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山岡荘八の伊達政宗で、政宗が初陣の直前、師の禅師、虎哉宗乙(こさいそういつ)から試問される人は、生きているのか。生かされているのか。若い時には単純に、一人で生きているんじぁあないから生かされている。と、思ってました。ふと、今日の通勤の車の中であれ、"生きている"と"生かされている"の違いを単純に考えすぎてはいなかったかな?なんて考えちゃいました。"生かされている"っていうのが、周りから支えられて生きているってのは間違えてはいないとは思うのですが、"生きている"っていうのをただ単に一人で生きるって考えるのは早計に過ぎないかな。って。興味のある仏教(はんかじりですが)で言うと、他力本願の浄土宗。自力本願の禅宗。僕が好きなのは後者の禅宗。この"生かされている"って言うのが他力の一向で、"生きている"って言うのが自力の禅宗じゃないかなと。僕の半分かり禅宗では、偶像崇拝を否定して、正しい呼吸により宇宙の大きな力を摂取し、自分の心の糧にする(半分かりの大約)って言うのが禅宗。自力にのみすがって、他力は意識しないっていうのは傲慢な感じがするし。他力のみにすがって、自力は行おうとしないって言うのは横着、努力不足のような気がする。どっちが正しいのかなぁと考えてたらそのときは、まったく忘れていた政宗の返答をふっと思い出しました。孤掌は鳴り難し。この本買って11年目にして、ようやくこの政宗が応えた、弧掌(こしょう)は鳴り難しの意味が理解でき、生きているのか、生かされているのか答えが分かったような気がしました。ですですですです。です。でした。でしょう。ですですですです。
2006年03月31日
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本日も興味のない方は、そーりーそーりー。***************************************************H18.03.30足のフレームが完成しました。部品数は所期MGだけあってあまり多くなく、サクサクっと仕上げることが出来ました。最近のMGを作りなれてるので少し物足りない感じです。もうちょっと足回りにバーニアなんかあってもいいのになぁ。腰部、フロントアーマーとリアアーマーを仕上げました。両アーマーは二枚構造になってて表のキンピカと裏の黒っぽいグレイが絶妙のコントラストになってます。キンピカはすみいれが難しいですね。失敗すると取れにくいし。こちらはLearviewです。お尻のところにビームサーベルの柄の部分がマウントされるようになってます。侍の二本刺しみたいでカックイイですね。腹部から首まで完成させました。リック君とは違って脱出ポットは別パーツになってなく、景も形もないです。基本的にポッドはないのかな?ゼータの最終回でシャアは直接コックピットから脱出してるみたいだし。胸部分のアーマーは、独立してなくって、部品数ははっきり言って少ないです。形状は、やっぱりリック君からの発展系なので形がクリソツデス。こちらが、そのLearviewです。頭を作りました。部品数が多く出来てて、合わせ目・ゲート処理がうまく出ないように計算されて作ってあります。よく考えてるなぁって感心しました。後頭部です。HGUCのときは、アンテナがポロポロ取れてたんですが、さすがMGになるとしっかり保持されています。アンテナはゲート後が出るので、ガンダムマーカー・ゴールドで、お茶を濁してあります。^^腕部を完成させました。ベースのフレームはなく、形状はリック君そっくりな作りになってます。作りながら「なんか見たことある形だなぁ」と思いながら作りました。前作がリック君なので余計ですね。五体満足になったので、ひとまずくみ上げて見ました。だいぶ百式っぽくなってきましたね。やっぱりシャア専用はカックイイの一言だぜぇぇっ!!バックパックからフレキシブルバインダーまで一気にくみ上げました。やっぱり百式はこの背中の羽が、何と言ってもかっこいいです。バーニアは少ししょぼいですね。色分けも黒一色だったのでガンダムマーカーレッドとメッキシルバーで塗り分けました。バーニアの数からして、リック君のほうが機動力高そうです。やっぱりガンプラの技術力は、先に出るほど損なようですね。><最近バリュートパックが出たばかりなので、ver.2.0は当分なさそうだし....front・sideviewです。ピッカピカに光ってます。あとは肩のアーマーと、足のアーマーでもって完成です。
2006年03月31日
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まず、昨日はたくさんコメントを頂きまして、ありがとうございました。ならびにご心配おかけしたことをm(__)mペコリ(平身低頭、平蜘蛛の如しッ!!)ありがとうございました。今朝、コメント見てびつくらコキました。笑怪我はなくって今は首が痛い程度です。たいしたことはありませんでした。ヨカッタヨカッタ皆さんも事故には気をつけてくださいね。ということで、昨日はお休みだったので、子供を連れて(子供らは春休み)、ドラえもんを見に行ってきました。ドラえもん、のび太と恐竜2006昔、僕らが小学生のころにした映画の復刻版。あのころ見ても面白くって最後は涙ものでしたが、はっきり言って感動しました。(´_`。)グスン いいですねぇ。何でも最近のドラえもん映画は藤子・F・不二雄作品ではないらしく今回は純粋藤子・F・不二雄作品のリメイク版だったらしいです。最近のは、子供と一緒にビデオでけっこう見てたのですが、いいです。シンプルで。映画は結婚してからも、嫁さんとよく行っていたのですが、子供が生まれてからは、なかなか行くことができず、今回、初めて子供と一緒に見に行きました。ドラえもん。皆さんもちっちゃいお子さんおったら見に行くといいですよ。カップルでもOKです。最後ののび太君の振り向きざまのううん。なんでもない。。:*:・(*´ω`カナシイオモイヲフリキッテ....かっこよかったぁぁ。(´∩`。)オトコハナミダヲミセヌモノ
2006年03月30日
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しちゃったっすよぉぉぉぉっ!! マジデス昨日の帰りのお話。さぁ!サッカーへ行こう!!とばかりに帰ってて、信号待ちしてて止まってるとふと、ルームミラーを見てたらみょーに勢いのいい車が近づいて来るではありませんか━━━━キテマスカ (*゚∀) (∀゚*) モシカシテ━━━━━━?!?!?!?!!!!やばいっすよぉぉぉ 。.+゚(゚´Д`゚)゚+。 ヤバイカモォォそのスピードではぁぁぁ (#´Д`)=3ダシスギダョォ・・・ぶつかりますよぉぉぉぉ ヒェ─・゚・(´゚д゚`)(´゚д゚`)(´゚д゚`)・゚・─ッ!!!なんて思う暇はなかったです。ドンドン!!後ろにぶつけられた振動と前の車にぶつかったダブルの振動。車で他人の車に突っ込んだことはありますが....突っ込まれたことはなかったのでびっくりしましたよ。幸い怪我はたいしたこたなかったですが....車は アディオース(_´Д`)ノ~~.。・:*:・゚`☆、。・:*:・゚`★* シアワセニナァァって感じになっちゃいました。(内心では、あっ明日のブログのねたができたぞっ!!セイセイセイ)皆さん事故には気をつけましょーね。^^自分がしなくても向こうからやってきますよ~~~ッ!!
2006年03月29日
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**************************************************「一大事、一大事勃発にござるぞ」本多平八郎は松井友閑の役宅の門前で大声でわめくと、「徳川家の臣、本多平八郎忠勝、主君の宿所へまかり通る」叩きつけるように言って、家康出発のため、一文字に開かれてあった門を馬と共に逆にくぐった。一頭の、およそ疲れきった荷駄馬の上に、すがるようにまたがり、元気な一人が口をとっている。したがって門番は、馬上の人が平八郎で、口をとっているのは家来であろうと思っていたが逆であった。平八郎はその馬を遠慮会釈(えんりょえしゃく)もなく玄関わきを右へそれて、さっさと、家康の宿所にあてられている東書院の中庭に引き込んだ。「殿!京より茶屋四郎次郎どの、一大事を告げに駆けつけてござりまする」家康は、すでに居間を立ち出でようとしていたときなので、平八郎がわめく前に、二人を認めて縁に立っていた。馬上の主は家康の姿を見ると、ほとんど落ちるようにして馬から下りた。この騒ぎに、いつか長谷川秀一も松井友閑も駆けつけてきて縁の下手に座っている。「水!」と、平八郎が、茶屋四郎次郎のために怒号した。「町人のお身で、京から一気に駆けて来られたのだ。心づかぬか、水!」「はッ」と応えて榊原小平太が柄杓(ひしゃく)に水をとって来て渡した。茶屋四郎次郎は、家康の前にのめるように片膝つき、その水を一口ふくんでプーッと吹いたが、しばらく声は言葉にならなかった。「落ち着いて、茶屋どの、委細(いさい)を」「はッ、明智日向守光秀さまご謀叛」「なんと.....」方々で驚愕(きょうがく)の声がもれたが、家康はじっと四郎次郎を見つめたまま塑像(そぞう)のように立っている。「そのため右府(右大臣信長)さま、今晩八つ過ぎ、本能寺においてご最後.....」「なにご最後と」「はい。討たれたとも、ご自害とも、噂はまちまちながら、ご最後には万々狂いはございませぬ。」「して、城ノ介信忠どのは」「二条城にて、これも討ち死に」家康よりも先に、松井友閑が身を乗り出して声をかけた。「右府さま、ご父子の生死、茶屋どのには、何として確かめられましたぞ」「はい、その儀は.....」そのころから茶屋四郎次郎は、ようやく呼吸がととのいだしていた。「一人右府さまご父子だけではなく、本能寺も二条の御殿も消失して、生き残りし者ほとんどなく、双方とも酸鼻(さんぴ)をきわめた屍体の山でござりました。そのうえ日向守さま手勢にて、京への出入り口は一切押さえられ、洛中洛外ともに、明智勢ばかりになってござりまする」「茶屋どの」と、家康ははじめて口を開いた。「では、われらこれより引き返しても、京へは入れぬと言われるか」「恐れながら.....」四郎次郎は激しく首を振って、「もはや、山崎より先へは接近もかないますまい。なにしろ右府さま父子は謀叛も知らず、一日夜半までの酒宴とか。まったく供えのないところを襲われましたものゆえ、明智勢は水も洩らさず、要所要所を固めてござります」家康は無言でうなずくとそっと眸をあげて庭の松の梢をみていた。(信長父子がむざむざ殺された.....)それは家康にとって、何と考えようもないでは事であった。納屋蕉庵の密告で、光秀の謀叛を、ありえることに思い、そのために旅程を変更して京へ戻ろうとは考えていたが、まさか、こうあっさりと父子揃って命を落とそうとは思いもよらなかった。人間の生死には、人間の力の及ばぬ節がたしかにある。それに信長はもはや、織田家の盛衰などとはなれて、日本と、日本の民衆の運命に繋がる存在になっていた。それが、父子そろってかんたんに討たれたということは、油断とか、備えとか、個人の運、不運とかでは片付けられない問題をふくんでいる.....いったい神仏は、信長を討たせて明智光秀に何をさせようとしているのか?日本は、民衆は、どうなってゆくのか?織田家の重臣といえば、丹羽、柴田、滝川、羽柴の諸氏.....だが、家康もまた、まる二十年の盟約を通じて、三河の親類として特別の交誼(こうぎ)を持っている。(いったいこの家康に、天は何をさせようとしているのか.....?)家康が黙って松の梢を見つめている時に、京の豪商、茶屋四郎次郎の、みずからもたらした凶変の渦は、見る間にこの奉行屋敷へ渦紋をひろげた。もう、縁側には長谷川秀一の姿も、松井友閑の姿もなかった。彼らに言わしむれ場、彼らが、家康に能狂言を見せ、酒盃を上げている間に、天下は覆(くつがえ)ってしまったのだ。しかもくつがえしたものが光秀と分かると、まずまっ先にこの街の態度と防備と、身の振り方を考えなければならなかった。やがて本願寺へも、京の呉服師亀屋栄任から同じ悲報がもたらされ、それを知らせに、あわただしく奉行屋敷へ使者がやって来た。おそらくあと半刻経たぬ間に凶変の波紋は、この街の隅々にまで広がって、様々な動きを巻き起こしていくに違いない。「殿!早速お指図願わなければならぬ。まずあれへ」酒井忠次が家康の手を取るようにして座敷の中央のしとねに据え、期せずして重臣たちはそれを取り巻いた。本多平八郎も茶屋四郎次郎の腕をつかんできてその輪に加わり、家康の次の質問を待っている。石川数正、榊原小平太、大久保忠佐、天野康景、井伊万千代と並んだ面々も、あまり事が大きすぎるので、言うべき言葉を知らぬといった顔つきであった。「殿!このままでは済みますまい。早急にお指図を」年かさの忠次がまたうながしたが、家康は答えなかった。「殿!いたずらに時を過ごしては、この街へも、きっと日向守の手は伸びましょうぞ」「忠次.....」「何でござりまする」「まだ持参の黄金はあったであろうな」「はい、買い物を差し控えよとありましたので、まだ二千両ほどは.....」「よし、ここを発とう。発って京へ入る。そして右府に殉じて腹を切ろう」眼を閉じたまま静かな声で家康は言った。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第八巻/落日前後よりつづくトップページへ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月29日
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人の一生は重い荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず不自由を常と思わばさして不足はないもの心に望みが起こらば困窮した時を思い出すべし堪忍は無事長久の基怒りは敵と思え勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る他人を責むるな 己を責めよ及ばざるは過ぎたるに勝るものなり山岡荘八/徳川家康で、家康が死ぬ一年前、大阪夏の陣後、最後に京都をはなれる折に京都所司代板倉勝重に乞われるまま説いて聞かせた人生哲学です。一番好きな言葉で、額に入れて飾ってます。^^ちょっと書いてみました。
2006年03月28日
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**************************************************長篠城にこもっていた奥平九八郎貞昌のもとへ本多平八郎忠勝の手の者が、岩伏せの渡しから救いの兵糧を運び込んできてくれたのは同じ日の暮れ方だった。すでに一粒の米もなくなっていた城兵は、これを見ると歓声をあげてそのまわりに集まった。「これこれ、はしたないぞ」そう言いながら、九八郎はともすれば眼がかすんであたりが見えなくなりそうだった。「敵は退いたとはいえ、油断があってはならぬ。かがり火を炊け。腹ごしらえはそのうえだ」九八郎はただちに炊飯を命じたうえで、ふと一人のかついでいる旗に眼をつけた。「はて、その旗は何としたのだ。それは八幡太郎義家から伝わったという武田家重代の源氏の白旗ではないか」すると、忠勝の家臣で兵糧を宰領(さいりょう)して来た原田弥之助が、「いかにも、その白旗にござりまする」と、事もなげに答えた。九八郎は首をかしげた。「その白旗をどうして、そちの組下が担いでいるのじゃ」「この弥之助が拾ったのでござりまする」「なに、重代の旗をそちが拾ったと」「はい。それがしが拾ったとき、側におりました梶金平(かじきんぺい)が、敵の旗奉行にこう言いました。.....やあやあ勝頼、命おしさに逃げ出す途中と言いながら、先祖伝来の旗を敵に渡すとは何ごとじゃ」「ふーむそのように慌(あわ)てていたかのう」「慌てる段ではござりませぬ。それでもさすがに旗奉行は恥ずかしかったと見え.....愚か者よ。その旗は古物ゆえ捨てたのじゃわい。別に新しい旗がこのとおり、ここにあるぞと申しました。ところが金平も負けてはおらず.....なるほど武田家では古物はみな捨てるのじゃな。馬場、山県、内藤などの老臣も、みな古物ゆえ捨ててしまったのか.....と。すると、今度は聞こえぬふりをして逃げていきました」そういって弥之助は面白そうに笑ったが、九八郎は、「そうか。そのようにのう」と、笑う代わりにため息した。滅ぶる者と興る者。眼に見えない何者かがそれを厳しく裁いてゆく。あまりに鮮やかな勝利が、九八郎にはかえって薄気味わるかった。(いったいこの勝利から何を学べと言っているのであろう.....?)「まったく勝頼という大将、どの面下げて甲州へ戻っていく気か。一万五千、ほとんど全部失ったげにござりまする」「案ずるな。信州へ入って行けば海津の高坂弾正(こうさかだんじょう)だけでも八千の兵は持っているわい」九八郎は弥之助を渡し口まで送って行って、しばらくそこに立ち尽くした。昨日までずらりと対岸へ陣取っていた敵のかがり火がなくなって、滝沢川の面にはチカチカと星が映っている。九八郎はなぜか胸がつまって、呼吸が苦しくなって来た。「鳥居強右衛門、戦は勝ったぞ。もはやどこにも敵は見えぬぞ」九八郎は小声でつぶやくと、不意にはげしく、肩を揺すって男泣きに泣き出した。(勝った戦にしてはこの淋しさは何事であろうか.....?)と、九八郎は自分を叱った。死んでいった家臣のための悲嘆ならば、一万数千を失った勝頼の悲嘆の深さは計り知れまい。戦っている間に感じたあの猛々しい憎悪と闘魂は消えうせて、今では悄然と山路に駒を急がせているであろう勝頼の姿が、強右衛門の次に妙に侘しく思い出されるのはなぜであろうか。チラチラとまたたいているあちこちの星は、山路を落ちてゆく勝頼の位置からも、信長、家康の野陣からも、同じ星として眺めるのだということが今夜の九八郎には不思議に想えてならなかった。間もなく城のあちこちに赤々とかがり火が焚(た)かれだした。最初の炊き出しが配られたとみえ、そこここではじけるような笑い声が湧き上がった。中には、手を取り合って踊る者や歌う者が出て来ている。九八郎はひとわたり炊き出しの行き渡ったと思うころに本丸の大台所の土間に入っていった。そして、こうした手ひどい経験にはじめてあった亀姫が、きりりとした襷(たすき)がけで、味噌を焼いているのを見るとようやくホッとして、(勝ったのだ.....)と、自分にむかって微笑した。「どこを歩いてでござりました。さ、召し上がりませ」亀姫は九八郎の姿を見つけると姉のような母のような態度で、くり盆にのせた握り飯と焼き味噌を良人(おっと)の前へ運んで来た。九八郎はゆっくりと上がり端(ばな)に腰をおろして、「お方も食べるがよい」ひとつつまんで、うやうやしくそれに頭を下げた。目の前にいる亀姫も、かまどの火の色も、握り飯も、味噌の匂いも、すべてが、初めてこの世に出会ったもののように新鮮に眼に映った。「戦とはおかしなものよのう」いつかかたわらにうずくまって、眼の合うたびに微笑しながら握り飯を食べだした亀姫にそういうと、「いいえ、おかしなものではござりません」と、亀姫ははっきりと割り切っていた。「戦いとは強いものが勝ちます。辛抱(しんぼう)の強いものが」九八郎はその夜。万一残敵の逆襲がないかどうかを警戒して夜明けまでに三度城内を見回った。そして、そのたびに、自分は、武将としては、まだまだ臆病に、あれこれ考えすぎる質なのではなかろうかと思った。しかし、それは翌日城内に、家康を迎えてみて、(これが当然だったのだ.....)と、自分の心の動きに納得できた。あわてて敷かせた本丸の畳の上で、九八郎と対面した時の家康は、これも戦勝の喜びなどとはおよそうらはらの表情だった。家康は、よく守ったと、むしろ沈痛に九八郎の労をねぎらったうえで、「これで織田どのに大きな借りができた。いずれそれを変えさせられようでの」小声でつぶやいて、それからじっと九八郎の心をのぞく眼つきになり、かすかに頬を崩しかけて、すぐまた笑いを納めてしまった。戦はこれで終わったのではない.....その淋しさを噛みしめている顔に見えた。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/知略戦略よりおわりトップページへ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月28日
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きました~~~っ!赤色リックディアスの次はこれしかないでしょう!!伝説のキンピカモビルスーツ。はぁぁ(´Д`;)ァ・・・ もしかしたらこれが完成したらサザビーいかなきゃいけないのかナァァァ(8千万円もしますぅぅぅ)ソレハマズイ。オトーサンノオコヅカイガァァァ
2006年03月27日
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**************************************************どうして多くを殺そうかと、絶えず眼を光らし牙をむいて前進し続けている戦魔。その姿を馬場信房もハッキリし見たような気がした。敗戦などと言うものではなかった。武田源氏の家宝であった八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の白旗は、もはや滑稽きわまる一枚のボロ切れにすぎなくなった。ついこの間まで天下に武田勢ありと強豪を誇った戦術兵法が、ひとむらの泡沫に変わってしまったのだ。この手も足も出ない惨敗の知らせは、櫛(くし)の歯をひくように勝頼の本陣に注進されているのに違いない。「若殿も、不運な人よ」その勝頼がたまりかねて医王寺山を降りて進んで来だした。信房はそれを見ると、また使い番を呼んで、「すでに勝敗は決したと申し上げよ。この信房がここで敵を食いとめ、しんがりをつかまつる。その間に少しも早よう甲州へお引き上げ下されと.....よいか、今生(こんじょう)ではもはやお目にかかりませぬと、しかと申せ」そして、使者の姿が後ろへ消えると、信房は再び金鼓を鳴らして、織田勢の前へ立ちふさがった。まっ先の柴田勢が、まず進撃をとめ。続いて秀吉の手兵が立ちどまった。まだ総攻撃の命は下っていなかったが、誰の眼にも今は追撃の潮どきと見えていた。「かかるな、かかるな、相手がかかって来たらあしらうのだ」信房は、まだ後ろの勝頼が気にかかった。彼の忠言を入れて、すぐに引き上げにかかってくれなければ、再び甲州の土の踏めなくなる恐れがあった。甲州へ落ち延びさえすれば、すぐには、織田、徳川両軍とも攻め寄せることはあるまい。その間によくよく反省されるようにと心に祈った。使者の戻って来たのは、それから四半刻ほどしてからであった。「仰せ、相分かったと、旗を返してござりまする」「そうか。素直に聞き入れて下されたか」「すぐにお聞き入れなく、穴山入道さま、鎧の袖をつかんで武田家存亡の別れ路と強諫(きょうかん)され、ようやくご納得にござりました」「そうか。穴山どのが.....それでよかった」信房はそういうと、森かげを出て東方へ小手をかざした。医王寺山を西へ降りかけた旗の列が、なるほど北へ向かって動き始めている。「よし、これで信玄公への面目も相立った」織田勢はこのとき、丹羽五郎左衛門の一隊から再び激しく挑んできた。信房は陣頭に立ってこれを迎えた。と、そのときにはもはや信長の本陣からも総攻撃の命は下り、織田勢の南から東に、大須賀五郎左衛門康高(おおすかごろうざえもんやすたか)、榊原小平太康政、平岩七之助親吉、鳥居彦右衛門元忠、石川伯耆守数正、本多平八郎忠勝など徳川方の勇将が、先を競って柵外へ斬って出ていた。「一人も逃すな。目の前の敵を蹴散らし、勝頼の首級(しるし)をあげよ」馬場信房の一隊はその前へ立ちふさがって攻撃の的になった。信房は手兵を三隊に分けて近づく敵の中へ斬り込ませた。そしてそれが押し寄せる敵の中に姿を消すと引き上げの法螺を鳴らした。そのたびに少しずつ陣を後方に引いて、勝頼には近づけまい作戦だった。はじめ千二百あった手兵が、一度斬り込みを敢行させると、つぎは八百あまりに減っていた。それがまた三隊に分かれて斬り込み、さらに陣を後方へ引いたときには六百、三度び斬り込ませて退いたときには二百に減じていた。もはや勝頼の旗下の目印である大文字の小旗は緑の中にかげを没して見えなくなっている。信房はさらに四度目の逆襲を敢行した。彼みずから陣頭に立って、縦横に馬を駆り、近づく敵を突き伏せてゆくうち、いつか味方は二十人ほどに減っていた。戦死したもののほかに、手負いも、逃亡者も、投降者もあったであろうが、昨夜までの見方の威容を考えると、悪夢の中に取り残された感じであった。「もうよい引き揚げよ!」彼は、自分に続く二十騎あまりの旗本に告げ、彼みずからは何を思ったかいきなり馬を乗りすてた。戦っては退き、退いては戦っているうちに、いつか猿橋にほど近い出沢の丘までやってきていた。あたりには生いしげった夏草と、それを動かす風と光があるだけで、近くには敵の影は見えなかった。信房は草むらの上にあぐらを掻いて、初めて全身の疲労を意識した。兜をぬいでしぼるようなえりあしの汗を拭きながら、ふと信玄の幻を瞼(まぶた)にえがいた。「四郎さまを落とさせました。これでご恩の.....」万分の一をお返しした......そう思わずにいられない自分の末路に苦笑したときだった。いきなりかたわらの草がゆらいで、そこから一人の徒歩(かち)の武士が槍を構えて踊り出した。「敵か見方か」と相手は言った。「塙九郎左衛門直政(ばんくろうざえもんなおまさ)の郎党岡三郎左衛門(おかくろうざえもん)、来いッ」「ほほう、そちは運のいい男だの」「何だと、立てッ、立って尋常に勝負しろ」「岡三郎と申すか。槍を捨てて介錯(かいしゃく)いたせ。武田の老臣、馬場美濃守信房、そちにこの首進ぜよう」「なに、馬場美濃守信房だと」「そうじゃ。運のいい奴、槍を捨てて介錯せよ」信房はそういうと相手はしばらく小首をかしげて迷っていた。信房ほどの大将が、嘘をいうとは思われず、さりとて槍を捨てては不利と考えている顔であった。信房は腰から太刀をはずして左手へ抛(ほう)った。「人が来てはそちの手柄になるまい。来ぬうちに急げ」もう一度うながすと、だんだん雲の動きの早くなった空を見上げ、それから瞑目(めいもく)合掌していった。徒歩の武士ははじめて槍を捨てた。すらりと刀を抜きはなつと信房の後ろへ廻り、「潔(いさぎよ)い最後、戦って勝った首とおれは言わぬ」誰にともなくそういうとサッと太刀をふりおろし、信房の首はコロリと前へおちていた。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/知略戦略よりつづく*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月27日
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やりましたよぉぉ!きめましたよぉぉぉ!!お仕事しましたよぉぉぉ!!!やる時ゃやるおとこですからぁぁぁぁ!!!!われながら、眼の覚めるような、beautifulロングシュート。(25メートルハアリマシタョ)ああ。生きてて、よかったあぁ。(TヘTo)年に一度。出るかでないか。オレの場合よく出るかナァァァア(うちょうてん)( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ー ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)ニヤリッ 2対2で、もう一点ほしいなぁってとこで。キャシャーンがやらねば誰がやる!おいらがやりますからぁぁぁああ!(●′ω`)ノかわたさーん。みなさーん。仲間に入れてくれてありがとうねぇぇぇぇ!!あんまりうれしかったんで、書いちゃいましたぁ。チャンチャン♪
2006年03月27日
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昨日、久しぶりに鼻血が出ました!お風呂で顔を勢いよく洗ってたら、勢いあまって指が鼻の穴へ「ブフォッ!」一緒に入ってた子供が、「お父さん血が出とるで!」ってやろうと思っても出来ませんよね。ホント。この二日ほど顔をよく傷つけます。(T∇T)アハハ・・・この間の金曜日も。地元の小学校でナイター練習があってすごい上手な子を2人がかりではさんでて、強引に「おらぁ!!」ってボールを奪いに行ったら、相手の拳が、偶然僕の顔にクリーンヒット!打ち身はひどくなかったのですが、僕の自慢の犬歯(糸きり歯)っていうの?で、思いっきり口角をすっぱり。皮がベロンで血がタラーン。まったく。ふぅううぅ。相手はぜんぜん悪くないですか。ついてませんね。今日は、試合に混ぜてもらうので、-怪我には気をつけよう-そうだ。それをテーマにしておこう。
2006年03月26日
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**************************************************今は勇ましい押し太鼓のひびきも、法螺(ほら)の音も消えていた。「引き上げろうッ!」と、誰かの叫んだときには、大久保勢は槍の穂先をそろそろ柵外へ押し出していた。「一人ものがすな。これはわれらの戦ぞ。三河武士の戦ぞ。のがすな」手も足も出ないとはこのことだった。勝頼の代に至って、信玄の時代をなつかしみすぎた武田勢は、戦術の面においてもまた信玄時代をそのまま踏襲(とうしゅう)していたのだ。その間に武器は刀から槍に、槍から鉄砲に移っていた。山県三郎兵衛たちが、それとなく、甲斐へ引き揚げるが上策と考えたのは、この両者の開きをある予感で感じ取っていたからではあるまいか。茫然(ぼうぜん)としている山県勢に、大久保党は決定的な追い討ちをかけていった。槍隊につづいて、こんどは、鉄砲の狙い撃ちであった。三郎兵衛はしかしまだそのときには討ち死にしていなかった。彼はもはや死が、はっきりと自分を捕らえているのを感ずると、退却する兵を、そのまま隣の佐久間信盛の陣に挑ませた。跡部大炊介の言葉によれば、佐久間信盛は信長を裏切って、必ず勝頼に味方するはずであった。三郎兵衛は無論それを信じていなかったが、万が一.....という期待はどこかにあった。と、その迷いを砕くように、佐久間の陣の奥からもまた、千挺の鉄砲が火を噴いた。信長は三千の鉄砲隊を三つに分けて、千挺ずつ、次々に弾込めさせて、つるべ打ちのできるように備えてあったのだ。こんどは三郎兵衛の姿は馬上になかった。彼は彼の予想通り、設楽ヶ原の朝霞の中へ晴れがましかった戦歴とともに、小さな死屍を横たえていったのである。こうして山県隊は死人の山を残して、壊滅し去った。生き残って退いたものは一割あるかなしだった。日はすでに高くなった。山と空と森と旗とが、白々しいほどかっきりと見えてきた。武田勢の二番手が動き出した。二番手の大将は、今は亡き、信玄に生き写しの舎弟、逍遥軒信廉(のぶかど)だった。彼はほとんど感情を他人に見せない、巨巌のような表情で、「押せッ!」と、いうと、そのまま馬をすすめていった。押し太鼓がまた、たくましく鳴り渡り、織田勢の丹羽長秀の陣をめがけて、騎馬の波は再びどうと押し寄せた。柵内では鳴りをひそめて待っている。やがて先頭が馬防柵にとりついた。と見ると、三度目の硝煙があたりをつつんだ。信長は「練りひばりのようにあしらってやる」と豪語していたが、まさにそのとおりであった。千挺の鉄砲は、またしても逍遥軒の部隊の半ばを一度に倒して、柵木一本失ってはいなかった。「退けッ」前と同じ表情で逍遥軒は呆然としている部隊をまとめて引きさがった。もはや勝敗は誰の眼にも決して見えた。それなのに、戦魔はその触手(しょくしゅ)を引こうとしない。生死を越えた悲しい意地で、三番手の小幡上総介信貞の陣からとうとうと進撃の太鼓が鳴り出した。雲が長篠の東、竜頭山の頂から千切れ千切れに流れ出した。その下であるじを失った馬が思い思いの方向へ狂奔(きょうほん)していったり、立ち止まって草を食(は)んだりしている。屍体はそこここの草の根に累々としてうつぶせに倒れていた。もはや、一人一人が名乗りあって斬りむすんだ姉川の合戦のときのような風景はどこにも見えず、戦の様相はまったく集団と集団の激突に変わり、激突した瞬間に間違いなく千挺ずつの鉄砲が火を噴いて、容赦なくその勝敗を決していった。三番手の小幡上総介信貞が、赤ぞろいの騎馬武者をまたしても馬防柵の前へ落花のように散らして退くと、四番手の武田左馬介信豊の軍勢が動き出した。これは母衣も具足も黒で固めた一隊で、鉄の集団のように結束していた。相手に鉄砲がなければ、おそらくこの勝頼の従兄弟は、その武名をこのあたりに轟かしたに違いない。最左翼に控えた馬場美濃守信房は、このとき初めて金鼓を鳴らして雁方山の麓(ふもと)から武田勢の左翼めざして動き出した。織田勢はこれを見ると、すぐ足軽の一隊を繰り出して、また、柵の前まで誘(おび)き寄せようとかかった。しかし信房は、この織田勢をみとめると、すぐに進撃を中止して、使い番を呼び寄せた。「そのほうは、真田源太左衛門信綱(のぶつな)どのと、兵部昌輝(ひょうぶまさてる)どの、それから土屋右衛門尉昌次(つちやうえもんのじょうまさつぐ)どのの陣まで使いしてくれ」まだ若い使い番の上田重左衛門(うえだしげざえもん)はそのとき信房の頬に澄みとおった微笑のあるのを見てとった。「仰せ、かしこまって」「よいか。わしは考えるところあって、これより兵を前に進めぬ。ご貴殿たちは進んで手柄をされるようにと」使い番はふっと首をかしげて訝(いぶか)しんだが、そのままうなずいて駆け去った。こうして、左馬介信豊が柵面へ激突してゆくころに、五番手の魚鱗備えの中からはずれて真田兄弟と土屋昌次の一隊がこれまた敵の左翼に猛然と襲いかかった。もはや生還は三人の念頭にはなかった。彼らは、柵ぎわで一斉射撃をあびたが、立ち止まりも、引き返しもしなかった。第一の柵は破られ、相手の弾込めする間に第二の柵に殺到した。しかし柵は三重だった。第二の柵を破って、三番目の柵にたどりつこうとするときに、兄の真田源太左衛門が、虚空をつかんで馬から落ちた。と同時に北方の森長村から迂回してきた柴田修理亮勝家、羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門長秀の遊撃隊が、真田兄弟と土屋昌次の一隊に襲いかかった。ここでも鉄砲は突撃路を開く有力な先導者だった。ダダンとあちこちの草むらから煙があがって西に流れた。そして、第三の柵にとびかかった真田勢と、土屋勢はそこで全く壊滅してしまった。もはや土屋昌次の姿も真田昌輝の姿もない。ただ馬場信房だけが、この光景を森かげに馬を止めて、非常な眼でじっと見ていた。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/知略戦略よりつづく最初から読んでみる?*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月26日
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いかなる場合にもまず備え、そのあとで一番大切なのは、わが身の姿勢をただしておくこと.....いわばこれが人事を尽くして敬虔に天命を待つの構え。その心構えがありさえすれば、無用な短慮や悔いはない。堪忍はここから生まれて、やがてその人を守るもの山岡荘八参考好きな言葉なのでのっけました。
2006年03月25日
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やっと書けました。汗興味のない方はスミマセン。*************************************************1/100 scale MASTER GRADE MOBILE SUIT RMS-099RICK DIASA.E.U.G. QUATTORO VAGEENA'S CUSTOMIZE MOBILE SUIT反地球連邦政府組織(エゥーゴ)攻撃用モビルスーツRMS-099「リック・ディアス(クワトロ・バジーナカラー)」1/100スケール マスターグレードモデルU.C.0083年設立されたティターンズは、公国軍の残党狩りを標榜し、その一方でスペースノイド(宇宙移民者)への弾圧を強めていた。ブレックス・フォーら推奨をはじめ、エゥーゴとしての体制が整いつつあった反地球連邦政府の組織は、クワトロ・バジーナことシャア・アズナブルが提供する技術をベースとして、AE(アナハイム・エレクトロニクス)社で新型MS(モビルスーツ)の開発を進めた。その指揮を採ったのが、AEの会長であるメラニー・ヒュー・カーバインであった。メラニーは、MSの基礎フレームなどは連邦軍のものを流用し、経費の節減と建造期間の短縮をはかり、即戦力の整備にその精力を集中させた。そして、ガンダリウムγ(ガンマ)の威力は、新造のMSを決定的に高性能なものにしていた。ガンダリウムガンマとは、かつてRX-78ガンダムに採用されていたルナ・チタリウム合金の発展合金であり、ガンダムの"強さ"を支える最大の要素であった。ルナ・チタリウム合金は、放射能を遮蔽する磁性を帯びており、ハイパー核融合炉の併用によって、機体そのものを軽量化し、かつその構成を高めた。それが戦後になってガンダムの高性能を産み出したと言われるようになった。しかし欠点もあった。量産がきかず、何よりも金属としては硬すぎて、損傷に対しての不安が耐えなかったのである。戦後、公国系の技術者が改良を加え、金属としての柔軟性の付加と量産化の技術を確立した。それが究極形ではないものの、初期のルナ・チタリウム合金を"ガンダリウムα"とし、それから数えて三代目に相当する改良であったので、技術者はそれに"ガンダリウムγ(ガンマ)"と名付けたのである。全部見てみる
2006年03月25日
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この間お休みの日に、実家で朝飯を食べることがありました。嫁さんはお仕事、上の子は小学校、下の子は幼稚園へ送ってあげて、帰ってみると、さあ、することが無い。はらもへった。で、たまには実家に顔を出してみるかと行ってみました。木曜日は私の母もお仕事お休みで、「母さん。腹へったけぇ、なんか食わしてぇやぁ」と、僕「残りもんしかねぇけど、食べていかれぇ」と、でるわでるわこりゃぁ残りもんのレベルじゃあないぜ!!っていう内容と味。私の母さん、近所の回転寿司でパート働きしてまして、もう十年近くなるのかな?いちじき店長になるやらならんやらで父親と話してましたが、はっきり言って、やり手のオバちゃんです。その朝メシは、さすがに寿司は無かったですが、握らせるとその辺の回転寿司やさんよりうまいとです。(母も回転寿司屋ですが)でも、昔食べてた母さんの味ではないなと、うまいやら、悲しいやらで、でもただでうまい思いできたのでやっぱりよかった。メデタシメデタシ。たまには実家に顔を出すのはイイデスネ。(メシ食いに行っただけではなくほかに用事もありましたが><)母が働いてるお寿司屋です。おいしいので宣伝しておきます。岡山に数店あるので、機会があったら行ってみてくださいねー。あっ。あとマリンポリスさんもおいしいですよー。(お偉い方に、スーツ作っていただいてますから 滝汗)
2006年03月24日
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たまには、私のお仕事に絡んだ話です。********************************************************羊と人類初めての出会い人間と羊が始めてであったのは遠い原始の昔、中央アジアの高原であったろうといわれています。当時羊は、もちろん野生の獣。原始の人々が狩猟のたびの途上、ふと出合ったのが、野生の羊の群れだったのです。その頃、人々は狩の獲物の肉を食べ、毛皮をはいで敷物や寝具とし、体にまとい保温の手立てとしました。そうした生活の中で、羊こそが食衣住の生活全面で役立ち、放牧に適する動物として選ばれたのだと思われます。牧羊の始まり牧羊は紀元前六千年ごろ、中央アジアで始まっていました。後、紀元前三千年には、人類発祥の地バビロニアで、すでに毛織物が一般に着用されていたという記録があります。中央アジアで家畜として飼育された羊は、その後古代ギリシャ、ローマへと伝えられ、大衆の日常生活の中には次第に浸透していきました。そして羊毛および毛織物の技術は、大いに改良されたばかりではなく、ローマ帝国の発展とともに、これらの技術はヨーロッパ各地に伝えられて、後の羊毛工業発展の素地となったのです。山羊と羊ウールとヘアー羊と似ている動物に山羊がいます。山羊も羊もツノがあり(羊にはツノが無い種類もありますが)足のヒヅメが割れていて、ほとんど同じように見えます。ただ、明らかな違いは、山羊にはアゴヒゲがあり、羊にはそれが見当たらないということです。ヒゲの有無はつまらないことのようですが、実は羊だけが衣料や敷物、寝具用原料として育てられてきた秘密がここにあるのです。山羊の毛はヘアー(hair)と言って、アゴヒゲに代表されるように、硬くて光沢があり、人間の髪の毛に近いものです。これに対して羊の毛は、ウール(wool)と言って、もっと細く、よくちぢれ、ふっくらと感触の優れたものだからです。抜群の感触人類は、はじめから家畜として現在のような柔らかい毛に覆われた羊を飼っていたわけではありません。中央アジアの高原に現在もいる野生の羊のように褐色の硬い毛を持った羊だったのです。野生の羊は、年間を通じて柔らかい毛に覆われているのではなく、秋から冬にかけての寒い時期に、体の表面の硬い、長い毛の下に柔らかい毛を生やします。こうした羊を、季節と関係なく全体に柔らかい毛が生えるように変えたのは、人類の長い長い時間をかけての苦心と努力だったのです。羊とウール人類の歴史と共に羊の毛も、遠い昔にはウールとヘアーが混じっていましたし、白髪や黒い毛も一緒に生えていたのです。これを私たちの先祖が、8000年もの歳月をかけ、古代中央アジアからバビロニア、ローマを通じ、さらにヨーロッパや近世アメリカ、オーストラリアの広大な地域の人の手を経て、本当にいい毛(ウール)だけを持つ羊を選びに選び抜いて、現在見られるような羊に育て上げたのです。羊は、まさに人類の歴史とともに歩んできた動物だと言えるでしょう。紀元前2世紀ごろ、ローマ人はタレンタイン種という優れた羊を飼っていました。同じ頃、海をへだてた北アフリカに住むアラブ人は、純白の羊を飼っていました。この両者を交配させて、新しい品種を作り出したのがスペイン人です。これが、今日のメリノ種の始祖に当たるわけです。スペイン・メリノ種の登場スペインでいっそうの改良が続けられたメリノ種は、その後、英国を初めヨーロッパ各地に、次第に広がっていきました。英国では、15世紀末に3000頭のメリノ種が輸入され、さらに100年余りの後には、再び3000頭が輸入されています。こうして、在来の英国種との羊との交配が試みられたのですが、結局成功せず、英国では長毛種にとってかわられました。しかし、ドイツ、フランスへ輸入されたものは成功し、さらに北米、南米、オーストラリア、南アフリカなどへと広がっていきました。衣料のための羊毛の中で、最も優れているのがメリノ種の羊毛なのです。オーストラリアで成功した牧羊なかでも、僅か29頭のメリノ種の輸入からスタートしたオーストラリアの牧羊は、その後頭数も次第に増え、改良もされて世界最大の羊毛生産国となりました。オーストラリアに、初めて羊が輸入されたのは18世紀末ですが、19世紀の半ばには早くも1700万頭を数えるにいたるなど、大変な増加ぶりを見せました。その大部分はメリノ種で、現在は衣料用の良質の羊毛生産国として、確固たる地位を誇っています。*********************************************************************参考 国際羊毛事務局/ウールマーク製品 販売の手引きより
2006年03月24日
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興味のない方は見んといてね。**************************************************H18.03.23脱出ポットを乗っけました。中のクワトロ大尉はぬってません。ピンク持ってないので。中の全天周囲モニターは、自己満足でメッキシルバーをぬって鏡面ぽくしました。頭部を作りました。脱出ポットの上にかぶせるようになってます。頭部の赤い部品も、クワトロ仕様と汎機仕様2つあって、びみょーに表情が違いこれもクワトロ仕様を装着してます。中に、バルカンファランクスがあって、開閉可能となってます。HGUCの場合はけっこうモロイ部品でしたが、MGはかなりしっかりした作りになってます。腕部を組みました。腕部にムーバブルフレームはありませんでしたが(残念)、マニピュレーターがすごいことになってます。指が一本ずつ動くのは最近のMGではけっこう当たり前になってきてたのですが、指の第2関節まで曲げることができるようになってます。これによって手元の表情がかなり細かく出せるようになってます。ちなみに両腕とも鳥もちランチャーが出て繰る作りになってます。型のフレームを作ってボディに装着しました。だいぶリックディアス君らしくなってきましたね。背中のブースターバインダーを製作しました。腕部がムーバブルフレームになってない分、ここがフレーム仕上げになってます。(ヨカッタ)この中身のフレームとバーニアにもクワトロ仕様と汎機仕様2通りあって、これはクワトロ仕様です。凡機仕様は、フレームにメッキシルバーがぬってあるパイプ部分がなくて、モールとも少しショボく、バーニア部分はショボスラスター1基のみとなってます。ここまでくると、絶対クワトロ仕上げにするべきですね。ビームピストルとクレイバズーカも仕上げました。武器はすべて背中にマウントできるようになってます。カッコイイ。装甲をつける前にくみ上げてみました。「リックディアスのムーバブル・フレーム」って感じでカッコイイデスネ。あとはフレームつけて、シール・デカール張りで終わりです。装甲も仕上げましたこうなるとリックディアスですね。「自分としてはリックディアスの方にプライドを感じます」(アポリー)「あたりまえだ」(クワトロ)って感じですか。最初から読んでみる
2006年03月24日
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なーんにもなかったです。夕方までひたすらガンプラ製作と合間を見て愛ちゃんのひらがなと数字のお勉強見てました。昨日は和志君の誕生日イブで、予め買っていたプレゼントを我慢できずに渡してあげちゃいました。(クラッシュバンデグーです)子供の喜ぶ顔。やっぱり、わがことのようにうれしいですね。今日(24日)は嫁さんがケーキを買ってくるとか言ってましたから。またよろこぶぞぉ。おおきくなれよ!まいさん!
2006年03月23日
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球蹴りすると...体のあちこち痛いんですけどね。はっきり言って、三十路の football junkie です。今週の木曜日は本日雨なので練習なっしんぐだろうから、昨日の夜、行ってきました。昨日は祭日だったからものすごい人数いてて、27,8人くらい来てました。ちょっと多すぎくらい。人数が多かったので、貴重なフルコートでの試合形式でした。私はおこがましくもトップをやらせてもらい、しっかり1点取りました。+゜*。゜喜+゜。*゜+ (ちょっとオフクサカッタカナァァ)そこの連中は、僕が参加している一番うまいチームなのでSPECIALに勉強になりますゥ。今週日曜日、大阪の一番強いところとやる予定(親善試合?)なのに、仲間に入れてくれて...ありがとう。まなぶさ~ん。みなさ~ん。(読んでないか)。" ゚☆,。・:*:・゚★o(´▽`*)/どっかからパクってきました。デルピエロ、カッコイー!ということで明日は球蹴りできないから明日もどっぷりとガンプラ製作につかろうかなぁ。
2006年03月22日
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**************************************************天正三年(一五七三)五月二十一日は明け方から東風の風が吹いて、白みかけた空の中央をあわただしく雲が走っていた。武田勢の一番手をうけたまわり、最左翼の連呼橋の近くに陣をすすめて来ていた山県勢は、早朝からの戦闘を予期して、すでに武装を終わっていた。まだ夜は明けきらず、前面に構えられた馬防柵はハッキリと見えなかったが、その柵を破ってまっ先に斬り込めというのが山県の赤備えに課せられた任務であった。「そろそろ法螺貝を吹いてよかろうぞ」ひかせた馬にひらりとまたがって、三郎兵衛が短身を立てて前方を見やったときだった。「はてな、敵は柵の外へ出て来ているぞ。誰かある。物見してまいれ」と、三郎兵衛は小首をかしげた。墨絵のように、暁の白に淡くにじんだ柵の手前に、ちらちらと黒いものの動くのが見えている。徒歩(かち)の兵だ。家康に、戦いは必ず徳川勢の手で始め、徳川勢の手で納めよと、くれぐれも念を押されて、武田勢の中でも勇猛で鳴りひびいた山県勢に当たるため、夜明けを待たずに行動を起こした大久保党の忠世、忠佐兄弟の軍勢だった。山県勢から飛び出していった斥候(ものみ)が、息せき切って駆け戻って来る前に、大久保勢のときの声があたりを圧してひびいて来た。「出るなッ」と三郎兵衛はどなっておいて、自分で馬を小高い丘へのりあげた。しかし、まだ視野はきかず、人数のほども分からなかった。しかし、柵の外へ出てきたとなれば、しめたものと三郎兵衛は思った。中へひそんで待たれたのでは是が非でも柵を踏み越えて行かなければならなかったが、出て来るとわかれば十分に引きつけて、それから叩いて事足りる。「申し上げます、柵外の敵は大久保勢にござりまする」「よし、まだまだ出るな。ひきつけよ」そう言ったときだった。今度はずっと後方の鳶の巣山で遠雷に似たかん声がわき上がったと思うと、続いて、ダダダーッと雪崩れるような銃声がとどろいたのは.....ダダターッダダダーッ「しまった!」三郎兵衛は馬首をめぐらして低く呻いた。この銃声は五十や百の鉄砲の音ではなかった。そのような大敵が、すでに見方の後ろに回っているのでは、見方の退路は断たれている....言うまでもなく、これは、信長からわざわざ五百挺の鉄砲隊を与えられて、昨夜のうちに鳶の巣山へたどりついていた酒井左衛門尉忠次の奇襲隊だった。このおびただしい銃声におどろいて、左隣の武田左馬助の陣営でも、後ろに控えた小幡上総の陣営でも、一度にざわめき立ってきた。山県三郎兵衛は、塑像(そぞう)のようにしばらく黙って馬の手綱をしめていたが、やがて、「よしッ!」と叫ぶと、疾風のように馬を陣頭へ走らせた。合戦開始.....と、いうよりも、それは徒歩ばかりの大久保勢を踏み潰すために二千の騎馬武者が巻き起こす台風の合図であった。高々と法螺が鳴り、陣鉦(じんがね)がひびいて、じょじょにあたりは明るくなった。選(え)りすぐった武田勢の騎馬武者に対して、徒歩で立ち向かってくるというのは、考えてみればおかしなことであった。徒歩立(かちだ)ちの兵に対して馬の蹄は今の戦車ほどに役立つのだ。三郎兵衛は、鞍の上へ突っ立つようにして、「かかれッ!」と采配をふりながら、(これはわれらを柵内へ誘い出すための囮(おとり)ではあるまいか)と、ふと思った。もしそうだったら、みすみす敵の罠におちる.....ふと心に疑惑が芽生えた。とそのときに、大久保党から、いきなり第一の射撃を受けた。およそ七、八十挺と思われる。この射撃が山県三郎兵衛の疑惑を大きく一掃した。(大久保勢はこれを頼みにして出てきたのか)それならば止まったり、退いたりはできなかった。後方で、すでに鳶の巣山が奪われている。鳶の巣山には武田兵庫助信実(たけだひょうごのすけのぶざね)が立てこもっていたのだが、それを破った相手は誰であろうか。とにかくこの奇襲をあえてするのは凡将ではない。万一退いて前後から鉄砲で挟撃されるようなことがあっては武将としてこのうえもない恥辱であった。(よし、逡巡なく駆け散らそう)ようやく目の前の柵も、その向こうの極楽寺山、茶臼山、松尾山も山容をはっきりあらわし、林間を埋め尽くす旗の波が見えて来た。今日の信長は茶臼山とわかっているので、そこまで一気に踏み込んで突破口を作ってやる気であったが.....大地を震撼(しんかん)させて、山県勢は大久保党に襲いかかった。大久保党では、騎乗は大将の七郎右衛門忠世と、弟の治右衛門忠佐だけだった。「兄じゃ、来たぞ」弟の忠佐はぐるりと馬を輪乗りにして、兄の顔を見るとクスリと笑った。そして馬の尻を敵に見せると、「引きあげえ!」大きくどなっておいて、いきなり自分がまっ先に柵の内へ退いた。兄の七郎右衛門もそれにつづいた。また柵ぎわで鉄砲が鳴った。怒濤(どとう)のように押し寄せてくる山県勢へ、せいぜい二、三十挺の鉄砲は、何人傷つけ得たか分からぬほど微力なものに思えていった。したがって怒涛は蜘蛛(くも)の子を散らすように、大久保勢のあとからドッと一度に柵際まで押し寄せた。柵の内からバラバラと矢が飛んで来た。中には槍を構えて内側に待っている者もある。「今だ。柵を踏みつぶせ!」「蹴散らして信長の本陣へ殺到しろ」ワーッとみんなは第一の柵に馬をのりかけた。そこここで、メリメリと柵木を倒す音がしだした。と、そのときだった。柵の前に密集してしまった騎馬武者二千の上へ信長の伏せてあった千挺の鉄砲が、一度にダダダーンと天地をゆすって射ち出されたのは.....一瞬あたりはシーンとした。一発一人は必ず倒すと言われた片目をつぶって狙う信長の新式鉄砲。それが千挺、一度にかたまった人垣を見舞ったのだ。硝煙のゆるく西に流れ去ったあとの柵前には、主人を失った馬だけが、キョトンと取り残されて、人の数は数えるほどしか残っていなかった。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/知略戦略よりつづく最初から読んでみる?*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月22日
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ヤフオクで落札した布袋さんのビデオ。まだ、お金振り込んでないのにトドイテシマッタァ 。+゚(゚´Д`゚)゚+。 マジッスカァ シラナイヨォ22日に振り込み予定ってちゃんと書いておへんじありがとーっ!メールも来たのに....なんか万引きしてあとから「やるんじゃなかったなぁ」って気分に似てます。盗んだわけではないんですけどね....明日モーダッシュで振込みに行かねば!!!(しかも届いた商品、未開封のサラです。スゲッ!)ちなみに送料込み980円でした。ナンテイイヒトナンダァァァァ。
2006年03月21日
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**************************************************勝頼は信房の言葉が聞こえたのか聞こえないのか、主戦論者の跡部大炊介勝資(あとべおおいのすけかつすけ)を招いて、「敵方へ入り込んでいる、甘利新五郎から連絡があったと申したな。その内容、詳しく述べてみるがよい。」と、うんがした。跡部大炊はわざと大きくうなずいて、馬場、山県、内藤、小山田と見ていった。このよにんを決戦回避の首脳者と見ているらしい眼つきであった。「はい申し上げまする。実は、甘利を介して、この大炊のもとまで、織田方の大将、佐久間信盛どのから親書が届いておりまする。それによりますると、佐久間どの、武田家へ使える上は抜群の手柄を立て、それを手土産にいたしたいとござりまする。」「なに、佐久間信盛がご当家へ仕えたいと」まっ先に聞きとがめたのは内藤修理(しゅり)であった。「いかにも」跡部大炊は大きくうなずいて、「織田どのの欠点は短気にござる。いちど怒りを発すると、満座の中で顔を上げ得ぬまでに相手を罵(ののし)る。その毒舌を浴びて佐久間信盛血相を変えて御前をさがった事は、すでに甘利より聞きおよんでおりました」「確かでござろうなあ、織田どのは油断のならぬ策謀家でござるぞ」「それはよく!」存じているという代わりにポンと軍扇で胸を叩いて、大炊はまた言葉を続けた。「相手が抜群の手柄を立てて、それを手土産にしてくるというものを、別にこちらから拒むことも、警戒する必要もござりますまい。それゆえ、佐久間どのの新書の内容、そのままここでご披露申し上げましょう。」大炊はそういうと一通の書状を出して、みんなの方へそれを見せながら、「.....今の主人のぶながことは、内心非常に武田勢を恐れてござれば、進んで戦うようなことは万々これなく、しかしそれがしの陣の近くには丹羽長秀、滝川一益の両勇将がござれば、うかつに行動は起こされませぬ。なれど、もし武田勢が進んでお攻め下されば、折を見てこの信盛、必ず裏切りをつかまつり、信長の本陣を切り崩してご覧に入れまする。信長の本陣が崩れるときは家康も敗走疑いなきところ、これを手土産とつかまつりたく、その節は何とぞお取成しのほど.....と、書いてござりまする」一座はシーンと静まり返って、しばらく誰も何も言う者はなかった。「そうか。佐久間が裏切りを覚悟したとか、その書面をこれへ」勝頼はつとめておだやかな口調で言って、それに眼を通すとすぐに巻いてわきにおいた。「とにかく佐久間の裏切りなどに期待はかけまい。これは万一手柄を立てて参ったときに考えればよいことじゃ。では明日すぐに行動を起こすとして、左翼は山県三郎兵衛昌景」「はッ」「その控えに小幡上総介信貞(おばたかずさのすけのぶさだ)。それから山県の右へは左馬介信豊、続いて右に逍遥軒と内藤修理」内藤修理はそっと隣の馬場信房を見やって黙っていた。「右翼は馬場信房と真田源太左衛門兄弟.....」言いかけてみんなの返事のないのにいらだち、「不服かその方たちは」刃物のような声と眼とでキッとみんなを睨んでいった。同朋(どうぼう)が一人、しきりに燭台の丁子(ちょうじ)を取ってまわっている。武田勢の評定はついに十九日の夜まで続いた。決戦回避を主張するものと、主戦論との微妙な空気がなかなか軍議を決定させなかったのだ。あるものは相手の出方を見ようといい、あるものは、相手が進んできたときに出鼻を叩くが得策であろうといった。その間に織田、徳川両軍の動きは刻々に注進されて来て、相手の陣備もだんだん全貌を見せてきた。家康は本陣を弾正山に進め、その前面に三十の高い柵を作り出したと聞くと、主戦論者は口を揃えて言い出した。「.....やはり佐久間信盛の内応に嘘はない。信長に進んで攻めて来る勇気はないのだ。でなくてなんで自分は家康のいた茶臼山に入り、その上三十の柵など、物々しく作らせてゆくものか」「こうなったら、味方から仕掛けていって、蹴散らすまでじゃ。相手が出てこぬとなったら時期も、こちらで選ぶまで」大将の勝頼は、初めから決戦する気なのだから、これは結局、反対派の諸将を説き伏せるための軍議といえた。そして、ついに軍議の決定を見たのは十九日の夜の四つ(十時)近くであった。明二十日に行動を起こして敵の前面に布陣し、二十一日の早暁から総攻撃を加えることになった。第一番手は山県の赤備(あかぞな)え二千騎。第二番手は武田逍遥軒と内藤修理。第三番手は小幡上総介信貞の赤ぞろい。第四番手は武田左馬介信豊の黒備え。第五番手は馬場信房と真田兄弟。陣頭に立とうという勝頼を、そのまま医王寺山にとどめておくことになったのが、決戦を避けようとする人々のせめてもの慰めであった。軍議を終わって本陣を出ると、すでに遅月が出ていた。馬場美濃守信房はその月を見上げて、後から出てくる山県三郎兵衛を待っていた。「山県どの、これまでご別懇に願ったが、そろそろお別れでござるの」「いかにも、時の勢いでやむないことに存ずる」「ちとお身にお話申しておきたいことがござるが」「お身の陣屋まで参ろうかの」「さあ、陣屋では.....いかがでござろう、わが陣屋までおもむく途中に大通寺山の谷川がござるが、そのあたりで清水を汲んで別れては」二人がそう言って小物の手から手綱を受け取ったときに、内藤修理亮と小山田兵衛、原隼人(はらはやと)の三人が、二人の姿を見つけて馬を寄せてきた。「お名残おしいのう、このまま分かれるのは」内藤修理が声をかけたので、三郎兵衛も信房も思わず顔を見合わせた。(みんな今度は討ち死にする覚悟なのだ.....)そう思うと、信房はきりりと胸へ錐をさされるような思いがした。「われらは、お家大事と思うて決戦を避けるようにすすめたのだが、軍議一決したゆえこのうえは何も申さん。このうえ申さば、おん大将が暗愚であった、家臣のしめしがつかなかったと後の人に笑われようでの」信房はみんなの不平を聞くのが辛くてそう言ったのだが、それを聞くと、「いかにも、もう不満、不平は申すまい。甲州武士の誇りにかけて。だが、このまま分かれるのは名残惜しい」小山田兵衛がしみじみ言って、ついに五人はくつわを並べて歩き出していた。馬場信房も山県三郎兵衛も、後からついてくる三人に、われわれは話があるのだからとは言い出せなくなった。「では、大通寺山の谷川で、みんなで水盃(みずさかずき)をして別れようか」山県三郎兵衛がそういうと、信房はぴたりと三郎兵衛のわきに馬を寄せて来て、「山県どの、お身は生き残ってくだされ!」と、あたりをはばかりながら強く言った。「何でまたそのようなことを言われる?」「万一の場合、しんがりを勤めて、殿を甲州へ送りとどけて下され。しんがりを勤めるものがほかにない」山県三郎兵衛はかんたんに首を振った。「それは拙者に不向きでござる」「不向きといわれるては困る。さなくば、きっと殿は旗色悪しと見ても敵陣に切り込まれる」「馬場どの、お身がその役引き受けられよ。それがしは、一度決まった軍議ゆえ、軍議のままにまっ先かける。さなくば全軍の士気があがらず、勝つ戦も負けになろうでのう。よいか馬場どの、もう重ねてそれは仰せあるな」「では何としても」「お断りするよりない。とにかくこの三郎兵衛の死にざまお目にかける日がやって来たのじゃ」馬場信房はついと馬を離していって、ため息とともに半ばうるんだ半かけ月を見上げていった。一番手の山形三郎兵衛に、生き残れというのは無理かもしれない。そうすればやはり五番手と決められた自分が、退き口のために残らなければなるまいか。が、もし敗れて甲斐へ退くことになっても、果たして生きている勇気が自分にあるかどうか。結局武将が心服しきって働ける大将は生涯にただ一人しかないのではなかろうか。とすれば、信玄の死んだときに、自分はあとを追うべきではなかったのか.....?自分と同じような感慨で、心の底では信玄を慕いぬいている者が多く、それがかえって勝頼の不為になっているのではなかろうか.....?木の枝をくぐり、岩角をめぐって大通寺山の谷あいに出たのは四半刻ほどしてからだった。月光をうけ、チロチロとうごくにぶ銀色の清流のたまりにかかって五人は次々に馬を降りた。「はじめは一万五千二五百、それが一万五千に四万と変わっていったのだからの」そう言ったのは原隼人で、「それでもなお一歩も退かずに戦うのだ。さ、水盃して別れよう」と、馬の背から馬柄杓(うまびしゃく)を取ったのは内藤修理であった。「では、山形どのから始められよ」「おお、かたじけない。馬柄杓の水の中にも月が映ってござるぞ」三郎兵衛は笑ってそれを口につけると、すぐわきの馬場信房に渡した。信房はうやうやしく押しいただいて、「弓矢八幡、照覧あれ、方々お先に」と、言って一口のんで内藤修理に渡した。内藤修理は何も言わなかった。次に受け取った原隼人が、「おお、うまい水じゃ、得も言われぬ」ごくりと音をさせて、小山田兵衛に渡すと、「ハハハ.....」と小山田兵衛は笑った。「これで死んでゆく.....何だかみんな嘘のような気がするのうハハ.....」どこかで梟が鳴きだした。耳をすますと河鹿(かじか)の声も細くかなしく水音に混じっているようだった。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/知略戦略よりつづく最初から読んでみる?*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月21日
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よく人のことを誉めたり、けなしたりにあの人は器が大きいとか、器が小さいとか言いますが、人の器って大小だけじゃあないと思います。その、人の器には、普通のお椀みたいに形もあって小さい容積の器でも奥行きのある器が合ったり、幅の広い器があったり、底の浅い器があったり、反対に底の深い器があったり、歴史上のすごい人物をいろいろ本で読んでいて、この人たちは歴史に名を残していても、一口に大きな器の人ばっかりなのかなぁと、考えたことがあります。結論人の器は大小だけではない。 幅の広さや奥の深さもあると、思います。人って生まれながらの器というのを持っていて、基本的な大きさは決して変えることはできないけれどその人生において歩んできた道程、人間関係、いろんな事象によって、幅が広くなったり狭くなったり底が深くなったり、浅くなったりするんじゃないかな。で、昔から長幼の序という言葉があるのか、なぜ、お年を召された方の人生がなぜ尊いのか、なぜ、弟よりおにいちゃんのほうがえらいのか、っていうのにもつながるんじゃないかなぁ。山岡荘八の本の中に運命と宿命と天命って言うのがあります。僕はその人間の器って言うのをその話とリンクさせてよく考えます。人の一生には運命と宿命と天命があってそのお椀にたとえると、運命というのがお椀の中のことで右に行ったり左に行ったりすることは自由自在。宿命というのがそのお椀の縁で、決してその縁から外へは出ることができずに、天命というのが、そのお椀の縁から外、お椀の形の形成を含めたすべての宇宙、という意味。人の器のお椀と、運・宿・天命の話となんとなくつながりません?いつか口にして話してみたいなあと思ってたことを私なりに噛み砕いてみたのですが、どうでしょう?
2006年03月20日
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**************************************************織田、徳川両軍の数は二万八千。その中へ信長が、自分の勢力範囲内で集められるだけ集めた鉄砲隊が三千五百まじっている。岐阜を発するときに、信長が、わざわざ一人一人にかつがせてやって来た数万本の材木で、連子橋から弾正山の左まで、三重に柵を作らせることになっている。この三十の柵はいわば騎馬戦に長けた武田勢をここで足踏みさせる罠なのである。一挙に家康、信長の本陣をつこうとして、必ず甲州勢はこの馬防柵に突撃を試みるに違いない。そのときに、三千五百の鉄砲隊が、ここに食い止められて密集してゆく敵めがけて一斉射撃を浴びせかける.....というのが、信長の練りに練った秘策であり、必勝の戦法であった。それだけに信長は自信満々、家康には遊山にでも来たつもりで見物しているようにと言ったのに、家康は、「.....これだけではこころもとない」といったのだ。「ほほう、これではまだ足らぬと言われるか」信長は意外な言葉に眼を光らして、「どこが不安だと言われるのだ。うけたまわろう」家康は答える代わりにゆっくりと首をかしげて考えて、「武田勢は必ずこの場防柵へ突進して参ろうか」「ハハハ.....その事ならば手は打ってある。案じなさるな」「しかし、敵がこの罠へかかって来たとしても.....」と、言いかけてまた言葉をきって、「わが家臣に、酒井左衛門尉忠次と申すがござりまするが.....」なにを思ったのか突然妙なことを言った。「なに」信長はこれもふっと用心深い上目になった。家康が何を考えているのか、それを嗅ぎ出そうとする鷹の眼であった。「忠次ならば、改まってお身に言われずとも、何度も俺がもとへ使いしているゆえ知っている。あの忠次がどうしたと言われるのだ」「忠次はなかなかの戦上手、この者をお呼び出しになって、いまひとつ策略をおたずね願いたい」今度は信長がしばらく厳しい表情で考え込んだ。「よかろう。すぐにこれへお呼びなされ」「小平太、忠次をこれへ」家康はそういってから、扇の要(かなめ)を場防柵の起点になっている連子橋の外へあてた。「ここへは、わが家臣の大久保兄弟を囮(おとり)に出しておかれたい。ここまで織田勢に働いていただいては、家康ちと心苦しい!」信長はニタリと笑った。家康の律儀さと取れば取れないこともなかったが、信長はそうは取らなかった。(なかなか考えていくさるわい.....)しかし、それでいいのだとも思った。二人の大将が互いに策と力を競いあい、双方の長所を生かして戦うところに連合軍の強みは生まれてくる。「大久保兄弟とは、七郎右衛門忠世(ただよ)と治右衛門忠佐(じえもんただすけ)がことでござるか」「仰せのとおり、彼ら兄弟に、わが方の先手をつかまつらせとう存ずる」「相分かった!大久保兄弟ならば異存はない」と、また考えて、「もし、柵外の大久保兄弟苦戦の節は、北方からわが家臣、柴田、丹羽、羽柴の三将をもって柵外へ討って出させよう」そう言ったときに、呼びにやった酒井忠次がやって来た。幕内の諸将と随臣の眼はいっせいに酒井左衛門尉忠次にそそがれた。信長の戦略にあきたらぬらしい家康が、自分でもなぜ不安なのかよく分からぬゆえ、呼び出して訊いてくれと言ったのだから、無理からぬことであった。「おお、忠次か」家康よりも先に信長が手招いた。「おぬし、今度の戦について、何か思いついた策があらば申してみよ。遠慮はいらぬぞ」「はッ」忠次はエビ掬(すく)いのときとは人が違ったような厳(いか)つさで信長の前に進むと、片膝ついてそこに広げられた絵図面をのぞき込んだ。「武田勢が、わが方の陽動隊を追ってここ、有海ヶ原へ兵を押し出してまいりますと、後ろが空になるかと心得まするが」「それは空になるであろう」「そのときひそかに後ろへまわって、鳶の巣山の砦を乗っ取ってはいかがと存知まする」「なに、敵の後方の鳶の巣山を.....」「はい、この役目、もしそれがしに仰せつけ下さりまするならば、前夜のうちに敵の背後にまわり、明け方には鳶の巣山を乗っ取ってご覧に入れまする」忠次は気負った語気でそう言ったが、家康は眼を細めて、聞いているようでもあり、聞いていないようでもあった。信長は鋭い眼でチラリとそれを見てから、とつぜん大声で笑い出した。「これ忠次!」「はいッ」「この信長はな、四十二歳になって、始めて古諺(こげん)の意味をしったわ。蟹(かに)は甲羅に似せて穴を掘るとな。ハッハッハッハ、たわけ者め!今度の戦を何と心得ているのじゃ。野臥(のぶ)せりや山賊どもの戦ではないぞ。そのようなこそくな働きはな、三河や遠江で二百か三百の小勢で戦うときに用いる手じゃ。その方の器も相分かった。退れ!」いったん嘲(あざけ)りだすと息の根も止まるような悪罵を浴びせる信長だった。忠次は真っ赤になってうなだれ、並みいる諸将も思わず顔を伏せていった。家康だけがいぜんとして黙っている。「では、ごめん下さりませ」忠次が下がってゆくと、また軍議は続けられた。しかしその軍議はどこまでも、敵が見方の馬防柵にうまく誘(おび)き寄せられた場合の想定にもとづくもので、敵が来なければ、当然練り直さなければならないものだったが......とにかく空が薄墨(うすずみ)いろになるころに、一応評定は終わって、諸将はそれぞれ各自の新しい野陣へ引き取っていった。「徳川どの、お忙しかろう。まだお引き取りなさらぬか」後に残ったのが家康主従だけになると、信長は笑いながら、「やはり見抜かれたか。では、今一度忠次を呼んでいただこうかの」家康はそれを当然のことのように、「小平太、忠次を呼んで参れ」と、静かに言って、信長に視線を転じた。「これで勝ちましたな。いや、ようやく勝つと腑におちました」一語一語に力をこめてうなずいた。忠次が入ってきたときには、すでにあたりは暗くなって、かがり火の上の空には星が光りだしていた。忠次の顔色は蒼白く、頬の尖(とが)りが警戒と怒りをただよわしているのが分かった。「忠次、これへ来い」家康はおだやかに、忠次を手招いた。「織田どのが改めてその方に話があるそうな」「はッ」忠次が二人の前へやってきて方膝つくと、信長は手を振って、二人残った近侍を遠ざけた。「忠次、もっと近くへ来い」「はッ」「さすがは徳川どのの片腕、さっきの作戦、信長心から感服したぞ。実はの」「.......」「陣中といえどもなかなか油断はできぬのだ。ついこの間も甘利新五郎と申す敵の間者がまぎれ込んで来ていての、これは、わしが、見事に逆に使うてやった。それゆえ、敵は必ず決戦を挑んで有海ヶ原へ出て参る。だが、出て参った敵がわが方の最初の一撃にあって、これはいかぬと気づき、そのまま引き上げたのでは漁は少ない。そのために、何かよい策はないものか.....と、しきりに考えていたところじゃ。決戦の日の早暁、鳶の巣山砦を乗っ取る、いや見上げた策じゃ。信長ほとほと感じ入った。が、夜襲はの、敵に洩れては成功せぬ。それで諸将の前ではわざとその方を嘲(あざけ)ったのじゃ。よいか、明日一日は柵の打ち込み、そのほうは明晩ひそかに行動を起こして、敵が有海ヶ原に出てきたときに鳶の巣山を乗っ取れ。よいか、その方に鉄砲隊五百をさずけよう」「そ.....そ.....それはまことでござりまするか」忠次は、あまりのことにキョロキョロと家康を見やり、信長を見やった。家康はいぜん薄目を閉じて聞いている。「ハハハ、せっかくの妙案、どこから洩れてもならぬゆえ叱ったのじゃ。許せよ忠次。実はな、この信長、その夜討ちには自分で行きたいほどなのじゃ。のう徳川どの、あたら手柄を忠次に取られてしまう。惜しいことだぞ」家康は、こくりとうなずいて忠次に、「鉄砲隊五百.....しっかりやれよ」「ははッ!」「気づかれぬように」「心得ました」「では、それがしもお暇して、早速あれこれと諸将に手配りをいたしまする」家康が丁寧に一礼して立ち上がると、信長は無遠慮にその肩をたたいた。「ボツボツ馬防柵の杭打ちの音が聞こえだした。ハッハッハ.....えもいわれぬよい音だのう、徳川どの」かくして、織田、徳川の軍議はきまった。と、同じ夜に、医王寺山の武田勝頼の本陣でも、宿将重臣たちが額をあつめて、いくさ評定をひらいていた。百目蝋燭(ひゃくめろうそく)をたてつらねた仮屋の中はまるで蒸し風呂へ入ったような暑さで、諸将の顔はテカテカと油汗に光っていた。「では、どうあっても、ここで決戦なされまするか」正面の勝頼に、思い切り悪く言ったのは馬場美濃守信房だった。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/知略戦略よりつづく最初から読んでみる?*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月20日
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僕の好きな布袋さんの曲で今一番好きな曲の詩です。さっき視聴サンプルで見てきてまた興奮ヾ(゚д゚*三*゚д゚)ノしたから調子に乗って書きます。果てしない青い空 奪われたかごの鳥あきらめるのは まだ早いだろ 夢の熱さで勝負途中経過は あえて気にせず ただひたすらGoin My Way燃え尽きるまで やり遂げるまで 立ち止まってちゃNo Future夢を信じる 者たちだけの 金の翼 Liberty Wings知ってる人いるかな?メチャメチャいい曲です。じんさんいつもこんなの聞いてます。布袋さんすきだぁ~~ッまた倉敷きてくれぇぇぇ!
2006年03月19日
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もうちょつとで6000だぞ!ふぅなんか最近ペースはやくねーッ(キムタク風)よかったよかった。さっきチョイ暇だったので、またまた布袋さんの.COMにいってきたっす。シビレルゥゥゥ。かっくいい。勢いにのってヤフオクで布袋さんのビデオ(DVDもってねっす)ゲッチュしたっす!!昔は新しいCD/ビデオ出たら必ず買ってたのに。ここ数年間はまったく興味がなくなってご無沙汰でしたが、この間ギターを引っ張り出して以来、みょうに音楽(布袋イズム)にひかれちゃうっすね。おうちにいるときもギター握ってることが増えてきたし。なんだろーねー。心に余裕ができてきたのかな?アンプとエフェクター(音質を変える道具)まで出しちゃおっかナァァァ!(ご近所迷惑にならないように)子供にも楽器はゼヒやってもらいたいなぁ思います。何するにもリズム感は必要だし。楽器で表現する"感情"っていうのも感じてほしいし。楽器じゃなくて、歌でもいいけどねー。何かやってほしいなぁ。
2006年03月19日
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************************************************家康と信長の連合軍が鳥居強右衛門のあとを追うかたちで岡崎を立ち、牛久保を経て設楽ヶ原に到着したのは十八日の昼であった。到着するととりあえず信長は極楽寺山に、家康は茶臼山に本陣をおき、すぐに落ち合って最後の戦評定にかかる必要があった。家康は、榊原小平太康政と鳥居彦右衛門元忠を連れて仮本陣を出ると、そろそろ西へまわった陽射しの中を極楽寺山の信長の本陣へ向かった。ここから長篠城までは約一里。途中で馬を弾正(だんじょう)山まで進めてみると、足元の連子(れんこ)川を距(へだ)てて、幾重にもかさなりあった森の新緑の向こうから、飢えにせまられた長篠城の鼓動がそのまま自分の胸に伝わって来るようだ。しばらくじっと小手をかざして東の空を見ていると、「殿、遅くなりまする。織田の殿がお待ちかねでござりましょう」鳥居元忠がうながしたが、家康は動かなかった。自分が、ここからただこうしてじっと見ているだけで、長篠城へは眼に見えないある力が通ってゆく.....そんな気がして立ち去りがたい家康だった。「殿!あの腰の思い織田の殿が、ここまで出て来たのではござりませぬか」「分かっている」「分かっていたら待たせては悪い。参りましょう」「元忠.....そなたは織田殿の腰が、なぜあのように重かったのか分かっているのか」家康はまだ視線を東の方の山から森へ据えたままで、「織田どのはな、今度の戦では、心から、わしの役に立とうとされて、それでなかなか動かなかったのじゃ」元忠はそれを聞くと、眉をしかめて舌打ちした。(何という人の好い.....)他人の戦と思えばこそ、なかなか動かなかった信長。そのくらいのことは徳川勢は足軽の端まで見抜いているというのに。「織田どのはな、武田勢がわれらの到着を知って、さっさと長篠の囲みを解き、決戦を避けて甲斐へ引き上げるのを恐れている」「馬鹿な事をっ」と元忠は反撥した。「そうなれば、もっけの幸いと、それで幾晩も岡崎へ泊まられたとおぼされませぬか」家康ははじめて元忠をふり返った。「こなたまで、そう思っていたのか」「それに相違ございませぬ。それゆえ、急いで参って、是が非でも決戦させるよう評定せねばなりませぬ」「そうか。そなたまでのう.....」家康は微笑をうかべてそういうと、べつにあとの説明はしなかった。いわれるままに馬首をめぐらして、それから極楽寺にむかった。故信玄の戦術の中には「隠れ遊びの術」と唱える退き方があった。敵味方の兵力を冷静に計算して、見方に勝算なしと判断したときには、さっさと敵に待ちぼうけを喰わして引きあげてゆくのである。(信長はそれを知っていて、わざと腰を重くしてきた.....)と家康は判断しているのだが、果たしてそれは当たっているかどうか.....「との、今日は強引に織田の殿にお当たりなされ」後ろで元忠は念を押した。信長の本陣では、元忠の言葉どおり、すでに諸将が居並んで家康の到着を待っていた。織田信忠(のぶただ)、信雄(のぶかつ)の二子をはじめとして、柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家と集まって、一応も二応も作戦をこらしたあとらしかった。まだ幔幕をはりめぐらしたばかりの草の上へ、信長だけが床机(しょうぎ)をおいて腰かけていたが、家康を見るとすぐに、「三郎どのは?」と、信康の姿のないのをいぶかしんだ。「ただいま、松尾山に本陣を作りかけてござりますゆえ、あとで決定したことだけ知らせてやりましょう」「徳川どの」信長は、自分のわきの床机を指差しながら、「甲州勢は、いよいよ決戦を仕掛けてくるものと決まりましたぞ」家康はちらりとうしろに控えた鳥居元忠と榊原康政に微笑をみせて床机にかけた。「では、味方の勝利、もはや疑いござりませぬなあ」「いかにも!」信長は上機嫌にうなずいて、「ところで徳川どのに念のために申しておきたいことがある」「念のため.....うかがいおきましょう」「他でもないが、勝頼はお身にとっても宿敵、定めてここで息の根をとめたいところでござろうが、この一戦で彼を討ち取ろうなどという短慮は必ず起こされな。さような心から、お身にしても、三郎どのにしても、万一敵の中に深入りして、討ち死にでもするようなことがあっては、たとえ合戦に勝っても負け.....と、おぼされよ。よいかの、もし、そのような事があっては、この信長にしても、わざわざ岐阜からご加勢にやってきたかいがないというものだ」家康は黙々としてうなずいたが、この一語は、鳥居元忠をひどく驚かした様子であった。信長もまたどうやら家康の肝の中の不安を読みとっているらしい。それで「ご加勢にやって来た.....」と微妙な言葉で自分の立場を明らかにしているのである。「何はともあれ、今度の合戦ではお身は仏像にでもなった気で、万事はこの信長に任されたい。相手が決戦を挑むときまれば勝ったも同然、お身は遊山(ゆさん)のつもりでよい。まあ見てござれ、今度こそ、この信長が武田の士卒どもを練り雲雀(ひばり)のようにあしらってお目にかける」家康の顔へチラリと不快ないろがうごいた。ご加勢と言いながらやはり信長は、この戦をわが力の勝利として天下に確認させたい肝なのだ。「ご加勢を.....」やがて家康は微笑をとりもどして、「ご加勢を願ったわれらが遊山のつもりでいては相済みませぬゆえ、われらもまっ先かけて働きまするが、お言葉は肝にきざんで」そういってから、中央にひろげられている絵図面の上へ眼を移した。岡崎で打ち合わせてきた陣の配置だったが、そのあちこちに朱が加えられている。連子川の岸に沿って南北に長く柵を構え、そこまで敵をおびき出して、鳥さしか雲雀を取るようにあしらってやろうと言うのであろう。しばらくそれをじっと見ていて、「これだけでは心もとない」家康は静かな声でつぶやいた。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/知略戦略よりつづく*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月19日
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皆さんチェックしてますか?わたしゃぜんぜん面白くもなんともないです。毎朝、大塚さんが出てるニュース番組、なんだっけ?あれを見ててちょうどモーニングコーヒーができていっぱいのんでるところ7時20分ごろ。さぁ、ヨーロッパチャンピオンズリーグのファンタスティックなプレーを見て朝の用意をしようかというときに、やめてください。(野球ファンの方、すみませんサッカーバカのボヤキです)もっとサッカー見せてくれぇぇぇぇぇぇいいい。あんなに負けたのになぜ準決勝いけるの?いんちきなクイズ番組の最後のボーナスクイズじゃあないか!!ぶさいくですよねぇぇ。日本のプロ野球界も気取らずに日本サッカー協会を見習えばいいのに。(野球ファンの方、本当にすみません。別に嫌いではないですから)
2006年03月18日
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やっと書きあがりました。今日も興味のない方はゴメンネ。コレで僕の持ってる機体すべてを書き終えました。終了*******************************************************1/100 scale MASTER GRADE RX-178 GUNDAM Mk-2RX-178 GUNDAM Mk-2TITANS PROTOTYPE MOBILE SUIT地球連邦軍特殊部隊(ティターンズ)試作型モビルスーツRX-178「ガンダムMk-2」1/100スケール マスターグレードモデルU.C.0081年10月13日。連邦議会において、戦後処理の一環として「連邦軍再建計画」が可決された。これは、ジオン公国との戦争によって疲弊、消耗した軍組織の再編と喪失した組織の戦力や施設の復旧、MSの出現によって改革を余儀なくされた戦略、戦術の再構成を含んでいた。当然、人員の削減や人事異動も大規模に実施された(実質的には、戦闘中の緊急人事や臨時担当官を正式に任官、追認するという側面が強かったといわれている。)。それにともなって各軍事拠点の再編も実施された。そしてさらに、相当規模の公国群残党が潜在する事実に対する保険として「ガンダム開発計画」が秘密裏に推進された。この計画は公国群との技術格差を是正し、連邦軍による安全保障体制を磐石のものとするための布石として計画されたものだったが、0083年に起きた"テラーズ紛争"のため、連邦軍が核装備の兵器を開発していたというスキャンダルと、戦後最大規模のコロニー墜落事故の真相とともに、「テラーズ紛争」にかかわる軍事事項として公式記録から抹消され、計画そのものが破棄された。そして、この計画によって開発された関連技術も、そのほとんどが軍事機密として封印されてしまい、ある時点まで転用も暖用も不可能となったのである。実際には「ガンダム開発計画」自体が正規の予算を獲得していたものではなかったため、査察が入るようなことはなかったものの、紛争に乗じて連邦軍内部の軍閥闘争が激化し、その帰結として、ティターンズ設立の直接的な要因となった。「ガンダム開発計画」の挫折は、連邦軍内部に秘密兵器の民間委託という方針の危機管理や情報統制上の問題点があることを露呈させてしまったのである。無論、量産機の生産などの民間委託はある程度継続されたが、0083年以降からある時期まで、MSの新規開発は基本的に連邦軍主導で行われるようになった。RX-178ガンダムMk-2は、「ガンダム開発計画」とはまったく別系統の開発経路を辿っているため、連邦系のテクノロジーに偏向している。それは、機体の開発を推進していたティターンズの方針が大きな要因であった。ティターンズの総帥であるジャミトフ・ハイマン大将は"地球至上主義者"であり、ティターンズという組織自体が生粋の地球出身者のみによって構成されていた。ガンダムMk-2は、対外的にはティターンズのフラッグシップMSとなる予定で開発されており、宇宙世紀における"地球人"の優位性を宣伝するためにも、純粋に地球出身者のみによって開発される必要があったのである。秘密兵器を宣伝するというのも不自然だが、実は、「ガンダム開発計画」の隠蔽に完璧を期すため、"3種類のガンダム"を、ある程度のクリアランスで公表する必要がティターンズにはあったといわれている。つまり、ティターンズの発足自体、GPシリーズの存在を隠蔽することを条件のひとつとしていたらしいのだ。そしてジャミトフは、これをさまざまな局面で政治的なカードとして使ったらしく、逆に言えば、ティターンズが備える数々の特権は、そうとでも考えなければ不可解なものなのだ。ガンダムMk-2が新型機であり、画期的な新技術を数多く内包しているにもかかわらず、その設計が中途段階であるといわれ、開発者自身が「旧型機」呼ばわりし、改良の余地を残したものとなっているのは、そのために完成を急いだからだといわれているのである。続きを見てみる
2006年03月18日
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今日は、愛娘、愛ちゃんの卒園式です。私の嫁さんは、朝早くおきてお化粧に専念。おかげで子供と自分の朝飯にお弁当、自分で作成。いいんです。よくあることだから。(TT)しかも私はデジカメをお店に忘れて帰ってしまいまして、嫁さんプンスコ。まったく肩身の狭い朝でした。愛ちゃんに「もう先生とはあえんようになるから、ちゃんとおせわになりましたって言うんぞ」というと「えーっ、なんでもうあえんのん?」.....わかってませんでした。たぶん心は入学のことばかりなのでしょう。最近は字を書く練習と、足し算が面白くてしょうがない我が家の愛ちゃんでした。おおきくなれよ。愛!!
2006年03月17日
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**************************************************強右衛門の頭は決して鋭敏に働く方ではなかった。あるいは常人よりも緩慢(かんまん)なのかも知れない。しかし緩慢な働きの中から「これが正しい」と事の核心をつかみとると、決断はすばらしく早かった。彼は彼なりに勝頼の意思も、穴山玄蕃頭の立場も、そして自分のおかれている地位も、それぞれやむないものとして受け取れた。勝頼は噂ほどにむごい大将ではなかったと思い、穴山玄蕃頭はよく現実を見通し、よく計算していながら、ひとつだけ計算違いをしていると思った。それは鳥居強右衛門という男が、自分の命を助かりたいために、味方を裏切るなどできる男ではない.....という、たった一つのことを見落としている。(それでよいのだ.....)強右衛門は河原弥六郎に縄尻をとられて、また強い陽射しの中を城の北側から本丸のやぐら下に曳かれていった。もはや敵味方の陣は接近し、どちらから眺めても相手の人相までが見通せる。そうした近さに、一人の人足姿の男が、縄尻をとられてやって来たのを見て、当然城内の視線はそれに集中した。「あ、強右衛門だ!」「鳥居どのが捕らわれてひかれて来たぞ」それは瞬間に城内へ大きなどよめきをまき起こした。あちこちの窓に、木陰に、石垣に、城内の人々の精悍(せいかん)な顔がのぞいた。今朝雁方山へあがったのろしを見て、「援軍はやって来る!」一様に気負い立ったときだけに、その連絡をつけてくれた強右衛門の捕らわれ姿を見るのは、彼らにとって言いようもない痛憤事であった。穴山玄蕃頭は、もうそこまでついて来ていなかった。彼はたぶん勝頼に、強右衛門が案外おとなしく、自分の言葉に随(したが)うことを約したので、その報告に出かけたらしい。「よし、さ、ここでよし」と、縄尻をとってきた弥六郎が強右衛門にささやいた。強右衛門は鈍重というよりもむしろ実直なといいたい律儀さでうなずいて、それからしっかりした足取りで物見のよく立つ小高い岩にのぼっていった。西の空にほんの少し白い雲が千切れて浮いているだけで、空の青さが、山も城も人も砦も吸いとりそうな大きさに見えた。「城内の方々に物申す.....」岩の上へのぼると強右衛門は落ち着きはらった声で言った。「強右衛門、城へ戻ろうとして、かく捕らえられました」その声で城内へは不思議な緊張とざわめきが高まってゆく。「しかし、少しも悔いてはおりませぬ。織田、徳川両大将は.....」そこでちょっと言葉を切って、「よいかの、すでに四万の大軍を率いて岡崎を発しました。両三日のうちにはきっとご運が開けまする。城を堅固にお守りなされや」城内にドッと歓声のあがるのと、武田方の足軽二人が岩の上へ踊りあがって、強右衛門を引きおろすのとが一緒であった。強右衛門は縄をひかれて地べたへ転落すると、肩と言わず頭と言わず、踏まれ蹴られてゆきながら、何か叫びだしたいような爽快さを覚えていった。「うぬッ、たばかりおったな」「こうしてくれる」「よくもよくも」それらの罵声と足蹴の納まるまで強右衛門に、ぜんぜん抵抗する気ぶりはなかった。子供たちにもてあそばれる起き上がりコボシのように突かれれば倒れ、踏まれればじっとしている。「もうよい。こらッ強右衛門」しばらく度を失って唇をかんでいた河原弥六郎が、ようやくみんなの暴行をとめて、強右衛門の前へ立ったときは、強右衛門は頭も顔も泥にまみれて微笑していた。その眼が憎たらしいほどよく澄んでいるのが弥六郎にはたまらなく、いきなり、縄尻でピシッとひとつ殴った。「その方、それで、わが殿の好意に対して済むと思うか」「申し訳ない」「空々しいことを」「申し訳ないが、しょせんこれが武士の意地とおぼされたい。貴殿とて、ここでまさか、味方の不利は口にできまい。穴山どのには済まぬことをいたしたとよくお詫びくだされ。その代わり、このあとはご存分に.....心の済むように.....」「言うなッ!」もう一度縄尻が鳴ったが、それもまた強右衛門の微笑を消す力はなかった。騎馬武者が二度本陣との間を往復した。そして三度目に、強右衛門の前へ運ばれてきたのは大きな角材の十字架だった。強右衛門はいちど縄を解かれて十字架にくくり直された。胴と首と両の手首と足と.....そして、有無を言わさず、両手に大釘を打ち込まれたとき、強右衛門は何ということなしにホッとした。これで生き甲斐があった.....と感じたのではなくて、これで苦痛の終わりが近づいたという悲しい安堵らしかった。十字架は大勢にかつぎあげられた。城内でも、このありさまを固唾(かたず)をのんで見ているに違いない。しかし、すでに強右衛門の見える世界はただ空の青さだけであった。「これこれ、このような処刑を、お館さまが許されたのかッ」「許すも許さぬもあるものか。見せしめじゃ、見せしめじゃ」そうした声が耳に入ったが、それももはや自分と無縁の世界の声に聞かれた。やがて十字架は立てられた。そこがどこかを知ろうとして、ふと勘を澄まそうとしたときに、両脇の下から槍の穂先が交互に両肩へ抜けていった。「ウウウ.....」強右衛門はいちどに視野が暗くなり、ガーッと耳が鳴りだした。と、耳鳴りの底で誰かしきりに何か言っている。「あいや鳥居どの、お身こそはまことの武士、お身の忠烈にあやかるために、ご最後の様子を写しとって、旗印にしたく存ずる。かく申すは武田の家臣、落合左平治(おちあいさへいじ)、強右衛門どのお許し下さるか」強右衛門はそれに笑って答えようとしたが、もはや声は出なかった。相手の武士は矢立を取って懐紙に強右衛門の最後を写している。場所は有海ヶ原の山県三郎兵衛の陣屋の前で、すでに夕日が血潮の紅を反映しだしたころであった。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/決戦前夜よりおわり最初から読んでみる?*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月17日
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朝6時半から夕方までずーっとプラモデル作ってました。^^最近病気ですね。自分でも思います。性格的にやりだしたらとまりません。脳内アドレナリンさんが出まくりです。雨が降ってたので練習も中止だし、夕刻からはノンダックレテ、9時ごろ寝ちゃい(気絶!?)ました。早ッ><
2006年03月17日
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しまった!!昨日の日記を今日の日付に入れてしまった!!よくある 話ね♪と、いうことで昨日の日付に入れちゃお。興味のない方はゴメンナサイ。********************************************************************朝6時30から、お昼の12時半までやってここまでできました。最近はMG物ばっかり作っているせいか、かなり製作ペースがはやくなってきました。ほんとは、数週間どっぷりとしたいのですが、お父さん仕上げでは仕方がないかな?フロンドviewです。とりあえずムーバブルフレーム仕上げにしてます。合わせ目はうまいことしてあってほとんど目立たないようにできてます。最近の作品のせいか、かなり細かいモールと・ディティールになってて部分塗装でも、なかなかやりがいはありました。HGUCの黒ディアス君は作ったことがあるのですが、ぜんぜん作りは細かいです。バーニア部分は、ガンダムマーカーメッキシルバーで塗ってます。簡単にぬれるのですが、すぐにはげちゃいますねぇ。子供に触らせるとハゲハゲになってしまいます。リアviewです。横の部分のバーニアは2種類あってクワトロ使用と汎機使用があります。汎機使用はバーニアが、ショボショボスラスターになってます。ちなみにこれはもちろんクワトロ君使用で作ってます。^^下からのアングルで見るとカックイイですね。ヒザ裏のパイプみたいなところもメッキシルバーで塗ってあります。ひざの稼動範囲です。かなり動きます。正座もできました。HGUCは、たしか膝は90度くらいしか曲がらなかったのに対して、膝は2重関節の180度オーケーしようになってます。足首はすね側と足首側の2箇所ボールジョイントになってて、ポージングはかなりとりやすくなってます。MG Z ver2.0もこれだったらもっとよかったのになぁ。フロントアーマーをつけました。もちろん左右独立稼動になっています。アーマーの裏側は別色パーツになってて細かくモールとが入っています。色がグレイなのですみ入れは省略しちゃいました。リアアーマーです。コレも2重構造になってて厚みがあり、アーマーのふちにも細かくモールとが入ってて、ガンダリウムγの塊って感じが伝わってくる仕上がりです。ブルーグレーになってたパイプみたいな部分は全部、メッキシルバーでテカテカ仕上げにしちゃいました。胸の部分のフレーム部分を作りました。胸はグレイの部分と機械の部分が2重構造になってて腰・腹・胸部が各接合部分ボールジョイントになってて、稼動範囲はそれほどでなくても、細かい表情が出しやすくできてます。HGUCのキュベレイが似たようなつくりになってたカナ?体をそらせるようなポーズが可能になってます。でかい図体でかなり動きやすいつくりですね。リアビューです。リアアーマークワトロ機・汎機使用の2つあって、汎機使用はアーマーの大きさが半分くらいで、バーニアがショボショボスラスターになってます。やっぱりこれもクワトロしようにしています。コレだけ違うと、絶対にMG MSA-099買おうと思ってる人は、クワトロ使用がいいですよ。ヤフオクでゲットしようと思っててぜんぜん値段が違うのはこういう理由だったのですね。ようよう理解しました。説明書道理に、細かいパイプ部分をガンダムマーカーのメッキシルバーとゴールドでリアルに再現しています。リック君はコクピット部分が頭の中なので、この段階ではコクピットブロックはありません。
2006年03月16日
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また練習なしだなコリャ。じゃあ今日行ってこー。♪最近雨多いっすねぇぇ、スポーティーな僕には最悪ぅーーっす。明日は一日ガンプラでもつくろっかなぁ。そういゃ、今日ヤフオクでゲットしたユベントスのニットキャップ。きました~~!!海外出品でかなり不安でしたが今日届きました~~!うれしぃぃぃぃっすっ!今日もさぶいからさっそくかぶって練習だぁぁぁぁっ!それではっ!!
2006年03月15日
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**************************************************強右衛門の聞かされていた勝頼は、酷薄残忍な大将ということだった。それが、心からの感動を面にみせて、八つ裂きにしても足りないはずの自分を、労わって取らせと言ったのだ。穴山玄蕃頭につきそられて、勝頼の前から本陣わきのお伽(とぎ)衆のたまりへ、強右衛門はなんとなく力抜けのした感じで引き立てられた。その溜りには医者らしい者や、祐筆らしい者のほかに、坊主頭の同朋(どうぼう)衆などが詰めていたが、強右衛門の知っている顔はなかった。それらの眼がいっせいに強右衛門へそそがれる。すでにここでも噂になっていたに違いなかった。「ここへ来て座れ」穴山玄蕃頭はそういって右隅へ自分も大きく胡坐(あぐら)をかいたが、まだ縄を解かなかった。「強右衛門」「なんでござる」「おん大将は、ああ仰せられた。その方を性根ある者と見抜かれ、助けたいおぼしめしと相わかった。が、その方を任されたわしとしては、このままは許せぬ」「ご存分になされても、一向それがしは苦情はござらぬ」玄蕃頭はそれには答えず、「これはわしばかりではない。諸将いずれも憤怒している折ゆえ、このまま助けたとあっては、みなが納まるまい」「そうでござろうなあ」「そこで、その方に相談じゃが、その方一つここで手柄を立てぬか」そういわれて強右衛門は何という事なしに、「やれやれ」と、ため息ついた。「そんな意味が、おん大将の言葉の裏にあったのならば、これから先のことは言うても無駄とおもられたがよい」穴山玄蕃頭は一瞬けわしい顔になり、すぐまた平静にもどった。「おん大将の言葉に裏などあるものか。おん大将は助けよといわれた.....しかし、このまま助けてはほかの者が承知すまい。どこかでその方はなますのように斬りきざまれよう。それゆえわしは、その方が無事であるためには、みなを承服させる手柄が必要だと言っているのだ」「そうしたものでござろうかの」「城内では」と、玄蕃頭は口調を変えて、「その方の帰りを待っていよう。のろしで、その方が城の近くまで戻ったのはわかったが、それ以上にこまかいことの知りたいのは人情じゃ」「いかにも」「それで、わしがその方を城の外まで引き立てる。そこでその方は、城内の者に向かって、こう言わぬか.....援軍はまだまだ来そうもないと。それだけでよいのだ。それだけ言えば、その方へ誰も危害を加えようとする者はあるまい」強右衛門は、ゆるい水車のように、一つ一つうなずいて聞いていたが、「では、たったそれだけでこの縄を解いてくれると言われるか」「そうじゃ。援軍は来ぬ.....といえば、もはや城内の者も城を開こう。さすれば城中五百人の命も無事というもの.....これも一つの慈悲なのじゃ」「相分かった!なるほど、その慈悲、この強右衛門がつかまつろう」この答えで、周囲の人々が、ホッと一息つくのがわかった。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/決戦前夜よりつづく最初から読んでみる?*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月15日
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1/100 scale MASTER GRADE RX-93 ν GUNDAME.F.S.F AMURO RAY'S COSTOMIZE MOBILE SUIT FOR NEW TYPE地球連邦軍ニュータイプ専用モビルスーツRX-93「ニューガンダム」1/100スケール マスターグレードモデルU.C.0092年。グリプス戦争以来行方をくらませていたシャア・アズナブルが再び歴史の表舞台に姿をあらわした。彼が統率する新生ネオ・ジオンは、地球連邦軍に対し攻撃を示唆。続いて難民収容コロニーとして改装されたスウィート・ウォーターを艦隊で占拠した。この一連の"有事"は唐突に見えたものの、水面下では数ヶ月前から囁かれていた。いわば予見された"状況"であった。ジャミトフのティターンズとハマーンのネオ・ジオンが倒れた後、エゥーゴは連邦軍の実験を掌握するものの、指導者であるブレックスは既に亡く、彼が後継者に指名したクワトロことシャアも、グリプス2を巡る攻防で消息不明となり、その指標を失っていたのである。かくして、エゥーゴの志は組織の中に埋没していった。つまり、地球圏は旧態依然としたままだったのである。そんな状況の中、かつての旧公国軍残党や反地球連邦勢力の水面下での再編が進行しており、その核を担っていたのが、ジオンの忘れ形見であるキャスバル・レム・ダイクンことシャア・アズナブルだったのである。U.C.0089年。第一次ネオ・ジオン戦争終結後、連邦政府はスペースノイドよりのコロニーなどに対し経済制裁等の引き締め策強化を実施した。その結果、反地球連邦組織の活動が活発化したため、翌0090年3月21日、連邦軍は外郭新興部隊ロンド・ベル隊を設立し、各地で頻発するテロや破壊活動の鎮圧、捜索および摘発に当たらせていた。そして"シャアの復活"が現実のものとなった時点で、ロンド・ベルは「シャアの反乱」に対処するための実戦部隊として再編されることとなったのである。続きを見てみる
2006年03月15日
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はまってるんですよね~~。子供と毎週見てます。最近うちの子らぁ(たち)は、ドラゴンボールにハマってるので、悟空、悟空と喜んでます。昔見ましたよねぇ。堺氏の西遊記。かっこよかったなぁ。真吾君もかっくいいですけど。で、昨日はリンリンが悟空を誘惑するとこでした。かわいいですよねぇ。リンリンちゃん。(名前がわかりません。朝の連ドラにも出てる人)わたしなら、妻子を捨てても結婚しますね。(ウソ。捨てません)西遊記見てない人がコレ読んだらわっけわからんでしょうねぇ。ストーリーがシンプルでいいですよね。昔の悟空は、もっと妖術を使ったような気がしましたが....夕方4時ごろからやってたっけ?それが終わるときまって棒切れ振り回してました。><来週で最終回です。サビシイィィ。
2006年03月14日
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自分の顔でものっけてみようかナ.....ネタはまだまだ700人分くらいはあるんですけど。
2006年03月14日
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興味のない方はおもろくないです。******************************************************1/100 scale MASTER GRADE MSZ-010 ZZ GUNDAMA.E.U.G MULTIPURPOSETYPE TRANSFORMABLE MOBILE SUIT反地球連邦組織(エゥーゴ)可変分離型試作モビルスーツMSZ-010「ダブルゼータガンダム」1/100スケール マスターグレードモデルU.C.0087年。ティターンズとの熾烈な闘争を繰り広げていたエゥーゴは、独自に戦力の拡充を開始した。エゥーゴが協力を仰いだアナハイム・エレクトロニクス(以下、AE)は、画期的な新素材である「ガンダリウムγ」を採用したRMS(RMA)-099リック・ディアスを完成させると同時に、更なる次世代の超高性能MSを開発すべく「Z(ゼータ)プロジェクト」を立案、実行した。ΖΖ(ダブルゼータ)ガンダムは、エゥーゴとAEが当時最強の機体を目指して開発した機体である。この機体は、双方が持つノウハウのすべてを投入して完成させた10番目のガンダムであるため、別名「θ(シータ)ガンダム」とも呼ばれている。当時、MSの開発状況は混沌としており、多種多様なコンセプトが乱立していた。ムーバブル・フレームを使用した第二世代機。変形機構を有する第三世代機。そして、NT(ニュータイプ)対応型などに代表される「万能型」を志向する第四世代機まで、おおまかに分類しただけでも、数世代分に及ぶ進化がこの時期に集中しているのである。続きを見てみる
2006年03月14日
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僕の好きな言葉は、だいぶ以前にも書いた、山岡荘八の本の言葉なのですが、この身の道理をのぶれば 天地に満ち天地の道理を縮むればわが一身のうちにかくれる......?これだけ書いても、わけがわかんないですね。僕なりの解釈ですが、この身の道理をのぶれは 天地に満ちって言うのが、自分の考え・感情・道徳まぁいろいろ、自分のぜんぶを広げれは、果ては宇宙の意思につながっていって、(だって、人間は大宇宙の一部ですから)天地の道理を縮むれば わが一身のうちにかくれる大宇宙のすべての意思をひとつのものに凝縮していくと....じんさんの心の一部になる。子供は親から生まれて子供はまた親になる。親は子供を愛おしむ。動物でも。植物でも。その間違ってはいない心であれば人間の一個の思いというのは、大宇宙の意思につながる。って言うの簡単な今の私の解釈です。って言うか心の指標です。.......?分かってもらえたカナ。
2006年03月13日
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**************************************************翌十七日.....医王寺山の武田勝頼の本陣を出ると、穴山玄蕃頭(梅雪)はうかぬ表情で、自分の陣屋に馬を進めていった。いぜんとして、勝頼は、この長篠城にこだわりつづけている。この小城一つを落としてみたところで、戦略の上からはたいした意味がない。それよりも一部をここへ残して、すぐに、岡崎か浜松を衝いたほうがよいと、進めるのだが、大賀弥四郎との密約のさてつが、勝頼をすっかり頑固にしてしまった。「この小城ひとつ落とせなかったと言われて、天下に号令がなると思うか.....」たとえば、ここへ徳川、織田の両主力がやって来て、ここで決戦が展開されても不利ではないと言い張った。(反対するほど意地になるのだ.....)中にはそっと小声で、「.....これで武田家も終わりでござるな」そんなことをささやく者まで出てきているのだが、何しろ家宝の旗を持ち出されてしまっているので、誰も表面から強諫(きょうかん)はできなかった。玄蕃頭(げんばのかみ)は城の南岸、武田逍遥軒(しょうようけん)の右にある、わが陣屋の前で馬を降りると、「よく気をつけよ、今朝はまた雁方山であやしいのろしがあがっているからの」共をして来た家臣の河原弥六郎に手綱を渡した。と、そのときだった。馬を受け取った弥六郎が小首をかしげて立ちどまった。「これこれ、その方はどこの百姓じゃ」弾丸よけの竹束をかついでいく、五、六十人の人足から、一人の男を指さして声高に言った。その声で玄蕃頭も、入りかけた幕の外へ立ちどまった。「は.....はい。私は有海村の百姓で、茂兵衛と申します」が、そのときにはもう弥六郎はつかつかと近づいていって、「怪しい者が混じっている、ひっ捕らえよ」茂兵衛といった百姓のえり髪をつかんで、引き廻していた。そばにいた五、六人の侍が、声の下から百姓におどりかかった。百姓はその二人をあざやかに左右へ投げ飛ばすと、ふところから鎧通しを取り出して、タッと穴山玄蕃頭につきかかった。玄蕃頭は鞭(むち)を斜めにふって左に避けた。と、後ろから弥六郎が曲者の足もとへさっと手綱を投げかけ、足をすくわれた百姓は、声を立てずにそのままのめった。その周囲を玄蕃の乗馬が癇だった眼をしてバタバタッとめぐってゆく。侍たちがその隙に倒れている百姓の上へ折りかさなって後ろ手に縛り上げたのはほんの一瞬の出来事だった。「たわけた奴め。こうした事もあろうかと思うてな。味方の人夫にはみな同じ紺の脚絆(きゃはん)がはかせてあるのだ。それを知らずに、うぬのは浅黄ではないか」弥六郎が肩をふるわしてそう言うと、縛られた百姓は、はじめて強く舌打ちした。「そうか。それは不覚だった」「うぬは武士だな」「いかにも」地べたへ大きくあぐらを掻いたまま、その男はうそぶくように言った。「奥平九八郎が家臣、鳥居強右衛門だ。おれは.....」「なに、奥平の家臣だと.....」穴山玄蕃頭はつかつかと強右衛門のそばに歩み寄って、「そのほう、人足にまぎれて城へ入ろうとしたのだな」「入ろうとしたのではない。戻ろうとしたのだ」強右衛門は額の汗にギラギラと陽をうけて、だんだん眼光を鋭くしていった。「あと一両日で落つる城へ、何のために戻ってゆくのだ」「あと一両日.....」強右衛門はニヤリと笑いを頬にきざんで、「落つるものかこの城が。一両日のうちには、織田、徳川連合軍四万がやってくるわい」穴山玄蕃頭は思わず息をつめていった。「すると、今朝、雁方山でのろしをあげたはその方か」「今朝だけではない。十五日の朝もあげたわ」「その方、援軍を乞いに城を抜け出して参ったのだな」「ハハ.....」と強右衛門はまた笑った。「援軍を乞いに行ったのではない。援軍がどこまで来たか、それを確かめに行んで来たのだ。そして織田のお館にも浜松のお館にも会うて来た。そのことをのろしで知らせたゆえ、場内の様子が違うて来たのに気がつかぬか」「弥六郎!」穴山玄蕃頭は強右衛門から眼をそらすと河原弥六郎へ鞭のような声を投げた。「このものを本陣へ引っ立てろッ。わしもゆく。逃がすなよ」「心得ました」強右衛門はもう少しもさからおうとはしなかった。相変わらず、半ば笑っているような不敵な面魂で、玄蕃頭の後ろから後ろ手のまま馬に乗せられて、かっかと照りつける日差しの中を勝頼の本陣へ引かれていった。(とうとうつかまった.....)捕まったときには、どうしてやろうかと、あれこれ考えたことはあったが、ふしぎに、それらのことは頭に浮かばず、何かひろびろとした青空の中へ抛(ほう)りだされて浮いているような気持ちであった。勝頼の本陣はざわめき立った。あれだけ厳重な囲みを破って城を出た者があったという驚きに、織田、徳川の連合軍が、いよいよ長篠救援にやってくるという驚きが重なり、それは、またたく間に大将から雑兵の間にまで噂の渦をひろげていった。勝頼は仮屋の庭先へ強右衛門を引き据えさせて、しばらくじっと汗が塩になって結晶している四角な顔を見つめていった。「鳥居強右衛門と申すか」「仰せのとおり.....」「その方は、小気味のよい男じゃの」「お褒めにあずかってかたじけなく存じまする」「この重囲を破って使いし、しかも城へ戻ってみなと生死を共にしようとした、その性根、敵ながら見上げたものだ」「恐れながら、それではお褒めが過ぎまする。奥平家の家臣には、それがしほどのものは箒で掃くほどござりまする」「分かった。その言葉もよい。穴山、この男をこなたに預ける。労(いた)わってとらせよ」思いがけない勝頼の言葉を聞いて、はじめて強右衛門はゆっくりと首を傾げて考えだした。「立て!」と、玄蕃頭がいぜん鋭い声で言った。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/決戦前夜よりつづく最初から読んでみる?*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月13日
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もうちょっとありますから。*******************************************************1/100 scale MASTER GRADE MSZ-006A1 「Ζプラス(テスト機カラータイプ)」ZETA plusKARABA PRODUCTION TYPE TRANSFORMABLE MOBILE SUITカラバ量産型可変モビルスーツMSZ-006AI「Ζプラス(テスト機カラータイプ)」1/100スケール マスターグレードモデルU.C.0087年、ノンオプションで大気圏へ再突入が可能なTMS(トランスフォーマブルモビルスーツ)MSZ-006 Z(ゼータ)ガンダムが完成し、エゥーゴのフラッグシップMSとして高い戦果を挙げていた。地球上におけるエゥーゴ屈指の支援組織であるカラバは、コウセイノウMSと航空戦力を同時に拡充させるべく、動機を大気圏内専用機に改修し、少数ながらも生産ラインに乗せた。その機体がMSZ-006A1 Zプラスである。同機をMSK-006と表記することもあるが、これはエゥーゴサイドが区別のため(MSKのKはカラバを指す)に便宜上つけたものであり、後に、再度大気圏再突入能力と空間せんしう能力を持つC1タイプなどが開発されるなど、ΖプラスはΖ系の最大のバリエーション機群であると認識されるようになり、正式番号としてMSZ-006の末尾にそれぞれの形式を追加して表記されるようになった。ΖプラスはΖガンダムの大気圏突入モードであるWR(ウェイブライダー)形態時のフライングアーマーの形状を改善し、WR形態時には、航空機並みに効率的な"飛行"に十分な翼面積を獲得している。また、MS形態時にもデットウエイトとならぬよう、MSN-00100百式のウイングバインダーを参考に、高性能のAMBACシステムとして稼動するよう配慮されている。同時に、Ζガンダムの最大のネックであった変形構造を極力単純化させ、コスト面での改善を試みている。それでも、Ζプラスが高価な機体であることに代わりはなかったが、当時ティターンズが掌握していた各拠点空域における制空権の奪回と拠点攻略を同時に行うことが可能な手段は他になかったのも事実である。続きを見てみる?
2006年03月13日
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はや4ヶ月弱。最初のころは日記も毎日書いてませんでした。だ~れもみてないのにほんとにヒトリゴトのように書いてましたねぇ。今では、少なくとも皆さんに読んで頂いております。数千件くらいかな?いろんなとこのお部屋を見に行ったりしましたが、下手なてっぽも数撃ちゃ当たるではないですが、なかなか共感できるお部屋って少ないんですよね~。もっともっとお気に入りのお部屋増やしていろんな人と行ったり来たりしたいのに、むつかしいもんです。皆さん、お気に入りのお部屋たくさん持ってますか?僕ぁ10部屋くらいです。30くらいにしたいんですけどね。友達つくるの下手だからなぁ。学生のころから回りは敵か手下でしたからね。笑(ジョーダン)皆さんこれからも相手してくださいね~。アクセスカウント5千件突破して考え込むじんさんでした。オシマイ
2006年03月12日
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**************************************************「では、すぐにこのまま長篠へ戻ると申すか」家康は膨れ上がる感情を抑えて、また平静な声でたずねた。「わしも、すぐに駆けつける。そのとき一緒では心にすまぬか」「ありがたき仰せ.....それをうかがえばいっそう早く立ち戻りとう存じまする」強右衛門は言外に援軍の出発を促している。その気持ちを汲んで、わしもすぐに.....といってくれた家康の心がたまらなくうれしかった。「そうか。九八郎はよい家臣を持った。よいよい、では、そのままそちを信長公に引き合わせよう。洗足(すすぎ)だけをとってついて参れ。これ平助、強右衛門にすすぎを取らせて連れて来るように」強右衛門の眼は真っ赤に血をふくんでいた。九八郎が決してよけいなことを言うなといった意味が心に徹ってくるのである。(なにを言わなくとも、こっちの心は見通していてくれるのだ.....)それなればこそ信長の前につれ出し強右衛門の耳で、直接信長の返事を聞かせて戻そうとなさるのに違いない。(さすがに....)強右衛門はいちどお台所のわきの入り口へ連れてゆかれ、そこから平助の案内で、また家康の居間へ戻った。家康はもうそれを出口で待っていた。本丸の大書院を信長の寝所にあてていたので、「さ、来るがよい」家康はそのまま強右衛門を連れて歩きだした。ようやく外では小鳥の声がはじけだし、東の空が黄金色に色づきだしていた。信長のもとへはすでに小栗大六が、先におもむいて知らせてあったので、信長は鎧下(よろいした)のまま脇息によりかかって待っていた。信長は家康に会釈するよりも先に、「そちが子鬼の家臣か。話は聞いたぞ!」と、弾みきった声で強右衛門の平伏も待たずに言った。「よくやった!川の底を歩いて来たと.....ハッハッハ、今度は空をかけて帰れ」「ははッ」「鳥居強右衛門と申したの」「仰せのとおり.....」「立ち戻ったら、すぐまた、その雁峰山とやらでのろしをあげてやれ。さすれば城兵は勇気づく。よいか、後一両日のうちに、徳川、織田の連合軍四万あまりが押し寄せる。到着したらすぐに敵は蹴散らしてやるゆえ、それを楽しみに待っておれと伝えよ」強右衛門はぼーっとあたりが見えなくなった。これはまた家康とまるで違った畳み込むような言葉であったが、その声を聞いていると、蹴散らされてゆく敵の姿が、まぼろしになって見えて来そうな不思議な魅力にあふれていた、「あっぱれじゃ!鬼の子にはやはり鬼の勇士の家臣があった。城内に帰る時は心せよや。よいか、必ず生きて戻ってな、すぐに参ると言ってやれ。いや、大儀であった!」四万あまりとはまた吹きまくったものであったが、それが信長の口から聞くと少しもおかしくないのが不思議であった。織田勢は二万、徳川勢は八千とわかりきっているくせに。「仰せ、いちいち性根にきざみつけてござりまする。ではこれにてご免!」「おお行けッ!」叱りつけるように言ってから信長は家康を振り返ってカラカラ笑った。「もはや時は移せぬぞ浜松どの」家康はこくりとうなずいて、黙って去ってゆく強右衛門の荒くれた後ろ姿を見ていた。**************************************************参考 山岡荘八・徳川家康第七巻/親鬼子鬼・決戦前夜よりつづく*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2006年03月12日
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やっと終わりました。つかれた.....*****************************************************1/100 scale MASTER GRADE RX-178 GUNDAM Mk-2 Ver.2.0RX-178 GUNDAM Mk-2A.E.U.G. PROTOTYPE MOBILE SUIT反地球連邦政府組織(エゥーゴ)試作型モビルスーツRX-178「ガンダムMk-2 Ver.2.0」1/100スケール マスターグレードモデルRX-178ガンダムMk-2は、地球連邦軍によって継続的に研究開発されていたRX-78ガンダムの実質的な後継機であり、U.C.(宇宙世紀)0080年代前半に実施された『ガンダム開発計画』とはまったく異なる系譜に属する機体である。ガンダム開発計画においてAE(アナハイム・エレクトロニクス)社は、連邦系と公国系の技術を積極的に融合させることでGPシリーズを開発したが、RX-178の機体開発に用いられたテクノロジーの多くは連邦系のものに極端に偏向している。それは、機体開発を統括していたティターンズの方針が大きな要因であった。そのため、公国系の技術導入によって達成されていた問題の解決に別の手段が用いられるなど非効率もなかったわけではないが、『ムーバブル・フレーム』を発想するに至る過程において、連邦と公国のテクノロジーの再分離が不可欠であったといわれている。なぜなら、当時のMSの多くは、公国系のモノコック様構造を必要に応じて使い分けており、機体全体を一系統のフレームによって構成するという発想そのものが成立しにくい状況であったからである。MSを人体に見立てるという発想自体は新しいものではなかったが、それを実現するためには、MSはすでに工業製品として確立されすぎていたのである。次を見てみよっかなぁぁぁ
2006年03月12日
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何も書くことがないっす。今日は接客して、一日中パソコンにカキカキしてました。ヤバイ。時間があと少し。歳を取ると(たいしたこたない歳ですが)時間がたつのがはやいですね。今日は何の映画かな?おっ!ジュラジュラ3だ!よし!子供と一緒にみよう。相違や最近は映画見に行ってないなぁ。自宅の近くにイオンができて往きやすいんだけど、パールハーバー以来かなぁ。また、嫁さんといくかなぁ。
2006年03月11日
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またまた書きました。興味のない人は申し分けないです。*******************************************************1/100 scale MASTER GRADE MSZ-06 ZETA GUNDAM Ver.2.0MSZ-006 ZETA GUNDAMA.E.U.G. ATTACK USE PROTOTYPE VARIABLE FORM MOBILE SUIT反地球連邦政府組織(エゥーゴ)可変型試作モビルスーツMSZ-006「ゼータガンダムVer.2.0」1/100スケール マスターグレードモデルU.C.0087年3月。ティターンズから強奪したRX-178ガンダムMk-2よりムーバブル・フレームの技術を手に入れたエゥーゴは、次世代超高性能MSの開発に利用すべく、かねてより推進していた「Ζ(ゼータ)プロジェクト」に導入。そして、大気圏突入用オプションのフライング・アーマーをジャブロー攻略に実戦投入し各種のデータを採取した。単体で複数のアビリティを持つ機体の戦略的、戦術的な価値は計り知れない。単機で複数のミッションを同時にこなせる「TMS(Transformable Mobile Suit)=可変MS」は、是が非でも手に入れなければならないものだった。実際連邦軍やティターンズが投入してくるTMSは、エゥーゴの戦略にとって、大きな障害となっていたからである。MSZ-006Ζガンダムは、宇宙空間から重力下までの連続運用を可能とする破格の汎用性を持つ機体である。もっとも大きな特徴は「標準兵装のまま単体で大気圏の再突入が可能」ということと、さらに、突入中の機動さえ可能としている点である。通常のMSは、大気圏突入の際にバリュートパックなどを使用するため、大気圏上層の熱圏においては行動を極端に制限されるのだが、Ζガンダムは、その領域においてさえ戦闘能力を有するのである。この機体にとって幸運だったのは、必要な技術がすべて蓄積されていたことである。軽量で堅牢なガンダリウムγ(ガンマ)、可変機構に不可欠なムーバブル・フレーム。そして、それを可能とする資金力や政治的な要請、時流的な環境などが整っていたからこそ、圧倒的に高性能でありながら、非常に短期間で完成することができたのである。MS(モビル・スーツ)とWR(ウェイブライダー)は、基本的な構造がまったく異なるばかりでなく、まったく違う技術が必要とされる。しかし、だからこそ双方の特性を同時に実現することによってΖガンダムは戦略的な意味を持つ。これは、この機体の兵器ユニットとしての性格を任意に変更できることを意味し、それまでの戦術からすればほとんど有り得ない事だった。つまりΖガンダムは、自らのMSとしての戦闘能力を自力で戦線に空輸できる和少ない機体なのである。一年戦争における「ガンダム」の汎用性が、それ以降のMSの指標とされたことは想像に難くないが、それをもっともドラスティックな形で実現したのがこの機体だったと言うことができるだろう。続きを見てみたいなぁぁぁ。
2006年03月11日
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昨日のっけられなかった分ものっけてます。******************************************************RX-121-1 GUNDAM TR-1 [HAZEL CUSTOM]TITANS PROTOTYPE MOBILE SUIT「ガンダムTR-1」は、RGM-79Qジム・クゥエルをベースに"ガンダムヘッド"が敵味方に与える心理的影響をテストするために作られた機体である。各種強化パーツによって高性能な機体となっており、オプションパーツも豊富で"フルアーマー"や"高機動装備"などの各種仕様機が存在する。U.C0084年末にコンペイトウ(旧ソロモン)兵器工場において数機の試作機がロールアウトし、ティターンズのテスト部隊(Titans Test Team=T3部隊)に配備された。当時この部隊では、連邦軍の正規部隊で配備が進められていたRGM-79R ジム2の評価試験が行われており、実戦データの収集をかねて、ジオン公国軍残党の討伐任務などに投入されていた。「ガンダムTR-1改」は、公国軍残党との戦闘で大破したマーフィー隊長機を、コンペイトウに配備されていたジム・クゥエルのパーツとT3部隊の運用艦「アスワン」にストックされていた予備パーツで修復した機体である。この機体には、それまでに蓄積された実戦データと機体開発のノウハウが盛り込まれており、機体各部の強化パーツは、内部構造や他のパーツとのバランスが再検討され、MSとしての完成度が高められている。その結果、外観はより統一感の取れたフォルムとなり、軽量化やスラスターの出力強化によって推進力は10%ほど向上している。また、コクピットには研究が進められていた360度全天周モニターやリニアシート・システムが試験的に導入され、OSもバージョンが更新されたため、機体の操作性は初代のTR-1から大幅に進歩している。平行して開発されていたシールド・ブースターなどは、後のTMA(Transformable Mobile Armor=可変モビルアーマー)やTMS(Transformable Mobile Suit=可変モビルスーツ)へと発展し、その機体強化策も後の量産機の改修などに採用されている。つまり「ガンダムTR-1改」は、この時期に地球連邦軍が、殊にティターンズが模索した数多くの機動兵器の試金石になったと言っても過言ではない。「ガンダムTR-1[ヘイズル改]」は、「月間電撃ホビーマガジン」および「月間電撃大王」(メディアワークス:刊)に連載されている「Advans of Z~ティターンズの旗のもとに~」に登場する試作MSである。U.C.0083年12月。地球連邦軍は、ジオン公国軍残党の討伐を目的とする特殊部隊「ティターンズ」を設立した。その中に、配備予定の新型機や実験機を実戦で運用評価するMS実験小隊「ティターンズ・テスト・チーム」通称「T3部隊」があった。U.C.0085年10月。先の公国軍残党との戦闘から数日後、エリアルド・ハンターらT3部隊のメンバーは、コンペイトウのとある格納庫に召集された。「ヘイズルの修理が終わった。マーフィー小隊長には、こいつに乗ってもらう」オットー・ペデルゼン大佐が言った。ヘイズル2番機のパイロットであるエリアルドは、その機体の印象が以前とどこか違うように思えた。小隊長のウェス・マーフィーは、大佐の皮肉交じりの説明を黙って聞いていた。「こいつは現時点での最高傑作だ。.....そう、こいつは新しいガンダムなんだよ」メカニックのヘンドリックが機体の説明を終えると、大佐は続けてこういった。「型式番号はRX-121-1。正式名称はガンダム・ヘイズル改だ」RX-121-2A GUNDAM TR-1 [ADVANCED HAZEL]TITANS PROTOTYPE MOBILE SUITガンダムTR-1[アドバンスド・ヘイズル]は、エリアルド・ハンター中尉が搭乗していたヘイズル2号機を全面改修し、脚部強化パーツやマルチ・ウェポン・ラッチを装着して仕様をヘイズル改と統一した機体である。さらに、頭部にはジム・スナイパー3と同等の高性能工学センサー・ユニット、脚底部には補助スラスター・ユニットが追加されている。強化バックパックの可動式ブースター・ポッドは、ガルバルディβでテストされたシールド・ブースターを2基装着できるマルチ・コネクター・ポッドに換装され、オプション装備の運用の柔軟性がさらに向上している。これらの各種追加装備を装着した状態を指して「ヘイズル改の発展型=アドバンスド・ヘイズル」と呼称する。ヘイズル改で得られた機体の運用データを元に、アドバンスド・へイズルは最も効率的かつ汎用性の高い状態に仕上げられており、現段階におけるヘイズルの「完成形」と言うことができる。「RX-121-2AガンダムTR-1[アドバンスド・ヘイズル]」は、「月間電撃ホビーマガジン」および「月間電撃大王」(メディアワークス:刊)に連載されている「Advans of Z~ティターンズの旗のもとに~」に登場する試作MSのひとつである。U.C.0083年12月。地球連邦軍は、ジオン公国軍残党の討伐を目的とする特殊部隊「ティターンズ」を設立した。そのティターンズのMSテスト部隊「ティターンズ・テスト・チーム」通称「T3部隊」に所属するエリアルド・ハンター中尉は、長らくガンダムTR-1「ヘイズル」用の予備機を一部改修しただけの「ヘイズル2号機」に搭乗していた。U.C.0087年3月、反地球連邦組織「エゥーゴ」によって引き起こされた「ガンダムMk-2強奪事件」を引き金に、エゥーゴとティターンズが本格的な武力紛争に突入したことを受け、MSテスト部隊であったT3部隊も、実戦部隊へと再編成されることになった。これに合わせてヘイズル2号機は、正式なヘイズルの仕様へと全面改修される。さらに、最新の追加パーツを装着した本機は、ヘイズル2号という暫定的な呼び名を改め、「アドバンスド・ヘイズル」という新たな呼び名が与えられた。AMX-107 'BAWOO'NEO-ZEON ATTACK USE TRANSFORMABLE MOBILE SUIT「バウ」は、ΖΖガンダムと同様に、機体を二つに分離させ、それぞれを戦闘機として運用するというコンセプトで試作されたが、複数のパイロットが必要であることから開発はペンディング(一時棚上げ)された。また、ミノフスキー粒子撒布下では制御が困難であるという理由から、リモートコントロール案も却下された。それでもMSとしてのスペックとしては優秀であったため、アクシズ(ネオ・ジオン)における慣例に従い、いったんは、可変機構などをオミットした上で仕官専用機として改修されることになったのだか、搭乗予定のグレミー・トトは、すべての機構を温存した上で、さらに却下された無線誘導に加え、バウ・ナッターには慣性誘導装置や強力な弾頭の搭載を命じた。かくしてバウはMSとして、または軽快な機動性を持つ攻撃機、および射程640kmのミサイルとして運用可能な機体として蘇ったのである。その後バウは、構造にムーバブルフレームを取り入れたため、堅牢で自由度が高い上コピーも容易であることや、前例のない戦術の展開を可能とする得異なMSとして評価され、量産されることとなる。バウは"TMS(TRANSFORMABLE MOBILE SUIT)=可変型MS"の新たな可能性を検証すべく開発されたMSである。アクシズは、すでに「ガザ」シリーズを実戦投入していたが、連邦軍やエゥーゴ、ティターンズなどが投入するTMSに対抗し得る機体の開発に関しては後手に回っていた。実際、U.C.0088年当時は可変MSの全盛期とも呼べる状況にあり、各勢力のTMSが、その有効性を存分に発揮していたのである。すべからく、MS開発において遅れをとるわけにはいかないと考えるアクシズの技術者たちは、TMSに関しても貪欲に取り組んだ。また、政治的な駆け引きの道具として連邦軍やティターンズから供与された機体や技術なども膨大であった。ことに、アクシズの地球圏帰還による"ジオン復興"に賛同する勢力も少なくなく、AE(アナハイム・エレクトロニクス)やエゥーゴなどから、ネオ・ジオンに"参加"あるいは"復帰"するスタッフも相当数にのぼったと言われている。事実上、バウはそういった諸事情によって誕生したΖ(ゼータ)ガンダム(あるいはΖプロジェクトによる他の機体)のデッドコピー(技術や設計を盗用)したMSであると言うこともできるだろう。AMX-107バウは、TVシリーズ「機動戦士ガンダムΖΖ」に登場した可変型MSである。U.C.0088年3月26日、補給のため立ち寄ったロストコロニー"ムーンムーン"の神殿に捕らえられた主人公のジュドーたちアーガマのクルーは、ΖΖガンダムの奪回と脱出を試みるが、その騒動のさなか、ネオ・ジオンのゴットン、キャラらに加勢すべく、グレミーのミンドラが攻撃を加えてきた。そのとき、グレミー自らが駆ってΖΖガンダムに襲いかかった新鋭機がバウであった。ちなみに、バウのフロントアーマーに描かれた文字は「龍」と「飛」の組み合わせではなく"バウ"と読む一つの漢字であり、グレミーが自らの正装に龍らしきデザインを施していることからも、彼の出自にかかわる意匠ではないかと言われている。バウ・アタッカーバウの上半身で構成される攻撃機。フレキシブル・ウイング・バインダーが主翼となり、空力的にも安定した飛行が可能。ビーム・ライフル、ミサイル、グレネードランチャーなど武装も豊富だが、緊急時には脱出艇そのものとなる。バウ・ナッター最大で1800kgのペイロードを持つ大型ミサイルとしても機能する(無論、核弾頭の積載も可能である)。母艦との通信が途絶した場合、搭載コンピューターが自己判断で航行する。一説にはインコムレベルのインターフェイスが搭載されていたと言われるが、定かではない。
2006年03月11日
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ひさしぶり。こんなに筋肉痛になるのは。週1,2回サッカーやってるのに、なんでだろう。いつもはこんなにきつくないのに。昨日はよくこけたからかな?今日も地元のナイターがあるけど、やめとこ。帰ったらおとなしく-耳をすませば-でもみて寝ようかな。あれ、映画見に行ったんですよね。嫁さんと、結婚する前に。なかなか面白うございますよ。おしまい。
2006年03月10日
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昨日一日かけて撮影したほんの一部です。興味のない方はゴメンナサイ。*******************************************************RMS-108 'MARASAI'E.F.S.F MASS PROTOTYPE ATTACK USE MOBILE SUIT 「マラサイ」は、AE(アナハイム・エレクトロニクス)社が開発したハイザックの発展機である。連邦軍が採用したハイザックは、基本性能こそ高かったもののジェネレーター出力が低く、ビーム兵器は一基しかドライブできなかった。例えば、ビーム・ライフルを使用する際には斬撃系の武装はヒート・ホークを使うほかなく、逆にビーム・サーベルを使用する際にはザク・マシンガン改などの炸薬形の銃器を使うほかなかったのだ。一年戦争時にはビーム兵器を一基だけドライブできても戦力として十分だったものが、U.C.0080年代後半には、すでにそのような段階を通り越してしまっていたのである。そこでハイザックの高い生産性と操作性を継承しつつ、さらに高性能な機体として開発されたのがマラサイである。ハイザックと比較して大出力のジュネレーターを装備することでエネルギー供給能力が向上しており、ビーム・ライフルとビーム・サーベルを同時に使用することが可能となった。また、装甲材にはガンダリウム合金が使用され、各部の構造もハイザックの量産によって得られたノウハウが活用されており、汎用性に優れしかも操縦しやすいという非常に優秀な機体となった。たたし、時の流れはマラサイに正当な評価を下すことはなかった。なぜなら、当時は極端な大火力兵器や可変機が偏重されており、フラッグシップ機と量産機の運用目的が極端に差別化されていたからである。つまり、エゥーゴでは量産機の高性能化よりも、超高性能な決戦兵器が求められていたのである。むろん、これにはエゥーゴの台所事情も関係していたといわれているが、極端な話し、ゲリラ戦での量産機は旧式機でも十分であり、たたでさえネモなどの連邦系MSがラインに乗っている時期に、公国軍の二の舞となる別系統の量産機を採用する必要はなかったのである。かくして、量産を前提とした試作機、あるいは先行量産機がある程度生産された段階で、AEの政治的な判断によりティターンズに引き渡され、ある意味、使い潰されるような運用に供されることとなった。かようにマラサイは不運のMSではあるが、関係者による評価は高く"至極まっとうな傑作機"として後にネオ・ジオンでも使われるほどの機体となったのだ。RMS-108「マラサイ」は、TVシリーズ「機動戦士Ζガンダム」および劇場版「機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者」に登場する攻撃型MSである。U.C.0087年4月21日。ティターンズのアーガマ追撃艦隊旗艦アレキサンドリアは、アーガマを追って月のAE社を訪れた。ティターンズは、AEがエゥーゴを支援していると疑っていた。その矛先をかわすため、AE会長のメラニー・ヒュー・カーバインは。鑑の補給とマラサイの無償供与を申し出る。一方、月の裏側のアンマンでは、アーガマを一とするエゥーゴの部隊が"艦の調達"も含め、ジャブロー攻撃に向けて準備を進めていた。「ジャマイカンはマラサイのテストを兼ねた出撃なら許してくれるといっている」「オレに?」過日の失態で謹慎の身のジェリドは、アレキサンドリアのアンマン襲撃と連携してアーガマのMS部隊を急襲するというカクリコンの申し出に乗ることにした。「ティターンズをはずされちゃライらに対して申し訳が立たないもんなぁ」「カクリコン、ガンダムMk-2が見えた!」「モビルスーツが入った?新型か?」迎撃にでたカミーユは、見慣れぬ赤い機体に眉をしかめる。「ターンが早い!やはり新型か!?」新型のMSの息の合った時間差の連携にカミーユは窮地に陥る!FXA-05D/RX-178 'SUPER GUNDAM'A.E.U.G PROTOTYPE MOBILE SUIT+SUPPORTING FIGHTER"スーパーガンダム"とは単独の機体ではなく、Gディフェンサーからコクピットブロックを除いたアーマメントユニットを装着した状態のガンダムMk-2のことを指す。U.C.0087年当時、"グリプス戦役"においてMSは驚異的な進化を遂げつつあった。TMS(トランスフォーマブルモビルスーツ=可変MS)の登場などにより、MSが単体で発揮する機動性や戦闘能力が飛躍的に向上していたのである。そんな中、エゥーゴの要請を受けたAE(アナハイム・エレクトロニクス)は、Mk-2のサポートメカとして可変戦闘機"Gディフェンサー"を開発した。この機体は、一年戦争当時"ガンダム"の支援メカとして実戦に投入された"Gパーツ"のコンセプトを継承し、さらに発展させたものであるといえる。Gディフェンサーは、Mk-2の性能を飛躍的に向上させ、再び一線機として復活させるべく開発された専用オプションである。Mk-2とドッキングすることで、その機動性と武装を強化する。また、機体を変形させてホールドすることで、Mk-2を高速で輸送することができる。この形態は"Gフライヤー"と呼ばれ、当時の可変MSに比肩しえる加速および巡航能力を発揮し、Mk-2の行動領域の更なる拡大を可能とする。またGディフェンサーのパイロットは、ドッキングの後、コントロールをMk-2側に移行させ、コクピットブロックを分離させて戦線を離脱することもできる。そして、機体を取り囲んでいたアーマメントユニットは変形、展開してフレキシブルなシールドとして、あるいはスタビライザーやバインダーといった補助AMBAC装置として機能する。かくしてガンダムMk-2は、Gディフェンサーを"着たまま"MSモードでの戦闘が可能な"スーパーガンダム"となり、当時の最新鋭MSにも決して引けを取らない高性能機に生まれ変わるのである。無論、ジーディフェンサー単体での戦闘能力も十分に高いものであったことは言うまでもない。"スーパーガンダム"とは、TVシリーズ「機動戦士Ζガンダム」に登場する試作MS"ガンダムMk-2"と、その強化ユニット"Gディフェンサー"のアーマメントユニットがドッキングした状態のことである。Gディフェンサーは、ガンダムMk-2の強化武装としてアーガマに配備され、その調整中にMk-2のパイロットであるエマ・シーンの苦戦を見兼ねたカツ・コバヤシの独断によって始めて実戦に投入された。以降、カツがほぼ専任のパイロットとなり、戦闘の最前線であるアーガマやラーディッシュの作戦行動に随行。長、中距離支援や爆撃、偵察など、その機動性を駆使した任務において活躍した。GディフェンサーはMk-2との組み合わせによって高速巡航形態の"Gフライヤー"あるいは"スーパーガンダム"となり、その威圧的なシルエットと相まって、再びエゥーゴの主力機として前線に復帰した。特に、ジェネレーターと直結するロングライフルの威力は当時でも屈指の破壊力を持ち、多くの戦果を挙げている。それまでにもMSの強化パーツや追加装甲などは数多く存在したが、Gディフェンサーのように自航可能な追加装備は稀有のコンセプトであり、ある意味で当時の情勢を象徴する機体であるという事ができるであろう。ただし、パイロット運用の観点から見た場合、少なからず不合理な側面があったことも否定できない。ちなみにGディフェンサー(FXA-05D)はFXA-03Aという、いわゆるフルアーマー装備のプランなどと競走する形で設計が進められていたが、結局、単体でも戦闘機として運用できることがアドバンテージとなり採用されたようだ。また、「スーパーガンダム」という呼称はあくまでも愛称であり、正式な呼称は「Mk-2ディフェンサー」であると言われている。MSA-0011[Ext] 'Ex-S GUNDAM'E.F.S.F PROTOTYPE TRANSFORMABLE MOBILE SUIT「Ex-S(イクスェス)ガンダム」は、MSA-0011 Sガンダムに、4ヶ所のユニット換装と4つの追加装備をすることによって完成するSガンダムの重装備型である。"重装"と言っても、いわゆる装甲強化を中心としたフルアーマー化ではなく、1.機動性の向上2.武装強化3.パイロット保護の強度化、をそれぞれ目的とした、非常に効率的な追加装備とユニット換装思想からなるものである。従って、局面によっては追加装備の一部だけを装備したり、一部のユニット換装を行っただけで運用することもありえる。Ex-Sガンダムは単機として上記の各機能強化を行っているほか、Sガンダムでは変形時に、それぞれの攻撃形態に特化した3つのユニットに分割されるのに対し、各強化パーツを装備した上で3つのユニットが接合したまま高速巡航形態のGクルーザーモードへと変形することができる。さらに、超長距離、あるいは軌道面変更、月面降下/離脱ミッションを想定した専用のブースターパックなども企画化した上で用意する計画もあり、一説には単独で地球上から衛星軌道への上昇を可能とする装備や、惑星規模での軌道変更および各種運用を視野に入れた装備、バージョンも想定されていたと言われている。これらの複雑な兵器システムおよび変形機構を管制するため、MSの無人化を最終目標とする超高性能コンピューターデバイス"ALICE"が搭載されている。Ex-Sガンダムは、「GUNDAM SENTINEL」に登場する試作MSである。メインパイロットはリョウ・ルーツ。U.C.0087年11月16日、クワトロ・バジーナことシャア・アズナブルによるダカール宣言以降のティターンズの権勢低下と崩壊にともなって、連邦軍はエゥーゴ主導のもと再編されようとしていた。翌0088年1月28日。小惑星ペズンを拠点とする教導団の一部青年将校がニューディサイズ(以下ND)を標榜。エゥーゴ主導による連邦軍への恭順を拒否し、徹底抗戦を表明した。対抗措置として編成された"α任務部隊"は、小惑星"ペズン"周辺における戦いを経て、NDへの支援を表明した月面エアーズ市をめぐる攻防を展開していた。攻勢を強めるα任務部隊の前に、NDの首魁ブレイブ・コッドが駆るガンダムMk-5が立ちはだかる。果たして、リョウ・ルーツが乗るEx-Sガンダムは.....?
2006年03月10日
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