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お前は男=オスだからそんな身勝手なことを考えるのだろう、と謗られてしまいそうですが、もう少しガマンして下さい。 そこの表現が、これはいかにも女性らしいと思うのですが、はなはだ持って回った言い方なので、とくに一徹者で融通の利かない髭黒のような男には、そうした微妙な女心の機微はとうてい理解できない。このあたり光源氏ならば、理で言い負かそうとするよりも、情ではぐらかして、うまく乗り切るところですが、体育系の髭黒にはもちろんそんな器用な振るまいは出来ません(やっぱりヨン様には許されても、普通の男には許されない振るまいかたとか物言い、というのがこの世にはあるのかもしれません!?情的な振るまいかたに普遍性など存在しないのです、なんちゃって!) 以後、この夫婦の会話は相手の言葉の意味が通じない、典型的な「すれ違い」の情況を呈するので、こうなると何を言っても互いに徒労感だけがつのる。「気持ちを察して下さい」と訴える北の方に対して、「お前の話は理屈が合わない」と髭黒は、彼女の言った言葉にだけ鋭く反応する。― 「宮の御ことを、軽くは、いかゞ聞ゆる。恐ろしう、人聞きかたはに、なのたまひなしそ」と、こしらへて、 「「かの、かよひ侍る所の、いとまばゆき玉の台(うてな)に、うひうひしう、生直(きすぐ)なるさまにて出で入る程も、かたがたに、人目たつらん」と、かたはらいたければ、「心やすく、うつろはしてむ」と、思ひ侍るなり。太政(おほき)おとゞの、さる、世に類なき御おぼえをば、さらにも聞こえず、心恥づかしう、いたり深うおはすめる御あたりに、にくげなること漏りきこえば、いとなん、いとほしう、かたじけなかるべき。なだらかにて、御中よくて語らひて、ものし給へ。宮にわたり給へりとも、わするゝことは侍らじ。とてもかうても、今更に、心ざしの、へだたることはあるまじけれど、よのきこえ、人笑へに、まろがためにも、かるがるしうなむ侍るべきを。「年頃の契りたがへず、かたみに後見む」とおぼせ」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「(私が)父宮の御事を、軽々しくなど、どうして申しましょうや。恐ろしくも、人聞きの悪いことを、おっしゃいますな」と、なだめながら、 「『あの、お通いしているところ(六条院)は、ビックリするほど眩い玉のような高殿で、(私のように)物慣れず、野暮な格好で出入りするのは、何かにつけて、人目も引くか』と、気が退けるので、『心安く(出入り出来るように、こちらへ)、お迎えしよう』と、思っておるのです。太政大臣(光源氏)の、あのようにも、世に類のないご声望は、いまさら言うまでもなく、(こちらが)気恥ずかしくなるほど、お心持ち意の行き届いたお邸に、(私たちの)みっともない話が漏れ聞えたならば、それこそ、(先方には)ご迷惑であり、畏れ多いことで(しょう)。(なので、ここは何とか、玉鬘とは)穏やかに、御仲よろしく話もなさって、(いっしょに)暮らして下され。(もし仮に、あなたが)父宮(の邸)に移られるとしても、(決して)忘れることは致しません。いずれにしても、いまさら、(私の)気持が、(あなたから)離れることは有り得ないのですが、(実家へ戻ったりしたら)世の評判に、物笑いにもされ、あなたにとっても、軽々しいことになるでしょう。『長年の約束を違えずに、(今までどおり)互いに助け合おう』と思って下さい」 髭黒はうわべの理にこだわって、内心北の方の言葉に気を悪くしている。ここで最初に、言葉の理非はともかく「父宮のことを言ったのは悪かった」と、一言いえばあるいはまだ修復の可能性は会ったかもしれないのですが、いかんせん彼はそれに思い至らない。その後ながなが取り繕いなだめようとする彼の言葉には、やはり身勝手な理屈が見え隠れしているのですが、その言葉を北の方の耳はおそらく聞いていなかったでしょう。― つづく ―
2010.04.30
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というわけで、髭黒の言いぶんを聞いていると彼に傾き、北の方の話を読んでいると彼女に加担したくなるというように、読み進むたびにこちらの感情が、どうしようもなく揺らいで来るのを、私たちは抑えることが出来ません。 これは紫式部の新しい試みだと思うのです。内心の作意を出来るだけ抑制して、それぞれの人物が行動し、しゃべるであろう中味だけを、注意深く見守って書き記して行けば、ドラマは自ずと立ち上がってくるうえに、そこに漂っている空気は、古物語的な薄っぺらな善玉悪玉の話ではなく、どちらにもそれぞれ一理がある、というような複雑な味付けになっている。この感覚こそ、実はこの世の中で確かに遭遇する(した)はずの、リアルな味わいというものでしょう。 ここで「髭黒はヒドい男だわ!」と、今どきの倫理基準で非難するのは簡単ですが、それだけではこの前後に描かれたこの夫婦の真の悲劇的状況を、ほとんど見落としてしまうことになります。今どきの倫理基準を持ち出したなら、それこそ光源氏を筆頭に平安時代の男どもは全員許し難い、ということになってしまうでしょう。 b系物語にはずうっと一貫して一種男たちへの意趣返し的な構造が見て取れるにしても、ここへ来てその表現は、より複雑な世の実相を描く方法に位相を変えたか、とも思えてきますね。 この会話に続いて、紫式部は北の方の姿ありさまを、もう一度克明に記します。― いと、さゝやかなる人の、常の御悩みに、痩せ衰へ、ひはづにて、髪、いとけうらにて長かりけるが、分けとりたるやうに落ち細りて、梳(けづ)ることも、をさをさし給はず、涙にまつはれたるは、いと、あはれなり。こまかに匂へるところはなくて、父宮に似たてまつりて、なまめいたるかたちし給へるを、もてやつし給へれば、いづこの花やかなるけはひかはあらむ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (北の方は、もともと)たいそう、小柄な人であるが、日頃のご病気で、(すっかり)痩せ衰え、ひ弱になられて、お髪も、(もとは)とても清らかに長かったのが、分け取ったように抜け落ちて薄くなってしまい、櫛けずることも、ほとんどなされずに、涙でまとわり付いたままなのは、何とも、哀れである。細やかに照り映えるというところはなかったが、父宮に似なさって、(いかにも宮家らしい)上品なお姿でいらっしゃったのが、(身なりも)構いつけられないので、(今や、その)どこに華やかな気配があろう。 ここの描写には、かつて空蝉やまして末摘花に見られたような、タメにする要素がなくて、この哀れな姿をどう見るかは読者の読み方によって、さまざまに変化するでしょう。もちろんやつれ果てた北の方本人の姿は、とても哀れなのですが、介護をしている髭黒の目から見た場合、それはどう映るのか? 内心では「いとあはれ」と、理性で何とか抑えて来た髭黒ですが、それがどうも愛情ではなく同情から来ているらしいことが、上の会話の端々から顔を出す。北の方はそれをいかにも女らしく敏感に感じ取っているので、父宮のことは実は方便に過ぎない。彼女は「本当に私を大事に思っているのかどうか」を彼に聞いているので、形ばかりの憐憫で私に接するのなら止めて、というより「真心で私と接して」と言っているのです。 私は別にこの男に加担するつもりはないのですが、髭黒に「真心」が無いかと言えば、それまでの経緯からみてそんなことはなかろう、と思っているのですが。― つづく ―
2010.04.29
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まず髭黒が話しかけるには、― 「昨日・今日の、いと浅はかなる、人の御なからひだに、よろしき際になれば、みな、思ひのどむる方ありてこそ、見果つなれ。いと、身も苦しげに、もてなし給ひつれば、きこゆべきことも、うち出で聞こえにくくなん。年ごろ契り聞ゆることにはあらずや、「よの人にも似ぬ御有様を、見たてまつり果てん」とこそは、こゝら思ひしづめつゝ、過ぐしくるに、えさしもありはつまじき御心おきてに、おぼし疎むな。「幼き人々も侍れば、とざまかうざまにつけて、おろかにはあらじ」ときこえわたるを、女の、御心の乱りがはしきまゝに、かく、恨みわたり給ふ。ひとわたり、見果て給はぬ程、さもありぬべきことなれど、まかせてこそ、今しばし、御覧じはてめ。宮の、きこしめし、うとみて、「さはやかに、ふと、わたしたてまつりてむ」と、思しのたまふなむ、かへりて、いとかるがるしき。まことに思しおきつることにやあらむ、しばし、勘事(かうじ)し給ふべきにやあらむ」と、うち笑ひてのたまへる、いと、妬げに、心やまし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「昨日今日の、まだ浅かりし、夫婦の間柄でも、しかるべき身分ともなれば、皆、(さまざま)心落ち着かせることがあってこそ、(最後まで)添い遂げるものですよ。(あなたは、その心病で)たいそう、お身体も苦しそうに、なさっているので、(本来)申し上げるべきことも、言い難くて(困っているのです)。(しかし)常々お約束していることではありませんか、『世の人とは違ったご様子であっても、(最後まで)お世話致そう』とだけ、そのあたりは(ずいぶん)ガマンしながら、過ごして来たのに、とてもあり得ないような一人合点をなさって、(私を)お嫌いなさるな。『(まして)幼い子供たちもいることですから、いずれにしても、疎かにはすまい』と申し上げているのに、女の、お心の浅はかさのままに、このようにも、恨み続けていなさる。一通り、(私の振るまいを)ご覧にならない間は、それも致し方のないことかもしれませんが、(ここは一つ、私を)信頼して、今しばらく、見守っていただければ(納得されるでしょう)。(それにしても、式部卿の)宮が、お聞きになって、不快がられ、『ハッキリと、すぐにも、お引き取り致そう』と、お考えになっておっしゃったとは、(それは)かえって、ずいぶん軽々しい(気がします)。ホントに(よく)お考えされてのことでしょうかしら、(ひょっとして)しばらくの間、(私に)罰をお与えになろうとしたのでは(ないかしらん)」と、ちょっと笑っておっしゃったのが、(北の方には)妬ましくも、腹立たしいのである。 落ち着いて理を尽くしているはずの話が、おしまいになってペシャンコになる。ここで父式部卿の話を出したのは髭黒の失策で、話はその前でいったん切るべきだったでしょう。もともと昂ぶっている北の方は、始めのほうの話はすっかり忘れて、当然そこだけを突いて来る。― 「身づからを、「耄(ほ)けたり、ひがひがし」と、のたまひ恥ぢしむるは、ことわりなることになむ。宮の御ことをさへ、とりまぜのたまふぞ、もり聞き給はむは、いとほしう、憂き身のゆかり、かるがるしきやうなる。耳馴れにて侍れば、今はじめて、いかにも物を思ひ侍らず」とて、うち背き給へる、らうたげなり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「私のことを、『ボケてる、ひがんでいる』と、おっしゃってバカにされるのは、しょうがないことで(別にかまいません)。(しかし)父宮のことまで、取り混ぜておっしゃっては、(もしその話を、宮が)漏れ聞きなさったら(と思うと)、おいたわしくもあり、(私のような心病持ちの)不運な娘の縁ということで、(父宮のことが)軽々しく(人の口にも上るので)は(ありませんか)。(私はすっかり、そうした悪口には)耳慣れてしまいましたから、いまさら、どうこう思うこともございませんが」とおっしゃって、少し顔を背けなさる、(そのお姿が)いじらしい。― つづく ―
2010.04.28
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で、大事なのは、そのかん髭黒は夫婦の間柄はさすがに疎遠になったとはいえ、決して奥さんを粗略にしていたわけではなかったということで、むしろこのマジメ男はたぶん一生懸命看病しただろう、と思われることなのです。以来三、四年、妻の看病と子育てに明け暮れて、ふと目の前に現れた妙齢の美女玉鬘、彼の長年張り詰めた心が、一瞬にしてガラガラと崩れていったのは、まことに「ことわりになん」なのでした。 父の式部卿は、その話を聞いて― 「今は、しか、いまめかしき人を、わたして、もてかしづかむ片隅に、人わろくて添ひ物し給はむも、人聞き、やさしかるべし。おのがあらむこなたは、いと、人笑へなるさまに、したがひ靡かでも、ものし給ひなん」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「今となって、そのようにも、若やいだ人を、引き取って、ご寵愛なされる(邸の)隅っこに、みっともなくも連れ添っておられるのは、人聞きが、よろしくなかろう。私が生きている間は、そんな、物笑いな状態で、(髭黒に)つき従わなくても、やって行かれるのでは(ないか)」 要は、実家へ帰って来い、と言って部屋の用意をしたりもする。しかし当の北の方としては、今さらに実家に戻ったりしたら、宮家の恥さらしになるのではないか、と惑乱して病がさらに亢進したりするのです。― 本性は、いと静かに、心よく、巨めき給へる人の、時々、心あやまりして、人に疎まれぬべきことなん、うちまじり給ひける。住まひなどの、あやしうしどけなく、物の清らもなくやつして、いと埋れいたくもてなし給へるを、玉を磨ける目うつしに、心もとまらねど、年頃の心ざし、ひきかふる物ならねば、心には、「いとあはれ」と、思ひきこえ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (北の方の)生まれつきは、たいへん物静かで、気立てが良く、おっとりとされている人なのだが、(このところ)時々、(物の怪のために)正気が失せて、人から疎まれるようなことも、お起こりになるのである。住まいなども、とても乱雑で、身支度もなさらずに、ひどく鬱々となされているので、(玉鬘の住まいの)玉を磨いたような(姿を見た、髭黒の)目には、心も止むべくもないが、(それでも)長の年月の(いっしょに過ごして来られた)お気持が、すぐに変るものでもなく、心の内では、「何とも哀れな」と、思っていらっしゃる。 ここまでの背景説明で、この夫婦の問題が単純に「男の浮気が悪い」式の、よくある紋切り型の話で済まされないことが分かるでしょう。最後の「年頃の心ざし、ひきかふる物ならねば、心には、『いとあはれ』と、思ひきこえ給ふ」という髭黒の思いが、すべてを物語っているのです。 続く髭黒と奥さんの会話は、それまでの素描が利いていて、極めてシリアスな場面を作り出しています。ここはぜひ全文をあげたいと思っているのですが、困ったことにちょっと長い。― つづく ―
2010.04.27
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以下、髭黒の北の方の素描が行われます。― 女君、人に劣り給ふべきことなし。人の御程も、さるやむごとなき父親王の、いみじうかしづきたてまつり給へる思え、世に軽からず、御かたちなども、いとようおはしける、あやしう、執念き物の怪にわづらひ給ひて、この年頃、人にも似給はず、現(うつし)心なきをりをり多く物し給ひて、御仲もあくがれて、程経にけれど、「やむごとなき者」とは、又ならぶ人なく、思ひ聞え給へるを、珍しう御心うつる方の、なのめにだにあらず、人に勝れ給へる御有様よりも、かの、うたがひおきて、皆人の推し量りしことさへ、心清くて過ぐい給ひけるなどを、「ありがたう、あはれ」と、思ひ増し聞え給ふも、ことわりになん。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 女君は、(もともと)人に引けを取るような方ではなかった。(この)人の身分柄は、あの高貴な父式部卿殿が、たいそう大事にお育てなさって、世の評判も(決して)軽くなく、ご器量なども、とても美しかったのであるが、不吉にも、しつこい物の怪に患われなさって以後、この数年来、(普通の)人とは打って変わってしまわれて、正気を失われる折りがたびたび重なり、(夫婦の)御仲も失せて、久しいのであるが、「(この方は)格別な人だから」と、(髭黒は)これまた並びなき人として、思い扱っていらっしゃったのが、(このたび)珍しくもお心を動かした方(玉鬘)が、尋常ならず、人に勝っておられるご様子であるうえに、例の、(源氏との間柄を)疑って、皆が想像していたようなことも、(この玉鬘は)潔白になさって来られたことが(分かってきて)、「何とも、気高いことよ」と、ますます想いが深まっていくのも、無理のないこと(ではあった)。 このあわれな北の方、父が親王の式部卿の宮であることが明らかにされ、ということは紫の上とは異母姉妹なのです。このころ髭黒は三十三、四歳で、北の方はその三つ四つ年上とありましたから、齢三十六、七、つまりいわゆる女の厄年に当っていそうです。ちなみにこの時、紫の上は二十九から三十歳ですね。 紫の上は正妻腹の娘ではなかったので、どうも子供のころ継母(この北の方の実母)にいじめられたらしいのは、ずうっと初めの「若紫」の帖などで推測されるのですが、今や立場は逆転して飛ぶ鳥を落す光源氏の正室である。このあたり、直接ではないにしても、本筋の登場人物との絡みを予感させますが、まあそれは後にするとして、当然興味がわいて来るのは、この北の方に憑りついた「執念き物の怪」の正体ですね。 「現(うつし)心なきをりをり多く物し給ひ … 」とあることから、それがどうやら精神性の疾患であることが推測されるのですが、それが始まったのが「この年頃(この数年)」とあるところを見ると、今回のダンナの浮気がもともとの原因ではないのです。してみれば最初の発症の時、何か明らかな原因があったのかどうか?この物語では、髭黒関連は傍系の話なので、何の説明もありません。まあごく一般的に考えて、それが女の大厄三十三歳ごろだったとすれば、世間によくある子育て疲れとか、夫の浮気とかが考えられますが、この人の場合、夫の髭黒はいたって堅物で、今回の玉鬘まで浮気の話は無かったのですから、それは原因ではなさそうです。たぶん紫式部にとって、この北の方の病気の原因はどうでもよくて、要はその病が今回の主人の浮気で、よりいっそうひどくなった、ということであれば充分だったのでしょう。 しかし我々からすると、女の大厄だからといって、それがなぜ乳がんや子宮筋腫のようなフィジカルな女性疾患でなく、心の病として発症したのか、というのはおおいに気になるところですね。― つづく ―
2010.04.26
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ところで、「真木柱」の帖は途中というより、ほとんど始まったばかりなのですが、玉鬘をめぐる求婚譚は、どうも話としてはここで終っているようなのです。このあと髭黒の家の家庭崩壊劇に移って行くのですが、当然そこに新妻の玉鬘も絡んでいるとはいえ、ここから後は、主題としては別の話が始まったと見るべきでしょう。 前の「藤袴」の帖の区切りが、ここであっても少しもおかしくないのではないか?それをあえて今あるような形にしたのは、やはり帖の冒頭を会話文で始めるという展開の意外性、さらにこの二つの帖の間で起こったであろう出来事を、読者の想像力にゆだねるという、いかにも物語的なトリック的手法を、紫式部はどうしても一度試してみたかったということでしょうか。 お姫様への恋のサヤ当てという、昔ながらの結構が、今や「玉鬘十帖」の筋書きではムリが生じている、ということは何度も言いました。途中で蛍だの空消息だの、いろいろちょっとした思い付きを試みたりしましたが、そうした趣向が上手くいったかと言えば、とてもじゃないが上出来と言えるものは、ほとんどなかったのではないか、というのが正直なところだったでしょう。 このあたりは、紫式部自身が何よりもよく分かっていたようで、だからこそこの求婚譚の結末は、いたって軽く済ませようとしたとも考えられます。おそらく当初から昔物語の換骨奪胎だけは頭にあって、そのはなはだ意外な結末も最初から決めていたのでしょうが、結局本編(a系物語)と同じ課題に突き当たってしまう。しかしそれは問題の所在をハッキリさせるための長い迂回筋であって、決してムダではなかったかもしれず、この後さっそくその課題に向けた試みを彼女はやろうとしているのです。― 内裏へ、まゐり給はむことを、安からぬことに、大将おぼせど、そのついでに、やがてまかでさせたてまつらんの御心つき給ひて、たゞ、あからさまの程を、許しきこえ給ふ。かく、忍びかくろへ給ふ御振舞も、ならひ給はぬ心地に、苦しければ、わが殿のうち、修理ししつらひて、年頃は、荒らしうづもれ、うち捨て給へりつる御しつらひ、よろづの儀式を、あらため急ぎ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (玉鬘が、内侍として)内裏へ、出仕なさることを、快からず、(髭黒の)大将はお思いになるが、(しかし)それにかこつけて、すぐに(我が家に)退出させたら(良いのだ)とお気付きになって、ただ、形ばかりの(出仕)を、お許しになった。このように、(六条院の玉鬘の部屋に)忍んで隠れなさるようなお振るまいは、(髭黒はもともと)馴れない性分で、鬱陶しく、自身の邸の部屋を、修理ししつらえて、年ごろは、荒れるがまま(ホコリに)埋もれさせて、放っておかれた御調度など(を整えて)、(玉鬘を迎える)万般の儀式の、準備をお急ぎになる。 このあたり、やはり髭黒というのは頭が良いので、決して腕力だけの人でないことが分かる。 しかし、― 北の方の、おぼし嘆くらむ御心も、知り給はず、かなしうし給ひし君達をも、目にもとめ給はず。なよびかに、なさけなさけしき心、うちまじりたる人こそ、とざまかうざまにつけても、人のため、恥ぢがましからむことをば、推し量り思ふところもありけれ、ひたおもむきに進み給へる御心にて、人の御心動きぬべきこと、多かり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (髭黒は、今回の仕儀を)北の方が、思い嘆いていらっしゃるお気持を、察しなさることもせず、可愛がってらっしゃった子供たちにも、目を掛けることもなさらない。優しくて、思いやり深い心が、少しでもある人ならば、どんなことであれ、人(家族)のために、恥をかかせることのないように、推し量る気持もあろうが、(この人は、何でも)一徹にコトを運ばれるご気性なので、(周囲の)人のお気持に障ることごとが、多かった。 このあたり、まさしく中年の恋患いで、完全に眼が眩んでますね。― つづく ―
2010.04.25
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一見玉鬘への心遣いに聞える光源氏の言動のなかに、彼の自己チュウなプライドが見え隠れする。当事者の玉鬘にはそれがようやく分かってきたので、「いと、わりなう、聞き苦し」となるのです。 紫の上への冗談口に続いて、このへんの光源氏の物言いは、紫式部が企んで書いたというよりも、書きたくもないことだけれど、今の彼ならこうもしゃべるだろう、という感じがあるような気がして仕方がない。作者の意図に反して、登場人物が勝手に動いたりしゃべったりするのを、押し止めようがないかのようです。彼女に出来ることとは、その仔細から目を逸らさずに、登場人物がきっとそうするであろう振るまいを、ありのまま書き記すことしかない、ということなのでしょうか。 彼女はこのあたりで、さまざまにb系物語で試みてきた方法を総括して、ある種の覚悟を決めようとしているかに見えます。一言でいえば、それは自らの作為を入れずに、ものごとを正面から見つめていこう、ということでしょう。 というわけで、― あはれにも、恥づかしくも、聞き給ふこと多かれど、たゞ、涙にまつはれておはす。いと、かう思したるさまの、心苦しければ、思すさまにも、乱れ給はず、たゞ、あるべきやう、御心づかひを、教へきこえ給ふ。かしこに、わたり給はむことを、とみにも許し聞え給ふまじき、御気色なり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) ありがたくも、恥ずかしくも(思いながら)、お聞きなさることは数多いのだが、(玉鬘は)ひたすら、涙に暮れていらっしゃる。まったく、このようにも(嘆いて)おられる様子が、気の毒なので、(さすがに殿は、いつものように)お思いのまま、色めくこともなさらず、ただ、(宮仕えに際しての)お心得や、ご注意を、お教えになるのであった。(どうも、殿は)あちら(髭黒の館)に、(玉鬘が)お移りになることを、すぐにはお許しになりそうもない、ご様子なのである。 ここのくだり、はたして玉鬘は源氏の事細かなアドバイスを、まともに聞いていたのかどうか。男=オスどもの形は変えても、その自己チュウぶりをすっかり見切ってしまった玉鬘としては、何を今さら白々しいことを言う、ということではなかったか。 ちょっと余談になります。 この「玉鬘十帖」の始め、筑紫から付き従って来た、玉鬘の乳母一家(少弐)たちの動向は、その後まったく語られることがなく、さらに彼女と源氏との仲介で活躍した右近も、いつのまにやら姿を消してしまって、玉鬘の周辺はずいぶん心寂しい感じがしますね。まあ、乳母一家などは六条院では下役ですから、しかたがないとしても、右近は母夕顔の乳母娘であったということで、考えてみるとずいぶん数奇な人生を送っているのですが、この肝心の場面には登場しない。 この人、夕顔の乳母姉妹ということで登場し、その後本意なく源氏に仕えることになり、須磨流遇の折りには都に残って紫の上を守り、最後は玉鬘をサポートするというように、ひょっとして彼女こそb系物語の語り部の一人ではないか、と思わせるところがあって、このように飛び飛びでも一人の女の人生を想像させてしまうところが、何とも紫式部の懐の奥深さだと思うのです。 世の中を知り尽くした老女房として、玉鬘が心安く相談出来るのはまず一番に彼女だったろう、しかしそれが語られないということは、ひょっとするとこの頃にはもうすでに引退していたのか、という感じもしないでもない。とすれば、彼女が六条院を去ったのは、おそらく玉鬘の御裳着の終わったあと、というのがタイミングとして自然な気がして来ますね。 紫式部はそうした人物たちを忘れるということは、絶対しない人だと思うのですが、ここで彼女を絡めることをしなかったのはなぜなのか? 考えられる理由としては、紫式部はこのへんで早くこの「求婚譚」を店じまいしたい、という願望があったのではないか、と私は思っているのです。老練な右近が玉鬘の周辺にいては、髭黒も簡単には玉鬘に手を出せなかったでしょう。話はますます長くなってしまうのです。 紫式部の関心が、すでに別のところへ向かっていたのだとすれば、残念ながら右近は登場させるわけにはいかなかったのでした。― つづく ―
2010.04.24
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このあたり、紫式部は光源氏の食えない性格というのを、心ならずも書いている感じで、このあとその振るまいは玉鬘にも及ぶのです。 「おぼしうたがひたりしよ」と、紫の上に言った舌の根も乾かないうちに、髭黒の留守中をねらって玉鬘のもとを訪ねる。何ともシツコイと言うか、負け惜しみ臭くてウジウジした感じですが、思いのほかの境遇に投げ込まれた玉鬘としては、さしあたって心の寄る辺としては光源氏しかいない。― 女君、あやしう、悩ましげにのみもてない給ひて、すくよかなる折もなく、しをれ給へるを、かく、渡り給へれば、少し起きあがり給ひて、几帳に、はた隠れておはす。 … すくよかなる、世の常の人にならひては、まして、いふかたなき御けはひ・有様を、見知り給ふにも、思ひのほかなる身の、置き所なく、恥づかしきにも、涙ぞこぼれける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 女君は、おかしなほど、悩まし気になさって、お元気な時とてなく、(すっかり)打ちしおれていらっしゃるが、このように、(殿が)お出でになったので、少しばかり身を起こし、几帳に、なかば隠れるようにしてお座りになる。 … ごくあたりまえの、(髭黒のような)世の常の男を迎えてみれば、まして、(源氏の殿の)例えようもないお姿や、ご様子を、知っておられるだけに、思いもかけない我が身の(不運が)、(身の)置き所もないほどに、恥ずかしくて、涙ばかりがこぼれて来るのである。 この人のことは前に、少し「面食い」ではないか、と言ったことがありますが、こうしてすっかり元気をなくした姿を見ていると、やはり同情せざるを得ませんね。それにしても、怒りで悶々としたり、グチを述べたてることもなく、ただハラハラと涙をこぼすというところは、何とも素直な性格で嫌味のない人なのです。 そのあと和歌のやりとりなどがあって、少し落ち着いたあと、その玉鬘に投げかけた源氏の言葉というのは、しかし、いかがなものであったか?― 「まめやかには、おぼし知ることもあらむかし、世になきしれじれしさも、又、うしろやすさも、この世に類なき程を。「さりとも」となむ、たのもしき」と、きこえ給ふを、「いと、わりなう、聞き苦し」と、おぼいたれば、いとほしうて、のたまひまぎらはしつゝ、 「内裏(うち)に、のたまはすることなむ、いとほしきを、猶、あからさまに、参らせたてまつらん。おのが物と、領じはてては、さやうの御まじらひも、難げなめる世なめり。思ひそめ聞えし心は、違ふさまなめれど、二条のおとゞは、心ゆき給ふなれば、心やすくなむ」など、こまかに聞え給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(今となってみれば)マジメな話、思い当たることもあるでしょう、(私のように、あなたと添い寝しても、何もしなかったという)世にないほどの愚かさ加減も、また、(私のように全然不安のない)頼り甲斐というのも、この世に類がないほどだったというのを。『(まったく)そのようで(した)』とばかり、(思ってくだされば)何よりで」と、おっしゃるのを、「何て、理不尽で、聞き苦しいことを(おっしゃるのか)」と、(玉鬘が)お思いになっているようなのを、(見て取って、殿はさすがに)気の毒になって、(今度は)話を逸らして、 「帝の、仰せ言でもあり、畏れ多いので、やはり、表向きには、(あなたを)参内おさせ致そうと(思います)。(髭黒が)俺の物だと、(自分の家に、あなたを)閉じ込めてしまっては、そのようなお付き合いも、難しそうなご時世です。(私が)思っていた初めの考えとは、違う結果になってしまったけれども、二条の内大臣は、(それで)納得されているのだから、安心して(下され)」などと、細々とお話しになる。― つづく ―
2010.04.23
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長い長い玉鬘をめぐる「求婚譚」を通して、肝心の玉鬘が本人の意志で動くということがない(元来、古物語のお姫様は一種の記号というか象徴で、個性は付与されていない)ので、可愛いお姫様という印象以上には、その性格がなかなか見えてこなかったのが、この最後の浅ましいドンデン返しで、皮肉にもようやく少し明らかになって来たような気がします。 「わらゝかに、にぎははしくもてなし給ふ本性」とは、元来が快活で華やかな性格だった、ということですが、彼女自身六条院での生活が長くなるにつれ、自分の性格や何よりも美貌に自信も持ち、都での立ち居振るまいにも慣れが出て来たことでしょう。しかし彼女の性格には母夕顔譲りの血が、その美貌とともにあったようで、要は、人に迫られると「ノー」と言えないタイプだったようです。しかしこの人、母と違って父内大臣の聡明さも譲り受けていて、周囲への配慮や観察や予想も秀でているのですが、ただ一つ実際の人対応となると、母親似の性格が顔を出す。 今どきでも、世の優しすぎる美女たちの中には、こうした八方美人的振るまいを示す方がいて、誰にでもあまりに愛想を振りまくので、それを勘違いした男=オスに迫られて弱ったことになった、という話はよくありますね。こうした危険を振り払うには、気が利いていて、しかも毅然とした会話や物腰が肝要なのですが、田舎出の彼女にとっては、さしあたって雅びな貴族趣味の世界に順応するのが、せいいっぱいだったのでしょう。 それでなくても微妙なバランスの中で、男と女のいわば政治の力学が働いている六条院で、ただただ笑顔を明るく振りまいていれば、我が身は安全というのは、なかなか難しいのです。北の館に住む花散里ともう少し付き合えば、そのあたりの気息も多少は知ることも出来たのでしょうが、光源氏自身が彼女の色香に負けて、ただならぬ雰囲気になって、毎日やって来るようになってしまったのは、彼女にとって不幸だったかもしれません。取りあえずは彼を通してしか、男=オスの振るまいに対する仕方を考える術がなかったわけです。 それが源氏にだけ通じる作法であって、一般の男=オスまして世俗の代表のような髭黒には、まるきり通じないというのは、心ならずも彼と逢わざるを得ない場面に遭遇するまで、彼女は想像も出来なかったのではないか。 そのあたりの男=オスの振るまいかたのすさまじさを、紫式部は続く光源氏の述懐で、次のように描きます。― 殿も、いとほしう人々も思ひ、疑ひけるすぢを、心ぎよくあらはし給ひて、「わが心ながら、うちつけに、ねぢけたることは好まずかし」と、昔よりのことも思し出でて、紫の上にも、 「おぼしうたがひたりしよ」など、きこえ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (源氏の)殿も、(玉鬘を)気の毒に思っている女房たちが、疑っていた(自分との怪しい)間柄が、潔白であったということを明らかになったわけで、「我が心のこととはいえ、気まぐれにも、妙な(色好みのような)ことをするのは好かないものさ」と、昔からのことも思い出されて、紫の上には、 「(今回の件では、ずいぶん)お疑いだったですな」などと、おっしゃる。 光源氏にとっては、玉鬘というのは六条院に迎えたときから、しょせん遊び相手、本気で関わろうという気はなかったのだと、紫式部は断定します。それをシレッと紫の上に言う、この源氏の無神経さ、彼自身は冗談ごとにして上のご機嫌をとっているつもりなのですが、奥さんの応答は書いてありません。聡明な紫の上はきっと「女性に対する侮辱だわ!」と思ったでしょう。― つづく ―
2010.04.22
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この頃の玉鬘は、というと、― 女は、わらゝかに、にぎははしくもてなし給ふ本性も、もて隠して、いといたう、思ひむすぼほれ、心もてあらぬさまは、しるきことなれど、おとゞの思すらん事、宮の御心ざまの、心深う、なさけなさけしうおはせしなどを、思ひ出で給ふに、はづかしう、口惜しうのみ思ほすに、もの心づきなき御けしき絶えず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 女は、(もともとが)ネアカで、賑やかなご気質だったのが、(すっかりその気が)失せてしまい、たいそうひどく、ふさぎ込んで、(誰が見ても、これが玉鬘の)本意でないということは、明らかなのであるが、(彼女は、今さらながら)源氏の殿のお考えになることとか、(蛍兵部卿の)宮のお心使いが、まことに、情深くていらっしゃったことなどに、思い到られると、(ただただ)恥ずかしく、口惜しいお気持ばかりがつのって、何かと満ち足りないご気分が絶えることはないのであった。 六条院に移り住んで一年、ようやく都の様子にも慣れ殿方とのやりとりも、光源氏といういわばプロの仕込みで、うまくやり過ごす術を飲み込んだような彼女ですが、そうした手練というのは一皮向けば、あられもない男女交合の偽装に過ぎないのかもしれず、押し寄せてくる男=オスのあからさまな圧力には何の抗う術にもならない。玉鬘自身もそしておそらく当時の読者も、多少はほのかに期待していたかもしれない王朝夢物語的な結末は、はなはだ無残な結果となって、彼女たちを退屈なしかしシリアスな現実(うつつ)に連れ戻さずには置かないのです。 紫式部はこうしたドンデン返しを、おそらく「玉鬘十帖」のごく始めから構想していたでしょう。「藤袴」の帖の終り、蛍兵部卿に対して、玉鬘が多少好意があるかのような書き方をしていたのは、どうもこのドンデン返しの伏線とも取れ、何だか今どきのサスペンスドラマ風のヘタな仕掛けの感じがしないでもありません。もともとが何もかも理想的な殿方として描かれた光源氏に対する、意趣返しのような構造を持つb系物語だったのですが、彼女はここへ来て姫君に対しても(そして読者に対しても)、現実(うつつ)のあられもない姿を見せつけることをためらわなかったのです。 光源氏の本編が「貴種流離譚」的な王朝物語で始めたところが、だんだんその古い枠組みでは到底この長い物語を語り継いでいくのは難しくなって来た。そこで「槿(あさがお)」の帖でいったん本編を離れ、スピンアウト系の物語を「求婚譚」を下敷きに書き始め、とくにその前史にあたる「帚木」以下「夕顔」あるいは「末摘花」の帖あたりまでは、おおいに筆が進んだかと思われます。 しかし、この傍系の本編に当たる「玉鬘十帖」を書き始めるころには、紫式部も周辺の目の肥えた読者も、早くからこの「求婚譚」という古物語の枠組み自体が、本編と同様の理由で、この物語の趣旨に馴染まないことが分かっていたのではないか?その理由とは、正しく当代の自分たちの気持を、リアルにすべて描き切るには、こうした昔物語の枠組みは古すぎると。 「玉鬘十帖」の最後に置かれた、はなはだアンチクライマックスなドンデン返しというのは、形上は光り輝く貴公子の世に語られることのない失敗談の総仕上げ、という体裁を取っていますが、実体としては古物語の否定という意味も含んでいるように思えるのです。― つづく ―
2010.04.21
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そういえば、本家「竹取物語」では、あとから参入してきた帝が軍勢を派遣して翁の家を守り、何とかかぐや姫の昇天を阻止しようとするが結局果たせない、というくだりが終りのほうにあって、おおいにこの伽話を賑々しくしているのですが、こちらのほうは何となくあいさつ程度の感じで、相変わらずパッとしません。 とはいえ、帝の意向は無視できないわけで、どうやら玉鬘は尚侍(ないしのかみ、かむ、内侍司の女官長)を務めることになったようです。― 十一月(しもつき)になりぬ。神わざなど繁く、内侍所にも、事多かる頃にて、女官ども、内侍ども、まゐりつゝ、いまめかしう、人さわがしきに、大将殿、昼も、いと、隠ろへたるさまにもてなして、こもりおはするを、いと心づきなく、かむの君は思したり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 十一月になった。(この月は)神事などが続き、内侍所にも、用事が多い時節なので、女官たちや、内侍たちが、(次々と)参上し、(尚侍のもとは)賑わって、人騒がしいのであるが、(髭黒の)大将殿は、昼間も、ことさらに、隠れ忍んだような風情で、(玉鬘の部屋に)籠っていらっしゃるので、何とも不愉快に、尚侍の君(玉鬘)はお思いになる。 ここのところ、どうも場所がらがハッキリしないのですが、尚侍(女官長)になったとはいえ、玉鬘は御所に出仕したわけではなく、相変わらず六条院の御殿の中にいることになります。ということは女官たちは、用事のたびに六条院まで参上したということでしょうか。さらにはその玉鬘の部屋に、昼間から髭黒が籠っていたということは、彼はたぶん朝廷への務めの他は、夜昼分たず玉鬘のもとにいたということで、いくら源氏の認知を受けたとはいえ、ちょっと異様という感じがしないでもない。― 大将は、名に立てるまめ人の、年頃いさゝか乱れたる振舞なくて過ぐし給へる名残なく、心ゆきて、あらざりし御様に好ましう、宵・あかつきの、うち忍び給へる出で入りも、艶にしなし給へるを、「をかし」と、人々、見たてまつる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (髭黒の)大将は、名にし負うマジメ人間で、長の年月いささかの浮気沙汰もなく過ごしてこられたのがすっかり打って変わって、(しごく)ご満悦で、別人のような様子になって好き者めかして、宵、暁どきに、人目忍んで(玉鬘の部屋に)出入りなさって、艶っぽく振る舞われているのを、「面白いわね」と、(周囲の)女房たちは、お見上げしている。 堅物の中年男(といっても三十代前半ですが)が、初めはたぶん多少政略的な思惑もあって、玉鬘に名乗りをあげたとはいえ、実際に我が物にしたとたんに眼が眩んだ。何度も言うように、当時の男女は実際に逢う(寝る)までは、お互いの容貌・有様など知らないわけで、彼は完全にこの若さの匂い立つ玉鬘に骨抜きにされたようですね。 哀れなのは、肝心の当の相手の玉鬘が、この髭黒をまるきり蛇蝎のごとく嫌っているということです。その嫌う理由には、かつて筑紫で経験した「大夫の監」のすさまじい記憶があったかも知れず、髭黒ということさらなあだ名も、たぶんにそうした「むくつけき」野蛮人のイメージを連想させますね。 いずれにしても髭黒には気の毒なことではありました。― つづく ―
2010.04.20
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となると、ひょっとして内大臣と髭黒は、今回の件について内通しあっていたのではないか、という疑いが頭をもたげて来ますね。処女の聖性などと、柄にもなく高尚な倫理を持ち出して議論していた中味が、ここへ来て何となく下世話な政略の話に品下がる感じがしないでもない。それが証拠に、前の「藤袴」の帖の終りに、髭黒が内大臣に息子の柏木を通じて、玉鬘を所望したくだりがありましたね。 飛ぶ鳥を落す勢いの太政大臣源氏といえども、政界のナンバー2、ナンバー3のタッグは無視できないわけで、してみれば光源氏は渋々ながらも、彼らの意向を尊重したということでしょうか。― 三日の夜の御消息ども、きこえかはし給ひけるけしきを、つたへ聞き給ひてなむ、このおとゞの君の御心を、「あはれに、かたじけなく、ありがたし」とは、思ひ聞え給ひける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 三日めの夜のご消息などを、(源氏の殿が、髭黒と玉鬘と)取り交わしなさったご様子を、人伝てにお聞きになって、(内大臣は)この源氏の大臣のお心配りを、「誠にもって、かたじけなく、有りがたい事よ」と、(いたって)ご満足されている。 夜這いのルールが、三日続けて男が女のもとを訪ねれば本気、つまり正式の夫婦という間柄と認められるので、源氏が三日めに彼らと消息を交わしたということは、彼がこの夫婦を認知したということを意味します。今でも結婚の儀が三日にわたって執り行なわれる風習が、ある地方には残っているようですが、ちゃんと理由があるのですね。 内大臣が、ご満悦なのは当然なのでした。そこはそれ、源氏としてもやるとなれば、ことさら盛大かつ丁寧にやるというのは、内大臣たちへの思惑があるからです。 さて、内々にと口止めしていても、そこは口さがない都人の世界ですから、このたびの一件も面白おかしく世間に広まって、帝の耳にも入る。― 「くちおしう、宿世異なりける人なれど、さ、おぼしし本意もあるを、宮仕へなど。かけかけしき筋ならばこそは、思ひ絶え給はめ」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「残念なことに、ご縁が無かった人ではあったが、そのように、(尚侍になる)ご希望が本当ならば、宮仕えなどは(なさったらどうか)。(女御・更衣のような)色事めいた筋ならば、思い絶たれるのも無理はないが」 尚侍という役目が額面は女官長、帝周辺の執務を取り仕切る秘書のような役柄で、女御・更衣のような君寵を争う、いわゆる后ではないから、心配せずに出仕せよ、というのです。冷泉帝もいつのまにやらこの「求婚譚」に参入してきたのでしょうか。― つづく ―
2010.04.19
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こんな話をクドクドしているというのは、引き続くくだりに、― おとゞも、心もゆかず「口惜し」と思せど、いふかひなき事にて、たれもたれも、かく、ゆるしそめ給へることなれば、ひき返し、ゆるさぬ気色を、見せんも、「人のため、いとほしう、あいなし」と、おぼして、儀式、いと二なく、もてかしづき給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 源氏の殿も、(今回の件を)不満足で「残念だ」と思し召すが、言っても仕方のないことではあり、(内大臣はじめ)みんな、それを、許しなさり始めていることなので、(今さら)むし返して、認めないという気振りを、見せるのは、「先方にも、気の毒で、仕方のないことだ」と、お思いになって、(婚礼の)儀式を、たいそう例のないほど(立派)に、執り行なわれる。 とあって、あれほど玉鬘をどうするか惑っていた源氏にしては、何だかあっさりしている。もし一般に処女への聖性が共有されていて、こうした「求婚譚」が成り立っているのだとしたら、もう少し激しいレスポンスがあっても良いのではないか?と思うのは私だけでしょうか。早い話、太政大臣光源氏の一挙手一等足に、皆があれほどピリピリして畏れていたわりには、髭黒の強気な振るまいというのが、どうも腑に落ちないのです。 驚くべしは、その浅ましい仕儀のあと、源氏が婚礼の儀を「いと二なく、もてかしづき給ふ」と、髭黒に対して礼を尽くしていることで、彼に対して何らかの咎めを振るうわけでもない。まあもちろん身分の危険が生じるようなことであれば、髭黒にしてもそんな振るまいは、最初からしなかったでしょう。 してみれば、この求婚騒動というのは、最初から男同士の黙契めいた遊びごとの中で、演じられていた感じがするので、玉鬘をはじめとして女性方には多いに噴飯物の結末なのかもしれません。 それにしてもこのてん末には、何となくかつて朱雀帝の尚侍、朧月夜が内裏に出仕するまえに、光源氏が逢う瀬を重ねていたことへの、紫式部の意趣返しみたいな匂いがあるのですが、その時はご存知のとおり、彼は官位剥奪、須磨流寓という憂き目にあっているのです。しかしそれもよく考えてみれば、右大臣家の大后の勘気に触れることではあったにしても、源氏追放の陰謀はそれとは別に進行していたわけで、そうした政争と色恋沙汰というのは、案外仕分けされて考えられていたのかもしれませんね。 あくまでそれらをいかに優雅にスマートに行なうかが、貴族たちの振るまいかたの基準で、それをやってはいけないという倫理的な禁忌があったわけではないようです。逆にそうした優雅なる色恋沙汰を、最近の若君たちは宮中でしなくなった、というような声が実際の宮中でも囁かれていた、という話は前にもしました。夕霧というのが、どうもそういう当代の公達の性格を反映して描かれているような気もしてきますね。 さて、この騒ぎにかんして、実の親である内大臣というのは、― 「なかなか、めやすかめり。「殊にこまかなる後見なき人の、なまほの好いたる宮仕へに出でたちて。苦しげにやあらん」とぞ、後めたかりし。心ざしはありながら、女御、かくて物し給ふをおきて、いかゞもてなさまし」など、忍びてのたまひけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「なかなか、(これはこれで)結構ではないか。『これといってキチンとした後見のない人が、なまじっか(帝の)寵愛を競い合うような宮仕えに打って出たらば(どうであろう)。しんどいのではなかろうか』と、心配していたのだ。(個人的には、玉鬘を)何とかしてやりたいとは思うが、(なにしろ御所には、長女の弘徽殿の)女御が、あのようにおられるのを差し置いて、どうしたものかのう」などと、内々にはおっしゃっていた。― つづく ―
2010.04.18
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処女性(厳密には処女の血)に込められた聖性と、古代以来の夜這いという婚姻の風習とを、どう折り合いをつけるのか? 今どきの若い人たちには処女性などという言葉は、ほとんど死語に等しいのかもしれませんが、ほんの十数年前ぐらいまでは、日本でも決してこれによる性的な禁忌が、主として女性の方に作用しなかったわけではありません。今や日本は世界でも、もっとも性的に放縦な社会になってしまったのかも知れず、私が若かった頃、一種憧れをもって語られた北欧型のフリーセックスなど、今では誰も話題にしなくなってしまいました。それがどこから出来したものか、ここでは長くなるのでしませんが、私はやはりネット社会の普及が関係しているのではないか、と思っています。 ここから先しばらく、しゃべり方に気をつけないと、女性差別だの不道徳だのの謗りを受けかねないのですが、セックスと婚姻の形態というのは、おそらく人類史的な射程で見ていかないと、ややもすると近代的な偏った倫理観で裁断しかねない要素があるのです。もっと言うなら動物行動学的な視点にまで拡げたほうが分かりやすいのかもしれません。 古代社会の婚姻が、なぜ夜這いとか略奪婚のような形態を取ったのか?以前に少し冗談めかして触れたことがありますが、自然と接触する機会がはるかに多く、さらにはそれらを常に観察していないと、たちまち種族の保存に支障をきたすような社会であれば、彼らの生存に合理的な解決を与えてくれるのもまた、抽象的な思考や呪術ではなく、ごく具体的な周囲を取り巻く自然しかなかったと思うのです。 彼らの頭の指向は優れて周囲の動きを捉えるのに秀でていたので、毎日の食料はそれなくしては獲得出来ません。それは同時に食料の対象であるべき動植物たちの振るまいへの、細かな観察をともなったはずで、その中には当然サルとかクマのような、群れ社会性を持った動物たちも含まれていたでしょう。それらが基本的にメス中心のコロニーを形成していて、オスはボスとして君臨するだけ、若いオスは群れを離れて、新たに別のコロニーを作る、というのは古代人には種族維持の形態としては、ごく合理的に映ったのではないか? まあ人間がサルから進化したのであれば、そんなゴタクを並べなくても、もともと母系的な種族維持の形質を、ヒトは持っていたのかも知れませんが。 夜這いだの入り婿婚だのという婚姻形態は、やっぱりそうした古代社会のニオイを色濃く引いているので、そこでは先の処女性という要素はほとんど意味を成しません。「古事記」や「万葉集」を見ても、人妻に男=オスが声をかけるのはごくあたりまえで、その相手がときに帝の后であっても、歌にも詠まれ物語に語られるということは、そうした振るまいが必ずしも社会的制裁を受ける事柄ではなかったことを示しています。 それどころかむしろ宮廷では、そうした相聞歌が酒宴の席で詠われていたらしいのです。 面白いのは、日本では大陸の制度が本格的に敷かれて三百年経っても、一般どころか宮廷内でも、夜這いが普通に行われていて、しかもそれが社会的制裁の対象になっていないらしいということで、「枕草子」にもそのあたりは詳しいですね。律令制度というのは、本来は儒教的な倫理性とセットで、大陸では宮廷内の役人はすべて去勢(宦官)されたのです(宮廷の女たちは、すべて皇帝一人の所有物なので)。 しかし日本では大陸の制度や建築のような外見の形は取り入れても、内実は古来からの風習を、さして反省するでもなく維持していたようです(それを非難するような僧侶や文章博士の文献というのを、不勉強な私は知りません)。このあたり、今もって世に出てくる日本人の習性のようなものを垣間見るのですが、まあこれは別の話ですね。― つづく ―
2010.04.17
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この肝心の部分をカットして、その後の人々の動きだけを書き記す、というやり方は彼女の得意技の一つで、読む方は否応なく実際にあったことを、各々思い描かざるを得ない。人によって想像力の高低はあるにしても、相当すさまじい状況が繰り広げられただろうということだけは、みんな納得させられるという仕儀に相成ります。 このあたり、えげつない状況を書かずに想像させることで、かえってそのすさまじさを暗示するという紫式部の語り口は、ホントにどうやって考えついたのだろうと思ってしまいますね。西欧ではこういった天才の心憎いばかりの技の冴えを、ときに「自分の魂を悪魔に売って、手に入れた」というような言い方をするようですが、さしずめ彼女は「物の怪に魂を売って、それを手に入れた」といったところでしょうか。 さて、その髭黒の玉鬘に対する求婚のてん末について、大野さんは暴行に近いものだったのではないかとされるのですが、丸谷さんはさすがに疑問を呈されます。というより、そもそも当時の婿取り婚という形態には、略奪婚的な性格が本来的に含まれているので、多少の乱暴狼藉の危険は常にあったのではないか、というのです。さらに言えば、そうした招婿婚が一般であった当時の社会にあって、はたしていわゆる処女性というものの価値観というのが、どれほどの意味合いを持っていたのか?という、これまたごく基本的な疑問に突き当らざるを得ない。 これは「求婚譚」というもともとの発想に対して、根本的な見直しを迫っているわけで、それはこの「玉鬘十帖」という物語が、処女性の価値を前提にしているからに他ならないからです。もし「かぐや姫」が地上の男と交わって、月へ昇天したとするならば、「竹取物語」の有りがた味は吹き飛んでしまうでしょう。ここには古代以来の自然の運行や振るまいに対する畏れ、及びそれを言祝ぐ人々の生活がこだましているわけで、自然性を象徴する魔物や化け物に対して処女を捧げるという話は、世界じゅうの神話に数多く見られますね。 とはいえ「かぐや姫」の物語の根底に、そうした生贄信仰的な発想が宿っているにしても、それが長い歴史世界の中で説話化され、すっかりリファインされた相貌を呈していることもまた事実なので、これが大陸由来の古物語であったろうということは前にも触れました。日本古来の古物語には天体の運行に絡んだ説話はないのです。 「天の岩屋戸」伝説は、日蝕と関係してるじゃないかと言われそうですが、これは間違いで、太陽の神様(天照大神)が岩屋戸に籠もって世界が暗闇に閉ざされるというのは、毎年の冬至近く日の光が弱まって行くのを、八百万の神々が言祝いでこれを復活させる、いわゆる死と再生の復活儀礼を説話化したものなのです。それは当然翌年の豊作を願う古代農耕儀礼から来たものなので、百年に一度あるかなしかの天体ショーに動議づけられたものではありません(天体の運行や暦に、たいそうな関心を示したエジプトとかメソポタミア、あるいはインカやアステカというのが、どういう文明だったのか、これまた面白い話題なのですが、長くなるうえに別の話になるので、ここでは触れません)。 大陸文明というのが日本のような農耕一色の文化と異なり、多種多様な文化が入り混じって、しかもそれを消化していった年数も日本と比較にならないくらい長い、ということになれば、そこに洗練とか新たな倫理性が付加されていくのは当然で、古代律令制の施行から三百年近く経た平安中期といえども、いまだ入り婿婚の形態を残していた日本の社会習俗の中で、この大陸由来の処女性に対する価値観というのは微妙な問題を生じて来るわけです。― つづく ―
2010.04.16
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― 「内裏(うち)に、きこし召さむことも、かしこし。しばし、人に、あまねく漏らさじ」と、いさめ聞え給へど、さしも、えつゝみあへ給はず。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「帝が、お聞き遊ばすことになれば、畏れ多い。しばらく、人には、知らせるなよ」と、お止めなさるが、そのように、隠しおおすこともお出来にならない。 「真木柱」の帖の冒頭は、上のような光源氏の語りで始まります。物語のはじめがいきなり会話というのも、ずいぶん破天荒なことだと思うのですが、ここのくだり、注無しの地の文だけ読んでいると、一体何が起こったのか、しばらく読者は途方に暮れるという仕掛けになっているのです。 続けて、― 程経れど、いさゝか、うちとけたる御気色もなく、「思はずに憂き、宿世なりけり」と、思ひ入り給へるさまのたゆみなきを、「いみじうつらし」と、おもへど、おぼろけならぬ契りの程、あはれに、嬉しく思ひ、見るまゝに、めでたく、思ふさまなる御かたち・有様を、「よそのものに見はてて、やみなましよ」と、思ふだに、胸つぶれて、石山の仏をも、弁のおもとをも、並べていたゞかまほしう思へど、女君の、ふかく、「ものし」と、おぼし疎みにければ、えまじらはで、こもりゐにけり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 日にちが経っても、いっこうに、馴れ親しんだご様子もなく、「思いもかけぬ不運な、身の上だったこと」と、思いつめてらっしゃる様子が収まらないのを、「何とも辛い」とは、思うが、紛うことなき逢う瀬の時を、あわれにも、嬉しく思い、見れば見るほど、麗しくも、理想的なお顔立ち・振るまいなので、「(もしこの人が)他人のものになって、終わっていたらな」と、考えるだけで、胸がつぶれて、石山の仏と、弁のおもとを、並べて拝みたいほどの気分であるが、女君のほうは、ものすごく、「不愉快だわ」と、お思いになって疎まれるので、ようお仕えもせずに、家に籠もっている。 終わりのほうに「石山の仏をも、弁のおもとをも、並べていたゞかまほしう …」とあることで、これがどうやら弁のおもとを介した、髭黒の仕業であることが分かってくるのです。 とはいえ、肝心なことは当の契りを結んだ玉鬘が、いっこうに髭黒と馴じんでいないということで、「思はずに憂き、宿世なりけり」とは、彼女にはこれが完全な不意打ちであったうえに、相当あさましい次第が初夜の寝床で繰り広げられた、ということを示しています。したがって「女君の、ふかく、「ものし」と、おぼし疎みにければ、えまじらはで、こもりゐにけり。(女君のほうは、ものすごく、「不愉快だわ」と、お思いになって疎まれるので、ようお仕えもせずに、家に籠もっている)」というのは、たぶん手引きした弁のおもとのことでしょう(山岸徳平さんの校注では、髭黒が朝廷に出仕せずに玉鬘のもとに籠もった、とあります)。 どちらにしても、数ある婿候補の中から姫をものにした髭黒の有頂天ぶりと、思いもかけないてん末に落胆する玉鬘の姿が気鮮やかに対照されます。― げに、そこら、心苦しげなることどもを、とりどりに見しかど、心浅き人のためにぞ、寺の験(げん)も現はれける。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) まことに、いろいろ、(殿方からの)辛いこと(思い掛け)などに、様々会って来られたが、(結局、玉鬘がいちばん)何とも想っていなかった人のためにだけ、お寺の霊験が現れたのであった。― つづく ―
2010.04.14
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髭黒の大将、この「求婚譚」では「胡蝶」の帖ですでにちょっと顔を出しているのですが、詳しい中味が語られるのは今回が初めてです。それにしてもこの名称、平安時代の殿方は多かれ少なかれ髭を生やしていたと思うのですが、ことさらに黒髭であることを強調しているのは、その質朴さ=都趣味を解しない人というイメージを示すためか? 実際の彼が朴訥ではあっても、政務に優れていたことは、帝の信任が源氏や内大臣についで厚かった、という記述でも明らかで、この名前の印象から受けるほどに荒っぽい人ではないのです。これはあるいは大塚ひかりさんが指摘されるとおり、「玉鬘十帖」の冒頭で語られた、むくつけき大夫の監(たいふのげん)のイメージに引っ張られて出てきたとも思われ、髭黒という名前は実際以上に野卑な感じを与えますね。 おそらく紫式部は、この「求婚譚」の初めと終りに、こうした野卑な男を配することを最初から考えていたと思うのですが、その結末は次の帖で見ることにしましょう。 さて、光源氏も髭黒の家のこうした事情を知っていて、そこに玉鬘が嫁して行けば、どんなに苦労するか分からない、ということで何やかやと渋っている。彼としてはどうしても彼女を出すのであれば、蛍兵部卿が良さそうだと思っている。例によって親王系であれば、またいろいろ言いつくろって、自分の好きなように玉鬘を扱うことが出来るだろう、という下心も垣間見えますね。彼は兄の朱雀院の尚侍にして愛妾の朧月夜とも、ずいぶんな関係を持った男ですから、弟の嫁なら、というところはあったでしょう。 しかし今回の髭黒は、何となく強気なのです。― 「かのおとゞも、もてはなれても、思したらざなり。女は、宮仕へを、物憂げに思いたなり」と、うちうちの気色も、さる委(くは)しき便しあれば、もり聞きて、 「たゞ、おほとのの御おもむけの、異なるにこそはあなれ。まことの親の御心だに違はずば」と、この弁の御許(おもと)にも、せめ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「あの内大臣も、(私を玉鬘の婿として)ふさわしくないとは、お考えでないようだ。姫も、(尚侍という)宮仕えを、億劫に思っておられるらしい」といった、内々の事情を、しかるべき筋から詳しく知る伝手があるので、(それを)漏れ聞くと、 「要は、源氏の大臣殿のご意向だけが、異なっているのか。(であれば)実の父親(内大臣)のお心にさえ違わないのなら(かまうまい)」ということで、この弁の御許(おもと、玉鬘付きの女房)に、(さかんに仲介を)催促する。 髭黒としては、内情はともあれ、内大臣が実の父という建て前で押し通せば、これは行けると踏んでいる。このあたり何となく、またもや世俗と皇孫の対立の構図も見て取れるのですが。 さて九月になって、尚侍出仕の時期も一ヶ月ほどに迫り、あちこちから玉鬘のもとに怨み言や、最後のお願いのような懸想文が届く。おおむね無視していた玉鬘ですが、なぜか蛍兵部卿の宮の文にだけは、簡単ですが返事を書く。理由は語られませんが、何となく伏線めいたくだりで「藤袴」の帖は終りです。― 源氏1000年 藤袴 おわり ―
2010.04.13
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夕霧のあと、これまたもうすでに姉弟の関係であることがわかって、候補から外れたはずの柏木が玉鬘のもとを訪ねて、「じかに話をさせて下さい」と、なぜかずいぶん熱心に迫ったりもするのですが、「求婚譚」の筋からいうと彼はもう済んでいる人で、なぜ今また出てくるのかピンと来ません。この人、「若菜」の帖以降、主たる登場人物の一人になるのですが、ここでこの人のキャラクターが気鮮やかに発揮されて、その後の展開への伏線となっているかと言えば、そういうわけでもなさそうです。 となると、どうやら紫式部は、今までこの「玉鬘十帖」に出てきた婿候補の男君について、一人一人律儀に始末をつけようとしたか?しかしそれがそのままで終わって、後につながっていかないので、もう一つ読んでいてもパッとしないのです。 さてこうして若君たちが、婿候補の舞台から去れば、残った主たる男君たちは、いささか年長けた蛍兵部卿の宮と、例の髭黒の大将ということになります。蛍兵部卿が光源氏の腹違いとはいえ、弟で彼とは親しくて、そういうこともあって玉鬘には、最初からずいぶん熱心に懸想を繰り返してきたことは、何度も語られてきました。 髭黒は、というと、― 大将は、この中将は同じ右のすけなれば、つねに呼びとりつゝ、ねんごろに語らひ、おとゞにも、申させ給ひけり。人がらも、いとよく、おほやけの御後見となるべかめる下形(したがた、下地。素地。素質)なるを、「などかは、あらん」と、おぼしながら、「かのおとゞの、かくし給へることを、いかゞは、聞え返すべからむ。さるやうあることにこそ」と、心え給へる筋さへあれば、まかせきこえ給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (髭黒の)大将は、この(柏木の)中将と同じ右近衛の次官なので、いつも呼んでは、熱心に相談して、内大臣にも、(その旨を)申上げさせられる。人柄は、たいそう優秀で、(いずれは)万般の政務の司るであろう素質をお持ちなので、(内大臣は)「何か(不都合が)、あるかね」と、思っておられるが、「(しかし)例の源氏の大臣が、あのように(玉鬘を尚侍にと)思っておられる以上、どうして、ご反対出来よう。しかるべき分けがあるのだろうからな」と、思い到るところがあるので、(源氏の殿に、玉鬘の件は)任せていらっしゃる。 以下この髭黒の大将の紹介があります。― この大将は、春宮の女御の御はらからにぞおはしける。おとゞたちをおきたてまつりて、さしつぎの御おぼえ、いとやむごとなき君なり。年三十二三の程に物し給ふ。北の方は、紫の上の御姉ぞかし。式部卿宮の御大君よ。年のほど、三つ四つがこのかみは、殊なるかたはにもあらぬを、人がらや、いかゞおはしけむ、嫗(おうな)とつけて心にも入れず、「いかで背きなむ」と、おもへり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) この大将は、東宮の御母(承香殿の女御)のご兄弟でいらっしゃる。(太政大臣、内大臣のような)大臣たちを別にお扱いすれば、(それに)引き続いて(冷泉帝の)信任が、たいそう厚い君である。歳は三十二、三ぐらいでいらっしゃる。(この君の)北の方は、紫の上の御姉君であった。(つまり)式部卿の宮のご長女であらせられる。歳の程は、(大将より)三つ四つ上とはいえ、これといった疵でもないのに、(その)人柄が、どうしたものであったか、(大将は、北の方を)おばばと(あだ名を)つけて心も掛けず、「どうやって別れようか」と、思っていた。 ここのくだり、髭黒の社会身分と家庭の内情、さらにはこの北の方と紫の上との関係などが、サラサラと示されて上手いですね。私たちは否が応でも、なぜ彼がこの年上の奥さんを「オババ」と呼んで、何が何でも別れようとしているのか、興味をそそられてしまいますね。― つづく ―
2010.04.12
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そこで浮かび上がってくるのは、天を圧する光源氏のかけ離れた超人ぶりと、凡庸なる俗人の対照なのです。こののち夕霧は、この物語の第二世代の人物として、何度も出てくるのですが、おそらく彼のような人物こそが、紫式部の時代のもっとも典型的な男君ではなかったか? ということは、そもそもこの物語の「いづれの御時であったか、 … 」で始まる「源氏物語」の主意が、「今昔物語」の「今は昔、 … (今ではすっかり昔のことになってしまったが、… )」式の今と切り離された昔物語ではなく、「いつの世とは知れないが(今につながっている)ある御世、 … 」という含意がある、という西郷さんの指摘は重要で、この物語は昔物語の意匠をまといながらも、最初から当時のまさしく今の話で、世に表立っては語られないことを話しますよ、ということを宣言しているのです。 してみれば、古代物語風の超俗の貴公子光源氏というのが、初めからこの世には有り得ない存在だったというのは、紫式部本人にも、そして多分周囲を取り囲む目の肥えた読者にもよく分かっていたはずで、であるなら、「夕霧のような人物こそが現実(うつつ)にいる男たちなのよ」、という御簾の内のささやき声が何となく感じられますね。彼が見目麗しく頭も聡明で、当代随一の逸材の一人と描かれるということは、最優秀の彼でさえ現実(うつつ)の世ではこんなものなのだから、まして他の殿方などは話にならない、というわけでしょうか。 これは逆に言い換えると、それほどまでに光源氏というのは超越的な人で、こんな人物はこの世に居るわけがない、ということも暗に示そうとしているかのようです。何度もいうように「源氏物語」というのがもともと、平安の今の世に古代物語のような英雄が現れたらどうなるか?という夢物語から出発したとするなら、書かれ始めた当初から光源氏など現実にいるわけがない、という共通認識は主たる読者の中にはけっこうあったのではないか、と私は思うのです。 問題はむしろそれでも読者を惹きつけて止まない紫式部の天才的な筆致の質にあるので、彼女がたんに宮廷内部のゴシップの類を、その持って生まれた話し上手の才で、面白おかしく書いたとするなら、この物語はとっくに古びてしまったことでしょう。で、そうならなかったカギというのが、これも前に少し触れましたが、おそらく古代物語的な「貴種流離譚」とか「求婚譚」とか「神仙譚」という枠組みを借りながら、彼女はそれらを常に一から見直して自身の話法で話そうとする、つまり批判的に我が物にしようとしていたらしい、ということなのです。 こうした枠組みの中で、当初の古代物語の雰囲気や骨法を残しているものは一つもなく、換骨奪胎されてその痕跡すらほとんど認められないというのは、今まさしく読んでいるこの「玉鬘十帖」がそうなので、これが「かぐや姫」式の「求婚譚」ですよと言われても、私たちはすっかり戸惑うばかりです。 彼女はたぶん「玉鬘十帖」を書き始める当初から、この古代物語の枠組みをそのまま踏襲することなど、ここから先も考えていなかったでしょう。まあその話はもう少し後にすることにしますが、要は今もって私たち読者を惹きつけて止まない彼女の筆致の魅力は、どうやらこうした古物語をどういうふうに消化し尽くして、自分の言葉にして行ったか、自身の表現にしていったか、という彼女の批判的な精神の緊張感にあるようです。 で、この「玉鬘十帖」でこれから彼女が試みようとしている結末というのは、本編の光源氏の運命にもいずれ反映していくのを、私たちは見ることになるでしょう。ちょっと話が先走りました。終わりを急ぎましょう。― つづく ―
2010.04.11
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夕霧のいささか気色ばんだ指摘を、何とか笑い飛ばして、はぐらかした父源氏ですが、内心はというと、― 「さりや。かく、人の推し量る、案に落つることもあらましかば、いと、口惜しく、ねぢけたらまし。かのおとゞに、いかで、かく心清きさまを、知らせたてまつらむ」と思すにぞ、げに、宮仕への筋にて、けざやかなるまじく紛れたるおぼえを、「かしこくも、おもひより給ひけるかな」と、むくつけく思さる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「やっぱり(そうであった)か。このように、人が当て推量している、噂どおりになってしまうとしたら、いかにも、くやしいし、(また実際のところ)あってはならんことだろう。あの内大臣には、どうやって、このような(我が)心の潔白なところを、お知らせしたものか」とお思いになるが、(それにしても)まったく、宮仕えという名目にして、大っぴらにならないよう紛れさしてしまおうとした(私の玉鬘への)下心を、「(内大臣は)怖いくらい、(よく)見抜かれたものだな」と、薄気味悪く思われた。 まあ、この当て推量の中身には、夕霧の想像も相当入っているのですが、どちらにしても光源氏にとって、世間というよりは、すっかりややこしくなってしまった内大臣との関係が、我が身に不利の形で、さらにこじれるのは避けたい。優先順位としては、玉鬘への好き心などはもともと遊びのレベルでしたから、彼女の気持などは取り合えず差し置いて、あくまで帝の意向という大義名分に従って、尚侍としての出仕の準備を進めさせます。 さて、大宮が亡くなったのは、あとの「藤裏葉」の帖に、この年三月二十日とあることから、玉鬘の御裳着の式から一ヶ月ほど後だったことが分かるのですが、となるとその服喪が解けるのが八月二十日ごろ、九月は忌月ですから、宮中への出仕は十月ということになる。 こうしてタイムリミットが確定したとなれば、それぞれ玉鬘に懸想していた殿方にも動きが出てくるのですが、夕霧はというと、― 中将も、「なかなかなることをうち出でて、いかに思すらん」と、苦しきまゝに、かけり歩きて、いと、ねんごろに、おほかたの御後見を、思ひ扱ひたるさまにて、追従しありき給ふ。たはやすく軽らかにうち出でて、きこえかゝり給はず、めやすく、もてしづめ給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (夕霧の)中将も、「言わでもことを口にしてしまって、(玉鬘は)どのように思っているのだろう」と、不安で、(落ち着きなく、そこらを)駆け回って、たいそう、丁寧に、万般のお世話を、心込めてしながら、(さかんに)ご機嫌を取っていらっしゃる。(しかし)簡単に軽々しく口に出して、懸想なさることはなく、(結局)人目の好いように、心を抑えておられた。 夕霧というのが、頭は聡明で気配りも利く、実務的能力ではたぶん父源氏を上回っていたと思われるのですが、こういう才人によくあるパターンで、身づからの感情に惑溺するという振るまいは、彼にはもっとも縁遠い事柄なのでした。相手を気に懸けながらも結局、今一度じかに玉鬘に迫るということは、ようしなかったのです。 父源氏に対すると同様、彼が感情に駆られて人とやりとりするというのは、このあたりが精一杯のところだったのでしょう。この人がイマイチパッとしない印象なのは、こういうところに現れてくるので、彼がどこかでついに若さにまぎれて破裂したら、どんなにか気の利いた物語になっただろう、とも思うのですが、紫式部はそれをしません。― つづく ―
2010.04.10
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私たちが見慣れたようなドラマ性を、なぜ紫式部はことさらと言えるほどに、何度も避けるのか? 少し別の話をします。 人生を一つの劇と見立てて、登場人物たちを次第に決定的瞬間に追い込んでいく、終りに衝突や和解の場面が現れて物語が決着する(神々の予言が実現する)、というのはギリシャ悲劇以来の、西欧文学の一つの骨法であったか、と思われますが、十九世紀の後半ぐらいから、そうしたおなじみの枠組みでは、人や社会の実相をつかみ切れないのではないか、という違和感が、あちらでは現れて来たようです。 アリストテレスは衝突(catastrophe)のあとに生じる浄化作用(catharsis)に悲劇の本質を見たのですが、神無き近代社会以降、いわば神々の予言を司っていた、登場人物の背景を取り巻くコロス(合唱隊)が意味を成さなくなれば、こうした物語の枠組みがウソ臭く見えるのは致しかたのないところで、二十世紀以降の小説や映画などで、ときにはなはだ未決着な消化不良の終わりかたをする作品が現れて来たのには必然性があるのです(一時のフランス映画や文学、ここ最近ではC・イーストウッドの映画などにもそんな感触がありますね)。 もちろん紫式部はそんな近代作劇法や、リアリズムの手法は知る由もなかったわけですが、彼女がときに繰り出す省略の手法とか未解決のままの話というのが、何となくいわゆる現代小説(近代小説ではありません)の読後感と似た感触があることもまた事実なのです。しかし、だからといって彼女が一千年の時空を飛び越えて、今どきの作法を見い出していたと看做すのはもちろん短絡で、古代物語や宮廷文学的語法が重層する中で、なかば偶然のようにしてそうした今の私たちを驚かす表現が顔を出す。 私は古今の数多の傑出した才能が、ものを書いたり絵を描いたり音楽を奏でる、要は芸術的なパフォーマンス(表現)の衝動に駆られる動機の中に、時空を超えて人が共有するような欲求が潜んでいるような気がしてしかたがないのです。それはあるいは、この世のすべての生き物は時間の相のもとにあって、それと逃れ難く結びついている。その時間性の本質を少しでも表現したい、よしそれが叶わなくても、少しでもそれに近づいて時間性の後味だけでもこの世に残したい、という欲求なのではないか? で、もし「源氏物語」に私たちが共鳴できる部分があるとすれば、紫式部は生き物としての人間が、ずうっと抱いているそうしたいちばん根っこの欲求に、知らず知らずしてかなり接近していたのではないか、と思っているのです。 何だか抽象的な小難しい話と思われるかもしれませんが、それほど大上段に振りかぶっているわけではなくて、例えば桜が散り初めはじめた今日この頃の風景を見て御覧なさい。これについてはちょうど去年の今ごろ(インテルメッツォ 42.2009年04月08日)取り上げたことがあるのですが、桜の花に日本人が見い出す美というのは、要するに新鮮な花をつけたまま潔く散っていく、いわゆる散華の姿にあるので、写真のように時間性を捨像して切り取った美しさで見るなら、梅や桃と桜の花はたいして変わりがないでしょう(まあ、今年は例年になく気温の変動が激しくて、桜のほうも何となく散り時を失ったような咲きかたで、はなはだ有り難味に欠けるのですが)。 前にも言いましたが、大陸では桜より圧倒的に梅桃のほうが、(長持ちするので)愛でられるのです。同じようにエジプトのピラミッドや西欧のゴチック建築を見ていると、かたやで人間というのは我が身の有限な時間性を飛び越えて、どこまでも永遠性を求めて止まない存在でもある。しかしいずれにしても、その底に自分たち生き物が、すべからく時間の相に絡め取られて、そこから逃れられない存在であるという、痛い認識が潜んでいるのは共通しているので、要はそれを受け入れてそのものを美として祀り上げるか、逆にどこまでも抗いながら永遠性を求め続けて時間を超えようとするか、という現れかたの相違に過ぎないでしょう。 これは生き物にとって抗いがたい時間の相というものに、逆に日本人は美の本質を見い出している、ということを示しています。何かにつけて新鮮なものを好む、という性向は早い話、企業の求人でも人生の手垢にまみれたキャリア組などよりは、今でも圧倒的に新卒が優遇される、という日本特有の社会風土を見ても分かるでしょう。 そうした時間の相を美的に祀り上げる日本人の性向に、どうやら「源氏物語」は相当関わっているらしくて、それがどこから来るのか?これもまた、しつこくこの物語を読み続けている理由の一つで、結論から言ってしまえば私は「源氏物語」とは、時間そのものの感触を描いたものだ、と思っているのです。 ずいぶん大それた話になってしまいましたが、まあしかし先は長い。底辺にそんなことを意識しながら、さてもとの話に戻るとしますか。― つづく ―
2010.04.09
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夕霧はおそらく複数のラインから、父源氏の考え方や振るまいのウラを取っているので、この際本当のところを父本人に確かめてしまおう、としているかのようです。― 「「うちうちにも、やむごとなきこれかれ、年頃を経て、ものし給へば、えその筋の人数にはものし給はで、捨てがてらに、かく、ゆづりつけ、『おほぞうの宮仕へのすぢに、牢籠(らうろう)せむ』と、おぼしおきつる、『いと、賢く、才(かど)あることなり』となむ、よろこび申されける」と、たしかに、人の、かたり申し侍りしなり」と、いと、うるはしきさまに、語り申し給へば、「げに、さは思ひ給ふらんかし」と、おぼすに、いとほしくて、 「いと、まがまがしき筋にも、思ひ寄り給ひけるかな。いたり深き御心ならひならむかし。今、おのづから、いづかたにつけても、あらはなる事ありなん。思ひぐまなしや」と笑ひ給ふ。御気色は、けざやかなれど、なほ、疑ひは多かり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (夕霧は)「「内々に(内大臣がおっしゃるには)、(六条院には)畏れ多い女君たちが、長年にわたって、連れ添っておられて、やっぱり(玉鬘を)その筋の列に加えることを(源氏の殿は)お出来にならないので、(半ば)見捨てるようにして、このように、(私に)譲り、『表向きは(尚侍という)宮仕えの形にしておいて、(そのくせ)自分の手もとに置いて手なづけておこう』と、お考えになっておる、『何とも、賢明で、才覚あるやり方だな』と、ずいぶん喜んで申されていた」とも、確かに、(ある)人が、語っておりました」と、たいそう、真顔で、申上げられるので、「まったく、(内大臣なら)そのようにもお考えなさるだろうな」と、思われると、(源氏は、内心)しんどくなって、 「ずいぶん、とんでもない筋書きを、思いつかれたものよ。詮索好きな(内大臣の)ご気性ならではだな。今に、自然と、どちらにしても、ハッキリしてくる事もあるさ。(そこまで)よく気の回ることだな」とお笑いになる。(その)ご様子は、(いたって)快活であるが、(それでも)なお、(夕霧には)疑問が多いのであった。 夕霧は内大臣の言っていたことを、人から聞いたという形にして、おそらく自分の推測も交えて、父に図星でしょう、と迫っているのです。「いと、うるはしきさまに、語り申し … 」とは、彼が一種の勝負に出たさまを現しているかのごとくで、先の玉鬘への懸想の伏線が利いて、このあと父子の決定的な衝突を、私たちはおおいに期待してしまいます。 ところが実際は、芝居気たっぷりな父源氏の話しっぷりに、軽くいなされてしまう。マジメな夕霧としても目上の人に対して、これ以上の追求はムリだったでしょう。 ハーレクィーン型小説やよくあるテレビドラマに慣れた私たちは、「なほ、疑ひは多かり」のまま、この話がほったからしになることなど考えもしないので、いずれ源氏の本心が白日の下に曝され、同時に夕霧の想い懸けも露見するという、決定的瞬間をあたりまえのように予期しますが、紫式部はそれをしません。 というより彼女は、人と人とのそうした気鮮やかな衝突とか和解とかといった場面を、むしろ意図的とさえ思えるくらいに、避けて通っている感じがするのです。こののち、ずうっと先で、夕霧と奥さんの雲井の雁のごく世話物的な、すったもんだがあるのですが、それとても生き別れの決定的場面に至ることはない。 あるいは彼女は、そうした筋書きも思い抱いていたのかもしれません。それを避けたのには、一つには何事も気鮮やかに露骨なる表現を忌避する、王朝文化の気風というものもあったのでしょうが、私はもっと彼女の内心の感覚から来たものではないかとも思っています。 人の生きているという感触というのは、そんな衝突や和解で終わるようなものではなくて、そうした物事が起こりかけては消えてゆく、決着のないダラダラとした繰り返しのような舌触り、そんな感覚にこそ、彼女は真のフィット感を見い出していたのではないか?― つづく ―
2010.04.08
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― 「難(かた)しや。わが心一つなる、人のうへにもあらぬを。大将さへ、我をこそ恨むなれ。すべて、かゝる、事の心苦しさを見過ぐさで、あやなき、人の恨み負ふ、かへりては、かるがるしきわざなりけり。かのはゝ君の、あはれに言ひ置きしことの、わすれざりしかば、「心ぼそき山里に」など聞きしを、「かのおとゞ、はた、きゝ入れ給ふべくもあらず」と、うれへしに、いとほしくて、かく、わたしはじめたるなり。こゝに、かく、ものめかすとて、かのおとゞも人めかい給ふなめり」と、つきづきしくのたまひなす。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「(なかなか)難しいことよのう。我が意一つで(どうとでもなる)という、(玉鬘の)身の上ではないからな。(髭黒の)大将でさえ、私を恨んでおると(言うではないか)。何かにつけて、このような、事柄の気の毒さを見過ごせなくて(やったことなのに)、分けもなく、人の恨みを買うというのは、かえすがえす、(我が身としては)軽々しい行いであった。かの母君(夕顔)が、あわれに言い残して逝かれたことが、忘れられなくて、『(その娘が)心細い山里に(いる)』などとも聞き、(また)『あの父内大臣は、(娘の世話を)到底、聞き入れて下さりそうにない』と、訴えてきたのが、可哀想で、このように、引き取ることにしたのだ。ここ(六条院)で、このように、(大事に)かしづかれているということで、あの内大臣も(玉鬘を)人並みに扱うようになるのだろう」と、(いかにも)それらしくおっしゃる。 もともとが「わが心一つなる、人のうへ」のつもりで、弄び者として六条院に迎えた玉鬘、実際に会ってみると、思いのほか美人であるうえに頭も良さそう。そしてなにしろ番茶も出花の匂い立つ若さ。世の権力を思いのままにして、熟年期の後半に差しかかった光源氏には抗いがたい魅力があって、話がややこしくなっているのは、すべてこうした彼の好き心から始まっているのです。ここでもあることないこと言い取り繕って、いなそうとするのですが、― 「年頃、かくてはぐくみ聞え給ひける御心ざしを、僻(ひが)ざまにこそ、人は申すなれ。かのおとゞも、さやうになむおもむけて、大将の、あなたざまのたよりに、けしきばみたりけるにも、答(いら)へ給ひける」と、きこえ給へば、うち笑ひて、 「かたがた、いと、似げなきことかな。猶、宮仕へをも、何事をも、御心許して、「かくなむ」と思されんさまにぞ、従ふべき。女は三つに従ふものにこそあなれど、ついでを違へて、おのが心に、まかせんことは、あるまじきことなり」と、のたまふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) (夕霧が)「(この)年月、(父殿が、玉鬘を)このようにご養育なさっているお心向きを、ヘンなふうに、世間の人は噂しているようですが。あの内大臣も、そのように思い至られたか、(髭黒の)大将殿が、つてを頼って、(あちらに玉鬘を)所望したときにも、(そのように)お答えなさったようで」と、申上げなさると、(父殿は)笑いながら、 「あっちもこっちも、まったく、ありえない話だな。いずれにしても、宮仕えにせよ、何にせよ、(内大臣が)ご納得されて、『このようにも(したい)』と決められたことには、従うべきだろう。女は三つの道(父、夫、息子)に従うものであって、筋を間違えて、私の意のままに、(彼女を)しようなどとは、あってはならんことだからな」と、おっしゃる。 夕霧の追求は的を突いているので、今度は話を内大臣のほうに丸投げしようとする。しかし彼の追及は、なおも続くのです。― つづく ―
2010.04.07
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夕霧の報告を受けた光源氏の感想というのが、― 「この宮仕へを、しぶしぶげにこそ、思ひ給へれ。みやなどの、恋(れん)じ給へる人にて、いと、心深きあはれをつくし、いひ悩まし給ふに、「心や、しみ給ふらむ」と、思ふになむ、心苦しき。 … 」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 「(してみれば)この宮仕えには、(あまり)乗り気では、いらっしゃらないようだな。(蛍兵部卿の)宮など、(玉鬘を)恋慕される方々がいて、たいそう、熱心にあわれを尽くして、かき口説かれるので、『心が、(そちらに)惹かれるのかしら』と(感じておられるように)も、思えるのは、残念なことよ。 … 」 大原野への行幸の折り、帝の眩さを玉鬘に見せて、尚侍への道筋を演出した光源氏ですが、後見が中途半端なままの玉鬘は、気持ち的に出仕を渋っている。万事が源氏の都合で動いている以上、当然のことなのです。 そのあたり、夕霧も疑問があるので、遠回しに父の真意を測ろうとする。― 「さても、人ざまは、いづかたにつけてかは、たぐひて物し給ふらむ。中宮、かく並びなき筋にておはしまし、また、弘徽殿、やむごとなく、おぼえ殊にて物し給へば、いみじき御思ひありとも、たちならび給ふこと、かたくこそ侍らめ。宮は、いとねむごろに、おぼしたなるを、わざと、さる筋の御宮仕へにもあらぬものから、ひきたがへたらむさまに、御心おき給はむも、さる御なからひにては、いといとほしくなむ、聞き給ふる」と、おとなおとなしう申し給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「それにしても、(玉鬘の)お人柄だと、どの方と一緒になられるのが、いちばん相応しくていらっしゃるのでしょう。(秋好の)中宮は、あのように類なき地位であられますし、また、弘徽殿(の女御)も、ご立派なうえに、(帝の)ご寵愛も格別でいらっしゃいますから、ことさらに(帝が、玉鬘に)ご執心なさっても、(このお二人と)立ち並びなさることなど、難しいことと存じます。(また、蛍兵部卿の)宮は、(以前から)たいそう熱心に、恋慕していらっしゃいましたから、(急に)わざと、れっきとした(女御更衣のような)宮仕えではないにしても、(宮のお心に)違うようななさり方をしては、(宮が)お気を悪くされるかと、こうした(ご兄弟で、大変親しい)お間柄ですから、相当気まずい(ことになるのではない)かとも、存じ上げます」と、(ずいぶん)大人びたことを申し上げなさる。 蛍兵部卿と親しいなんて、源氏から見れば笑止千万で、彼は以前から親王系の人たちを、兄弟といえどもちょっと見下したところがある。表向き親しく見せているだけ、という大人の付き合いというものを、彼はまだ分かっていないな、ということなのです。 とはいえ、夕霧のはじめの疑問はもっともなので、源氏としてはしかるべき答えをしなければなりません。以下、しばらく多少緊張した親子の応対が続きます。― つづく ―
2010.04.06
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― 「「もらさじ」と、つゝませ給ふらむこそ、心憂けれ。しのびがたく思ひ給へらるゝ形見なれば、ぬぎすて侍らんことも、いと、物憂く侍るものを。さても、あやしうもて離れぬことの、まだ、心得がたきにこそ侍れ。この御あらはし衣の色なくは、えこそ、思ひ給へわくまじかりけれ」と、のたまへば、 「なに事も、おもひわかぬ心には、まして、ともかくも、思ひ給へたどられ侍らねど、かゝる色こそ、あやしく、物あはれなるわざに侍りけれ」とて、例よりもしめりたる御気色、いと、らうたげに、をかし。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (夕霧が)「『(世間に)知られまい』と、(あなたが)押し隠していらっしゃるのが、(私には)情けないのです。(この喪服は、亡くなった大宮が)忍びがたくも思い出される形見ですから、(喪が明けて)脱ぎ去ってしまうのは、たいそう、つらいですのに。(それにしても、あなたが)このように、(源氏の六条院から、今だに)何となくお出でにならないのは、やはり、(私には)腑に落ちないのです。この御喪服の鈍色なくしては、どうやって、(あなたが大宮の孫であると、)思い到ることが出来ますでしょう」と、おっしゃると、 (玉鬘は)「何事も、配慮の至らぬ(私の)頭では、まして、どのようにも、思い致し(理由を)辿ることも出来ませんが、(それにしましても)このような(喪服の)色を見ますと、しみじみ、心があわれにも感じられまして」と、いつになくしんみりしたご様子は、(これまた)たいそう、可愛くて、結構である。 はなはだ婉曲な言い回しで、今どきの私たちならシビレを切らしそうな会話ですが、夕霧は喪服にかこつけて玉鬘の本心を探ろうとしている。対するに玉鬘はへりくだるように見せながらも、話を逸らそうとします。 しかし喪服というのは、案外女性の色香を感じさせる場合が(今でも)あるので、夕霧から見れば「いと、らうたげに、をかし」ということになるのです。玉鬘はこのところ、たんに若いというだけでなく、六条院でいちばん華やいだ色香を放っていたわけで、「例よりもしめりたる御気色」ということは、逆に普段はことさらに意識して明るく振るまって、源氏の殿や夕霧などとの、多少ややこしい応対を受け流していたのでしょう。この人は見た目よりは頭が良くて、それはこの後「若菜」以降でも明らかになって来ますが、さしづめその美貌は母の夕顔から、聡明さは父内大臣から引いた、といったところでしょうか。 というわけで、夕霧は用意してきた藤袴を差し入れて、和歌を詠み掛けたりするのですが、さして面白くもないので端折ることにします。どうもマジメ人間のやることは、イマイチ興が乗らないですね。玉鬘も気配を察して、内に引き籠ってしまう。― 「なかなかにも、うち出でてけるかな」と、くちをしきにつけても、「かの、今すこし、身にしみておぼえし、御けはひを、かばかりの物越しにても、御声をだに、いかならむついでに聞かむ」と、やすからず思ひつゝ、おまへに参り給へれば、出で給ひけるに、御返りなど、きこえ給ふ。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「余計なことを、言ってしまったな」と、悔やみもすれ、「あの、今ひときわ、身に染むような心地のした、(紫の上の)ご様子を、(せめて)このような物越しにても、お声だけでも、ふとしたついでに聞いてみたいものだな」と、心穏やかでないままに、(源氏の殿の)御前に参上なさると、(殿が)お出ましになったので、(玉鬘の)ご返事などを、報告なさる。 いつもながら、夕霧という人は切り替えが早すぎる、というか、父殿に比べて軽い感じが否めないのです。光源氏なら、いったん思い掛けした相手なら簡単には引き下がらないでしょう。最初から懸想するつもりで藤袴も用意してきたはずなのですが、サッパリしているというか、父源氏が藤壺の宮に見せた、いやらしいほどの執着性はここから先も感じられません。― つづく ―
2010.04.05
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「藤袴」の途中ですが、今朝の新聞を見ていると、林真理子女史の「六条御息所 源氏がたり」(小学館)発売の文字、以前から執筆の予告はあったのですが、どうなったのかと思っていたところが、ようやく刊行開始のようです。光源氏を六条御息所の目を通して描く、という構想の由ですが、立派な単行本で定価1,890円、しかもまだまだ続きそうな気配ですから、当分は立ち読みでガマンすることにします。 何といったって、六条御息所!という活字を見ただけで、別に今が春だからというわけじゃなくて、むやみに血が騒ぐほうですから、何としても概要だけでも知っておきたいところではあります。やっぱりこのヒロインは今も昔も独特の魅力を発して止まないようですね。 それにしても、先月来ちょっと話題になっている、これもなぜか同姓の林望氏による「謹訳 源氏物語」(祥伝社)1,500円も第一巻が刊行開始で、何だかポスト源氏ミレニアム後の、源氏再ブームのような感じがしないでもありません。もちろんこのお二人は、そんなイベント事とは関係なく、ずっと以前からこの仕事に取り組んでこられたのですが。 「謹訳 源氏物語」のほうは、男性の全訳としては、たしか谷崎潤一郎以来だと思いますが(いわゆる超訳物は、男の手でもいくつかあるようです)、このところなかば以上「源氏物語」といえば、女性方の専売特許の感をなしていたこの世界に、男の声が響くのは同じ男=オスの私としては、おおいに意を強くするところではあります。もちろん私など源氏千年紀のイベントがなければ、ここまで腰を入れて「源氏」を読むということなど、まだ当分なかったはずですから、何でもかんでもこうしたお祭り事をクサしているわけではありません、念のため。 ものごとの取っ掛かりというのは、あんがい何でもごく他愛ないことから始まるのかも知れず、肝心なのはそれを、その後どうやって自分の心内で「本当の面白味として消化して行くか」、ということなので、いつからどうやって何でこんな事を始めたのか、ということはあまり意味がない。 早い話、こんなブログを四年もやっているというきっかけは、何度も言うように荒川静香さんのトリノのFPを見たのがきっかけなのです。当時荒川ファンのブログも参考のために数多く見させてもらいましたが、なかなか良く出来た中味もあった一方で、「私はトリノの前から、こんなにシーチャン(荒川さんのこと)を知っていました!」式の自慢話をする人がけっこう多いのには閉口しました。一年でも一カ月でも早く知っていることが、書き込み欄での優位を確保する手段であるかのようで、私のようにいちばん後から参入して書き込みをしているらしい人たちは、一種の礼をその筋の先輩諸氏に取っているかのような感じがあって、思わず噴き出してしまった記憶があります。 そのうちにそうしたシャベリ場の雰囲気に不満を抱いた諸氏たちが、グループを作って造反したりして、確か半年ほどでそのサイトは閉鎖されたようですが、まったく不毛な後味の悪い印象だけが残っています。皆いったい何に精出して一生懸命に議論しあっているのか、お互いに楽しむためにあるはずの場所が、いつのまにやら罵り合いや鼻持ちならない自慢話の溜まり場と化して、業を煮やした管理者が警告を発する、という始末。まあ私はさすがに年甲斐もなくそれに参入することはせず、眺めているだけで助かりましたが、音頭を取っていた数名の人たちは今どうされているのですかね(案外他のファンサイトに乱入していたりして)。 さて「源氏物語」のほうは、もちろんそんな軽薄なブームであるわけもなく、むしろ千年紀ブームの終わったあと、かえって本当に古典を楽しむ雰囲気が出て来たようなのが、始めの二冊の本の出版なんかでも感じられて、私は気持が高ぶるのです。一年前の正月から始めた「源氏1000年」シリーズ、もともと初読の印象を忘れないうちに一カ月くらいで書き記しておこうという気分だったのが、風船のように大幅に中味がふくれ上がって、いつまで続くのか本人も分らない仕儀になっています。 しかしそのあたりも、こうしたブログというヘンな媒体のなせるわざで、自分自身の内部で「本当に楽しんでしゃべれているか?」「本当に面白味を感じているか?」という感覚だけが、これを書き続ける推進力の唯一の尺度といっていい、こうした仕かけは本当に面白い。超低空飛行の読みをする毎に、ますます多様な面白味が出てくるわけで、これを読み続ける限り、おそらくそれまで私があれこれ小難しくしゃべっていた中味よりはるかに分りやすい話が出来るだろう、平成の世の今、この五十八年ほどのあいだに私が思い抱いていて来た中味を、ほとんどすべてブッ込めるだろう、という気がしているのです(もちろん全部ではないですよ)。 それにしても、最近の私の読み、どういうわけか「源氏物語」を世にいう恋愛ものでも、もちろん性愛ものでもなく、はなはだ下世話な浮世の話として読んでいる感が強くて、前のほうを期待される向きには不興を買ってしまいそうです。それが私の個人的な趣味性向によるものか、玉鬘十帖のあたりがもともとそういう傾きがあるのか(後者だと言いたいところですが)、源氏物語前半の絢爛たる恋愛絵模様や、克明な心理の綾に比べて、後半は少なくとも光源氏自身についての色模様はほとんどないのです。やっぱりこの物語はいわゆる希代のドンファン物語ではなさそうですね。 であるなら、紫式部はこの後、いったい何を私たちに読ませようとしているのでしょう?
2010.04.04
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帝の意向を呈した源氏の消息に対して、公事らしく堂々とした玉鬘のご返事に、夕霧はますます「野分」の折りに見た彼女の、匂い立つような姿形が思い出される。そこで彼は源氏が言伝てていないような事柄を彼女に話してしまう。― 「「人に聞かすまじ」と、侍ることを、きこえさせんに、いかゞ侍るべき」 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) 「(父大臣が)『人には聞かせまい』と、思っておりますことを、お話したいのですが、いかが致しましょう」 と、近くから女房たちを下がらせたうえで、― 空消息を、つきづきしくとり続けて、こまやかに聞こえ給ふ。うへの御けしきの、たゞならぬ筋を、「さる御心し給へ」、などやうのすぢなり。いらへ給はむこともなく、うち嘆き給へるほど、忍びやかに、美しういと懐しきに、なほ、えしのぶまじく、 「御服も、この月には脱がせ給ふべきを、日ついでなむ、よろしからざりける。十三日には、河原へ出でさせ給ふべきよし、のたまはせつる。なにがしも、御供にさぶらふべくなむ、思ひ給ふる」と、きこえ給へば、 「たぐひ給はむも、ことごとしきやうにや侍らん。忍びやかにてこそ、よく侍らめ」と、のたまふ。「この御服などのくはしきさまを、人にあまねく知らせじ」と、おもむけ給へるけしき、いと労あり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫) (夕霧は、源氏からの)ニセの言伝てを、まことしやかに言いつくろって、こまごまとお伝えなさる。帝の(あなたに対する)御執心が、並々でないから、「しかるべく注意なさいませ」、といったような中味である。(玉鬘が)お答えのしようもなく、そっと嘆息されているのが、しめやかに、美しくてたいそう優しそうなので、やっぱり、ガマンが出来ず、 「御喪服も、今月にはお脱ぎになるべきところ、(吉日の)日取りが、よろしくなかったようで。十三日には、河原へお出まし下さるよう、(父源氏も)申されております。私も、お供致そう、と思っておりますが」と、おっしゃると、 「ご一緒なさるのは、事々しくはございませんでしょうか。(出来るだけ)目立たないように(参上)したほうが、よろしいのでは」と、答えられる。「この服喪などの事情を、世間には広くは知らせまい」と、配慮なさっている(玉鬘の)気配りは、なかなか行き届いている。 この空消息は、夕霧の下心から発したもので、当然このあと何がしかのすったもんだを、私たちは予想してしまいます。しかし丸谷さんの言われるとおり、近代小説で描かれるウソというのは、必ずあとになってそれがバレることで、話が大きく展開するものですが、ここではこの場面だけの趣向に使われていて、あとあと発展することはありません。応対に困ってしまった玉鬘に、夕霧がひたすら言い寄る口実としてだけ使われているようです。 しかしこの年、玉鬘二十三歳、夕霧十六歳で、所作動作は何となく玉鬘のほうが上手を行っている感じですね。― つづく ―
2010.04.03
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さて「藤袴」の帖では、仕切り直しの感じで、玉鬘への求婚譚が再び語られるわけです。状況としては冷泉帝から尚侍出仕の意向が出されたのと、柏木が候補から外れ夕霧が新たに浮上して来たことがあるのですが、どうも相変わらず話としては趣向に乏しくて面白くない。 その理由が「求婚譚」という昔物語の枠組みにあるであろうことは、何度も触れました。紫式部としてはおしまいに用意したどんでん返しだけを当初から予定していて、途中のつなぎにおおいに苦労したように思えます。話が冗長かつ散漫になって、読んでるこちらまで頭がボウッとして来るというのが、「玉鬘十帖」の特色なのかもしれません。 さて、この帖のはじめ、尚侍出仕を受けるかどうか悩んでいる玉鬘に、光源氏は意向を確かめるために夕霧を差し向ける。この尚侍の話はもともとからどうも光源氏が仕組んだような気もするのですが、よく考えてみると同じ六条院にいて、なおかつ真実を内大臣に打ち明けた今、むしろ玉鬘に対して遠慮がなくなった光源氏が、なぜわざわざ使者を立てたのか、まして今や夕霧は姉弟の関係でないことが明らかになって、彼女への懸想心を抱き始めているのです。 まあ一つには、源氏が直接意向を聞きに来た場合、玉鬘は本音を言いづらいだろう、ということがあったかもしれません。普通こうした帝からの意向を辞退する、ということはあり得ないので、彼がじかに聞きただしたなら、それは最終解答を迫るということになるのです。内大臣に父であることを伝えたとはいえ、晴れて正式に引き取るのかと言えば、彼は彼で源氏の意向を慮ってそうするわけでもない。かと言って、この六条院では本当に相談すべき身寄りというのがいなくて、どちらにしても太政大臣とか内大臣とか、殿方は偉すぎて本音を言えるような状況ではないということで、玉鬘は我が身の中途半端な身の上を嘆かざるを得ない。彼女にはこういう時本音を明かせる実の母がいないのです。 そうした中で、比較的に今まで親しくしてきた夕霧ならば、ということでしょうか、多少の危惧を抱きつつ源氏は夕霧を差し向けたようです。― 薄き鈍色(にびいろ)の御衣、なつかしき程にやつれて、例に変はりたる色あひにしも、かたちは、いと花やかに、もてはやされておはするを、御前なる人々は、うち笑みて見たてまつるに、宰相中将、おなじ色の、いま少しこまやかなる直衣姿にて、纓(えい)巻き給へる姿しも、また、いと、なまめかしう清らにて、おはしたる。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者) 薄い鈍色の喪服を、しなやかに着こなして、いつもと違う色合いではあるが、(それで、かえって)器量が、たいそう華やかに、引き立っていらっしゃるのを、御前に仕える女房たちは、微笑みながらお見上げしているところに、宰相の中将(夕霧)が、同じ(鈍)色の、いま少し濃い色の直衣姿に、纓(えい、貴族が冠の後方に垂らす部分)を巻きなさった姿で、これまた、たいそう、なまめかしくも優雅に、お出ましになった。 二人が喪服を着ているというのは、暗に大宮が亡くなったことを示しているので、それを直接気鮮やかに描くのではなく、それとなく亡くなったことを暗示して、しかもそれからすでにしかるべき時間が推移したことを示す、こうした紫式部の語りの手法が私は好きですね。― つづく ―
2010.04.02
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この二人の「ヲコ」のヒロイン、奇しくも続いて出てきたので、つい比較したくなるのですが、どうも同じ笑われ役とかいじられ役でも、作者のシンパシーは近江の君のほうに傾いているような気がしてしょうがない。その由って来たる原因は、皆さんもお分かりだと思いますが、ひたすらに近江の君のアグレッシブなキャラクターから来ているのです。 多少私自身の個人的な好みもあって、彼女にかんするくだりを大幅に抜き出してしまいましたが、それにしてもその鮮やかな描きかたを見ていると、実際の都内にも、こういうキャラクターの人がきっといただろう、と考えてしまいます。女御更衣のような女君はともかくとして、少なくとも女房たちには、これに類する人たちがいたのではないか? してみれば、この上臈側からみれば眉を潜めるような、「えげつない」振るまいというのは、ひとえに世俗的な合理性から来ているので、近江の君に言わせれば、玉鬘も私も同じ田舎育ちのご落胤じゃないか、という論理になるのです。この臆面のない理屈を内大臣はじめ男君たちは、笑い事としてまともに取り上げようとしないのですが、皆さんは気付かれました?弘徽殿の女御が、終始この場面で黙り込んでいるのを。 内大臣家の長女として、当然現冷泉帝の中宮となるべく、御所に送り込まれた彼女、源氏方の策謀によってその座を逃すような体験をし、ややもすると多少軽躁な感のぬぐえないこの一族の中にあって、一人落ち着きがあるのです。彼女の沈黙というのは、たんに立場的なものから来るのではなく、人をこのように笑い飛ばす今どきの風潮に、簡単には乗れない気分があったのではないか? 父大臣や兄弟たちの振るまいを、批判的に見つめるというようなことはなかったにしても、下郎を弄び貶めて喜ぶ上臈側の心理には、素直には従えなかったと思うのです。で、それは紛れもなく紫式部本人の感覚でもあったでしょう。私たちはいつの間にか、近江の君を応援している自分に気づくのです。 爾来、紫式部には上臈の姫君や殿方より、下郎や側つき女房などの描きかたが、ずいぶん冴えているという話がありますが、これはたんに彼女が受領の娘であって、多少とも上臈に臆するところがあったというに止まらず、さまざまな人間省察を試みてきた彼女から見て、人のどういう振るまいかたが人生的にまとも、あるいは気鮮やかと言い得るのか、暗に示しているようにも思われます。彼女はそちらに人の面白味を見たのでした。 このあたり、末摘花への酷薄な対しかたとずいぶん違うので、高貴な血筋の姫君に紫式部はどこまでも残酷であり得る。同じ笑い種として描かれながらも、上臈に対しての仮惜ない姿勢は、あるいは都内一般にあった空気を示しているのかもしれません。 それにしても近江の君、前にも触れましたが、彼女はこの後どうやら自身の「ヲコ」役としての存在理由を、内大臣家で見い出したごとくで、あとあと「若菜」の帖で相変わらず双六に打ち興じている姿が描かれる。自覚的にヲコを演じるなんて、末摘花の君には望むべくもないのでした。 内大臣は我が身の恥ずかしさのあまり、他の人々と一緒になって彼女を笑い飛ばそうとしますが、残念ながら鏡で見る我が顔貌ばかりでなく、彼女のこうした直情径行な性格こそ、まさしく彼の直系であることを示しているので、多少腹ふくれてもお付き合いしていかざるを得ないのです。 さて、こうして内大臣家の騒ぎが一段落して、話はやっと玉鬘をめぐる求婚譚の終局へ向かって行きます。それはたいそう意外な結末ではあったのですが。― 源氏1000年 行幸 おわり ―
2010.04.01
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