらんになると、(紫の上に近侍する)女房たちが、大勢見えたので、立ち止まって、息をひそめて(さらに)見る。 この時代、姫君たちはもちろん、女はみだりに成人男子に姿を晒さない、という不問律があって、見られたからには懸想されても仕方がない、というか、それを根拠に思い懸けして来る男=オスが、ごく普通にいたようですね。前にも触れましたが、今の感覚でいうと、まるで我が身の裸を見られたような受け止め方なのです。 逆にその「な見給ひそ(見てはダメ)」という高い禁止のハードルは、男=オスたちに否応なく、際限のない想像力を掻き立てさせるわけで、大半の「色好み」は伝聞や世間の噂話を根拠に発しているわけです。夕霧も生まれてこの方、紫の上も明石の方ももちろん中宮もお顔を拝見したことがないので、かろうじて世話役の花散里だけは、対面することを許されていたのでした。 となれば、このような隙見という振るまいとは、めったとないチャンスなので、隙があれば狙うというのは、さまざまツールは変わっても、今も昔も変らぬ男=オスのどうしようもない習性なのかもしれません。 「源氏物語」にかぎらず、この時代の男女の事件というのは、たいていこうした隙見で始まることが多いのです。― つづく ―
2010.02.17
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さて続く「篝火(かがりび)」の帖は、初秋のころですが文庫本にして四ページ足らず、これといった話もなく断章といってよい内容なのですが、今までも紫式部はこうした挿話にもならない帖を、ときどき入れることがありました。「賢木」と「須磨」の間に挿まれた「花散里」がそうですが、たいていの場合これは伏線を張ったり、時間の経過を示すためのものだと考えることができます。 で、ここの場合、どういうことなのかというと、話の伏線としては冒頭の十行ほどのパラグラフで、すべて足りているので、前の「常夏」の帖後半の「近江の君騒ぎ」を受けて、― この頃、世の人の言種(ことぐさ)に、「内の大い殿のいまひめ君」と、ことにふれつゝ言ひちらすを、源氏の大臣、聞こし召して、「ともあれ、かくもあれ、人見るまじくて籠もり居たらむ女子を、なほざりのかごとにても、さばかりに物めかし出でて、かく、人に見せ、言ひ伝へらるゝこそ、心えぬ事なれ。いときはぎはしく物し給ふあまりに、深き心をも尋ねず、もて出でて、心にもかなはねば、かく、はしたなきなるべし。よろづのこと、もてなしがらにこそ、なだらかなる物なめれ」と、いとほしがり給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) このごろは、世間の人の噂の種といえば、「内大臣殿の今姫君!」と、何かにつけて言い回るのを、源氏の大臣は、お聞きになって、「どうであれ、こうであれ、人目にもつかず(家に)こもって居たであろう女子(おなご)を、いいかげんな情報で、あのようにものものしく迎えられて、このようにも(みっともない姿を)、人前に(弘徽殿の女房として)さらし、口の端に上がるままにしておくのは、いかがなものか。(内大臣は)たいそうケジメをキチッとなさるあまり、深い事情を調べもせず、(新姫を)迎えられて、気に染まないとなれば、かように、はしたないこともなさるのだろう。何事も、取り扱い方いかんで、穏やかに収まることであろうに」と、(近江の君を)気の毒がっておられる。 光源氏としたら、内心「そら見たか」という気分でしょうが、それはそのまま玉鬘への自分の取り扱いを際立たせることになるわけで、― かゝるにつけても、「げに、よくこそ。親と聞こえながらも、としごろの御心を知りきこえず、なれたてまつらましに、恥ぢがましき事やあらまし」と、対のひめ君、おぼし知るを、右近も、いとよく、きこえしらせけり。にくき御心こそ、そひたれど、さりとて、御心のまゝにおしたちてなど、もてなし給はず、いとゞ深き御心のみまさり給へば、やうやう、なつかしう、うちとけ聞え給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) こういう(騒ぎを聞く)のにつけても、「まったく、よくも(ここまで内大臣殿に引き取られなかったこと)。(実の)親とお聞きはしているものの、普段の御性情を知らないまま、お側に仕えていたならば、(きっと近江の君のように)恥さらしな目にあったかも」と、対の姫君(玉鬘)は、(よくよく)納得され、(側つきの)右近も、(源氏の大臣の方を)たいそう良さ気に、申上げるのであった。怪しからん御心こそ、(いつも)付いてまわるが、かと言って、(そういう妙な)御心にまかせて振るまわれることなどは、(いっさい)なさらず、たいそう深い気配りばかりが目立つので、(玉鬘の気持も)ようやく、(殿に対して)優しく、打ち解けて来られた。 要は、玉鬘の源氏に対する気持が、次第に軟化してしていった、ということなのです。― 源氏1000年 篝火 おわり ―
2010.02.16
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中納言の予想は当たっていたので、― 御かた、見て、 「をかしの御口つきや。「まつ」とのたまへるを」とて、いと甘えたる薫物の香を、かへすがへす、たきしめ居給へり。紅(べに)といふもの、いと赤らかにかいつけて、髪けづりつくろひ給へる、さるかたに賑はしく、愛敬づきたり。御対面の程、さし過ぐしたることもあらむかし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (近江の)御方は、(届いた手紙を)見て、 「結構なお歌だこと。『まつ(お待ちしてます)』とおっしゃってるわ」というわけで、(さっそく)おそろく甘ったるい薫物の香を、何度も何度も、(衣に)焚き染めておられる。(顔には)紅を、(これまた)たいそうにつけて、御髪を梳かれた、(お姿は)それなりに派手やかで、愛敬がある。(女御との)御対面の折りには、(さぞかし)出過ぎたことも仕出かしたであろうよ。 ということで、近江の君は自分がバカにされている、などということはいっさい気にせず、いそいそと戦闘態勢を整える。この人はどこまでもアグレッシブなのです。 さてそのご対面はいかに、というところで、じつはこの「常夏」の帖は終わっているのです。今どきの私たちだけでなく、おそらくこのくだりを読んだであろう1000年間の読者全員が、ほぼ間違いなく「エッ、何これ!?」と思ったことでしょう。 関心を引っぱるだけ引っぱって、このいわば一番肝心なところを端折るという手法、じつは紫式部がよくやる手の一つで、後は皆さんでかってに想像して下さい、良しなにどうぞ、とばかり知らん顔をしている。それぞれにちゃんと端折る理由もまたありそうですが、ここの場合を考えてみると、 まず第一に、近江の君があまりに気鮮やかで、キャラが濃いので、肝心の玉鬘の陰が薄くなるのをおそれた。 そして第二に、弘徽殿の女御との対面のてん末を書いているうちに、ある予感がして書くのを止め、全部削除した。 一番めの理由は、言わずもがなで、もともと玉鬘をめぐる求婚譚で予定していた話が、ニッチもサッチも行かなくなって、話題を変えてみたところが、思いのほか筆が進んで「これならイケる」とおそらく彼女も思ったでしょう。しかしこの「ヲコ話」を書き込めば書き込むほど、ヒロイン(玉鬘)とヒーロー(光源氏)の沈滞した話は霞んでしまうので、どこかで打ち止めにしなくてはいけないのです。 しかし私は今回UPのために再読していて、むしろ第二の理由のほうが可能性が高いように思えてきました。この話は再び近江の君が活躍する、あとの「行幸」の帖で触れようと思っていたのですが、あえて前振りをしておくとすれば、こうした鮮やかな「ヲコ」系のキャラクターというのは、その存在が冴えれば冴えるほど、逆に既存社会の矛盾とか、マヤカシ性を暴露していく力を持つ場合があるということです。 彼女がその田舎振りを発揮すればするほど、宮廷社会は彼女をバカにし疎んじて、笑い飛ばそうとするのですが、彼女の投げつけるストレート球というのは、それこそスピードだけが取り柄みたいな若い野球選手に似て、ボールを曲げるということをしない。そうすると、最初は笑い者が来たと面白がっていた、宮廷社会に順応したと思っている人々、次第に笑顔が凍りつき、最後は苦笑して無視するか逃げるしかない、というまことに今ふうの構図が現れて来るのではないか? 紫式部がそのあたり、どこまで明瞭に意識したかどうか、それはまったく分かりませんが、もしこのあと弘徽殿の女御との対面のくだりを、多少でも書きかけたとすれば、その危うさを彼女は敏感に嗅ぎ取ったでしょう。 例の笑うものを、影でさらに嘲弄するという二重構造の皮肉は、「乙女」の帖で古体な文章博士を笑う上達部を、光源氏が影でさらに哂うという場面でも見られたのですが、今回の場合、哂う対象が宮廷社会のしくみそのもの(主たる読者そのもの)で、哂っているのが紫式部本人ということになってしまっては、彼女としては慎重にならざるを得なかったでしょう。 以上、例によって勝手な深読みしているのですが、それが当たっているかどうかは(かなり危ういのですが!)、いずれもう一度考えることになるでしょう。― 源氏1000年 常夏 おわり ―
2010.02.15
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ひらたく言えば、「末摘花」に関係する各帖にみられた、いわば読者の下卑た心をくすぐるような(ここ最近のテレビのバラエティみたいな)哂いではなく、それよりは多少上質というか、気持ちよく笑い飛ばせる要素があると思うのです。 さて、届いた手紙を見た弘徽殿の女御としては、立場上女房たちと同じように笑い飛ばすわけにはいきません。― 女御、ほゝゑみて、うち置かせ給へるを、中納言の君といふ、ちかくさぶらひて、そばそば見けり。「いと今めかしき、御文の気色にも侍めるかな」と、ゆかしげに思ひたれば、 「草の文字は、え見知らねばにやあらむ、本末なくも見ゆるかな」とて、たまへり。「返事(かへりごと)、かく、故々しからずは、「わろし」とや、おもひおとされむ。やがて書き給へ」と、ゆづりたまふ。もて出でてこそあらね、若き人は、ものをかしくて、皆、うち笑ひぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 女御は、苦笑なさって、(受け取った文を)お置きになるのを、中納言の君という(女房)が、近くに仕えていて、ちらちら見ている。「いやに今ふうの、御文のご様子ですこと」と、(さかんに)見たそうにするので、 (弘徽殿の女御は)「草体の文字は、よく見慣れていないせいでしょうか、(この歌は)はじめと終りがつながっていないように思えます」と、(文を中納言に)下げ渡された。 「返事は、このようにも、いわくありげでなければ、『なってない』と、けなされるでしょう。すぐに(返事を)書いて下さい」と、(代筆を中納言に)お任せになる。あからさまには出さないものの、(周りの)若い女房たちは、可笑しくて、皆、忍び笑いしている。 ここの弘徽殿の女御の振るまいは、さすがに宮仕えの貫禄が出ていて、まともに近江の君と対したら、自身の品も下がることを、よくわきまえているのです。 で、中納言が女御に似せて書いた歌とは、― 「常陸なる駿河の海の須磨の浦に 波立ち出でよ箱崎のまつ」と書きて、よみきこゆれば、 「あな、うたて。まことに、身づからのにもこそ、言ひなせ」と、かたはらいたげに思したれど、「それは、聞かむ人、わきまへ侍りなむ」とて、おし包みて、いだしつ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(関東の)常陸なる(静岡の)駿河の海の(兵庫の)須磨の浦に 波立ち出でよ(九州の)箱崎のまつ」と書いて、読んでお聞かせしたので、 「まあ、イヤですわ。(そんな歌を)ほんとうに、私自身が詠んだなんて、言いふらされては」と、迷惑気になさってらっしゃるが、(中納言は)「それは、お聞きになった人が、ご判断されることでしょう」と、(そのまま紙に)包んで、(使いに)出させた。― つづく ―
2010.02.14
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内大臣が去るのを見送りながら、近江の君が五節の君に語ったこととは、― よき四位・五位たちの、いつき聞えて、うちみじろき給ふにも、いと、いかめしき、御いきほひなるを、見送りきこえて、 「いで、あなめでたの、わが親や。かゝりける種ながら、怪しき小家に生ひ出でけること」と、のたまふ。五節、 「あまりことごとしく、恥づかしげにぞおはする。よろしき親の、思ひかしづかむにぞ、たづね出でられ給はまし」と言ふも、わりなし。 「例の、君の、人のいぶ事破り給ひて、めざまし。今、ひとつ口に、言葉なまぜられそ。あるやうあるべき身にこそあめれ」と、腹立ち給ふ顔やう、けぢかく、愛敬づきて、うちそぼれたるは、さる方にをかしく、罪許されたり。たゞ、いと鄙び、あやしき下人のなかに、生ひ出で給へれば、物言ふさまも知らず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 立派な四位・五位(といった人)たちが、付き従いなさって、(内大臣が)ちょっと身動きなさるにも、たいそうな、御威勢であるのを、お見送り申上げると、 「まあ、何と立派な、我が父かしら。このような(父の)子でありながら、(私は何とも)卑しい田舎に生まれたことだわ」と、おっしゃる。五節(のほう)は、 「あんまり御立派すぎて、(こちらが)気後れしてしまいそうで。(もっと身分)相応の親御さんで、心から可愛がってくれる(お方)に、探し出されていらっしゃったら良かったのに」と言うが、(それは)ムチャなこと。 「(まあ)いつも、あなたは、人の言うことをブチ壊しになさるので、頭に来るわ。今後は(いっさい)、友達のような口は、聞かないで。(私は)本来あるべき(立派な)身分になるのだから」と、腹を立てていらっしゃるお顔は、人懐っこくて、愛敬があり、何かとふざけているのが、いかにも無邪気で、憎めない。ただ、なにしろ田舎臭くて、卑しい下人のもとで、生まれ育ったので、ものの言い方もわきまえていないのであった。 というわけで、このあと近江の君は、さっそく弘徽殿の女御に参上伺いの手紙を書くのですが、その使者に立てたのが樋洗童(ひすましわらわ、トイレ係の娘?)と、これまたずいぶんお手軽な感じで、さらに文に書かれた和歌がまたまたとてつもないものだったので、女御付きの女房たちの失笑を買う。 このあたり、紫式部はことさらに近江の君のKYな挙動を強調していて、なにやら末摘花のときと同じようなイジメの雰囲気も漂ってますね。それはたぶん当時の主たる読者(女房、上達部)への受けねらいも、確かに入っていたので、「私だって書こうと思えば、こんなことはいくらでも書けるのよ」といった、いささか下品なプライドもあったかもしれません。 私は以前「末摘花」にかんするくだりは、上と同じ理由で全面的にこのブログでは触れないことにしたのですが、今回この近江の君について克明に追いかけているのには、それなりに理由があるのです、なんちゃって! すでに気付いておられる方も多いと思うのですが、ここにみられる笑いと、末摘花で現れた哂いは、質的に少し違うのじゃないか、その違いとはどこから来るのか?ということなのですが。― つづく ―
2010.02.13
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― 「いと、嬉しき事にこそ侍るなれ。たゞ、いかでもいかでも、御方々に、数まへ知ろしめされんことをなむ、寝ても覚めても、としごろ、何事を思ひ給へつるにもあらず。御許しだに侍らば、水を汲みいたゞきても、つかうまつりなむ」と、いとよげに、いま少しさへづれば、「いふかひなし」と、おぼして、 「いと、しか、おりたちて、薪ひろひ給はずとも、まゐり給ひなむ。たゞ、かの、あえものにしけむ法の師だに、遠くは」と、をこごとにのたまひなすをも知らず、同じき大臣と聞ゆる中にも、いと、清げに、ものものしく、花やかなるさまして、おぼろけの人、見えにくき御気色をも、見知らず、 「さて、いつか、女御殿には、まゐり侍らむずる」と、きこゆれば、 「よろしき日などや、いふべからむ。よし、ことごとしくは、何かは。さ思はれば、今日にても」と、のたまひ捨てて、わたり給ひぬ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(あら)何て、ステキなことでございましょう。もう、どうでもこうでも、(殿様姫君様)御方々に、人並みに扱っていただきたいとばかり、寝ても覚めても、長の年月、(それ以外)何も考えたことはございませんでした。お許しさえいただければ、水汲みのお役ででも(何でも)、(女御に)お仕え致しますわ」と、たいそう機嫌好く、ますます(早口で)しゃべるので、「(これは)どうしようもないな」と、(殿は)思われて、 「まあ、そんなに、身を低めて、薪(たきぎ)拾い(のような役)をなさらなくても、お伺いなされたら(よろしい)。ただ、その、あやかりものの法師の(早口)さえ、何とかしてくれたら(ね)」と、冗談めかしておっしゃっているのも気付かず、同じような大臣と言われる中でも、たいそう、見目麗しく、堂々と、目立った威勢なので、並々の人たちでは、(なかなか御顔も)合わせにくいご気性だとも、知らずに、 「では、いつ、女御の殿には、お伺い致しましょう」と、(たいそう軽いノリで)お聞きするので、 「吉日などと、言うほどのことかね。まあ、(そんなに)事々しくは(なくとも)、どうってことは(ないでしょう)。そう思ったなら、今日にでも(伺ってごらん)」と、お言い捨てになって、お立ちなさった。 あきれて舌打ちしながら、席を立った内大臣ですが、ここの対面のくだりを読んでいると、父親はどうも内心でこの新姫に、一種の親和感を抱いているような感じがしないでもない。世俗(藤原)代表として、つねに貴種(源氏)と張り合ってきたこの人、光源氏の威光にことごとく負かされてきた我が身を省みて、この近江の君の田舎育ちゆえの「仮借なきもの言い」は、その表現の下品さを除けば、彼にとって小気味好い印象を与えたかもしれないのです。 紫式部は前に、わざわざ探し出して来た新姫君をすぐ送り返すというのは、世間体が悪いからどうしたものか、と内大臣の気持を記していますが、彼が自身の振るまいにかんして、家族に気持ちや世間の評判など、いっさい忖度(そんたく、他人の心をおしはかること)しない性格であったというのは、「乙女」の帖で祖母の大宮から、むりやり雲井の雁を引き取ったことなどでも明らかで、もし彼が本当に近江の君を疎んじたのであれば、サッサと里へ返すなり何なり始末をつけたことでしょう。このあたり、深読みかもしれないのですが、何となく彼にはこの珍なる新姫と妙な具合に、気脈の通じるところがあるような気がしてしょうがないのです。 まあしかし、この辺の詮索はもう少し先で、改めてすることにしたいと思います。― つづく ―
2010.02.12
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― 「げに、身に近く使ふ人も、をさをさなきに、「さやうにても、みならしたてまつらむ」と、かねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかゝるも、おのづから、たちまじらひて、人の、耳をも目をも、かならずしも、とゞめぬものなれば、心安かべかめれ。それだに、「その人の女、かの人の子」と、知らるゝ際になれば、親・兄弟の面伏せなるたぐひ、多かめり。まして」と、のたまひさしつる御けしきの、恥づかしきも知らず、 「何か、そは、ことごとしく思ひ給ひて、まじらひ侍らばこそ、ところせからめ。大御大壺(おほみおほつぼ)取りにも、つかうまつりなむ」と、きこえ給へば、え念じ給はで、うち笑ひ給ひて、 「似つかはしからぬ役ななり。かく、たまさかに逢へる親の孝せむの心あらば、この、物のたまふ声を、すこしのどめて聞かせ給へ。さらば、命も延びなんかし」と、をこめい給へる大臣にて、ほゝゑみてのたまふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (内大臣は)「まったく、身近に使う人も、なかなかいないので、『(あなたを)そのようにも、(側に置いて)お見上げ致そう』とも、かねてから思っておったのですが、なかなかそうもいかない次第で。ただの召し人であるなら、どんな者であろうと、自然と、立ち混じってしまって、人の、耳目にも、決して、立たないから、気も楽なのだが。(しかし)そうであってさえ、『あの人の娘、この人の子』だのと、言われる身分ともなれば、親兄弟の面目をつぶす例も、多いようです。まして(あなたは、 … )」と、おっしゃりかけて(さすがに)言いよどんだお気持ちの、気恥ずかしさも気付かぬまま、 (近江の君は)「何の、そのように、堅苦しく考えなさって、お仕え致しますなら、窮屈でも(ございましょう)。(私など、殿の)御不浄の役でも(何でも)、お仕え致しますわ」と、ご返事なさるので、(殿は)こらえきれずに、笑いなさって、 「(それは何ぼなんでも)似つかわしくない役でしょう。(わかった、もし)そのように、たまさかにしか逢わない親にでも孝行しようという気があるのなら、その、物をおっしゃる声を、多少はゆるめて聞かせて下され。そうしたら、(こちらの)寿命も延びるだろうから」と、(もともと)冗談のお好きな大臣なので、微笑みながらおっしゃった。 貴族社会では、何事も大様にゆっくりと、重々しくことを運ぶのが常識なので、何にせよこの近江の君の早口だけは(出来れば中味も)修正したい。長女の弘徽殿の女御に預けるにしても、今の話しぶりでは親として恥ずかしくて、とても会わせられない、ということでしょうか。内大臣は「いったいどんな根拠があって、こんなヘンな娘をろくに調べもせずに、探し出してきたのだろう」と、またしても息子の右の中将をなじりたくもなる。 とはいえ弘徽殿の女御には、この前にくだんの件を言ってしまっているので、― 「女御、里にものし給ふ。ときどき、わたりまゐりて、人の有様なども、見ならひ給へかし。殊なることなき人も、おのづから、人にまじらひ、さるかたになれば、さてもありぬかし。さる心して、見えたてまつり給ひなむや」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「女御も里に下っておられます。時々、(あなたも)お伺いなさって、女房たちの振るまいなども見習ってはいかがでしょう。取り柄のない人であっても、自然と人と交じり合って、しかるべき立場になれば、それなりに見えるものです。そういう気持で、お目にかかられてはどうですか」 で、普通なら、「やんごとない女御」に会うなどとんでもない、と取りあえずは遠慮ないし尻込みするところ(内大臣も若干それを期待したみたいですが)、近江の君はいっこうに頓着するところがありません。― つづく ―
2010.02.11
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内大臣が見た、その近江の君のお姿というのは、― かたちは、けぢかう、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額の、いと近やかなると、声のあはつけさとに、そこなはれたるなめり。とりたてて、よしとはなけれど、こと人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひ合はせられ給ふに、いと、宿世、心づきなし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 顔貌は、人なつっこく、愛敬めいた様子であるうえに、御髪も見事なので、これといって欠点はないのであるが、額が、いやに狭いのと、(なにしろ)声の上っ調子なことで、(全部)台無しにしているのである。取り立てて、美人ではないが、(自分の娘とは)別人だと抗うには、(我が身の)鏡に映る顔を思い合わせなさると(そっくりなので)、まことに、(この)因縁は、恨めしい。 しかしただたんに、顔が似ているだけでなく、育ちが悪いことを別とすれば、彼女が内大臣の直系の血を色濃く引いていることは、だんだん気鮮やかに明らかになって来るのです。― 「かくてものし給ふは、つきなく、うひうひしくなどやある。事繁くのみありて、とぶらひまうでずや」と、のたまへば、例の、いと、舌疾(したど)にて、 「かくてさぶらふは、何の物思ひか侍らむ。年頃、おぼつかなく、ゆかしく思ひきこえさせし御顔、常にえ見たてまつらぬばかりこそ、手打たぬ心地し侍れ」と、きこえ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「このように(ここに)おられても、(何とも)落ち着かず、馴染めないのでは。(私は)忙し過ぎて、お構いも出来ないのだが」と、おっしゃると、例によって、大変な、早口で、 「このように(ここに)お仕えしまして、何の心配がございましょう。(長い)年月、心にかけて、懐かしく思っておりました(殿の)お顔を、常には拝見できぬばかりが、(双六で、好い)目が出ないような感じが致すだけで(ございますわ)」と、ご返事なさる。 目から鼻に抜ける、というか、要は貴族社会の大様なゆったりしたテンポなど、この姫には最初から無いも同然、つづくくだりなど、今までの姫君では絶対あり得ない会話が出て来るのです。― つづく ―
2010.02.10
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対する弘徽殿の女御は、― 「などか、いと、さ、殊のほかには侍らむ。「中将などの、いと二なく、思ひ侍りけん預言(かねごと)に、足らず」といふばかりにこそ侍らめ。かくのたまひ騒ぐを、はしたなう思はるゝにも、かたへは、かゞやかしきにや」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「どうして、そんな、おっしゃるように、ひどいということがございましょう。『中将の君(柏木)などが、またとない、(優れた)方と信じ込んでいた予想には、(ちょっとばかり)及ばなかった』という程度のことではないでしょうか。このように騒ぎ立てられて、恥ずかしく、いっぽうでは、気後れもしていらっしゃるのでは(ありませんか)」 この弘徽殿の女御、地味な人ですが、内大臣家の中ではいちばん落ち着いていて、さらに宮仕えで貫禄もつけてきたような感じがありますね。 しかし内大臣のほうは、すでに新姫本人を知っているので、もちろんそんなふうには思っていない。それもこれもいいかげんな情報で、新姫を連れてきた息子の中将が悪いと思ったりもする。もともとの原因は差し置いて、段取りだの気配りだの、要は中将のやりかたが悪いなどと、部下のせい(この場合は息子)にしたりもする。これは今の会社でもよくある風景です。 というわけで、いよいようわさの「近江の君」の登場となるわけですが、すでに内外の評判を聞かされてきた読者は、ある程度彼女について先入観を持たされている。 で、実際のお姿というのが、― やがて、この御方のたよりに、たゝずみおはして、のぞき給へば、簾垂(すだれ)たかくおし張りて、五節の君とて、されたる若人のあると、双六をぞうち給ふ。手を、いと切におしもみて、「小賽々々(せうさい、せうさい」と、乞ふ声ぞ、いと、舌疾きや。「あな、うたて」と、おぼして、御供の人の、さき追ふをも、手かき制し給うて、なほ、妻戸の細目なるより、障子のあき合ひたるを、見入れ給ふ。この人も、はた、気色はやれる、「御返しや御返しや」と、筒をひねりて、とみに打ち出でず。なかに、思ひはありやすらむ、いと、浅へたるさまどもしたり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) そのまま、(内大臣は)御方(弘徽殿の女御)を訪ねたついでに、ふと立ち止まりなさって、(近江の君の部屋を)お覗きになると、簾を高く押し出して、五節の君なる、世慣れた若女房と、双六を打ち興じていらっしゃる。(両の)手を、たいそうしきりにこすり合わせて、「小賽々々(しょうさい、しょうさい、サイコロの小さい目のことでしょうか)」と、念じる声の、これまた、早口なこと。「あ~あ、情けない」と、お思いになって、供人が、先ぶれするのも、手で制しなさって、しばらく、妻戸の隙間から、障子の間(に見える新姫の様子)を、覗き込んでおられる。この(相手の)若女房も、えらく、興奮して、「お返し、お返し」と、(サイコロの入った)筒をひねるも、すぐには振り出さない。心中は、思うところあるのかもしれないが、(見た目外見は)とにかく、軽薄きわまりない立ち居振るまいであった。 うわさの新姫君は、はたして双六に打ち興じて、若女房といっしょに早口で騒いでいる。まことに彼女にふさわしいユニークな登場となりました。― つづく ―
2010.02.09
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考えてみれば、内大臣家が目下預かっている三人の姫君というのは、内大臣自身の強い恣意から発しているとも言えるのです。弘徽殿の女御は、源氏の押す秋好中宮に敗れて立后できず、(帝の寵愛が厚いにもかかわらず)無理やり御所から里下りさせている。雲井の雁は夕霧とのすったもんだのあと、祖母の大宮の教育が悪いということで、これまた大宮邸から引き取る。そしてこのたびの「近江の君」、名乗り出るものがいれば連れて来い、という強い意向にしたがって、長男の柏木(右の中将)が連れてきたというのが、なんとも困ったお姫様という具合で、世俗の権勢にかけては並ぶ者のないこの人、光源氏の風下に立つことだけが業腹で、すべての行動を発している気配です。― 「いかにせむ。さかしらに迎へ率て来て、『人、かく誹る』とて、かへし送らむも、いと、軽々しく、物狂ほしきやうなり。かくて籠めおきたれば、『まことに、かしづくべき心あるか』と、人の言ひなすなるも、ねたし。女御の御かたなどにまじらはせて、さる烏滸(をこ)のものにしないてむ。人の、『いと、かたはなるもの』に、いひおとすなるかたち、はた、いと、さ言ふばかりにやはある」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(この近江の君を)どうしたものか。なまじっか迎え引き取ったところが、『人が、こんなにバカにしている』ということで、送り返してしまうのも、ずいぶん、(こちらの身分柄)浅はかな、気違い沙汰であろう。(かといって)このように自邸に置いていたら、『ほんとに、(内大臣は、新姫を)大切にする気があるのか』と、人がうわさするのも、鬱陶しい。(いっそ)弘徽殿の女御のもとなどに伺候させて、こんな笑い者ですよと(世間に)広めてしまうか。女房たちが、『たいへんな、ブス』と、貶めている(彼女の)器量は、さて、たいそうに、そこまで言うほどのことでも(なかろう)」 内大臣の目下最大の気がかりは、今回その鳴り物入りで迎えた新姫「近江の君」なのですが、ふと思い立った中味というのは、要は里下りしている弘徽殿の女御のもとへ、しばらく預けて修業させようということなのでした。これは見ようによっては新姫を格下に扱うということらしいのですが、内大臣は一向に頓着するところがないようです。 弘徽殿の女御に言うには、― 「かの人、まゐらせむ。見苦しからむことなどは、老いしらへる女房などして、つゝまず言ひ、教へさせ給ひて、御覧ぜよ。若き人々のことぐさには、な笑はせさせ給ひそ。うたて、あはつけきやうなり」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「かの(近江の君)を、(こちらへ)参上させようと(思うのです)。見苦しいことなどは、手練の老い女房たちでもって、遠慮なく指摘し、教えてやって、いただきたい。若い女房たちの口の端にのせて、ゆめゆめ笑いものにはなさいますな。(なにしろ、この新姫というのが)救い難いほど、軽薄な性質(たち)のようで」 本人が聞けば、目から火が出るようなことを、内大臣は何ら気にするでもなく、弘徽殿の女御に向かって苦笑しながらも、言って憚るところがない。― つづく ―
2010.02.08
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姫君は、(ちょうど)昼寝をしていらっしゃった。薄物の単衣(ひとえ)をお召しになって、横になっておられる様子は、暑苦しくは見えず、とても、可愛らしくて、華奢でいらっしゃる。(単衣から)透けて見えるお肌の色なども、たいそう美しい。優しげな手つきで、扇を持たれたまま、腕を枕にして、うち捨てられたような御髪は、そう長いとか豊かということではないけれども、なかなか結構な髪裾である。 そばに女房もはべらさず、のどかに昼寝している雲居の雁の様子は、可愛いけれども、内大臣から見ればのん気過ぎる。― 扇を鳴らし給へるに、なに心もなく見あげ給へるまみ、らうたげにて、頬(つら)つき赤めるも、親の御目には、美しくのみ見ゆ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (内大臣が)扇を打ち鳴らしなさったので、寝ぼけたまま見上げられた眼差しが、あどけなく、頬を赤くされているのも、親の御目には、可愛いとばかり見える。 おおかた夕霧の夢でも見ていたのでしょう。ボウッとした感じは可愛いけれども、父大臣から出てきた言葉は、― 「うたゝ寝は、いさめ聞ゆるものを。などか、いと物はかなきさまにては、大殿籠りける。人々も、ちかくさぶらはで、怪しや。女は、身を、常に心づかひして守りたらむなむ、よかるべき。心安く、うち捨てざまにもてなしたる、品なき事なり。 … 「思ふやうに、みたてまつらむ」と思ひし筋は、難うなりにたる御身なれど、「いかで、人笑はれならず、しなしたてまつらむ」となん、人のうへのさまざまなるを聞くごとに、思ひ乱れ侍る。こころみごとに、ねんごろがらむ人のねぎ事に、なしばし靡き給ひそ。おもふさま侍り」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「うたた寝は、ダメだと(言ったでしょう)。どうして、(そのような)しどけない格好で、寝ておられる。女房たちも、近くに伺候もせず、何をしておるのか。女というものは、我が身を、いつも気を配って守ることこそ、大事なのですよ。気安く、無造作なお振るまいというのは、品下がることなのです。 … 『望みどおりに、お世話し申したい』という願いは、難しくなってしまった御身ではあるが、『何としても、世間の物笑いにだけはならないように、してさし上げたい』とのみ(思って)、他人の身の上もさまざま聞きながら、思案しておるのです。ものは試しとばかりに、親切そうにしてくる人の優しい言葉には、ゆめゆめ(心)靡きなさるな。(私にも、何かと)考えのあることですから」 怒鳴りつけたい気持を何とか抑えて、じゅんじゅんと諭す。内大臣としては、さしあたって雲井の雁に対する精一杯の思いやりだったでしょう。 さすがに姫君のほうも、― 「昔は、なに事も、深くも思ひ知らで、なかなか、さしあたりて、いとほしかりし、事のさわぎにも、おもなく見えたてまつりけるよ」と、いまぞ、思ひ出づるに、胸ふたがりて、いみじく恥づかしき。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「昔は、何事も、(たいして)深くも考えないで、ずいぶん、その折りは、辛かった、(夕霧との)大騒動の時も、(私は、よくも)恥ずかしげもなく(父大臣に)お会いしていたことだわ」と、今になって、思い出せば、胸がふさいで、たいそう恥ずかしい。 この時、雲井の雁は十七歳、当時としても多少オボコい感じの姫君でした。しかし内大臣の姫君たちに対する悩みは彼女だけではありません。― つづく ―
2010.02.07
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源氏の殿が探し出して来たという玉鬘について、さんざんくさしている内大臣ですが、自身がそれに刺激された結果、いとも珍なる新姫を見つけ出してきたことに思い至らない。この人の振るまいは、若いときから光源氏をキャッチアップすることだけでもって、成り立っているところがあるのです。 このいわば囚われた行動基準というのは、若者同士の競い合いの間はともかく、今となってはそれぞれの一族統領の勢力争いになっているので、抜き差しがならなくなっている。その決着は「玉鬘十帖」のあと語られるのですが、それはお互いにとって、ほろ苦い喪失感をともなったものだったでしょう。まあしかしそれは先の話。 というわけで、内大臣は玉鬘の落ち着き先を、源氏と仲の良い蛍兵部卿の宮ではないか、と推測したりするのですが、― … なほ、ひめ君の御こと、あかず口惜し。「かやうに、心にくくもてなして、『いかにしなさむ』など、やすからず、いぶかしがらせましものを」と、ねたければ、「位、さばかり」と見ざらむ限りは、ゆるしがたく、おぼすなりけり。「おとゞなども、ねんごろに、口入れかへさひ給はむにこそは、負くるやうにても靡かめ」と、おぼす。をとこがたは、更に、いられ聞え給はず、心やましくなん。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) … (それでも)なお、(雲井の雁の)姫君のことが、かえすがえす残念でならない。「あの(玉鬘の)ように、(姫を)勿体ぶって扱えば、(世間にも)『誰を婿君になさるのか』などと、大いに、気も揉ませることも出来ただろうに」と、羨ましくてならず、「(夕霧の)官位が、相当なもの」に上がらない限り、(雲井の雁との結婚は)許すわけには行かない、とお考えになっていた。(しかし、それでも)「源氏の殿の方から、丁寧に、口添えし撤回して下さるのなら、思い屈してでも認めてやっても(好いのだが)」と、お思いになる。(しかし、肝心の)男君の方は、いっこうに、焦った風もお見せにならないので、(内大臣は、やはり)面白くない。 要は、どちら(の親)が先に頭を下げるか、という話になっているのです。とはいえ、― とかく、おぼしめぐらすまゝに、ゆくりもなく、軽らかに、はひ渡り給へり。少将も、御供に参り給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) あれこれ、思案されるままに、(内大臣は)ふと思い立って、前触れもなく、(雲井の雁の居所に)お出でになった。(次男の)弁の少将も、お供についていらっしゃる。 このあたり、内大臣のフットワークの軽さというのは、源氏方には絶対見られないもので、思い立ったらすぐ、というのは彼ならではですね。 ところが、― ひめ君は、昼寝し給へる程なり。薄物の単衣を着給ひて、臥し給へるさま、暑かはしくは見えず、いと、らうたげに、さゝやかなり。透き給へる肌つきなど、いと美し。をかしげなる手つきして、扇を持給へりけるながら、腕(かひな)を枕にて、うちやられたる御髪の程、いと長くこちたくはあらねど、いとをかしき末つきなり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 何だか内大臣のため息が聞えてきそうな光景ですね。― つづく ―
2010.02.06
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対する弁の少将は、父に、― 「かの、西の対に、すゑ給へる人は、いと、事もなきけはひ見ゆるわたりになむ侍るなる。兵部卿の宮など、いたう心とゞめてのたまひ、煩ふとか。「おぼろけにはあらじ」となむ、人々、推し量り侍める」 「あの、西の対に、住まわせていらっしゃる姫君(玉鬘)は、たいそう、申し分のない様子であるということでございます。兵部卿の宮など、とても熱心に懸想なさって、苦心されておるとか。『見かけ倒しではないようだ』と、人々は、推量し申しております」 対する内大臣の次の言葉は一般論としては当たっているのですが、悲しいかな、貶めている姫君が自分の娘であることを知らない。― 「いで、それは、「かのおとゞの御女」と思ふばかりの思えの、いと、いみじきぞ。人の心、みな、さこそある世なめれ。かならず、さしもすぐれじ。人々しき程ならば、年頃、聞えなまし。あたら、おとゞの、塵もつかず、この世には過ぎ給へる、御身のおぼえ・有様に、面だたしき腹に、女かしづきて、「げに、疵なからむ」と、おもひやりめでたきが、ものし給はぬは。おほかたの、子の少なくて、心もとなきなめりかし。 … その、いまひめ君は、ようせずば、実の御子にもあらじかし。さすがに、いと気色ある所つき給へる人にて、もてない給ふならむ」と、いひおとし給ふ。 「何を(言っておるのだ)、それは、『あの(源氏の)御娘子』と思ってこその評判で、たいそう、高くなっているだけのことだ。人の心とは、何でも、そんなものというのが世間なのだ。きっと、大したことはないに違いない。人並みの器量であったなら、とっくに、うわさになっているさ。生じっか、源氏の殿は、塵一つの汚れもなく、この世に過ぎた、声望やお姿でいらっしゃるばかりに、かんじんの御本妻には、女房どもが、『ほんとうに、疵のつかぬよう』と、思いを込めてお育てするような、(御子が)お生まれにならないとは(残念なことよ)。たぶん、御子が少なくて、心もと無いのだろう。 … その、今姫君は、ひょっとすると、実の御子ではないかもしれんぞ。(源氏の殿は)何といっても、たいそう癖のあるお方だから、(何か)お考えあってのことだな」と、けなされる。 内大臣は決してたんなる体育会系のザッとした性格ではなく、知性も一流、娑婆を渡り歩く駆け引きも一流なのですが、逆に切れすぎる頭が、少しばかり先走る気配があって、「その、いまひめ君は、ようせずば、実の御子にもあらじかし」という推測は図星だったのですが、それが我が子である事には思い至らない。 読者(観客)は高みの見物で、登場人物の秘密を知っている結果、野次馬気分を共有しながら、このくだりを笑い飛ばすことが出来るのです。― つづく ―
2010.02.05
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というわけでもないのでしょうが、このあと光源氏は若君たちを引き連れて、玉鬘のもとを訪ねるのですが、二人の状況は春の時とまったく同じで、完全に停止しているので、このあたりは本文を読んでみてください。紫式部は玉鬘が六条院にやって来てから一年ほどの出来事を、季節の推移にそって丹念に追っていくという、歳時記的なペースをどうしても守っていこうと決めているようです。 一つ変化があるとすれば、源氏の和琴(わごん、日本の弦楽器の一つ。雅楽の日本古来の歌舞に用いる六弦の琴)の稽古を通して、玉鬘の気持に多少軟化の兆しがあることで、これは後々の結末への伏線と言っていいでしょう。 さて話は六条院から、何やら落胆の気配が見える内大臣家のほうへ移ります。 ここで紫式部は、さりげなくテクニックを試みた気配がありますね。どういうことかというと、この帖の主役である「近江の君」を登場させるに、何やかや周りのうわさを先に(豆撒きのように)撒いておいて、読者心理の気を引っ張るという手法です。もうすでに、先の源氏の話でも内大臣家に新姫が来て、それがどうもとんでもない姫だ、という話が出ているのですが、話がいよいよ内大臣家に移っても、なかなか本人を登場させない。 こういう気をもたせる語り口がはたして今まであったかどうか?あったような気もしますが、よく思い出せません。確かなことは、この手法は後々もっと洗練された形で出てくるということです。― 内の大殿は、この、いまの御むすめのことを、「殿の人も、許さず、軽みいひ、世にも、『惚(ほ)きたること』と、そしり聞ゆ」と、聞き給ふに、少将の、事のついでに、太政(おほき)おとゞの、「さることや」と、問ひ給ひし事、かたりきこゆれば、 「さかし。こゝにこそは、年ごろ、音にもきこえぬ山賤(やまがつ)の子、迎へとりて、物めかし立つれ。をさをさ、人の上もどき給はぬおとゞ、このわたりのことは、耳とゞめてぞ、おとしめ給ふや。これぞ、おぼえある心地しける」と、のたまふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 内大臣は、この(たび名乗り出た)、今の姫君のことを、「殿中の人々も、(姫と)認めず、軽んじて言い、世間でも、『バカらしいことよ』と、そしり合っている」とは、お聞きになっていたが、(次男の)弁の少将が、事のついでに、源氏の大臣からも、「本当かね」と、お尋ねであったことを、申上げると、 「そうさ。まさしくここに、今まで、聞いたこともない田舎娘を、引き取って、イッチョウマエに扱ってるよ。そうそう、他人の悪口をおっしゃらない源氏の殿なのに、ここの家のこととなると、(ことさらに)聞き耳立てて、バカにされる。それこそ、(余計なおせっかいいただいて)結構なことだ」と、おっしゃる。 内大臣としては、源氏がすこぶる美人のうわさが高い新姫を、探し出してきたことに刺激されて、対抗して新姫をムリして見つけ出したのですが、残念ながら先のような内外の評判で面白くない。そこへ息子の報告があったので、腹立ち紛れの上のような発言となったのです。― つづく ―
2010.02.04
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― 「朝臣(あそむ)や。さやうの落葉をだにひろへ。人わろき名の、後の世に残らむよりは、おなじ挿頭(かざし)にて慰めむに、なでふことかあらむ」と、弄じ給ふやうなり。かやうの事にてぞ、うはべは、いとよき御仲の、昔より、さすがに隙ありける。まいて、中将を、いたくはしたなめて、わびさせ給ふつらさを、おぼしあまりて、「『なま妬し』とも、もり聞き給へかし」と、おぼすなりけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「朝臣(夕霧)よ。(お前も)そういう落ち葉でも拾ってみたら(どうだね)。世間にみっともない名を、後々の世まで残すよりも、同じ挿頭(かざし、草木の枝葉や造花などを冠や髪の上に挿して飾りとしたもの、同類ということでしょうか)で慰めて、どうして悪いことがあるかね」と、嘲弄されているようである。こういう事では、(源氏と内大臣は)うわべは、とても良い御仲で、いらっしゃるものの、昔から、どうしようもない(性格の)違いがあるのである。まして(先般は)、中将の君(我が息子、夕霧)を、(雲井の雁との件で)ひどく辱めなさって、嘆かせておられる仕打ちには、腹に据えかねておられて、「『小面憎いな』とでも、伝え聞きなさったらよいのだ」と、思ってらっしゃる。 数年前に雲井の雁とのすったもんだで、夕霧が内大臣家でその六位という身分の低さゆえに、おおいに貶められたことにかんし、父の光源氏は恨みを抱いている。しかしこれはすでに、我が息子に対する仕打ちのレベルを超えて、前から続いている世俗(藤原系)と皇孫(源氏系)の家同士の勢力争いに発展しているので、容易に和解出来なくなっているのです。上の言葉は、夕霧にしているようにして、実際はもちろん内大臣家の兄弟に聞こえよがしに言い放っていたわけでした。 源氏からすれば、内大臣が少し頭を下げてくれれば、今の彼の威勢をもってすれば、息子の位階などすぐ昇段させることが出来る。しかし内大臣側から言えば、冷泉帝第一の后であった弘徽殿の女御が、源氏の推す前斎宮に中宮の座を奪われ、東宮の后候補として明石の方の娘が上がって来、さらにもう一人の我が娘は夕霧との浮名を流されたとあっては、源氏に対して腹膨れるのは当然であったでしょう。― かく、聞き給ふにつけても、「対のひめ君を、みせたらむ時、また、あなづらはしからぬかたに、もてなされなんはや。いと、物きらきらしく、かひある所つき給へる人にて、善し悪しきけぢめもけざやかに、もてはやし、また、もて消ち軽むることも、人に異なる大臣なれば、『いかに、ものし』と、思ふらむ。おぼえぬさまにて、この君をさし出でたらむに、えかろくは思さじ。いと、きびしくもてなしてむ」など、おぼす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) こんな話を、お聞きになるにつけても、(源氏は)「対の姫君(玉鬘)を、(このまま内大臣に)引き合わせたら、(あちらの今の新姫が、まともじゃないらしいので)これまた、いいかげんな仕方で、お世話されるようなことがあろうか(そんなことは有り得まい、玉鬘はこんなに素晴らしいのだから)。たいそう、開けっぴろげで、ハッキリした所のおありな人だから、(事の)善し悪しの区別もキチンと、誉めるべきは誉め、また、くさし貶めるとなれば、人一倍の大臣だから、『何と、無礼な!』とも、思うであろう。(とは言え、何も)知らせないまま、(いきなり)この君を引き合わせても、(きっと、この姫なら)軽々しくはなされまい。(それにしても)いっそう、抜かりなくお世話せねば」などと、思っておられる。 はなはだ弄び物の感じが強いまま、六条院に引き取ってきた玉鬘ですが、紛れもなく内大臣の娘であるゆえ、いずれ引き合わせる時のことも考えて、何しろ相手はうるさい気質なので、これまで以上にねんごろに世話しておこう、というわけです。― つづく ―
2010.02.03
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前の帖のおわりに、内大臣が玉鬘のうわさに刺激されて、自身の行方不明の姫君を思い出しもし、何としても見つけたいと思う。ところが、その夏にはすでに新たな姫君を探し出して来たらしい、といううわさがすでに源氏の耳にも入っていて、彼としてはいわばウラを取るために聞いたのでしょう。内大臣の娘はここに預かっているではないか、ということなのですが。 聞かれた内大臣家の次男、弁の少将は本来、源氏方の新姫の様子を探りに来たのですが、そこはまだ子供で、ベラベラしゃべってしまうのです。― 「ことごとしく、さまでも言ひなすべきことにも侍らざりけるを。この春の頃ほひ、夢語りし給ひけるを、ほの聞きつたへ侍りける女の、「我なむ、かこつべき事ある」と、名のり出で侍りけるを。中将の朝臣なん、聞きつけて、「まことに、さやうに触ればひぬべきしるしやある」と、たづねとぶらひ侍りける。委(くは)しきさまは、え知り侍らず。げに、この頃、めづらしき世語りになむ、人々もし侍るなる。かやうの事こそ、人のため、おのづから、家損(けそむ)なるわざに侍りけれ」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「ことごとしく、そのように触れ回るほどのことではございません。この春の頃合いに、(内大臣が)夢占いなさったのを、何やら伝え聞いた女が、『私こそ、申し上げるべき仔細がございます』と、名乗り出て参りまして。(兄の)中将の朝臣(柏木)が、聞きつけて、『ほんとうに、そのように触れ回るような証拠はあるのか』と、尋ねてまいったのです。詳しいことは、(私は)存じ上げません。まことに、今どき、珍しいうわさの種と、世間でもしております。こういう事こそ、父上にとっては、何かと、(ひいては)家の不面目にもなることでございますのに」 弁の少将は、この話が何となく内大臣家にとって、みっともない話であることが、その後の家中の様子で分かっている。しかしその原因は自分でないことを強調するために、「中将の朝臣なん、…」とやったので、光源氏には内大臣家の雰囲気が手に取るように分かる、という仕儀に相成ります。― 「まことなりけり」と、おぼして、 「いと、おほかめる列に離れたらむ、おくるゝ雁を、しひて尋ね給ふが、ふくつけきぞかし。こゝにこそ、いと、ともしきに、さやうならむ、物のくさはひ、見出でまほしけれど、「名のりも、物憂き際」とや思ふらん、更にこそ聞えね。さても、もて離れたることにはあらじ。らうがはしく、とかく紛れ給ふめりし程に、底清く澄まぬ水にやどる月は、曇りなきやう、いかでかあらむ」と、ほゝ笑みて、のたまふ。中将の君も、くはしく聞き給ふことなれば、えしもまめ立たず。少将と藤の侍従とは、「いとからし」と思ひたり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「やはりそうであったか」と、(殿は)お思いになって、 「(内大臣殿は)たいそう、(お子たちが)多いのに(その群に)、遅れた雁までも、あえて探し出しなさるのが、欲深というものさ。こちらこそ、まったく、(子供といえば)覚束なくて、そのような、縁のあるものを、見つけ出したいものだが、(なにせ)『名乗り出るにも、値しない相手』とでも思うのであろう、いっこうに(誰も)知らせてこないよ。とはいえ、(その新姫の話は)まるきり根も葉もないことではないでしょう。騒々しく、何かと(女性方と)立ち混じっておられた(若い)頃に、素性の知れない女に宿した子供というのが、まともである、わけがないからね」と、ニッコリして、おっしゃる。中将の君(夕霧)も、(そのあたりのことは)詳しくお聞きになっているのだが、つゆ知らぬ顔をしていた。少将と藤の侍従とは、「何とも辛い(恥ずかしい)」と思っている。 手練の源氏にかかれば、若者たちは手もなく誘導され、からかわれる。夕霧だけは、そのあたりの父の気性を知っていて、空とぼけているのです。最後に源氏は内大臣に聞えるように、若者たちに次のように言い放ちます。― つづく ―
2010.02.02
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「常夏」の帖では、季節は進んで夏、冒頭の六条院の様子は、西日射す夏の夕暮れ時の気だるさがよく出ています。― いと暑き日、東の釣殿に出で給ひて、すゞみ給ふ。中将の君も、さぶらひ給ふ。したしき殿上人、あまたさぶらひて、西河よりたてまつれる鮎、近き河のいしぶしやうのもの、御前にて調じ、まゐらす。例の、大殿の君達、中将の御あたり訪ねて、まゐり給へり。 「さうざうしく、ねぶたかりつる、折よく物し給へるかな」とて、大御酒まゐり、氷水(ひみづ)召して、水飯など、とりどりに、さうどきつゝ食ふ。風は、いとよく吹けども、日のどかに、曇りなき空の、西日になる程、蝉の声なども、いと、苦しげに聞こゆれば、 「水のうへ無徳なる、今日の暑かはしさかな。無礼の罪は、許されなむや」とて、より臥し給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) たいそう暑い(夏の)日、(殿は)東の釣殿(つりどの、池に面した建物)にお出でになって、涼んでおられる。中将の君(夕霧)も、お側についておられた。親しい殿上人も、数多く伺候していて、西河(桂川)から献上の鮎、近くの河(賀茂川)の石伏(いしぶし、ゴリ、カサゴ目カジカ科の淡水魚)のようなものを、御前で調理して、差し上げる。いつものように、内大臣の子息たちが、中将のもとを訪ねて、お出でになった。 「退屈で、眠たくなっていたところに、よくぞ参られましたな」と、酒を振るまわれ、氷水(こおりみず)も取り寄せられて、水飯(すいはん、乾飯または飯を水に浸したもの、湯漬けに対する)などを、(若者たちは)おのおの、にぎやかに食べる。風はよく吹き抜けるが、夏の盛りで、雲一つない空が、西日になるころには、蝉の声なども、たいそう、暑苦しく聞えるので、 「水の上(釣殿)にいても甲斐もない、今日の暑さだな。無礼を、許してもらおうか」と、(物に)寄りかかって横になられた。 このとき夕霧を訪ねてきたのは、内大臣家の次男坊以下の数人で、長男の柏木(右中将)はいません。年恰好からいって、次男の弁の少将はたぶん夕霧と同じぐらいなのでしょう。彼らの目的はもちろん玉鬘ですが、内大臣家としては六条院の様子を知っておきたい、という意図もあるようです。 しかし、いかんせん十五、六の若者たち、光源氏を前にしては、気の利いた話も出来ない。そこで逆に源氏のほうから内大臣家の様子を問いかける、― 「いかで、聞きし事ぞや、「おとゞの、この頃、ほか腹のむすめ、たづね出でて、かしづき給ふなる」と、まねぶ人ありしは、まことや」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「どうやって、聞いたか(忘れたが)、『内大臣が、この頃、他腹で生ませた娘を、探し出して、大事になさっている』と、聞かせてくれた人がいたのだが、本当かね」― つづく ―
2010.02.01
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