全27件 (27件中 1-27件目)
1

担ぐもの、担がれるもの 「虚構」の次元に引き上げることによって、誰にでも「共有」出来る形に「変容」させるということは、要はそれがウソと分かっていても、我々がそこに「あえて、信憑を与える」という、言わば「成熟」した姿勢がないと、もとより意味を為しません。 「普遍性」とは、対象が世界に隔絶して、あらかじめ「普遍」性を保持しているのではなく、我々が「あえて、信憑を与える」ことによって、ようやく「維持」されて行くものなのでしょう。 で、それは、またまた抽象的な言いかたになりますが、例の「父性」性のことで触れた「それとは説明できない」けれど、まさしく「昔から決まっていたらしい」ものの「受渡しの仕方」と、通底しているところがあるのではないか?という気がする。はなはだ分かり難い言いかたで、申しわけないのですが、例の善作が父から引き継ぎ、糸子に「受渡し」しようとしたであろう「何ものか」のことです。 「だんじり」が、担ぐ人はどんどん入れ替わっても、「担がれるもの」は、ずうっと変わらぬ「何ものか」であるように、物事を「普遍性」に惹き上げ維持して行くとは、そう云う意味でしょう。木岡や木之元のオッチャンが、「だんじり」が近づくと異様にコーフンして、「怖い顔」で街を睥睨しているというのも、「何とは説明できない」けれど、「何が何でも」曳いて行かねばならないもの、という「自分を超えた力」をそこに感じているからでしょう。 もし仮に、そこで子どもが「ただの神輿や」などと指摘したら、間違いなくオッチャンたちに「ド突かれた」に違いない。それは「親爺の親爺の前はどうだった?」「宇宙の果ての果てには、何がある?」と聞いてはいけないのと同様な、子どもが「子どものまま」では決して立ち入れない領域、大人だけが「参加を許される」境域だからです。 小篠綾子さんのインタビューを聞いていると、彼女は余程「だんじり」がお好きだったようで、店の二階をそれように改造していたようですね。私が興味深かったのは、もちろん疾走する「だんじり」がメイン・イベントであったにしても、彼女は祭りの最中に必ず起こる「けんか」を見るのが、とりわけ「好き」だったらしいことなのです。 考えてみれば「どうでもいいこと」に、ほとんど「命懸け」で身体を張る。綾子さんはたぶん「もっと、やりいよ」とけしかけたに違いない。「祝祭の場」だけに許される「無秩序(治外法権)」から産み出されて来る、「何とは説明出来ない」けれども、生き物が生きて行くうえで「確かに無ければならないもの」「受渡しをして行くべきもの」が、その時だけは、ありありとした手触りで現れて来るからでしょう。 さて、先週あたりから糸子は、再び三たび「無明の淵」に立っているように思えますね。 善作の引き際を何度も反芻したり、ハルばあさんとの回想シーンが出て来るというのは、現在の糸子が自らの身の処し方について、さまざま「迷い」があるからでしょう。 人間、歳をとれば滓のように積もった、自身の履歴を振り返りがちになるものですが、実はそういう「身振り」で過去を振り返る時、善作や勝やハルばあさんの遺影は何も応えてくれない。なぜなら糸子の今経験しつつある時間は、厳密に他の誰にも「代替出来ない」事柄だからです。彼女はすでに善作の引退の歳を越えて、未知の世界に足を踏み入れている。 こういう時、過去の具体的な事例は、何の役にも立たない。 玉枝がかつて奈津に言った「後ろは見るな。前だけ向いて行こ。うちもそうするし」」という言葉は、まさしく今の糸子に必要なのかもしれません。未知の事況に「あえて身を投じる」、そうした姿勢に転じた時に、初めて「遺影」は彼女に何かを語りかけるのでしょう。 何だか、今どきの日本の状況を、暗に寓意するかようですね。― つづく ―にほんブログ村
2012.02.29
コメント(0)

「普遍化」と、「平準化」 このところ主役交代が近づいて、「オノマチ、止めさせるな!」という書き込みが、(もう撮影は、終了しているにもかかわらず)再び過熱していますが、前にも触れたように、私はNHK大阪の判断は正解だったと思っています。 さて繰り返しになりますが、ではなぜ、ここで主役交代なのか? それはたぶん、尾野さんが造形した糸子像を、より高い位置に「普遍化」するためでしょう。もし尾野さんが最後まで演じてしまったら、このドラマは彼女の「不磨の十八番」に収まってしまう。夏木マリさんが晩年の糸子を引き受けることによって、尾野さんの創り上げた「小原糸子」という虚構の人物が、オノマチ糸子から離れて、真の意味で「一人歩きを始める」かどうか試される、ということになるわけです。 「普遍化」するとは、例えば「糸子のような人」と云えば、「一言では云い尽くせないけれども、確かにこの世にいる(らしい)、ある典型的な人格像」を、誰もが「一挙に頭に描ける」ような人物造形を目指す、ということなのでしょう。 一言で「カリスマ!」だの「女傑!」だのと概括化し、極度に「平準化」した形容をしてしまっては、生身の人間や事物がもともと放っていた「肌触り」は、大半がその手元からこぼれ落ちてしまう。ところが、それを「虚構」であるドラマとか文学というフィルターを通して「普遍化」すると、一言では云い表せなかったはずのリアルな人物像や事物の姿を、なぜか私たちはたちまち、ありありと頭に描けてしまうのです。 今どき何でもかんでも、ワン・フレーズで二十秒以内に「概括」し、極度に「平板化」した断定を行うのが、グローバリズムの世の中で「是」とされるような風潮ですが、それがいかに「乱暴な思考態度」、あるいは「知的劣化」を招いているか、とくと考えたほうが好い。 簡単には「決めつけ」をようしない、あるいは何でも「平準化」してしまおうとする思考態度に、「ためらい」を持つという構えは、たぶん「他者(異物)と付き合う」第一歩だと思いますよ。 で、これも前に言いましたが、それは実在した「小篠綾子」さんから、虚構の「小原糸子」が独立して歩き出す、ということも同時に意味するのです。私たちは実在の人物のプライヴァシーに深く入って行くのには、普通感覚なら何やら「ためらい」を感じ、それが例え「自叙伝」という形で開示されていたとしても、個人の特殊的な事例に深入りし過ぎることには、ある種の「不毛な感じ」を抱かざるを得ません。 なぜなら、ある現実に遭遇した特定個人の事況を、他人が「何もかも共有し、共感する」ことは、論理的に絶対「不可能」だからです。実在する(した)個人の事況というのは、厳密にこの世に一回的な出来事であって、同時に「私」もまたそれとは別個の「一回的な存在」として、この世に在るわけで、私たちは暗に「これらに私は本質的なところで、影響されることはない(共有出来ない。要は、まったくの他人事だ)」という信憑を抱いているから、深入りしようとする自分の情動を、「あさましい、大人気ない」と感じるのでしょう(そうでない人も、多いのかもしれませんが)。 「普遍化」というのは、それら個々に確かにかつてあった(であろう)事例を、「虚構」の次元に引き上げることによって、誰にでも「共有」出来る姿形に「変容」させる、ということなのです。だって「虚構」なら、私たちはいくらでもその世界に入って、登場する人物や事物を「自由に詮索する」ことが出来るじゃないですか。糸子のプライヴァシーにまさに、このブログのように「ああでもない、こうでもない」と、いくら入って行っても、誰も自分の心に「疚しさ」は感じない(あたりまえです。逆にモデルの実名を使ったら、こんな話出来るわけがない)。 という意味で、「普遍」というのは、誰にも出入り自由で、外にいつでも「開かれている」のです。ただしそれを享受するには、享受する側に「我が身を、いったんカッコに入れる」という、ちょっとした心のジャンプが必要なのでしょう。― つづく ―にほんブログ村
2012.02.27
コメント(0)

Gentlemen First! これまた怒られるのを覚悟で言うのですが、このドラマを観ていて、何やらずうっと一貫して流れているらしいトーンが、前にも少し触れたましたが、仮想的な「男=オスの排除」という「底意」なのです。仮に、この世から「男=オスが、姿を消した」として、ではその後に「男性」性(あるいは「父性」性)とは、どのように顕現して来るのだろうか? すでに数多くの指摘があるように、糸子の振るまい方は、まさしく「男性」性(あるいは「父性」性)の表象であり、だからこそ怒っても泣いて笑っても、いわゆる「底意地の悪さ」みたいな、ジメッとした感じが少しもしませんね。我々は彼女の「男的(父性的)振るまい」に、いちいち拍手喝采しているわけです。 そこには何やら「宝塚歌劇」じゃないですが、一種の「変身願望」があるのじゃないかしらん? こういうふうに現実世界をそっくり引っ繰り返して、笑い飛ばしてみせるという物語形式は、「竹取物語」や「源氏物語」以来、日本文学の歴史にずうっとあるらしいのです。 「竹取物語」は、かぐや姫をめぐる「恋の鞘当て」に、男が(帝も含めて)ことごとく滑稽な形で失敗する話だし、「源氏物語」のいわゆる「玉鬘」系の物語が、「雨夜の品定め」で示された男同士の、まことに「怪しからん女談義」を、「空蝉」「夕顔」以下の物語で、はるかに洗練された女の言葉で、そっくり引っ繰り返してみせる、という構造をなしていますね。 現実には、あり得ない話(道長を連想させる光源氏が、その数多い女性遍歴の中で、この「玉鬘」系の物語でだけ、滑稽な失敗に何度も遭わされる)を、物語という形式によって「転化」させるというのは、一種の祝祭(治外法権)劇場のようなもので、その場でだけは現実を棚に挙げて、「日常」を引っ繰り返すことが許される。 話が長くなるので、これぐらいにしますが、私見ではその淵源するところは、どうも古代歌謡の「相聞歌」あたりにまで遡れそうです。はなはだ牧歌的な「万葉集」などに見られる男女の「恋歌」、実際にそれらが詠われた場所というのが、最近の説では歌に詠み込まれたような野山の中でではなく、酒宴の席で交されていたらしいというのです。 となれば、これもまた一種の「祝祭の場」、つまり現実を「転化」させる場において、許されていた形式ということであり、その意味で「カーネーション」は、現実世界を物語の中でだけ「倒置して、笑い飛ばす」という、日本古典文学の直系なのかもしれませんね。 もちろん有名なモデルが現実にいて、しかも現代にまで入り込んで来るドラマですから、リアリティーは厳密に確保されねばならないのですが、いちばん底の底に流れるトーンには、上にみたような「遊び心」があるようにも思える。 早い話、そうとでも考えない限り、これほどまでに男=オスがほとんど語られることなく、舞台から次々と退出させられるドラマというのも、ないんじゃないか(優子の夫も、何やら時間の問題みたいだし)? 確かに近所にオッチャンはずうっといるし、他ならぬ北村は、「男じゃん!」と言われてしまいそうですが、じつは北村も組合長の三浦も、かなり独自の「物語」を多量に抱えているはずなのに、周防がそうであったように、そちらは不思議なほど何も語られない。 モデルが居るということで、リアリズムの菰を上手く被せてあるけれども、これらは明らかに「確信的に、巧まれている」のです。 一言で云えば、「男は、先に退出せよ」と(何だか「女子会」みたいですが)。 では、先に「男=オスが、姿を消した」として、その後に「男性」性(あるいは「父性」性)とは、どのように顕現して来るのか?よく考えてみれば、女性方にとって男=オスというのは、ひょっとして、いちばん身近な「他者」であるのかもしれないのです。 男=オスを、いったん周辺からすべからく排除してしまえば、このいちばん身近な「他者」の、「他者性」たる所以が見えてくるかもしれない。糸子が「男的(父性的)」に振るまえば振るまうほど、男=オス的中身の在り処が分かって来るみたいな。 私が男=オスだから、それを別にひがんで、言っている訳じゃないのですが!― つづく ―にほんブログ村
2012.02.26
コメント(0)

糸子的営業、そして経営感覚 「本意に、必ずしも沿わない営業」とは、何なのか?私の拙い経験で言いますと、いわゆる本当の営業力を持った人物というのが、ある特定の事況に追い込まれた時、やることというのは「常人には、到底出来ない」こと、場合によっては、周囲が「眉をひそめてしまう」ようなことを、「やることがある」ということなのです。 私の経験ということではなく(私には、そもそも、そんな神技的営業力などありません)、たまたま管理していた二、三の営業所で、そうした営業マン(男女とも)たちと仕事をしたことがあるからです。 糸子もそうなのですが、トップクラスの営業マンの中には、「自分の身柄を簡単に、相手に差し出してしまう(つまり、余計なプライドは捨てる)」という構えの裏に、そうすることで「相手の心理を読み、自分の意に誘導する」術を天才的に備えている人たちがいるらしいのです。糸子に関しては、これは営業ではなかったのですが、八重子を東京に連れて行こうと誘うシーンに、少し現れていましたね。 通常の営業販売では、これは顧客をキチッと納得させながら、ベストフィットな状態に導く術であるわけですが、ある特定の事況では「エゲツない」営業になる危険も孕んでいるというか、もっと端的に「無茶な」仕事になり得る。 ひらたく言えば、顧客の真意とは関係なく意図的な「誘導」で、本来予定していなかった商品も買わせるとか、逆に一ヶ月待てば大きな売上げになるかもしれない顧客を「先食い」するとか、あるいはこれは画面から想像することですが、自身のスキャンダルも話題にして、客に「媚びて」売り上げを立ててしまうとか、といった類のことです。 糸子が客に「『命短し、恋せよ乙女』ちゅうことですわ。ワハハ!」と言い放つ時、背後の昌ちゃんが顔をしかめていたでしょう。昌ちゃんからすれば、「そこまで、やるか?」ということではなかったか。「客に媚びない」というのは、糸子の営業の信条であったはずなのです。 しかし、もともと力のある営業マンが、締め切りに向けて追い込みをかける時、あるいは数字に執着する強い動機(インセンティヴとか、ランキングとか)がある時、発揮される力の中には、到底常人がマネの出来ないような種類の、パフォーマンスが現れてしまうことも事実なのです。で、その現れ方には結局、個々の営業マンのごく個人的な性格が出てしまうように思う。 自身が人の心理を「操れる」事をよく知っている時、それを常識(良識)の範囲で抑えるか、そこから越えてしまうかというのは、結局個々の営業マンの「人間性」に由るしかない。管理する側から見ていると、あまりにも「悪魔的」な自分の技量の魔力に、ついつい溺れてしまう人もいたわけです(お互いに、辛いところですね)。 まあしかし、ここから先は皆さんで想像してください(いかなるハウツー本にも、こうした核心的な話は、まず載ることはありません、というより載せようがない。厳密に「個人的な事況」なのだから)。 というわけで、糸子もまた店の存続に関して、かつてない危機に直面した時、他人には話し難い営業をやったのではないか、と想像してしまうのです。 では、自身の信条を曲げてまで、特定的な売上利益を挙げる目的は何だったのか? 私はそれは、その後の昌ちゃんと松田に見せた、糸子の得意満面の顔を観ていて、まさしく彼らを抑えるためにしたのではなかったか、と疑っているのです。 「店も客も従業員も家族も、そして周防とその家族も守る」という中で、何を最優先に考えるか?周防にはご存知の通り、別の店を持たせました。しかし肝心の自分の店を考えた時、最優先で抑えるべきは店経営の要、現場と経理の手足を「力づくでも、離反させない」という事ではなかったかと思うのです。 顧客がある程度去ってしまうのは、これは糸子の力ではどうしようもない。従業員の縫い子が、一部離れて行くのも、これも仕方がない。家族にしばらく辛抱してもらうのも、やはり仕方がない(それなりの蓄えは、あったでしょう)。しかし現場と経理の要が離反したら、店の「経営自体が、成り立たなくなる」と考えたのではないか? 文字通り自身の手足であった彼らを抑える唯一の手段として、彼らがおとなしくなるまで、とてつもない売上利益を「叩き出す」ために、あえて自身の信条を曲げてでも、「エゲツない」営業販売をやっただろう、というのが私の観測です。 とすれば、ここのシークエンスについて、糸子の言葉数が珍しく「少ない」理由が、何となく浮かび上がって来るような気がしません? 以上は、まったくの推論(余談、余談!)だったのですが、逆にここから、本来「あるべき」糸子の営業に対する考え方とか、経営感覚が多少は見えて来るかしらん、と思って話してしまいました。― つづく ―にほんブログ村
2012.02.25
コメント(0)

営業と経営 アートの話から、営業というはなはだ下世話な話に、いつの間にやら移ってしまったというのは、直子を通して垣間見えた糸子の衣装に対する美意識の在りようを知りたかったのと、これも必ずしも詳しくは語られてない、もう一つの大きな課題、糸子の営業と経営のセンスについて考えてみたかったからです。 前にも少し触れましたが、このドラマは糸子という極めてヴァイタルな人間の一生を描くことが主眼なので、彼女の言わばごく現実的な(あるいは下世話な)、営業センスとか経営感覚といったことに関するエピソードが、いつも後背に退いている感じがするのは、止む負えないところがあるわけです。 したがって、先の糸子の衣装に対する「美的センス」の描写がそうであったように、このドラマをごく現実的な衣装デザインや営業や経営の成功ノウハウ、あるいはそちら方面の「知的好奇心」のために観てみようと、期待していた人たちには、おおいに不満が残るかもしれません(現に、感想欄にはそうした書き込みが散見しますね)。 しかし、別に私はNHK大阪の回し者ではないのですが、こうしたドラマをファッションや起業成功者の物語としてだけで観るのはもったいない。それは「天才子育ての秘密」といった、ノウハウの類についても一緒ですよ(糸子的あるいは善作的「子育て」を、無前提に行って成功する家庭は、今どき、絶対ないでしょう)。 もし、そうした部分が垣間見えたとしても、じつは、それらは真っ先に「古びてしまう」種類の中味なのです。「源氏物語」の中で現代人にとって最も退屈なのが、当時最も「トレンディー」だった(つまり一千年前の大宮人が、一番知りたがった)詩歌管弦、お香、書などに関するくだりでしょう。私など、そうしたところは全部すっ飛ばして、今でもドラマとして、「読める」ところだけを読むという、まことに乱暴な「読書」をしています(と、また自慢?)。 まあそんな話はさておき、そうは言っても、やはり糸子のリアリティーを担保する手立てとして、数少ないエピソードから彼女の営業センスとか経営感覚というものも、もうちょっと抽出してみたいと思うのも、観る側の(はなはだ下卑た)心というものです。したがって以下の話は、一種の「余興」です(「茶番」じゃないですよ)。 じつは前の周防との物語の中で、触れようと思って忘れていた事柄があります。例の「家族会議」の後に、周防とのまことに切ない「分かれ」のシーンがあったのですが、その直前のシークエンスで、糸子のナレーションで「店は、繁盛してました」というくだりがありましたね。 その前後のシーンが、全編を通じてもあまりによく出来ていたので、ついうっかり聞き逃してしまうところですが、この「語り」には少しおかしいところがある。端的に言うなら、これは「うちは、店を必死のパッチで、繁盛させました」と言うべきところでしょう。なぜなら、そのサラリとした「語り」の印象とは裏腹に、糸子の店は自身の信用失墜によって、存続の危機に立っていたはずだからです。 しかし画面では、糸子が店頭に立って陣頭指揮をしたり、とんでもない売上利益をあげて、松田と昌ちゃんに特異満面の表情をしてみたりと、これを観ているかぎり、彼女のナレーションと何となく辻褄が合わないのです。 つまり、これは「店が(独りでに)繁盛した」のではなく、「糸子が、繁盛させた」出来事なのです。それをシレッと「店は」と言い換えているのには、例によって「糸子の意図」が働いているに違いない。要は、回想で彼女があまり触れたくない要素が、ここには含まれているのではないか? 慧眼の皆さんなら、すでに気付かれていると思いますが、それはおそらく彼女が、本来あるべき営業販売の考え方、あるいは店の経営姿勢、はたまた彼女の人生観に照らして、ここの事例が「あまり触れたくない部分」だったからだろうと思うのです。 どう言うことかというと、「家族会議」で「店も客も従業員も家族も、そして周防とその家族も守る」と啖呵を切った手前、スキャンダルで追い込まれた糸子が、その後、彼女の「本意に、必ずしも沿わない営業」をしていたのではないか?という疑いが出て来るわけです。― つづく ―にほんブログ村
2012.02.24
コメント(0)

衣装デザインとは? と、まるで、イッチョマエ(!)の衣装美術論のようなことをしゃべっていますが、もちろんそんなことが目的ではなくて、直子の「極北の美的感性」を探って行けば、それは同時に糸子の美意識の在り処を、逆に写し出してくれるかな、という期待があったのでした。 ところで、このはなはだアート的なアプローチで、この世に唯一無二の単独者であろうとした「表現者」直子は、どのようにして社会性を把持していたのでしょうか?得てして「美の追及者」は、社会から孤絶するケースが多いじゃないですか。 このあたりは(じつは、難しい問題を含んでいると、思うのですが)、結局何だかんだと言っても、彼女が自身の独創性の「表現手段」として、服飾デザインの道を選んだということが、大きかったのではないか。もし仮に絵画で自分の「表現」を究めようとしたならば、その道はかなり困難な事態になったはずです。で、その道を選ばせたのが、反射程としての優子であったことも、やはりエピソードにありましたね。 先に衣装デザインは、「絵画と彫刻の相反する持ち味を、一挙に満足させるツール」というような言い方をしましたが、もう一つの大事な要素は、それが「日常的に使われなくては、意味を為さない」ということでしょう。 商品として売れないと困るから、そうなのではなくて(商品としての絵画や彫刻は、日常的な使用など、最初から想定していません)、衣装の本質が「生身の身体を、被うモノ」である以上、被われる身体が生き生きしなければ、衣装の方もその独創性を「同時的に失う」、という特色があるのです。 というわけで、衣装デザインとは本質的に、それを「まとう人との関係性で、成り立っている」わけで、もとより社会から隔絶した「美の表現」ではあり得ないのです。糸子のオーダーメイドというのは、「客が、それを着て喜ぶ」ようなベストフィットな事況において、糸子的「衣装表現」足り得ていたわけでしょう。つまり最初から社会性を抜きにして、衣装は語れないのです。 いくら直子のデザインが、独創的で「客を選ぶ」中味であったにしても、相手との関わりなしに衣装は創れない。そういう意味で衣装は、決して「単独者の表現」ではなくて、「協同性の表現」なのでした。 それで思い出すのが、このドラマのごく初期の印象的なシーン、紳士服屋の縫い子であった糸子が、客の踊り子の冴に「あんたが本気で着てくれへんのやったら、うちはあんたの服なんか作らへん。帰り!」と言い放つところ、衣装表現の在り処が如何なるものかを、よく現していて感心したものでした。 物語では当時たしか十九歳ぐらいだったと記憶しますが、いわば衣装表現の本質をついたこの言葉、多少「ホンマかいな!?」とビックリしたのも事実です。冴という人物、めったに出て来ないのですが、わりとこのドラマの肝心な所を、ズバリと突いているシーンが多い。 だって、これって世のすべての営業マンが、顧客に対して一度は言ってみたい科白じゃないですか。「あなたは、私のお客じゃありません。お引き取りください」(こんなこと絶対言うたら、アキマせんよ)。しかもその言葉を担保しているのは、糸子の才能とか技術じゃない(そもそも、この時たしか、糸子はイブニングドレス自体を見たことなかった!!)。 この時、彼女の言葉を保証しているのは、例によって自分の「身柄を差し出す」潔さだけなのです。 営業の極意が、よく言われるように「モノではなく、人」なのであれば、彼女はまさしく「我が身を、相手に差し出して」判断を迫る。断られば「我が身一つに、引き受ける(モノに転化しない)」。受けてくれれば、全部「うちの手柄」。このまことに簡明な接客態度(営業センス)は、やはり父善作との濃密な関係性を抜きには語れませんね。― つづく ―にほんブログ村
2012.02.23
コメント(0)

衣装とデザイン ところで、直子の美意識というのは、どういうタイプの「表現」なのでしょうか?同じ服飾を扱いながら、なぜ彼女の衣装だけが「尖がって」来るのか?素人なので何とも言えないのですが、このドラマが「虚構」であるという前提で、ある程度の想像もしてみたいという誘惑に駆られますね。 独創的なコンセプトというのが、日常着(商品としての服飾)に、そのまま適用出来ないのはあたりまえのことで、これは何も服飾に限ったことではない(車でも家具でも家でも、一緒)。モード・コレクションの出品作として、一つの提案をするのなら、早い話、ギスギスに彫琢されたモデルが、ステージで二、三分の間着れれば好いわけで、極論すれば裏地がピン留めでも構わないわけでしょう。しかし商品としての衣装は、それがどんなコンセプトであったとしても、一回着たら少なくとも十数時間の使用には、耐えなくてはならないのではないか。 糸子が「着心地」を第一にしたのは、買い手の満足の在り処を、よく心得ていたからです。 さて、そう考えていると、直子のデザインに対するエピソードが、もっぱら絵画的な話を中心に描かれていたということが、一つのヒントになるかもしれません。優子だって同じようにデザイン画を描いていたのは、最近の話で明らかになっていますが、我々は子ども時代の二人が、姉は裁縫の方に、妹は絵画の方に、もっぱら関心が向いていたという記憶があるのです。 なべてしまえば、直子は「より、アートを指向した」んだろう、ということになりますが、私はその中でも「平面芸術」である絵画に強く惹かれた、ということに関心を惹かれます。 三次元(あるいは、「時間性」も含めた四次元)であるこの世の事物を、その色彩も含めて、どのように平面に落とし込むかというのは、絵画図像の歴史そのものなのであって、さまざまな試みが為されて来たわけです。私はまったくの素人なので、偉そうな話は出来ないのですが、それでも面白いのは「平面図象」が色彩を重視するのに対し、「立体図像(彫刻)」は必ずしもそれに関心を示さないのではないか、という傾向なのです(私見ですよ。現代アートでは、色彩の立体図像があたりまえのように創られています)。 これはたんに私の妄想なのですが、人間というのは色彩を「平面で捉えたい」傾向があるのかしらん、と思ってしまう。色彩を施された彫刻というのが、なぜかピンと来ないというのは、人の視覚は立体図像を把握しようとする時に、色彩があるいは邪魔をする、ということがあるのかもしれないのです。 ロダンの彫刻を観てください。どう考えても、この彫琢されたフォルムを把握するのに色彩は邪魔でしょう。逆に先のピカソの絵は、まさしく色彩平面であることによって、その独創的なフォルムを把持しているのです。 となると、衣装デザインの面白味とは、まさしく「立体図像としての身体を被う、色彩としての平面図象」という構図が見えて来はしまいか?そして衣装デザインの妙味とは、あるいはこの絵画と彫刻の相反する持ち味を、一挙に満足させるツールとして、一分のアーティストには映ったのかもしれない。直子はそういう入り方で、衣装デザインを行っているのかもしれないのです。彼女が身体から最も遠い幾何学模様を、しきりと描いていたのを思い出しますね。 さて、ここまで妄想を膨らませてしまうと、衣装に関してもう一つ、やはり触れずにおれないことが出て来るでしょう。それは衣装を被った人間が、まさしく動き続ける「生身の身体」であるということです。言い換えれば、衣装デザインには優れて「時間性」に対する美の感性も、強く求められているということでしょう。 衣装は画板に凍結された美ではなく、立体図像の「動き(dynamics)」の中でこそ、その最高の美しさが表現されなければならない。ウーン、なかなか面白いのですが、直子にかかると、それがさながら「動くアート」になってしまうんですよね。― つづく ―にほんブログ村
2012.02.22
コメント(0)

あり得た二回目あるいは三回目の「喪失」 今まで何となく影の薄かった聡子が、「もう、さびしい!」と大写しになって、にわかに前面に出て来ましたね。糸子の「勝さん似の、いつも上機嫌で」というコメントを待つまでもなく、彼女が笑顔のままで、「こっちを、向いて!」というシグナルを発し続けていたのを、私たちは知っているわけです。 糸子にとっては、迂闊だったと謗られてもしょうがない状況ですが、何しろキャラの立つ姉二人のほうに、どうしても目が向くいてしまうのは、神ならぬ人間の「業」なのでしょう。 じつは今回の一件で、糸子は「二回目あるいは三回目の、大きな喪失」を味わったかもしれない。勝が「いつも上機嫌」であることによって、糸子がさしたる関心を抱かなかった結果、取り返しようのない「解決不能の謎」を残したように、聡子がもし洋裁でなくテニスを選んでいたら、彼女は「永遠の謎」として糸子の前から、立ち去っていたかもしれないのです。 もちろん、勝のように「遺骨」となって糸子の前に戻って来る、ということはないのでしょうが、糸子が死ぬまで気付くことのない傷を負ったまま、別の人生を歩んで行ったかもしれない、というシナリオは、かなりの蓋然性をこの時点では持っていたわけです。 大事なことは、今回の一件は、聡子のほうから「手が差し伸べられている」ということで、糸子はまだその重大性に充分気付いてない。はたして、それに糸子のほうから「気付く」ということがあるのかどうか?これは「勝問題」が、糸子の中で解決するシチュエーションがあり得るのかどうか?という問題と再びリンクして来るわけです。笑顔のまま「すんません、すんません!」と、善作に叩頭していた勝とは何だったのか、我々は糸子とともに、今だに答えを見つけられないでいる。 ついでに言うと、へタレの勘助が「俺には、会う資格がないんや。もう」と言って、不思議な微笑を浮かべたまま、立ち去った時の表情とも、驚くほど「笑う」聡子は相似しているのです。 今回はすんでのところで、何とか事件化せずに済んだわけですが、それにしても、勝や勘助の不思議な「笑顔」が、今になってイヤに気になって来ますね。こういうキャラクターというのも、今まであったのかどうか? ただし、糸子には何やら罪障感だけはあるようで、その分、どうしても姉二人に比べて、聡子に「甘く」なる。このあたり、作者はよく見てますね。 それともう一つ、その聡子が教室で「じっと座って居られへん」子だったというエピソードは、ずいぶん今日的な課題を含んでいて、このドラマはまたしても、「世間の禁止」に踏み込もうとしているのかもしれない。大したものです。 一見、スポーツ好きの活発な子というような、ぼやかし方をしているけれども、むしろ彼女は一種の「ハンデを負った者」、私に言わせると、端的に「社会的不適応者」として造形されているようにも見える。例えば、小学校で一分と経たず椅子に座っていられない、というようなタイプの子としてです。 これに対して、世間は普通どういう解決の仕方をするか?と言えば、それはもうほとんど一意的に、「矯正=多数への平準化」という形を採るでしょう。たぶんこのドラマでは、こうしたテーマをベタな形で前景化するようなことはしないでしょうが、イメージとしてさり気なく「刻印」してあるというのが、後々ひょっとして全編の構想を支える重要なファクターに成って来るかもしれないという意味でも、この点は頭の隅っこに入れておいたほうが良さそうですね。 なぜなら、直子も「この世に唯一の単独者」として、モーツァルトがそうであったように、一種の「社会的不愚者」、決定的に「不適応な少数者」足らざるを得なかったからです。と考えると、勝も勘助も、そしてたぶん糸子もまた、厳密には世間に理解されざる者として世に在ったのではないか、という気がして来るのですが、どうなのかなあ。 それにしても、次から次へとさまざまな想像を、このドラマは我々に投げかけて来ますね、まったく!― つづく ―にほんブログ村
2012.02.21
コメント(2)

優しきサリエリ 以下は、またもや「深読み」の類になります。 優子が東京行きを望んだ心理は何か?表向きの「直子を助ける」という大義名分は、どうも彼女の裏の心理を隠す手立てに使われた感じがしないでもない。というのも、子供の世話や夫を残したままの「逆単身赴任」というのは、やはり状況的にどうしても「不自然」なのです。 とすれば、それを押してでも、優子には東京に行く強い動機がなければならない。一つは、彼女が「接客」や「店の経営」に関して、面白味を感じ出したこと。で、もう一つは、もちろん直子の「悪魔的」な才能の在り処を、自分の目で見届けたい、という欲望でしょう。 糸子の「無敵の外面(上手いなあ!)」という形容は、すでにオハラ洋装店で、彼女が自分なりの「接客技術」を身に付けていたということを暗示しており、それを「東京で試せたら」と思うのは、もともと才気のある彼女からすれば、自然な欲望でしょう。 そのあたり、優子のいわゆる「政治性」というのは、先日の「営業の笑顔」で、すっかり明らかになっていましたね。彼女は直子に対して別の仕方で、ハッキリと自分の「優位性」を見出しているのです(ちょっと、意地悪い見方ですが)。 しかし問題は、もう一つの方でしょう。そこで思い出すのが、映画「アマデウス」に登場したサリエリのことなのです。 サリエリはモーツァルトの「邪悪なまでの天性」に嫉妬し気も狂いそうになるが、結局自分が到底それに太刀打ち出来ないことを、嫌ほど知らされる。 で、選んだ道というのが「それじゃ、その邪悪の在りようを最後まで見届けてやろうじゃないか、それが出来るのは私だけだ。なぜなら彼の音楽を真に理解しているのは、私だけなのだから」と、世にも「奇態な観察者」になることを決心する。 それは「音楽の天性」を、品行方正で敬虔な我が身に与えず、子供のように「悪魔的」なモーツァルトに与えた、神への復讐であると同時に、我から大衆の身=享受者に自分を置くことでもありました。 映画のラストシーン、病院(異形の人間たちの収容所)に隔離されたサリエリが語るのは、― 「凡庸なる皆さん、私は諸君のすべてを赦そう」 ―というものでした。これは色々な解釈が出来そうですが、「天賦の才」を授からなかった「凡庸なる皆さん」、そんなことは気にする必要はない。私はこうして諸君と一緒に「天賦の才を享受している、それで好いのさ、安心したまえ!」ということでしょうか。 したがって、これを私流に勝手に翻訳するなら、ここは、― 「凡庸なる人々、安心したまえ、私は諸君の仲間だ!」 ―ということになります。 優子はもちろんそんな「邪悪な心」は持ち合わせてないのですが、直子の指し示している「極北の美意識」が、どのような「身のよじり方」で産み出されて来るのか、それに寄り沿ってみたい、という隠された心理も働いていたのではないか?なぜなら「その秘密が分かるのは、私だけだ」と。 泣きべそ直子は、まだ気付いてないけれど。― つづく ―にほんブログ村
2012.02.20
コメント(0)
泣きべそピエロ 優子は創造する心と独創的な作品が分かる。しかし頭が良過ぎて、それを産み出すために必要な、身をよじるような浅ましい「変身」など、自分がようしないこともまた、よく知っていたのでした。「分かる」ということと、「出来る」ということは、別の事況に属するらしいのです。 この創造する力とは、例えば人によっては「デモーニッシュ(悪魔的)」とか「狂気」と呼ぶような、常ならぬ心の発動を指すのでしょう。秀才はこの種のコントロール不能な情動の、むやみな発現を基本的に嫌うものです。 逆に、例の直子の弾けた衣装と驚倒すべきアイメイクは、まさしく自身を創造者に「化身」させるための扮装でした(他の誰にも、その「扮装」は真似出来ない)。で、それは同時に彼女が次女を拒否し、唯一無二の「直子」としてこの世に顕現するために、どうしても為さねばならない「変身」の様態でもありました。 と考えて来ると、今在る「直子」というのは、まさしく次女から出発して、その「否定形」から出来上がっているわけで、もし彼女が長女であったなら、はたしてそのような「変身」を必要としたのかどうか?そして同じような仕方で、創造する力を手に入れることが出来たのかどうか? ところで、今やすっかり廃れてしまったサーカス、子供心にあの「ピエロ」の扮装に可笑しさと同時に、何やら凶々しい「不気味さ」を感じたのは私だけでしょうか?面白芸を何故あの「扮装」で演じなければならないのか?当時の私には分からなかったのです。その思いはチャップリンの出で立ちや、フェリーニの映画を観た後も変わらず、何やら人類史的な刻印を感じないでもない。 というわけで、今漠然と思っていることとは、またしても内田樹さんの本なのですが(何だか、受け売りばかりで、しょうがないですね。「寝ながら学べる構造主義」文春新書、私にピッタリです)、そこに出ているM・フーコーの話なのです。フーコーの「狂気の歴史」に由れば、西欧社会において精神病者や異形の人たちというのは、かつてはしかるべき宗教社会的役割を負っていたというのです。それは「神に呪われし者」の具象的様態として、常に街中に顕現していなければならない、という意味においてだそうです(コワイ話ですね)。 彼らが社会の表から抹消されたのは、国民国家と近代産業社会の歴史が、一様に標準化された人間を必要とし出したのと並行していて、精神病学は彼らから「神の教えのネガ」としての聖的役割を奪い、組織的に隔離病棟に送り込む手立てとして現れたというのです(ウーン、難しいですね)。 しかし、私がピエロに見た「不気味さ」とは、あるいはこの近代以降、表舞台から姿を消したはずの「異形の人」たちの姿を、そこに見止めた結果であったかもしれず、それはまさしく「狂気」を表象したものだったのかもしれません。ピエロの形相は面白芸を見せるためというよりは、社会の表から追いやられた「狂気」の「悲しみ」を表しているのかもしれないのです。そうと知らずか、ピエロのアイメイクには、「涙」が描かれますね。 チャップリンにおいて「哀愁」だった「変身」の形相は、フェリーニになると明らかに「異形の人」に変質して、観る側に迫って来ますね。 直子の恐るべきアイメイクと装束は、追いやられた「内心の狂気」を呼び起こすために必要だったのであり、だからこそ彼女の涙は、人類史的な「あわれ」を誘ってしまう(と、ちょっと大げさになってしまいました)。 ここのシーンの面白味は、彼女がスッピンではなく「ピエロの涙」であることによって、別の新たな表象を示していたからだと私は思っています。― つづく ―
2012.02.19
コメント(0)
「裸眼の心」と、異物(他者)の検知力 ― 「言うてる中味はぜんぜん分らへんけど、その人たち同士で意味が通じてるいうことは分かる。それと中味が分からへんでも、それが本気なもんかどうかは、何となくウチには分かるんや」 ― 若者たちの語る「夢」や「作品」を前にして、糸子は「その中味は、まるきり理解出来ない」けれども、それが自分の美学や価値観とは違った、別の「明示性」を放っている、ということは分かる。そして肝心なのは、内容が理解出来なくても、それが「本気なものかどうか」という、若者(他者)たちの「構え」だけは、ハッキリ分かる感性を持っているというのです。 それを糸子は「外国語みたいなもんやね」と、いつもながら卓抜な例えで語っていますね。 その意味するところは、異物(他者)はまさしくその異物(他者)性であるによって、「理解不能」なものとして目の前に在るけれども、私はその真贋を「見極める仕方は、知っている」ということなのでしょう。これは人生のすべての局面で、彼女が外部との対し方において、「王様が裸であることを指摘した子ども」のような「裸眼の心」を、常に示してきた結果出来ることなのです。 もともと「先入観」を抱かない気質だったというより、内心に沸き上がる先入観を「いったん、棚に上げる」あるいは「カッコに入れて」相手(他者・異物)と対してみるという「構え」は、やはり彼女のこれまでの人生経験から来たものでしょう。「信じるに価するものか否か」は、結局「我が身をサラで、取りあえずそこに差し出して」判断するのが、一番確かで間違いが少ない。否、仮に間違ったとしても、そういう仕方での間違いなら、「自ら引き受けることが出来る」ということなのでしょう。 そのあたりの経緯は、これまでのさまざまなエピソードで語られて来たことでした。とは言え、その継起となったものが何だったのか?ということは、やはり気になりますね。 ということで、またまた父善作の指し示していたものが、問題になって来るのです。先日、はなはだ晦渋な物言いで触れた「父性」性の話なのです。 繰り返しになりますが、― 「同じような仕方では、聞いてはいけない」事柄の聞きかた(対し方)というのは、要は「自力で、体得する」しかなく、そしてそれは「絶対、他人から教わることが出来ない」境域のもの…で、「父性」性とは、このまさしく「自力で、体得する仕方」に子どもを導く(つまり、大人にする)、その在りようそのものを指す ―といった内容でした(スルーしてもらって、いいですよ)。 糸子は物事への「対し方」だけを、父善作から文字通り「叩き込まれた」のであり、中味の方はすべて「自力で調達」して来た、ということなのです。 今回のエピソードで面白いのは、いつでも自分をいったん棚に上げて、素の状態で相手(他者・異物)と対している糸子が、もともと異物(他者)に対して、余計な「畏れ」を抱かなかったのに加えて、むしろ「身を差し出してしまう」ことによって相手(他者・異物)から、「新たな面白味を、見出せる(かもしれない)」ということに気付いた、ということでしょう。じつはこの時点で彼女は、空を舞うトンビ(若者)よりも、天高い地点に身を置いているのです。 ややもすれば、自身が築いた価値観に「権威的」にしがみつきがちになる歳でありながら、あえて自身を「素に置く」ことによって、世の中に新たな「面白味」を見出す。実在の綾子さんが、九十歳を越えて「私は、まだ子どもです」と言って憚らなかったのは、そうした一種の「擬態」を取れば、「世の中が、面白くて仕方がない」ということを知っていたからでしょう。 まあ、これを「茶番や!茶番!」というのは、ちょっと言い過ぎだとしても。― つづく ―
2012.02.18
コメント(0)
誰が、直子の「事業資金」を出しているのか? 言うまでもなく、それは糸子でしょう。それについてのエピソードが、まったくないのはおかしいというか、前から気になっていて、ひょっとすると、このドラマ全体の「格」を毀損するほどの、問題を含んでいると思っているのです。 細腕繁盛記あるいは家族劇としては、ほぼ満点に近い評価であっても、このドラマ全体に「お金」の取り扱いに関して、ひょっとして「甘さ」があるのではないか?ということを指摘したいのです。「お金」の貸借が人間関係に決定的な「心理的不均衡」を生み出す、というのは実社会の常識なのですが、どうもそのあたり、当の糸子じゃなくて、製作陣自体がもう一つ分かってないところがあるんじゃないかと思う。 それは何も今回の件だけじゃなく、玉枝や八重子そして奈津に対する取り扱いで触れたことでした。それを理解していないとすれば、現状の日本の政治経済社会が、そうした「不均衡な構造的関係」を、全国に張り巡らせることによって権力機構を維持し、その結果日本社会全体のマインドを毀損して来たという現状を、ある意味「追認している」ということになるのです。 このあたり、ひょっとすると商売をされている人の中には、「金銭貸借」あるいは「保証人」というのは、「お互い、持ちつ持たれつで、しょうがないんやで」という考えかたをする人も多いかもしれません。別にそれはそれで良いのです。「金銭哲学」はそれぞれで、現状そうしないと回って行かない、という「現実」もあるかもしれない。 かと言って、それをあたかも「当為」のごとく、無前提に話を進めるのは、「危ない」ということなのです。「小原家の場合は」という「但し書き」で、その考え方を「相対化」しておく必要があるのだと思う。 今現状、糸子と真に対等な関係性を保っているのは、誰でしょう?先に上げた人たちはもちろん、かつての周防も例の北村も、糸子と「心理的に対等」とは言い難いのです。あえて挙げるとするなら、此間ちょっと出て来た冴ぐらいなものじゃないですか?しかしその割には、彼女の出番はあまりにも少ないのです。 まあ、「何もそこまでカタいこと、言わんかて、ええやんか!」と謗られそうですが、家庭劇、家族劇であっても、そうした社会的背景とか現実というのは、キチッと扱っていないとおかしい。直子はあたかも天から振って来たお金で、「夢のようなお店」を開いたかのごとくです。高度成長期だからといって、まさか装麗賞一本に資金を投じてくれる公的資金などないでしょう。 糸子がどういう形で、娘に事業資金を与えたのか、経理の恵も含めてどういう考えかたを小原家がしているのか、という点について客観的な叙述がないと、観ている者に間違ったメッセージを送ることになる。 私はこの件は例の「不倫騒動」よりも、はるかに重大な問題を含んでいると思っています。子供や若者に対して金銭に関する間違った観念を発信し続けているかもしれない、という点においてです。 と同時に、「これは所詮、成功したお金持ちの、ごく特殊な家族物語じゃん!」といった言い方で、低評価を下している人たちへの正当な反論が出来なくなってしまう。 それにつけても思い出すのが、昨日も触れた「横堀川」などの、かつてのナニワ商人物語の類のことです。たんに懐古趣味じゃなくて、その美しい「船場言葉」もさることながら、大人社会における商売だの実社会の厳しさの空気感というのは、中味をほとんど理解していなかった当時でも、子供心にほとんど「畏敬」を抱かせるほどのインパクトがあったように思うのです(たんにセピア色に染まった、「記憶」のなせる業かもしれませんが)。 「家庭劇だから、まあ好いんじゃない」ではなく、むしろ優れた「家庭劇」だからこそ、そうした背景をキチッと押さえておいて、大河ドラマや小説に匹敵する「格」を守ってほしい、と思うのは私だけでしょうか?他の「作り込み」が、きわめて優れているだけに、残念でしようがないのです。 このあたりこそ、たんなる「朝ドラ」と「カーネーション」を分かつ大きな分岐点だと思っているのですが、どうなのかなあ?― つづく ―
2012.02.17
コメント(2)
「地言葉」ということ 比較的、指摘する人が少ないような気がするのですが、オノマチ糸子の繰り出す「泉州弁」は、決して「地」のものではなくて、私は「高度に巧まれた泉州弁」だと思っています。早い話、バラエティー番組なんかの「大阪お笑い芸人」の語感と聞き比べてみたらよい。同じドヤし言葉なのに、なぜか品下がる感触がきれいに拭われている。「地言葉」で話す人には、じつは案外これが出来ないのではないか? で、これまた不思議な結晶作用だと思うのですが、ほっしゃん。との掛け合いでも、むしろ尾野さんの語法が彼のしゃべりに「格」を与えている、という感じがするのです(他の相手を、想定してごらんなさい)。こういう品格のある「関西弁」をしゃべる人、昔「横堀川」でしたか、長門裕之と南田洋子の夫婦コンビの「船場言葉」は、子ども心にも「ほれぼれ」としたものでした。彼らも(そして尾野さんも)、たんに関西出身というのではなく、プロの役者としての発声法や語法を、徹底的に鍛えたに違いない。そうした「透過」作業があったうえでの「泉州弁」なのだと思う。 同じようなことで、優子役の新山千春さんの「泉州弁」にも、じつは私は舌を巻いているのです。何度も言うように、現役の世に知られたデザイナーという難しい役柄にもって来て、泉州弁と東京語のバイリンガルを劇中にこなすというのは簡単な話じゃないですよ。さすがに役作りには多少「堅さ」があるものの、少なくとも言葉に関しては、よくある妙なイントネーションの違和を少しも感じさせません。彼女、ひょっとしてプロの役者として開眼したのかしらん。 彼女の操る「泉州弁」にも、尾野さんと同じような「品」を、私は感じてしまうのです(誉め過ぎかなあ)。 彼女のいかにも「お仕着せ」くさい「東京語」が、当時一般的だった東京へのあこがれの気分を浮かび上がらせると同時に、期せずしてそれぞれの「地言葉」を相対化してしまう。むしろ「東京語」のほうを、わざと異和化して聴かせることで、いったい「地言葉」とは何(だった)なのか?ということを、改めて考えさせてしまうのです。 同じような「構え」は、じつは周防の「長崎弁」の取り扱いにも現れていたでしょう。彼の訥弁を糸子と一緒に聴くことを余儀なくされながら、視聴者はその「異和」の向こうに立ち現れている「同調者=共有出来るもの」のニオイを検知する、という仕掛けになっているのです。 で、そういう感触を担保しているのは、このドラマで用いられている言葉が、キッチリ「透過」された「泉州弁」「長崎弁」「東京語」他で成り立っている、ということから来ていると思うのです。仮に無自覚的に「地言葉」で語る役者であったなら、ここまで「汎通性」のある「泉州弁」に聞えたかどうか? 断っておきますが、これは何も「泉州弁」を標準語にしてしまえ、というような下世話な話ではありません。「泉州弁」と言わず「大阪弁」一般を、押しなべて「下品」とか「えげつない」と、無意識に決め付けているかもしれない我々の先入観とは、一体何なの(だったの)か?ということなのです。肝心なのは、そういう印象を日本全国に植え付けたのは、他でもないその「地言葉」をしゃべっている、当の大阪人だったのではないか? 「地言葉」をわざとらしく東京(他地域)で使ってみせるという形で、自己を矮小化し阿諛する仕方で臨んだ結果、大阪一般のイメージを間違った形で発信し続ける、というミステークを犯している(犯した)と言っていいのではないか?自分自身が思っている以上に、大阪人は従来の様態において、損をしているのかもしれないのです(このあたり、実は大阪だけの話じゃないですよ)。 先日の糸子と優子のバトルを思い出してみてください。糸子が優子に浴びせる言葉は、「泉州弁」として聞くから「えげつない」だけで、もしそれを仮に「標準語」として聞いたなら、これははなはだ気性の激しい肝っ玉お母ちゃんの罵声であって、普通に世界中に汎通するキャラクターなのです。実際、その時の科白は「標準語」にも「英語」にも、翻訳可能な言葉でしょう(と、言ったところで、「どの口が、言うてんのや。このアホが!」を、どう訳すかと言われると、それは専門家に聞いてください、となりますが??)。 私が申し上げたいのは、尾野さんを通して造形されている糸子像が、その言葉も含めて「世界性」を持ったキャラクターだということなのです。いかなる意味でも、岸和田の異能親子に見られた、ごく「特殊的な話」ではありません(それを「特別」と見た瞬間に、この物語は我々の手元から飛び去ってしまう)。 したがって、晩年の糸子を誰にするかを考えた時、おそらくスタッフは、このドラマの本来のテーマ(愛とか時間とか喪失とか、まさしく尾野「糸子」が造形した姿)を受けて、その「汎通的」な姿をそのまま具現化出来るタフな「役者」を、まず何よりも求めたに違いない。とくに今回はそれに加えて、「老い」を真正面から引き受けることの出来る人ということで、夏木マリさんが東京の人であるということなど、最初から全然問題にならなかったのではないか? 小原糸子という人物像が、本当に「世界性」を持つのかどうか?そして三月からは「平成の世の糸子」ということで、より「今日性」を持った形で、どのように現れて来るのか?ますます楽しみになって来ましたね。― つづく ―
2012.02.16
コメント(0)
疾走する「悲哀」とは、確か小林秀雄がモーツァルトの音楽を形容した言葉ですが、彼の音楽が基本的にMajor(長音階)の調整を取りながら、聴き進むうちに否応なく「悲愁」のようなニオイが立ち昇って来る、そうした気分を指しているのでしょう。それは桜が満開に咲き誇るのを待たずに、新鮮なまま惜しげもなく散っていくところに、「はかない命の、潔すぎる美」を見出してしまう日本人の感性によく合うのです(まあ、かなりメランコリックな感性ですが)。 ここで大事なのは、その美しいメロディーラインではなく、長音階で駆け抜けていくスピード感そのものが、「悲愁」の感触を立ち上げているということでしょう。 さてこのところ、物語の展開が早すぎて三姉妹の描き方が足りない、というような書き込みも見られますね。しかし、もともと賑々しく「だんじり」のような疾走感で、ヘタすれば置いてきぼりを食うぐらいのスピードで「走り続ける」こと、そしてその後に立ち昇って来る「生きて在ることの、潔く、他には置き換え出来ない、一回性のかけがえのなさ」の後味こそが、このドラマの「通奏低音」なので、これは「拙速」というのとは違う、と私は思うのです。 この「疾走感」は、じつは四十を過ぎた人間だけが感じるスピードかもしれない。二十代ごろまでの「濃いィ~」期間に比べて、三十代~六十代の間というのは、人生的には中心部を成すにもかかわらず、意外なほど「語るべきことがない」、呆れるほどに、あっという間に「過ぎ去って行った」感が強いのです(私だけですかね)。 そもそも、このドラマは「糸子の物語」であって、三姉妹は糸子という人物を語るエピソードの一つという位置付けなのでしょう。まあ何しろ世に知られた世界的デザイナーたちですから、もともと(三面記事的な中味も含めて)そちらに関心のあった人たちにとっては、少なからず欲求不満を感じさせる作りのかもしれません。しかし、そうして三姉妹や服飾デザインに、改めて興味を持った人たちは、むしろこれを機会に自らの「欲望を起動」させて、世に出ている資料をいくらでも自由に探索する楽しみが出来たわけでしょう。 「欲望の枯渇感」こそ「知りたい・学びたい」衝動の発火点なのだとすれば、これくらいの「出し惜しみ」で留めてあるのが、ちょうど好いのかもしれませんね。 「おい、ちょっと待ってェや!」というぐらいに、潔く立ち止まらない「疾走感」こそ、このドラマの生命線なのでしょう。 さて、それと関係あるのかどうか、よく分からないのですが、NHKの「カーネーション」公式ホームページに、フィナーレへ向けての見所というか、製作側の「考え方」のようなことが、かなり詳しく載っていました。別にネタばれになるような話ではなく、どのような姿勢でこのドラマ作りに臨んで来たかという話が中心なので、今すぐ読まれたとしても大丈夫ですよ。 そのなかに、「なるほど!」と思わせられた事柄があったので、取り上げてみたいのです。それは書き込みのほうでも、かなり騒ぎになっていた「主役交代」の件とも絡むのですが、なぜ糸子晩年の俳優を、直前(十二月)まで決めなかったのか?という話なのです。 詳しくは本文を読んでいただくとして、そのディレクターが言うのは「あらかじめ、晩年の俳優を決めることは出来なかった」ということなのでした。 要は、娘時代から疾走し続ける糸子を、尾野真千子さんをはじめとして、スタッフ全体が作り込んでいく過程で、自ずから立ち上がってくる人物像というのが在る。これは実はあらかじめ予期していたものとは、あるいは少しく異なったものであるかもしれない。もちろん構想はするし、現に実在モデルがいるわけですから、ある程度の枠組みは決まっているわけです。 しかし実際には、製作がある程度進行し、尾野「糸子」像が具体的な「身体性」を持って、生き生きと現れて来てから、初めて晩年の糸子を誰が体現出来るか考えた、ということのようです。これって大枠の構想は当然あるにしても、細部をあらかじめ「決め過ぎない」という、かなり「柔らかい構え」だと思いますよ。たんにそっくりさんとか、泉州弁が上手いというような構想であれば、関西系芸人の中に候補者はかなりありそうです。 それを「あえて、しなかった(あるいは、出来なかった)」というのは、たぶん尾野「糸子」の放つ人物像が、ローカルな大阪を飛び越えて、はるかに「普遍的な色合い」を持っていたからでしょう。― つづく ―
2012.02.15
コメント(0)
「どの口が、言う」!とは、大阪のお母ちゃんが子どもを叱る時の、「常套句」と言ってよいと思うのですが、一体誰が言い出したのかいな、と思ってしまうぐらい上手い叱り方ですね。 要は、人格を全否定するのではなく、「その言葉を発しているのは、あなたの中の何?」という形で、相手に自省の余地を残す。「あなたの中に巣食っている、邪悪のその芽は何?早く自分で見つけて」と言っているのではないか? はた目どうしたって、「叩く、つねる、蹴る」という次第で、もっぱら糸子の善作ふう「暴力ママ(!)」振りだけが目立ちますが、目指すところは「あんた、早よう、目ェ覚めェや!」という促しでしょう。ここで肝心なのは「自分で、気付いてくれない」と、いくら周りからヤイのヤイの言ってもムダだということ。 であるからこそ、「何で原口先生が、あんたを認めたんや?あんたを慕って、何で客が来るんや?」という話になる。 それにしても優子、この遅きに失した「大人への旅」は、少なくとも下の二人よりは、はるかに厳しく難しい。糸子が優子を引っ叩くのは、その困難さを感じているからでしょう。私の観測では、糸子が優子を叩いたのは、たぶんこれが初めてなのだと思う。彼女もまた「勝負」に出ているのです。自身の切り開いて来た仕方とはまったく異なった、しかし困難さ加減では同じような事況に陥っている、長女を見詰める糸子の眼差しは複雑だったでしょう。 彼女の「無明の中味」を覗きはしない、というより、もとより「覗いても、仕方がない」。これは純粋に個人的な事況に属するのです。それは例の周防と糸子の関係が、純然たる二人称の事況であって、他人がいっさい関与出来ない種類の事柄であったのとパラレルであって、そうした困難の在りようを糸子はよく知っている。 言わば、糸子からセッチン詰めに追い込められて、「そしたら、どないせえ、ちゅうねん!」と破裂せざるを得ない優子。千代という取って置きの優しい助け舟も、今回は残念ながら、なぜか居ませんでした。 今だ彼女の「無明の淵」は、深いようですね。 ところで、優子と直子、祝福されし者と忌避された者というのは、あたかも女版「カインとアベル」のごとく、兄弟の根源的関係の一面を示しているようで、何だかやるせないですね。「弟殺し」の原罪を背負った人類は、なぜ神は「弟だけを祝福したのか?」、その理由を永遠に「問われ続ける」存在として、根源的に「刻印された者」として在るらしい。 ここで肝心なのは、神は絶対的にそれに「答えてくれない」にもかかわらず、人間はそれを永遠に「問い続ける存在」としてあり続けなければならない、という「構え」なのです。 まあこれは、聖書の中の話ですが、兄弟姉妹という関係が、生き物の基本的な在り方の一面として、古代から「憎しみ会い、競い合う」関係として、意識されていたというのも事実なので、「カインとアベル」というのはその聖書的な表象だったということでしょう。 糸子はその根源的事実だけは「しょうがない」という前提で、この姉妹を見ている。だから大きくなってからの兄弟ゲンカについては、止めようとしない。それに介入することは、子どもを「永遠に子どもの位置(無明の淵)に、留め置くことになる」からです。 直子はそのあたりの経緯を、姉をずうっと見続けて来たことによって、すでに「隈なく知っている」どころか、残酷なまでのあの「眼差し」で見通していますね。姉がいちいち「泣きべそをかき、糸子の顔を伺う」かぎり、自立した真のライヴァルとはなり得ない。逆に言うと、姉が真の「大人」になってもらわないと、自身ももっとデッカく成れないことを、何となく直子は嗅ぎ取っていたのかもしれません。 ― つづく ―
2012.02.14
コメント(0)
「死」及び「死者」 小難しい「父性」性の話は、再びここでいったん止めにして、最近このドラマを観ていて、もう一つ強いこだわりというか、ある「明示性」を放っていることがあるような気がしているのです。これもまた、あらかじめ仕組まれたものなのか否か? それは「死」及び「死者」に対する扱い、といったものなのです。前にこのドラマは「死の場面を描かない」ということを、勘助や父善作の死に絡めて話したことがありました。それをあえて描かないことによって、このドラマが糸子目線を極めて意識している、彼女の視界に厳密に限定することによって、かえって「臨調感」が増している、というような話でした。 確かに登場人物の死の場面がないことによって、糸子の内部に生じた巨大な欠落感を、我々も共有することが出来、したがってその後に続く、周防との恋愛模様も、その巨大な空洞に到来した「他者」として、「むべなるかな」と腑に落ちるところがあったわけです。 さて、ではその後、先週までにアナウンスされた死者はというと、ハルばあさん、松坂家の祖父、そして先週千代によって印象深く語られた、松坂家の祖母貞子の三人ということになりますね。 で、これら三人に共通することは、いずれもその「死の場面に、糸子は立ち会ったであろう」可能性が高い、ということなのです。少なくとも祖母ハルの死には、間違いなく立ち会っているでしょう(だって糸子自身がアナウンスしている)。つまり、これらは善作や勘助のときのように、不可抗力的に立ち会えなかったシチュエーションとは違う。ということは、そうしない明らかな意図を含んでいるのでしょう。 あえてその場面をカットしているのはなぜか?当然思い浮かぶのは、ジメジメした感触を嫌うこのドラマのトーンからみて避けた、とするもの。そしてもう一つは、あえてその場面を出さず、「語り」によってより余韻を残そうとする仕方、ということになって来るのですが、はたしてそれで充分と言えるのかどうか? 私はまたしても、これが糸子の「一人語り」で進行しているドラマであることに、ふたたび注意を促されるのです。一言でいえば「糸子が望まなかったから、省いた」のではないかということで、前に周防の人間像が「ボヤけて見える」のは、糸子がそう望んだから、という話と連動して来るわけです。 それは例の家族会議における、「…ホンマ申し訳ないと思うてます。(せや)けど…二人共もう亡くなってしまいました」という糸子の態度表明に当然結びついて来るわけで、このしごく事実認知的な、したがって周囲から見れば、身も蓋もない物言いは、「生者の世界に、死者は絶対入って来るな!」という宣言でもあるのでしょう。「死者は、死者の世界でどうぞ安んじていて下さい、私たち生者は生きている限り、生者の世界を責任持って引き受けますから」ということなのではないか? 人の死の場面というのは、往々にして生者が死に逝く人に「拘束される」場面でもあるわけです。ひたすら最後の言葉を謹聴し、「生の世界に残される人々」は全員「分かりました」と頭を垂れることを要請される。糸子はそうした死者=他者に「拘束される(呪われる)」構えには、決然としてノーを突きつけるのです。これは決して「死者を、ないがしろにしている」という態度ではない。 したがって糸子が選択した、貞子の最後の言葉というのは、「絶対、生き延びや!」と彼女の耳元でささやいた、神戸での別れのシーンだったということになりますね。貞子がまだヴァイタルに生きていた時の言葉こそ、糸子にとって「生きた共有すべき言葉」だったということなのでしょう。― つづく ―
2012.02.13
コメント(0)
「父性」性の行方 今だ不分明のまま、チクと(?)しゃべっておくことにします。不分明なぶん、ほとんど意味不明なところもありますが、それは私自身が今だによく理解出来ていない証拠なので、気になさいませんように。 場合によっては、スルーしてもらっても結構です。 「父性」性の在り方が、昔から「元々、そういうことになっていた」理由を、善作は知りませんでした。というか、「親がそうしていたからとか、昔からそうと決まっていたから」ということは言えても、結局、誰もその元々の理由とか起源を、これと説明することは出来ないのです。そもそも善作はそういう形で、「問いを立てる」ということ自体、思いも致らなかったでしょう。 で、逆にこの「元の元を問う」ポーズとは、例えば「人は死んだら、どうなるの?」とか「宇宙の果ての果ては、どうなっているの?」といった種類の質問を発する立ち位置に、聞く側は自らすすんで身を置いていることに他なりません。 つまり、こうした質問を発すること自体に、すでに親と子であるような「絶対的に非対称な関係性」に自分を持ちこんで、相手の様子を伺ってみたい、という「構え」が潜んでいるわけで、こういう仕方は本人は気付いていないけれども、「成熟」という道筋からは、ずれている(子どもの立ち位置に、身を置いている)のです。 この手の質問を発する子供の目は、大人がそれに「どう答えるか?」にではなく、大人がそれにどのような「構え」で対しているか?に半ば以上向いているのであって、もし仮に大人がそれに理路整然とマジメに答えたとしても、たちまちそれがゴマカシであることを嗅ぎつけてしまう(元々、答えようのない「問い」なのだから)。 従って、あいまいな答え方をすれば、子供はそのマヤカシが暴露されるまで、際限なき質問を止めることが出来ないわけで、親はたいてい途中でその「親」性を毀損してでも、打ち切りを宣言してしまうでしょう。 この場合、親は自身の立ち位置を放棄し、結果として子供に負けた(子どもの立ち位置と、同列に堕ちた)ことになってしまうのか? 昔、大江健三郎の小説だったと思いますが、この手の質問をした子ども時代の主人公が、瞬時に親に殴り倒される、といったようなくだりがあったような記憶があります。おそらく「親」的立ち位置を保持しようとするなら、究極的にはこうするしかないのかもしれません。世の中が子どもに分からないのはあたりまえで、その相当数はあれこれ教えれば、まあいずれ分かるようになる。 とはいえ、子どもが疑問を抱くことのなかには、あらかじめ答えがあるものと「同じような仕方」で、大人に聞いては絶対いけない境域の事柄が、この世に実際にはあるわけです。しかし肝心なのは、この場合この手の質問は「同じような仕方では、聞いてはいけない」ということであっても、「絶対に、聞くな」ということではない。 はなはだ込み入った筋道ですが、「同じような仕方では、聞いてはいけない」事柄の聞きかた(対し方)というのは、要は「自力で、体得する」しかなく、そしてそれは「絶対、他人から教わることが出来ない」境域のものなのだ、ということなのです。 で、「父性」性とは、このまさしく「自力で、体得する仕方」に子どもを導く(つまり、大人にする)、その在りようそのものを指すのではないか?したがって、ここで言う「父性」性の在り方とは、必ずしも男親だけではなく、女親にも通有する「親性」の在り方なのでしょう(つまり、糸子にも)。― つづく ―
2012.02.12
コメント(0)
優子のこと さて、直子は二番目の(換えの利く)娘でなく、この世に唯一無二の「直子」として顕現するために、糸子のマインドに潜む「美意識」の極北であろうとした。糸子的「意匠」をすべて剥がして行くと、片一方の極に「直子の顔」が現れるような仕方で、です。 一方の優子というのは、「親が望んでいるだろう、喜んでくれるだろう」と思っている姿に、自身をストイックに装うことを以って、いわば「ポリティカリーにコレクトな(政治的に、正しい)」態度として来たのです。これは文字どおり、よくある優等生の典型としての「現れ」なのでしょう。考えてみると彼女は子どもの時から、いわゆる「おしゃま」で、周囲の大人の「顔を伺う」仕方で身を処して来たと言ってよい。生れてこの方、彼女は「親に叩かれた」ことはなかったはずです。「映画観たい」「ピアノ買いたい」シチュエーションでも、巧みに妹たちを巻き込んで、決して自分だけがリスクを取るようなマネはしない。 このあたり、多少典型化され過ぎの嫌いはあるにせよ、同じく長女であった母の糸子とは、著しい違いがありますね。何度も言うように、糸子は常に「自立単独主義」で善作と衝突し、その都度「粉砕」されたのです。彼女には周囲の妹たちを「政治的に利用する」という発想が、ここから先もない。ほとんど「眼中にも入ってないんじゃないか」というのは、大人になってからの妹たちの描かれ方を見ても分かりますね。糸子が優れて「非政治的な人間」だったろうというのは、こういう意味なのです。 この違いは、どこから生れて来たものなのでしょうか?さまざま原因が考えられるにせよ、やはり木之元のオッチャンが言うとおり、「善ちゃんが悪い」ということになるのか?どうか。祖父善作が「猫可愛がり」で、優子を溺愛していたのはさまざまなエピソードで描かれていました。こうした時、子どもは「自身の欲望の情動を起動させずに、欲望を満たす」(政治)術を自然と身に付けてしまうものでしょう。孫の笑顔というのは、祖父母にとって「抵抗出来ない」種類の「可愛さ」であるらしい。 では糸子の場合はどうだったのか?と言えば、これはほぼ間違いなく、彼女は常に「欲望の枯渇感に、満たされ続けていた」ということになる。自己主張、自己言明を繰り返さないかぎり、「何も満たされない」というのは、「自立単独主義」の第一歩でしょう。 もし、優子の振るまい方に「政治臭」を看止めるとするなら、それは幼児の時に遡らなければならない。となると、それを一意的に「優子が悪い」と決め付けてしまうのは、「何ぼなんでも、ちょっと」ということになって来るでしょう。 しかし「政治的に正しい選択(誰にも批難されない振るまい方)」が、我が心にとって本当に「正直」な処し方であったのかどうか。人の顔を伺う姿勢が無意識に目的化した瞬間に、確かな我が身を失うというパラドックスが生じるわけで、糸子から「ホンマに、美術学校に行きたいんか?」と聞かれた時に、「そう」と自信を持って答えられる「自分」がいないことに気付く。 「そんなの、分からへん」という返答を、糸子は「覚悟が足りない」と取りますが、私から見ると「分からへん」と答える優子には、そう言明してしまう「正直さ」があるのです。今どき自己を偽ってでも「自信あります」と、平然と言ってのける子どもたちのほうが多いんじゃないか?その意味では彼女もまた別の仕方で、糸子の「正直さ」の血を引いているということになりますね。 優子の自我を見つける旅は、遅きに失したとはいえ「たった今、始まった」のです。 しかしここまでの話、我ながらずいぶん「月並み」な、よくある話しかしてないんじゃないか、という気分が残るのです。で、その原因はというと、もちろん我が見識のなさ加減が第一原因ですが、それでなおかつ、ここのドラマの描かれ方が、いささかステロタイプに陥っているところもあるような気がする。戯画的な「典型化」はすまい、という姿勢は依然として感じられます(優子が可愛そうだったり、直子のほうに旗を掲げたり)が、いかんせん糸子の強烈な太陽の前には、イカロスの翼のごとく焼き尽くされざるを得ない(三姉妹は、大変ですよ)。 ドラマが「並み」なら、感想も「並み以下」になる、なんちゃって!? と言うわけでもないのですが、以前触れかけたまま宿題になっている、「父性」性という、いささか込み入った話を次はしてみたいのです。糸子も「子育て」の大事な局面に、差し掛かっているようなので。― つづく ―
2012.02.11
コメント(0)
世界が「オノマチ色」に、染まっている ここ最近以前のような感動がない、といった書き込みが感想欄に散見しますが、それはたぶん糸子の眼から例の七色の涙が見られなくなったからでしょう。波乱万丈の前半生、しかも戦争を潜り抜けた四十数年間となれば、人間大抵のことには驚かなくなる。尾野さんはそうした年齢相応の人物像を、ごく自然にそのまま演じているわけです。 逆に現在進行中の戦後年代記というのは、少なくとも表向きは、今の平成の世と戦後民主主義という価値観を「共有」しているわけで、これといった「驚き」を発見出来るというわけではない。直子のサイケ調のとんがったスタイリングも、その後現れたさまざまな新スタイルを知ってしまった我々には、今となってはさほど新鮮なわけではない。たんにかつてあったこと、という「セピア色」にすっかり褪色し古錆びた印象しかもたらさないのです。 今観ている我々の抱く印象というのは、面白いですね。セピア色に褪色した懐古的戦後ファッション史よりも、価値観の断絶した戦前の服飾史(着物とかモンペとか)のほうが、断絶しているぶんかえって「新鮮」に見える。 で、同じようなことが、たぶん目下進行中の「子育て問題」にも現れているような気がするのです。「父権」が所与のものとして認められていた戦前(というより、有史以来ほとんど)の「子育て」のほうが、洋裁学校に通う優子直子を観ている時より、よほど気合を入れていた自分が現にいたわけです。優子直子の学校の様子は、別にわざわざ見せられなくても、今どきの(洋裁)専門学校とさして変わりがない(だろう)。したがって「子育て」に関しても、さして今どきと変わりがない(だろう)、と勝手に観る側は考えてしまう。 となると困るのは、この三姉妹の「子育て記」はたんに特異的な才能を持った子供たちに対する、これまたおそろしく特異的なお母ちゃんの話、というふうに特定化されて(他人事となって)しまって、自身の身柄を省みるという仕方では入ってこないということになって来るのです。まして立派なモデルがいるわけですから、ほとんどの視聴者が、あの直子の周りの男連中はケンゾーだろうだのNicolだろうだの、要は「人物当てっこクイズ」のほうに関心が移ってしまう。 まあ、それはそれで一つの「お楽しみ」として、別に好いのですが、このドラマ全体を貫く「構え」としては、いかがなものか、という気がしないでもない。 要は、「価値観」を共有しなおかつ、常に揺れ動いている現代史を新鮮に見せるというのは、逆説的ですが結構難しいのです。偉そうなことを言えば、私がしつこく「源氏物語」や「古事記」を読んでいるのは、それらが、いかなる意味でも現代と「価値観」を共有していないからです(と、自慢!?)。遠く離れた所(それは「古典」であっても「世界の裏側の国」であっても良い)とねんごろにお付き合いすることで、かえって自分自身と今どきの世を新鮮に見詰め直せる、ということもあるのではないか? これは何も善作のDVを認めろとかいう話じゃない。「父権」の在りようというものを、それが戦後すっかり失われてしまったぶん、かえってあれこれ考えさせてしまう、つまり「新鮮」に見えてしまうところがあるということです。 さて、今朝のプレミアムトークを観ていたら、やはり彼女はかなり天然に周囲を「オノマチ色」に染める雰囲気を持った人ですね。それで思い出すのが、彼女と子役とのやり取りとか、ほっしゃん。他との即興シーンなのです。 いつぞやの「恨むんやったら、何ぼでも恨んでくれ」と腹立ち紛れに呟いた後、家で子供を抱きかかえるシーン。子供がマジ切れるのを、そのまんまの流れで「うちて、イヤなお母ちゃんやね」と演じ切る。 子供のまさしく天然のままのリアルな反応を受けて、そのまま演技にジャンプするのはかなり難しいと思うのですが、彼女はそれをさり気にやってしまう。似たようなことが、ほっしゃん。他との即興にも現れていて、何となく声のトーンが演技からフツーの日常会話に聴こえてしまうのが面白すぎるのです。 これってやっぱり関西風なのかなあ? とは言え、そのテレビ番組に寄せられたFAXにメキシコだのブラジルの、おそらく日系あるいは在留邦人の方たちだと思うのですが、日本語が分からない子供らが、面白がってこれを「真剣に観ている」というのです。私は尾野真千子さんの「怒り」「叱り」「笑い」「泣く」演技というのは、言葉が分からなくても、かなりストレートにその意味するところは、子供に伝わっていると思いますよ。フツーの子なら、その「指し示している」中味は、すぐ感知する。だって、それは彼らの世界でも、日々現実に演じ続けられているはずのことなのだから。 ひょっとして外国で観たほうが、このドラマは(とくに戦後編は)新鮮に見えるかもしれませんね。― つづく ―
2012.02.10
コメント(0)
「不倫話」は、子どもに観せられるか? ところで一時、「不倫話を、子供に見せて好いんかいな?」というような書き込みが、感想欄に盛んにありました。それ以外にも、善作のDVはいただけないだの、糸子の泉州弁を何とかしろ(子どもがマネをするから)だの、最近では、すっかりオバチャン化した糸子の立ち居振るまいがなってないだの、主として「教育的見地」というポーズでなされるクレームの数々。 そこで、そのなかでも、なぜか最も盛り上がった「不倫話は、子どもに是か非か?」という話について、一言。 結論から言うと、私はむしろ積極的に「見せておけ」という立ち位置です。で、「これ、どういう意味や?」と聞かれたら(たぶん、聞いてこないと思いますよ)、「今は分からんやろけど、大人になったら分かる」と言っておけばいいんじゃないか?善作は糸子のやることには、何かとアカンとは言うけれども、アカンの理由はいっさい糸子に説明してなかったでしょう。 何でも「すべてに答えがある」と思わせるのは間違い。「大人の事情」とは言いませんが、今分からなくても自分が大きくなることで、いずれ分かることもある、ということだけを理解させるのが肝心なのだと思う。 子供はそんなにバカじゃない。個人的にも小さいころ「フランス映画(!?)」を観てから、親に「何でや?」なんてヤボなこと聞いたことなど一回もありません(あたりまえじゃないですか)。子どもというのは、聞いて好いこと、悪いこと(親が説明してくれること、説明に困ってしまうこと)を、理屈ではなく大人の顔とか周囲の雰囲気で、何となく先に感知してしまうものです。 で、そうした体験を積むことによって、この「知り得ない状況」というのが、対象にあるのではなくて、我が身が未熟であることに原因があると気付く。「成熟への欲望(知るためには、自分が変容するしかないという欲望)」が起動するのは、こういう時なのでしょう。今どきの世の中で、いわゆる「大人になろうとしない大人」が増えているのは、あたかも世の中が「何もかもすべて説明可能(答と責任者が、あらかじめどこかにちゃんといるはず)」という間違った信憑を、日本社会全体が組織的に子どもに与え続けて来た、というところにあるんじゃないのかなあ。 すべてが「あらかじめ説明可能」で「誰かが責任を取ってくれるらしい」世界なのであれば、わざわざ「知りたい、という欲望」を起動させる必要などどこからも出て来ないでしょう。どこかの誰かが「善い」のか「悪い」のかどっち?という「問いの立てかた」だけですべて済んでしまうのです。これってまるっきり子どもの「問い方」ですよね。 と、自分のことは棚に上げて、ずいぶん偉そうなことを言ってしまいました。今の話は例の内田樹さんの本のどこかに書いてあったことの受け売りです(あまりに本が多いので、どこに書いてあったのか忘れました)。 糸子のヴァイタルな強さが、いかなる意味でも世の中を説明可能な世界とは思わず、むしろ不可知性があたりまえで、それを知るには「自分が変容するしかない(身体をそこに差し出して、反応をみるしかない)」という「構え」だけから発しているのに、改めて舌を巻いてしまったので、こんなことを書いているのです。 だから、ということなのでしょうが、かつて三十路半ばの言わば「女盛り」の糸子が示した、はなはだオボコい乙女のような「ときめき」振りと、交互に現れるすっかり所帯染みた子どもへの叱り方の対象が、期せずして苦笑を誘ってしまうのです。糸子の語りは別にそれを隠そうともしない、もちろん「お恥ずかしい話ですが」というような前置きもいっさいしない。 「私の場合は、こうだったのです」と決然と言い放つ、この潔さ。良いも悪いも「これらは、その時の私が確かに体験し、感じたことだから」何も隠したり衒ったりする必要はない、ということなのでしょう。アッパレ!― つづく ―
2012.02.09
コメント(0)
口さがのない「言明」 幼児は検知した「異物」を素のままで、僅少な自分のデータベースに取り込むのですが、それと同時に親にとってやりきれないのが、続いて口について出て来る「これ、何?」「あれ、何?」の連呼でしょう。まして「大人の常識が、見ないことにしている対象」に対して(その面前で)、これをやられると途方にくれるという仕儀になります。 ところで糸子もまた、対象や事態を「子供のように」素の眼で見詰めて、その時「確かに見たり感じたこと」については、決して自分を偽ることの出来ない人でした。何度も触れたように、彼女の「真正直」の向きは世間ではなく、彼女と彼女を「いつでもどこでも、常に見守っていてくれている誰か」との間で交わされているので、それが周囲の人間にとって果たして居心地の好いものであったかどうか、ということになると、これは一概には言えない。先に幼児が「大人が言わない(聞かない、見ない)ことになっている事を、ズバリと言う(聞く、見る)」みたいな時と、同じように。 というわけで、糸子の気質を表わすキーワードとして最近感じているのが、口さがない「言明」と、子どものような「裸眼の心」というようなことです。 これは何も「大阪のオバチャンの悪口ではありません!」と大きい声で前もって断ったうえで、なおかつ、こっちが「これは言わんほうがええ」と思っていることを、たいてい「口にしてしまう」という、かなり困った習性が一般的にあるのではないか?という話です。まあこれは大阪に限らず、ある種の女性方(「おしゃべり」ですから)には通有の特性なのかもしれませんが!? しかし、そもそも大阪には昔から権威的なお役人(お侍)がほとんどおらず、町人同士のナニワ商人的な合理精神があって、生半な虚飾などはすべて剥がして、単刀直入に事の本質(損か得か、儲かるか儲からんか)を判断する文化があったわけで、他所に比べてそうした「物言い」が、より増幅されて聞こえるというところもあったのかもしれませんね。早い話、京都では「口さがない、物言い」は、(少なくとも表向きは)あまり歓迎されないでしょう。 しかしこれは見ようによっては、幼児のような「裸眼の心」で、相手(対象)と対しているということであって、糸子の「(せや)けど … 二人共もう亡くなってしまいました」という言明は、まさしくそうした事況から発せられた言葉であったでしょう。大人はそうした淡々とした事実認知的な(あるいは、身も蓋もない)言葉を、そのまま発することを大抵ためらってしまうものです。 糸子の「裸眼の心」というのは、あるいは持って生まれた「絵心」とリンクしているところがあるのかもしれない。「絵心」とは対象を見詰めて、その本質を簡潔に「手」で描出するセンスだと思うのですが、彼女が子供のころから、そちらに秀でていたらしいことは、初期のエピソードでも描かれていたような気がします。 その「裸眼の心」が「口さがない」岸和田の「おしゃべり」と結び付いたらどうなるか?物事の本質をズバリズバリと、遠慮会釈なく突いてくるということになるわけで、それこそ紛れもなく、今まさに直子が演じている振るまいということになるのでしょう。 今日みたいに、ボコボコに面罵されたなら、優子ならずとも、善作に成り代って「蹴り」の一つも入れたくなる、というのは「人の心」です。しかしこのドラマ、真ん中へんで思いっきり下げといて、後からグッと持ち上げるというのは、北村(ほっしゃん。)がそうだったように、いつもの「あの手」なので、あんまり観ている側も、いちいちオタオタしないほうが、精神衛生上好いのかもしれませんね。 糸子も目下のところ、まるっきり東京の惨状が見えてないようだし。 ― つづく ―
2012.02.08
コメント(0)
幼児のような「裸眼の心」 直子の言うなれば、はなはだ「ひねくれた美意識」というのは、どこから生まれてくるものなのでしょうか?糸子が「誰に似たんやろ」と自問するとき、「そりゃあ、あなたしか、いないじゃないの」と我々は言うしかないのですが、しかしその現れ方はたんなる写し絵とは違って、かなり複雑な回路で構成されているように見える。 直子は糸子的マインドの中に確かに潜んでいるらしい、ある一つの「極北」として自分を開示したいのです。姉の二番煎じではなく、直子そのものが代替不可能な形で外部に顕現し認識されること、これこそが彼女をして、どうしても「東京に着て行く服がない」というこだわりになって現れてくる。 で、同じような様態が、彼女がしょっちゅう描いている抽象的なラインのスケッチ。「ナマの立体」としてのヒトの姿形からは、もっとも懸け離れた直線ラインは、まさに身体をまとう「衣装」という概念から、いちばん離れた地点まで行ってみて「衣装」そのものの本質を見直す、「衣装」の在りようを根底から剥がして行って、最後に「本当に残るもの」を見極めておこう、という身振りに他ならない。 対象を根本から「素の眼」で見詰めなおす、という「構え」は、まさしく創作家に通有のマインドですが、一方でそれが次女直子にとっては、自身の「存在の証」そのものであるというところが、この物語の「面白味」でしょう。二番目の娘としてではなく、この世に唯一無二の「直子」として顕現するためには、どうしてもこの一見「辛気くさい」回路を辿るしかなかったのです。 で、そうであるためには、これまた相反するような仕方ですが、姉の優子が常に見える形で側にいないと具合が悪い、ということになって来ます。姉の振る舞いかたのいちいちが、真反対の形で直子の行き方を指し示している。自身がまだ充分に唯一無二であることが出来ないあいだ、姉はまさしく反射程の形で直子の振る舞いかたを「決定」してくれるのです(優子こそ大変ですね)。 直子が「しんどいけど、そのほうが面白い」とは、そうした彼女の「態度表明」だったのでしょう。 ところで、画家のピカソでしたか、あたかも「幼児のような眼」で、対象を凝視する創作者。徹底したリアリズムをどんどん解体していって、最後にナマと言うしかない、残ったフォルムだけを開示してみせる。そこに示された画像は、まさしく唯一ピカソの眼を通してしか見ることの出来なかったフォルムであって、他の何びとも代替出来ない世界のものです。 それは彼が「任意に、いつでも」幼児の「裸眼」を起動出来たからでしょう。ふつうの大人は、さまざまな「経験」の滓に邪魔されて、目の前にある対象を「素のままで見る」ということが出来ない。「外界は、閉ざされている」のです。 では、幼児の目線というのは、基本的にどのように外界に向っているのでしょうか? はなはだベタな例をあげますと、地下街でホームレスの人がダンボールに寝そべっていたら、大人はまず間違いなく眼を逸らすのに、幼児は逆に間違いなく「無慈悲」なまでに、まっすぐにそちらを凝視するでしょう。大人が「よしなさい」と言っても、容易に逸らそうとしない。これは人の視線というよりは、猫とか犬とか動物が「異物」を検知した時の視線に近い。 知識のデータベースがほとんどなく、さらには僅少のデータベースを運用するOSもまだ未完成の段階では、幼児はとにかく外界の情報をもっぱら、素のままで取り込むことに費やす。その眼に映じる「対象」とは、まさしく「ナマ」のまま、そこに「在る姿」を開示しているのでしょう。― つづく ―
2012.02.07
コメント(2)
「語るべきこと」を、どれだけ引き出して来れるか? 先に断っておかなければなりませんが、昨日の「実在の小篠綾子さんではなく、『小原糸子の人格』として語り継がれる」というのは、何もそれによって実在のモデルを貶めている、ということを意味しているのではありません。 むしろ高い「虚構性」を保つことによって、より「普遍的な人格」を明示するという仕方で、逆にモデルをリスペクトし祝福しているということなのです。分かり難い理路かもしれませんが、実際にあったことを「事実だから」と並べたとしても、そこからクッキリした「明示性」というのは決して現れてこない、ということは繰り返し言って来ましたね。 同じようなことで、多少このブログの自己弁明になるかもしれませんが、ここの話は「カーネーション」の解説とか批評ではありません。この「朝ドラ」を起点にして、どれぐらいさまざまなおしゃべりが出来るのか、いろいろなものの考えかたを引き出して来れるのか、それが試したくてしゃべっているのです。 で、しゃべれることが湯水のように次々と湧いて出て来るということは、取りも直さずこのドラマをリスペクトしている、という証明じゃないですか(メモ用紙一枚くらいで終わり、というようなドラマや映画がこんなに多い、という今どきの世にあって)。もちろんそこには、キチンとドラマに寄り添っていくという、厳密な条件が課されいて、それこそ糸が切れた凧みたいに「虚妄」の闇に飛んでいってしまうのは論外ですが、現に開示されつつある「作品」から、どれだけ「『語るべきこと』を、引き出して来れるか」というのは、厳密に「語り手」の「構え」に由るのではないですか? 「カーネーション」というドラマが、小篠綾子さんという稀代の女傑をモデルとしながら、まったく独立した新たな「音楽」をビンビンと奏でているように、このドラマを観ることによって、ますます「多様な倍音を、どこまで響かせることが出来るか」ということは、厳密にそれぞれの語り手が、どれだけ「自分の生身」でコトバを語れるか、というところに係っていると思うのです。 これは何も、ここの話を「偉そうに、見せよう」ということじゃなく(現に相当、「自己妄想」の魔力に引き込まれた部分がありますね。例えば、勘輔だの安岡のオバチャンだの奈津だの、作り手側にかなり失礼な物言いをしています)、優れた「作品」の楽しみかたとして、こういう仕方もあるんじゃないの?という一種のモデルと思っていただければ、しゃべっている私も気が楽です。 「上から目線」で「これは、こうだ」とか、「実際は、そんなもんじゃない」といった指摘の仕方は、それをどれだけ並べていっても、「作品を楽しむ」という境位からは、どんどん懸け離れていくばかり。どうせお付き合いするなら、丁々発止のスリリングな「お話」を、もっともっと増やしていったほうが、はるかに面白いに決まってるじゃないですか?閑話休題 さて、このところ「お利口」優子と、「猛獣」直子の確執が描かれていますが、これは周囲の愛情を一身に受けて育った長女と、常に「二番煎じ」で時には愛情そのものをオミットされた(と感じた)次女の、形を変えた親への「求愛行動」と言っていいのでしょう。姉は常に親の顔を伺う仕方で、その「愛」を享受し、妹はその姉の身振りにいちいち反発するという形で、間接的にやはり親の「愛」を求めている(泣かせますね)。 この反発しあって、なおかつ「分かち難く、結びついている」という表裏の関係は、姉妹ではないけれど、何となくかつての奈津と糸子の関係を思い起こさせますね。 ここまではよくある話なのですが、面白いのは、ここへ来てやっと小原家の服飾デザイナーとしての「センス」が、どのように生み出されてきたのか?という話が出て来たということです。糸子については若い頃デザイン画が得意で客の評判になったというエピソードがあったぐらいで、それがいかほどのものだったのかというのは、必ずしも鮮明ではありませんでした(実をいうと、彼女の持って生まれた「商才」というのも、そんなに具体的に描かれて来たわけではありません)。 何といっても、その尋常でない「生きる力」が突出して描かれて来たわけで、ここへ来て娘二人の「創造性への開眼」を描くことで、逆に糸子の「センス」もまた照射していこうということなのでしょうか? 楽しみですね。― つづく ―
2012.02.06
コメント(0)
「弁明」と、「差し出された身体」 すでにして朝ドラヒロインの範疇をはるかに飛び越えて、「国民的女優」としての座を確定しつつある、とさえ思わせる尾野真千子さんですが、やはり故人がモデルとなれば、演技的な想像力もかなり高く飛翔させることが出来たのではないか?で、そのぶんモデルから完全に独立した「別個の意匠」を、主人公に与えるのに成功したかと思うのです。 私が思う彼女の凄みを、ちょっと遡りますが、やはり触れてみたい。今回取り上げたいのは、やはり先々週の「家族会議」での弁明シーン。繰り返しになりますが、もう一度詳しくそのプロセスを追ってみたいのです。ちょっと長くなりますが、― 「お義姉さん、兄の顔まともに見られますか?」亘(義弟)は勝の遺影を糸子に見せる。「勝君だけちゃうで、善ちゃんもやで?」と木之元のオッチャン。「あんだけ曲がった事が嫌いな男やった。娘が…しかも一番信頼しとった糸ちゃんが人様の旦那を囲うて…草葉の影で泣いてんで!」と木岡のオッチャン。糸子、「…ホンマ申し訳ないと思うてます。(せや)けど…二人共もう亡くなってしまいました」「そう言う事ちゃうでしょ!」と木岡たち。 ここのシーンは前にも触れました。死者はいかなる意味でも、今生きている人間の現実を「引き受ける」ことは出来ない。― 「糸子、この店はお前の小さい時からの夢やったな…?」と叔父の正一。「そうです」と糸子。「お前はホンマにようやってきた…たった十九で自分の力で店開いて…勝君が亡くなってからも女手一つで守ってきた。その店の看板になんで自分で…泥塗るんや?」「言われてる事はよう分かります…けど、うちは看板に泥塗ったとは思ってないんです」「周りは皆思ってんのじゃ!」と木岡。「義姉さん思い上がりですわ!!」と亘。「すんません!すんません!」と母の千代。― 「…周防さんの奥さんの気持ち考えたことあるか?」木之元の妻・美代。「わかってます。そらもう本当に申し訳ないと思てます」と糸子。「先生!泥塗られてるんは看板だけやないんです!…うちらかて商店街歩いたら指差されるんです!店の事も先生の事も今日までついて来たんです!ちゃんと言うてください!」と縫い子の昌子。 と来て、このあと続く糸子の弁明シーンこそ、このドラマ全編の鍵場面だと思う。― 「…せやな。…今日皆さんに言われた事、うちが置かしてる罪の重さは全くその通りやと思うてます。ご迷惑かけてしもうてる事も、傷つけてしもてる事も、『そのまんま受け止めたい』と思います…(で、)その上でお断ります」と糸子。続けて、― 「周防さんにはこのままうちの店で働き続けてもらいます。『ウチ』という人間が信用でけへんという理由で、離れて行くお客もあるやろうと思います。けどウチはホンマにしょうもない人間かもしれへんけど…『ウチの店』『こさえてる洋服』『働いてる者ら』には、何があっても(私は)自信を持ってこれからもやっていくつもりです。…店を守る。お客の期待に応える。従業員の稼ぎを守る。…偉そうな言い方になるけど周防さんとご家族の生活かて、うちが守らせていただきます。許してくれとは言いません…許されんかてかまいません、ただ(迷惑かけて)…ほんまにすんませんでした」。 で、糸子が土下座するわけですが、誰一人その彼女に、二の句を告げることが出来ない。 「絶対的背理」に追い詰められて、普段になく訥弁な糸子ですが、言うべきことはキチンと言う、時に不安に満ち、時に自信を呼び起こそうと、さらには倣岸に言い募ろうとする、その時々の微妙な心の揺らぎを示す彼女の目線を、カメラが真正面から隈なく捉えていて、そこからは不思議な「威厳」さえ立ち昇っているのです。 その「威厳」というのは、中味が筋が通っているからというのではなく、矛盾も背理も含めて、目下の事態を全的に「引き受けます」と宣言して、いわば「身体を丸ごと皆の前に、差し出している」から生じて来るのでしょう。彼女のコトバを担保しているのは、まさしくその場に「差し出された、彼女の身体」だけなのです。これは言わば、根源的な「生き物」としての威厳と言ってよい。ネコは不可避的にこうむった怪我を、他に転化することはしない(黙って、その怪我を「引き受ける」でしょう)。 そうした境域から発せられる「威厳」のようなものに対しては、誰しも沈黙するしかない、ということになる。 それにしても、こうした境域まで引き出した脚本と演技と演出、カメラワーク大したものだと思いますよ。 将来的にこのシーンだけを以ってしても、これが実在の小篠綾子さんではなく、芸術的に昇華された「小原糸子の人格」として語り継がれるのは間違いないでしょう。― つづく ―
2012.02.05
コメント(0)
「記憶」と「時間」 映画とか単発のドラマというのは、基本的に観る側の「記憶」は観ている間は「忘れない」、言い換えれば「忘れるのは、お前が悪い」という前提で作られているのではないか?A・ヒチコックの映画など各シーンをすべて覚えていないと、真の面白味というのを見逃すということも無いとは言えない。そういえば、彼とかR・ワイズなどは、観る側の時間と完全にシンクロさせた映画なんかも作っていますね。映像作家にとって「時間」と「記憶」というのは、常に関心を抱かざるを得ない事柄であるようです。 これが「連ドラ」の場合、作り手はまったく違った「構え」を持たざるを得ないでしょう。早い話、「推理探偵ドラマ」で半年前のエピソードを、最終回の解決編の証拠としていきなり出したら、みんな怒ってしまうでしょう(誰も、そんなもの覚えているわけがない)。まあ、これは極論ですが、しかしこれと似た乱暴なエピソードの取り扱いというのは、けっこう多くの人気ドラマでもあるんじゃないですか(観てないから、知らないけど)? 「カーネーション」は、そのあたりの観る側の「記憶の蓄積と忘却」を、むしろ逆手にとって「時の経過」を生々しく再現させているようにみえる。もちろんこれまでの「朝ドラ」でも、それらを意識しなかったということは無かったはずなのですが、それでも安易なフラッシュバックやCG的な画像の多用など、かえって臨調感を損なう手法がなかったとは言えない。 何度も言いますが、何もそうした手法を使うな、ということではない。それが与えるであろう観る側への「効果」に関しての、練り上げが充分だったか?ということなのです。C・イーストウッドの「ミスティック・リバー」に使われた、たった一回のフラッシュバック(遠ざかる車のテールランプ)が、どれほど効果を上げていたか。 という意味で、このドラマはまさしくその「時の経過」そのものこそ、メインテーマであったかとさえ思わせますね。「女一代記だから、あたりまえじゃん」と言われそうですが、このテーマを徹底的に煮詰めて、観ている側への実際の効果にまでも思慮が行き届いた時、それはたんなるエピソードの積み重ねではなく、映像や効果音や小道具にまで自然に神経が行き届く、ということになると思うのです。 早い話、映像が岸和田のオハラ洋装店だけを、あたかも「定点観測」しているように、一歩も外さないというのは、逆に「時の経過」を示すのにとても効果的なのでしょう。ヘタな歴史大河ドラマより、はるかに歴史の「経過とスケール」を感じさせる(しかも、ずっと低予算で)。 私たちの日常の「記憶」は日にちを重ねるごと、「折りたたまれて、蓄積されていく」のです。それら「記憶」は一望俯瞰的に、一挙にすべてを「想起する」ということは人間には絶対出来ません。早い話、ここ一ヶ月(一週間でもよい)の自身の出来事や記憶を、全部「今、ここで」列挙するということなど出来っこない。ただただ、それらは「蓄積されて、確かに在る(らしい)」という「背後の信憑」だけで成り立っているのです。 「折りたたまれた記憶」のどこかのページが、ある時ふとした拍子に扉を明ける。人はランダムに開かれた「記憶」であっても、それがどのあたりのページにあったのかということは、何となく「分かる」。意識はそういう具合にして「たたまれた記憶」をページ順に整序して、我々に開示してみせる。「時の経過」というのは、この「ページ順位」という仕方で意識されるのでしょう。 「カーネーション」は、あたかもそうした人の「時間意識」に寄り沿うようにして、伏線を「折りたたまれた、どこかのページを開く」ようにして繰り出して来るのです。これは毎朝やるという「朝ドラ」の前提条件を、徹底的に練り上げた「効果」なのではないか? ところで前にも言いましたが、「無意識」の世界では「時間」は整序されません。ランダムな想起は、そのでたらめな順位のまま「無意識界を、乱舞している」のです。「夢」とは、まさしくそうした事況を示す現象で、いかなる因果関係もその世界では成立しません(たまに「制御できる」と豪語する人がいますが、まあそれは横に置いといて)。 糸子が周防との出会いを、あるいは「運命的(出会うべくして出会った。以前から、この出会いは決まっていた)」と思ったのは、「恋」という情動の発動が「意識より先に、無意識界から」発生するからです。無意識界が時間を整序していない結果、意識はそれを「記憶のページ」に割り振ることが出来ず、人はそれを時間を超越して到来したもの、つまり「運命」と感じるのでしょう。― つづく ―
2012.02.04
コメント(0)
「記憶」の彼方 このところ、娘三姉妹の話に話題が移って、例によって多少テンポが変わった感じがしますが、ここは辛抱のしどころ。優れた大河ロマンには、文学でも映画でも必ず享受する側にガマンを強いる場面があります。「戦争と平和」とか「源氏物語」などなど、ほとんど初っぱなで読者を追っ払う、という仕様になっていますね。 これは何も、新たな役者に魅力がない(三人とも、好く演じてますよ)ということではなく、我々はどうしても糸子の若かりし頃の記憶を重ねて、これを観てしまうからでしょう。昨日の新聞評の言葉を借りるなら、「ヒロインの芯の強さの、尋常でなさ」かげんがハンパじゃなくて、これはどないしたって今の三姉妹はかないっこない、というふうに観えてしまうからです(かわいそうですね)。 さて、まあ現在進行中の話については、おいおいまたすることとして、ここ最近、このドラマが生み出している「時間」のようなものを考えています。 前にこのドラマは、あたかもGoogle Earthの地球を見るような高々とした視座を背後に意識しつつ、大正昭和平成の世の岸和田にあった(であろう)オハラ洋装店の物語に、「たまたま」焦点化して観ているかのように描いてある、という話をしましたが、じつは同じような感覚が一望俯瞰的な眺望だけでなく、そこから滲んで来るような「時間」の経過と、「記憶」のなされかたについてもあるような気がする。 Google Earth的な眺望は、その細部を一挙に開示しすべてを一瞬にして了解することは不可能で、その予感だけを背後に感じることが出来たように、この四ヵ月間の糸子の歴史を一挙にすべて思い起こす、ということは我々人間には出来ません(全部録画してあるから、大丈夫なんて言ってはいけません。「録画してある」ということと、「すべて一瞬に、くまなく思い起せる」というのは別次元の話です)。 我々の記憶は、どのように「折りたたまれ、蓄積されて」過去の闇に消えていき、ある時ふいにまた「想起されてくる」のか? 昨年の十月から柄にもなく「朝ドラ」を観だしたのですが、四ヵ月経ってみると、私自身が初めのころ観たはずのドラマの映像が、じつは「曖昧」になっている。ドラマの中に丁寧に描きこまれた時間の推移とは別に、我々自身が持っていたはずのエピソードの記憶もまた「時間が経過していく」わけです。 時おり挿入されるかつての伏線を生かしたエピソード、「そういえば、糸子も同じちゃぶ台の横で、善作に怒られとった」とか「戦争中に、優子は高い色鉛筆をもらって、ご機嫌だった」とかね。これという確信がなくても、「確かにあった、そうだった」という仕方の「想起」というのは、何もこのドラマに限られたことではなくて、我々の日常生活で「あたりまえ」に繰り返されていることです。 このドラマの不思議な「臨調感」は、この現実生活での「想起作用」と似た感覚を、観る側に与えることに(期せずしてか)成功しているところから来ているのかもしれません。早い話、善作や勝やハルの遺影は、いつもまったく一緒なのに、見るたびに表情が違って見える、というのは、現実生活においてもまさしく「しかり」の感覚でしょう。 というわけで、これは「日にち単位で、このドラマを観ている」という「観る側の時間の経過と、記憶の折りたたみ」が、現実生活に酷似した想起作用を起させている、とみて好いのではないか? なぜこんなことを言うかというと(まったく!)、私も初めのころ十五分では「かったるい」とばかりに、土曜のBS九十分まとめ放映を観ていたのでした。ところが、前にも書きましたが、何しろ話のテンポが良すぎて、一挙に観ると頭がハチハチになる。筋さえ分かれば充分などというものじゃなくて、十五分単位でいったん頭を冷やさないと、何やら肝心なものを落としたんじゃないか?という一種焦燥感のようなものが、逆に立ち現れて来るのです。 で、その焦燥感の根っこが、どうやら毎日十五分ずつの単位で「記憶を折りたたんでいく」という仕方でないと、どうも解消されないらしい、ということなのでした(考えてみれば、あたりまえの話です。もともとこれは、朝の「連ドラ」として構成されている)。早い話、先週の「家族会議」と「周防との別れ」のシーンが一つながりでは、誰しも場面の転換が腑に落ちないでしょう。ここはどうしても一日間を空けないと、観る側の気分はついていけないのです。 このあたり、どうやら映画などを観る時とは、かなり異なった観かたを「連ドラ」というのは、本質的に持っているのかもしれない。― つづく ―
2012.02.02
コメント(2)
今朝の「新聞評」について ずいぶん遅きに失した感がありますが、今日の朝日新聞にやっとこのドラマの対談批評が載っていましたね。で、そこで語られている内容は、おおむねNETの感想欄に近い中味で、これといった切り込みがあるわけではない。何だか日頃の我々の感想を追認しているという感じで、今さら「何でやねん!」という気もするのです。 一部を挙げますと、― 歴代ヒロインとの違い、それはヒロインの芯の強さが尋常ではない、自分の人生を切り開き、周りも成長させていくのは見ていて気持ちがいい、格好いい。 それとやはり尾野真千子の演技力、ここ一ケ月演技が高みに昇華した「女優誕生の奇跡」を拝見させていただいている。 映画でもドラマでも一番幸せな喜怒哀楽に当てはまらない「何見せられているんだろう」という瞬間が毎朝ある ― (作家柴崎友香と映画監督大根仁の対談から)と、まあ、ベタ誉めの感がある対談内容なのですが、しかしこれらは何も当方の自慢(?)でなく、いろんな書き込み感想欄ですでにさかんに指摘されて来たことばかりでしょう。 このあたりは対談者の責任ではなくて、大手マスコミの姿勢の問題です。評価がほぼ決まった段階になって「追認」の形で視聴者におもねる。このコメントを例えば昨年の遅くとも「玉枝の面罵シーン」あたりで掲載していたなら、かなり勇気ある「批評姿勢」として大絶賛だったのですが。 ところが最後の段になって、対談者じたいの見識にも耳を疑うような発言があるのです。尾野真千子を評価するあまり主役交代に言及して、否定的な意見を出しているのですが、これは批評姿勢としてやってはいけない。享受する側が創作の現場に口を出し始めたら、ドラマ作りどころじゃない(野球をやっている最中に、観覧席からビール瓶を放り込むようなものです)。 ましてこのお二人は実作者なのだから、それは製作側に対する侮辱にあたるといわれても仕方がないですよ。この構えではまるで、NETの感想欄のと同じレベルです(そっちのほうが、高いかも)。 やっとまともに取り上げたと思ったら、このていたらく、あ~あ! それにしても、何でたんなる街場のブロガーに過ぎない私が、こんなこと言わんならんのやろ。それとも、やはりたいていの皆さんは、こうした「専門家」のお墨付きがほしいのかなあ。― つづく ―
2012.02.01
コメント(0)
全27件 (27件中 1-27件目)
1


