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それともう一つ「若菜」の帖以降、特徴的にみられるのがその全体構成の緊密さとともに、一つ一つの文章もまた濃密さを増しているように思えることで、ひらたく言えば「遊び」がない。これはまさしく私のようなしゃべりかたをしている者にとっては、はなはだ気の重い事態が予測されるわけです。 これまで先に述べたユーモアの感覚も含めて、物語全体に流れているトーンには一種の余裕があって、であるからこそ、私など自分の気に入った部分だけを、取り出してはいろいろおしゃべりを重ねる、ということが出来たのでした。全般的な概説では、たぶん絶対出来っこないだろう超低空まで舞い降りて、読み続けてきたとはいっても、それでも全文を網羅するなどということは、もとより不可能で、見ようによっては「好いとこ取り」の気配もたぶんにあったわけです。 まあそれでも、「源氏物語」前半に流れている気分というものを、ある程度は自分なりの仕方で再現出来たかなと、ごく身勝手な自己満足にも浸っていたのですが、これは平成の今どきに棲む私たちの気分に、いちばんマッチするところだけを取り出して、おしゃべりをして来たということで、考えてみればこんなに楽で面白い作業はなかった、と言うべきでしょう。 明らかなことは、はじめにあげたような理由で、「若菜」の帖以降では、同じような調子のおしゃべりはまず不可能だろうということなのです。これだけ構成も文体も緊密かつ濃密になると、本文の気に入った一部を取り出すということが難しいというか、それをすることで逆に、この物語後半全体を覆っている気分を壊すおそれが多分にある。 ならいっそ全文訳を試みたら、という話にもなりかねません。しかし前にもちょっと触れたことなのですが、はたして今どきの平成の世にいる自分が、全文の口語訳を何度も読んだとして(結果としてそうなることがあっても)、この物語全体の気分を、多少でも嗅ぐことが出来るのかと言われると、「ちょっと待てよ」というところがあるのです。最近また林望さんの新たな訳業も行われていて、その優れて柔らかい口語に、あらためて脱帽もし、いっそこれが完了するまで(二年ほどかかるそうですね)、このシリーズは休もうかとさえ思ってしまいますが、それでなおかつ、というよりそのように洗練された口語だからこそ、なおのこと実際はどうなのだ、どう表現しているのだろう、ということのほうが気になって仕方がない。 どんなに優れた訳業であっても、それらは「源氏物語」の世界に入りやすいように、今ふうに間口を広げているだけであって、この物語がもともと蔵している本質的な分かり難さ、というものがそれによって解決されるわけではない。厄介なのはそうした本質的な分かり難さというものが、口語訳によって生じたものなのか、原文そのものに宿っている難解さなのか、1000年という時間の推移によって、自ずと生まれた問題なのか、皮肉な話ですが口語訳ではかえって判然としない、といったところがあるのです。 「いやそんなことはない。むしろ現代訳ならそれだけで徹底して論ずるべきだ。今どき古典をスラスラ素読して理解できる奴などいるわけがない」と豪語して、与謝野晶子訳で「源氏物語論」をものされているのが、例の吉本隆明さんですが、相当な勇気だと思いますよ。しかし考えてみると、この理屈は古典の本質というのを突いていて、早い話そうでなければ「カラマーゾフ」も「異邦人」も、現代日本人は何一つ論じる資格はないことになってしまいます。吉本さんの言うところは、要は古典がその道の専門家の内だけで、祀り上げられる不条理をおしゃっているのでしょう。 何度も言いますが、これは何も、さまざま試みられる口語訳の営為をくさしているわけではありません。この古典を享受していくうえで、どうしてもこの物語を自身の言葉で語りたい、というような衝動は、多少でも「源氏物語」の面白味を嗅いだ人々の中からは、必ず出てくるものであろうし、結局それは古典と自身とのあいだの距離の取りかたの違いでもあるでしょう。 私はこれまた繰り返しになりますが、自分とこの物語のあいだの距離を最大限の1000年に拡げて、それでなおかつ、響いてくるかもしれない平安の世のうめき声のようなものに耳をそばだててみたい、なしうるならば平成的表現でそれらをしゃべってみたい、と思っているのです。 となると、話はまた元に戻って来るので、今後のおしゃべりの仕方は、このままの低空飛行のやり方では難しかろう、はたまた上空へ駆け登って俯瞰的なポジションをとった場合に、こぼれ落ちるであろう原文の醸し出しているトーンというのを考えると、それもまた難しい。というわけで、話は堂々巡りの様相を呈しているのですが、まあ、あまりいろいろ考え過ぎて、銅鑼ばかり打ち鳴らしていても仕方がないので、しばらく間を置いてから再開することにしましょう。 結局のところ、お前は本当にこれを楽しめているのか、という感覚だけを尺度にして、それが充分に確信が持てるようになれば!?ということなのですが。源氏1000年 若菜の前に ― おわり ―
2010.07.30
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と、たいそうな話になってしまいましたが、要は芸術家というのが、我が魂を悪魔に売り渡したように力みかえって、無から有を生み出すときの振るまいかたには、往々にして余人を蹴飛ばしかねない危うさがあって、その側に寄り添うようにして付き合うのは、なかなかしんどいところがある(ベートーヴェンを考えれば分かるでしょう)。さらにはそうして生み出された作品には、それを味わう側からいえば多分に押し付けがましいところがあって、快適に享受するという感覚とは相当違う。 そのかなり押し付けがましい意匠を許す余裕がこちらにないと、余人は簡単には現の世に戻って来れなくなる。一種麻薬のような毒があるわけで、ひらたく言えば、これらを味わったあとというのは、かなり危険というか、「ゴチソウサンでした、もう結構です!」というところがあるのです。 このたび「若菜」以降の数帖を何回か読み直しながら、何がこれまでと違うのか、腹の底から本当の意味で感服しているのか、何度も自分の内に湧き上がって来る感覚と相談しながら、四苦八苦しています。これは例えば「空蝉」「夕顔」の帖や「葵」「賢木」、あるいは「乙女」や「真木柱」の帖で感じた面白味のレベルに、先の数帖が生み出している面白みが、私の内部の感覚ではどう考えても達していないらしい、というところから来ているのです。 「それはお前の芸術的感覚が不足しているからだ」と言われれば、「まったくその通りで」と開き直るしかないのですが、それでもやはり古今東西の識者がそれほど誉めそやすには、よほどの根拠があるのだろう、ということで、しつこく読み返しては自問自答を繰り返しています。 上にあげた「空蝉」以下の面白味と、「若菜」以下の数帖の面白味を分かつものは何なのか?本文に入っていく前に多少の違いをあげるとすれば、一つには、それは巧まずして出ているユーモア感覚の有り無しなのではないか?私はユーモアの感覚というのは、正気と狂気の間のバランスを保つ上で、とても魅力的な方法だと思っているのです。 本来ならば「空蝉」にせよ、「夕顔」にせよ、女たちにとって相当禍々しい事件が語られているのに、それを描いていく紫式部の筆致には、惟光だの小君だの軒端の荻といった笑いを誘う人物たちが配されて、すこぶる余裕がある。この余裕というのは読み手側にも自然と伝わるので、今ふうに言えば「暴行致死」にも当たるようなエゲツない中味でありながら、私たちはそれをさほどの危険も感じずに読むことが出来る。 これは先ほども言ったように、途中で挿入される笑いの感覚が抜群で、読み手は泣いたり笑ったり好きなように翻弄されて目眩を感じながらも、読み終わったあとには、ある種爽快な感じが残る、いわゆる後味の悪さというのがない。 「芸術とはそんなものじゃない、もっとマジメなものだ」とは、西欧近代ロマン主義と日本人のクソマジメぶりの不思議な結合から生まれた、明治以降たぶん今に到るも、一部で延々と続いている「芸術至上主義」的な考えかたで、「若菜」礼賛というのはひょっとすると、こうしたある種権威的な芸術観から出て来たものではないか?とすれば、またしてもここで私たちは、「若菜」以下を素の状態でどうやって読みこなしていくか?という問題に突き当たります。 気取った言いかたをするなら、平成の現世(うつしよ)に「若菜」以下の面白味は可能か、ということなのですが。― つづく ―
2010.07.29
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ところが「若菜」に到ると、そうした中味の不備や出来ぐあいの疑問点を、いろいろ外から言い立てる余地はほぼ完全になくなって、ひらたく言えば、おとなしく拝読するしかない。要はそれだけ、いわゆる「文学的な完成度」が高くて、一介の素人などはもちろん批評を専門とするような人でさえ、いささか言葉数を控える感じがあるような気がする、もちろんここを誉め称える言葉は山ほど見かけるのですが。 しかしこれは私の悪い癖なのかもしれませんが、無批判的な賛辞とか無条件的な感想だけは、出来れば避けたいというのが、我ながらおこがましい話ですが、このブログの信条というか、目下の「源氏1000年シリーズ」にかぎらず、これをしゃべり続けている理由のすべてと言ってもいいので、屋上屋を重ねるような退屈な話はしたくないのです。だいいちそれでは、しゃべっていても少しも面白くないじゃないですか、なんちゃって!? かといって、独自性にこだわるあまりの陥穽(かんせい、落とし穴)というか、何から何まで自身の言葉でしゃべるというのもなかなかしんどい話ではあり、しかも得てして独りよがりの言説をまき散らして、結果としてしゃべった本人さえ二度と読み返す気がしない、というような中味になっておしゃべりが行き詰る、ということもまたよくあるのです。 その点「源氏物語」のような巨大な古典は、これも何度も触れましたが、相手が富士山のようにデカくて、多少の引っかき傷ではビクともしない。むしろ引っかけば引っかくほど、もとの巨大な山容がますますくっきりと見えてくるというところがあって、まことに手前味噌な話ですが、安心して思いっきり好きなだけ話が出来る、というところがあるのです。おしゃべりが妙な独善に陥りかけても、本文に戻ればそういう穴ボコに落ちた我が身を、いつでも現の世に戻して、シャンと正気にしてくれるような安心感があるのでした。 しかし「若菜」の帖以降は、むしろ紫式部自身がいわば内心の狂気の一歩手前まで、我が身を追い込んで書いていったような節があり、その激流にいっしょに我から呑まれて行くのは、外から見ているかぎり、いささかの危険を感じざるを得ないところがあるのです。それは例えばワーグナーの楽劇に見られる、押しては返す無限旋律の奔流に巻き込まれる危うさに似ているので、その甘味な示導動機 (Leitmotiv)の生起に身を任せれば、現では絶対あり得ないはずの、永遠に持続するエロティックな至福の時間が、そこには流れているのです(というわけで、いまだに全世界にワグネリアンが輩出することとなります)。 それはいったん入り込んだその天国的に居心地の良い別世界から、並の気力では現実の世界に戻ってくるのを困難にするほどの力を、時として人に及ぼすことがあるのかもしれません。ワーグナーは明らかにそれを意図的に狙って作品を書いたのですが、紫式部もまたこの「若菜」以下の数帖では、そうした悪魔的惑溺に読者を誘いこむことをためらわなかったのかもしれず、それは端から見るかぎりとても危うい世界なのです。 このように、この世で有限な存在である人間が、永遠である美を見止めるときの、危うい気分というのは、例えばR・M・リルケなら、― 天使よ、そしてたとい、わたしがおんみを求愛めたとて!おんみは来はしない。なぜならわたしの声は、呼びかけながら、押しもどす拒絶につねに充ちているのだから。このように強い気流に逢ってはおんみはそれを冒して歩みよることはできない。さながら高くさしのべられた腕だ、わたしの呼びかけは。そして掴もうとして花さいた指は、捉ええぬもの天使よ、おんみを前にして大きく押しひろげられたままなのださながら拒否と警告のしるしとして。 ― (「ドゥイノの悲歌」から 手塚富雄訳 河出書房)と、詠ったところのものだったでしょう。 生身の人間というのは、こうしたあまりの美の奔流に対しては、本来的に生理的な拒絶を示すところがあるのではないか?― つづく ―
2010.07.27
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このところ四苦八苦しながら、ようやく「藤裏葉」のおしゃべりを終えたという感じなのですが、もともと私が思い描いていた話の中味に比べて、どうも消化不良の感じがしないでもない。で、それの由って来たる理由が、引き続く「若菜」以降のおしゃべりをどういうふうにするかということと、おおいに関係しているらしいことはすでに触れました。 というわけで、このままスルスルと安直に「若菜」の帖に入って行かずに、ここで逡巡している理由をもう少し整理して、自分のための覚え書きのようなかたちで、記しておこうと思っているのです。 そもそもこのシリーズをこんなに長々と続けることになったのは、今どきの私にとって「源氏物語」というのが、どんな意味を持っているのか?古今東西の古典の中でも、おそらく空前の輝きを放っているらしいこの古典を、さまざまな権威的あるいは通俗的な雑音を出来るだけ外して、1000年後の日本にいる私がナマで読んだ場合、気取って言うならどんな響きを奏でて来るのか?それを知ってみたいということがあったのでした。 というわけで、初めの「源氏1000年 その1.」では、初読の印象を忘れないうちに書き記しておこう、というつもりで始めたのが、どうもそれではとてもその印象を言い尽せないないな、という感じが強くなったのです。で、その根ざすところが、結局現代訳で読むことのもどかしさにあるような気もし、実際のところ紫式部はどのように書いているのか、というのが気になって、原文をパラグラフにして拾いだしたのが「シリーズ その二」、その前段が「葵」の後半と「賢木」という、この物語中でももっとも彼女の筆つきの冴えた部分の一つだったので、おおいにここは納得がいったのですが、それは同時にこの話が際限なく長くなりそうだ、ということも意味していたのです。 その時もあれこれ逡巡したのですが、そのまま話し続ける魅力のほうがはるかに強くて、結局そのあとは逐帖ごとにしゃべる、ということになってしまいました。 で、それと同時に原文のパラグラフとともに、円地さんの現代訳を載せていたのを、途中でヘタな自分の読みで掲げることに変更しました。一つには他人の訳をそのまま写すというのが、結構しんどいというのと、そして何よりも自分のおしゃべりに他人の訳を使うというは、よほど考え方とか感性がフィットしていないと、ちょっと失礼じゃないか、ということがあったのです。 ところが実際にそれをすすめて行くうちに、口語訳作業の魅力というか、なぜ今どき名だたる文学者や学者や、さては一般の人たちが、こうも次々と口語訳を試みられるのか、その一端を私なりに知ることとなりました。これも何度も言いましたが、要はそこには「創作の模倣」という歓びがあるのではないか?ということなのです。 逐字的に原文を読んでいけば、自ずと紫式部本人の高揚した感覚というのは、訳者の感受性に乗り移ってくるわけで、それを今どきの言葉に置き換えるという作業には、たぶん擬似的な創造の歓びの感覚があるのではないか?当然その読みかたには、それぞれの読み手が聞き取った創造者の声が響いているわけです。 断っておきますが、これは何も現代訳されている方々を、皮肉っているわけではありません。しかるべき感性をもった今どきの人たちに、それをさせずに置かないような、この古典の到達した創造性の高みを言っているのです。早い話、同じような歓びが他の昔物語ではたして喚起されるのか、ちょっと考えてごらんなさい。 とはいえ、私にはもとよりそうした文学的感受性はないうえに、その種のガマン強さも持ち合わせていないので、もう少し安易な仕方で、同じような高揚感を得ることが出来ないか、などと、とつおいつしていたのでした。幸いなことに「澪標」以下の各帖は、安易な方法でおしゃべりしても充分満足できるというか、いろいろ話の種が転がっている部分だったかもしれません。とくに「玉鬘十帖」については、その出来ぐあいが不十分で、そちらを突っつけばいくらでも話題が出てくる、というところがあったのです。― つづく ―
2010.07.26
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そのへんの経緯は、とくに「乙女」以降のおしゃべりで何度もして来ましたが、それもこのあたりで店仕じまいとなりそうです。 「若菜」の帖以降の物語は、a系b系がどうのとかいった論議はまったく無用で、おしゃべりをするとすれば、より本格的に「文学好き」な中味になって行かざるを得ないでしょう。で、そうした話題が私のような一介の素人にとっては、なかなか気の重い話になりそうなことは容易に想像がつきます。そもそも私自身が、そこまで文学に興味があるか、と言われれば、ちょっと「?」なところがあるのです(それはこれまでの話で、多少はお察しいただけるでしょう)。 しかし、まあその話も次回以降ということにして、ここではおしまいに「梅枝」と「藤裏葉」の帖と、「玉鬘十帖」を含めたb系物語の話をまとめてしてしまいましょう。 先に「梅枝」の帖の終りで、― 外部構造だけ詮索すれば、明らかにa系に属する「梅枝」が、実際に語られる内部的結構を見れば、b系の雰囲気を色濃く漂わせている … となるとここで考えられるのは、すでに紫式部の筐底(きょうてい、箱の底)にあった「梅枝」「藤裏葉」の下書きに、b系物語をくっつけたのではないか ― という話をしましたが、もし彼女がa系物語の筋書きを頭の中だけでなく、すでにその終りまで先に書いていたのだとすれば、その途中を埋め、なおかつそれをもとの話にくっつける作業というのは、はなはだしんどい仕事だったのではないか?ということなのです。 私はもちろんこの手の創作時に湧き上がる、芸術家の悪魔的な心象など想像も出来ないのですが、それでもあらかじめ出来上がっている結論に向かって、途中の話を埋めていく作業というのは、創作という白紙の上に無から有を、毎回毎回生み出していくという、新鮮な気分の行為とは、かなり隔たった感覚があるのではないか、と想像してしまいます(まあこれは想像ですよ、何度も何度も遂行をしつこく繰り返して、傑作を生み出すタイプの天才も数多くいますから)。 その前、b系最後の「真木柱」の帖で、かなりシリアスな等身大の人物たちを描き上げたとき、おそらく彼女の高揚した気分はすでに、次の「若菜」以降の創作意欲に溢れていたはずで、出来れば早くそちらに取りかかりたい、何とか軽く切り抜ける方法はないか、とも考えたのではないか? 「梅枝」の帖前半、というより大半を占めていた「焚き物論」や「筆跡論」の悠長な雰囲気と、そのあと続く内大臣(今は太政大臣)と光源氏の間の最終戦争の話には、あまりにも落差があるのです。で、しかもここの内大臣と光源氏に夕霧を絡めたやりとりというのは、すこぶる微妙なそれぞれの心理を描き分けていて、なかなか気が入っている。紫式部はa系b系二つの物語を統合する話として、おそらく「乙女」の帖で語られた、夕霧と内大臣の決定的な対立を書いたときには、こうした筋書きを目論んでいたかと思われます。 しかしこの結末は、前にも触れたように、もっと根っこにある内大臣と光源氏の確執、言いかえれば世俗と皇孫の対立の構図と捉えれば、あるいは話はもっと前にさかのぼって、a系全体を流れていた一つのテーマともいえるし、途中で割り込んできたb系物語も、これまた何度も触れたように、多かれ少なかれ内大臣絡みの話なのであれば、同じテーマを視点を変えて試みようとした話とも取れます。 となると、この「藤裏葉」の帖がすでに紫式部の筐底にすでにあって、しかもそれが仮に下書きであっても、かなり気合の入った仕上がりになっていたのは当然で、表向きの昔物語ふう謎解きの解決編であるとともに、これらはそれまでの話全体の一つの結論 ― 世俗方の皇孫系に対する屈服、という構図 ― をなしているのです。こうした出来ばえの「藤裏葉」を、「真木柱」を終えたあと、それらとつじつまが合うように、一から書き直す、あるいは新たに書き始めるというのは、彼女からすれば多分「そんな時間はない」という気分があったはずで、「梅枝」の帖とはあるいはそれを試みかけて止めた帖ではなかったか? 「真木柱」の帖にみられる異様な高揚には、「藤裏葉」とは別種類の気分があるので、前者に顕著なのは紛れもなく「若菜」以降につながっていく、作者の人を見るときの「仮借なき目線」というものでしょう。 さて、いろいろあらでもの話を、しつこくして来ましたが、このあたりで終りとしましょう。紫式部の筐底の話は、それならそれはいつ書かれたのだ、と突っ込まれても、答えなど出てくるわけがないし、無理矢理こじつけて何時だと断定しても、さてそれが本文を味わう面白味につながっていくのかと言えば、これまたおおいに疑問が生じます。 要は世に一般に言われる「b系後から挿入説」も、本文に添ってみていった場合、どれぐらいの蓋然性があるのか、そして何よりそれが紫式部という天才の発現のしかたと、どう結び合っているのかを見るところに、初めてこの議論の意味があるので、際限のない「後から挿入説」論争は、お互いにくたびれてしまうばかりでしょう。 とはいえ、彼女はこののち、さらにもう一歩コマを進めることになります。これまでのさまざまに行ってきた試みと、それに対する読者の反応を見つつ、彼女は大きな意を決して、いよいよ後段を書いて行くことになるのです。― 源氏1000年 藤裏葉 おわり ―
2010.07.24
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彼女が藤原家の彰子方に伺候するについては、おそらくその物語的才能ではなく、彼女の持っている該博な一般教養がすでに世間的によく知られていて、その才媛ぶりが姫君を取り巻くサロンの格式を高める、という意味合いが当初は強かったでしょう。そのあたりの雰囲気というのは、この物語中の例えば六条御息所のサロンが、都内でも独特の格式で一目置かれていて、それらがそこに仕える女房たちの気の利いた振るまいで判断されていた。したがって若い殿方が、引きも切らず御息所詣でを繰り返していた、という話によく現れています(それともう一つ、ここ最近描かれていた明石の方の、姫君入内後の女房たちの教育が大変行き届いていて、それが御所内での姫君の評価を上げた、という記述にも現れていますね)。 仕える女房たちの教養とか機智とかは、そのまま真ん中にいる女王の評価を高めるわけで、逆にそうした女たちのだらしなさは女王のレベルの低さと判断されるのです。そのあたりの様子もまた、すでに「近江の君」に仕える女たちの振るまいなどに、出て来ているのですが、こののちこの物語ではもっと深刻なかたちで描かれることになりますね。 今どきの企業組織などの様子を判断するとき、組織のトップの顔と同時に、末端従業員の一挙手一投足とか、彼らの机の上の様子を見れば、そこがどんな組織なのか大体分かると言いますが、女王がほぼ御簾の帳に隠れて顔を出すことのなかった平安時代、むしろ末端の女たちの果たす役割は、今どきよりはるかに大きかったでしょう。 このころが稀有の時代だったというのは、彰子方に限らず各姫君を擁する貴族たちが、上のような事情で競い合うように各方面の才能ある女たちを、大勢集めた時代だったということなのです。 その理由は一つには、この時期が国家体制が固定化して二百年がたち、政治向きの関心がもっぱら天皇の外戚たらんことだけに指向したこと、第二に、入婿婚の風習がまだ色濃く残っていて、女性崇拝とは言えないまでも、古代的心象が依然として残っていたこと、そして何といっても女が許された「仮名」文字の方に、「真名(漢字)」よりはるかに生きた言語表現を、より多くの人々に可能にしたこと、の三点が奇跡のように偶然重なった時期だったということでしょう。 こののち地方豪族の跋扈とともに、武士の時代の到来が次第に明らかになってくるのですが、そこでは女たちがこのように詩歌管弦の教養を競い合って時代の文化をリードする、というような機会はほぼ完全に失われたのでした。「宇治十帖」にはそうした来るべき未来からの恐怖が、一種予感のようなかたちで現れている、などと私は思っているのですが、まあそれはずうっと先の話ですね。 私が、教養器量を同じうする女たちが、紫式部の周辺には結構いて、この物語の気息をかなりのレベルで理解し、かつ多分さかんに感想を述べあったただろう、さらにそれに近寄ってくる男君たちも、大いにこの話題をしただろうというのには、そんな背景を想像したからです。 生きた言語表現とは、同時に表現者たちの自意識も極度に高めたでしょう。それはそのまま自己と社会に対する、あからさまではないにせよ批評的なものの見かたにつながっていくので、紫式部はその意味でも、この時代の雰囲気をもっとも個性的に体現した女性として現れてきたのでした。 私が「源氏物語」の「須磨」の帖以降を、あらでもの口語訳なども附して、しつこく追いかけてきたのには、ないがしろとは言わないにしても、「須磨」以降とくに「玉鬘十帖」など、この物語全体の評価の中では比較的軽く扱われているような、したがって仔細に読まれる機会も少なさそうな、このあたりをむしろ細々と読めば、あるいは彼女がどうやってそのような自意識に満ちた批評的な(つまり近代的な)表現を見い出して行ったのかを、一般論ではなしに(彼女は最初からそうした目を持っていたわけではないでしょう)、多少は具体的にたどって行けるかな、という期待があったからなのでした。― つづく ―
2010.07.23
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最初の「桐壺」の帖で、高麗の相人が予言した、― 「国の親となりて、帝王の、上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらん。朝廷のかためとなりて、天の下助くる方にて見れば、又、その相たがふべし」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「国の親となって、帝という、最高の地位につくべき相でいらっしゃる人ではあるが、その場合、国が乱れ民の憂えることが起こるかもしれぬ。(かといって)朝廷の重鎮となって、政治を補佐する人として見ると、これまた、そういう相でもないようだ」という言葉が、光源氏の「太上天皇に准じる位」を授かる、というかたちで実現し、このはじめの謎かけの答えが明かされています。 さらには「桐壺」の帖では、その中味が語られず、「澪標」の帖で明らかにされた宿曜(すくよう、星占い)の中容、― 「御子三人。帝・后、かならず、並びて生まれ給ふべし。中の劣りは、太政大臣にて、位をきはむべし」と、考へ申したりし、「中の劣り腹に、女は、出で来給ふべし」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(源氏の君には)御子が三人(生まれましょう)。(その中から)帝と后となるべき人は、必ず、並び立って生まれるでしょう。その中で劣った方は、太政大臣になって、位を極められるでしょう」と、思案して申上げ、「中で身分の劣った人の腹からは、女君が、生れ出でましょう」という予言も、ここでほぼ実現しているのです(密か事とはいえ、息子の一人は帝に、娘は東宮妃に、しかし厳密には、夕霧は太政大臣になってない)。 こうした「致富譚」(しかるべきお告げがあって、そのお告げどおりにしていったところが、すべて夢が叶うというストーリー)も、「貴種流離譚」や「霊験譚」とともに昔物語の古典的枠組みの一つで、それが冒頭の「桐壺」の帖と中間の「澪標」の帖で触れられ、この「藤裏葉」の帖でこうした謎かけが、ほぼすべて解けて「めでたし」となるということは、ここまでの筋書きが当初からの構想として、紫式部の頭にあっただろうことを伺わせます。 しかし、ずうっとこの物語を読んできた人ならば、当時でも今と同じように「何を今さら」という感じはあったのではないか?すべての人とは言わないまでも、少数でもしかし熱心な読者の中には、この物語がとっくにそうした古い枠組みをはるかに飛び越えて、まさしく当代の人の気息をビックリするほど仔細に語ってくれる物語で、そうであるからこそ、ここまでひたすら熱心について来たのだ、という思いがあったでしょう。 そうした読者から見れば、わざわざ古物語的枠組みを今になって気にしなくても、ここまでの話の展開は充分それだけで自足している。 要は、紫式部本人がそうした当初の漠然とした古物語の枠組みを、いつごろから飛び越えて当代の人の心を、仔細に写す物語に転化して行ったのか、ということが肝心なのですが、これがどうもかなり初め、ひょっとすると最初からそういう場合も想定して書き進めていたのではないか、と思えるところがあるのです。 自身の内にもともと溢れるような表現の欲求があり、なおかつその中味にかなり自信もあったであろう彼女としても、それがストレートに世間に受け入れられるという自信はなかったわけで、いわばもっとも世間に受け入れられやすい枠組みで、菰(こも)をかぶせて様子を見ながら世に問うた。しかしそれが案外近くの読者の中には、彼女の本来の欲求にすぐ気付き、そうした気分を共有するような人々がいたのではないか? 平安の紫式部のいた当代というのは、そうした気息を受け入れられる気分が、少なくとも彼女を取り巻くサロン周辺には存在していたであろう、まことに二度と起こり得ないような稀有な時代だったと思うのです。― つづく ―
2010.07.22
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常に光源氏をキャッチアップして張り合ってきた、かつての頭の中将は今や太政大臣という、世俗代表として功成り名を遂げた立場になったにもかかわらず、かつての威勢の良さがない。もちろんこの夕霧の件について、ついに源氏に対して、こちらから頭を屈したという思いがあるのでしょうが、世間的には何ら萎れる理由などないのです。 この人のこれまでの振るまいで、「いと、ものあはれにおぼさる」だの、「うちしをれ給ふ」などといった素振りというのは、もっとも縁遠い所作であったように思え、ここに来て急にそれが煩出してくるのはなぜなのか? 一つには太政大臣というのが、世俗の最高位であるにしても、どうも名誉職というか、実務的な采配からは離れたような官職の印象があるのです。光源氏も太政大臣を拝命してからは、かえって六条院にこもることが多かったような気がしますね。してみると、実際的な権力行使に秀でていたかつての内大臣が、太政大臣に昇進したということは、実務からのお役御免の合図とも取れ、要は隠居を待つばかりの立場になった、ということでしょうか。 しかしそうとも言い切れないのは、彼の父左大臣は退隠の身から、源氏に請われて政界に復帰したという経緯があり、一概にすべてそうというわけでもなさそうです。とすれば、こうした官位というのは今でもよくある人事で、名のみ残した定年までの閑職という意味合いと、さらに上の取締役員を目指すステップという二つの筋があった、ということかもしれません。 ここでの太政大臣という人事は、明らかに閑職としての意味合いであったでしょう。彼にずいぶん元気がなくなったというのは、そのもっとも得意とする実務的な権力を奪われた、というところにあるのではないか?体育系のきわめて有能で仕事熱心であった人が、閑職にまわされた途端に、我が身の退隠の時期が間近に迫っていることに忽然と気付く。自他ともに認める実力者であっただけに、この時の虚脱感というのは大きくて、その間隙をつくように色濃く現れてくるのは、「老い」という生き物には避けがたい表象であったでしょう。 父大臣の何だか突然ボキッと折れたように老け込んだところ、確かにビックリしますが、それでもここまでさまざまな場面で示されて来た、彼のいわばとても分かりやすい性格からすると、こういうこともあろうか、という気がしますね。 私はここの夕霧若夫婦と父大臣の様子の対照が、世代交代というかたちで時の推移というものを、とても鮮やかに表わしていて好きなのです。 さて、この帖のおしまいというか、「源氏物語」前半のフィナーレは、冷泉現帝と朱雀院の六条院への行幸というかたちで賑々しく描かれます。世間的には腹違いの三人兄弟(実際には冷泉帝は源氏の子)であり、さらに夕霧まで加えると、まさしく故桐壺系の貴種の一族が一同に会し、その栄華の中心に光源氏が鎮座するという、そもそもの「貴種流離譚」という古物語の結構の締めくくりとして、まことに相応しいのですが、そのあたりは本文を読んでみて下さい。― つづく ―
2010.07.21
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紅葉にかこつけて、ふと立ち寄ったかたちの父大臣ですが、実際のところはこの新婚さんの様子を知りたかったのでしょう。― 昔おはしまいし御有様にも、をさをさ変ることなく、あたりあたり、おとなしく住まひ給へるさま、花やかなるを、見たまふにつけても、いと、ものあはれにおぼさる。中納言も、けしき殊に、顔すこし赤みて、いとゞしづまりてものし給ふ。あらまほしく、美しげなる御あはひなれど、女は、又、「かゝるかたちの類も、などかなからん」と、見え給へり。をとこは、きはもなく、清らにおはす。古人どもも、おまへに、所えて、神さびたることども、聞え出づ。ありつる御手習どもの、散りたるを、御覧じつけて、うちしをれ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 昔(大宮が)おられた頃のご様子と、さして変ることなく、(邸の)どこそことも、落ち着いて住まいなさっているさまが、華やいでいるのを、ご覧になるにつけ、(父大臣は)たいそう、ひどく感慨を催される。中納言(夕霧)も、(心なしか)気分を改めて、顔を赤くして、ずいぶん畏まっておられた。(まったく)あい相応しく、結構なご夫婦であるが、女君は、まあ、「このくらいの器量の人は、どうして(他に)いなかろう」と(いうレベルに)、お見受けする。男君のほうは、比ぶべくもないほど、麗しくていらっしゃった。古女房たちも、御前に(集まって)、所得顔に、昔の話などを、申し上げる。(父大臣は、先ほど交わしていた若夫婦の歌の)書きさしが、散らかっているのを、ご覧になって、ふと涙ぐまれた。 大宮とは生前ついに和解出来なかった太政大臣、その互いのあつれきの原因であった二人が、今こうして故大宮の邸に穏やかに住まっている。というわけで何がなし、こみ上げて来るものがあったのでしょう。― 「この水の心、たづねまほしけれど、翁は、言忌(こといみ)して」と、のたまふ。 そのかみの老木(おいき)はむべも朽ちぬらん 植ゑし小松も苔生ひにけりをとこ君の宰相の乳母、つらかりし御心も忘れねば、したり顔に、 いづれをも蔭とぞたのむ二葉より 根ざしかはせる松の末々老人どもも、かやうのすぢに、きこえ集めたるを、中納言は、「をかし」と思す。女君は、あいなく、面赤みて、「苦し」と、聞き給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「この清水の気持ちについては、(私も)聞いてみたいところがあるが、年寄り(の繰り言)は、(縁起が悪いから)遠慮して(おこう)」と、おっしゃる。 そのかみの老木(おいき)はむべも朽ちぬらん 植ゑし小松も苔生ひにけり その前の老木(大宮)がなるほど朽ち果てたのも無理はない その植えた小松(大臣)さえすっかり苔むして(老いて)しまったのだからな男君の乳母の宰相は、辛かった(その頃の)気持ちを忘れていないので、したり顔をして、 いづれをも蔭とぞたのむ 二葉より根ざしかはせる松の末々 どちらの方をも頼りにしております 幼い(双葉の)時から仲良く育った松(ご夫婦)ですからね老女房たちが、このような話題ばかり、お詠い申し上げるのを、中納言は、「面白いな」とお思いになる。女君は、わけもなく、顔が赤らんで、「困ったわ」と、お聞きになっていた。 かつて夕霧が姫君方の女房たちに、「浅葱色の低位」と蔑まれたのをガマンできずに、故大宮と幼い雲井の雁に揚言して憚るところのなかった乳母宰相、今や得意顔で返しの歌を詠うのです。 ここで、夕霧方の話は終わるのですが、それにしても父大臣のそれまでと打って変わった萎れかたには、ちょっとビックリしますね。― つづく ―
2010.07.20
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さて、このあたりから「源氏物語」前段のフィナーレに入っていくわけですが、まず周辺の様子から語られます。 光源氏の破格の昇段にともない、それに引っ張られるようにして、内大臣は太政大臣に、宰相の夕霧は中納言に昇進します。 夕霧が太政大臣にあいさつに行くと、義父は彼の貫禄にあらためて感心し、「なかなか人におされ、すさまじき宮仕へよりは(なまじっか人に圧倒されるような、宮仕えよりは)」娘の雲井の雁にとって、よほど良かったと、思い直す。 夕霧は昇段した位階にふさわしいように、それまでの部屋住みから独立して、故大宮の旧三条邸を大々的に改修して住むことにする。雲井の雁とはいよいよ仲睦まじい新居生活となるわけです。それにしても、ここには入り婿婚での相続の関係がよく出ていますね。― をかしき夕暮の程を、ふた所ながめ給ひて、あさましかりし世の、御幼さの物語などし給ふに、恋しきことも多く、人の思ひけんことも恥づかしく、をんな君はおぼし出づ。古人どもの、まかで散らず、曹司(ざうし)曹司にさぶらひけるなど、まうのぼり集りて、「いとうれし」と、思ひあへり。をとこ君、 なれこそは岩もるあるじ見し人の ゆくへは知るや宿の真清水をんな君、 亡き人の影だに見えず つれなくて心をやれるいさらゐの水など、のたまふほどに、おとゞ、内裏よりまかで給ひけるを、紅葉の色に驚かされて、わたり給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 風情ある(三条邸の)夕暮れ時を、二人して眺めながら、つらかったころの、幼ない話などをなさっていると、切ない事柄も多く、女房たちに(いろいろ)思われただろうことも恥ずかしく、女君は思い出される。老女房たちで、(その後)暇を取らずに、各部屋に(ずうっと)仕えている者たちが、参上して集まって来て、「何とも嬉しいこと」と、思い合っていた。男君は、 なれこそは岩もるあるじ 見し人のゆくへは知るや 宿の真清水 おまえこそこの家を見守ってきた主だろう (そのおまえが)見てきた人(故大宮)の行方を知っているか (この)宿の真清水よ女君は、 亡き人の影だに見えず つれなくて心をやれるいさらゐの水 亡き人(故大宮)の姿さえ映さずに つれない心で流れる小井戸(いさらい)の水であることよなどと、おっしゃったりしているところへ、父大臣が、内裏から帰参される折りに、(この邸の)紅葉の色(の見事さ)に驚いて、訪ねて来られた。 若夫婦の仲睦まじさの気分は、仕える古女房たちにも伝染していて、何とも穏やかな夕暮れの風景ですね。― つづく ―
2010.07.19
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ここのところ「源氏1000年」シリーズが、前半の終りに近づいて来て、どうも滞っています。その原因の一つに、このところの天候不順を先にあげたりもしているのですが、しかし本当の理由はもちろんそんなことろにあるのではありません。早い話、昨年の今ごろも同じような梅雨明け豪雨がありながら、さして面白くもなさそうな「松風」の帖あたりのおしゃべりを、嬉々としてやっていたものでした。 であればこのところの渋滞の原因は何なのか?その答えは簡単で、自分自身がこれを楽しんで、しゃべれてないらしいということが、この画面を見ながらありありと分るからです。 前に何度も触れましたが、私がこのブログを続けているときの原則は、1. 基本的に自分が本当に楽しんでしゃべっているか2. だれが読んでも分る言葉になっているか3. 引用参考に際して、その出典を出来るだけ明らかにしているかの3つです。 ブログの立ち位置というのは、いまだに不分明なところがあって、私的な部分と公の部分の境目があいまいで、自分の庭のつもりで手入れしていたところが、いつのまにやら妙な書き込みとか、トラバがくっついて「何だこりゃ」と目を向く時もあります(まあトラバの方は、この本旨にほとんど関わりがないので、外しましたが)。 しかし外に開いた庭ということであれば、現の場合でもその塀の外側から、いろいろ言う人というのはいるわけで、これはまあしかたがない。それよりいくら手入れしても、まるきり反応がないということのほうが、手入れしている側にとっては、時にやるせないこともあるので、こうしたコメント欄は大事でしょう。 かんじんなのは、やはりここ最近こうしてしゃべっている自分自身が、どうも本当の意味で面白がってないな、というのがよく分る、というのが厄介なのです。その寄って来たる原因が何なのか?個人的なスケジュールとか体調などというのは別として、一年半以上ルーティン・ワークのように、基本的に毎朝二時間を費やしていた、このおしゃべりに明らかに変調が起きている、としか思えません。 私のおしゃべりというのは、基本的に明日UPすることは今日中に、逆に言うと明後日以降のことは一切考えない、つまり書き貯めはしない、ということで、ヘンに書き貯めてしまうと、朝パソコンを開いたときに、新鮮な感じがしなくなってしまうのです。「源氏物語」というのは、そうした私にとっては、毎日尽きせぬ話題を提供してくれる湖みたいなもので、日々読み込むなかに、何やかや新たな読みだの解釈だの、要は面白味を見つけ出していくところに、このシリーズを続けていく爽快感というのがあったのでした。 よくある話ですが、すでにしゃべり終わったことを、またぞろ読み返すことほどしんどい話はありません。 しかしそうした楽しみ方を、一年半も続けていると、さすがに以前しゃべっていたことの繰り返しのようなおしゃべりが頻出している感じもし、もし仮にこれを読み続けている人がいるとすれば、ついに頭にきて投げ出してしまうのじゃないか?という強迫に囚われます。自身がじゅうぶん新鮮な気分でしゃべれてない以上、それを読む側が、中味に面白味を感じるというのは、土台ムリな話なのではないか?というわけで、おおいに渋滞しているらしいのです。 実をいうと、この「藤裏葉」の帖は「源氏物語」前半のくくりにあたり、これまでどおり話の筋を追ってしゃべるのは、そんなに厄介なことではありません。私自身とっくにこの帖は過ぎて、いよいよ「若菜 上」から始まる後段をどう読んでいくか?というのを楽しみにしていたのですが、これが何となく躊躇する感じがあるのです。 その躊躇の本質は何か?これもどうも答えは簡単なようで、この「若菜 上」以降の物語については、初読のとき以来すでに何回か読み直したのですが、私自身が本当にこれらの帖に面白味を感じているのか、ということに自信が無くなって来たことにあるらしいのです。ある程度この古典を知っている方はご存知のとおり、「若菜」以降の数帖は「源氏物語」の中でも、もっとも白眉とされる部分であり、いうなればその「らしさ」が一番よく現れた部分なのです。これは古今東西の源氏読みの方々が、口を揃えて強調されるところであり、「若菜」を読まなければ「源氏」を読んだことにならない、とまで断言される学者も多数おられます。 そこまで強調されたり断言されると、私のような一介の素人読みがヘタな口舌を飛ばすのは、ちょっとマズいのではないか?いまさらこれらの帖にかんして、新鮮な読みなどというものを、私なりの言葉でしゃべることなど出来るのかいな?というのが二点め。さらに付け加えるならば、それほどまでに文学的結構が良く出来ているこれらの帖について、口をさしはさむというのは、私自身は当然として、そのおしゃべりに付き合って下さっているであろう、このブログの訪問者の皆さんの感興を削ぐのではないか?という不安もあります(それを言うなら、今までだって充分削がれたわい、と言われてしまいそうですが)。 たんなる感想文で流す、というのも一手か?とも考えるのですが(その方が本文から湧き上がってくる感興は、よほど上手く出るかもしれない)、しかしそれでなくても、これまで相当拡げてきた大風呂敷に比べて、それではあまりにも中味が乏し過ぎるのではないか、という気がするのです。 拡げてしまった大風呂敷に包むに堪えるおしゃべりなどどうやったら出来るのか?どうやらこのところの渋滞感は、このへんにありそうで、これは相当厄介なことになりそうですね。
2010.07.18
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光源氏の個人的な願望はともかくとして、今やこれほど世間的な威勢を振っている源氏という存在を、朝廷はそのまま放っておくわけにはいかない。― あけむ年、四十(よそぢ)になり給へれば、御賀のこと、おほやけよりはじめたてまつりて、大きなる、世のいそぎなり。その秋、太上天皇になずらふる御位、得給うて、御封(みふ)くはゝり、年官(つかさ)・年爵(かうぶり)など、みな、添ひ給ふ。かゝらでも、世の、御心にかなはぬことなけれど、なほ、珍しかりける。昔の例を改めで、院司(ゐんじ)どもなどなり、様殊に、いつくしうなり添ひ給へば、内裏に参り給ふべきこと、かたかるべきをぞ、かつはおぼしける。かくてもなほ飽かず、みかどは思して、世の中をはゞかりて、位を、えゆづり聞えぬことをなん、朝夕の御嘆きぐさなりける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 来年には、(源氏の殿は)四十歳になられるということで、そのお祝い事について、朝廷をはじめ申して、たいそうに、世の中は準備している。その年の秋、(殿は)太上天皇(だいじょうてんのう)に準じる御位を、拝されて、御封(みふ、皇族・高位高官者・社寺などに禄として与える封戸の敬称)が加わり、年官、年爵(年ごとの官職、爵位)なども、みな、さらにお受けになった。そうでなくても、世間的に、お心に叶わぬことなどないのだが、なお、めったにないことではある。昔の(藤壺の宮の)例を踏襲して、院司(上皇・法皇・女院の庁で事務を執った職員)などの任命もあり、ことのほか、おごそかな身分になられたので、(気軽に)内裏に参上し申すことも、難しくなったなと、一方ではお思いになっっている。(しかし)ここまでしてもなお満足出来ないと、(冷泉)帝はお思いになっていて、世間を憚って、(帝の)位を、よう譲りなさることが出来ないのが、朝夕の(片時も離れぬ)お悩みの種であった。 太上天皇(だいじょうてんのう)とは、― 皇位を後継者に譲った天皇に送られる尊号。または、その尊号を受けた、その人。上皇(じょうこう)と略することが多い ― (Feペディア)とありますが、源氏の受けた位というのは、「太上天皇になずらふる御位」ということで、「准太上天皇」という称号があるわけではありません。ちなみに上皇で出家した人のことを、「法皇」と言いますね。 自身の出生の秘密を知っている冷泉帝としては、皇孫の血筋を毀損している我が身を、本来の血統に戻すべく、出来ることなら実の父である光源氏に、天皇の座を譲ってしまいたい、と思っているのですが、密か事ゆえもちろんそんなことは出来ない。ということで世間的に問題ならず、かつ最高の位を与えるということで、我が身の不安を少しでも軽減しようとする。光源氏は天皇にはなっていませんから、当然上皇にもなり得ないのですが、そこは特別に上皇に準じる扱い、というふうにしたのでしょう。 根っからの自由人であるべき光源氏にとって、こういう扱いというのは、世間的に考えられる最高の待遇と名誉であったにしても、公から職員まで配されて、行動にはさらに制限が加わる。本音のところは、あんがい痛し痒しの思いだったかもしれませんね。― つづく ―
2010.07.16
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光源氏が出家の本意を抱いたりするというのは、すでに前にも何回かあって、何かの区切りがつけばすぐにも娑婆から退隠したいとは、彼のもともとの願望だったようです。すでに何回も触れましたが、彼は朝廷での実際的な政務にとくに関心があるわけではなく、さらにはその実務的手腕にことのほか勝れていたわけではありません。 むしろ苦手意識があったような形跡があります。須磨流遇から都に復帰したとき、政務から退居していたもとの左大臣に復帰を懇望したことがありましたね。同じような意味で、家政についても乳母兄弟の惟光などに、万般の雑事を任せていたようで、彼本人が荘園経営その他でじかに土豪たちと渡り合うということはなかったのです。このあたり彼の出自が皇孫系であることを鮮やかに示しているので、世俗代表の内大臣がこうした土豪たちと直接関わることに、おそらく何ら躊躇を感じなかっただろうのと著しい差異があります。 彼の主たる関心が、きわめて個人的な貴種意識の護持、我が血筋の安泰だけに向いていて、権力欲というのもその目的のためだけに意識されているような感じです。これはしかし、この当時の平安貴族通有の観念で、彼らに今さら国の大本がどうのこうのと言ったって、首をかしげるばかりだったでしょう。そのあたり、奈良時代の聖徳太子とか天武天皇のように、同じ権力闘争であるにせよ、常に国家の大本をどうするか?という意識を抱かざるを得なかった皇孫とは、相当開きがあるようです。 まあ平安遷都後二百年以上が過ぎ、国風文化がすっかり浸透して社会が固定化した時代にあって、貴族たちの関心が我が事のみになるのは、致し方ないところかもしれなかったのですが。 しかし彼のこの天性の自由人というか、格式を嫌い政務なども適当に済ませて、何しろ詩歌管弦と色好み三昧に出来るだけ浸っていたい、要は娑婆からは出来るだけ隔絶して、好きなことをしていたい、というタイプであるところには、もう少し彼特有のパーソナリティーを見止めるべきかもしれません。内大臣も彼のことを「人なつっこくて、愛すべき人だが、公の場での彼の振るまい方はちょっと洒脱に過ぎる」と、かつて評したことがありましたね。 こういう光源氏の性向が、どのように形成されて来たのかというのは、一般論ではなしにもっと探ってみる値打ちがあると思うのです。こういうタイプって、今どきでも多少はいそうじゃないですか?権力は圧倒的に保持していたいが、個別の政策には一切関心がない、という人が。 しかしそれにしても彼の紫の上に対するしかたは、ずいぶんあっさりし過ぎているじゃないの、という印象がここでは免れません。娘時代に無理無体に拉致してきて、そのまま確たる儀式も行わず葵の上亡きあとの我が正妻に据え、その後須磨流遇の折りには都に残して後事を託すという、言わば同志的結合によって互いを守って来たこの北の方に対して、ちょっとつれなさ過ぎると思うのはたぶん私だけではないでしょう。これについては私など、紫式部の書き方にも不満が出てくるわけで、須磨流遇の折りに都に残された若き紫の上の苦労話について、彼女が一切筆を割いていないというのはどうも合点が行きません。 明石の方や花散里については、しっかりした後見だけで判断するのもまあ仕方がないか、というところもあるのですが(それもひどい話ですが)、こと紫の上にかんしては、そんな簡単な間柄ではないだろう、というのが率直なところです。 ここには多分に光源氏の紫の上に対する甘えというか、思い上がりが感じられ、これもまたどこから来ているのだろう、ということを考えてしまいます。 これは続く「若菜」の帖でも主たるテーマの一つになって来るような気がするのですが、要は紫の上に対する彼の振るまいかたには、故藤壺の宮ひいては源氏の記憶にない母親への帰求願望があるように思えるのです。彼が他の姫君に対するときに比べ、藤壺の宮と紫の上に対しては、一種幼児帰りしたような甘えっぷりを示すのには、実の母のいわば「無限愛」を知らずに育った光源氏の、永遠に満たされない子宮帰求願望が投射されているのではないか? しかし、これもまた急がずに、ずうっと探っていくべきテーマですね。― つづく ―
2010.07.15
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以下、明石の方の御所内での付き添いぶりが語られます。― 今めかしく、並びなきことをば、更にもいはず、心にくく、よしある御けはひを、はかなきことにつけても、あらまほしくもてなし聞え給へれば、殿上人なども、珍しき挑み所にて、をりをりに、さぶらふ人々も、心をかけたる、女房の用意・有様さへ、いみじく整へなし給へり。うへも、さるべき折ふしには、まゐり給ふ。御なからひ、あらまほしくうち解けゆくに、さりとて、さしすぎ、もの馴れず、あなづらはしかるべきもてなし、はた、つゆもなく、あやしうあらまほしき、人の有様、心ばへなり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 当世風な点で、並びないのは、(今さら)言うまでもなく、(何かにつけ)奥ゆかしく、品のあるご様子に、(姫君の振るまいの)ちょっとしたことも、(明石の方は)理想的な形に演出なさるので、殿上人なども、めったとない(風流の才を)張り合える所として、機会を見ては、(そこに)仕えている人々にも、懸想したりするが、その女房たちの心構えや容儀さえ、見事に制御していらっしゃった。紫の上も、しかるべき折りには、参上される。(この二人の)お仲は、(ますます)好ましいほうに向かっているが、かといって、(明石の方は)出過ぎて、馴れ馴れしくはせず、(反対に、上に)蔑まれるような振るまいも、また、少しも見せない(という)、不思議なくらいに理想的な、この人のご様子と、気質ではあった。 上流貴族社会に打って出ようとする娘に、最上級のしつけと教育をほどこし、付き従う女房たちにもしかるべき教養や器量を備えさせる。何だか娘の芸能界デビューをねらうタレントママのような感じがしないでもないのですが、かつて六条御息所の周囲を彩る女房たちが、独特の教養と品格があるということで、都中の若い公達の垂涎(すいぜん、熱望)の的になっていたことをふと思い出しますね。 仕える女房の質の善し悪しは、そのまま中心にいる姫君の評価につながるのです。 それにしても、明石の方の「あらまほしくうち解けゆくに、さりとて、さしすぎ、もの馴れず、あなづらはしかるべきもてなし」という、紫の上への振るまいかたというのは、たんなる野心に満ちたタレントママではない、相当尋常でない気配りとプライドを感じさせます。 しかし明石の方の人物像というのは、ここではまだ充分に明らかにされているわけではなく、次の「若菜」の帖まで待たなくてはなりません。 さて一人娘の入内も無事済んで、光源氏は自分を取り巻く周辺の心配事が、ほぼ無くなりつつあると考える。― おとゞも、「長からずのみ思さるゝ御世の、こなたに」と、おぼしつる御参り、かひあるさまに見たてまつりなし給ひて、心からなれど、世に、浮きたるやうにて、見苦しかりつる宰相の君も、思ひなく、めやすきさまに、しづまり給ひぬれば、御心落ち居はて給ひて、「いまは、本意も遂げなん」と、おぼしなる。「対のうへの御有様の、見捨てがたきにも、中宮おはしませば、おろかならぬ御心寄せなり。この御方にも、世に知られたる親ざまには、まづ、おもひ聞え給ふべければ、さりとも」と、おぼしゆづりけり。「夏の御方の、時時に、花やぎ給ふまじきも、さい相の物し給へば」と、みなとりどりに、後めたからず、おぼしなりゆく。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 源氏の大臣も、「長くはないとばかり思っていた我が命の、あるうちには」と、お思いになっていた(姫君の)ご入内を、見事なかたちでお済ませになり、(自らの)心から(望んだもの)とはいえ、世間から、浮いたように、(一人身で)不体裁だった宰相(夕霧)の君も、何事もなく、無難なかたちで、(雲井の雁と結婚して)落ち着かれたので、お気持ちがすっかり安心されて、「今こそ、(念願だった出家の)本意も遂げたいものだ」と、お思いになる。「対の(紫の)上の御事は、見捨て難いとはいえ、(秋好)中宮がいらっしゃるから、半端でないお味方になろう。(さらに)このお方(明石の姫君)も、世間的な(表向きの)親としては、第一に、お気に掛けなさるであろうから、いくら何でも(大丈夫だろう)」と、心任せておられる。「夏のお方(花散里)は、時たまにも、華やぎなさりにくくなるが、宰相が面倒みてくれるだろうから」と、皆それぞれに、心配はないように、お考えになっていった。― つづく ―
2010.07.13
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そのあたりの気息は、明石の方が我が身の強運を思うと同時に、出自の格の違いを思い知らされた、という記述に現れているので、裏を返せば、身分が違わなければ、この人には負けない、という自負心とも取れるのです。― いとうつくしげに、雛(ひゝな)のやうなる御有様、夢の心地して、見たてまつるにも、涙のみとゞまらぬは、一つものとぞ、見えざりける。としごろ、よろづに嘆き沈み、さまざま、「憂き身」と、おもひ屈しつる命も、のべまほしう、はればれしきにつけて、まことに、住吉の神も、おろかならず思ひ知らる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) たいそう美しく、(まるで)雛人形のような(姫君の)ご様子を、夢でも見るような心地で、お見上げするにつけ、涙が止めどないのは、(嬉し悲しが)入り混じった気持ちとは、思えない(それは紛れもなく、嬉し涙なのである)。長の年月、万事に嘆き沈み、何かにつけて、「辛い身の上だわ」と、思い屈してきた(我が)命も、延ばしてやりたいような、晴れ晴れしさに、まったく、(父入道が願を掛けた)住吉明神の、(霊験の)愚かならぬさまを思い知るのであった。 「高貴な人に見初められることが無かったならば、海に身を沈めて死ね」と、常々父入道から言われて、生い育った明石の方。見ようによっては一種のマインドコントロールを受けたような人で、その父母の存在感に比べて陰が薄かったのですが、ようやく彼女の個性も少ずつ現れてきたような感じがします。しかしそれは今回の娘の入内によって、ますます父入道への帰依というか、家族内カルトに固まって行く方向に現れたのでした。何となく「東大じゃなきゃ、絶対ダメ!」と呼号する父母に育てられた、今どきの不気味な秀才たちとちょっと似ているような気がしないでもない。そのあたりの彼女にかんする性格批評を、光源氏が鮮やかに示したくだりがあったのですが、それは先の話。 入内後の姫君を取り巻く様子は、― 思ふさまに、かしづききこえて、心およばぬこと、はた、をさをさなき、人のらうらうしさなれば、大方の寄せ・思えよりはじめ、なべてならぬ、御有様・かたちなるに、宮も、若き御心地に、いと心ことに、おもひきこえ給へり。いどみ給へる御かたがたの人などは、この母君の、かくてさぶらひ給ふを、疵に言ひなしなどすれど、それに消たるべくもあらず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 望むとおりの姿に、(紫の上が)お育てなさって、(姫君は)心行き届かぬところは、まったく、ここから先も無く、性格が利発なので、大抵の方からの好意や声望をはじめ、その並々でない、ご容貌や器量もあいまって、東宮も、若いお心のままに、たいそう格別に、思い扱っていらっしゃる。競いなさるお方々の女房などは、この(身分の低い実の)母君が、こうして(娘君に)仕えているのを、疵のように言いなしたりもするが、それに打ち消されるはずもない。 しかしここは平板にみて、姫君個人の容貌器量より、何といっても、後ろ盾についている光源氏の威光が、ものすごかったと見るべきでしょう。― つづく ―
2010.07.10
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こうした入り組んだそれぞれの気分の中で、紫の上と明石の方の初めての対面があります。考えてみると、この物語では光源氏をめぐる女たちの愛憎や嫉妬などが、あれこれさまざま描かれて来たとはいえ、こうして女君同士がじかに面と向かい合う、という場面はかつてなかったので、読む側も少し緊張しますね。― 三日すごしてぞ、うへはまかでさせ給ふ。たちかはりて、まゐり給ふに、御たいめんあり。 「かく、おとなび給ふけぢめになん、とし月のほども知られ侍れば、うとうとしき隔ては、残るまじうや」と、なつかしうのたまひて、物語などし給ふ。これも、うちとけぬるはじめなめり。ものなどうち言ひたるけはひなど、「むべこそは」と、めざましう見給ふ。また、いとけだかう、盛りなる御気色を。かたみに、「めでたし」と見てぞ、そこらの御なかにも、すぐれたる御心ざしにて、並びなきさまに、さだまり給ひけるも、「いとことわり」と、おもひ知らるゝに、「かうまで、たち並びきこゆる契り、おろかなりやは」と、おもふものから、いで給ふ儀式の、いと、殊によそほしく、御輦車など許され給ひて、女御の御有様に異ならぬを、おもひくらぶるに、さすがなる、身のほどなり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 三日間を(御所内で)過ごしてのち、紫の上はご退出なさる。入れ替わって、(明石の方が)参上される折りに、(お二方は)対面した。 「このように、(姫君が)ご成人された節目となれば、(その長い)年月のほども感じられまして、(今さら、お互いに)疎遠な(気持ちの)隔てが、残っているはずもありせんね」と、親しげにおっしゃって、(あれこれ)会話を交わしなさる。これも、(こののち、お二人が)打ち解ける初めとなったであろう。(明石の方が)ものなどを口にするときの雰囲気など、「なるほど(源氏の殿が、心惹かれるはず)」と、(紫の上は)目ざとくご覧になっている。また、(明石の方は、上の)とても気高く、(女)盛りのご様子を(ハッキリと見止めなさった)。お互いに、「見事なこと」と見交わすにつけ、(明石の方は、源氏の殿の)周りにいる(大勢の)ご関係(された女君)の中でも、(紫の上が)飛び抜けたご寵愛を受けて、(今や)並ぶ者のない地位に、就いていらっしゃるのも、「まったく無理のないことだわ」と、納得し、「ここまで、立ち並び申すほど(に到った我が身)の運も、疎かなものでは(ないわ)」とは、思うものの、(上の)ご退出の儀式が、これまた、格別ものものしく、御輦車(に乗ること)などさえ許されなさって、(まるで)女御のご様子と変らない(お取り扱いな)のを、(徒歩で参上した自分と)思い比べるにつけ、さすがに(ハッキリと思い知らされる)、格の違いではあった。 ここの対面のくだりは、なかなか期待が先走るのですが、そこは互いに聡明な女性同士ですから、いわゆる下々のような浅ましいガチンコ対決とは、残念ながらなり得ないのです。 しかし互いが極度に緊張しているのは、先に紫の上のほうから、「うとうとしき隔ては、残るまじうや」と、誘いをかける所に逆に表れているわけで、それに乗せられて、明石の方のほうも同じように、うっかり「なつかしうのたまう」わけにはいかないのです。彼女の応答は記されていませんが、紫の上の感想が、― 「むべこそは」と、めざましう見給ふ ― と思ったということは、その応対にそつがなく、さりとて相手の話を逸らさないという、頭の好さを「めざましう」見止めたということでしょう。 紫式部は、これが二人が「うちとけぬるはじめなめり」と書きますが、相手が花散里ならともかく(彼女なら、こうした対面の折りには、きっとお追従の一つも言ったでしょう)、お互いが並々ならぬ相手であることを、ここではハッキリと確認し合ったというふうに読める。才女同士が初めての対面で、いっぺんに仲良くなったなどとは、とても私には思えません。― つづく ―
2010.07.08
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早くもちょっと夏バテ気味で、ブログを少し休んでしまいました。例年、私は夏が好きで、ヒマさえあれば紫外線をもろともせずに、プールに飛び込んで暑熱を迎え撃つ性質なのですが、今年はいつもより湿気がヒドイみたいですね。普段は昼も夜も基本的に空気の出し入れだけでガンバルところ、嫌いなエアコンを使ったのが良くなかったのかもしれません。 さて物語のほうは、入内に付き添うことが許され、明石方のほうは願いがかなって、大いにめでたいはずなのですが、祖母の尼君も明石の方本人も、そうなればそうなったで、少し気持ち的に複雑なところがある。― 尼君なん、猶、この御生先(おひさき)、見たてまつらんの心、深かりける。「いまひとたび、見たてまつる世もや」と、命をさへ執念(しふね)うなして、ねんじけるを、「いかにしてかは」と思ふも、かなし。 その夜は、うへ添ひて、まゐり給ふ。御輦車(みてぐるま)にも、たちくだり、うちあゆみなど、人悪(わる)かるべきを、わがためは思ひはゞからず、たゞ、かく磨きたてまつり給ふ玉の瑕(きず)に、わが、かく長らふるを、かつは、いみじう心苦しう思ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (明石の姫君の祖母である)尼君は、やはり、この(姫君の)生い先を、見届けたいという気持ちが、深いのであろうか。「今一たび、お見上げする機会もあれば」と、(我が)寿命にさえ執着して、祈ってきたが、「(入内された後は)いかがしたものか」と考えるのも、悲しい。 その夜は、紫の上が付き添って、参上なさる。その御輦車(みてぐるま、人が引く車)の後に、立ち従い、歩いて付いて行くなど、(はなはだ)体裁悪かろうが、我がためなら何でもないところ、ただ、このように磨き上げられた玉のような姫君の瑕に(なりはしないか)と、(明石の方は)我が身が、このように長らえているのを、一方では、たいそう心苦しく思っていた。 祖母の尼君、夫君の明石入道に対しても、娘の明石の方に対しても、相手の考えや気持ちの中味はほとんど理解できないにもかかわらず、いわば当世の常識だけでもって、ことの判断を下してきた人で、現にその判断がことごとく正しかったことが、だんだん明らかになって来ます。この人に割かれた字数というのは、「須磨」「明石」あるいは「松風」の帖の他、ほんのわずかなのですが、理知はダンナにとても及ばず、器量ももちろん娘にかなわなかったこの人の、いわば世間的嗅覚だけが突出した感じというのは、けっこう存在感があるのです。 そして姫君の実の母である明石の方、出自の低さゆえに付き添いは許されたものの、娘の乗った輦車の後をトボトボと歩いて行くしかない。その気持を紫式部は「人悪(わる)かるべきを、わがためは思ひはゞからず」としますが、さてその内心はどうであったのか? そのあたりの明石の方の気分を裏書きするようなくだりが、以下に続きます。― 御まゐりの儀式、「人の目驚くぼかりのことはせじ」と、おぼしつゝめど、おのづから、世の常のさまにぞあらぬや。限りもなく、かしづきすゑたてまつり給ひて、うへは、「まことににうつくし」と、あはれに思ひ聞え給ふにつけても、人に譲るまじう、「まことにかゝることもあらましかば」と思す。おとゞも、宰相の君も、たゞ、このこと一つをなん、「飽かぬことかな」と思しける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) ご入内の儀式を、(源氏の殿は)「人の目を驚かせるようなことはすまい」と、遠慮されていたが、そこはそれ、(源氏の愛娘ゆえ)世の常のごときで済むことがあろうか?限りもないほど、大切にお世話なさって来られて、紫の上は、(姫君を)「ホントに愛しいわ」と、しみじみお思いなさるにつけ、(この姫を)他人に譲る気がせず、「ホントにこのようなこと(実の娘)があったなら」と思われる。源氏の殿も、宰相の君(夕霧)も、ただ、このこと一つだけが、「(何とも)物足りないことだな」と思っていらっしゃった。 源氏方の主三人の考えは、いずれも姫君が紫の上の愛娘でないのが、残念極まりないのです。― つづく ―
2010.07.06
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Japan Blue ワールドカップも、日本がパラグァイに負けて、一応ヤマを超えたので、まとめて感想を。 何度も言うように、このブログは四年前のトリノで荒川静香さんが、ブルーのコスチュームで金メダルを取ったのに刺激されて始めた(このブログの色も、それに因んだものです)のですが、この年はそのあとWBCとかドイツでのワールドカップとか、ずいぶんJapan Blueが目に付いた年でもありました。そのとき以来イチローだの中田英寿だの、いわゆる少し尖がった天才を扱う際のマスコミや、そこに垣間見える日本人的振るまいを見つめてみようと、あれこれ話を続けてきたわけですが、今回もそれに準じるような男が現れて、興味を持って見ていました。 その男とは、もちろん本田圭佑選手のことです。彼を知ったのはワールドカップが始まる直前、テレビ朝日でやっていた中田英寿との対談で、久しぶりに尖がった奴が出てきたな、という印象を持った時からでした。いつも言うように、私はここで取り上げる話を、以前からずうっと知っていた式の自慢話にするつもりはありません。しかし一度気になり出すと、彼にまつわる情報というのは、不思議と勝手に集まってくるもので、同じころにNHKが彼のオランダVVVフェンロにいた頃のドキュメントをやっていて、とても興味深かったのでした。 ワールドカップが始まる前、すでに彼が大口(Big Mouth)とマスコミに叩かれて始めていたころに、この二つの番組を作ったテレビ朝日とNHKは、その炯眼を称えられてしかるべきです。私は、今もってきわめて保守的な日本人の振るまいかたに対して、かつての中田とかイチローと同じく、こういうふうにして私たちの心にヤスリをかけるような人物というのがとても好きです。マスコミの彼に対する扱い方を見ていると、私も含めた今どきの日本人の指向性が、逆に露わになって来るからです。 すでにして今回の一次リーグ突破の功績は、チームの結束の賜物とか全員の勝利とかいった論をなす人がいるようですが、今回見ていて思ったのは、そういう論をなす人が、毎回お決まりの新聞テレビなどのマスコミ関係だけではなくて、元サッカー選手の中にもいた(ひょっとすると現役にも)ということでした。つまりこうした指向性というのは、たんに視聴者や購読者といった大多数の消費者性向に、まっさきに阿諛追従するマスコミだけではなく、専門のアスリートの性向にも、みんなで渡れば怖くない式の「群れたがり症候群」があるということで、これはよほど日本人のマインドにフィットする部分があるということを示しているのです(それが良いとか悪いとかの話ではありません)。 日本のサッカーの強さは組織の強さだ、という言い方が毎回いとも簡単に強調されますが、いったいスポーツにおける強さの定義とは何を尺度にして言うのでしょう。結果的に一次リーグを突破したからといって、このチームが世界ベスト16の実力を持っているとは、たぶん岡田監督はじめ選手自身はここから先も思っていないでしょう。彼は本戦前に「私の理想のサッカーではないが、ワールドカップで勝つためのサッカーを考えた」と言っています。つまり彼が本来思い描いていた「強いサッカーチーム」とは別物を、本戦では適用したということで、これは現(うつつ)の戦力を冷静に眺めた場合に、本来あるべき「強さ」にはほど遠い、という痛い認識があったからでしょう。 では本来あるべき「強いサッカー」とはどういう意味を指すのか?それにかんして中田英寿が、その本田との対談で「日本選手は練習では明らかに世界一」と皮肉を込めて言っていたように、練習時の技術の質と量はどこにも負けない、では何が違うのか、要はそれにのぞむ時の考えかた(マインド)だろう、というのです。 サッカーの面白味というのは、状況が常に動いていて、野球やアメラグのようにプレー毎の途切れがないということで、いったんピッチに立ったら、まったく同じ状況というのは二度と起こらないというところにあるのでしょう。常にまったく新しい状況が途切れなく続くということは、個々のプレーヤーのマインドに依存する度合いが、野球やアメラグより大きいということではないか?ピッチを転がるボールに対して監督やコーチが、いちいち口を出す分けにはいかない。このあたり、日本のスポーツ文化というのは相当野球、それもたぶん少年野球や高校野球の指導方式に幻惑させられているところがあるのではないか?監督コーチあるいは先輩に絶対服従の精神では、今そこにある生きたボールにサッカーは対処できないのです。 選手全員が予測できない状況に対処するマインドを共有していないとサッカーにならない、ということは個々の自律性が一つ一つのプレーに、より多く求められるということで、中田や本田の思いというのはたぶんそういうことでしょう。「無難にこなすよりは、ヒールになるか、英雄になるか、そういうギリギリのプレーを選んだほうが、よっぽどマシ」、要は「お前のせいで負けた、と思われるような試合をしたほうが良い」という中田の言葉は、全員で頑張った式の野球のマインドとは対極にあるものです。 そこで考えてしまうのが、昨日の帰国記者会見で「好いチームだった」という選手の言葉を早くも取り違えているマスコミ、そしてたぶん選手他関係者の一部。結束力がなぜ本戦になって生まれたのか、そのカギがカメルーン戦での本田のゴールに集約されているのが分かっているのに、なるべく触れないような空気がある。本田は頭が好いので自らそれを強調することはしませんが、だからチーム全員の勝利というほうばかりが強調されたら、彼は心穏やかではないでしょう。肝心の時にゴールを外す、ミスを犯すというのは日本のお家芸というか、宿痾みたいなもので、あえてヒールかヒーローか、というのは、こういうプレーを引き受ける覚悟のことを指すのです。 野球のことを自律性のないスポーツのように揶揄していますが、実はそんなことはない。イチローがメジャーリーガーで有り得るのは、彼の自律性のマインドそのものであり、メジャーとはそもそもそういう集団なのです。してみれば日本式の集団野球というのは、やはり優れて日本文化のマインドの現われで、私たちはいつのまにやらここにもガラパゴス化した精神を見止めざるを得ません。 何度も言いますが、それが好いとか悪いとかの話ではありません。そういう指向性が私たちの内部に色濃くある、ということを知っておくのが大事ということです。こういうことを言うと、何でもかんでも「俺が、俺が」の精神を推奨しているのだろう、とまた誤解されそうだし、またそういうふうに誤解してプレーしている選手もいそうです。 本田選手を見ていると、そういう嫌味がない。彼もまたイチローや中田や、そしてあえて言えば、かつての荒川さんやヴァイオリンの神尾さんたちと同じく、自身を見つめる冷徹な目があって、日本式の集団指向性から逃れる術を心得ているように思えます。それにしてもそんな振るまいかたを身につけていないと、どうしようもなく矯められてしまうという、日本人の我々の指向性というのは驚くほど強い。日本にもたぶん数多いる天才たちが、時にこの重たいタガをガチガチにはめられて、身動きが取れなくなっている状況というのは依然としてあるのです。 だから、「この先、日本のサッカーが、世界に通用するか?」みたいな論議の前に、自分たちのマインドをもっと分析したほうが早いのでは、と思うのです。どういう精神が世界に通用して、どういう指向性が日本に特殊的なのか、もっともっと掘り下げないと、今回ベスト16だから次回ワールドカップはもっと上みたいな、能天気な発展思考は止めたほうがマシでしょう。
2010.07.02
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