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ずうっと前にがんの話に絡めて、あれこれ考えたことで、― 身体には、原始単体で発生した生命がもともと持っていた、単体で生命としての個体を永遠に維持しょうとする機能と、多細胞化して個々の細胞の生命維持機能を有限にコントロールする代わり、個体全体ではその生命多様性を維持して、種全体で永遠性を獲得しようとする機能が、矛盾する形で並存していることになります。 ― 「ホメオスタシス 2.(2006年08月24日)」という話をしたのですが、生命の定義をもし「外界からの絶え間ないエントロピー拡散(無秩序化)の圧力に抗って、皮膜で覆われた単体が内部秩序を維持しようとする意志」であるとするならば、個体としての生命単位というのは、そもそも原理的に秩序化された「永遠」を指向するものであるはずです。 しかし個体は物質で出来ているために、その内部秩序を最新の状態に保つには、常に外部から修復の材料の摂取を必要としているので、外界との接触は欠かせない。さらに内部秩序維持の戦略としては、単細胞であるより多細胞であるほうが有利で、それをもっと押し進めるなら、種全体の秩序維持を優先して、異なった遺伝情報を持った複数の個体が融合したほうが、外界に対する環境対応多様性を得ることが出来、そのほうが「永遠の秩序維持」という生命の本義からして、より相応しいということになるのでしょう。 ここで見えてくるのは、生命の在りようというのが、その個体が物質で構成されているかぎり、どうやらその在りかたに本来的な矛盾があるらしい、ということで、そこから生命の本質というものを、それを構成している物質ではなく、物質を秩序立てている情報そのもの、つまり遺伝子に求めようとする考えかたも出てくるわけです。 誰がそんな仕組みを考えついた?といった詮索は一応ここではしない(まあ例えば「神の意志」とか、「自然選択」とか)ことにして、ここで何となく垣間見えてくるのは、どうも生命の原義は本質的にメス♀から発したのではないか?ということなのです。生命秩序維持の目的にそって、生命多様性を獲得するために「性」が分化したのだとすれば、オス♂というのは明らかに後から発生した(作られた)のだろう!? 我々、男=オスにとっては、はなはだ噴飯物の結論なのですが、これもまた前に話したように、例えばチョウチンアンコウという魚、オスはメスの腹に一生くっついて、その血を吸うことで生き永らえている、このオスにはすでに自ら餌を捕食する機能はなく、ただただメスの遺伝子情報とは異なった「精子の生産装置(!?)」としてのみ存在している(ように見える)。これはもう、一個の独立した個体というより、ほとんどメスのアンコウの臓器の一部と言ってよいのではないか? 何だか、ため息が出てきますが、そこまでして我が身と半分は異なる遺伝情報を作り出そうとする、生命多様性維持のために設えられた仕組みというのは、やはり驚くばかりですね。こうして見ていると、やはり男=オスの様態というのが、現状の在りように対応するための存在ではなく、むしろ生命秩序維持の目的のために、常に現状の「破壊と創造」を目的として形作られたものなのではないか?という疑念が巻き起こります。 要は男=オス的なるものは、常に現状(現実)からはみ出した属性としてこの世に在るのではないか?ということなのです(まあ、私だけの妄想かもしれませんが)。これは何も身体的な性別というより、より「女性」性、より「男性」性な態様として、あらゆる生き物を通して備わっているものなのかもしれません。 そうすると、人が作り出してきた文化・文明の利器というものが、やはり本来的にヒトの「男性」性によって生み出され、その「女性」性によって享受されているという、これまたはなはだ図式的な妄想が、またまた頭をよぎります。― つづく ―
2010.12.29
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「恐怖」心理というものが、生き物一般の振るまいに、どういった影響を与えているのか?この手の話は「動物行動心理学」のように専門書的に難しく考えるよりも、普段周囲で接することの出来る動物や植物などの振るまいを観察していれば、ある程度想像できるよすがになるのではないか、と思っています。 ここからは、またしても私の妄想です。 おそらくこれは、外部あるいは異物を検知する一つの仕方として、生き物(あるいは、生きるという行為)そのものにもともとビルトインされている必要不可欠なセンサー機能が、人間とたぶん動物の一部にあっては、「恐怖」心理という形で特異的に現れているのではないか?ということなのです。早い話、植物や微生物などであれば、外部からの刺激は「恐怖」というかたちでは受容されていないでしょう(たぶん)。 もし、外部刺激によって観察される植物や微生物の振るまい ― 例えば「逃げる」「追いかける」「捕食する」「同化する」といった ― に「恐怖」の痕跡を認めるとすれば、彼らには我々と同様の「心理」が宿っていることになってしまいます。普通常識的には、これらを植物や微生物の「恐怖」心理から出たものとは誰も言わないでしょう。 とはいえ、我々はそこに「化学反応」とか「作用・反作用」といった自然のたんなる物理現象とは、明らかに異なる一種の完結した「意志」を見とめるわけで、それは例によって福岡伸一さんふうに表現するなら、 ― 外部からの絶え間ないエントロピー拡散の圧力に抗って、皮膜に覆われた個体の内部秩序を維持しようとする「意志」 ―とでも言うべきものを、そこに感じ取らないわけにはいきません。 そうした時の植物や微生物の振るまいに、あるいは「痛み」だの「喜び」だの「恐怖」の表象を見とめるのは、(たぶん)観察している側の心理がそうさせているのであって、人によってはそこに「愛」を感じる場合もあるでしょう(盆栽愛好家を見てごらんなさい。彼らは明らかに植物の「痛み」を感じつつ、剪定しているのです)。 しかし対する動植物が、そのとき実際にどう感じているか、というのは結局のところ誰にも分かりません。動植物という異物(外部)の受容の仕方として、そういうふうに観察している側が、自身を納得させているに過ぎないのです。 で、じつは同じことは人同士のあいだでも、程度の差はあってもよくあることなので、厳密に詰めていくなら結局、皮膜に覆われた個体として、外部を隔てて個体秩序を維持している私には、外部あるいは他者というのが、実際にはそれら(彼ら)が本当はどう感じているのか、ということは永遠に分からないというか、完全にそれら(彼ら)と同一化出来るということは絶対あり得ない、ということを納得せざるを得ないことになります。 つまり「生き物」というのを、もし個体秩序維持という「意志」を持っていることで以って「生き物」と規定するのであれば、まさにそのことによって「生き物」は、個体毎でこの世界に各々「バラ撒かれて在る」ということになるのです。 はたして、そんな理解の仕方で好いのか(ヤッパリちょっと、寂し過ぎるんじゃないか)? じつを言うと、その個体の秩序維持には、外部(異物)の受容というのが必要不可欠であることは、少し考えてみればすぐ分かることです。 早い話、生き物は外部から異物を受容することによってのみ、生き長らえることが出来ているわけで、秩序維持機能(ホメオスタシス)によって、その身体を外部とは厳密に区別しながらも、呼吸や食物という形での異物の摂取なくして、それを維持することが出来ないことぐらい誰でも知っている。さらにいうと、セックスという他者(外部)との交合があって、はじめて我が種の子孫を残している(個体を超えた「生き物」という秩序を維持している)、ということなのです。 ここには「生き物」という存在の仕方そのものに、本来的な矛盾が内包されている、と言っていいのかもしれません。― つづく ―
2010.12.25
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また話が下世話になりますが、元海保職員が送致されたので、一区切りのようにして以下のようなコメントを、あるテレビ局に流しました(採用されるかどうかは分かりません)。私の思っていることを整理する意味で、そのまま掲げておきます。― 尖閣ビデオを流出させた元海上保安官が送致されたことで、新聞各紙及びテレビメディアに本人の実名と写真が出はじめました。前に繰り返し話ししたように、私は佐藤優さんと同じく、この元海保職員の振るまいについては、「同情にも称賛にも値しない」という立場なので、本人の今後の帰趨についてはコメントしません。 しかし、まだしばらくマスコミは彼の利用価値を認めているわけで、私はそちらの彼に対する取り扱いかたに関しては、ずうっと重大な関心を持って見つめて行こうと思っています。一連のこの騒ぎの相当部分が、ビデオが流出する以前から、ある種マスコミの世論誘導によって惹起され、さらに今後もそれが繰り返される可能性が高いからです。 その世論誘導とは何か? 今だに「中国人船長を裁かなかった以上、この元海保職員も裁けない」と、国内法を盾に論を成す評論家、あるいは検察内部にも同様の考えがあるようですが、先に触れたように、もし「中国人船長の超法規的解放」を政府の弱腰外交と批判するのなら、同じ文脈で「中国河北省での、フジタ社員四名拘束事件」に関するしかるべきコメントがなければならない。事態がこれによって急変したことは明らかで、この拘束事件の解決について何らかの対案を持ってコメントするのでなければ、政府に対する批判としては責任を負った言説とはいえない、ということなのでした(これは何も現政権のやったことを擁護しているわけではありません。対論や批判をなす場合の筋として言っているのです)。 世論はもちろん、それを誘導するマスコミは、この「フジタ社員拘束事件」が拘束を解かれたことを以って、とっくに済んだこととしてすっかり忘れたか、忘れた振りをして、明らかに密接に関連した事項であるにも拘らず、これと絡めて話ししようとは一切しません。 私はこうした論法は狡いと思うのです。 国内法にかぎって議論すれば、いかにも筋が通っているように見えるこの話、「砲火を交えない戦争」という外交場裏において、いかにも片端な議論であることは明白なのです(そしてそれはビデオを流出させた元海保職員の頭にも、もちろんここから先もなかったでしょう)。 現政府を「屈辱弱腰」と罵倒するなら、どういうふうに「フジタ社員」を解放するつもりだったのか、その対案を持って罵倒する人たちはすべきでしょう。前にも触れましたが、その中味は(例えば、拘束が長期化し、さらに両国の裁判合戦になったような)場合によっては、拘束されたフジタ社員とその家族、及び株式会社フジタに対する説明、さらには中国の裁判過程において出てくるであろう、「旧日本軍が遺棄した化学兵器」にかんする国民への説明をも想定しなければならない論件だったのです。 対案とは言わないまでも、せめてそういう事態も意識した発言であってしかるべしというのが、ごく世間的に言って常識だと思うのですが、マスコミは誰もどこもしない。従って、これらの言説は「いちばん言いやすいところだけを突付いて、見たくない、あるいは軽々に論じると、ヤバくなる(責任を問われかねない)部分を避けている」ということになるのです。 その結果、持たらされたのが何だったのか、ということなのですが、「せっかく体を張って取締りを行っている海保職員が可哀想じゃないか、これでは現場職員に対して申し訳が立たない」という海保側への一方的な擁護の論調と、返す刀で恫喝中国に対する弱腰現政権への批判という、まことに分かりやすい図式の論調なのでした。そこに「フジタ社員をどうやって救出するか、結果的になぜ救出できたのか」という言及は一つもありませんでした。 ビデオ流出はそうした浅はかなマスコミ論調の流れの中から、必然的に生まれてきたものであり、私の感触では、この流出騒ぎを生んだのは、他ならぬ日本のマスコミの姿勢と見識そのものだった、と思っているのです。 しかし今回警視庁の捜査の過程で明らかになってきたのは、むしろ海保内部における情報管理体制の脆弱さ、認識の甘さということであって、おせじにも海保の内部組織はこの出来した事態において、それを擁護できるような体制であったとは言えません。こうした弛緩した組織であれば、ビデオをユーチューブに垂れ流すような職員が出て来てもしょうがないな、ということなのです。 という意味でも、流出させた職員が「神戸」海上保安本部に属していた、という事実も見逃すことが出来ないのです。私がそれをほぼ確信を持って言うのは、彼がそのビデオ映像を持って最初に読売テレビの記者に接触した、という報道を見たからであり、他ならぬこの読売テレビこそ、上のような論調をいちばん景気よく打ち上げていたからでした(どの番組だったか?なんて、言うにも及ばないでしょう)。 前にも触れたように、かの職員は世間の動向を見ながら、どこでどのように流出させるのがベストか、機会を伺っていたのであり、流出後もどういう言動を採るのが今時点でベストか、様子を探りながら行動しているのです。「Sengoku38」というハンドルネームにかんして、「一つくらい秘密があっても良いじゃないですか」という昨日の彼自身のコメントは、「これを流した動機に政治目的はない、広く一般の国民に事実を知ってもらいたかっただけ」という、最初の言説(この文言も、一般の支持を得るために弁護士と作ったものでしょう)を維持するためであり、もし本当に政治的意図を含んでいないのであれば、こうしたハンドルネームを名乗るはずがないのです。 いずれ彼の本心が奈辺にあったのか?は、彼が海保を離れたことによって、いくつかのマスコミから流れて来るのでしょうが、何度も言うように、私は彼の動向にはそれほど関心がありません(いずれ選挙にでも打って出るつもりなのでしょう)。問題は彼を取り上げる(あるいはゲストで迎えようという)側のマスコミの姿勢と見識のほうだと考えているので、そちらはこれからも注意深く見詰めていこうと思っています。彼を取り上げるたびにマスコミも彼自身も、上に私が問うたような「責任ある言説、あとを引き受ける行動」とはどういうことであるか?をその都度問われることになるからです。 ― という中味でした(ヤッパリ、かなり挑発的ですね)。― つづく ―
2010.12.23
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「倫理学」というものが、「善とは何か、義務とは何か、価値とか規範とは何かといった諸問題について、人間存在のあるべき姿との連関において、原理的に考察するものである」(Yahoo!百科事典)とすれば、受験対策にとってこれほど実践的でない教科もないのです。なぜなら、そういうふうに「受験対策」に取り組む自分自身の行動に対して、いちいち「問いを立て」てみるのが「倫理学」ということなのですから。 私の通っていた高校(そして間違いなく、当時のほとんどの高校)では、明らかにそうした「問いの立てかた」を避けて通っていました。これは例えば、若者にとって喫緊の課題であった「性」にかんする話題を、学校に限らず世間一般で明らかに忌避していたのと同じ構図だったような印象があります(今はどうなっているのでしょう?ひょっとすると両方とも話題にするのも野暮って感じですか)。 たまに比較的「話の分かる」教師がいたとしても(高校の先生というのは大変だと思いますよ。生徒は恐ろしく批評的になっていて、相手教師が「話の分かる人間」か「うわべだけの人間」か、瞬時に嗅ぎ取りますから)、上に類する質問にはまず答えることはしなかったというか、話題を逸らしましたね。私にとってはなぜ逸らすのか、そこが問題だったのですが、たいていの「よく出来る若者」は、そこで瞬時に「問い詰め」を止める。世間で言うところの「素直」とは、こういう態度を言うのです。 しかしまあ、他の人の話はさておき、特に若いころには人というのは、こうした本源的な「問い詰め」というのに、どうしても行き当たらざるを得ない場面というのがある、ということもまた確かにあるので、要はその「問い詰め」の方法が、人によって様々に違っていた ― スポーツでも音楽でも、そしてたぶん受験対策行動そのもの(そうした面倒なことはサッサと済ましてしまう、という意味で)でも、、そうした「問い詰め」はたぶんあり得たのです ― 、ということなのでしょう。 今どき、やはりこんな話は、いくらやっても野暮なのですかね。しかし話題に上がらないからと言って、当該の問題が世の中から消えてなくなったわけじゃないですよ。― 閑話休題 ― 話を戻します。 それにしても、私がさかんに言い立てていた、日本人に通有しているという「臣民」のマインド、この「臣民」の対概念を立ててみるとすると、どうもそれは、私がずうっと思い描いていた漠然とした妄想より(つまり、江戸時代以前といった歴史的文脈で考えるより)、もっと原初的な在り様、要するに「生き物」としての対概念にまで、押し上げて考えたほうが、あるいは分かりやすいのかも、というのが現時点での感触なのです。 そんなことに思い至ったのは、先に、― 他所からの「何か」というのが、外面はいくら強面の「恐怖」を伴っていても、いずれ「何か好いこと」に転化できることを、経験的に薄々知っているので、首をすくめるほどに怖いにもかかわらず、ひたすらそれを「待ち焦がれる」という構図になる ― (いわゆる戦争報道について 78.)という、一見まるきり相矛盾する、日本人の振るまいかたの話をしながら、これって要は「怖いもの見たさ」の心理構造と一緒じゃないの!?という感じがして、となると、これをたんに日本の歴史的文脈だけで追いかけても、とても覆いきれないのではないか?と感じたからです。 かと言って、それをよくある「風土論」のような地平に還元してしまうのも、何となく新味に欠けるし、もう少し気の利いたアプローチはないものか? 歴史的文脈で辿っていけば、戦国末期から江戸時代の初めにかけて確立した「統治する者」と「統治される者」という関係が、徳川三百年の間に「臣民」としての日本人の様態として骨がらみに沁み付いた、それが明治以降の中央集権化の過程でもけっこううまく作動したために、今に至るもごく意識されないまま、ずうっと継承されているのではないか? したがって、「臣民」の対概念が江戸期では「将軍様」あるいは「(各藩の)殿様」であったのが、明治期にはそれが近代立憲君主制を体現する「天皇」に置き換わっただけで、日本人全般の基本的な「臣民」という基底のマインドは、いささかも変わっていないのではないか?というような話の筋だったのでした。 しかし、今やそうした歴史的文脈だけで把握するだけでは、とても収まり切らないような、「臣民」的思考態度、あるいは振るまいかたに対置するものを想定してみないと、どうもしっくりと腑に落ちない。 それはむしろ先の「怖いもの見たさ」の心理構造とか、あるいは生物生存本能のような角度から、それに対置するものを考えれば、これまた多少違った地平が見えて来るのではないか?と思っているのです。― つづく ―
2010.12.21
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話はまた逸れますが、考えてみると「倫理学(ethics)」という学科、小中学校では私の時代、ずいぶん古臭く「道徳」というような呼ばれかたをし、確か高校になってから初めて「倫理・社会」といった教科で括られていた記憶があります。「政・経・倫・社」というように、すこぶるマイナー(定期試験対策としては一夜漬け、大学受験科目としては選択科目の最後)な感じでしたね。 おもしろいのは、当時この「倫理・社会」という教科の中で、「哲学」や「宗教」がまとめて扱われていたことで、本来なら倫理学は哲学の一部(実践哲学)であるし、その「哲学」もまた西欧的な概念から言えば、もともと「宗教学」から派生したものでしょう。日本では知識(主として受験対策の)として、「倫理」や「哲学」の一部を取り扱うことはあっても、それをこの先、実際に苛烈な娑婆を生きていくうえでの、自身の行動規範とか振るまいかたを考えさせる、つまり生徒に「自ら問いを立て」させるような教科ではなかったということです。 というか、そういう教えかたをする教科というのは、間違いなく当時一つもなかったですね。学校ではそうした「自ら問いを立て」なければならないような考えかたは、すべて注意深く排除していたような印象がある。今から考えれば、「現代文・古文」にしても「英語」にしても、あるはひょっとして「数学」も「物理」「化学」も、扱いようによってはすべて「自ら問いを立て」られる教科であり得た、にもかかわらずです。 それをしなかったのには、何より「受験対策」最優先という、ごく現実的な要請があったから(「受験地獄」だの、「四当五落」といったコトバが、まだ生きていましたな)なのでしょうが、どうもそれだけではなかったような気もする。 実際に「倫理」を教えていた先生、一応地方の秀才ばかり集めた高校生相手に、なかなかキップの良い印象があったのですが、教える中味にかんしてはまったく意味不明、この人がカントだヘーゲルだといろいろ講釈しても、まずここから先も腑に落ちない。「ああ、この先生自身が、たぶん何も分かっちゃいないな」というのが、気の利いた生意気な生徒たちには何となく分かってしまう。 これって、なかなか「悲喜劇的状況」を教室に生み出すのですが、この先生に限らず、先生よりも生徒のほうが、明らかにその教科の内容をよく理解しているという雰囲気は、いわゆる進学校と言われる高校ではけっこうあるものです(「私がそうだった」という意味じゃないですよ)。嘆かわしいのは、それによって先生が「一部の生徒に媚びる」という、本来あり得ない風景が現出することなのでした。 今、思い出しても不思議なのですが、そうした「一部の生徒たち」というのは、例外なくトップクラスの一群を成していて、彼ら同士で一種独特のサロンを作っていたような記憶がある。間違いないのは、彼らは先ほど私が上げたような命題、つまり「自ら問いを立てる」というような仕方では、絶対に勉強していなかったということです。 そのように平然としたマインドを見せられるにつけ、「こりゃ、とても付き合えんわい」という感じがあって、私など敬して遠ざけていたものでした。「生きかた」の学問を、自らの生きかたとはまるっきり切り離して、すべてたんなる知識情報として、きれいに整序して処理出来てしまう。こうしたある意味タフなマインドの持ちかたというのが、実際に自分と同年齢の若者にいるのだという驚きと、おそらくこういう連中こそが、たぶん世の中のいわゆるエリートというものになって行くんだな、ということが若いながら良く分かるのです(事実、彼らの多くが、一流大学、一流企業、あるいは医者というコースに進んで行ったようです)。 世の中には、確かにその種の感覚を、ごく自然と備えた人たちがいるらしいので、私のように「倫理」は当然として、「現代文」に用いられたテキストの中味にも、いちいち足を取られるという人間は、やはり多少特殊だったのかもしれませんね(「古文」は中味以前に、読みかたで足を取られていました)。しかしそれでも比較的、疎外感を抱かずに過ごせたというのは、同じようなしかたで「落ちこぼれ」た連中が、これまた不思議と私の周辺にも何人かいたということで、彼らとは今でも私は親友なのです。 何だか妙にセピア色の話になってしまいましたね。― つづく ―
2010.12.20
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先に触れた「閉じられた語法」で語ろうとする人たちの思考態度というのは、これもまた内田樹さんの受け売りですが、はなはだ窮屈な感じがする。 二項対立式に問いを立てて、「あれか?これか?」で事柄をクリアにカットしていけば、その思考過程そのもの(自身の「問いの立てかた」そのもの)を呻吟するという恐れは何もなく、したがって予定調和的な結論もすぐに出てくるわけで、すこぶるその点ではこういう思考方法は楽チンなのです。 しかし、さてそこからかんたんに導き出された結論というのは、はた目から見ればとてつもなく現実から遊離して、「閉じられた」我が身だけがフワフワと中空に浮遊しているといった図柄になる(社民党の語法を見てみなさい)。ものごとがクリアに整序されればされるほど、おそらく本人が意識する以上に、周りから見ていると窮屈な思考パターンにはまっている、としか思えない。 その由って立つ原因がどこにあるのか?おそらく、その(左翼的に)あまりに定番化され過ぎた思考パターンそのもののかもし出す、狭隘さかげんから来る窮屈感でしょう。 同じ思考パターンの狭隘さというのは、このたびの「尖閣問題」をめぐるコメントの語法にも共通しているので、両方とも論説とかコメントをする前から、持って行こうとする結論は決まっている、要はその人たちの論説やコメントを聞いたり読んだりしても、悪いですがちっとも面白くない。面白くないというのは、それを聞いたり読んだりして、新たな発想に導かれる(蒙を開かれる)というような、ドキドキ感がまったく感じられない、ということです。 あれこれ論説しているうちに、自身の論の立てかたについて、「本当にこれで好いのか?」といったような、一種「揺らぎ」のようなものが入ることを、この人たちは極度に嫌う。要するに、その言説は「閉じられている」のです。したがって、この人たちとの討論というか、話し合いというのは、先方さんがこちらの言説に耳を傾ける気というのが、最初からまったくない(聞くのは、こちらの揚げ足を取るときだけ)ので、はなはだ疲れるという仕儀になります。 もう一つ付け加えるならば、日本人というのはこうしたネチッこい思考というか、ものの言いかたが好きでないみたいですね。よほど辛抱強い聞き手であっても、たいてい途中で頭がハチハチになって、突然パッと思考が停止する。これまた私のつたない経験ですが、研修などで話ししながら聞き手の顔を見ていると、相手が本気で聞いているかどうか、ホンマに面白いぐらい良く分る。こちらの伝えたい事は山ほどあっても、聞き手の目が中空をあちらこちら舞っているときは何を言ってもダメで、そういう時は大阪風にギャグをかますか、シビアな状況にするなら、意地悪な質問を繰り出す、といったようなことをよくやります(タチが悪いですね)。まあこれは別の話。 これまた「内田本」の受け売りですが、これは何も思考パターンだけではなくて、どうやらある種の日本人に見られる典型的な行動様式でもあるらしい。一時はやっていた女子高生(だけでなく、十代の女の子全般?)の「※※※座り」、彼女たちにとっては「自分たちの存在を主張する」最たる手法だったのですが、誰も彼もがやりだすと、どうみても修行僧の苦行に似て、本人たちが思っているほどに「楽チン」しているとは思えない。 これはヤクザが刺青を彫るという難行によって、同志的結合を確認し合うという行動様式と同断で、いわゆる「若者の自己主張」とは違う。自己主張というなら、一人くらい「正座」する人が出て来てもよさそうですが、絶対いない。「閉じられた集団」では、その同志的結合を確認し合うために、はた目にことさらな難行を課すのです。 というわけで、思考様式だけでなく行動様式にも「閉じられた」振るまいかたというのが、どうやら我々には本性として付着しているようで、これらを「開かれた」思考行動様式に持って行くのは、容易な事ではないようです。今、出来るのは、たぶん私たちは本来的にそういう性向を持った生き物である、ということを知っておくことくらいです(ひらたく言えば、「我が身を知る」ということ)。 であるがゆえに、自身の思考や行動に常にいったん「問いを立ててみる」、見直しを行なってみるという態度が、取りあえずは必要かなと思っているわけです。またまた内田樹さん風になりますが、それが例の「ためらいの倫理学」という考えかたなのでしょう。― つづく ―
2010.12.19
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それにしても、今どきのこうしたサイトに書き込まれるコメントの語法というのは、ある種日本人の語法を典型的に示しているような気もする。 これはたぶん、ネットにだけに見られる特有の語法なのではなく、例えばテレビ討論とか市民フォーラムのような、一般の討論会においても時おり見られる光景で、要は討論の中身より、相手の立ち位置(右か左か?賛成か反対か?)を先に見極めて(レッテルを貼って)、後はそれに対する自分の位置取り(上か下か?)だけに専心する、という構図で話そうとしているように見えるのです。こういう思考様式というのは、互いにニュートラルであるべき討論という形式には、本来なじまない様態でしょう。 お互いにニュートラルという立ち位置というのは、平たく言えば「他者、あるいは異物を認める」という態度でしょう。上の語法とは、それとはまさしく真逆の思考態度で、典型的に身内の語法で固まろうとする。さらにその身内の中での自身の位置取り(上下の)だけに熱中して、「各々、其ノ所ヲ得ル」ことで、やっと気が落ち着くのです。 したがって、こうした人たちの話しかたは、しつこいですが「尖閣諸島問題」の話で言えば、少しでも宥和的(に見える)コメントを付した人たちに対しては、すべて「親中売国奴」ということで片付け、ひるがえって身内(?)の「愛国同盟」の間では、よりニッチでレアで過激な情報を知っているかどうかで、自分の立ち位置を確かめようとしているように見える、「俺は、こんなことまで知っているぞ」といったように。 そして驚いたことに、そうしたコメントを付している人たちが、今どき想像されるようなネット右翼の若者なのではなく(その手の投稿は、たぶん削除されているのでしょう)、投稿されている人たちの年齢を信じるかぎり(あまり偽る理由はないでしょう)、私と同年輩あるいは上下二十年くらいの巾、要するに(三十代~七十代という)世間的には社会常識をいちばん備えているはずの年齢層の人たちがけっこう多い、ということなのです。 つまり、上に上げたような「閉じられた語法」というのは、ネットに今どき特有に現れた現象ではない。内田樹さんふうに言うとすれば、典型的に「構造化」された日本人の語法だということになるのです。 となると、先に「語法の貧困さ、さらには他人を説得しようとする発想や方法の貧しさ」と、偉そうに決めつけた私のコメントも、留保条件をつけざるを得ないのかもしれません。要はそうした語法が、ほとんどの日本人に今でも、そしてずうっと昔から根強く共有されているのだとしたら、おそらく間違いなく上のような私の語法にも、それが含まれているに違いないからです。 話が堂々巡りしているように思われるかもしれませんが、自身のしゃべり方自体にも、しょっちゅう「問いを立て」ながらしゃべっていると、どうしてもこうなるのかもしれませんね。この話じたい、この夏に見た「戦争報道」番組の印象がきっかけで始めたのですが、最初漠然と思い描いていた事柄とはかけ離れて、さらには「尖閣」というはなはだナマな政治向きの話を取り込んだために、収拾が付かなくなっています。 しかし、これまた笑ってしまうのですが、こうした収拾の付かなさを、我ながら面白がっているところがあって、いっそトコトン付き合ってみるか、というのが今の気分です。クソ熱い今夏の盛りに、沸騰した私の頭に沸き起こった妄想というか「ある事」というのは、どう見ても今している話とは結びついていかない。 その「ある事」はどうやら「欄外」、あるいは「あとがき」のようにして、書き記すことになりそうです。― つづく ―
2010.12.18
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他所からやって来る「何か(好いこと)」と言いましたが、それらはおおむね「好いこと」の印象であるよりは、「悪いこと(Bad Thing)」ないし「怖ろしさ(Fear)」の相貌を伴って、実はやって来る。日本人が外部からの圧力を、いつも気分的にははなはだ受身的な姿勢で、対応しようとするように見えるのは、あるいはひょっとして、他所からやって来た「悪いこと」を、とにかくなだめすかして、出来るだけ(国内では)暴れないようにしておこうとするためなのかもしれません。 これって何だか、「魂鎮め」の儀式を行っているような様態に見えますね。気分的には、地震とか台風や雷といった避けようのない自然災害と同じく、首をすくめて腰を落としてひたすら耐えしのぐ、という体勢になっているのです。で、そうしてやって来た「悪いこと」を実際に使ってみれば、意外と便利ということがある。たぶん日本人はこの卓越したアジャスト能力において、世界に冠絶しているのかもしれません。 あたりまえの話ですが、当然アジャストの過程では、その「悪いこと」に本来盛られている理念とか概念のような「毒気」はとことん抜かれて、実際にこの島国で稼動し出したときは、ほとんど原形を留めていないという仕儀に相成ります(というより、そこに盛られたConceptなど、誰も最初から認めていない)。 結果的に「恐ろしくも悪いこと」に見えた「何か」は、いつの間にやら「好いこと」に転化している。私たちはどうもこうした無意識の転化を、自然災害とか風土にまで広げて考えれば、ひょっとするとこの日本列島に住みついた時点から、ずうっと生き延びる術として身に付けてきたのかも知れません(逆に言うと、アジャスト出来なかったDNAの持ち主は、とっくの昔にことごとく淘汰されてしまったのです)。 つまり私たちは、他所からの「何か」というのが、外面はいくら強面の「恐怖」を伴っていても、いずれ「何か好いこと」に転化できることを、経験的にうすうす知っているので、首をすくめるほどに怖いにもかかわらず、ひたすらそれを「待ち焦がれる」という構図になるのです。 こんなことを言うから、「お前は、戦後教育に侵された自虐史観の信奉者だな」などと罵倒されるのでしょうが、自分たちの態様を知っておくというのは、「自虐的」と言うような価値観とは関係がない、優れてニュートラルなものの見かただと私は思っています。 早い話、私たちが外に向かって発信した「大東亜共栄圏」だの「八紘一宇」といったConceptは、どこの誰も理解できない。語法として翻訳のしようがない、あたりまえの話で、もともと日本人がこうしたConceptを、とことん世界標準の語法にまで練り上げたという形跡はまったくないのです。だいたいが、先ほどの「自虐的」とか「戦後教育」といった語法に込められたニュアンスというのは、英語の直訳してもまったく意味が通じない。こうした語法を使う人たちは、最初からそれが「身内」だけにしか通じない、逆にいうと他者に対しては、最初から閉じられた語法であることを、じゅうぶん意識して使っているということです。 前に、このおしゃべりの中味の一部を、あるテレビのコメント欄に多少過激な形にして投稿し、その反応をいずれまとめてレポートします、といったようなことを書きましたが、ハッキリ言ってまとめる気がしません。 一つは相当過激な反論の書き込みが、おそらくかなりあって、その相当数をサイト管理者が削除したのでレポートのしようがない、ということ。もう一つは取り上げられた反論の書き込みを見ても、要は上のような、まさしく身内だけに通じる語法で、取りあえず紋切り型のレッテルを貼りつけて決め付けておく。あるいは「おまえは尖閣諸島を、どこの領土だと思っているのか?」といった単純に白黒を迫る口調(そんなの聞くも野暮じゃないですか。日本人はみな自国領だと思っているし、中国人の一部もまた自国領だと思っている、それだけのことです)など、とにかく語法の貧困さ、さらには他人を説得しようとする発想や方法の貧しさというのは、ため息が出て来るほどです。 まあしかし、黙って他人を試すのは、多少こっちも狡いといったところもあるし、何しろ大人気ないという感じもある。したがって、これに関するレポートはしないことにします。― つづく ―
2010.12.17
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実をいうと、おそらくほとんどの皆さんが、この発想ではいくら人や政権をすげ替えたところで、この「国のかたち」は良くなりっこない、と内心では分かっているのです。二項対立式に「あれか?これか?」と答えを迫っても、オセロゲームじゃあるまいし、色が変わるだけで中味は何も換わりようがない。 表裏をひっくり返すだけなら、人を「本当に信任する」ということなど出来るわけがない。 うまく言えないのですが、何だか日本人全員がまたしても、ひたすら「何か」を待っているような気がする。「何か」とは、要はこういう事柄に分かりやすい答えを出してくれる「何か」を、ということです。そしてそれは、たいてい他所からやって来る。日常叩き合っている同じ日本人同士だと、お互いに何となく拠って立つ根拠に自信がないので、文字通り地続きでない海外からの言説という形で、「何か(好いこと)Sumething Good」をひたすら待ち焦がれるという、絵に描いたような「受身」の図式になります。 これはたぶん、こうした情報化社会を民主主義政体と同じく、それがこの「国のかたち」に今後何をもたらすものであるか、という吟味を省いて無定見に取り入れたところから発しているようです。自ら選んで取り入れたという記憶が、なぜか日本人には皆目ないのです。それとも一切合財が他所から渡来したものだから、当然その説明責任も他所から来るべきだ(他所にあるはずだ)、とでも考えているのでしょうか? ここにはやはり戦前戦後を通じて(あるいは、たぶん幕末以前からずうっと)、日本人が一斉にこぞって回避する、共通したある「欲望」が潜んでいるのだと思う。 何だか、お決まりの使い古された日本批判ばかり、ひたすらしているような感じで、我ながら噴飯物なのですが、別に民主主義も情報化社会も無定見に取り入れてかまわない。むしろ実際に取り入れてみないと、それが稼動したときに、何を出来するか分からないことのほうが多い(原発や戦艦大和のような巨大システムが、本質的には実際に動かしてみないと、どんな事態を実物が引き起こすか、というのが本当には分からないのと一緒です。図面と実物は違うのです、あたりまえですが)。 肝心なのは、実際に稼動している民主主義とか情報化社会といった大枠の社会システムを、現在進行形で検証吟味する、という発想が弱いというか、日本人にはほぼないと言ってよいのではないか?一度取り入れた巨大システムとか社会制度について、それをいかにうまく動かすか?ということには熱中しても、システムそのものをいじるのは極度に嫌う。出来上がった枠組みをいかにスムースに稼動させるか、については極めて熱心なのに、その枠組みそのものを見直してみる、といった発想のしかたをいかにも面倒臭がるのです。 ここにはやはり、牢固とした「臣民」のマインドが、見え隠れしているのではないか? 与えられた枠組みに対して、いかに素早くアジャスト(適合、対応)するか?ということには、四百年以上鍛えに鍛えられた「臣民」のマインドが遺憾なく発揮されるにしても、枠組みそのものを作り出すという発想は、「臣民」のマインドからはここから先も出てこないというか、何となく「畏れ多い」という感じがある。そのあたりのことは、どこかのエライさん(天皇さんでも、アメリカさんでも)がやること、私たちは枠組みさえ与えてくれたら、いかようにもアジャストして動かしますから、とにかくシステムの枠組みだけを早く示してちょうだい、ということらしいのです。 この根底にはやはり、「事柄の後を、本当に引き受ける」という発想がないでしょう。システムに盛られた理念などはさっさとすっ飛ばして、ひたすらスムースに稼動させることには長けていても、システム自体に「問いを立てる」ということはしない。 そのあたり、中国人もアメリカ人も何にいつも逡巡しているのか?何にいつも思案を巡らせているのか?どういったマインドで振るまっているのか?というようなところに想像を致すようなことは、我が日本人はまずしないと言って良いでしょう。彼らはどうやらシステムの稼働率より先に、システムそのもののConcept(概念、骨格となる発想)のほうが、いつも気になるらしいのです。― つづく ―
2010.12.16
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今や国家の首長も、メディアの帝王も、ウィキリークス他さまざまなネット情報に曝されて、かつてのような権威性というのは、見る影もなくなってしまいました。ネット世界というのは、見せないことによって保たれていた世の中のあらゆる権威性を、一瞬にして自分たちと等価の位置に引きずり降ろす、つまり相対化することにかけて、かつてない威力を発揮しています。 かつてオーバル・ルームや編集局長室で、ヒソヒソ語られ決められていた国の方針や報道姿勢というのは、今やいつ何どきの裏情報の漏洩で、その正当性をひっくり返されるか分からない。欧米の政治家や報道メディアは、それでも今起こりつつある情報革命に対して、それをまるきり忌避するのではなく、そういう事態においてなお民主主義政体を維持するとはどういうことなのか?ということを、手さぐりの現在進行形で考えながら振るまっているところがあるような気がします。 比べてみるに、日本の政治家は言うに及ばず、既成の報道メディアはどういう見識を持っているのか?何度も言うように、みんな手をつかねて棒立ちになっているような気がしてしかたがない。評論家・コメンテイターたちも、通りいっぺんの解説は加えることはあっても(おそらく、良く出来て海外情報の受け売り)、自身のスタンスというか見解をハッキリ出している人は少ないようです。 だからこそ、流出した「尖閣ビデオ」の無定見な垂れ流し、という退屈な事態が起こったのでした。何度も言いますが、この流出ビデオにかんして、何らかの検証コメント、クレジットを付けた既成報道機関は、一つもなかったのです。このあたり、ウィキリークスに対するニューヨークタイムスやガーディアンの姿勢とは、ずいぶん違うでしょう。これは欧米の報道機関が何でも優れているだの、進んでいるだのといった議論をしているわけではありません。要はこうした、怪しげな一次情報が出て来たときに、自分たちはどういうスタンスを取るのか?といった「当事者としての問いを立てる」という感覚が、日本のメディアというか、政治家はもちろん日本人全般に、なぜか決定的にないということなのです。 で、また話は元に戻るのですが、結局のところその淵源するところは、今の日本という「国のかたち」というのは、もちろん所与のものとして、もともと日本人が持っていたものではない、さらに今の「国のかたち」というのは、日本人自身が(血みどろで)勝ち取ったものではない、平たく言えば、完膚なきまで戦争に負けてみたら、なぜか前の政体よりよほどマシだった(と思い込んだ)、という敗戦直後の受け止めから、今の日本人のマインドはそのまま何ら反省・検証されることなく、ずうっと続いているのではないか、と私は思っているのです。 戦前の日本政府やメディアが、いかなるものであったか、というのは他ならぬ日本人がいちばん知っている(まさしく今、日本の周辺諸国の行っている振るまいかただったのです。謀略と扇動は、戦前の日本政府機関及びメディアのお家芸というか、それこそ「いつものあの手の日本人」と見られていたのです)。 ここまで「尖閣騒ぎ」について、大幅に予定を変更して興奮してしゃべって来ましたが、ずうっと戦争に絡む話をして来て、今回の事例を見ていると、これまた同じ文脈で捉えることが出来るのではないか?ということがあったのでした。 要はこの話の最初に掲げた命題、この国には実は「誰も本当に本気で、事を引き受ける気がない」つまり、出来した「事柄の後始末を、すべて引き受ける」ということの意味を、誰も真に理解しようとはしてこなかったのではないか?ということなのです。これも以前に言いましたが、一種無慈悲な装いをした「父性」的感覚といったものが、「古臭い」だの「時代遅れ」と、今どきすっかり忘れ去られているのではないか? 威勢良く現政権の失態ぶりを叩けるだけ叩いておけば一丁上がり、「あとは誰かが始末するやろう。出来んかったら解散して選挙やったらよろしい。誰かが何とかするやろう。何とかする奴が出て来るまで、何回でも選挙やったらええのや」では、ついに本当に国や家族を引き受ける人は出てこないでしょう。だって結局、誰一人その人を本当に信任したつもりなど、ここから先もないのですから。― つづく ―
2010.12.15
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まあ中国の話はさておき、今回の「尖閣ビデオ漏洩事件」というのは、いったん店頭に並びかけた商品を、政府が「国家機密」というタグをつけて「お取り置き」したにもかかわらず、海保職員が「義憤にかられて」タグを外し、その「取り置き商品」を勝手に店頭に並べた、という図柄なのです。こうした「不届き者」というのは、何度も言うように政府組織に限らず、一般社会でも必ずいるもので、肝心なことはそうした次第で、怪しげに店頭に並べられた商品を、どういうふうに租借吟味するか、という受け手のほうの態度にあるのでしょう。 私が本題をだいぶ離れて、ながながとこの問題をしゃべり続けてきたことの大半は、この受け手側の態度、特にマスコミと政治家の振るまいかたの方が、はるかに重大だと思っているからです。この事例が、まるで絵に描いたように漫画的な展開を見せているうちに、日本のメディアと政治家たちに、さらに追い討ちをかけるようなリトマス試験が今展開していますね。 他ならぬ「ウィキリークス」の問題です。 今、日本のマスコミ、政治家は「ウィキリークス」から垂れ流される、検証されない一次情報に手をつかねて、ひたすら沈黙しているように見える、どう扱って良いか分からないからです。 「尖閣ビデオ漏洩事件」であれほど海保職員を称揚した一部政治家は、こういう事態にどういう態度を取るのか?理屈的に言うと、アサンジ氏も同様に賞賛しなければならないことになってしまいます。さらにいうと「尖閣ビデオ」を何のコメント・クレジットも付けずに、再三にわたって垂れ流し続けたマスコミもまた、理屈から言うと、まがいもなく彼らが「反権力」であることを、マスコミの金科玉条と押し頂く信条からして、この検証されない一次情報に嬉々として飛びつくことに、本来はなるはずなのです。 それを何となくためらっているところがあるのはなぜか? 簡単な話で、漏洩した海保職員は「マジメ」で、真剣に「義憤」を感じたらしいからであり、アサンジ氏はそれに比べて、何となく「不マジメ」で、いくら偉そうな口舌を垂れても「愉快犯」的そぶりを感じざるを得ないから(何しろ、元ハッカーですから)でしょう。しかしそうした判断をした時点で、自身が「法治的」なものの捉えかたを放棄して、「人治的」な判断、すなわち北京政府と同じ判断基準に、自分たちが陥っていることを認めることになるのです。 それにしても、見た目そぶりの「マジメさ」と、事実的に彼らの背負っている「危険度」はどちらが大きいのか?どう見たってアサンジ氏のほうが、文字通り「身の危険」を負っている。海保職員は今だに自身の処遇すら、何ら下さずに傲然としているでしょう。 かといって、日本のメディアは「いや、そんなことはない!」とばかりに、ウィキリークスから次から次と飛び出して来る一次情報を、「尖閣ビデオ」同様、何らの検証なしにそのまま垂れ流す、といった度胸はないのです。なぜなら、すでに指摘があるとおり、その情報の中には現時点で、人の命を危険に曝す内容も含まれているらしいからで、早い話、日本の原発や海底ケーブルの埋設地その他、直接我が国のライフラインつまり国家安全にかかわる情報も含まれている。こうなると途端に、マスコミも政治家もいっせいに口をつぐんでしまう。 ではこれも繰り返しになりますが、「尖閣ビデオ」が「フジタ社員拘束」と、明らかに連動していたことについて、彼らはどう説明するのか?彼らの開放について、何か別の施策を持っていたのか? やはり、こうした一貫性の無いそぶりを、私は「狡い」と断じざるを得ないのです。 という意味で、もともと調査報道とか、自社の見識に強いプライドを持っている「ニューヨークタイムス」とか「ガーディアン」紙が、ウィキリークスの一次情報を自社の見識で判断して報道し、一時アサンジ氏と提携もしようとした(結局、決裂したようですね)ことは、メディアのあるべき姿としては、とても潔いと思う。垂れ流される一次情報に、とにかくその信憑性を確かめるウラを取り、さらにその情報をなぜ「報道」するのかについて、詳しいコメントをつけ、そのうえでその情報の意味するところに、通常の解説論評を加えようとする。 彼らは良く分かっているのです。報道の由って立つ存立基盤というのは、「反権力」でも「スッパ抜き」でもなくて、ばら撒かれてそこにある一次情報に対する自分たちの姿勢(見識)だけであると。どういうふうに租借吟味し加工して世に送ることが出来るのか、そこにのみマスメディアとしての存在意味がある、ということをです。彼らがそうした見識を持っているからこそ、そこで取り上げられた報道内容には、たとえ読み手(特に政治家)にとって不愉快な中味が含まれていようと、一定の評価を与えざるを得ないし、政治記者が実際の外交場裏に顔を出す(ニューヨークタイムスのJ・レストン)、ということもあり得る(これはどこかの新聞社主が、政治家とタッグを組んで政界再編を画策する、というようなレベルの話とは違いますよ)。 政府権力とは独立した見識を持っていると、米ソ両政府から信任されたから、両政府の会談の橋渡しを求められたのです。この信任の意味するところは、ニューヨークタイムス(J・レストン)に任せれば、ある意味「国も運営できる」と言えるほどの見識であったということです。 さて、今どきの日本のマスメディアの皆さんの「見識」はどうなのか?― つづく ―
2010.12.11
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「そんな話じゃない。なかば表に出てしまっている情報が、何で国家機密なんだね?そんなものを隠そうとするから、今回のような漏洩が起こるんじゃないか」と、またまたお叱りを受けそうですが、これもまた私は異議あり、なのです(このところ、何でも「異議あり」です)。 ひじょうに簡単な話で、要は時の国家権力(今回は仙石さん)がいったん「国家機密」としたものは、中味は何であっても、すべて「国家」機密なのです。中味なんかもうほとんど分かっていることだし、海保にも一部資料として出回っているのだから「国家」機密に当たらない、と外からマスコミや評論家がガタガタ言うのはおかしい。 だいたいが日本のマスコミとか評論家は、国家「権力」という言葉が飛び出すと、とたんに目クジラを立てるという奇妙な反射行動をとることが多い。「反権力」という一枚看板が、彼らの敗戦後の由って立つ唯一の正当性だ、と思い込んでいるからこうなるので、「報道の自由」だの「知る権利」などというのは、=「反権力」という意味に、そのまま繋がるというわけではないのです。これは逆に戦前のマスコミ、政談家諸氏がいかに時の権力と密着していたか、というトラウマの反作用としての現われに過ぎない。 本当に「報道の自由」だの「権力からの独立」を標榜するなら、時には政府の政策に賛同する言辞があっても本来おかしくない。しかし日本のいわゆるクウォリティ・ペーパーと言われる新聞、ないしテレビ報道を牛耳る在京五社とNHKで、そうしたスタンスを取っているところは一つもない。真に独立したスタンスを取っているならば、堂々と政府支持の報道もあっておかしくないのです(何も「お太鼓持ちをせよ」と、いっているわけではありません。報道各社独自の見識が、たまたま政府見解と同一だった、ということは当然あるはずでしょう)。 極論すれば、いったん外に出た情報だって、国家権力が政策として「機密」のハンコを捺したら、それは名目的には「国家」機密である、つまり出てしまっている情報や映像が、仮に紛れもなく機密映像であっても、政府権力としてそれを感知しません(公認しない)、ということなのです。 なぜそれを「国家機密」にしたのか?簡単なことで、何度も言うように、それが北京との取引材料だったからに過ぎません。そのあたりの見え見えの理路を、なぜ政府側も野党も説明したり理解しようとしないのか? かつての旧日本軍、あるいは今どきの官僚組織などでも、組織内の文書記録その他は、何でも「軍機」だの「極秘」のハンコをベタベタ捺して、部外に見せないようにする。中味の軽重ではなく、外部から何かと口出しされるのを極度に嫌って、とにかく全部隠す。「軍機」「極秘」といったハンコは、自組織を(その権威性も含めて)丸ごとベールで隠すのに、まことに好都合な手段だったというべきです。 同じような性向というのは、何も日本だけでなく世界中のいかなる国々でも、権力組織というのは必ず内部情報を隠したがる、情報操作をしたがるという衝動を本来的に持っているもので、だからこそアメリカやイギリスにおいては、三十年五十年経過したすべての記録文書公開の原則があるのでしょう(それでも隠蔽されて絶対出てこない事実というのは、どこの国でも必ずあるようです。例えばアメリカなら「ケネディ暗殺事件」、フランスなら「ヴィシー政権と旧日本軍の関係」、イギリスなら「ボーア戦争」や「セポイの乱」などは、いずれをとっても各国とも細々ほじくり返されたくない歴史事象です。しかし、まあそれは別の話)。 要は、何かにつけて隠したがる、時の権力組織に対するカウンター・バランサーとして、「情報公開」だの「知る権利」の原則があるわけで、これは何も近代民主主義国家に固有の仕組みというわけではなく、中国にも実は長い歴史の伝統がありましたね。 「易姓革命」のたびに前の王朝の歴史は、ことごとく表に暴露される。したがって、どの革命王朝も自身の正当性を示すためには、過去の歴史事実の記述に対して敬意を払わざるを得ない、という感覚があるのです。したがって、今の北京政府の評価というのは、やはり共産一党独裁が亡んで、完全共和政が敷かれたときに初めて、公になされる事になるのでしょう。― つづく ―
2010.12.10
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「国家機密」でも、「秘密会」という形で野党議員にも、その中味に触れさせるというのは、片方で政府に勝手なことをさせない、という要素があるとともにもう一つ、政権交代があっても国家の機能が渋滞することを避ける、という意味合いがあるのです。これはたぶん機密文書が、たとえ三十年後であっても必ず公開される、といった国民の「知る権利」と同じ意味合いを持つので、要はそれがあることによって、「今の政府あるいは官僚の振るまいかたを抑制する、あるいは牽制し得る」という機能を持たせているのです。 このあたり、国民の「知る権利」というものについて、たぶん国会議員の方もマスコミも充分分かっているとは思えない。「三十年後に知ったって、何にも意味がないじゃないか」と、おそらくこうした人たちの思考回路では観念されているのです。 私に言わせると「三十年後であろうが、五十年後であろうが、いずれ必ずすべての事実は公開される」という原則があることによって、「今まさに、政府その他の機関が、為そうとすることを、未来から規制し得る」ということなのです。永久に隠蔽されたまま、あるいは改ざんされた事実だけが公表されるというのであれば、「今」を統御する機能は永遠に失われることになってしまう。 旧日本軍及び時の政府官僚筋は、敗戦前後の(すでに瓦解した自組織にとって、なお都合の悪い)記録を相当組織的に隠蔽破棄し、改ざんした記録だけを残しているのです。その結果、私たちは今だに戦中戦後に死んだ軍人軍属及び一般民間人(それらはすべて同じ日本人であるのに)に、面と対処することを拒まれている。つまりそれ以前の(例えば、日清日露戦役の)戦死戦没者と同等に、これらの夥しい死者を弔うことが出来ない、という事態に敗戦後六十年たっても曝されている。事実が葬られている結果、今だに戦前の幽鬼魂が飛び交うのを抑えられずにいるのです。 事実が出てこない限り、いくら優れた分析や解析が行われようと、事実を隠蔽した組織は痛くも痒くもない(まさしく今回中国政府が望んだのは、それでした)。すべては憶測で片付けられ真相は闇の中、それによって今でも広大な権益を得る組織階層というのが(政官学財界を大きくまたいで)、まだ日本にはあるのかもしれません(憶測ですよ)。 さてそうなると、「たった七分間のビデオ」を見せられた国会議員というのは、どういう立ち位置であるのか、もう一度キチンと我が身を見直すべきなのです。あなたがたは「国家機密」を国民を代表して「秘密」裏に見せられたのであって、何も酔狂に「※ビデオ」を見せ合いっこしたわけではない。ところが見た後のコメントを聞いていたら、まさしく「見えた」だの「見えなかった」だの、「あ~ぁ、そんな感想しか出て来ないんかい!」と、ヤッパリため息の一つも出て来ますよね。 「秘密」を共有したということは、ある意味、政府と共犯関係になるということですよ。今後、見た議員さんの行動言質は、当然見なかった(見せてもらえなかった)議員さんよりも、厳しいチェックが入るのです。つまり本人の見識がより厳しく求められる、ということなのですが、上のような顛末を見る限り、とてもとてもそんな自覚があるとは思えない。 その後発生した海保職員による「ビデオ漏洩事件」についても、声高に「知る権利」を主張する議員さんやマスコミは、このように横紙破り的にビデオの中味を知ったことで、国民がいかなる利得を得たのか?ということについてキチッとした説明をしたところはない。せいぜい「やっぱり中国船が、無理無体にぶつけて来たじゃないか」という、もともと抱いていた国民の情動をさらに煽っただけで、その後発生した外野からの三面記事的な詮索ごっこは、まさしく中国側のネット書き込みと同じ思考レベルに成り下がっている。― つづく ―
2010.12.09
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同じような論法で、以下話することは、ある意味現政権擁護のような言動に取られるかもしれません。 今さら民主党擁護などと、バカな話はしたくもないのですが、それでも私ならこういう場面では、「こういう説明も、論駁もするだろうな」という、例によって思考実験の続きとして、聞いてもらって結構です。 例えば、仙石さんの「ビデオ国家機密」発言。すでに衝突事件発生直後から、海保その他から衝突の状況は詳しい説明があって、なおかつ撮影された映像だけを「国家機密」とするのはおかしい、という論議ですが、私はそうは思わない。 外交手段として、ほぼ分かっている中味であっても、あえて映像を公開しないという選択によって、それは外交カードであり得るということです。「そんなバカな!」と思われるかもしれませんが、外交というのは、いちばん下種な意味でのポーカーのようなブラフ(ハッタリ)ゲームであって、手持ちのカードがカスであっても、それを見せない限り、相手に対して脅威として使える。「出すぞ出すぞ」という身振りだけで、相手を少しでも折れさせられれば、その時点でハッタリは利いたということなのです。 細野さんが「フジタ社員拘束事件」に関連して北京に行った時、相手側が「ビデオを公開するな」という交換条件を、真っ先に持ち出したのはおそらく間違いなく、それは取りも直さずこの「ビデオ映像」が、中国政府にとってヤバイ中味であったことを示していたのです。なぜなら北京政府は、衝突事件直後から「公式見解」として、図版入りの詳細な衝突場面の状況を公開して、それを論拠に日本側の非を鳴らしていたわけですが、それが完全なデッチ上げであることは、映像によって紛れもなく証明されてしまう。 「公式の論拠」を崩されるということは、北京にとってはおそらく我々が考える以上に由々しい事態であって、先にも触れたように、たんに外交上の失点になるだけでなく、それがそのまま内政の不均衡に結びつく。しかし映像が出てこない限り、お互いの主張の応酬だけで済ませることが出来るわけで、北京はそれを狙った。後は互いに非難しつつ、沈静化するのを待つ、ということだったのでしょう。 おそらく仙石さんは、そのあたりまでは読んだうえで、ビデオ非公開を決めた。ただし何度も言うように、国民にも野党にも政府部内にも、あまりにも説明不足というか、要は「行き届かない」ということなのです。 そのあたりの「行き届かなさ」というのは、後の「国会議員への七分間のビデオ公開」の時にも現れていて、なぜこの時点で、限られた国会議員だけにビデオを見せるのか、についての説明がない。キチッとした説明がないから、野党議員の中には自分たちの力によって、公開させることが出来た、とかん違いしている議員さんもいたようです。 私は国会の中で、与野党を含めた「秘密会」あるいは「非公開の議事」というのは、当然あってしかるべき機能だと思うのです。早い話、例えば防衛予算の細目を検討する場合、その中味には当然国家安全保障に絡む内容が議論されるはずで、機密内容を公開の席で議論するわけにはいきません(それを「やれ」という、まことにナイーブな野党も今だにありますね)。 「国家機密」になぜ野党議員にも触れさせるのか?話は簡単で、「国家機密」を政府に占有させるわけにはいかないからです。逆に言えば政府側からすれば、野党議員にも触れさせることによって、それを「国家機密」にしておく理由を担保しておく、という意味合いがあります。 肝心なのは、またしてもそうした「秘密会」というものの趣旨を、政府側もよう説明しないし、見せられた野党の議員もそういった意味合いであることを、ほぼまったく理解していなかったということで、ホントにどっちもどっち、外野としてはタメ息ばかり出てきますね。尾山太郎さんふうに「あの人たち、バカですから!」と、一喝するしかないのでしょうか?― つづく ―
2010.12.08
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今回は、「歴史」というよりも「事件」といったほうが、分かりやすいかもしれません。つまり、一連の「尖閣問題」から、なぜ「フジタ社員拘束事件」だけが閑却されて、政権批判その他が為されているのか?批判の論拠となっている「中国人船長の解放」も「ビデオ漏洩事件」も、「フジタ社員開放」の事実とセットになって、はじめて真相に近づくことが出来るはずなのです。 これは確定してしまった事実にかんして、日本人というのは「なぜそれが起こったか」という詮索を、「起こり得た事実」と合わせて分析してみるということを、あまりしない性向があるからでしょう。これはかつて「科学的歴史主義」とも言われたマルクス主義的歴史観もまた、あるいはこうした歴史や事件を語るときの思考態度に影響しているのかもしれません。しかしそれは物事の原因結果の厳密な分析とか、真相を解明するという思考態度においては、あまり生産的な結果をもたらさないのではないか?とも思うのです。 最近ようやくさかんになってきた「失敗学」というのは、事故原因やパニックの発生原因の分析にあたって、いわば「あり得た事実」の考え得るかぎり、そのすべてを想定網羅することによって、真の発生原因の解明に迫ろうとする、そういう学問的態度だと思うのです。その結果として、例えば航空機事故では、それまで得てして「機長の判断ミス」とか「操縦ミス」といった、直接的な「ヒューマン・ファクター」に帰せられることの多かった事故原因が、例えば運行管理体制とか、計器類のデザインとか、機械と人間の間に生じる認識の相違といったレベルまで次元を上げることによって、より幅広く「失敗の回避」に結びつけ得るノウハウを手に入れたのでした。 応用例としては原発の操作ミスの防止とか、病院の院内感染対策とか、あるいは家庭内事故の未然防止といったものにまで、広がりを持つものだと思うのですが、今回の事例を見る限り、まだまだそうした思考態度というのが世に受け入れられたとは言い難いのです。 むしろ逆行的な思考に退化して行っているのではないか?という危惧さえ抱かせます。大半の人々は「失敗学」など、理工系の問題だろうという程度にしか考えていないので、そうではなくて、これは思考のレベルあるいは思考態度の問題だ、という捉えかたが必要なのだと思う。 二項対立的な思考態度では、「あの時、機長があの操作を忘れたから、こうなった」と、すべては機長の人的要素に原因が帰せられる。しかしそこで追求が止まって、「一丁上がり」となれば、同じような事故はまた発生する。そこで「なぜそのとき機長は、どうやってその操作を忘れたのか?」という問いの立てかたをしない限り、同じ失敗は何度でも繰り返されるのです。旧日本軍はよく指摘されるように、相手米軍側が不思議に思うくらい、同じ失敗を繰り返して壊滅した集団でした。 二項対立的な思考態度では、それ以外の戦術とか対応が思い浮かばないのです。物事が分かりやすく整序された図式で語られるとき、たいてい人はこの失敗の罠にはまっていると考えたほうが良い。この思考を積み上げていけば、いずれこの対立している二項のうちのどちらかを、完全に消去せざるを得なくなるからです(現に、それを望んでいる人もおられるようです)。 「隣のピアノの音がうるさい」と言って、異を立てる。あるいは「先生がなってないから、子供がおかしくなった」などと、物事を何でも対立図式でしか考えることの出来ない人たちは、いずれ相手方を完全にポア(消去)するか、我が身をパニックルームのような部屋に追い込んで、引きこもるしかない。今どきの世の困ったことは、そうした引きこもり集団が、ネット空間において仮想の連帯感を保持し得る、とかん違いしているという事実です(例の海保職員にも、私はその傾向を認めます)。 今回の事例に添って言うなら、あのまま「中国人船長の裁判」を国内法に則って、粛々と施行した場合、当然拘束された「フジタ社員」の裁判も、おそらく公開で行われただろうし、その過程で「中国における旧日本軍の毒ガス実験と生産」の実態に触れる場面も当然出てきただろう。そしてこの事件に関しては、「南京事件」のようには日本側が異議を挟みにくい要素が多分にある(要は、これは紛れもない事実であって、論争の余地がない)。 要は、今さら繰り返されたくもない過去の事例を、またほじくり返されるということ、さらにもう一つ付け加えるならば、こうしたいわば汚れた仕事を、なぜ準ゼネコンのフジタがやっているのか、という話。いずれも日本政府とか一部の業界にとっては、あまり触れられたくない要素がここにはあるのかもしれない。この点について触れるマスコミや政治家は、なぜか不思議なほどいませんね。 ― つづく ―
2010.12.07
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「結果責任」とか、本人の「意図」とか「願望」とかとは関係なく、自身の行なった結果について、予期しなかった責任が生じるかもしれないということに、日本の政治家やマスコミが、あんがい無関心というか、鈍感でいられるのは、取りも直さずそれの享受者である日本人自身が、「民主主義」とか「法治主義」といった近代国家を構成している諸概念を、本当の意味では充分信用していないからに他なりません。 だから「超法規」というような言葉が、安易に持ち出されても、わりと皆「ああそうか、やっぱりなあ」で済ましてしまうとことがある。西欧社会では「超法規」とは、ひょっとすると「法を無視する=無秩序=アナーキズム」と看做されるかもしれません。前に西欧人の捕虜収容所と日本人の捕虜収容所における、顕著な違いについて触れたことがありますが(「いわゆる戦争報道について 25.」2010年10月11日)、英米の市民捕虜たちが何をさておいても、捕虜の総代表とか収容所内での立法官役、司法官役、各種行政官役のようなものを、いろいろな制約がありながらも、密輸業者や売春婦まで含めて作り上げてしまうのに対し、日本人捕虜の場合はいくら言われても自ら自治組織を形成するということは絶対にない。 収容所長からやかましく言われて、代表その他一応組織を作るものの、誰もそれを信用していない。実体的に収容所を支配していたのは、紛れもなく暴力を伴った「無秩序」だったらしいのです。 これは結局、敗戦後日本社会もまた同じで、戦後民主主義といっても、内心では実は誰もそれを信用していない。あらゆることは仮衣であって、いつでも着脱可能、本気でそれを推し奉ろうとは誰も思っていない。いささか噴飯な思いに駆られますが、今回の「尖閣諸島問題」をめぐるマスコミや一部政治家、そして例の海保職員を擁護する世論も含めて、本当に責任ある(つまり本気で)言動をしていない(しかもそれにまったく気づかない)淵源には、依然として江戸時代以来、ずうっと続いている「臣民」としてのマインドが、牢固として残っていることを示しているのです。 しかし何度も言うように、これは何も「だから西欧は優れている、日本は未熟だ」という話なのではありません。英米人が身元怪しげな人間まで含めて、社会秩序を自ら作ろうとするのは、彼らが背負ってきた歴史的な文脈があって、彼らは「無秩序」とか「混沌」といった状態が、何よりも体質的に気持ち悪くてしょうがない性質の集団なのだと思いますよ。同じように日本人が「無秩序」に鈍感なのは、これまた日本固有の歴史的文脈の結果なのです。私がながながと、このおしゃべりを続けて来た大半の理由は、それがいかなる経緯で生まれて来たものなのか、私なりに探ってみようと思ったからでした。 途中、「尖閣問題」でだいぶ話が膨らんだうえに、少し逸れた感じもするのですが、おおむね元のテーマに戻ってきたような気がします。 「尖閣」前の話に戻る前に、最後にお話しておこうと思っているのは、「歴史」というものの見かた、考えかたといったようなことです。今回の一連の「尖閣問題」で、なぜ「フジタ社員拘束事件」の経緯だけが、マスコミあるいは世論から閑却されているのか?それはたぶん、今どきの日本人の歴史というものに対する考えかた、あるいは捉えかたに原因するところがあるような気がするのです。 一言でいえば、「歴史事実主義」といったようなことでしょうか。実際に起こった事実だけを、厳密に考証すれば歴史というものは、独りでに出来上がってくる。あるいは歴史とは事実の系列に過ぎない、といった考えかたです。 「あたりまえじゃないか」という答えが返ってきそうですが、物事を歴史的に見る、あるいは分析するとはそれだけで好いのかどうか。これもまた内田樹さんの受け売りですが、「起こらなかった歴史」あるいは「起こり得た歴史」というものに思いを致さない心というのは、どうも窮屈な感じがしないでもない。 そんなことを言うと、さっそく「ということは、おまえはタラレバ式の空想的歴史観でも抱いているのかね」といった揶揄が飛び出してきそうですが、そういうわけではないのです。― つづく ―
2010.12.06
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「尖閣ビデオ漏洩事件」は、全体的なそうした各官庁の弛緩した規律の結果として現れたのであって、これは何も海保だけの問題ではなかった。消極的なレジスト、あるいはサボは外務省とか検察の振るまいにも現れているので、早い話、今だに例の海保職員の処分は、どこからも何も決まっていないのです。 当の海保職員自身も、自らの意思を示すことなく、おそらく世論の動向を見ながら、傲然と海保に留まったままです。これもまた民間の会社組織なら、あり得ない、即、放逐ですよ。本人もまた自らの仕出かしたことについて、井戸端的マスコミの取り扱いや浅はかな世論に影響されて、かん違いしているのです。 これ以上この職員の追及はしません(不生産的、かつ不愉快なので)が、最後に付け加えるとするならば、「海保の現場の実情を、公開しない政府はおかしい」という「義憤」にかられて、好き勝手に内部情報をネットに流すのが、公然と許されるのであれば、国家は国民に対して安全を保障できないことになる。この職員が「フジタ社員拘束」がどういう経緯で解かれたのか、ということをネット喫茶で漏出させるとき、頭にあったとは思えず、もっぱら「尖閣衝突映像を公開しない政府は許せない」、という一点だけに血が昇っていたはずで、北京で細野さんと中国高官のあいだで取り交わされた密約が、おそらくこのビデオ非公開との交換条件だっただろう、という想像力を働かせることはなかったのです。 となれば、このビデオ流出は何を目的として行われたのか?この職員自身の願望を類推すれば、「海保の現場がやっている現状を、みんなが知ってほしい」ということになるのですが、要は自組織の都合だけしか眼に入っていない。我が身良ければ、他はどうなってもよいのか?在外日本人の身辺を危険に曝すことについて、何か責任を負ってくれるのか?海保組織は国外での紛争について、何か具体的な施策が打てるのか? もちろんそんなものがあるわけがないので、上のような指摘をした場合、おそらくこの職員は「そんなことは夢にも思わなかった、何しろ実情を知ってほしい一心だった」と答えるでしょう。ではその結果残されたものは何なのか、ということなのですが、非常に簡単で在外日本人(とくに中国)の安全性の危険度が増した、という一点だけです。同じような紛争は間違いなく、多分比較的近い将来また必ず起こる。そうした紛争解決の手段としては、「この手は使えなくなった」ということです。 北京政府はおそらく必ずこう言って来るでしょう、「あなたがた政府と交わす密約は、信用出来ない」と。「なぜならあなたがた政府は、密約の中味をコントロール出来ないのだから」。この言い方は国同士のやり取りで言っているだけで、民間に置き換えたら何を意味するか、誰にだって分かる。先ほど「即、放逐」といったのは、このことを指します。 本人の「意図」とか「願い」とかとは関係なく、「結果責任」というものが世の中にはある。おそらくほとんどの皆さんは、もう忘れておられると思いますが、三年ほど前に「長崎市長銃撃事件」というのがあって、犯人が身勝手な自己都合の言い掛かりをつけた暴力団だったということで、政府もマスコミも(地元長崎は別として)あまり大きく取り上げなかったことがありました。 その時のブログ(インテルメッツォ 22.)で、私は時の政府(安倍さん)やマスコミの取り上げ方が手ぬるいと、何度も言いました。― 犯人の動機が安っぽいインネンの連鎖(ヤクザの常套手段です)の結果であったとしても、しでかした結果は「本人の意思とは関係なく」充分に政治的であって、暴力ないし威力で持って公選された首長に意思を強要し、かつ謀殺するというのは、その時点で国家に対する反逆行為と言っていい ― (2007年04月18日) 結局この点(本人の意思とは関係なく、引き起こした結果責任の重大性)を、キチンと厳しく指摘したのは、私の知る限り長崎の地方裁判所だけだったのではないか、と思っています。 どうもこの辺の話題になると、日本の政治家やマスコミは、感度がなぜか悪くなるような気がする。― つづく ―
2010.12.03
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ここにもまた、物事を出来るだけ「軽く済ませたい」、要は「楽に済ませてしまいたい」という感じがあったのではないか?前原さんが国交大臣のとき、あれほど強気に中国人船長の国内法での処分を進めていたのに、外部大臣になったとたんに、それを引っ込めたというのは(もちろんアメリカの意向も働いていたのでしょうが)、先に触れたように、この問題が「砲火を交えない戦争」になっていることに気付いたからでしょう。 外交紛争というのは、自分都合の国内法では処理できないわけで、どこで折り合いをつけるかだけがポイントになる。そしてその場合、たいてい両者ともに不満足の状態で終わるのが常で、こちらの言い分が何もかも通らなかったと言って、むやみに慨嘆したり興奮したりするのは大人気ないというか、現実的な処理の仕方ではない。 何度も言いますが、今回の「尖閣諸島問題」で、より多く国際的に疵を負ったのは北京のほうだと私は思っています。それが証拠に、あれ以降静かになっているでしょう。北京としては再びこの問題が熱くなるのは、今時点では得策でないと考えているのです(ただし、将来は別ですよ)。 こういうとき、はなはだ威勢の好い外野席のプロパガンダに、いっさい耳を貸さずに頑として突っ切る構えが、仙石さんや菅さんにあったのかどうか?「楽に済ませたい」のであれば、別にそれで構わない。ただし外交で楽をした場合、内政にフリクションが生じることは当然予想しないといけない。ここの場合で言えば、検察と海保には充分な根回しがないとおかしいのですが、これまた傲然と言いっぱなしで済ませた可能性が高い。 組織というのは形さえあれば、オートマティックに動くというものではない。このあたりも政権運営をしたことがない民主党という党の弱点が現れているような気がする。こういう「超法規的処置」をした場合、自組織内のどこにどのようなフリクションが生じ、それをどうやって抑えておくかというのもまた、管理者リーダーとしての必須の気配りの条件だと思うのですが、悲しいほどにこの党は、そちらに関しては「行き届かない」ことが多いですね。野党時代に威勢良く「官僚政治の解体、政治主導」を呼号してきた手前、やることなすこと「言いっぱなし」のリゴリズム(厳粛主義、カチカチの石頭)が支配しているような気がする。 すべてが「フジタ社員開放」という外交課題のもとに行われたのであれば、そうであることを前もって海保にも検察にも言っておく必要がある。これは外交問題(砲火を交えない戦争)なのだ、ということを納得させれば、検察も海保も今回の「中国人船長開放」という処置に関して、軽々に不満を鳴らすということはなかったはずなのです(早い話、検察も海保もフジタ社員の開放に対しては、国外の事件なので関与のしようがないでしょう)。 それを充分な説明抜きにやっておいて、「そちらで察してくれ」というのは、やはり管理者リーダーとしては不十分。検察も海保も「多分そうじゃないかな」と思っていても、明確な説明がなければ、自組織下部への説明に困ってしまう。それが端的に現れたのが、那覇地検のはなはだ政治的な釈明を交えた釈放理由でしたね。「わが国国民への影響や、今後の日中関係を考慮した」などというコメントは、どう考えても地検の判断を超えた理由づけで、これは明らかに政府への不信を露わにしたコメントと言える。管理者リーダーは、こうしたシグナルは見逃すべきではない。すぐさま呼んで理由を質し、自身の行き届かなさについても謝る、ということをしなければ、「そうか、こういうふうに言ってもいいんだ」ということになってしまうのです。 このあたり、率直に言って「おかしいな」と気づいていても、誰もそれをどうするかについて首相、官房長に意見具申した形跡がなさそうなのです(想像ですよ)。あるいは気づいていても、どう対処していいか分からなかった、ということでしょうか。そうであるとすれば、そのあたりにも「政権運営」というものについて、何となくタカを括ったようなところがあるのではないか、とさえ思ってしまいます。 こうしたコメントが、下部から平然と出てくるということは、明らかに政府所管の官庁の規律が緩んでいる、ということの証しに他ならないからです。― つづく ―
2010.12.02
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さて、ここでまた「尖閣諸島事件」の話に戻るのですが、ケーススタディとしての「フジタ社員拘束事件」のシミュレーション、もちろん絵空言と笑い飛ばしてもらって、いっこう構わないのですが、それでも仮定としても、誰をどこにどのように配置し何をさせるか、といったようなことをどこまでも具体的に詰めてみる、という発想もあるのじゃないか、あるいはそれが空想的であり得ないと思うなら、同じような仕方で他にもっとマシな方法も、あれこれとことん具体的に詰めてみるというのが、タフなマインド(仕事遂行力)の在りかたというものでしょう。 これまた拙い会社勤めのときの思い出ですが、例えば次月目標を決めるような営業会議のとき、幹部に追従してえらく景気のよい数字を発表する支店長より、渋面をたたえてやっと数字を搾り出すような支店長のほうが、ずうっと目標達成にかんして真面目に考えていたような気がする。一つ一つの数字を具体的に手持ちの営業マン、あるいは顧客の顔を思い浮かべながら、割り振っていった場合、簡単に「こうです」と受けられるわけがない。 具体的にどこで何時どうやって、ということが頭の中で渦巻き、ハッキリしたカタチで見えてこなければ、「いくつ?」という数字は、本来出てこないはずでしょう。これは逆に言い換えれば、どこまで自身の部下の仕事遂行能力を把握できているか、ということでもあるのです(これは飲み屋で部下と一杯やって、オダを挙げれば掌握できた、というのとは違う。やはり一種「無慈悲な感覚」が必要なのでしょう)。 また話が、逸れてしまいましたね。 もちろん、マジで小沢さんを北京に派遣するとなれば、いろいろな方面から(とくにマスコミから)ボロクソに叩かれるでしょうが、目的の絞込み(フジタ社員の解放と、紛争の解決という)さえキチッとしていれば、何を言われようと平気でいられるというか、ブレることがないし、いろいろ言って来ても甘んじて泥をかぶれば良い。 吉田茂さんなど、母から聞いたところでは、現職当時は野党やマスコミからずいぶん叩かれたようですが、平気の平左、まるきり意に介するところがなかったそうです。こういうのを「胆力(たんりょく、事にあたって、恐れたり、尻ごみしたりしない精神力。ものに動じない気力)」というのでしょうが、今どきの政治家はどうなのかなあ。国会での追及する側もされる側も、そのやり取りを聞いていると、まさしく「町内会の論理(誰も責任を負う気のない井戸端会議)」で進行しているような気がする。 しかし上のようなプランを実行した時というのは、見る人は見ているものです。なかんづく当事者である小沢さんと北京政府は。 それにしても仙石さんは、なぜ「中国人船長開放」を「超法規的処置」として、「政府の判断でやった」と言わなかったのか?国民の大多数とか海保の関係者の中に、どうしてもこの見え見えの責任逃れに対する、不信感や怒りが出てくるのは当然なのですが、頑として「それは那覇と福岡の検察がやったこと」として、譲らないのには何か原因があるのか? 私はたぶん、これには仙石さんの弁護士としての経歴が影響しているのではないか、と疑っています。「超法規的処置」とは、法曹界に籍を置いてこられた人ならば、何がなんでも絶対認めることの出来ない考え方だったのではないか? 人間社会の営みを各人の持つ資質とか人柄に求めず、「法」という客観的な体系で規律し秩序立てていこう、というのは法律家として当然の考え方だと思うのですが、それを勝れて属人的人智主義に凝り固まった北京が、受け入れるわけがないというのは、これまで何度も見てきたところです。自身の信念と相手当事者の折れ合う地点ということで、考えついたのが、おそらく「検察の勝手な判断で」という言い方になったのでしょうが、やはりあまりにも軽率という感じが否めない。― つづく ―
2010.12.01
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