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旧日本軍が実質的に日本国および日本人を占領していたというのが、戦前の日本の実態的な姿であるとするならば、敗戦後の日本でアメリカ軍がすんなり占領統治をおこない得たというのは、ある意味当然で、当の被占領民である日本人にとっては、たんに「占領軍」の旗が変わっただけで、自らのマインドを根底的にひっくり返す必然性は、ここから先もなかったのでした。ましてそれが前の「占領軍」より(見た目)寛容であるならば、手のひらを返すように大歓迎というのは、「臣民」のマインドとしては当たりまえのことだったのです。 さてこのあたり、では仮りに新たな占領軍が、米軍ではなくソ連軍だったらどうだったか?というような思考実験は一応してみる価値があるでしょう。「臣民」のマインドであるかぎり、日本人はどんな過酷な(シベリア抑留のような)占領政策下に置かれても、かつての日本軍占領下でまさしくそうであったように、もっとも忠実な共産「主義」国となっていたのではないか?という疑念が巻き起こります。少なくとも反乱軍だの開放軍だのが、国民の圧倒的支持を受けて決起し、ゲリラ戦を展開するというようなことは到底考えられません。 「何を、荒唐無稽なことを!」とおっしゃるかもしれませんが、こうしたシミュレーションは、例えば「ミッドウェー海戦は、こうやったら勝てた」式の「タラレバ」の仮定を持ち出しては、叶わぬ夢を見続ける態度よりは、よほど生産的な気もする、というより今どきの日本の振るまいかたに対して、よほどシビアな論件を突きつけるような気もするのです。 敗戦直後の日本の施政者を見ていると、一言でいえば、いかに占領軍に取り入るか、阿諛追従することで、出来るだけ事を穏便に(国体護持のまま)済ませようとしているか、この一点にのみ意を注いでいるように見える。これは、いかなる占領軍が進駐して来ても、たぶん同じで、仮にそれがソ連軍であったなら、政府もマスコミも手を打ったように一斉に共産主義礼賛を呼号して見せたでしょう。 そしてあの頑強な日本の兵士を見てきた(ノモンハンの記憶のある)占領軍は、一種異様な気分で日本の施政者と日本人を見つめるでしょう。しかし、しばらくすると、それがまんざら猫被りのお追従ではなく、少なくとも大多数の国民は本気でそう思っているらしい、ということに気付いて驚倒するでしょう。ひょっとすると、事のついでに日本人は、進駐軍の指示を待たずに、天皇制を廃止してみせたかもしれません。もしそれがソ連政府に対して、恭順の姿勢を示す最善の策と判断すれば、です。 で、その場合、おそらく政府もマスコミも、こぞってその政策を称揚し、共産主義共和制の正統性を、四年ほど前の大本営発表のように、はなはだ重々しく国民に向かって宣言したに違いありません。で、ここからが大事なのですが、おそらくそれを謹聴した日本人の多くは、ほぼ何の違和感もなく「そういうものか、なるほど、しょうがないな」と、多少うつむきかげんであっても「それが新しいお上の言うことなら」と、黙って聞き従っただろうと思うのです。 で、ここまで来れば、占領軍であるソ連政府の官憲は気づいたことでしょう(マッカーサーが気づいたように)、「日本人は骨がらみに臣民化されている国民だ。これは最大利用しない手はなかろう。お上が変わったところで、何かにつけ従順に仕えるというマインドが変わらないのなら、共産天皇を担ぎ出して、全体のシステムは出来るだけそのまま残そう」と、考えたとしても少しも不思議ではないのです。 その場合、ソ連政府は旧日本政府の翼賛体制と、旧日本軍はそのまま残し、ただしそれが仰ぎいただく相手だけ、「天皇」から「クレムリン」に移行させたでしょう。占領統治としてこれほど楽な方法はなく、いずれ迫りつつある米ソ対立の最前線として、日本の地政学的、人的(兵士)価値は途方もないものだったはずです。 さて、核の対峙で東西冷戦状態がつづいている間の日本はどうだったのでしょうか?これもまた、ほぼ確信を持って言えるのですが、この国は史上最強の共産国家となっていただろうと思うのです。ひらたく言えば、元祖ソ連邦を凌駕するくらいの強力かつ清廉な官僚システム、士気旺盛な軍隊、よく教育された徴募兵、実際の歴史と同じように、これまたGDPで世界三位に躍り出ていたでしょう(一応、親分の顔を立てて)。 こうなると、実際のそのころの国際情勢、早い話、中国や朝鮮半島、台湾はどうなっているか、という要素も加味しなければならず、荒唐無稽を越えてほとんど妄言になってしまうので(正気を疑われるので)、もうしません。 私が興味があるのは、こういう(アホな)シミュレーションの中で、日本のマスコミ、そしていわゆる知識人たちは、どのような挙動を取っただろう、ということなのです。― つづく ―
2010.10.31
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「生きながらの死者」であるがゆえに、彼らは自身の行ってきた(生者に強いた)内容について、いっさい口をつぐんでいられる。「説明責任(引き継ぎ)」という後に残された生者への最低限の義務を逃れ、ことの事実的内容をいっさい明らかにせず、軍事史的にも政治社会学的にも心理学的にも、後世の我々には結局いかなる分析評価の機会も与えなかったのでした。 毀した国の将来よりも、所属した組織の名誉(ということは結局、私的要素)を優先したという、この一点をもってしても、何もしゃべらずに死刑に処せられた旧軍人たちの責任は重い(もちろん死刑以外の旧軍人その他も、口をつぐんでいる限り同様です)。しかし、万死をもって償われてオシマイとはいかない、というのが公(公の金で事を為した)の立場に身を置いた者の、本来あるべき姿ではなかったか。 子供のように駄々をこねたまま、いっさい口をつぐんで「万死をもって、陛下にお詫びする」というのでは、残された我々は彼らに対して「卑怯」という評価を下さざるを得ない。歴史的位置づけの下しようがない(評価のしようがない)、という一点で「卑怯」だというのです。死者の擬態を装って、他者に無理無体を強い、しかもその責任は逃れる、これは「大人」のやることではありません(何度も言いますが、児戯めいたヤクザの手法です)。 自分たちのやったこと、やろうとしたことの是非善悪の判断は、本人たちがやるのではなく、残された者が(しんどくても)引き受けるのです。その最低限しておくべき口を拭った結果、私たちは厳然とした大量の死者(日本軍人、日本人、アジア人他、すべての戦没者)に対して、今だに同じ地平で弔うということが出来ない、という状況に置かれています。 彼らには明らかに上のような意味での「公」という観念は、最初から念頭になく、いわば天皇の「私兵」になり切ることによって、自らの組織の拠り所としたのでしょう。旧日本軍がいわゆる「国民軍」という概念を持ちえず、自らは「国軍」と名乗っていましたが、この場合の「国」の意味するところは、「スメラミコトのまします御国」ということであって、そこに住まう国民とは、彼らから見れば、それに使役するたんなる「民草(たみくさ)」でありました。 日本軍人のこの由って来たるマインドが、いつごろからどのように醸成されて来たのかという話は、先に維新前後の「国軍」と「統帥権」の形成過程などでざっと見て来ましたが、まだまだ私としては腑に落ちた感じがしません。とはいえ、それでは話が本当に際限なく広がっていくので、このあたりの検討は、またいずれしかるべき機会があればすることとし、山本さんのもう一つの指摘だけを、ここに記しておきます。― 統帥権により日本国の三権から独立していた軍は、逆に、まず日本国をその支配下におこうとした。そして満州事変から太平洋戦争に進む道程を仔細に調べていくと、帝国陸軍が必死になって占領しようとしている国は実は日本国であったという、奇妙な事実に気づくのである。 ― 「一下級将校の見た帝国陸軍」(山本七平 文春文庫) 「統帥権」によって、結果的に政治の埒外でいられた「国軍」は、そうであることによって逆に別の権力組織でありえた。つまり一国に二つの権力が並存するという根本的な矛盾を抱えた形であったのが、満州事変以降、まさしく「国軍」が日本国(日本人)を占領しようとしたということです。 彼ら組織のアキレス腱は、軍事費でありました。軍内部の統帥は独立していたとはいえ、軍事予算だけは議会が握っていたわけで、金が出なければ文字通り戦えない。「国軍」がもっとも恐れていたのがこれで、であるがゆえに、そこから国民の目を逸らそうと必死だったわけです。武藤章という人物は、どうやらこの辺の汚れた役回りを一身に引き受け、翼賛体制を作って政党を解散させることにあったようで、それが実現してみれば、そのあと彼に否と言える人間は、あたりまえですが、誰一人いなくなってしまったのでしょう。 そこにはこうした権力闘争に乗っかろうとする政治家や資本家、思想家やマスコミも絡んでいて、すべて旧軍人が悪いというような単純な図式では裁断できません。否、むしろ優れて実務的組織である軍隊より、それを利用しようとした周囲の人間たちの振るまいのほうが、ひょっとすると重大(これもまた今でもよくあることですが、優れて専門家集団である軍隊組織というのは、こと軍事行動にかんしてはきわめて慎重で、むしろその周辺にいる思想・政策集団の方が過激に走るというのは、アメリカもそうであるように、言わば定番になっていますね)で、ことはやはり最終的には日本人全体のマインドを見つめることを避けては通れませんね。― つづく ―
2010.10.30
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かつて(そして、たぶん今でも)武器とか軍艦とか戦車とか、その抗いがたい魅力(それが本来的に放っている死の相貌という美しさ)に興味をそそられたものですが、現実の戦争がもたらす惨烈な実体というのは、普通人が社会で暮らしていく場合、なるべく見たくない、触れないでおきたい種類のものです。私のMilitary Freakは、小6のころテレビで見たアウシュヴィッツのフィルムで吹っ飛んでしまいました。 以来、父が時々語る戦争体験の話を、あえて聞くまいとしていた自分を思い出します。それが奈辺から来るものであったのか、説明するのが難しいのですが、父が語るその語り方というか、そのとき立ち昇ってくる高揚感のようなものに、あるいは反発していたのかもしれません。「そんなひどい目に会うんなら、何でその前に反対せんかったんや」というのは、まことにプリミティブな反発ですが、あまりにも惨烈な状況(例えばアウシュヴィッツとかヒロシマとか)というのを前にした場合、本来なら人は完全に声を失うのではないか?という疑いがあったのです。 さて今回憑かれたように読みあさることになった「戦争物」というのは、繰り返し取り上げている山本七平さんの一連の作品が継起になっているのですが、ひょっとするとこれは今次大戦の、いちばん肝心なところに触れているところがあるのではないか?よくある「これでもか、これでもか」式の悲惨さの羅列ではなく、自身の内部も貫いて横切ったであろう「組織集団の狂気」という感触を、これほど仔細に感じさせる本を今まで読んだことがなかったのです。 そこまで穿たれると、平時に呑々としている今どきの私たちにも、ようやく本当の声が聞こえるような気がする。しかしそれを聴く耳もまたこの歳になるまで持ち得なかった、ということも認めないわけにはいきません。何度も言うように山本さんのこの一連の本(「一下級将校の見た帝国陸軍」とか「私の中の日本軍」など)は、以前から私の書棚にあったものです。今回蒙を開かれたように繰り返し読むことになったというのは、要は読む側にも多少の人生という時間が必要だったというほかないでしょう。 「一下級将校の見た帝国陸軍」の終りに、陸軍参謀、武藤章中将をフィリピンの捕虜収容所で見たときの印象が記されています。本来、参謀(スタッフ)という作戦立案の立場であって、命令権はないはずの人物たちが、なぜ日本陸軍において実質的な権力を握り、実力者として組織を支配し得たのか?という誰でも抱く疑問に対して、その詳細な経歴や軍歴の分析ではなく、実際に会ったこのときの印象から、その秘密に迫るヒントを山本さんは私たちに与えてくれます。― 軍部ファシズムの四本柱「統帥権・臨軍費・実力者・組織の名誉」の底にあったものは何か。それは「死の哲学」であり、帝国陸軍とは、生きながら「みづくかばね、くさむすかばね」となって生者を支配する世界であった。それは言論の支配ではなく、死の沈黙の支配であり、従って「言葉なし」である。 ― 「一下級将校の見た帝国陸軍」(山本七平 文春文庫) 自らをいったん死者の立場に置いてしまえば、生者はいかようにも壟断できる。戦前の軍部が好んで用いた手法なのですが、武藤章という人物は、まさしくそれを心底(つまり、こけおどしでなく本気で)体現した軍人であったということです。“生ながらの死者”であれば、周囲の組織やルールからはいっさい自由であり、いかなる拘束も受けない。なぜならこの世のしくみは、あたりまえの事ですが、(軍隊組織も含めて)生者のルールで成り立っているからです。 しかし、これって考えようによっては、ある意味、相当子供じみたマインドですよね。「軍国少年」にとって、戦艦や戦車がそれが本来的に放っている「死顔の美貌」によって、エロティックなまでに魅力であったように、「“生ながらの死者”の立場で、生者のあいだを往来するなら、すべては自由になる」という発想は、子供が母親に何かを無理無体におねだりする場合、時にやらかしたりするような、抗し切れない魔力を持った手法だったのでしょう。 駄々をこねて泣き喚く子供に対しては、親は黙ってしばらく見つめている他ない。旧軍の幹部はその場合、もっとも都合の良い対象を見つけていたのです。実の親(軍体内の階級)を飛び越えて、無理無体を無限大にお願いし得る対象、それはもちろん仮想され極大化された「天皇」という存在でした。― つづく ―
2010.10.29
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破壊的な猛暑で、随一の楽しみである「源氏読み」を中断してしまい、いわばこの狂った気候に挑戦するように、私の内部にずうっと巣食っている一番うっとうしい話題(だって、こんな不愉快な気分で、何で一番の楽しみを話さないといけないのか?)をあえて取り上げて話をしていたら、例によってそれもまた際限なくおしゃべりが続いて、どうやって着地したものかと思案しています。パラグライダーでもスカイダイビングでも大空に身を投じて、自然とじかに戯れているあいだは、ときに予期せぬ事態が起こるにしても、それらはすべて高揚感に覆われてしまうものですが、真に危険かつ情緒不安定に陥るときというのは、言うまでもなく着地する局面でしょう。 そもそも重力で大地に縛られているべき生き物が、ある日何を思ったか想像の翼を羽ばたかせて、いわば周囲の自然に抗って浮揚しようとする。飛び出した瞬間とそのあとに持続する浮遊感というのは、何ものにも変えがたく、要は今まで二本足でしかと大地を踏みしめて、周囲を睥睨(へいげい)していた我が身が、木の葉のようにゼピュロスの西風に身を任せてみれば、自ずからそれまで地上では見えなかった別の自然の相貌を、体全体で受け止めることになる。未知を体感するというのは、限りなく気分を高揚させるものです。 とはいえどんな空中飛行も、いずれは必ず娑婆という退屈な現実世界に着地せざるを得ず、この作業は実際問題としての物理的な危険とは別に、垣間見えた未知なる自然との別れを意味するので、気持ち的にははなはだ萎まざるを得ない。情緒不安定に陥るとはそういう意味です。 考えてみれば、私のこのブログというのは、次から次へと自分の楽しみのためのパラグライダーを飛び立たせたものの、それらはいずれ着地させることになる、という退屈な現実を考えずに飛ばしまくっているので、しょうことなく、まるで壁にピン止めして放り出してある(ときに、そのまま蒸発してしまっている)、という景況になっています。 今回なぜ「戦争」についてしゃべり始めたのか?きっかけはもちろんハッキリ(夏の戦争報道)していて、さらにはその結語部分も何となくボンヤリとした想念が、(あの暑い最中に)浮んでいたので、じつはもっとサッサと終わるつもりでした。私のような戦争身体験者が語れる「戦争」というのは、本来タカが知れていて、山のような戦争体験報道の前では、うずくまってひたすら(見)聴き入るしかない。それでもなぜ前世紀にあれだけ未曾有の死者を産出しながらも、(人間)世界は戦争を止めないのか、止められないのか、という疑問を口にする権利は、今ここに生きて在る私たち全員に本来あるべきものでしょう。 で、もしそれを語り出すなら、それこそ「源氏物語」の比ではなく、たぶん際限なくしゃべり出さなくてはならない、というのはそのシビアなテーマからいって当然のことなのでした。そんなことはしゃべる前から分かっていたことなので、したがって出来るだけ軽く(以前と同様に)、この夏、気になったことだけを壁にピン止めして済ましておこう。どちらにしても、いずれ繰り返し何度でも話さなければならない重いテーマなのだから、というところがあったのでした。 しかし今回「戦争」に関して、さまざましゃべっているうちに、かつてないほどのスピードで「戦争」に関連した本を、さまざま読みあさっている自分に気づくのです。若いときは別として、私はもともとそこらにある本を、かたっぱしから乱読するというタイプではなく、どちらかというと、同じ本を年月を変えて、しつこく繰り返し読むほうなのですが、このテーマをはじめて以来、イヤに「戦争」にまつわる本を買っては読み耽っています。分量でいうと、過去二年間ほとんど「源氏」関連以外の本は買っていなかったのですが、ここ二ヶ月ばかりに購入した本はその総量を上回っているのです(といっても、世の本好きの人に比べたら、タカが知れてますが)。 先にも触れたように、子供のころ私は「戦争気違い」と言われるほどのFreakでしたが、これは戦前の男の子がほとんど「軍国少年」であったのと似たようなもので、他愛のないものとして片づけておいたのでした。しかし今回、自分がまるで焦燥感に追い立てられるように、本屋に何度も足を運ぶというのは、さては本性的に私はMilitary Freakであったか?と愕然ともするのですが、どうもそういうわけではないらしいのです。― つづく ―
2010.10.28
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抗いがたい表象というのが、現実にこの世に存在していて、ややもするとそれらは我が身の内部をも貫いて、むやみと心象を揺り動かすということがある。そうした内心の揺らぎの発生を、正直に認めることを拒否して、天皇制を論じたり旧軍部を批判しても、それはたんに同一平面上の反作用に過ぎず、結局同様のマインドの揺らぎかたは形を換えて、何度でもその人の心に現れることになります。 かつての新左翼的なマインドのありかたが、連合赤軍のリンチなどによって、旧軍隊内務班の「私的制裁」と同様の振るまいかたであることを仔細に分析したのは、先に何度も触れた山本さんの一連の著作ですが、同じようにかつての左翼的精神の有り様が、そのまま何の精神的あつれきを生じることもなく、今どきのマンガ的超保守主義の精神形態につながっていても、誰も何とも思ってないことを、私たちは忘れてはいけません。 こうした事柄にたとえほんのわずかでも有意な内容を見い出そうとするならば、例の内田樹さん流に「話の次数を一段階上げて」たとえ迂回的に見えても、辛抱強くこれらの現象をあちらこちらから見つめ直すほかない。あちらこちらとは歴史学的であったり、社会心理学的であったり、生命科学的であったり、要は次数を一段回上げる方策としてであれば、平面幾何を三次元モデルに組み替えて眺め直すように、何でもよいと思うのです。 歴史的に物事の現象を見てみていくと、今どきの大陸や半島の統治者、及びその住民の振るまいかた、あるいはそこに渦巻いているマインドというのには、おそらくかつての日本人のたどってきた(そしておそらく、今もどこかに確かに潜んでいる)精神性と通底する所があり、それらが表向きの装いを換えて現れているような気がしないでもない。 今大陸でさかんに起こっている「反日デモ」とは、要はおおっぴらに旗を振って異議申し立てできる振るまいというのが、現在の中国ではそれしか公認されてない(逆に言えば、「反日」という反旗を当局は抑えにくい)、という景況を現しているので、これは例えば戦前の日本軍が「統帥権」を押し立てれば、政府もそれを正面からは咎めにくい、という状況とよく似ているのです。 半島のほうを見れば、北はかつての陸軍参謀本部のマインドを、そのまま移し替えた体制を敷いているかに見え、政治的局面において常に現れる彼の国の陰謀的発想こそ、「関東軍」の得意とするところでありました。かつての南の独裁的大統領だった朴正煕(パク・チョンヒ)は、自身が旧日本陸軍的なマインドのもっとも正統的な継承者、体現者であることを隠そうとはしませんでした。 こうした事象をもって、今どきの東アジアの事象は、ことごとくかつての日本が経験し産み出したもので、我々はすでにそれをとっくに卒業している(克服している)かのように早合点するほど、さすがに今の日本人はお人好しではないと思います(それこそ平面思考の最たるものです)が、相似した事象が時間と場所を変えて現れているように思えたとき、その現れかたには例えば、東アジア全般に特異的に通底したマインドがあるかもしれない、というような考えかたをするのは、決して不生産的なことではないでしょう。 少なくとも、これら諸国の今どきの振るまいかたを、別次元の(レベルの低い)他所事のようにして、なじったり貶したりして哂って済ませ、そこまで以上に立ち入った思考や、相手方に対する想像力を閉ざしてしまうのであれば、現実に脅威を周辺に振りまいている諸国に対処するこちらの方法は、はなはだ窮屈なものとならざるを得ない。要は思考の選択肢を自ら狭めてしまう、「屈辱外交」だの「新首領様」といった週刊誌的思考回路でしか、物事が見えなくなってしまう(他に考えようがなくなってしまう)のです。― つづく ―
2010.10.26
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じつは私も、山本七平さんの本で指摘されるまで知らなかったのですが、奈良時代の聖武天皇から幕末の孝明天皇まで、歴代の天皇というのは、ずうっと仏式で葬儀が行なわれてきたのであって、皇室の葬儀が神式に改まったのは明治の神仏分離政策に基づくものでした。激しい「廃仏毀釈」を惹起したのは、新政府の意図するところではなかったにせよ、江戸時代以来の儒学者たちからの仏教批判や国学者の扇動、旧幕府の利権と深く結びついた既成檀家仏教への一般の反感といったものが、維新前後は相当強かったことを窺わせます。 それまで宮中には「お黒戸」(黒戸御所)といわれる仏間(仏壇)があって、歴代天皇や皇后の位牌が祀られており、手を合わせてお参りする習慣があったそうです。(歴代天皇の位牌を祀る「皇室の菩提寺」とは)参照 それらが宮中から菩提寺に移され、皇室の皇霊祭儀が神式に改まるのは、明治元(1868)年十二月の孝明天皇三年祭(三周忌)からなのです。面白いのはこれが東京奠都(東幸と還幸)の作業と、どうも並行して進められているらしいことで、正式に仏壇が菩提寺に移されたのは明治四年(1871)のことでした。同時に菩提寺からは寺内の天皇陵や皇族の墓所が、没収されて宮内省に移管され、また、仏教による玉体護持の「後七日御修法」や天台宗の「長日御修法」など宮中の仏教行事も廃されたそうです。 さて、その菩提寺というのは、京都駅に近い東山山麓にある泉涌寺 (せんにゅうじ)という所なのですが、皇室ゆかりの寺院としては、例えば仁和寺とか大覚寺などに比べれば、あまり知られていませんね。というか、少なくとも私は、その名前さえも今回調べてみるまで知りませんでした。 皇室の権威を新政府の正当性の根幹とするために、維新前後の混沌とした世情の中にあっても、かなり周到に準備された施策が、粛々と行われているわけです。このあたり、開明派公卿であった三条実美などの介在がおおいに考えられますが、二十年後の立憲君主制を高らかに謳った明治憲法の精神は、プロシアを参考にするまでもなく「強い君主、仕える臣民」という図式で、ごく初期から意識されていたと思うのです。 私たちが今どき、ごく無意識に抱いている皇室への先入観というのは、このように明治初期から移築されて次第に巨大化されてきたものであって、それ以前の日本人が抱いていた皇室感とは似て非なるものであるということ(それがどちらが正系で、どちらが非なるものという話ではありません。要は皇室もまた歴史的文脈の中で、相対化して見つめる、という眼を持つということが、まず必要ということです)、それを充分意識せずに今どきの皇室を論ったり、万世一系を声高に議論しても、私たちは自身の歴史の呪縛からここから先も抜け出られていない。あれほど惨烈な亡国の経験を経てもなお、私の父母以上の世代というのは、皇室に対してはほぼ無条件の崇敬の念を抱いているように見える。 それはもう条件反射に近いほどのもので、だからこそ阪神大震災のおり天皇陛下夫妻が見舞いに来られると、被災者たちは本当に気持ちが救われる(これは紛れもなく事実なのです)。ここに表出された真に癒される感覚というのは、明治維新以降、営々と築かれてきた巨大化し神格化された君主というものだけが放つ、微光のような言うに言われぬオーラであったでしょう。 好い悪いという価値判断は別として、ヒトにはどうしようもなく抗いがたい表象というものが、我が身の周辺で時々跋扈することがある、という経験が誰にでもあるでしょう。要はそれらを無反省、無条件の所与の事象として受け入れるのではなく、「これはいったい何?自分の心内に広がる快感(不快感)は、どこから来るのだろう?」と、一歩引き下がって我が身を省みる姿勢というのが大事だと思うのです。― つづく ―
2010.10.25
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このあたりここ最近、例の「龍馬伝」その他、明治維新前後のドラマが描かれる時に、まるでそれが日本の国民国家の形成を語るような捉えかたがなされるのに、多少の反発を込めて書いています。 あえて言うなら、これは実は司馬さんの「坂の上の雲」においてさえ、克服されてない問題だと私は思っているのです。司馬遼太郎という作家は、不思議なくらい物事をポジに描くことに秀でた人で、数多い作品の中でもネガな人物像というのはほとんどない、というか、そういう人物を扱った場合、例えば乃木将軍の「殉死」のように、あまり成功しているとはいえない。 そしてそのほとんどの全貌を調べ上げたとされる「ノモンハン事件」は、とうとう作品化されませんでした。生前「これを書いたら、気が狂ってしまう」と述懐されていたそうですが、それはそうだろうと思いますよ。「ノモンハン」には、秋山とか龍馬とかいったポジなヒーローは誰一人いないのですから。もしこれを書こうとすれば、間違いなく司馬の名前ではなく、別名で(あるいは本名で)書かれることになったでしょう。 しかしだからといって、司馬の小説は人間の内面の掘り下げが浅い、といったような批判は当たりません。日本の作家でこれほど人間のポジティヴな多様性を、リアルに表現した人はいないのです。たしか街道シリーズの「オランダ紀行」だったと思うのですが、その中で画家のゴッホと弟のテオを扱った部分がある。描きようによっては芸術家の内面の狂気に際限なく入り込んでしまって、やりきれなくなってしまいそうなところ、この人はその辺をサラリとかわして不思議なくらい爽やかな印象を残す。 これは掘り下げていないのではなくて、刻苦してそのように描いているので、この人は人間に通有する狂気性のようなものを充分心得たうえで、このように描いているのです。この人の初期の評論集に「微光の中の宇宙」という珍しく美術を扱った本がありますが、そのあたりの気息を伺うのにちょうど好い。元来がドロドロネチネチになりがちな芸術論が、不思議なくらいサラッと言わば市民目線で安心して読めるようになっている。であるからこそ、サラリーマンというか、要は普通の読者が妙な身の危険を感じずに、この場合なら美術を享受できるということでしょう。これはこの人の天性というよりは、間違いなく巧まれて手中にした文章の技と言うべきです。 しかしこのあたりは、「マジメで本格派」を任じる作家や批評家からは、相変わらず批判されるか無視され続けるのでしょうか。 話が何だかそれました。 司馬さんのことはさておき、要は「希望に満ちた明治国家vs国を滅ぼした昭和軍閥」といった、はなはだ図式的なものの見かたでは、たぶんこの時期の日本の全体像は見えてこないし、過度に明治維新をポジに捉えたがるマインドには、何やら戦前戦後を通じて、施政者側の意図を感じさせるところがあるのです。 「四民平等」とは士族他すべての日本人を「天皇の臣民」として一括統治する、という含意があって、決して身分の撤廃とか差別からの開放といった(左翼好みの)ことを意味するのではなかったのです。何度も言いますが、これは藩単位の「領民」を、無理なく国家レベルの「臣民」に置き換える施策として、明治新政府が考え出した「大きな物語」であったでしょう。 で、その大きな物語を根底的に支える装置として、「天皇」の位置づけは、それまでの日本歴史には、かつてなかったほど巨大化する必要があったのです。明治維新直後の「廃仏毀釈」ぐらいから、そのあたりの意図は顕著に現れていると思うのですが、皆さんはご存知ですか?天皇家の菩提寺というのが京都にあるのを。― つづく ―
2010.10.23
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少なくとも第二次大戦時までは、兵役に選抜された大多数のアメリカの若者とその家族は、それを名誉と感じ、本人は「男をあげる」チャンスと捉えていたでしょう。なぜなら国軍の兵士であることは、取りも直さず自分が真正のアメリカ人であることの証明に他ならないからです。アメリカのように多分に理念的な建国精神によって成り立っている国家では、絶えず自身がアメリカ的であることを我が身にも周囲にも示していく必要というか、なかば強迫観念のようなものが在るのではないか? さらには戦争というのは、アメリカという国柄をもっともじかに感じ取り、それと関わり得るめったとないチャンスであって、たとえ死の危険が伴なっていようと、それと等価交換できる以上の価値がある、と考える。否、参加しないと後々社会的に不利なポジションに追いやられるかもしれない、というところがあったのではないか?と思うのです。 言うまでもなく、アメリカというのは移民国家であって、アメリカで生まれたからといって、自動的に真正のアメリカ人として認知されるわけではない。絶えずアメリカ人であることを証明し続けねばならないのです。これは日本生まれの日本人が、我が身が日本人であることを所与のものとして、生まれてこの方、ここから先も疑わないのと著しい対照をなしているでしょう。 しかし移民国家と言えば、オーストラリアもブラジルもそうじゃないか、と言われそうですが、これらは本国との宗主関係が保たれていて、アメリカのように宗主のイギリスと戦争して自ら勝ち取った、という歴史を持つ国柄ではない。という意味で、今のフランスが、革命によって絶対王政のくびきを断ち切ったように、近代国家というのは多かれ少なかれ、国民が国家とじかに触れ得た(と思った)感触を経ていないと、そのいわゆる「国民意識」には不分明なところが残るのではないか?と思うのです。 明治の日本はその意味で何度も言いますが、国民が新しい国家形成に立ち会ったという感触とはほど遠く、施政者階級同士の権力闘争の色合いという印象が、全体的な国民の意識レベルでは強かったのではないか?で、それを統べる側の国民を見つめる眼差しもまた、信任を与えるにはあまりにも未熟、不安定に過ぎる、平たくいえば「上から目線」で号令を発しざるを得なかった、ということでしょう。これは取りも直さず、江戸時代の武士階級(施政者)とその他大勢(被支配者)という構図を、看板だけすげ替えて、マインド的にはそのまま引き継いだ結果になっているわけで、言うなれば「藩の領民が、天皇の臣民」に移行しただけ、という見かたも出来るのです。 伊藤は憲法草案を練るとき、決してロマンティックな国民国家の形成を夢見ていたわけではないので、西欧列強のアジア浸潤というきわめてリアルな政治状況と、明治政府の根幹的な脆弱性、そして国民の民度を見究めて、ごく冷徹にプロイセン型の立憲君主国家像を選んだのでしょう。 これはしかし徳川三百年に培われ、きわめて洗練された領民意識をもった国民(臣民)を、無理なく引き継いだわけで、ときに農民一揆や打ちこわしなどの暴動があったとはいえ、例えば大陸のように農民が土地を捨てて大量に流民化し、それを統率する親分が新しい国家を形成する(易姓革命)というような、根底的な不安定要因にはならなかったのです(つまり薩長は、敵対する幕府政権と他藩の施政者階級だけを注意して置けばよく、その領民の動向は気にしないで済んだ)。これはたぶん、新しい国軍の形成にあたって、徴集した兵士を指揮する士官たちのマインドにも影響があったでしょう。 日本の臣民は内心に消極的な気分を秘めていても、施政者に対してはきわめて従順、仮に暗愚な施政者であっても、むしろそれを盛り立てるべく振るまうように教育されている(ひょっとすると、今の企業などでも)、まことに徳川三百年の歴史は、半端でなく堅牢なシステムを形成していたのです。― つづく ―
2010.10.22
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私がしつこく、明治維新以降の日本における「国民」感にこだわっているのは、それが同時に「国民国家」に必然の「国民軍」という軍隊組織のありようにも直接反映しているのではないか?という感触があるからです。ここまであれこれ考えてくると、日本というのはどう見ても一般に言われる「国民国家」ではなく、したがってそれに支持され付託された「国民軍」という概念には、到底該当しない軍事組織を持っていた(あるいは今も持っている)国であって、それが露骨に現れて来るのが、例えば「死んだ兵士は、誰がどう弔うのか」という問いを立てた場合でしょう。 こういう問いの立て方を提示したのが、これは例の内田本「ためらいの倫理学」で知ったのですが、加藤典洋(のりひろ)『敗戦後論』(講談社 1997年)という文芸評論家の本で、2005年にちくま文庫から改めて出ています。これはたんなる感想ですが、どうも文芸評論家の語り口というのには、共通した独特のクセがあるような気がして、けっして読みやすい文章ではありません。こんなことを言っては無礼千万ですが、内田本の敷衍した話のほうが好く分かる(ような気がする)。これについては後で触れます。 それにしても、同じ徴兵で軍隊に取られた一般国民であっても、例えばナポレオン戦争時のフランス兵、あるいは「真珠湾のだまし討ち」後のアメリカ兵に比べて、日本の兵士はどうだったのか?我から進んで戦争に参加した兵士というのがどれほどいたのかと思うと、やはり同列の国民意識で論じるわけにはいかないような気がするのです。 これは何も戦争が苛烈になってきた、太平洋戦争後半の国民意識だけを取り出して言っているのではなく、例えば国家の存亡という点では、ひょっとすると太平洋戦争戦争以上に危機感に満ちていた日露戦争時においても、兵隊に取られるということが、まさしくその「取られる」という言葉に含意されている消極的な姿勢というものを現しているのではないか? 二百年前のフランス軍兵士の意識は、ちょっと想像もつきませんが、少なくとも真珠湾直後に徴集されたアメリカ兵には、こうしたためらいの姿勢はなかったでしょう。戦場の惨烈さはどこの人間も分かっている、それでも兵士に選抜された者たちがそれを栄誉と感じ、アンラッキーと感じなかった。国の枢要の立場にいる要人の息子が、むしろ軍の後衛に甘んじることを恥と感じ、前線に行くことを望んだというマインドは、ちょっと日本では考えられないことです(実際はどうであったか?ということではなくて、戦争に臨む際の姿勢のことを言っています)。 ここに見られる姿勢の違いというのは、明治以降も日本人のマインドに、どうしようもなく染み着いているらしい「お上意識」と言うしかないものでしょう。街では政治家、新聞その他で、さんざん好戦的気分を煽りながら、いざ現実になると、出来れば出征したくない、逃れたい、という気分が先に立つ。実際のところ「徴兵逃れ」のありとあらゆる指南は、昔から巷に溢れていたらしいのです。ここにあるのは、明治維新後も常に時代の当事者であることを許されなかった、大半の日本人のマインドが潜んでいるわけで、お上に対しては「年貢は大人しく納めるから、とにかく我々をソッとしといて」という、受身な本音が見え隠れしています。こういうところからは「出来れば兵役は逃れたい」という気分しか出てこないでしょう。これと「英霊だの軍神だのと、いくら祀り上げられても、死んでしまっちゃオシマイ」という本音は一直線に繋がっています。 私は多少、明治から戦前までの日本人のマインドを、貶め過ぎているのかもしれません。そこには、それでも勇敢に戦って戦場の華と散り、あるいは水漬く屍となったおびただしい死者が厳然としているのであって、それを侮辱しているのではないか?という敗戦後に生き残った者の負い目があり、表立って上のようなことを声高に言うのは臆する(いわゆる左翼の方は別として)、というところがあるのでしょう。 しかしもし表向き死者を畏れ奉って、裏で「兵役にひっかからなくて運が良かった」「生きて帰れてラッキーだった」という本心が、多少でもあるのなら、我が身あるいはその家族がなぜそう思ってしまうのか、自身の心内こそ、もう一度振り返ってみることも必要なのではないか?― つづく ―
2010.10.21
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繰り返しになりますが、自藩の常備軍によって旧政治権力を倒した伊藤や山縣にとって、新政府維持にとってのいちばんの不安要素は、残存する他の政治勢力が独自の武力を保持することであり、それは西南の役をはじめとして維新当時は切実な問題でありました。彼らは自ら行ってきた振るまいかたの危険性を、いちばん知悉していたので、それに大きなフタをしたのです。 というわけで、政府・議会から軍事面の管掌権を排除し、軍隊はそれとは独立して天皇(君主)に直属するというのは、時々の政争から軍事的要素の介入を除くという意味で、当時としては、しかるべく理由があったのでした。しかし当然のことながら、では軍隊そのものは実体的には誰の管掌のもとに動き、最終的な責任は誰にあるのかという点は、あいまいにならざるを得ないのです。 何度も言うように、政治と軍事の両面に通じていた明治の元勲たちが、世に隠然たる影響力を保持していたあいだは、その「属人的」要素でコントロール出来たのですが、「法的」根拠の脆弱性が後々の禍根になって現れたのです。ひらたく言えば、一国に二つの政府(政治権力)が存するという事態になったのでした。 それともう一つ、明治新政府の権力を安定的に維持するために、伊藤たちはこの明治憲法を「不磨の大典」として、実質的な改正を不能としたために、後々の政党内閣といった、より強く民意を反映する新しいしくみを導入するに際して、憲法成文との間に次第に齟齬が生じて来ました。爾来、日本人というのは、一度決めた事柄を改変するという作業が苦手なようで、もともとの根っこは出来るだけ触らずに、何とかつじつま合わせの加上を行っていって凌ごうとする。何だか囲碁の棋譜を見るようですが、いちど盤面に置いた石はゼッタイ動かせないのです。 明治憲法の大きな特色は、「首相」「総理大臣」「内閣」の規定がないということでした。これはどうやら伊藤博文がグナイストのアドバイスを受け入れ、プロイセン憲法を下敷きにして憲法を作ったからで、行政権はあくまで皇帝・国王の専権事項だったのでした。内閣や内閣総理大臣に関する規定は憲法典ではなく、別に内閣官制によって定められたわけです。 いくらシノギの筋を工夫したからと言っても、それがサブシステムの位置づけで、便宜的に運用されているものであるかぎり、それがいくら世間に周知されたしくみであっても、原理的な問い直しを迫られた場合に、それに効果的に反駁する根拠がない。大正期に議会制民主主義が比較的作動したとはいえ(大正デモクラシー)、昭和の軍部(及び官僚組織)はその根底的脆弱性を巧みに突いてきたのです。 まあしかし、このあたりの経緯はWikipedia他の「大日本帝国憲法」の項や「政党内閣」の項を参照してください。私としては明治維新以降の政府要人の考えかたが、議会制民主主義を唱える福澤や大隈重信のような考えかたを退けて、プロイセン型の立憲君主制を採用したのだ、ということが分かれば充分です。ここには当然、民意とか国民というものに対する、彼らの立ち位置というのが現れているでしょう。一言でいえば、多数の民意というものに対する不信、あるいは不定型きわまりない「国民」という名称が発する、恐怖といったものであったと思うのです。― つづく ―
2010.10.20
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「統帥権」については、すでにさまざまに取り上げられ論じられて、いまさら似たような話題をするつもりはありません。この規定がそもそもどういう過程で、明治という時代に生まれ出てきたのか、ということを自分なりに再確認しておこうということです。 「統帥権」の規定が最初に現れるのは、言うまでもなく大日本帝国憲法で、― 第11条 「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」 ―と記されている条項なのですが、その意図するところは、軍隊組織は政府に属さず、天皇の大権に含まれるということで、これは陸海軍(当時の軍隊組織のすべて)を天皇の専管事項にすることによって、実質的に政府(内閣・議会)の管掌を受けない独立した組織としたことでした。 そもそもの意図というのが、どうやら明治初年(1868年)から西南の役(1877年)にかけての十年ほどの間、江戸期の地方分散型の国柄から新しい中央集権体制へ国に転換していくにあたって、さまざまに生じてきた国民各層の不平不満や制度上の矛盾が、全国的な政情不安に発展するのを抑える方途として、編み出されたものであるようです。 不平不満を吸収する受け皿としての国会開設と、帝国憲法の制定はセットで準備されたのですが、新しい立憲政体をめざすにしてもイギリス型の議会の権限の強い民権体制にするか、プロイセン(ドイツ)型の君主の権能を優先するタイプにするか、例の自由民権運動家たちは明らかに英国型を意図したようですが、伊藤博文は遅れてきた近代国家としての日本を作り上げていくうえで、プロイセンの立憲君主制がふさわしいと考えたのです。 彼の頭には過度の民権体質が、それぞれ自前の軍隊組織を持って意見を為そうとするとき、西南戦争のような内戦を起こすことをもっとも怖れたのでしょう。明治国家の基盤というのは、帝国議会の開設される明治二十三年(1890年)ぐらいまでの四半世紀、今から想像するよりもはるかに不安定だったのではないか?少なくとも政府の枢要な人間たちは手探りで、先の見えない施策を行っていたのではないか?と思うのです(今どきの大陸の政府のように)。 政府の権能から軍事部分をあらかじめはずしておくというのは、内戦の記憶の生々しかった当時にあっては、ある程度止むを得ないところではあったでしょう。そのあたりの危険性とか不徹底性というのは、伊藤もさらには山縣自身もおそらく自覚していたので、少なくとも日清日露という、近代国家として初めて外国と戦った戦争においては、その憲法には明記がないにもかかわらず、陸海軍は完全に政府のコントロール下で動いたのです。 この明治の元勲たちというのは、幕末の戦乱を潜り抜けてきた当事者たちで、政治と軍事の両方に通じており、軍事組織が政治に関与したり、また各政治勢力が軍事を私物化した場合の危険性を充分知っていたので、彼らが元老として政府に君臨している間は、この条項の危険性はあまり露見することはありませんでした。 明治の維新を知らない職業軍人たち(軍事学校出のいわゆるエリート)が、陸海軍の枢要を占めるようになってから、むしろ暴走が始まったのです。このあたり政治と軍事の関係がうまく作動しないと、今どきの世界各国でも国家体制そのものの不安定化要因につながることがよくありますね。軍隊がそれぞれ一方の政治勢力とつながる、あるいはまた軍事組織自体が政治権力化すると、たちまち内戦の事態を招くというのは、実効的な武力組織というのが政府のコントロール化にないと、その存在自体が国家の不安定要因になり得る、ということを強く意味しています。 文民統制(civilian control of the military)の原則というのは、民意によって信託された政府と議会が軍事を管理し責任を持つということなのですが、民意の付託があって初めて軍隊は、「国民軍(国と国民を守る軍隊)」という栄光と信任が得られるわけで、戦前も戦後も日本軍(自衛隊を含む)というのは、残念ながら「国民軍」という性格の軍事組織とは言えなかったし、今も充分意識され信任されているとは、ちょっと言えませんね。 早い話、日本の兵士たちは誰のために戦い、不幸にして死んだ場合、誰が弔ってくれるのでしょう。― つづく ―
2010.10.18
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明治維新とは、ご存知のとおり天皇を国の最高位にいただく、中央集権国家体制の創設を意図したものだったのですが、これを権威づける大きな「物語」とは、言うまでもなく幕府将軍の代行政体から、天皇親政への移行を正当化すべき物語であって、それは幕末以前からあった国学や尊皇攘夷思想の流れを組むものでした。 日本の近代兵制は、例の高杉晋作の「奇兵隊」組織をもって嚆矢とされます。これが武士階級以外の庶民も巻き込んだ軍隊であり、西欧兵法にも通じていたことをもって先駆けとされるのですが、組織としては長州藩の「常備軍」であって、例えば自警団が発展したような、いわゆる「民兵組織」ではありません。このあたりはアメリカ独立戦争時の民兵組織や、フランス革命時の義勇兵から発展した徴兵による「国民軍」の創設とは、おおいに性格が異なるのです。 幕末の騒乱時、奇兵隊が長州藩の常備軍であったということはとても大事で、それが市民革命とか共和組織を意識した組織ではなく、あくまで自藩の防衛を目指したものだったということ。それが「朝敵」から「官軍」に転換するとともに、思想的には「尊皇攘夷」の錦の御旗を戴くことによって、新政府の正規軍(鎮台)にそのまま移行して行ったのは自然の成りゆきでした。 「鎮台」とは、明治新政府および天皇と御所の防衛目的で組織された「御親兵(のちの近衛師団)」組織を継いだもので、鎮台の設置とその後の徴兵制実施(1873年、明治六年)をもって日本の近代陸軍の始まりとされます。おもしろいのは徴兵令施行直後から、それを忌避する運動が各地で頻発したことで、全国的な庶民のレベルでは、兵役とはお上からの徴税の一種(血税)と理解されていた、ということです。このあたりの意識のあり方とは、徳川から新政府に権力が移行したと言っても、お上に収奪されるという気分に大きな変化はなかったのではないか?少なくともこのあたり、ずいぶんアメリカともフランスとも違った在りようですね。 要は日本の近代兵制というのは、明治新政府の権力基盤を強化するところから出発したのであって、庶民レベルでの意識の改革を伴ったものではなかったのでした。「散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする」とは、幕藩体制が崩れて維新政府の新しい世が来た、とまるで季節の変りめのように、その感覚を詠ったのであって、自ら新しい世に参加している(世を作っている)という気分とは微妙に異なるのです。福澤が考えたように、日本はまだまだ啓蒙されて行くべき社会なのでした。 さて、そもそも新政府を支える権力基盤として、たぶんに国内の治安維持的な性格を持った組織(最終的に全国六箇所)であった「鎮台」が、徴兵令の施行とともに次第に庶民レベルまで兵役の対象を拡げていったとはいえ、それが基本的に士族中心の組織体であったことは銘記されねばなりません。1877年(明治十年)の国内最後の内戦となった「西南の役」では、官軍側の兵士の半数は士族出身だったそうです。 警察組織が士族で占められていたように、その後山縣有朋などによって、より自己完結性を有し、外征の能力を高めた師団(division)単位に再編成された日本陸軍も、その性格は国民軍というよりは、幕藩時代以来の階級をたぶんに意識し、かつその牢固とした官僚体質を残していたということです(平たく言えば、「官尊民卑」)。これはくだって士族階級が実質的に意味を成さなくなった時代になっても、日本陸軍のマインドとか振るまいに固有な体質として、どうやら敗戦まで受け継がれていったものであるようですね。 ここまで、おおざっぱに日本陸軍の体質のような話をして来ましたが、それは旧日本軍に宿阿のように取り憑いて、その組織的諸悪の根源とされる例の「統帥権」の話を、あらためて自分なりに振り返ってみるためでした。― つづく ―
2010.10.16
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ところで国家とは、どう定義すればよいのでしょう。素人考えであげるとすれば、1. 領土・領域が存在すること(領土)2. そこに住民がいること(人民)3. その住民全体を排他的に統治する主体が存在すること(権力)といったことでしょうか。 Wikipediaによれば、これをG・イェリネックは国家の三要素と呼ぶそうです。 そこで、では「国民国家(Nation-State)」とは何か、ということになると、その領土内の「大多数に信任された統治主体」が存在する国家といえるかもしれません。逆に言いかえれば、住民の大多数に信任されていなくても、強権によって統治された国家というのも現実には存在します(その場合、それは国民国家とは言えません)。 そこで問題になって来るのが、国民(Nation)という言葉の定義で、これまたWikipediaによれば「何らかの共通属性を根拠にしてまとまった広域の政治的共同体」ということになるのですが、この「何らかの共通属性」の中味というのが、はなはだあいまいであるようです。 たとえば文化・言語・宗教・歴史経験といった共通属性を持つ、という意味では「民族」と重なるケースが多いのですが、実際にはこういった共通属性を持たない国民意識というのもあるわけで、簡単に一括するわけにはいきません。つまり「国民」という概念は、もともとあったであろう地域住民の共通属性から、自然に成り立って出来上がったものではなく、より広域の近代政治社会形成のための手段として考え出されたものとするのです。これをB・アンダーソンは「想像の共同体」と名付けます。「ネイションとナショナリズムが近代性の産物であり、政治的および経済的目的のための手段として創られたもの」というわけです。 もともとあったであろう地域住民の共通属性とは、一般に「民族」という言葉で括られるのですが、近代以前の「民族」とはNationというよりEthnic groupという言葉で考えたほうが語感として無理がない。このあたり、日本語では両方の概念がないまぜになって、何となく意識的な政治的主張目的で使われることが多いのです。郷土愛とか血族的親和性あるいは共通言語というのは、本来エスニックのレベルで語られるべきですが、近代国民国家というのはより広範な領域を政治的に統合するための手段としてナショナリズムを登場させたわけでしょう。その統合の方法として、共通の神話だの理念だの言語だのといった、さまざまな道具立てが編み出されたわけですが、いずれにしてもそれぞれに住まう住民を一瞬にして巻き込むような、要は大きな「物語」を必要としたわけです。 さて、そうして見てきたとき、明治国家というのが全国民レベルでの神話だの理念だの言語だのを共有していたのかと言えば、もちろんそんなことはなくて、当時の国民の八割を超える農民の帰属意識というのは、エスニック・レベルでの郷土(耕作地・里山など)とか親族及び、その統合の拠り所としては、藩のお殿様のほうを向いていたので、実際のところ生まれた村から一生涯一歩も外に出ることのなかった農民も数多くいたでしょう。 これは明治初期の日本というのが、いかなる意味でも「国民国家」という概念で考えられる、「大多数に信任された」統治主体が存在する国ではなかったということを示しています。新政府は新たな大きな「物語」を必要としていました。で、それは同時に新たな軍隊を創設するにあたって、軍隊という組織の位置づけにも関連したのではないかと思うのです。― つづく ―
2010.10.13
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さて近代以降の戦争というものを考えるとき、内田樹さんの言われるように「国民国家」という概念を規定しないと、戦争の主体とか構造というのは語れない(「ためらいの倫理学」 ― 戦争論の構造 角川文庫)。かつての戦(いくさ)の位置づけというのが、例えば日本の戦国時代だの、絶対王政の西欧だのでも、権力者の政治目的達成のための一つの手段であったのが、近代以降の国民国家の発生にともなって、変質ないし変容を遂げたのではないか、というのがその論議であったと思うのです。 国民国家の発生というのが、自ずから「国民軍」の創設というものを促したとき、戦争の形態は軍隊同士の戦いから、国民同士の総力戦を想定するものになったのでした。このとき戦争の概念には、相手方の国家体制を完全に打ち砕く(無条件降伏)まで戦いは終結しない、という基本的な考えかたが現れてきたのです。 国民軍というのは、国家人民によって付託された軍隊である以上、兵士は徴兵によって国中からいわば無尽蔵に集めることができ、兵器もまた国家財政が負担できる限りにおいて、いくらでも集めてきて戦場に蕩尽することが出来る。それは同時に相手国の経済体制や生産設備を叩くという、いわゆる戦略爆撃のような戦いかたも戦争の手段として登場させ、それまでの戦線(battle line)とか戦場(battle field)という範疇をはるかに跳び超えて、相手方の市民や生産設備を直接破壊する意味合いを内包するものでした。近代以降の二度にわたる世界戦争というのは、この「総力戦」の概念の意味するところが、現実となって現れたものに他なりません。 そういう意味でもフランス革命以後のナポレオンによる国民軍の創生というのは、近代国家を考える意味でとても重要なのですが、諸国民の解放(国民国家意識の宣撫)を謳ったフランス国民軍の士気の高さは、敵方として戦ったクラウゼヴィッツには新鮮なものとして映ったでしょう。 しかしよく考えてみると、明治以降の日本の軍隊というものを考えた場合、上のような意味での「国民軍」という概念は、今に到るもまったく日本人には意識されたことがないのではないか(自衛隊が国防軍とは、今どきの日本人には、ここから先も規定されてないように)、ということなのです。で、それはどうやら近代日本における「国民国家」という概念が、どうも先ほどのフランスとかアメリカ合衆国とかプロシャなどとは、根本的に相反しているのではないか、という疑問に戻ってくる。 明治国家というのが、旧体制を転覆させた一種の革命政権であったことは紛れもないとしても、当時の日本国民すべてを巻き込んでなし得た新体制であるとは、少なくとも西欧諸国群との比較においては、とても言えないでしょう。それはむしろ当時の施政者階級の権力争いという色合いが強かったので、大多数の国民はいわば蚊帳の外から、この施政者同士の内紛劇を手をつかねて、あるいは多少面白がって見物していただけというのが、正確なところだったのではないか? いわゆる「お上意識」というのは、体制が変ればあっという間に払拭されるということはあり得ないので、徳川三百年の間に培われた被支配者としてのマインドというのは、藩のお殿様が新政府から派遣された県知事に代わっただけで、お上に仕えるという意識においては(敬して出来るだけ波風立たないように遠ざけておく、という意味では)、たいして変わっていなかったのではないか、と思うのです(たぶん、今でも)。 お上の無為無策に対しての異議申し立てということにかんしては、江戸時代も明治期も農民=国民の大多数は一揆とか米騒動という形でしか、上訴という発想の仕方はなかったわけで、それはあくまでお上に(命を懸けて)願い出るということではあっても、もちろん彼らは自分たち自身が国を統治する、というような考えかたはここから先もなかったのです。 明治政府というのが国民国家であるというよりは、本質的には支配者階級=武士レベルでの多少ラディカルな政権交代劇であったということは、もう一度銘記しておく必要があるでしょう。― つづく ―
2010.10.12
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さて、ここで少し訂正をしておかなくてはいけないのですが、先に触れた兵舎での「私的制裁(リンチ)」というのが、小学校出の班長の初年兵に対する(とくにインテリに対する)イジメにあるのではないか?という私の記述は間違っているようです。山本さんの本によれば、こうした「私的制裁」を加えたのはむしろ学士ないし当時の中学校など、そこそこの教育を受けた者に多かったということで、そもそもこうした狡猾なイジメの方法というのは、文字もなかなか読めない、あるいは一般に口ベタな農村出身兵ではムリで、彼らは文字どおり軍隊の最底辺で黙したままの存在だったのではないか、と指摘されています。 ここにはいろいろ重大な意味が潜んでいるので、こうした話が記述できるのもインテリ層に限られたとするならば、そこにはむしろイジメられた側の(インテリたちの)屈折した心理が働いているのかも知れず、それは敗戦後の日本人のマインドにもごく無反省に受け継がれているのではないか?ということなのです。敗戦後、糾弾する側もされる側も、言わば戦前の軍隊組織の中では特殊的に弁が立ち、策略をめぐらせ得る階層同士の話で自転しているわけで、多くの兵士たちは農村出に限らず黙したまま何も語らなかった、口を奪われたまま死んでいったのではないか?というおぞましい実体が顔を出している。 ここからあらためて見えてくるのは、戦前の軍隊組織というのが、時代的に日本の中でごく特殊的な(出来れば消してしまいたい、忘れてしまいたい)存在だったのではなく、まさしく戦前の日本社会そのものをまるごと反映した組織だったのではないか?という視点なのです。 というふうに見てくると、敗戦後今にいたるマスコミの傲慢さや、かつての左翼の内ゲバ、あるいは「オウム真理教」とか、今もときどき顔を出す運動部のリンチ事件など、すぐれて特殊的で敗戦後の民主日本社会では本来ありえないこととされていることには、じつはずうっと日本人に通底しているマインドが潜んでいるのではないか、ということなのです。 山本さんの本には興味深い記述が多い。すべてを紹介するわけにはいかないし、もちろんそれが目的ではないのですが、例えばフィリピンにおける米英人捕虜の振るまいかたと、日本人捕虜の振るまいかたには明らかに差異がある。どちらが良いとか悪いとかいうことではなくて、米英人たちは虜囚生活が長くなるとなれば、たちまち自治組織を構成して、収容所という制限された世界でも秩序を指向するのに対し、日本人捕虜の世界というのは自ら秩序を構成するというマインドがそもそもなくて、暴力組織が実質的に収容所を治める。これはフィリピンだけでなく、シベリアや他の収容所でもあったらしく、それを鎮圧できるのは結局外部組織、つまりフィリピンの場合は米軍、日本国内ならマッカーサーということだったようです。 何度も言いますが、これはどちらが良いとか悪いとか、あるいはデモクラシーの歴史的民度が練れてないとかいう価値論の話ではなくて、民俗誌レベルの話です。早い話、欧米人捕虜収容所の中の人間たちが、すべからく人間的に優れていたなどとは誰も見ていないし、彼らもまた彼ら欧米社会全体を通底するマインドを、まるごと持ち込んだ振るまいを収容所でなしていたに過ぎない。 秩序を収めるに、片やは力による暴力を背景とし、片やはコトバのやりとり、つまり口舌の組織化を指向するというのは、それだけで民俗、歴史、心理学などの対象になりそうなテーマですが(直感で言えば、欧米社会とは無秩序=暴力=民族廃滅という感覚が、歴史的経験としてイヤほどあったということでしょう。逆にいうと日本には厳密な意味でのジェノサイド(集団殺戮)の経験は歴史的にないので、かえって秩序維持に暴力及びそれを背景にした威迫行為がわりあい無反省に顔を出す)、ここでは話が大きすぎて出来ません。― つづく ―
2010.10.11
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いわば虚構性にしがみついて、軍幹部が自己完結しようとしたとき、それに対する現場からの事実的な指摘は、すべて大言壮語によって封殺される。常套句は「気魄(きはく、はげしい気力。強い精神力)が足りん!それでも日本軍人か!」という辻政信参謀に代表されるような罵倒であり、虚構性が露わになればなるほど、こうした蛮声の大きい方が組織を牛耳る、という構図になります。 辻政信個人あるいは辻政信的なる人物像について、わが日本ではいまだにキチンとした評価というか、精算が済んでいないのではないか?戦争犯罪人の疑いを逃れつつ、敗戦後はベストセラー作家で復活し国政選挙にも当選して、六十年ごろラオスで失踪するまで、さまざま日本という国に介在したこの人物、毀誉褒貶の激しい一種の怪物なのです。この人物の評伝はめぼしいところで杉森久英さんの「参謀・辻政信」という本があるのですが、まだ読んでいません。 良くも悪くも、いわばいちばん日本人的なるものの底に潜む心の裸面を、露わにさせて引きずり出す。軍人としての彼の評価を敗戦後の日本がまともに誰もせず、むしろ彼のアジテーションに乗っかった数多くの有権者がいた(当選衆議院四期、参議院一期)という事実は、辻政信的なる人物に対する日本人の親和性を紛れもなく示しているわけです。 こうした人物の評価をしようとすれば、評価する側の心の裸面も露わにせざるを得ず、それがもっぱら旧陸軍参謀というネガのイメージである場合、なまなかのライターでは無傷では済まないでしょう。自身の内部に潜む日本人的なる心の正体を見据えないことには、こういう怪物というのは手に余るのです。同じ陸軍参謀部の旧軍人たちや歴史の専門家たちからはボロクソの評価を受けながら、敗戦後日本の国民や同じ戦地で戦った兵士たちには受けが好い。というのも彼の立ち位置は常に兵士(=大衆)からの目線で、上にものを言う、盾を突くというスタイルだったので、生まれついての扇動家だったと言うべきでしょう。 今でもこの強面と甘えた表情を使い分けて、人目を惹きつけ人心を収攬しようとする政治家その他(たとえばヤクザ)は枚挙に暇ありません。我々日本人の心に潜む、いちばん弱い部分を捉むポイントを、こういう人たちは本能的に知っているのです。で、それを評価する側は、自分がそのように他人の弱味にズケズケ入り込み、同時に我が身の弱味も曝して見せて、相手の心を性根から掴み取って離さない、というような芸当など出来っこないということを思い知るわけで、どうしても腰が引けた感じになる。 日頃、テレビコメンテイターでずいぶん威勢の好い政治批判を行っていながら、いざ批判している当の本人を相手にしたとたん、借りてきたネコのように牙を抜かれたような顔をしている評論家というのは結構多い。面罵するくらいのそれこそ「気魄!?」がなければ、日頃さかんに視聴者に向けては行っている難詰など出来っこないのに、日本人というのは一般的にそれをようしないのです。政治家とか世のリーダー(親分?)というのは、そうした人心収攬の術では評論家の敵ではないので、勝負は実は話が始まる前からついている。 ところで、この辻という参謀は上官に対して面罵を平然とやってのける人だったようで、だからこそ近衆の兵士たちには人気があったのでしょう。 それが奈辺のものから来るのか?というのは簡単ではありませんが、一種の「幼児性という擬態(これを「可愛気」とも言います)」に対して日本人というのは弱いのではないか?「泣く子と地頭には勝てぬ」と言うように、光源氏や豊臣秀吉や、いわば「人誑(たら)し」の術に長けた人物というのは、外縁の人々に対しては「強面」のイメージを与えて威服させる反面、近衆の部下や女たちには「児戯めいた」痴態を演じてみせて、相手の気持を掴んで離さない。今どきの優秀といわれるリーダーにも、時々そういう人がいるようですね。― つづく ―
2010.10.09
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そのあたりの初年兵教育というか、表に出ない私的制裁が平然となされたのは、結局のところ、軍隊という組織が外界と懸絶して、それ自体で自転するために必要だったわけで、娑婆のニオイを徹底的に削ぐとは、何度も言うように個々の人間の「顔」を奪うことに他なりません。「兵士」とは個々の「顔」を持たないことによって、組織として最適に機能すると考えられたのです。「顔」がなければ(個別的な忖度をいっさい交えずに)、どんな命令もいくらでも発することが出来る。 これは何も日本の軍隊だけの特色なのではなく、世界中のすべての軍隊組織は多かれ少なかれ自己完結的であることに意を注ぎます。軍服ヘルメットとは、まさしく兵士一人一人から「顔」を奪う目的で、編み出された装束でしょう。 旧陸軍参謀部というのは、超エリート集団と言われてプライドも高く、外部からの干渉を極度に嫌い、この軍隊というもともと自己完結的な性質を持つ組織を、さらに内輪の整合性だけで自転させること、つまり組織維持だけを専一の目的として動いていたように見えます。平たく言えば、本来外界の敵に向いていなければならないはずの戦う集団が、いつのまにやら内側の上層だけを見る組織になっていたということで、それはいつ頃からどのようにして生まれてきたのか? そのあたり、海軍が合理的なマインドをある程度保持し、海軍軍令部というのが、何となく陸軍参謀部と比べて風通しが好いような印象を受けるのは、海軍という戦闘単位が艦隊行動のような組織運用の特質を持っていたからでしょう。しかし結局それさえも最終的には、「特攻」出撃という不合理の極致へ自己完結してしまったわけで、山本さんはそれを「空気」という概念で捉えようとします。 あらゆる事実を付き合わせ、それらを冷徹に分析して、その中で出来るだけ合理的な対策を立てる、という考えかたは何も戦後に生まれたわけではなく、旧陸海軍でも少なくとも軍事教練では、口やかましいほどになされていたわけで、そんなことは誰でも知っていた。これは敗戦後の後知恵でも何でもなく、戦前戦中の軍隊幹部はもちろん末端の兵士たちもみんな知っていた。早い話、山本さんの所属していた砲兵など、測距儀による観測通信網と大量の砲弾がなければ、攻撃(防御)前面への効果的な集中砲火や弾幕は張れないわけで、ごく自然にその組織は合理的たらざるを得ない。 不合理が闖入してくるのは、実は末端組織のマインドからではなく、まさしく本来合理的であるべき作戦部(参謀部)が、戦局が受身に廻った瞬間から、外部を冷徹に見つめ分析することを止めて、部内だけの整合性で回転し始めた時からでしょう。その結果出来した現場の混乱と不合理は山本さんの記録に生々しい。これ(「一下級将校の見た帝国陸軍」)を読んでいると、まさしく日本軍は自ら負けるべくして負けた。内部的整合性を完結させるために、自ら瓦解する(始末する、カタをつける)ことを望んだのではないか?とさえ思えて来るのです。 このあたりになると、山本さんもガマンが出来なくなったみたいで、砲兵隊の陣地変換とか移動というのが、重機なしで行った場合どういう事態を出来するか、誰でも知っているではないか、と怒りを露わにされます。山本さんの怒りは現実と照らしての合理性よりは、部内的整合性でもって自己満足できるほうを重視するという、いわゆる官僚主義的マインドへの怒りから、次第に思考停止に陥ったとしか思えない上部組織への絶望とも取れる話に移って行きます。 なぜ絶望し怨嗟せざるを得ないかといえば、現実には絶対出来っこない命令(それを作戦部は充分知っていた)を発して、それが実行できなかった場合、その責任はすべて現地軍のせい、要は現地の「精神力」が足りない結果だ、と罵倒して憚らない作戦部の官僚的マインドに向けられているのですが、山本さんは戦後もなぜこうした「空気」が生じ、それを誰も止められなかったのか、終生考え続けることとなりました。 この一連の本の魅力はその原因を他所に求めるのではなく、山本さん自身の内部にも生じて来るマインドに求めたことで、そこがおそらく数多ある反戦文学やリポートと違うところでしょう。自身も一下級将校(少尉)として、うわべを糊塗する官僚的マインドでことを済ましていなかったか、氏はそれをあっさり認めるどころか、自身はそれに関してはたぶん部隊でいちばん優秀だったろうと記されています。 批判すべき対象を外部に立てて、絶対的正義の立場から他人の批判を行うのは、分かりやすいうえに万人受けしやすい(今どきの政治家なども、よくやる手です)のですが、自身の内部にそれと通底するマインドが、逃れがたく存在することを認め、それは何なのか、ということを考えるとき、その表現はどうしても晦渋にならざるを得ない。 この人の「山本学」とも言われる日本論は、すべてこのフィリピンの戦場とも言えない戦場の体験から発しているのです。こうした今次大戦の体験は司馬さんにも大岡さんにも、それぞれの仕方で日本及び日本人を考えざるを得ない契機となったものでした。― つづく ―
2010.10.08
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ともあれ、「軍国少年」になるのは他愛ない子供の話であって、チャンバラごっこや戦争ごっこに打ち興じるのと同じレベルの話でしょう。 問題は実際に兵役に取られる年代というのが、少年から青年、大人への移行期であるということで、山本青年に見られるように、彼らは戦争と戦場の中で否応なく大人にさせられた。気付いてみれば、大人のエゴイズムと苛烈な組織のど真ん中に放り出されて、手探り状態のまま外界とこすれ合っていかなければならなかったと言うことです。これは何も兵役に限らず、大人になる時には多かれ少なかれ生じる事態ですが、彼らはそれを死と隣り合わせの組織に絡み取られている、ということを前提にして、自身を納得させなければならないということなのでした。若者に通有の外部世界への戸惑いと、かなり蓋然性の高い来るべき「死」という観念とを、どう折り合いをつけて行くのか。 このあたりは、同じ応召兵であっても、すでに社会人として大人になってから、戦争に絡め取られた大岡昇平さんともだいぶスタンスが違う。山本さんは学徒動員の司馬さんとむしろ同世代なのです。さて大岡さんは若い兵士たちを「大人のエゴイズムを知らない点みんな人が好く、そのぶん彼らは自身の命を粗末にした」という意味のことを書いておられますが、体力を調整することを知らない若い兵士たちは、まっさきにマラリアに罹って倒れたと記しています。同じように過酷な死に直面せざるを得なかったフィリピンの戦場にありながら、この二人に招来した気分と周囲を見つめる眼には、明らかな世代の違いが感じられる。 戦争未体験者の私たちは、得てしてかつての日本兵というものを、のっぺりした一般的なイメージで概括してしまいますが、やっぱりそうではなく、戦争というのは社会全体つまり、それぞれの「顔」を持って生きてきた人間たちを、洗いざらい根こぎにするようにして絡め取っていくもの、という捉えかたをしないといけないのでしょう。で、その根こぎに絡め取っていく機関とは、紛れもなく戦争行為を唯一認められている国家という組織でありました。 さて、そこで国家が軍隊組織の求めていた兵士というのは、もちろん自意識に目覚めた青年ではなくて、唯々諾々とは言わないにしても、余計なことは考えずに黙って命令に従う人間たちであって、その点で高学歴の青年というのは使い物にならない、という牢固とした抜きがたい観念があったようです。彼らは使い捨てに出来る部品としての兵士が必要なのであって、いちいち理屈をつけてくるインテリというのをいちばん嫌う。そこで彼らが用いたのが「娑婆の気を、とことん抜く」ための「私的制裁」というものでした。個人としての人格を完全に破壊する場合、ヘンに頭が良く出来る若者は厄介で、無理無体でも上司の言うことには何でも従う、あるいは媚びへつらう人間のほうが都合が好い。であるなら、むしろ高等教育を受けていない若者の方が、はるかに扱いやすかったでしょう。 これはあるいは内田樹さんのいう、人間としての「顔」が現れるのを徹底して削いでいく、内務班の仕事とは兵士一人一人から「顔」を奪って、代替可能な部品に仕立て上げるのを第一義としたのです。 完全な閉鎖組織内では、直近の上司(班長と言うんですか)が全能で、表向きの軍律とか常識というのは、すべて排除されて、その内部で実際に起こっていることについては、上官といえどもいっさい手出し出来ず、表向きは何もなかったことにする。建て前では皇軍の兵士に対して、私的制裁を加えることは(私的であることで)厳禁されており、実際何度も「私的制裁を受けた者は、すぐ申し出よ」という訓示もなされたようですが、閉鎖組織に完全に取り込まれた兵士たちは、もちろんそんなことをチクるわけがない。あとで兵舎内でどんな目に合わされるか、みんなよく知っていたからです。 このあたり当時の軍隊組織における「班長」という位置づけ、地方出のおそらく小学校を出た程度の教育しか受けていない上官の、インテリに対する屈折した感情も感じられ、それは旧日本軍全体を覆う観念でもあったようです。― つづく ―
2010.10.07
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山本七平さんの一連の戦争記録を読んでいると、敗戦後の一流のいわゆる文章家(小説家、批評家、エッセイスト)のなかでも、このように惨烈な実体験をした人は少ないのではないかと思わせます(悲惨さの度合いに関してははるかにひどい例が、もっともっと数多くあるにしても、それを繰り返し読むに耐える文章に記したものとしては)。それはここの戦争体験の記述については、例の軽妙な山本節とか、独特の込み入った思考の辛吟というのがほとんど影をひそめて、ごく平明な文章で綴られていることからも伺えるのです。 山本さんはこれを書き記すのに、相当の覚悟をもって臨んだのではないか?途中でもある中味にかんして書くべきかどうか、ずいぶん逡巡している部分がある。それは死んでいった兵士たち本人やその遺族を傷つける要素も含んでおり、さらに言えばそれにかかわった自身のいわば心の傷とか恥を、あらためて記憶から呼び起こすということを意味していて、普通はあまりに辛い個人的な記憶というのは、誰でも出来るだけ思い出さないようにフタをしておくものでしょう。 この人が最初イザヤ・ベンダサンという仮装を身にまとって出てきたというのは、明らかに山本七平という戦争体験者の身柄を、いきなり世に曝すということに、かなりのためらいがあったことを示しているのではないか? しかし戦争未体験者の我々とすれば、そこまで記述されることによって、やっと実際の戦争とはどんなものか、国家機関が戦争というかたちで、我が身に降りかかって来るとはどういうことなのか、ほんの少しの一歩だけですが、そのニオイぐらいは嗅ぐことが出来るかもしれません。 その記述はたんに参加した戦闘の記録とか、感情を排した実体験集ということではなく、はたまたよくある悲憤慷慨的な反戦文でもなくて、卒業を控え就職活動を始めた市井の一青年が、兵役に取られて予備士官にされ、あれよあれよとフィリピンに送られて、さまざまな不条理や残酷と遭遇する話で、これは今どきの若者でも、おそらく世が世なら同じような感覚で、兵隊に取られていったであろう、と思わせる記述になっているのです。 兵役というのが、逃れようのない「宿命」として若者に課せられている場合、今どきでも大抵の人間は出来るだけそれを考えないようにして、普段を過ごそうとするのではないか? 「一下級将校の見た帝国陸軍」の冒頭は、外部の騒がしさを出来るだけ見まいと、ことさらに普段の生活を維持しようとする青年(山本さん本人)の姿が描かれていて、「ウン、やはりそうだろう」、嬉々として興奮しながら戦争に臨んだ若者など(プロの士官学校出は別として)、ごく少数だったのではないか。それとまた彼を取り巻く市井の人々も、今どきと同じく「出来れば避けたい、逃れたい」という本音は、案外あったと思うのです。 後になって戦前の世相というのが、どうしても上から下まで戦時一色と十把一絡げに見えてしまう。このあたりは結果を知っている今、という目線で見る場合に必ず生じる曇りでしょう。これは例えば日露戦争時に、日本中が戦争一色のロシア憎しで固まっていたのかといえば、夏目漱石が当の戦争中に「吾輩は猫である」を書いていて、しかもそれが結構人気を博していたという事実、さらには与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」と読んだりしていたことを見ていると、後から印象されるような仕方では、当時の日本人は興奮していなかったのではないか?もちろんシラケていたなどということではなくて、そのころの気分の高揚のしかたというのは、後々の結果を知っている日本では、たぶん正確には再現されていないだろうという気がするのです。 むしろ相当部分が昭和初期以降、慎重に醸成された世論操作によって作為された「物語=神話」であって、敗戦後もおそらくそのあたりの充分な反省はなされずに、戦前に醸成された気分をそのままに日露戦争を見てしまっているのではないか?少なくとも私が小中学生のころ、さかんに聴かされた学校の先生方の話ぶりというのは、紛れもなく戦前の戦意高揚話とたいして変らないものだったでしょう。第二次大戦のわが国の負け方については、ボロクソにかつての軍部を批判しながらも、日本海海戦を語るときの大人の興奮ぶりなどは、子供の目から見てもいたって他愛もないもので、それは真珠湾を語るときの表情と同じじゃないの、というふうに、むしろ私たち子供のほうが気鮮やかに感じていたのでした。ふだん反戦平和主義を唱えている先生方が、です。 そこに流れているのはmilitaryへの甘味な誘惑のごときもので、それは頭で制御できるような代物ではなく、性的情動が誘う心地よさに似た、一種抗いがたい魅力なのです。「こんな結構な気分に、なっとって好いんかいな」と思いつつ、私のような子供は聴いていたものでした。性的情動が子供心に何となく禁忌をともなうように、militaryにまつわる話題も何となくおおっぴらに表にし難い雰囲気がありました(私は小学中学時とも「戦争キチガイ!」と怒鳴られるほど、偽悪的に振るまっていましたが)。なぜならそれが少なくとも男=オスには、かつてない情動的な高揚感を発していたからでした。それは一種スポーツとも似た勝負事の爽快感でもあったでしょう。 これはたぶん、それらをおおっぴらにしてよかった戦前のほうが、より増幅されて男=オスどもに発現したのは間違いのないところでしょう。いわゆる軍国少年とは、ごくごくプリミティブな情動を揺り動かすことで、簡単に生まれて来るらしいのです。― つづく ―
2010.10.05
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