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「好い人」とはどういう人か? 自分自身の政策実現力(あるいは民間なら仕事遂行力)に自信がない、自ら泥をかぶり、リスクを引き受ける度胸のない人が、周囲(主として部下)に屈服して愛想を振りまき、ご機嫌を取ることに一生懸命なような人のことを指します。 で、得てしてこういう人は、彼の上部組織ないし直属上司に対しての不満を、周囲(主として部下)に漏らす。この人たちは管理者あるいはリーダーというポジションが、すでにしてその位置にあることによって、周りとフリクション(摩擦、小競り合い)を起こす立場であるということが、分かっていない。指導というのは、紛れもなく「敢えてしんどい事をさせる、イヤなことを言う」立場であるということです。たとえクソジジイと影で謗られても、敢えて部下の嫌がることをさせるのが、真の意味で仕事遂行能力のある人でしょう。 何も万事、周囲に嫌がられるように振るまいなさい、ということではありません(嫌がられるだけだったら、例えばボサボサ頭に、ヨレヨレのスーツを着て出社すればよろしい。その日からとくに女子の部下はあなたに近づかなくなるでしょう)。管理者の立場というのが、周囲(主として部下)にとって、煙たがられる存在であるかどうか、自分は煙たがられているのかどうか、つと胸に手を当てて考えて御覧なさい。 もし周りがあなたに対して、さしあたって多少の遠慮とか、躊躇をまるきり感じていないようだったとしたら、あなたは管理者の資格がないというか、管理者である理由がないということです。 何だか偉そうにしゃべっていますが、私自身のつたない仕事経験でも、部下に嫌われる上司と人気のある上司とでは、おおむね嫌われる上司のほうが、キチンと仕事実績をあげていたような気がする。かく言う私はズルかったですから、新しい支店などに赴くときは、「コワくて無慈悲な恐ろしい上司」というガセネタを、前もって銅鑼を打ち鳴らすように振りまいておいてから行ったものです(そのほうが、後がラクですから)。まあ、これはヨタ話ですね。 分かりやすい例は、やはり軍隊組織で、軍隊では上官の命令は絶対で、しかも敢えて死地に突撃させる場合だって当然あり得る。これが「任務遂行」の究極的な本義でしょう。弾雨をおかして前進させるには、管理者はある意味で「無慈悲」である他ないのです。こうした場面で、日頃周囲(主として部下)に阿諛追従している指揮官が、まったく当てにならない(頼りにならない)事は誰でも分かるでしょう。任務遂行可能性、つまりより多くの兵士が助かるチャンスは、一見無慈悲な命令によってのみ達成されるのだ、と私は思う。 このあたりの心の機微は、意のある部下ならたいてい気付くし、それに気付いた部下だけが、本当の意味で、使える部下だということにもなるのです。 旧日本軍では、そのあたりの組織の考えかたが不徹底だったようで、現場指揮官で「陣頭指揮」を執って戦死した例が多かったようです。「陣頭指揮」と言えば、聞こえは好いのですが、おそらく実際は現場の指揮は、事実上古参兵(軍曹、伍長など)に握られ、彼らは部下を率いる術としては、真面目な指揮官ほど自ら体を張ることしかようしなかった。指揮命令系統の核が真っ先にいなくなっては、結局その部隊は全滅するしかない。 冷たいようですが、現場指揮官のありようとしては、ある意味一番楽な選択をしたのかもしれません。このあたり、今でもかん違いして、「何が何でも現場主義」という人がいますが、自らものを見詰め思考を巡らすマインドを持たない人が、いくら現場に張り付いていても何にも解決しませんよ。要は二項対立的な貧しい思考態度で、あれこれ考えても打開策は出てこないのです。― つづく ―
2010.11.30
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「何をバカな!」と、一笑に付されるかもしれませんが、私はそうは思わない。百数十名の国会議員を中国に連れて行って、胡錦濤さんに引見させることの出来る小沢さんなら、四人くらいの民間人を連れ戻すことなど分けないだろう、と思うのは私だけでしょうか?中国側としても小沢さん相手となると、そう居丈高に振るまうわけにはいかない。なにしろ田中角栄以来の親中路線の太いパイプですから。 要は誰が主導権を持って、小沢さんにそれを持ちかけるか、ということだけなのです。 もともと「小沢的なるもの」を排除することによって、党の代表戦を勝ち抜いた菅さんですが、例えば前原さんとか仙石さんのような、元からの反小沢というわけではない。さらに言うと、代表戦後「一兵卒で協力する」と言っているような党内実力者を、何もさせずに放っておいたら、何をしでかすか分からない。この際は「日本国の危機で」ということにして、無理矢理にでも政治の表舞台に引っ張り出したほうが好いのです。 小沢さんとしても、本当の意味での政治的実績というのは、不思議なくらい無い人なのですから(利益誘導とか選挙戦、あるいは党の再編のような、党人としての力は物凄いのですが)、ここは一つ失地回復といった意味もあって、簡単に断るわけにはいかないでしょう。当然これをやった後の、我が身の取り扱いについて、何らかの取引がおこなわれるのでしょうが、それはそれで別にかまわない。要は菅さんの政治主導の腕の見せ所なのです。 簡単に言えば、小沢さんの顔は使うけれども、実際の段取りや交渉ごとは、すべて菅さんほか政府と外務省で行ってしまう。要は余計なことはしゃべらせずに、胡さんか温さんか周さんかよく分かりませんけれども、握手だけさせて来れば良いのです。 このあたりが、エライさんを使うときのコツと言うか、最大限に生かし切るポイントなので、「あなたに任せたのだから、後は上手くやっといて」ではダメなのです。民主党というのは、どうも人とか組織とかのカタチだけをあてがえば、何か事が出来た、後は勝手に物事が進んでいく、と思い込んでいるフシがある。「仕事を為す」とは、Plan-Do-Checkが欠かせないというのは、普通の民間企業の人なら誰でも知っている。 練り上げた作戦をどう実施させるか?誰にあちらの外交部との、具体的な折衝をさせるのか(これは細野さんでも好いのです。彼が単身で行くのと、小沢付きで行くのとでは、ぜんぜん違う)?タダでさえ口の重い小沢さんが、丁々発止の外交戦をやれるわけがない。この人には最後の重石にだけなってもらう(なり切ってもらう)。むしろ黙って後ろに控えていてもらうほうが、相手にとっては威圧感があるでしょう。何だかこちらから切り出さないと落ち着かない、というような気にさせれば、もうほとんど本件は勝ったようなものです。 何だかヤクザのシノギ合いのようですが、交渉事にあたって、誰をどこでどのように使う、ということがどこまで前もって具体的かつ明晰に練り上げられているか、ということが「事を成す(ここの場合は、戦いに勝つ)」ことの要諦でしょう。 このあたりの気息というか、いわゆる老獪(ろうかい、いろいろ経験を積んでいて、悪賢いこと)さ、というのが、どう見ても民主党の特に若手議員には無いですね(まあそれは最近の政治家通有なのかもしれませんが)。「好い人」だからあまり突っ込みたくはないですが、それでも山口もえさん風に言うとするなら 「ねえねえねえ、原口さん前原さん、どうなってるの?教えて!?」ということになってしまいます。 しかし政治家とか、あるいは組織の管理者というのは、いわゆる「好い人」では務まりません。― つづく ―
2010.11.29
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先に指摘した「尖閣諸島問題」から派生した事件、「フジタ社員拘束」にかんする言説では、今だにキチッとした分析や論説は、少なくとも私の目に入る限りなさそうです。 それが引き金となって「中国人船長の超法規的解放」につながった、そしてその決定を「検察が勝手に判断したこと」と政府が丸投げしたことに、各界がこぞって糾弾しているわけですが、それを言うなら「拘束されたフジタ社員を、どうやって解放するつもりだったのか、糾弾する側は対案を示してから、政府を非難しないとフェアじゃないですよ(つまり、「自ら本気で引き受ける気のない」無責任な反対のための反対ですよ)」ということなのでした。 「そんなの現に開放されたのだから、もう好いじゃないか。起こらなかったことを前提にして、仮定で話をするのは止めろ!」と、さっそくお叱りを受けそうなのですが、何度も言うように私はそうは思わない。なぜならこの「中国人船長開放」にあたって中国政府と密使役の細野豪志議員との間で「密約」があっただろう。で、それは「フジタ社員解放」とのバーターだっただろう。おそらくそこで「日本側ビデオは公開しない」という条件を飲まされたのだろう、これが問題だ(そんな怪しからん密約を交わすから、今回の漏洩につながった)という筋になっているからです。 「フジタ社員解放」の事実をすっ飛ばして、「中国人船長の超法規的開放」と「ビデオ隠滅の密約」だけをあげつらうのは、やはりおかしいと思いません?まるで「フジタ社員解放」は、それとはまったく関係なく、勝手に放っておいたらそうなった、と言わんばかりの言説に私には見える。 何度も言いますが、私は今回の民主党政府のやり方が、良かったなどとは一言も言っていません。指摘の仕方が間違っている、さらにはその間違い方の仕方には、「自ら引き受ける気のない」ずるい本意が隠されているということなのです。むしろ私の指弾は、政府に対して厳しいのかもしれない。私が問題にするのは、その結果をすべて那覇と福岡の検察に丸投げしたことにあるのです。これに関しては他の皆さんと考え方はたぶん同じ。 「尖閣問題」の話をし出した最初のおしゃべりで、「一言でいえば、誰も本当に本気で事を引き受ける気がない(政権も野党もメディアも国民も)ということ」()と言ったのは、このことなのでした。 「地検が勝手に判断したこと」という官房長官の言説は、いかにもずるい。これが紛れもなく「政治判断」であって、それも私がずうっとしゃべって来たような、「放火を交えないが、いつ交えてもおかしくない『戦争』」の事象で捉えるべき問題であれば、それを解決するのは「高度な政治判断」しかない。「超法規的処置」を為すならハッキリと「私が判断した」と言わなければ、これまた国民に対してフェアじゃないでしょう。それはそれで、当然物議を巻き起こすのでしょうが、そこは政治家として感受しなければなりません。 それをようしない底意には、やはり政府側のマスコミひいては国民に対する不信があるように思う。現に上のような形で論議する政治家やマスコミは、何度も言うように現在のところありません。これはお互い様、そしてこの状態である限り、退屈な泥仕合の繰り返し、ということになるのでしょう。 それにしても「フジタ社員拘束」という事態になった時、もう少しまともな選択はなかったのか?という思念が私の脳裏をよぎります。ここからしばらくは一種の妄想ですが、一つのシミュレーションとして考えてみるのも無駄ではないでしょう。「そんな偉そうなことを言うお前こそ、そしたら対案を出してみろ、言えねェだろうが!」と当然なってくるからです(もう、ケンカ腰ですよね!) 私のプランは、「密使に小沢さんを立てる」ということです。― つづく ―
2010.11.28
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正直申し上げて、そこまで個人の自律性、独立性というものを強調しなければならないというのが、「市民」的マインドと言うならば、なかなかシンドイような気もする。 Independence(自主、独立、自律性)の語義が、Dependence(依存、従属、依頼心、甘え)の反意語としてあるのも、アメリカ建国のそもそもの精神「旧大陸のいかなる権威、権力にも、一切拘束されない、という自由(Freedom)」を求めた結果であることからして、当然の帰結なのですが、それは同時にある種の矛盾も内包するものかもしれないのです。 簡単に言えば、 「人が『自由』であるためには、より『自由』であるために、ある種の『不自由』と『拘束』を忍ばなければならない」 といった自己矛盾です。独立国家という集団を組織する以上、当然出てくる問題ですね。 これを解決する考え方は一つしかなくて、 「より『自由』であるために、私は自らの自由な精神において、『不自由』を選択した」(選択の自由、Liverty) という思考回路をたどるしかない。この感覚の底には国家とか組織に対する、一種ネガティヴな意味合いが込められていて、「そうした『不自由』や『拘束』は、出来るだけ少ないほうが望ましい」、という底意もまた見えるでしょう。 恐ろしくも拍手喝さいしたくなるほどの、見事な「自主独立の精神」ですね。 要は何事においても、個々人の「自由」な判断と選択が、その都度求められ、それに自らのコトバで答えることが、「自由」であることの(つまり、より真性のアメリカ人であることの)証明となるわけで、そのあたりから、私は先ほどの「兵士を送り出す」際の、議員の言上げを想像してしまうのです(これは私の勝手な観測ですよ)。 それにしても、「ことの後を引き受ける」の意味するところは、何も「兵士のやったことの後始末は、全部自分が引き受ける」ということではなくて、その後始末をどうするのかは、「我々市民同士が責任持って話し合って決める」から「心配するな」という意味であって、たぶんに日本における責任の在りかたとは異なるでしょう。 日本で「責任取る」とは、「腹を切る(辞める)」ということで、「話し合って、後始末をどうするか決める」ということではない。 こうしたアメリカ的「自由なる市民」という感覚と、その「自由な精神」の権利行使による政治制度=民主主義(Democracy)というのは、何度考えても私は、この日本では(そしてたぶん東アジア全般、そしておそらくほとんどの世界各国では)なかなか馴染むのにシンドイ制度ではないか、と思っているのです。 何も民主主義を否定しているわけではありませんよ。そうした自由な精神同士の営みというのは、掲げる理想としてはとても気高くても、万人にはおいそれとは、なかなか身に付くものじゃない(たぶん本家アメリカでも)。むしろその高みに向かう途中で、具合の悪い精神疾患が多数発生するのではないか?知る権利ばかりを主張するとか、表現の自由を認めよとか、… まあしかし、アメリカの話はこれくらいにして、目下のテーマである日本と中国、あるいは東アジアの「民意」なるものと「国のかたち」の話に戻します。 「尖閣諸島事件」の事例をずうっと追いかけているというのも、そうした不具合の一例として見えてくるものがあるからです。― つづく ―
2010.11.27
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「真珠湾攻撃」直後のアメリカあるいは、「9・11」直後のアメリカで、いわば「義憤」を抱いて軍隊に志願する若者が多くいたというのは、少しく日本や中国などの国民のマインドと違うところがあるような気がする。彼らは独立した一市民として、自ら選択して軍隊に志願したのであり、国家が是とするところに、我が意を以って参加したのです。 それは同時に市民国家としての、自国の方針に積極的に参加するということであり、いわば「自身が、より強くアメリカ人であること」の証明にもなるわけでしょう。常に自らが「よりアメリカ人であること」の証明を行わなければならないのは、彼の国が多分に理念的な「国のかたち」で成り立っていることに由るので、これは大抵の日本人が「日本人であること」の自己証明をおこなう必要性を、ここから先も感じていないのと著しい差があるのです(どちらが好い、とかという話ではありません。日本人にとっては、自らが「日本人であること」は所与のものである、ということです)。 それにしても面白い(と言っては、語弊があるのかもしれませんが)のは、アメリカは戦争を他国に仕掛けるとき、必ず議会の承認を得るという手続きを取る。戦争遂行の権限はもちろん大統領にあるのですが、手続きとしてとりあえず議会の圧倒的賛成を得ておく、というのは何を意味するのでしょうか? 私はたんに軍事予算の確保といったような実務的要素ではなく、やはり国家の理念としての考えかたがあるように思うのです。参戦するかどうか?について、さまざまな意見があるのは当然(もともとアメリカはモンロー主義 ― 他国からの干渉を嫌い、諸外国への関心も薄い ― という気分があります)として、いざ戦争遂行となると、なぜほぼ全員賛成の議決を得るのか? それはたぶん、個々の意見はともかく「戦争遂行」と決まった以上、各議員たちは地域代表者として地元に帰って、これを説明する義務があるからでしょう。この場合「私は反対だった、だから後のことはどうなっても知らん!」では、地元民は納得しない。兵士は間違いなくその地元からも送り出されるからです。 このとき各議員には、送り出す兵士の「あとを引き受ける」ことが求められているのだと思う。この「あとを引き受ける」とは何か?兵士が死んだ場合のことを指すのか?(それもあるかもしれないけど)私はそうではないと思う。 それは一言でいえば、 「私たちは、お前たちが敵国の都市を破壊し、敵国の兵士を殺し、場合によっては敵国住民を虐待することを、この国を形作っている市民として許すから、後のことは心配するな。がんばって戦って来い!」ということだと思うのです。 大統領が言ったから「殺して来い」ではなく、(内心はともかく)かたち上でも、自らの選択したコトバとして「言上げ」することが求められている。このあたりに、たぶんAmerican Democracyの根源的な考えかたが潜んでいるのではないか、と思うのです(私の観測ですよ)。 これって、なかなかしんどい仕方であるような気もする。皆さんはどう思います?自ら選んで作った国である以上、送り出す兵士一人一人の行為について、国家の成員である市民は、かたち上その一切合財を「引き受けなければならない」ということなのですが。 少なくとも日本人、あるいはひょっとして東アジア全般の住民には、このような仕方でのいわゆる「市民」のマインドの在りかたというのは、もっとも縁遠いものなのではないか?― つづく ―
2010.11.26
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なぜそのような温度差が生じるのか?それは彼の「国のかたち」が「民意」を反映したものでないということ、言い換えるなら、「自国の統治」というのが「自国民を占領しようとする政策」であらざるを得ないからです。これは中国に限らず、一党独裁ないし正当な手続きを経ない(例えば、軍事クーデターのような)統治勢力が、国家権力を掌握しようとするとき、まず何をさておいても最優先で行うことでした。 民主主義的な手続きを経なくても、「民意」の支持を得るというのは、あるいは可能なのかもしれません。 その一番の王道は、たぶん自国民全体の経済生活を、相当のデコボコはあるにせよ、上昇過程に乗せ続けていく場合です。今の中国は、その最盛期にあるのかも知れず、経済生活が上昇し続ける限り、たいていの一般人は政治には無関心です。 しかし経済というのが、永久に上昇し続けるというのが有り得ない(他ならぬ日本がそうです)以上、いったん下降線に入った「国のかたち」を、それでも担保するものは何か?要は「民意」を手放さずに統治正当性を維持するためにはどうしたら良いか?と言えば、結局面倒臭くても、何がしか「民意」を反映させる装置が必要なのでしょう。 「民主主義」とは手間もコストもかかる上に、動きが鈍い(現政権の動きの鈍さは論外として)、ということがあるにせよ、それでもなお「民意」の手続きを経ている以上(いろいろ不満はあるにしても)、「自国民を占領しようとする」ような、厄介な振るまいには及ばない体制で有り得る。 独裁国家が失敗する過程というのは、大抵こうした下降線の過程で、「民意」を得る辛抱強い手間とコストを惜しむということで、一番安易な手が良く知られているように「外に敵を作って、自国民の眼を逸らす」という手法です。これは事実的な外敵に対するというより、はるかに自国の統治というか、「自国民を占領しておく」ために行われる場合が多い。 実は他ならぬ我が国でも、昭和十年代から敗戦まで事実上の国家権力を保持していた軍部が、必死になって取り組んでいたのは、「自国民を占領すること」だったのでした。なぜそれを最優先課題としなければならなかったか?それは自身の統治正当性に疚しさがあったからに他なりません。 彼らが大陸や東南アジアに浸出して行ったときも、明確な統治占領プランがあって浸出したわけでなく、軍部の半ば以上の意識は、常に国内(自国民を占領しておくこと)に向けられていたのです。 「大東亜共栄圏」というのは、後づけで考えついた妄想的構想で、早い話、中国やフィリピンやヴェトナムの地誌や人文の専門家を養成したという気配はほとんどないのです。独善的な理念の押し付けは、現地住民の失望となって現れました。もともとアジアの住民は必ずしも親米英であったわけではない。日本軍部の稚拙かつ独善的な統治政策が、反日=親米英に奔らせた、ということです。 そもそも「戦う専門家集団」である軍隊に、専門的な民政統治の研究をするような考え方はないので、もし旧日本軍が正当な手続きを経た(つまり「民意」の信任を経た)組織であったならば、民間からそうした政策集団や人を容易に集め得たでしょう。 表向きの元気なプロパガンダとは裏腹に、独善的な妄想に浸らざるを得なかったのは、彼らが「国民」を信じていなかったし、「国民」もまた本音では彼らを信じていなかったからです。それは例えば「徴兵に取られる」という、はなはだ受身の姿勢や言辞に、はしなくも現れている。「取られる」という言辞の裏には、「出来れば逃れたい」「戦争行きたくない」という、消極的な反意が込められているでしょう。 これは「真珠湾攻撃」直後のアメリカ市民の捉えかたとは、「民意」としてずいぶん隔たりがあるのです。― つづく ―
2010.11.25
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「国家の根幹を揺るがす事態」というのが、「領土問題」ではなく「国家体制の改変」であったとき、それは全面戦争の可能性を含むものである(すぐに実体的な戦争を始めるということではありません、それも選択肢に入るという捉えかた)とすれば、「フジタ社員拘束」という事態もあるいは理解できる。「戦争」となれば諸外国との体面ではなく、当面の敵を倒すのになりふりかまわない(手段を選ばない)というのは、当然出てくる考えかたです。 つまり我々から見れば、自国内でおきた違法操業、公務執行妨害について、司法当局が法を執行するのが、当然のことであるのに、あちらではまず「司法の独立」という概念が、国家の根幹的な概念としてない。加えるに(向こうの言いぶんでは)領土問題で争っている場所での事件に、国内法を適用するのはおかしい(身勝手ですが)、というつながり方をしている。 おそらく、こうした事態が起こった場合でも、政治が介入して「超法規的」に船長を解放する(現にそうなったのですが)だろう、くらいの読みがあったのではないか?前原さんが「粛々と法の手続きを進める」と言ったとき、中国政府は自国の「国家体制の改変」を強要して来た(つまり、戦争を仕掛けてきた)、と取ったと思うのです。「司法の独立」を国家の基幹体制の一つとしている国が、それを盾に法の執行を続けていく時、「司法の上位に政府組織を置く」国がそれを看過することは、そのまま自国の体制の正当性を否定することになる、ということです。 なぜ私がこんなことを考えるのかというと、今回の一連の「尖閣問題」で、国際的に途中までより多く傷を負ったのは中国であって、決して日本ではなかったということなのです。レアアース禁輸処置で中国が蒙った国際的信用の失墜は、そのあとのノーベル平和賞の選定にかなり大きく影響を与えましたし、体面という点ではずいぶん値打ちを下げたでしょう。 しかし、そのようにいくら外聞が悪かろうと、無理無体を押し付けようと、何が何でも守るべき事柄とは何か、と言えば、それはあちらの「国のかたち」でしかない。要は、この問題は日本と中国の「国のかたち」の争い、つまり「戦争」なのでした。戦争政策のオプションに「人質」が含まれてくるのは当然の発想で、通常の人権とか法的保護とかは、その政策下ではすべて除外される。すべては相手国を倒す、つまり自国の「国のかたち」を押し通し、相手国の「国のかたち」を潰す、という目的だけを以って事が進められるわけです(結果、その通りになりました)。 というふうに理解すると(私の場合は、ですよ)、こうした国際紛争が起きた時、日本と中国の温度差というか、国としてのリスクのあり方に、ずいぶん開きのあることが分かりますね。日本は「弱腰外交」と「無責任な姿勢」で、現政権を倒すことなど、マスコミも政治家も、要は日本人のほとんどは何とも思ってない(日本の「国のかたち」がこれで変わるとは、ここから先も思ってない)のですが、中国の場合はそれが有り得る。たんに胡錦濤体制という現政権が退陣する、ということではなくて、現在の中国の共産主義独裁という「国のかたち」そのものが崩れる、という危険が常に付きまとっているのです。 このあたりの温度差というか、リスクの背負いかたの決定的な違い、というのは、もっともっと理解していた方が良いのではないか(何も、だから「中国に対して弱腰であれ」と言っているのではないですよ)?彼らが外交を仕掛けてくるときの背中に背負った「国のかたち」の重みは、敗戦後日本のほとんどの歴代政治家は負ったことがない。多分そもそもの発想の基点にない、とさえ思える。― つづく ―
2010.11.24
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今回の一連の「尖閣問題」騒ぎの中で、現政権の「弱腰外交」とか「無責任性」を糾す主たる要件として、「中国人船長の超法規的解放」と、その判断をすべて那覇地検と福岡高検に丸投げしたところにあることは、間違いないところでしょう。その批判的な気分の流れに沿ったかたちで、今回のビデオ流出騒ぎが起こったという文脈にすれば、要は「そもそも現政権が、いい加減だからこうなった」、ということに出来るのです。 この二点をさかんに突いているコメンテイターや評論家のなかで、なぜこの「中国人船長の超法規的解放」が行われたのか、という点に触れた人は少ないように思う。私から見れば、これもまた意識的あるいは無意識の「欲望」がもたらしているような気がするのです。 簡単に言えば、いちばん言いやすいところだけを突付いて、見たくない、あるいは軽々に論じると、ヤバくなる(責任を問われかねない)部分を避けている節があるのです。 それが何かと言えば、「中国河北省での、フジタ社員四名拘束事件」のことです。これが「中国人船長立件」に対する対抗処置であることは、誰の目にも明らかで、取引材料として人質を取ったということでしょう。そしてこれらの社員が「旧日本軍が遺棄した化学兵器処理関連工事の現地調査」を行っていた、というところも意味深長です。 「中国人船長の超法規的解放」が、この恫喝を引き金にして行われたことは間違いないのですが、その弱腰を批判する前に、批判ないし論評をする人たちは、このフジタ社員の解放に関して、何らかの施策対案を持っていたのかどうか?おそらく「だから最初からビデオを公開して、動かぬ証拠を突きつけておけば、こんなことにはならなかった」と言うのでしょうが、それは結果論であるし、仮にそうであったとしても私はそうは思わない。 中国政府が対抗してきたのは、「船長を日本の国内法で粛々と裁く」という点にあるので、こちらのつもりで動かぬ証拠があろうがなかろうが、対抗処置として同じ挙に出た可能性は限りなく高いのです。 で、そうなった場合「粛々と裁く」ことを続けた場合、どういう事態が予想されるのか?おそらく双方の裁判のチキンレースとなるわけで、フジタ社員の場合は「スパイ罪」の適用も当然ちらつかせて、日本政府を揺さぶってきたでしょう。 実を言うと、最初「衝突事件」が発生したとき、前原国交大臣(当時)が言わば海保と一体となって、中国人船長を国内法で裁こうとしたとき、危惧を抱いた役人や政治家がいたのではないか、と私は思っています。自民党政権時代も、同じような領海侵犯・違法操業・衝突事件はあったのですが、彼らはあえて裁くことを避けて来た。そうした場合に相手が何を仕掛けてくるか、(ほとんど北朝鮮並みに)分からない、ということをよく知っていたからです。 現政権そして前原さんは、レアアース禁輸や反日デモぐらいは、あるいは想定していたのかもしれませんが、この「フジタ社員拘束」の事態で以って、ひょっとすると、これが「砲火を交えない戦争」になっていることに、初めて気づいたのではないか?と私は思う。 戦争の定義は何か?このブログのはじめのほうで触れた加藤陽子さんの言説に従い、「相手国の国家構造の改変を求める行為」であるとすれば、この「尖閣諸島沖中国漁船衝突事件」の初動時における日本政府の振るまいかたは、中国側からすれば「国家構造の改変を求める行為」であったかもしれないのです。 「向こうから勝手に入って来て、意図的に衝突させたうえに、『そちらから戦争を仕掛けた』、なんて理不尽じゃないか?」と思われるかもしれませんが、こちらの意図とは関係なく、中国にとってはそれが「自国の国家体制」を揺るがす事態と取った。 もうすでにさまざまな事柄が起こりすぎて、時系列に並べるのもややこしいほどですが、レアアース禁輸に出たときも、これが小泉政権下の反日デモなどと比べ、じかに経済制裁的な拳に出たというところで、以前と少し相手国の出方に違いがある、と感じた人は少なくなかったでしょう。小泉政権下では「政冷経熱」などといって、大規模な反日デモは繰り返されましたが、経済的部面にまでそれを及ぼすことはなかったのです。 向こうの外交部ないし政府高官が、繰り返し「国家の根幹的問題では、絶対譲らない」という言辞を、我々は「領土問題」と解釈していましたが、事は向こうではもっとはるかに深刻な日本側からの挑戦と受け取っていたのではないか?― つづく ―
2010.11.23
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各コメンテイターの論調の中にも、多少はこの海上保安官に対して非難ないし浅はかだ、といった指摘をするにせよ、私に言わせれば、はなはだ煮え切らない。すぐに「それよりも、肝心なのは政府の無策振りのほうなのだ」と、そちらに話題を転換する。彼らもまた既存メディアに依存している以上、そのあたりの機微を感じて、あまり突っ込まないようにしているのです。But Alsoと言辞を続けた瞬間に、前の指摘は消えてしまっている、たんにアリバイ(「私は、ちゃんと言ったぞ」、という)を作ったに過ぎない。 佐藤優、橋下徹、谷垣禎一の三氏を私が評価するのは、いずれも今回の民主党政権の施策(とくに初動時の)を強く批判しながらも、この行為に対してはハッキリと、別の次元の問題として非難している点です。その観点は共通している、と私は見る、すなわち民主主義体制というのは所与(しょよ、前もって無条件で与えられていること)のものではなく、そのつど検証強化していかないと、必ず劣化するという点において、です。 さて、このメディア・スクラムの結果、今何が起こったのか?それをテレビで視聴し新聞を読んだ国民という消費者が、この映像によって衆愚化していった、ということです。仮にメディアが何らかの「但し書き」を付けたとしても、同じ衝突映像が繰り返し流されることで、視聴者にある一定の意識を刷り込んで行く、ということはあるでしょう。 それは同時に、視聴者の思考の自由を奪う、バイアスをかけ続けるということにもなり、正常な判断が阻害される。とくに国境とか領海侵犯といった映像は、簡単に情動に火を点ける、「国民意識」という名を借りた身体的な防御本能に、じかに訴えかけるところがあるのです。 私は何度も言うように、こうした流出映像を絶対流すな、などということは少しも言っていない。無定見に流し続けるな、と言っているのです。早い話、この四十四分ほどの流出映像の元ネタが、海保の編集によってすでにバイアスがかけられていることを指摘したのも、佐藤さんでした。これは海保を疑うということではなく、そういう中味であることをメディアはキチンと断るべきだし、そこからさらに衝突部分だけを切り取ったのが、メディア自身であることも明示すべきです。 そうすることによってのみ、流出映像は視聴者に対して「相対化」され、思考判断の主導権は視聴者に委ねられる。ノークレジットで流し続けることほど、性質の悪い報道はない、と私は思う。 これによって、私たちの思考脳裡から、ある種の判断が遮断される、ということもあるのではないか? ここから先は、この流出ビデオ事件とは少し離れて、一連の「尖閣諸島問題」を追いかけて行きたいと思っています。微妙な問題でもあるし、私は特に「政治外交問題」のような話を、いわゆる街場の「政治漫談」的な話題として取り上げることは好みません。何となく大人気ない感じもあるし、さらに言うと、その道のエキスパートや現業の人たちに失礼な感じもある。 あくまで、このブログのテーマに沿った事例の一つとして、扱ってみたいと思っているのです。 それは何かというと、いまや民主党弱腰外交の最大の争点となっている、「中国人船長に対する超法規的釈放」は、なぜ行われたのか?という問題です。今の論調は「衝突事件があった時点で、さっさと衝突映像を公開しておけば、こんなバカな話にはならなかった」という筋なのですが、そんな簡単な話だったのか? そのあたりの検証が、マスメディアも政治家もそしてもちろん国民全般からも、失われているように見える。― つづく ―
2010.11.22
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さて、小沢一郎の話はさておくとして、再び流出犯のことに戻ります。ここのところのメディアの状況を見ていると、早くもこの話は「賞味期限」が過ぎている。取り扱いも急速に少なくなっているようで、何となくこの問題を矮小化し、話を管政権の失態のほうにシフトしようとしているようです。 ここには意図的、あるいは無意識的なメディアの嗅覚が働いているような気がする。 一つは「ビデオ流出事件」そのものの話題にあまり深入りしたくない、という点。 二つめに、消費者がこの問題に飽いている、ということ。 一つめの理由は、私がこの問題の最初に挙げた点、「これが違法映像あることを指摘して、放映を自粛ないし規制したようなメディアは、NHKも含めて一つも」(いわゆる戦争報道について 45.)なかったことについて、今だにキチッと説明したメディアがないところに現れている。メディアはこの点について、一種の疚しさを引きずって流出映像を流し続けたのだと、私は思う。 その「疚しさ」の由って来る根っこは何か?一つはこのニュース・ソースがユーチューブという、既成メディアからみれば脅威となり得べきところから出て来た、ということ。もう一つは、それが限りなく不当な行為によって為されたものであること。そして何よりも、それが外交も含めて、日本の現政権を揺り動かすに充分なインパクトを持っていたこと。の三点でしょう。 この映像をテレビで流すかどうかについては、各局でかなり議論があったらしいということは、TVタックルのコメンテイターがちょっと触れていましたが、果たしてどれほどの議論が交わされたのか?結局は他局の様子を伺っていただけなのではないか、と私は疑っています。何しろ流すとなれば「(政府が機密としている)大スクープ映像」ですから、他局に「抜かれる」のだけは何としても避けたい。メディアというのはこの点に関しては、とても敏感な体質を持っているのです。 私はこの映像の取り扱いについて、暗黙の「GOサイン」を与えたのは、NHKだと思っています。翌朝のニュースから、さしたるコメントも付けずに盛んに流し始めた。これは民放各局においては、お上?(報道メディア界の)のお墨付きを得たようなもので、各局とも抜かれまいと、映像を流すばかりでなく、特色を出すために街頭インタヴュー(中国人にも)まで流した。後はご覧のとおりの経緯で、私はこれは一種のメディア・スクラムだと思っているのです。 「メディア・スクラム」とは通常、過熱した取材合戦で、取材対象の人や物の権利や価値を、不当に毀損するケースを言うのですが、この場合一見毀損された対象は無いように見える。しかし私はそうは思いません。 既成メディアがさんざん毀損したのは、この「国のかたち」そのものなのです。この「国のかたち」とはいったい何なのか?要は、正当な手続きを経た民主主義体制の国家である、ということです。それが不当な方法によって毀損されている、ということを、なぜ指摘ないし糾弾しなかったのか? ここには何がなし、メディアの暗黙の了解事項が作動しているようにも思える。それは後に、この映像を流した理由に対する、(はなはだ間接的な)コメントに現れているので、要は「これは国家機密ではない」、「最初からこの映像は流すべきだった」という論調です。自身の報道姿勢に対する「免罪符」を、政権批判に求めた、ないしすり替えたのです。 私はこの姿勢は、狡いと思う。― つづく ―
2010.11.20
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整序されたこの文言の底に見え隠れする、この海保職員の振るまいかたから見えてくるのは、一種「請願のポーズ」(私の気持ちを分かってください、そして皆で考え、行動してください、という)とでも言うべきものでしょう。 本来「政治的行動」というのは、明晰な意思表示=(異議申し立てとしての)意見として、「私はこう思う、こうすべきだ」、というような形で開示されるべきですが、日本では明治以降、今に至るも「異議申し立て」というのは、「頭を低くして、請願する」という形をとることが多い。なぜなら、そのほうが世間に受け入れられやすいからです。「世間に受け入れられやすい」とはどういうことか? それは世間がそういうポーズであることを「欲望している」からです。対等な他者としての位置関係で、「ことを引き受ける(ここでは、他者の意見を聞く)」ということが気質的に出来ない。 ここまで話して来ればお察しの通り、これって何も明治時代からの産物ではなく、ずうっと遡って江戸時代、いやもっとはるか以前からの日本人に染み付いた態度、一言でいえば「臣民」のマインドなのだと思う。自ら「こうである、こうすべきだ」ではなく「これこれなので、皆さん分かってください」としたうえで、その判断については「如何ようでも、それに従うのでよろしく」、と他者に決定を丸投げする。 これって、判断を相手に丸投げした(というポーズをした)ことによって、そっくり自分の為した行為は「免責」され、なおかつその隠された(しかし、実際は明白に伝わる)意志は押し通す、という典型的な行動パターンでしょう。 ここでは議論の中味とか、その立て方などは一切関係なく、我が意を通すに際して、物事を上下関係で捉える、つまり対等な関係性で自説の中味を説得する、というような発想は一切忌避され、自身の「請願」だけを他者に丸投げして、その後の始末には一切関与しない、という典型的な日本人の行動パターンが見て取れるのです。 そしてまた、それを受けた相手も、この「請願のポーズ」がどれだけ真摯であるかマジメであるかで以って、形的には下からの話を、(上の立場で)「聞き届けた」という心象を得ることによって、その意図するところを斟酌しようとする。その際、この「異議申し立て」の手続き手順、正当性というのは問わない。 主文の後に述べられた結語もまた、同じ文脈で語られていることは明らかでしょう。 ここまで来ると、やはりこの項目でずうっと考え続けているテーマの一つ、日本人にとって「他者との対等な関係性の保ちかた」というような存りかたは、可能なのだろうか?と思ってしまいますね。言論だの表現だのといっても、社会基盤としてのこの「他者との対等な関係性」という観念が、共有されないかぎり、説得し論破しあうという議論の要諦は、ついに日本人には不可能なのではないか?と思えてしまいます。 小沢さんがあれだけ世間で批判されながらも、一部で熱狂的な支持者がいる、というのは、要は日本における議論の応酬というのが、おおむねこの相手の上になるか下になるか、というポジション争いだけに話題が集中し、肝心の中味の話はシチ面倒臭いとばかり、すっ飛ばすという不毛なやり取りに、皆、嫌気が差しているからでしょう。 彼は典型的に「日本人の議論」の在り様というものを信じていないのです。上か下かを決めるのならば、言論などはここから先も必要なくて、権力の源泉は結局「数と金と腕力」ということになってしまいます。これに惹かれる議員さん、地方有力者はまだまだ多い。日本人の古典的な骨法に厳密に沿っているからでしょう。― つづく ―
2010.11.19
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昨日の話で、「衝突ビデオ映像をUSBメモリーにダウロードした時点から … 」という部分、どうもその後の報道を見ていると間違いなようで、艇内のUSBメモリーにダウロードしたのは、本人ではなく一緒に保安大学校の共有ファイルを閲覧した同僚であったようです。したがって私の観測は「衝突ビデオ映像をUSBメモリーにダウロードした時点から … 」ではなく、「彼のポケットにはメモリーがしまい込まれ … 」からということに訂正しなければならないのかもしれません。 これをもって艦内で自由に閲覧できたのだから、「国家機密ではなかった」という論拠を立てる人がいますが、それはやはりおかしい。警察が捜査資料を各県警で共有するのは、本来当たり前であるように、海保がこの「尖閣諸島沖衝突映像」を組織内の情報として共有するのは当たり前。まして現場の保安官たちは、これを今後の中国漁船対策の具体的資料として、「知っておく必要がある」。 このあたりを、どうも報道のコメンテイターや評論家のなかには、巧みにレトリックを使って話する人がいるようです。ここの「知っておく必要がある」の文言から主語を省くと、「(国民が)知っておくべき」資料に容易にすり返られる。細かいようですが、私はこういうようなレトリックは好みません。これを「これは国家機密ではない」あるいは「国民の知る権利」の論拠とするのであれば、この説明のしかたは狡い、ということになります。 それはともかく、それとこの内部資料を一般に撒き散らすという行為とは、ぜんぜん意味内容が違う。常識的に見て、例えば「社内マル秘資料」を独断でネットにばら撒いたらどうなるか?民間ならばこれが「内部告発」に当たるのですが、今回のケースが「内部告発」に当たらないことは、前にも言いました。彼は海保を告発しているわけではない。 そのあたりが、先にあげた彼の整序されたコメントの主文、1.(今回の行為は)政治的主張や私利私欲に基づくものでは(ない)という文言に現れているので、彼は自分の所属する海保を糾弾したり告発していないから、「私利私欲の行為ではない」、ということになるのです。 では彼の言う「(これは)政治的主張ではない」という文言はどう解すべきでしょうか?その論拠として彼は、2.ただ、広く、一人でも多くの人に遠く離れた日本の海で起こっている出来事を見て(ほしい)とするのですが、「ただたんに、一般の人々に見てほしかっただけ」でネットに流した、というのなら、たんなる浅はかな愉快犯ということになってしまいます。そこで、3.(それを見て)一人一人が考え、判断し、そして行動して(ほしい)と根拠を示しているわけですが、「(それを見て)一人一人が考え、判断し、そして行動(せよ)」という呼びかけというのが、政治的行為でなくてなんなのでしょう? 「私は、本来皆が知っておくべき資料を流したかっただけだ。その資料をどう見、どう解釈するかは、私の責任ではない」というのは、勝れて無責任な「政治的行動」と看做さなければなりません。 それが流れることによって出来する事態が、たんに「尖閣諸島沖事件」での、中国漁船の無法ぶりと海保の活動実態を知らせることで済まず、現政権への批判につながることを彼が予測しなかったわけがなく、先の中国人船長開放に対する反発が秘められているのは明らかです。そしてそれが海保職員の気持ちを(私が)代弁するものだ、という存念も垣間見える。― つづく ―
2010.11.18
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さて、この海上保安官のコメントの分析をしていくのですが、まず第一にこの主文に盛られた中身というのが、ビデオを流出させたあと出頭するまでの、六日間のあいだに世論の動向を見極めたうえで、充分「整序」されて出されたものだ、ということです。 それは彼が保安大学校の共用ファイルから、衝突ビデオ映像をUSBメモリーにダウロードした時点から、それを神戸のネットカフェで流出させるまでの気持ちを、正確に反映したものとは言えない。 この期間中、彼は(彼の申告どおり、単独でやったのならば)孤独であり、また妄想的な「義憤」によって内心の怒りが渦巻いていたはずです。それは上に見たような、きれいに整序された気分とは縁遠いものであったはずで、海保全体を覆っている鬱屈した気分というのは他の職員とも共有していたとはいえ、その不満を実際的な行動に移す段階には、明らかな懸隔があるのです。 「殺意を抱く」ということと、「殺人を犯す」ということのあいだに、通常飛び越えがたい懸隔があるように、鬱積した不満を妄想的な「義憤」に仮託して、実際に行動に移すには、ある種の心理的なジャンプが必要です。 という意味で、私は彼が実際にその心理的ジャンプをしたのは、USBメモリーにダウロードした時点からであると考えるのです。その時点で、彼のポケットにはメモリーがしまい込まれ、それをいつでも流せる、すなわち「自身の任意のもとに、いつでもビデオを流せる」という、不安を伴った、しかし全能感に満ちた心理状態であったでしょう。 通常こうした心理的なジャンプ(妄想から実行への)は、一般の社会生活人では仲間とか飲み屋とか、さまざまな手段で抑制ないし転化されるのですが、特に今回のように強度のストレスが組織内部に充満し、なおかつその管理者が適切なフォローを怠った場合(今回はその可能性が高いのです、むしろ海保の上級管理者には、部下に同調する気分があったのではないか?共有ファイルが四、五日開きっぱなしになっていた、というあたりに、やはり海保上部組織の弛緩した気分が現れている)、海保のようなごく特殊的に閉じられた世界では、妄想が増幅されやすいのではないか? こうして行き場を閉じられて鬱積した不満というのは、簡単に「怒り」という情動に結びつく。「情動」が作動した場合、いわゆる理性的な判断力といったものは無力で、すべての理屈(合理化)は後から着いて来る、というパターンをたどります。 で、困ったことは、今どきのネット社会というのは、閉じられた不満を簡単に情動に転化する(つまりジャンプのハードルが低い)ツールに満ちているということです。ネットに流れているコメントその他には、情動に流されやすい魂が飛び交っている(これは私自身の反省も込めて)。 彼はそのもっとも「緩いハードル」で、それを飛び越えることを選んだのです。通常、不満や異議申し立てを行う場合、さまざまな現実的な障害(それは主として対人折衝のことなのですが)をクリアしないと突破できないし、その折衝過程で不満が解消ないし昇華される機会もあるのですが、ネット社会はそうした他者の介在を一切忌避できる。つまり個人的な誇大妄想を最大限に膨らませたまま、外部に投げつけることができるのです。 個人的な妄想ではない、「義憤だ」という人もいるでしょうが、現実的な障害を経ていない「義憤」とは、「個人的なもの」以外では(他者のヤスリを経ていない、という点で)在り得ないでしょう。 私は、この選択をした彼の心理に、やはり疑いというか、うさんくささを感じないわけにはいかない。― つづく ―
2010.11.17
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さて、尖閣ビデオを流出させた海上保安官が、以下のようなコメントを出しています。 保安官は16日未明、弁護士を通じてコメントを発表した。全文は次の通り。(毎日新聞 11月16日(火)2時33分配信、文意を解析するために、こちらで改行しています。原文はベタ)― 私が今回起こした事件により、国民の皆様、関係各位には多大なるご迷惑を掛けたことをおわび申し上げます。海上保安庁の皆様、中でもお世話になった方々や今回の件でご苦労されている方々に対しては、申し訳ない気持ちでいっぱいです。 今回、私が事件を起こしたのは、政治的主張や私利私欲に基づくものではありません。ただ、広く、一人でも多くの人に遠く離れた日本の海で起こっている出来事を見てもらい、一人一人が考え、判断し、そして行動してほしかっただけです。 私は今回の行動が、正しいと信じておりますが、半面、公務員のルールとしては、許されないことであったと反省もしています。 私の心情をご理解いただければ幸いです。 ― 皆さんはこれを読んで、どう思われます?多少弁護士の後知恵に基づく、文飾があるとはいえ、今彼自身が考えている、あるいは妄想している自身の立ち位置を、かなり明晰に示しているように私は思う。 まず、最初の文言は弁護士の助言に基づくもの。騒ぎを起こした事にたいして、とりあえず謝罪のポーズを示す、というのは(赤穂浪士に典型的に見られる)、異議申し立てをする場合の日本固有の語法です。 主文あるいは彼の意図、主義主張は、第二段落にすべて込められている。要点は、1. (今回の行為は)政治的主張や私利私欲に基づくものでは(ない)2. ただ、広く、一人でも多くの人に遠く離れた日本の海で起こっている出来事を見て(ほしい)3. (それを見て)一人一人が考え、判断し、そして行動して(ほしい)の三つ。さてこれを皆さんどのように受け取りますか? まず1.について、要は自分の行為が「公益目的」に添ったもので、いかなる意味でも政治的あるいは「私憤」ではない、ということ。 次に2.なぜ公益に適ったものであるか、それはこの行為が「国民の知る権利」に該当すると考えたから、ということ。 最後に3.「この事実を知ったうえで、国民各自で、この事態を今後どうすべきか、判断し、行動してほしい」、ということでしょう。 この主文に盛られた中味の分析に入る前に、先に結文も解釈しておきます。 もう一度、自身の行為の正当性を主張したうえで、「半面、公務員のルールとしては、許されないことであったと反省もしています」。つまり違法性は意識していた(要は、再びこの騒ぎに対する侘びのポーズを示し)、しかしそれでもなお、「私の心情をご理解いただければ幸いです」、つまりルールを侵してまで、やらざるを得なかったという、この「止むに止まれぬ気持ちを分かってください」と、これもまた平身低頭しながらも自分の主張は曲げない、という強い意志が感じられる括り方というべきでしょう。― つづく ―
2010.11.16
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「それでも、内部告発というのは、今どきの組織集団では、よくあることだし、ある程度認められているところもあるんじゃないの?」という疑問も指摘されそうです。 私はこれにも反対。これは「内部告発」には当たらない。 例えば、「自分の所属する組織の誰か、あるいは組織全体が、社会公益性からみて、明らかに不正を行なっている」といった場合に、その不正を世間もしくはその他媒体に告発する、というのが「内部告発」であって、今回の事例では、明らかにこれに該当しません。早い話、彼は海保を告発したわけではないでしょう(隠された内心のことは、一応別として)。 これは一種の異議申し立ての意見具申です。ただしその手続きと方法を誤った、さらに言えば、異議申し立てを民主的手段によってでなく、威力的に行なったことによって「国のかたち」を危機に陥れた、ということなのです。 さて、先にあげた橋下さん佐藤さんのコメントや論説の内容について、ほとんど私は同意、ただし注文があるとしたのは、このお二人の言説には処断した海保職員に対する言及、ないしその後の彼をどう扱うか、についてのコメントがないというところです。 まあ、立ち話のコメントとか、限られた字数での論説では、そこまで触れる余裕はなかったのでしょうが、私は半ば以上の確率で、このお二人にはその観点は毫も頭になかっただろうと思うのです。処断された後のことは、少なくとも職務上では管理者の仕事は終わり、なのです。せいぜい「浅はかなやつだな。しかしそれは彼のプライベートだから」という程度の感想を持つに過ぎない。 しかし、何度も言うように、それが公務員であったなら公益上の理由から、またこうした事例が私企業で発した場合なら、同じようなケースが組織内で発生しないように、先にあげたような個人的な部分にまで立ち入った聴取や分析は、本来あってしかるべしでしょう。 日本人というのは、何か事を起こした人間について、本人が組織を去ったあと「そのことは出来るだけ触れないでおく」という不思議な性向を持っています。ましてその引き際が「潔かった」場合(切腹とか自裁とか)、去った人間を改めて追求するような仕方は、とくに苦手です。それは同時に、今所属している組織(身内)の恥も、もう一度ひっぺ返す要素も含んでいるからです。「イヤな出来事は、お互い早く忘れましょう」ということなのですが、それでは残された組織内も改善されてない(海保でいうなら、同じような不満分子がおり、同じような暴発が起こり得る機会は、前と同様にそのまま残るということです)。 というわけで、ここでは「父性的」な構えで、さらに深入りして行きましょう。この「構え」という用語、例の内田樹さんの本で知ったのですが、なかなか好いですね。 「父性原理」には、一種酷薄(無慈悲)な装いがあります。 どんなに子供が泣き喚いて、請願のポーズ(駄々)を繰り返そうとも、口が裂けても「お前の気持ちは分かる(だから、俺の言うことを聞け)」とは言わない。口にした瞬間、この「父性」性は一瞬にして失われるからです。相手の気持ちなど先刻承知、それを読み切ったうえで、なぜ素振りにも見せないのか? それは五・一五事件の後を見れば分かる。血気にはやる若手将校たちを諌めるのに、軍の幹部たちは「君たちの気持ちは分かる」などと、宥和的な言動を吐いた。幹部たちはそれで組織の混乱を鎮める気でいたのですが、事態はこうした言動で以って、逆に統制が利かなくなり(一つには軍幹部のほうにも、この事件によって政治への関与を強めよう、という思惑もあって)、結局四年後の決定的なクーデター、二・二十六事件につながって行くのです。 「父性」性が無慈悲であらねばならないのは、こういう瞬時における判断に気鮮やかに現れてくるので、相手がどれだけ必死の「請願のポーズ」を見せても、絶対に「擦り寄る姿勢」を見せてはいけない。その瞬間相手は気持ちを察してくれた(分かってくれた)、とかん違いして、さらに行動をエスカレートさせるからです。こういう場合は、せいぜい黙って見守るしかない(放擲して無視する、ということじゃないですよ)。 言わば岩石のように、山のように屹立しているだけ、問いかけには一切答えないが、常にそこに在る、という状態でいることによって、本人自ら覚める(回復して来る)のを、ジッと待つような仕方をいいます。これって、けっこう気合の入った「構え」だと思いません?(「母性」性とは、こういうとき必ず、こちらから何とか擦り寄ろうとする、というような仕方を言います)。 「母性」性を、ことさらに悪く言っているわけではありません。「母性」性だの「父性」性だの、生き物の「親?」性の発現にはいろいろあり、その仕方を象徴的に区別して言っているので、実際の性別での属性というわけではありません。女性でも「父性」性を発揮される方は、いくらでもおられます(逆も同じ)。 実はこの「母性」性という仕方にこそ、この「いわゆる戦争報道について」のおしゃべりを始めるきっかけとなったある個人的な妄想がずうっとあって、これこそ、いちばん最後にしゃべろうと思っていた主題なのですが。― つづく ―
2010.11.15
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「お前はそれにしても、ずいぶん他人の中身に立ち入った物言いをするじゃないか?それってプライバシーとか個人の尊厳を無視していることになるっ!」と、このビデオを流出させた海保職員を「英雄」視したり、その振るまいを好意的に見ておられる人から反発されそうです。 私はそうは思わない。 国家の規律を毀損した人間を、私は信頼することは出来ない、というのがまず一点。 もう一点は、もし彼が「国民の知る権利」といった浮ついた理由(私はそれを、彼の本心とは信じていないのです)を盾に、非合法な手段を正当化しようとしているなら、我々もそうした振るまいをした彼の内部を、同様に「知る権利」がある、ということです。 今さら「辞職したら、おしまい」(推測ですよ)としか思っていない本人に、「責任を取れ!」と凄んでみても、先に推測したように、まず間違いなく、彼はその後のプランなど(公私とも)持っていないに違いないのです(多少空想的に、どこかからの「当て」を、漠然と期待しているかもしれません)。 かつて新左翼の学生が、現体制打倒を叫んで、打倒後のプランを何一つ描かなかったように(その時も、「後始末は誰かが何とかするやろう」で、本人たちは就職戦線に躍り出たのでした)、個人的に「義挙」だと陶酔し切っている本人に、私たちが真の意味で、責任を取らせられ、報告を求められるのは、この一点にしかない。 断っておきますが、それは彼の浮ついたうわべの「プロパガンダ」を、仔細に聞くということじゃありませんよ(仔細に聞こうとしても、たぶん、ものの10分とかからないでしょう)。彼がこうした振るまいに及んだ、隠された心理過程を、我々が「共有」出来るところまで、探るのが目的なのです。それに由ってしか、今私たちは彼の「あとを引き受ける」ことが出来ない。 これは何も、週刊誌の三面記事的な、よくある彼の恥ずかしい個人史を暴き立てる、ということではありません。彼のような性向がどのように生み出され、どのようなプロセスで今回の行動を起こさせたか?これは海保同様、私たちも知っておく必要があるのです。 何度も言うように海上保安庁というのは、重火器を装備した実効的な武力執行機関であり、その矛先は外だけでなく(ニュートラルに)内にも向けられ得るからです。そういう意味で海保同様、自衛隊、警察といった組織は一般公務員とは別個の、特殊な服務規程が求められるし、現にあるのでしょう(それを知らなかった、とは言わせません)。 同様に、我々一般人は組織人として振るまうとき、何が瑕疵で何が是であるのか、この事例でじっくり考えればよい。早い話、上司や同僚、あるいは部下に報告相談をせず、勝手に判断行動する人間が、そのグループにいたらどうなるか?この事例でなら極めて分りやすい。 武器を所持した職員が勝手に判断して、敵ないし無法者を「義憤」にかられて、射撃したらどうなるか?そしてそのあと、「国民が支持しているから」などと云ったとし、「仲間には悪かったから、責任とって辞めます」と言われて、海保も国民も納得出来ますか?後始末は海保ではムリ、国民レベルでもムリ、外交段階に入っているのです(つまり日本国内の論理で決められない、ということです)。 「そりゃ、何ぼなんでも極論だろう」とまたまた反発されそうですが、私はそうは思わない。 組織として重火器を装備し、それを行使できる機関であるからこそ、私的感情や独断行動は厳密に排除すべき、というのは、直接火器を行使する担当職員だけでなく、すべての海保職員が共有していなければならない。それに由ってのみ、組織の栄光とプライドは保持されている、ということなのです。― つづく ―
2010.11.14
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このお二人に共通する姿勢とは、事に対するに「父性的」な構えでの規律性、といったものでしょう。本人の個人的な思想とか性格とか事情などいっさい忖度(そんたく、他人の心をおしはかること)せず、本人が所属する組織、本人がそこで本来遂行すべき職務、対するに結果行った行為の当否だけを見、それを問い、そして裁断しているのです。 「間然するところがない」とは、こういうものの考えかたを言うので、文字通り他言をさしはさむ余地はどこにもない。「身もフタもないではないか」と(特に女性あたりから)嫌われそうですが、すぐれて組織で仕事をし、それが機能するとはどういうことか、を知悉している人であれば、このような「構え」は誰でも持っている。 身とかフタとか、そもそも組織とは機能集団であり、イヤな言い方をすれば「街場の町内会」ではない。今ネットで沸騰している「英雄」騒ぎは、まさしく町内会の論理なのです。井戸端会議では誰も責任など取らなくて好い(みんなそんなことは、最初から分かって騒いでいる)。 以下、こうした時の「父性的」な構えの管理者は、どのようにこういう相手に対するのか、想定問答を少し長いですが、やってみましょう。 この二人に言わせれば、 「君はそういう核心を充分理解して、この組織で仕事してるんだろう」ということです。続けて、 「それに専念するところにこそ、君の栄光やプライドがあったんじゃないのか」さらに、 「で、もし今回のような事例で君の内心に不満があるのなら、なぜすぐに報告相談をしないのか。出来ない理由があるのか」 「報告相談が出来ないのであれば、黙って辞職しようとは思わなかったか」 「もし君の気持ちに、何かの揺らぎがあり、さらにそれを誰にも報告相談しなかった場合、この組織の栄光やプライドを共有せずに、そのまま居るつもりだったのか」 「それが組織を起動する時に、君個人じゃなく、組織全体を危機に陥れる可能性は考えたか」… ヘタな想定質問ですが(たぶんこの二人なら、もっと気の利いた言葉を発したでしょう)、この「父性的」な管理者たちにとっては、「そんなこと以上に、この行為は重大だと思ったから」とか「これは国民の知る権利だから」といった浮ついた弁明などは、そもそも、こうしたプロの機能集団においては発想としてあり得ない。「そんなこと以上に … 」と言われた瞬間に、「組織をどう思ってるの、こいつ」と思うでしょう。 というような質問を投げれば、必ず本人は、 「それほどに、私は悩んでいるんです、苦渋の末の決断です。この忠心からの気持を分かって下さい」と言うのでしょうが、 「それほどに悩んでいたのなら、なおのこと、なぜ相談しなかった」 「怖くてようしませんでした」 「どれだけ怖くても、これは何が何でも相談すべき事柄じゃないか。何が怖かったのか。俺がか」 「いえ」 「何だ」 「中味が怖かったです」 「中味の何が怖かった」 「これは、ひょっとして、ずるいことじゃないかって」 「 … 」 要は本人は、こうした行為が、何を引き起こし、真っ先にどこに迷惑が行き、その後に何を出来するか、知っているのです。知っていながらやるという、行為の仕方そのものに、実は「心の疚しさ」を抱えている。 「疚しさ」があるから、しばらく様子を窺っていた、世間の動向を見定めて、自身を精一杯仮装して世に現れた、ということでしょう(今回のケースで言えば、事情聴取を受ける前に、自分のことを擁護してくれていると、勝手に思っているテレビ局の記者に会った、というところに如実にそれが現れています)。 で、ここからが肝心なのですが、例えば 「で、やったあと、君はどうするつもりだったのだね」 「どうするとは」 「この結果を、どう始末するつもりなのか」 「責任を取って辞めようか、と」 「 … 」 実をいうと、管理者にとって「責任を取って辞めます」という言葉くらい「無責任」な言葉はない。上司は内心「お前は自分が腹斬って、それで終わったつもりかね」と歯噛みする思いでしょう。組織にとって個人的思惑などどうでもよい。偽装した「義憤」という、まるきり個人的な欲望に駆られ、組織を紊乱させ、しかも後始末は知らん振り。 自身の行った行為に、せめてあとのビジョンも多少は持っていたならまだしも、おそらく間違いなく「公私」にわたって、あとの始末など何一つ考えていないのです。あるのは「こうして自分は責任取ったのだから、誰かが何とかしてくれるだろう(すべきだ。すでに私は「免責」されている)」といったところが、せいぜいでしょう。 要は、きわめて「子供」染みたマインドに侵されている。しかしまあ、別に海保に限らず、こうした人間というのは、我々の社会には必ずいるものです(まったく、「泣く子と地頭には、勝てない」のです)。後になって「その時は確かにそう信じてやっていたんです。このような結果になるとは夢にも思わなかった」と言われても、「国のかたち」が体を為さなくなってから、「その時は確かにそう思った(だから、仕方がなかった)」では、またもやいつか来た道。退屈な歴史の繰り返し、ということになってしまいます。 管理者はきっと以下のように思うでしょう。― 組織の栄光とかプライドより以上の価値があるから「義憤」というのであれば、そもそもこの行為をなす前に「あとの見通し」も持っているはずだろう、そうであってこそ、あるいは公に認められるかもしれない「義憤」というものじゃないか、もしそれを公私共々何も持ってないのだとすれば、要はそれはお前の隠れた「私憤」を、「公憤」に置き換えているだけじゃないのか。その「私憤」とは、結局は俺たちの組織に対するものだろう。 ― おそらく普通の管理者なら、このあたりのところまでは、たちどころに推測するのです。― つづく ―
2010.11.13
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時事的な話題を取り上げたら、話が際限なくなるうえに、話し方に注意しないと、後から出てきた事実で以って、それこそちゃぶ台返しのように、自分の言説がひっくり返される、ということはよくあることなので、原則的にしないというのが、何度も言うようにこのブログのスタンスなのですが、今回張り付いたように「尖閣ビデオ流出問題」を追いかけているのは、これが今私がしつこく考え続けている、「戦争報道」にまつわる日本人のマインドの現れかたと通底すると思っているからです。 ここの45.(11月6日)以降に話している私のような考えかたというのは異様なのだろうか?世間ではこうした回路で物事を判断する、という仕方をしないのだろうか?という気分がずうっと続いていて、実際どうなのだろうと思い余って、昨日触れたように、記事内容の一部を議論沸騰中のサイトに投稿しています(サイト管理者は大変だと思いますよ。タダでさえ私の話は長くてクドイうえに、間違いなく興奮したメールが殺到しているはずですから)。45.と46.の内容は、ほぼ全文をそのまま投稿したのですが、47.の途中から向こうの中味の進行との整合性を保つために、まったく別の記事を送っています。 あちらのサイトの管理者及びコメントを寄せられる人たちには申し訳ないですが、私が考え続けている「日本人のマインドに通底する、牢固として揺るぎない振るまいかた」のケーススタディーとして、多少過激な文言を加えています(タチが悪いですね!) その経過報告というか、結果はいずれ充分頭を冷やして分析したうえで、ここで話したいと思っているのですが、昨日今日ようやっと私がほぼ全面的に賛同できるコメントが、テレビと新聞に出て来ました。一つは昨日、大阪府知事の橋下さんが東京でメディアに答えたコメント。もう一つは今朝の朝日新聞に出た佐藤優さんのコメントです。 まず橋下さんのコメント。 「僕はどういう理由があったとしても、公務員が政治家の決定に従わなくてはならないと思う。そこが崩れたら政治行政は成り立たない」と指摘。「非公表を決めた責任は民主党政権が取るべきだ。そうした大きな判断も公務員に委ねると、政治が回らなくなる」と語った。(産経新聞 11月11日) この知事の普段の手法とか、発想にはいろいろ言いたいことがあるのですが、このことについてはキチンと的を突いていて齟齬がない。行政の持ち分、政治の在りようというのをよく呑み込んでいる。大事なのはたんに言っている中味ということではなくて、こういうふうにサラサラと正確にコメントする、ということです。奥歯にものを挿んだような、含みを持った言いかたをしてはいけない。 さらにもう一つ、おそらくこの人は上のような判断を、流出直後に瞬時に下したであろう、ということです。正しい判断と、それを正確に伝える言葉、そしてそれを下すスピード。これは残念ながら、今の管政権にはすべて欠ける点なのです。というわけで、政治能力という点では(若干、軽騒の感はありますが)、中央政府高官より上。 佐藤優さんは元外務省主任分析官で、例の鈴木宗男事件に連座するかたちで逮捕起訴有罪が確定した人ですね。 「衝突の事実に変わりはなく冷静に判断すべきだ。ただ、海上保安庁内部から流出し、機密映像が公になったとすれば、背景には規律のゆるみ、組織管理の甘さがあり、見逃せない。中国人船長を釈放した今回の事件処理に対し不満を抱く者の仕業だろうが、それを内部告発という形で解消するのは間違い。厳正処分が実現しなければ、いずれ日本の安全保障にかかわる情報が流出することになる。間もなくAPECが始まるが、政治的効果を狙うのであればもっと直前に配信するはずだ。深い意図は感じられない」(産経ニュース11月5日) 流出直後に上のような分析を下せるのはさすがプロ。 今日の朝日新聞では、さらに突っ込んで、うろ覚えですが、海保という組織が重火器を所持した武装組織であり、その暴力的威力によって国家権力の行使を具体的に遂行する機関である以上、その組織員の統制管理は普通の官憲以上に厳正であるべき。やはり私も危惧した戦前の5・15事件を引き合いに出して、この時の処断が甘かったために、日本は後の2.26事件を止められなかった、とクギを刺しています。 この人も橋下さんと同じく、普段の論説などには全面的に賛同するわけではないのですが、これについてはほぼ同じ。ただし若干の注文があります。― つづく ―
2010.11.12
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「何を寝呆けたこと言うてんねん!明日にも尖閣諸島占拠されるかも知れへんのに、誰が責任取るんやねん?」と、またまた罵倒されそうですが、そもそも「尖閣諸島」でこんなにカッカカッカしているのは日本のほうで、実は中国の大半の国民は無関心。おそらく相当数の人は「今そこに見えて来た、中国史始まって以来の豊かな生活」へのテイクオフに目が行っているわけで、その意味では世論の多様性という点では、今の中国のほうが「尖閣」騒ぎ一色の日本より上でしょう。 ヘタなケンカに乗せられるよりは、今とりあえず多様性に目覚めつつある中国の人たちを、ますます多様な地平に呼び込んだ方が、よほど日本にとっては得策だと思う。何も偉そうに「日本は民主主義の国だから」と、相手に声高に言い募る必然性はどこにもありません。大挙して押し寄せてくる大陸の観光客、ビジネスマン、泥棒の類も含めて、我々は彼らを忌み嫌うのではなく、少なくとも民間レベルでは、バカみたいに間口を大きく開けて、出来るだけ今日の日本社会を成り立たせているマインドの在り様というものを、声高には言わず語らずに、泰然として見せたら好い。 観光客、ビジネスマン、無法者も含めて、彼らはそれぞれの仕方で、今の日本社会を規律している文化の底流というものを感知するわけで、異文化が実現している社会の在り様というものを、ひしひしと感じることでしょう。それを彼らが是ととるか否ととるかは、これは我々には如何ともしがたい。何度も言うように、他国のマインドに押し入って無理矢理変えようとしても、それはさらなる憎悪を生み出すばかりです。 「そんなこと言われたかて、あいつら何しろ、うるさいし目障りやねん!」 おっしゃるとおり、例えば昨日さっそく京都駅前に出来た「ヨドバシカメラ」の様子を、見に行ってきたのですが、店内に入ったとたん、あの喧しい中国語の乱舞。中国人がしゃべっているのではありません、店内放送が中国語なのです! 思わず脱力するほどに笑ってしまいましたが、「なるほど異文化との接触とは、こういうふうになって行くのか」と思ったものでした。私は今後ますます増えるであろう(増やすべき)こういう風景を、冷やかに顔をしかめて忌避するのではなく、しばらくは泰然と見守っていくしかないと思っています。非常に楽観的に過ぎると、また怒られそうですが、どうも我々自身が意識している以上に、彼らの日本文化への関心は高いように思える。 今は電化製品の買い漁りというかたちで、日本ブランドへの関心が集中しているようですが、それが一巡したあとに来る日本のソフトパワーへの関心に、いかに多量の中国人を向けさせるか、が今後の両国関係のソフトランディングへのカギとなるでしょう。 政府どおしでも、民間レベルでも、まだまだずうっとギクシャクと不愉快なやりとりは、当分続きそうですが、そうした時に、例えば1000万人とは言わないまでも100万人の日本ファンを、中国内部に持てているかどうかが、他者を多少なりと我が身に近づけ得る唯一の方法だ、という気がします。 その意味でも、今回の「尖閣問題」の事例に端的に現れているような、「中国バッシング」の威勢の好いオダ上げには、私はあまり賛成出来ません。実はそのことに絡めて、ここでしゃべっている記事の一部を、あるサイト(大体想像がつくでしょう)に投稿したのですが、やはりおおむね予想したとおりの進行を辿っています。 私としても、二つの記事を同時に進行さすのは大儀で、頭も混乱するし第一昼の商売にも差し支える、というわけで、いずれここの中味と統一したいと思っているのですが、今般のあちらの景況は、ちょっとそれを「ためらわす」部分がありますね。― つづく ―
2010.11.11
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「何を小賢しい話をしとるねん!たかが噂のビデオが流出しただけやないか?何か、改めて目ェ向くようなことがあったんかいな。早うハッキリ結論言わんかい!」と、イラチな大阪のおっちゃん(おばちゃんも?)に謗られてしまいそうです。 じつは私は世間が沸騰しているほどには、ビデオの中味には関心がありません。中味をあれこれ吟味するまでもなく、中国側の言い分と日本側の言い分のどちらに偽りがあり、どちらが事実を伝えているか、ということに関しては事件発生直後から、皆ずうっと予見していたはずです。領海侵犯の問題を差し置くとしても、中国側の報道あるいは政府声明(日本の海保が中国漁船にぶつけて来た、という図面つきのコメント)を信じる日本人は誰一人いなかったでしょう。それはほとんどの外国の消息通もおそらく同じで、「ああまた、中国のいつものあの手か」と判断していたはずです。 大事なのは、なぜそうした認識が、ごく普通に疑いもなく共有されているのか、ということです。それは言うまでもなく、敗戦後の日本が営んで来た国家体制と、それに基づく政府機関あるいは「言論の自由」を体現する報道メディアが、(少なくとも周辺諸国よりは)国民及び諸外国の信任を受けているということであり、この共有された信憑性というのはもっと意識されて良いと思うのです。 中国の人たちがイッチョ最初に信用しないものとは、他ならぬ政府発表と新華社であり、彼らは多かれ少なかれ自分たちが封殺された社会にいることをよく知っている。国民が何よりもいちばん信用していないのが、それを統治している国家機関である、という「国のかたち」というのは、基本的に不幸と言い得る。 なぜならそういう国の統治者は、まっさきに自国民(と自国領)を占領することに専心するからです。中国三千年の歴史とは、言ってみれば歴代の覇権王朝が、自国民(と自国領)を占拠しようとして盛衰を繰り返してきた歴史で、それは現在の共産中国もまた、その文脈において(怖ろしいほど)変わりがない。日本その他周辺諸国への覇権的振るまい(四、五十年ほど前まで、あれほど日米を「覇権国家」と名指しして罵倒していた国が、です)とは、基本的に皆さん指摘されるように、自国民統治の手段としてある(場合によっては、戦争を仕掛けることもある)。 危ういのは、それでも領土その他国権の基幹部分の争いを持ち出した場合、封殺されている国民が一時的でも、信用していなかったはずの当の国家機関の指し出す方向に簡単に誘導され得るということです。 で、これを抑止させ得る方法というのは、おそらく外部からでは如何ともし難い。「国のかたち」を変え得るのは、結局そこに住まう人たちの基本権として厳密に在るので、周辺諸国は危害が及ばないかぎり、辛抱強く見守るしかないのです。他国がもう一方の「国のかたち」を、自国の望むような形に変えたいと欲望するとき、結局それは最終的には戦争によって決着させるしかない。しかもそれは被占領民という不同意の住人を抱える、という厄介な用事を背負い込むということになります。 結論として、今後もますます中国は周辺諸国にとって、不愉快な振るまいを繰り返すのでしょうが、我々としては外交レベルで華々しい(けれども、勝った負けたという不毛の)応酬を繰り返すよりも、片一方で大きく開いてしまっている経済・文化・人的交流の間口をますます大きく、そこから「国のかたち」の多様なあり方というものを、(上から目線でなく)自信を以って泰然と見せていくより他はないのではないか?武力の積み上げによって、凄んでみせる子供染みた振るまいかたよりは、よほどスマートだし相手も受け入れやすいでしょう。― つづく ―
2010.11.09
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時事的話題、なかんずく政治向きの話題はしないと、いくら心に決めていても、いったんしゃべったからには、結局とことん話してしまわないと、しゃべるほうも聞くほうも気分の収拾がつかないというのが、この手の話題の厄介なところなのです。というわけで本件の締めくくりは、しばらく後回しになりそうです(当然「源氏読み」は、さらに後回し)。 さて、では「事柄のあとを引き受ける」とは、どういう態度を意味するのでしょうか? 本人(たち)が、これほど悩みかつ真剣に真実を世に知らせたかったのだから、我々はそれを真摯に受け取らなくてはならない、ということで好いのか?ということです。 これはビデオを流出させた本人(たち)の動機を忖度している態度ということになります。そしてそこには、ほとんどこれが海保内部の人間、もしくはそれに近い筋のものがやった、ということを当為の前提にしているようです。そこから発して、海保の現場の士気が著しく低下していて、止むに止まれぬ心情からこれを起こした(だから、しかたがない)、という論法なのでしょう。 もしこれが万が一、たんなる愉快犯の行った犯行であったならば、上の前提はすべて吹っ飛んでしまいますが、一応ここではそれは考えないことにします。少なくとも今どきのマスコミの論調、あるいは国会議員や評論家たちの一部は、それを前提として海保を弁護、ないし流出犯を擁護する方向に向かっているように思えるからです。しかし可能性としては低いですが、その恐れも捨てきれません。その場合、今まさしく威勢良くビデオ流出を擁護している人たちは、どう弁明するのでしょう。 まあそれはさておき、本題に戻るのですが、本人(たち)の動機を忖度して、その心情が真剣なのだからという論法には、「事柄のあとを引き受ける」という観点が欠けてはいないか? 「責任を持って事を処す」とは、「事柄の後始末をもすべて引き受ける」あるいは「後始末はようしないが、国のかたちを侵してでも、知らせるに足る理由がある」ということでしょう。マスコミ、国会議員そして評論家の一部は、おそらく後者に与したい、もしくはそちらのポジションで議論をしたいようです。 しかしそれって、対等に責任を負った議論とはどうも思えない。「若手将校の気持ちにも理由がある」と思い、それを口にした時、その管理者たちは「出来した事実」に対して、どこまで本気で始末をつけるつもりだったのか?自身の本気度を示すために、切腹覚悟で相手に臨むしかない、というレベルだったのではないか?私は実はそういう手法というか、身振りというのが、どうもうさん臭く思えてしかたが無いのです。 これほど真剣なのだから、説明責任も後始末もすべて「免責」されている、「後はお前たちやれよ」と凄んで、自身の口も相手の口も封じて、(我が身の真剣さを証明するために)切腹してオシマイというのでは、世界中にばら撒かれた敵味方の大量の死体を前にして、後に残された者たちはやり切れない。関西風に言うなら「ほんなら、この後始末どないせえちゅうねん!」ということになってしまいます。 「真剣に悩んでいるのだから」とか「覚悟の上なのだから」といった、実行犯の気持ちの忖度はこの際別、事実的に出来した事柄に対して、自分たちはどういうポジションでいるべきか、そしてそのポジションを選んだ時、それを人にどう発するべきか、そこをハッキリさせておく、というのが責任ある発言というものでしょう。 上にあげた事例で言うなら、もしこうした流出を擁護する発言をするなら、こうした「真剣な中味」ならば不法行為も許される、という立場に立つことになるが、その場合その不法行為を凌駕し得る国のかたち、というものを人に説明出来るか、仮にそれが出来るとして、それは民主主義法治国家で在り得るか、というところまで思考の次元を上げなければならない。 それを前提にした上で、こうした守秘義務違反を擁護する発言をするならば、それを聞く側もまた、それをまともに受けざるを得ないのですが、はたしてどうなのか? ― つづく ―
2010.11.08
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さて、この夏から既成メディアの報じる「戦争報道」に刺激されて、ながながとおしゃべりし、そろそろ店じまいしようと思っていたのですが(懸案の「源氏物語」読みを、ようやく再開したくなって来たので)、折りも折り、今どきの既成メディアや政治家のマインドを測るうえで、格好のケーススタディーが発生していますね。 本題の小難しい話はいったん差し置いて、今現在も進行中のこの事例を取り上げてみたいと思います。 他ならぬ「尖閣ビデオ流出事件」のことです。基本的に時事的話題は取り上げないというのが、このブログのスタンスですが、あるいは日本人に昔も今も通底している無意識のマインドや振るまいが、ここにも鮮やかに現れているのではないか? 昨日今日の「尖閣ビデオ流出」をめぐる、既成メディアと政治家、あるいはいわゆる評論家の言説を聞いていて、私はずうっと胸クソの悪い気分に囚われています。その気分の悪さとは何なのか、いろいろ考えていて思うのは、要はこの一連の騒ぎが「違法映像によってもたらされている」、という一点にあることに気づくのです。 このことについて、明確に指摘しそれを非難したメディア、政治家あるいは評論家というのがほとんどいない(前原さんだけが、多少それに近いことをおっしゃっていましたが、それにしても少数であるうえに政府与党の関係者であるということで、いかにも弱い)、ということなのです。私はむしろ既成メディアと政治評論家、そして野党政治家の姿勢に歯がゆく、また生ぬるい感じがしてならない。 これの違法性とか国家秩序に与えている損害の質というのが、世が世なら「反逆」と言われても仕方がない質のもの、要は国家体制に対する「挑戦」している種類のものであることを、なぜメディアはじめ世の知識人はもっと指摘し糾弾しないのでしょうか? まして流された違法映像を、そのまま何のクレジットも付けずに繰り返し垂れ流し、どこから出てきたかの詮索は適当にして、その映像の分析ばかりを熱心にその筋の専門家にやらせる、さらには現政権の情報管理体制の甘さのほうに話を転化する、あげくのはてにそのビデオ映像を見せて、市中の感想を流す(ご丁寧に中国人にまで)に到っては、いったいこの国の既成メディアというのは、どんな見識を持っているのだろうと思ってしまいます。これってまさしく無法者にまんまとのせられて、扇動されているだけじゃないですか?昨晩からイヤというほど既成メディアの報道を見せられましたが、その中でこれが違法映像あることを指摘して、放映を自粛ないし規制したようなメディアは、NHKも含めて一つもありませんでした。 これの意味するところは、現政権の情報管理ないし危機管理体制の脆弱性を指摘している、当のメディア自身が情報管理ないし危機管理に対し、いたって無自覚であることを示していると思うのです。「うちだけ規制したって、どうせもう止められないじゃないか」という話が出てきそうですが、そこにこそ既成メディアの見識が問われている、つまり他所がいくら垂れ流ししようが、うちはその情報元が違法であることを以って、いっさい流しません、というくらいの姿勢のメディアが、せめて一つくらいあっても好いのではないか? 私はこの一点だけで、今の既成メディアに今の政権の脆弱性をあげつらう資格はないと思いますね。何となく違法に出てきた流出映像に「それ見たか」式の、タカをくくった舐めたところがあるのではないですか。それはそのまま自身の存在意義が毀損されているということですよ。 まして、これをめぐる政治家諸氏たちの発言、むしろ野党であり、かつビデオ公開を要求していた政治家たちこそ、このような違法行為をまず非難すべきです。政府への非難より先にそれがあってしかるべき、仮にも言論で世を糺していこうというのが政治家でしょう。民主主義という国家の大本が汚されているのですよ。 この国の根幹的な仕組みについて、本来もっとも敏感であるべき議員さんたちは、いったい何を考えているのでしょう。自分たちの存在意義が、そのもっとも根幹的な部分で、威迫され舐められている、ということの自覚がない。 ましてこの行為を「よくやった!」式の言説で擁護するような人たち(私の知るところでは、石原都知事と佐々淳行氏)、まるで今回の事件が違法行為であっても、「憂国の情に駆られた至純な理由」がある、というのでは、「五・一五事件」や「二・二六事件」を起こした若手将校を、擁護した戦前の政治家・軍人たちと同様のマインドとしか言いようがありません。おそらくこの人たちは戦後民主主義を、本心では信じていないのでしょう。一人は確か「内閣安全保障室長」にもなった人ですよ。 仮に同じような違法映像が、彼らの意に染まぬ側から流れたとして、彼らはどう反応するのでしょうか?今ここで違法行為を擁護したことによって、彼らはそうした予測される不法行為に対して、取り締まる資格を自ら失うことになるのです。 私がはじめに感じたやりきれない思い、というのは以上のようなことでした。皆さんはどう思われているでしょうか? もしこのビデオ流出を、誠に覚悟の上でやったというのであれば(今時点で内部犯行説が有力のようですが、それにしてもふざけたハンドルネームですね)、まずもって堂々と顔を出しなさい、ということになるし、それによって今後予想される日本の政治外交の危機に対して、本人がどのような責任感を持って臨んでいるのか、私たちはそれを質す権利を有するし、またそうしなければならないでしょう。仮にも「万死を以ってお詫びする」式の、志士気取りふうに、自ら口を封じるようなやり口だけは許してはなりません。 あとを引き受けるのは「私たち」であって、他の誰でもないのですから。― つづく ―
2010.11.06
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相手を自分と「等価の存在として相対する」ということの意味するところは、相手の考え方だの知性だの体力といった価値判断はとりあえず差し置いて、何をさておき、その存在自体は自分と同等のレベルで認める(側眼でたんに眺めている、という意味ではないですよ)というということです。 ところが実際の社会では、企業でも軍隊でも集団の秩序というのは、厳密に上下の力関係で成り立っているわけで、さらにはまた、誰が実質的な力をその集団組織で持っているかを、瞬時に嗅ぎ分けられる能力が、こうした娑婆の世界を生きていくうえでの、必須ツールになっているようなところがある(なのですよ)。 つまりヒトというのは(ひょっとすると、哺乳類という生き物全般は)、すぐれて他者との関係を(力の)上下で判断する能力でもって、これまた特異的に地球に生存してきた存在なのかもしれず(爬虫類や魚・微生物たちには、上下関係という力学はなさそうですね)、こうした完全にイーブンな関係という在りかたは、ヒトとして生まれついた振るまいかたと反するがゆえに、相当意識しないと保持されないのかもしれません。まあ、それが多少歴史的文脈において世界各地域で、その現れかたにさまざま差異が生じるとしても。 西欧社会が、いち早くその社会を構成する成員について、「平等、博愛」の観念を持ち得たのは、たぶん人間社会から懸絶して世界を通貫しているCatholicの伝統が、それ以前からずうっと存在したからでしょう。であるからこそ、人は神の前では、すべからく(価値観抜きで、とりあえず)平等な存在としてまずそこに在り、逆に人間同士が作り出す国家や組織は、それが人間社会だけを水平に横断する秩序であるがゆえに、かりそめのもの(書き換え可能、可変的)である、と考えることが出来たのではないか?彼らは娑婆の世界で秩序関係を維持している個人と、神の御前で個別に垂直に晒されている個人(それって何?)を、別個に考えることが出来るらしいのです。 東アジア全般(?)では人間社会を超越した絶対的存在(つまり、一神教的絶対神ということですが)は、歴史的に存在しなかったので、表向き近代主義的な「人間は、みな平等」をたてまえとする日本でも、実際的な日常の振るまいにおいては、娑婆の世界でも常に上下意識(という力関係)の判断が、ごく無意識に先行して働いているのではないか?(好い悪いは別として、これは動物の秩序感覚に近いのかも!?まあこれはヨタ話ですが。しかし、私は色濃く仏教思想に刻印されて来た人間なので、動物とヒトとの懸隔は認めません)。 そのことでふたたび考えざるを得ないのが、山本七平さんが指摘した、例の捕虜収容所での日本人と西欧人の振るまいかたの違いということで ― 米英人たちは虜囚生活が長くなるとなれば、たちまち自治組織を構成して、収容所という制限された世界でも秩序を指向するのに対し、日本人捕虜の世界というのは自ら秩序を構成するというマインドがそもそもなくて、暴力組織が実質的に収容所を治める ― (いわゆる戦争報道について 25.) その理由として私は ― 欧米社会とは無秩序=暴力=民族廃滅という感覚が、歴史的経験としてイヤほどあったということでしょう。日本には厳密な意味でのジェノサイド(集団殺戮)の経験は歴史的にないので、かえって秩序維持に暴力及びそれを背景にした威迫行為がわりあい無反省に顔を出す ― (同上)のではないかと、簡単に概括してしまったのですが、やっぱりその淵源するところは、もっとはるかに深い。 人同士の関係をはるかに凌駕する絶対者というものを想定しないと、その当の人同士が形成している集団自体が根こそぎ抹殺されてしまう。そういう歴史を現に経験し、またそれに耐えうるマインドを持ち得た集団だけが、今に生き残ったのだとすれば、唯一絶対神の登場もまた、この歴史的文脈のなかで考えなければならないもののようです。 私たち日本人がもっとも感覚的に捉えにくい絶対的超越神とは、いかなる文脈でこの世に登場して来たのでしょうか?― つづく ―
2010.11.05
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「臣民」である日本国民を恐怖し、であるからこそ、まさしくそれを(必死になって)占領しようとした、とはどういう意味でしょうか? 「国民主権国家」における「国民」という概念には、怖ろしく危うい要素があると思うのです。早い話、フランス革命直後のフランスというのは、ブルボン王朝が長年形成してきた、いわば「フランス文明」とも言うべき普遍的概念を、その文物・人材・思想まで含めて一切合財根絶やしにしようとしたもので、「国民意識」を形成していく過程には、多かれ少なかれこのような根底的文明的な危うさが伴なうものでした。明治政府も昭和軍閥も、あるいはひょっとして敗戦後の施政者をはじめとする知的エリートたちも、こうした「目覚めた」国民というのをずうっと忌避してきたのではないか? 「相手を、自分たちと等身大に位置づける」目線というのは、我が身の外部に対する姿勢の改変(上のものは下へ、下のものは上へ)をともなわずして、おこない得ません(特に統治側は、自意識の下降的な局面と対峙しなければなりません)。日本の統治機関やマスコミ・言論を形成してきた人たちは、自分たちの隣に坐っている一般の生活人(農民やサラリーマン、商売人や職人、ばくち打ちやヤクザも含めて)が、自分たちも含んだ等価の存在であるとは、表向きのポーズは別として、たぶん一度たりと考えたことがなかったのでしょう。 そうした目線がずうっと内心にあるから、裁判員の人品骨相にまで立ち入って、その個別的な判断の優劣をあげつらう、という退屈な議論が繰り返されます。少なくとも毎回の裁判員へのインタビューを聞いているかぎり、露骨ではないにしても、そういう気配がして仕方がない。裁判員はまるで神のごとき聖人君子であらねばならない、という訓戒を(偉そうに)垂れているように聞える。そんなこと言われた日に、誰がこれを引き受けようと思います?(意味不明の世論をバックにしているつもりのマスコミ・言論界の)意に添わぬ判決を出した、さらにその後のインタビューの答え方が(意味不明の世論をバックにしているつもりのマスコミ・言論界の)意に染まなかった場合、たちまちそのインタビューは裁判員に対する「(総括という)人民裁判」になり得る。 「裁判員裁判」制度とは、そういう意味で現在のマスコミ・言論界の立ち位置(姿勢)に対して、始終ヤスリをかけ続ける制度であり得るのです。ハッキリ言えば、自らの立場を一般の生活人(農民やサラリーマン、商売人や職人、ばくち打ちやヤクザも含めて)と、等価の位置まで(「国民目線」というような、こけおどしの擬態でなく)押し下げることが出来るか?という意味です。 たとえ、はた目どんな愚かな判決であっても、最悪仮に誤審であっても、それを我が身と等価の代表(代人、代理、名代、身代わり)が「引き受けたこと」、つまり我が身の一部が為したという視点が根底になければ、たぶんこういう制度は成り立たないでしょう。あとで誤審が明らかになったとき、その裁決をした裁判員とどう対峙するのですか?あるいは被害者遺族が、被告を極刑にしなかった裁判員を非難した場合、マスコミ・言論界はそれにどう応答するのですか? どういう裁判員がどういう考えで、この判断を下したか?ではなく、肝心なのは我らの仲間(国民)の下した結果を、そのあと「我々(国民)は、どう引き受けるのか?」ということなのです。 「死刑判決」の是非論も、そういう目線で議論すべき事柄だと思いますが、このたびのインタビューを聞くかぎり、各裁判員の皆さんは聖人君子のような口を利くことを余儀なくされている。これは各人に有形無形のとてつもないプレッシャーが、かかっていることを示しているので、何度も言いますが、これでは誰もする人がいなくなりますよ。仮に制度が残ったとしても、それは裁判長他の専門家の指揮下に入って、例によってカタチだけのものとなるでしょう。 極論ですが、「被告の顔が気に入らなかった」とか、「私はもともと死刑制度に反対ですから」でも好いじゃないですか(極論ですよ)、自身が本当にそう思っていることであるのなら。裃を着たような受け答えよりはよほどマシで、この人たちの「日本国民としての役回り」は、「本件については、ここまでです(ご苦労さんでした!)、後は我々がやること(引き受けたこと)だから、安心してお引取り下さい」、という発想は、この国では望むべくもないのでしょうか?― つづく ―
2010.11.04
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自身の「ねじれ」状態を糺さないまま言論を弄すると、どういうことになるか?ここ最近の話題で言えば、例えば「裁判員裁判」での「死刑判決」の是非論争。「裁判員裁判」そのものの考え方とか意義にかんする、マスコミ・言論界の言説がはなはだ不明瞭で、奥歯に物の挟まったようなものの言いかたが多い、と思うのは私だけでしょうか。 法曹界は自分たち専門家集団だけの議論では、今どきの世に馴染まないから各界で議論してくれ、と言わばボールを投げているのですが、それを受けて一般に向けて説明解説すべきマスコミ・言論界は、実際に示されている制度的な末節ばかり書き立てて、いちばん肝心なこの「裁判員制度という考えかた」そのものについての論説が無さすぎる。その結果、先日の「死刑判決」が出るか出ないか、といった報道姿勢。その後の裁判員へのインタビューも含めて、まことに報道側の観点の意識レベルが低い。このままでは誰も裁判員を引き受けなくなってしまいますよ。 裁判員制度だから、より正しい判決が期待できるとか、間違っているとか、判決の結果だけ見て、それをあげつらうばかりの議論には何の意味もない。神ならぬ人間(生き物)とは、専門家もそうでない人も本来的に誤りを犯す存在ですから、下した判決の結果を見て裁判員制度が好いとか悪いとか、その是非論を言うのはおかしい。要は「人(という同じ生き物)を、人が裁く」ということを、(上から目線の、埒外の)専門家集団ではなく、日本人である成員すべての属性に含めるかどうか、ということが本質的な論点なのでしょう。 平たく言えば、これは日本国民の三大義務(教育・勤労・納税)に准じる制度と考えるかどうか、という「国のかたち」の問題だと思うのです。司法界が浮世離れした判断をするから、といったような下世話な話ではなくて、国家の成員である「日本人」であることの規定に、「司法(人を裁くこと)」への参与も含めるか否か、ということです。 ちなみに旧帝国憲法の三大義務とは「兵役・教育・納税」でありました。これは紛れもなく「“臣民”の義務」としての規定であって、“国民”という概念はここから先もない。 敗戦後に起こった日本における「人間」であること、という「国のかたち」の概念規定の大転換について、ずうっとマスコミ・言論界は我が身の問題として捉えるということをしてこなかった(あるいは意識してneglectした)。虚脱している国民に対して「上から目線」で、「新しい日本はこうなりました。国民はこうであるべきです」というような訓戒めいた論説は掲げても、だから「我が身はこういう考え方で間違っていて、こういうミスリードを犯した。それらを自ら糺し、以後こういう立場で言説します」というような、厳しい検証と表明がまずあってしかるべしだったのですが、この人たちのマインド(立ち位置、自己規定)は、六十年経った今も寸毫も変わっていないように思える。 これは何もマスコミ・言論界だけのマインドではないでしょう。表向きの制度的な清算は、軍部の解体や憲法の改訂その他で、カタをつけたようにしておきながら、大部分の施政者あるいは行政府、さらには知的エリートの抱いていた「人間観」は、そのまま敗戦後も何ら改変する必然性を感じなかったのではないか? 占領軍が日本人を信用しなかったのは、ある意味当然としても、日本の知的エリートには戦前の軍部に限らず、臣民であった日本国民の根深いマインドを恐怖し、それを出来るだけいじらないようにした。それは同時に自身の由って立つ思想的な「ねじれ」も封殺し、結果的に戦前と同じ強固な官僚組織を、表向きの制度を変更しただけで、ずうっと温存したのではなったか?― つづく ―
2010.11.03
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私はもちろん政治経済の専門家ではないので、上のような(アホな)シミュレーションを、いつまでもあれこれ続けるつもりはありません。一種のケーススタディとしても、たぶん冗談でも、こんなことを考えることは誰もしないでしょう。 おそらくほとんどのマスコミ・言論人、そして今この日本に住まう普通の人々も含めて、「そんな仮想の話は、いくらしても無意味でしょう。現実はアメリカに占領されて、民主主義を選んだ(選ばされた)のだから、無いこと(起こらなかったこと)をあれこれ言ってもしょうがない。今ここにある“現実”から出発しましょうや」というのが、たぶんもっとも穏やかな反応で、大半の皆さんはつまらぬ世迷言としてneglect(無視)されるのではないか? 普通の生活者は別としても、今、世を牛耳っているマスコミ・言論界というのは、正しく戦後民主主義の恩恵を一身に受けて、この六十年の間に作りあげた巨大な既得権益に、わざわざヤスリをかけるようなことは絶対しない。なぜなら、この人たちの言う「今ここにある“現実”」とは、自ら勝ち取ったものではなく、まさしく天(アメリカという)から舞い降りて来たものであり、自らが戦前保持していた(だろう)思想理念とか、それと戦後世界の態様との整合性、及び戦前の自らが行使した振るまいが、日本国をミスリードした中味とそのスケールにかんして、とことん批判検討し、自力で「今ある“現在”」を築いたという実感を誰も持っていないからです。 政府軍部のプロパガンダとして、場合によっては政府統治機関以上に国民を煽り、さらには国論を暴走させたことについては、敗戦直後は頭が真っ白だったでしょうから、しかたがなかったのかもしれませんが、以後一貫して、自らが犯した失敗についてはいっさい口を拭ったまま、今ある組織や言論の自由は所与のものだと思っている(あるいは思わせている)。 たまに検証記事・報道なるものが、言い分けのように載ることがありますが、今あるマスコミ・言論界が、戦前戦後の我が組織が通過した歴史的事象の不突合を、真正面から見つめることをようしない以上、表面上の民主化だの庶民の味方だのといった素振りは、意識されない「上から目線」的報道姿勢で、たちまちその隠れた立ち位置を暴露する。かつての「百人切り報道」がそうでしたし、今また「尖閣諸島問題」でも、社運にかかわるような穿った報道は、新聞テレビともいっさいしません(そのあたりは注意深く、報道内容が取捨選択、あるいは自主規制されているのです)。 要はその報道(言論)内容について、何となく腰が引けた(誰に対して?)というか、全面的に責任を取るという姿勢がないし、片やで妙に世論の自制を促すような「上から目線」的姿勢が顔を出す。中国で実際に起こっていることと、それに対する国内での抗議行動、さらにそれらに対する両政府の姿勢について、まず正確に自分たちでつかみ得た事実を報道し、その事実から自分たちの見解を明らかにし、その結果を読者の批判に委ねる、という報道の本来あるべきマインドとはとても思えません。 本来、報道(言論)する側とその受け取り手は対等で、知り得た情報には当然専門家としてのアドバンスがあり、その分析評価もまたその筋のプロ?であるはずなのですが、いったんパブリシティーに載せた時点で、その中味の評価はニュートラルであるべきです。ところが、どうも様子を見ていると、一連の報道(言論)機関は自身が知り得た情報、及びかなり正確であろう手持ちの分析評価を、どうもキチンと開示していないような気がする。 妙にバイアスのかかった、意味不明ないし不条理な記事(言説)になっていて、読み手(視聴者)ははなはだ腑に落ちない、反対するにせよ賛成するにせよ、これではどうにも判断できない、宙ぶらりんのまことに腹膨れる状態に置かれることになります。 ここには明らかに、日本のマスコミ・言論界に戦前から、ずうっと通底し検証されていないマインドが流れているので、何度も言いますが、それらはすべて敗戦直後に示した(示さなかった)振るまいから始まっただろうと思うのです。それは何も「深く懺悔せよ!」と、時代錯誤的な自己批判みたいなことを求めているのではありません(そんな手法が何の効力も発揮しないことを、敗戦後、我々は退屈なくらい何度も見て来ています)。 実際にあったこと(あったと思われること)、それに対して自身が思ったこと(思ってやったこと)だけを正確に開示しなさい、ということを求めているのです。断っておきますが、これはヘタな懺悔より、あるいは切腹よりはるかにシンドイ作業になりますよ。一言でいえば、我が身を斬る、あるいは身内の名誉を傷つける(こともあり得る)、ということですから。― つづく ―
2010.11.02
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これまた、私はほぼ確信をもって想像できるのですが、ほとんどのマスコミ・知識人は共産主義化した日本を追認し、場合によっては礼賛しただろうということです。何も彼らがもともと根生いの左翼であったから、ということではありません。早い話、それらのマスコミ・知識人は、ついこのあいだまで「鬼畜米英」を叫んでいたわけで、実際の歴史で敗戦後その人たちが、手のひらを返したように「親米民主主義礼賛」に走った過程と、その振るまいかたの根底をなす精神構造は、鏡に映したようにまったく同じだっただろうと思うからです。 したがって、敗戦後の政治過程もまた、実際の戦後民主主義の鏡像関係として、(なんと!GHQならぬ)ソビエトの指令を受けた左翼政権が戦後を牛耳っていくわけで、これまた表向きの共産独裁体制とは似て非なる、きわめて日本的な官僚主導の独裁政治が、やはり六十年ほど続くことになったのでしょう。 そのかん現実の親米政権下の日本よりは、過酷な言論統制や人権弾圧、さらには経済的収奪が発生しただろうとはいえ、それは戦前の翼賛体制に慣らされた日本人にとっては、それほど受け入れがたい事態ではなかったはずです。あるいはひょっとすると、現実に招来した戦後民主主義体制より、臣民たる日本人の精神構造の継続性という点では、むしろ違和感が少なく感じられたかもしれない。 「バカな!」と言われるかもしれませんが、知的レベルが高いと思っている、あるいは知的教育を受けた人ほど、今に到るも、現実のこの日本にずうっと伏流している知的欺瞞性(護憲派=反米左翼、改憲派=親米民族派?という奇妙な思想的「ねじれ)」を、このように露呈さすことはなかったかもしれないのです。 そんな仮定の上での日本など、きわめて窮屈極まりない社会で、この上なく不幸な国であったろうと、したり顔に決め付けるのは、今ある日本が何もかも自由であると、何一つ現実を疑うことをしない、目の前にある現在だけを前提にして、ものを推断する思考パターンに嵌まっているに過ぎません。つまり何も疑問を抱かない(所与のものである)、という思考態度そのものが、その時点で一つの視野狭窄、つまり不自由な思考態度であることを示してはいないか? だから現実の世界を「次数を上げた」別次元から見るという意味で、このような(アホみたいな)シミュレーションでも、やはり思考訓練と思ってやってみてはどうですか、と言うのです。 しかし、これをすすめて行くと、今どき世を賑わしている大半の言論人というか、知性をもって任じている人(マスコミ)のほとんどが、かなり怪しい?というか、同じような語法でものを語れているかどうか、大きく疑いが出てくるでしょう。 おそらく戦前からの左翼思想家は(それが反体制派という一点で)、クレムリンからの指示で粛清されるとしても、翼賛体制と軍隊が看板をすり替えただけで、そのまま日本に継続しているかぎり、今ある日本の言論風土とはかなり違った風景になったのではないか、という気がします。さてその場合、目下たいそう元気な言論人たちは、戦前生まれの人も戦後育ちの人も、どのような行動を取っただろうと、毎日テレビを拝見しながら、想像してしまうのです。 私の最悪の想像は、彼らは同じようにたいそう元気に、しかし中味は今とは真逆の事柄を、大いに叫びまくっているのではないか、という恐怖です。黙して語らず、というのならまだしも。 こんな話は、どうせ誰にもまともにはしてもらえないでしょうから、ついでに言ってしまいますと、そうして仮想の日本の言論を牛耳ってきた思想家・マスコミ界の人たちは、現実には起こったソヴィエト崩壊にどう対処しただろう、というのが最後に残されたシミュレーションです。 今現実の日本社会が、自由主義陣営の栄枯盛衰を受けて、第二の敗戦を二十年以上引きずっているように、仮想の日本もまた元祖の崩壊で途方に暮れているのか?その場合、現実に進行している今の日本の敗戦と、何が同じで、何が違って現れてくると予想されるか?なかんずく言論・マスコミ界はどう振るまうと予想されるか?ということなのですが。― つづく ―
2010.11.01
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