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ドラマか?ドキュメントか? このフィナーレで、一体どれぐらいの人が、この一ヶ月間に造形された「糸子的在りよう」に共感し、かつてと同じように糸子と泣き、笑い、俗な言い方をすれば、「元気を受取る」ことが出来たのでしょう。むしろ「ヘコむ」場合のほうが、多かったのじゃないか。 本来、走馬灯のように蘇るべき、糸子の「疾走し続けた、だんじり人生」が、何一つ映像として浮かび上がって来ないのです。まさしく現代の岸和田の風景と、虚構の糸子像が結びつくべき鍵シーンが、バラけたまま放置状態で散乱している。私たちが、この半年間「舞い上がって」来た中味は、一体なんだったのだろう?と、唖然とするばかり。私のように、はなはだひねくれた「構え」で観て来た御仁は別として、もっと素直に「入れ込んで」、このドラマに「生きる糧」とまでは言わないまでも、「毎日の活力」を見出していた人たちで、そういう思いを抱いた方々は、案外多いんじゃないかしらん? まして、そうした「活力」を緊急に必要とする人たちが、去年から今年にかけて、具体的に数多くいらっしゃったわけです。 それに、あえて「泥を」とまでは言いませんが、「冷水」を浴びせ続けた製作陣の構えには、今だに釈然としない気分が残ります。 口の悪い友人に言わせれば(私じゃ、ないですよ)、「それは、きっと東京局に気を使って、わざとクオリティを落したんやろ」ということになる。 「大阪局かて、結局のところNHKの職員やないか。いずれ東京本社に移動になった時のこと、考えてんやろ」と、まあこれは何ぼ何でもねえ(しかし、大組織がいざとなれば、得てして顧客よりは内輪の事情を優先して、事柄を勝手に斟酌するということは、最近のどこぞの電力会社を見ていても、よくあることなのかもしれません)。 とはいえ、これ以上罵詈雑言を並べることは、私の人品骨相に関わることになる(もうすでに、そうなってる?)ので、もう少し中味に即して、なぜこうなってしまったのか、考えてみたいのです。せっかく、以前からあたためて来た、ここでのおしゃべりの括りも全面的に放擲して、自分なりに気分の決着を付けておかないと、全般的な総括などとても話す気になれません。 一つ挙げるとするなら、やはり華々しい実在の成功者の、当の「成功」の部分をドラマ的に描くことは難しい、ということがあるかもしれない。 前に脚本の渡辺あやさんが、コシノ三姉妹から異口同音に言われたこととして、「お母チャンが、本当に花開いたのは晩年からだった」という話に触れましたが、考えてみれば、七十三歳で自分のブランドを立ち上げたり、九十歳を越えても好奇心に溢れておられたといった話は、テレビその他ですでによく知られたエピソードで、別に目新しい話題ではない。事実としての成功物語とドラマ的な面白味は、必ずしも一致しないのです。 なぜそうなるのか?については、これまた話が長くなるのですが、要は「成功」が予定調和的に周知された事柄である場合、ドラマ的なワクワク感は逆に遠ざかってしまう、といったところでしょうか。であるなら、それらは虚構で煽るよりは、ドキュメントにしたほうが、たぶんずうっと盛り上がるのです(アーカイブスで、確か「小篠綾子さんの人生」とかいうスペシャルをやっていたでしょう。あっちのほうが面白い)。 実際のところ、この一ヶ月のエピソードは、おそらくほとんど実際にあった事例を、そのままなぞって行った感じで、ドラマ的なひねりとしては、もともとそうした目的で造り付けられていた、奈津と周防の娘の話だけだったのでした。で、その唯一と言っていいドラマ的な邂逅のシーンが、結局はなはだ微温的な、あるいは通俗的な決着の仕方になってしまったのは、実在の綾子さんの事蹟が輝き過ぎて、虚構の糸子像が霞んでしまった結果なのです。 このあたり、渡辺あやさんは、「老いと死」という極めて今日的なテーマを、さらに重ねることによって、新たな物語を企図されたようですが、いかんせん、実在した綾子さんの晩年のヴァイタルな生き様が、ドラマの結構を根底から押し潰してしまった、ということなのかもしれませんね。― つづく ―
2012.03.31
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バタフライ・エフェクト 「ほなら、どないせえ、ちゅうねん!」と、またまた噛み付かれそうです。しかし、しゃべっている本人が、いささか隘路に嵌り込んでいるので、この話はこれ以上深入りしないことにしましょう。問題の中味が一部でも明らかになれば、それでとりあえずは、いったん棚に上げることが出来る。あとはまた別の機会に、適宜そこから話し出せば良い、ということになります。 しかし、問題は「もっと大きなことが、あるでしょっ!」ということなのでしょう。そうなのです。こうして小難しい話をしながら、もっと肝心な問題が、この新シリーズで起きているのかもしれない、と思わざるを得ないということなのでしょう(とまた、ちゃぶ台をひっくり返す)。これまでにもこのドラマには、明らかなトーンの変化というのが、いくつか観られたとはいえ、作り手側の「構えかた」に、根本的な変化があったとは思えない。 しかし、この新シリーズになってからは、たんに主役交代で雰囲気がすっかり変わった、というのでは済まされない問題が起きているような気がする。その一端については前に少し触れました。今回はかなり穿って話しようと思っているのですが、それがネガな中身に陥らないように、気を使いながら話するという段取りになります。 回を重ねるごとに、ますますハッキリして来たのが、伏線とか演出とかの工夫が感じられなくなって来ているということなのです。先週の「病院での長回し」を始めとして、目を被うばかりの不出来が頻出している。あえて言うなら、無気力とは言わないまでも、何やら消化試合をこなしているだけじゃないか、という疑いさえ抱いてしまうわけです。 前に渡辺あやさんの名科白、鍵場面が「上滑り」していると言いましたが、その主たる原因は役者ではなく、演出や作り込みの貧寒さから来ている、ということなのでした。先の「病院での長回し」だって、それをより効果ならしめるのに、その前後にもっと工夫を凝らせば、もう少し「終末期医療と救い」という今日的テーマについて、観る側に様々な感慨を抱かせることが出来たかもしれないのに、すべて二人の役者の熱演に丸投げ。まったくの孤立無援状態では、役者も引き立ちようがないというものでしょう。 それ以外でも、やたらと多い糸子の「長口舌」。今まで彼女の人物像というのは、もっぱらアクションで描かれていて、それに適宜短い彼女自身のコメントが入る、という形で進行して来たのでした。このドラマの命である「疾走感」というのは、観ている側の予想を先回りして、短いショットで次々とエピソードを重ねて行く、というところから産み出されていたと思うのですが、今週になって一回分に盛り込まれたエピソードは、正確にその都度一つだけなのです。まあ今更、新しいエピソードを重ねて、ドラマをかき混ぜようにも、もう間に合わないということかもしれませんが。 で、それと連動していると思うのですが、不思議なくらいかつて観られた、気の利いた「笑い」のシチュエーションが、きれいに消えてしまっているのです。「笑いの力」が物語に活力を生み、その後先の「鍵場面」を引き立てていたことは、前にも触れました。深刻な場面に素直に「入る」ことが出来ないのと同様に、腹の底から「笑える」という場面も無くなってしまいました。 これでは、工夫された「名科白」が、冗長に「上滑り」するのも致し方がない。まさしくお決まりの手軽な「朝ドラ」演出と言って好いのではないか? 私が夏木マリさんの起用に、ドラマの不出来の因をすべてを帰するのに、ためらいを感じるのは、上のような理由からなのでした。「発語」に「異和」が生じるのは、始めから分っていたこと。彼女を起用した唯一の理由は、ひらたく言えば「前向きな、老いと死」を演じることが出来る人とみた、その一点だけでしょう。であるなら、発語のハンデをカバーして、なお晩年のそうした糸子像を「明示」させる力は、卓越した演出の切れ味にかかって来るのではないか。まさかその全般に漂っている「冗長さ」こそが、「老い」という現実なのさ、なんていうわけではなかったでしょう。 私は思いのほかアウェーの「孤立無援状態」で、当惑しながら糸子を演じている夏木さんが、気の毒でしょうがないというか、製作陣に対して「憤り」さえ感じてしまうという、まことに情けない気分に陥ってしまいます。 と、結局また、思いクソこき下ろしてしまいましたが、さてこの地点から、私たちはどうやって、「面白味」を見出して行けば好いのでしょうか?弱ったなあ。― つづく ―
2012.03.30
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The Last Itoko 糸子像について出来るかぎり多様な声を響かせること、それが「糸子的在りよう」をより高みに引き上げ、「普遍的な世界性を有する人格」をもたらすことになるということであったなら、その方向性は決して間違っていない。ただし、仮にもそんなに高い「志」(私見ですよ)を掲げれば、その達成にはとてつもない困難が生じる、という話なのでした。 それはむしろ作り手側が、小原糸子という自らが創り出した、とても魅力的な人物像をリスペクトするあまり、逆に虚構の人物に呪縛される、という「偶像化」現象に繋がったのかもしれない。「偶像」は「普遍性」を持ち得ないのです。 話は少し変わりますが、アメリカ映画に描かれる日本人像、かつてのキツネ目メガネ、ガニ股の図像で表象されたような、蔑視・嘲弄的なそれではなく、かなりマジメに取り組んだ(あるいは美しい誤解から生まれた)ような映画であっても、例えば「ラストサムライ」のように、どうしようもない「異和」を感じてしまうでしょう。 で、その「異和」の根源は何かというと、結局それは渡辺謙演じるところの、西郷隆盛をオマージュしたような殿様が「流暢な英語をしゃべっている」、というところに行き着くのではないか?発語が英語に変わるとき、殿様の表情や身ぶりまで「異和」が生じてしまうのです。これは何も渡辺さんの演技の話ではなくて、英語で「Yes」と発語するとき、私たちは「はい」とは別の表情をそこに看止める、というレベルの話です。 それって別人格が招来している兆候と言っていいのではないか?英語で「発語」を始めたとき、私たちは別の「文化を背景とした、言語体系に組み込まれて」、思考回路も身体の動作も多かれ少なかれ、知らずそれに「規制されている」ということなのです。 同じようなことが、もうすっかり古い映画ですが、「戦場に架ける橋」の早川雪舟演じる日本人将校に、もっと露わになっていましたね。彼はあたかも「シェークスピアの主人公のように」よくしゃべる。米英の将校たちとまるっきり対等な会話を交しているのですが、私たちはそうした形で英米人と対している日本人を、現実には今だかつて見たことがないのです(居丈高に轟然と振るまうか、卑屈な笑みを浮かべるか)。D・リーンという監督、さすが英国演劇の伝統を引く人なのか、「アラビアのロレンス」においてもアラブのベドウィンの族長たちに、似たようなことをさせている。ネイティヴでなければ絶対有り得ないような、流暢な会話を彼らにやらせることによって、リーンの壮大な映画は成り立っているのです。 つまり、明らかにこれは英国人の「語法」によって、発語された「物語」なのでしょう。 私たちは異民族、異国民同士の会話だと、あまり気付かなかった「異和」を、自身のネイティヴの会話とか表情と、「異国語」を否応なく対比させられるとき、たちまちそこに明らかな「違い」を敏感に検知するのです。 しれみれば、これまで山のように描かれて来たハリウッド製先住民やアフリカ系、ヒスパニックやアラブ人、その他白人以外のエスニックのイメージというのも、すべからく壮大な白色の「幻想」で観せられていた、ということなのでしょうか?(私がC・イーストウッドの最近の映画を評価するのは、例えば「グラントリノ」に描かれたモン族の人々、イーストウッドのほうから「理解」しようとするのではなく、言わば「放置状態」で描いている。プア・ホワイトやブラックがそうであるように、モン族にも好い奴も悪い奴もいる、というような。まあこれは別の話ですが) と、話をいかにも大げさにしてしまいましたが、要はナツキ糸子の紡ぎ出す「糸子像」が、真摯に演じられれば演じられるほど、逆にどうしようもない「異和」を生じてしまう。で、その根源を追い詰めて行くのに、例えば上のような次第で、仮に「泉州弁」を一種の外国語として眺めてみれば、不用意な「普遍化」というのが、どのような危うい狭隘を進む作業であるか、何やら見えて来ません? 同じ日本語、多少の「異和」はあっても、「そこまで考えなくても、いいじゃん(意味は通じるのだから)」と言われそうですが、通じてるつもり分っているつもりでいたのが、「泉州弁」という「発語」体系を持ち込んだ途端に、その「異和」ゆえにこの交代騒ぎになるのだとしたら、我々が分っているつもりの中味というのは、はなはだ「危うい信憑」に基づいていることになる。 で、「危うい信憑」であるぶん、その「異和」に関しては、ことさらに神経質な反発を繰り返す、という仕儀と相成るのでしょう。「どうせ、岸和田(日本)のことは、岸和田(日本)の人間にしか、分からへん」みたいな。 つまり「普遍性」への道は、「程遠い」ということになってしまいます。 何だか、話が重くなってしまいましたね。― つづく ―
2012.03.29
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ナツキ糸子、ということ で、目下私の興味の中心は、「女性語」だの「泉州語」だのといった、わけの分からない命名で、右往左往している「発語」のことなのです。平たく言えば、それらをすでに「既知の日本語」と、一括りにしてしまうのではなく、それぞれを一種の「外国語」として捉え直したらどうなるか?というようなことなのでした。 私たちがナツキ糸子に、どうしようもなく感じてしまう「異和」というものが、どういう仕方で立ち上がって来るのかを、そういう視点にまで戻して観てみれば、多少は「面白味」のある話が出来るのではないか、ということなのです。 世間(ということは、NETの感想欄のことですが、今日など新聞にも批判めいた記事が出ていましたね)では、ナツキ糸子に対する怨嗟の声が溢れていますが、時にそれが極めてエスニックな狭量主義に陥っている、としか思えない書き込み(ほとんどが、そうです)になっている。話をエスニックな「排除の論理」ではじめたら、そこからは何らポジな話題は展開出来ません。 私はじつは、二週目以降の夏木マリさんの糸子については、かなり評価しているのです。ただたんに「泉州弁」を何とかこなしている、といった努力あるいは熱演ぶりに感心したといったことではなく、夏木さんの身体から発せられる「コトバ」として、伝わるものが確かにある、ということなのです。 「そんなこと、ないやろ。尾野真千子さんが最終週にかけて醸し出していた、糸子像のえも言われぬ『貫禄』とか『空気感』なんて、ナツキ糸子からは、ここから先も感じられへんで」といった声がすぐ返って来そうですが、一人の女優が作り上げた「糸子像」を、金科玉条のように押し立てて、「そのまま踏襲しろ」というのは、酷というものです。 目指すところが、小篠綾子さんではなく、オノマチ糸子でもない、「虚構」である小原糸子だけに相対して、夏木さん自身の身体で造形して行く、ということであれば、それはそれで姿勢としては間違っていない。観ている側が困るのは、演技者の役への対し方が、綾子さんになったり、オノマチ糸子になったりとブレる時でしょう。残念ながら、それは今でも若干見受けられるのですが、それについては、たんに役者だけの問題ではなく、作り手側すべてにかかって来る問題なので、全部済んでから改めて触れることにします。 といった意味で、ナツキ糸子が「身体化」したのは、第二週あたりからで、特に先週の病院編では(演出に関しては、散々批判しましたが)、総婦長や末期がん患者とのやりとりなど、大変な好演と言って好いんじゃないかしらん。確かに「糸子の声が、聞える(私だけかも、しれませんが)」のです。 ただし、それでも立ち上がる「異和」だけは、「これは、どうしようもないじゃない。入りたくても入れない。イヤなものはイヤ!」と、迫られてしまっては、私も「すいません」と言うしかないのですが、やっぱりそれではモッタイナイ。 ということで、またもやその「異和」の何たるか?を探ることになります。 しかしその話は簡単で、皆さんの感じられているとおり、その場に漂っている、どうしようもない「空気感の違い」といったものに他ならない。これは「泉州弁」の上手い下手ではなく、演技上の問題でもない。要は夏木さんが糸子を身体化すればするほど、「異和」がむしろ前景化するというパラドックスがあるのだと思う。平たく言えば、ナツキ糸子が咆えれば咆えるほど、泉州の肝っ玉お母チャンではなく、江戸っ子のキップの好いおっ母ァが顔を出す、という仕儀になるのです。弱ってしまいますね。 これを解消しようとすれば、一部書き込みにもあったようですが、夏木さんではなく三林京子さんだったなら、相当緩和されただろうという話に当然なって来ますね。貫禄も演技の実力も充分、そして泉州の空気感も過不足なく出し切られたに違いない。ではなぜあえてそうしなかったのか(一応ここでは、様々な「大人の事情」は閑却するとして)?ということについては、前に「普遍化と平準化」というところでだいぶ話しました。 製作側はあえて関西の役者でなく、関東の人を選ぶことで、「より普遍化された糸子像」を狙ったのだろうということです。で、それが大変な困難を、抱え込むことになるということも、これまた前に言いましたが、その卑近な例が上に見たようなパラドックスなのでしょう。― つづく ―
2012.03.28
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どう「問い」を、立てて行くのか? 私がここ最近、あまりに内田!内田!と騒ぐので、友人からは私に対する揶揄を込めて、「あいつの本は日本語やのうて、『ウチダ語』で書かれてるんやで」と忠告されてしまいました。なるほど素の日本語のつもりで読むと、煙に捲かれた感じがしないでもないのですが、似たような「夢に、富したる心地」のする本には、例えば養老孟司さんのが、それに類するのかもしれません。こういう語法を駆使する人たちが、時々日本にはいるらしいのです。 まるっきり話が通じないというのではなく、確かに簡明な「日本語」で書かれているにもかかわらず、読んでいるうちに「いったいこの人は、何が言いたいんやろ」という疑念がムクムクと沸いてきて、気の短い人なら途中で読むのを止めてしまうかもしれない。一言で云えば、自分たちが予期したことに、この人たちは「何一つ、答えてくれない」。問題のトバ口には、ありとあらゆる手練手管で連れて行ってくれるけれども、「答は、勝手に自分で見つけよ」、あるいはひょっとして、そういう仕方で答えを求めるかぎり、「そんなもの、どこにもないよ(どうも、こっちのほうが、より近い気がする)」と言っているかのようです。 共通するのは、それでも「問い続けよ」、あるいは「もっと違う仕方で、問うてみたらいかが?」というメタ・メッセージがあるということだけでしょうか? さて、ではこのところの「カーネーション」は、どうなっているのか?どういう問い方をすれば、いかほどかでも「楽しくて、前向きになれる」おしゃべりが出来るのか、頭を捻っているのです。どういう問い方をするにせよ、その行く末がネガのほうに流されて行くのなら、そんな話は止めたほうが好い。 と、そんなことを考えてみるにつけ、司馬遼太郎という人の語っていた言葉というのが、いかに「選択された語法」でなされていたか、ということを改めて思わされるのです。人や出来事を語ろうとするとき、そこからポジの中味だけを、「嫌味なく」取り出して明示するということが、いかに刻苦を要請するものであったか。 「それは司馬さん生来の、ポジな性格からじゃないの」と言われてしまいそうですが、私にはとてもそうは思えない。戦争と国家の敗北を目の当たりにした一戦車隊長が、戦後社会を一意的にポジなものとして捉え、礼賛したとはとても考えられないし、亡くなる直前に「今、日本は第二の敗戦を経験しつつある」とおっしゃっていたのは、有名な話です(東日本大震災を経験した今になって、再び「第二の敗戦」という言葉が飛び交っていますが、彼はバブル崩壊直後の「住専問題」に絡めて、こう断じたのです)。 彼が「すっかりダメになった昭和日本」が、かつては確かにダメでなかった時代というのを、もっぱら幕末維新に求めたのには様々意見があるし、であるからこそ、「坂の上の雲」を今の日本人が取り上げるのには、相当慎重な態度が要りますよ、というのは以前に話したことがあります。「明治の人は偉かった」式の、間違ったメッセージをナイーヴに受取る輩が、今だにいるからです(それを意識してか、先般のテレビドラマは、はなはだ「腰の座らない」出来映えでしたね)。 幕末維新も明治の時代も、その時代を生きた人々の「現実」というのは、今とまさしく一緒で「常に先の見えない、この世」を、自分はどう生きていくのか?ということだけを「模索し続ける(問いを立て続ける)」存在であった、ということなのでしょう。江戸時代は封建社会で、明治は「富国強兵」で、庶民は常に搾取され続けていたなどという、結果から事を後で裁断する「超歴史的な視点」に立つかぎり、「先の見えない、この世」を生きている「現実の人間の在りよう」というのは、決して見えて来ません。 もうそろそろ、司馬さんとは違う語法で、平成の世を嫌味なくポジに語れる仕方、というのを考える時期が来ているのではないか?それは何も司馬遼太郎の評価を下げる、ということにはならないと思う。この人の残した膨大な作品群を、平成の世の私たちは「どう読むことが出来るのか?」。たぶん、そういう問いかたをしてみる時代が来ていると思うのです。 さて「カーネーション」は、もちろんそこまで過大な期待を背負って、この世に出て来たのではないのですが、ある意味、そうした「新しい問い方」のトバ口を、与えてくれたかもしれないドラマなのです。私がワイのワイのしゃべり続けて来たのには、そうした理由があったのでした。「タカが、朝ドラ」と言うなかれ、問いの立てかたによっては、どれぐらい広々とした「視界」に立たせてくれるのか、はなはだ不遜な「オレ様」流で試してみたかったのです。 何度も云うように、定点観測のように岸和田のオハラ洋装店に絞ることによって、「先の見えない現実」と如何に対面し、なおかつ「それでも、前に進んで行ったのか?」。それを厳密に糸子目線に焦点化することによって、リアルに浮かび上がらせる。だからこそ、時にハナにつく振るまいや失敗や蹉跌があっても、観ている私たちは「まさしく、そうかもしれない。生きていくとは『問い直し』の連続だ」と、腑に落とすことが出来たのでしょう。― つづく ―
2012.03.27
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発語する力 気を取り直して、話題を「女性語」の話に戻します。 私が申し上げたいのは、此間のような意味で日本語が便利だからと言って、気軽に男女の間を「相互乗り入れ」するよりは、ある程度そういった「言葉使いによる作用動向」みたいなものを意識したうえで、ドラマとか本に接したほうが、もっと「豊かな視界」が開けるのではなかろうか、ということがあったからなのでした。 そもそも、こんな話をあれこれして来たのは、いつぞや糸子と女性起業家たちとの会話の中で、「男は何であんなに、しがらみ背負ってんやろな」という言葉が記憶に残っていたからでした。「ウチら、そんなもん最初から、何にもあらへんから、シュッと行けるのになあ」というのは、まったくそのとおりで、現実にタテヨコの組織に絡め取られた(と思っている)男より、女性のほうが仕事実務においては、はるかに軽快に見える。 日本社会において女性が、虐げられているとか、不当な扱いを受けているというのは、雇用と待遇レベルの話であって、実際の仕事の現場では、女性のほうがはるかに実権を握っている、というような景況は結構多いんじゃないか? で、これを社会構築的な議論だけで、済ませてしまって良いものかどうか?ひょっとすると、その底には日本語の持つ、「女性」性に優性化された言語体系が、日本人の思考回路や感性の作用動向にまで無意識に働いているのではないか、という話をしたかったからです(それがすべてだ、と言っているわけじゃないですよ)。 例の総婦長さんを見てください。物事を考えたり表明するとき、いかなる「しがらみ」も感じてないし、院長や事務長はては糸子に対しても、何の気後れも感じていないのです(大事なことは、だからといって彼らをバカにしてはいないし、糸子に対してはある種のリスペクトを抱いている、ということなのでしょう)。これはたんに総婦長としてのプロ意識がそうさせているのではない。仮にこれが男だと想定して御覧なさい。とてもこういうふうな「取り付くシマのない決然とした、ものの云い方」は出来ないでしょう。院長には(いずれ処遇を気にして)おべっかを使い、糸子には「表向き敬しておいて、内心軽蔑する」という態度を取るのではないか? 糸子のドスは基本的に「男=オス」向けなので、まさしく「女性語」の体系で待ち構えている総婦長には、あまり効き目がないみたいですね。 対称的なのが、院長でしょう。肝心なときに「現場から姿を隠す人」というのは、間違いなく男=オスに多い(私のかつての職場にも、確かにおりました)。で、これまた、そうしたヤバイ事柄に対する「嗅覚」に関しては、驚くほどに鋭いセンサーが働いて、決して我が身に類が及ばないように「身を処している」。これが言わば、もっとも卑近な意味での「政治感覚」であるとするなら、確かにこの院長はいわゆる「勝ち組」に入る人なのでしょう。 以下、話がドラマからちょっと離れます。 それは同時に「日本語を話す・書く」ということは、それを使って発語しようとしている自分が、どういう文化様態でしゃべり、考えようとしているのか?という「問い」を立てる継起を含んでいるのかもしれない、ということなのです。 で、それは「英語(仏語、中国語他)を話す・書く」とは、どういう文化様態を自分が選択しようとしているのか、を意識するトバ口でも有り得る。「英語教育と国語教育の、どっちが大事?」といった、早手回しのプラグマティックな議論ではなく、「言語」そのものの持つ機能や様態から議論を始めて、「国語力(母語力)」ではなく、次数を一次上げた「言語力」といった地点にまで立ち戻って、子どもに何を教えるのか?を考えたほうが、有益なのではないかしらん。 また暴論と言われそうですが、キチッと論理的な話が出来、なおかつ感性やウィットに富んだ話の出来る人は、必ずしも外国語に堪能である必要はない、というのが私の考えです。まるっきりなくても好い、という話ではありません。何を最優先にすべきなのか?という話なのです。 人の魅力というのはたんなる「語学力」ではなく、その背景にある総合的な発語能力としての「言語力」によって生み出されるのであって、そうした力は、たぶん「コトバが通じなくても」分かる人には分かる。 糸子を見て御覧なさい。彼女は英語が話せなくても、外国人に充分魅力的に映るはずです。言葉の意味が通じる前に、一瞬早く届く「何ものか」というのは、語学力以前の問題なのでしょう。どうしても、もっと彼女を知りたいと思った外国人は、きっと日本語(この場合は、泉州語)を知りたいと思うに違いない。 語学教育というのは、そういう視点まで次元を上げて、考えたほうが良いのじゃないかしらん。と、またかなり余計なことを考えてしまいました。― つづく ―
2012.03.26
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拡張された身体 「おまえは、ホンマに捻じ曲がった感性の持ち主やな!」と、皆さんにはサジを投げられてしまいそうです。あるいは実際そうなっていて、我ながら歳を重ねるごと(糸子の渋面のように)、ますますその偏屈な傾向が強まっているのかもしれず、そろそろ「カーネー」に関するおしゃべりも、「お開き」にしたほうが好いのかもしれませんね。 しかし、いったん偉そうに旗を賑々しく、振り上げて言揚げした以上、最後までしゃべり切ってしまわないと、何となく「業腹」であるし、せっかくお付き合いして来ていただいた皆さんにも、腑に落ちないところが残るでしょう。かと言って、何でもかんでも「クサして」オダをあげるというのも、はなはだ大人気ない仕儀ではあるし、だいいち何でも「物事を、楽しむ」というこのブログの趣旨にも反する。 というわけで、このブログのクオリティ(?)を下げずに、なおかつ今現在の「カーネー」を最後まで、楽しんでしゃべり続ける方法を探しあぐねるという仕儀と相成るのです。 前に、「挑戦的なテーマを提示しようとすれば、それこそ完全に『尾野さんと綾子さんの影を、払拭しないといけない』」というような話しをしましたが、お膳立てとしては、それまでの登場人物を三姉妹以外すべて払拭し、年代も一気に十二年飛ばして、「まったく新たな物語を作る」という気構えは、制作スタッフにも充分あったのでしょう。 で、これは私見ですが、先週あたりから「それなり」に楽しめるクオリティに、成りつつあるような気がしていて、そろそろナツキ糸子の物語も、テーマ的には今日的ではあるし、しゃべろうかな、と思っていたのでした。しかし作り手側に、どこかでボタンの掛け違いというか、いわゆる「高度なレベルでの意思統一」という部面において、何らかの齟齬が生じたのかもしれない。 逆にいうと、それまでの五ヶ月ほどの間(厳密に言うと、十一月の後半以降)、維持された作り手側の「意思統一」というのが、めったとない奇跡的なレベルで生じた事況であるということが、後になって分かったということであったかもしれない。これは「なでしこジャパン」がワールドカップで現出させた、「しなやかな紗幕のように、拡張された身体」といった事況と同様の世界であったと思うのです。 じつは「なでしこ」においても、それが厳密にピッチ上に現れたのは、決勝の後半以降九十分足らずだったと、私は思っています。澤さんの意志がピッチ上に拡がって、各選手が独立した個体で考え動いていながら、全体が一つの大きな身体(意思)のように動くというのは、どのようなプロセスで現れて来たのだろう、ということについては、先の「久しぶりのジャパンブルー」で長々と話しました。 ことほどさように、こうした事況というのは、まことに微妙なバランスの上で維持されているので、いったん掛け違えが起こると、元に戻すということは絶対に出来ない。時間は戻せないのです。 であるとするなら、成し得る選択肢は一つしかない。今あるカードで、まったく「新たな物語世界を創る」という覚悟で、前に一歩を踏み出すということだけなのです。「後ろを見るな、前だけ向いて行こ」。 これってしかし、実際の娑婆世界でも時々あるのですよね。私の拙い営業経験でも、一ヶ月の目標を三日程で叩き出せてしまう、というような瞬間というのが、組織集団で動いている時でも、何年に一回かは起こることがあるものです。かと言って、それを毎回当てにしたって(それではギャンブルです)、もちろん出来るわけがないので、渋々退屈な日常に戻るしかない。しかしそうした経験を知っておくというのは、案外人間には必要なのかもしれませんよ。同じことは起こりっこないけれど、似たような事柄が「起こるかもしれない」という予感は、新たな事況であっても何となく「嗅ぎ取る」ことが出来るからです。 情けないのは、すでに撮影はすべて終わっているということでしょう。我々は口を開けて(呆けたように)、それを待ち受けるしかない、ということなのですから。 あ~あ!― つづく ―
2012.03.25
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言葉力 と、話を続けようと思っていたのですが、先日来気になっていた吉沢加奈子役の中村優子さん、NETで調べてみたら、何とまたまた河瀬直美監督の秘蔵っ子のような女優さんで、オノマチ同様実力のわりにあまり知られてない、と同時にその相似的な存在感に衝撃を受けてしまう、ということに相成ります。 何やらここには、河瀬―渡辺―オノマチに連なる共通した、強固な「新しい感性の女のライン」が引かれているような気がする、と思うのは私だけでしょうか?いわば女からの「表現者」として、気脈を通じた新しい世代の一群がいて、既成の役者世界を脅かしながら、群がり出て来たというような。 とはいえ、それと今現在の「カーネーション」の出来映えを、一緒にしてしまうわけにはいかないのです。新シリーズになってからも、渡辺あやさんらしい「名科白」「鍵場面」は、いくつも観止められるのですが、私に言わせると、ちょっと厳しいかもしれませんが、言葉が「上滑り」しているような気がして仕方がない。 より端的な言いかたをするなら、まさしく昨日今日の場面に現れた、「通俗的な長回し」はいったい何なんだ?と思ってしまう。これでは、いわゆる普通の「朝ドラ」の域を一歩も出ていない、と感じてしまうわけです。私は普通の出来映えのドラマなどもとより観ないし、ましてそれについて、長々おしゃべりしようなどという気は少しも起こりません。 このドラマで、どないしても「老いと死」とか「終末期医療」とか「孤独死」といった、平成の今日的課題を糸子的在りようで見て行こうという「志」は、前から言うようにとても立派ですが、それをごく通俗的な手法で表現されたのでは、私など「たまらない」のです。 と、こき下ろしているのは、同じ鍵場面でも、例えば前の「家族会議」のシーンでは、役者の演技を冷徹に見据える演出とカメラがあって、それが事に際して「身柄を差し出す」という糸子的在りようを、隈なく表現し得ていたと思うのですが、ベタな長回しで見せられると、何やら感涙を「強要」されているようで、私はこういうのはアカンのです(すいません)。いわば役者の名演技にのっかかって、脚本も演出も一体化して「興奮している」、これは前にも言ったかもしれませんが、従来の日本の映画とかドラマではよくある現象なのです(スタッフ一同、これだけ頑張ったんだから、感動せよ!みたいな)。 これをやられると、先ほど挙げた肝心の厳粛なテーマも「上滑り」し始めて、とても「衣装が奇跡を起す」という鍵場面に「共感し、感情移入する」というわけにはいかない、ということに私などはなってしまうのです。役者さんの熱演(ナツキ糸子も総婦長さんも加奈子さんも、素晴らしいですよ)が浮いてしまって、メインテーマがアクセサリーのような軽さになっているのです。 しかし「死」とか「老い」は、そうした形で取り扱える筋のものじゃないでしょう(「戦争と罪障感」がそうであったように)。 と、ずいぶん辛口の話を、コーフンしてしゃべってしまいました。昨日今日の場面に感動されている方々は多いと思うので、何やら大いに水を指してしまいましたね。すいません!― つづく ―
2012.03.24
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女性言語 「どうせお前は、何が何でも話を男女論のカテゴリーに、追い込んでしまいたいんだろう」と言われてしまいそうです(まあほとんど、そうかもしれません)。 しかしそういう視点を、あえて持ち込むことによって、新たに見えてくる「物語世界」があるかもしれない。ここでの際限のないおしゃべりの目的は、ほとんどそのために費やされている、と思っていただいて結構です。 さて、またまた例の内田さんの本によれば、「ジェンダー論者にかかると、この世のありとあらゆる社会制度、文化、言語といった仕組みは、すべて男性優位に歴史的に構築されていて、女性はそれらを一意的に糾弾する権利がある(ないし糾弾し続けなければならない)、ということになる」といった話があって、「しかし、そうした糾弾的な在りようこそが、『男性』性の身ぶりそのものではないか?」というようなことをおっしゃってましたが、確かに社会構築的な男性優位の仕組みに対抗するあまり、女性が「女性」性をすっかり置き忘れて来てしまった、というような社会現象が、特に「権利意識に目覚めた」先進諸国と言われる世界の国々で起こっているのかもしれません(M・サッチャーとか、G・メイアとか、H・クリントンとかね)。 現に存在する社会制度的な女性差別は、確かにあってはならないし、女性の権利が不当に毀損されるようなことも、もちろんあってはならないのですが、ここで言おうとしているのは、あくまで言語に関する話です。 西欧の言語体系は、一般に「男性優位に構造化されている」というのですが、英語やフランス語などの文法には、確かに「有性化」された言い回しがあるらしく、しかもそれが全般に「男性」性優位な体系に(少なくともジェンダー論者には)見えるらしいですね。彼女らの強調するのは、生まれながらに男性優位な言語体系に組み込まれた西欧社会では、女性は無意識の内にその思考回路、感性の在りかた自体からして、劣位の立場に追い込まれていて、「我々はそのあらゆる諸制度に異議を申し立て、新たな言語体系を構築しなければならない」というのです。 さて、ではこうしたムーヴメントが社会全般に対して、どれほどの有益性があるのかどうか、さらに云えば、長い歴史に刻印されたそれぞれの言語体系を、そのような糾弾的身ぶりで作り換えて行くという、そうした思考回路そのものが「男性優位主義」ではないか?というのが内田さんの論点であったように思うのですが、まあそのあたりは彼の本を見てみてください(かなり過激ですよ)。 こんな話をすると、たちまち「どうせお前は、コチコチの超新保守主義者だろう」というレッテルを貼られてしまいそうですが、そうではなくて、少なくとも日本語というのは、もともとまったく逆に「女性」性に強く「優性化」された言語体系ではなかったか、ということを言いたかったのでした(またまた、ちゃぶ台をひっくり返すようですが)。 私は別に言語学者ではないので、日本語にどれほど「有性化」された言語体系が潜んでいるのか、といった難しい話(そもそも、そんなものがあるのかどうか、ということも含めて)など、とても出来ませんが、少なくとも紀貫之の「男もすなる日記というものを、女もしてみむとて、するなり」という話を持ち出すまでもなく、仮名文字の運用が女から始まったということも、これまた歴史的事実でしょう。 ここで貫之は、女の使っている仮名文字の柔軟性に惹かれて、男である自身が「女を装うことによって、仮名文字を使う」という二重の身ぶりをしてみせるによって、漢文で書かれていた「公」の日記を捨て、男も仮名文字で表現出来る「私」日記のツールを手に入れようとしたのでした。 というわけで日本語というものが、そもそも極めて女性化された言語体系であるとするなら(私見ですよ)、その発語の仕方が女性にとってより使いやすい、あるいはより身体にフィットしているということもあるのかもしれない。はなはだ雑駁な論拠ですが、日本語そのものに潜む「女性」性の構造というのは、意外と日本人の思考体系とか意識構造を強く規定して来たのかもしれない、ということなのです。 貫之が案外気楽に「女に成りおおせた」ように、女性化された言語体系というのは、ややもすると他者(異物)排除的な男性語と違って、わりと「両性の相互乗り入れ状態」を、可能にしているのではないか? だから男=オスをまったく排除したドラマを作っても、「日本語の体系でなら、まったく不都合が生じない、というところがあるのかもしれない」と、まあここの部分は、かなり暴論になってしまいましたね。― つづく ―
2012.03.23
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Driving Mss Itoko 何でこんな気難しい妄想を抱いたかというと、周辺の男たちを先に、すべからく「この世から、追っ払ってしまう」という、例のこのドラマの原理的な趣向には、何やら「男の痕跡は、そこらじゅうに残っているけれども、彼らには絶対的に会うことは出来ず、何も応えてくれない」という状況を、仮想的に作ろうとしたような底意がある(暴論ですよね)、ような気がして仕方がなかったからなのですが、ここのところのドラマの進行を観ていると、「老い」というのは男だけでなく、あらゆるものを周囲から「追っ払ってしまう」事況であるという感じが、色濃く出て来ているような気もします。 糸子の「不機嫌」の根源には、こうした意のままならぬ周囲の環境の変化と、不可避的に現れて来る身体の変調があるようで、このあたりの「渋面の老人顔」となると、ナツキ糸子が何やら自然に見えて来ますね。「老いの不機嫌さ」を満面に押し出した、J・タンディーの「ドライビングMissデイジー」を思い出してしまいました。 先にも触れたように、糸子と彼女を既知の「世界に繋ぎ止める周囲」は、すでに人も物もほぼ失われ、唯一残っているのが奈津なのでした。彼女が奈津に執着するのには、これまでの「腐れ縁」だけでは済まされない、新たな事況が生じているような気もしますね。 それにしても、とまたまた蒸し返すようですが、今回の病院でのファッションショーという趣向(おそらく、実際にあったことなのでしょう)を観ていても、「カーネーション」というのは、やはり極めて「女性」性に「優性化」されたドラマである、と思わざるを得ないのです。 男=オスは自身の「装い」に「命を懸けたり、三食切り詰めても」というふうには、絶対ならないというか、感覚的にどうしても掴めないというところがある。現に応募した人たちは女性ばかりでしょう。男の病人や職員は、なぜか全面的に閑却されている。 「だから、どうしたっていうの?」と詰め寄られても、ちょっと困ってしまうのですが、まあ結論は急かずに、一応今感じたことだけを書き記しておくことにしました(やっぱり、女の人は長生きするように出来ている、とかね)。 渡辺あやさんのインタヴュー記事によれば、コシノ三姉妹が異口同音に口を揃えるのが、「お母ちゃんは、老いてから本当に華開いた」という話で、脚本家としてはどうしても、ここを取り上げたいということだったようです。この脚本家の言語は何度も言うように、厳密に「女性語」で仕組まれていて、逆に言うと、みだりに「男性語の世界に、踏み込まない」という原則を守っておられるのですが、糸子自身は何やら「女性語の世界」から、次第にはみ出して行っているような所がある。 女性の側から、不用意に「男性語の世界」に踏み込むと、宝塚風の妙な「汗の臭わない男」が出来上がってしまう(失礼!)し、またまた「源氏物語」の話になりますが、かの紫式部といえども、男の描像というのは後になればなるほど、つまり表現が円熟すればするほど、逆に実在感が薄れて行くのです。光源氏や息子の夕霧、あるいはライバルの頭の中将などは、男の生理がまだ感じられるのですが、柏木とか特に「宇治十帖」に出て来る匂宮とか薫というのは、ハッキリ言って男=オスという、たんなる「記号」としてしか作動していない。 「女性語」で男性を語ることの難しさが、ここには露呈していると私は思っています(まあ、この話は別)。 ここでハッキリ言えることは、綾子さんを糸子という「仮想」の姿を借りて、最後まで追い続けるかぎり、知らず「男性語」の世界に迷い込む、という恐れはないということなのです。 運転を間違えないかぎり、糸子は「女性語」のままで、男性語の世界をも語ることが出来るかもしれない。上手いこと考えたなあ。― つづく ―
2012.03.22
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退縮する宇宙 昨日の「奈津の姿を観ることによって、喚起される過去の映像を『共有』しているのは、観ている『私たちと糸子と奈津だけなのだ』」という話を、もう少し深堀りします。今目の前にいる奈津のしぐさ、眼差し、語る言葉によって、彼女とそれに付随した過去の記憶を、ありありと想起出来るのは、今や糸子と我々だけで、現在出ている他の登場人物たちは、すでに(三姉妹も含めて)誰もそれに参加出来ない。 糸子と奈津がこの世を去ると同時に、ドラマ的にはその記憶は「消え去る=展開を閉じる」のです。私が安易な回想シーンは自制したほうが好い、とクドクド云っているのは、記憶とか映像というのは、そのようにして「想起され、消えて行く」ものなのだ、ということが言いたかったからなのでした。デジカメよろしく、いつでもどこでも誰でも取り出し可能な、万人に共有された記憶というものは、実はこの世には存在しないのです。 であるがゆえに、今現在の奈津の立ち居姿をじっくり見届け、その画面自体から浮かび上がって来る、この二人の人生とか時間の経過とかを、確かにしかと受け止めてみたい、ということなのでした。 何だかいやにロマンティックになってますね。 閑話休題 今の話とはたぶん関係がないと思うのですが、少し話を変えます。 例の内田樹さんの「レヴィナスと愛の現象学」(文春文庫)という本を読んでいて、ユダヤの宇宙創生神話について不思議な説があるのを知りました(ちなみにこの本は、E・レヴィナスというユダヤの超難解な哲学者の考え方を、内田流にダイナミックに詠みあげた不思議な本なのですが、よくこんなのを文庫にしたと思いますよ)。 ここで取り上げるのは、もちろん私の手に余るこの本の中味の話ではなくて、要は「この世は、かつて神の身体だった宇宙が、神自身が縮むことによって生じた間隙を、埋めるようにして出来た」という、中世ユダヤのラビたちが唱えたらしい「宇宙創生神話説」のことなのです。このはなはだ意味不明というか、我々の理解の外にある考え方は、どないしても感覚的にも捉まえようがないでしょう。 ところが「カーネーション」を観ながら、この創世神話説とは、案外素朴な生活実感から生まれて来たのではないか?というはなはだ無明な想念が、以前よぎった事があったのです。じつはこの話、善作の死の直後にUPしようかと思っていたのですが、何しろ例の「父性」性の話と並んで、荒唐無稽になりかねない中味なので、そのままにしておいたのでした。 いかにも機会を失した感はあるのですが、ここで掲げておくことにします。先般の話同様、スルーしてもらって結構ですよ。 「神が退縮した世界」とは、どういう事況を指すのか?要は、かつて確かに居たはずの神が、あるとき忽然と姿を消してしまった。しかし、それははるか異次元世界へ立ち去ってしまったということではなくて、確かに居た証拠があるにもかかわらず、神という実体だけがそっくり姿を消してしまったのが、この世界であるということでしょう。 これをユダヤのラビたちは、「母性原理」で捉えようとしているらしいのですが、その理路は私にはちょっと難しくてよく分かりません。 そこで考えたことというのが、これって、ひょっとすると、例えば突然肉親を失った家族の心理と似ているのではないか?ということなのです。 肉親の生活の痕は家中にありありと残っているにもかかわらず、肝心の本人は確実にこの世から「姿を消している」。本人の息遣いや手触り感は、机にも布団にも食器にもそこらじゅうに残っているのに、本人の「姿だけは、絶対的に見ることが出来ない」。ふいに「ただいま」と外から帰って来そうなのに、本人は確実にどこかへ行ったまま「永遠に帰って来ない」。 こういう事況を遺族が理解するのに、ある時ユダヤ人は、死者は別世界へ行ってしまったのではなく、「退縮した姿で、やはりこの世に在る(かもしれない)」と考えたのかもしれない。「退縮した」とは、限りなく縮んでしまって、我々はその姿を決して見ることは出来ず、呼びかけにも応えてくれないけれども、それでも確かに死者はこの世にいる(はず)としか思えない、というような理解の仕方で、ということです。 それは例えば「セミの抜け殻を、内側から覗く」ような感覚であったかもしれない。空蝉(うつせみ)の襞々(ひだひだ)には、かつて「確かにそこにいた」はずのセミの跡が、ありありと残っているじゃないですか? ちょっとかなりユニークな死の捉え方かもしれないけれども、例えば日本では、死んだ人を弔うのに初七日とか四十九日とか、突然の喪失を遺族が納得できるように、緩やかに段階を踏んで死者をあの世に送り出す、という独特な生活習俗があるわけです。してみれば、世界には上のような考え方をする人たちも、あるいはいたのかもしれない(私見ですよ)。 で、そうした死と死者への考え方を生活習慣としていた人たちが、破局的な民族離散とか滅亡というような事態を、歴史的に何度も経験せざるを得なかったとき、自分たちの崇める神は太古のある時期に、忽然と「退縮し、姿を消した」、というような理解の仕方をすることもあったのではないか、ということなのです。 神の痕跡はそこらじゅうに「鳴り響くように」残っているけれども、神そのものは絶対的に「見ることは出来ず」、決してこちらからの呼びかけにも「応えることをしない」、それでも「確かにここに、我々と共に在る」という仕方で、です。 やっぱり、かなり気難しい話になってしまいましたね!― つづく ―
2012.03.21
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最後の切り札 昨日からの話には、多少ネタバレ的な部分が含まれるかもしれないということを、この週末にまとめて素で楽しみたい、と思っていらっしゃる方々には、あらかじめお断りしておかなければなりません。これまで原則として話の中味を先週放映までの分に、出来るだけ絞るようにして来たのですが、ご覧のとおりの景況で「同時中継」せざるを得ない感じになっています。 先週までの放映分にしても、何がしかのメッセージ性をそに見止めて、いろいろ話も出来るのかもしれず、また現にかなりニュアンスを込めた、渡辺さんらしい科白も散見されたのですが、いかんせん、それで観る側の想像力が刺激されるということはない(この気持、分かるでしょう)。 逆に言うと、奈津が出て来たというだけで、たちまち我々は「ああでもない、こうでもない」と、いちどきに想像力を強く刺激されるでしょう。それはもちろん江波さんの物凄い存在感だけが、そうさせているのではないのです。はなはだ微温的な幕引きで終わった前回の奈津の結末が、今ここで登場することによって再び劇的な様相をこのドラマに与える。 で、それは同時に新シリーズになってから、何やら実在のコシノ一家の年代記を辿るだけのような単調さになっていたこのドラマが、一挙に以前の「糸子物語」の生気に溢れた展開になることも期待させる、そういう意味合いがあると思うのです。 で、そうであるためには、昨日も触れましたが、ヘタな回想シーンは無いほうが好い。今現在の糸子と奈津の「対決」であるのが望ましいと言っていたら、早くもフラッシュバックが使われている。またまた舌打ちしたくなりましたが、まあ取り合えずはガマンすることにして、なぜそんなことにこだわるのか、についてお話ししたいのです。 一言で云えば、我々は老残の奈津を一目見ただけで、彼女のこれまで点綴されていた過去を「一挙に想起する」ことが出来るわけでしょう。で、それは同時にその描像に、当然分ちがたく付着している糸子やその周辺の人々、風景やニオイといったものまで、同時に呼び起こす「喚起力」があるのです。想起される中味は観る人それぞれに違いはあっても、その方向はおおむね指し示されることになる。 そこで知らないうちに、我々が気付かされるというのは、今の奈津の姿を観ることによって、喚起される過去の映像を「共有」しているのは、観ている「私たちと糸子と奈津だけなのだ」ということなのです。その映像に同時的に付着している玉枝も八重子も勘助も善作も、その風景とともにすべて「失われている」ということ。 糸子の過去現在とこのドラマ全体を括る構図が、今現在の奈津の姿によって、いわば一挙に一つの大きな「Vision」として、私たちの前に一繋がりに顕現するという仕掛けになっている。残された最後の切り札としては(私は、たぶんもう使わないだろう、と思っていました)、最高の勝負手になるのかもしれません(分かりませんが!)。 私がフラッシュバックは、安易に使わないほうがいいですよ、というのは、それを用いることによって、逆に上のような自由な「想像力の羽ばたき」が、なぜか制限されてしまう、ということがあり得るからなのです。何度も云いますが、使っては絶対いけないということではなくて、観る側の想像力をより刺激するような効果が見止められるのであれば話はまったく別で、大いに使いましょうということになるのですが、はたしてどうなのかなあ。 と、これまた、偉そうな物言いになってしまいましたが、現在の老残の奈津には、それぐらいの喚起力があると思う。というか、そもそもこのドラマ制作の過程で、新たな架空の人物を挿入したのには、そうした役割があったはずなのです。 あと残り二週間足らず、どういう展開をさせるのか、切り札はすべて使った、指し手はあと数回、ホンマに上手く着地出来るのかいな?あんがい胴体着陸なんてね!すいません。― つづく ―
2012.03.20
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「何や?」 このところ、人生幸朗さん並みに「責任者出て来い!」とまでは言わないけれど、ボヤいてばかりで我ながら情けないことになったと思っていたのですが、今日になって奈津が登場して来たので、もう一度背を起して観てみようか?と思案しています。 このドラマが完結した時点で、イッチョ最初に文句を付けようと思っていたのが、この奈津の取り扱いのことなのでした。製作陣はそのあたりを見越して、またしても我々を先回りしているようです。奈津と糸子のかなりユニークな関係性というのを、桜井との結婚というはなはだ甘いハッピーエンドで括ってしまったのでは、あまりにももったいない!という感慨を抱いたのは私だけではないでしょう。 人生の高低や辛酸を、あるいは糸子以上に文字どおり「舐め尽した」老残の奈津は、その立ち居姿だけですでに「劇的」ですね。私はこういう気位だけが高々として、簡単には他人を寄せ付けない感じの人物像が好きですね。 「そりゃあ、自分の好みでしょ!」と、言われてしまいそうですが、要はこういう人というのは、必然的に「ドラマ」を生み出してしまう、というところがあるでしょう。気位が高々としているぶん、それが粉々に崩れる時の昇華作用もまた大きくなる、ということなのです。 「要はあんた、女がいじめられるのを観るのが、好きなんやろ!」と、これまた難詰されそうですが、先に触れたような「恋多き女性」の事況と同じく、男=オスにとって「理屈では、どうにも理解し難い」女性方の振るまいについて、ある程度「想像的に触れる」ことが出来る、というのはありがたいことではあるのです(なんちゃって)。 まあ、冗談はさておくとして、まだ奈津の話は始まったばかり。この先どのように決着させるのか想像もつきませんが、望むべくは昔のシーンのフラッシュバックではなく、今の糸子と奈津の「対決」が観たい。かつて料理屋の座敷で、糸子と刺し違えのような対決シーンを繰り広げた彼女、お互い老残の姿で、どのような「対決」をするのか楽しみだなあ。江波杏子さんの存在感が、ナツキ糸子を蘇らせるということも、あるのかしらん。 と、またまた過大な期待を抱かせる、今日この頃でした。 それにしても思いません?このドラマの原理主義的徹底ぶり。女たちの物語はすべて決着させて行くのに、男たちの物語は、ほぼ全面的に語られないまま「放擲」されているのです。「意趣返し」とは言いませんが、どない考えても、これは「意図的に、企まれている」。 そのあたりを探るよすがに、なるのかどうか分かりませんが、「カーネーション」の公式ホームページに、やっと渡辺あやさんのインタビューが出ていましたね。脚本家の立ち位置というのが、どのようなものであるのか?わりと率直に語っておられて、なかなか面白い。先に善作という父親像について、分からなくて小林薫さんに「丸投げ」したという話を、別のところで見た記憶があったのですが、そのあたりも触れらていて、これはオススメです。 畏るべく才能ある脚本家というのが、どのようにして作劇の想像力を羽ばたかせて行くのか、別にネタバレ的な要素はないですから、皆さんもぜひご覧になっては?― つづく ―
2012.03.19
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百千の心 昨日掲げた例文は、山岸徳平さん校注の岩波文庫版「源氏物語」を、私が「面白がり」で自由訳したもので、()内は文意がよく分かるように勝手に適宜挿入しました。興味のある方は原文もご覧になってください(句点は、文庫版と照合してあります)。 さてここのくだり、筆つきがいかにも柔らかくて、それぞれの会話が各人の性格を表わし、しかもそれが次の振るまいや事件に自然につながっていて、こうした語り口は、この前に置かれたいささか重厚な(つまり固くて、ほとんどの読者が、ここで撃退される)「桐壺」の巻には見られなかったものです。 前日の「雨夜の品定め」で、近侍の男たちから「中の品(中流階級)の女が面白い」、という話を聞いて俄然新しい世界に目覚めた光源氏が、最初に手をつけたのがこの空蝉で、弱冠まだ十七、八歳だったと思いますが、その帝の子としての傲岸不遜ぶりが顕わでしょう。 対する空蝉が確か二十三、四歳でしたか、これがたんなる中の品の妻ではなくて、世が世なら宮廷に伺候するかもしれなかったほどの教養があって、内心受領身分の老夫に不満を持っているらしい。とはいえ、高貴な身である事を以って強引に関係を迫る源氏に対しては、それが(中の品の妻である)我が身の情けなさを、いたぶる行為であって「許せない」。で、その鬱屈は弟の小君に対して、ぶつけられるのです。 小君はと言えば、元服前の十歳前後ですが、姉と源氏の間を右往左往しながらも、それなりに子ども心で一生懸命考えている。 それにしても、女をいたぶり子どもをからかう光源氏は「何という男!」というのが、ここのくだりの「オチ」だと思うのですが、ことさらに深刻ぶるわけでもなく、滑稽味まで出している筆致は傑作だと思いますよ。 こういう柔らかい語り口は、それまでの例えば「伊勢物語」や「竹取物語」といった古物語に見られなかったものです。言わば紫式部の「話し上手の才能」がいかんなく発揮された個所で、それは一言でいうと、話が「三人の絡み」で進められているということだと思うのです。 一般に古物語の進行というのは、一人ないし二人のあいだで行われることが多く、展開に乏しくて単調になりがちなのですが、彼女はどこで霊感を得たのでしょうか、三人目を登場させると話がすこぶる面白くなる、つまり読み手を飽きさせないということに、いつの頃からか気づいていたようです。 この場合の三人目(小君)というのは、たんに狂言回しのような話の進行役ということではなくて、それ自身が思惑を秘めた独立した人物であることによって、平板であった物語の進行がすこぶる立体的に展開する。立体的とは話をより活き活きと進行させるというこで、それはたんに話上手というに止まらず、その内容に社会性を持たらす基点になったとも言えるでしょう。「竹取物語」が一見大勢の人物が次々登場しているように見えながら、じつは取っ換え引っ換え求婚者が現れるという、二人称の関係で進行をしているというのとは、基本的に物語の構造が異なっているのです。 このように生きた三人目を絡めることによって、物語にあたかも現実のような臨調感を持たせられるということであれば、さらに四人目五人目を絡めていったらどうなるかとか、三人の思惑を秘めた男女(つまり「三角関係」)を話の基本に据えて進行させればどうなって行くだろう、といった発想がきっと自然に沸いて来たに違いない。 となると、それぞれの人物・性格にも個別に関心が向くわけで、彼女の「百千の心を持つ」と言われた多種多様な人物描像の基点には、あるいはこうした読者を逸らさない「話し上手」に秀でた才があったのではないか? それにしても一千年前の日本に、このようなしゃれた手法を思いのままに駆使した、紫式部という女性がいたということ自体が、驚きを越えてほとんど奇跡としか思えませんね。よく考えてみると、今どきのドラマや小説でも、こうした気の利いた語り口というのは、そうそうお目にかかれるものではないですよ。 このところの「カーネー」を観ていると、そうした意味での「三人目の絡み」というのがないでしょう?取っ換え引っ換え糸子を取り巻く、新しい人物たちが登場してくるけれども、単調な感じが否めないのは、それぞれの人物がドラマ的に互いに絡んで来ないからなのです。 と、結局不平を鳴らす事になってしまいました、すいません。― つづく ―
2012.03.18
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第三の人 我ながら気分がクサクサして面白くないので、何か楽しいことはないかと考えています。現在の「カーネー」はようやく話が動き出した感じで、それなりに「楽しめる」のですが、前のように「食い入る」というわけにはいかない。 残念なのは、それでも夏木さんから「糸子の声」が、時々聞こえて来ることがあるということで、となるとこれはいったい何なんだ?ということになってしまう。語られる科白の中に、確かに「糸子の魂」が入っていることがあるのです。それは間違ってもオノマチ糸子の発語ではない、「真正のナツキ糸子の肉声」として、我々に届かなければならないのですが、それが何やら間欠泉のように、タマにしか現れて来ないのですよね。 これは何も夏木さん一人が悪いのではない。脚本家も含めた製作スタッフ全員が、「引き受け」なければならない問題なのですが、あらためていろいろな意味で、「何という難しい関門」にチャレンジしたのだろう、と思ってしまいます。その中味を今話するのはしんどいし、現に進行している物語に文句を浴びせ続けるのは、「創作」している人たちに対してはなはだ礼を欠く態度なので、すべて終わってから(出来るなら)触れてみたいと思っています。 まあ、ひょっとするとこの先、「老いと死」という重いテーマが、ますます前景化してきた時に、ナツキ糸子がオオバケする可能性があるわけで、我々はそれに期待しましょう。 ところで、ドラマとか物語の面白味の一つに、私は「第三の人物」というものを考えています。物語は通常「二人の人物」のやりとりという形で、進行することが多いのですが、優れた物語には、これに「三人目の人物」を絡ませることによって、大いに立体感(社会性)を持たせるというか、ドライヴ感が増幅するということがあるのじゃないかしらん。 「何を素人が、偉そうに!」と謗られてしまいそうですが、私の拙い読書経験やドラマ体験を顧みても、往々にして思わず物語に引き込まれてしまうシチュエーションには、何やら一つのパターンがあるような気がしているのです。 「カーネー」と関係ないじゃん!と言われてしまいそうですが(現にそうかもしれないのですが)、あるいはその一つのヒントがあるかもしれない、ということで、以下にだいぶ長くなりますが、例文を掲げてみたいのです。 「源氏物語」第二巻「帚木(ははきぎ)」の帖の後半、光源氏が夫が単身赴任で留守中の受領(伊予の介)の妻、空蝉(うつせみ)をまんまとモノにした後、彼女の弟の小君(こぎみ)をたくみに言い含めて、後朝(きぬぎぬ)のあいさつの文を持たせる場面、― (小君が)「そんなこともあるのか」と、何となく分かったようで、思いの他ではあったが、(そこは)子供のこととて、たいして考えもせずに、(源氏の)御文を、(そのまま預かって)持ってきたので、女(空蝉)は、情なくて、涙もこぼれる。この子が、(あれこれ私たちのことを)想像するのは、(考えるだけでも)恥ずかしいけれど、さすがに(源氏からの)文は、顔を隠すようにして広げて(見て)いる。… 次の日、小君に(源氏から)お召しがあったので、「参上するので」と、(空蝉に)返事を催促する。 「『そんな御文は、見る人もおりません』と、ご返事しなさい」と、おっしゃるので、(小君は)微笑んで、 「(このことは)間違いないことなのだから、と(源氏の殿は)おっしゃっていたのに。どうやって、そのように(ご返事)申せますか」と言うので、(空蝉は)憂鬱そうに、「(さては源氏の君は、この前のことを)何もかも(この子に)おっしゃって、知らせておしまいになったのだわ」と思うと、悔しくてたまらない。 「そのように、マセたことは、言うもんじゃありません。わかった、それなら、(源氏の君の所へは、もう)出向かなくてよろしい」と、(おそろしく)機嫌が悪いが、 「(そんなこと言われても)参上せよと言われているのに、どうして行かないわけに(いくものか)」と思って、(小君は)参上する。… (源氏の)君は、(小君を)お呼びになって、 「昨日は、(日なが一日)待っておったぞ。やっぱり、(お前は、私が)見込んだほどのことはないのかのう」と、恨みがましくおっしゃるので、(小君は)顔を赤らめている。「(空蝉からの返事の文を)出せよ」と、おっしゃるが、「これこれで(文はございません)」と、申すので、「(あ~あ)頼りないことだな。参った」とおっしゃって、またしても御文を託される。 「お前は、知らんだろう。伊予のじいさん(空蝉の夫)より、(私は)前から(お前の姉さんとは)見知った仲なのだぞ。けれども(お前の姉さんは)、『(私のことを、若すぎて)頼りなく、当てにならないわ』と言って、とんでもない後見人を立てて、このようにも、(私を)お見捨てなさったのだ。(まあ)それでも、お前は、私の子のようにしておればよろしい。あの、頼りになるらしい主人は、(どうせ)生い先、短いのだからな」と、おっしゃるので、「そんなこともあったのか。えらいことだったのだなあ」と、(小君が)真に受けているようなのを(見て、源氏は)「面白いな」と、思われる。 ―― つづく ―
2012.03.17
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先に、姿を隠す人 こちらが掴んだと思った瞬間、目の前からフッと姿を消し去るタイプの人というのを、私は以前に何人か見たような気がするのです。映像の話ではありません、六十年も娑婆に棲息していると、様々な人と出会うものです(ホントですよ)。 事態が顕現する直前に、先回りして身を引いてしまう人。今どき「自己責任」だの「自己表明」が、所与の前提と思っている人たちにとっては、信じられないような人種なのかもしれませんが、事態が顕現して人が傷つくのを見る前に、先にすべてを「引き受けて」自らが引いてしまうという人が、実際にはいるらしいのです。 これは「勘助」的在りようというのを、先日しゃべっていて、何やらあまりにもキリスト教的受苦者のイメージを、私が抱き過ぎているのかもしれない、要は捉え方にかなり「バイアスがかかっている」んじゃないか?そもそも以前に「綾子さんが、クリスチャンだった」という話をした時に、抱いていた懸念がこういうふうに現れて来ているということにもなるわけです。 そこで、と言うわけじゃないですが、一種の解毒的な「妄想話」を以下に掲げておこうと思うのです。ドラマとは関係がないので、スルーしてもらって結構ですよ。 女性の場合なら「先に、姿を隠す」態様というのが、案外「恋愛」という事況において、結構あるのかもしれない、という話なのです。熱愛時期が過ぎて、何やらそれとは説明出来ないけれども、違った「空気感」が漂い始めた瞬間、こちらから先回りして「打ち切り」を宣言してしまう。ないし文字どおり相手の前から、物理的に先に「姿を消してしまう」というような。 大抵の男=オスは、この手のビミョーな心理の綾など理解の外なので、なぜ必然性のないケンカを売られたり、不意に相手が姿を消したりするのか、分からないまま「途方に暮れて、後に残される」という仕儀と相成ります。 私の知るかぎりでは、特に「恋多き女性」の中に、こうした人がいるような(いたような)気がするのですが、要はこの手の人にとっては、「恋が多い」とは「恋に破れる」こと、言い換えると自ら「恋を、先回りして断つ」ようにして、またぞろ新たな「恋を繰り返す」という様態を、示しているように見える。 なぜ、そういう様態をとるかと言えば、破局が現実化した場合の我が身の傷つき方を考えたなら、まだしも破局が訪れる前に「こちらから、身を引いたほうがマシ」だというような心理的経路を、この人たちは辿っているらしいのです。面白いのは(当人たちにとっては、それどころじゃないのですが)、その場合この人たちは、そうすることによって、仮に自分のほうが「理不尽」とか「無茶」とか謗られても、あえてそうした不利を「引き受けてしまう」のであって、周りから見ているかぎり「そのほうが、よっぽど損やないの」という事況であっても、そちらを選んでしまう。 今どき、ちょっと考えられないような「傷つき方」と「優しさ」の様態ですが、確かにそういう人たちもいた(と思う)。 営業の管理をしていた時に、天性のように恵まれた仕事の才を持ちながら、不意に去って行く女性営業職の人たちが、少なからずいて、これをどう抑えていくかというのは、営業所の浮沈にも拘わって来るわけです(結構、頭痛かったですよ)。で、その中には、上のようなケースもあったのでした(全部ではありません)。 こうした人たちは、感情がとても豊かで他人への気配りも申し分ないのですが、自身の傷つきやすさにもとても敏感で、さらには当然のことですが、深い「恋」の事況にも陥りやすい(六条御息所のような)。管理者としては、あらゆる兆候を見逃すまいと、躍起にならざるを得ないわけです(その詳細は、ここでは話しません)。 非常に意地の悪い見かたをするなら、自身を「先に犠牲にする」ような様態を取りながらも、結局のところ「自分が真っ先に傷つきたくない」という底意があるような、ないような、という話を昔ある人にしたら、「あなたは、女の一番イヤな部分ばかりを、見よう見ようとしている」と、一刀両断されてしまいました(なるほど)。 以上、どうでもいい話でした。― つづく ―
2012.03.16
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観戦碁 テレビでやっている囲碁には「観戦碁」という楽しみ方があって、実戦中継を観ながら、控え室でしかるべきプロ棋士が「ああでもない、こうでもない」と解説する。それをまた私たちは眺めながら、「なるほど、合点!」と(ほとんどその中味が理解出来ないにも拘らず)、色々首をひねったりするわけです。 今回のブログはそれと似て、作り手の繰り出す指し手を眺めながら、「ああだ、こうだ」と素人談義を楽しむ、そういうつもりでしゃべって来ました。 ところで、「観戦碁」の面白味は、対局者が一手打つたびに、新たに示された棋譜から今後予測される展開を、その都度作り直してみせるということで、それ以前の譜を持ち出すのは原則オミット、つまり最新の局面だけで議論する(時間は戻せない)、という了解の下に成り立っていることでしょう。 実際、江戸将軍の御前で行われた、家元四家の御城碁(おしろご)では、「待った!」した者は、その場で「切り捨てゴメン」にしてよし、という了解があったとか。一度打たれた石は、もう二度と元に戻せない。いわば「宇宙の秩序」を、これほど明晰に押し出したゲームもない。囲碁の面白味とは、この「時間性の美学」に由って立つところが大きいのです(私見ですよ)。 したがって、ドラマの現在の進行を観て、「あの時こうだったら」とか「こうすれば、よかったのに」といった、過去を改変する仕方のコメントは、厳に慎まなければならないのです(なんちゃって)! で、今現在のこのドラマの居面はどういうことなのかというと、実戦者が「妙手」を連発して、鮮やかに「中押し勝ち」を決めるべきところ、何だかそれが「凡手」に終わって、あるいはそれが「悪手」にバケるかもしれない。局面がにわかに混沌として、「シノギ合い」になるのか「ヨセ勝負」になるのか、外野席の私たちは唖然として観ている、ということじゃないでしょうか。 しかし、盤面がほとんど白黒の石で埋め尽くされたこの最終局面で、今だ形勢が混沌としていて予測がつかないということは、これはもう、どちらかの大石が「生きるか死ぬか」という仕方でしか、どうも決着しないような情勢ですね。この場合の大石とは、これまで趣向の限りを凝らしてあった「布石」でさえも、すべてムダに終わる可能性があるということです。 しかしまあ、あまり暗鬱なことは、なるべく考えないようにして、最終番の劇的な「逆転サヨナラ満塁ホームラン」を期待することにしますか。それでも打てる手は限りなく、少なくなっているような気がするけれど。 あ~あ!― つづく ―
2012.03.15
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光源氏亡きあとの「源氏物語」 さて、新シリーズになってからの「カーネーション」について、私がちっとも触れないのに、シビレを切らしていらっしゃる方々も、おられるかもしれません。 何で、二週も前の話を長々として来たのかというと、皆さんお分かりでしょう(察してください、この気持!)。 オノマチの立ち去った後の「カーネー」が、ガッカリするような事態にならないように、あたかも「言祝ぐ」ような仕方で、作り手側の回し者のような「もの言い」をずうっとして来たのですが、現状は我々が一番懼れていた方向に向っているような気がしないでもない。 その詳細について語ることは、やはりしんどいというか、基本的に「楽しい」気分になれないじゃないですか。かと言って、無理やり「面白味」を拾い集めて来るというのも、何とはなし「業腹」な感じがするし、もう少し様子を見るか、いっそ全部が終わった後で、一括してしゃべってしまおうか?とも思っています。 でもその間、何も話しないというのは、せっかくこうして久しぶりに、年甲斐もなく「舞い上がって」、楽しくしゃべられるきっかけを与えてくれた、「カーネー」のドラマスタッフの皆さんに申し訳ない気もする。そもそも「玉枝の面罵」以降、しゃべらずにいられなくなったのは、このドラマスタッフの掲げた何やら「志」のようなものが高々としていて、しかもその達成度も驚くほどのレベルであることが感じられたからです。 要は「朝ドラ」の既成概念をはるかに越えて、「映画」とか「文学」を享受するような仕方で、「話しても大丈夫そうだ」という、言わば「決め撃ち」で始めたわけでした。途中でかなりブーイングも鳴らしましたが、それはこちらが「決め撃ち」のハードルを、勝手にどんどん上げて行ったところに起因するのです。それと気付いてからは、大人気ない「外野からの文句」は差し控えて、言わばドラマに盛り込まれた「面白味」だけを、思い切り膨らませて話すことにしたのです。楽しみ方としては、そのほうが「精神衛生」上も良さそうじゃないですか。 ところが今、新シリーズが始まってみると、とんと「話すことが、出来ない」自分がいることに気付くのです。「何かを話したい」という気分というのは、まさしく「気紛れ」で、それを起動するきっかけがないと、どうしようもない。それはたぶん、新シリーズの中味の問題である以上に、それ以前のオノマチ糸子の存在があまりにも大き過ぎた、ということがあるのでしょう。 同じようなアポリア(難関)というのは、じつはこれまでも何回か、このドラマではあったのですが、その後に続く展開や描かれ方が見事過ぎて、「まあ、好いか」みたいなところがあったのです。となれば今回も、という期待もしたくなるのですが、またまたそっち方面で、観る側を「ドキドキ」させるのはいかがなものか? ところで、こうした「虚脱感」というか、巨大な空洞の開いた感じというのが、何やらどこかで「似たような感じがあったな」と考えていて思い当たったのが、光源氏亡きあとの「源氏物語」なのでした。 「若菜」以降、尋常でない高揚感を示して、グランドロマンの醍醐味を味わわせてくれる「源氏物語」ですが、主人公光源氏が「雲隠れ」したあとの数巻というのは、まさしく彼の抜けた巨大な残骸を拾い集めるような話ばかりで、出来映えとしても、文字どおり「舌打ち」したくなるほど良くない。話が落ち着いてきて、「ああ、完全に別の物語が始まったな」と思わせるのは、「橋姫」あたりからでしょう。「宇治十帖」とも呼ばれる、まことに玄妙かつ難解な長い長い物語を、紫式部が腰を据えて話し出すには、しかるべき時間が必要なのでした。 そうなのです。現在の「カーネー」は、観る側も作る側も、今だオノマチ糸子の(そして、綾子さんの)幻影に呪縛されている。 一ヶ月という期間を持ってきたのには、明らかに新たな「明示性」をこのドラマにさらに加えるという、高い「志」があったからであり、何やらそうしたテーマ性も昨日今日になって、ようやく現れ始めたかという感じがしますが、かといって、それがどれぐらいの「完成度」で示されるか、というのはこれまた別の話なのです。 経済大国に駆け上がって行った、「今は昔の日本」の糸子ではなく、どないしても「バブル崩壊と少子高齢化、そして二度の大震災」を経験しつつある、今の世の糸子を描きたい。あるいは「平成の今の世に、糸子的在りようは、果たして可能か?」というような、高い高い「志」であるならば、です。 このように挑戦的なテーマを提示しようとすれば、それこそ完全に「尾野さんと綾子さんの影を、払拭しないといけない」のですが、これが今のところ、観る側も作る側も、なかなか難しいのですよね。 あ~あ!― つづく ―
2012.03.14
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「幻視」及び「夢」 死者は、生者が日常を「棚に上げた時」にのみ、活き活きと生者の間に立ち現れる。逆にしょっちゅう出て来られては、生者は普段の生活が出来なくなってしまいます。「お盆」とか「だんじり」とか、「祭り」という特殊なシチュエーションにおいてのみ、「異界」との間に橋が架けられ、生者の世界に一時的に、「死者たちを迎え入れる」ことが出来るのです。 さて画面では、笑いの喧騒に包まれた宴席の脇に控えた千代さんの、何かを追い求める顔が大写しになる。一瞬音が消え、切り替わった画面に善作が現れたとき、私たちはそれが千代の見ている「幻視」であることを直ちに了解してしまう。そして同時に、千代さんの死が間近いことも自然に納得するのです。 それにしても、何とも美しい「老いと死」の表現でしたね。どなたかも感想欄に書いておられましたが、糸子の波乱万丈のストーリーは、千代さんと善作にとっては、彼らの純愛物語でもあったわけです。で、その純愛模様は他の多くの物語と同様、我々の想像力に「丸投げ」されている(例えば、善作から告白された時、「あ、はい~」みたいな返事をして、千代さんは善作について行ったのだろう、とか)。 こうした「幻視」のシーンは、周囲をソフトフォーカスにして焦点化するということがよくあるのですが、さすがにここのスタッフはよく心得ている。むしろ「幻視」とか「夢」とかは、現実以上に「明晰」に示されなければならない。キリコとかダリの絵を見てみてください(そう言えば、R・クロウの映画「ビューティフル・マインド」も、「幻視」にまったくCGを使いませんでしたね)。 たんに小林薫という役者の存在感が際立っていたのではなく、充分周到に考え抜かれた演出が、「幻視」という場面を盛り立てているのです。 さてさて、とはいえ一階の喧騒とは関係なく、天照大神ならぬ糸子姫は、なぜか二階に「籠もりて、おわします」。我々は心理的に、彼女を「下から仰ぎ見る」という目線に誘導されるのです。何やら近づき難い「威厳」を感じさせられつつ、二階のシーンに移るというわけでしょう。― 極楽やな、この世の。 … 言うてくれちゃった話な … ウチを東京の会社に誘てくれた話。 … 断ってええか? ― その場に立ち会うことが許されたのは北村だけなのですが、いかんせん「タヂカラヲノミコト」のようなパワーや、「アメノコヤネノミコト」のような知恵もないわけで、(姫を)階下の娑婆世界に連れ降ろすことも出来ない。― 考えたんやけどな。 … やっぱしウチの土俵は、東京ちゃう。 … ここや。 … 極楽も地獄も、この窓から、全部見て来た。ウチの宝は、全部ここにある。 ― もし、ここに周防がいたなら、(岩屋戸から)あるいは長崎にも東京にも、相当の確率で連れ去ることが出来たのかもしれませんが、今の糸子にはそうした下界に立ち混じるよりも、この二階から眺め降ろす岸和田の風景を見ているほうが、はるかに「心地が好い」のでしょう。 この述懐に対する北村の反駁は、いかにも弱々しい。東京行きを断られた時点で、彼はすでに(秘めたる求婚を)諦めたようですね。― お前、たいがい歳やど。 … お互いこの先、無くしてばっかしじゃ。お前が言うちゃあた宝かて、どうせ一個ずつ消えて行く。 … 人かて、皆死んで行くんじゃ。 … ここにいちゃあたら、一人でそれに耐えていかな、あかんねん。しんどいどォ。 … ほんなもん。 ― しかし、対する糸子の返事は、ニベもありません。― はっ!へタレが。 … ほんなもん、わからへんやろ?そもそもやな、「無くす無くす」て、何無くすねん? … ウチは無くさへん。相手が死んだだけで、何も無くさへん。 … 決めたもん勝ちや! ―― 何言うてんねん(と、北村)。 ―― へタレはへタレて泣いとれ。 … ウチは、宝抱えて、生きて行くよって。 ― 北村のチャチャにも、糸子は今や一向動ずる気配もありません。彼女は階下や窓辺に、生者とともに死者たちの魂も「上機嫌で」集っていることが、よく分かっていたのでした。死んだ者たち、つまり善作も勘助も泰蔵もハルばあさんも、はるか昔に亡くなっているわけですが、糸子の中では確かに「無くしてはいない」。 そして、それら「宝」たちとは疾走し続ける「だんじり」と、周り続ける「ミシン」のあるこの岸和田の街でこそ、いつでも相見えることが出来ることも、今や彼女はよく知っていたのでしょう。 渡辺脚本は、ここで「へタレ」という言葉に、またしても新たな意味を付加しようとしているようです。一つのコトバに、様々な意味やイメージを次々と重ねて行くというのは、優れて「詩人的な心」の持ち主であるということでしょう。 さて、このシーンは、じつは千代さんと善作の邂逅の前に描かれていたのでした。 再び二階に戻ったシーンには、すでに北村もいない。階下の喧騒を聞きながら、ミシンに触れ外界を眺めやるのは糸子だけなのです。 一人群集を離れて、遠くを眺めやる糸子には、何やら別世界の品格が漂っていて、見事なラストシーンになりましたね。― つづく ―にほんブログ村
2012.03.13
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笑う力 ところで、先々週の「オノマチ糸子」劇場の終幕は、たんに堂々としたものであっただけでなく、作劇的な面でも全編の中で屈指の出来映えでしたね。 「だんじり」がメジャーになり、必然的にあちこちから人が集まって来る。私たちは自然にこれまでの登場人物と引き合わされて、それぞれの「物語」を思い出す、という仕掛けになっているのです。当然のことながら、それは尾野さん最後のシーンへのリスペクトを、視聴者と共有しようという作り手側の大サービスも含まれていますね。 で、その中での白眉は、やはり千代さんと善作の邂逅シーンでしょう。すでにそれとなく認知症の兆候を示していた千代さんで、直前には街を徘徊もしていた彼女ですが、そうした伏線を張ったうえで、宴席の場での「幻視」というふうに繋がって行く。この邂逅が「祭りの夜の宴席」であるというのが、今回のミソなのでしょう。 さて、その「祭り」の最も原型的な姿の一つとして、これまた古い話になりますが、古代神話に現れた例の「天の岩屋戸」の物語が挙げられるでしょう。太陽神「天照大神」が「天の岩屋戸」に籠もるというのは、太陽=生命の源の死を意味し、それに対して八百万の神々が高天の原にこぞって、「大饗宴」を繰り広げるというのは、死者=太陽を呼び起こそうとする「死と再生」の鎮魂儀式なのです。 もともと「鎮魂」には「ミタマフリ(御魂を揺り動かして、力を賦活させる)」という原義があって、これは冬至に近くすっかり弱った太陽の力を再び賦活させる、という古代人の自然に対する畏怖に満ちた「祈願」が込められていたはずです(ちなみに「岩戸籠もり」を、皆既日食などの天体異変と関連づける日本神話の解釈の仕方は、私は間違っていると思っています)。 日本古代の自然観とか時間の概念が、過去から未来へ向かう一方向のTimeではなく、クルクル回っているというようなCycle(循環)で捉えられていたらしいのは、さまざまな資料文献から明らかなようですが、肝心なことは循環するといっても、判で捺したように「毎年、同じ事象が繰り返す」というふうには観念されていなかったということでしょう。出来るだけ「同じ季節が到来するように」、逆に言うと、とんでもない天変地異が到来しないように、ここにおける「祈願」の意味合いは、かなり「切迫」した感じで「引き寄せるもの」として理解されていたはずです。 当然それは稲作農耕が生存の基盤であった、古代日本の姿を彷彿とさせるのですが、大事なことは死者(太陽)を呼び起こすのに必要と考えられていたのが、日常性を完全に棚に上げた「大饗宴」を行わねばならない、ということであったでしょう。アメノウズメのストリップショーも、その文脈で捉えなければならない(古代人はたんに粗野で酔狂だった、ということではないですよ)。 そこで生命を「賦活」させるのに不可欠とされたのが、「笑う力」といったものでした。「天照大神」もビックリするような大咆哮の「笑い」とは、弱りきった冬至に近い太陽=生命力を、何が何でも「再生」させようという、古代人の必死のパッチの「笑い」だったのです。「命懸けの大哄笑」と言ってもよい(こんなバカな言い方ではもちろんありませんが、別の話で取り上げた西郷信綱さんという古代文学研究家が、そのようなことをおっしゃっていました)。 「笑い」がどれだけの力を持つものか、それはこのドラマが「笑いの力」によって、どれだけ「弾み」をつけていたかを考えれば良い。私などがいちいち取り上げるまでも無く、ここでの「巧まれた笑い」の数々は枚挙の暇がありません。 前にも振れましたが、「喜劇」というのは「笑劇」と違って「悲劇」より難しいというのは、人の下卑た感情に「擦り寄る」のでなく、はたまた他者を「嘲り哂う」のでもなく、何ら心の「疚しさ」を感じることなく「腹の底から、笑える」中味でなければならないからでしょう。これって、やはり結構難しい「技」だと思いますよ。 さて、そうした文脈で見て来れば、なぜ千代さんと善作は「祭りの酒宴の席」で出会えたのか、明らかになって来るでしょう。死者は祭りの宴席でのみ同席が許されるのです。― つづく ―にほんブログ村
2012.03.12
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「事態を、共有する」ということ 話は少し「カーネーション」から離れますが、私が以前に「いわゆる戦争報道について」という項目で、ずいぶん長々とおしゃべりをして来たのには、結局、戦前も戦後も「我が身を差し出す」ような仕方で、「本当のこと」を言明した日本人がいたのか(いるのか)どうか?というようなことを、あれこれ考えてみたかったからでした。 もし一人でも戦争について、そういう「語り方」をしている人がいるなら(いるかもしれません)、戦争を知らない私たちは、その言明を「引き受け」なければならない。しかし今次大戦を糾弾するにせよ擁護するにせよ、我が身をその埒外に置いて語られる言説には、やはり私たちは信憑を置くことが出来ない。外国からの糾弾に対し、真に自身の「品格を保って」反論ないし謝罪が出来ない、という状況にずうっと置かれ続けるということになるのです。 しかし、ここで大事なことは、私たちそれを聞く側は、そうした「歴史の埒外に、我が身を置く」という戦前(あるいは、もっと昔)からの糾弾的姿勢を、そのまま無批判に採用することによって、むしろ真実が開示されることを、ずうっと拒んで来たのかもしれない、ということなのです。それは戦後日本社会が組織的に、改めて「選択した」方法だったのかもしれないのですが、社会集団的に無意識に選択したその仕方こそ、戦前戦後を通じて日本人の心にずうっと潜んでいる「権力的思考」性だったのではないか? 私たちがそういう「審判者的」構えで先人に対するとき、戦争を知る人々はとてもじゃないが素直に真実を語り、現実にあったことに本当に向き合って、それを後世に遺しておこう、という気にはなれないでしょう。なぜならその時、語るべき人たちは「被告人席」に座らされているからです(ウーン、ちょっと重い話になってしまいましたね)。 しかし、目下の「福島第一原発」の現況を見ていても、なぜ「政府、東電から真実が出て来ないのか?語られないのか?」という問いの立て方ではなく、なぜ私たちは「政府、東電から真実を引き出せないのか?語らせられないのか?」と自問したほうが、思考の立て方としては生産的なのかもしれないのです。 「社会の木鐸」というような、糾弾的な構えで振りかぶった瞬間に(ということは、ほとんどのマスコミ、野党、言論人ということです)、相手は身をすくめて「口を封じられる」のです。互いが「事態を共有する」という構えを持たないかぎり、決して「本当のこと」が明らかになることはない。日本の原発の歴史というのは、まさしく「相手の口を、お互いに塞ぎあう」という身ぶりによって、結果的に今回の悲劇を招いたと言っていいのではないか(何だか、偉そうな言い方ですが)? このような言い方をすると、「じゃあ、もっと開示責任を重くして、吊るし上げればいいじゃないか」というような発言が出て来そうですが、そういう仕方で事柄が何でも「一丁上がり」と思い込む幼児的な思考回路こそが、入り組んだ事象から本質を導き出して解決を図るという「強靭な思考」を奪ってしまうのです。 柳田邦夫さんの「巨大事故原因調査」をめぐる様々な著作を読めば、事故原因の解明では、当事者の恣意や自己弁護的言明を排除し、真相を究明して行くのにまず必要なのは、聞く側が、糾弾的審問姿勢を厳禁して、言わば原因究明のために、証言者に「寄り添う」ような形で対峙することなのだそうです。 これは何も「迎合」とか「宥和主義」というのとは違う。聞く側が事態を「共に引き受ける」構えであるとき、それはむしろ話す側にとって、「自身を、より厳しい現実と対峙させる」場合が有り得るということなのです。なぜならそういう仕方で語られた事柄を「引き受ける」ことになるのは、語った本人ではなく「聞き届けた側に、共有される」ことになるわけなのだから。 真実というのはそれが語られた瞬間、語った者から「解き放たれて」、ボールは聞き手を介して「普遍の次元」にジャンプしているのです(法律的次元の話ではないですよ。倫理的領域の話)。 さてさて、日本のジャーナリストや言論人、マスコミに、証言者からの声をそういうふうに聞き届けて、今度は「自署名入り」の「発語」として、責任を持って「言説」を行っている人がいるのかどうか。NYタイムスのJ・レストンが米ソ双方の政治家から一目置かれていたというのは、そうした「自署名入り」の論説をずうっと行っていたからでしょう。 意見や立場の違いはあるにせよ、成熟した大人の社会関係で「事態を共有する」とは、そういう意味だと思うのです。
2012.03.11
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Memento Mori (メメント・モリ) それにしても、「勘助は、やられたんやのうて、やったんやな」という言葉は、「心が、のうなってしもた」と自殺を図った勘助の真意を、死期を間近に控えた玉枝が、二十五、六年経った今になって悟るという、まことに重いシーンなのですが、不思議なほどの静謐感に満ちていましたね。 これ、じつは病院の待合室でテレビ番組を観て、玉枝が「そうであったのか(もしれない)」というような語り方になっている。真相は限りなくそれに近いのでしょうが、ついにそれが「何であったか」は明かされない。感想欄では「南京虐殺だ」「婦女暴行だ」といった戦争糾弾めいた、信じられないくらい断定的な詮索が散見しますが、本編ではそんなことにはいっさい言及していません。 「糾弾的ポーズ」でこれを解釈する、あるいは「反戦平和主義的に過ぎる」などという捉え方をしてしまっては、このドラマの主題をほとんど取り逃すことになってしまいます。 ドラマが勘助の事実を明かさないのは、視聴者側に自分たち各々の意見感想を言う前に、まず、観る側の「構えを、変更する」ことを迫っているからでしょう。根拠のない推定を「断定的に下す」という姿勢の奥には、そういうふうに糾弾している当の自分は、それとは「関係がない(免責されたい)」という願望が暗に潜んでいるのです。 かつてさかんに唱えられた「反戦平和主義」的言説が、なぜ今世紀になってほとんど無力化し語られなくなったのか?それは、彼らの「糾弾の姿勢」というのが、常に自分たちを当該者とは関係のない、「埒外の安全地帯」に身を置くという身ぶりで、それを言明し続けて来たからです。糾弾する相手は「日本人」という、まさしく歴史に刻印された自分たちの親、肉親ないし隣人であるにもかかわらず、心理的には、それとは関わりのない「超歴史的な立場」に我が身を置いて審判することが、「政治的に正しい」とされたのでした(ある種の独裁国家が、子どもに「実の親を糾弾することを、組織的に奨励した」仕方に似ていません?)。 こうした「構え」の在りようが、どれだけ戦後日本の精神風土を毀損して来たか、それは今どき、何でもすぐに答えを求めようとする、社会一般に蔓延した「子ども染みた思考態度」を見れば分かる。ここには、事柄を「引き受ける」という構えはどこにもなく、糾弾した事柄に対して、ではそれを言明した自分は「どう責任を取るのか」という発想は、どこにも見当たらないのです(これだけ糾弾したのだから、「自分たちは、真っ先に免責されている」ということなのでしょう)。 「カーネーション」は、そうした超歴史的な安全地帯に身を置いて物事を審判する、という姿勢を断固として拒否しているように見える。一意的な解釈をさせない。観る側に勘助のやったであろうことについて、自ら「想像力を起動させて、それに関与する」ことを求めている。彼が大陸でやったことを作り手側が提示すれば、その瞬間に事柄は「他人事」に転化し、視聴者は勘助という人物から心理的に「免責」されてしまうのです。 糸子が玉枝の病床で慟哭したのは、かつて勘助の葬送シーンで、それとは説明出来ないけれど、確かに発せられていた勘助の「叫び」の意味するところを、今ここで確かに「聞き届けた」からなのでしょう。この二人は、鎮まらなかった死者の魂を、やっと真の意味で「弔う」ことが出来たのです。 それにしても勘助、玉枝の話になると、このブログは途端に「熱く」なりますね! 勘助がなぜ「へタレ」でなければならなかったのか?それは真っ先に罪を「引き受ける」べき者として、彼が造形されていたからです。「へタレ」であるがゆえに、まず最初に「姿を隠す」者として、彼はこの世に生まれて来たのでした。 彼が最後に乗っていた列車に同乗していたのが、召集された兵士たちばかりだったような気がするのですが、これはまさしく事態を引き受けて、「他に先んじて」旅立った人たちの、「葬送列車」だったということになりますね。 本編で初めて示された、玉枝の品格をたたえた静謐な死に顔には、このドラマ全体の主題の一つが込められている。たいしたものです! ちなみに「Memento Mori(メメント・モリ)」とは、ラテン語で「死を、忘れるな」という意味だそうですが、いろいろな解釈が出来るにせよ、要は「常に考えよ」、「ためらいはないか」、「無反省な権力的思考性に、陥っていないか」「今、死んで後悔しないか(聖書的には、「神の裁きに耐えられるか」)」という「心の構えかた」を指しているのでしょう。― つづく ―にほんブログ村
2012.03.10
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恐るべき、反「権力思考」 尾野さんの華々しいフィナーレに隠れて、比較的語られることが少ないのですが、先日の糸子の独白を聞いていても、ずいぶん思い切ったことを、このドラマは主人公に語らせていますね。 北村その他に、東京行きを誘われている糸子が、八重子たちに言うには、― 「いや、あらなあ … なんちゅうか … 新しいゲームが始まってしもてんや。優子の話やら聞いちゃったら、何やそんな気がしてくるんや。戦争と同じくらい、大層なようさんでやるゲームが。 … それが、えらいオモロいらしい。 ― 「戦争みたいに、大層に大勢で集まってやる新しいゲーム」と言って憚らないのは、糸子にとっては、得体の知れない「大きな力」が、集団で熱中している姿というのが、前大戦で現出したある種日本人の熱狂ぶりの仕方と、これが心理構造的に同じ様態であることを、本能的に嗅ぎ取っているからでしょう。 一見七十年代以降、経済大国に駆け上がって行った日本の狂乱ぶりを、皮肉ったような「語り」に聞えますが、どうもそれだけではない。― 敵ばっかしおって、頭ばっかしのぼせて。 … ウチはな、洋服こさえられたら、ほんで良かったんや。 … それがいつの間にか、洋服もゲームになってしもた。 ウチに洋裁を教えてくれた、根岸先生ちゅう先生がな、こない言うたんや。 「ホンマにええ服は、人に品格と誇りを与えてくれる。 … 人は品格と誇りを持って、初めて希望が持てる」。 ― 「品格談義」を晩酌しながら、寝そべっている糸子に語らせるなんて、少なくとも朝ドラのヒロインでは、かつてなかったことでしょう。 さて、洋裁の初心を振り返ったうえで、以下の独白は、あくまで自分の「体験」として語られるのです。― 今はモードの力、ごっつい強いやろ。 … 去年最高に良かった服が、今年はもうあかん。 … どんなけええ生地で、丁寧にこさえたかて、 … モードが台風みたいに、全部なぎ倒してってまいよんねん。 … 人に希望を与えて、簡単にそれを奪う。 … (ウチらはな、)そんな事、ずうっと繰り返して来た気ィすんや。 ― ここで大事なことは、糸子自らもそのゲームに、少なからず参加して来たのかもしれない、という自省を以って、この科白が「語られている」ということなのです。彼女の言明に「力」があるのは、たんに皮肉っぽく世の中をせせら笑っているのではなく、常に自分の体験を通した「物の言い方」をしているからでしょう。 今日の表題に挙げた、反「権力思考」というのは、実体的な政治的社会的「権力」を指すのではなく、自身の内部に潜む「権力思考」性に対する、「疑問符」を常に立てられているか?という意味なのであり、それこそ「どの口が言う?」という自省を、背後に意識しながら言明を行うという態度なのです。 こういう時、たいていのドラマやドキュメントやマスコミ論説は、いかにも「他責」的な身ぶりで以って、分かりやすい「敵」を作りだし、それを際限なく「糾弾」することで、あたかも「社会的使命」を果たした「つもり」でいる。今どきの思想言論や政治的言説が、ちっとも私たちの胸に届かないのは、そうした「身ぶり」が結局、何にも社会や個人に益をもたらさず、むしろ「強靭な思考」を皆から奪って行っていることを、私たちが暗に感じ取っているからです。 「強靭な思考」とは、自分が言明することに、自分は「本当の信憑」を置いているのか?自身を署名入りで前に「差し出せる」のか?言ったことに、「有り金全部を、掛けられる」のか?といった仕方で自省を常に行えているかどうか、ということなのでしょう(今や、掛け金を置く暇もなく、ひたすらコメントをまき散らすのが、トレンディーみたいですね。まあ、そうなって来ると、このブログもあまり大きな口は利けませんが!)。 「糸子的在りよう」というのは、そういう意味で全然直接的ではないけれど、そのはなはだ「非政治的」な身ぶりで以って、ずいぶん「政治的」な態度で有り得る。「権力的思考」にとって「自省」される思考態度ほど、厄介なものはない。なぜなら「身体に裏付けられた」思考と言明は、多数者の思考には容易に「まつろわない(服従しない)」からです。 糸子が寝そべって「泉州弁」で、いくら身も蓋もないことをしゃべっても、ちっとも「下品」でないのは、それがいつも「身体に裏付けられた」言明だからでしょう。― つづく ―にほんブログ村
2012.03.09
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白地のキャンバス ここまで話して来ると、やはり「なぜ、糸子は尾野さんから、交代せねばならなかったか?」という命題に、再び行き当たらざるを得ません。どういう締め括り方をするにせよ、今までの議論を続けて行くと、どうしたって「八十になっても九十になっても、最後までオノマチでなきゃ!」という話になって来るじゃないですか。視聴者は三十の尾野さんにシワクチャのおばあさんを、いくらでも重ね合わせて観ることが出来るのです。この際、視聴者の「想像力=妄想力」をバカにしてはいけない。 これについて、前に私は、それは「小原糸子像を、普遍化するため」というような、はなはだ「上滑り」な論拠で腑に落とそうとして、我ながら隔靴掻痒(かっかそうよう)の思いをして来たのですが、今度はここまで見て来た尾野真千子という演技者の側から、これを考えてみたいのです。 以下は、ひたすら私の個人的な歪曲と誤解に基づいた、「妄想」なので(まあ、このブログ自体が、ほとんどそうですが)、かなり「禁止空域」に突っ込んでしまってますが、関係者の方々には、あらかじめお詫びして置きます。 結論から言うと、この途中交代は製作サイドから、やはり出て来たんだろう。そしてその中には、渡辺あやさんの意向が、かなり働いていたのではないか?ということなのです。その理由は、おそらく思い描いていた「小原糸子」像が、尾野さんによって「あまりに、リアルに顕現したから」という事に尽きるのではないか? 先週見せた例の酒を飲みながら横になって浮世を語るシーン、中味かなりドキリとした文言を含みながら(それらについては、別に触れるつもりです)、何の違和も感じさせないどころか、仮にまるっきり別の科白を、ここへ持って来たとしても、彼女は仮想の小原糸子像の放つ、「品格」を毀損しないまま、演じ切ったに違いない。逆に言うと、ここのシークエンスにおいて、私たちは「別の役者が演じたら、どうだっただろう?」などという想像は、とても出来ないでしょう。 これは彼女だけが、半年以上、仮想の小原糸子を「生活」して来た結果、自ずから滲み出て来た「世界」であって、他の誰にも代替出来ない種類のものなのです。 さて、ここからが大事なところなのですが、製作スタッフや脚本家たちから見ていて、こうした事況にあるいは一種の「危険」を嗅ぎ取ったのかもしれない。 と、ちょっと大げさに振りかぶってしまいましたが、要は、彼女の様々な変身ぶりを、これまで見て来た関係者からすると、今回はそこに一種の「変調」を見て取ったのかもしれない。端的に言えば、糸子の人格が「憑依」したまま元に戻らない、というような「兆候」を見止めたのではないか、ということなのです。役者が役に没頭するあまり、時に人格が変容することがあるとかという話を、何かの本で読んだような気がするのですが、思い出せません。 「何を無責任な!」と怒られてしまいそうですが、私は何がなし、尾野さんにはそうした危惧を、多少感じてしまうのです。 もちろん、人格が役に「乗っ取られる」などという、ホラーめいた話をしているわけではありません。もともと人格というのは、それほど確固として「どこかに在る」という具合に、見ることも触ることも出来ない種類のものです。早い話、私たちは昼仕事している時と、夜テレビを観ている時では、いささか異なった人格を示しているものです(あたりまえです)。 要はそれが、例えばR・デニーロのように「いろんな人の人生を、『生きることが出来る』から、面白くて止められない」というぐらいの懐深さで、俳優業を受け止めているのであれば、こんな危惧などいらぬお節介で、笑い話で済んでしまうのですが、「火の魚」の折見とち子を観ていて、ちょっと考えさせられてしまったのでした。 渡辺あやさんは「火の魚」を通じて、尾野さんの底深いキャパシティーを見たに違いない。「カーネーション」では言わば、それを「直子的身振り」でもって極北まで確かめてみたい、という期待もたぶんあったでしょう。で、その達成度の高さと同時に、尾野さんのキャラクターが、小原糸子にあまりにも強く染まって行くことに、あるいは危惧を感じたかもしれない。 こうした時、脚本家に限らず創作者というのは、わりとエゴイストで有り得る。さらに新たな想像力の源泉として、尾野さんをもう一度、前の「白地のキャンバス」に戻して置きかった(厳密には有り得ないのですが)のかもしれない、というのがはなはだ差し出がましく、かつ立ち入った私の観測なのでした。 この話は、これで終わりにしましょう。 やはり実在の人の話を、あれこれ横から詮索するのは、微妙過ぎて気を使う上に、何となく話している自分自身の心に「疚しさ」を感じるじゃないですか。あ~あ! このお二人が、よもやこのブログを見ることはないと思いますが、何となく「女性はコワイ」ので、おしまいに「怨みを鎮める」お呪いをかねて、私のお気に入りの曲を贈っておくことにします。 これまた数分の歌に、一瞬にして「明示的な世界」を作り出す天才シンガー、B・ストライザンドの曲で、以前に一度取り上げたことがあるのですが、むしろここに一番ふさわしいのかもしれませんね。「You Don't Bring Me Flowers」― つづく ―にほんブログ村
2012.03.08
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伝播する力 さて、これがもし尾野真千子という女優の持つ「凄味」だとすれば、果たして将来どのような演技者になって行くのでしょうか? おそらく、今回の朝ドラを観ていて、彼女にインスピレーションを強く刺激された映画監督やプロデューサーや脚本家は、山ほど出て来るに違いない。それほどに守備範囲が広くて、なおかつ、何よりも作り手側の「想像力」を止めどなく揺り動かし、さらにそれを周囲に伝播させる演技者であることを、彼女は証明しているのです。 彼女と競演して「オオバケ」した俳優さんが、現にこのドラマで何人もいるじゃないですか。例えば、筆頭株のほっしゃん。を見てください。明らかに尾野さんの演技に挑発されて、彼の北村は造形されたのです。私は彼のベスト・シーンは糸子との即興の掛け合い部分ではなくて、周防とのラブ・シーンを目撃した直後の大写しの表情だったと思っています。その前に小原家で「寅さん」を演じて、すっかり「泣き」を見せた彼が、「怒り」と同時に「寂しさ」も含んだ表情を露わにしている。 私はこの時、ほっしゃん。は「寅さん」を越えて、別人格(北村)にジャンプしたのだと思う。「寅さん」なら、皆さんご存知のとおり、こうしたシチュエーションになれば、我からサッと身を引いて、例の大きなかばんを持って、どっかへ立ち去って行くのですが、北村はそうしない。彼には「生活者」としての「現実」があるからです(寅さんは、我々しがない生活者の「夢」を、まさしくそのかばんに一杯詰めて、体現しているわけです)。 それが先日の糸子との最終シーンでの、堂々たる演技となって現れたと思う。尾野さんはもちろんですが、ほっしゃん。の演技にも、落ち着いた「風格」さえ感じられるのです。 似たような「変身」を遂げたのが、やはり新山千春さんだと思う(多少、身びいきがあります!)。一生懸命「泉州弁」をこなしながらも、いかんせん岸和田の放つ「空気感」ばかりは、如何ともし難い感じが正直あったのです。それが、糸子の「どの口が言うてんのや。えェ!このアホが!」と、頬を叩かれ、つねられて「目が覚めた」と言っては彼女に失礼ですが、何やら演技者として「開眼」しちゃったところが、あるのじゃないかしらん。「そうか、優子のままにやれば、ええんや!」みたいな。 それがその後、東京の直子の店に現れた時の、「優子」の表情となって現れたように思う。これは私のたんなる酔狂な「深読み」ですが、彼女の一見慈母めいた「優しい」表情の裏には、前にも触れましたが、直子の「狂気」の在りようを隅々まで見詰めてやろうという、サリエリ的「欲望」が垣間見える。どこにそれを見止めるかと言えば、彼女の抱いている赤ん坊の「眼」なのです。 よく考えてみると、直子の店に赤ん坊を抱いたままやって来るというのは、何だかヘンだと思いません?あえてそうしたシチュエーションを設定したのだとすれば、この赤ん坊の眼は「直子を、隅々まで見通してやろう」という、優子の隠れた「裸眼の心」を象徴しているようにも見えるのです(まあ、これはほとんど「妄想」ですが)。 私が申し上げたいのは、こうした想像力を観る側に与える演技を、ほっしゃん。や新山さんが獲得出来たのは、尾野さんとの濃密なやり取りがあったからなのだろう、ということなのでした。「伝播力」というのが、どのようにして顕現して来るのか? 楽屋裏の話は、私たちには知る由もないし、また興味の外でもあるわけですが、少なくともここで言えることは、彼ら彼女らは、まさしくそこに対面している尾野さんに、「紛れもなく、真正の小原糸子」を目撃したのだろう、ということなのです。巧まれた「糸子」でなく、「真正の糸子」という人格が目の前に顕現している、ということを。 となれば、自分たちも「演じる」のではなく、「北村」「優子」としてフツーに振るまえば好い、ということになる。このあたり、思い起こせば、糸子を取り巻くかつての子役たちの自然さが、どのあたりから引き出されて来たのか、を解くカギにも繋がっているのかもしれませんね。― つづく ―にほんブログ村
2012.03.07
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「あながち、気のせいでもないぞ」 昨日のような言い方をすると、何やら「憑依的」なスピリチュアルなイメージが先行して、役者としての彼女の実力を貶めているかのような、印象を持たれるかもしれませんが、そうではありません(ご安心ください)。役者に限らず、「憑依」を呼び寄せる力はアスリートでも、たぶん一般人でも、時には必要なことだし、そうした瞬間を引き寄せて、彼らが別世界に駆け上がって行ったであろうことは、荒川静香さんや「なでしこジャパン」などで、何度も触れて来たことでした。 私はその「呼び寄せ方」の、在りようを考えているのです。 彼女の出たドラマや映画を、見事に何も観ていない私が、あれこれいうのも、はなはだ僭越な感じなのですが、少なくとも「義経」や「クライマーズ・ハイ」あるいは「いもたこなんきん」は、ながら見でも観ていたはずなのです。そこで少しも覚えていないと言うことは、ただたんに目立たない役だったからということではなく(目立たない役で、役柄とは関係なくアッという間に、強い印象を残す役者さんもいるわけです)、ひょっとして彼女は役に成り切った瞬間、「尾野真千子の顔を、サッときれいに拭い去る」というような仕方で、画面に顕現していたのではなかったか? 雑誌などに掲載された写真を見るかぎり、尾野さんを私は決して地味系のタイプとは思わない。むしろチャーミングな方だと思いますよ(これは、完全な個人的趣味)。大事なのは、その写真のイメージと糸子に造形された人格が、いかなる意味でも結び付いて行かない。そこから糸子を想像することが、難しいということなのです(私だけですかね?ヤッパリ)。 はなはだ口ごもった言い方で申し訳ないのですが、早い話が、奈津役だった栗山千明さんなど、役柄とは関係なく、アッという間に「顔」をイメージ出来るでしょう(別に彼女を、くさしているわけじゃないですよ)。 実はこんなことを考え始めたというのが、今回「火の魚」を観たからということじゃなくて、ずうっと「カーネー」の小原糸子についてしゃべり続けながら、それを演じている尾野さんの(本来、あるだろう)素のイメージが、ちっとも頭に浮かんで来ないというところがあったからなのでした。 これはたぶん、ひとえに彼女の「芸達者振り」が為せる技だと思うのですが、例えば周防との最初のラブシーンは、若い頃の吉永小百合に生き写しなのです。同様に北村との歯切れのいいセッションは、宮川大介・花子を髣髴とさせ、極めつけは松坂の祖父に「千代」に成り代わって、話を聞くところだったでしょう。 で、今回「火の魚」を観ていたら、今度はそこに、これまた若かりし頃の「仁科明子」を見てしまう、と私の場合などはなってしまうのです(異論百出を覚悟で、頭を掻きながら言っているのですよ)。普通、役者さんと言えば、自分を確実に記憶してもらうために、顔や姿かたちのイメージを大事にされるじゃないですか? この軽々とした「成り代わり」の鮮やかさというのは、例えば声帯模写とかパントマイムの達人と通じるところがあるのですが、彼女の場合はそれ以上に、他者の物語を「とてつもなく、想像する力」と、それを自身の身体に、一瞬にして「憑依させる力」に図抜けたところがあるのではないか?まあしかし、これはプロの役者なら(上手い下手は、別にして)、当然求められてしかるべき技量と能力であって、何も特別な事柄ではない。 私が感じるのは、むしろそれ以前の、先に触れた尾野さんの「焦点化して行くと、見えなくなる顔」という特質であって、ある意味その都度白地のキャンバスに、新たな色を加えるというような、不思議な「鮮やかさ」があるのです。それは何も顔のメイクや発語や仕草が、とても巧まれているといった話ではなくて、「人格そのものが、スルスルと入れ替わっている」というような事態に属するのではないか? 観ている我々が掴み取ったと思われる彼女のイメージが、次の瞬間フッと消え去る、「源氏物語」に出て来た「近江の君」じゃないですが、何やら「夢で、大金を掴まされたような気分(夢に、富したる心地し侍りてなむ「行幸」)」なのです。 極論すれば、「素の顔」のまま「七色の人格」に成りおおせてしまう、というようなことなのでしょうか。ノーメイクでも「明らかに違う」という人格像を、目の前で次々と顕現させるというようなことを、何だか尾野さんならやってしまいそうな気がしません? 結局、またまた「怪しい話」になってしまいました。すいません!― つづく ―にほんブログ村
2012.03.06
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「私、今、モテている気分でございます」 粗熱を取るために、しばらく「オッサンのおしゃべり」を止めて、頭を冷やそうかと思っていたところが、BSで「カーネーション」に続いてやっていた「火の魚」を観てしまい、またもやガマンが出来なくなって書かざるを得ないのです。 始めにお断りしておきますが、私にとってテレビドラマとか「芸術祭参加作品」といった類は、もっとも苦手の部類に属するのであって、まず日常の習慣として観ません(これまでの「おしゃべり」で、だいたい想像つかれるでしょう)。もっぱらドキュメントや映画を楽しむクチだったのが、多少変わったのが「龍馬伝」あたりからで、久しく歴ドラをバカにしていた私としては、ずいぶんな転換だったわけです(ここで「龍馬伝」に触れていないのは、結果から言うと、私にとって大した事なかったからです)。 そうした私が、「火の魚」という室生犀星原作の文芸モノを観てしまったのは、ひとえに「カーネー」に続けてやっていたということと、それが渡辺あや脚本、そして何といっても尾野さんが出ていたからで、それ以外の理由は何も見当たりません。 そうした、はなはだ斜に構えた私が、ここでしゃべらずにはいられないのは、もちろん作品の中味のことではなく、「尾野真千子」という女優の在りようのことなのです。 振り返って、ここ半年近くの「オノマチ糸子」像を思い起そうとする時、じつは私は彼女=糸子の顔を、キチッと焦点化して思い起こすことが出来ない。毎朝「観ていた」にもかかわらず、ハッキリこれと「明示的」な顔を浮かべるのに、著しい困難を覚えるのです。これは例えば、岩下志麻とか竹下景子と言えば、どれだけ巧まれた演技をしていようと、瞬時にその顔を頭に描けるといった仕方では、「浮かんで来ない」という意味です。 「そんなの、たんに見慣れてなかったからじゃん」と言われてしまいそうです(たぶん、そうだと思います)が、それがどのあたりから来ているのか、今回の「火の魚」を観ていて、多少気付くところがあったのでした。 要は、「火の魚」の折見とち子と小原糸子を結ぶ線は、いかなる意味でも「断たれている」ということなのです。同じ尾野真千子が、確かに目の前で演じているのにも拘らず、我々はそこに「まったく別の人格」が招来していることに気付く。このはなはだ、あえかな女編集者を演じている尾野さんは、本来のスレンダーというよりは「華奢な」姿を露わにして、糸子的女傑のイメージはもちろんここから先もない。 「役柄だから、あたりまえじゃん!」と、これまた謗られて「その変身振りこそ、尾野真千子の実力さ」と、押し倒されてしまいそうですが、私はじつはそうは思わないのです。早い話、名優とか名女優と言われる人は、いかなる変身を遂げても、本体の役者顔は「微動だにしない」ものです。緒方拳がどれだけ変身していようと、我々は彼以外をそこに観るという事はしないでしょう。 尾野真千子の場合は、どうもそれとは違った「境域」の違いを感じるのです。定位された「尾野真千子」がそこにいて、巧みな技を次々と決めている、というよりは、「別々の人格」が次々と彼女の身体を、「通り過ぎている」という印象なのですが。― つづく ―にほんブログ村
2012.03.05
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「オノマチ糸子」劇場、完結 疾走し続けてきた「オノマチ糸子」劇場が、見事に完結しましたね。まあ、いろいろ考え方はあるのでしょうが、要は、これは虚構の「小原糸子」像を閉じた形でなく、外に向って「開いた状態」にしておくために必要な手続きなのでしょう。 それにしても尾野さんの演技、ひところの絶叫と七色の涙が、すっかり影を潜めて、このところの役相応の落ち着いた表情に、むしろ私など魅了されてきたクチなので、昨日今日の独白シーンなど、忘れ難い場面になりそうです。 彼女の数え切れない名シーンの中で、私的に挙げるとすれば、先にも触れたたことがありますが、1. サエに「本気で着る気がないんやったら、うちはあんたにドレスなんか作らへん。帰り!」と、初めて糸子的衣装美学を語るところ2. 玉江の面罵の後、赤ん坊をおぶいながら「うちは貧乏にも戦争にも、勝って勝って勝ちまくるんや。嫌うんやったら、何ぼでも嫌うてくれ」と、涙ながらに呟くところ3. 澤田女史との、最初のバトル・シーン、善作や昌ちゃんに口を塞がれつつ、向って行くところ4.玉音放送の後、誰もいない居間から「さ、… お昼にしよけ」と、お勝手に向うところ5.「家族会議」での、科白とともに揺らぎ続ける目の表情6.周防との別れのシーン、「うちは、どないしても周防さんを、幸せに出来へんのやね」7.優子に対して「どの口が言うてんや、このアホが!」と、後に続くバトル8.…と、キリがないですね。 私はストレートな絶叫号泣シーンが、どちらかというと苦手なので、比較的「落ち着いた(?)」場面が多いのですが、そのあたりは、ひとえに私の好みの問題です。 現実の日本人が「絶叫号泣」する場面というのが、なかなか想像し辛い(隣のどこかの国なら、いざ知らず)ということもある(東北の震災を、見て下さい)。ドラマですから、ある程度の演技的場面はもちろん必要で、観る方の相当数はそれを期待されるのでしょうが、よほど虚構の中に「真実に肉迫する必然性」がないと、今どきの日本の生活実感からは、そうしたシチュエーションは乖離して行くばかりじゃないか?どうしても、ステロタイプ化した「お芝居」に観えてしまうのです。 今回、ちょっと面白かったことというのは、我が家の誰かがリビングでこのドラマを観ていたとき、当然音声だけがイヤでも耳に入って来るのですが、なぜかそれが全然違和感なく聞えて来た、ということなのでした。 「そりゃあ、同じ関西なのだから、当たり前じゃん」と言われてしまいそうですが、どうもそれだけではない(泉州と京都は違うのです!)。早い話、関西系ドラマやバラエティーで、耳障りで馴染まない音声を発している番組は、いくらでもあります。「カーネーション」から発せられる音声は、例えて言えば「庭の向こうで、何やら話している(らしい)お隣さんの声」とでも言うのでしょうか。そこで醸し出されている「空気感」が、現実とまるで異和を生じずに耳に入って来るのです。私はこれはたぶん、たんに同じ「関西弁」だから、という事じゃないのだと思う。 尾野真千子さんを始めとした演技人の「高度に巧まれた泉州弁」が、まず第一にそうした「空気感」を作り出していて、そこに後から参入した役者も、自然に溶け込んでいる(ほっしゃん。や、新山さんを観て下さい)。尾野さんの「周囲を巻き込む力」を評価する声が強いのですが、私はまず彼女の発する「言葉の持つ力」を指摘したい。これはたんにネイティヴな「言葉の力」ではない。演技者として充分巧まれた、職人的な「発語する言葉の力」が為せる技なのだと思うのです(対照的な響きを聞かせてくれたのが、田丸麻紀さんの「泉州弁」でした。こんなにサラサラとした「泉州弁」を、私は聞いたことがありません。こちらは本場もんのネイティヴの魅力)。 先にも触れましたが、今回のドラマで、いろいろ考えさせられたことというのは、こうした発せられる「言葉の力」といったもので、それは代替性の利かない、「身体性を持った言葉」と言い換えてもよい。 私たちは言葉を耳にする時、「何を言っているか?」という中味よりも、一瞬早く届く「何ものか」を感じるわけです。それは必ずしも相手の表情を見て、何となく様子を察してしまうということでもなくて、音声だけでも一瞬にして、そこに漂っている「空気感」を嗅ぎ取ってしまう、ということがある(ラジオ放送を想像して御覧なさい。考えてみれば「ラジオ・ドラマ」というのは、ずいぶん聴く者の想像力を刺激する媒体でしたね)。 動画像が跋扈する今どき、何やら「そこに示されたもの」で、すべてが開示されているかのような錯覚を起こさせる風潮の中で、このドラマほど「そこに示されていないもの」「聞かされていないもの」に対して、注意を喚起する物語も無かったのではないか? 明示されるものより、一瞬早く届く「何ものか」のような。― つづく ―にほんブログ村
2012.03.03
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三浦組合長のこと― かけたったらええやないか、迷惑。 人生、そうそうないぞ、… 惚れた女から、「好きや」て言われるような事。… 周防よ、外れても、踏み止まっても、人の道や。人の道は、外れない為にあるもんや。… けど、外して苦しむ為にもあるんや。なんぼでも苦しんだらええ。あがいたらええ。悩んだらええ。 命はな、燃やす為にあるんやで。… 外れても、踏み止まっても、人の道。これ、五七五になっとるな。 ―とは、例の三浦組合長が周防に語った、はなはだ「謎掛け」めいた言葉ですが、オノマチ糸子の終幕とともに、その周辺を彩った人たちも、次第に姿を消して行きそうなので、今の内に彼らに触れておこうと思うのです。 感想欄には、時折り「不倫を煽った組合長は、許せない!」といった書き込みが見られますが、再三申し上げたように三浦も北村も周防も、かなり多量な「物語」を抱えているにもかかわらず、このドラマは原理的に「男の物語は、しない」というスタンスなので、たぶん今後とも詳しく語られることは無いでしょう。 そこで、「待ってました!」と勝手気ままなブログの特権を行使して、ここではさしあたって、では組合長は「なぜ、不倫を煽ったのか?」という話をしてみたいのです。 まず「不倫」云々の事柄に関しては、前にだいぶ詳しく触れたので、ここではしません。要は当事者同士にとって不可避的な事態に対し、なぜ三浦は「さらにそれを煽った」と、謗られてもしかたがない言辞を為したのか?ということなのです。 まあ非常にお堅いことを、澤田さんふうに言えば、「そこで二人を止めるというのが、組合長としての責務でしょう!」ということになるのですが、三浦はそうは言わない。 そこで、すぐ思いつくのが、上に抜き出したパラグラフにある「命はな、燃やす為にあるんやで」という言葉なのですが、これ単独で「生きている内が、華やさかい、好きにせえ」と言われても、もちろん素直には合点がいかない(それによって、現に傷つく人がいるわけですから)。となると、どないしたって、最後の「外れても、踏み止まっても、人の道」の五七五を「解読する」ところに、行き着かざるを得ないわけです。 それに近寄って行くための、数少ないよすがになるのは、その前のエピソードで、北村と糸子が洋服の新事業を立ち上げた時、三浦が浮かべていた涙でしょう。突然の取り乱し方を見て、糸子はそれぞれの男たちの「戦争中の物語」に思いをはせるわけですが、我々は三浦に関しては、当然その光景と、先ほどの周防に語った言葉を関連付けて連想することになりますね。 つまり、三浦の戦争中の「物語」とは、たぶん女絡みのかなり「危うい」、しかし「はかない」話だったのではないか、ということになって来るでしょう。で、しかもそれに、北村が唱和するように「号泣」していたところを見ると、おそらく彼にも関係している話だろう。 となると、考えられるストーリーとして、あるいは三浦と北村の母親が「不倫関係」だったかもしれない。で、その「不倫」が成就しないまま(つまり、正式に結婚出来ないまま)、三浦の工場もろとも北村の母親は、空襲で焼かれたのかもしれない、という推論が成り立ちはしまいか?この母親と三浦はかなり「深い関係」であって、早くから母親は自宅には寄り付かなかったのだろう(あるいは、禁足された?)。したがって、北村は「男所帯」の殺風景な家庭で育ったのだろう、という事になって来るのです。 となると、三浦は北村に対して、少なからず「罪障感」を持っていることになる。 さて、そうした「物語」を抱えていると仮定して(全部、想像ですよ)、先ほどの「謎掛け」を考えてみれば、なぜ三浦は周防に「かけたったらええやないか、迷惑」と話したのか、何となく見えて来ません?要は、死んでしもたら、全部おしまい。「人の道は、外れない為にあるもんや。… けど、外して苦しむ為にもあるんや。なんぼでも苦しんだらええ。あがいたらええ。悩んだらええ」ということになる。 しかし、死んでしもたら、「苦しむことも出来へん。あがくことも出来へん。悩むことも出来へん」。三浦は残酷に断ち切られ、永遠に成就しようのなくなった自分たちの「恋」と、同じ事況を周防と糸子の関柄で再び見ることが嫌だったのかもしれない。「地獄に堕ちるか、天国に昇るか、生きているうちなら、自分たちで確かめられるけど、死んでしもたら、もうおしまいや。どないもならへんで」ということでしょう。 もちろん、これを言うには、周防と糸子が互いに「誠実である」ということが前提ですが、組合長はそのあたり、自身の経験から照らして「間違いない」と踏んだに違いない。 と、まあ、またまたエラい「妄想話」になってしまいました。皆さんはどんな「物語」を読み込みます?― 外れても、踏み止まっても、人の道 ―― つづく ―にほんブログ村
2012.03.02
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勘助と聡子の物語は、繋がっている ここへ来て、たんにおさらいとしてではなく、このドラマ全体に通底する主題の一つが、浮かび上がって来ましたね。勘助が「へタレ」であるがゆえに、大陸でたぶん遭遇しあるいは加担せざるを得なかった、黙示録的惨劇の「すべてを引き受けて」、沈黙したまま糸子の前から立ち去ったように、聡子もすんでのところで、「笑顔のまま」沈黙を強いられ続けたかもしれない。 姉二人からは言わば「便利屋さん」程度の存在感しか認めらていなかった聡子。言葉少なな「ロンドンに行きたい」という言明を、こんどこそ糸子は聞き逃さなかったわけです(前回のシグナルは、「テニスを止める」という聡子からの表明で、事件化しないで済みました)。 勘助の「へタレ」の在りように、いちばん接近しながら気づけなかった糸子は、やっと「いつも笑顔で、目立たないまま傍にいる」マイノリティーたちの声を掬い取ったのでしょう。 それは同時に、かつて「世間は、あんたみたいに強い人間ばっかりやないんや。みんな弱いなりに、やっと生きてるんや。あんたにはわからんやろ!」と玉枝が面罵した言葉の意味に、糸子が真に気付いた瞬間でもあるのです。 しかし、このドラマが面白いのは、そうした社会一般に存在するマイノリティーという課題を、ことさら主題として前景化させていないことで、ひょっとすると、まったく気づかないで通り過ぎる人もいるかもしれない。考えてみると、三姉妹の通知簿を見ていたときの糸子の振るまいには、今どきの「教育ママ」ならずとも、ずいぶん特異的なものであったことに気づくのです。聡子の成績が体育以外は、すべて1か2という結果を見ながら、思わず遺影に向かって吹き出してしまう。普通の家庭なら、本人を呼びつけてドヤして、すぐさま塾通いという仕儀になるのでしょうが、糸子にはそうした発想は、なぜか一切湧いて来ない。 彼女の頭には、人を「平準化」していく教育プログラムという発想は、ここから先もないようですね。当然そこには、彼女自身の女学校中退という履歴が影響しているのだろう、と普通なら考えてしまいますが、しかし現実にはまともな教育を受けられなかった親が、子供に過大な教育を施すというのは、日本ではごく普通に見られる光景でもあるのです。 同じことが、前にも触れた「教室で、じっと座ってられへん」と言う聡子に対し、いったんは「ちゃんと、せえ!」と怒ってはみたものの、何となく説得力に欠けるのは、他ならぬ糸子自身が「教室で、じっとしていない子」だったことを、私たちは知っているからです。 大事なのは、それを糸子本人が「自分はマイノリティーな存在であるかもしれない」という仕方では、まったく意識せずに振るまっていたということであり、なおかつそれで「ここまで、ちゃんと生きて来れたやん」ということであれば、聡子を何が何でも「平準化へ矯める」という発想には向かわない。ご存知のとおり「でっかい山を、ドンと前に置く」という方向になるのでしょう。糸子の子供を見る目線は、何がなし、いつも「勉強や!勉強!」と言っていた善作以上に、いわゆる「教育的」ではないですね。 さて、目立たなくしてあるけれども、あえて「マイノリティー」という鍵語を持ち込むことで、安岡家のエピソードが、こうして主要モデルたちの人物造形に入り込んでいる、と私は思うのです。しかしこれは何も、生活弱者や社会的にハンディーを負った者、「すべての声に、耳を傾けよ」というメッセージを、「聞け」ということではないでしょう。私たち生活者は、そこまで博愛的にはなり得ないし、たぶん求められてもいない。 しかし、物事を一意的に決めつけたような、疑問の余地のない明晰な判断が出て来た時に、「何か見落としはないか?」「裏に見逃しているものはないか?」「あらゆる検討をし尽くしたのか?」といったん躊躇し、その上でその判断を「自分は本当に、丸ごと引き受けられるのか?」といった、出来る限り「行き届いた、ものの見方」をしてみようという「構え」だけは、持っていたほうが良さそうですね。― つづく ―にほんブログ村
2012.03.01
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